一 皇居を拝む事
二 龍田の風の神を拝む詞
三 太元尊神を拝む詞
四 天つ日の御国を拝む事
五 月夜見の国を拝む詞
六 皇孫の尊を拝む詞
七 神武天皇を拝む詞
八 伊勢の両宮を拝む詞
九 吾妻の三の社を拝む詞
十 出雲の大社を拝む詞
十一 大和の三の社を拝む詞
十二 常陸の両社を拝む詞
十三 伊豆の雲見の社を拝む詞
十四 尾張の熱田の宮を拝む詞
十五 当国の一の宮を拝む詞
十六 当所の鎮守を拝む詞
十七 家の神棚を拝む詞
十八 祓処の神等を拝む詞
十九 塞の神等を拝む詞
二十 思処の神等を拝む詞
廿一 大宮能売の神を拝む詞
廿二 屋船の神を拝む詞
廿三 御年の神等を拝む詞
廿四 竈の神等を拝む詞
廿五 水屋の神等を拝む詞
廿六 厠を守る神を拝む詞
廿七 古学の神等を拝む詞
廿八 先祖の霊屋を拝む詞
「皇居を拝む事」だけ「詞」はなく、めいめいが思いのままにお唱えすること、となっています。実にさまざまで、純粋に神棚にお祭りした神様を拝むのは「十七」しかありません。あとは、そちらを向いて遥拝する(「一」から「十六」)。神棚前の祝詞に付け加えて奏上する(「十八」から「廿七」)、こととなっています。現在一般に公刊されている『神拝詞』でも様々な祝詞を載せていますけれど、それを毎朝奏上しろというものではないでしょう。『毎朝神拝詞記』にしても、同じです。
篤胤は神拝詞の本編のあとで、こんなことを言っています。「抑々神拝は、人々の心々に為す態なれば、必しも斯の如くせよと言ふには非ず。然れば其の詞も、古へ風にまれ、今の風にまれ、其の人の好みに任すべし」(そもそも神拝は、人々がそれぞれの心でなすことなので、必ずこうしろというのではない。だから詞の中の言葉についても、昔風であれ今風であれ、その人の好みに任せるべきだ)。「また公務の励しき人、或は家業のいと鬧しくて、許多の神々を拝み奉るとしては、暇いる事に思はむ人も有りぬべし」(また、公務あるいは家業が大変忙しくて、こんなに神様を拝み申し上げるのは時間が必要だと思う人もあるに違いない)。「さる人は、第一の皇居を拝み奉り、次に第十七なる家の神棚を拝む詞と、第二十八なる先祖の霊屋を拝む詞とを、其の前々に白して拝むべし」(そういう人は、第一で皇居を拝み申し上げ、それから第十七で神棚を、第二十八で先祖の霊屋(みたまや。仏教でいう仏壇)をその前で拝むとよい)。「其は第十七の詞に、伊勢の両宮の大神を始め奉り云々と云へるに、有ゆる神等を拝み奉る心はこもり、第二十八の詞に、遠つ御祖の御霊・代々の祖等云々と云へるに、家にて祭る有ゆる霊神を拝む心を籠めたればなり。猶これに記せる外に、各々某々の氏神、またその職業の神を、かならず拜むべし」(というのも、第十七の詞で「伊勢の両宮の大神を始め奉り」うんぬんに、あらゆる神々を拝み申し上げる心がこもっているし、第二十八の詞で「遠つ御祖の御霊・代々の祖等」うんぬんといっていることに、家でお祭りするあらゆる霊神を拝む心をこめているからである。また、やはり、ここに記した他に、おのおのの氏神、また自分の職業の神を必ず拝むべきだ)。