祈願詞

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 2013.12.14日 れんだいこ拝


【祈願詞】
 備中處士の平田篤胤大人遺文」の「祈願詞」を転載する。
 平田篤胤大人『古史を撰ぶ時に神等に祈願へる詞』(井原正孝・河内盛征兩翁謹輯『古学諄辞集』。稲村眞里翁『評釈近世名家諄辞集』に所收)に曰く、「掛けまくも畏き天つ御神千五百万・国つ御神千五百万の大神等の大御前を、平篤胤、四方八方に愼み敬まひ拜み奉りて、畏み畏みも白す。

 篤胤、怯(つたな)く劣在(をぢなか)れども、加茂眞淵、平宣長等が古へ学びに功しありし導(しるべ)によりて、神世の御典を読み窺ひて、天地の初発より世の間の事のありの悉と、神等の御所爲(みしわざ)に洩るゝ事なく脱つる事なく、恩頼を蒙りて在る縁の由を、たし(慥)み窺ひ奉り、高天原に事始め給ひし、天つ皇御祖の大神(天照大御神)の御子の命(天皇)の、彌や継ぎ々ゞに、万千秋の長秋に、現つ御神と大八島国知ろし看して、安国と平らけく、天の下の公民を惠み賜ひ撫で賜ふ、大道の義理(ことわり)の本根をら、畏み畏みも窺ひ得て、頂(いなだき)に尊み辱なみて在るを、その御惠みの尊き辱なき条々(をぢゝゞ)を、言挙げせむは、不礼(なみ)し可畏し。しかはあれど、八百万歳・千万年と、遠つ神世の古事を、人世までに伝ふる(一云、伝ふ)と爲ては、語り継ぎ録(か)き継ぐ間(ほど)に、己がひきゝゝ(我が心の思ひなしより、その都合のよい勝手な方にひきつけ説くが故に)、自然らに訛(あやま)れる事の取り々ゝに出で来伝はりて(各々出来て、その説が伝はりたれば)、何れ正しき御故事(みふること、歴史)ぞと、不明(おほゝ)しき惑はしき事の、將(は)た少な在(か)らぬを、かれこれの伝へ語を、かにかくに考へ別ち撰び集へて(樣々に取捨弁別し、撰び集めて)、百結び々ゞ、八十結び々ゞては(一云、てば)、千尋□[木+考。たく=たへ]繩、唯だ一条(ひとすぢ)に打ち延(は)へて、その正語(まさごと)は正語と、滞ほりなく窺ひ悟らふべく、いかで撰び結び整へて、書き記るさま欲しく、負ふ気なくも思ひ隱(こ)めてはあれど、たやすからねば、この年ごろ黙だありつるに、今度び学びの徒等(ともがら)、その事いさせと、しひいざなふが、最(い)と異(け)に所聞ゆるに依りてし、熟々に思へば、かくいざなふは、即(やが)て神等の御心なるべし。いさせむと思ひ起ちて、志せるになも。

 故れ十二月の五日と云ふ日を、生く日の足る日と撰び定め、業(こと)始め爲て、今年と云ふ年の内に限りて、夜半・曉時と休息(やすま)ふ事なく、夜・日(よるひる)知らに、一向に志して、その大概(おほかた)をだに書き記し竟へまくとす。

 故れ辞別きて誓(うけ)ひ訴へ白さく、天つ神千五百万、国つ神千五百万の大神等の、幸魂、奇魂、皆な悉とに、この處に依り賜ひ、相ひうづなひ相ひ扶け賜ひて、篤胤が明き淨き誠の心以ちて、志ざせる所爲に、御霊幸へ(一云、幸ひ)給ひ、相ひまじこり相ひ口会へ賜ひて、漏るゝ事なく過つ事なく、正語を正語と思ひ得しめ賜へ。故れ然か爲むには(篤胤が修史の業を、正しく明かに成し遂げむには)、掛け卷くも畏き大神等の幽事を、凡人(たゞびと)のたやすく顯はし申さむ事の出で来めれば、神等の大御心に、何かにかも所思ほし食さむと、恐み惑ひ棲遑(しゞま)はるれど、然か有らでは、尊き御故事の事の実のおほゝしくて、畏こくも慨(うれ)はしければ、黙だもえ在らで、懼(お)づ々ゞに顯はし申す事のあらむを、罪なひ給はで、犯す事なく過つ事なく思ひ得しめ給へ。然て今ま如是(かく)始むる所業(わざ)の、神等の御心に違ひて、罪犯し在るべくは、忽然ちに篤胤が身を、悩ませ(一云、悩まし)臥(こや)し止め令め給へと白す。

 かくうづなひ言白して勤しむ日間(ほど)に、事成させ(一云、成さしめ)給はゞ、畏こあれど、神等の御心、相うづなひ給へりと思ひ定め、大船のたゆたふ事なく、眞木柱太く心を鎭め固めて、この学びを供(つか)へ奉りてむ。然か思ひ鎭めてば、ゆく前(さき)にも緩み怠る事なく、日夜忘るゝ事なくして、務めしまり、いさをしく、学びの所業を、己れ等、諸々同じ心に相助け相伴なひ、窺ひ悟り得しめ給ひ、神習はしめ給へと、畏み畏みも祈り祝(ほざ)き、御霊の幸を乞ひ祷み奉る(一云、奉らく)と白す」。

 備中處士の平田篤胤大人遺文」の「毎朝神拜詞記抄」を転載する。
 平田篤胤大人『毎朝神拜詞記』抄(明治六年十二月・平田銕胤翁改刻版。相原修氏校訂『毎朝神拜詞記』・平成十四年二月・平田篤胤翁顯彰會刊・相原修氏覆刻)

 「○朝、早く起きて、貌・手を洗ひ、口を漱ぎ身を清めて、まづ皇都の方に向ひて、愼み敬ひ、平手を二つ拍ち、額突きて、畏み畏み奉るべし。【第一】皇居(おほみもと)を拜み奉る事[詞は、各々心々に申すべし]。

 ○次に家に齋き奉る神等の御棚の前に向ひ、平手を二つ拍ち、額突き拜みて。【第十七】これの神牀に神籬立てゝ、招請(をき)奉り坐せ奉りて、日に異(け)に称え辞竟へ奉る。伊勢両宮の大神を始め奉り、天つ御神八百万・国つ御神八百万の神等、大八嶋之国々・島々・所々之大き小き社々に鎭まり座し坐す千五百万の神等、その従え給ふ百千万之神等、枝宮・枝社之神等、会富登神の御前をも、愼み敬ひ、過ち犯す事の有るをば、見直し聞き直し坐して、各も々ゝ掌り分け坐す御功徳の隨まに、惠み賜ひ幸はへ給ひて、神習はしめ、道に功績を立てしめ給へと、畏み畏みも拜み奉る。

 ○次に代々の祖等の霊屋に向ひ、常の神拜の如く拜みて。【第二十八】遠つ御祖の御霊・代々の祖等・親族の御霊、總てこの祭屋に鎭ひ祭る御霊等の御前を、愼み敬ひ、家にも身にも、枉事あらせず、夜の守り・日の守りに、守り幸はへうづなひ給ひ、彌孫の次々、彌や益々に榮えしめ給ひて、息内(いのち)長く、御祭り善(うる)はしく仕へ奉らしめ給へと、祈り白す事の由を、平けく安けく聞こし食し、幸へ給へと、畏み畏みも拜み奉る。

 ○かく白し竟へて頭を上げ、また平手を二つ拍ちて、額突き拜む事、上の件り々ゝの如し。但し穢れに触れたらむ節は、禊事を行ふまで、神拜凡て遠慮すべし。然れど先祖の拜のみは欠くべからず。


 
この『折本』(をりまき。『毎朝神拜詞記』)に記せる詞どもは、己れに従ひて古への道を学ぶ徒の、「朝ごとに、何れの神々を拜みてば善けむ。またその御前に白す詞を、古へ風(ざま)には、いかに白して宜からむ」と、先づ問ふ人に伝へむとて、故き鈴の屋の大人の神拜式、また己が常に拜み奉る拜式をも、取り合はせて記せるなり。

 抑々神拜は、人々の心々に爲す態(わざ)なれば、必ずしもかくの如くせよと言ふには非ず。然ればその詞も、古へ風にまれ、今の風にまれ、その人の好みに任すべし。また公務の励しき人、或いは家業の、いと鬧(いそが)しくて、許多(こゝら)の神々を拜み奉るとしては、暇いる事に思はむ人も有りぬべし。さる人は、第一の『皇居を拜み奉』り、第十七なる『家之神棚を拜む詞』と、第二十八なる『先祖の霊屋を拜む詞』とを、その前々に白して拜むべし。そは第十七の詞に、「伊勢の両宮の大神を始め奉り」云々と云へるに、あらゆる神等を拜み奉る心はこもり、第二十八の詞に、「遠つ御祖の御霊・代々の祖等」云々と云へるに、家にて祭るあらゆる霊神を拜む心を籠めたればなり。なおこれに記せる外に、各々某々の氏神、またその職業の神を、かならず拜むべし。

 偖てこの上の件り々ゝの詞どもの意(こゝろ)、またその神々の御伝へ、また神を拜む心ばへ、また神の御道に習はむ人の常の心むけなどの事は、別に『玉太壽喜』といふ書(ふみ)を著はして、この詞どもを、委しく註(しるべ)せるにて見るべし。文化八年辛未正月 平田篤胤(花押)」。

 備中處士の平田篤胤大人遺文」の「毎朝神拜詞」を転載する。
 平田篤胤大人『毎朝神拜詞記』抄(文化十二年頃)に曰く、

 「○朝、早く起きて、貌・手を洗ひ、口を漱ぎ身を清めて、まづ家に齋き奉る神等の御棚の前に向ひ、平手を二つ拍ち、額突き拜み奉りて。【第十四】これの神牀に神籬立てゝ、招請(をき)奉り坐せ奉りて、日に異(け)に稱(たゝ)へ辭竟へ奉る。伊勢の両宮の大神を始め奉り(一云、て)、天つ御神八百万・国つ御神八百万の神等、大八嶋之国々・島々・所々之大き小き社々に鎭まり座し坐す千五百万の神等、その従へ給ふ百千万之神等、枝宮・枝社之神等、会富登神の御前をも、愼み敬ひ、過ち犯す事の在るをば、見直し聞き直し坐して、各も々ゝ掌り分け坐す御功徳の隨まに、惠み賜ひ幸はへ給ひて、神習はしめ、道に功績を立てしめ給へと、畏み畏みも拜み奉る。

 ○かく白し竟(を)へて拜み、次に代々の祖等の霊屋に向ひ、平手を二つ拍ち、常の神拜の如く拜みて。【第二十五】遠つ御祖の御霊・代々の祖等・親族の御霊、總てこの祭屋に鎭ひ祭る御霊等の御前を、愼み敬ひ、家にも身にも、枉事有らしめず、夜の守り・日の守りに、守り幸はへうづなひ給ひ、彌孫の次々、彌や益々に栄えしめ賜ひて、息内(いのち)長く、御祭り善(うる)はしく仕へ奉らしめ給へと、祈み白す事の由を、平けく安けく聞こし食し、幸へ給へと、畏み畏みも拜み奉る。

 ○かく白し竟へて頭を上げ、また平手を二つ拍ちて、額突き拜むこと、上の件の如し。但し穢れに触れたらむ節は、禊事を行ふまで、神拜、すべて遠慮すべし。然れど先祖の拜のみは、欠くべからず。

 この『折本』(毎朝神拜詞記)に記せる詞どもは、己に従ひて古への道を学ぶ徒の、「朝ごとに、何れの神々を拜みてば善けむ。またその御前に白す詞を、古へ風(ざま)には、いかに白して宜からむ」と、先づ問ふ人に伝へむとて、故き鈴の屋の大人の神拜式、また己が常に拜み奉る拜式をも、取り合はせて記せるなり。

 抑々神拜は、人々の心に爲す態(わざ)なれば、必ずしもかくの如くせよと言ふには非ず。然ればその詞も、古へ風にまれ、今の風にまれ、その人の好みに任すべし。また家業の、いと鬧(いそが)しくて、許多の神々を拜み奉るとしては、暇いる事に思はむ人は、第十四なる家之神棚を拜む詞と、第二十五なる先祖の霊屋を拜む詞とを、その前々に白して拜むべし。そは第十四の詞に、「伊勢の両宮の大神を始め奉り」云々と云へるに、あらゆる神等を拜み奉る心はこもり、第二十五の詞に、「遠つ御祖の御靈・代々の祖等」云々と云へるに、家にて祭るあらゆる霊神を拜む心を籠めたればなり。なおこれに記せる外に、各々某々の氏神、またその職業の神を、かならず拜むべし。

 偖てこの上の件々の詞どもの意(こゝろ)、またその神々の御傳へ、また神を拜む心ばへ、また神の御道に習はむ人の常の心むけなどの事は、別に『玉太壽喜』といふ書(ふみ)を著はして、この詞どもを、委しく註せるにて見るべし」。

 「備中處士の平田篤胤大人遺文」の「毎朝神拜詞の序」を転載する。
 神祇伯・資敬王『毎朝神拜詞記の序』に曰く、「我が国は、神の生み成し給へる御国、人種(ひとくさ)も神の裔(すゑ)にしあれば、宇宙、挙りて神国とぞ称えける。然れば御代々々の天皇命の、神祇を祭り給ふは、天の下、治め給ふ御政の本にて、その儀式の嚴重なる事、古典に見えたるが如し。かくて庶人も程々に、その祖たる神たちを齋き祭りけるを、三栗(みつぐり)の中世より、諸蕃の道々弘ごりて、その本たる神をば神と思ひたらず、世の中も乱れに乱れて、神祇官も古への如くならざれば、まして庶人の神事の祖略に成りたるは、言ふも更なり。然るを今ま二百余年、天の下、愛でたく治まれるによりて、よろづ古へに復れる中にも、去にし文化の頃より、平田篤胤と云ふ者出て、その師・本居宣長の教へを受けて、神祇の学に仕へ奉り、種々の書ども著せる中に、古風の拜式を教へたる毎朝神拜詞記と云ふ物あり。またそれを詳かに講明せるを玉襷と名づけたるが、共に最も正しき書にして、実に古風はかくこそ有るべけれ。然れば我が祖父の君の御代より、この道の学師に任せ給ひて、神職らにもその道を説き聞かしめ、庶人も古風の拜式を心得て、次々我が道の明かに成りぬるは、專らこの篤胤らが功にぞ有りける。世々そのつかさ承れる身の、これを悦び思はざらめや。誰かはこの功を稱へざらめや。故れこの由を、一言かき與ふるになむ。嘉永三年三月  神祇伯・資敬王(花押) 平延胤、謹みて臨寫す」。

 平田銕胤翁『毎朝神拜詞記の跋』(明治六年十二月版。相原修氏覆刻)に曰く
 「我が父の、これの神拜詞記を始めて撰まれたるは、去にし文化の初め頃なりしが、こを弘く世の同じ学びの徒に伝ふべく成りたるは、同じ文化の十三年と云ひし年に、渡辺之望が労きて、板に彫(ゑら)しめたるよりの事なるが、次々に数千(やちゞ)の卷を摺り出でたるに、片假字の磨り滅(き)えたる處も出来、はた素より詞の少く、心ゆかぬ事もあるなりとて、父の豫ねて正し補はれたる本(まき)のありけるを以て、文政十二年と云ひし年に、宮負定雄・金杉常長らが計らひて彫り改めたり。

 然るに又年ふるままに、このわざ仕へ奉る人の彌や増すにつきて、摺り本の数多く、これはた磨滅も見えたれば、初ひ学びの輩の、唱へ誤らむ事をし、危ぶみ思ふ時しも、この四月の初めがた、歴世(みよゝゝ)神事の宗源(もと)しろし看す神祇伯王の、この卷と、玉襷の書とを称め給ひ愛で給ひて、御序文をしも賜はりたるに、この詞等も、一段(ひときは)光り添はりて、霊幸ふ神々たちも、いよゝあはれと聞こしめし受けたまひ、わが古へ学びも、彌増々(ますゝゝ)に栄え行くべく思ゆれば、嬉しさ辱なさ言はむ方なく、いかで又た能く彫り改めて、詞の紛亂(まぎれ)あらせじと、己れ齋(ゆま)はり愼しみて、筆取りつゝ、板下(ゑりした)書き成し、やがてその工人・木邨房義に誂(あとら)へて、かく鮮明かに彫らしめつ。

 抑々大皇国の人の、神の御末なる事は云ふも更なり、現身の世に在る、衣食住の道をはじめ、一つも神の賜物にあらざるはなし。されば神拜は、少(いさゝ)かもその御惠みに報い奉る業なれば、これを勤めざるは、その御めぐみを思はざるにて、人の道に非ざるぞかし。吾が輩(とも)の人々、よく勤むべし。あなかしこ。

 嘉永三年庚戌六月 平田銕胤、謹みて白す。

 この神拜詞記は、上に記せる如く、文化の末頃より、次々訂正して、世に弘むる事と成り、徳川氏執政中は、そのままにて用ひ来れるが、御維新に就ては、改正すべき事なれば、その詞ども書き取りて、伺ひ出でたるに、然るべき由にて、明治元年戊辰十月廿九日、皇学所に於て、外上木物一同、流布の官許を蒙れり。然ればその後、自からは改めて唱えへしかども、上木は事多く、思はずも遲延に及びたるを、今ここに、かく改刻成りたるなり。時は、明治六年癸酉十二月  平田銕胤、記す」。

 平田篤胤大人『毎朝神拜詞』(文政四年改定。明治二年七月・平田銕胤翁追記版『玉襷』附録。井原正孝・河内盛征兩翁謹輯『古学諄辞集』。稻村眞里翁『評釈近世名家諄辞集』に所收)に曰く、
 「これの神床に神籬立てゝ、招請奉り坐せ奉りて、日に異に称え辞竟へ奉る。掛け卷くも畏き、天之御中主大神、高皇産霊、神皇産霊大神を始め奉り、天つ御神八百万、国つ御神八百万の神等、大八島之国々、島々所々の大き小き社々に鎭まり座し坐す千五百万の神等、その従へ給ふ百千万之神等、枝宮、枝社之神等、一柱も漏れ落ち給ふ事なく、辞別きては、幽事(かくりごと)知ろし看す大国主神、大国魂神、大物主神、医薬(くすし)之術(みち)と咒禁(まじなひ)之術(わざ)とに幸はへ賜ふ少毘古名神、別には眞薦苅る信濃国いつ速き淺間山に鎭まり坐す磐長比売神に副ひて守らす日々津高根王命を始めて、天翔けり国翔ける諸蕃(から)・倭(やまと)の山人等、總べて世に在りとし在る諸々之御霊等の正しき限り、一柱も漏れ落ち給ふ事なく、あらゆる大神等、御霊等の盡(ことゞゝ)、招き奉るまにゝゝ、奇霊神憑り幸へ給へと坐せ奉りて、天勝国勝奇霊千憑彦命と称え名負ほひ奉る会富登神、また名は久延毘古命の御前に、平阿会美篤胤、齋み清まはり、赤き清き心計りの禮代(ゐやじろ)と、御酒、御饌、御毛(みも)ひ献りて、鹿(かこ)自物膝折り伏せ、鵜自物項根(うなね)突き拔き、愼み禮まひ拜み奉りて、畏み畏みも白す。

 過ち犯す事の在るをば、見直し聞き直し給ひ、罪・怠り有るをも、宥め給ひ許し給ひて、この獻る物等(ども)、受け給ひ、今ま祈ひ願み白す事等を、平らけく安らけく聞こし召せと白す。

 篤胤、怯(つたな)く劣在(をぢなか)れども、賀茂縣主眞淵、平阿曾美宣長等が、古へ学びに功績(いさをし)在りし導(しるべ)によりて、神世の御典(みふみ)を読み窺ひ奉りてあるに、天地の初発の時に、高天之神祖(かぶろ)天御中主大神、高皇産霊、神皇産霊大神、高天原に事始め給ひて、神伊邪那岐、伊邪那美命に、「これの漂在へる国を修り固め成せ」と、天瓊矛を(賜ひて)事依さし賜ひ、

 伊邪那岐・伊邪那美二柱大神、その瓊矛を指し下し、畫き成し給ひて、淤能碁呂島に、天之御柱、国之御柱と見立て給ひて、八尋殿を化作(みた)て給ひ、妹□[女+夫](いもせ)二柱、所(と)就き給ひて、大八島の国々、島々を生み給ひ、青人草の始祖(おや)神等を生み給ひ、万の物をも生み給ひ、青人草を惠み給ふと、諸々の神等を生み給ひて、その御態(みわざ)を別け依さし給ひ、万之事を始め給ひて、爲しと爲し勤しみ給へる事ごとに、天つ皇祖神等の大御心を御心と爲て、青人草を惠み給ひ愛はしみ給ひ、彌や益々に蕃息(うまは)り栄ゆべく、功竟へ給へるを始め)、

 天照大御神、その御業を受け持ち給ひて、天つ御国知ろし看し、穀つ物の種等(ども)御覧(みそな)はして、「この物等は、宇都しき青人草の食ひて活くべき物ぞ」と、詔り給ひて、殖ゑ生ふし賜ひ、天之下の荒振る神等(ども)を、神攘ひ々ゝ給ひ、語問ひし岩根、木根立ち、草の片葉をも語止めて、幽冥事は、八百米杵築之大神に、言依さし治らしめ給ひ、皇美麻命を、天つ高御座に坐せ奉り給ひて、「万千秋の長秋に、大八島を安国と平けく治め給へ」と、天降し任(よさ)し奉り、顯明事(あらはごと)知ろし看さしめ賜へりし時に、神魯伎、神魯美命の御言依さし坐せる、天つ祝詞の太祝詞によりて、皇美麻命の御世々々、天つ神社、国つ神社を齋ひ、神祭りを専らと為して、天の下を治め賜ひ、人民(おほみたから)を惠み給ひ撫で給ふ事なも、天つ皇祖之大神の御伝へ坐せる大道の根元にて、その御任さしのまにゝゝ、天つ神、地つ祇等、受け持ち給ひて、世の中の事のありの悉々、神の御業に、洩るゝ事なく脱つる事なく、広き厚き恩頼を蒙ふりて在る縁由(ことのもと)を、確かに窺ひ得て、頂(いなだき)に尊とみ辱けなみて在るを、中御世より、外つ国々の横趣(よこさ)の説等伝はり来て、世人の心、漸くにその方風(かたざま)に移ろひて、異しき卑しき蕃神(からがみ)をら、専らと齋き、高く尊とき皇神等の御霊によりて、その御道の中に生れて、食し物、衣物、住む家等、爲しと爲す事ごとに、大御惠みを蒙ふりつゝも、然かは思ひ奉らず、神の道を□[三鹿]略かに思ひ居る人、多はに出で来て、神事(かむわざ)仕へ奉る事の廃れ以て来て、天つ神社、国つ神社も衰へ坐せるによりて、皇神等は、彌や放(さか)りに放り坐して、在し坐さぬごと隱ろひ坐し、蕃神は所を得つゝ大神僭(ごろ)ひて、世の人を欺く事の懷悒(いきどほ)ろしく慷慨(うれた)く(一云、て)、身に敢へぬ態にはあれど、神の御典を熟く解き明かして、世の人に普ねく、大神の御徳みの辱けなき本の由緒(いはれ)を知らしめ、霊の眞柱立ち固めしめて、なおこの後も、何か樣の異しき説等、蔓り来とも率(まじこ)らせじと思ひ興して、往にし文化八年と云ふ年の十二月より、間なく閑なく、今日の活く日の足る日まで、心は緩み怠る事なく、この学びを勤しみ仕へ奉らむと、志ざし侍ふになも。

 今招き奉り、称え辞竟へ奉る、天地之御神等・御霊等、一柱も漏れ落ち給ふ事なく、この神床に神集ひ々ゝ給ひ、平らけく安らけく御座し坐して、神魯伎、神魯美命の、高天原に始め賜ひし事を、天地の大神等、神隨らも知ろし看して、任(ま)けのまにゝゝ幸はへ坐し、荒振る神等・御霊等は、皆な御心を直し和ごし坐して、善はしき御心、振り起こし給ひ、中つ御世より、人の隨意(まにま)に行はしめ、或いは神隨らも宥め給ひて、用ひ給へる蕃国々の事等の、神魯伎、神魯美命の道に、違へる非が事は、糺し改め退け給ひ、天地の大神等、神世のもころ(=如く)、大御稜威を振ひ給ひ、各も々ゝ掌り別け給ふ功徳(みいさを)の任(まにま)に、相うづなひ相まじこり相口会へ給ひて、前に神の道を知らざりし程に、過ち犯せる種々の罪・怠り・穢れ、今もなほ日々に失ち犯す事のあるをば、見直し聞き直し給ひ、宥め給ひ許し給ひ、払ひ清めしめ給ひて、古る語等は、漏らす事なく過つ事なく、正語を正語と思ひ得しめ給ひ、説き誤れる事あらば、次々に思ひ得て改めしめ給ひ、足は行(あ)りかねども、天の下の事等、盡とに知らしめ給ひ、外つ国説にまれ、正説は正説と、□[手+庶。ひろ]ひ得しめ給ひ、

 高天之神祖の神之産霊に造り給ひ、その御霊を分け賦(たま)へる御末奴と爲て、その道好む性と在らしめ給ふ事は、頓(やが)て神の如此(か)く使ひ給ふ事となも思ひ奉るに、掛け卷くは畏こけれども、吾が魂は、頓て神の分霊(わけみたま)にしあれば、幽事、神事をも、知らるゝ限りは知らしめ給ひて、この世ながらに、神にも見え奉り、世の爲め道の爲めに、祈りと祷る事等、爲しと爲す術等、神習の術、医薬の術、咒禁の術を、悉とに神術なす、いづ速き驗し有らしめ給ひて、普ねく人の災難ひを救はしめ給ひ、所有ゆる妖物も、形隱くし敢へず、恐ぢ怖れしめ給ひ、我れなく、一向きに帰順(まつろ)ひ奉り仕へ奉れば、この躯(み)、即ち奇霊千憑彦命に等し(一云、等しきが故に)。大神等、御霊等、常に請ひ呑み奉る隨まに、霊幸へ坐し、神憑り坐して、その御徳(みいつ)に似(あ)えしめ給ひ、大神等の御霊之幸、請ひ奉ると、御前に捧げて、日毎とに給はる活く薬の驗し炳焉(いちじ)ろく伝へ給ふ隨まに、躯を健然かに病しき事なく煩はしき事なく、彌や若えに若えしめ給ひて、堅石に常石に、世に弘く功成し竟ふるまで、世の長人と在らしめ給ひ、

 学びの業を、彌や奬めに進め給ひ、彌や助けに扶け給ひて、むくさかに榮えしめ給ひ、五百卷・千卷の書等、言美はしく、義理正しく記し得しめ給ひ、爲す事・言ふ事、悉とに愛で敬まはしめ給ひ、外つ国学びの妄(ねぢ)け曲れる徒(ともがら)の邪説(よこさまごと)は、次々に問ひ和はし言向けしめ給ひ、この正道に赴かしめ給ひて、諸々同じ心に神習はしめ給ひ、なお神之道に帰順はで、四方四隅より荒び疎び來む妖鬼・枉人は、速かに追ひ退(そ)け罰(きた)め給ひて、例しの隨まに、豫美つ国に逐らひ下し給ひ、大神等の御稜威を、世に炳焉るく知らしめ給ひ、書き著はさむ書等を、あぶさはず(余さず)形木の板に彫り成して、世に弘めしめ給ひ、治まれる御世の祥(しるし)に、神世の由緒を、普ねく広く滞ほる事なく、善はしく世に解き明かさしめ給ひ、世人盡とに、正しき直き古へ意に復へらしめ給ひ、仍ほその書等を、最(いや)高き雲の上にも、世を爲政(まつりご)ち給ふ公(きみ)の辺にも、伊吹き挙げしめ給ひ、

 広き厚き御徳みの公心(おほやけごころ)に、庸夫(たゞびと)の思ひをも、徒だには捨てじと、採り用ひ給ひ、神世の由縁を所思ほし坐して、次々に廢れたる神事を興さしめ給ひ、衰へ坐せる社々の千木高く挙げしめ給ひ、古への道に復へし給ひて、無窮(とこしへ)に君と臣との御中、彌や睦びに親び、栄えしめ給ひ、

 この功績を以ちて、罪、怠り、穢れ、犯しのあるをも、宥め給ひ恕し給ひて、大神等の御恩を報いしめ給ひ、功成し竟へて、現世を罷れる後の魂の行方は、定まりのまにゝゝ、産土神等、事執り給ひて、一向きに幽事知らせる大神の御許に参り仕へ奉らしめ給ひ、大神の御後へに立ちて、天上(あめ)に復命(かへりごと)白さしめ給ひ、彌や益々に正しき直き太心を固めしめ給ひて、動く事無く、天地の有らむ限りの後の世の次々も、現世に立てむ功績の隨まに、神世の学びを世人に幸はへしめ給ひて、邪さの道を、糺し弁へ、伊吹き拂ひ平(む)け退くる態に、仕へ奉る神と成らしめ給へ。

 またそれに就きては、常も家内(やぬち)の者共、朋友(ともがき)・親属(うからやから)・教へ子等の、万の枉事・罪・穢れをも、払い給ひ清め給ひて、病しき事なく煩はしき事なく、睦び親しみ、諸々義理に叶へる願ぎ事共は、幸はへ給ひて、同じ心に、大神等の大道を説き弘むる功勞(いたづき)を、扶けしめ給ひ、御歳豊かに、世の富み世の饒はひをも、足らぬ事なく得しめ給ひて、人多はに養はしめ給ひ、神習はしめ給へと、

 日は異(かは)れど、心・言は違へず、清き赤き心のまにゝゝ、僞はらず飾らず、祈り祝(ほざ)き、請ひ願ぎ奉る事の由を、天御柱・国御柱命、御息の共(むた)、走せ出づる駒の耳、彌や高に、天つ神は、天之磐門を推し披きて聞こし食さしめ、国つ神は、高山の伊穗理・短(ひき)山の伊穗理を掻き別けて聞こし食さしめ、天翔けり国翔ける山人等・諸々之御霊等、天勝国勝奇靈千憑彦命に聞こし食さしめ給へと、畏み畏みも白す」。

 ○稲村眞里翁『評釈近世名家諄辭集』に曰く、「姿雄々しく麗しく、議論縱横、祈願の處には、間々くだゝゞしからずやとおぼゆる節もあれど、眞に人の耳目を聳動して、志氣を振興せしむるに足れり。皇国の大道を説きて、百千の論敵を物の数ともせず、天下の人心を鼓舞せられけむ、大人が当時の意気、想ふべし」と(件の「一云」は、稲村翁、斯文の爲の批なり)。

 「毎朝神拝詞記」を転載しておく。

一 皇居を拝む事
二 龍田の風の神を拝む詞
三 太元尊神を拝む詞
四 天つ日の御国を拝む事
五 月夜見の国を拝む詞
六 皇孫の尊を拝む詞
七 神武天皇を拝む詞
八 伊勢の両宮を拝む詞
九 吾妻の三の社を拝む詞
十 出雲の大社を拝む詞
十一 大和の三の社を拝む詞
十二 常陸の両社を拝む詞
十三 伊豆の雲見の社を拝む詞
十四 尾張の熱田の宮を拝む詞
十五 当国の一の宮を拝む詞
十六 当所の鎮守を拝む詞
十七 家の神棚を拝む詞
十八 祓処の神等を拝む詞
十九 塞の神等を拝む詞
二十 思処の神等を拝む詞
廿一 大宮能売の神を拝む詞
廿二 屋船の神を拝む詞
廿三 御年の神等を拝む詞
廿四 竈の神等を拝む詞
廿五 水屋の神等を拝む詞
廿六 厠を守る神を拝む詞
廿七 古学の神等を拝む詞
廿八 先祖の霊屋を拝む詞

 「皇居を拝む事」だけ「詞」はなく、めいめいが思いのままにお唱えすること、となっています。実にさまざまで、純粋に神棚にお祭りした神様を拝むのは「十七」しかありません。あとは、そちらを向いて遥拝する(「一」から「十六」)。神棚前の祝詞に付け加えて奏上する(「十八」から「廿七」)、こととなっています。現在一般に公刊されている『神拝詞』でも様々な祝詞を載せていますけれど、それを毎朝奏上しろというものではないでしょう。『毎朝神拝詞記』にしても、同じです。

 篤胤は神拝詞の本編のあとで、こんなことを言っています。「抑々神拝は、人々の心々に為す態なれば、必しも斯の如くせよと言ふには非ず。然れば其の詞も、古へ風にまれ、今の風にまれ、其の人の好みに任すべし」(そもそも神拝は、人々がそれぞれの心でなすことなので、必ずこうしろというのではない。だから詞の中の言葉についても、昔風であれ今風であれ、その人の好みに任せるべきだ)。「また公務の励しき人、或は家業のいと鬧しくて、許多の神々を拝み奉るとしては、暇いる事に思はむ人も有りぬべし」(また、公務あるいは家業が大変忙しくて、こんなに神様を拝み申し上げるのは時間が必要だと思う人もあるに違いない)。「さる人は、第一の皇居を拝み奉り、次に第十七なる家の神棚を拝む詞と、第二十八なる先祖の霊屋を拝む詞とを、其の前々に白して拝むべし」(そういう人は、第一で皇居を拝み申し上げ、それから第十七で神棚を、第二十八で先祖の霊屋(みたまや。仏教でいう仏壇)をその前で拝むとよい)。「其は第十七の詞に、伊勢の両宮の大神を始め奉り云々と云へるに、有ゆる神等を拝み奉る心はこもり、第二十八の詞に、遠つ御祖の御霊・代々の祖等云々と云へるに、家にて祭る有ゆる霊神を拝む心を籠めたればなり。猶これに記せる外に、各々某々の氏神、またその職業の神を、かならず拜むべし」(というのも、第十七の詞で「伊勢の両宮の大神を始め奉り」うんぬんに、あらゆる神々を拝み申し上げる心がこもっているし、第二十八の詞で「遠つ御祖の御霊・代々の祖等」うんぬんといっていることに、家でお祭りするあらゆる霊神を拝む心をこめているからである。また、やはり、ここに記した他に、おのおのの氏神、また自分の職業の神を必ず拝むべきだ)。







(私論.私見)