別章【万葉歌精解】 |
(最新見直し2014.01.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、万葉集を概括しておくことにする。この道は果てしなく遠い。しかし知らぬよりは良いだろう。 2009.1.9日 れんだいこ拝 |
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目次 | |
コード | 中項目 |
万葉集の巻構成 | |
万葉集の語彙解説 | |
万葉集巻1 | |
万葉集巻2−1 | |
万葉集巻2−2 | |
万葉集巻2−3 | |
万葉集巻3−1 | |
万葉集巻3−2 | |
万葉集巻4−1 | |
万葉集巻4−2 | |
万葉集巻5 | |
万葉集巻6 | |
万葉集巻7 | |
万葉集巻8 | |
万葉集巻9 | |
万葉集巻10 | |
万葉集巻11 | |
万葉集巻12 | |
万葉集巻13 | |
万葉集巻14 | |
万葉集巻15 | |
万葉集巻16 | |
万葉集巻17 | |
万葉集巻18 | |
万葉集巻19 | |
万葉集巻20 | |
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関連著作本 |
(私論.私見)
万葉集巻一 | |||
一 | 籠よみ籠持ち掘串もよ | 雄略天皇 | |
二 | 大和には郡山あれど | 舒明天皇 | |
三 | やすみしし わご大君 朝には | 中皇女の間人老 | |
四 | たまきはる宇智の大野に馬並めて | 中皇女の間人老 | |
一三 | 香具山は畝傍ををしと | 中大兄皇子(天智天皇) | |
一四 | 香具山と耳梨山とあひし時 | 中大兄皇子(天智天皇) | |
一五 | わたつみの豊旗雲に入日射し | 中大兄皇子(天智天皇) | |
一六 | 冬ごもり春さり来れば鳴かざりし | 額田王 | |
一七 | 美酒三輪の山あをによし | 額田王 | |
一八 | 三輪山をしかも隠すか雲だにも | 額田王 | |
二○ | あかねさす紫野行き | 額田王 | |
二一 | 紫草のにほへる妹を | 大海人皇子(天武天皇) | |
二三 | 打つ麻を麻続王海人なれや | 不明 | |
二四 | うつせみの命を惜しみ浪にぬれ | 麻続王 | |
二五 | み吉野の 耳我の峰に 時なくそ | 天武天皇 | |
二七 | よき人のよしとよく見てよしと言ひし | 天武天皇 | |
二八 | 春過ぎて夏来るらし | 持統天皇 | |
三二 | 古の人にわれあれやささなみの | 高市古人 | |
三三 | ささなみの国つ御神の心(うら)さびて | 高市古人 | |
三五 | これやこの大和にしてはわが恋ふる | 阿閉皇女 | |
三八 | やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 | 柿本朝臣人麿 | |
三九 | 山川も依(よ)りて仕ふる神ながら | 柿本朝臣人麿 | |
四三 | わが背子は何処行くらむ奥つもの | 當麻真人麿の妻 | |
四五 | やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 | 柿本朝臣人麿 | |
四六 | 阿騎の野に宿る旅人打ち靡き | 柿本朝臣人麿 | |
四七 | ま草刈る荒野にはあれど黄葉の | 柿本朝臣人麿 | |
四八 | 東の野に炎の立つ見えて | 柿本朝臣人麿 | |
四九 | 日並皇子の命の馬並めて | 柿本朝臣人麿 | |
五一 | 采女の袖吹きかえす明日香風 | 志貴皇子 | |
五四 | 巨勢山のつらつら椿つらつらに | 坂門人足 | |
五五 | あさもよし紀人羨しも亦打山 | 調首淡海 | |
(巻一についてもまた追加して行きますね) |
万葉集巻二 | |||
八五 | 君が行き日長くなりぬ山たづね | 磐姫皇后 | |
八六 | かくばかり恋ひつつあらずは高山の | 磐姫皇后 | |
八七 | ありつつも君をば待たむ打ち靡く | 磐姫皇后 | |
八八 | 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 | 磐姫皇后 | |
九五 | われはもや安見児得たり皆人の | 藤原鎌足 | |
一○三 | わが里に大雪降れり大原の | 天武天皇 | |
一○四 | わが岡のおかみに言ひて落らしめし | 藤原夫人 | |
一○五 | わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて | 大伯皇女 | |
一○六 | 二人行けど行き過ぎ難き秋山を | 大伯皇女 | |
一○七 | あしひきの山のしづくに妹待つと | 大津皇子 | |
一○八 | 吾を待つと君が濡れけむあしひきの | 石川郎女 | |
一○九 | 大船の津守が占に告らむとは | 大津皇子 | |
一一○ | 大名児が彼方野辺に刈る草の | 日並皇子尊(草壁皇子) | |
一一四 | 秋の田の穂向の寄れるかた寄りに | 但馬皇女 | |
一一五 | 後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ | 但馬皇女 | |
一一六 | 人言を繁み言痛み己が世に | 但馬皇女 | |
一六三 | 神風の伊勢の国にもあらましを | 大伯皇女 | |
一六四 | 見まく欲りわがする君もあらなくに | 大伯皇女 | |
一六五 | うつそみの人にあるわれや明日よりは | 大伯皇女 | |
一六六 | 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど | 大伯皇女 | |
一六七 | 天土の 初の時 ひさかたの 天の河原に | 柿本朝臣人麿 | |
一六八 | ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し | 柿本朝臣人麿 | |
一六九 | あかねさす日は照らせれどぬばたまの | 柿本朝臣人麿 | |
一七○ | 島の宮匂の池の放ち鳥 | 柿本朝臣人麿 | |
一七一 | 高光るわが日の皇子の万世に | 舎人 | |
一七二 | 島の宮上の池なる放ち | 舎人 | |
一七二 | 高光るわが日の皇子のいましせば | 舎人 | |
二○三 | 降る雪はあはにな降りそ吉隠の | 穂積皇子 | |
(巻二についてもまた追加して行きますね) |
万葉集巻三 | |||
(二三五) | 大君は神にし座せば天雲の | 柿本朝臣人麿 | |
(二三六) | 不聴と言へど強ふる志斐のが強語 | 自統天皇 | |
(二三七) | 否と言へど語れ語れと詔らせこそこ | 中臣志斐 | |
(二六七) | ![]() |
志貴皇子 | |
(四一六) | ![]() |
大津皇子 |
万葉集巻一(二)英語訳版
“About
poetry compiled in the first anthology, Manyo-Shu by Yoshihiro
Kuromichi”
翻訳:宿谷睦夫、英文添削:ブルース・ワイマン
translator: Mustuo Shukuya auditor:
Bruce Wyman
旅にして
妹に恋ふれば 霍公鳥(ほととぎす) 我が住む里に こよ鳴き渡る(15-3783)
我妹子が 形見の衣 なかりせば 何物もてか 命継がまし(15-3733)
天地の 神なきものに あらばこそ 我が思ふ妹に 逢はず死にせめ(15-3740)
遠くあれば 一日一夜も 思はずて あるらむものと 思ほしめすな(15-3736)
旅にあっても彼女のことを恋焦がれ、別れの時に彼女からの形見として受け取った衣を大切にしていて、もしその衣が無かったら何を心の支えにして生きていけば良いのだろうかと詠っています。
さらに、その彼女に会わずして死んでなるものかと、必ずや再会すると固い決意を述べてもいます。
そして、遠く離れているからといって、1日も1夜も忘れることはないよと彼女へ詠いかけています。
贈答歌ですから、その歌は手元に置いておくためのものではなく、相手へのメッセージです。
ですから、彼女への思いをアッピールするために、表現がより激しくなっているのでしょうが、それを考えたとしても、人麻呂にとってはその彼女のことが最も大切な人だったということなのかもしれません。
それに答えて詠った彼女の歌も見てみましょう。
逢はむ日の 形見にせよと たわや女の 思ひ乱れて 縫へる衣ぞ(15-3753)
このころは 君を思ふと すべもなき 恋のみしつつ 音のみしぞ泣く(15-3768)
我が背子が 帰り来まさむ 時のため 命残さむ 忘れたまふな(15-3774)
君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも (15-3724)
新(あらた)しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)(20-4516) 新年を迎えたが、年の初めの初春の今日降る雪のように、ますます重なっていけ良い事よ。 これが、万葉集第20巻第4516首、万葉集の最終歌です。天平宝字3年(759)1月1日に、大伴家持によって詠まれたとされています。新年にあたり、気分も新たになって、その日降り積もる雪のように、めでたい事が重なるようにと年賀の挨拶のような歌を詠んでいます。 大伴家持は、天平宝字2年因幡国国守に赴任し、翌年の新年、国郡司等の宴でこの歌を詠んだと題詞に記されています。当時、大伴家持は、42歳だということです。また、万葉集は、その大伴家持が編纂に携わっていたとも言われています。 しかし、そこに、私は判然としない違和感を覚えました。その年齢から受けるイメージとかなり異なる歌を詠んでいるからです。この歌からは、どこか人生を悟ったような、あるいは世の中を一歩引いて観ているような視点をそこに感じます。つまり、その詠み人は、もうやるべきことはすべてやり終えたといったような、達観したような境地にあるように思えるのです。40歳代になり、仕事においても人生においてもまだまだこれからだという家持の心情とはちょっと違うのではないかと感じました。 それは、この歌からだけでなく、万葉集の最後の辺りの歌からも伺えます。 高圓(たかまと)の 野の上の宮は 荒れにけり 立たしし君の御代遠そけば (20−4506) 高圓の 峰の上の宮は 荒れぬとも 立たしし君の 御名忘れめや (20−4507) 高圓の 野辺延(は)ふ葛の 末つひに 千代に忘れむ 我が大君かも (20−4508) 延ふ葛の 絶えず偲はむ 大君の 見しし野辺には 標(しめ)結(ゆ)ふべしも (20−4509) 大君の 継ぎて見すらし 高圓の 野辺見るごとに 音のみし泣かゆ(20−4510) これらの歌は、天平宝字2年2月に、家持も加わっての宴で詠まれた5首として紹介されています。どの歌も、上の宮に君臨していたであろう大君を偲ぶ歌となっています。 どんな宴なんでしょう、ほとんど偲ぶ会といった集まりかのようです。 これらの歌を万葉集編纂者としての家持が、本当に選んで載せたのだろうかと少々疑問に感じました。 第4506首と第4509首は、家持の歌とされていますが、他の3首は、家持以外の詠み人による作品だとされています。しかし、ほとんど同一人物による歌とも思えます。 ある人が詠ったものと同じような歌を別の人が詠うなどという、ほとんどパクリのような歌は詠えないでしょう。思いっきり馬鹿にされるか、真似をするなと叱責されそうです。 大君のことを思い浮かべて野辺を見るごとに泣いてしまうとまで詠っています。そこまで古(いにしへ)を思う詠み人といえば、それは柿本人麻呂でしょう。 私には、これらの歌は、人麻呂の視点で詠われているように思えます。 ひさかたに『やまと』の地、出雲に帰り来て荒れ果てた『都』の姿を見て、出雲王朝の栄華盛衰を伝え残さなければいけないと決意して、『万葉集』の編纂に取り掛かった人麻呂の作品と考えるべきでしょう。 古(いにしへ)を振り返り、その悲情な運命をたどった出雲王朝やその大王を涙ながらに詠えるのは人麻呂としか思えません。 |
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鴛鴦(をし)の住む 君がこの山斎(しま) 今日見れば 馬酔木(あしび)の花も 咲きにけるかも(20−4511) 池水に 影さへ見えて 咲きにほふ 馬酔木の花を 袖に扱入(こき)れな(20−4512) 礒影の 見ゆる池水 照るまでに 咲ける馬酔木の 散らまく惜しも(20−4513) この3首は、『山斎』(しま)で詠まれたと題詞に記されています。『山斎』とは、漢詩文に出てきますが、山間のひっそりとした住処(すみか)を意味します。万葉集では、池や小山のある庭園のことのようです。つまり、オシドリの住むひっそりとした池や小山のある庭園で、そこにはあしびの花も咲いていたといった場所で詠われています。 そのような庭園が、すでに登場していました。 『吉野』を探った時に、その滝のある池を詠った歌の中にあしびがありました。また、近くには磯もありました。その庭園は、今もひっそりと静かな佇まいで、この3首が詠われた情景とほとんど同じ雰囲気が漂っています。 元の都であった『やまと』の地に帰り来て、吉野川の傍に残る庭園で人麻呂によって詠まれた歌だと考えられます。都として栄えていた頃は、その池には造園の滝がありましたが、荒れ果てしまったその庭には、維持管理する者もいないので、もう滝は消えていたようです。ですから、晩年の人麻呂の歌には、滝は登場しません。近年は、北島家により滝が整備され、維持管理されています。 都『やまと』の華やかりし頃は、綺麗な吉野の地には、国家的象徴の『天』が高層の神殿に君臨し、その周辺は、庭園のように整備され、造園の吉野の滝もありました。さしずめ、迎賓閣といった様相だったのかもしれません。それゆえ、『吉野』という名称だったのでしょう。 しかし、その『吉野』は、唐王朝に滅ぼされ、荒れ野と化してしまいました。 その地名、『やまと』や『吉野』、『淡海』なども簒奪されて、近畿地方の地名とされてしまいました。 ですから、人麻呂が再び戻った時には、その吉野の滝も消えていたと見られます。 青海原 風波靡き 行くさ来さ つつむことなく 船は速けむ(20−4514) 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ(20−4515) この2首は、大伴家持が、宴で餞別として詠った歌とされています。つまり、お別れの歌ですが、この歌も人麻呂の歌でしょう。人麻呂の旧知の方が、お別れにやって来たのかもしれません。 かなり高齢だった人麻呂にとっては、もう会えることもないだろうという思いで詠ったのかもしれません。 そして、第4516首の最終歌で万葉集は終わっています。 このように見てきますと、柿本人麻呂は、なつかしい『あきづしま やまと』の地に帰り来て、出雲王朝の歴史や自らの人生を振り返り、その足跡を万葉集として残したと考えられます。 また、万葉集の編纂や最後のあたりの歌は、大伴家持の作品となっています。 しかし、歌の流れを見てきますと、それは人麻呂の視点で詠われたものだと思われます。 では、大伴家持と万葉集との関係は、どうなるのでしょう。 |
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葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける すめろきの 神の命の 御代重ね
天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を広み厚みと 奉る 御調宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を
誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を
明らめたまひ 天地の 神相うづなひ すめろきの御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
もののふの 八十伴の緒を まつろへの向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく
いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖のその名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は
せじと言立て 大夫の清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に
まつろふものと言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと
いや立て思ひし増さる 大君の 御言のさきの 聞けば貴み(18−4094) すめろき(天皇)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 陸奥山(みちのくやま)に 黄金(くがね)花咲く(18−4097) 聖武天皇は、天平16年(743年)に東大寺大仏建立の詔を出し、その建設にあたります。 その大仏の表面には、金メッキが施されるのが、当時の『正装』です。しかし、金は、大陸からわずかに輸入されているだけで、この列島からはまだ金が採掘されていませんでした。 もし、その大仏の表面を飾る金が無ければ、銅がむき出しのまま開眼の式典を迎えてしまうことになってしまいます。 海外からの貴賓も来日するというのに、それでは余りの醜態をさらしてしまいます。聖武天皇は、大仏の完成が近づくというのに金が無くて、全国に金を探し求めます。 そんな中、749年に東北から金が発掘されたという知らせが届きました。聖武天皇は、ただちに年号を『天平感宝』と改めて、さらに天皇の地位を譲位して大仏開眼へと邁進しています。 聖武天皇の感激ぶりは、いかほどだったでしょう。 この歌は、その出金の詔が出された折に大伴家持が詠ったとされています。 しかし、その時、大伴家持は、越中の国守だったとあるのです。 この歌が一地方役人の歌などとは、到底考えられません。 その大仏建立の当事者である聖武天皇自身の、『狂喜乱舞』するがごとくの喜びを歌にしたためたものでしょう。 先に検証したように、大伴家持は、柿本人麻呂自身でした。同時に、その大伴家持は、聖武天皇でもあったということにもなります。 すなわち柿本人麻呂は、聖武天皇でもありました。 この帰結により、それまでの不明な点の辻褄が合ってきました。 |
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