平田篤胤大人 「淡海国の国友村なる国友能當が造れる鉄(まがね)の鏡に添ふるふみ」に曰く、
「神世に鏡を作れる起原(おこり)は、天照大御神の、天石屋に幽居(さしこも)り座せる時に、八百万の神たち謀りて、天の香山の金(かね)を取りて、石凝姥命に造らしめつとは、誰も知れるものから、その神鏡(みかゞみ)つくれる事をし、神代紀の一書には、『石凝姥を以て冶工と爲し、天香山の金を採りて云々』と見え、古語拾遺には、『石凝姥神をして天香山の銅を採りて、以て鑄せしむ云々』と記し、古事記には、『天の安の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人・天津麻羅を求めて、伊斯許理度売命に科(おほ)せて、鏡を作らしむ云々』とあり。金と云い、銅と云ひ、鉄と云ひて、その説の區々なる中に、何れ正説ならむと云ふに、古事記に鉄とあるぞ、正説なる。
そはまづ神代紀に金とあるは、加禰と云うに広く用(つか)へるにて、黄金(きかね)のよしに非ざれば、何の金なりしと云ふこと、この紀にては知るべからず。然るに後世の人は、後世に銅もて鑄造りて、水銀すりつけて光らしたる鏡に、常に目なれてあるからに、古語拾遺に銅とあると、この神鏡の事ならねど、神代紀に白銅鏡(ますみのかゞみ)といふ事もあるによりて、この神鏡をも、銅もて鎔造れる物なりと思ひ定めて、古くも今も別なる論ひはあることなく、吾が師・本居翁はしも、古今にまたなき古へ学びの博士なれど、その著はされたる古事記伝に、『天金山の鉄を取り』とある文を解きて、『これは矛を作る料なる故に、鉄字をかけり。鉄ならば、鏡とは書かじ』と云はれたり。然れども己、早く思ひけらく、神世の初めに、白銅など云ふ合せがねのあるべくもあらず。また直の銅はしも、何(いか)に磨くとも、水銀すり付けずては、底ぬけたる如く光る物にしあらず。然りとてその水銀もて光らす態はも、神世の初めにありけむ事とも覚えねば、剣・刀など、よく研ぎたるは、物の形の眞澄にすみて映るを思ふに、彼の神鏡は、かならず鉄なりけむ。直によくとぎて、鏡のごとく輝(火+玄)く金は、鉄をおきて何かあらむ。これぞ、神世のある趣なる。
しかれば古事記に鉄とあるが正説ならむと、吾ひとり思ひ定めて、なほ次々に考ふるに、天津麻羅とは、天目一箇命の亦の名にて、こは倭鍛冶の遠祖なるが、この神と伊斯許理度売命と二神にて、かの神鏡をば鍛ひ造れる由なり。『天堅石を取り』とあるは、即ちその質石(あていし)の料なり。質石とは、いわゆる金床の古名なり。されば古語拾遺に鑄とあるに、泥むべきに非ず。ことに鑄の字は、『兵を鑄る』などやうに、古くは鍛ふる事にも用ひたり。かくてこの神鏡をもて、天照大御神を天石屋より謀り出だし奉れる時の事を、神代紀に、『その時、鏡を以てその石窟に入る者、戸に触れて小瑕あり。その瑕は、今に於てもなお存す』と見ゆ。然して後に、大御神の御孫・邇々芸命の天降り坐す時しも、大御神、その神鏡を大御手に執り坐して、『この宝鏡を視まさむこと、まさになほ吾を視るが如くすべし。同床同殿(おなじあらか)にますべし』と勅へる御由緒によりて、邇々芸命より千万歳の神世の御代々を、同殿に御坐しけるに、人代となりて、神武天皇より十代に当り給ふ崇神天皇の御世に、御同殿に御坐す事を恐(かしこ)しとて、彼の神世に神鏡を造れる神たちの御末の人々に科せて、代りの御鏡を擬(うつ)し造らしめて、禁中に齋かせ給ひ、かの神鏡をば、天照大御神の御神体(みかたしろ)として、次の御世、垂仁天皇の二十六年と云う年に、今の内宮には齋かせ給へり。
かくて禁中に齋き給へる代りの御鏡と申すは、いわゆる三種の神宝の一たる、内侍所の神鏡なり。然るに是より九百四年のち、村上天皇の天徳四年と云ひける年の九月二十三日の夜に、内裡燒亡ありけるに、内侍所の神鏡も、火に逢ひ給ひき。この燒亡の事を、釈日本紀に引きたる『天徳の御記』に、『瓦上に、鏡一面在す。その徑(わたり)八寸許り、頭に小瑕ありと雖も、専ら圓規並びに蔕(ほぞ)等を損することなく、いと分明なり。見る者、驚感せざるなし云々』と記し給ひ、その御世の正しき書等にも、「件の御鏡、猛火の中に在りと雖も、涌損したまはず」とも、「大灰燼の中に在りと雖も、かって燒損したまはず」とも見えたり。抑々この内侍所の神鏡は、崇神天皇の御世に、かの神鏡を擬造しめ給へる御(もの)なるに、その神異、かくの如し。これをもて、伊勢の大宮に坐す御神体の御鏡の神威(みいづ)を想ひ像(や)り奉るべし。
さて右の天徳御記の御文に、「頭に小瑕ありと雖も」とある小瑕を、火に逢ひ給へる故に付きたる瑕のごと思ふもありなむか。然にはあらず。こはその本つ神鏡を、上に引きたる神代紀に、大御神を引出し奉れる後に、その石窟に入りしかば、石戸に触れて小瑕つきて、その瑕、今になお在ると見えたるその瑕までを、ありのまにゝゝ、崇神天皇の御世に擬し給へるなり。そは、「もはら圓規・蔕さへに損ふことなく、いと分明なり」とあるをもて、その燒損ねたる瑕ならぬ事を弁ふべし。
さて掛けまくは畏けれども、伊勢の大宮に坐す本つ神鏡には、その欠けたる一片をも付けて納め給へりしと聞えて、景行天皇の御世に、日本武尊の、吾嬬の国を平む治めに降り給ふ時に、伊勢の大宮に御暇まをしに詣で給ひしかば、その時の齋宮の姫御子・倭比売命、すなはち日本武尊の御叔母に坐して、火打嚢を賜へる事を、日本紀には、「ここに於て倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて曰く、之を愼め、怠る莫れ也」と見え、後にそを用ふる所には、「燧を以て火を出し、向燒、而して免るを得たり」とのみあれど、古事記には、「倭比売命、草那芸剣を賜ひ、また御嚢を賜ひて、もし急事あらば、この嚢口を解きたまへと詔ひき」とあれば、その剣に火打嚢を着けて賜へるにて、後にそを用ふる所には、「嚢口を解き開きて見たまへば、火打、その裏(なか)にあり」とあり。然るにこの火打は、かの神鏡の欠けたる一片にぞある。
そは何を以て知るなれば、後の物ながら、源平盛衰記三種宝剣の事と云ふ条に、倭姫命、天叢雲剣を取りて、日本武尊に授け奉りて、危からむ時にこの剣を以て防ぐべし。錦袋を披きて異賊を平げよとて、錦袋を付けられたり、とありて、そを用ふる所に、凶徒ら、枯野に火を放ち、四方より燃え来て遁れ難かりければ、佩び給へる叢雲剣を拔きて打ち振り給へば、刃に向ふ草一里までこそ切りたりけれ。ここに野火は止りぬ。その後に剣を付きたる錦袋を披き見るに、燧あり。尊、みづから石の角を取りて、火を打ち出だし、野につけたれば、風、忽ちに起りて、猛火、夷賊に吹覆ひて、凶徒、悉く燒亡びぬ。これより叢雲剣をば、草薙剣と名づけたり。彼の燧と申すは、天照大神、我が御貌を、末の帝迄で見せ奉らむとて、御鏡に移させ給ひけるに、取弛して打落して、三つに破れたるを、燧に爲し給へり。彼の燧を錦袋に入れ、燧に付けられたるなり。今世まで人の腰刀に錦の赤皮を下げて、剣袋といふ事は、この故なり、とあり。御鏡の損はれたる由を云へる説こそ訛なれ。その剣をしも、御鏡の欠なりと云へるは、正しき古伝の遺れるにぞありける。
これをもて掛けまくも畏き神鏡の、鉄にて御坐す事を弁へ、また腰刀につくる火打は、鏡の欠を象どりて作るべき故事をも弁ふべし。然れどこは、己が始めて思ふ事にこそあれ。さる故実を記せる書は見当らず。さて倭姫命の、その欠けたる一片を、剣にそへて賜へる事は、やがて大御神の、神霊をわけて御守となし給へる御心なることは申すもさらなり。かくの如く考へ定めて後に思へば、延暦の内宮儀式帳(皇大神宮儀式帳一卷・内宮条)に、正殿心柱造奉条に、「鉄人形四十口・鉄鏡四十面・鉄鉾四十柄」とありて、余の所々に、「鉄人形四十口・鉄鏡四十面・鉄鉾四十柄」とあるは、一所にしか記して、余をも准へ知らしめたるものなり。同じ延暦の文ながら、外宮儀式帳には、「金人形二十口・金鏡二十面・金鉾二十柄」と、数所に記せり。これはうち任せて加禰といふは、鉄のことなる故に、語のまゝに金人形など書きたるにて、これまた黄金もて造るには非ずかし。そは延喜の大神宮式にも、これを「鉄人形・鏡・鉾、各四枚」と、数所にあるにて知るべし。後の世まで、かく神宝に奉らるゝは、鉄鏡なりしは、神世の旧き例を伝へ来れる御式なるべし。
さてまた上に引く天徳御記の御文に、「その徑、八寸許り、頭に小瑕在りと雖も、専ら圓規並びに帯等を損することなし」とあるについて、わが友・伴信友が、かの神鏡の御形を想像し奉れる説に、今も尋常にあるが如き、圓規(まろく)して柄ある御鏡にて、帯とあるは、即ち柄なるべし。字書に、「帯は瓜の当なり。当は底なり。華の当なり」など見えて、草木の実のほぞと云ふ物なるが、実を摘みとりては、帯ながら、やゝ着きたる枝をもかけて云ふめれば、即ち鏡の柄のこゝろに仮借して、この字を書かせ給へるにて、頭とある所は、かの神鏡の柄の下として、その上の方を詔へる文なるべし。今も鏡作などの詞に、頭とも上とも云ひ傚へり。また鏡の柄を、古くは下とも云へりと思はる。そは礼儀類典(五百十卷。水戸義公編)に引かれたる大成録の楽人裝束のうち、鉾の製(つく)りざまを圖せる下に、「柄の長け七尺三寸許り、黒漆の徑り一寸三分許り、下に石突あり、長さ二寸許り、鏡の柄の如し」と云ふが如し。思ひ合せて、神鏡の御形の、今ある尋常の鏡の如く、圓規して柄ある事を弁ふべし。
かくてこの神鏡を、神典に「八咫鏡」とある八咫は、古事記に、咫を阿多と訓むべき由の註あるに、八咫と云ふは、八に阿の韻(ひゞき)あるが故に、自づからにヤタと云はるゝ言の格なり。さてその八咫とは、上に引く御記に、「徑り八寸許り」とあるによりて考ふるに、阿多と間(あひだ)と同義の言にて、手の啓きたるまゝに、指の開きたる間もて、物のたけを量る古の名目にて、今もいく尋(ひろ)・いく束(つか)など云ひて物する定めの如く、小さき物を量るに、いく咫(あた)と云へりけむ。神代紀に、「猿田彦神の鼻長七咫」とあり。いく咫と数へたる証と爲すべし。咫の字を『説文』に、「八寸を咫と曰ふ」とあれど、この方にては、往昔へ物を度る称の[銕胤の云く、この八咫の説、後には廃られたり。その定説は、皇国制度考に委しく記されたるを見るべし]、阿多と云ふに借り用ひたるに疑なし。然るを御鎭座伝記(一卷。皇大神宮彦和志理命の所著)などに、「八咫は、古語、八頭也。八頭花崎は、八葉の形也。中台円形の座也」と云へるによりて、彼の神鏡の御形を、八花崎の鏡なりと云ふは、非説(ひがごと)なりとて、彼の八葉にして紐付きたる鏡は、もと漢土の製をうつせる物なる由をも、委曲にわきまへ記せる書あり。然れば古の鏡は鉄にて、圓規くうち鍛へたる柄付の鏡にて、形は今ま用ふる尋常の鏡にかはる事なし。然れども鉄を鍛ひて鏡となす態はしも、難しとも難きわざなる故に、便よき銅鏡をのみ世に用ひて、鉄鏡の事は、たえて人知らず成りにしを、己、いにし文政二年に、かの水心子正秀とて、今世の良匠と聞ゆる刀鍛人に、八咫の五分が一なる鉄鏡を、二鍛はしめて、その三月に、鹿島宮と香取宮とに詣でける時に、祈(ねぎ)事の祝詞にそへて、思ふがまゝに、我が古ごとの学び、世に行はれなば、その鏡を八咫鏡に替へて奉らむと白せる後に、また屋代弘賢ぬしなど、その余の人々にも語りて、身守の鏡をも、三つ四つ面は造らしめたり。これぞ、絶えて久しき鉄の鏡を造る事をし、再興(またおこ)したる始めなりける。
抑々世の片ゆきなる事識人はも、あらゆる事物を、みな漢土より伝へ得たるごと、言ひも思ひもする事なれど、我が皇大御国はしも、万国の祖国なれば、実には万国にあらゆる事物ども、その本は皇国より伝へたるに、工夫をそへたるが多かり。中にも鏡を造るわざ、漢土にては、黄帝、かの西王母といふ神仙に会ひて、十二面の大鏡を造れるぞ始めなる。そは、『黄帝内伝』・『軒轅本記』・『広黄帝記』など云ふ書を合せ考へて知るべし。然るにその王母と云ふは、実は我が皇国の神にしあるを、彼の国人の、かゝる漢名をば称せるなり。これは己、詳しき考ありて、志豆能岩屋ちふ書を撰びて、数多の漢ぶみを引き、証せるを見るべし。かくて黄帝の始めて造れる鏡は、決(さだ)めて鉄なりけむと思ふ由あれど、その説、ことに長ければ、ここに記さず。彼の国にも、古く鉄鏡を用ひし事は、漢の劉□[音+欠]が遺文を、晉の葛稚川翁(抱朴子葛洪)の撰次せる『西京雜記』と云うものに、「哀王‥‥」とあるにて知るべし。又た『天宝遺事』に、「葉法‥‥」とあり。また『格致鏡原』に引きたる『九国志』に、「宗壽‥‥」といふ事も見えたり。その小兒は、眞青小童君といふ神にはあらざりしか。仙籍に、眞青小童君は、嬰孩の貌なる故に、仙宮には、号けて小童君といふよし見えたるに、物色(ありさま)いと能く似たればなり。この事も志豆能岩屋に詳しく記せり。鉄鏡の霊異ありし事、なほ諸書に数見ゆれど、今は一二を挙げつるなり。
ここに近つ淡海の国の国友能当はも、その遠祖は大和鍛人(かぬち)にて、長包と云へるが、その子・兼氏と云ひし者、後醍醐天皇の御世に、美濃国多芸郡に移り住みて、相模国鎌倉に在る(岡崎)正宗が弟子となりて、志津三郎と称へりし名高き刀鍛人なり(正宗門十哲の一)。代々その業を伝へ、その子孫、近江にうつり住みけるに、天文十二年に、異国より鉄砲と云う物わたり来しかば、この家にて始めてこれをうつし造れるに、その当り能かりしとて、足利家より能当(よしまさ)と云ふ名を賜へるなり。代々その名を称ふるよし云ひ伝へて、今に公儀に、その職もて仕へ奉る人なるが、近きほど、西洋なる国より、風炮とて、火力を假らず、風吹きこめて放ち出る鉄砲の、いさゝかその形ばかり造れる物の渡れるを見て、もとよりこよなき考工者にしあれば、なほ種々に考へ造り試みて、遂にいと奇異(あやし)きまでなる風炮をなも造り出でける。その工みの巨細なる事どもは、気炮圖説(一卷。文政二年刊)とて、身づから記せる物あるにつきて見るべし。なおこの外に、形は常の鏡ながら、日向に照らせば、裡なる繪やうの影うつる鏡を始め、人の目を驚かす奇しき物など、数しらず造り出でたり。中々に世の工夫者など、生青き徒の、かけても及ぶべき翁にあらず。
かくてこの翁、往にし年ごろ、四年ばかり大江戸に来て在りけるほど、己とは方外の人なる物から、互ひに物の道理を記窮むる事をし好み合ふ睦魂あひて、こよなく親しく交れるに、このをぢ、書こそ読まね、神の道を尊みて、その事をば、余が教へを善しとして問ひあかすにぞ。上のくだり記せる鉄の鏡の考へを、委曲に語りて、こを鍛ふる態は、いとゝゝ難し。そは少けきは、然しも骨をるゝ事にも非ねど、大なるは、鉄をり反すとては、いわゆる地あれの出来て、美しくは成りがたきを、「子(そこ)、よく考へて、大なるを難からず造り出づる事をし、工夫してよ」と云ひしは、去んぬる文政七年四月に、翁が国に帰り行く時になむありける。その後しも、国友よりは、折々は消息して、いと親(むつ)やかに訪るゝを、己は例の事おほく、消息かく事の物うき性にしあれば、常に心にたえぬものから、返事さへにその度びごとには贈らで過ごせしを、この八月の廿日と云ふ日に、七月の二十五日と云ふ日に書きて、早馬使(はゆまづかひ)に出だせる消息の来れるを見れば、鉄鏡を造るわざを考へ得て、いと麗しく造りいで、また鉄の弩をも造れる由しるして、彼の神世の起原を、疾くかき記し賜ひねと云ひ遣せたり。
ここにおのれ、常はさもあらばあれ、こは速かにせむと、やがて如此なも記しいでつ。但し鉄弓(まがねのゆみ)の、神世よりありける由は、前に記し洩らせれば、今こゝに記し継ぎてむ。そは、出雲風土記に、島根郡加賀郷、また加賀神崎の所などに、佐太大神の、「金弓箭」もて窟を射通しませる事あり。この金とあるは、即ち鉄のこと、鉄鏡を金鏡とかけるに准へて知るべく、また常陸風土記に、香島郡香島宮の条に、崇神天皇の御世に奉られし幣物の中に、「鉄弓二張・鉄弓二具」とも見えたり。これを以て神世より鉄弓をも用ひたること明かなり。然るに中むかしの軍ぶみ等にも、鉄弓を射たりと云ふことの見ゆるに付きて、伊勢貞丈ぬしの、そを妄誕なりとて云ひ破れる説あるは、神世に鉄弓ありし事、知らざる故なり。己、いにし年、少けき鉄弓を作らしめて、引き試みたる事ありけるに、丸木弓の引ごころに似て、底つよく力だにあらば、通し物には、ここに越えたる弓の有るまじく覚えたりき。然れば国友翁が造れる鉄弩も、神世に本縁なしと云ふべからず。但しその弩はしも、前に考へて造れるもあれど、そは尋常の竹弓に造れりしを、今度なほ更に考へ更めて、鉄弓に造れるが、その当り、竹弓に遙かに勝れるよし言ひ遣せたり。いかでその弩、見まほしと思へども、今はかく国放れるを、いかにせむ。
国友能當翁の需めに応じて 文政九[丙戌]年八月二十七日 平田大角平篤胤、記判」と。 |