田中勝・砲兵中尉(45期)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「田中勝・砲兵中尉(45期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝



死刑組

【田中勝プロフィール】(45期)(砲兵中尉)
 最終階級は陸軍砲兵中尉(野戦重砲第7連隊、45期)、野戦重砲兵第七連隊第四中隊。1911(明治44).1.16日、山口県下関市に生まれた。2・26事件に参加し、判決により銃殺刑。1936(昭和11).7.12日没(享年25歳)。長州出身の将校は田中中尉と磯部元一等主計のみである。妻・久子。
 1911(明治44).1.16日、山口県下関市に生まれた。 幼い頃に実母と死別する。

 
熊本陸軍幼年学校を経る。
 
1933年(昭和8年)、陸軍士官学校を卒業。陸士在学中に肋膜炎を患ったため、卒業は一期遅れの45期。この頃より革新思想への傾斜が顕著となり、養母・信子から磯部浅一との面会を止めるよう忠告される
 1935
(昭和10)年、砲兵中尉となる。同年12.27日、又従妹の平山久子と結婚。同年末に小岩に転居する。

 1936(昭和11).2月以降、蹶起(決起)の打ち合わせのため、自宅を空けることが多くなる。河野寿大尉、磯部浅一大尉と仲が良かったと云われる。憲兵は田中中尉についてはノーマークだったとも云われる。

 2.24日、夫妻で過ごす最後の夜となったこの日、磯部浅一との打ち合わせに新妻を伴ったことが、磯部の記録に残されている


 2.26日、2.26事件では、野戦重砲兵連隊にいた為、車を運ぶ任に就いた。野戦重砲兵第7連隊の下士官12名を率いて、夜間自動車行軍と靖国神社参拝を名目に市川を出発。
 26日午前3時頃、東京三宅坂への移動途中に自宅に立ち寄っている。その後、靖国参拝、宮城遥拝。
 午前5時頃、自動車隊は陸相官邸に到着し、高橋蔵相私邸、渡辺錠太郎教育総監邸に移動している。その後、首相官邸襲撃後の栗原中尉と行動を共にして東京朝日新聞(現朝日新聞東京本社)襲撃の部隊輸送に関与した。

 同年7.5日、陸軍軍法会議にて叛乱罪で死刑判決を受けた。
 7.7日、面会が許可されて妻及び家族と面会し、妻の懐妊を知る。田中の本心を感じ取れなかった妻はもう一度一人で面会に現れ、田中はこれを喜ぶとともに「お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ」と心情を吐露した。
 7.12日、銃殺刑に処された(享年25歳)。
 遺書
 「我はもと 大君のため生れし身 大君のため 果つる嬉しさ」
 「たらちねの 親の恵みの 偲ばれて 只先立つて 我は淋しき」。

 「田中勝中尉証言」。
 「二十六日朝、決行直前に二重橋前に皇居参拝の時、警戒線を突破して同橋に参りましたので、皇宮警察吏は非常ベルを鳴らし、二、三の警察吏が出て参りました。衛兵の近衛将校が出て来まして、私の官氏名を聞いて行きましたが、参拝であることを知り帰って行きました」。

 久子夫人は実家の下関に身を寄せ、同年10月に男児が誕生した。田中は遺書の中で、子の名前と、将来は「国家の干城」となすよう(=軍人にするよう)記していたが、息子は河野壽の兄・司の紹介でサラリーマンになった。久子夫人は資格を取り、幼稚園教諭となり定年まで勤めた。養母・信子は、勝の父の死去後、出家し円信尼となった。





(私論.私見)