別章【平田篤胤の著書原文】 |
更新日/2018(平成30).11.7日
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ここで、平田篤胤の著書原文を確認しておく。 2013.12.14日 れんだいこ拝 |
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(私論.私見)
山に住む 人ぞかしこき きたなけく 陋しき人の 多かる思へば 投稿者:備中處士 投稿日:2009年12月16日 ●平田篤胤大人『信濃国淺間山』に曰く、「八隅しゝ わが大君 高光る 日の御子の 天地 日月と共に 限りなく、知し食しける(一云、高知りいます)。細矛、千足国中に 神ろぎの 大山祇の いさをしく 国の鎭めと 神ながら 竝みたて坐せる 山はしも 多には有れど(一云、多かる中に) ちはやぶる 淺間の嶽は 眞薦かる 信濃の国の 国中に 神さび立てり。この国は 国ちふ国の 租が中に 日高見の国 国中の 山にしあるを この山は その山国の 上にしも 立てしあれば 山の上の 山なる故に この山を さしも高しと 人知らず。またこの山に 神ながら います神をも 尊しと 人は思はず。その神を 尋ねも問はず 夕月夜 おほに過ぎぬれ これをしも あやに慨たみ 師木嶋の 倭の国は 言擧げせぬ 国には有れど こを思ひ 吾は言擧す。この山の その石根はも 大地の そきへの極み 蹈み凝らし その高根はも 足引きの 山のまほらと 天雲の そらかき分けて 進(そゝ)り立ち 高くたふとく 時じくに 烟たち立つ こゝをしも 阿夜に向しみ 靈幸ふ 神世おもへば この山に おはす神はも 人の世を 堅磐常磐に 栄えしめ 惠まひ給ふ 山の神 大山祇の 宇都の御子 石長比□[口+羊](壽神)の 常しへに 在ます御山は(一云、ぞ) 見れどあかぬかも ○反歌――四十ぢまり四つのよはひをもゝかへり いつ速き 淺間の山は 神柄か 分けてかしこく(一云、長く) 思ほゆる哉 |
●平田篤胤大人『仙境異聞』に曰く、「仙童寅吉の云く、我が師は、釋迦よりも遙か前より世に存へ給ふが、常の物語を聞くに、佛道といふ物は愚人を欺きて、釈迦の妄りに作れる道なりと聞きたり。(中略)何處ならむ、いと寒き所にて、見事なる筒袖の服物を着たる国に一寸行きたりし時、そこの人々、然る類の本尊を、各々もち齋きてありき。師は然る物を見るごとに、唾をしかけらるゝ故に、その由を問ひしかば、こは切支丹と云ふ邪法の本尊なり。日本にては堅く禁制の事故に、唾をしかけたるなりと言はれき。‥‥ 我が師の本山は、信濃国淺間山なれど、常陸国なる筑波山、また岩間山にも住み、或は諸越、その外の国々の山に住める事もあり。すべての山人、この如し。(中略)師は、彼の山に住して守護せらるれば、彼の神に仕へ奉らるゝ謂れなり。鎭坐まします神の御名は聞かざれど、姫神にて、富士山の神の、御姉神に座せど、御同体とも拜すと云ふ事は聞きたり。(中略) 我が師の如きも、山に住む故に、山人とは稱すれども、眞は生きたる神にて、佛法なき以前より、現身のまゝ世に存し、神通自在にして、神道を行ひ、その住する山に崇むる神社を守護して、その神の功徳を施し、或はその住する山の神とも崇められて、世人を惠み、数百千万歳の壽を保ちて、人界の事に鬧(さわ)がしく、かつて安閑無事には居らざる物なり」と。 ○寅吉――同書に云く、仙名は高山嘉津間。越中屋與惣次郎の二男、文化三寅年十二月三十寅日朝七ツ寅刻生、車屋と號す。後ち蛭子流神道・筑波六所社人白石丈之進の養子・白石平馬。文政三年三月出山。『氣吹舍日記』に、十月一日、平田先生と對面。 ○山人――同書に云く、某王別持命の分身・山人杉山僧正(実は組正。山人は、唐には仙人と云ふ)。「さうじやう」には非ず、「さうしやう」と清みて唱ふ。本山は信濃国淺間山、亦た常陸国筑波山・岩間愛宕山・男体山、大山の杉山に在りては杉山常昭と称し、或は唐土等の山に住みては雙岳山人と号す。誕辰は三月十三日。三千餘歳、亦た四千歳に近き人、或は四千二百歳(六百歳を一歳と定めて、七歳と記さる。定命は六万歳と見えたり)とも云へり。 ○稻村眞里翁『評釋近世名家諄辭集』(昭和七年十一月・明治書院刊)に曰く、「日々津高根王命、この神は、(平田篤胤)翁が、常に信愛して幽界の事を聽かれたりといふ、仙童寅吉が師として仕へたりし神にて、幽界の事を知ろしめしたる由なるが、常にはこの信濃の淺間の嶽に坐せりとぞ。今ま平田家に祕蔵せらるゝ、この神の画像は、この寅吉の物語によりて圖せるものにて、巖の山に坐したまへるその裝ひは、束帶と同じさまにて、御衣の色は黒く、巖の下には、牡鹿の稻をくはへて捧ぐるがありて、いかにも神々しきありさまなりとぞ」と。 |
●平田篤胤大人『山人へ送れる消息』(文政三年。『仙境異聞』に收む)に曰く、「今般、慮はざるに、貴山の侍童(寅吉)に面會いたし、御許の御動靜、略々承り、年來の疑惑を晴らし候ふ事ども之れあり。実に千載の奇遇と、辱く存じ奉り候ふ。それにつき、失禮を顧みず、侍童の帰山に付して、一簡呈上いたし候ふ。先づ以てその御衆中、ますゝゝ御壯盛にて、御勤行のよし、萬々恐悦奉り候ふ。 抑々神世より顯幽隔別の定まり之れ有る事故、幽境の事は、現世より窺ひ知り難き儀に候へども、現世の儀は、御許にて委曲御承知、これある趣きに候へば、定めて御存じ下され候ふ儀と存じ奉り候ふ。拙子儀は、天神地祇の古道を学び明らめ、普ねく世に説き弘め度き念願にて、不肖ながら先師・本居翁の志をつぎ、多年、その学問に酷苦出精いたし罷り在り候ふ。しかしながら現世凡夫の身としては、幽界の窺ひ弁へがたく、疑惑にわたり候ふ事ども、数多これあり、難澁仕り候ふ間、この以後は、御境へ相願ひ、御教誨を受け候ひて、疑惑を晴らし度く存じ奉り候ふ。この儀、何分にも御許容成し下され、時々疑問の祈願仕り候ふ節は、御教示下され候ふ儀、相成るまじくや。相成るべくば、侍童下山の砌に、右、御答へ成し下され候ふ樣、偏に願ひ上げ候ふ。この儀、もし御許容下され候はゞ、賽禮として、生涯毎月に、拙子相応の祭事勤行仕る可く候ふ。 偖てまた先達つて著述いたし候ふ、『霊の眞柱』と申す書、御覽に入れ候ふ。これは神代の古伝によりて、及ばずながら天地間の眞理、幽界の事をも考へ記し仕り候ふものに候ふ。凡夫の怯き覚悟を以て考へ候ふ事故、貴境の電覽を經候はゞ、相違の考説も多く之れ有る可しと、恐々多々に存じ奉り候ふ。もし御一覽成し下され、相違の事ども御教示も下され候はゞ、現世の大幸、勤学の余慶と、生涯の本懷、之に過ぎざることと存じ奉り候ふ間、尊師へ宜しく御執り成し下され、御許容之れ有る候ふ樣、偏に頼み奉り候ふ。一向に古道を信じ学び候ふ凡夫の誠心より、貴界の御規定如何と云ふ事をも弁へず、書簡を呈し候ふ不敬の罪犯は、幾重にも御宥恕の程、仰ぎ願ふ所に候ふ。恐惶謹言。 十月十七日 平田大角平篤胤(花押) 常陸國岩間山幽界 雙岳山人 御侍者衆中 なほ寅吉こと、私宅へ度々入り來にて、深く懇志を通じ候ふに付き、今般、下總国笹川村門人・五十嵐對馬と申す者に、御山の麓まで相送らせ申し候ふこと、實に千載の奇遇と、雀躍限りなく存じ奉り候ふ。之に依り、憚りを顧みず申し上げ候ふ。なほこの上とも修行の功相積り、行道成就いたし候ふ樣、拙子に於いても祈望仕り候ふ事に御座候ふ。以上。 ○車屋寅吉が山人の道を修行に、山に入るに詠みておくる。寅吉が 山にし入らば 幽世(かくりよ)の 知らえぬ道を 誰れにか問はむ いく度も 千里の山よ ありかよひ 言(こと)をしへてよ 寅吉の子や 神習ふ わが萬齡(よろづよ)を 祈りたべと 山人たちに 言傳をせよ 萬齡を 祈り給はむ 禮代は 我が身のほどに 月ごとにせむ 神の道に 惜しくこそあれ 然もなくば さしも命の をしけくもなし」と。 |