古道大意4 |
(最新見直し2013.12.14日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、平田篤胤の著書の「古道大意1」を確認しておく。出所は「務本塾・人生講座」の「現代語訳・古道大意(10)」、「現代語訳・古道大意(11)」、「現代語訳・古道大意(12)」である。ここに謝意を申し上げておく。 2013.12.14日 れんだいこ拝 |
【古道大意1】 |
「現代語訳・古道大意(10)」を転載する。 |
下 巻 4-1
さてこのとおり神の子孫、神のご本国ですから、日本は万とある外国とは天地の隔たりがあって、何もかも不足なことはなく、満足でうるわしいのです。第一に、命をつなぐ米穀が世界で一番きわだってすぐれており、このきわだった風土水土の国に生まれて、見事な五穀を、トヨウケヒメノミコトすなわち伊勢の外宮の神様の厚いお徳によって、飽きるほど食べているために、我が国に生まれた人は持って生まれたものと合わせ、外国の人とは同じ年とも思われないほど、雄々しく聡明さが優れているのです。
ただしこのように、古伝説の事跡をもって解明し、誠のことを話しても、外国の勉強で惑わされている人や又生半可な知識人は、「平田は何もかも我が国がよいと言うが、それはひいきの引き倒しではありませんか」などと言う人もありましょうが、そのような人には日本の真実をもって聞かせても、なおかれこれと言うものです。そのような人には天文地理及び外国の説でもって、日本が万国に優れているということは、この天地の間の公論であることを示そうと思うのです。
わが鈴の屋の翁が詠んだ歌に「アヤシキハコレノ天地ウベナウベナ、神代は殊ニアヤシク有ケン」と詠まれました。コレノというのはコノトというのと同じこと、又ウベナウベナというのは言偏に若という字を書いた、諾の字の意味で、俗に申せばなるほどという意味です。この歌の意味は、世に霊(あやし)き物というのはこの天地である、そのアヤシキ天地の、今始まると言う神代のことですから、又ことさらに奇々妙々であることが多くあることだろう。実に道理である。という意味です。アヤシク有りケンとは俗に言えば不思議であろうという意味です。さてこのように詠まれたのは、世間の人が神代のさまざまなアヤシキ事柄はあってはならないことと異議を唱えて疑うために、そのように疑うのは却って愚かなことだということをよく分かるように詠まれたものです。
さてこの霊(あやし)く、奇々妙々なる天地の始まりのありさま、また天地と別れた、おおかたの様子は、前の二回で、神代の古伝説に基づいて、概略を講説したとおりです。一体この大地は前回のお話のように、その初めは浮き雲のようで、その形状は言い難いもので、大虚空(おおぞら)の中に漂って寄りかかるところはなく、例えば一つのマリをつき上げたようにして、何とも不思議で、奇々妙々なことです。これによって思うには、あの天の浮橋を天地の間に浮かべ、自由に飛来したなどとは、更に疑わしいことではなく、これらのことを思い合わせて真理を知っていただきたいものです。
「大地球の天文地理」
そもそも天は動かず、地球が動き太陽を巡るということは、外国の説を借りる必要もなく、元から我が国の古伝でも明らかなことですが、天文地理のことについては西洋人が考えた説が一番詳しく、誰が聞いても分かりやすいものですから、今はその説によって申し上げます。
さて、その地球の形はまん丸な物です。近ごろ占い師などが持っているものに、マリのように丸くして、そこに国々を貼り付けて、その外に種々の輪を回したものがあります。あれは渾天儀(こんてんぎ)というもので、あの丸くして国を貼り付けたのがこの地球の形で、丸い物であるから地球と名づけたもので、地球の球の字はマリという字です。さて、その大地球の周囲は海と陸地とで出来ております。身近なことで話せば、その窪みの所には水がたまって海と川になり、また高い所は陸地で、中に飛び抜けて高いのが山と思えば間違いがありません。ことわざに六海三山一平地と言って、この大地の周囲が六分ほどで海、三分は山、一分は平地だということです。又あるいは海と陸地とは半々だという説もあります。
その大地球にある陸地を五つに分けて、第一をアジア、第二をヨーロッパ、第三をアフリカ、第四を南アメリカ、第五を北アメリカと言います。これを五つの大陸といい、また五大州とも申します。我が国、中国、タタール、インドなどはこの第一のアジア大陸の一部で、我が国からタタール、インドなどを合わせたほどの大陸がまだ四つもあるということです。その五大陸を合わせたよりも、まだまだ海となっている所は多いから、なんとめっぽう大きいものではないでしょうか。それほどに大きな物がこの大空の中に浮き漂っていて、落ちることなく、上がりもせずにいることをどうして考え知ったのでしょう。それは、前に言ったヨーロッパの人々は自由自在にこの大地球の周囲を船で乗り回し、国という国に行っていない所はありません。
そのヨーロッパの中でも、小国ながらオランダという国は、世界中を自由自在に航海するには、天文地理に詳しくなくてはならないことですから、これを第一の学問としたものです。その上にたいへんに気長にものを考える国民性で、底の底までものを考えます。その考えるためにと、いろいろの測量の道具を作りました。たとえば日月星のありさまを見ようと望遠鏡や遮日鏡(ぞんがらす)をつくりました。又その大きさ遠さ近さを知ろうとして測量の道具を考え出しました。考え出すにも五年十年、もしくは一生もかけ、一代で考えは果たせないことには、自分の考えついた所までは書き残し、その後を子孫や弟子の者が、何代も何代もかけて考えるのです。その器械を用いて道理のあることやないことを考えつけようにとするのです。
しかしながらすぐれた国で、唐などように推量の上すべりなことは言いません。そのために、どう考えても知ることができないことは、これは人間としては知ることができないことです。造物主(ゴット)という天ッ神のお仕業でなくては推し量ることはできないことだ。とおし推量なことは言わないのです。その通りにして千年二千年の間に数百人の人々が考えに考えて、煎じ詰めた説が、書物となって日本にも献上されて有るために、それを見て今このように話しているのです。
さてこの地球が丸い物で、虚空の中に浮いているのが間違いない証拠とは、船で東へ東へ乗って行くと西に出ます。これで丸い物体という説が動かないのです。そのように丸い物であれば、どこを上とも下とも言い難いようですが、この丸く見える地球に、北極南極と言って全く動かない所があります。これは例えば車に車軸があるように、又石臼にヘソがあるようなもので、この外は星でも何でも巡りますのに、これだけは巡らない、それだから極と名づけたもので、極とはきわまるという字です。この北極南極を中心にして上下を定め、三百六十に割ります。ただし少し余りが出ます。その三百六十余りをこの大地に割りつけて、その一つを一度といいます。一度の広さが日本の里数では大抵三十里程に当たります。天地の度数というのはこのことです。この度数の当たりようで、寒国とも熱国とが分かり、それによって国の善悪も定まる。我が国はこの天地の度数に当てはめて言えば、丁度三十度から四十度までの間に当たります。これは三百六十度の内では一番好い風土で、我が国の四季の気候が中正で過ごしやすいのはこのためです。さて一度を三十里として計算すれば、この地球の周囲は一万八千里です。又周囲が一万八千里あれば、その直径がおおよそ三分の一程ですから、三千四百四十里ばかりあろうと言うものです。
さてこの天文説が我が国に伝わって、これを初めて世に広めたのが、長崎の西川求林斎と言う元禄前後の人です。この以前は天文地理や万国の事などは全く分からない、だらしのなかったのものですが、あの誰もが知っている『天経或問』という書を著し、また『華夷通商考』という万国の風俗などを載せた書を作ってこれを世に広めました。この外にもいろいろな著述があります。これから世間の人も万国のことをおおよそにも知るようになったのです。この人は愛しくも御国魂のあった人で、その西洋の天文地理の説及び唐の説によって、『日本水土考』という書物一巻を著したのです。
さて先ほど申したように、五大州の内の第二に当たるヨーロッパ諸国の人々は、この地球の全体を自在に乗り回して、万国の実態をよく見たり聞いたり尋ねたりして、その国々の風俗・産物・気質・土地柄のことまでをよく考えて、あのワラビの芽や、ミミズのようなオランダ文字で詳しく記した書物が色々あるのです。それを我が国の言葉に翻訳して、万国のありさまを一目で見えるようにしたものが、山村才助晶永の『増訳采覧異言』といって十二巻、しかも国々の図も付いています。これは荒井筑後の守白石先生の『采覧異言』と言う書を増補したもので、実は公儀の支援で出来たものです。万国のことを知るにはこの位のことが分かれば十分です。
ただしこれには我が国のことが漏れています。その訳は日本のことは誰でも知っていることですから、外国人の評価を聞くまでもない。ということのようです。これは実にもっともなことで、そうであるべきです。又我が国の事ですから、誰でも知っていそうなものですが、やっぱり知らない人の方が多いのだ。これは普通の人ばかりではなく、学者と呼ばれる人が大抵このようなもので、却って我が国のすばらしいことを卑しめて見下し、外国が良いと心得ているとのはあまりなことです。例えば常に米の飯を飽きるほどに食べている人は、それに慣れて何とも思わず、常に麦飯やヒエの飯ばかりを食べている人々を羨ましがるようなものです。 「外国から見た我が国の真実」
さて、その遙か西の国より渡り来た書物の中で、「ベンケルイヒンギハンヤッパン」という書がある。これを私の言葉に直してみると「日本の志」ということになります。これはエンゲルベルベルトケンペルという者が書いた書物で、この人は万国の事を詳しく知ろうとして、どこの国と言うことなく渡り歩き、我が国のことも調査するために、オランダ船のカピタンという役人となって、正徳年代に我が国にも来て、京も江戸も見ています。あの『万国風土記』を作って万国に名を知られ、後世にそれで名を揚げようと思う心から成し遂げたものですから、それはそれは精密なものです。これは外国の中でも大変に遠い国ですから、何も我が国に限って贔屓(ひいき)するはずもなく、何ということはなく万国を歩いて見たところが、世界の中で日本ほどすばらしい国はなかったから、そのことをありのままに記したと見えるのです。我が翁は「天地ノソキヘノキワミマギヌトモ、御国ニマシテヨキ国アラメヤ」と詠まれましたが、実にそれにまちがいがないことがその書物でよく分かるのです。
「日本の地理の恵み」
その書の概要をかいつまんでお話しすれば、まず我が国を非難する人のように言えば、「日本人がしっかりと錠でもおろしたように、諸々の外国と通商を行わず、日本人を外国に出さない。又外国から、どうか交易をしたいと言って願っても、取り上げないとはどういうことか。一体この地球に住んでいる人は、皆な心安く交わりをするべきことなのです。これは造物主と言って、天地を始め人間及び万物をお造りされる、天ッ神の御心なのです。それなのに日本人が万国の人と交わらないというのは、それはわがままなことで、天ッ神の思し召しとは違うというものです。ガンやツバメでさえ外国へ行ったり来たりするではありませんか。それは人としてガンやツバメにも劣っている所業ですが、どうですか」と一つ難問を出して、これに言い開きしたものです。
これを自問自答の文法と申しまして、まず自分でわざと難問の言葉を起こして、又自分でその訳を答えるのです。さてその書の答え方は、なるほどそれは一通りもっともなような言い方ですが、そうでもないのです。日本が外国と交わらない訳を、私が付け加えて、詳しく答えるのでとっくりとお聞き下さい。
「まず日本国の幸せでうらやましいことは、異国の人と交易しなくとも、全く困ることがないことである。それはまず地勢に恵まれていて、外国の産物を取り寄せなくてもよいからです。わがヨーロッパ諸国の者どもが、外国まわりをして、交易をもっぱら行うのは、だいたい物が不足しているからです。例えばここに一つの国があって、天地を造られた天ッ神さまが世にも特別なお恵みをかけられて、生命を保つべき一切のものが不足ないようになされて、国もはなはだ強く、その国民の勇気がすさまじく、外国から攻めてきたときなどによく防ぐ手段を持っていて、外国のものを受け入れなくとも事欠かずに済むならば、外国と交易しないほうが国の風俗は乱れないで、かえって国の大きな利益となることです」と、著者はここらのことを詳しく説いていますが、「そんな国はこの地球の内を探してもどこにあると思いますか、それは世界万国に知られた日本であるのです」。 さて その訳を、私がなお詳細に述べるならば、日本はこちら及び諸国の頭(かしら)にある国で、天ッ神がこれをことのほかにお恵みなされて、大変に烈しく険阻な海を周りに取り巻いておかれたお陰で、外国から船を寄せるには、日本界隈の海は、波が荒く逆風が吹き、その海中には浅瀬があったり、厳石が多くてなかなか寄せても接岸出来ない荒海で、大船を入港させる所がないのです。その内でただ一カ所、長崎の湊というのがあって、ここは少し大きな船も入れますけれども、その入り口がすぼまり、さまざまに曲がって、よく鍛錬した船頭でも悪くすると乗り損なう所なのです。しかしながらこれより他にはよい港がないのです。また海がその通りですから、外国から攻めても勝てないように、これも天ッ神がつくり置かれたものです。
又その国に人が多いことは、言葉では言い表せないほどで、海辺を見れば人民がおびただしく、大小諸々の舟が繁多です。これは国中の人がことごとく海辺に居住して、陸地の方はさらに人が少なく、空虚だろうと思うようですが、さして大きくない国で、このように膨大な人がいるというのは、これはとんでもない理屈外というものです。又城郭住居が連なってひと続きのようになっています。もっとも何村々々と言うように、その所に名前は有りますけれども、これは昔は別々であったためのことである。今は一連になっていて、ただその昔の名前を失わないだけのことで、実は住居はひと続きだと言っております。これは実にそうであって、外国に行った人の話や、外国の書物を見れば、ただやたらと広いばかりで空き地が多く、それだから不便なことばかりです。又外国は大きい割には、中国をはじめ、人が大変に少ないのです。
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「現代語訳・古道大意(11)」を転載する。 |
下巻 4-2「日本人の気性」
ある人が言うには、日本人は大胆と言ってよいでしょうか、英雄と言ってよいでしょうか、めっぽう強い気性があります。それはなんだかと言えば、敵のために打ち負けますか、もしくは敵をねらうことがあって、それを報いることがなりませんと、ここで少しもたじろがず、いわば平気で、自身で腹を掻き切って死にます。事に臨んで命を畏れないことです。又日本人はめっぽう豪傑だという証拠になるべき事は、あの七人の若者が台湾の国で、とんでもない豪傑な振る舞いをして、こちらの国々の肝をつぶさせたことがあります。と言って、浜田彌兵衛らの働きのことも書いてあります。
これは寛永の頃のことで、その頃は我が国からも勝手次第に外国に船を出したもので、長崎の代官の末続平蔵と言う人が、インドの方へ交易の船を出したのです。ところがその頃、台湾はオランダのものであった時で、その末続氏の船を、オランダの者達が出てきて嘲弄し、あげくには積み荷を奪い取ろうとさえしたのです。さてこちらの船の者もはなはだ憤りましたけれど、向こうは大船でしかも武器鉄砲などをもって、プスプスやっています。こちらはただの交易船ですから、はかばかしい兵器はありませんので、無念さをこらえて、さまざまな上手を言い、いろいろな物をやったりして、辛くも長崎に逃げ帰りました。しかし、このことが無念で堪えられないために、そのことをありのままに末次氏に申し上げたところ、平蔵は大変な大和心の強い人であったために、ムッとして大いに怒り、「にっくき野蛮人どものふるまいよ、私に計りごとがある、見ていろよ。この後我が国の船にその国の者どもが、指も指させないよう、目に物を見せてくれるぞ」と申して、支配下である町内の浜田弥兵衛、弟の新蔵という剛強の者を呼んで、このことを詳しく語った。
「あの野蛮人どもが我が船に不届きをいたした。私の意趣に似ているが私ごとではない。その訳はまず第一に、万国に英雄豪傑の国と賞賛されている、このお国の恥となることだ。この後又いかなる不届きを為さないとも計り知れない。ゆくゆくは外国に船を出す妨げとなることであるから捨て置かれない。彼らの目に物が見えるように、何分よろしく頼む」と話しました。この両人は元から大和心の偉丈夫で、このような事に当たっては、なかなか五分でも引く気のない者どもですから、「それはたやすいことです。あれこれの手段を用いて、彼らの肝っ玉を抜いて参ります、ご安心ください」と言って、心やすく請け負いました。
弥兵衛の子の弥左右衛門、外に四人、都合七人の豪傑が商人になりすまして出立しました。白物を積み入れ、かねて航行し、海路は熟知していますので、大船の舵をとり、烈風に帆を上げ、数日のうちに台湾の国に着船し、交易のことを申し入れたのです。ところがその国の者も、初めは心を許さなかったということでした。しかしながらよく準備をしたことですから、怪しい風にも見えない、そこで国王へそのことを申し上げたのです。
その時の国王は、オランダより派遣された、先に申した代官で、名前はヒイトルモイツという者でした。何の疑い心もなく対面し、その交易の物を吟味し、値段づけなどしているところを、弥兵衛はよき頃をみはからって稲妻のごとく飛びかかり、その国王ヒイトルモイツを取り押さえ、ひざまずかせ、懐に隠し持った脇差しを抜くより早く胸先へ差しつけました。また弟の新蔵と息子の弥左右衛門の両人が、同じく抜き放って立ち上がったのです。これを見ると、側近の夷たちは、逃げ出す者あり、いやこれは大変とピイピイパアパアと大勢が騒ぎ、縁の下に駆け込む者もあり、泣く者もありました。そのうちに外にいた四人も脇差しを抜いて駆け入ります。城中の騒動というばかりでなく、実に大潮の湧くようであったと言うが、そうであったことでしょう。しかしながらその七人の豪傑どもが刀を抜き持って、その勢いが猛烈なことに恐れ、しかも少しでも敵対したら、ヒイトルモイツが直ぐにも刺し殺されそうですから、寄りつくこともできませんでした。国王を助けようもないため、ただパアパアと言って、肩で息をついています。 ところで弥兵衛は、その国の言葉も達者でしたので、大地にも響く大音声を発し、まず「静まりおれ!」と叱りつけました。こんどはしとやかに、先の不届きな始末を咎めました。国王は大変に震え恐れて詫び言を言いました。「又その者どもはただ今は外国に行っていますので、帰り次第重い刑を行って罪を詫びますが、それまでは人質に我が一子を上げておきますから、どうぞわが命は許して下さい」と言って、十二歳になる男子を差し出し、「今より先は、貴国の船へ指さしもさせない」と、海山かけて誓を立てましたので、弥兵衛は、その国王を許し、人質の男子を引き立て、我が船に乗せ、長崎へ帰ったことがありました。このことが大きく万国の評判になったのです。
「蒙古の襲来と神風」
またある人が言うには、「日本の地が自然に堅固で、かって外国からの侵攻を恐れる必要がありませんでした。希にあの蒙古の世祖などのように、日本を攻めた者もあるけれども、とても勝つことができませんでした。世祖が萬将軍という者に大小の船の数が三千五百艘に、軍士二十四万人を授けて、日本を攻めにやったところが、沿岸に着くと暴風が激しく吹いて、それほどに強大無敵な軍船及び船中の軍兵、ことごとく打ち砕かれた」ということも書いてあります。これも相違ないことで、北条時宗が政事を執った弘安四年のことで、この世祖というのは、蒙古という国から出て、唐を攻め取り、その勢いに乗って、我が国を属国にしようとして、たびたび降参せよと言ってよこしましたけれども、お取り上げなかったところ、猶しつっこく言ってよこしたために、その使いに来た者の内、主なる者達を、皆鎌倉の由比ヶ浜へ引き出し、首を打ち切って、獄門にかけられたのです。ところが残りの者達が帰って、そのことを申したところが、彼(か)の誇りに誇って勢いの強い蒙古のことですから、大いに腹を立て、このとおり攻めて来たのです。
その時伊勢の大御神を初め、諸社へ勅使を立てられ、お祈りもあったところが、伊勢の風の宮のあらたなるお告げがあって、大いに神風を吹きおこし、その船どもを一夜のうちに吹き覆してしまったのです。その時の不思議な事には、白衣をまとった神人の船が、その大風の中に現れて大いに働いたということです。これはどこから出たとも知れず、きっと神々のなされたことでしょう。この時攻め来た軍勢の内、生き残って帰った者が、ただ三人であったということです。これはあちらの方の書物に書いてあります。これも不思議なことで、その神風の恐ろしいことを、その王に言い聞かせるために、やっぱり神のお計らいと思われるのです。そうでなければ二十四万の軍兵、三千五百艘の船が一艘も残らず、ひっくり返る程のことですのに、三人ばかり生き残っていようはずがないのです。 ここにおいて、さしもの世祖もこりごりして、再び手が出ないようになったのです。これがまた外国へ広く知られて、どこの国でも話されています。そのために西洋の書物もこのとおり恐れているのです。 「武勇の日本人] さてまたある人が言うには、「日本人が戦場に出ては、勇敢謀略を残すことなく、軍法正しく、よく大将の命を聞いて、進んで戦うことを悦んで、その図を外しません。これらは私が言うまでもなく、後の世になって、自然と万国に明らかになったことから、日本人を恐れ敬うこととなったのです。また世の習いとして、とかく太平の世が長らく続くときは、人が柔弱になるものですが、日本においては、そのように柔弱には決してならない訳があります。それは国民が常に故人の武勇を慕って、それを不断の心得としています。また子を育てるにも、その泣くとき、又は常にも昔の勇士の物語を話して聞かせます。とかく武勇を主に教訓として、幼いときから、心に染みついて、忘れさせないようにする」と申したのです。
これらのことは実に外国人ながらも、よく気がついたことで、日本人が全く気がつかないでいることで、いかにもこの人の言うことに違いなく、よく気がついたというものです。今の世もそうですが、昔から子供だましの一つ咄の金太郎と言うのは、山姥の子で、熊やオオカミを引き連れたとか。或いは源頼光は大江山へ行って、四天王の人々とともに、酒呑童子という鬼を退治したとか。俵藤太秀郷がムカデの王を射殺したなど。また桃太郎が、日本一のキビ団子を食べて、力がついて鬼ヶ島を平らげたとか。とかく子供の内から、武勇になるためだと見えて、勇ましいことばかり言って聞かせます。また近頃の草双紙には、三、四十年も前までは、目玉が大きくて、腕や脛にフシコブが立った武者絵の冊子が多かったものです。これは古人が深く考えて為したことでしょうけれども、我が国の人は自然に雄々しく強く、勇ましいことを好むためで、いかにもこれらは結構なこと、ゆくゆく万々歳なこと、このようにありたいものです。
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「現代語訳・古道大意(12)」を転載する。 |
下巻 4-3「日本の刀は世界最高」
さてまたある人が言うには、「大人同士が集まれば、まず古人の武功のことを談じ合うことを第一として、これを詳しく評論して、強く感心して、事があったときはそれをまねようと心がけます。又兵器といって、戦い道具にも乏しくありません。遠くにいて戦うには弓があり鉄砲があります。また手と手とを交えて戦うには、槍と刀を用います。特にその刀の鋭く切れること、一と太刀にして人体を両断するほどのものだ」と、大変にたまげていますけれども、まだまだこんなものではありません。二つ胴裁三つ胴裁といって土段をかけて切り払うなどというようなことがあるのです。
さてこれは良いついでだから申しますが、我が国の刀が万国最上で、そのために外国人の欲しがるのは言うまでもないことで、なんと同じ鉄で造るものですが、どうして我が国の刀に限って、そのようによいのでしょうか、鍛えようだと言っても、外国の人は別にそれなりに工夫を凝らすことだから、劣ることもなさそうなものです。しかし、ここが風土のせいで、刀は特別に万国に勝れなければならない訳があって、このことは先年詳しく考えて、別に書いておきましたけれども、今その概略を申します。
まず我が国は、段々と申すとおり、万国の元首すなわち頭です。人体で譬えれば額のところ、又刀で言えばその切っ先のようなものです。特別に天地の初めの時に、天ッ神タカミムスビの神様が、天の沼矛をイザナギ・イザナミ二柱の神へ下されて、国を造れと仰せられました。又二柱の神はその矛を指し下ろして、かき回されて、その矛の滴りが固まって島となって、それが大きくなって出来たのがこの我が国です。ミムスビノカミのお授けあそばすに、他にもお品があろうに、矛を下されたのには、深い謂われのないはずはないのです。これは凡人となった今の人の心では、いかんとも計られないことですが、我が国が自然と堅固で、人が雄々しく強く勝れているのも、まずあらかじめここに萌しが見えるのです。
又この後オオクニヌシノカミが八尋矛(やひろのほこ)というものをおつきなされて、我が国をお治めなされました。そして我が国をスメラミコトにお譲りあそばれる時に、その御矛も譲られ、その矛でもって御治めなされるならば、天の下は安らかに治まる訳を仰せられて、差し上げられたのです。このように仰せられたのには、これまた必ず深く不思議な謂われがありそうなものです。
又朝廷の御守り天津日継の御璽であるところの、三種の神宝の一つが、アメノムラクモの御剣と申して、霊験と申すのも今更ながらですが、これもはなはだ深い謂われのあることです。わが翁の歌に「世の中の有る趣は何事も、神代のあとを尋ねてしらゆ」と詠まれましたが、実にその通りで、これらのことをよくよく考えますと、言外に言い出しがたい旨みのあることです。かの生半可な唐かぶれの人には、なんと聞き受けられましょうか。 又町人百姓に至るまで刀を脇に挟んでいます。これは外国にはあまり無いことです。自然則ち神の御心で、おしなべて雄々しく強いですので、古くは町人も、みな刀を指して歩いたということです。すでに亨保年中に、則ち有徳院様御代に、「町人の輩が脇差しを指しているのは、いつ頃からのことだ。書き物でも有るか」と御尋ねがあったところが、さっぱり分からず、何時からということなく、久しく指してきたもので、あまつさえ、以前は刀をも差したことを、町奉行まで申し上げて、その後はいよいよお構いなく、今も指しているのです。
「日本が交易しないわけ」 さてまたある人が言うには、「この通り国が強く人が強く、物が足りるならば、外国と交わることはだめなことだ。それだから国を閉ざして、交易をしないのだ。自然とこの理由を日本人が覚えたもので、その自然というのが実は天ッ神の教えなのだ」。
ここであらためて日本が恵まれていることを細かに言えば、まず第一に国土が片寄った地域になく、それゆえ南国のように暑くてどうにもならないというようなことがなく、また北国極寒のどうにもならぬというような寒さもないことです。またこれはいうまでもないことですが、豊饒で楽しむべき、よろこぶべき国々は北緯三十度と四十度との間にあって、それが最良の国々です。日本はちょうどそれにあたっています。
またある人は非難して、「日本は険阻で石が多い、またするどい高山の多い国で、よほどそこのその国民が苦労しなければものは出来ないだろう」というが、それもまた天ッ神の御心で、この国を特別に恵んでそうしておかれたものです。その訳は、そのように険阻で、民の耕作に骨が折れるのは、かえって結構なことで、一体人というのものは、労せず働かずにいては、体がたるんで病がおこる、とその訳を詳しく書いてあります。そういうわけで、このとおり天ッ神がこの国の人を骨を折らして身体をすこやかにし、また人間の魂のやどる頭脳を鋭敏にし、精神のはたらきをすぐれたものにしようという御心からされたことです。なかなかもって、あのインドのような熱帯クロンボの人達が、自然生といって、自然に生えている草木を頼みにして、それでもって命をつないでいるほとんど鳥獣に等しい者達と、同じにはしないという 天ッ神の御心なのです。
「島国のよさ」
またある人が非難して、「日本の土地はあちこちでちぎれていて、いわば諸々の島を寄せ合わせたような国であり、悪い国ではないでしょうか」と言う者もありましょうが、これもまた 天ッ神の御心で、特別に日本をお恵みなされる証拠なのです。その訳は、日本の国々がちぎれているのは、たとえばこの大地球の国々が、遠く離れてあるようなもので、離れているためその国々によって産物が各々違って、色々有用な物が出来るのです。それで日本一国だけで外国のものを望まなくても済むように、神がなされたものだといって、我が国の国々の産物、美濃・尾張の米がよいとか、佐渡から金が出るなどということを詳しく言います。また諸々の細工が万国に勝れて、結構な国ということを覚えていることですが、その国に生まれて、その国のことを知らずにいるというのは悔しいことです。それだけでなく、これほどすばらしい国に生まれながら、外国どもを誉めて、よい国だ、強い国だなどと思って、その外国の者たちが、我が国近くの離れ島へ、生意気な事でもしますと、驚いて眉をひそめる者があります。これは一向とりとめのない愚かなことです。しかしながらこれは我が国の人の本心からそうではありません。皆外国の学問を、悪く修得した人達が悪弊を広めたからのことです。
それはまず佛者は、インドばかりを誉めて、インドは佛の本国で尊い国だ。我が国は東方の粟散国といって、東方の海へ、粟粒一つを流したような国だ、などと言って騒ぎます。また儒者は、唐を誉めて、唐は聖人の国だ、中華だ、我が国は小国で、かつ野蛮人、未開の民族だなどと言って、我が国を卑しめます。また近頃はやり始めたオランダの学問をする輩は、よく外国の様子を知っていながら、その中には、心得違いをしています。又やみくもに、西の果てなる国々を贔屓して、たとえばロシアは大国だ、それに人が利発で、そのうえ火術といって、鉄砲や大石や火矢を絶妙に使って、それで百里もの先の城郭などを、一発で潰してしまう。日本ぐらいの小国は、粉みじんにするほどのことですから、いとわしいものだなどと言って、その図や、あるいは世界絵図などを出して、この通り日本は小国だ、などと言って驚かします。既に先年蝦夷の離れ島へ海賊が来て、盗みをしていったという噂があった時などがそうです。
これは皆、神国の神国たる故を知らず、我が国の国柄について疎いからのことであります。まだしもその各々は、他の国の世話ばかりをして、国柄に疎いことは、不便ながらも仕方がありませんけれども、その己のおじけ魂を世に広めて、一般の人にまでそう思わせるのが憎いのです。しかしながら我が国の人は、あのケンペルも言ったとおり、自然に雄々しく武強いことです。その外国を強いかのように思うのも、実は外国びいきの人に言い立てられて、ちょっとかぶれているばかりであって、その底の心とは「この国は神国だ。我々も神の孫だ。何で毛唐人めが、野蛮人どもめが、何ほどのことを仕出すものか、蹴散らしてやるがよい」などと言います。大変に強いものが底にあって、これは篤胤が申すまでもなくそうあります。なかなかもって、唐の人のように、未開の民族だの、野蛮人だのといって、禽獣のように卑しめる、その野蛮人に国をことごとく奪い取られ、あれ程の大国の人々が頭を垂れて、その卑しめた北の野蛮人を君王と敬い、今は国中のこらず坊主頭にされてしまいましたが、こんな腰抜けは、我が国に限っては一人も有りはしないのです。
世の中にはいくらでも、道を説くとか、教えるとか、広める人がおります。それを聞くと大抵は儒者で、悪賢く狭い了見を説きちらします。又道学者などと、大げさに名乗る輩は、心法や悟道とかいうように、佛臭く地獄臭いことを広めて、人に不人情を示して、役立たずの腰抜け根性にしようとします。その言うことをちょっと聞きますと、もっともらしく聞こえますけれども、よく考えて見ますと、大抵は誠の道に背いていることばからり言っているのです。
「真 の 道」
それならばその真の道というものは、えらくむずかしいことかといえば、いっこうに無造作なもので、あの心法や悟道や、聖賢のまねなどのように、出来にくいものではないのです。天道は何の差し障りがなく、大手を振って歩かれるように、どんな人にも心安く出来ることで、みんなが知らず知らず、その道を歩んでいるのです。それはどうしてかといえば、誰もが生まれながらにして、神と君と親は尊く、妻子がかわいいということは、人の教えを借りなくとも、見事に知っているのです。
人の道に関することは、大変複雑多岐なようですけれども、実はここからきているものです。その元はミムスビの神の御霊によって出来たのが人ですから、その真の情も、直ちにムスビの神が御付けなされたもので、それがためにこれを「性」というのです。 この事は、中国の古人も、よく真の道に眼がついた人は、いち早く言っておいたことで、中庸に「天命之れを性と謂い、性に従う之れを道といい、道を修める之れを教えと謂う」とあります。この意味は、人間に生まれますと、生まれながらにして、仁義礼智というような、真の情が自ずから具わっています。これは天ッ神の御与え下されたもので、すなわちこれを人の「性」というのです。この「性」の字は生まれつきと読む字です。さてこれほどに結構な情を天ッ神の御霊によって、生まれながらに持っているのですから、それなりに偽らず曲がらず行くのを、人間の真の道というのです。又その生まれながらにして得た道を、邪心が出ないように修め整えるのです。身近にたとえるならば、我が国の人は自ずから、雄々しく強く正しく直に生まれついています。これを大和心とも、御国魂ともいうのです。しかしながら他の国々の小賢しい教えや、或いは祖国を忘れ外国を慕うような、生まれながらでない情がつきますと、それを説き導き、いやそうではない、こうではないと、元の「性」に思い返し、思い直させるのを教えというものです。
まずこのような事情で、なんと真の道というものは、このように安らかなもので、返すがえすも半可な真似や、心法だの、悟道だのというような、佛くさく、なまいきなことは、サラリと止めて、どうぞこの大和心、御国魂を、曲げず忘れず修得し斉えて、真っ直ぐ正しく、清くうるわしい大和心に、磨き上げたいものです。古人の歌に「武士の取り履く太刀のつかの間も、忘れじと思う大和魂」とありますが、この歌の心は、武士たる者の、常に腰を離さずにいる太刀のように、身に引きそえて、又束の間もというのは、直に太刀の束にかけて言って、少しの間もということで、少しの間も大和心を、忘れまいと思っている、という意味です。
又我が鈴の屋の翁が、自らの画像の上に書かれた詩に「師木島(しきしま)の大和心を人とわば、朝日ににおう山桜花」と詠まれたのです。まず師木島というのは、昔から大和と言うときの枕詞です。歌の意味は、もし人が私に、「君の心はどうでありますか、又大和心というのはどのような意味でございますか」と質問したならば、答えて、「大和心というものは、春山の山桜の大変に美しく咲いている所へ、朝日がさし上がるままに、その花へキラキラ映って、照り合うようなものです。また私の心もその通りでございます」と答えると言われたのです。なんとうるわしく潔く、色合いがあざやかで美しいものが多い中に、これ程うるわしいことはあり得ないのです。くどいようですけれども、元より我が国の人は、皆んな下の心に、このうるわしく潔い心を持っていますけれども、大方は外国どもの心に移り、その本心が曇っているのです。これをどうぞ磨きだして、元のうるわしい心になりたいものです。この大和心、御国魂の磨きが足りませんので、辛抱がぐらつきますと、諸事の心得違いがここから出来るのです。「本立ちて道生(みちなる)」と、唐の人(孔子)が申したのも、ここいらにかかっているようです。
さてその大和心の磨き方はといえば、我が翁の著された書物を読むに及ばないのです。しかしながら日々の仕事が忙しい方々や、歳取った人などは、それも出来ないでしょうから、そのよく大和心を心得た人について聞くのがよろしいのです。これはどちらにしても、行き着くところは同じことで、「家ノナリナ怠りソネミヤビヲノ、歌は詠むとも書は読むとも」と鈴の屋の翁は詠まれたのです。また翁の書かれたものに、「心さとく心直き人は、善いことを聞けば速やかに悟り、心遅く心直くない人は、悟っても人に負けることを嫌って、得移らず得おもむかずとて、生の限り、枯野の草の、去年の古殻旧きになずみて、浅ミドリ春ノ若葉ノ、ウラ細シキヲバ、摘コト知ラズテ朽ハツメリ」。と言われましたが、これは実にこの通りのことで、世間に学問するという人は、おびただしくいますけれども、とかく悪い癖があってどうにもなりません。その癖というのは大抵の学者にはあることです。
よく世間で言うことですが、「目を卑しめて耳を尊ぶ」という種類の人が多くおります。つまり、外国人の言ったことや、古人の言ったことばかりにかかずらわり、それに行きなやんで、我が我が国の人や、また最近の世間の人の言ったことを、善い説でも善いとは言わず思わない。又これは善いと思うことでも、やっぱり先入観を改めず、負けじ魂に毛を吹いてキズを求め、欠点を探して言い破ろうとして、その心がやがて学問の道に背いていることにも、気がつかないでいる人がしばしばあるのです。
このことは、唐の人なども、悪いことだと申して、論語には三、四もの章で戒めています。しかしながら、その善いことも知らない内は、それは仕方がありませんけれども、いやしくも学問に志のある人は、この心がけを常に忘れないで、気をつけられたならば、「改めるに憚ることなく」、速やかに先入の悪い癖を清く捨て、あの翁が言われた「去年ノ古カラヲバ手折ラズニ、ドウゾ春ノ若葉ノウラ細シキヲ摘デ」お互いに、真の道をたどるように致したいものです。又自分ばかりでもなく、人にも語り聞かすのが、これも人間の真の道です。すでに唐の人すら「朝に道を聞いて、夕べに死すとも可なり」と申して、真の道を聞くことが出来たなら、朝聞いて、夕方に死んでもよいと思うほど、嬉しいということです。唐の人すらこの通りですから、この道、この我が国のありがたさを覚えては、人にも語り聞かせずにはおられますまい。これは及ばずながら、篤胤が人にも勧める理由です。 これが則ち天ッ神国ッ神への神忠で、これが則ちおそれながら、天皇また大将軍家の御厚恩をおろそかに思い奉らない一端で、これが則ち両親に生み出され、育ててもらった恩返しで、直ちに人間の道であろうと存じます。どなた様もそのお心得で、どうぞ将来とも捨てておかないで、道の学びに、怠りがないように、励み勤められるのが第一のことです。 完結 |
『古道大意 下巻』(中央公論:日本の名著24「平田篤胤」P.150) 「ここであらためて日本が恵まれていることをこまかにいえば、まず第一に、国土がかたよった地域になく、それゆえ南国のように暑くてどうにもならぬというようなことがなく、また北国のどうにもならぬ寒さもないと。またこれはいうまでもないことだが、豊饒で楽しむべき、よろこぶべき国々は北緯三十度と四十度との間にあって、それが最良の国々である。日本はちょうどそれにあたっている。またある人は非難して、日本は険阻で石が多い、またするどい高山の多い国で、よほどその国民が苦労しなければものはできないだろうということが、それもまた天つ神の御心で、この国をことさらにそのようにしておかれたのだ。というのは、さように険阻で、民の耕作に骨の折れるのは、かえってけっこうなことで、いったい人というのは労せずはたらかずにいては体がたるんで病がおこる、とそのわけをくわしく書いてある。そういうわけで、このとおり天つ神がこの国の人を骨を折らして身体をすこやかにし、また人間の魂のやどる頭脳を鋭敏にし、精神のはたらきをすぐれたものにしようという御心からされたことだ。」 |
(私論.私見)
『古道大意 下巻』(中央公論:日本の名著24「平田篤胤」P.154)
「世間に学問するという人はおびただしくいるけれども、とかく悪いくせがあってどうにもなりません。そのくせというのは、たいていの学者にはあることです。よく世にもいうことだが、「目を卑しめて耳を尊ぶ」という種類の人が多くある。つまり、外国人のいったことや、古人のいったことばかりかかずらわり、それになずんで、わが御国人がいったり、このごろいわれたことは、たとえよいことでもよいとは思わない。またこれはよいと思うことでもやはり先入見を改めず、負けじ魂から、毛を吹いて疵を求めるように欠点をさがしてはいい破ろうとして、その心がやがて学問の道にそむいていることにも気がつかない人がしばしばあるものです。」