【安藤輝三・陸軍大尉考】 (陸軍歩兵大尉・歩兵第3連隊第6中隊長) |
大日本帝国陸軍の軍人、歩兵大尉(38期)、歩兵第三連隊第六中隊長。1905(明治38).2月25日、東京で生まれた。岐阜県出身。二・二六事件に関与した皇道派の主要人物の一人。2・26事件の判決により銃殺刑。1936(昭和11).7.12日没、享年31歳。 |
1905(明治38).2月25日、岐阜県揖斐郡に生まれた。父は栄次郎といい慶応義塾舎監。「てるぞう」の名前が示す通り三男である。父栄次郎は当時慶応大学普通部の英語教師だった。父の転任につれ少年時代を鹿児島、石川の金沢、栃木、長野と居住地を転々とした
。当時は英語教師がまだ少なく、貴重な人材だったことによると思われる。 |
宇都宮中学校。 |
仙台にある陸軍幼年学校へ入学した。仙台陸軍幼年学校は後に満州建国の立役者となる石原莞爾をはじめ、実に様々な人材を輩出している。石原は後に昭和維新運動で安藤ら青年将校と対立し、二・二六事件では強硬な態度で鎮圧を主張することになるのだが、これも歴史の奇縁というものであろう。 |
大正**年、陸軍士官学校入学。ここで安藤は後に決起の同志となる磯部浅一と同期となる(38期)。 |
士官学校は予科と本科に別れており、予科を終えると一度士官候補生として隊付き勤務を経験する。安藤は大正十三年に予科を卒業し、歩兵第三連隊第六中隊に配属された。 |
その指導を任されたのは、中隊付き少尉の秩父宮雍仁親王、つまり昭和天皇のすぐ下の弟宮であった。安藤は、士官学校を出てすぐ、最も高貴な血筋の先輩を持った。士官学校を出てこの中隊に配属された候補生は三人いるが、宮は特に安藤を気に入り、目を掛けていた。一方の安藤も宮に対しては敬意と同時に親しみを持ち、兄に対するように接していたという。秩父宮は時に「これからの日本」というようなテーマで安藤等と議論を交わしたこともあり、国家全体について単に軍人という点からだけではない問題意識も持っていた。安藤は秩父宮と議論を交わした際に「支那の近代化に力を貸し、日支共同して西洋列強の侵略を防ぐ」旨の意見を述べたが、これに対して宮は「安藤、貴様の意見は対支政策としては、確かに正論と言えよう。しかしその前に日本自体の足元をよく見なくてはならない。今の国内情勢では、日本がアジア全体のことまで面倒を見ることなど、その実力においても、国内体制においても、また対外信用からしても不可能に近いと思う。そのためには、低迷している日本人の国民精神を振起させ、腐敗した政治を刷新し、民生を安定させて、国力の充実計ることが先決ではないか・・・・・・。この問題は、これから残された在隊間、さらに本科に入ってからの二年間に、じっくりと考え、見習士官として原隊復帰するまでに、一応の結論をまとめておくんだな・・・・・・」と自分の意見を述べている 。安藤の意見が国内を飛び越えて日支の協力を提案しているのに対して、宮はまず足元から固めよ、としている。奥田鑛一郎氏の著作によれば、安藤はそれまで国家改造についてまともに考えたことはなかったが、秩父宮によって初めてその目を開かされたという 。皇族、それも現天皇に最も近い秩父宮がこれほどまで国家の前途を憂えているという事実は、若い軍人の心を動かすのに十分だったろう。 |
1926(大正15).7月、陸軍士官学校卒業(陸士38期)。同期に同じく皇道派で二・二六事件の首魁磯部浅一がいた。当時の陸軍士官学校校長は二・二六事件の黒幕とされる真崎甚三郎であった。 |
同年10月、陸軍歩兵少尉として歩兵第三連隊に勤務。 |
半年間の隊付き勤務を終えた安藤は士官学校の本科に進み、大正十五年にはふたたび同連隊へとかえってきた。年号が大正から昭和に変わる年ではあるが、大正天皇の崩御は十二月であり、昭和元年は一ヶ月足らずで終わっている。本格的な昭和の始まりは翌昭和二年からと言っていだろう。 |
昭和3年、きな臭い事件が起きている。満州地方の有力な軍閥で、時の田中義一首相とも親しかった張作霖が関東軍の河本大作大佐によって爆殺されたのである。河本大佐はわざわざ偽装工作までしてこれを中国側の反抗に見せかけようとしたが、当初より日本軍の謀略であることが疑われた。田中首相は事件解決に全力を尽くすことを昭和天皇に予約束したにも拘わらず、結局は河本大佐を行政処分で穏便に済ませることになり、結果天皇の怒りをかって辞職する。しかし、張作霖の殺害はほんの入り口に過ぎなかった。 |
1929(昭和4).10月、陸軍中尉に昇進する。 |
昭和6年、静岡市の佐野益蔵氏の長女房子と結婚。輝雄、日出雄の二児をもうける。 |
昭和6年、再び満州において関東軍の石原莞爾中佐らの策謀によって柳条湖事件が引き起こされ、関東軍は張作霖の後を継いだ子息張学良を駆逐し、満州を手中に収める。これらに呼応するかのように、国内でもクーデター騒ぎやテロが相次いだ。満州事変と同年には陸軍の一部将校によるクーデター計画が発覚(三月事件、十月事件)。
昭和7年、海軍の将校らが主体となって犬養毅首相を暗殺する五・一五事件が発生する。事件の主体は海軍将校だが、陸軍からも士官候補生が参加しており、安藤らとも親交があり、共に国家革新を論じ合う仲であった。 |
5.16日、「五・一五事件」事件の翌日、当時中尉になっていた安藤は訓練のために出てきた部下の候補生らに語りかけた。
「諸君は、すでに新聞やラジオで、一昨日の事件に関して知っていることと思う。実はこのことは前もって予測されていたことであった。我々にも参加を求められていたのだ。しかし、私は時期尚早であり、陸軍関係同志の結束が出来ていないという理由で、参加を拒否すると同時に、暴発を阻止するために出来るだけの説得を行った。それも空しく、海軍の一部中・少尉が決起し、在学中の士官候補生までが、学校を跳びだして暴走してしまった。まことに残念で堪らない。今日は、今回の事件に関連して、自分の考えを話しておきたいと思う。その前に、昭和維新の尊い人柱となられた犬養首相の霊に対して黙祷を捧げたい。首相は腐敗堕落した政党政治家の中あって、数少ない清貧気骨の士であったことだけは、知っておいてほしい」。 |
注目すべきは、安藤が、犬養首相を「清貧気骨の士」と讃えていることである。「安藤は、例え考えや立場を異にする人物であっても全否定することはなく、しっかりとその器を認めるだけの見識と冷静さを備えていた」と評する向きもあるが、安藤らの皇道派の思想的メンタリティーが犬養首相派に近く、「五・一五事件」事件派のそれが統制派のそれに近いことを裏付けているように思える。同時に、安藤は訓示で現実への厳しい批判も行っている。
「 (前略)諸君は、自分の意志と親の了解に基づいて、今後長く陸軍の俸禄を食むことを決意した。然し、君らの所属する中隊の戦友で少なからぬものの家庭が、掛けがえのない働き手を国にとられて、困り果てているのだ。そして、その戦友たちは月々支給される僅かな手当のほとんどを、家への送金にまわしている。それでも足らずに、若い姉や妹たちが、次々と遊里に身を売られていく現状である。それなのに、権力の座にある政治家、役人高級軍人たちの大半は、敢えてその現実から目をそらし、自己の私利私欲にのみ走って、庶民の窮状を拱手傍観している有様だ。果たしてこんなことでいいのか!(後略)」。 |
1931~32年頃から皇道派青年将校のリーダーになる。安藤中隊長は、週一回行われる中隊長訓話において次のような昭和維新論を述べている。
「(黒板に太陽と黒雲と作物を書き)いくら空の上に太陽が照っていても、その下に黒雲が遮っている限り、地上の作物は生長しない。即ち国民が平穏な生活を営み、国が栄えてゆくためには、どうしてもこの黒雲を取り除かなければならないのだ。これが、昭和維新というものである」。 |
太陽は天皇、作物は国民、そして黒雲はいわゆる重臣や財閥と言った人々、つまり「君側の奸」とし、天皇の太陽の光が届かないのは、側近等が「黒雲」として陛下の眼前を遮っているからであるとしていたことが分かる。この観点から、「『諌臣なき国は亡ぶ』と昔よりいわれている。『二・二六事件』は、この暗雲を払い天日を仰がんとする、忠諫の一挙」と意義づけられている。
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1934(昭和9).8月、大尉に昇進。大隊副官となる。 |
1935(昭和10).1月、歩兵第3聯隊第6中隊長となる。安藤大尉は、平素、日蓮宗を信じており、硬骨漢であつたが情誼に厚く、部下を愛することは人一倍で、給料のほとんどを部下のためにさいてしまうほどで、よく部下をまとめ、部下は彼の人柄を慕い、尊敬と信頼はまことに強いものがあった。 |
二・二六事件の背後には故秩父宮殿下の存在が種々取沙汰されているが、その秩父宮にもつとも近かったのは安藤大尉だった。殿下との関係は、安藤が陸軍士官学校在学当時に始まつている。秩父宮が、当時摂政宮代理としてイギリスにおもむかれた際、旅先から五通もの長文の手紙を、当時の安藤士官候補生宛に書き送つておられる。これを見ても、宮様と安藤の交遊がいかに長く、深いものであつたかが伺われる。その秩父宮が歩兵第三連隊に配属されると、安藤もまた少尉任官後同じ第三連隊に配属されている。秩父宮殿下の信任がきわめて厚く「安藤、第六中隊の伝統を守ってくれよ」と激励している。殿下が「蹶起の際は、一個中隊の兵を率いて迎えに来い」と仰せられたことが、坂井直中尉の言として、中橋基明中尉がその遺書に書き残している。(中橋基明遺書二四八頁参照) |
安藤は歩三の下士官と将校の教育を計画し、相談に乗った青木常盤が永田鉄山軍務局長に申し入れると、永田は快諾して7000円を渡し、「ほう、第六中隊長か。早いものだな。お前もとうとう中隊長か。歩三を立派な連隊にしてくれ、頼んだぞ」、「安藤ならば大丈夫だ。教育構想、講師の人選、運営などは一切安藤に任せて、決して干渉はするな」の言葉を遺している。 |
彼は早くから革新青年将校の指導的立場にあり、安藤が起てば三連隊は動くとまでいわれたほどの期待と信頼を浴びたが、本事件の決行については、時機、方法等に関して最後まで磯部、村中、栗原、河野等の決行派と意見を異にして慎重な態度を取り続けた。あくまで合法的闘争の道を主張したため、磯部らは一時安藤抜きでの計画を検討した。しかし安藤は最終的に、成功の見込みが薄いとは知りながらも、同志を見殺しにすることをよしとせず、直前の23日になって参加を決断した。したがって事件の首脳将校中では、蹶起の決意がもつとも遅かつた人である。安藤が決行へ踏切つた時が、二・二六事件の導火線に口火がきられた時であつたともいえる。決断後は積極的に同志を集め、叛軍中最大勢力である歩三を見事統率して見せた。 |
事件以前、安藤は一般人と共に鈴木を訪ね、時局について話を聞いた事があり面識があった。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい」と語っている。後に鈴木は座右の銘にしたいという安藤の要望に応えて書を送っている。鈴木は安藤処刑後に「首魁のような立場にいたから、止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に対して述べている。 |
2・26事件では首謀者として部隊を指揮し、当日は午前5時頃、自ら鈴木貫太郎侍従長宅を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海の中となった八畳間に安藤が入ると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた鈴木の妻・たかが「お待ちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令し、たかの前に進み出て「まことにお気の毒なことをいたしました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語った。たかの「あなたはどなたです」の問いに官職もなにも付けず「安藤輝三」とのみ答えたと伝えられる。この後、女中にも自分は後で自決をする意思を伝え、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。鈴木侍従長邸での一件も合わせ、その人格を評価する声は少なくない。 |
伊集院兼信陸軍歩兵少佐、歩兵第3連隊第2大隊長が、部下である安藤輝三大尉に原隊へ復帰するよう説得している。 |
安藤隊の結束は事件終盤まで固かったことが自決未遂時の顛末からも知れる。決起には消極的だった安藤が、ひとたび決起後は誰よりも強い意志を貫いた。山下奉文に教唆され一同が自決を考えた際も徹底抗戦を訴えてそれを退け、敗色が濃厚となる中、山王ホテルを拠点に最後まで頑強な抵抗を続けた。投降を決断した磯部の説得にも「僕は僕自身の意志を貫徹する」として応じなかった。大勢が決したことを悟ると、一同の前でピストル自殺を試みる。磯部は慌てて羽交い絞めにして押し止めたが、彼の決意は翻らなかった。説得に訪れた伊集院大隊長は「安藤が死ぬなら俺も自決する」と号泣し、部下たちもこぞって「中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お供を致しましょう」と涙ながらに訴えた。安藤は宿願だった農村の救済が出来ないことを悔やみつつ、部下たちには自分の死後も、その目標を果たすよう遺言した。
磯部はこの光景に感涙しつつも、「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と必死に説いた。その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうと計るが、第6中隊の結束は固く、全員が靖国神社で死ぬ覚悟であった。しかし安藤は兵を投降させることを決断し、「最後の訓示」を与えた後、皆で「吾等の六中隊」の歌を合唱するよう命じた。曲が終わった瞬間、安藤はピストルを喉元に発射して昏倒したが、陸軍病院における手術の末一命を取り留めた。 |
前島清上等兵の手記より。
「最後まで敢然と帰還命令を拒否した安藤大尉も万策尽き下士官はじめ兵を帰還させることとなった。そして、やおら拳銃を取り出し自決しようとした安藤大尉に、前島上等兵は咄嗟に安藤大尉の腕に飛びついた。「離してくれ・・・」。「いや離しません」。・・・・・・・・「なんという日本の現状だ・・・・前島、離してくれ、中隊長は何もしないよ、するだけの力がなくなってしまった。随分お世話になったなあ。いつか前島に農家の現状を中隊長殿は知っていますか、と叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。しかし、お前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった」。中隊長の目からこぼれ落ちる涙が私の腕を濡らした。それから、帰還する部下の隊列を見送ったあと安藤大尉は拳銃で自決を図った」。 |
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なお、二・二六事件の際、彼と北一輝の会話とされる音声が戒厳司令部により録音盤として残されていた。その記録では、北のほうから電話をかけて「マル(金)はいらんかね」と言われたのに対して安藤は「まだ大丈夫です」と発言している。しかし、北の逮捕後の証言などから、電話をかけたのは北ではなくカマをかけようとした憲兵ではないか、と言われている。 |
安藤大尉は逮捕される前日、交渉にきた軍の高官に次のようなことを叫んだと伝聞されている(須崎2003、314頁)。
「私たちは今まで、君側の奸、即ち政府の重臣どもを倒せば少しでもマシな日本になると思っていました。しかし、それは間違いだったことがよくわかりました。私たちは、重臣どもよりも前に、まず真っ先に軍幕僚・軍閥を倒さねばならなかったのだ!」。 |
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軍法会議の結果、叛乱罪が申し渡された。
7.12日、第一次処刑で刑死。家族から受け取った松陰神社のお守りを身に帯びていたという。秩父宮雍仁親王と親しかったようで、銃殺される最期の際にも「秩父宮殿下万歳」を叫んだと磯部が獄中の遺書に記している(他の士官は「天皇陛下万歳」を叫んだ)。戒名/諦観院釈烈輝居士。墓所/東京都北多摩郡多摩墓地内。 |
辞世句 |
「尊皇討奸 尊皇の義軍やぶれて寂し春の雨 国体を護らんとして逆徒の名 万斛(ばんこく)の恨(うらみ) 涙も涸(か)れぬ ああ天は 鬼神 輝三」
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同期生代表に宛て
「さよなら 万斛(ばんこく)の恨を御察し下され度し 断じて死する能はざる也 御多幸を祈る 昭和十一年七月十一日 安藤 輝三」 |
歩三の第六中隊員に宛て
「我はたゞ万斛(ばんこく)の恨と共に、鬼となりて生く 旧中隊長 安藤 輝三 昭和十一年七月十一日」
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「心身(こころみ)の 念(おもひ)をこめて 一向(ひたふる)に 大内山に 光さす日を」 |
「一切の悩みは消えて 極楽の夢 十二日朝 安藤」 |
安藤大尉の刑死後、秩父宮から安藤の遺族に対し、遺書を見せて欲しい旨の御申入れがあつた。その時、遺族が持参して御目にかけたものの一つが右の写真であるが、再び遺族の手に戻された時には、立派に表装された軸物となつていた。 |