渋川善助・***(**期)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「渋川善助・***(**期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝


死刑組

渋川善助・***(**期)考】
 元陸軍士官学校生。明治38年12月9日、福島県会津若松市に生まれた。2・26事件の判決により銃殺刑。1936(昭和11).7.12日没、享年30歳。
 渋川善助という民間人がいる。2・26蹶起に裏方として参加しながら蹶起が失敗し憤然としている親友安藤輝三大尉の居る幸楽に2月28日の昼間にヒョッコリと現れている。まさに火中の栗を拾うどころか、爆発寸前の噴火口へ自ら飛び込んだようなものだった。絶望状態の安藤輝三大尉は友の友情に感激した。渋川善助は同志と共に銃殺された。渋川善助の部屋は会津若松市七日町の渋川問屋内に現在でもそのまま保存されている。三島由紀夫が訪れて「憂国の間」と名付けた。  渋川善助は裕福な卸問屋に生れながら人の痛みを自分の事のように思いやる優しい男だった。たまに実家に帰った時に自分用の御馳走をこれは誰々、これは誰々とすべて使用人に分け与えてしまい自分は使用人と同じものを食べていた。そして「兵が可哀想だから降伏する」と言った先任の野中四郎大尉に「我々は全国の農民が可哀想だから立ち上がったのではないですか?」と、最後まで降伏に反対している。銃殺される時の最後の言葉が「国民よ。軍を信じるな」。
 昭和9年頃、渋川善助は青森県の農村運動家の染谷悠蔵に向かって言った。「先ず、あなたが先頭に立って農民大衆を率いて飢餓行進を始めて下さい。必ず警察が出動しますから、そのときには農民のこの暴動は、警察の手では鎮圧できるものではないという理由で、末松太平大尉が一隊を率いて、農民と警察官の間に入り、警戒という理由で警官隊の襲撃から守っていく。途中、岩手、秋田、山形から同じ形で農民が参加し、雪だるま式に集団が大きくなって行進を続けるという構想です」。「むろん途中様々な妨害は起きるだろうが、それは私共が処理します。東京に入れば大成功ですが、入れなくてもこうした運動が起こったというだけで、大きな衝撃を財閥政府に与えると思います」。この作戦は実行されなかった。末松太平の先輩である和歌山県にいる大岸頼好大尉からの手紙が来たからであった。「農民運動は危険だからしばらく中止せよ」と言ってきていた。その理由は、かねてから青年将校の行動に監視の目を怠らない内務省治安当局は、取り締まりの対象としては管轄が違うので青年将校に手が出せない。しかし左翼運動とみなされている農民運動に青年将校が関係しているという実証がつかめれば、青年将校運動に左翼運動をおっかぶせて、陸軍当局にその取り締まりを申し入れることもできるというわけだった。「そんな矢先、貴公が農民運動に深入りすることは、彼らの思う壺だから、中止した方がいい」と述べていた。
 遺詠「四つの恩報い盡せぬ嘆きこそ 此の身に残る憾なりけり 昭和十一年七月十一日 光佑コト善助 直指道光居士」。

【渋川善助の憲兵訊問調書】
 「宇宙の進化、日本国体の進化は、悠久の昔より永遠の将来に向つて不断に進化発展するものであります。所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。絶対必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。同志一同の行動は、大御心を上下に徹底し、上下民其所を得て尊皇絶対に邁進し、皇威を八紘に輝らし 皇恩を四海に浴し乍ら、皇謨翼賛の重責を尽さず、却って大御心を歪曲し奉りつつある奸臣を除かんとしたるものでありまして、蹶起趣意書の通りであります。事件を決行しました動機の直接とか間接とか言ふ様なものは、絶対の境地で行はれたものであり、説明は出来るものではありません。然し強いて申せば、相沢中佐が公判廷に於て、あれ丈言はれたるに拘らず、国家の上層部、軍上層部、軍幕僚、官僚、財閥、政党等が何等反省の跡を見受ける事の出来ない事が 直接の原因動機でありますと申されませう」。
 「渋川善助証言」。
 「坂井、高橋、麦屋の三人が別室で同志以外の将校に説得されて居るらしいので、中橋、池田等が迎へに行ったが帰って来なかったので迎ひに行ったが、夫れでも帰って来ませんでした。今度は同志が『私に行け』と申しますので行きまして、『生死一如の翼賛』を説き三人共漸く諒解してくれました。私は安心して皆の所に帰ろうとしますと、憲兵が『皆の処にお連れするから』と欺いて別室に拉致し、施縄しました」。





(私論.私見)