「この書は、去にし丙寅の年(文化3年)、蝦夷の島へ游ロシア人の、ゆくりなく來りて荒びたる故よし、またその後に、筑紫の長崎へヱゲレスと云ひける戎(から)人の来て、礼(ゐや)なき事のありけるその時の事の状(さま)、はたその事につきて、公儀よりの命令は更なり、国郡を領(し)らせる諸侯の、その家臣等に示されたる言、またこの役(えだち)に趣ける人々のその家人、また朋友がり、言おこされたる消息ぶみ、都(すべ)てこの事に與かれる事どもを、次々に記し見ばやと、早くより弟子等にも誂(あつら)へて、何くれと書き集めたるを、屋代輪池翁も同じ心に思ひ起されて、数多しるし持たれるが上に、最(いと)やごとなき御辺りの、常人は絶えて知られぬ祕記をさへに伺ひ得つれば、互いに校合(くらべみ)て誤りを正し、彌(いよゝ)いそしむにぞ、慮らずもかく多(さは)にはなりにける。
但し見聞くまにゝゝ広く書き集めたれば、同じ文の重複(かさな)れるもあれど、その時の事の情(さま)を知るべきものは、省かずして並べ挙げ、また地理(みちすぢ)の弁へがたきは、別に絵図をも写して、そが附録としつ。そは、彼の地に跋渉(わた)れる近藤守重ぬし(正齋・重蔵)・最上常矩(鶯谷・徳内)などにも逢ひて、直ちに問ひ糺しもしたるなり。然れどもなお誤りもありぬべし。さてこの事どもを記せる序に、過ぎにし元文の頃(四年六月)、仙台の海辺へ異国船の寄りたるを始め、同じ類の事どもを、一つ二つ記し添へぬ。但しこれらは因に挙ぐる事にはあれど、年の古きが故に、この卷の首に記しぬ。
かくて篤胤、謹みて考ふるに、あらゆる諸越(もろこし)人の参ゐ来て、大御国に仕へ奉らふ事は、霊幸ふ神世より定まれる制度(みのり)なるを、時として理しらぬ無礼(ゐやなき)首長どもの出でける世には、畏くも大御国を伺ひ奉りて、数(や)千の船を浮べ、数万の軍を集へて、襲ひ来れる事も、まゝありけるを、固より道ならぬ逆事(さかわざ)なれば、忽ちに官軍(みいくさ)の勇みに破られ、或いは神風に吹き碎かれなど、速かに亡び失せしは、必ず然かあるべき道理なれば、この後しも大き患ひとなるべき事は非むめり。然はあれど又つらゝゝ思ふに、韓招(からをき)し給ふ韓神の御心かも。小治田の大御代(推古天皇十五年七月)に、はじめて唐国へ大御使を遣はして、その国の事をら学ばしめ給へるより、次々そを慕ひ学べる人多く、往きかふ事も重なりつゝ、彼の立ちすくむ仏の道さへ弘まれるに、古への武き御稜威は、おのづからに薄らぎて、漸くに文を内にし武を外にし、よろづ飾りを好み、武士にも後見る女々しき心もぞ出で来にける。然りしより後は、本来の差別をも弁へず、書替す文辞にも、古への御制に違ひて、彼を敬ふ事多く、殊に近ごろ蘭学ちふ事も始まりて、そのむれの人々は、紅毛人(あかえみし)をも尊むめり。かゝる事の弊えにや、甚(いた)く大御掟に違へる人も、折々ありと聞ゆるは、いとも憤ろしく慨(うれた)き事の極みなりけり。斯有(かゝ)れば今より後に、もし戎狄らが逆事なし奉らむには、常に彼の国々を尊める人々は、己自らに怖ぢ惑ひて、大きなる不覚あらむかと、竊かに危ぶみ思はるゝなり。
抑々皇国内にて、皇国人どちの軍には、たとえ怯(きたな)き事あらむも、互ひの勝ち負けなれば、そは事にもあらねど、蕃人との戦ひに、道ならぬ女々しき所爲のありなむには、万代までの嘲りを受け、畏くも大御国の大御光を傷ふ理にしあれば、その罪、輕からず。麁略に思ふべきに非ず。もしたまゝゝもさる逆事せむ時は、古き例の如く、穢き奴ばら、暫時も留めず鏖(みなごろし)にして、皇大御国の大御稜威を輝かして、怖ぢ畏れしめ、御蕃(みやつこ)と白して、常しへに貢物奉り仕へ奉るべく、物すべき事とぞ思はるゝ。いでや敷島の大倭心を固むべき心掟を論はむに、まづ上つ代に、大皇国より諸蕃国を馭め給へりし趣は、いと嚴重かなる事と聞ゆるに、上の件り云へる如く、中つ世よりこのかた、彼の国を慕ひ羨み、尊卑の別をも知らぬ猾りなる輩の出で來し上は、またおごそかなる御掟なくはあるべからず。然るに時の往ければ、直日神の御心かも、さる御国の弊えをや知ろし看したりけむ、早く寛永の頃に、西に北に、戎狄らが国は更なり、都て諸越へ往きかふ事を嚴しく制(とゞ)め給へる(鎖国令)は、皇神の本つ御国、万の国の君師たる大御国の本因れを思ほして、往古へに復へし給へるにて、いともゝゝゝ尊く賢き大御掟なりけり。
故れ下が下まで、この御掟を畏み奉り、なお蕃国どもに対(むか)ひての心得は、我が師・本居翁の馭戎慨言(二卷)に、いと明亮(まさやか)に論ひ諭されたれば、数(あまた)度びよみ見て知るべし。凡そ書てふ書ありしより以来、この書ばかり愉快きふみは有ること無し。また彼の戎人どもの、畏くも逆事せる事の、世々の御紀に見えたるを、唯だ一と目に見通すべく書き集めたる、塙保己一檢校が螢蠅抄(六卷)は、たより宜き物なり。又た偶々にもこの後に、さる事あらむかの心しらひに記せるは、林友直(六無齋・子平)が海国兵談(十六卷)と云ふものあり。また都て万国の風土(くにぶり)を察るべきは、山村昌永の増訳・采覽異言(十四卷、新井白石『采覽異言』の増補版)、いと委しく記せるものなり。なお万国の事、記せる書ども、また皇国人の、さる国々へ漂ひ流されて親しく見たる記録どもをも見合せて、よくその風体(ありさま)を考へなば、天の下、国は多けど、我が皇国に比ぶべき美き国はなく、あらゆる戎国々の、いとも陋しく怯弱(つたな)き程をも思ひ弁ふべし。しかして後に事とあらぬ時の心得は、自らに定まりてむ。これなも武き大倭心の固めとは云ふべかりける。
さてこれ記せる事蹟はも、己政とる身にしあらねば、えう無きに似たれども、心あらむ教子ら、はた我が子孫等の心得にもと、密かに書き集め祕め藏(お)くになむ。かく數卷となりぬれば、書名なくはあらざれば、『千島の白波』(八卷)とは名づけぬ。なお見聞くまにゝゝ記し加へむとは思ふものから、己が本業の急がしさに、先づ是にてさし置きぬ。時は文化の十年といふ年癸酉十二月(一本云、文化八年)」。
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