大扶桑国考

 (最新見直し2013.12.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤著書の「大扶桑国考」を確認しておく。

 2013.12.14日 れんだいこ拝


大扶桑国考
 「備中處士の平田篤胤大人遺文」の「大扶桑国考」を転載する。
 「諸越(支那)の古書どもを閲するに、その国の古伝説に、東方大荒外に、扶桑国と称する神眞の霊域、君師の本国ありて、その国初に出興せし三皇・五帝など云ふは、いわゆる扶桑国より出て、万づの道を開きたる趣に聞ゆるに、採り集めて熟(つばら)に稽ふるに、その扶桑国としも謂へるは、畏きや吾が天皇命の、神ながら知し食す皇大御国の事にして、その三皇・五帝と聞えしは、我が皇神等になも御坐しける」。

 三五本国考前文「三皇は、天皇氏・地皇氏・人皇氏、これ古説なるが、五帝とは、伏羲(氏・大昊)・神農(氏・炎帝)・黄帝(軒轅氏)・少昊(金天氏)・□□[瑞の右+頁・王+頁](高陽氏)を謂ふ」。『三五本国考』二条に、「伏羲氏東王父は、疑なく神典なる大国主神に坐し、女□[女+咼]氏西王母は、疑なく其の后神・須勢理毘賣命にぞ坐しける[前には大国主神の和魂・大物主神とその后神・三穗津姫命を當たりしかど、後に尚また深く考へて、かくは定めつ](生田国秀云、『実は神典にいわゆる天之冬衣神の后神・刺国若比賣命なるべし』と)」。『春秋命歴序』に、「神人あり、石年と名く(国秀翁云、『多伎都比古命の御魂の石神なりしとあるに符合して、いと尊し』と)。蒼色大眉、玉理を戴く。六龍に駕して、地輔より出たり。皇神農と号す」。

 三五本国考三条「少典は、疑なく味鋤高彦根神[亦の名を言代主神と白す]。炎帝・黄帝は、その子・多伎都比古命・鹽冶毘古命ならむと思ふ由あり」。『三五本国考』四条に、「黄帝、なほ皇国に居られし間に生める子なるが、この子を生み遺きて、彼の国に渡り、王位に登りて後に、彼處にて正妃に立てたる□[女+累]祖の腹に、玄囂・昌意の生れしかば、少昊は、却りて小子の如く傳へけむ。‥‥[黄帝は、神典の鹽冶毘古命に當れば、少昊氏は、その子・大穗毘古命(燒大刀火守大穗日子命)ならむも、知るべからず]。‥‥少昊氏、その(黄帝の)世の末に養ひ取りて、榑桑暘谷の神邦に遣はして、大人君子の風情を習はしめ給ひし故に、少昊の孺、帝□□[瑞の右+頁・王+頁]とは謂へるなり」。





(私論.私見)