題詞
歴史解説 |
柿本朝臣人麿の作歌。「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌(軽皇子(かるのみこ)の阿騎の野に宿りましし時に、柿本朝臣人麿の作れる長歌)」。軽皇子(かるのみこ)は草壁皇子(くさかべのみこ)の子。この狩は、持統天皇の強い支持のもとで行われたらしい。というより、何人もの天武の皇子をさしおいて、草壁皇子の子であり自身の孫でもある軽皇子を引き立てるために、群臣を随身させて大規模な狩を催すことにより、後継者として印象づける狙いもあったようである。人麻呂は、そうした意図を十分に踏まえ詠っている。
一読すると、ただ軽皇子との旅の情景を皇子を讃えて詠っているだけのように思えるが、この阿騎の野はかつて軽皇子の父親でありいまはもう亡くなってしまった草壁皇子が狩りに訪れた想い出の場所でもある。草壁皇子は持統天皇の子で若くして亡くなってしまった。かつて父である草壁皇子が訪れた想い出の場所である阿騎の野に、いまその再来のように軽皇子が馬を走らせている。この長歌自体はあまり有名ではなく、万葉集の解説でもほとんど取り上げられることがないが、この歌に付けられた四首の反歌は非常に有名である。 |
原文 |
八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
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和訳 |
やすみしし わご大君 高照らす(ひかる) 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太敷(ふとし)かす 京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を 石(いわ)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限(かぎ)る 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす 古(いにしへ)思ひて(ほして) |
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阿騎(あき)の野に宿る旅人打ち靡(なびき)き眠(い)も寝(ぬ)らめやも古思(いにしへおも)ふに ま草(くさ)刈る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見(かたみ)とそ来(こ)し 東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ 日並皇子(ひなみしのみこ)の命(みこと)の馬並(な)めて御猟(みかり)立たせし時は来向かふ |
現代文 |
「わが大君、高く輝く日の御子、皇子は神そのものとして神々しく、立派に君臨されている京(みやこ)を後にして、隠(こも)り国の泊瀬(はつせ)の山の真木(まき)が茂り立つ荒々しい山道を、岩や木々を押し分けて坂鳥の鳴く朝にお越えになり、玉の輝くような夕暮れになると、雪の降る阿騎の大野に旗薄や小竹を押しのけて、草を枕の旅宿りをされている。懐かしき父の想い出を胸に」。
隅々までお治めになっているわが大君 高く照り輝かれる日の神の皇子が神であるままに 神らしく行動なさろうと 立派に営まれている 都さえも後にして山に囲まれた
泊瀬の山は 真木の生い茂った 自然のままの山道であるのを大きな岩や 道を遮る木々を押し伏せて 坂鳥のように(軽々と) 朝方、お越えになって玉の限りある光のような
夕方がやってくると 雪の降る 阿騎の大野に旗すすきや 小竹を押し伏せて 草を枕に 旅宿りをなさるよ過ぎしいにしえのことを偲ばれて |
文意解説 |
長歌(れんだいこ式12句)。
発句「八隅知之 吾大王」は「やすみしし わご大君」と訓む。「やすみしし」は「我が大君」にかかる枕詞。「吾大王」は「吾(わ)が大王(おほきみ)」と訓む。「吾」は一人称のワ。ガを伴うことが多く、ここも補読する。「大王」の「王(きみ)」は、古くは有力豪族の尊称で首長というほどの意であったが、やがて、大和国家の王者が諸豪族に超越する立場を獲得するに至って「王(きみ)」のうちの大なる者の意で、その王者を「大王(おほきみ)」と称するようになったものと見られている。また「大王(おほきみ)」は、仕える側から、天皇・諸王などに対して日常的に用いられる尊称であるのに対し、類義語の「すめろき・すめらみこと(天皇)」は、天皇に対してのみ用いられる宮廷専用の、政治的、宗教的な尊称であるとされる。ここでは、4句の「日の皇子」と同じく軽皇子をいう。現代の表記では「我が大君」が一般的となっている。
2句「高照 日之皇子」は「高照らす(ひかる) 日の御子(みこ)」と訓む。「照らす」は天上に高く照りたまうの意で「日の皇子」にかかる枕詞。記紀歌謡に見える「高光る 日の皇子」と同じく、日の神の子孫として、天皇または皇子を賛美する表現。「高照らす」は、「高光る」をもとに人麻呂が創始したもので、他者を照らす意味もあり、特に讃美性が高いといわれている。「日の皇子」は「日の皇子(みこ)」と訓む。日の神、天照大神の子孫の意。古事記の歌謡に、倭建命を「多迦比迦流(たかひかる) 比能美古(ひのみこ) 夜須美斯志(やすみしし) 和賀意富岐美(わがおほきみ)」と称した例がある。ここは、その句を前後した形で、「やすみしし吾が大王」と「高照らす日の皇子」を対句にして、軽皇子を讃えて詠んだものである。「高照らす日の皇子」、「高光る日の皇子」は、万葉集では天武・持統両天皇と天武系の皇子のみに用いられている。
3句「神長柄 神佐備世須等」は「神ながら 神さびせすと」と訓む。「神ながら」は「神(かむ)ながら」と訓む。第38番歌に既出。「かみ(神)」が名詞や動詞などの上に来て複合を作る場合、多くは「かむ」(後には「かん」)の形をとる。「神(かむ)ながら」は、「神の本性そのままに。神でおありになるままに」の意。「神佐備世須等」は「神(かむ)さびせすと」と訓む。既出。接尾語の「さぶ」は、「…にふさわしい振る舞いををする、…らしい様子・状態である」意を表わす。「神さび」は「神さぶ」の連用形が名詞化したもので、「神らしく振る舞うこと」の意。「せす」はセにスが付いたもの。「等」はト「とて」の意。「神ながら神さびせすと」は、第38番歌で持統天皇に対して用いたものであり、それを「高照らす日の皇子」=軽皇子にも用いている。この長歌では、軽皇子が都を出発して泊瀬の山を越え、安騎野に旅宿する、その行動全体を「神ながら」の行為として讃美している。人麻呂は即位前の軽皇子を天武天皇に準じるものとして扱い、軽皇子を天武天皇の開いた王朝を継ぐものと措定して詠う。
4句「太敷為 京乎置而」は「太敷(ふとし)かす 京(みやこ)を置きて」と訓む。「太敷為」は「太(ふと)敷(し)かす」と訓む。第36番歌に「太(ふと)敷(し)き座(ま)せば」とあり、そこでも述べたが、「太(ふと)敷(し)く」は、「宮殿などの柱をしっかりとゆるがないように地に打ちこむ。宮殿を壮大に造営する」ことをいう。「太(ふと)敷(し)かす」はその尊敬表現で、ここは都が立派に営まれて存在していることをいう。「太」は立派である、あるいはしっかりしている意を表わす接頭語。「京を置て」
は「京(みやこ)を置(お)きて」と訓む。「置き」は「置く」の連用形。「京」は象形文字で、アーチ状の門の形で上に望楼を設け、これを軍営や都城の入り口に建てたことから、都城、都(みやこ)の意を表わすことになったものであることは、第32番歌の所で述べた。「置(お)きて」も既出で、第29番歌「倭(やまと)を置(お)きて」と同じく、「さし置いて」あるいは「置き去りにして」の意。第29番歌の場合、「歴代の天皇が都とした大和をさし置いて大津京へ遷都した」という重大事件を表わすのに用いられた言葉である。そのことを踏まえると、「立派に営まれている都さえもあとにして」の次ぎに述べるのは大津京遷都にも匹敵する事柄であると人麻呂が見ていることを表わしていると考えられる。そして次に述べられるのは、「軽皇子が泊瀬の山を越え、安騎野に旅宿する」という行為である。この歌は、そうした軽皇子の行動全体を「神ながら」の行為として讃美することによって、軽皇子こそが正統な皇位継承者であることを詠う意図を持っている。その趣旨を強化する伏線として「京(みやこ)を置(お)きて」の句があることに留意すべきであろう。
5句「隠口乃 泊瀬山者」は「隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は」と訓む。「隠口の」は 「隠(こもり)口(く)の」と訓む。注釈書のほとんどは「こもりくの」と平仮名書きを本文としているが、『日本古典大系』では「隠(こもり)口(く)の」を本文としている。「隠(こもり)く」の「く」は場所、所の意であるから、漢字をあてるとしたら「処」とでもすべきところ。それゆえ「口」はク音を表わす音仮名とみる方が良いのかもしれない。「こもりく」は、両側から山が迫ってこれに囲まれて隠(こも)った所を意味する。そのような地形を持つ「泊瀬」にかかる枕詞として古くから使われており、記紀歌謡にも5例の用例をみる。人麻呂が古くからあるこの枕詞に「隠口」の字をあてたのは、「泊瀬」が当時、大和から東国への通路の要所であり、東国への入り口であったことの意を込めたものではないかと考え、敢えて漢字のままとした。。「泊瀬山は」は「泊瀬(はつせ)の山(やま)は」と訓む。ノを補読して7音とする。「泊瀬山」は、現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある山をいう。山腹に長谷寺がある。ちなみに長谷寺は、古来、山岳信仰の霊地で、朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により道明が創建した本(もと)長谷寺に始まる。のち、聖武天皇の勅願寺となり、現在名を称した。
6句「真木立 荒山道乎」は「真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を」と訓む。「真木立」は「真木(まき)立(た)つ」と訓む。「真木」は、すぐれた木の意で、建築材料となる杉や檜などの総称。檜などの生い茂っている山のことを「真木立つ山」と言った。「真木の立つ」と「の」を補読し、5音にして訓むことも考えられるが、ここは4音のままの方が力強い。それにこの長歌では「の」は、固有名詞の「泊瀬山(はつせのやま)」の訓み添え以外は、「日之皇子」「隠口乃」などとしっかり表記されていることからしても、ここは4音のままとすべきであろう。「荒山道を」は「荒山道(あらやまみち)を」と訓む。「荒(あら)」は語素で、主として名詞の上について、これと熟合して用いられ、「人手の加わっていない、自然のままの」の意を表わす。ここの訓みを「荒(あら)き山道(やまぢ)を」とするものもある。しかし、ここは「真木(まき)立(た)つ」を承けた句であることから言えば「荒山」とまず承け、「その道を」ということで「荒山道(あらやまみち)を」と訓むのが良い。前句で自然のままに生い茂った山の道を行く様子を詠み、本句でそれが「荒(あら)き山道(やまぢ)」でもあることを詠んだものと考えたい。人麻呂の作歌である第241番歌に「真木乃立(まきのたつ) 荒山中尓(あらやまなかに)」の句がある。
7句「石根 禁樹押靡」は「石(いわ)が根 禁樹(さへき)おしなべ」と訓む。「石根」は「石(いは)が根」と訓む。ここも「石が根の」と訓む説もあるが、11句と同様、4音で訓む。「石が根」は、「土中にしっかりと根をおろした大きな岩。また、そのように大きな岩の根もと」のこと。「禁樹押靡」は「禁樹(さへき)押(お)し靡(な)べ」と訓む。「禁樹」は「通行を妨げる木」の意。「さへ」は「妨げる」意の「さふ」の連用形。「石根」と「禁樹」の二物を挙げて「荒(あら)き山道(やまぢ)」であることを表わしたものと考えられる。「押(お)し靡(な)べ」は、「押し靡かせて、押伏せて」の意。オシは接頭語で、ナべは「なびかせる」意の動詞「なぶ」の連用形。第1番歌の「やまとの國は 押しなべて 吾こそ居れ」を想起すれば、「押し靡べ」は、軽皇子が王者の資格充分であることをいう表現であることがわかる。
8句「坂鳥乃 朝越座而」は「坂鳥の 朝越えまして」と訓む。「坂鳥の」は「坂鳥(さかとり)の」と訓む。「坂鳥」は「朝早く山坂を飛び越えて行く鳥」のこと。その意から「朝越え」の枕詞としたもので、人麻呂独自の用法。矢野貫一「坂鳥考」に「鳥も山を越える時は、坂のある鞍部を飛ぶ。その鳥の習性を利用して山坂の上に張った網で朝早く飛び立つ鳥をとらえる猟法があり、これを古くから坂鳥という」とある。「朝越座て」は「朝(あさ)越(こ)え座(ま)して」と訓み、「朝早く坂をお越えになって」の意。「朝」の語にすぐ動詞を続けた例は万葉集中にいくつも見えるが、既出では、第4番歌の「朝踏む」がある。「座(ま)す」は、動詞の連用形に付いて尊敬の意を添える補助動詞。「隠(こもり)口(く)の」からここまでの句は、旅のうちの山越えの叙述。時間は「朝」で、次の句の「夕」に対する。困難な道を平地を行くように越えたことを述べて、軽皇子の神さびぶりを讃えたもの。
9句「玉限 夕去来者 三雪落」は「玉限(かぎ)る 夕さりくれば み雪降る」と訓む。「玉限」は「玉(たま)限(かぎ)る」と訓む。全ての注釈書が「玉かぎる」として、「かぎる」を平仮名書きとしている。そして「かぎる」は輝く意で、玉がほのかな光を出している意として、淡い光の意から「ほのか」や「夕」にかかる枕詞とする。しかし、「かぎる」という動詞を「輝く」意味と取るのは「玉かぎる」の場合に限られている。「かぎる」はやはり「限る」の意ととるべきで、「玉」の発する光に限りがあり、ほのかな光となっていることを言ったものと考える。いずれにしても「夕」にかかる枕詞とすることに変わりはないが、「限」の字を単なる借訓字とみるか正訓字とみるかの違いがある。「夕去来ば」は「夕(ゆふ)去(さ)り来(く)れば」と訓む。「夕方になってくると」の意。「去り来れば」は、第16番歌の「春去り来れば」と同じ。「み雪落」は「み雪(ゆき)落(ふ)る」と訓む。「み」は美称。「落」を「ふる」と訓むことについては、第25番歌の「雪は落りける」の所で述べた。これを枕詞とする説もあるが、ここは実景にもとづくものとみたい。少なくとも、眼前の実景と限らなくても雪の降る季節を示していると考えられる。
10句「阿騎乃大野尓 旗須為寸」は「阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき)」と訓む。「阿騎の大野に」は「阿騎(あき)の大野(おほの)に」と訓む。「阿騎野」については題詞の所で述べた。「大野」は、第4番歌の「内の大野に」と同じく、狩りのできる「大きな野」と考えて良い。もっとも「大」には「大王」にみられるように尊称の意があることも否めない。「旗すすき」
は「旗すすき」と訓み、「長く伸びた穂が風に吹かれて旗のようになびいている薄(すすき)」のこと。
11句「四能乎押靡 草枕」は「小竹(しの)をおしなべ 草枕」と訓む。「しのを押靡」 は「しのを押(お)し靡(な)べ」と訓む。「しの」は「小竹」「細竹」とも書かれ、「稈(かん)が細く、群がって生える竹類。篠竹」のこと。日本書紀の神代上第八段に「篠、小竹也。此云斯奴(しの)」とあり、「しの」のノ「奴」が用いられている。だが、この歌の表記では「四能」とあり「能」が宛てられている。「草枕」は「草枕(くさまくら)」と訓む。「旅」にかかる枕詞。
結句「多日夜取世須 古昔念而」は「旅宿(たびやど)りせす 古(いにしへ)思ひて(ほして)」と訓む。「たびやどりせす」の「たびやどり」を現在の漢字交じり表記で書くと「旅宿り」。「せす」は「なさる。あそばす」の意。この句は「朝越え座(ま)して」と対応する。「古昔念て」は「古昔(いにしへ)念(おも)ひて」と訓む。「古」一字で「いにしへ」と訓めるので「昔」は添字とも言える。「いにしへ」と「むかし」について、日本国語大辞典の「いにしえ」の【語誌】の欄に次のように書かれている。
「『いにしえ』と『むかし(昔)』とは同じ意味にも用いられているが、しかし、基本的にはとらえ方に違いがあるとみられる。『いにしえ』は、『往にし方』の原義が示すように、時間的にものをとらえる場合に用いて今と連続的にとらえられるのに対して、『むかし』は、そのような過ぎ去るという時間的経過の観念が無く、今とは対立的に過去をとらえる場合に用いる。歴史的には『いにしえ』、物語的には『むかし』が用いられるのもこのためといえる」。 |
ここでは、軽皇子が、父の草壁皇子が生前この地で狩りを行った時を偲んでいるわけであるから「今」と連続的にとらえる「いにしへ」とするのが良いと思われる。どういう「古昔(いにしへ)」であるか、またいかなる「念(おも)ひ」であるかは次の反歌で明かされることになる。 |