古道大意3 |
(最新見直し2013.12.14日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、平田篤胤の著書の「古道大意1」を確認しておく。出所は「務本塾・人生講座」の「現代語訳・古道大意(7)」、「現代語訳・古道大意(8)」、「現代語訳・古道大意(9)」、「」である。ここに謝意を申し上げておく。 2013.12.14日 れんだいこ拝 |
【古道大意1】 |
「現代語訳・古道大意(7)」を転載する。 |
下巻 3-1 「神代の伝説の正しさ」
さて先日の講説に申したとおり、世の始めに大虚空(おおぞら)の中に漂った「一つの物」より、葦の芽のように萌え上がって「天(あめ)」になりました。その天の根となっている「一つの物」の底にも、また「一つの物」が垂れ下がり、それからクニノトコタチノカミとトヨクムヌノカミとがお生まれになったのです。その垂れ下がった物を根の国とも根堅洲国(ねのかたすくに)とも申しましたが、これが後に切り離れて、今眼の前に見える「月」となったのです。
さてその「天」は、その萌え上がりの初めより、澄み明らかな物であったところに、今また天照大御神がお治めになられて、その御光が照り徹(とお)ってますます明らかなのです。
さて、この天照大御神が高天原(たかまがはら)をお治めになられたお伝えを、世の神道学者などが、「天と言うのは都のことで、すなわち天照大御神を天子の位につけたことを、天へ送り上げたと言うのだ」などと、小賢しいことを言いますけれども、みんな心にまかせたざれ言です。天ッ神のお伝え、古の天皇命(すめらみこと)の篤(あつ)いおぼしめしで、正しくまことをお伝えされた神の事実を紛らわせた、その罪は軽くないのです。
さてツキヨミノミコトを、夜の食国(おすくに)を治めよと仰せられ、「月」を治める神となされました。ここにおいてイザナギノミコトは、初めにタカミムスビノカミより勅命をお受けなされ、ご功績をたてられたために、すなわち再び天にお上りなされて、その功績をミオヤノカミへ申し上げられ、この後永く天上にある、日の少宮(ひのわかみや)にとどまっておられました。
さてこのイザナギノカミの御目より、月日の神のお生まれになられたということと、よく似た説が、中国(漢)の古い伝説にもあるのです。それは天地の始めの時に盤古(ばんこ)氏という者が出て、その盤古(ばんこ)氏の左目が日となり、右の目が月となったなどという説があるのは、これは我が国の古伝説の受け売りながらも、中国(漢)にも伝わり残ったものと見えるのです。 ただし、ここに一人私の説を非難する者がいて申すには、「先刻から承るところが、神代の事を講説されますのに、随分外国の似通った伝説を引き合いに出して申されますが、まずそのように外の国々にも、我が国の古伝説と同じような説があっては、我が神代の伝説が正しいとも言い切れますまい。なぜなら、もしその外国の人々が、一つ所に集合して、各々その国の古伝説を語り出したときに、どの国も我が国の伝えが正しい。我が国が本だ、我が国は日の神の御本国だなどと言い争ったなら、誰がそれを判断して決めることができるでしょうか。なんと天地の始めの時より、生きている人はありはしまい、それに外国の説は誤りで、我が神代の説ばかりが正しいと言うのでは、我が家の本尊が尊いと言うようで、えこ贔屓が過ぎるようですが、どうでしょう。又そのように紛らわしい説が、ここにもかしこにもあっては、いずれが正しいとも過ちとも、定めがたいことですから、神代の事をもひっくるめて、まずは信じない方がましではありませんか」と非難したのです。
何とこのよう非難されたのでは、周りから見ては、ちょっと困るだろうと思われましょうが、一向に困るわけではないのです。ここがかえって学問の徳が見えるところで、則ちこれに答えて言えば、まず右のように紛らわしいところも、学問の眼をもってすれば、その真偽たちまちに見分けられることです。
これを身近なもので例えれば、定家卿(ていけきょう)が小倉山の山荘で書かれたのは、本より一首が一枚づつでなければならないはずのものですが、ところが管家の歌にしても、蝉丸(せみまる)の歌にしても、その一枚づつあるべきものを、十人が持っていて、各々これが本物だ言い争っています。ここでは大変に紛らわしいようですけれども、古筆鑑定と言うようなよく目が利いた人は、それをことごとく見分けて、十枚の内から一枚の本物の色紙を見い出すのです。ちょうどこんなもので、それを見分けることができず、おしなべて偽物であろうと捨てるのは、それは利口のように聞こえますけれども、見分ける眼が備わっていませんので、未だ熟練者ながらも、行き着くところまでには至っていないというものです。そうであれば神代の伝えが、外国にも似たような説があるのでは紛らわしい、と信じないのもこれと同じことです。
その選び分け見分けることを、今一つ身近なことで例えれば、米の商売をする者などが、米を見分けますのに、五カ国十カ国の米を混ぜ合わせたものを、ひとにぎり見せますと、これは美濃の上米、これは仙台、これは九州米と言うように、一粒々々より分けるのです。素人が見てはどうも嘘らしく思うのですが、そのより分けたところを見ますと、なるほど米粒の形がそれぞれ違って、間違うことはなく、ここで素人どもは全く閉口するのです。
学問もそのように、よく公に学んだ、その精密な、古と今に通じるべき眼をぐっと見開き、事実と古に照らして考える時は、この位のことは何の苦もなく分かることです。だから我が神代の古伝説は、例え外国に似た伝説がいくらあったとしても、自ずからの事実に照らしてみれば、不動のことです。
しからば、なぜその誤りがちな外国の説を引用するのかと言えば、これが足代(あししろ)というものです。足代(あししろ)とは、小賢(こざ)しい人で古伝説を疑う者を諭すには、誤りであっても、外国にも似た事があることを引いて聞かせれば、考え合わせて、さては諸々の国々が言い合わせたように、このような伝えがあっては、いずれこのことはあったことに相違がないと言う心がまず出来上がるのです。その心が出来上がった上では、それと之とを考え合わせて、諸々の国に言い伝えのある説の中で、ことさら我が国の古伝説が真実だ、なみなみならないことですと、疑いが速やかに晴れる人も、時々あるものです。
外国の似た説を引くのは、真実を知らしめるためであり、真実を得た上では、もはや外国の引用は無用となっていらないものです。 これは仏書の譬えですが、月のありかを教えようとするには、指を差し上げて、アレアレあそこだよと言って教えはしますが、その人が月を見つけた時には、その差し教えた指は、もういらないために引いてしまう。ちょうどそんなもので、外国の似ている説を引用するのは、我が国の古伝説を見つけさせようと、指さしてお教えする指だと思われるがよろしいのです。
「オオクニヌシ・(オオクニヌシ」
さてイザナギ・イザナミの二柱の神様が、始め天ッ神の勅命をお受けなされて、オノゴロ島へ下りて、大八島国(おおやしまのくに)を次々に御生みあそばしたことを、このようにかいつまんで百分の一を申したのでは、事実は分からず、わずかばかりの年数のようにも聞こえますけれども、神の御寿命は、はなはだ久遠(くおん)と言って長いことで、実は計り知れないことです。それ程年数が積もったことではあるけれども、なおこの時までも未だちゃんと我が国が出来終わってはいないのです。しかしながら種々の神々を、御生み置きなされたのですから、だんだんとその子孫が増えました。
その中でもスサノオノカミのお孫が大変に勢いがあって、特にオオナムジノカミと申すのははなはだ勝(すぐ)れた神様で、ご兄弟が八十柱おられました。始めはこのご兄弟の神々のために、あれこれとお難儀なされましたけれども、夜見の国(よものくに)におられるスサノオノカミのお計らいによって、ついにその多くの神々をお従いなされて、すなわちこの我が国をお治められました。又の名をオオクニヌシノカミ(大国主)申し上げるのも、この我が国をお治めなされたからです。御子たちも多くおられて、その中でも第一がコトシロヌシノカミと申し上げ、神祇官(じんぎかん)の八神の一方(ひとかた)です。又アジスキタカヒコネノカミ、これはタカカモノカミでございます。又タケミナカタノミコトと申すのは信濃の諏訪におる神様で、いずれの神様もお威勢が強かったのです。
さてこのオオクニヌシノミコトはお名前を数多くお持ちなされたために、オオナモチノカミとも申しますので、オオナモチが転じてオオナムジと言うようになったものです。さてオオナムジノカミがあ「八尋の矛(やひろのほこ)」と申す厳めしい「矛」をおつきなされて、スクナヒコノカミとお力を合わせて、この我が国を経営なされ、イザナギ・イザナミノカミの、なし残された事どもを大いに片づけられたのです。なおまたクスリやマジナイの道をも、この二柱の神のお始めなされたことです。これについては「医道の講説」の時に申し上げるつもりです。 さてここに天照御大神は、イザナギノカミの命のままに、「天」の君としておられて、タカミムスビノカミ・カミムスビノカミとともに、「天」のことは申すまでもないことで、天の下の事にも、全ての隅々まで、お恵みをかけられました。そして仰せられるには、葦原の中ッ国は、我が御子が治めるべき国であると仰せられ、その御子神のオシホミミノミコトへ詔(みことのり)があって、この国を治めよと仰せられたのです。 このアメノオシホミミノミコトと申しますのは、以前スサノオノミコトと天照御大神とが、玉と剣とを以てお誓いなされました。(世の神道学者などが 、「剣玉の誓い」と言って、例の秘事口伝(ひじくでん)と言って騒ぐのはこのことです。)その誓いの上に御生まれになった神様で、則ちタカミムスビノカミの御娘、トヨアキツシヒメノミコトの御子、タマヨリヒメノミコトを配偶者となされ、その御生みなされた御子の御名をニニギノミコトと申し上げるのです。このような訳ですから、このニニギノミコトは天照大御神には御正統なお孫で、タカミムスビノカミには御ヒコ孫に当たります。そのためにこのニニギノミコトを皇孫命(すめまみのみこと)と申し上げます。又天孫(てんそん)と書くのも同じことです。
さて以上の通り、我が国は、彼の御威勢の強いオオナムジノカミのお治めになっているところへ、これより上がない天照大御神、タカミムスビノカミの御意とは申しながらも、別格に君を天下しあそばしたことについては、ひととおりの訳では参らないのです。天において、あの大祓の詞(おおはらいのことば)、俗に言う中臣の祓(なかとみのはらい)にもあるとおり、八百万の神達を、神集(かむつど)いに御つどいあそばして、いろいろと御評議があったのです。
ところがココトムスビノカミという神の御子にオモイカネノカミと言う神がおられて、この神は大変に思慮深い神で、簡単に申せばお知恵の優れた神であるために、アメノホヒノミコトを使わしてお尋ねになったのです。このホヒノミコトも、実は天照御大神の御子で、堪忍強く御辛抱なされ、事を為し遂げる御性格の神様であったために、彼の御勢いの強いオオナムチノカミの御心が和むよう、御納得されるよう、かれこれと手をつくされました。それが三年程もかかったと申すのです。 ここで、またまた御評議があって、アメワカヒコを御下しなされ、武威をもってオオナムジノカミが御承知なされるようにと使わせましたが、アメワカヒコは却ってオオナムジノカミの御娘の下照姫を娶って、自分がこの国を治めようと構えて、これも八年程も御返事をされなかったのです。それだけではなく、天ッ神より御催促の御使いに遣わされたキジシナナキノメと申す者を射殺しなどしたのです。
ここで彼の名高いタケミカヅチノオノカミ、フツヌシノカミと申す、武勇絶倫と類なく勇ましい神の二柱を天下しなされて、彼のホヒノミコトのオオナムジノカミを御和みなさるのと、タケミカヅツノオノカミとフツヌシノカミの武勇とで、とうとうオオナムジノカミは御承知なされ、ついにこの国をニニギノミコトへ禅譲なされることになりました。
「出雲の国の大社」 そこで仰せられるには、「出雲の国に天皇の宮殿同様に宮殿を造って、私を御祭り下さるならば、そこに鎮まりおって、幽事(かくしごと)と申して、世の有りとあらゆる事の、隠れて現在の目に見えない事どもを主宰いたしましょう。又ニニギノミコトは長くこの御国を御治めなられて、天の下の顕事(あらわごと)と申して、世の中の目に見える事どもを、御治めあそばせ」と仰せられたのです。そしてあの天下を経営なされる時におつきあそばした「八尋の矛」を御譲りなされて、「この矛は我が、天の下を治めたる功のある矛ゆえに、皇孫命(すめらのみこと)がこれを以て国を御治めあそばしたならば、必ずや安らかに治まろう」と仰せられたのです。
そこでタカミムスビノカミ 、天照大御神もごもっともとおぼしめされて、その仰せの通りに出雲の国の多芸志(たぎし)の小浜(おはま)という所に、非常に大きな宮殿をお造りなされて、そこにオオクニヌシノカミは長く御鎮座なされたのです。この宮殿を杵築(きつきのみや)の宮と申して、則ち今の出雲の大社(いずものおおやしろ)のことです。又あのアメノホノミコトは、オオクニヌシノカミを御和みなされた、いわばお気に入りですから、お使い神となされたのです。則ち今の「国造」と言うのは、正確には「国のミヤッコ」と申すべきであって、このアメノホノミコトの子孫に、連綿と相続されましたので、なかなか以て一通りの家柄ではないのです。
以上のわけですから、今の現実にも、世の中の幽事(かくしごと)と申して、隠れて目に見えずに行われることは、全てが出雲大社の御計らいであることは、議論のないところです。
『 玉鉾(たまほこ)百首』に「顕(あらわ)にの事は大君、幽事(かみこと)はオオクニヌシノカミの御(み)ココロ」と詠まれたのはこの意味で、俗の諺に「十月は神々が、出雲の大社へお集まりなさる」とか、或いは「縁ムスビをなされる」などと言うが、これらはたいへんに古くから世間で申していることです。それを古い学者達が、あれこれと理屈を言って無いことにしたがりますけれども、篤胤がひそかに思うには、あの「天もの言わず、人をして言わしめる」と言うように、神の御心として、世にこのように言いふらしたことで、誠にこの通りに違いないと思わされる事が、今の世にも大分あるのです。
なにはともあれこの神は、世の人が特別によくお奉りしなければならない神様です。なおこの神様の御徳を、人たる者は、おろそかに思うべきではない理由は、『古史傳(こしでん)』や『玉襷(たまたすき)』と申す別途の本に詳しく書き置いてあります。
下巻 3-2に続く
|
「現代語訳・古道大意(8)」を転載する。 |
下巻3-2 皇孫ニニギノミコト」
さてまずこのように、オオナムジノカミは御鎮まりなされましたので、天照大御神、タカミムスビの神の御心として、いよいよ皇孫ニニギノミコトを、この国に御下しなされるに当たって、天照大御神はお手にいわゆる「三種の神器」、すなわち草薙の御剣(くさなぎのおつるぎ)、八尺瓊の曲玉(やさかにのまがたま)、それに伊勢の五十鈴の宮(いすずのみや)に天照大御神の御霊代(みたましろ)と斎(いつき)き奉る御鏡を御捧げあそばして、ニニギノミコトに仰せられました。
「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国(みずほのくに)は、我が子孫が次々と治めるべき地なり。今汝皇孫(すめらみこと)ニニギノミコトよ、行って治めよ。又この御鏡は、我が子孫代々に、我が御霊(みたま)として、我を見るが如く斎き奉りて、御同殿に置きてくれよ。宝祚の栄えまさんこと、天地無窮(むきゅう)なるべし」と言を仰せられました。また随行された神々は中臣藤原(なかとみふじわら)の御先祖の神、則ち河内の国枚岡(ひらおか)に鎮まりましますアマノコヤネノミコト、忌部家(いんべけ)の御先祖アマノフトダマノミコトを始めとして五柱、また別にニニギノミコトの御守護の神となられるために、その御霊(みた)をもお添いなされた神々は、アメノタジカラオノカミこれは信州戸隠、またトヨウケヒメノカミこれは上は天使さまより下々までの、朝夕の食物を、満腹になるまで安らかに食べられるようにお守りなされる神様で、すなわち伊勢の外宮に鎮まる神様です。又諸々の災い事の四方四隅と言ってヨモヨスミより入って来るのを、入れぬぞとお守りなされるご門の神、すなわち門をお守りなされるアマノイワトワケノカミ。また何ごとによらず思慮深くて、考えつくことのすばらしいアマノオモイカネノカミの御霊などです。さてこのようにいずれもいずれも卓越した神々をお供にされ、天の浮橋(あまのうきはし)に乗って、あの大祓の詞、俗に中臣の祓(なかとみのはらい)いという文にも「天の八重雲(あめのやえぐも」を稜威(いず)の道別(ちわき)に道別(ちわき)」とある通り、八重九重に、たなびき重なる天雲(あまぐも)を掻き分けかきわけ、アマノオシヒノミコトの神が、天のイワユギというものを背負いなされて、太刀を差し、また天のハジ弓という弓をお持ちなされ、天のマカゴヤという御矢を脇にはさみ持ち、皇孫命(すめらみこと)の前にお立ちなされて、天降(あまくだ)りなされたのです。
さてその天降りなされた所が、日向(ひゅうが)の国高千穂峰(たかちほのみね)で、この時第一にお出迎えなされたこの国の神がサザビコノオオカミです。このお下りなされた時、空が暗くて物の色も分からなかったといわれます。そこで稲穂を籾となされて、四方へお投げ散らされたところで、空も晴れたと言います。そこでこの山のことを今は霧山とも霧島山とも言って、西の嶺は大隅の国ソオノ郡、東の嶺は日向の国諸縣(もろがた)郡で、この山は不思議な事柄が多く、その中でも、今も神代のいわれによって、天然の稲が生えると言われています。また時として霧の深く立つことがあると言うのです。ところで神代の事跡と言って、いわゆる先達の者が人に教えるには、手に稲穂を持って登り、もしこの霧が起こったときには、それで祓いながら登れば暫くすれば空は晴れて、事故もなく登ることが出来ると言われています。
「天の浮橋」
さてこの天降(あまくだ)りの時に、お乗りなされたという、「天の浮橋(あめのうきはし)」というのは、天と地との間を行き来する物で、空に浮かぶ物であるから浮橋というのです。この世の物では、船と同様の物ですから「天の磐船(いわふね)」とも言います。初めイザナギ・イザナミの神が「天の浮橋」に御立ちなされて、沼矛(ぬほこ)でもって、国をお探りなされたと言われるのも同じ物です。この「浮橋」に乗るには高いところから乗り込むものとみえて、今国内のあちこちにある梯立(はしだち)というのは、そのために神がお造りなされた遺跡と思われます。それはまず播磨の国の風土記に、賀古の郡盆気の里という所にこの梯立(はしだち)のことがあります。又丹後の国の風土記にも、与謝郡速石の里(はやいしのさと)と言うところの海に橋立というものがあります。是は大変に大きなもので、長さが二千二百二十九丈、幅が九丈十丈、最も広い所は二十丈位もあると書いてあります。これは今の人もよく知っていて、見に行く人もたくさんおります。篤胤が知っている人にも見てきた人が数人有って、みんな恐れ入って、とかく強弁したがる人もガックリなのです。
そもそもこの「浮橋」での往来は、イザナギ・イザナミの二柱の神が、大空を乗るために御造りなされたのが始めであって、この後は、他の神々の御往来にも必ず使われました。最もその中でも天照大御神を天に御送り上げなさる時は、「天の御柱」を以て御上げなされたとありますので、これは別物である上に、この頃までは「天地の相去ることが遠からず」ともあって、近くて容易に聞こえます。しかし、今ニニギノミコトの浮橋に乗って天降りなされる様子は、八重棚雲を「稜威(いず)の道別(ちわき)に道別(ちわき)」などがあって、以前よりは、ことのほかに遠いように聞こえるのです。さてこの天降りなされて後、ますます天日は上に相遠ざかるために、この浮橋の往来も止み、その梯立どもも、ついには地に倒れ伏したのが、則ち今、播磨や丹後にあるのだと言うことです。
「日・地・月の成就」
このようにして天日(あまつひ)は上に上って、大虚空(おおぞら)の真ん中にきちんと位を定めて、外へは動くことなく、一つの所に在って、右めぐりにクルクルとめぐっている。これが天日のありさまです。さてまた大地は、その天日を中心として、それより遙かに遠い大空を、右めぐりに漂って行き、大めぐりに一周するのが一年です。ただしこの大めぐりの間に、自己のめぐりがあって、天日に向かう時は昼となり、背向く時は夜となるのです。この一めぐりを一日というのです。このようにめぐること三百六十余転する間に、大空を行き、天日を大めぐりして、また元の所に帰る。これを一年と言います。さてまた夜見の国(よものくに)もこの時きり離れて月として見え、大地の外を周行して、満ち欠けをなして、二十九日半余りかけて元の所に帰ります。これを一月と言います。これがすなわち、天日、大地、月夜見(つきよみ)が今のように成り整ったことの大略です。
このことを身近なことで例えれば、服部中庸(はっとりちゅうよう)が申したとおり、稚児(ちご)の臍の緒と袍衣(えな)とが繋がっているように、また草木の実が熟すれば、果実のヘタから落ちるようなもので、これただにその有様が似ているばかりではなく、その道理までが全く同じ事です。なぜかと申せば、ニニギノミコトの天より御降りなされたのは、稚児が生まれ出たようなものです。またイザナギ・イザナミ二柱の大神のお生まれなされて、日の神をお生まれなされた、この我が国の君のお定まりあそばして、天降りなされて、お治め遊ばすのは、天地国土のことが完全に成就したものであり、これは草木の実がなって熟したのと全く同じ道理です。
「我が国の有り所と外国」
またその始め「一つの物」より、天と萌え上がった頃は、まさしく天と上下相反する所が我が国であるめに、すなわち我が国の有り所は、この大地の頂上であることが分かるのです。また諸々の外国の初めについては古伝説に、「所々の小島は、皆なこれ潮の泡(しおのあ)の凝り固まったものである」とあることから考えるに、イザナギ・イザナミの二柱の神が大八島(おおやしま)の国をお生みなされて、国土と海水とが段々と分かれるに従って、ここかしこと、潮の泡が自ずから凝り固まって、泥土(ひじりこ)がより集まって、大きくも小さくも国となったもので、我が国に比べては、遙かに後れて出来たのであることをも知っていただきたいのです。
これもみな、ミムスビの神の、ムスビのお徳によって出来たことには、変わりはありませんけれども、外国は二柱の神がお生みなされたのではありません。また日の神のご本国でないのですから、我が国とは初めより尊卑美悪の差別も、ここでよく分かるのです。これを思うにも、我が国はこれ天地の根帯(もと)で、諸々の事物がことごとく万国に優れている理由も、また諸々の外国の、何もかもが我が国に劣っていることも、考え知っておくのがよろしいのです。
またこのようなわけですから、諸々の外国にたまたま残っている古伝説も、我が国のように詳しくは伝わらないはずです。これは例えば京に有ったことを、国々の田舎に語り伝えたようなもので、元の京ほどに確かでないことももっともなことです。また我が国の古伝説の片端を訛(なま)って言い伝えて、その国のことのように申しているのは、これも都に有ったことを遠い田舎で聞き伝えて、年数が経るに従って、元を失ってしまって、そこにあったことのように、語り伝えたようなものです。とっくりとこのあたりの訳を考えて、我が国の天子さまは、実に万国を治めるべき、真の天子としておられることは明らかで尊いことと申し奉るも、なかなか世の常のことではないのです。
「日本が優れているわけ」
しかしながら、世の学者達が、ひたすら外国の説にのみ惑い溺れて、我が国のこのように尊いことを知らず、たまたまこのような真実の説を聞いても、信じることもせず、却って論破しようとさえ致すのは、返す返すも心得違いなことです。また世間の外国びいきの学者どものよく言うことには、我が国は小国で、また国の開かれたのも遅かったなどとよく申しますが、まず我が国を小国小国と言って、卑下しようとしますけれども、国土ばかりでなく、すべての物の尊いと卑しい、良いと悪いとは、形の大小によるものではないのです。数丈の大石も小さな玉に及ばず。また牛馬象などの獣は、大きいけれども人には及びません。どんなに広大な国だと申しても、下国は下国、狭く小さいけれども上国は上国です。
最近世界地図というものを見ましたが、ロシア、アメリカなどという大変に大きな国が数々有って、中には草木も生えず、人間も住んでいない所がありますが、それでもこれを上国と言うのか。それまでもなく、近くは我が国の中でさえ、上中下と分けてありますけれども、それは国の大小をもって、お定めなされたのではなく、国の産物一体の風土をもって、上国下国の差別が立ったものです。また我が国が開かれたのが遅かったと言うのは、知恵がつくのが遅かったと言って誹(そし)るのは、実は思慮が至らないからです。その訳は、我が国は万国の祖国、本国であるからにして、自ずから地氣が厚く、申せば大智、大器量の人の知恵の開きが遅いようなものです。これは例えば総見院の右大臣織田信長公などは二十歳を過ぎるまでは一向におだやかで拙(つたな)くて、人はみな馬鹿殿と申したということです。また大石内蔵助良雄なども、世の中に美名を伝えた程の人ですが、この方も二十歳ばかりまでも、人は馬鹿だと申したとのことです。このような類は昔の器量人にはしたたかに有るのです。
また鳥獣などは生まれてすぐに、米や虫を拾って食ったり、また生まれてようよう二月三月も経つやいな、雌雄交合を為したりなどするのも、みな卑しいものだからです。それから見れば人ははなはだしく何もかもだらしのないことです。しかしこれが直(じき)に、人が鳥獣よりは尊いところで、外国が速く悪賢くなったのも、我が国が長らく神代の有様で悪賢くなかったのも、これに習って考えるがよいのです。中国(唐)の『老子』という書にも「大器は晩成」と言っております。この意味は先に申した大量大智の人や、または鳥獣に比べては知恵がつくのが遅いようなことを申したもので、これは中国(唐)の人ながらよく言い当てたものです。
これは思いついたから申しますが、我が国は前に諄々と申しますとおり、天地の根帯(もと)である。近くの草木の実で例えれば臍の所で、ちょうど瓜や桃の実などがだんだんに大きくなるのは、ヘタの所から頭の方へ育ちますが、その育ち上がった上で熟するには、成り収まった末の方から熟してきて、臍の所は一番後に熟するものです。これはヘタの所は、成り初める本の所ですから、氣が厚いためです。草木の実が生って熟するのも、人が生まれる訳なども同じことで、天地の出来初めの様子と、さらに変わりはないのです。ただしこのように詳しく申しても、合点がいかない人は、やはり合点がいかず、ポカンとしているものです。 しかし段々と講説を進めて聞かれた上で、かれこれ思い合わせて悟ることが出来たなら、その時は篤胤がクドクド言うぐらいではなく、筆で書こうとすれども、中国(唐)の人が申したように、「書は言葉を尽くさず」とか言うように書ききれないのです。しからば口で言おうとしても、かの「言葉は意を尽くさず」とか言うように、口に余って語りきれないのです。そこで「手踊り、足の踏むことを知らず」とも言うように、小躍りする程、ここちよいことのあるもので、篤胤の講説ぐらいは、居眠りしながらでも言えることです。 ただし何によらず、外国でつくられた事物が、我が国に渡ってくるとそれをチラッと見て、その上を遙かに立ち超えて、その事物が出来ることも、我が国の人の優れたところです。それはこの篤胤がやっても外国人よりはきっと良く出来ます。これが我が国の風土の自然で、自然と申すのは神の御国だからです。これらについても、細やかに考えた事もありますが、それは「医道の講説」の時お話しするつもりです。
下巻 3-3に続く
|
「現代語訳・古道大意(9)」を転載する。 |
下巻 3-3「カムヤマトイワレビコ(神武天皇)」
さて皇孫ニニギノミコトは、まず筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の峰に、天降(あまくだ)りあそばして、大宮所と成るべき所をお尋ねなされて、吾田(あた)の笠狭(かささ)の御碕(みさき)の長屋の竹島(たかじま)を都となされて、天の下(あめのした)を治められたのです。ここにおいて国ッ神たちは、何れもニニギノミコトを天ッ神の御子として畏んで仕え奉られました。このときより代々の天皇を、天ッ神の御子と申すことになったのです。このような訳ですから、天子とお呼びするのは字音であって、元より漢語ですが、この天ッ神の御子と申し上げる尊称によくかなっている言葉で、まことに天子と称するは我が天皇に限ることです。それにつけても中国(唐)の王を天子と言うことが当たらないわけは「漢学の大意」のときに論弁するつもりです。
さてニニギノミコトは、笠狭(かささ)の御碕(みさき)になる竹島(たかじま)に御座なされて、天の下を治められ、オオヤマツミノ神の御娘、コノハナサクヤヒメノミコトをお迎えなされて、お生みあそばしたのがアマツヒダカヒコホホデミノミコトと申し上げます。このヒコホホデミノミコトが、わけあって海ツミの宮(わたつみのみや)と申して、則ち海宮にお出でなされて、そのワタツミノカミの御娘、トヨタマヒメノミコトと申す神をお娶りあそばし、お生みなされたのがウガヤフキアエズノミコトと申し上げます。さてそのフキアエズノミコトと同じくワタツミノ神の弟娘、タマヨリヒメノミコトという神をお娶りあそばして、お生みなされたのが、カムヤマトイワレビコノミコトと申し上げます。このお方の御代(みよ)に、日向の国笠狭(かささ)の御碕(みさき)より、大和の国へ都をお遷しになられて、かのナガスネヒコなどをご誅罰あそばしました。これが一般にもよく知られている神武天皇様でございます。ただし神武天皇と申し上げるのは、誠の御名ではないのです。実の御名は前に言った、カムヤマトイワレビコノミコトで、それをはるか千年ばかりも後の世に、中国(唐)風のおくり名を奉って、神武天皇と申し上げるのです。 「天神・地神」
さてここで申さなければならないことがあります。それは俗の学者の説、及び一般の人もみんな申すことに、天神七代、地神五代、人王何十代などと申しますが、これはその初め、如何なる人が言いだしたことでしょうか、大変な誤りで、全く当たってないことです。それはまず、『古事記』にも『日本書紀』にも、クニノトコダチノカミ以下、イザナギ・イザナミノカミまでを、神代七代と申す理由は見えますが、クニノトコダチノカミ以下、イザナギ・イザナミノカミまでこれを天神と申すことは見えない。七代の神たちは、みなこの国土に付いてお生まれなさったことだから、天ッ神(あまつかみ)と申すべき謂われはないのです。
天地最初の、早くより天に御座なされた、アメノミナカヌシノカミ、次にタカミムスビノカミ、カミムスビノカミ、次にウマシアシカガビコノカミ、アメノトコタチノカミこの五柱の神々を、古事記では分けて、天ッ神と記されたため、それより以下、クニノトコタチノカミよりイザナギ・イザナミノカミまでは、天神と申さないことは明らかです。しかしながら正しくこれを、国ッ神(くにつかみ)と称したことも物の書には見えません。国ッ神と申すのは、ニニギノミコトより後の御代に至って、この国なる神を、天ッ神に対する時に申す尊称です。 また天照大御神よりフキアエズノミコトまでを、地神五代と申すのも、大変な間違いです。その訳は天照大御神は、この国土にはお生まれあそばしましたけれども、御父神イザナギの大神の御心として、天を治められ、今も目の当たりに拝み奉る、その天日を治められる神におわせば、天ッ神なることに論はなく、その子オシホミミノミコトも、そのお孫ニニギノミコトも、天にお生まれあそばしたことですから、これは本より天ッ神である。それだからニニギノミコトがこの国に天降りあそばしてこの世を治められ、その御子ホホデミノミコトより、ご子孫の次々を天ッ神の御子と申すのです。ただしホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトはこの国にお生まれなされたために、天ッ神とは申しません。しかしながらまたこれを、地ッ神(くにつかみ)申したことも、更に物の書には見えません。それはなぜなれば、この国土にお生まれあそばしましたけれども、天ッ神の御正統におられるがために、皇孫命(すめらのみこと)とも、また漢文で書くときは天孫(てんそん)とも申すのです。このような訳ですから、どうして天照大御神や、オシホミミノミコト、またニニギノミコトを地ッ神(くにつかみ)と申すべき謂われがありましょうか。
およそ天神七代、地神五代と申すことは、古書には全く見えないのです。忌部正通(いんべまさみち)の神代の巻の口約というものに始めて見えたことです。これは事の意味も、古のことも考えず、強いて天と地とに当てはめようとして、みだりに言い出した後世の俗説です。そうですのに、世の学者どもはそのような心得もありませんのに、賢こそうに天七地五などと言います。また神武天皇以下を、人王とか申して、すなわち天地人の三元に似せる等と言います。また天を治める天神と申すなどと言い。あるいはこの七代五代を天の七星、地の五行に似せると言い。又は易の八卦に当てはめて説くなどすれども、すべて近世の中国(唐)思想の輩の私説で、みな受け入れられないことです。また佛説好きな者は、この七代を過去の七佛に形どるなどと申しますが、このような類は耳に触れるのも、聞くのもけがらわしく、片腹痛く、誠にはなはだ恐れ多い御事であります。 「神代・人の代」 さてまた神代と申すのは、人の代と分けて申す尊称です。それははなはだに上ッ代(かみつよ)の人は、すべてみな神であったために、その代を指して神代と言ったものです。さていつ頃までの人は神で、いつごろからこなたの人は神でないかは、はっきりした差別はないことから、万葉の歌などにも、ただ古を広く神代と申したもので、それは『万葉集』の六の巻に「大和の国は皇祖(すめらぎ)の 神の御代より敷きませる 国にしあれば」と詠んだのは神武天皇の御代を申します。又十八の巻に「スメロギの神の大御代」と詠んだのは垂仁天皇の御代を申します。又一の巻には、その御代をも誉めて、神の御代と詠んであります。なおこの外にも広く古を神代と申した例はたくさんにあります。しかしながら事を分けて言うときは、ウガヤフキアエズノミコトまでを神代とし、神武天皇より以下を人の世とすることで、日本書記にもこの意をもって、ウガヤフキアエズノミコトまで二巻を、神代上下と標(しる)されたもので、さようカムヤマトイワレヒコノミコト則ち神武天皇の御代に、始めて日向の国笠狭(かささ)の御碕(みさき)より大和の国へ都を移され、世の中の有様も全く新たになったために、これより後を人の世と言うべきものです。
しかしながら今でもってこれを思えば、神武天皇の御代より、その後なおしばらくの御代々 、まだまだその人の世は、神なる事どもがあって、やっぱり神代というべき有様で、それから段々と年が経って、御代の代わるに従って、今の姿になったのです。
さてこのように凡人と成り果てた、今の人の心をもって思えば、いかにも神代の人の神なる所業が霊妙で、疑わしく思われますが、更に疑うべきことではないのです。それを世の学者どもが、今の凡人の心をもって古を考え、かれこれと異国の説を取り合わせて、古の神の奇々妙々と霊妙なる事跡を説き曲げ、それを強いて不思議でもない様子にたわごとを吐き散らし、説を本にして世に広めたのです。そのため世間の人もそれを見たり聞いたりして、心にしみ込み、神代の事はみな寓言と申して、作り事だと思うようになってしまったのです。
神道者や世の常の学者どもの言う通りなら、神代の神々は、やはり今の凡人と同じであって、その神が不思議であったということが、みな寓言の作り事だとして見れば、神は今の人間と変わりもなければ、特別に神というべきものでもなく、又ありがたいこともないのです。そうすればその代を指して、神代という理由もなく、また我が国を特別に神国というべき筋もなく、また我が国の人に限って神の末裔ですと、自分たちだけよく言うものでもないのです。すべて世間の生半可な輩は、とかく神代の神々の、霊妙なる御所業を信じません。中国(唐)風の小さな知恵を振り回して、賢こげにかれこれと申しますけれども、これは「夏虫の見方」と申して、夏になって生じた虫が、氷を疑うようなもので、身の程を知らない愚かなことです。
今それらをお諭しします。天地をお始めなされた、霊妙といって、霊(あやし)しく不思議な神々の御子孫が、世を経て年を重ねるにつれ段々と、かの霊妙なることから遠ざかって、このように霊(あやし)いことも何もない、今の凡人となって数十代を重ねました。身近な例えで申しますと、まずその家を興し始めた先祖が、ちょうどあの、釈迦ガ岳とか、谷風とかいった相撲取りのように、大男で背の高さが七尺も八尺もあって、肩の広さが三尺余りもあって、その手を広げると半紙の紙の外に出る。またその履物がナント二尺もある。その力量といえば、風呂桶に水を一杯に張り、その中に母親を入れて、軽々と持ち運ぶ。又四斗俵で拍子木打に打って見せます。食べ物は三、四升の飯、もっともおかずもたくさん添えてあるのを、まだ食い足りないように食べてしまう。それに応じて着物も大変に大きく、家も大変に大きく広く、屋根の棟の高さが五、六間もあり、何もかもこれに準じて大造りでした。その時それが生んだ子はよほど劣って、背の高さが一尺も低のです。それに準じて何もかも、親よりは劣っています。又それが生んだ子は又一刻み劣っています。その次も又余程劣り、年を経て代々を重ねるうちに、段々と劣ってきて、ついつい彼の小人島と言うように、骨だけになって、これから後は全くその姿に落ち着いて、それが大分増えたのです。これが神代から段々、今の世のように成り代わったことの例えです。
「一寸法師の譬え」 さてこの一寸法師の世になって後に、かの先祖の事などを詳しく書いた一巻が伝わっています。これが神代の事績を御伝え、御記(しるし)なされた、古事記、日本書紀などの譬えです。
それを一寸法師の世になって、読んでみたところが、あの先祖の大男の、背の高さが七尺余りもあって、四斗俵を拍子木に打ったことなどが記されてあります。ここで一寸法師どもが大きにたまげて、「いやこれはけしからないことだ。こちらの親も祖父も、やっぱり我らと同様であったものを、それにこのような事が書いてあるということは、いかに先祖だとしても、そんなに大きなはずはなく、こんなに力があるはずもない。これは信じられないことだ。これは先祖と言うものだから、尊く思わせようとするために、寓言のつくりごとをして、中世に書いておいたものだろう」と言っているのです。これが世の人の神代の事績を、今の凡人の上に比べ見て、信じないで疑うことの譬えです。
ところが同じ一寸法師たちの中に、一人が頭を振って、「いやそうではない。疑うべきことではない。その訳は今も現在に、その先祖の手の跡を写された紙が伝わっている。又その着ておられる着物も伝わっている。つらつらそれを見れば、着古した垢が付いた様子という。また手の跡を写されたという紙には、手の筋が写り、指の巻きめの跡があり、とてもとても後世に偽って作った物とは見えず、疑わしいものではなく、誠に先祖の着物、手のひらの跡を写されたものに違いない。それのみならず、この家を始め興す程の先祖だもの、又我らが住んでいる家も、よくよく見てくれ、実に大きな物ではありませんか。決してこちらの扇だけしかない者どもの、手ぎわにできることではありませんから、先祖は実にこの書いてあるとおりである。それから劣ってきて、ついついこちらが、お互いのように落ち着いたものと見えますから、よく考えて、かれこれ先祖のことを怪しむべきことではない」と、詳細に言い聞かすのです。
その一人の一寸法師と言うのは、古の道を諭そうとする縣居の大人(あがたいのうし)、本居(もとおり)先生などの譬えでは、その手のひら跡を写した紙や、着物が残ったことなどは、神代の遺物、天の橋立や草薙の剣の類、その他も今の世に遺って、そのままある物の譬えです。家が大きいことを教えるには、この天地が大きく不思議で、それを御造りあそばすほどの神であるからと言って、私が教え諭すようなものです。
さてこのように、一人の一寸法師が諭しても、他の一寸法師どもは、今の自分たちが、何もかも先祖とは、大きく違っていることにばかり、目がつき心が引かれて、先祖が大男で、右のように力もあったことを、一向に寓言として、更にさらに肯定せず猶かれこれと言ったならば、なんとこれはどちらがもっともなことでしょうか。
神代の神の御上のことを疑うも、こんなもので、天地の御始めなされた程の、皇大御祖神(すめらおおみおやがみ) たちの、奇霊(くしび)なお仕業を、おそれ多くも、ゆめゆめ疑いなさるべきことではないのです。猶これらのことは、師の翁がいろいろ諭し置かれております。
「神の末裔」
さて、カムヤマトイワレビコノミコト、則ち神武天皇は、大和の国の橿原の宮(かしはらのみや)と申す所におられて、天の下を御治めあそばして、この天皇様より今の天皇様まで、御血脈が連綿と御続きあそばし、百二十代もの間に変わりがなく御栄えあそばしたのは、実にこの地球のありとあらゆる国々に比類なくありがたい御国です。これが実に道の大本であり、中国(唐)の国などとはとんと訳の違っていることで、なんと天地の初発の時に、その天地を御造りなされた神々の、世に殊(こと)なるおぼしめしで、厚く御心を入れられて、神の御生みなされたものです。又その末裔として、世に殊(こと)なる御威勢があられました、オオナムチノカミ、スクナヒコノカミが御経営されまして、四海万国生きとし生けるもの、鳥獣草木に至るまで、そのお陰をこうむらないということはなく、天ッ日則ち日輪の萌え上がった本の御国で、その天ッ日をお治めなされて、天地のあらんかぎりに、世を御恵みあそばす日の神、天照大御神の御生国で、タカミムスビノ神の祖孫、天照大御神の御孫にあられて、ことさらにこの二柱の神の、御愛しみ御恵みあそばされた、ニニギノミコトへ天にまします神々のうち、特に卓越したものばかりを、右の二柱の大御神のお眼鏡をもって御選びなされ随行とされました。
又天照大御神の殊(こと)に大切と御斎(いつき)あそばされる、三種の神器を、天使の御爾(おしるし)として御授けになりました。又御口自ら、「豊葦原の瑞穂の国は、我が御子孫が次々と治めて、天地とともに無限であるべき国ぞ」と御祝言を仰せられた、その御神勅が空しからず、ニニギノミコトより今の天皇様まで、唯一日の如く御代をお治めになられて、随行された神々の御子孫も、今以て同じように連綿と続かれて、その子孫が世に広がりました。又代々の天使様の末裔の御子たちへ、平氏や源氏などの名字を下されて、臣下の列にもなされましたが、その末裔の末裔が増え広がって、ついついお互いの上となったもので、なんとこんなわけですからこそ、我が国は誠の神国でありますまいか。なんとお互いは誠に神の末裔ではありますまいか。
今はこのように落ちぶれて、その先祖の神も確かではないようですが、我が国の人には各々に氏性と言うのがあって、それは元来天子様より賜ったもので、近くは源平藤橘などと言って、源とか平とか橘とか、藤原とか言うものがこれです。それをもって古を詮索しますと、大きく知ることが出来ます。又その姓をも知らないという人は、今名乗っている平田とか、何とか言う類の、名字というもので、大本の先祖を探られるもので、これを系図の学問と申して、また一派が立っているのです。その人は知らずにいても、名字を聞けば、これは何と申す神、何と申し上げたる天子様から出た人だと言うことは、こちらには自分のことではなくても、おおよそは調べなくても知れるのです。
そもそもこのとおり、古伝説の事跡によって、よく明らかにする、又普段の生活が忙しく、自分で明らかにすることができない方々は、先生の話を聞き覚えられて、その上で我が国は神国ですとも、我らは神の末裔だことも、ここにおいて氣強く伝えられるのです。そうでなくては、もし人になぜ貴方は、我が国に限っては神国だの、また神の末裔だのと、大きなことを言うのだと咎められたならば、ギックリするろうと篤胤には案じられます。又そう咎められたところで、この位におおざっぱに心得て答えたならば、彼のお互いに賤しめる中国(唐)の人すら、その先祖の美を選び定めて、明らかに後の世に著したものなのです。その先祖に善があっても知らないと言うのは、不明と言って、道理に暗いというものです。「知りて伝えざるは不仁」と言って、先祖へ不実不幸だと言ったことにも、恥ずかしくないというものです。
|
(私論.私見)