平田篤胤大人『八家論』に曰く、
「客あり、予に問うて曰く、『それ聖は独り尊からず、理は單く尽し難し。故に武王は法を箕子に咨ひ、仲尼は礼を老□[耳+冉]に問ふ。故に上聖も、また必ず師授を待ちて功を成す。上士は、常に己を虚にして、以て人を容る。孝弟忠信の目立ちて、天下の事治むべし。礼楽射御の法備りて、揖讓進退の旨存せり焉。これいわゆる千載不拔の基ゐ也。而して吾子の言ふ所は、大いにこれに異なれり。その尤も甚だしき者は、『三皇・太昊は日本の神爲り』(大扶桑国考・太昊古易伝・三五本国考等)と。外邦を観ること、附傭の如く、四海を言ふこと、聚粟の如し。天、豈に特に日本に厚くして、四海に薄からむや乎哉。それ妖言は、先王の刑あり。道を乱す者は、豈に後王の典なからむや乎哉。吾子、以て如何と爲るか」と。
予、覚えず大笑して、之に応へて曰く、『客の如き者は、いわゆる膚受のみ。目、牆東を窺ふこと能はず、耳、窓外を聴くこと能はず。周孔の池に游泳して、未だ□[馬+麗]龍の変化を見ず、程朱の林に倉皇して、未だ崑崙の極を見ず。それその国を亡すは、則ちその君を亡す。その君を亡すは、則ちその父を亡す。周孔の遺教、未だ尊外の道を聞かず、程朱の余言、豈に卑内の旨あらむや乎哉。然るに世に苟くも吾子の如き者、もとより多し。示すに旧典の明文を以てし、開くに前賢の金言を以てすと雖も、なお□[立心+貴]々として知ること能はず。故に予、已むことを得ず、書数百卷を著し、以て皇国の、万邦に君師たるを弁じ、且つ万邦の、皇国に臣弟たるを論ず。今それ世の学を爲す者、特に捷徑、これ力め、踏襲、これ楽しみ、牛鬼蛇神、生呑活剥、至らざるところなし。而してその実は、則ち空々たる者、豈に勝げて言ふべけむや哉。
故に予の、世の学を目する、大綱八あり。曰く、『神家、神道を識らず。玄家、玄理を識らず。医家、医軌を識らず。易家、易威を識らず。暦家、暦式を識らず。日家、日法を識らず。儒家、儒非を識らず。仏家、仏姦(或云、義)を識らず』と。吾子、必ずこの一に居らむ矣。次第を追(或云、以)て問へ。答ふべし」と。客、口、□[口+去。あ]けて閉ぢず、舌、挙りて下らず。逡巡して去る。
近頃、公侯の筵に侍す。屡々問ふに、叟が学ぶところ如何といふ。茫洋として対へむ所を知らず。故にこの篇を書して、以て引と爲す。蓋しこれ適に憤るところありて言ふのみ。古人、言ふことふりて曰く、『憤せずんば啓せず』(論語述而)と。苟くも人ありて、予のこの言を憤らば、則ちまた將に啓するところあらむとす。然れども予、未だ戎語に熟せず。字句、恐らくは失錯あり。覧る者、之を恕せよ。天保三壬辰歳八月」。 |
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