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平田篤胤大人『立言文』に曰く、
「三皇を祖述し、三墳の既に隱れたるを索む。五帝を憲章し、五典の僅かに存するを探る。八卦を論定し、八索の遺威を拾ふ。九州を觀察し、九丘の全備を志す。
或る人、予に赤縣(支那)学の稽式を問ふ。予、答ふるに、かくの言を以てす焉。蓋し三皇とは、天皇氏・地皇氏・人皇氏を謂ふ也。五帝とは、太□[日+皐。以下「昊」字にて代用]・神農・黄帝・小昊・□[瑞の右+頁]帝を謂ふ也。伝に於いて、三墳・五典・八索・九丘は、即ち上世、帝王の遺書を謂ふ也、恐らくはその書有るのみ焉耳。而してこの八氏(三皇・五帝)、素より赤縣の生ずるところに非ず焉。寔にこれ我が青華(皇国)の神眞、恭しく天祖の命を承けて、而して彼の州に君師として、一に大同の制を執り、而してその民を教養し、始めて之に道徳を伝へ、且つ之に典要を授くる者也。
道とは何ぞ。天は地の綱と爲り、神は人の綱と爲り、君は臣の綱と爲り、父は子の綱と爲り、夫は婦の綱と爲る、これなり。徳とは何ぞ。曰く敬、曰く義、曰く仁、曰く智、曰く勇、これなり。典要とは何ぞ。政刑・兵陳・律暦・度量・文字・卜筮・医薬、凡そ天下を經綸し、民用を綱紀する所以の者、これなり。
抑々我が惟神の本つ教へは、唯一の帝道、もとよりこれその道の質也。我が先皇、茲に鑑みたまふことあり。故にその名を仮りて、以て皇猷の贊と爲したまふ焉。学者、或いは云ふあり、「堯・舜を祖述し、文・武を憲章する者也」と。予謂ふ、「その説や、彼の土に於いては、則ち或いは可ならむか歟。天朝に於いては、則ち皇統、素より侘を以て嗣と爲すの例なく、朝憲、既に臣を以て君に代ふるの道なし。則ち公簡の格、以て察すべきかな。この故に之を三五(三皇・五帝)の古始に執り、以てその学の道紀と爲す」と。
語に曰く、「太上、徳を立て、その次は功を立て、その次は言を立つ」と。吾れ惟だ我が宗とする所を宗とす。而して独りその言を立つるのみ。また豈に敢へて信を不信の人に強ひむや。その詳なること、『赤縣太古伝』を見て、視るべし焉。
時に天保四年、太陰、癸巳に在る孟冬九日庚子、太一、中宮に在る天禽の日・天禽の時。大壑 平篤胤、謹志す」。 |
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