中島莞爾・工兵少尉(46期)



 (最新見直し2011.06.04日)

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「中島莞爾・工兵少尉(46期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝



死刑組

【中島莞爾プロフィール】(46期)(工兵少尉)
 陸軍工兵少尉(46期)(陸軍砲工学校)。大正元年10月9日、佐賀県に生まれた。鉄道第二連隊。2・26事件の判決により銃殺刑。1936(昭和11).7.12日没(享年23歳)。 
 大正元年10.19日、佐賀県小城町に、佐賀県出身の中島荒次郎氏の二男として生れた。香田清貞大尉と同じ小城中学から熊本陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入つた。卒業は昭和九年六月で、安田優、高橋太郎両少尉と同期の四十六期である。成績抜群、前途を嘱望された有為の青年将校であつた。
 卒業後、同年十月少尉に任官し、津田沼の鉄道第二連隊付となる。
 十年七月、陸軍砲工学校に入学、在学中であつた。平素二コリともしない彼の謹厳そのもののような真面目さは、莞爾という名前とはおよそ似つかぬほどであつたという。その陸士時代、区隊長が村中孝次であつたことは、彼から受けた感化が、中島少尉の人間形成に大きく作用したことにちがいない。

命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)
戒名 堅節院莞叢卓爾居士
墓所 佐賀県小城郡小城町大手前 善光寺内
 遺書の辞世の句
 「流れ星惜しくも消えしあかつきに 差し出で給へ朝の御光 謝御厚情 花淵警査殿
 遺詠
 「幽魂永(とこし)へに留りて 君国を守護す 七月十二日朝 莞爾」
 身はたとひ水底の石となりぬとも 何惜しからん大君のため
 はやり男の走(は)せゆく道は一すじに 大和心と知る人ぞ知る
 親子どり つよく生きゆけ 世の風は つめたく吹くも われは守らん
 世の人は知るや 知らずや 如月(きさらぎ)に 魁(さきが)けて咲く 花の心を
 惜しからず 永らへし身の 今日は早 つくすつとめも 終りけるかな

【「兵に告ぐ」放送時の感想】
 「兵に告ぐ」放送を、当事者の青年将校はどう聞いたのか?高橋是清を軍刀で刺し殺した中島莞爾少尉が、取り調べでこう答えている。「二・二六事件 研究資料Ⅱ」より。
 「(奉勅命令は)正式に奉達されませんし、他より聞くこともありませんでした。ところが29日朝ラジオで初めて変なことだと知り、これは下士官兵を解散させる餌として使ったものと知り非常に嫌悪の念で聞きました。

 正式の命令とは、部隊内であるから軍隊の命令一系統に基づき下達されるべきものと信じます。即ち私は小藤(恵)部隊に臨時編入されていたのですから順序に基づき奉勅命令の奉達されるべきでありますのにもかかわらず、何もなく突如ラジオによって下士官兵に対して「お前達を指揮している上官に達してあるから……」とか放送されたのでは全く心外に堪えぬことと思います。他の陸相官邸に集まった同志将校は誰も知りませんでした。

 勿論奉勅命令とあれば絶対に服従すべきものと信じます。正式奉達でなくともラジオ放送の結果下士官兵が逆賊の汚名を蒙ることは可哀想に思い、涙をのんで下士官兵を帰したのです。しかしこれに対している部隊は誠に武士の情けを知らぬ態度をとり、非常に憤慨しました」。

 「中島莞爾少尉の四日間 [ 憲兵訊問調書から ]」。
 昭和九年十月末日、久留米の工兵第十八大隊より当地の津田沼鉄道第二聯隊に転任、当時より常々、陛下のお側の奸臣共を討たねばならんと考へて居りし事に付、気分が新になつて来ました。計画と云ふものは、具体的には全くなかつたのであります。殊に砲工学校に来ては兵は居らず、部隊外にあつたから全くなかつたと云っても差支へないのです。

 栗原中尉(歩一)、村中、磯部等とは同郷関係とか学校関係とかにより比較的密接に交際して居りました。安田少尉とは士官学校同期であり、同志であると云ふことは任官して文通して初めて判ったのであります。士官候補生時代には、種々の考へを持ったものもあつた様です。但し別々にして、少なくとも私は一人で考へてをつたので他人迄言ふ程はつきりしませんでした。安田とは、信念に於ては少なくとも無二の同期生位に考へて居りました。村中氏とは、予科の時は他の区隊長であつたから、種々の動作を見聞し立派な人だと考へました。即ち武人的の人と考へましたが、その後次第に親しくなつて来て、私と同じ信念を持つて居る人であるとし、先輩として敬して居りました。栗原中尉とは同郷であり、戦車隊附であり、市川で家を持って居った関係上家にも出入し、又その以前より栗原氏の事を種々聞いて居り、津田沼に来ても話合って同じ信念を持つて居る人であると言ふ事が判りました。磯部氏と村中氏とは同じ程度知っております。之れは十一月二十日事件前後、村中氏の家にて会つて同じ信念を持つて居るものと考へました。他には同志であめと云って特に交際したものはありません。又、求めて実行の実を揚る為に同志を求むる必要もなく、必然的に此信念を持つて行けば同志と期せずして一致すると云ふ時に達し、何時かは実行の実を挙げらるるものだと考へて居りました。

 二十五日昼迄、学校に居って恰度実兄卓逸 ( 二十七年 航空兵中尉 ) が初年兵受領の為、宇品迄来たのが二十四日夜 私の下宿に来て泊りました。之れを送りて行く為に学校を早退きさせて貰って兄と待ち合せるつもりで県の下宿 ( 四谷区元町の佐賀軍友会 )に行き、兄と一時間許り話し、円タクにて東京駅迄行き、午後三時十五分発の列車にて送りました。此の時迄趣意書にある如く私共の蹶起する時日が切迫して居ることは知って居りましたが、二十六日にやることは全く知りませんでした。送って帰りましたら村中氏が留守宅に来て居りました。安田も亦学校帰りに寄ることを約束して居ったので来て居りました。此処で初めて今夜決行することを知りました。時は午后四時三十分ころであります。その時に私は高橋大蔵大臣の私邸に行くと云ふことと、取敢へず歩一栗原中尉の許に行くこと、さすれば近歩三の中橋中尉も来るから判ること、の三点丈聞いて居ったので、夕食後午后七時頃、円タクで歩一の栗原中尉の許に行きました。(午后八時二十五分位前)其処は歩一の機関銃隊事務室で中橋中尉を待つて居りました。私は中橋中尉と行動を共にすることになって居るので、中橋中尉が兵を持つて居るから兵の配備等一切の具体的方法の計画は中橋中尉に委せたので、従って私は何も栗原中尉と相談する必要もなく、午後十一時頃迄中橋中尉を待つて居りました。午後十一時頃 中橋中尉は下士官二名を連れて事務室に来ました。此処で中橋中尉は弾薬を六百発位受領しました。其れは誰から受領したかは判りませぬ。拳銃は歩一に於て二六式一挺と弾薬五十発を渡されたが、之は机の上に置いて誰が準備したか判らぬが多分栗原中尉と思ひます。 それから四人して近歩三の七中隊中橋中尉の中隊将校室に行き、更に具体的の事に付 ( 高橋私邸の ) 約一時間話し合って眠いので寝台上に横たはり二時間足らず眠りました。

 二十六日

 午前四時一寸前に眼を醒し、四時三十分頃兵は整列しました。中橋中尉は中隊長代理であるから自分の中隊を集めたのであります。此時兵は非常呼集にて集合したのであります。集合後、明治神宮参詣の為と営門にて衛兵指令に中橋中尉が云ひました。営門出発後、途中高橋邸との中間位にて(何発か不明)実包を渡しまして行軍し邸迄行きました。此時初めて高橋蔵相をやつつけると云ふ事を兵一般に達しましたが、下士官兵は沈着して一向に驚いた様ではありませんでした。それで私は、どの程度迄下士官兵に私達の信念が徹底されてあるかと内心心配して居りましたが、此状態を見て安心しました。即ち、私達の信念が中橋中尉により行届いて居ることを知ったからであります。蔵相私邸に行き、私の分担である梯子をかけ、之を越して先づ巡査を説得せしめ、玄関にて執事の如きものに案内させてグルグルと引廻して居りましたが、やつと蔵相も居る処が判って、中橋中尉は「国賊」と叫びて拳銃を射ち、私は軍刀にて左腕と左胸の辺りを突きました。蔵相は一言 言うなりたる如くして別に言葉なく倒れました。その他何等抵抗なく実行を終り、兵を纏めてその内約六十名を引率して首相官邸に行きました。其の時は午前五時二十分位と思ひます。

 首相官邸には徒歩にて行き、五時四十分頃に着いたと思ひます。その目的を達したらば首相官邸に集まることは中橋中尉から聞いて居りました。中橋中尉は多分御守衛に行かれたものと思ひますが、その点ははつきりは判りません。首相官邸到着後は、此兵は部下でありませんから曹長をして待機の姿勢にあらしめ、自分は単独になり、爾後、陸相、鉄相官邸等を往復して兵の監督、庶務業務、伝令、応対等に任じて二十八日に至りました。

 二十九日には朝 「 ラジオ」 を聞き、奉勅命令的のものが降ったと云ふ様な感がしましたが、それは正式には私達には奉逹されなかつたので如何にす可きやを種々考へて、未だ私達の使命は達せられないので、飽迄之を達する迄生命の限り御奉公す可きであると考へ、自殺等の事はしませんでした。又、私は部下を持ちませんが、部下を持つて居る者は相当考へさせられて居った様であります。私としては今度の純真に働いて呉れた者が叛乱の汚名を兵にきせるのは実に憤慨に堪へません。且つ痛嘆に考へましたのは、賊軍の汚名を着せるのは可愛相と思ひ、兵を返した方がよいと思ひました。実に下士官以下は、私の信念を克ん考へて充分に働いて呉れるのは有難き強き日本軍人と考へられて涙に咽びましたが、之等忠良なる人間に賊軍の汚名を着せるのが気の毒に堪へませんでした。而して、未だ生きて居って御奉公せねばならんと考へて居るので、今日に至って居るのであります。
 二十六日に決行したる理由如何。
 私達には判りません。
 誰が之の統制を執り計画を為したりや。
 詳しいことは全然知りません、私は前述の如く部隊には居らず 部下も無し。又 学校に居ったのでそんな余裕はありませんでした、只此の信念と何時かは之を実行せねばならんことの考は常に持って居り、同志も其れを知って居ったから、誰かが計画したその一部分的のものを割当てられたので、それを実行したのであります。
 高橋蔵相が私邸に居られることを如何にして知りしや。
 知りません。私邸に居られなければ官邸に居ること故私邸にて目的を達せざる時は直ちに官邸に行く決心で居りました。此の事件を決行するに 他より嗾かされたることは絶対に恥辱と考へます。従って軍人以外より此の信念を増強されたり、嗾かされたりしたことは全くありません。
 資金等に就いて如何。
 今度は全く軍人関係の仕事でありますので金を使ひません。従って金は要りませんでした。私は安田少尉に二十円を渡した他に殆んど金は使って居りません。俸給を貰った許りであるし 前に兄貴より写真機を貰ったのがありましたが、持って居っても致し方が無いので二十五日夕方頃 売ったのと合計五十円ありました。其の写真機を売った内から二十円丈郷里の父母に其の時送ってやりました。
 奉勅命令に対して如何。
 正式に奉達されませんし、他より聞きも致しませんでした。然るに二十九日 朝 「 ラヂオ 」 で始めて変なことだと知り、之は下士官兵を解散させる餌にでも使ったものと知り、非常に嫌悪の念を以て聞きました。正式の命令とは部隊内であるから 軍隊の命令一系統に基き下達さるべきものと信じます。即ち私は小藤部隊に臨時編入されて居ったのでありますから、順序に基き奉勅命令の奉達さるべきにあるに、不拘何の書物にも 口達にも そんなものが無くて突然 「 ラヂオ 」 にて下士官兵に対し「 お前達を指揮して居る上官に達してあるから・・・・」とか 放送されたのでは全く心外に堪へぬことと思ひます。他の陸相官邸に集った同志将校は誰も知りませんでした。勿論 奉勅命令とあれば絶対に服従すべきものと信じます。正式奉達でなくとも 「 ラヂオ 」 放送の結果 下士官兵が逆賊の汚名を蒙ることは可哀想に思ひ、涙を呑んで下士官兵を帰したのです。然れに 之に対して居る部隊は誠に武士の情を知らぬ態度をとり、非常に憤慨しました。
 現在の信念を抱持するに至りし理由。
 私の生立と 私の見て来た事象 其れから読んだ書籍等より自分の信念をたたいて行って揚句、現在の心境に達したのであります。爾後種々国体に照し不満なる事象に遭遇する毎に此の信念が増強されたのであります。他から宣伝 乃至は感化等に基き 斯くの如くなったのではありません。然るに其後 国体に照して他のふまんとする事象 例へば ロンドン条約の統帥権干犯、五・一五事件、近くは真崎大将に対する統帥権干犯、其れに伴ふ 相沢中佐事件 等に対しても君側に仕へまつる重臣は毫も反省する色を見ず、斯くては直接行動に出てかかる君側の奸は絶滅を期するの他手段が無いと考へて、斯くの事を行ったのであります。
 実行着手当時の心境と現在の心境如何。
 心境の変化全くありません、少しも自分のやったことに就いて やり過ぎたとは考へて居りませぬ。現在の心境は未だ未だ此の信念に向って御奉公したいと思ふのであります。
 他の関係者の状況如何。
 真崎大将閣下は同郷の先輩として時々御話を承って居り、又 県の会辺りで御目に掛ったこともありますから真崎閣下は崇拝して居る人と云ふことが出来ます。荒木閣下とは話したことは有りませんが偉い人には相違ないが実行力の人とは思はれません。林閣下の如き方は少なくとも現職に居て貰ひ度くない方と思ひます、要すれば除去せねばならぬ方と思ひます。私達は全部の軍人か私達の信念実行に就いて共鳴し相共に行くべきと考へて居ったのに、不拘陸軍首脳部は案外冷淡曖昧にして余りにも悠長の様に考へられます。之に反し 海軍の軍事参議官は同情があった様に聞き、有難く思って居ります。
 皇軍の本質並に威信上に及ぼしたる影響如何。
 大御心を悩ましたもうた様に拝察せられて恐懼の次第なるも、之が大御心に副はなかった場合に於て此の非常時に際し、之を打破する為には 或点迄真の大決心の御発揚を仰がねばならぬと確信して居るので、大眼目より見て 皇軍本質上より見て 何等影響を及ぼさぬと信じて居ります。即ち私達信念の実現の為に皇軍が共に行動することが皇軍の本質と信じますが故に、区々たる形式上のことは問題ではないのであります。皇軍の威信も毫も失墜するときで無く、反って発揚して居ると考へます。
 国内的に及ぼしたる影響如何。
 国内的には大に影響を及ぼしたと考へられます。即ち日本人として行くべき道をはっきりさせたと思ひますし、又 はっきりしなければ嘘だと考へるのであります。
 国際的に及ぼしたる影響如何。
 外国に対しても皇軍が事実強くなるのでありますから、皇軍の本質を益々発揚させて日本人として有利なる進展に資したるものと認めます。
 皇室の敬虔上に及ぼしたる影響如何。
 少しも敬虔上に悪影響を及ぼしたるものとは信じられませぬ。陛下の大御心を辱うして居るものがそれを裏切り奉りたる奸臣を除去したのでありますから、敬虔上の度か益々表れたものと信じます。
 将来に対する覚悟。
 最後迄信念に向って御奉公するのであります、それ丈自分としては最後迄希望に充て居るものであります。
 何か他に云ふべきことありや。
 他に何も云ふことはありませんが、唯々自分達の信念及之に伴ひ行ひし行動に就いて、はっきり解かって貰ひ度ひと思ひます。之れを歪められて解せらるるとせば非常に遺憾と思ひます。今迄斯ることに付て真当の精神を察せられず歪められて解釈されたることがあった様に考へられます。申し添えて置き度いと思ひます。
 陳述人  中島莞爾 昭和十一年三月二日
 「中島莞爾少尉証言」。
 「実に下士官以下は、私の信念を克ん考へて充分に働いて呉れるのは有難き強き日本軍人と考へられて涙に咽びましたが、之等忠良なる人間に賊軍の汚名を着せるのが気の毒に堪へませんでした。而して、未だ生きて居って御奉公せねばならんと考へて居るので、今日に至って居るのであります」。
 「牧野伸顕襲撃隊 1」。
(法) 現在の心境は
中島  「陛下の御心を悩まし奉りたるは恐懼に堪へませんが、我々のやつた事が悪いとは思って居りません。若し悪いとするならば、もっと徹底的に奸賊を除かなければならんか、さもなければ別方面に原因があるか、研究しなければならぬ問題と思ひます」。





(私論.私見)