霊の真柱№1

 (最新見直し2013.12.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤の著書の「霊の真柱№1」を確認しておく。どういう理由でかは分からないが、ネット上では原文が開示されていない。とりあえずの参考として「務本塾・人生講座」の「現代語訳・霊の真柱・目次」、「現代語訳・霊の真柱(第一図)」、「現代語訳・霊の真柱(第二図)」、「現代語訳:霊の真柱(第四図) 」その他を確認しておく。ここに謝意を申し上げておく。但し、やはり原文を読んだ方が早い気がする。

 2013.12.14日 れんだいこ拝


霊の真柱№1
 「現代語訳・霊の真柱・目次」の、これと思うところを転載、参照する。
 序文
 「古学を学ぶ者は、まず何よりも第一に大和心を固めなくてはならない。この固めが固くなくては、まことの道を知ることができないということは、我が師本居翁がねんごろに教えさとされたところである。(中略) ところで、その大和心を太く高く固めたく臨むときには、何よりも人の死後の霊の行方、落ち着くところを知ることが第一である」(「日本の名著24平田篤胤」159P)
 「さて、その霊の行方の落ち着くところを知るには、まず天、地、泉(よみ)の三つの成りはじめ、又その形を詳しく考え、その天、地、泉を天、地、泉たらしめたもうた神の功をよく知り、我が日本国が万国の本の国であり、万事万象が万国に優れる訳、更に又、畏れおおい我が天皇が万国の大君であることのまことの訳を十分知って、かくて、霊の行方を初めて知りうるものである」(「日本の名著24平田篤胤」159P)
 「というのは、そのいうところの太極・無極・陰陽・五行・八卦などという理は元来ないものであるにもかかわらず、勝手にこのようなさまざまな言葉をつくり、何事にもこの言葉をあてはめ、天地万物がみなこの理で成ったかのように、またこの理を離れるものがないかのようにいうけれども、すべて物の理というものは窮まりのないものであり、人の知恵ではかりつくすことのできるものではないから、理屈をおしていう説は信用することができない。だいだい、人間が考えて知りうるものは、ただ目の及ぶかぎり、心の及ぶかぎり、はかりわざの及ぶかぎりのことであり、もはやその及ばぬところにいたっては、どう考えても知るべき手だてがない」(「日本の名著24平田篤胤」160P)。
 「神代の事の中には、さらにまた常の世の中の事の中にも、その理もその事も量り知りがたいことがなお多々ある。しかるに、知りがたいことを、しいて知ろうと思い、またいかにも知っているかのようにさまざまとおしはかっていうのは、みな異国の道の習いである」(これは、本居宣長の言説を引用したもの)(「日本の名著24平田篤胤」163P)。
 「現代語訳・霊の真柱(第一図)」を参照する。
 第一図(アメノミナカヌシ・ムスビの二神)
 「古(いにしえ)の伝えに曰く、古の天(あめ)と地(つち)が未だ成らない時、天御虚空(あなつみそら)に成り出た神の御名(みな)は、アメノミナカヌシノカミ(天の御中主神)、次にはタカミムスビノカミ(高皇産霊神)、次にカミムスビノカミ(神皇産霊神)、この三柱 (みはしら)の神は、みな独り神でありまして、いつのまにやら身を隠してしまった」。
 「タカミムスビノカミ・カミムスビノカミをよく観れば、タカミムスビノカミは神事の中の顕事(あらわごと)をとり仕切り、カミムスビノカミは神事の中の幽事(かくしごと)をとり仕切っていること、『古史伝』に詳しく言っているところである」。
 「現代語訳・霊の真柱(第二図)」を参照する。
  第二図(大虚空から「一つの物」誕生)
 「古の伝えに曰く、ここに、大虚空(おおぞら)の中に「一つの物」が成り出ました。その形状言い難く、浮かぶ雲をつなぐ根がないようであって、クラゲのように漂える時に、云々。この生まれる一つのものは、やがて天、地、泉の三つに分かれたものである。(中略) この一つのものが虚空に生り始めたのも、それが分かれて天、地、泉と成って、(中略) また次々の神々が生りましたのも、ことごとくかの二柱の産霊の大神によって生ったのである」。
 
  ある人が師に次のように質問した。「世にあらゆる万づの事は、その本はみな産霊神(むすびのかみ)の神霊(みたま)が生み出したと言うなら、その産霊神は、また何神の御霊によって生まれたのですか」。師曰く、
 (れんだいこ意訳概要)「この神たちは、いずれの御霊によって生まれたかというのは伝えがないので知ることができない。これのみでなく、神代のこと、また常の世の中の事のなかにも、その道理もその事も計り知れないことがたくさんある。その知りがたいことを、強いて知ろうと思い、また物知り顔に、とかく推量で言うのは皆な異国の学問方法である。異国の道は、仏学、聖人学などもそうであるが、各々万づの物、万づの事の道理を、ことごとく知り得たものとして筋道を立てて学を為している。そういう学問では、知りがたいものがあっては学が成り立たない。しかしながら日本学はここが違う。神の道なぞは、神と言えども知り得ないことはあるとしており、イザナギの大神ですらそうである。これを踏まえて、凡人は、知り得ないことは知り得ないとして、古の伝えを守って、いささかも小賢しいことを交えないことを道としている。伝えがないこと、分からないことは、ただ『知りがたし』としてそのままに踏まえている。こう弁えるのが日本学である」。
                    
  ある人が次のように質問した。「その始めて出来た物の質はどんなものでしょうか」。師曰く、
 「それは伝えがないために知りがたい。しかしながら、これは天地泉の三つに分かれた物であるから、それが混成した質であることは知られております」。
 「現代語訳・霊の真柱(第三図)」を参照する。
  第三図(アシカガビコ・アメノソコタチ)
 「かの漂う一つのものの中から葦の芽(牙)のごとくに萌えあがったものが、次第に上り、次第に天となり、又その後に残った地となるべきものが、まだ固まらずあった時、その底に、又一つのものが芽ぐみ現れてきた。それはやがて泉の国となったものである。その後、成り出た神の御名はウマシアシカビヒコジノカミ(宇麻志葦芽比遅神)であった。その神から天の基底となるアメノソコタチノカミ(天之底立神)が生まれた。この二柱の神も独り神で、いつのまにやら姿を隠してしまわれた」。
 「現代語訳:霊の真柱(第四図) 」を参照する。
 第四図(神世七代の誕生)
 「古の伝えに曰く、次に、浮き雲のように漂えるものの根にも、また一つの物が成りいで、クニノトコタチノカミ(国之底立神)が生まれた。次にトヨクムネノカミ(豊*淳神)が生まれた。この二柱の神もまた独り神にしていつのまにやら身をお隠しになられました。次に国地(くにつち)がまだ固まらない時に成り出たのがウヒヂニノカミ、次に妹スヒヂニノカミ、次にツヌグイノカミ、次に妹イクグイヒノカミ、次にオホトノヂノカミ、次に妹オホトノベノカミ、次にオモダルノカミ、次に妹アヤカシネノカミ、次にイザナギノカミ、次に妹イザナミノカミ。次々と神々が生み出されて行った」。
(今あげたクニノトコタチノカミからイザナミノカミまでを、あわせて神世七代と申します。はじめのクニノソコタチとトヨクムネノとはそれぞれが一代、次に並び出た十柱の神々は二柱の神を合わせて一代とするのです。)

 「私、篤胤はいう。はるか西の国の人(エンゲルベルト・ケンプル、ドイツ人の医師 ・博物学者。一六九○年来日、オランダ商館長にしたがい江戸参府し、当時の外国人の日本見聞記の代表作『日本誌』を著す。その付録第6章を抄訳したものが『鎖国論として流布された。以下篤胤がひきあいにする引用はそれによる)が、万国の地理風土を詳しく書いた書物の中に、皇国(日本)のことも書かれてある。それによると『さまざまな国の中でも、土地が肥えて楽しく暮らせる場所は、北緯三○~四○度の間にほかならない。日本は、まさにそこに位置しており、その上、万国の極東にある。天神(大神)のいかなるご配慮によるのであろうか、この国は特に神の恵みを受けている。

 国土の周囲には、潮流が激しく、波さかまく荒海がめぐらせてあり、外国の侵略を防ぐようになっている。また、国土を列島の形に分断し、大きな島がいくつか合わさった形になっているのは、その地方ごとに作物や特産物ができるようにし、互いにそれを流通せしめ、外国に頼ることなく、国内だけでいろんな産物を自給自足・満足できるよう、はからわれたものである。さらに、国土の規模が、大きすぎず、小さすぎず造られたのは、国力を充実させて、より凝縮した強さを発揮せしめるためである。それゆえに、この国は人口がおびただしく、家もにぎやかにたちならび、各地の産物は豊饒をきわめ、ことに稲や穀物(豆・粟・稗・ソバなど)は、万国に卓越してすばらしい。国民の気性も、勇敢で激烈、強健にして盛んであり、これもまた万国にならぶものがない。これらの特徴はすべて、天地創造の神が、日本に特別の恵みをたれたもうた、たしかな証拠である』 。

 この西洋人がいう、皇国は神の特別な御恵みを受けているとする説明を、漢土(中 国)がもっともらしくいう『天意・天命』などと同一の概念と思ってはならない。というのも、西洋人というものは、天地の間の事物を、さまざまな技術や観測方法 を考案して調べ、それにもとづいて考察や推察が及ぶ限りは人知をつくすが、人知のおよばないことについては議論せず、とりあげない。あらゆるものごとが、神のご意志であることをわきまえており、真実に彼らなりの伝統と古風をとうとぶものである 。だからこそ、漢土のかしこぶった、もっともらしい諸説と同列に論じることはできない。

 そもそも、はるか離れた西方の外人ですら、このように皇大御国たる日本の尊貴なるいわれをわきまえている。それなのに、わが国の学問する同輩たちが、自国・日本の尊さの理由と根源を追求しようとしないのは、篤胤、まことに残念で嘆かわしい限りである。外国のものどもが、あえて日本と親交を結びたがるのは、日本の尊貴なる由来をわ きまえているからで、皇国の大いなる徳にあやかろうとしているのである。諸同輩は 、これらのことをご存じなのだろうか」(四六~四七ページ) 。

 「皇国の世界における位置は、すべての大地の頂上部にある。その理由は、世界が最初にできるとき、葦の芽(あしかび)のようにとがったもの(うましあしかびひこじの神)の、ちょうど根のところにあるからである。この葦の芽のようなものによって、まだ天と地がすっかり分離されていなかったころには、大地は、天という枝からぶらさがる果物のようなものだった。皇国は、この葦芽のようなもので天につながる、大地という果物の『へた』の部分に位置するのだ 。

 こういうと、ある人は、こんなことをいいだす。皇国は万国に先立つ大本の国で、 天の枝、地の果物の『へた』にあたるというのは、なるほどと思えるけれど、ここで ある疑いが持ち上がる。というのは、大本の根源の国にしては、国土が小さく、地の果ての西洋の国々に比べて、物質文明の進歩が遅いのは、どうしてであろうか。大本の国というなら、そう いうことはないはずだと。

 私、篤胤が答えよう。まず、神様が、皇国をさして大きくない国として、お造りになられたのは、かのケ ンプルなどの西洋人が考えたように、神はかりがあるというべきである。ことにいえるのは、国のことに限らず、ものの尊卑善悪は、見かけの大小にはよらないのである。それは、師匠の本居宣長翁がおっしゃるように、『数丈(一丈=三・三メートル)の大岩も、一寸(三・三センチ)四方の翡翠(ひすい)には及ばず、牛馬も体は大きいが、人間には及ばない。国もおなじであって、どんなに広く大きくとも、悪い国は悪く、逆にどんなに狭く小さくとも、良い国は良い』のである。

 たとえば、世界地図を見ると、南の下方に非常に大きな(南極)大陸がある。ほかの大陸全部をあわせて、三で割ったほどの広大さだが、そこには人も住まなければ、 草木も生えない。もし国土の面積の大きさをもって、国の善し悪しをいうのなら、さしずめ南極大陸は、よい国ということになろう」。

 「また、西洋諸国よりも物質文明の開けが遅いというのも、皇国の国民は性質がおお らかで、こざかしく物を考えたり、理屈をあげつらったりしないからなのであって、 単に遅れていると思うのは、思慮が足りないいいぐさである。つまり、皇国は万国の元祖・大本の国で、果物の実でたとえれば、『へた』の部分に当たる。『へた』の部分には、とくに『ものをゆっくり確実に成長させる大地の気』が厚く集まっているために、成長の仕方はゆっくりでおおらかである。それで皇国の民も小知恵を働かせたり、さかしい性質をもったりしないのである。たとえば、メロンや桃の実も、その実がだんだんと大きくなるのは、『へた』から 実の先端に向かって成長してゆく。ところが、実が育ちきって、熟するときには、先端の方から、まず熟しはじめ、『へた』の部分は、後になって熟するものである。 これは、『へた』の部分が、実の成長の原点であり、成長させようとする力の勢いが強く、最後まで残存するからである。

 こういうことは、すべてに言えることで、たとえば天地の間のことでも、朝日が最初に東に見えるときは、さして日光の暖かさを感じたりはしないが、だんだん太陽がのぼって西へ西へと移動するごとに、日差しの熱さを感じるようになる。これは、東に起こった朝日が、西に移動するうちに変化するからである。こういうことは、天地の間の理というものを、よく観察研究し、きわめたのちに、 はっきりとわかることである」 。

 「また、鳥獣というものは、生まれ落ちるとすぐに、自分から餌を食べ、二~三カ月 もすれば、もう交尾などはじめるが、これは卑しいものだからである。それに比べて人間は、食べることも、立つことも、非常におそいのであるが、やがては成長して鳥獣より尊いものとなる。さらに、鳥獣は、人間に比べて寿命がきわめて短い。その理由もまた、人間より早く成長し、交尾し、老化して、早く死ぬという一生の速度のはやさにあるのだろう。 諸外国の文物が、早く悪く、さかしい形で発展してきたのも、皇国の文物が、長い 間、太古の神代のままにおおらかであるのも、以上のことに、なぞらえて理解できる 。 漢土の書物にも『大器は晩成す』という言葉があるが、まさにこのことを語っているのである。

 さて、諸外国では、昔からさかしく物を考え、さまざまな文物を編み出してきたのである。皇国は、今なおおおらかで、強いてさかしくはして来なかったのであるが、 今いった外国人どもが、油汗ながして、血のにじむ思いで必死に考えだしたことを、 彼らはありあまるほど貢いでくれるので、皇国の役に立つことが多いのである。

 このことを思うに、高枕で腕組みした主君に、人民が腿まで泥につかり、肘まで水 に濡れながらつくった作物を、捧げたてまつる様に似ている。これも、人知でははかりしれない、神秘きわまりない、神々の大いなるご意志が、そのように尊いものと卑しいものを、定めたもうたということである。

 それなのに、外国のことを学ぶものたちは、以上のような由来を知りもせず、外来 の文物が皇国の役にたつのを見て、貧弱な肩をそびやかし、声高・鼻高にほこってい る。かたはら痛いことである。そういう姿勢は、儒学者のみならず、最近起こってきた蘭学なる学問を学ぶものたちに、ことに当てはまることであり、大変にいとわしいことである」 。 

 顯幽一貫の護皇靖国の誓願。投稿者:備中處士  投稿日:2010年 1月30日

 平田篤胤大人『霊能眞柱』(刻本・卷上一表および卷下二十四裏。宮地直一博士『校註・霊能眞柱』昭和十九年九月・明世堂書店刊)

 「この築き立つる柱はも、古へ学びする徒(とも)の大倭心の鎭りなり。然るはこの柱の固めは、底つ磐根に築き立て、千引きの石の堅固めずては、その言ひと言ひ爲しと爲す、言にさへ事(わざ)にさへ柱なくて、桁・梁・戸・窓の錯(きかひ)鳴り動き、引き結べる葛目の緩び、取り葺ける草(かや)の噪(そゝ)ぎつゝ、夜目のいすゝき、いつゝしき事なも、これに因りて出で来める。然のみならず、その霊の行方をだに鎭め得ずて、潮沫の成れる国々、いな醜目、穢き底の国方(べ)の国より、荒び疎び来し説に、相率(まじこ)り相口会へむとするも多かるを、見るに得堪へねば、いかでその心の柱を、太く高く磐根の極み築き立てさせ、鎭めてまし率らせじと、思ふまにゝゝ、屋船神の幸ひ坐して、築き立てさせしこの柱よ。はたその因(ちなみ)に彼處や此處へ遊(うか)れ行く霊の行方も、尋(と)めおきて鎭めに立てし、これの柱ぞも。

 眞木柱 太き心を 幸へむと 進(そゞ)ろ心は 鎭め兼ねつも

 古へ学びする徒は、まづ主と大倭心を堅むべく、この固めの堅あらでは、眞の道の知りがたき由は、吾が師の翁(本居宣長大人)の、山菅の根の丁寧ろに教へ悟しおかれつる。こは磐根の極み突き立つる厳し柱の、動くまじき教へなりけり。かくてその大倭心を、太く高く固めまく欲りするには、その霊の行方の安定(しづまり)を知ることなも、先なりける(中略)。


 さてその霊の行方の安定を知りまくするには、まづ天(あめ、太陽)、地(つち、地球)、泉(よみ、月球)の三つ(これを三大と謂ふ)の成り初め、またその有り象(かたち)を、委曲(つばら)に考へ察(み)て、またその天地泉を、天地泉たらしめ幸はひ賜ふ、神の功徳(いさを)を熟(よ)く知(さと)り、また我が皇大御国は、万国の本つ御柱たる御国にして、万の物・万の事の、万の国に卓越(すぐ)れたる元の因(いは)れ、また掛けまくも畏き、我が天皇命は、万の国の大君に坐すことの、眞の理を熟(うまら)に知り得て、後に魂の行方は知るべきものになむありける。(中略)


 さて天・地・泉のあるやう、また幽冥の妙なる有り状を、なほ委曲に考ふるに、抑々天は、(中略)善き事のかぎりある御国なり。また泉の国は、(中略)師翁の云われし如く、万の禍事・惡しき事の行き留まる国なり。(中略) 西戎(もろこし)の古説に、世の初めは、天地混成(むらかりな)りて、鷄の子の如くなりしが、その清める物は上りて天となり、濁れる物は下に凝りて地となれると云ふは、古伝の殘れるなり。これを一向に、漢国人のさかしら説(『淮南子』・『三五暦記』)と云ひくだすは、甚(い)とあぢきなく、片落とし(依怙贔屓)とやいはまし。(中略) 古学とは、熟く古の眞を尋ね明らめ、そを規則(のり)として、後を糺すをこそいふべけれ。(中略)。すべて古学する徒は、何事も神代の事実より及ぼして、今を考へ、人の上をも知ることなるに、神代の神の一柱だに、その御魂の泉国に往き坐せる例しのなければ、その據と爲すべきことのなきを、いかにかはせむ。(中略)なほいはゞ、人魂の、すべては夜見に帰(ゆ)くまじき理は、神代の事実によりて知るのみならず、人の生れ出る所(ゆゑ)由、また死にて後の事実を察ても曉(さと)るべきは、まづ人の生れ出ることは、父母の賜物なれども、その成り出る元因は、神の産霊の、奇しく妙なる御霊によりて、風と火と水と土、四種の物をむすび成し賜ひ、それに心魂(たましひ)を幸はひ賦(くま)りて、生れしめ賜ふことなるを(中略)、死にては、水と土とは骸(なきがら)となりて、顯はに存り在るを見れば、神魂(たま)は、風と火とに供(たぐ)ひて、放(さか)り去るごとく見えたり(中略)。これは、風と火とは天に屬(つ)き、土と水とは地に屬くべき理の有るによりてなるべし。篤胤が、かく論へるにつけて、或る人の、これは異国の説に似たりといひて、あざみ云ふ由をさして、云へらく、よし似たらむも、同じからむも、事実に徴して、正しくその理の見えたることならむには、などかいはざらむ。然るは人活きて居るときの、呼吸(つくいき・ひくいき)は、これ風に非ずして何ぞ。伊邪那岐命の御氣(みいぶき)に、風神は生り坐せるを思ふべし。また人体の、かく温暖かなるは、火に非ずして何ぞ。また体の滋潤ひは、これ水に非ずして何ぞ。骸を埋みて、何物にかはなる。土に化るに非ずや。すべて言痛く理をいふは惡しかれども、現に見えたる理をば、などかいはざらむ。こは師翁も、しか云ひおかれたりき。篤胤は、何事も神代の伝と事実とに徴考(あかしむか)へて、理の灼然(しる)きことは、えしも黙止(もだ)さず、考への及ばむかぎりは、いはむとするなり。然るをそれ惡しとて、いはじとのみするは、道に厚からぬ人か、然らぬは理を尋ねていふべき智力なき人なるべし。この風・火・水・土を以て、人体の理をいふを、異国の説に似たりと云ふも、それは彼が吾に似たるにて、吾が説の彼に似たるには非ざることを弁へず、実は熟(うま)く神代の事実を明らめ知らざる故の非言なり。(中略)。

 但し師翁の説(『鈴屋答問録』第二十五「荒魂・和魂の義は如何」条)に、霊をここかしこに祭りて、各々驗(しるし)あることを、一箇の火を、こゝかしこに移し燈せど、本の火も滅(き)ゆることなく減ることなく、有りしまゝにて、その移し取りたる火も、各々その光の熾りなるにたとへられたる、実に然ること(愚案、これ現に靖国神社に於るマスコミのいわゆる「分祀」不可論とて、櫻井勝之進博士『靖国』に述べる所の、彼の比喩の溯源なるべし。殊更に別きて、一先づこゝに掲示せり矣)‥‥。

 然在れば亡霊(なきたま)の、黄泉国へ帰くてふ古説は、かにかくに立ちがたくなむ。さもあれば、この国土の人の死にて、その魂の行方は何處ぞと云ふに、常磐にこの国土に居ること、古伝の趣と今の現の事実とを考へわたして、明かに知らるれども(中略)、この顯明(あらはに)の世に居る人の、たやすくはさし定め云ひがたきことになむ(中略)。そはいかにと云ふに、遠き神代に、天つ神祖命の御定めましゝ大詔命のまにゝゝ、その八十隈手に隱り坐す、大国主神の治らする冥府(かみのみかど)に帰命(まつろ)ひまつればなり(中略)。抑々その冥府と云ふは、この顯国(うつしくに)をおきて、別に一處あるにもあらず。直ちにこの顯国の内、いづこにも有なれども、幽冥(ほのか)にして、現世とは隔り見えず、故れもろこし人も、幽冥また冥府とは云へるなり。さてその冥府よりは、人のしわざのよく見ゆるめるを(中略)、顯世よりは、その幽冥を見ることあたはず。そを譬へば、燈火の籠を白きと黒きとの紙もて中間よりはり分ち、そを一間におきたらむが如く、その闇き方よりは明き方のよく見ゆれど、明き方よりは闇き方の見えぬを以て、この差別(けじめ)を曉り、はた幽冥の畏きことをも曉りねかし。但しこは、たゞに顯明と幽冥(かみごと)の別をたとへたるのみぞ。その冥府は闇く、顯世のみ明きとのことにえあらず。な思ひ混へそよ。実は幽冥も、各々某々に、衣食住の道もそなはりて、この顯世の状ぞかし。そは古くは、海宮の故事をおもふべく、(中略)。

 あはれ、然る人々よ。大船の、ゆたに徐然(しづか)におもひ憑みて、黄泉国の穢き国に往かむかの、心しらびは止みねかし。さるは上にいへる如く、人の霊魂の、すべて彼の国へ往くてふ伝へも例も見えざればなり。師翁も、ふと誤りてこそ、魂の行方は彼處ぞといはれつれど、老翁の御魂も、黄泉国には往で坐さず。その坐す處は、篤胤、たしかにとめおきつ。しづけく泰然(ゆたか)に坐しまして、先だてる学びの兄たちを、御前に侍(さも)らはせ、歌を詠み文など作(か)きて、前に考へもらし解き誤れることもあるを、新たに考へ出でつ。こは何某が、道にこゝろの篤かれば、渠に幸ひて悟らせてむなど、神議り々ゝまして座すること、現に見るが如く、更に疑ふべくもあらぬをや。然るは、すべて親魂あへる徒どち、またおなじ道ゆく人どちは、死(まか)りて後も、その魂は一處に群れ集ひ、互(かた)みに助け成すことにて、(中略)。然在らば、老翁の御魂の座する處は、何處ぞと云ふに、山室山に鎭り坐すなり。さるは、人の霊魂の黄泉に帰くてふ混れ説をば、いそしみ坐せる事の多なりし故に、ふと正しあへたまはざりしかど、然かすがに上古より、墓處は魂を鎭め留むる料(ため)にかまふ物なることを思はれしかば、その墓所をかねて造りおかして、詠ませる歌に、「山室に ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」、また「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千世のすみかを もとめ得つれば」と詠まれたる。これはすべて神霊は、こゝぞ住處と、まだき定めたる處に鎭り居るものなることを悟らしゝ趣なるを、ましてかの山は、老翁の世に坐しほど、ここぞと、吾が常磐に鎭り坐るべきうまし山と、定め置き給へれば、彼處に坐すこと、何か疑はむ。その御心の清々しきことは、「師木嶋の 大倭心を 人とはゞ 朝日ににほふ 山さくら花」、その花なす御心の翁なるを、いかでかも、かの穢き黄泉国には往でますべき(中略)。

 さてまたかく云ふ篤胤も、思ふがまゝに書を著はし、その名をば、千名の五百名に負ひ持ちて、世にもいみじと感でらるゝばかりの功績をなし(中略)、さてこの身、死りたらむ後に、わが魂の行方は、疾く定めおけり。そは何處にといふに、「なきがらは 何處の土に なりぬとも 魂は翁の もとに往かなむ」。今年、先だてる妻をも供(いざな)ひ(中略)、直ちに翔けりものして、翁の御前に侍らひ居り、世に居るほどは、おこたらむ歌のをしへを承け賜はり、春は翁の植ゑおかしゝ花をともゞゝ見たのしみ、夏は青山、秋は黄葉も月も見む、冬は雪見て、徐然(のどやか)に、いや常磐に侍らなむ。かくて後の古学する徒に、翁の霊を幸へ坐さば、篤胤、すゑのをしへ子なれば、兄等をばわずらはさず、翁の御言をうけて申しつぎ、漢説(からさへづり)に醜法師、その餘あらゆる邪(よこさ)の道を説き弘めむと、五月蠅なす穢き徒、かたはしより磐根木根をも蹈みさくみ、さくむが如く言向けしめ、またたまゝゝも大御国へ射向ひ奉る夷のありて、翁の御心いためまさば、この篤胤がまかり向ひ、見て参り候はむと、しばしの暇をこひ請し、山室山の日蔭のかつらを襷にかけ、比々羅木の八尋の矛を右手(めて)に持ち、眞弓の弓を左手(ゆむで)に執り、千箭入(ちのり)の靭(ゆぎ)をそびらに負ひ、八握の太刀を取り佩きて、虚空かけり、神軍(かむいくさ)に集ひ入り、元より尊き神々の、「いかに汝はいやしきを、など集へぬに、つどひたる」など宣ふとも、おのれ更にうけひき奉らず、「この平篤胤も、神の御末胤にさむらふを、など然しも卑しめたまふぞ」と、曾丹がさま(樣。曾禰好忠――通稱・曾丹の如く、圓融院の子日の御遊に推參し、身分低きが故に、席を逐はれし故事)には追ひ離(さ)けられず、強(お)して神軍の中に加はり、その御先鉾(みさき)を仕へ奉りて、風日祈神宮より、かの神風をいぶき吹きなびけたまはむ圖(をり)をうかゞひ、「やをれ、夷の頑(くな)たぶれ、辛き目見せむ」と雄建びつゝ、賊の軍の中に翔け入りて、蟻の集へる奴原を、八尋の矛をふりかざし、かの燒鎌と敏鎌を以ちて打掃ふことの如く、追ひしき追ひ伏せ、犬と家猪とのものつか(物憑)せ、或はしや頭ひき拔きすて蹴散(くえはらゝ)かし、うち罰め、山室山にかへり來て、老翁の命に復命(かへりごと)まをしてなまし。あな、愉快きかも。これは、篤胤が常の志なり。あはれ、この予が言擧げよ。然こそや人の、ことゞゝしとや見るらむかし。然かはあれど、すべて人は心の安定をば、太くいかめしく、底つ磐根に突きかため、雄々しく潔くとのみ、力むべきものぞ[‥‥すべて人の魂よ、その元は、神の賦けたまへるものなるけにや、堅むれば固く、大きにすれば大きもなる物にて、その心の定(おきて)のまにゝゝなるものぞ。(中略)。

 然るは、その心の女々しく怯くては、何事にわたりても、怯くのみ成り行きて、その霊の行方も、儒者の云ふごとく、散り失するかとさへ想ひなされ、はた上にもいへる如く、その霊の猛きは、猛き徒どち寄り集ひ、邪(ひが)めるは、邪める徒どち群れ集ふものぞ。そは世に疫病の神、また疱瘡の神、また首絞の神など云ふたぐひの、古へに聞き知らぬ禍々しきものゝ多在るを、人はいかに思ふらむ。これは元は禍神の御心によりて、然る病のおこり、さてそれに依りて死にけるものゝ心邪める、また家もなくて吟行(ちまよ)ふばかりなるものどもの、然ることにて死り、魂の歸り處さへなきが、その死れることの、口惜しくなど有りて、己が見し目を他にも見せむとて、かく在る鬼とはなると見えたり(中略)。これは皆なその心の安定よろしからずて、かゝる鬼とはなるにこそ。楠正成ぬしの、湊川にて討死にせらるゝ時、その弟・正季にむかひて、『最期(いまは)の一念に因りては、善惡の生を引くと云ふを、そこの心はいかに』といはれしに、正季、打笑ひて、『いつまでも同じ人と生れて、朝廷(みかど)に射向ひ奉るものを滅ぼさばやとこそ思ひ侍れ』と云ひしかば、正成、世にうれしげなる面もちにて、『吾も然こそは思ふなれ。いざさらば、生を替へて、この本懷を遂げむ』と、二人さし違へて終(は)てられたる。武士とあらむものは、別に斯くこそ有りたけれ[この楠ぬしのいはれし言を、儒者など、小智をふるひて何くれと論ひ、或は佛書の意ぞなど云へるもあれど、假令(よし)佛書に見えたる意ならむからに、楠ぬしの、然ることに思ひ定められしなれば、やがて楠の心なるをや]。(中略)」。





(私論.私見)