古道大意1 |
(最新見直し2013.12.14日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、平田篤胤の著書の「古道大意1」を確認しておく。出所は「務本塾・人生講座」の「現代語訳・古道大意(1)」、「現代語訳・古道大意(2)」、「現代語訳・古道大意(3)」、「」である。ここに謝意を申し上げておく。 2013.12.14日 れんだいこ拝 |
【古道大意1】 |
「現代語訳・古道大意(1)」を転載する。 |
上巻1-1 「はじめに」
今ここに講説(こうぜい)することは古道の大意です。まずその説くところは「我々の学風を古学と申す所以」、又「その古学の源及びそれを開き、人に教え世に広め伝えてきた人々の大略」、又「その基づくところ」、又「神代のあらまし」、「神のお徳のありがたき所以」、又「御国の神国なる云われ」、又「賤しい我々に至るまでも神の子孫に相違ない理由」、又「天地の始め、いわゆる開闢(かいびゃく)より、恐れながら天皇命(すめらみこと)の御系統が連綿とお栄えになり、万国に並ぶ国なく、物をなす技も万国に優れていること」、又「日本人は、その神国なるゆえに、自ずから正しきまことの心を具えていて、それを古より「大和心(やまとごころ)」とも「大和魂(やまとだましい)」とも申していること」、 これらのこともあらまし申します。また「神代の神々の御伝説、その御所業」、これらのことは、今の凡人の心をもってを思えば、大変に不思議で信じがたく思われところであるが、そのことを諭(さと)し、その事柄をお話するなかに、まことの道の趣(おもむき)も自ずからこもっているのです。 ただし、神代のあらまし及び神のありがたき所以などは、実に二十日や三十日、息もつかずに申したところで、なかなかもってその御徳の、広く貴く妙なるいわれの、それは万分の一も講説し尽くされるような事ではありません。それをこのわずか二日か三日ほどの間にお話しようとするために、よくよく思うところを、このようにかいつまんでお話したのては、かえって浅々(あさあさ)と聞き受けられる方もあろうかと思われますが、この後だんだんに講説いたしますので、粗々(あらあら)とでも神代の事を申しておきませんと、ご理解いただけないことが多いのです。 そのためにやむを得ず、かいつまんで神の御代の移り変わりを、いわば駈けて通るように申すのです。そのために彼の世で誰もが言う「岩戸隠れ」や「オロチ退治」などの事は申しません。なお全ての細やかなことは、古伝説の純粋なるところを選びおいて、別途に詳しく講説いたします。その時に申しますが、しかしなぜその詳細をここで説かないのか思われる人もありましょうけれども、これには訳があります。 その訳というのは、私が説く古道というのは、いわゆる天下の大道で、則ち人の道である故に、我が国の人たる者は、学ばずともその大意ぐらいは心得ているはずです。そのため講説はどなたさまでもご理解できないはずはありませんが、今の世の中は一般に、儒道、仏道を始め、その他諸々の道が広がっていて、各々その下の心に仏道によるとか、儒道によるとか、さては俗にいわゆる神道、または道学とか、またあるいは心学などということで、座りをつけおいたり、又そのように座りをつけているというほどのことでなくても、何となく右のような説などを、見馴れ聞き馴れ言い馴れて、なんらかの下心がないということはなく、また必ずかぶれていない人というのはないのです。 それ故に、まず最初に私の専門とする古の道(いにしえのみち)を詳しく講説しますと、世間の人々の見馴れ聞き慣れ言い慣れているさまざまな事柄が障害となって、よく合点がいくほどに真の意味合いを悟りえません。聞き取りかねるため心得違いが出来て、大きな事が紛らわしくなるのです。ただ紛らわしくなるばかりでなく、その元より心に蓄えた事と、私が説く趣が違っていることによって、これを信じません。信じないため、全てをお聞きにならず、そのいささかばかりの聞いた事柄を、元より信じないままに聞き違え、その聞き違えたことを、それながらに尾鰭(おひれ)をつけて、外へ行ってあれこれと非難などするものです。世間を見ればそのような人がよくいるものです。 もちろんこれは元より大意のため、よく聞かれたところで、実は古道学の万分の一でもありません。その万分の一の片端を、一日二日聞いたぐらいでは何も言えるものではありません。たとえばここに大きな牛が一匹いたとします。しかし全盲の人は見ることがかなわない、ただシッポばかりにさわってみて、その全体にさわってもみなければ、牛は小さい獣だと思って卑しめるようなものです。ただし、私はそれしきの非難は物の数ともいたしませんが、私の説く道はそのうち申し上げると分かってもらえるのです。 この世の始めより今の神の事実でもって、ことに古の天皇命(すめらみこと)の広く厚いおぼしめしで、厳重に重んじてお伝えあそばしたことなどを申すため、さようにおろそかであっては、その天ッ神、国ッ神、及び古の天皇命(すめらみこと)の後の世をおぼしめす厚き御心に対して、当方は何とも恐れ多きことによって、まずその旧来の聞き慣れ見馴れていることの、正実のあるかたち、又その秘(かくし)ごとを粗々(あらあら)と論評して、人々の心に、仏道にもあれ、儒道にもあれ、心法(しんぽう)悟道(ごどう)、または俗にいう神道にもあれ、まずこのようなものだと言うことを心にとめ、座りをつけおいて、その魂が座ったところで、古道の奥意を、古伝説をもって、トックリと講説しますから、その時から私の説くところに疑いがなくなるのです。 さてここでは、生半可に聞いて心得違い、または聞きかじりを人に語って非難するようなことはあるまいと思っています。またそういうところが、とかく何の道、何の学び事でも、始めの内は飽きてくるのが世の常の人情ですから、長い時間の内に退屈することがあっては、講説の私も無駄骨を折り、また聞く人々も栓のないことで、それゆえ次々に言い回しを変えて、飽きの来ないように、そのことを親しく初心者の耳に入れて、いわば面白みをつけ下ごしらえをして、なおトックリと真の道の精密な詳しく細やかなるところまでを、申し聞かせたいと言う本意を込めて思い立ったのがこの古道大意の講説です。とは申すもののここで説くことがらは、どなたにも早く心得るべき肝要なることがらを、取り集め、綴り合わせて申すのですから、これは大人げなく低いレベルの事を言うと思わず、トックと勘弁をいただきお聞き下さっていただきたいのです。 |
「学問の種類」 さてまた、別途に申したいことがあります。それは世間の学問と言えば、一つの方法のように聞こえますけれども、はなはだ種類があって、まず私がお教えいたす我が国の学問にも、細かに分けると七つ八つに分かれるのです。まず神の道を第一とする一派があり、また歌学といって歌の道を旨とするのがあり、また律令の学というのがあり、又伊勢物語や源氏物語を主に学ぶ者があり、又歴史の学と言って御代々のことを研究する者があり、又古実諸礼の学問が一つあり、その中にも俗に神道といってもさらに諸流があり、歌学といっても二三流派があり、ざっと御国のことを学ぶばかりでもこの通りの派が分かれるのです。 また儒者の学ぶ漢学というのにも同じく御国の学問ぐらいに派が分かれます。又仏教も、これまた諸宗があり、各々その立場が違いますので、学び方が違うのも元よりのこと、又仏法から分かれた心学などという、ちょこざいな学びをして、人に勧める者もいます。これらの訳は別途に仏道の大意を説く時点で申すつもりです。又天文地理の学問、また蘭学といってオランダの学問、また医者の学問にも種々の区別があります。 なんとこのとおり学問は色々あります。その中に何の学問が一番大きいかといえば、少し自分勝手のようですが、御国すなわち我が国の学問ほど大きいものはないのです。まずは近く儒学と仏学との上で申せば、儒者はまず四書五経(ししょごきょう)とか、十三経(じゅうさんきょう)とかいう類の書物を読むことを覚え、また左国史漢(さこくしかん)といって『左傳』というもの、国語というもの、『史記』というもの、漢書というものなどの概略を読んで、さて漢文を書く方法を覚え、その普段の言いぐさに、詩を作ることでも覚えますと、もう儒者と言って通りますので、これしきの書物を読んで、これしきのことを覚えるにそんなに難しいことはないのです。大方の世間の儒者はみなこれぐらいのものであります。 さてその儒者に比べては出家(しゅっけ)の方がよほど広いものです。なぜかといえば、己の是非を学ばねばならぬと極めたる、俗にいう経文が五千余巻、馬に乗せたら七十八頭分もありましょう。それをみな読まず、十分の一を読んだところが、ざっと儒者が主に読まねばならない書物の千倍もあるのです。それのみならず儒者は、仏書を読まなくても不足はないので読まず、たまには仏書を読む儒者もありますが、それは百人に一人もいません。修行僧はそれと異なり、儒者の主に見る書ならば子どもの時から、文字を勉強するため読んでいます。また詩も漢文も、儒者と同じように作りもします。ここで修行僧の学問は儒者よりは広いのです。 また国学が一番広いというのは、以上申し上げた通り、儒学仏学を始め種々さまざまな学問があって、その道々の心と事とが、ことごとく国学に混入しています。たとえば彼(か)の八紘九野(はっこうきゅうや)の水、天漢(てんかん)の流れが注がないことはないというように、あらゆる学問が混入して、大海へ諸々の川々に落ちてくる水の混じっているようなものです。 その通り入り交じっているために、人の心も多くそれに移り、いずれを良いとも、いずれを悪いとも分けられず、まごついている者が多いのです。そのため、その混入をつぶさに分けなければ、真の道のありがたいところも顕れず、その混雑をより分けて、真の道の害となることを、言い表そうとするにつけては、よく先の事を知らなければ言えないのです。 中国人の蘇子由(そしゆ)も言っているとおり、こちらのことばかり言っていてはいけないものです。たとえば僧侶が諭すときは仏書で言われるとギュウの声もでません。儒者が諭すときは、儒書で論ずれば、猫も追われたネズミのように畏まります。しからば我が国の純粋な正しい道を獲ようとするには、ここのところを心得なければかなわないのです。 ことに諸々の学問の道、たとえ外国の事にしろ、日本人が学びますからには、そのよきことを選んで、日本の用に役立とうとするのです。そうすれば実は中国はもちろん、インド、オランダの学問をも、すべて我が国を学ぶといっても違いないほどのことです。すなわちこれが日本人にして外国の事を学ぶ心得です。 さて、我々の先師たち以来、私も及ばずながらこのとおり気をつけて、人にも講説いたしますからには、何ごともこの学問の本意に背かないよう、背かぬようにと吟味に吟味を重ねて、古人先達の公論明説(こうろんめいせつ)に基づき、その説を講説をいたしますものの、広範な事のなかには、考え違いや、言い違いもあろうと存じます。なぜならば、篤胤はもとより不敏の性質にして、なかなかに世の中の多い数多い事柄の、万分の一も知り得られるものでないことですから、考え違いもあることでしょうと、それは常に心づかいしていることです。 よって、今お聞きになっている方々の内、門人に限らず、「いや、それはそうではあるまい」と思われるお方があったら、その思うことを言ってくださるがよろしい。その意見が実に理にかなうならば、速やかに改めるものです。また不審なこともあったら質問して欲しいものです。また神のことを申すに至っては、とんと世間普通の学者等の申すこととは違っていますから、さてこれは、今まで思ったこととは異なることだ、「鬼神(きじん)には陰陽の二気が備わっている、鬼神は造化(ぞうけ)【造物主】のしるし」と聞き及んでいますのに、平田の説く口からは、信じがたいことだと思うこともあるでしょう。これは私も元はそのように思ったことがあったもので、それもさらさら無理とは思いませんから、そのようなこともありのままに、ご不審を承りたいのです。 中国でも疑わしい事は質問しようと思っても、「どうしたらよいだろう、どうしようかと自問しないような人は、私にはどうしようもない(論語)」とも言い。又、「太鼓や鐘なども、叩かなければ鳴らない」ようなものだと古人も言って、問答のたとえにしましたが、真にそのようです。何とぞ今日を始めとして、これからも投げ出さないで、神のありがたいところ、道の精妙なところまで、学びつき寄りつき、聞き干そうと志をふり起こされますように致したいものです。ただしこれは今日始めて、この席に出られた方々にばかり申すものです。 上巻 1-2に続く |
「現代語訳・古道大意(2)」を転載する。 |
上巻1-2 「古道学の系統」
まず第一に申しておかなければならないことは、私の学風を「古学」と言い。学ぶ道を「古道」と申すいわれは、古の儒仏の道がまだ日本に渡り来る以前の、純粋な「古のこころ」と「古のことば」をもって、天地の始めよりの事実を素直に説き考え。その事実の上に、真の道が備わっていることを明らかにする学問であるため、「古道学」と申すのです。
そもそもこの学風の由ってくるその始めは、東照大神君がその糸口を開かれ、公子尾張の源敬公、そのご意志をつがせられ、さて水戸の中納言光圀卿(みつくにきょう)が大いに勢いを盛んにされたのです。光圀卿とは、世に水戸の黄門様と申すお方です。この殿が世の中にただただ中国の学問ばかり行われて、我が国の古い御代のことなどは、心とする者がないことをお嘆きになり、第一には宮中を殊の外ご尊敬せられ、数多くの学者をお抱えになり、世の中のありとあらゆる古書をお集めなされ、また諸国の神社仏閣、および全国各地に数多くの人を派遣されて、いささか一枚二枚と足りないものまで、古い書物ならばことごとくお集めなされ、それを明細に御吟味されて、神武天皇の御代より後小松天皇の御代まで、御代は百代、年数は二千年余りの間のことを、つぶさにお選びなされ、『大日本史』という歴史書をお造りなされました。又『神道集成』というのもお撰びなされました。又古書はもとより、殿上人の世々の御記録を始め、数百部の書物の中より、朝廷の御礼儀に関わることがらをお集めなされて、全部で五百巻余りの書とされたのです。 この大事業の資金として、御意石高三十五万石の内、十万石を分けておかれて、誠に数十年の御辛労をもってついに御成就なされました。これを朝廷に奉られたところ、朝廷でも御感慨斜めならず思い召して、その五百巻の御書物に『礼儀類典』という御題をお付け下されたのです。
又その頃大阪に契中(けいちゅう)という人があって、この人はわけあって真言宗の僧となりましたが、篤く我が国の古を信じ学んで、中頃から乱れてきたかな遣いを、古書の古言を証拠としてこれを正し、『和字正濫抄(わじせいらんしょう)』という書を著し、その他いろいろ発明の書物をつくって有名となり、光圀卿のお耳に入り、ことのほか気に入られ、たびたび御使者を遣わされ、「お会いされたい」と仰せられました。契中は固くご辞退申して、まかり出なかったのです。ところが光圀卿は大変にお慕いされて、安藤為章という国学に志が篤い家臣を契中の門人として遣わされました。
また『万葉集』はことのほか古い歌集で、歌のみならず、博く古を考える助けとなるべき結構な書物ですが、その頃までにある注解は、いずれもよろしくないので、よく古に叶った注解つけるようにお頼みされたのです。契中は畏まって、ついに『万葉集代匠記(だいしょうき)』というものを撰んで差し上げました。私の万葉学はこれより始まったのです。光圀卿それをご覧なされたところ、今までのあらゆる注釈とは異なり、ことごとく古言古意を尋ねてこれを記し、はなはだ優れたものでしたから、大変にお喜びになり、白金千両、絹三千匹をくだされたのです。契中(けいちゅう)はその賜り物をしまっておかないで、ことごとく貧乏な者に与えられたということです。
また先の『代匠記』を作るとして、おびただしく古書を集め考えたとき、その余力をもって『古今集』へも解説を下して、これを『余材集(よざいしゅう)』と名づけたのです。これを以てその時分まであったところの注解とは雲泥の違いにして、誠に立派なものです。その契中は元禄十四年一月二十五日に年は六十三才で亡くなりました。その著した書物は全部で二十五部、巻数は百二十巻余りもあるのです。
この契中に追いすがって、荷田宿禰東麻呂翁(荷田春満 かだのあずまろ)、俗名を羽倉斎宮という人が出られて大きく国学をもり立て広められました。四方にその名が高まり、国学の学校を京都に建てようと、公の許可を受けて、その地を東山にしようとしましたが、その事を果たせず、病で亡くなられたのです。この翁、著述の書数が数十部、巻数は百巻余りあったということですが、思うことがあるとして、末期に多くを焼き捨てましたたので、今はわずかに残ったものが五、六部、数巻しか無くなりました。しかしながら、わが古道学の道筋を立てられたのはこの人です。
この次が賀茂の縣主真淵翁(賀茂真淵 かものまぶち)、通称岡部衛士という人が出られて、家の名を「縣居(あがたい)」とつけられたので「縣居の大人(あがたいのうし)」また「縣居の翁(あがたいのおきな)」などと申すのです。さてこの翁、荷田大人の門人となり、その志をついで勉学されました。その先祖はカミムスビノカミの御孫、カモタケズヌノミコトと申して八咫烏(やたがらす)となって神武天皇を導き奉られた神で、縣居の翁はこの神の子孫です。代々遠江の国浜松の荘、岡部の郷にあります。賀茂の新宮をついだ正しい家柄です。真淵の翁より五世の先祖の政定という人は、引馬原の戦で大功があって、東照宮より来国行が打った刀と、丸龍の具足を賜ったほどの人です。
さてこの真淵の翁は、その師東麻呂翁(あずまろおう)の上をなお一段上って、なお深く考え、始めて古の道を明らかに得ようとするには、中国思想、仏意を清く捨てなければ、真のところは得難く、歌を詠むも、古の言葉を解くにも、みな神代の道を知るべき方法であることを、懇切丁寧に諭されました。そしてついには田安の殿に召し出され、国学の師範となられたのです。その門人にも優れた人が多く藤原宇万□、楫取魚彦、また近頃まで生存した加藤千陰、村田晴海なども皆この翁の弟子です。そしてこの翁は明和六年十月に行年七十三才で亡くなられました。その著した書物が四十九部、巻数が百巻近くあるのです。
その次が、我々が師と仰ぐ本居先生の阿曾美宣長の翁(本居宣長 もとおりのりなが)です。始めは医者でありましたから、本居瞬庵と称しましたが、後に紀伊の国中納言に召し出されて、中衛と改めました。その先祖は桓武天皇の末裔、池大納言頼盛卿六代の後胤、本居縣判官平建郷というお方の末裔で、伊勢の国松阪の人で、屋号を鈴の屋とつけられたことから、世に「鈴の屋の大人(うし)」とも、「鈴の屋の翁(すずのやのおきな)」とも申します。さてこの翁の学問の偉大なことは、その著された膨大な著書を読まれればよく分かることで、申すまでもないことですが、その始めは、中国の学問を深く学ばれて、それから国学に移り、縣居(あがたい)の大人(うし)に従ってその大志を受け継がれ、学問の道に於いて古より類なき大功をたてられました。
その趣旨のことをかいつまんで申せば、まずその著書『ウヒ山踏』という書の主旨は、「人として人の真の道はどういうことかということを知らずに居るべきではない。学問の志のない者はどうにもしかたがありませんが、かりそめにもその志があるならば、同じくは真の道の為に力を用いるべきだ。然るに道のことをなおざりにしておいて、ただ末のことばかりにかかわっているというのは学問する者の本意ではない」と言われ、「又学問は始めよりその志を高く大きく立て、その奥の所まできわめめ尽くさないでは止むまいと、堅く思いこむがよろしい。この志が弱くては自ずから倦む、怠ることがでるものだ」とも言われました。この通り人にも教えられる程のことゆえに、自分では実にこの通りにされたのです。これも又その著書を読めばよく分かることです。
又その心の公にして私がないことは、弟子たちに戒めた言葉に「我に従ってものを学ぶ方々は、私の後に又よい考えが出来た折りには、必ず私の説に従わなくてもよい。私が言いおきたることにも間違ったことがあるならば、その違っている理由を述べ、よき考えを広めよ。一体私が人を教えるということは、道を明らかにしようとのことだから、とにもかくにも道を明らかにするのに我をつくすのだ。その訳を思わずにして、いたずらに私を尊ぶのは、それは私の本意ではない」と『玉勝閒(たまかつま)』という書に書いておられます。 又村田橋彦という人が同国白子の人で、翁の門人になりたいといって、手紙をやりとりした翁の返書を所持していますが、その中で言われたことは、「皇朝の学問においては、秘事口伝などと申すことは露ほどもないのであって、そのようなことを言うのはみな邪道だ。多くの道を説き聞かせることが本意であって、門弟でなくても、外においても、秘密にしておくことはさらさらない。とはいうものの、皇朝の古道にご執心なことは、ご殊勝であり、なによりも悦ばしく存知申し上げる」と書き送られたこともあるのです。
世間の歌学者、神道者などと名乗る連中が、たとえば歌学者ならば、「三木三鳥」の伝だの、「てにおは」の伝だの、「古今集」というものの伝授だのと言います。また神道者流のいう、「天の浮き橋」の伝だの、「土金の伝」だのということを言って騒ぎますけれども、これらは皆なその下心に汚いものがあるためすることで、真の公の学問をする者が、そんなおかしなことはしない方がよいのです。それは鈴屋の本居先生は、これからだんだんと申すとおり、同門佗門(だもん)の差別なく、知っていることは惜しみなく伝えて、清く明らかに学問の筋を立て教えられたために、始めのうちは、かの秘事口伝(ひじくでん)を専門とする連中には、たいへんに憎まれましたが、ついにはそのお心のとおり世に広まり、その門人帳を見ると、弟子のいない国は、国内六十六ケ国中、ただ二ケ国しかないのです。ことに享和元年の春、京へ上京されて、四条にお宿をとっておられたおりには、公家のお歴々がた、学問の公に心がけられるお方は、翁の宿舎へお尋ねになって、ご入門なされました。世の中に知られた中山中納言殿をはじめ、富小路新三位殿、芝山中納言など、その他おびただしかったのです。 既にその頃御歌の宗匠であられる日野一位資枝卿ですらご感心のあまりに、お孫の日野中宮権大進殿というお方を遣わされ、翁を師とお頼みなされました。そして入学された時のお歌が「和歌の浦に行くえをたどる海士(あま)の小舟 今日より君を梶とたのまん」と仰せられたのです。この意味を簡単に申せば、和歌の浦という浦に行方をたどっている海士の小舟に自分を見立てて大和歌の道をたどっている身の程ですから、今より貴方を師匠とお頼みしたのでございます。この他にも御尋ねたる御方々は、この心映えのお歌をお読みなされて、いずれも翁をさして、本居先生、鈴の屋の翁、又は鈴の屋の大人とお尊びあそばし、お頼みなされて、翁の講説をお聞きなされ、閑院の宮様、妙法院の宮様までも、翁を召されてお慕いあそばしました。実に千古の昔よりこのようなことはなかったのです。
さてここに一つの話があります。それは今の世に戯作者(げさくしゃ)というのがあって、あちこちの書物を見かじり、あそこを取ってここへ継ぎ、無いことも有るように、面白おかしく書き取ってそれを渡世しておる者ですが、とかく小利口に立ち回って、面白そうなことは猿のように人まねをします。既に本居先生の、古にタカミムスビノカミと申す神が天上にましまして、世の中の万物人種をもお造り出しなされたということを、その著書に何度も述べておるのです。またオオマガツヒノカミと申す神がおわして、世の中の悪いことを司ります。 又オオナオビノカミと申す神がおられまして、その悪い事を良い方に返そうとなされます。これも古書によって言いおかれたとみるやすぐさま、善玉悪玉という戯作本をつくって、天道さまが竹の管でもって子どもがシャボン玉を吹くように、図などを書いて世に広め、また今流行っている五冊ものとかいって敵討ちや、因果話を書きつづったのをみると近頃出来たものほど古い言葉を交ぜて書いています。また一人でぶつぶつと小言をいうことを、古い言葉では「一人ごちて」と言います。その戯作本にこんな言葉もあります。また俗に「それはこれは」というのを「そはこは」と言います。このような言葉も戯作者がまねて書きます。これはどうして彼らが知って書くのかといえば、みんな我が翁の著した書物が、古の言葉で書いてあるために、それを見よう見まねでやってみるのです。 ここに又おかしいことがあるのは、我が同門の者のところへ、俳諧をする者が来て、その者が庭に亀の子が来たとして大変に喜び、そのことを文章らしく書いて、持ってきて直して下さいと言いますから、それを書き直し、亀の子が「不意に来た」と書いてあったところを「ゆくりなく」と直してやったところ、その人が言うには、他はよいですけれど、この「ゆくりなく」という言葉があっては、今流行る五冊物のようで悪いですから、昔のよい言葉に直してもらいたいと言いましたので、これには同門の者もあきれたという話です。なんと戯作者どものしわざにしろ、その真の言葉が俗の言葉だと思うほどに、翁の徳は行き渡り、世にまたといない翁ですけれども、世の人は知りません。耳の悪い、所謂つんぼの者は雷が鳴ってもとんと聞こえない。盲人はいかなる面白いものも見えないようなもので、世に道を学ぶとか、学問するとかいう人々も、知らず知らずその徳を蒙っておられるのも、この翁がそれほどありがたい先生であることを知らないのです。 さて翁の著されたる書物が五十五部、巻数が百八十余巻あって、いずれもいずれも学問する者は常に傍らから離されぬもので、一部一冊として人の心を打たないものはありません。さてこの先生は享和元年9月に享年七十二才でお亡くなりになられました。 そもそも中古に儒教・仏教の道が渡ってきて以来、世の人々の心がその風に移ってしまい、古道の心はおろそかになって、次第に乱れ世が経つに従って、古の道は絶えたようになりました。足利将軍が天下を治めた頃は、真に乱世の極みでありました。織田信長公、豊臣秀吉公と次々に出られて、大きく悪弊を鍛え直されて、天下の人はほぼその威勢に服しましたものの、なお人心は穏やかにならないところに、徳川家康公が武徳を持って天下を治められ、その仁徳が行き渡らないところはなく、人々は忠孝の道を心得、尊内卑外の旨をわきまえて、次々古に帰っていく中にも、世を治められるには古道を学ぶべき事が第一であることを思い召されて、天下に命ぜられ、古書をお求め遊ばされ、緊要の書などはことごとく書写を命じられ、京都にも、江戸にも、駿府にも置いておられたのです。これらのことはその頃の記録を拝見いたせば明らかです。 さてその多く集めさせた古書類を尾張の源敬公に預けられました。源敬公はこれによって、『神祇宝典』、『類集日本紀』などという書が撰ばれました。又水戸の源義公はそのお志を継がれ、有用な書をお撰びになられたことは先に申したとおりであります。これにより世に広まり、この学問を学ぶ人がだんだんと出た中に、身分は下ながら、荷多宿禰羽倉東萬翁、加茂縣主岡部馬淵翁、平阿曽美本居宣長翁、この三人の大人たちなど、次々に励み学ばれ、その門人も多く、今やこのように真っ盛りとなられ、我輩に至るまで太平の御徳化を蒙って、心豊かに古を学びつかまつることとなったことは、ありがたしとも、尊しとも、讃える言葉もないのです。なおこれらのこととは別に、詳しく記したものがありますが、ここでは駆け足で話すために、概略のまた概略を申すのです。 |
「現代語訳・古道大意(3)」を転載する。 |
上巻 1-3 「古道学のよりどころ」
さて、私の説く道の主旨は、何をより所とするかといえば、古の事実を記してお伝えされた、朝廷の正しい書物に基づくもので、真の道というものは事実の上に具わっているものです。それなのに、とかく世の学者どもは、ことごとく教訓というのを、書き表した書物でなければ道は得られないものと思っている者が多いのです。これはたいへんに心得違いのことで、教えと言うものは事実よりたいへんに低いものです。その訳は事実があれば教えはいらず、道の事実がない故に教えということがおこるのです。中国の『老子』という書にも、「大道すたれて仁義あり」と申したのはここを見抜いた言葉です。
ことに教えというものは人の心には親しくは沁みないもので、たとえば武士を励ますのに「戦に出たからには先駆けせよ、人に後れるな」と書いた書物を見せるよりは、古の勇士達の、人に先立ち勇猛果敢に闘い、高名をなした事実の戦記物を見せた方が、深く心に沁み込んで、私もいざ事があれば、昔の誰々のように、あっぱれにやって見せようという、勇猛心がふり起こります。「先駆けせよ遅れをとるな」という教えでは、そこまでは心をふり起こさないのです。 また、最近では「主君の仇は討つべきものだ」という教えを聞くよりは、大石内蔵助はじめ四十七人の義士が千辛万苦の難儀をして、主君朝野内匠頭殿の仇、吉良上野介殿を討った実の話が身にしみじみと、髪も逆立ち、涙もこぼれるほどに、心に深く沁みるのです。これはどなたでも心に覚えがありそうなもので、特に教えというものは、その人の心のありさまや人となりがよからぬ者が言った教訓でも、書物として残してあり、如何にももっともらしくみえるのでものです。中国の教えの書物というものにはこれがけしからずに多いのです。あるものには、主君を殺して国を奪った者の教えや言葉にさえ、誠に金科玉条と言って、玉とも金とも言いそうにもっともらしく書いてあります。しかしながらその本当の行いを見れば、主君殺しの国賊であるからにして、もっともらしく言っている事柄は、みな空言と言ってソラゴトであります。実がなく、その書き連ねたる所ばかりが立派では、それは山売りの能書きを見たようなものです。これらの訳を夢にも知らず、この教えの書物でなければ道は得られない、教科書としてなくてはならないと思って、世の常の学者や道学者などという輩が、そればかり唱えていることは片腹痛いのです。
中国でこれらの訳をよく心得たのは孔子一人のようです。そのお言葉とは、「孔子が思うには、人を教えますのに、それはそうするものではない、これはこうするものだというように、もっともらしき教えを書いて人を諭そうと思いますけれども、それでは人の心に入りません。だから、それよりはこれを、人が行った事実を書き著して見せるほど、深く懇切丁寧に、著しく明らかに人の心に染みることはない」というのです。このようなお心ゆえに、孔子は教えの書としては一部一冊も作らず、ただ『春秋』と伝記録を調べ直して、誰それはこのような悪行があった。誰それはこのような善行があったということをありのままに記して、その記録を読めば、自ずからその中に、ちゃんと悪を懲らし、善を勧めることを、人が気がつかないように書き取ったものです。 実に孔子の生涯に渡る大成果と言うのはこの『春秋』であります。それ故に「私の志は『春秋』にあり、また我を知る者はただ春秋か、我を裁くのはただ『春秋』か」と申したのです。これは私が存分に志を込めて記した書物は『春秋』なのだ、この『春秋』が世に伝えわたり、後の人がこれを見て、いかにも孔子は道をわきまえた人だと知ることが出来るのが『春秋』なのです。また国家の君主にしろ、主君殺しは主君殺し、親殺しは親殺しとありのままに記したために、これは孔子は遠慮がないのですと、後世の人が私を罪に陥れるのもこの『春秋』なのだという意味です。 これほどに心を込めて書いた『春秋』ゆえに、大変に実のあるもので、この心が良く見えるのはこの書を越えるものがないからなのです。しかしながら大方の世間の儒者どもが、儒教の書の上でも、このように確かな教えがあるのも知らず、ただただひねくった理屈の教訓を書いているのは、己が本尊とする孔子の本意を会得もせず、『春秋』をよく読まないからの誤りです。なんとこれで真の道というものは教訓の書ではその旨みが知れなく、事実の書物でなくては、真意は得られないのだということがお分かりいただけると思います。 「古事記の成り立ち」
ただ今申したとおり、真の道というものは教訓ではその旨味が知れません。従ってその古の真の道を知るべき事実を記してあるその書物は何かといえば『古事記』が第一です。その『フルコトブミ』というのは世間の人が『古事記』と覚えている書物がこの『フルコトブミ』というのであります。
さてこの書物がどうして出来たものかといえば、カケマクモカシコキ神武天皇より、第三十九代にお当たりあそばす天武天皇のありがたくも厚いおぼしめしを立たせた御事です。一体その以前に、古くから朝廷にも諸家にも書き伝えたもの、天地の初めよりの、古い伝説の御書物が有って、それが神代の古い言葉のままに書いてあったのです。ところがそれには各々に誤りもあり、又まぎわらしいこともあったというのです。そこで天武天皇が御心づきなされて、このようにまぎわらしい説があっては、今この時に正しい事実をも撰び定めなければ、後世に至ってどれを是とも、どれを非とも分からないようになるだろうと仰せられて、その朝廷の御記録はもとより、諸家の記録などを集めて、詳細に御吟味あそばされ、いささかも紛らわしいことなく、正しいことを調べ上げ、お撰びなされた書物です。もっとも神代の古言のままに、言葉の清み濁りをさえ厳重にお調べなされて、違わないように誤らないようにと、まず御自らの口にてみうかばされたものです。 その頃、稗田阿礼(ひえだのあれ)という女性がおって、年は二十八才、殊のほかに利発で聡明なお方で、口で誦み耳に触れたことは心に刻まれて、決して忘れるということはないお方でした。そこでその阿礼を召されて、先の調べに調べ上げられたる所の、天地のはじめより、御父帝舒明(じょめい)天皇までの御事を、天武天皇が自らのお口からお教えになられ、それをとっくりと稗田阿礼に唱えさせて、口直しされあそばしたのです。 これは我が国は始めから、言霊(ことだま)の幸(さきわ)う国と、古語にもあり。言語の道を守り幸(さきわ)う神がおられて、その言語の上にことごとく精密なる、真の道の趣がこもっているのですから、それを違えないように、失わないようにと重く思い召されて、読み浮かべて、言葉の清み濁り、上がり下がりまで心を配られたる上に、御書き取らせたという、厚いお心でおわしました。しかし、そのうちに御代が替わって、このお次が持統天皇と申し上げ、そのお次が文武天皇と申しあげます。 ところがこのニ御代の間に、如何なる故なのでしょうか、ただ稗田阿礼が口で誦うかべていたばかりで、お書き取りはなされなかったのです。その次を元明天皇と申し上げます。この時阿礼は、もはや五十有余であったのです。ところでこの御代の和銅四年九月十八という日に、朝民の太安万侶(おおのやすまろ)という人に仰せ付けられて、それをお書き取らせ、翌年正月二八日という日に、記し終わらせて献上されたのです。これが即ち太安万侶の表序に書かれた趣旨で、この書が即ち『古事記』です。 この和銅五年が、今この文化十年よりは一千八百年になるのです。さればこの『古事記』は、天武天皇の厚いおぼしめしで、御自ら古伝説の正実な所をお選びなされて、御誦みうかばされた古語ですから、世に類もない、いとも尊き御本です。もし元明天皇の御代に、そのお志をお継ぎなされて、お書き取りなされなければ、このような尊くてありがたい古語も、稗田阿礼の命と共に失い果てるところであったろうに、ありがたくも和銅の御代に、記していただいたおかげで、今の世にまでも伝わって、このように拝見させていただけるのは、まことにありがたいことです。かりそめにも道に志す者は、頭上に捧げ持ち、天武天皇、また元明天皇の二御代のありがたきおぼしめし、また稗田阿礼、太安万侶の御徳を忘れるべきではないのです。 上巻 2-1に続く
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(私論.私見)