仙境異聞(下巻の勝五郎再生記聞の巻)

 (最新見直し2013.12.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤の著書の「仙境異聞(下巻の勝五郎再生記聞の巻)」を確認しておく。出所は「小さな資料室」の「資料366、平田篤胤「勝五郎再生記聞」である。ここに謝意を申し上げておく。出典は「岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』」。

 2013.12.14日 れんだいこ拝



【「仙境異聞(下巻の勝五郎再生記聞の巻)」】
 「資料366、平田篤胤「勝五郎再生記聞」を転載する。
  ○北窓瑣談 五ノ十四丁 文政十二年に刊なれる隨筆也。孤樹裒談(こじゅほうだん)に菽園雜記を引きて、明の英宗の時、嘗て人あり、刑に臨んで三たび覆奏するを以て免かるゝを得たり。或る人問ふ、「この時に当り、自ら心神の如何なるかを覚えたるや」と。云はく、「既に昏然として之く所なし。但し記す、自ら屋背上に坐し、下に一人面、我を縛し、妻子親戚皆な傍らにあるを見る。少頃(しばら)くして報至り、寸(わず)かに屋を下ることを得たり」云々。これ再生記聞のたまの身をはなるゝ一証となすべし。
 この再生記聞の本は文政六年六月の末に清書しをへて、いまだ表紙も付せざるを、七月廿二日に江戸を立ちて京にまゐ上りたる時に携へゆき、八月六日に京につきて宿れるほど、富小路治部江殿へしばしば召されて出でたるに、この事を聞こえ申したれば、「その書見まほし」と宣ふにぞ、十三日のよる持て参りて見せ参らするに、御前にあるほど盡くみな読みはたし給ひて、「こはいと面白き物なれば仙洞の叡覧に入れ奉らば如何あらむ。かつは其方(そなた)の名を聞こえあぐる便りともなりなむ」と宣ふに、畏(かしこ)まりて、「ともかくも」と申し上げたれば、そのあくる日の院に参り給ふ折に叡覧にそなへ奉り給ひしかば、甚(いた)く大御心にかなひ、反しさへ御読みまして、大宮御所へも御覧ぜさせられ、雲のうへ人ごゝろにもをりをりかくも珍しき事ありて、「江戸なる篤胤といふもの記しつ」と御物語ありしこと、余りのいとやごとなき御あたりより慥(たし)かに聞き伝へたり。女房どちにおふせごとありて、写さしめ給ひ、五十日ばかり御許にとめ置きたまひて、この本を治部江どのへ下し給へるは十月四日の日にぞありける。「こゝかしこ折り目の付きたるは、仙洞の読みさしましてしをりし給へるなり」と伺ひつれば、いとも畏くて朱もてしるしの系をひきつ。さて江戸にもて帰りてこの表紙を付くるなり。たまたま読み見む人もその心してこの本はおろそかになあつかひそ。  あなかしこ 未十二月十三日   篤 胤(花押)
 勝五郎再生記聞

 文政六癸未年四月十九日御書院番頭 佐藤美濃守殿へ屆書写し

 私知行所武州多摩郡中野村の百姓源蔵の倅勝五郎、去る午年八歳にて秋中より、同人姉に向かひ、前世、生まれ替はりし始末を相咄し候えども、小兒の物語故取り用ゐ申さず、度々右樣の咄し申し候につき、不思議成る儀に存じ、姉儀父母へ相咄し候ひて、この年十二月中改めて父源蔵より勝五郎へ相尋ね候所、「前世の父は同国同郡小宮領程窪(久保)村百姓久兵衛と申す者の倅にて藤蔵と申し、自分二歳の節久兵衛儀は病死仕り候間、母へ後家入りにて半四郎と申す者後の父に相成り居り候處、右藤蔵儀六歳の時疱瘡にて病死仕り、それより右源蔵方へ生まれ替はり申し候」由相答へ、委しく慥(たし)か成る事ども申し候につき、村役人へも申し出で、得と相糺(あいただ)し候處、世上取り沙汰し候故、程窪村半四郎方にても沙汰承(うけたまわ)り及び、同人儀知行所、源蔵方へ尋ね参り候故、相糺し候處、小兒勝五郎申し候通り相違これなく、前世の父母の面体その外住居等も相咄し申し候に付き、程窪村半四郎方へ小兒召し連れ候ところ、これ又少(いささ)かも違ひこれなく、家内に対面致させ候ところ、先年六歳にて病死仕り候藤蔵に似合ひ候小兒にこれあり、その後当春迄に折々懇意に仕り候内、近村へも相知られ申し候や、この節は日々右勝五郎を見物に所々より参り候ものこれあり候に付き、知行所より訴へ出で候間、源蔵、勝五郎呼び出だし、相糺し申し候ところ、右の通り両人も答へ申し候、尤も世上に沙汰仕り候間、難取の用筋には御座候えども、御内々にこの段御耳打ち申し上げ置き候、以上。
   四月   多門(おかど)伝八郎

     ○ 中根宇右衛門殿知行所
       武州多摩郡小宮領程窪村百姓 實父藤五郎繼父半四郎
                                                藤  藏
 文化二 乙丑 年出生す。同七 庚午 年二月疱瘡を病みて、四日晝四ツ時頃死去す。時に六歳なり。葬地は同村の山なり。菩提所は同領三澤村禪宗醫王寺なり。去る文政五年 壬午 十三回忌なり。
                                       藤藏繼父
                        當未五十歳   半 四 郎
                                       藤藏 母
                        當未四十九歳  し  づ
                         半四郎子藤藏異父弟妹 
                                男子 二人
                                女子 二人
                                        藤藏實父   藤 五 郎
 若年の時の名を久兵衛と云ふ。文化三 丙寅 年藤藏二歳の時四十八歳にて死去す。半四郎古藤五郎が妻しづが入夫となり家を相續す。


     
○ 

             多門(おかど)傳八郎殿知行所
                武州多摩郡柚木(ゆぎ)領中野村百姓源藏次男
                         當未九歳    勝 五 郎
 文化十二 乙亥 年十月十日再生す。前生は程窪村藤五郎初名久兵衛が子にて藤藏といひしが、六歳の時疱瘡にて死去せること前文に記すが如し。文化七年に死去せるより六年めなり。
                           勝五郎父小谷氏と云ふ
                                                 當未四十九歳  源  藏
                           源藏妻勝五郎らが母
                                                當未三十九歳  せ  い  
 せいが父は、尾州の家士にて、村田吉太郎といひしが、せい三歳の時に、吉太郎故ありて浪人となり、文政四年四月廿七日七十五歳にて死去すと云ふ。
                          源藏勝五郎らが祖母
                         當未七十二歳  つ  や
                           源藏娘勝五郎姉
                                                 當未十五歳   ふ  さ
                          源藏長子勝五郎兄
                           當未十四歳    乙次郎
                           源藏娘勝五郎妹
                         當未四歳    つ  ね                                            
  (貼紙)
 「村田吉太郎は織田遠江殿組にて、侍の所行にあらざる事ありて、寛政元丙年十一月廿一日追放仰付けられしとある書に見えたり。後に丹羽家へ(左京大夫どの)かゝへられしと或人いへり。
                            をはり人某 花押
  かゝればせいが五歳の時浪人となりたるなり。本書とたがへり。」
 ○ 
 去ぬる文政五壬午年十一月の頃、右勝五郎八歳にて、姉ふさ兄乙次郎と田のほとりにて遊び居つゝふと兄に向かひて、「おまへはもと何處(いずこ)の誰(た)が子にてこちの家へ生まれ来たれる」と問ふ。兄聞きて「我はさる事をしらず」と云へば、また姉に向かひて同じさまに問ふ。ふさ答へて、「何處の誰が子にして生まれ来たれると云ふこと如何(いか)にして知らるべき。笑(おか)しき事を問へるものかな」と嘲るを、勝五郎聞きていと心得がたく思へる体にて、「然らばおまへは生まれぬ先のことは知らざるか」と云ふ。ふさ、「然らばそちは知りて居(お)れるか」と問へば、勝五郎云はく、「我はよく知れり。本は程窪村の久兵衛といふ人の子に藤蔵といひし者なり」と語るを、姉「いとあやし。然らばその事父母に告げむ」と云へば、勝五郎いたくわびて、「親たちに勿(な)云ひそ」とて泣き悲しみければ、「然らば云ふまじ。但し、あしき行ひするを制(とど)めてきかざる時は、必ず告げてむ」と云ひてやみぬ。

 かくて喧(あらが)ひごとする折々、「彼の事を告げむ」といへば直ちにやめたりければ、両親祖母もこれを聞きあやしみて、ふさに問へどつゝみて云はず。さてはいかなる惡しき事をかしつると心ならず、密(ひそ)かにふさにせめ問ひければ、止む事を得ずありのまゝに語るにぞ。両親また祖母もいたく不審に思ひ、勝五郎をいろいろとすかし拵(こしら)へて尋ねけるに、しぶしぶ語り出でけるは、「我(おら)はもと程窪の久兵衛の子にて、母の名おしづといふ。我がちひさき時に久兵衛は死にて、その後に半四郎と云ふが来て父となり、我を愛(め)ぐみ養ひけるに、我は六歳になりける時に死にたるが、後にこの家の母の腹に入りて生まれたり」と云ふ。されども小兒のしどけなき詞にて、余りに奇(あや)しき物語なれば、容易にとり上ぐべき事にも非ずと思ひて打ち過ぎける。

 さて彼が母せいは四歳なる娘に乳を飲まする故に、勝五郎をば祖母つや夜ごとに添ひ寢しけるが、或る夜に勝五郎、「程窪の半四郎方へ連れ行きてたべ。彼方の両親にも逢ひまほし」と云ふを、祖母もけしかる事におもひ打ちまぎらかし置きつるに、その後は夜な夜な同じ樣に行かまほしがるによりて、「さらばこゝへ生まれ来つる始めより、委(くわ)しく語るべし」とさまざま拵(こしら)へ問ひければ、いとしどけなき詞ながら有来(ありこ)し趣(さま)を委しく語りて、「こは父母をおきては堅く人に語り給ふな」と返々(かえすがえす)いへりとぞ。(この物語は、四月二十五日、気吹能屋(いぶきのや)にて聞きたり。前に或る人のつやに問ひて、記されたる物あるを見置きたりけれど、今度さらに源蔵、勝五郎に始終を問ひて、答へたる趣きなり)

 勝五郎云ふ、「前世のこと、四歳ばかりまではよく覚えてありしが、漸々(ようよう)に忘れたり。死ぬ命にてはなかりしかど、薬を食はせざる故に死にたるなり。(疱瘡を病みたりしと云ふことは知らず。後に人のしか云ふを聞きて知れりと云へり。この死にたりと云ふ時は、文化七年二月四日に当れり) 息の絶ゆる時は何の苦しみもなかりしが、その後しばしがほど苦しかりき。その後はいさゝかも苦しき事もあらず。さて体を桶の中へつよく押し入るゝと、飛び出でて傍(かた)へにをり、山へ葬りにもて行くときは、白く覆ひたる龕の上に乘りて行きたり。さてその桶の穴へおとし入れたるとき、その音のひびきたること、心にこたへて今もよく覚えたり。さて僧共が經をよめども何にもならず、すべて彼等は錢金をたぶらかし取らむとするわざのみにて、益(やく)なきものなれば、惡(にく)く厭(いと)はしく思はれて、家に帰り、(「僧は尊きものにて、経よみ念仏申せば、よき国へ生まるときく、さて地獄極樂など云へる国はしらずや」と問ひしによりて、僧のことをかくいへり) 机の上に居たるが、人に物をいひかけても聞きつけず。その時に白髮を長く打垂れて黒き衣服(きもの)着たる翁の、『こなたへ』とて誘(いざ)なはるゝに従ひて、何處(いずこ)とも知らず段々に高き奇麗なる芝原に行きて遊びありけり。花の盛(さかり)なる所に遊びたるとき、その枝を折らむとするに、小さき烏(からす)の出で来たりて、いたく威(おど)したる事のありしは、今も恐ろしくおぼゆ。(「中野村の産土神(うぶすなのかみ)熊野權現に坐す」と源蔵いへり。烏の出でたると云ふにつきて、幽(ひそ)かに思ひ合さるゝことあり)


 またしか遊びありくほど、我が家にて親たちのもの云ふことも聞こえ、経読む声も聞こえたれど、吾は既に云へる如く僧はにくゝ思(おぼ)ゆるのみなり。食物を供へたるも食ふことは爲さざれど、中に温(あたた)かなるものは、その烟氣(けぶり)の香(にお)ひで甘(うま)く覚えたりき。七月には庭火(にわび)をたくとき家へ帰りたるに、団子などを備へてありき。かくてあそびて有り經(ふ)るほど、或るとき彼の翁と家の向ひの路を通るとき、(家とは源蔵が家をいへり) この家を指して、『あれなる家に入りて生まれよ』といふ。敎へのまゝに翁に別れて、庭の柿の木の下にたゝずみて、三日伺ひ居て、窓の穴より家内に入り、竈(かまど)の側(そば)にまた三日をれるほど、母の何処ならむ遠き處へ別れ行き給はむことを、父と語らひ給ふ事を聞きたりき。(源蔵云はく、「勝五郎が生まれたる年の正月の事なりき。或る夜閨(ねや)中にて夫婦相語らひて云はく、『かく家貧しきに子さへ二人ありて、老母を養ふに侘(わび)しければ、妻を来たらむ三月より、江戸へ奉公と云ふ事に出ださむ』と云ひ合せたる事あり。されどその比(ころ)は老母にも語らでありしを、二月になりて母にも告げて、三月に至りて妻を奉公に出だし遣(や)りたりしに、既に懷胎したりしこと、詳(つまび)らかに知られたりければ、主に暇をこひて家に帰りたり。その妊(はら)みたるは即ち正月にて、月満ちて、同十月十日に勝五郎生まれたり。この事はかつて夫婦をおきては知るべからぬ物語なるを、彼が知りたりしは奇(あや)しくおぼゆ」といへり。さて「懷胎のほど、また生まるゝ時も、その後も奇しき事はなかりき」といへり) その後母の腹内へ入りたりと思はるれど、よくも覚えず。さて腹内にて母の苦しからむと思ふ事のある時は、側(わき)のかたへよりて居たる事のありしは覚えたり。さて生まるゝ時は何の苦しき事もなかりき。(程窪村にて藤蔵と云ひて、文化七年に死にたりしより六年めにあたれり) この外何くれの事ども、四つ五つになるまではよく覚えてありしかど、漸々に忘れたり」と云へり。(以上、直話をつづりなせるなり。)

 その後祖母ますます奇しく思ひてありけるに、或る時ものへ行きて、同じ嫗(おうな)どち集(つど)へる處にて、「もし程窪村にて久兵衛といふ人ありと知り給へる人やおはす」と云ふに、一人がいふ、「己れは知らざれど、彼の村に因(ちなみ)あれば問ひ合はせて参らせむ。さるにても如何なる事にて問ひ給ふにや」といふに黙止(もだ)しかねて、勝五郎が事をあらあら語りけり。さるほどにこの正月七日に、程窪村より何某といふ老人来たりて云はく、「己れは程窪の半四郎といふ者に親しき者なり。久兵衛といふはいと若き程の名にて後に名を藤五郎と改めたりしが、十五年前に身まかりて、今は程窪に久兵衛と云ひし名を知りたる者もなし。そが妻の後夫を半四郎といふ。このごろ人づてにきけば、この家に生まれたる子の、元その久兵衛が子なりし藤蔵と云へるが、六歳にて身まかりて後にこの家に生まれたりと聞き伝へたるが、余りに打ち合ひて奇しく聞こゆれば、問ひきかまほしがりて、まづ己れにあとら(誂)へて遣せたるなり」と云ふに、上の件の事ども語りて、相互ひに奇しみつゝかの老人は帰りけるとぞ。

 かゝりしかばこの事終(つい)に人あまた知りて、見に来る人もあり。勝五郎外に出づれば人珍しがりて、程窪小僧など仇名(あだな)をつけて言ひ囃(はや)す事となりしかば、恥かしがりてその後は外に出ず。父母に、「かゝればこそ人に語り給ふなと云ひてしに、人に語り給へる故にこそかゝれ」と云ひて、恨みかこちけるとぞ。

 かくてのち勝五郎、半四郎が方へ行かまほしがること彌(いや)まさりけるが、又後には何となく夜もすがら泣きいさつを、夜明けてその由を云へば都(すべ)て知らずと云ふ。夜な夜なかくすること轉(うたた)ありければ、祖母わびて、「こはいわゆる半四郎が許(もと)へ行かまほしがりて思ひ入りたる故なるべし。よしや非(あら)ぬ虚事(そらごと)なりとも、男ならばこそあれ我(われ)老女の身として連れ行きたらむには、人のあざけり笑はむもさてあるべし。連れ行かなむや」と云ふに、源蔵も「さる事なり。いざ給へ」とて遣(や)りけるは、正月二十日になむありける。祖母は勝五郎をつれて程窪村に至り、(程窪と中野村とは山一つへだてゝその間一里半ばかりありとぞ) この家か彼の家かといふに、勝五郎「まだ先なり。まだ先なり」と云ひつゝ先に立ちて行くほどに、「この家なり」と祖母より先にかけ入る故に、祖母もつづきて這入(はい)りぬ。(これより前に勝五郎、「程くぼの半四郎が家は、三軒ならびたる中の引き入りたる家にて、裏口より山につづきたる家なり」と云ひけるが、果たしてその言の如くなりしとぞ) まづあるじが名を問ふに、「半四郎」と答ふ。妻の名をとへば「しづ」といふ。半四郎夫婦は、かねて人づてに聞き居たる事にはあれど、なほ祖母が物語を聞きて或いは奇しみ或いは悲しみ、共に涙にしづみ、勝五郎をいだき上げてつくづくと顔をうち守りて、「亡くなりし藤蔵が六歳のときの面ざしによく似てあり」など樣々かきくどき居るに、勝五郎懷(いだ)かれながら向ひの煙草屋の屋根を指さし、「まへ方はあの屋根なかりし。あの木もなかりし」など云ふに、皆なその如くなれば、何(いず)れもますます驚きける。半四郎が家の親族どもゝ寄り来たれる中に、久兵衛が妹の嫗(うば)ありて、「久兵衛にさへ似たり」と泣きしほたれしとぞ。さてその日は中野村に帰りしが、その後も「程窪へ行かまほし。久兵衛の墓参りせまほし」と云ふを、源蔵いひまぎらし、日を延べてありけるに、廿七日にふり延(は)へて、彼の半四郎をとこ、「源蔵に近付きに」とて来たりしが、勝五郎に「程窪へ行かぬか」と云ひしかば、「久兵衛の墓参りせむ」と悦びて、伴はれて行きて、「その事とげぬ」とて夕さり帰りけり。かくて後は、父に「半四郎がもとへ連れ行きて、いかで彼の家と親類の結びをなして給はれ」と云ふをきゝ受けて、暇あらむ時に連れ行かむと思ふほど、地頭より召されて参りぬと、父源蔵語りけり。

   文政六年四月二十九日      立入事負(たてりことおい)(伴 信友)記
 右異童のこと、或る人の筆記を見たりし後に、地頭へ呼び出され吟味ありて、支配頭へ屆書出だしたるよし、その写しをも見たりけるに、屋代輪池翁の「なほ己れにゆきて尋ねよ」と云はるゝによりて、四月二十一日の日に多門主の用人谷孫兵衛といふ人を訪(とぶら)ひて問ひきゝけるに、その日は勝五郎、父源藏と駒込の西敎寺といふ寺へ、或る人の計らひにて行きたる由にて居合さず、谷氏にあらましを問ひて帰れるが、同人の計らひにて、翌二十二日に源蔵、勝五郎を連れ来たりしかば、屋代翁へも知らせたるに翁も来たらる。まづ妻と娘と嘉津間とに云ひつけて、(嘉津間と云ふはもと寅吉と云ひしが故ありて名を改めたるなり) 色々とうらかし(慰め)つゝ咄させたるを、物かげにて聞きたれど問ひ洩らせる事多かりけるに、二十三日に秋田なる我が兄渡辺正胤の来たれるに、国友能当(くにともよしまさ)風炮を持ち来たりて、こをうつ狀をまねび見せてありけるに、かの谷氏の来たりしかば、勝五郎また伴はれ来たりぬ。さればこの童子本文に事負(ことおい)(信友)が記せる如く、再生の事を人に問はるゝ事をいたく否(いな)みて、何方へも往くこと嫌ふ由にて、我が許へはじめて来たる時なども、甚(いた)くすまへ(拒)るを、しばしと云ひて連れ来たれる由なれば、その意を得てあながちには問はず、者どもに云ひつけて、只心まゝに遊ばしめ、折を見て少(いささ)かづつ問ひたりしかば、いたく心に叶ひて、終日あそび戯れて、「今夜(こよい)は御許(おもと)に止宿(とまり)てまし」など云ひしかど、谷氏の方に、童子の帰りを待つ人ありと云ひ遣(おこ)せたりしかば、本意なく帰れる故に、今日また来たれるなりけり。

 この日居りあひて見もし問ひもしつるは、我が兄なる人と、国友能当、五十嵐常雄、志賀綿麻呂、細貝篤資などなりき。かくて二十五日にも源蔵また勝五郎を伴ひ来たり、「明日なむ郷(さと)へ罷れば御暇(おいとま)申さむために来侍り」と云ふ。この日来相ひたるは堤朝風、立入事負(たてりことおい)、国友恒足などなり。又さまざまにすかし拵へて、己れと事負と嘉津間と三人にて問ふに、「余人のきかぬ所にて語らむ」と云ふまゝに庭につれ出でて、己れいだき上げて生(な)り果物などとり與へつゝ、事負と能々(よくよく)とへば、いともしどけなき詞にて極めて小声にて語れる趣(むね)の条々(おちおち)を、推問(ねど)ひして前後をとりつづけて、事負が右のごとく書きとれるものにて、かつてこの記せる如く首尾をとゝのへて語れるには非ず。この時物かげにて聞きたる人々は堤朝風、国友恒足、土屋清道、矢沢希賢などなり。

 少(いささ)かも長(おとな)びたる事なく、荒々しき遊びをこのみ、尋常の百姓の子に比べてはさとき方に見ゆ。雄々しき事を好みて、武士にならまほしと常に云ふよし、既に谷氏の語れるに違はず。太刀(たち)刀(かたな)をこのみ、これをさして武士にならまほしと云へるによりて、大小の刀をとりどり取出でて、ぬき放し見せなどすれば、甚(いた)く喜ぶを、「やがて長人(おとな)になりたらばこれをとらせむに、物語せよ」と計りこしらへたるによりて、「然らば」とて物語する事となりぬ。わざと僧等がことを尊き物にいへば、いたく腹立てきらひて、「彼等は人を誑(たぶら)かし物をとらむと計るわろ者なり」といふ。「さもあるべけれど死にてのちは、彼等に經を誦ませて、地獄などへは行かず、極樂といふよき国へ生まれむと思ふ」など色々よさまに執りなし云へど、「おまへ好きならむには心にまかせ給へ、我(おら)はきらひなり。極樂など云ふことはみな僞りなり」と益々嫌へり。凡て嘉津間が始めて山より帰りし時のさまと、異にして似たるところあり。

 ○
 伴ひたる翁のこと、或る人の記せるには、「爺(じい)さまの(篤胤云はく、この七月九日に、源蔵また「先頃江戸へ出でたりし時に参れる家々に礼を申さむ爲に来たれり」とて、勝五郎を伴ひ、姉ふさ兄乙次郎をも連れ來たれり。折しも己れは越谷へものせる程なりしかど、三夜ばかり我が家に止まりてありけるに、太田朝恭、増田成則など留学せれば、この翁のさまを委しく問ひけるに、「白髮を長くうち垂れ、白き髭長く生えたり。白絹の衣服の上に黑き紋ぢらしある袖の大きなる羽織のごとき物に後ろに長く垂れたる上服(うわぎ)を着て、くゝり袴を着し、足には外黒く内赤く塗りたる丸き物の、足の甲までかゝるを履きたりし」と云へりとぞ) やうなる人の来て云々」とあるが、甚々(いといと)ゆかしくて「坊樣(ぼうさま)なりしか」と問ふに頭をふる。「然らば我が頭のごときか」と事負が問ふに、かぶを振りて、篤胤が頭を指さして、「御前の頭(つむり)のごとくにて長く垂れたり」と云ふ。また烏のこと樹にとまれるを指さして、「あれと同じことにや」と問へば、「彼よりは小さくて眼ざしは恐ろしかりき」と云へり。按(おも)ふに世の諺に、死にて往きたるさきには、御前烏(みさきがらす)と(また目前烏(めさきがらす)といふ人もあり) 云ふがありと云ふも、舊く再生せるもの、又は蘇生せる者などの然(さ)る事を語りたるがありしを、語り伝へたるにやあらむ。烏と鵄とのことに就きてはおのれ年ごろ考へたる説もあれど、こには記さず。

 ○
 父源蔵、勝五郎がいたく仏事(ほとけわざ)、僧等をきらふ由を語りて、「去ぬる二十一日に、或る寺へ往きたるに(故ありて寺号をしるさず) 茶よ菓子よともて囃す(はや)し侍れど、寺の物はきたなしと云ひて一つだに食はず、いたく心苦しき思ひをしはべり。彼が僧徒をかく惡(きら)ひ侍ることは、去々年(おとつとし)わが許に源七とて、すこしの縁(ゆかり)ある者の病めるをおきて侍るに、それが死にたるときに、弔(ともら)ひ来たれる僧の布施に、錢をつゝみて遣りたるを、勝五郎見て、『何とていつも門(かど)にたつ僧に物をあたへ、今またあの僧に錢をとらせたる』と問ふ故に、『僧といふ者は人に物こひて世すぎをする物ゆゑに、呉(く)るゝことぞ』と申して侍れば、『僧といふ者は人の物をほしがる惡しき者ぞ』と申せるが、それより後きらひに成りたるやうに覚え侍る」と語るを、勝五郎きゝ果さず、「イナ然(さ)には非ず、きらひなる故ありて元より嫌ひなり」と、言葉に力をいれて断りぬ。その元より嫌ひなりと云ふ由(いわれ)を問(た)ずぬれども、「憎きもの也」とのみ云ひて、他事にまぎらはして答へざりき。

 ○
 源蔵また語りけるは、「勝五郎生まれつきて、少しも化物(ばけもの)、幽霊など云ふを恐るゝ事をしらず。右申せる源七が病は狂気にて侍りしかば、別(こと)に放ちて小屋をたて入れ置きたるに、死ぬべき前になりて、顔色恐ろしげになりたる故に、姉兄などは恐れて小屋のほとりへも近よらず。然るに勝五郎のみは、『彼の源七は間(ほど)なく死ぬべく見えて哀れなり。薬も食物もよく調へてやり給へ。いつにても我もち行きて與へむ』とて、夜中といへども持ち行きて與へ、死にて後は、姉兄などは恐れて厠(かわや)へも行きがてにするを、『死にたる人の何か恐ろしき事あらむ』と少しも恐れず、また『自分の死ぬと云ふことをも少(いささ)か恐れず』と云ふにぞ、勝五郎に、『などて死ぬることを恐れざる』と問へば、『我を死にたりと人の云ひし故に死にたると心付きたれば、亡骸(なきがら)も見えしかど、その時みづからは、死にたりとも思はざりき。その死にたりと云ふときも、人の見る目ほどは苦しくはなき物なり。死にてさきに居たるほどは、腹飽きて暑しとも寒しとも思はず。また夜とてもさばかり闇からず。ありきにありけども疲るゝことなく、翁のもとにだに居れば何も恐ろしき事はなかりき。六年めに生まれたると人は云へども、彼方(かなた)にてはしばしの間と覚えたり』と云ふ。また『御嶽(みたけ)さまの死ぬ事はこはい物でないと宣へると語れるよし、御嶽樣とはいかにして見(まみえ)奉れる』と問へど、例の他事(よそごと)にまぎらはして答へず」。

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 或る人の記に、勝五郎折々、「我はのゝ樣なれば、大事にして給はれ」といひ、また「早く死ぬこともあらむ」と云ひ、また「僧に布施することは、いとよき事ぞ」と云へる由見えたり。また「汝は仏道を信仰せるにや」と問ふに、源蔵答へて云はく、「勝五郎が云へることは、僧に物を施すことは惡き事なりと申したるは聞きて侍れど、その余のことは祖母に申したるか、我等は聞きたること侍らず。さて己れは仏道を深く信仰と申すにてはなけれども、父の時より乞食、道心者などの門口に立つがあれば、少しづつの施物を遣はしぬ。これは後世を願ふなどの意にはあらず、只彼等が物を乞ふを憐れむのみなり。家内の者どもは朔望、式日などに、鎭守の神に参詣し侍るを、己れは日々に詣で神々をたふとみ、仏閣といへども縁(よし)あれば詣でて捨つることなし。然れども只今日の無事を祈ることをのみ心とせり。己が村の辺(あたり)は、いわゆる德本が流(ながれ)の念仏講流行(はや)り侍れど、その講にも入らず。勝五郎が事をきゝ伝へて、出家たち『弟子にせまほし』とて、所々(そこここ)より申し来たりしが、中には『かく奇(あや)しき童子を農人とせむこと、仏の罰(とがめ)やあらむ』など申せるもありしかど、『当人いたく出家をきらひ、己れも好まざる故に、農人となりて宜(よ)からぬ者ならむには、我が子には生まれ来まじきを、農人のわが子と生まれ来つる上に、当人も出家をきらへば、農人となさむも苦しからじ』と断りを立てたりしかば、その後は出家たちのこ(乞)ひに来る者なし」と云へり。

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 こゝに我も人も、「しか産土(うぶすな)の神をねむごろにすと聞くにつけて思へば、彼の勝五郎を伴ひたる翁といへるこそ疑(うつ)なく産土の神にてありけめ」と云ふに、源蔵云はく、「その事はこのほど西敎寺へものしける時に、彼所(かしこ)にても然(しか)云はれたりき。或いはその翁をかの久兵衛ならむなど云ふ人もあれど、産土の神ならむと言ふにつきて、いさゝか思ひ当れる事のあるを、今日まで人に語れることなけれど、深切に物とひ給へば」とて、又云ひけらく、「勝五郎が姉ふさと申すは、今年十五歳になり侍り。去々年(おとつとし)の事なりき。庖丁刀を失ひたることのありけるに、彼が母いたく叱りたるに其の後また庖丁刀を失ひたり。この度はますます叱られむ事をおもひて、本居(うぶすな)の神熊野宮へ詣でて『失ひつる庖丁刀のあり處を、さとし顯はし給へ。然らば百度詣(もうで)し奉らむ』と祈りたりける夜の夢に、髮長く垂れて山伏と云ふものゝ如き頭の翁なる人枕上(まくらがみ)に立ちて、『失ひたる庖丁刀はそれの處の田の草かげに、刃の上にむきてあらむをとり来たるべし』と告(の)たまへるによりて、夙(つと)めて行きて見るに、果してその如くありけりとて、取り帰りてのち夜べの夢の告をはじめて云々と語りはべり。その母これを聞きて、『こやつさばかりの物の失ひたらむに、本居の神などにこひ祈(の)み申すべき事かは。いとあるまじき事なり。よくよくその罪を謝(もう)して、とく賽(かえりもう)しの百度詣し奉るべし』とて詣(もうで)させき。またその後ふさ或る日の朝さめざめと泣きうれふる狀あり。父母その故を問ふに、『さおとつ夜より夜べまで三夜つづけて、いと悲しき夢を見たり。一夜ばかりは、思はぬ夢を見るも常なるを、かく三夜つづけて同じ夢を見しは神の御誨(みさと)しなりけり』とて、又さらに泣くをよくよく問へば、『さおとつ夜の夢にまた彼の山伏のごとき翁と、今一人枕上に来たりて、〈汝はむかし惡しき事をしたる男なり。今かくてあれど、能くせずばこの家にありがたくて、苦しき目見るべし〉と告(の)たまへり。されどおろそかに心得て在りし次の夜も夜べも、正しく同じ夢を見はべり。

 さて彼の山伏のごとき人は、何とも物のたまはず、今一人の男の件の事を告(の)たまひて、〈吾れは蛇体の者也なり〉と曰(い)へり。かゝる夢見しことは徒事(ただごと)にあらじ。いかなる憂目(うきめ)をか見むと悲しくて泣くなり』といふに、『元来さる跡なし事の夢見たるが心にかゝりて、又次々に同じ夢を見たるなめり。心になかけそ』となぐさめ置きたりき。その後勝五郎が物語に、髮を垂れたまへる老人のしかじかと云ふが似たるを思へば、先に庖丁刀を失ひつる時に、山伏の如く見え給へる翁も同じ類ひの神にこそおはすらめ。かく同じ趣(さま)なる事のありしを思ひ合すれば、娘がすぎにし夢の告も、今さら奇しく覚え侍り」と語りて、「さて今かく物語るに付けてふと思ひよれることは、己れ元この江戸の小石川に、夫婦住みたりける時にふさ生まれたり。その處の本居(うぶすな)の神は氷川大明神なり。今一人の男の『我は蛇体の者なり』と曰ひしは、もしくは氷川大明神にもやおはしけむと、密かに思はる」と語るに、堤朝風その座にありて、これを聞きて云はく、「氷川大明神は龍體の神なりと云ひ伝ふる由は、早く聞き居れり」と云ふにぞ、益々に思ひ合せられたり。

 そもそも氷川大明神と申すは、延喜の神名式に武蔵国足立郡に氷川神社(名神大月次新嘗)とある社の神を、所々にうつし祝ひたるが多かる中の一つにて、氷川神社の祭神は、一の宮記に素盞烏尊(すさのおのみこと)と見え、今もしか云ひ伝へて一の宮といふ。江戸砂子といふ物に、小石川なるも一の宮を勸請し龍女を祝へるよし見えたり。按(おも)ふに素盞烏尊出雲国簸川上(ひのかわかみ)にて八俣(やまた)の大蛇(おろち)を斬り給ひしによりて、彼處に樋(ひの)神社とて式内にてあり。されば遠呂智(おろち)は素盞烏尊に斬られたれば、その霊(たま)を使はしめと祝へるを龍女と誤り伝へたりけむ。さてこの武蔵国にこの御社のある由は、この国の國造は、成務天皇の御世に出雲国の国ら造より別ち定め給へれば、その本国の神なる故に樋(ひの)神社を移し祭れるなるべし。委(くわ)しくは別に考へ記せる物あり。

 さて熊野の神もまことは素盞烏尊の御靈を祭れるなれば、殊に由(よし)ありて覚ゆ。されば勝五郎が再生のことは、程窪村の鎭守の神は何(なに)神と云ふこと未だ聞かざれど、中野村の鎭守の神と御語(みかた)らひ坐して計らひ給へる事なるべし。然るは人によりて其の生まれたる所を去りて、他所に移り住するも多かるを、さる人をば本生の所の神と今住する所の鎭守の神と、互ひに守護し給ふこと、己れ近きころ見聞きつる正しき証(あかし)のあればなり。抑々(そもそも)かゝる事どもをさへに云ふを、神の道を知らざらむ人は心得がてに怪しみ思ふめれば、委しく云はま欲しけれど事長ければ此(ここ)にはもらしつ。


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 再生の事は和漢古今にいとあまた聞こゆる事なるが、見識(こころ)せまき漢意(からごころ)の学者たちの、この理(ことわり)をつやつや得知らで、あるまじき事のごとく強言(しいごと)すめれど、前に鬼神新論を著して云へれば、さる倫(ともがら)は今さら論(い)ふにたらず。また仏者にはやゝその旨を得たる説(こと)どもゝ聞こゆれども、余りにさだし過ぎて、なべて再生転生する事のごとく云ふめり。誠は人の世に生まれ出づることは、神の産霊(むすび)によりて一日(ひとひ)に千人(ちびと)死ぬれば新たに千五百人(ちいおひと)生まるゝ由縁(ゆえよし)なる中に、いと希々(まれまれ)に人を物とも、物を人とも、また人を人とも再生せしめ給ふ事もあるなるを、佛者のその希なる事を常にとりて、然(さ)は論(あげつら)ふなりけり。さて然やうに再生轉生せしめ給ふこともある物から、その事を再生転生の人ごとには知らしめざるは、神の幽事(ひめごと)の中の秘事(ひめごと)なるを、いと希々に知らしめ給ふこともあるは、幽(ふか)き由ある事とは通(きこ)ゆれども、凡人(ただびと)の何ちふ御心と云ふことは測り知るべき事にあらず。

 さて再生とは云へど、前生を知らざりしかぎりは除(お)きて、正しくその前生を知りたりし事どもの漢籍(からぶみ)に見えたるは、晉の羊祐が前生は李家の子なるが前に弄(もてあそ)べる金環の在所(ありどころ)を記臆せる、鮑靚(ほうせい)といふ者の前生に井に落ちて死にたる事を記(おぼ)えたる、唐の孫緬といふ者の奴が前生に狸なりし事を知れる、崔顔武といふ者前生に杜明福といへるが妻なりし事を覚えたる類ひは、あまたの書に見えて数へも尽されず。人のあまねく知れる事なるが中に、勝五郎が事に思ひ合さるゝ事どもを記さば、酉陽雜俎(ゆうようざつそ)に「顧況といふ者、年老ひて十七歳になる一子を喪(うしな)ひけるに、その子の魂(たま)恍惚として夢のごとくその家を離れざりけり。かくてその父悲傷止みがたく詩を作りて、『老人一子を喪ふ、日暮れ泣(なみだ)血を成す、心は断猿を逐ひて驚き、跡飛鳥に隨ひて滅(き)ゆ、老人年七十、多時の別れを作(な)さず』と吟じけるを、その子の魂(たま)これを聞きて感慟し、『もしまた人となる事あらば、再(また)この家に生まれむ』と誓ひけるに、日を經て人に執らへられて一處(ひとところ)に至れば、縣吏のごとき者ありて、また顧況が家に託生せしむと思へる後は、すべて覚えざりしが、後に忽ちに心醒めて、眼を開きて見れば吾が元の家にて、兄弟親族みな側(かたわら)にあり。然れども語ること能はず。

 その生まれたる後はその年を記(おぼ)えざりけるに、七歳になりける時、その兄戯れに批(う)ちたりしかば、忽ちに云ひけらく、『我はこれ汝が兄なり。何故に我を批つ』と云ふにぞ、一家驚き異(あや)しみて問へば、前事を叙(の)ぶるにいさゝかも誤らざりき。後の進士顧非熊(こひゆう)と云へるは是れなり」と見え、また増補夷堅志に、「代州(かく)縣に盧忻(ろきん)といふ者あり。生まれて三歳にして能く言(ものい)ひてその母に告げて云はく、『我が前生は回北村なる趙氏の子なるが、十九歳になりける時、牛を山下に牧(か)ひけるに、秋雨にて草滑らかなりしかば、岸下に墜(お)ちたり。身を奮ひて起ちて見れば、一人ありて傍らに臥せり。意(こころ)に我と同じ牧子(うしかい)の墜ちたるならむと謂(おも)ひて、大きにこれを呼ぶに應へず。久しくしてこれを見れば、すなはち自身なり。これに投(い)らむと欲(おも)ふに入ること能はず。これを捨てむと欲ふに忍びがたくて、左右に盤旋しけるに、翌日父母來たりて、慟哭するに、我これを告ぐれども答へず。遂に火を挙げて吾が體を焚(や)く。そのとき〈我を燒くべからず〉と云へどもまた応へず。焚きをはり骨を收めて去る。我これに隨はむと欲して、父母を見れば身みな丈餘にて懼(おそ)ろしき故に隨ひ往くこと能はず。彷徨として帰(よるべ)なく一月余りも在りけるに、忽ちに一老人ありて、〈我爾(なんじ)を引きて帰せしめむ〉と云ふに隨ひて行けば、一家に至る。老人指さして〈これ汝が家なり〉と云ひて此(ここ)に生まれしむ。これ今の吾が身なり。我昨日の夜の夢中に往きて前身の父母に告げたれば、明日まさに來て我を看るべし。我が家に一の白馬あり。かならずそれに騎(の)りて來たるべし』と云ふ。その母これを異しみつゝ、明日門に俟(ま)ちけるに、果たして白馬を馳せて來る者あり。兒これを望み見て欣(よろこ)び躍りて、『吾が父来たれり』と云ふ。既に見て大いに哭してその旧事を詢(と)ふに知らざる事なし。これより二家ともにその子を養ひけり」とあるなど甚(いと)よく似たる事なり。

 縣吏のごとき者といひ老人と云へるは、唐土にも城隍廟とて、産土(うぶすな)の神のごときを所々の鎭守と祀りてあれば、その神なるべく覚ゆ。そもそも再生のこと、和漢にいと多かるを、弘く採り並べて考ふるに、顧況が長子の顧非熊と生まれ、趙氏が子の盧忻と生まれ、程窪の藤蔵が今の勝五郎と生まれたるなどは本居(うぶすな)の神、漢国(からくに)にて謂(いわ)ゆる城隍神のわざと知られて正しく聞こゆれども、この外に妖魔のわざと再生転生せしむる事は殊に多かり。こは古今妖魔(魅)考と号(な)づけたる書の中に別に委しく論ひ置きたり。さて大かたの人の妖魔に率(まじこ)られざるかぎりの魂は、その所々の鎭守の神の掌(し)りて、かもかくも治むる事と思はるゝが中に、その道の上首(かみ)たる神霊の幽に鎭まる所に帰して、その治めを受けるも多かりと知らる。そはまた漢籍(からぶみ)どもに、宋の王曾字(あざな)は孝先といふ者の父が、年の高きに孔子の神霊夢に託して、「会参を生まれしめて、門戸を顯(あら)はさむ」と云へるが、幾(いくばく)ならず果たして男子を生めりしかば、王会と名づけたるが、後に宋の宰相となれる。宋の高宗が夢に関羽が霊あらはれて、張飛を相州岳家の子に生まれしむる由を託せるに、岳飛が父の夢に、張飛託生すと見えて男子を生みたる故に、岳飛と名づけたるなどの類ひは、その上首(かみ)たる神霊の所に帰してありしが、再生しつるなること疑(うつ)なし。

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世人の死にて往くなる幽冥の事の本は、神世に天照大御神、産霊大神(むすびのおおかみ)の詔命(みこと)によりて、杵築(きづきの)大社にしづまり坐す大国主神の無窮に治め給ふ御業(みわざ)なることは、神典どもに委しく記し伝へて明らかなるを、なほその古伝に本づき熟々(つらつら)に推し究め考ふるに、そは幽冥の事の大本を統領(おさめ)給ふにこそあれ。末々の事に至りては、神々の持ち分けて掌(し)り給ふべき理(いわれ)あり。さるは凡てこの現世の上に大君(おおきみ)おはし坐して、御政事(みまつりごと)の大本を統治(すべおさ)め給ひ、国々所々をばそを分かち司る人々を任(よさ)して治めしめ給ふが如く、幽冥の事の大本は大国主神統治め給ひ、その末々はまた国々所々の鎭守の神、氏神、産土の神など世に申す神たちの持ち分けて司(し)りたまひ、人民の世にある間は更にも云はず、生まれ来し前(さき)も身退(みまか)りて後も治め給ふ趣なり。

 そを細密(こまか)に説(い)はむは言長ければこにいはず。中つ世よりこなたの古事の証(あかし)となるべきを一つ二つ記しいでば、古今著聞集神祇部に、「仁安三年四月二十一日、吉田祭にてありけるに、伊予守信隆朝臣、氏人ながら神事(じんじ)もせで仁王講を行ひけるに、御あかしの火障子にもえつきて、その夜やけにけり。大炊御門室町なり。その隣は民部卿光忠卿の家なり。神事にてありければ火移らざりけり。恐るべき事にや」と見え、(吉田社は藤原氏の氏神なり。)また藤原重澄若かりける時に、兵衛尉にならむとて、稻荷の氏子とありながら加茂に仕へ奉りて、土屋(つちのや)を造進したりけり。(稻荷は神名式に山城国紀伊郡に稻荷神社三座並に名神大月次新嘗とある御社を申せり。三座は中座宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、左右は猿田毘古神、大宮能売神(おおみやのめのかみ)なりと書どもに見えたり。加茂は同式に愛宕郡に賀茂別雷神社、名神大月次相嘗新嘗とある社なり) 厳重の成功にて、社家推挙しければ、外(はず)るべきやうもなかりけるに、度々の除目(じもく)に漏れにけり。重澄、社の師なる者に申し付けて除目の祈請させける間に、まどろみたる夢に、稻荷より御使に参りたる者あり。人出あひてこれをきくに、かの御使の申しけるは、「重澄が所望、殊更に任ぜらるべからず。我が膝元にて生まれながら、我を忘れたる者なり」と申しければ、申次の大明神に申し入るゝ由にて、度々御問答ありけり。「さらばこの度はなされずして思ひしらせて、後の度の除目になさるべし」と申しければ、御使帰りぬ。師おどろきて急ぎ重澄がもとへ行きて、この由を語りて奇しむ程に、その夜の除目にははづれにけり。この夢の誠をしらむが爲に、稻荷へ参りて、次の度の除目には、申しも出ださざりけれども相違なくなされにけりとあり。かゝる心ばへのことなほ何くれの書どもに見えたり。

 これらの事どもを思ひわたして、鎭守の神、氏神などの、その所々の人を持ち分けて治め給ふことを弁へ、寛平七年十二月三日の官符に、「諸人の氏神多く畿内にあり。毎年二月、四月、十一月に何ぞ先祖の常祀を廃せむ。もし申し請ふ者あらば、直ちに官宣を下さむ」とありて氏神の祀りを大切(ねんごろ)にすべきよし勅(のたま)へる例にならひて、産土の神の祀りを大切にすべき物なり。また塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)にも、神に仕ふる心向きの事を論(あげつら)ひて、「まづその所の神明に慇懃(ねんごろ)に奉仕して、その余暇には他所の霊驗をも仰ぐべし。その趣きは神宮雜事といふ祕記にも、人間(じんかん)の例を引きて我が主をさし置きて他人に隨ふに譬へたり。何の故にか白地(あからさま)にも我が神をさし置きて、他所の利益を仰ぎ奉らむ。もし他所を伺ふとも、主君を背きて他所に参るは不当なりと覚し食(め)すべし。然れば狹小の所におはすとも、その恩德を忽(ないがしろ)にすべからず。社の損なはれたらむには、何(いか)なる弊衣をまとひ着ても餓死せむを期(ご)として奉仕すべきなり。(今案(おも)ふに、世に仏の事としいへば、弊衣をまとひ命をもかけて、物する人多かれど、我が身の本たる神の事に然する人のなきこそいともいとも悲しけれ) もし当所の神、不信の者の失(あやまち)を咎(とが)めて祟りおはし坐(いま)さば、いかに憑(たの)み奉るとも、他所の神さらに助け給ふべからず。もし余社の祟りは、我が惠みにては宥(なだ)め給はむ。この心をもて仕ふべきなり」と云へるは、よく神の情狀(おもぶき)を窺ひ得たる説にて、法師にとりては殊に感(めず)べき論(あげつら)ひなり。

 なほこの因(ちなみ)に法師の中にもたまたまに情ありし倫(たぐい)をいはば、新拾遺集の神祇に法印源染、「後の世もこの世も神にまかするや、おろかなる身の頼りなるらむ」(同集に藤原雅朝朝臣、「さりともとねても覺めても頼むかな、おろかなる身を神にまかせて」、続後拾遺集爲世卿の歌に、「後の世も此の世も神のしるべにて、おろかなる身のまよはずもがな」とあるも同じ心ばへの歌どもなり) また無住法師が沙石集に、「三井寺の公顯僧正と申しゝは顯密の学匠にて道心ある人と聞こえければ、高野の明遍僧都その行業をゆかしく思ひ、善阿彌陀仏といふ遁世者をかたらひて、彼の人の行儀を見せられける。善阿かの坊へゆきて、高野ひがさに脛高(はぎだか)なる黑衣きて別やうなりけれど、しかじかと申し入れたりければ、高野ひじりと聞きてよび入れて通夜(よもすがら)物語せられけり。さてその朝淨衣をき幣をもちて、一間(ひとま)なる所の帳かけたる所に向かひて所作せられけるを、善阿思はずの作法かなと見けり。三日が程かはる事なし。さて事の體能々(よくよく)見て、『朝の御所作こそ異(こと)やうに見奉れ。いかなる御行ひにか』と申しければ、『進みても申したく侍るに、問ひたまへるこそ本意なれ。都の中の大小の神祇は申すに及ばず、辺地辺国までも聞き及ぶにしたがひて、日本国中の大小の諸神の御名をかき奉りて、この一間なる所に請じ置き奉りて、心經神咒など誦(ず)して、出離生死の要道を祈り申すの外別(べち)の行業なし。我が国は神国として、我等みなかの孫裔なり。気を同じくする因縁淺からず。この外の本尊をたづねば、還りて感應へだたりぬべし。仍(より)てかくの如くの行儀ことやうなれども、年久しくしつけ侍る』と語らる。善阿『誠にたとき御意樂(ごいごう)なり』と隨喜して、帰りて僧都に申しければ、『智者なればおろかの行業あらじと思ひつるに合せて、いみじく思ひはかられたり』とて、隨喜の涙を流されけるとぞ。靑は藍(あい)より出でて藍よりも靑きが如く、仏より出でて仏よりも尊きは神明の利益の色なり。彼の僧正の意樂(いごう)かゝるおもむきにこそ、心あらむ人かの迹をまなび給ふべし」とあるは、共に情(こころ)ある法師たちなりけり。

 然はあれど、かく神の仏にまされる御德(みめぐみ)はかつがつ弁へつゝも、なほ仏者にて終りけるこそ哀れなれ。さるはそのかみいまだ眞(まこと)の道の学びも委しからず。世にあまねき仏敎も捨てがてなるが上に、その仏経とてもてはやせるも多くは後世の杜撰(ずさん)なりとしも思ひたらず、その垣内(かきつ)に迷惑して、神を仏の垂跡(すいじゃく)と思へる故の失(あやま)りにぞありける。さて壒囊抄(あいのうしょう)に「白地(かりそめ)にも我が神をさし置きて他所の利益を仰ぎ奉らむ、もし当所の神不信の者を咎(とが)めまさば、他處の神をいかに憑(たの)み奉るとも更に助け給ふべからず」と云へるは然(さ)る言(こと)ながら、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)、中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)の仏を退けむとせる時の語に、「我が国家は恒に天地社稷百八十神(あまつやしろ くにつやしろ ももやそのかみ)の祭を以て事と爲す。改めて蕃神(からかみ)を拜まば、恐らくは国の神の怒りを致さむ」と云はれたる大きなる理りをば得思ひたらで、なほ仏にも諂(へつら)ひて、僧にて世を尽せるはいと哀れなり。(また物部の守屋大連(もりやのおおむらじ)、中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)の語(こと)には、「何ぞ我が国つ神に背きて他神(あだしかみ)を敬はむ。由来、かくの若きことを識らず」ともあり。蕃神といひ他神といへるは仏のことなり)

 
また無住法師が、「心あらむ人は、公顯僧正の迹を学び給へ」と云へるはさる説(こと)ながら、荀子なる譬(たとえ)を引きて、神を仏より出でたる垂跡(すいじゃく)なりと思へるは、法師の常の心ながら、実には国土、人民、草木はさらなり、釈迦も達磨も猫も杓子も悉皆(しっかい)神の垂跡(すいじゃく)にて、神は万づの本地(ほんじ)としも知らざるはいとも憐れむべき事なりかし。抑々仏を本地、神を垂跡といへる説は、林羅山先生の語に、「かの異端、我を離れて立ち難きを以ての故に、左道の説を設けて曰く、『日の神は大日也。或いはその本地は仏にして垂跡は神也』と。時の王公大人信伏して悟らず。遂に神社と仏寺混雜して疑はざらしむるに至る。書を読み理を知るの人は少しく覚しつべし。庸人の爲に之れを言ふに非ず」と云はれたるが如し。然るを法師ばらは更なり、世の痴人(しれびと)らも、仏は本地、神は垂跡と常言にいへど、もしこの言のごとくば、神は仏の心の任(まま)になるべきに制すること能はず。仏祖その身をはじめ、神の隨意(こころのまま)に人身を造らしめて、魔てふ名を専らと負はするばかりの惡物をつけて淫情あらしめ、その物ゆゑに修道をさまたげ惡道におとすや。仏祖もかの一物ありしことは、妻(め)を三人(みたり)もちて子をも三人生ませたるにて論(あげつら)ひなし。彼の一物のあるが故に淫欲の心のあるなるを、そを神の産霊(むすび)のまにまに造らしめて、僧道に不淫の戒めを立てたるは、深井(ふかい)を掘りて水の出づるを憎むにひとしき痴態(しれわざ)ならずや。この一つをもても、神は天地万物の本地なることを弁ふべし。こはいともをさなき論なれども、世の痴人(しれびと)らに示(み)せむと、古今妖魔(魅)考に委(くわ)しく記せるを因(ちなみ)にいさゝかその端を記しつ。

 さて勝五郎がことの如きも、法師たち、また法師ならぬも、仏意にしみたる人々は草々その方ざまに思ひよせて、仏経説の証(あかし)となさま欲しがり、旧くも今もかゝる事としいへば仏の霊異のごとく心得て、その事を記すにもしひてその趣(さま)にかき取らむとするは常なれども、凡て天堂地獄、再生転生、因果報応などの趣は、その伝への精粗こそはあれ、何(いず)れの国にも本より有来(ありこ)し事にて、仏祖のはじめて言ひ敎へたる節には非ず。また元より仏に係れる事にも非ざるを、ただ元よりある事実にくさぐさ附会の説を増して、仏経どもの次々に多く出で来たれるなるを、さる本の由(いわれ)をばよくも尋ねず、多かる経説のかたへを見て迷惑したる世の仏学者たちの失(あやまち)にぞありける。そはいまだ仏説のわたり来ざりし以前の、和漢の書の古事を委しくよみ味ひて思ひ弁ふべき事ぞかし


 文政六 癸未 年五月八日       伊吹廼屋(いぶきのや)のあるじ記
 上の件の如く論(あげつら)ひとぢめてはあれど、なほ足(あか)ずまに産土(うぶすな)の神の事につきて、また近ごろ見聞きたる事の思ひ合さるゝ事どもを二つ三つ記しつぎてむ。倉橋與四郎ぬしの来まして語られけるは、「文化十二年の事なるが、小石川戸崎町なる石屋長左衛門といふ石工(いしつくり)の弟子丑之助といふ者、おもき瘡毒をわづらひて医師らも癒(なお)るまじき由をいひしかば、この男元よりいみじき大酒飲にてありけるが、讃岐国象頭山の神に立願して酒を禁(た)ちけるに、然(さ)ばかり重き病のやうやうに癒えけり。然るに元より酒は何よりの好み物なる故に、得禁じがてに、折々は酒しほと号(な)づけて菜物(あいもの)にひたし、飲むことなどもありしとぞ。(因(ちなみ)に記す。

 讃岐国象頭山と云ふは、彼の山の別當金光院正伝の秘事とて記せる物を見るに、元は琴平といひて、大国主神(おおくにぬしのかみ)の奇魂(くしみたま)大物主神を祭れりしを、天竺の金毘羅神といふに形勢感應似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由見えたり。こは比叡山に大宮とて、三輪の大物主神を祭りて在りけるに、かの金毘羅神を混合せるに傚(なら)ひてにや。然ればこそ金光院の秘書にも、出雲大社、大和三輪、日吉大宮の祭神と同じといへり。なほこの後に白峰より、崇徳天皇の御霊を遷して配祭せるよし、正に聞きたる説どもあれど、書に見えたる事なければ、今は漏らしつ。されどこは世人の口実にもあまねく云ふは、やがて神の御心なるべく覚ゆれば、その正説の世に知らるゝ時もこそあらめ。然れば金毘羅とまをす名こそ仏なれ、神実(かむざね)はいともやごとなき神に御坐(おわ)しませば、おろそかに思ひ奉るべき事にはあらずかし。

 さて俗の神道者、修驗者など云ふ輩の、金山彦命(かなやまびこのみこと)といふは金字より思ひ付きたる杜撰にて、さらに謂(いわ)れなき妄事なり) かくてその年の九月十日は、例のごとく處の鎭守氷川大明神の祭日なりしが、その前日に處の若者ども、かの丑之助に云へるは、『和主(わぬし)は狂踊(たわれおどり)を上手なれば、例のごとく明日はかの踊をせよ』と云ふに、丑之助云ひけらく、『我は瘡毒にて癒ゆまじかりしを、金毘羅の神に立願して、酒を禁(た)たりしかば、癒えたることはわぬしらも知るごとくなり。醉ひのしれ心ならで彼のをどりせらるべきか』と云ふに、皆々云へるは、『明日は鎭守の神の祭りなれば常とは異なり。酒ものみ踊もせよ』と強(あなが)ちにいへば、丑之助男も「げにも」と云ひて、当日(そのひ)は朝より友どちと酒飲み遊び、醉ひ狂(たぶ)れてありけるに、巳の時ばかりより、忽ちに大熱さして、『あらあつや堪へがたや。金毘羅さま、免(ゆる)しおはしませ』と云ふに、皆々驚きて『如何に』と問へば、庭の空を指さして、『人々には見えざるか。金毘羅さまのあれにおはし坐すものを』といふ。皆々見れど、目にかゝる物もなければ、『如何なる御有狀(みありさま)にておはし坐すぞ』と問ふに、丑之助火のごとき息をつきて、『御神は御黑髮長く垂れて、冠裝束を召されて雲の上に立ちたまひ、いとあまた御供つき從ひ、爪折(つまおり)の緋がさを差しかけ奉り、御前に鬼神のごとき力士ありて、その仰せを承り、汝が病きはめて癒ゆまじかりつるを、強(あなが)ちに祈り申せる故に癒し給ふ所なり。然るに折々ひそかに少(いささ)かづつ酒を飲みたるだにあるに、今日は朝より思ふまゝに酒飲みて醉ひ狂(たぶ)るゝこと、憎く思(おぼ)し食(め)すによりて手足の指をみな折らしめ給ふ由なり』と言ひもはてぬに早うつ伏(ぶし)にふして、『免(ゆる)し給へ』と大汗を流して泣き叫ぶ有りさま、物の爲におし伏せられて其の足の指を折らるゝ狀(さま)にて、恐ろしなど云はむもおろかなり。然れども若き者ども心を勵まし、諸(もろ)ともに引起さむと立ちよるに、物に投げらるゝ如く覺え、うち倒されて近づくこと能はず。その有りさまいと物すごく恐ろしければ、日比(ひごろ)は鬼をも挫(とりひし)ぎてむと競(きお)ひたるをのこども、皆な逃げのきて慄(おのの)き居たるに、片足(かたし)の指はみな折りたると思ふほどに、丑之助また『鎭守氷川明神入らせ給へり』と云ひて声をあげ、『この御罰(みとがめ)を救はせ給へ』と叫びけるが、稍(やや)ありてまた、『多久蔵司稻荷(たくぞうすいなり)來たりたまへり』と云ひて、人々に『近よること勿れ』と制しつゝ、起き直り畏まりてしばし在りけるが、腹這ひながら庭に出てひれ伏し、神々を送り奉る狀(さま)しけるが、物狂はしき狀は止みたり。

 かくて人々うち寄りてその由をとへば、『金毘羅の神の怒り給へる御氣色(みけしき)申すも中々恐れある御事なるが、雲の上に坐しまして我が方を流し目に一目見返り給ふごとに、我をおし伏せたるかの力士、わが足の指を一つづつ折りたり。左の足の指はみな折りたると思ふほどに、鎭守の神、これも供人あまた供(ぐ)して、束帶にて入らせ給ひ、金毘羅の神に向かひて宣(のたま)へるは、〈此奴(こやつ)その御前(みまえ)に祈(の)み白(もう)して酒を断ちたる故に、病を癒し給へることを忘れ、今日いたく酒飲みたるを祟(とが)め給ふは然(さ)ることながら、元より我が氏子として殊にわが祭日(まつり)なる故に我をなぐさむる態(わざ)仕(つかまつ)らむとて、人々にそゝのかされて酒はたうべたるなり。然(さ)れば免(ゆる)し給ふかたも有らむを、たとへ祟(とが)め給はむにも、一應(ひとわたり)我にその事を宣ひてこそ兎(と)もかくも罰(きた)め給ふべきわざなめれ。然(さ)る事もなく、我が氏子を思(おぼ)し召すまゝに、御罰(みとがめ)あらせらるゝ事こそ心得られぬ〉と宣ふにぞ、金毘羅の神げにもと思し召せる御有狀(みありさま)ながら、何のいらへもなく、互(かたみ)ににらみ相ひておはしける處に、傳通院の多久藏司(たくぞうす)稻荷の神來たり給へり。こは僧體のごとく見え給ふ、淺黄の深頭巾をかぶりたるが、(案(おも)ふに此の稻荷神のことは、その縁起を見るに、當社は駒込吉祥寺、和田倉御門の内に有りし時より、その地に鎭座ありしが、伝通院の中興廓山上人の時に、學寮に極山和尚といふ所化あり。元和四年四月ある夜に、山主上人を始め、極山和尚、同学の僧の夢中に、一僧見えて「入学せんことを思へば、明朝登山すべし」と告あり。翌朝極山和尚の寮へ、一僧來たりて謁見あり。この事を山主へ申せば、夢に合せて不思議なる事に思ひ、入寺を許して、多久藏司とぞ名づけられける。

 然るに多久藏司の智德他に勝れ、諸人尊敬しけるに、その後三箇年の学席を經て、或る夜の夢に、「我は誠は吉祥寺なる稻荷神なり。小社を作り給ひてよ。永く當山の守護神となるべし」と誨(さと)し、白狐の形を顯はして去ると見しかば、境内に鎭座するよし見えて、狐神を祭りたるなるが、人の稻荷と名づけて祭る故に、みづからも稻荷と名告(なの)るなりけり。實は稻荷神あに狐ならむや。こは別に委しく考へ記せる物あり。さて此の狐神の僧體となりしと云ふこと、いかにぞや思ふ人も有るべけれど、伊勢国にて、或る男に老狐のつきて種々の事ども語りけるに、稻荷と号(な)づけし狐神ども、俗家に祭れるは俗形なるが、寺に祭れるはみな法體にて、各々その主人の格位によりて、狐神の格位もそなはる事ぞと云へるよし、小竹眞棹にかねて聞きたるに符(あ)へり。)御二方(おんふたかた)の間に平伏して、いたく恐愼(おじつつし)める狀にて申すやうは、〈己れは伝通院の多久藏司にはべり。金毘羅宮の御怒り、氷川明神の仰せともに理りありて承り候。かく承り候も、元こやつが怠りより事起り侍れば、とにもかくにも罰(きた)め給ふべきを、此奴(こやつ)をりをり我が許へも詣で來て、身の上の事を祈りつるを聞きたもち侍れば、此所へ參り侍り。いかで御双方(おんふたかた)の御怒りは我等に給ひて、こやつが罪を免し給へ。さらば我等相計らひ、金毘羅宮の御許へは、こやつを賽(かえりもう)しに參詣(まいで)しめ奉らむ〉と申されしかば、二柱の神はそれに御心を和(なご)し給へるさまにて、互ひに式代して、いついつしく立ち別れ給ひつ』と、大息つき振ひわなゝきてぞ語りける。かくて左の足の指三本は、骨うち折れて痿(すた)れけり。人々始めよりの有り状(さま)をよく見たりければ、恐怖(おじおそ)るゝこと限りなく、打ちよりて路用をとゝのへ壽(あた)へて、丑之助を象頭山の御社に參詣せしめけるに、折りたる指も本のごとく癒(なお)りしとぞ。然れば産土の神の守護あるには、他の神のたゝりも遁(のが)るゝ事あるにや」と語らるゝに就きて、おのれも云ひけらく、「松村完平が物語に、大坂に聲いと善(うるわ)しくて、今樣の長謠といふ物を謠ひて業(わざ)とする男ありき。或日ものへ行く途(みち)にて、山伏體(やまぶしざま)なる男あへり。行違(ゆきちが)ひながら、『そなたの聲のめでたきをしばし我に借してよ』と云ふを、道行きぶりのざれ言と思ひて、笑ひつゝ『唯(う)』といひて行過ぎけるが、三日ばかり有りていたはる事もなきに、ひしと聲かれて出ず。されど彼の異人に聲を借したる事につゆ心つかず、住吉神社は産土の神なれば、祈らむと思ひて出で行きける途にて、また彼の山伏體なる人來たりあへり。『先つころ我が請へるごとく聲を借しながら、そを忘れて、産土の神に申し祈らむとするこそ心得られね。汝かしこに祈らば、決はめて我を罪し給はむ。然(さ)もあらば、我また汝にからき目見せむ物ぞ。然(さ)らむよりは、しばしの間なればまげて借してよ』と云ふに、始めて先に聲を借らむと云ひし時に、唯(いら)へしつる事を思ひ出して、卒(にわか)に恐ろしくなりて、『決はめて産土の神に祈るまじ』と堅く約(ちぎ)りて途(みち)より立歸りけり。さて三十日ばかり有りて、物へゆく途にてまた彼の異人行逢ひけるに、『其の方の聲は今返すべし。受取りてよ』と云ふに、はや聲本のごとくになりぬ。斯くて異人『この報(むくい)を爲すべし』とて、咒禁(まじない)のわざを授けたるが、萬づの病に驗(しるし)ありて、後には謠うたひの業を止めて、此の咒禁のみして世をやすく送りし」と云ひ、(案(おも)ふに聲を借したりと云ふこと、疑ひ思ふ人も有るべけれど、上總国東金といふ所の孫兵衛と云ひし者、異人に口と耳とを借られて、三年がほど耳しひ啞になりて在りし例もあれば、准(なぞら)へて弁ふべし。この孫兵衛がことは別に記せる物あり。)また今井秀文が、或る侯(あるきみ)の語り給へるを聞きて語れるは、「その侯(きみ)の治(し)りたまふ所の或童子の、異人に誘はれて行方しれざりしかば、兩親いたく泣歎きて産土の神に祈りけるに、四五日ありて、歸り來たりて語りけるは、『伴はれたる處は何處(いずこ)とも知らぬ山なるが、異人おほく居て、劍術などならひて在りしが、折々酒を飲みかはす事もありて、其の盃を、とほく谷を隔てたる山の頂などに投げて、そを取り來たれといふ故に、我いかで取り得むと辭(いな)むに、怒りて谷底におし落したると思ふに、何の事もなく忽ちに其の山に至り、盃をとりて異人たちの前に至る。凡(すべ)てかゝる狀に役(つか)はれたるが、昨日の言に『汝が親どもの、ねむごろに願へばとて、産土の神の〈とく汝を返すべし〉と申さるれば、留めがたし』とて送り返されたり」と語れるとぞ。

 また備後國なる、稻生(いのう)平太郎といふ者の許へ來たれる山本(さんもと)五郎左衛門と名告れる妖物(まがもの)と、平太郎が應對せる時に、産土の神身を顯(あら)はして平太郎にそひ守られける故に、平太郎その妖氣に瘁(おえ)ざりし事あり。これらを思ふに、妖物の人につきて禍害をなすが如き小事は産土の神たちの主(むね)と掌(し)り守護(まも)り逐退(おいそ)げたまふ御事なり。さればとて其の神を信(たの)み申さざらむ者は、おのづから御守護(みまもり)も厚からざる趣(さま)あり。この心ばへを覚るべき事なり。

 己れこの説を述べて、寅吉に問ひ試みけるに、(こは幼きときより、神仙の使はしめとなりて、奥山に年ごろ在りたりしものにて、神の情狀を窺ひたる者なればなり。こがことは仙境異聞とて、別に委しく記せる物あり) 答へけらく、「誠に言ふごとく、山にてもその事をきゝて侍り。妖魔にまれ何にまれ、産土の神のあつく守護(まもり)たまふ人には、禍事(まがこと)をなすこと能はず。適々(たまたま)に神の守護なき間(ひま)を伺ひて勾引(さそい)たるも、親などの丹誠をこらして神に祈るときは、返さでは叶はぬものとぞ。されど殊によりては、その界(さかい)の事を世に漏らすまじき爲に、痴人(あほう)のごとくなして返すことも多かり。神の御力にもさる事までは、制し給ひがたき事もあるにや。又いかに丹誠をこらして祈れども、帰らぬ人もあるは、神どち相議(あいはか)りて、召し寄せて使はしめ給ふことも有りげなれば、祈りて驗(しるし)なき事もあるべし」と語れり。

 この言につきて、また思ひ合さるゝ事なむありける。そは我が許(もと)に來通ひて物問ふ、野山又兵衛種麻呂といふをのこあり。家は江戸南鐺町といふ所なり。これが子に多四郎といふあり。十五歳にて文化十三年のころ、芝口日蔭町といふ所なる萬屋安兵衛といふ者は多四郎が母の甥にてありければ、それが所に滞留しけるほど、失(あやま)ちて釘をふみ貫き、病臥して在りけるに、五月十五日の事なり。既に灯火をともせるところ、痛む足にしひて木履をはきて、裡(うら)なる便所に立ちながら尿(ゆまり)して居けるが、アツと叫ぶ声しける故に、家内より出でて見るに、多四郎は見えず、衣服(きもの)の片袖ちぎれ落ちてあるに、そのはきたる木履屋上におちたり。人々おどろきて声々に名を呼ばれど音もなし。さればこれぞ天狗の伴ひたるなめりと、人を走らせて父又兵衛が許へ告げおこせたり。又兵衛いそぎ行きてありける趣(さま)を尋ぬるに、安兵衛が同じ長屋の者ども、頼もしく打ちよりて例(ならわし)のごとく太鼓鉦など打ちて、呼びに出でむと噪(さわ)ぐほどなり。ここに又兵衛云ひけらくは、「こはまさに謂(いわ)ゆる天狗のわざと覚ゆれば、常のごとく呼びたりとも、出づべくも非ず。いたづらに、人々を労し参らせむこと心苦しければ、まづ止(とど)まり給へ」と云ふに、噪(さわ)ぎ立てたる傚(なら)ひにしあれば止(とど)まらず出で行きける。又兵衛は家に歸りて、家内の者どもの泣き倒れて在りけるに、その由を委しく語り、「我今祈り返してむ。勿(な)泣きそ」となぐさめて、髮かき乱し井の辺に行きて水をあみ、二階なる神の御欅(みたな)の前に畏まりて、既におのが敎へ置きつる意(こころ)ばへもて、祝詞申せりとぞ。

 その申せる趣はまづ龍田神(たつたのかみ)に、「今天神(あまつかみ)地神(くにつかみ)に祈り申す事を、御耳いや高に、疾(と)く聞こえ上げたまへ」と云ふことを、返々(かえすがえす)祈り申して、さて、「天津神千五百萬(あまつかみちいおよろず)、国津神千五百萬(くにつかみちいおよろず)の大神たち、辞別(ことわけ)ては、幽事(かくりこと)しろし看(め)す大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、産土大神(うぶすなのおおかみ)の和魂(にぎみたま)は靜まり荒魂(あらみたま)は悉くにより給ひて聞こし食(め)せ。我卑しくも、深く神世の道をたふとみ、神の恩頼(みたまのふゆ)をかたじけなみ、心を正しくする事は更にも云はず、一日も神拜おこたる事なく、祈り信奉(たのみたてまつ)りてあるに、今わが子にかゝる災害ありては憑(たのみ)なきことに侍り。かつは痴者(しれもの)どもが、後指さゝむも恥かし。されば奴吾(やつかれ)が恥は神の道の恥ならずや。明日とは云はじ。今速く我が子を返さしめたべ」と大声に諄(くり)かへし諄かへし汗水になりて、をどり上りをどり上り三時がほど祈り申したるとぞ。

 余りに祈りこうじて曉がたになりて、物のほしくなりければ、階子(はしご)を下りてみづから飯櫃(いいびつ)とり出でて、飯二椀くひける所に、周章(あわただ)しく門をたゝく音す。「誰ぞ」と問へば、「安兵衛が許より來たれり。多四郎今歸りつ。されど氣絶(いきた)えて見ゆれば、早く來たり給へ」と云ひすてゝ立ち歸りぬ。又兵衛いたく歡び、神々に謝(いや)び申して、近きわたりなる医師(くすし)を伴ひ、いすゝき走りて、安兵衛がり行きて見るに、多四郎は死にたるが如くなるを、人々とりまとひ名を呼びてあり。まづ「いかにや」と問ふに、「長屋の者どもの尋ねに出でけるのち、家内(やうち)の者は、ただあきれ果てゝ顔見合せ居たるに、七つの鐘うつころ、長屋のうちぐわらぐわらと震動して、空よりこの家なる門口(かどぐち)に、したゝかなる物をうち付けたる如き音すると等しく、ウンと云ふ声す。おどろき急ぎ戸を開けたれば多四郎なり。やがて庭にころび入りて、かく現心(うつしごころ)なし」と云ふにぞ、面(おもて)に水そゝぎ、医師に気付けの薬など含めしめて、やゝ身動きするを待ちて、「多四郎いかに。心を慥かにもちてよ。父なるは」と三声ばかり呼びけるに、くわと眼をあきて父を見つけて、「あら辱(かたじけな)しや。今歸り來たれることは、偏(ひとえ)に父の御惠(みめぐみ)なり」と云ふ。「その由は」と問へば、「恐ろしさに今は語りがたし」と戰(おのの)き云ふにぞ、「さもあるべし」とて、労(いた)はり寢しめけるに、二日二夜ばかりは疲れ寢(い)ねけるが、折々目をあきて、「アラ恐ろしかりし」とぞ云ひける。かくて正氣になりて後に、能々(よくよく)問へば、「かの夜痛き足を爪立ちて何心なく尿(ゆまり)して居けるに、何處よりとも知らず、大男の髮を垂れたるがつと來たりて、『いざ』と云ひさま、嚴(きび)しく腕をとれる故に、ふり放ちたれば、『小ざかし』とて兩手にて首筋をとらへて、屋上より空に上りぬ。『今は叶はじ』と息をつめて有りけるに、ただしばしの間に何處(いずこ)かしらぬ淸げなる山に至れば、寺のごとき所あり。その時はすでにこゝは日暮れたりけるに、彼處(かしこ)に至ればなほ明き頃なりき。眼をあきて熟(よく)見めぐらせば、物すさまじきこと云はむかたなければ、よくも見留(みと)めざれど、山伏のごとき人また法師、或は俗形の人なども並居たる中に、上座なるは別(こと)に眼(まなこ)ざし恐ろしき老法師なりき。かの伴ひたる男末座に我を具して、しひて頭を低(さ)げさせたり。此の時我のみならず、十二三歳なる童子を二人伴ひ來たれる男どもありき。此處はかならず天狗の住所(すみか)なるべく思ひて、泣き悲しみつゝ、『返し給はれ』と、声をたゝず額突(ぬかつ)きけるに、かの伴へる男、わが頭をおさへて『ダマレダマレ』と頻りにいふを、耳にも聞き入れず繰返し云ひしかど、ふと頭を上げて、上座の老法師を見れば、甚(いた)く恐れたる狀(さま)に頭をかたむけ、心耳をすまして、何やらむ聞きをる體(さま)なりしが、我を伴ひたる男に、『童子らを用ふる事ありて、彼をも伴はしめたれど、彼が父の神たちへ嚴(きび)しく祈り申す聲、遠音(とおと)に聞こゆれば、やがて神のおほせ有るべし』と云ふにぞ、始めて我も耳をすまして聞けば、父の神を祈り給ふ声、風にひびきてよく聞こえたり。伴ひたる男の、我にダマレと頻りに云ひしは、老僧の耳ひき立てゝきゝをるに、我がものを云ふ声の妨げとなればなりけり。さて老僧のかく言ふを頼みに、『なほ歸し給はれ』と返す返す云ふに、並居たる中に、年のころ五十歳余りに見ゆる人と、二十四五歳に見ゆる人と並びたりしが、五十歳余りなる人手をつきて、『これは我等がゆかりの者に侍れば、いかで返し遣りたまへ』と願ひけるに、老僧我に、『さらば歸るべし』と云ふ。我『何として、獨りは得歸らむ』と云へば、彼の伴ひたる男に、『送りてとらせよ』と云ふに、彼の男すなはち我を引きたてゝ、大空に上りたるまでは覚えたれど、その後はしらず」とぞ語りける。

 多四郎が母また安兵衛も、この事をきゝて、その五十歳余りと見えし男のありける形容(さま)を委しく尋ねて、大きに驚きて母がいへるは、「今より二十年さき、寛政九年の事なりき。我が姉婿なる萬屋萬右衛門といふ者、その頃はいさらご臺町といふ所に住みき。すなはち今の安兵衛が父なり。九月二十四日の夕つかた、安兵衛が弟に藤蔵とて、七歳になりける子を連れて、芝の愛宕山へ詣でたるが、往方(ゆくえ)しらずなりぬ。錢二百文より外につゆの物も持たず出でたるに、幼き子をさへに連れたれば、旅に出づべくも非ざるに、遂に歸らずなりぬ。その後巫(みこ)に口をよせて問ひけるに、『今は二人とも、人の得見ざる所に使はれて歸ること叶はず。折々そなたの人々を見れども、詞をかはさぬ定めなれば、さて在るなり』と云へり。齡のほどその形容(ありさま)をもて考ふるに、五十歳余りと見つるは、決はめて吾が兄なるべし。また二十四五歳と見えしは、藤蔵が成人になれるなるべし。然らば多四郎がをぢといとこなる故に、ゆかりの者とは云へるならむ」と云へば、人々も殊にいたく驚きて、「誠にそれなるべし」と思ひ合せけり。

 さてその後は多四郎、龍田神(たつたのかみ)をことに信じ奉りて、一日も拜(おがみ)を闕(か)くことなしとぞ。こは又兵衛、安兵衛をはじめ、その時の事を目のあたり見たる者どもの、委しく語るを、なほ反(かえ)さへ問証(といあか)したる趣なり。さて案ふに、安兵衛が家を灯火(ともしび)つくる頃に誘はれ出でて、行きつきたる所のなほ明かりしと云へば、百里余りは西にあたる国なりけむ。然るを江戸にて祈れる父が声の聞こえたりと云ふを、神の道をしらざる人は、いと有るまじき事と怪しみ思ふめれど、熟(よ)く神の道の理りを弁(わきま)へたらむ人は、奇しとは思はざらまし。正しき神の守護(まもり)まして、御稜威(みいつ)をふるひ幸(さき)はへ給ふには、妖鬼(まがもの)の類ひの恐怖(おじおそ)るゝこと、この多四郎が一事をもても証し曉りつべきを、漢国意(からくにごころ)に化(うつ)りて心遲き輩(ともがら)の、奇しき事とてはなき事なるを云々など、例の靑々しき見識(こころ)もて論(あげつら)はむかし。

 
凡(すべ)て世にくさぐさ聞こゆる奇しき事どもに、信ずまじきあり、信ずべきあり。信ずまじきを信ずるは尋常の人なり。信ずべきを信ぜざるは漢國意に化(うつ)れる人にて、共に思慮(おもいはかり)の至らざるなりけり。然ればこれらの事どもその人に非ざるには、謾(みだ)りに語るべからぬ事(わざ)なれど、然(さ)のみは黙止(もだ)しがたくてなむ。

 文政六 癸未 年六月七日         伊吹舎主(いぶきのやのあるじ)又記
 平田篤胤大人『勝五郎再生記聞』に曰く、「凡て世に、くさゞゝ聞こゆる奇しき事どもに、信ずまじきあり、信ずべきあり。信ずまじきを信ずるは、尋常の人なり、信ずべきを信ぜざるは、漢国意に化(うつ)れる人にて、共に思慮の至らざるなりけり。然ればこれらの事ども、その人に非ざるには、謾りに語るべからぬ事なれど、然のみは默止しがたくてなむ」。

 8. 『勝五郎再生記聞』 の現代語訳のホームページがあります。→  『勝五郎再生記聞』 (前世を記憶する子供の記録)  (「勝五郎再生記聞を読む」をクリックすると、現代語訳の本文に移動します。)
 9. 『勝五郎再生記聞』に出て来る、勝五郎の生まれた「中野村」は、現在の八王子市東中野、「程窪」は、現在の日野市程久保だそうです。 『ひの史跡・歴史データベース』というサイトに、『広報ひの』に掲載された「ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」(1)~(4)が入っています。
        →  「ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」(1) 
(『広報ひの』平成20年09月号掲載)
        →  「ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」(2) 
(『広報ひの』平成20年10月号掲載)
        →  「ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」(3) 
(『広報ひの』平成20年12月号掲載)
        →  「ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」(4) 
(『広報ひの』平成21年01月号掲載)
 10. 日野市のホームページに、平成20年(2008)9月27日(土)から12月14日(日)まで開かれた郷土資料館展「ほどくぼ小僧・勝五郎/生まれ変わり物語」の記録が掲載されています。






(私論.私見)