春秋命歴序考

 (最新見直し2013.12.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤著書の「春秋命歴序考」を確認しておく。

 2013.12.14日 れんだいこ拝


【春秋命歴序考】
 「備中處士の平田篤胤大人遺文」の「春秋命歴序考の自敘」を転載する。
 平田篤胤大人『春秋命歴序考の自敘』に曰く、

 「古人、言へることあり。曰く、『天地は生の本也。先祖は類の本也。君師は治の本也』と。これ大道の三本にして、皇国は、則ち万国の三本也。これを以て彼の西戎の蕃、赤縣の州も、また我が神眞、之が君と爲り、之が師と爲りて、之を開闢し、之を含養し、蠢化蠕動をして、始めて倫理あり、穴居野處をして、方に教養有らしむるの国也。
の故に政刑・兵陳・律暦・度量・文字・卜筮・医薬より、凡そ天下を經綸して、百世、刊るべからず、民用を綱紀して、一日、闕くべからざる所以の者も、また皆な我が眞神の授くる所の道なればなり。上皇太一の、一と爲るや、盤古眞王の、二と爲るやなり、三皇の、三才を御するやなり、五帝の、五運を紹ぐやなり、以て見るべしか。

 唐虞の世・夏后の時、人質に物朴にして、なお能くこの道を道とし、この教を教とす。夏后氏亡びて、大道、かくに廃り、擬聖、乃ち出づ。殷簒ひ、周弑して、六親、和せず、国家昏乱す。ここに於いてか、始めて儒ありか。これより以来、儒流の書、日々に出でて、百氏の説、益々盛んなり。大道を視ること、異端の如く、神眞を見まつること、物の怪の如し。以爲へり、『荒唐不經は、我が宗とする所に非ず』と。その天下を經綸し、民用を綱紀する所以の者は、変じて□□[豈+見][兪+見]の器となり、化して虚僞の具となる。嗚呼、天下の、未だ斯文を喪ぼさゞる也、神典の伝ふるところ、玄經の識すところと、古籍の明文、先聖の至言と、歴代の災乱に遇ひ、一縷の断えざるに似たりと雖も、しかれどもなお幸ひに炳焉として日月の如く、確乎として拔くべからざるものあり。造次顛沛、之を思ひ之を思ふ。而して神、我が心を開きて、我をして我が宗とするところを宗とせしめたまふ。その儒流・百氏の若きは、なお子孫にして先祖を詈り、枝葉にして本根を惡むがごとし也。豈にまた大道、皇国の三本爲る所以を知るに足らむや。然るにその起伏興廃も、またまた一に非ず。而してその今に存する者は、大抵、八家あり。曰く神、曰く玄、曰く儒、曰く仏、曰く医、曰く兵、曰く易、曰く暦。然りと雖もその王公大人にある者は、吾が輩の能く知る所に非ざる也。唯だ卑賤、余の如き者、自ら一家を成すに至りては、則ち神家、神道を知らず、玄家、玄理を知らず、儒家、儒旨を知らず、仏家、仏意を知らず、医家、医範を知らず、兵家、兵機を知らず、易家、易威を知らず、暦家、暦式を知らず。而して各々一潦に游泳して、未だ□[馬+麗]龍の変化を見ず。孤□[土+至]に彷徨して、未だ崑崙の天に極むるを覩ず。夏蟲の氷雪を疑ひ、井蛙の江湖を怪しみ、この国に生れて、この国を無みし、この君に仕へて、この君を蔑にし、神眞君師の徳、開闢含養の恩を知らざることは、則ち一也。

 故に吾れ之が為に恐懼し、著述考徴、既に百部に□[車+失]き、且つ千卷に踰ゆ。又た近頃、『太昊古暦伝』(四卷。天保七年成)・『三暦由来記』(三卷。天保四年成)・『古暦日歩式』(二十卷。天保五年成)・『(古暦)月歩式』(十二卷。天保五年成)・『弘仁歴運記考』(一卷。天保二年成。七年再考)・『古史年暦編』(一卷。天保二年成)・『古今日契暦』(初編二編・凡五百卷。天保五年成)・『夏殷周年表』(一卷。天保四年成)・『前漢歴志弁』(一卷。天保四年成)・『春秋暦本術編』(一卷。天保二年成)及びこの書(『春秋命歴序考』)を著して、以て古暦の眞式を明かにす也。

 それ暦は、天常を論じ、長久を志す所以ん也。然るに泰古の世、年暦の数、紛紜として一定せず、孟浪として講明することなし。その□[言+爲]り、実に殷の西伯姫昌(文王)より起るか。蓋し既に流派あらば、奚んぞ原泉に遡らざらむ。苟くも年暦あらば、敢へて泰古を推さゞらむや。且つ余を以て之を觀るに、何れの道か、之を一定することを欲せざらむ。誰れ人か、之を講明することを願はざらむ。而して稍々識る有る者は、輙ち蛇足の過ち有り。その然らざる者は、徒らに□[彖+虫虫]測の嘆き有り。抑々人長じて、その年の経歴、我が身の長短を知らずんば、愚ならずと曰ふと雖も、吾は信ぜざる也。吾れ之が爲めに憤□[立心+非]し、独り『春秋命歴序』を採りて、之を祖述し、之を憲章し、錯簡を訂正し、脱文を補綴し、これを『弘仁歴運記』に参伍し、之を明文と至言とに錯綜して、方に始めて神眞、授けたまふところの道に明かにし、神典、伝ふるところの説を実にして、乃ち口□[月+勿+口]の結び、符節の合ふに似たり也。吾れ既に大沢を一歩に囘し、將に千仭に墜ちむとするを拯ふ。ここに於いてか、以て金鈴木舌と爲りて、文教を一振するに足れりか。然らざれば、その年の經歴、我が身の長短を知らざる者と、以て異なること莫けむ焉。

 方に今、海内昇平、文物、鼎に新なり。上に撃壤の化あり、下に小腹の楽あり。博覧多通の才、典故考証の家、凡て数十百人なりか。しかれども之を一定し、之を講明する者は、けだし或は之れあらむ。我れ未だ之を見ざれば、その数十百人も、またなお一凡庸の如きのみ。また安んぞ天常を論じ、長久を志す者といふことを得むや。然りと雖も人人、將に曰はむとす、「その祖述憲章するところも、また惟だ讖緯の書爲り、その訂正補綴するところも、また皆な之を臆断に取れり」と。余れ雅より謂ふ、「士君子、知己を千載に待つ。豈に善價を今日に求めむや」と。苟くも帝道唯一の学を奉じ、顯幽無敵の道を学ぶ者あらば、則ち將に一目撃して、思ひ半ばに過ぎむとすか」と。彼の凡庸の徒は、耳を提て之を曉すと雖も、之をして遂に之を信ぜしむこと能はざる也。我れ惟だ々ゞ我が宗とするところを宗とす。また豈に信を不信の人に求めむや。

 時に太昊、甲暦を作る甲寅の歳よりして來のかた四千八百四十年、天保四年、歳、癸巳に在る、孟冬九日庚子、太一、中宮に在る、天禽の日・天禽の時。大壑 平篤胤、識す」と。

 ○『春秋命歴序考』のはじめに、詠みてそへたる歌
 百八十の から(唐)言むけて 大君に さゝぐる道の たね(種)を蒔かまし

 ○同じ書をかきをへて、しりへに
 日の本の 神の授けし 戎(から)の道 から人いかで 開き得めやも
 日の本の 神の授けし 戎(から)の道 日の本人ぞ ひらき初めける






(私論.私見)