仙境異聞(上巻の1の巻)

 (最新見直し2013.12.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤の著書の「仙境異聞(上巻の1の巻)」を確認しておく。出所は「小さな資料室」の「資料43 平田篤胤『仙境異聞』(上)一之巻」である。ここに謝意を申し上げておく。

 2013.12.14日 れんだいこ拝



【「平田篤胤『仙境異聞』(上)一之巻」】
 「資料43 平田篤胤『仙境異聞』(上)一之巻」を転載する。
 文政3年(1820)、江戸に不思議な少年が現れた。彼はそのとき15歳。卜筮(ぼくぜい)に興味のあったその少年は、7歳のときから山人(やまびと)に連れられて空中を飛行して、江戸と常陸国の岩間山との間をたびたび往復し、山人に付いて修行している、というのである。山人とは、俗にいう天狗のことである。国学者・平田篤胤は、江戸に戻って来ていた寅吉というその少年を訪ねて話を聞き、やがて己のもとに招いて異界の様子を聞き出し、記録した。仙境異聞は、その記録である。
 仙境異聞(上)一之巻       平 田 篤 胤  筆 記
 文政三年十月朔日夕七ツ時なりけるが、屋代輪池翁の来まして、「山崎美成(よししげ)が許(もと)に、いはゆる天狗に誘はれて年久しく、その使者と成りたりし童子の来たり居て、彼(か)の境にて見聞きたる事どもを語れる由を聞くに、子のかねて考へ記せる説等(ことども)と、よく符合する事多かり。吾いま美成がり往(ゆ)きて、さの童子を見むとするなり。「いかで同伴し給はぬか」と言はるゝに、余はも常にさる者にただに相ひ見て、糺(ただ)さばやと思ふ事ども種々きゝ持ちたれば、いと嬉しくて、折ふし伴信友(ばんのぶとも)が来合ひたれど、「今帰り来む」と云ひて、美成が許へと伴はれ出づ。(美成は長崎屋新兵衛といふ薬商人にて、往(いに)し年頃は、予に従ひてありしが、更に高田与清(ともきよ)に従ひ、今は屋代翁の門に入りて、博く読書を好むをのこなり。家は下谷長者町といふ坊にて、余が今の湯嶋天神の男坂下と云ふ所よりは、七八町ばかりもあるべし。屋代翁の家と、美成が家とは、四五町ばかりも隔たれり。

 さて途中にて屋代翁に言ひけらくは、「神誘ひに成りたる者は、その言おぼろおぼろとして慥(たし)かならず。殊に彼の境の事をば、秘(かく)しつゝみて顕(あらわ)に云はざる物なるが、その童子はいかに侍る」と云へば、翁云はく、「大抵世に聞こゆる神誘ひの者は然(さ)あれど、彼の童子は蘊(つつ)まず談(かた)る由にて、既に蜷川(にながわ)家へ行きたる時に、遠き西の極(はて)なる国々にも至りて、迦陵頻伽(かりょうびんが)をさへに見たりとて、その声をも真似び聞かせたるよし、美成が物語なり。近ごろ或る処にて、誘はれたりし者も秘(かく)すことなく談れりと聞けば、昔は彼の境の事の世に漏るゝを忌みたるが、近頃は彼の境の事を然(さ)しも蘊(つつ)まず成りぬと覚ゆ。よく問(たず)ねて忘れず筆記せられよ」と返(かえ)す返す言はるゝに、余諾(うべな)ひてまた心に思へるは、「現世の趣も昔は甚(いた)く秘したる書も事も、今は世に顕はれたるが多く、知り難かりし神世の道の隈々も、いや次々に明らかになり、外国々(とつくにぐに)の事物、くさぐさの器どもゝ、年を追ひて世に知らるゝ事と成りぬるを思ふに、こは皆な神の御心にて、彼の境の事までも聞き知らるべき、いわゆる機運の廻り来つるにや」など思ひ続けつゝ、間もなく美成が許になむ至りぬる。

 時宜(よ)くあるじ居相ひて、彼の童子を呼び出だし、翁と余とに相ひ見せしむ。然るに彼の童子はも、二人の面をつくづく打ち守りて、辞儀せむとも為(せ)ざりしを、美成かたはらに居て、「辞儀せよ」と云へば、いとふつゝかに辞儀を為(し)たり。憎気なき尋常の童子なるが、歳は十五歳なりと云へども、十三歳ばかりに見え、眼は人相家に下三白と称(い)ふ眼にて、凡より大きく、いわゆる眼光人を射るといふ如く、光ありて面貌すべて異相なり。脈を診(み)、腹をも診たるに、小腹実して力あり。脈は三関のうち寸口の脈いと細く、六七歳の童子の脈に似たり。江戸下谷七軒町なる、越中屋与惣次郎といひし者の二男にて、名を寅吉と云う。

 然るは文化三寅年十二月晦日の朝七ツ時に生れたるが、その年も日も刻も寅なりし故に、かく名づけしとぞ。父は今より三年先に世を退(さ)れり。その後は寅吉が兄荘吉、ことし十八歳なるが、少しの商ひを為て、母と幼き弟妹などを養ひ、細き烟を立つるといふ。(寅吉が親兄などの事は、後に余親(みずか)らその家に尋ねて記せり。また母が言を聞くに、寅吉五六歳のほどより、時々未然に言を発することありき。そは文化□年□月、下谷広小路に火事ありける前日に、家棟に上り居て、広小路に火事ありと云う。人々見るに何の事もなき故に、などて然は云ふぞと問ひしかば、あればかり火の燃ゆるを、人々には見えざるか、疾(と)く逃げよかしなど云へるを、人々物に狂ふ如く思へりしが、果して翌日の夜に広小路焼亡あり。また或るとき父に向かひて、明日は怪我することあるべし、用心せよと云へりしを、父は用ひざりしに、果して大に怪我したる事あり。また或る時今夜かならず盗人入るべしと云へりしかば、父叱りて然ることは云ふべき物に非(あら)ずと制しけるに、果して盗人入りたることあり。また未だ立つことも叶はずて這ひまはりしほどのことを覚え居て、語り出づることも時々ありき。然るに生れつき疳症にて、幼少の時は色青ざめ常に腹下り夜つばりなどして、遂に成長すまじく思へりしが、「車に引かれてけがせるが、けんくわせずてよかりしといへること母咄し」、今年旅より帰り来ては、いと丈夫になり侍りと語りき。未然の事を知りたるが奇(あや)しくて、後に寅吉にいかにして知りたりしと探(たず)ぬれば、広小路の焼けたりし時は、その前日に家棟より見けるに、翌日焼亡したるほどの所に、炎起りて見えける故、然云ひしなり。父が怪我あるべき事、盗人の入るを知りたるなど、何やらむ耳の辺にて、ざわざわと云ふ様に思ふと、その中に何処(いずこ)よりともなく、明日は親父怪我すべし、今夜は盗人入るべしと云ふ声きこゆると、直ちに我知らずその言の如く口に云ひ出でたりと云へりき)

 さて寅吉、余が面を熟々(つくづく)見て打笑みつゝありけるが、思ひ放てる状(さま)にて、「あなたは神様なり」と再三云うにぞ、予その言ひ状(さま)の奇(あや)しきに答へもせずて在りしかば、「あなたは神の道を信じ学び給ふならむ」と云うに、美成傍らより、「こは平田先生とて古学の神道を教授し給ふ御方なり」と云へば、寅吉笑ひて「実に然(さ)るべく思へり」と云う。ここに予まづ驚きて、「そはいかにして知れるぞ。神の道を学ぶは善き事か悪しき事か」と問へば、「何となく神を信じ給ふ御方ならむと心に浮びたりしゆゑに、然は申し侍り。神の道ほど尊き道はなければ、こを信じ給ふは甚(いと)宜(よ)き事なり」と答ふ。ここに屋代翁「我をばいかに見つる」と問はるれば、寅吉しばし考へて、「あなたも神を信じ給ふが、なほ種々ひろき学問を為給ふらむ」と云ひき。「神といはれ仏てふ名も願はずてただよき人になる由もがな 屋代翁」。これなむ己れがこの童子に驚かされたる始めなりける。
 さて、先ず神誘ひに逢ひたる始めを尋ぬるに、「文化九年の七歳に成りけるとき、池ノ端茅町なる境稲荷(いなり)社の前に、貞意と云う売卜者ありしが、その家の前に出でて日々売卜するを立ち寄りて見聞くに、乾の卦出でたり坤の卦出でたりなどいふを、こは卜筮といふ物は、くさぐさ獣の毛を集め置きて擬(うらな)ふ法ありて、その毛を探り出だし、熊の毛を探り得れば、いかにとか、鹿の毛を探り出づればいかにとか、その探り出でたる毛により判断する事なるべく思ひて、頻(しき)りに習はまほしく覚えしかば、或る日卜者の傍らに人なき時を窺ひ、『いかで我に卜筮のわざを教へて給はれ』と請ひしかば、卜者我を幼き者と思ひて、戯言(ざれごと)したるか、『こは容易に教へがたき態(わざ)なれば、七日がほど掌中に油をたゝへ、火を灯す行を勤めて後に来たるべし。教へむ』と云ふ故に、実(げ)にも容易には伝ふまじく思ひて家に帰り、父母も誰も見ざる間を忍びて、二階に上りなどして密(ひそ)かに手灯(てあか)りの行を始めけるに、熱さ堪へがたかりしかど、強ひて勤め七日にみちて、卜者の許(もと)に到り、『手のかく焼け爛(ただ)るゝばかり、七日が間手灯りの行を勤めたれば、教へて給はれ』と云ふに、卜者ただ笑ひのみして教へざりし故に、いと口惜しくは思ひしかど、詮方なく、倍々(ますます)このわざの知りたくて、日を送りけるに、(この貞意といへる卜者は後に上方すぢへ行きたりといふ) 

 その年の四月ころ、東叡山の山下に遊びて、黒門前なる五条天神のあたりを見て在りけるに、歳のころ五十ばかりと見ゆる、髭長く総髪をくるくると櫛まきの如く結びたる老翁の旅装束したるが、口のわたり四寸ばかりもあらむと思ふ小壺より、丸薬をとり出だして売りけるが、(平児代答に五六寸とあれど四寸ばかりなりと寅吉後に云へり)取並べたる物ども、小つづら敷物まで、悉くかの小壺に納(い)るゝに、何の事もなく納まりたり。かくて自らもその中に入らむとす。何としてこの中に入らるべきと見居たるに、片足を踏み入れたりと見ゆるに皆な入りて、その壺大空に飛び揚りて、何処(いずこ)に行きしとも知れず。寅吉いと奇(あや)しく思ひしかば、その後また彼処(かしこ)に行きて、夕暮まで見居たるに、前にかはる事なし。その後にも亦行きて見るに、彼の翁言をかけて、『其方(そち)もこの壺に入れ。面白き事ども見せむ』と云ふにぞ、いと気味わるく思ひて辞(ことわ)りければ、彼の翁かたはらの者の売る作菓子(つくりがし)など買ひ与へて、『汝は卜筮の事を知りたく思ふを、それ知りたくばこの壺に入りて吾と共に行くべし。教へむ』と勧むるに、寅吉常に卜筮を知りたき念あれば行きて見ばやと思ふ心出で来て、その中に入りたる様に思ふと、日もいまだ暮れざるに、とある山の頂に至りぬ。その山は常陸国なる南台丈(嶽)(なんたいだけ)と云ふ山なり。(この山は、加波山と、吾国山との間にありて、獅子ガ鼻岩といふ、岩のさし出でたる山にて、いはゆる天狗の行場なりとぞ)

 然るに幼かりし時のことなれば、夜に入りては、頻りに両親を恋しくなりて泣きしかば、老翁くさぐさ慰めしかど、なほ声を揚げて泣きたる故に、慰めかねて、『然らば家に送り帰すべし。かならずこの始末を人に語る事なく、日々に五条天神の前に来たるべし。我送り迎ひして、卜筮を習はしめむ』と言ひ含め、背負ひて眼を閉ぢさせ、大空に昇りたるが、耳に風あたりて、ざわざわと鳴る様に思ふと、はや我が家の前に至りぬ。こゝにても、『返す返すこの事人にな語りそ。語らば身のため悪しかりなむ』と誨(おし)へて、老翁は見えずなりぬ。かくて我はその誡めを堅く守りて、後まで父母にもこの事を言はず。さて約束の如く、次の日昼過ぐるころ、五条天神の前に行けば、彼の老翁来たり居(お)り、我を背おひて山に至れるが、何事も教へず、彼此(あちらこちら)の山々にも連れ行きて、種々の事を見覚えしめ、花を折り鳥をとり、山川の魚など取りて、我を慰め暮相(くれあい)になりては、例の如く背負ひ帰せり。我その山遊びの面白さに、日々に約束の所に行きて、老翁に伴はるゝ事、日久しかりしかど、家をばいつも下谷広小路なる井口といふ薬店の男子と伴ひて遊びに出づる風にて出でたりき。

 又或る時の事なるが、七軒町の辺をいわゆる、わいわい天王とて、鼻高く赤き面をかぶり袴を着し太刀をさし、赤き紙に天王と云ふ二字を搨(す)りたる小札をまき散らして子共を集め、『天王様は囃(はや)すがおすき。囃せや子ども、わいわいと囃せ。天王様は喧嘩がきらひ。喧嘩をするな間(なか)よく遊べ』と囃しつゝ行くを我も面白く、大勢の中に交りて共に囃して遠く家を離るゝ事も知らず、今思へば本郷のさきなる妙義坂といふ辺まで至りけるに、日は既に暮れたれば、子共は皆な帰りたるに、札を蒔きし人、路の傍らによりて面を取りたるを見れば、いつも我を伴ふ翁にぞありける。ここに我を送り帰さむとて、家路をさして連れ来たりけるが、茅町なる榊原殿の表門の前にて、我が父の我を尋ねむと出でたることを知りて、『我が父尋ね来たれり。この事かならず言ふこと勿(なか)れ』とて、父に行逢ひ『この子を尋ぬるに非ずや。遠く迷ひて居たる故に連れ来たれり』とて渡せば、父なる者大きに悦びて、名と処とを問ふに、何処の誰とあらぬ名を云ひて別れ去りぬ。翌日その処に父の尋ねたるに、元より虚言なりしかば、其処に然る人はなしとて空しく帰れり。(篤胤云はく、凡て諸社の札配り、わいわい天王など云ふ物に、山々の異人も稀に出づること、下に委(くわ)しく記せるを見るべし。さてこの事を母に問へば、昼飯前より五ツ時まで帰らず、連れたる人は、神田紺屋町の彦三郎といふと答へし故に、翌日与惣次郎、酒を持ちて紺屋町を尋ねしに、然る人なかりし故に、ほいなく思ひて、同町の酒屋に知りたる者ありし故に、頼みて悉く尋ねたるに、無かりしと云へり)
 さて大抵日々の如く、伴はれ行きたる山は、始めは、南台丈(嶽)なりけるに、いつしか同国なる岩間山に連れ行きて、今の師に付属したるに、まづ百日断食の行を行はしめて、後に師弟の誓状を書かしめたり。「老人の行方、師の名ども、弟(子)のこと」。ここに我『かねての念願なれば、卜筮を教へ給はれ』と云へば、師の『そは甚(いと)易き事なれど、易卜は宜(よ)からぬ訣(わけ)あれば、まづ余事を学べ』とて、諸武術の方、書法などを教へ、神道にあづかる事ども、祈禱呪禁の為(し)かた、符字の記し方、幣(ぬさ)の切りかた、医薬の製法、武器の製作、また易卜ならぬ、種々の卜法、また仏道諸宗の秘事経文、その外種々の事を教へらる。そはいつも、彼の老翁の送り迎ひたれど、両親はじめ人にはかつて語らず、教へを受けたる事どもゝ、明かさざれば知る人なく、殊に吾が家は貧しければ、世話なく遊びに出づるを善しとして尋ねず、また十日、廿日、五十日、百日余りなど、山に居て家に送り帰されたる事も、折々有りしかど、いかなる事にか、家の者ども、両親はじめ、我が然(さ)ばかり久しく、家に居らずとは思はでありしなり。かく山に往来(ゆきき)しつる事、七歳の夏より十一歳の十月まで、都(すべ)て五年の間なるが、この間に師の供をなし、また師に従ふ余人にも伴はれて、国々所々をも見回りたり。(このほどの事を母に問へば、筆、こま、たこなど、持遊びを持ち来たれりと云へり。)
 さて十二、十三の歳には往来せず、唯をりをり師の来たりて事を誨(おし)へらるゝのみなりき。然るに父は我が十一歳になる八月より煩(わずら)ひ付きたり。その病中に師の我に誨へて、「○めしくはぬ病気 ○先和尚びくににたゝられ、気ちがい和尚の気に入ること、とらならではめしもくはず ○ゆうれいをうつ ○禅僧問答に来たる ○かこひものゝこと、後見、ふぢ寺、根ぎしえん光寺」。『禅宗、日蓮宗などの宗体をも見覚えよ』とありし故に、父母に『我は病身にて商ひ覚束なければ、寺に奉公して後に出家せむと思ふ』と云ひしかば、父母ともに仏を信ずる故に諾(うべな)ひて、この年の秋より池ノ端なる正慶寺といふ禅宗の寺に預けぬ。この寺にて彼の宗旨の経文など習ひ宗体をもほぼ見聞きて、極月家に帰れるが、文化十五年の正月より、亦同所の覚性寺と云ふ富士派の日蓮宗の寺へ行きたるが、この二月に父みまかりたり。この寺に居たる時に或る人の来て、『大切なる物を失ひたり』と人に語るを、傍らに聞き居たるに、誰ともなく耳元にて『そは人の盗みて広徳寺前なる石の井戸の傍らに隠し置きたり』と云ふ声聞こえし故に、その如く言ひしかばその人驚きて帰りけるが、『果して其処にありしが不思議なり』とて人々に云ひし故に、彼此(あれこれ)と人に頼まれて卜(うらな)ひ、また咒禁加持なども為たるに、悉く験(しるし)ありし中に富の題付とかいふ物の番を、数度云ひ当てたり。そは来たりて問ふ人々題付と云ふことは言はず、『千番ある物の中、一番を神社に納めむと思ふ。幾番が宜からむと云ふこと、卜ひ給はれ』と云ふ故に卜ひて、『幾番が宜し』と云ひしかば、前後すべて二十二三人に頼まれたるに、十六七人は取れりと云ふ。六七度は当らざれど、その内五度などは、我がさし教へたる番札は早く人の手に入れる故に外れたりとぞ。かく在りしかば諸人種々の事を頼み来たりて煩(うるさ)かりし故に、隠れて人に相(あ)はざる様にせしかど、なほ大勢来たりしかば、住持驚き、『この状(さま)にて世に弘まらむには、寅吉は弱年なれば、我が怪しき術を教へて物する如く人の思はむこと、心遣ひなり』とて家に帰しぬ。この後一月ばかりは家に居たるが、おとゝし四月よりまた師の教へにて日蓮宗なる宗源寺といふ身延派の寺へ弟子入りして、この寺にて剃髪したり。然るは彼の宗に剃髪して真の弟子とならざれば、見聞しがたき秘事どもの多かればなり。

 然るに文政二年五月二十五日に師の来たりて、『伴はむ』と云はるゝ故に、母には人に誘はれて伊勢参宮する由を云ひて、師と共にまづ岩間山に至り、それより東海道を行きて江ノ嶋、鎌倉の辺を見て、伊勢両宮を拝み、西の国々なる山々を見廻り、八月二十五日にひとまづ家に帰り、九月になりて、また師の来たりて『伴はむ』と云はるゝ故に、この時も母に神社周(めぐ)りに出づる由を云ひて、師と共に遠き諸越(もろこし)の国々までも翔(かけ)り行き、御国の地に帰りて、東北の国々なる山々を見廻りたるが、如何なる事にか十一月の始めに妙義山の山奥なる、小西山中と云ふ処の、家いさゝかありて、人跡絶えたりとも云ふべき処に捨て置きて、師は何地ともなく行かれし故に、その処の名主とも云ふべき家を頼みて、二三日待ち居たれど、師は来られず。然るにその家に何処の人なるか、名も知らねど五十歳ばかりと見ゆる老僧の来たれるに、吾は江戸の者なるが、神道を学ばむとて国々を周り道に踏み迷ひて、この処に来たれる由を語りしかば、老僧きゝて『そは殊勝なる心なり。然もあらば我が知れる人に神道に委(くわ)しき人あり。その許に伴はむ』とて、筑波山の社家なる白石丈之進と云ふ人の許に伴ひて、『この童子は神道熱心の由なれば、止(とど)めて教へ給はれ』と頼み置きて去れり。

 さて丈之進といふ人の神道は蛭子流といふ流(ながれ)にて、吉田流よりもなお仏法を混じたる神道にて、面白くはなかりしかど、子分にして名を平馬とおほせて懇(ねんご)ろに教ふる故に、これをも学ばむと思ひてこの家に年を越してその道を聞きたり。然るに三月の始めに古呂明の来たりて、『師の居る山に伴はむ』と云はるゝに甚(いと)嬉しくて、丈之進に『東国すぢの神社周りに出でたし』と暇(いとま)を請ひければ、通り手形に印形を押したるを授けて、『一人旅は宿かさざる定めなれば、この手形を見せて宿を請ふべし』など教へて出だしぬ。其の手形の文面は左に挙ぐるが如し。 
 
 差出し申す一通の事
 一 この度私の悴平馬と申す者、慥(たし)か成る者に御座候間、神前に国家安全、万民繁栄の御祈禱を令(い)ひつけ、近国近林巡行に差出し申し候。もし途中にて御神職衆中へ 御目に掛り候節は、私同様に御取り持ち下され候様に頼 み上げ奉り候。はたまたこの者何方にて行暮れ候共、御心置なく御一宿の程希ひ奉り候、以上。
                 筑波六所社人 文政三歳三月日 白石丈之進印 御神職衆中 村々御役人衆中
 と記して上包みの紙に、白石丈之進内同平馬とぞ書きたりける。爰に古呂明に伴はれて、岩間山に行き師に見(まみ)えしかば、なほ種々の事ども教へ授けらる。

 然るに我は去年の九月よりこの三月まで、七月ばかりも母に別れたれば、今頃はいかにして居らむ、兄はいまだ弱年なり、父のなき後にはいかに暮すらむなど思ひ出でて打ちふさげる有り状(さま)を、師の見尤(みとが)めて、『汝は母の事を思ふ状なるが、無事にて居れば案じ過ごす事勿れ。その有り状を見よ』と云はれけるが、夢とも現とも山とも家とも弁(わきま)へざるが、母と兄の無事なる有り状の慥々(しかしか)と見えたるが、言(ことば)をかはさむと思ふほどに、師の声の聞こえたり。これに驚きてふり返り見れば、師の前にぞありける。ここに師の言はれけるは、『今より暫く家に帰るべし。さて里に帰りたらむ上にも、人はただ一心こそ大事なれば、構へて邪趣の道に踏入ることなく、神の道の修行に心を凝(こ)らせよ。然れど仏道をはじめ、我が好まざる道にても必々(かならずかならず)人に悪しと争ふ事勿れ。汝が前身は神の道に深き因縁ある者なれば、吾また影身にそひて守護すれば、兼ねて教へたる事どもの、世のため人の為となる事は施し行ふべし。但しその人を得ざる限りは、謾(みだ)りに山にて見聞きしたる事を明かし云ふ事勿れ。また我が実名をも人に明かさず、世に云ふまゝに天狗と称し、岩間山に住む十三天狗の中にて、名は杉山組正といふ由を云ひ、古呂明の事を云ふときは、姑(しばら)く白石丈之進と称し、汝が名も我が授けたる嘉津間といふ名は名告(なの)らず、白石平馬と称せよ』と誨(おし)へて、平馬の二字を花押に作るすべを教へられ、師みづから古呂明、左司間と共に送られしが、途なる大宝村の八幡宮に参詣せしめ、神前に奉納の刀剣の夥(おびただ)しく有るが中を択びて、一振の脇指をとりて差料(さしりょう)とせしめ、空行して暫時の間に人足しげき大きなる二王門ある堂の前に至りぬ。こゝに古呂明の『これより汝が家にほど近し。一人にて行け』と云はるゝ故に、『こは何処にて侍る』と問へば、『浅草観世音の前なり』と言はるゝに、驚きて見れば実然(まこと)にぞ有りける。空行に伴はれ、ふと此処に置かれし故に、何処と云ふこと思ひ惑へりしなり。これにて師に暇乞(いとまご)ひして、一人家に帰れり。そは三月二十八日なりけり。

 さて母と兄とは、また『寺に行きて、出家を遂げよ』と勧めしかど諾(うべな)はず。然(さ)るは我生れつきて、三宝(さんぼう)の道は悪(きら)ひなるを、前に剃髪したるは、師命にて望むことのありし故なり。然れば今は還俗せむとて、下山したる三月より六月まで家に居たり。然るは我が髪は、去年の夏宗源寺にて剃りたるままの、いが栗頭にて、結び挙ぐること能はざれば、そを延ばさむとてなり。然るに我が家の宗旨は、一向宗にて、母も兄も明暮(あけくれ)に阿弥陀仏を称へ、神をきらひ卑しめて抹香くさき事どもを、常の所行とするを、吾はそれに替りて、太神宮の御玉串を棚になほし、手を拍ち拝すれば、兄は穢(けが)らはしとて塩をまき散らしなどするを、我もまけず、仏檀こそ汚けれと、唾など吐きし故に、兄弟の間宜しからず、山より持ち来たりつる物ども、天気を見る書、その外雑々(さまざま)の法を記せる書、又薬方の書なども、母と兄とに焼き捨てられ、師の賜へる指料をも、古鉄買に売払はれたり。

 然るに六月の末頃は、既に髪も生え延びたりし故に、野郎頭となり、聊(いささ)か由ありて七月より或る人の家を主(ぬし)としけれど、我元より大抵は山に育ちて、現世の人に使(仕)ふる道を知らず、「馬鹿々々と云はれしこと」僕(しもべ)の態にも習はねば、馬鹿々々と云はれ、役にたゝずとて、八月の始めに返されつ。是よりまた少しの縁(ちなみ)にて、上野町の下田氏に居たりけるに、山崎美成の来たりて、ほぼ我が事をきゝ、珍しがりて『我が許に来たれ』と云はれし故に、母にも云はず、九月七日より彼のぬしの家に往き居て、事の因みに少(いささ)か山の事も、我が身の上をも語りしかば、人にも語られし故に、人々聞き伝へて多く来たられしが、荻野先生、また山崎ぬしなどの如く、仏法を好み信ずる人には、問はるゝまにまに、その道の事ども、印相の事など答へて、師の誡めの如く、仏法を悪しき道とは言はざる故に、『然ばかり仏法の事を知りたれば、俗になるは惜しき事なり。我等いかにも世話すべし、僧になれ』と屢々勧められしかど、我は師の言の如く、実に宿縁ありし事と見えて、仏法を好まざる故に辞退して在りけれど、吾が誠の心を語る人なく、事を弁へざる徒は、何くれと悪しざまに評し云ふ由なども聞こえ、また我は世間の交らひ世の所業も知らざれば、いかにして宜けむと、吾身ながらに持ちあぐみたる心地して、をりをり火の見に昇り外に出でて、岩間山の空を長目(眺め)て日を送りけるに、その月の晦日に、美成の店なる者の使ひに行くに伴はれて出でけるが、途にて同友高山左司間に行逢ひたり。然れど人と伴ひたる故に互に物も云はで別れしが、決はめて師の使ひに我が方へ来つるならむと、心に待ちて在りけるに、その夜果して外にて我を呼ぶ声きこえし故に、それとなく出でて見れば、左司間にて、『師の言ひ遣はされたるは、近き間に汝が便(頼)りとなる人有れば、然(さ)しも物思ひする事勿れ。さてまた極月三日より寒に入る故に、例の如く三十日の行あれば、十一月の末までに登山せよ。然れど師もし讃岐国の山周りに当らるれば、寒行は休みなる故に、また里に帰されむとの事なり』と云ひ置きて帰りぬ。これに力を得て、美成ぬしに『同友左司間が来て、極月には例の如く寒行はじまる故に、十一月の末までに、登山せよと云ひ遣はされたり』とのみ語りて在りけるに、十月朔日に、大人(うし)と屋代先生と訪ひ来まして、何くれと問ひ給へる事どもの、人の問へることは事替れるが、心に応(こた)へ、ことに大人の美成ぬしを制して、『僧に成れとは勿(な)勧めそ。入り立ちたる道を遂げしめよ』と言へるが、いと嬉しく辱(かたじけな)く、『我が許へも来たれ』と返す返す言(ことば)を残し給へりしかば、直ぐにも参らばやと、心すゝみて、師より左司間を使ひにて、近きほどに汝が便りとなる人有りと云ひ遣はされしは、この人々の事ならむと頼もしく、時を待ちて侍りし」と、後に委しく語りけり。

 (注) 1. 本文は、岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』(子安宣邦 ・校注、2000年1月14日第1刷発行) により、(上)の一之巻を掲げました。ただし、本文中の会話等を示す鉤括弧(「 」『 』)は、読みやすさを考慮して引用者が付けたもので、文庫の本文には付いていません。その関係で、鉤括弧(「 」『 』)内の読点を句点に改めたり、会話文末の読点を省いたりしたところがあることを、お断りしておきます。なお、<『仙境異聞』(上)一之巻 終>も引用者がつけたもので、岩波文庫にはついていません。 
    2. 文庫の本文には校注者・子安宣邦氏による後注が付いていて、読むうえで大変参考になります。また、巻末に解説(『仙境異聞』─江戸社会と異界の情報)もあります。→  岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』
    3.  岩波文庫の底本は、『平田篤胤全集』第八巻(内外書籍、昭和8年刊)所収の平田家蔵本の由です。
    4.上記本文の「おぼろおぼろ」「ざわざわ」「くるくる」「わいわい」などの繰り返し部分は、文庫では「く」を縦に長く伸ばした形の踊り字になっています(文庫本文は縦書き)。
    5. 寅吉の通った「岩間山」とは、茨城県岩間町にある「愛宕山」(標高305m)のことです。岩間町は、平成18年3月19日、町村合併により笠間市になり、岩間町という町名が消失したようです。愛宕神社の住所を検索してみると、西茨城郡岩間町泉であったものが、笠間市泉という新住所になっていました。
    6. 「篤胤歌碑」について
      2001(平成13)年1月に、茨城県岩間町の愛宕山に建てられた「篤胤歌碑」については、資料46に 岩間 ・愛宕山の 『「篤胤歌碑」について』 がありますので、ご覧下さい。「篤胤歌碑」は、 上に掲げた『仙境異聞 』の中の、篤胤が岩間山(愛宕山)に出かける寅吉に贈った和歌5首を刻した歌碑です。          
    7. 『仙境異聞 』現代語訳というホームページで、『仙境異聞 』の全文を、現代語訳で 読むことができます。
    8. 上記の岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』に収められている「勝五郎再生記聞」は、武州多摩郡の農民源蔵の息子勝五郎という8歳の子どもの「生まれ変わり体験」の、同じく篤胤による記録です。
     9. 平田篤胤(1776-1843)=江戸時代後期の国学者。国学の四大人(荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤)の一人。通称、大角・大壑。秋田藩士、のち松山藩士。江戸に出、致仕して本居宣長死後の門人となる。激しい儒学批判と尊王思想が特徴で、宣長の古道精神を拡大強化し、宣長系の正統派からは嫌われたが、中部・関東以北の在方の有力者に信奉され、一大学派をなした。その影響力はきわめて強く、幕末尊攘運動に大きな感化を及ぼした。弟子に佐藤信淵・鈴木重胤らがあり、著書に『古史徴』『古道大意』『霊能真柱((たまのみはしら)』『玉だすき』『古史伝』など多数がある。 
           <角川書店『角川日本史辞典』第2版(昭和41年12月20日初版発行・昭和49年12月25日第2版初版発行)によりました。なお、著書名その他、記述を一部引用者が補ったところがあります。

 ○ 平田篤胤については、『国立歴史民俗博物館』のホームページに、参考になる記事があります。
           『明治維新と平田国学』展(第1回~第14回) [「ほっとひと息(展示の裏話)」のコーナー]
           れきはくプロムナード『平田国学と千葉県』

 (以上のことは、備中處士様の管理する掲示板『九段塾/靖國神社の正統護持のために』 の中のスレッド「平田篤胤大人遺文」から教えていただきました。)

 ○遠藤潤氏のブログに、 宮地正人編『平田国学の再検討(1)』についての紹介記事があります。
     10. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「平田篤胤」 の項があります。
     11. 屋代弘賢(やしろ・ひろかた)=江戸後期の考証学者。幕府右筆。号は輪池りんち。塙保己一(はなわほきいち)に国学を、山本北山に儒学を学ぶ。該博な学識によって正続 「群書類従」編纂に従事。蔵書5万巻。著「古今要覧稿」。(1758-1841) 国友藤兵衛(くにとも・とうべえ)=江戸後期の鉄砲鍛冶・発明家。近江の国友村の人。号は一貫斎。代々幕府の御用職。オランダ製空気銃見て「気砲」を考案。また、天体望遠鏡を製作して太陽の黒点を観測。著「気砲記」など。(1778-1840) (『広辞苑』第6版による。)         
          ※ 国友鉄砲鍛冶(くにとも・てっぽうかじ)=近江坂田郡国友村の鉄砲鍛冶。戦国時代の末、鉄砲の需要増大とともに和泉の堺と結んで繁栄。豊臣秀吉・徳川家康は知行を与えて直接に保護・掌握したが、1617年(元和3)知行を返上し幕府御用鍛冶職となる。泰平により衰退したが、後期に出た国友藤兵衛は1840年(天保11)63歳で死ぬまで科学者として風砲(空気銃)・天体望遠鏡はじめ数多くの発明、太陽黒点の観測などを行ない多くの著書を残した。
                    (『角川日本史辞典 第二版』昭和49年12月25日第二版初版発行による。)

  ○ 「 国友藤兵衛」については、『kotobank (コトバンク)』に、『朝日日本歴史人物事典』からの詳しい解説があります。
                 『kotobank (コトバンク)』 → 国友藤兵衛
        なお、有馬成甫著『一貫斎国友藤兵衛伝』(武蔵野書院、昭和7年刊)があるそうです。 

  12. 『仙境異聞』(上)二之巻から三之巻にかけては、篤胤と寅吉との問答が記録されていますので、その体裁を見るために、二之巻の最初の部分だけを引いておきます。

 ○予寅吉に初めて逢ひける時、その脈を診、また腹をも察(み)たりけるに、何やらむ懐に紐の附きたる物あるを、大切にする状(さま)なり。守袋なるべく思ひて在りけるに、其の後もをりをり懐の透き間より其の紐の見ゆるが、或とき取落したるを見れば、黒き木綿のさい手を畳みたる物の如し。「其は何ぞ。いとも大切なる物と見ゆるは」と云へば、寅吉云はく、「此は古呂明の頭巾なるが、下山の時に此を授けて、『汝しばらく人間(じんかん)に出づる故に、我が多年冠れる頭巾を与ふ、寒風の節こを冠れば、邪気に当る事なからむ』と、授けられたる故に、今日まで大切に肌を放つこと無かりしなり」 とて取出でたるを見れば、俗に山岡頭巾といふ物にて、いと古び油つきて見ゆる故に、「髪に油を付けて結はざる人の頭巾に、油の附きたること合点ゆかず。偖(さて)また此れと異なる頭巾は無きか」と問へば、寅吉云はく、「此は髪の油に非ず。総身の精気の上りて凝(こ)りしみたるなり。凡て精気は滝 にうたるれば、一旦は下がれども、下がり切(つめ)てはまた上り、上りてはまた下がるなり。上達の人ほど、上る精気強し。夫故(それゆえ)に此の頭巾は我等ごとき未練の者の、邪気除(よ)けともなるなり。偖また水行の時は、必ず手巾か何ぞ頭の真中に当て冠らでは、寒気を引込むものなり。偖外に此の世に見ざる頭巾は、寒気の時冠る芒(すすき)の穂にて作れる、図の如き頭巾あり」 (引用者注:岩波文庫本に頭巾の図なし。)

  ○問ふて云はく、「杖は神世より由ある物にて、神にも奉り、古き神楽の歌にも、『此の杖は我がには非ず山人の、千歳を祈り切れる御杖ぞ』とも有りて、山人も杖をば止事(やごと)なき物にして、祝言(のりとごと)しつゝ切るにやと思ふを、いかに杖は用ひざるか」  寅吉云はく、「杖は朴の木にて、棒の如く太く作る。竹の杖もあり。然れど杖を力にして歩行すると云ふ事には非ず。さて杖を切るに祝言あるか其は知らず」
         ○問ふて云はく、「山人たち螺貝(ほらがい)を吹く事は無きか」  寅吉云はく、「彼方にては用ふる事なし。然れど山伏の貝を吹く事は、魑魅、妖魔を除(さ)るわざ にて、上代よりの習ひなりと云ふ事は聞きたり」         ……
     13. 『仙境異聞』(上)二之巻が資料109にあります。
        『仙境異聞』(上)三之巻が資料330にあります。
        『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 一之巻が資料331にあります。
        『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 二之巻が資料332にあります。
     14. 国土地理院の地図閲覧サービス『ウオッ地図』による愛宕山周辺の地形図があります。
     15. 岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』の校注者・子安宣邦氏の『子安宣邦のホームページ』があります。
     16. 岩波書店の、岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』の紹介文を、次に引用しておきます。文政3年、浅草観音堂の前にふいに現れた少年寅吉。幼い頃山人(天狗)に連れ去られ、そのもとで生活・修行していたという。この「異界からの帰還者」に江戸の町は沸き、知識人らが連日質問を浴びせかける。彼らへの応答から次第に構成されてゆく「異界」のすがた。江戸後期社会の多層的な異界関心の集大成的な記録。
               →  岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』
     17. 資料366に 平田篤胤「勝五郎再生記聞」があります。





(私論.私見)