古易大象經伝

 (最新見直し2013.12.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤著書の「古易大象經伝」を確認しておく。

 2013.12.14日 れんだいこ拝


【古易大象經伝】
 「備中處士の平田篤胤大人遺文」の「古易大象經伝(大中道人生田万国秀翁の謹伝。二卷。天保四年六月成)の序」を転載する。
 平田篤胤大人『古易大象經伝(大中道人生田万国秀翁の謹伝。二卷。天保四年六月成)の序』に曰く、

 「余の、菅原道滿(国秀)に於けるや、誇る所以の者は一なり、喜ぶ所以の者は一なり。而して大いに悲しむ所以、大いに懼るゝ所以の者は、また各々一あり也。それ天下の是とするところ、以て我の非とする所を革むべからず、天下の非とするところ、以て我の是とするところを替ふるべからず、万仭に壁立し、一世に独歩し、立てゝ方を易へず、独立、懼れざる者、それ惟だ縣居・鈴屋の二先生か。余、既にその道を篤信し、斯に從事して、自彊、息まざるの教へを奉じ、多識、徳を畜ふるの道を守り、万卷を窮覧す。百部を著述し、以て二先生の遺を拾ひ、以て大九州の古へを稽へ、之を神典に徴し、之を古伝に符合す。然して後ち□[三水+徑の右]渭、一滴の濁り无く、燕石、十襲の惑ひ无し。もしその『太昊古易伝』(四卷。■年成)・『三易由来記』(二卷。天保元年成)・『欽命□[竹+録。以下「録」字にて代用]』(『古易大象經』。二卷。天保元年成)・『彖易編』(二卷。天保七年成)も、またその一也。

 余に従い業を受くるの士も、また多しか。授くるにこの書(『古易大象經』)を以てし、教ふるに余の説を以てす。乃ち能く一を聞き、以て二を知る。小を積みて、以て高大なる者は、その惟だ菅原氏の子(国秀)か。蓋し造父・王良ありて、後に千里の駿足あり。匠石・公輸ありて、後に百尺の棟梁あり。然らずんば則ち奔逸、轡策に応ぜず、屈曲、繩墨ら従はず。今の道滿や也、それ能く駑に非ず、その材、相に非ず、また天下の、之を是非するを顧みざるは、必ず余の一是を須つ焉。二先生の余にあるや、余の道滿にあるや、皆な余の功也。これ余の以て誇る所以ん也。

 余の易を爲すや、道滿、側らにありて、或いは黙識神会、愚の如く、或いは詰難弁論、寇の若し。余、その以て業を成すべきを視るや、乃ち命じて大象經を解せしむ。蓋しこの經や、太昊以來、神眞相継ぎ、教へを埀れ誡めを遺し、人をして天命を欽しむ所以の眞誥也。いわゆる師保ある无くして、父母に臨む如きは、それこれのみ而已矣。然るに道滿、未だ筆を下さず、故ゑありて新田山の下に去る。余、乃ち曰く、「吾が易、北なりか」と。未だ幾ばくならずして、道滿、乃ち古易大象經伝を撰し、以て之を閲し、之に序せむことを請ふ。余、披きて之を読み、閲して之を批す。能く余の既に授けるところを述ぶ。又た余の未だ教へざる所を発せり。余、乃ち端坐して手を拊ちて曰く、「吾が易、また南なり矣」と。

 この伝や、先づ卦象を詳かにし、能く文意を釈き、前言を祖述し、往行を憲章し、而して日読日新、愈々味く愈々旨し。人をして天に順ひ命を休んじ、心を安んじ身を修めしむる所以の者は、またなお師保に父母に臨むがごとき也。その總論及び附録も、また皆な太昊が眞誥に據りて、文周の妄辞を斥く。神眞の古道に頼りて、擬聖の陰惡を闢き、以て余書を裁き成し、以て余の説を輔相す。余、初め易を爲して、以爲らく、「天下、若し一ならば、之を是とする者あらば、則ち足るか」と。今や也、乃ち道滿あり焉。凡そ易の附註末書、車載□[馬+盧]負、未だその幾百家有るかを知らざる也。今ま之をこの伝に比するに、譬へば尺錦を千丈の布に鮮かにし、寸剣を一尋の棒に利する如き也。余、嚮(さき)に艸する所の『欽命録』・『彖易編』も、また將に自ら編を絶ち□[手+過]を折りて、之を道滿に委せむとす焉。吾が党の小子、易に於いて與にそれ之を道滿に問へ也。何ぞ必ずしも余を須たむや。これ余の以て喜ぶ所以ん也。

 道滿、上野国某藩に生れ、□[言+黨]言を徴するに会ふ。乃ち封事を上り、以爲らく「片言隻句、用ふるあれば、則ち死すとも可也。命を致し志を遂ぐるに庶(ちか)からむか」と。事を用ふる者、陰に之を沮み、陽に之を放つ。爾來、流離の中、顛沛の間、道滿、親から薪水の労を給し、句読を授け、以て耕に代ふ。困窮して溢せず、講習して倦まず、乃ち能くこの伝を撰す。身に反り徳を修むるに庶からむか乎矣。彼や、春秋大いに富み、鞭策懈らざれば、則ちその著撰、豈に推して此に止まらむや哉。然して今ま世を遯れ悶无きの戒めを守り、更に思ひを位に出でざるの教に欽しむ。これ天下、果たして道滿を非とし、道滿、自ら是として屑しとせざる也。それ豈に惟だに道滿の□[戸+乙]ならむや。抑々また吾の道の□[戸+乙]也。これ余の大いに悲しむ所以ん也。

 道滿、道を信じて、而して余を信じて、余を美むること分に過ぐ。伝中、往々余の行実を挙ぐる者あり。その閲を請ふに及ぶや、乃ち之を刪らしめ、誡めて曰く、「道滿、止めよ。女(なんぢ)、唯だこれあるを知りて、彼れあるを知らず。我れあるを知りて、他れあるを知らざる也。天下の士、それ之を何んと曰はむ」と。道滿、涕を抑へて、肯を從はずして曰く、「道滿、道に於けるや、唯だ命、これ從ふ。然りと雖も此く擧ぐるや、親炙、既に久し。鑚仰、彌々新たなり。道滿、不敏なりと雖も、眞にその師徳あるを知る矣。然して師は、則ち反りて知らず焉。安んぞ天下の士、道滿を是とし、師を非とする者あらざるを知らむや乎」と。遂に從はずして、繕寫、既に成る。これ余の、以て大いに懼るゝ所ろ也。嗚呼、この伝の、この伝を爲す所以を知る者に非ざれば、豈に能く古易の、古易を爲す所以を知らむや哉。

 時に太昊、八卦を畫する辛卯の歳よりして來(このかた)、四千八百六十四年、天保五年、歳、甲午に在る正月元日丁亥」。






(私論.私見)