万葉集巻1

 (最新見直し2014.02.07日) 只今工事中です。絶大なご理解をお頼み申し上げます。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、万葉集巻1について確認しておく。原文確認は「万葉仮名で読む万葉集」が良い。「訓読万葉集 巻1 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―」、「万葉集メニュー」、「万葉集」、「万葉集入門」、「河童老の万葉集を読む」その他を参照する。「万葉集メニュー」の万葉集読解1、万葉集読解2、万葉集読解3 、万葉集読解4、万葉集読解5、万葉集読解6、万葉集読解7、万葉集読解8の解釈をベースに組み立てた。

 それぞれの和歌を「題詞&歴史解説」、「原文」、「和訳」、「現代文」、「文意解説」の順に確認していくことにする。歌意を総合的に読む為である。更に句を文意ごとに纏めた。これにより通常の和歌は発句と結句の二部構成にした。この方が歌のリズムが能く伝わる。長歌の場合には発句と結句の間をそれぞれ2句、3句と順々に文節した。この方が、どこで切れるか分かり易いし解説に便利と思うからである。一文節一句では却って理解し難い。この記述式は、れんだいこ的整理であり、今後はこれが定式化されると自負している。下手な著作権なぞ言わぬから参照すべきだろうと思う。但し圧倒的にまだまだ試作段階である。既成の解説文を何度も読み直し、推敲を重ねることにする。解説につき、可能な限り重複を避けようと思う。その為に「万葉集の語彙解説」を用意した。

 本来の原文は漢字文でスペースがない。これにより区切りが分かりにくくなっている。これにスペースを入れ、これを漢字仮名交じり文に翻訳する。万葉集はこう読まれてきた。注目すべきは、漢字が使われているが、中国漢字式ではなく、大和ことばに対応する漢字を当てていることである。漢字が漢字本来の意味に於いてではなく日本語の音を表わすために用いられていることになる。これを「正訓字(せいくんじ)」と云い、この方式を「万葉仮名」と云う。「万葉仮名」には、漢字の音をそのまま用いた「音仮名」と漢字の訓読みを表音のために用いた「訓仮名」がある。この時代の漢字用法を「上代特殊仮名遣」(じょうだいとくしゅかなづかい)と云う。上代日本語における古事記、日本書紀、万葉集など上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた表音的仮名遣である。名称は国語学者・橋本進吉の論文「上代の文献に存する特殊の仮名遣と当時の語法」に由来する。特に古代日本語八母音説は広く受け入れられ半ば定説となっていたが、昭和五十年代に入りこれに異を唱える学説が相次いで登場し、結論は出ていない。

 ここでは、漢字で書かれていても語彙的な和語については、ひらがな表記に直すこととする。その方が却って読み易く理解し易いからである。同じ云い回しに対して、現代では極力同字を用いるが、万葉集を含む上代では敢えて同字を用いず替え字にしている場合が多い。その際には、意味が新たに添えられている場合が多い。同じ人物名でも違う表記が行われている例も多く見られる。但し、同じ表記もあり、どう仕分けされているのか分からない。義訓とは「漢字に固定した一般的な訓ではなく、その漢字または漢字連続が文脈上意味するところを訓として当てたもの」を言う。

 「反歌」は、「長歌」のあとに付け加えられた「短歌」(五七五七七)または「旋頭歌(せどうか)」(五七七五七七)のことをいう。


 2011.8.28日、2014.2.7日再編集 れんだいこ拝


【巻1】
 第1巻は、1-84まで。1-33、36-84に分かれる。第1巻は雑歌(ぞうか)として天皇の時代ごとに歌が整理されている。また、額田王(ぬかたのおおきみ)や柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)などの有名な歌が沢山ある。

 雑歌(くさぐさのうた)

 泊瀬(はつせ)の朝倉の宮に天(あめ)の下しろしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)

【巻1(1)。雄略天皇】
 
題詞
歴史解説
 雄略天皇の作歌。「天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)」。万葉集の巻頭を飾る御製歌長歌。奈良県桜井市泊瀬朝倉の地にある白山神社あたりが雄略天皇の朝倉宮のあった場所ではないかと云われている。万葉集が雄略天皇歌から始まっている意味を窺わねばならない。本歌は歌意の文学的考察は別として、これを歴史学的に見れば、「大和(やまと)の国は おしなべて 吾(あれ)こそ居(お)れ しきなべて 吾(あ)こそ座(ま)せ」となった新日本系の新支配者の原日本系の旧支配者の娘子に対する求愛となっている。万葉集冒頭に於いて、このことが明らかにされていると窺うことができよう。万葉集の本筋は、新日本系新支配者と原日本系旧支配者側の問答歌になっているとも窺うことができよう。この観点はユニークかも知れない。これは、「れんだいこの原日本新日本論」(原国体論)の賜物である。

 2014.2.17日 れんだいこ拝
原文

 篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居  師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母

和訳  籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜採りす児(こ) 家聞かん 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて 吾(あれ)こそ居(お)れ しきなべて (あ)こそ座(ま)せ 我にこそは 告(の)らめ 家をも名をも
現代文  「籠(かご)よ 美しい籠を持ち 福々しい娘よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ 君はどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕の方から名乗ろう 家柄も名も。(次は君の番だよ。どうい御方か教えてください)」。
文意解説  長歌(れんだいこ式7句)。雄略天皇が菜を摘む乙女に詠いかけている情景歌である

 発句「篭毛與 美篭母乳 布久思毛與」「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ」と訓む。「篭毛與」は「籠(こ)もよ」と訓む。「篭」はコで「籠」と同義。「篭、籠」については、「籠」が正式な字体で「篭」は略字又は異体字とされている。籠(かご、篭はである。「篭、籠」は次のように解説されている。
 「 短冊状ないし細いひも状の素材をくみ合わせたり編んだりして作成した運搬を目的とした容器の総称。ざると同様液体を運ぶことを目的としないという特徴があり、徹底した軽量化を図るために竹や葦などの植物製の素材が丈夫で加工しやすく軽いということで好まれた。現在では、植物製の素材のほかに針金等を使用する場合も多い。乗り物の「かご」も同一語源で、駕籠の文字が宛てられている」(「ウキペディア籠」)。
 「毛」はモの宛字(以下同様のところは単にカタカナ表記で済ます)。「與」は、ここではヨ。「美篭母乳」は「み籠(こ)持ち」と訓む。「美」は美称のミ。「母」はモ。「乳」はチ。「布久思毛與」は「掘串(ふくし)もよ」と訓む。「布久思」はフクシと訓み、通説は「掘串」と漢字訓している。れんだいこには「掘串」と宛がう理由は分からない。恐らく誤訳で「福々しい」の「福々し」と解するべきだろう。この「福々し」が次の句の「美夫君志」と語呂合わせしていると思われる。こう解するのは初見のようである。「毛與」はモヨ。

 2句「美夫君志持 此岳尓 菜採須兒」「み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜採りす児(こ)」と訓む。「美夫君志持」は「み掘串(ぶくし)持ち」と訓む。「美」はミ。「夫君志」は「掘串」と漢字訓する。「漢字訓」は、「後世は『ふぐし』とも云うが、上代では、竹、木などで作った土を掘るへら状の道具」と解説している。「持」は「持ち」と訓む。「此岳尓」は「この丘に」と訓む。「此」は「この」。「岳」は「おか」で「丘」と読み換える。「尓」は二。「菜採須兒」は通説では「菜摘(つ)ます児(こ)」と訓んでいる。「菜採」をツマと訓んでいることになる。恐らく語呂合わせの訓みであろうが、「菜」はナ、「採」は「採(と)り」であり「菜採り(なとり)」と訓んで差し支えないように思われるので、ここでは極力原文に添って「菜採り(なとり)」と訓むことにする。「須」はス、「兒」は「兒(こ)」。

 3句「家吉閑 名告<紗>根」「家聞かん 名告(の)らさね」と訓む。ここで、「名(な)」が前語、後語のどちらに掛かるのかで訓みが分かれている。岩波本は前語派で「家吉閑名 告沙根」(家きかな、のらさね)、講談社本は後語派で「家吉閑 名告沙根」(家きかん、名のらさね)となっている。れんだいこは、文意と文調から後語派を採る。結句の「告(の)らめ 家をも名をも」から推量すれば、「名(な)」は語尾のナとしてではなく「名のる」の「名(な)」として使われていると思うからである。

 4句「虚見津 山跡乃國者」「そらみつ 大和(やまと)の国は」と訓む。「虚見津」は「そらみつ」と訓む。「虚」は「そら」、「見津」はミツ。「山跡乃國者」は「やまとの国は」と訓む。「山跡」はヤマト、「乃」はノ、「國」は「くに」、「者」はハと訓む。
 
 5句「押奈戸手 吾許曽居」
「おしなべて 吾(あれ)こそ居(お)れ」と訓む。「押奈戸手」は「おしなべて」と訓む。「押」はオシ、「奈戸手」はナべテ。「吾許曽居」は「吾(あれ)こそ居(お)れ」と訓む。「吾」は「あれ」、「許曽」はコソ、「居」は「居(お)れ」と訓む。

 6句「<吉>名倍手 吾己曽座」
「しきなべて (あ)こそ座(ま)せ」と訓む。「<吉>名倍手」は「しきなべて」と訓む。「<吉>」はシキ。「名倍手」はナべテ。「吾己曽座」は「(あ)こそ座(ま)せ」と訓む。「吾」は「あ」、「己曽」はコソ。「座」は「座(ま)せ」と訓む。5句と対句になっている。

 結句「我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母」「われこそは 告(の)らめ 家をも名をも」と訓む。「我<許>背齒」は「われこそは」と訓む。5句の「われこそ」と表記を替えている
「我許背齒」につき、「われこそは」と読むのか「わにこそは」の訓むのかにつき両論がある。この訓み違いは、次ぎに続く「告(の)らめ」の主語に関係してくる。「われこそは」の場合は作者となり「意志説」になる。「わにこそは」の場合は相手の娘ということになり「要求説」になる。「私こそは告げよう」か「私にこそは告げてほしい(と娘に要求したものとするか)」で論争となっている。れんだいこは、この歌の全体の流れから「要求説」の方を採りたい。但し、「わにこそは」ではなく「我にこそは」と訓みたい。「我」は二を補足して「我に」、「<許>背」はコソ、「齒」はハ。

巻1(2)。舒明天皇
 
題詞
歴史解説
 舒明(じょめい)天皇の作歌。「高市の崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の代。舒明(じょめい)天皇の香具山に登りまして望國(くにみ)したまへる時にみよみませる国見の御製歌(おほみうた)」。 万葉集巻一の二番目に収録されている。舒明天皇陵は奈良県桜井市押坂にある。

 この歌の問題性は、香具山を奈良の香具山と解すると、奈良盆地には海もなければトンボのような形状のあきづ島など存在しないところにある。そういう意味で、奈良の地で詠まれてはいない可能性が強い。もう一つの問題性は、「うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国」の語義にある。大和王朝に先立つ出雲王朝系のニギハヤヒ王朝を詠む文言であり、この文句を登場させている意味を窺うべきだろう。
原文

 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者

和訳  大和(やまと)には 村山(むらやま)あれど 取り寄ろふ  天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 
現代文  「大和には多くの山があるけれど、とりわけ立派な山は天の香具山である。その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ。池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ。ほんとうに美しい国だ、この蜻蛉島大和の国は。(この国を大事にしませうよ)」。
文意解説  長歌(れんだいこ式5句)。

 発句「山常庭 村山有等 取與呂布」「大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど 取り寄ろふ」と訓む。「山常庭」は「大和(やまと)には」と訓む。「やまと」を、一番歌では「山跡(やまと)」と表記していたが、ここでは「山常(やまと)」と表記替えしている。「常」に「とこしへ」の意味を持たせており、「とこしへの国やまと」の意を込めてこの字を用いたものと考えられよう。「庭」は二ワ。「村山有等」は「村山(むらやま)あれど」と訓む。
通説は「村山」を「群山(むらやま)」と詠み替えして「多くの山々を意味している」と解している。れんだいこは、原文で意味が通ずる場合には原文表記で読むべきだと考える。「有等」は「有(あり)ト」か「有(あれ)ド」か訓みが確定していない。「等」はトが普通訓みであるが濁音ドに流用されることもある。ここではドと訓むことにする。「取與呂布」は「とりよろふ」と訓む。但し、意味不明である。「取」はトリで接頭語として用いられていると解する。「よろふ」の意味が不明で諸説ある。①「装(よそ)う」の意で、草木が美しく茂るの意。②「鎧(よろい)」と同語源で、峰・谷・岩・木などすべてが具足して満ち足りるの意。③「寄ろう」で、高市岡本宮の近くにそばだつの意、などである。ここは次の句「天乃香具山」に掛かっている。れんだいこ説は、③の意味に解し、団結的に纏まって寄り合いしていると云う意味で「取り寄ろふ」と訓む。

 2句「天乃香具山 騰立」「天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち」と訓む。「天乃香具山」は、「天(あめ)の香具山(かぐやま)」と訓む。「天」は「あめ」又は「あま」と訓み、「神ののぼりいますところ」の意である。「あめ」は、母音交替形で「、アマ…、アマノ…、アマツ…」などの形で複合語を作ることが多い。上代では、「あま」は「天カケル、天ギラフ、天クダル、天ザカル、天テル、天トブ」など動詞の例がめだつ。「天の香具山」の「天の」は「アメノ」が古く、後に「アマノ」に変ったと思われる。香具山は香久山とも書かれ、その昔、天から降りてきた山ともいわれる大和で最も格式の高い山であり大和三山の一つに数えられている。乃はノ。「騰立」は「騰(のぼ)り立ち」と訓む。「のぼる」は現在では「登る」と書くが「騰」の字も「あがる、のぼる」と訓まれてきた。現在も「株価が高騰した」などという時に用いられている。

 3句「國見乎為者 國原波 煙立龍」「国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ」と訓む。「國見乎為者」は「國見を為(す)れば」と訓む。「国見」は大王や地方の首長が高い所から国の地勢や人民の生活状態などを望み見ることを意味し、国を支配する者の支配の象徴的行為とされた。「乎」はヲ。「為者」は「為(す)れば」と訓む。「者」はハ。「國原波」は「國原は」と訓む。「國原」は「陸地の広く平らな所。広い国土」をいう。「波」はハ。「煙立龍」は「煙(けぶ)り立つたつ」と訓む。「煙」は上代では「けぶり」という。「立」は「立つ」、「龍」は「立つ」、「立龍」で「立つたつ」と訓む。次句の「立多都」と被っている。「龍(たつ)」は古くから知られており、日本書紀の斉明天皇元年(六五五)五月庚午朔の記事に「夏五月庚午朔。空中有乘龍者」(空(おほそら)中にして龍(たつ)に乗れる者有り)とある。

 4句「海原波 加萬目立多都」「海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ」と訓む。前句と対になっている。「海原」は「ひろびろとした海。広大な海面」をいう。現在では「うなばら」と連濁して読まれるが上代では「うなはら」。「波」はハ。「加萬目」はカマメでカモメの古名。「立多都」は「立龍」と同じく「立つたつ」と訓む。

 結句「怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者」「うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」と訓む。「怜〈忄+可〉國曽」は「うまし國(くに)そ」と訓む。「怜〈忄+可〉」は初唐の頃には憐(れん)と通用し「可怜(憐)(あはれむべし)」の意としていた。ここでは「うまし」の訓みに従う。和語の「うまし」は「すばらしい。よい。りっぱだ」の意である。「」は「」、「曽」はゾ。「曽」は清濁両用の訓みがあり、古くは清音ソであったものが平安時代に入って濁音が一般的になったとの論がされている。「蜻嶋」は「あきづしま」と訓む。日本の国の古称であり、「やまと」にかかる枕詞である。「蜻」は一字では「こおろぎ」のこと、「蜻蛉」で「とんぼ」、「蜻蜻」で「むぎわらぜみ」。ここは蜻蛉(とんぼ)の意に用いられている。古事記に「蜻蛉を訓みて阿岐豆(あきづ)と云う」とあり、トンボの古名が「あきづ」であることがわかっている。「あきづ」は古くは大和国葛上郡室村(奈良県御所市室)あたりの地名と推定されている。後に大和国にかかる枕詞となり、さらには国号ともなったとされる。蜻蛉(とんぼ)が「あきづ」とも称し、豊穰の季節を象徴する昆虫であったことから五穀豊穰な土地柄を示す地名となったらしい。「八間跡能國者」は「やまとの國は」と訓む。「八間跡(やまと)」はヤマト。「「八」は数のヤ。「間」は「すきま」のマ。「跡」はト。「能」はノ。「やまと」の表記として「山跡、山常、八間跡」の三種類出てきたことになる。

【「大和」考】
 「私はこうして邪馬台国に到達した」の「(7)再度万葉集に立ち返る」の「2)万葉集の原文に『大和』は登場していない」を参照する。それによると、万葉集には「大和」なる当て字漢字表記はないとして次のように述べている。
 「私が調べた限りにおいては、読み下し文で都『大和』という表現の原文は、『倭』19首(1)、『山跡』18首、『日本』14首、『夜麻登』5首、『八間跡』1首(1)、『也麻等』1首、『夜萬等』1首、『夜未等』1首の58首60箇所に『やまと』と読まれている地名の表記がありました」。

 こうなると「大和」の「当て字の由来」が気になるところである。もう一つ、「大和」の故地の所在地を比定せねばなるまい。

【巻1(3)。中皇命の間人連老】

題詞
歴史解説
 中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)の作歌。 「天皇の、宇智(うち)の野(ぬ)に遊猟(みかり)しましし時に、中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまへる歌」。この歌の大君は舒明天皇。この長歌は舒明天皇が宇智の野で猟りをされていたとき、中皇女の間人老をして献上した歌ということになっている。宇智の大野とは、現在の奈良県御所市にあるJR北宇智駅の西に広がる一帯で、飛鳥からはかなり離れた場所にある。この長歌は、天皇の心得を諭しているように思われる。
原文

 八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃  梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里

和訳  やすみしし わご大君(おおきみ)の 朝(あした)には とり撫でたまひ 夕(ゆふへ)には い縁(よ)せ立たしし 御執(みとらし)の 梓(あずさ)の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし 御執(みと)らしの 梓の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり
現代文  「わが天皇が朝には手に取ってお撫でになり、夕方にはお取り寄せになって立たれるご愛用の梓の弓の中弭に響く音が聴こえてくるようです。朝猟りにいま立たれたようです。夕猟りにいま立たれたようです。ご愛用の梓の弓の中弭の響きが聴こえてきます」。
文意解説  長歌(れんだいこ式9句)。
 発句「八隅知之 我大王乃」「やすみしし わご大君(おおきみ)の」と訓む。「八隅知之」は「やすみしし」と訓む。「やすみしし」の用字としてはこれ以外に「安見知之、安美知之」がある。「八隅」は「八方の国の隅々まで」の意。「知之」は「知シ」。「」はシ。「知らす」は「統べ治める」の意である。次句の「我大王乃」にかかる枕詞である。「我大王乃」は「我(わ)が大王(おほきみ)の」と訓む。「我」を「わご」と訓じる説もあるが、「吾大王」と表記されている場合の「吾」は「わご」と訓むが、「我」は「わが」と訓む。「大王」は「大君」で天皇の尊称。「乃」はノ。

 2句「朝庭 取撫賜」「朝(あした)には とり撫でたまひ」と訓む。「朝庭」は、「朝廷(ちょうてい)」と訓む場合もあるが、ここでは「朝(あした)には」と訓む。「朝」は早朝の意を表わす。殷には朝日の礼というものがあり、そのとき重要な政務を決したとされ、そのことを朝政といい、そのところを朝廷というようになり、このことから「朝」は朝夕の意のほかに、政務に関する語として用いられるようになった。現在では「あした」というと翌日のことを意味するが、「あした」はもともと「夜の終りの時間をさす」和語で、早朝の意を表す「朝」字がそれにあてられたものである。「庭」はニワ。「取撫」は「取り撫(な)で」と訓む。「撫(な)づ」は、手のひらなどで軽くさすることを意味する。「賜」は「賜(たま)ふ」と訓む。動作の主を尊敬する意を表わす。

 3句「夕庭 伊縁立之」「夕(ゆふへ)には い縁(よ)せ立たしし」と訓む。「夕庭」は「夕(ゆふへ)には」と訓む。「伊縁立之」は「い縁(よ)せ立たしし」と訓む。「之」はシと訓む。「ノ、ガ、ツ」と訓まれることもある。見分け方は、「之」の前の語句が用言(動詞・形容詞・形容動詞)か体言(名詞・代名詞・数詞)かに関わり、前者の場合にはシと訓み、後者の場合にはノと訓む。ここは「知る」という動詞に続く「之」なのでシと訓む。

 4句「御執乃  梓弓之」は、「御執(みとらし)の 梓(あずさ)の弓の」と訓む。「御執乃」は「み執(とらし)の」と訓む。「御」はミ。「執」は「とる」であるが、ここでは「とら」と訓む。「梓弓之」は「梓(あづさ)の弓の」と訓む。「梓(あづさ)」はカバノキ科の落葉高木で材は非常に固く、古くこの木で弓をつくったもので「梓(あづさ)」といえば「梓弓」を意味するまでになった。「之」はノ。

 5句「奈加弭乃 音為奈利」「中弭(なかはず)の 音すなり」と訓む。「奈加弭乃」は「中弭(なかはず)の」と訓む。意味が難解である。「奈加」はナカ。「弭」は「はず」と訓む。弓の両端の弦(つる)をかけるところを意味する。木弓の材質から上方を末弭(うらはず)、下方を本弭(もとはず)、その総称が弓弭(ゆはず)と云い、関連する言葉に矢筈(やはず)がある。矢の上端で、弓の弦をかける部分を表す言葉で、この矢筈が弦とよく合うところから、「筈(はず)」が、物事が当然そうなること、道理、理屈、筋道を意味するようになり、転じて「予定、てはず、約束などの意」にもなった。但し、「なか弭(はず)」と云う語はない。そこで、「なか」を「長」と替えて「長弭」と解釈する説もある。しかし「加」をガと濁音で読む例はない。そこで、「奈加」を「加奈」とする誤写説が登場する。「かな弭(はず)の」であれば東大寺献物帳に「金弭」の語があり、出土品としても銅に金鍍金した弭が現にある。問題は、全ての写本に異同がなく「奈加」と記されていることにある。そういう意味で、誤写説は採り難い。「音為奈利」は「音為(す)なり」と訓む。「音のするのが聞こえる」という意味である。「為(す)」はサ変活用の動詞で活用形は「せ・し・す・する・すれ・せよ」である。「奈利」はナリ。終止形に接続して伝聞・推定をあらわし、連体形に接続して断定をあらわす助動詞である。「なか弭(はず)」の音がどのような音であったのか。それは分からない。

 6句「朝猟尓 今立須良思」「朝猟(あさかり)に 今立たすらし」と訓む。「朝猟尓」は「朝猟(あさかり)に」と訓む。「朝」は「あした」と訓むが、他の語と複合して用いられる時は「あさ」と訓む。「あした」が約(つづ)まったものとされる。「猟」は「かり」。「尓」はニ。「今立須良思」は「今(いま)立たすらし」と訓む。「今」は「いま」。まさに今でも使う。ここは仮借用法で、今は近と音が似ていることから、近が場所的に至近の意を表すのに対して時間的に至近の時を表わすという。「立」は「立た」と訓む。「須良思」はスラシ。

 7句「暮猟尓 今他田渚良之」は、「暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし」と訓む。「暮猟尓」は「暮(ゆふ)猟(かり)に」と訓む。「暮」は、現在でも「夕暮れ、暮れる」などに使われているが、古くは「夕」と同じく「ゆふ」とも訓んだ。説文解字(中国の現存する最古の字書)は、「暮」は初めは草間に日の入る形の「莫」という字であったもので、「莫は日且(まさ)に冥(く)れんとするなり」と記している。その後「莫」の字が多く否定詞に用いられるようになったため「暮」の字に替えられた。ここは「朝猟(あさかり)に」との対句で「暮(ゆふ)猟(かり)に」と詠んでいる。「今他田渚良之」は「今たたすらし」と訓む。前句の「今立須良思」の書き換えである。「他」はタ。「田」はタ。「渚」は「なぎさ」のナであるが「す(洲)」を意味するス。「良之」はラシ。

 8句「御執<能> <梓>弓之」は、「御執(みと)らしの 梓の弓の」と訓む。4句と同じである。

 結句「奈加弭乃 音為奈里」は、「中弭(なかはず)の 音すなり」と訓む。5句と同じである。「奈里」はナリ。りに「里」があてられている。「里」は田社のあるところをいう。

【巻1(4)。中皇命の間人連老】
  巻1(4)。
題詞
歴史解説
 中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)の作歌。3歌に対する反(かえ)し歌。万葉集を開いて最初に登場する短歌である。第四番歌は短歌である。「宇智の大野」は地名。広々とした狩り場と思えばよい。奈良県御所市の荒坂峠にこの歌の歌碑が立てられている。
原文

 玉尅(剋、刻)春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野

和訳  玉きはる 宇智の大野(おほの)に 馬数(なめ)めて 朝踏ますらむ その草深野(くさふかの)
現代文  「宇智の広々とした野に馬を並べて朝に出かけるのでせう。草深い野に駆け入るのでせう。(男の世界ですよね)」。
文意解説  発句「玉尅(剋、刻)春 内乃大野尓 馬數而」は「玉きはる 宇智の大野(おほの)に 馬数(なめ)めて」と訓む。「玉尅(剋、刻)春」は「たまきはる」と訓む。「魂の極まる命(うち)」といった意味を持つ。宇智にかかる枕詞とされ、命にかかる枕詞とする説もある。「たまきはる」は古事記に一例、日本書紀に三例あるがいずれも「内の朝臣(あそ)」に続いている。古事記の一例を示すと、「多麻岐波流(タマキハル) 宇知能阿曽(ウチノアソ)」とある。「内乃大野尓」は 「内の大野に」と訓む。「内」は吉野川右岸の地名「宇智」のこととされている。「大野」は狩りをする「大きな野」。「馬數而」は「馬(うま)數(なめ)て」と訓む。「馬を並べて」の意味である。「數」をナメテと訓むのは馬を並べて数(かぞ)えることからきたいわゆる義訓である。「而」はテ。

 結句「朝布麻須等六 其草深野」「朝踏ますらむ その草深野(くさふかの)」と訓む。「朝布麻須等六」は「朝(あさ)踏ますらむ」と訓む。「麻」はマ。「須」はス。「等六」はラム。「其草深野」は「其(そ)の草深野(くさふかの)」と訓む。草深い野のこと。「さあこれから狩りをするぞ」くらいの意気込みが伝わる。

巻1(5)。安益郡軍王
 
題詞
歴史解説
 安益郡軍王(いくさのおほきみ)の作歌。「讃岐國安益郡(あやのこほり)幸(いでませる時、国安益郡軍王の山を見てよみたまへる歌」。
原文  霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨<座> 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之  焼塩乃 念曽所焼 吾下情
和訳

 霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづ肝(きも)知らず むら肝(きも)の 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣()け居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の 独り居る 我が衣手(ころもて)に 朝夕に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子(あまおとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下情(したごころ)

現代文  「長い春の日の暮れ方はいつ暮れたのかはっきりしません。あなたを思って心を痛めていますと、ぬえこ鳥が私の嘆きに代わるかのように鳴いております。その昔、大君が行幸した山から山越えの風が、妻を家に置いて旅先に独り居る私の衣手に朝夕吹き抜けます。自分では偉丈夫の男(おのこ)と思っている私ですが、長い間の旅先暮らしのせいか、頻りにあなたを思い出しております。たかぶる思いをどうすれば良いのか分からぬまま、丁度網の浦の海女が藻を焼いて塩を作っているのを見やっております。私の思いも同じように焼き尽くしてくれれば良いのにと恨めしく思っております」。
文意解説  長歌(れんだいこ式12句)。「『万葉集』を訓(よ)む(その11)」その他を参照する。

 発句「霞立 長春日乃 晩家流」
「霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける」と訓む。「霞立」は「霞(かすみ)立つ」と訓む。「霞」は本来「夕やけどきなどに、遠くたなびく霧」のことだが、「霞が立つ」→「ぼやけてはっきりしなくなる」ことを「かすむ」と言った。同様に「霧が立つ」→「はっきり見えなくなる」をあらわすことから、「きる」という動詞の連用形「きり」と言う。古くは「かすみ」と「きり」は同様の現象を表わすものとして、季節にも関係なく用いられた。万葉集では、「かすみ」は春、「きり」は秋のものとする傾向があらわれてくる。そして古今集以後は、はっきりと使い分けられるようになる。「長春日乃」は「長き春日(はるひ)の」と訓む。「長」は「長き」と訓む。古くから、空間・時間ともにその隔たりが相対的に大きいことを表わす語として使われた。「春日」は「はるひ」と訓む。ここでは文字通り「春の日」だが、春の日がかすむことが多いことから、「かすむ」と同音を含む地名「かすが」にかかる枕詞としても用いられ、そのことから地名「かすが」の表記に「春日」をあてるようになった。「乃」はノ。「晩家流」は「晩(くれ)にける」と訓む。「晩」は現在も「晩飯、晩年」などに用いられ「ばん」と音訓みされるが、説文解字に「莫(くれ)なり」とあり、訓読みは「くれ」である。ここから「暮れに」と和語訓みすることになる。「家流」はケル。

 2句「和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見」「わづ肝(きも)知らず むら肝(きも)の 心を痛み」と訓む。「和豆肝之良受」は「わづきも知らず」と訓む。難解である。「和」はワ。「豆」はヅ。「肝」を「きも」と訓む。「山」と同じく正訓字と見て良いかどうか意見の別れるところである。正訓字と訓む場合、当時、心の働きは胸にあると信じられており、胸には臓腑(きも)が群がっていることから「心」の修飾句として使ったものと考えられる。「之」はノかシのどちらかに訓む。「良受」はラズ。「わづ肝(きも)のらず」か「わづ肝(きも)しらず」の何れかということになる。どちらにしても意味が不明である。「村肝乃」は「むら肝(きも)の」と訓む。「村肝」は第2番歌の「村山=群山」と同様に「群肝」と考えて良さそうである。「村」は「村(むら)」の訓仮名と訓む。「むらきもの」は次の句の「心」にかかる枕詞ともされるが、記紀歌謡には用例が見当たらない。「心乎痛見」は「心を痛み」と訓む。「心」は「心(こころ)」、「乎」はヲ。「見」はミと訓む。

 3句「奴要子鳥 卜歎居者」
「ぬえこ鳥 うら泣()け居れば」と訓む。 「奴要子鳥」は「ぬえこ鳥」と訓む。「奴」はヌ。「要」はエ。「子」はコ。「」は「鳥(とり)」。「ぬえこ鳥」は、「とらつぐみ(虎鶫)」の異名で、鳴き声が悲しげなところから、「うら泣く」にかかる枕詞とされる。「卜歎居者」は「うら泣()け居れば」と訓む。「」は「うら」と訓み、「心」の意の「うら」を表わすために用いられた訓仮名。本来「卜(うら)」は神意をうかがうことを意味し、古くは、亀の甲や鹿の骨を焼いて、その時にできる裂け目や模様でうらなう方法があり、亀卜(かめうら)、鹿卜(しかうら)などと呼ばれた。上代には「心」の意を持つ言葉として「うら」と「した」が使われたが、その違いは、「うら」が意識して隠すつもりはなくても表面にはあらわれず隠れている心であるのに対し、「した」は表面にあらわすまいとしてこらえ隠している心であるとされている。「歎」は「歎(な)け」と訓む。他に「なげ、なき」と訓む説がある。「歎」は本来「なげく」であり、連用形は「なげき」となる。「なげ」の語幹で「居(を)る」に続けるのは無理なので、ここは「歎」は「泣く」を代用していると考える。何故わざわざ「歎」を用いたのかに意味が込められていると解したい。「卜歎」で「うら泣く」と訓む。「居者」を「居(を)れば」と訓む。「者」はバ。

 4句「珠手次 懸乃宜久 遠神」「玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神」と訓む。「珠手次」は「珠(たま)たすき」と訓む。「珠」は「まるく美しいもの」をいう。「手次」は「たすき」と訓む。上代から神事などの際、袖が供え物に触れるのを防ぐ手段として用いられた。「珠(たま)たすき」は、実際に勾玉、菅玉などの玉の付いた襷であるとする説と、玉に実質的な意味はなく単に襷の美称であるという説がある。「たまくしげ、たますだれ」などと同様、本来、実際に玉の付いたものを言ったものが、次第に美称となったと考えられる。ここでは、「たすきをかける」と言うことから次の「かけ」にかかる枕詞である。「懸乃宜久」は「懸(か)けの宜(よろ)しく」と訓む。「懸」の「懸(か)く」は「言葉に出して言う」意、その連用形が「懸(か)け」。「乃」はノ。「宜」は「宜(よろ)し」で「好ましい。ふさわしい」意。「久」はク。この句がどこにかかるのかを考えて以降の句を訓む必要がある。「遠神」は「遠(とほ)つ神」と訓む。これを「天つ神の血筋を受ける天皇を尊んでいう」との解説があるが首肯し難い。「遠(とほ)つ神」とは、天つ神国津神の識別以前のまさに遠い祖神と捉えねばならない。こういうところを不用意に天津神を指しているとする解し方は、日本の上古代史に対する無知を示している。そういう解し方では万葉集和歌の真意が汲めないことになる。


 5句「吾大王乃 行幸能」
「我が大君(おほきみ)の 行幸(いでまし)の」と訓む。「吾大王乃」は「吾(わ)が大王(おほきみ)の」と訓む。「我」を「我(わ)が」と訓んだが、「吾」も「吾(わ)が」と訓む。「吾(わ)ご」と訓むこともある。「行幸能」は「行幸(いでまし)の」と訓む。「行幸」は「いでまし」、「みゆき」と訓む。「御行、御幸」とも書く。「いでまし」は「出座(いでます)」の連用形の名詞化である。「みゆき」は行くことを敬っていう語でミは接頭語。「能」はノ。

 6句「山越風乃 獨<座>」「山越す風の 独り居る」と訓む。「山越風乃」は「山越す風の」と訓む。「乃」はノ。「獨座」は「獨り座(を)る」と訓む。「座」は写本により異同があり「居」とするものも見られるが、いずれも「をる」と訓む。

 7句「吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆」
「我が衣手(ころもて)に 朝夕に 返らひぬれば」と訓む。「吾衣手尓」は「吾が衣手(ころもで)に」と訓む。「衣手」は衣服の袖、たもとのことをいう。着物の袖を濡らすところから、濡らす意の「ひたす」と同音を含む「常陸(ひたち)」にかかる枕詞としても用いられた。「尓」はニ。「朝夕尓」は「朝夕(あさゆふ)に」と訓む。「夕」については名義抄などで「ゆふべ、よひ」と訓まれている。「ゆふ」と「よひ」は違う。上代では一日の明るい時間帯を三区分して「アサ、ヒル、ユフ」といった。夜の三区分が「ヨヒ、ヨナカ、アカトキ」であった。「還比奴礼婆」は「還(かへ)らひぬれば」と訓む。「還(かへ)らふ」は「還(かへ)る」の未然形にフが接続したもの。ここでは「還(かへ)ら」と訓む。主語は「山越す風」。風が自分の袖を度々翻して故郷の方へ吹いていく様子を歌っている。「比」はヒ。「奴礼婆」はヌレバ。

 8句「大夫登 念有我母」
「大夫(ますらを)と 思へる我れも」と訓む。「大夫登」は「大夫(ますらを)と」と訓む。「益荒男」とも書き、「立派な男子。強く勇ましい男子」を意味するが、宮廷人であることを誇る意識を背景に使われることが多かったことから、官位の呼称である「大夫」が用いられるようになったと考えられる。「登」はト。「念有我母」は「念(おも)へる我(われ)も」と訓む。「念有」は、「念(おも)へり」が「念ひ有り」の約であることによる。ここは連体形なので「念(おも)へる」と訓む。「我」は、ここでは「わ」ではなく「われ」と訓む。「母」はモ。

 9句「草枕 客尓之有者」「草枕 旅にしあれば」と訓む。「草枕」は「くさまくら」と訓む。「旅」にかかる枕詞。道の辺の草を枕にして寝る意から「旅」にかかるとされる。「旅」と同音の「たび(度)」またはそれを含む連語にかかることもある。更に、草の枕を「結う」意で、「結う」と同音の「ゆふ(夕)」を含む連語や地名「ゆふ山」などにもかかる。「客尓之有者」は「客(たび)にし有(あ)れば」と訓む。「客」はもとは客神をいう字であった。「客」はわが国においても「まらひと・まらふと」と訓じられ異族神を意味するものであった。そして上代において「旅」は異族神の支配する家郷以外の地に在ることを意味したことから、その異境に在るという念いを込めて、「たび」に「客」の字をあてたものと考えられる。「尓之」はニシ。「有者」はアレバ。

 10句「思遣 鶴寸乎白土」「思ひ遣(や)る たづきを知らに」と訓む。「旅先にある憂いを晴らすすべもしらないので」と訳す。「思遣」は「思ひ遣(や)る」と訓む。「遣(や)る」は、現在と意味が違う。現在の「やる」は遠くへ送る意味で使い、「思いやる」は、眼前にない人や物に思いをはせることを言うが、上代においては「やる」は追いやる、追放する意味で使い、「思ひやる」は、恋愛や心配事などのために陥っている重苦しい気持ちを追い払うことを言った。ここでは旅先にある憂いを晴らす意。「鶴寸乎白土」は「たづきをしらに」と訓む。「鶴」は鳥の「つる」だが、歌語では「たづ」と訓む。万葉集ではツルを表わす訓仮名として用いる場合が多いが、ここでは「たづ」を表わす訓仮名として用いられている。「寸」はキ。「鶴寸」でタヅキと訓み、「手がかり。よるべき手段・方法」の意で、「多豆伎、多附、田付」などの表記も使われている。「乎」はヲ。「白土」は白色の土を「しらに」と言ったことからその訓を「知らに」という語に借りてきたもの。二は打ち消しの助動詞ズの連用形の古形で、理由を表わすことが多い。

 11句「網能浦之 海處女等之  焼塩乃」「網の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼く塩の」と訓む。「網能浦之」は「網の浦の」と訓む。「網能」は「網ノ」と訓み、香川県坂出市の海浜の地名といわれている。「海處女等之」は「海處女(あまをとめ)等(ら)の」と訓む。「海處女」は、「海で働く未婚の娘」。多くの注釈書がここを「海人(あま)娘子(をとめ)」として、「海人(あま、漁夫)」と「娘子(をとめ、未婚の女性)」として別けているが「海處女」で一語と見たい。「等」はラ。「焼塩乃」は「焼く塩の」と訓む。「乃」はノ。ここは次の句にかかる「序詞」である。「序詞」とは、「ある語句を引き出すために、音やイメージの上の連想からその前に冠する修辞のことば」をいうが、同じ働きをする枕詞と違い、音数に制限がなく2句以上3、4句におよぶものがある。この歌が詠まれた讃岐國(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)は、当時から塩の生産地として有名であったようだ。当時は、海水をしみ込ませた海藻を焼いて塩を作ったもので、「網の浦の海處女(あまをとめ)等(ら)が焼く塩のように」ということでかかっていく。

 結句「念曽所焼 吾下情」
「思ひぞ焼くる 我が下情(したごころ)と訓む。「念曽所焼」は「念(おも)ひそ焼くる」と訓む。「曽」はソ。「所焼」は「焼くる」と訓む。「所」は漢文の助字で「ル、ラル」に相当する。「吾下情」は「吾(わ)が下情(したごころ)」と訓む。「下」は「物事の裏面に関すること。さえぎられて見えない部分。こころ。心の奥。内心」などの意味がある。「心」の意を持つ言葉として「うら」と「した」が使われ、「した」は表面にあらわすまいとしてこらえ隠している心である。 「情」は「こころ。なさけ。まこと」の「訓み」がある。ここは「下情」で「したごごろ」と訓み、「心の中に秘めた思い」の意を表わしたもの。

巻1(6)
 巻1(6)。
題詞
歴史解説
 5歌に対する反(かえ)し歌。「右、日本書紀ヲ検(カムガ)フルニ、讃岐国ニ幸スコト無シ。亦軍王ハ詳(ツマビ)ラカナラズ。但シ山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ曰ク、紀ニ曰ク、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、伊豫ノ温湯ノ宮ニ幸セリト云ヘリ。一書ニ云ク、是ノ時宮ノ前ニ二ノ樹木在リ。此ノ二ノ樹ニ斑鳩(イカルガ)比米(シメ)二ノ鳥、大ニ集マレリ。時ニ(ミコトノリ)シテ多ク稲穂ヲ掛ケテ之ヲ養ヒタマフ。乃チ作メル歌ト云ヘリ。若疑(ケダシ)此便ヨリ幸セルカ」。
原文  山越乃 風乎時自見 寐<夜>不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
和訳

 山越しの 風を時じみ 寝(ぬ)る夜おちず 家なる妹を 懸けて偲(しの)ひつ

現代文  「山越の風が絶え間なく吹くので寝にくい。家居している妻が気になり偲んでいますよ」。
文意解説  発句「山越乃 風乎時自見 寐<夜>不落」「山越しの 風を時じみ 寝(ぬ)る夜おちず」と訓む。「山越乃」は「山越しの」と訓む。これは第5番歌の「山越す風の」を受けている。「風乎時自見」は「風を時じみ」と訓む。「時じ」は、時+自(ジ)。もともと時が定まっていないことを意味するが、その意から「時はずれである。時節はずれである。その時ではない」という意味と「時節に関係なくいつもある。常にある。絶え間ない」という二つの意味を持つ。ここでは「風が絶えず吹く」の意。「時じみ」は、「時じ」にミが付いたものである。「山越しの 風を時じみ」で、「山越しの風が絶えず袖をひるがえすので」という意味になる。「寐夜不落」は「寐る夜(よ)落(おち)ず」と訓む。「寐」は「ねる、ねむる」の意味をもつ。「寝」はどちらかというと「病んでねる」ことを意味する。今日では「寐」でなく「寝」を用いるようになっている。その理由は分からない。「不」は否定のズ。「夜」は日没から日の出までの間をいう。「落(おち)ず」は「欠落することなく」の意なので、「寐る夜落(おち)ず」は「夜ごと夜ごと、毎夜欠かさず」ほどの意となろう。

 結句「家在妹乎 懸而小竹櫃」「家なる妹を 懸けて偲(しの)ひつ」と訓む。「家在妹乎」は「家に在(あ)る妹(いも)を」と訓む。「妹」は「いも」。ここでは妻を指す。「家に在(あ)る妹を」の訓みは8音になるため、「にある」を約してナルとして「家なる妹を」と訓む注釈書が多い。「懸而小竹樻」は「懸(か)けてしのひつ」と訓む。「懸(か)けて」は、第5番歌の「懸(か)けの宜(よろ)しく」に対応する詩句であり、「珠(たま)たすき懸(か)けの宜(よろ)しく……朝夕(あさゆふ)に還(かへ)らひぬれば」という長歌の核心部分をこの一語に込めているものと思われる。「小竹」は「篠(しの)」、日本書紀に「篠は、小竹なり。此をば斯奴(シノ)と云ふ」とある。「樻」は「櫃」と同音でヒツ。「しのひつ」は「しのひ」にツが付いたもの。「しのふ」は、ある物を媒介として思い慕うことを意味し、堪え忍ぶ意の「しのぶ」とは違う。完了の助動詞には他にヌがあるが、ヌは多く自動詞に付いて自然推移的な動作の完了を表わすのに対して、ツは多く他動詞に付いて意図的な動作の完了を表わす。

 明日香の川原の宮に天の下しろしめしし天皇の代(明日香川原宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇])

巻1(7)。額田王(ぬかたのおおきみ)
 
題詞
歴史解説
 額田王(ぬかたのおおきみ)の作歌(未詳)。「右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ検(カムガ)フルニ曰ク、書ニ曰ク、戊申ノ年比良ノ宮ニ幸ス大御歌ナリ。但シ紀ニ曰ク、五年春正月己卯ノ朔ノ辛巳、天皇、紀ノ温湯ヨリ至リマス。三月戊寅ノ朔、天皇吉野ノ宮ニ幸シテ肆宴ス。庚辰、天皇近江ノ平浦ニ幸ス」。
原文  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
和訳  秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮廬(かりいほ)し思ほゆ
現代文  「秋の野の草を刈り取って屋根に葺き、仮の宮をつくって過ごした時のことを愛しく思い出しております」。
文意解説  発句「金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之」「秋の野の み草刈り葺き 宿れりし」と訓む。「金野乃」を「秋の野の」と訓む。「金」は、中国の「五行説」の影響を受けて「秋」を「金」と表記したもの。「五行説」は、万象の生成変化を説明するための理論で、宇宙間には木火土金水によって象徴される五気がはびこっており、万物は五気のうちのいずれかのはたらきによって生じ、また、万象の変化は五気の勢力の交替循環によって起こるとする。その考えから、季節、方角、色、臭から人の道徳に至るまで、あらゆる事象を五行のいずれかに配当するようになった。土を中心において、木火金水には、方角では東南西北、色では青朱白玄、季節では春夏秋冬が割り当てられた。そして東に龍(青龍)、南に雀(朱雀)、西に虎(白虎)、北に武(玄武)と四獣(四神)を配した。色と季節の合成語である、青春・朱夏・白秋・玄冬も「五行説」から生じたものだが、これらは今も使われている。季節で言えば、「木」が春、「火」が夏、「金」が秋、「水」が冬となる。漢字仮名交じり文では「金」を「秋」に置き換えることとする。「野」はノ、「乃」はノ。「美草苅葺」は「み草(くさ)苅(か)り葺(ふ)き」と訓む。「美」はミ。「草苅葺」は現在も同じ意で用いられる。「屋杼礼里之」は「やどれりし」と訓む。「やどる」に完了のリと過去のシの接したもので、「かつて泊まったことのある」という意になる。

 結句「兎道乃宮子能 借五百礒所念」
「宇治の宮処の 仮廬(かりいほ)し思ほゆ」と訓む。「兎道乃宮子能」は「うぢの宮この」と訓む。「兎道」は地名の「宇治(うぢ)」を表わす。南方熊楠の「兎に関する民俗と伝説」には、「兎が群れて通ったことから起こったウヂ(兎道)からか」という語源説を記している。「乃」、「能」はノ。「宮」は「みや」、「子」はコで「宮こ」は「宮のあるところ」を意味する。天皇が或る地に宿を取って留まれば、その限りその場所をも「宮こ」と言った。「借五百磯所念」は「借(か)りいほし念(おも)ほゆ」と訓む。「借五百」は「借(か)りいほ」と訓む。「仮廬」で「仮につくった粗末な小屋」のこと。一時的にという意味が強い「仮」の字を用いることが現在では普通になったが、「借」の字義にも「かりに」という意味はある。「五百」は数字の五百を「いほ」に倣い、「五」はイ、「百」はホと訓む。「磯」は「石」と同じくシを表わす。「所念」は「念(おも)ほゆ」。「所」は漢文の助字でル、ラルに相当し受身、可能、自発を表わす。上代ではユ、ラユであったことから、ここはルでなくユと訓む。またユは未然形に付く助動詞であるから、本来は「念(おも)はゆ」となるところだが、オモハユのハが前の母音に引かれてホに転じた形で「念(おも)ほゆ」と訓むことが定説となっているのでそれに従う。句中に母音を含んで字余りになる句が万葉集には多く見られるが、ここもその例。

 後の崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の代

巻1(8)。額田王
 
題詞
歴史解説
 額田王(ぬかたのおほきみ)の作歌。「後の岡本の宮に御宇(あめのしたしらしめす)天皇代 天豊財重日足姫(あめのとよたからいかしひたらしひめ)天皇、位後、後の岡本の宮に即く」左注では「斉明天皇の作」と記されている。多くの人々に親しまれている有名な歌のひとつである。
原文  熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
和訳  熟田津(にきたづ)に 船乗りせむと 月待てば 潮(しほ)もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
現代文  「伊予の熟田津(にぎたつ)で船を出そうと月の出を待っていると、潮(しほ)までも思い通りに満ちてきた。さあ今こそ漕ぎ出そう」。
文意解説  発句「熟田津尓 船乗世武登 月待者」「熟田津(にきたづ)に 船乗りせむと 月待てば」と訓む。「熟田津尓」は「熟田津(にきたつ)に」と訓む。地名で愛媛県松山市三津浜の古三津説、和気町の堀江町説などあって確定しない。「にぎたづ」とキ、ツを濁音で訓むのもあるが清音が一般的。「尓」は二。「において」の意。「船乗世武登」は「船乗りせむと」と訓む。「船乗り」は船に乗り込むこと、船遊びをする場合、あるいは船を浮かべて神事を行う場合なども言うが、ここでは「船に乗って旅立つ」意。「世武登」はセムト。「ーしようと思って」の意。「月待者」は「月待てば」と訓む。「月待つ」は月の出を待つ意。月の光を頼りに船をこぐのでこの表現がある。「者」はバ。

 結句「潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜」「潮(しほ)もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」と訓む。「潮毛可奈比沼」は「潮(しほ)もかなひぬ」と訓む。海面が穏やかになったという意味。「潮(しほ)」は「海面が月と太陽の引力によって周期的に高くなったり低くなったりして、海水が岸また沖の方へ交互に動くこと」。「潮も」は「潮もまた」の意。助詞モによって月モの意を裏に含ませている。「かなふ」は「ある条件に適合する」意で、ここは船出に都合良く潮が満ちてきたことをいう。ヌは自然推移的な動作の完了を表わす。「可」はカ。「加」よりは少し遅れて広く用いられるようになった。「奈」はナ、「比」はヒ。「沼」は「ぬま」のマを脱落させヌ。同じような例として、第1番歌の「常」が「とこ」のコを脱落させてトとして用いられている。「今者許藝乞菜」は「今はこぎいでな」と訓む。「者」はハ。「許藝」はコギ。「乞」は人にものを乞い、またある行動を起こすよう求めるところからイデと訓み、そこから「出(い)で」に借りてきたもの。「菜」はナ。

巻1(9)。額田王(ぬかたのおおきみ)
 
題詞
歴史解説
 額田王の作歌。「紀の温泉(ゆ)に幸す時、額田王のよみたまへる歌」(幸于紀温泉之時額田王作歌 )。有間皇子が処刑された藤白坂から約20キロの所に「木本八幡宮」という神社がある。この神社の由緒をみると次のように記されている。
 「紀伊続風土記に、神武天皇の東征に際して、別働隊として神鏡と日矛という二種の神宝(後の日前神宮・国懸神宮(日前国懸神宮)の神体とされる)を奉じた天道根命が両神宝の鎮座地を求めて紀伊国加太浦に来着、次いで当地へ遷り、その後更に毛見浦へ遷った事を伝え、また紀伊国造家の別の古伝として天道根命が日前国懸両大神を奉じて淡路国御原山に天降り、葦毛の馬に乗って加太浦、木本、毛見浦へと遷ったとの伝えを載せている。社伝によれば、この時に天道根命が日前国懸両大神を厳橿山の橿の木の根本に奉安して祀ったのが起源で、そこから神社を「木本の宮」、地名を「木(ノ)本」と名付けたという。これによれぱ古くからの聖地であることがわかる。そして、この由緒にある「厳橿山の橿の木の根本」はまさに「いつかしが本」のことと思われる。更にこの神社の境内には万葉歌碑が建ち、第9番歌の「莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子(せこ)が い立たせりけむ 厳橿が本」の歌が刻まれている。社伝では、「この歌は、斉明天皇4年(658年)に天皇の紀温泉への行幸に随従した額田王がこの行幸の途次に当神社を参拝し、その折に詠んだもので[厳橿が本]とは即ち当神社の事である」。
原文  莫囂圓隣之大相 七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
和訳  三諸(みもろの山 見つつゆけ 我が背子が い立たしけむ 厳橿(いつかし)が本
現代文  「今頃は、私の愛しい人が厳橿(いつかし)が本をお立ちになった頃であろう。三諸(みもろの山をしっかり見つめながら行きなさい」。
文意解説  発句「莫囂圓隣之大相 七兄爪謁氣」三諸の山 見つつゆけ」と訓む。「莫囂円隣之大相 七兄爪謁気」は難訓とされ詠みが不詳。「莫囂圓隣之」を仮に「三諸(みもろ)の」と訓む。「大相」を仮に「山」と訓む。「七兄爪謁氣」を仮に「見つつゆけ」と訓む。「兄」は中大兄皇子の「大兄」と通じている気配があるとする説がある。それによると、中大兄皇子は舒明天皇の第二皇子だが皇極を母とする兄弟の長子ということで「大兄」であり、舒明天皇の第一皇子である異母兄の古人大兄皇子も蘇我法提郎女を母とする兄弟の長子ということで「大兄」と呼ばれる。「中大兄」の「中」は「中央にあって中心となり、内外上下を統べている」人の意味で呼ばれたものと考えられる。古人大兄皇子は、645年の「乙巳の変」のあと吉野に引退したが、謀反の疑いをかけられ中大兄皇子に殺されているので、有間皇子事件当時「大兄」と呼ばれるのは中大兄皇子のみ。額田王があえて「兄」の字を記しているように思われる。「爪」はツ。「湯氣」はユケ。

 結句「吾瀬子之 射立為兼 五可新何本」「我が背子が い立たしけむ 厳橿(いつかし)が本」と訓む。「吾瀬子之」は「我が背子が」と訓む。「背子」が誰かについては諸説ある。賀茂真淵の万葉考に「こは大海人皇子命か云々」と言われて以来、額田王の夫、大海人皇子(後の天武天皇)と見るのが一般的である。伊藤博が有間皇子説を唱えている。他に斉明の夫の舒明天皇説や斉明説まであり確定されていない。れんだいこは、作歌者の額田王から見ての「我が背子」であり、歴史推定せねばならないと思う。「射立為兼」は「い立たせりけむ」と訓む。「い立たせりけむ」は「お立ちになったであろう」の意。「射」は「矢を射る」のイ。「為」はセ。「兼」はケム。「五可新何本」は「いつかしが本(もと)」と訓む。は「神聖な力を持つ橿の木の根もと」という意。「五」は数の五(いつ)からイツ。これを漢字で書くと「厳(いつ)、稜威(いつ)」で、「いみ清められていること。神聖な力のあること」の意。「可新」はカシ。ここは「橿の木」のこと。「何」はガ。

【巻1(10)。中皇命(なかすめらのみこと)】
 
題詞
歴史解説
 中皇命の作歌。「中皇命の紀の温泉(きのゆ)に徃(いま)せる時の御歌」。左注に「右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ(カムガ)フルニ曰ク、天皇ノ御製歌ト云ヘリ」とあり作者が確定されていない。「中皇命(なかつすめらみこと)」は、第3番歌の題詞にも登場し、中大兄皇子の妹で孝徳天皇皇后である間人皇女(はしひとのひめみこ)のこととも斉明天皇のこととも言われ、これも確定しない。ただ、いつ詠まれたかについては、先の9番歌同様、斉明天皇が紀温泉(きのゆ)へ行幸された折に詠まれた歌であるとして間違いないだろう。
原文  君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
和訳  君が代も 我が代も知るや 磐代(いわしろ)の 岡の草根を いざ結びてな
現代文  「昔の君が代も今の私達の代もお知りになっておられる磐代(いわしろ)の、その岡に生える草を結んで旅の無事を祈りませう」。
文意解説  発句「君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃」「君が代も 我が代も知るや 磐代(いわしろ)の」と訓む。「君之齒母」は「君がよも」と訓む。「君」が誰を指すかということでは中大兄皇子だとする説が定説であるが、れんだいこは、ここの「君」は「歴代の君」を指している、即ち中大兄皇子を指すとする必然性がないと解する。「君」は「巫祝の長」をいう。これを、「当時の巫祝の長と言えば斉明天皇か中大兄皇子ということになる。この作者をもし斉明天皇だとすれば「君」は自ずと中大兄皇子ということになるが、作者を間人皇女(はしひとのひめみこ)と考えると、君は斉明天皇とも中大兄皇子とも見ることができることになる」と解する必要はない。「之」はガ。「齒」はハであるが、ここは「齢(よわい)」のヨ。「吾代毛」の「代」と対応している。「齒」によって獣畜の年を知りうることから「齢」という字がつくられたという。老いて徳の成就することを意味する「齒徳」という言葉もある。ヨに「齒」の字を使っているところに、この歌を解するための鍵があると思われる。「吾代毛所知哉」は「吾(わ)がよも知るや」と訓む。「代」はヨ。岩波大系本は「代」を寿命の意味に解し、「君が代も我が代も」を「君が寿命も私の寿命も」と訳している。しかしながら、「代」を「世」と解するのが素直であろう。敢えて「寿命」と解する必要がない。「毛」はモ。「所知」は「知る」と訓む。「哉」はヤ。「知るや」は「支配する」と解している。れんだいこは、そう解しても良いが、ここでは歌意全体から見て普通に「知るや」で構わないと思う。「磐代乃」は「磐代(いはしろ)の」と訓む。「磐代」は地名で現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。白浜温泉に近く、当時は熊野にも通じる交通の要所で、海を見晴るかす位置にあり、旅人が木の枝や草を結んで旅の安全を祈った場所である。「乃」はノ。

 結句「岡之草根乎 去来結手名」「岡の草根を いざ結びてな」と訓む。「岡之草根乎」は「岡の草根を」と訓む。「岡」は「焼けた赤土色の丘」。「草根」は地に生えた草のこと。「乎」はヲ。「去来結手名」は「いざ結びてな」と訓む。「去来」はイザと訓む。陶淵明の「帰去来辞」中の「帰去来兮」が「かえりなん、いざ」と訓んでおり、これに随う。「手名」はテナ。

巻1(11)。中皇命
 
題詞
歴史解説
 中皇命の作歌。「中皇命の紀の温泉に徃(いま)せる時の御歌」。この歌も含め、この前後の歌の二人は中皇命(なかのみこ。後の天智天皇)と間人皇女(はしひとのひめみこ、孝徳天皇の皇后)という解が一般的である。
原文  吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
和訳  我が背子は 仮廬(かりいほ)作らす 草なくは 小松が下(もと)の 草(かや)を刈らさね
現代文  「あなたは仮の庵を作っておられます。屋根を葺く萱が足りなければ、あそこにある小松の下の草をお刈りなさいよ。(あなたとでしたら粗末な寝屋でいいですわ)」。
文意解説  旅先での歌。

 発句「吾勢子波 借廬作良須 草無者」「我が背子は 仮廬(かりいほ)作らす 草なくは」と訓む。「吾勢子波」は「吾(わ)がせ子(こ)は」と訓む。「勢」はセ。セは他に「世」があるが、「世」が通俗的に常用されたのに対して「勢」は改まった文書に常用された。「波」はハ。「借廬作良須」は「借廬(かりいほ)作(つく)らす」と訓む。「借廬」は、「仮廬」で「仮につくった粗末な小屋、一夜の仮の屋」のこと。第7番歌に既出。ここは、旅中の儀礼を行うための簡単な廬かとも思われるが、あるいは旅宿のための廬か。「作」はもともと「木の枝を曲げて垣などを作る」ことを意味したが、一般に「ものをつくる」ことを言うようになった。「良須」はラス。「作らす」は「作る」の敬語形。「草無者」は「草(かや)無(な)くは」と訓む。「草」はここでは「くさ」ではなく「萱(かや)」と訓む。屋根を葺くための萱草(かやくさ)の意。「無(な)く」は「無(な)し」の連用形。「無(な)し」は、存在の意を示す「有り」の対義語であるが、「有り」が動詞であるのにこちらは形容詞である。これにつき、大野晋編の古典基礎語辞典は次のように記している。
 存在を表わすにはアリ(有り)という動詞を用い、その反対概念の存在しないを表わすにはナシというク活用の形容詞を用いる。動詞は動作や状態をすべて時間的に変化していくととらえるのに対し、ク活用形容詞は「高し」「長し」「白し」のように、物事の状態を静止的で、時間的には変化しないものとして客観的にとらえる性質を有することによる。存在する(アリ)は時間的に変化する状態であるが、存在しないという時間的に変化を含まない状態を表現するにはナシというク活用の形容詞を用いる。
 「無者」はナクハ。「無いのなら」の意。

 結句「小松下乃 草乎苅核」「小松が下(もと)の 草(かや)を刈らさね」と訓む。
「小松下乃」は「小松が下の」と訓む。「小松」の「小」は愛称で、必ずしも小さいの意を表わすものではないとする解釈もある。「松」は古来より「めでたいたとえ」とされ、中国でも「祝頌の詩」に多く用いられている。「下」は、「本」が木の根元を表わすのに対し、木陰全体を示している。万葉集においては、モトには「本」、シタには「下」と、おおむね書き分けがなされている。「乃」はノ。「草乎苅核」は「草(かや)を苅(か)らさね」と訓む。「草」はここも「かや」と訓む。「乎」はヲ。「苅る」は、現在使われているのと同じ意味で、「草木、頭髪など、むらがって生えているものを短く切りさる」ことを言う。「核」は1字で2音を表わす借訓仮名でサネと訓む。「核」は、元々「たね、しん」を表わす字であるが、物事の中心、本質となるものを表わす和語の「真(さ)根(ね)」と訓んだ。ここでは本来の意味はなく訓仮名として用いたもので、尊敬の助動詞スの未然形サに助詞ネの付いたもの。

巻1(12)。中皇命
 
題詞
歴史解説
 中皇命の作歌。「中皇命の紀の温泉に徃(いま)せる時の御歌」。
原文  吾欲之 野嶋波見世追  底深伎  阿胡根能浦乃  珠曽不拾 [或頭云 吾欲 子嶋羽見遠]
和訳  我が欲(ほ)りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根(あこね)の浦の 玉ぞ拾はぬ [或頭云 我が欲りし子島は見しを]
現代文  「あれが見てみたいと思っていた野島ですね。底まで透き通っている美しいことで評判の阿胡根(あこね)の浦の玉を拾おうと思います」。
文意解説  発句「吾欲之 野嶋波見世追  底深伎」「我が欲(ほ)りし 野島は見せつ 底深き」と訓む。「吾欲之」は「吾が欲(ほ)りし」と訓む。「欲」は「ほっする、ねがう、のぞむ、ほしい」。「之」はシ。「欲(ほ)りし」は「野嶋」にかかる。「野嶋波見世追」は「野嶋は見せつ」と訓む。「野嶋」は地名で現在の和歌山県御坊市名田町野島の辺りとされる。「波」はハ。「見世追」はミセツ。「底深伎」は「底深き」と訓む。「伎」はキ。異伝の「或頭云 吾欲 子嶋羽見遠」は「或頭云 我が欲りし子島は見しを」と訓む。「吾欲」はく「吾(わ)が欲(ほ)りし」と訓む。シを表わす文字は略されていると見て補う。「或頭云」の「子嶋羽見遠」は「子嶋(こしま)は見しを」と訓む。「私が見たいと望んでいた子嶋は見ましたが」の意。「子嶋」は地名と思われるが未詳。「羽」は「はね」からハを表わす。「遠」は「ヲン」からの略音仮名ヲ。

 結句「胡根能浦乃  珠曽不拾」「阿胡根(あこね)の浦の 玉ぞ拾はぬ」と訓む。「阿胡根能浦乃」は「阿胡根(あごね)の浦の」と訓む。「阿胡根」はアゴネ。「阿胡根」三文字で地名を表わす。「浦」は「裏」と同語源と見られ、外海の表に対し内海の意とされる。「能」と「乃」は共にノ。「珠曽不拾」は「珠(たま)そ拾(ひり)はぬ」と訓む。「珠」は真珠のことだが貝や石の丸く美しいものをもいう。「曽」はソ。「不拾」は「拾(ひり)はぬ」と訓む。「ひりふ」は「ひろふ」の古形。底まで透き通っている美しい湾の玉を拾うのはこれからですね、と美しい湾の風景に感じ入っている光景が鮮やかに浮かびあがる。

巻1(13)。中大兄皇子
 
題詞
歴史解説
 中大兄皇子(なかつおほえのみこ)の作歌。長歌。「中大兄(なかのおほえ)、近江の宮に天の下知らしめしし天皇 三山(みつやま)歌一首」。中大兄皇子(なかつおほえのみこ)は後の天智天皇のこと。題詞では単に「中大兄」と記されているところが奇異である。ちなみに日本書紀には「中大兄」が20回以上出てくるが、ただの一度も「中大兄皇子」との表記がない。藤原鎌足を記す「藤氏家伝」でも「中大兄」表記であり「中大兄皇子」とは記されていない。

 この長歌は大和三山(やまとさんざん)といわれる三つの山、天の香久山(あまのかぐやま)、耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)の伝説を詠ったものである。大和三山は藤原京を囲むように三角形の位置に並んでおり三角関係にある。畝傍山(うねびやま)を巡って男山の香具山(かぐやま)と耳成山(みみなしやま)が争った「大和三山の争闘伝説」を詠っている。女性を巡る争いは神代も今も変わらぬことよと結んでいるが、古代史上の政変「大和三山の争闘伝説」を採り上げていることに値打ちがあるように思われる。橿原市白橿町の沼山古墳にこの歌の歌碑がある。沼山古墳は有名な益田岩船遺跡の前の道を挟んで、斜め前にある近隣公園内にある。
原文  高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎相<挌>良思吉
和訳  香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神世(かみよ)より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現身(うつせみ)も 嬬(つま)をあらそふらしき
現代文  「香具山は 畝傍山が男らしいと 耳梨山と争ったそうだよ。神代からそうであったらしいよ。古昔(いにしへ)からそうだったのだから、今の世で恋争いするのも致し方ないと云うべきか」。
文意解説  長歌(れんだいこ式5句)。
 発句「高山波 雲根火雄男志等」は「香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)ををしと」と訓む。「高山波」は「かぐ山は」と訓む。「高」を「たか」と訓む説もある。「高」の字音は「カウ」であるから、「カグ」の音に用いるはずがないというのがその説の根拠である。しかし、「カウ」は呉音以後の音であって、漢音では「香」と同じ有尾韻字を持っており、二合仮名として「カグ」の音に用いることは十分に考えられる。また、第13番歌が大和三山を詠んだものであることからも、ここは現在の「香具山」を示していると解するべきであろう。「波」はハ。「雲根火雄男志等」は「うねびををしと」と訓む。「雲」は、次の「根」の頭子音により字音の韻尾が解消されて、ウ音を表わすことになるいわゆる連合仮名である。「根」はネ。「火」はヒであるが、ここでは濁音ビ。「雲根火」の三文字で大和三山の一つ「畝傍(うねび)」を表わす。「雄」と「男」は共にヲ。「志」はシ。以上の三字で「ををし」と訓む。「雄々しい」の意。これを「愛(を)し」の意と解する説もある。れんだいこは、「雄男志」の文字通りに「雄々し」と解する。既に、畝傍山を男山と考え、香具山と耳成山を女山として女二人が一人の男を争ったのだと見る説が唱えられている。ちなみに畝傍山は高さが約199mで一番高く、香具山は152m、耳成山は約140mである。「等」はト。

 2句「耳梨與 相諍競伎」は「耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき」と訓む。「耳梨與」は「耳梨(みみなし)と」と訓む。大和三山のもう一つである「耳成山」のことである。「與」はヨとも訓むが、ここではト。これは、「與」が漢文の助字として「並列、…と」の機能を持つことからきている。「相諍競伎」は「相(あひ)諍競(あらそひ)き」と訓む。「相諍競」の「相」は「見る」を本義とする字である。ここでは「たがいにする」という意で「あふ」、その連用形「あひ」と訓む。「諍」は「争う」意で一字でも「あらそふ」と訓む。「競」は「相争う」意で「きそふ」と訓む。ここは「諍競」の二字でもって「あらそふ」、その連用形「あらそひ」と訓む。「伎」はキ。

 3句「神代従 如此尓有良之」は「神世(かみよ)より かくにあるらし」と訓む。「神代従」は「神代(かみよ)より」と訓む。「神代(かみよ)」とは、神が統治し活動していたとされる人の世に先立つ時代のことを云う。「記紀神話では、天地開闢(かいびゃく)から神武天皇以前、草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)までの神々の時代をいう」と解説されているが記紀神話に拘る必要はなかろう。「従」は「より。… から」の意。同じ意味を表わす「自」とは声が近く、古くより通用の例がある。ここでは、時間・場所の起点を表わす格助詞ヨリ。「如此尓有良之」は「如此(かく)に有(あ)るらし」と訓む。「如此」は「このごとく」の意でカクと訓む。「尓」は二。「有」はアル。「良之」はラシ。推定の助動詞で、おもに上代に用いられ、中古中期以後は衰えた。目前の現象に基づいて、背後でその事実を実現させた根拠を推量するもので、「~らしい。~に違いない」の意となる。

 4句「古昔母 然尓有許曽」は「古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ」と訓む。「古昔母」は「古昔(いにしへ)も」と訓む。「古」一字で「いにしへ」と訓めるので「昔」は添字とも言える。「いにしへ」は「往(い)にし方(へ)」の意で、現在と遮断された遠く久しい過去を漠然という言葉。「むかし」は「向(むか)し」で現在に向って過ぎ去った時の意で、現在につながる過去の一時期、一時点をいう言葉。「母」はモ。「然尓有許曽」は「しかに有(あ)れこそ」と訓む。「然」はシカ。物をさし示し、感動的意味が伴う。「そのように。そのごとく。さように。かように」の意。「有」は、ここでは「有れ」と訓む。「許曽」はコソ。「~なので~する」の意。

 結句「虚蝉毛 嬬乎相<挌>良思吉」は「現身(うつせみ)も 嬬(つま)をあらそふらしき」と訓む。「虚蝉毛」は「虚蝉(うつせみ)も」と訓む。「うつせみ」は、「この世の人」または「この世」を表わす純粋の大和言葉。「虚蝉」は、もともとは語義と関係のない借字であったが、その字から「蝉の抜け殻」のことも言うようになり、はかなさをもってとらえられるようにもなった。「毛」はモ。「嬬乎相<挌>良思吉」は「嬬(つま)をあらそふらしき」と訓む。「嬬乎」は「嬬(つま)を」と訓む。「嬬」は「儒」に対して女巫をいう語であったが、万葉集では妻の意で多く用いられている。礼記に「天子の妃を后、諸侯の妃を夫人、大夫には孺人という」とあることから「孺」と同声の「嬬」を用いたものと思われる。「乎」はヲ。「相挌良思吉」は「相挌(あらそふ)らしき」と訓む。「挌」はカクで字訓「うつ。たたかう」。現代表記では「格」に書き換えられることが多い。「相挌」の2字で「あらそふ」と訓む。「相」が「相諍競」に通じ、同じ意味となる「格」=「諍競」の訓みを導いている。「良思吉」はラシキ。「吉」はキ。本来は過去を回想する意味があり、普通は自身が経験した過去を回想する場合に使うが、伝説を回想するときにも使う。
巻1(14)。中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】
 
題詞
歴史解説
 中皇命の御歌の10、11、12、13歌に対する返し歌。
原文  高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
和訳  香具山と 耳梨山(みみなしやま)と あひし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)
現代文  「香具山と耳梨山が争ったとき それを止めようと、わざわざ出雲の阿菩(あぼ)の大神が印南国原(いなみくにはら)まで来たと伝えられています。(ここが伝説の地なのですね)」。
文意解説  発句「高山与 耳梨山与 相之時」「香具山と 耳梨山(みみなしやま)と あひし時」と訓む。「高山与」は「かぐ山(香具山) と」と訓む。「高」は「カグ」。「与」はト。「耳梨山与」は「耳梨山(みみなしやま)と」と訓む。「与」の旧字は與に作りでト。「相之時」は「相(あひ)し時」と訓む。ここでの「あふ」は「あらそふ」という意。「之」はシ。

 結句「立見尓来之 伊奈美國波良」「立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)」と訓む。「立見尓来之」は「立ちて見に来(こ)し」と訓む。「立」は「立ちて」とテを補って訓む。「尓」は二。「来(こ)し」は「来(こ)」にシがついたもの。「之」はシ。「伊奈美國波良」は「いなみ國原」と訓む。「伊奈美」は「イナミ」。地名で兵庫県の印南。「國原」は「陸地の広く平らな所。広い国土」をいう。「波良」はハラ。「印南国原」は明石から加古川あたりにかけての平野を指すものと思われる。「印南国原」の地で香具山と耳成山が闘ったという伝説が播磨風土記に伝えられている。それよれば、畝傍山(うねびやま)を巡って男山の香具山と耳成山が争ったとき(いわゆる大和三山の争闘伝説)、出雲の国の阿菩(あぼ)の大神がこの争いを見にやってきたという。したがって、「立ちて見に来し」はこの阿菩の大神ということになる。播磨風土記の原文は次の通りである。
 「出雲国の阿菩の大神、大倭(おほやまと)の国の畝火と香山と耳梨の三山が相い闘うと聞き給う。これここ諌め止めんと欲して、上り来ましし時、ここに到る。すなわち闘い止みぬと聞かして、そこで乗らせる船を覆して、これに坐しき。故(か)れ、神の阜(おか)と号(なづ)く。阜の形、覆したるに似たり」。

巻1(15)。中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】

題詞
歴史解説
 中皇命の御歌の10、11、12、13歌に対する返し歌。中大兄皇子(なかつおほえのみこ)の三山の歌、巻一(十三)に付けられた反歌のうちのひとつ。「右ノ一首ノ歌、今(カムガ)フルニ反歌ニ似ズ。但シ旧本此ノ歌ヲ以テ反歌ニ載セタリ。故レ今猶此ノ次ニ載ス。亦紀ニ曰ク、天豊財重日足姫天皇ノ先ノ四年乙巳、天皇ヲ立テテ皇太子ト為ス」。
原文  渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比<紗>之 今夜乃月夜 清明己曽
和訳  綿津見(わたつみ)の 豊旗雲(とよはたぐも)に 入日射(さ)し 今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけかりけり(よく照りこそ)
現代文  「海の上をたなびく雲に夕日が射して輝いています。今宵の月は清らかに輝くことだろうよ」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その33)」その他を参照する。

 発句の「渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比<紗>之」
「綿津見(わたつみ)の 豊旗雲(とよはたぐも)に 入日射(さ)し」と訓む。「海神の」は「わたつみの」と読む。「渡」は「渡(わた)る」の意を踏まえながらワタを表わす訓仮名として用いられている。「わた」は船で渡るところから「海」の意。「津」はツ。「海」はミ。ミには「霊」の意味がある。「わたつみ」は「海つ霊(み)」で本来は「海の神」の意であるが、単に海や海原を表わすようにもなる。「乃」はノ。「わたつみの」にかかる語は沖や海。なので枕詞としても不思議ではない。問題は原文の表記である。本歌は「渡津海乃」となっているが、他の歌では「和多都民能」、「海若之」、ただの「海神」等と様々に表記されている。ここにいう「わたつみの」は遙か沖合の意。「豊旗雲尓」は「豊旗雲(とよはたくも)に」と訓む。「豊旗雲」は、文字通り「旗のごとく豊かにたなびく雲」の意であり、漢籍ではめでたいものとされている。「尓」はニ。「伊理比紗之」は「いりひさし」訓む。「豊旗雲に入り日差し」で「豊旗雲に夕日が差し」の意となる。ここを「豊旗雲に入り日見し」とする説もあったが、当時の語法ではそれは成り立たないことを、佐佐木隆「万葉集の「豊旗雲に入り日見し」存疑」(『上代語の構文と表記』)が指摘して以来、「豊旗雲に入り日差し」が定説となっている。

 結句の「今夜乃月夜 清明己曽」「今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけかりけり(よく照りこそ)」と訓む。 「今夜乃月夜」は「今夜(こよひ)の月夜(つくよ)」と訓む。「乃」はノ。「月夜」は上代では「つきよ」と訓む用例はなく「つくよ」と訓む。「月のでている夜」が原義だが、「月」そのものの意に用いられることもある。ここは、上に「今夜」があるので、「月」の意としないと「夜」が重複することになる。「清明己曽」は「さやけかりけり」と訓む。「清明」をどう訓むかが難解である。「清明」には、「すみあかく、あきらけく、まさやかに、さやにてり、きよくてり」など異訓が多い。「清明」は「清く明らかなこと。また、そのさま」を意味し、漢文訓読では「清明たり、清明なり」などと訓まれる。この意味を持つ和語として「さやけし」という形容詞があり、「清」も「明」も共に「清(さや)けし、明(さや)けし」と訓まれている。これらを踏まえ、「清明」を「清明(さやけ)くあり」と訓むこととする。「己曽」はコソ。「清明(さやけ)くありこそ」で8音の字余りとなるが、句中に「く(う)あ」と母音が二つ連続しており、句中に母音が二つ連続してある場合に字余りとなる用例は多いことから問題とはならない。これに関して橋本進吉は「国語の音節構造と母音の特性」のなかで次のように述べている。
 とにかく母音音節が句の内部にあれば、六音又は八音の句でも五音又は七音の句と同等に扱われたという事は、母音音節が前の音節に接してあらわれる場合には一つの音節として十分の重みを持っていなかった事を示す。なお、ここの「こそ」は動詞の連用形に接続して、他に対してあつらえ望む意を表す、上代特有の用法で終助詞とみなされる。

 雲に入り日が射し、真っ赤に燃えた美しい夕焼けの光景が浮かんで来る。今夜の月はさぞかし清らかに光を放つだろうという、まるでメルヘンの国のような美しい歌である。

 近江の大津の宮に天の下しろしめしし天皇の代

巻1(16)。額田王】
 額田王の長歌。
題詞
歴史解説
 額田王の作歌。「天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌 」(「近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇謚曰天智天皇 (近江の大津の宮に天の下しろしめしし天皇の代。天皇の、内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原朝臣に勅(みことのり)して、春山の万花(ばんくわ)の艶(にほひ)と秋山の千葉(せんえふ)の彩(いろどり)とを競(きそ)わしめたまひし時に、額田王の、歌を以(うた)ちて判(ことわ)れる歌)」)。天智天皇(中大兄皇子)が藤原鎌足(中臣鎌子)に勅し、春山の花の咲きほこる様と秋山の彩とを競わせたとき額田王(ぬかたのおほきみ)が答えて詠った歌春と秋のどちらがよいかを競わせる話しは源氏物語にも出てくるが、はるか万葉集の昔からあったことになる。額田王は最初春を称えておきながら最後に秋を選んでいる。

 額田王(ぬかたのおほきみ)は、はじめ中大兄皇子(なかつおほへのみこ、後の天智天皇)の弟の大海人皇子(おほしあまのみこ、後の天武天皇)の妻で一女を生んでいるが、後に天智天皇の妻になっている。
原文  冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼杼 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者
和訳  冬ごもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入りても取らず(聴かず) 草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそ偲(しの)ふ 青きをば 置きてそ歎(なげ)く そこし恨(うら)めし 秋山吾(あれ)
現代文  「冬が過ぎて春になると いままで鳴かなかった鳥も来て鳴きます。咲かなかった花も咲きます。でも山は茂りあっていて入って手にも取れないですよね。草も深く手折って見ることも出来ないですよね。一方、秋の山は木の葉を見るに付け、黄葉を手に取っては賞賛し、まだ青いまま落ちてしまった葉を手に取って、また地面に置いては歎いてしまいます。そんな一喜一憂する心ときめく秋山こそ私は好きです」。
文意解説  長歌(れんだいこ式9句)。
 発句「冬木成 春去来者」「冬ごもり 春さり来(く)れば」と訓む。「冬木成」は「冬こもり」と訓む。「冬」の字は、象形文字で糸を結び止めた形。末端を終結させる形から「終り」を意味し「四季の終り」の意となる。「木」はキであるがコとしても用いられる。ここではコ。「成」は同声の「盛」として使われたものでモリを表わす訓仮名として用いられている。「冬こもり」で「春」を導く枕詞とされるが、古今集以後に見える「冬籠(ごも)り」とは別語とみる説もある。「春去来者」は「春去り来れば」と訓む。「春」は「草木の初生」を表わす字として、四季の春を意味するようになったとされるが、よく分からない。「去」は「さる、すてる、はらう、のぞく」が原義。和語の「去(さ)る」は、移動する意で、古くは近づく場合にも遠ざかる場合にも使われた。「来」は「むぎ。もたらす。くる」の意。「者」はバ。

 2句「不喧有之 鳥毛来鳴奴」「鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ」と訓む。 「不喧有之」は「喧(な)かず有(あ)りし」と訓む。「なかざりし」と5音で訓む注釈書もあるが、「なかずありし」と6音の字余りで訓む。「不喧」は「なかず」と訓む。「喧」は、字訓は「やかまし」「かまびすし」。鳥に用いられる場合には「さへづる」「なく」とも訓まれた。「之」はシ。「鳥毛来鳴奴」は「鳥も来(き)鳴きぬ」と訓む。「鳥」は象形文字、鳥の全形を象る。「毛」はモ、「来」については既述。「鳴」は「なく、とりがなく、とりのこえ。なる、ならす」などの意。「奴」はヌ。

 3句「不開有之 花毛佐家礼杼」「咲(さ)かざりし 花も咲けれど」と訓む。 「不開有之」は「開(さ)かず有(あ)りし」と訓む。前句と対になっており、「不開」は「不喧」と同じ用法。「開」は、門の両扉を披(ひら)く形を表わし、「ひらく、ときはなす、とおす、あける」の意。ここでは「花がひらく」ことを意味する「さく」と訓み、「不開」で「さかず」と訓む。「之」はシ。「花毛佐家礼抒」は「花もさけれど」と訓む。。「花」は、正字は「華」(草花を象る象形文字)。「毛」はモ。「佐家」はサケ。「礼」はレ、「杼」はド。

 4句「山乎茂 入而毛不取」「山を茂(も)み 入りても取らず(聴かず)」と訓む。「山乎茂」は「山を茂(も)み」と訓む。「乎」はヲ。旧訓は「茂(しげ)み」と訓む。賀茂真淵が万葉考で「茂(し)み」として以来、それがほぼ定訓となっている。旧訓の難点は6音の字余りになることで万葉考に従うものが多くなった。しかし、「茂(も)し」と訓む例もある。この場合には5音で訓めるので「茂(も)み」とする。これに随う。「入而毛不取」は「入りても取らず」と訓む。「而」はテ。「毛」はモ。

 5句「草深 執手母不見」「草深み 取りても見ず」と訓む。「草深」は「草深み」と訓む。ミを添えて訓む。「草が深いので」の意となる。「執手母不見」は「執(と)りても見ず」と訓む。「不見」は「見ず」と訓む。「手」はテ。「母」はモ。「草深」は「草深み」と訓む。ミを添えて訓む。「草が深いので」の意となる。

 6句「秋山乃 木葉乎見而者」「秋山の 木(こ)の葉を見ては」と訓む。「秋山乃」は「秋山の」と訓む。「秋」は「あき。みのり。とき、と」などの意。「乃」はノ。「木葉乎見而者」は「木(こ)の葉を見ては」と訓む。「木」は「枝のある木の形」。「葉」は、新しい枝の出た形、その枝上のものを葉という。「木(こ)の葉(は)」は樹木の葉、特に紅葉した葉や落葉をいう。「乎」はヲ。「而」はテ。「者」はハ。

 7句「黄葉乎婆 取而曽思努布」「黄葉(もみじ)をば 取りてそ偲(しの)ふ」と訓む。「黄葉乎婆」は「黄葉(もみち)をば」と訓む。「黄葉」を「もみち」と訓じるのは、木の葉の色づくのを「もみつ」と言い、色づいた葉を「もみちば」または「もみち」と言うことによる。後世は「もみち」に「紅葉」の字を充てるが、万葉集ではほとんど「黄葉」の字が用いられている。「乎婆」はヲバ。「取而曽思努布」は「取りてそしのふ」と訓む。「而」はテ。「曽思努布」はソシノフ。「しのふ」は、ある物を媒介として思い慕うことを意味し、堪え忍ぶ意の「しのぶ」とは違う。

 8句「青乎者 置而曽歎久」「青きをば 置きてそ歎(なげ)く」と訓む。「青乎者」は「青(あを)きをば」と訓む。「乎」はヲ。「者」はハだが、ここでは濁音のバを表わす。色づいた「黄葉(もみち)」に対してまだ色づかない葉を「青(あを)き」と詠んだもの。「置而曽歎久」は「置きてそ歎(なげ)く」と訓む。「而」はテ。「曽」はソ。ここではゾ。「久」はク。

 結句「曽許之恨之 秋山吾者」「そこし恨(うら)めし 秋山(あれ)は」と訓む。「曽許之恨之」は「そこし恨(うら)めし」と訓む。「曽許之」はソコシ。「そこ」は「今その所」の意に用いるが、「それ、その事、その点」などの意にも用いられる。ここでは、前の「置きてそ歎(なげ)く」というその事を指したもの。「恨之」は「恨(うら)めし」。「恨」は、「欲する所をえないで不本意とすること」をいう。「秋山吾者」は「秋山吾(われ)は」と訓む。「者」はハ。ここの表現は、自分は秋山に心惹かれという意を、述語を略して「秋山(あきやま) 吾(われ)は」と語を倒置して簡潔に力強く結んだもの。

 春の山と秋の山を詠い、そして自分は秋の山が好きだと読んでいる。春山は鳥が来て鳴き、花は咲くが、草が茂って中に入れないと言っている。一方、秋山は紅葉を手に取って偲ぶことができ、紅葉していない葉は置いて置くことができる。だから秋の山が好きだと詠っている。

巻1(17)。 額田王】
 
題詞
歴史解説
 額田王の作歌。「額田王下近江國時作歌井戸王即和歌」(「額田王の近江國に下りたまへる時よみたまへる歌、井戸王(ゐのへのわふきみ)のすなはち和(こた)へたる歌」)。この歌は天智天皇が都を近江に移すときに、住み慣れた大和の都を離れ、いままで自分たちを護ってくれていた三輪山のご加護からも離れていく寂しさと不安を、額田王(ぬかたのおほきみ)が詠ったものと言われている。大和盆地の東に鎮座する三輪山は神秘的な霊山で、大名主(おほなのぬし)と呼ばれる白蛇が住む山として古事記にも登場している。三輪(大神)神社では山全体を御神体としている。

 本歌では、額田王が、三輪山に対して、土地を離れてもどうかこれからも見護っていてほしいとの祈りの言葉を捧げていることになる。この歌には深い歴史的背景があり、これを踏まえて詠われていることを窺うべきである。大和盆地の東にひっそりと鎮座する三輪山。その神秘的な風貌の三輪山は、大名主(おほなのぬし)と呼ばれる白蛇が住む山として古事記にも有名で、山全体がご神体として崇められている。大神神社の北、狭井神社の脇を抜けて山辺の道が通っている。狭井神社から少し北の山辺の道沿いにこの歌の歌碑がある。
原文  味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數〃毛 見放武八萬雄 情無 雲乃隠障倍之也
和訳  味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山 青丹(あをに)よし 奈良の山の 山の際(ま)ゆ い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも(かに) 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の隠さふべしや
現代文  「味酒の三輪の山を、青土の美しい奈良の山々の間に隠れてしまうまで何度でも、道の曲がり角ごとにしみじみと、振り返って見てゆこうと思っているこの山を、心なくも雲よ、どうか隠さないでいてね」。
文意解説  長歌(れんだいこ式7句)。
 発句「味酒 三輪乃山」「味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山」と訓む。「味酒」は「味酒(うまさけ)」と訓む。「味酒」は文字通り、味の良い酒のこと。それを神に供えることから、神に供える酒の「神酒(みわ)」(現在では「みき」と言う)に通じ、同音の地名「三輪」や、三輪山と同義の「三諸(みもろ)」「三室(みむろ)」「神名火(かむなび)」などにかかる枕詞として用いられるようになった。上代では四音のまま使われたが、後には「うまさけを。うまさけの」と5音で使われるようになる。「三輪乃山」は「三輪(みわ)の山」と訓む。「三輪」は地名。現在の奈良県桜井市三輪で、「三輪山」は同市の北部に位置する。山全体が、ふもとにある大神(おおみわ)神社の神体とされている。標高は467メートル。「乃」はノ。

 2句「青丹吉 奈良能山乃」
青丹(あをに)よし 奈良の山の」と訓む。 「青丹吉」は「青丹(あをに)よし」と訓む。「青丹」は、青黒色の土のこと。常陸風土記の久慈の郡に「有らゆる土は、色、青き紺(はなだ)の如く、画に用ゐて麗し。俗(くにひと)、阿乎爾(あをに)といひ、或(また)、加支川爾(かきつに)といふ」の記述がある。「吉」は「よい、めでたい、しあわせ、さち」などの意。ここではヨシ。間投助詞ヨ、シの重なってできたもので、文節末に添えて詠嘆を表わす。「青丹(あをに)よし」は、地名「奈良」にかかる枕詞。奈良坂のあたりから、顔料や塗料として用いる青丹(あをに)を産出したからという。「奈良能山乃」は「奈良の山の」と訓む。「奈良」はナラで、ここは「奈良」の二文字で地名を表わす。平(なら)の地の意で、奈良県最北部の地名。古く大和国添上・添下(現、生駒郡東部)二郡にわたり、条坊を区画し、和銅3年(七一〇)以後74年間、政治の中心となった。「能」と「乃」は共にノ。

 3句「山際 伊隠萬代」「山の際(ま)ゆ い隠(かく)るまで」と訓む。「山際」は「山の際(ま)に」と訓む。山の際、山の傍、あるいは山の間のこと。「際」はマユ。「伊隠萬代」は「い隠(かく)るまで」と訓む。「伊」はイ。接頭語で強調又は調子を整えるために用いられるもので、「い縁(よ)り立たしし」のイと同じ。「隠る」は、「物の陰にはいったり、おおわれたりして、しぜんに見えなくなる」ことを云う。「萬代」はマデ。事態の至り及ぶ時間的・空間的・数量的限界を示す副助詞。

 4句「道隈 伊積流萬代尓」「道の隈(くま) い積(つ)もるまでに」と訓む。「道隈」は「道の隈(くま)」と訓む。「道」は祓除を終えたところを道という。「隈」は「畏(い)」の意。「畏」には畏懼して回避する意がある。深奥、恐懼すべきところを云う。そこから「隈(くま)」は「他と境界を接する地点、奥まった場所」の意となった。「伊積流萬代尓」は「い積(つも)るまでに」と訓む。「積」は「つむ、つもる、かさねる、あつめる」などの意。「流萬代尓」はルマデニ 。 

 5句「委曲毛 見管行武雄」「つばらにも(かに) 見つつ行かむを」と訓む。「委曲毛」は「委曲(つばら)にも」と訓む。「委曲(ゐきょく)」は「こまごましい」の意。ここでは、「くわしいさま」を意味する和語の「つばら」に宛てている。「毛」はモ。「見管行武雄」は「見つつ行(ゆ)かむを」と訓む。「管」はツツ。「武」はム。「雄」はヲ。

 6句「數〃毛 見放武八萬雄」「しばしばも 見放(さ)けむ山を」と訓む。「數々毛」は「數々(しばしば)も」と訓む。「數々」は「しばしば」。数を重ねて「たびたび。しきりに。幾度も」の意である。「毛」はモ。「見放武八萬雄」は「見放(みさ)けむやまを」と訓む。「見放」の二字で「見放(みさ)く」と訓み、「遠くを見る。遙か遠くをながめる。見はるかす」の意。「武」はム。「八萬」はヤマ。「三輪山」のことを指す。「雄」はヲ。

 結句「情無 雲乃隠障倍之也」「情(こころ)なく 雲の隠さふべしや」と訓む。「情無」は「情(こころ)無(な)く」と訓む。「情」には「こころ。なさけ。まこと」の訓みがある。ここでは「こころ」で下の「無」の「なし」とで「こころなし」。「情(こころ)無(な)く」は「無情(むじょう)にも」の意。「雲乃」は「雲の」と訓む。「乃」はノ。「隠障倍之也」は「隠(かく)さふべしや」と訓む。「隠」は「障」を伴って、「隠(かく)さふ」という連語を形成している。これは、「かくす(隠)」の未然形にフの付いたもので、「隠し続ける。繰り返し隠す」の意となる。「障」は「さはり」で「妨げ」の意を文字として表わしつつ、「さふ」をあらわす訓仮名として用いられている。「倍之」はベシ。当然の意を表わす助動詞だが、ここでは「そうであるはずなのにそうでない」という詰問の気持ちを表している。「也」は反語のヤ。

巻1(18)。額田王(ぬかだのおおきみ)】
題詞
歴史解説
 額田王の作歌。先の額田王の長歌に付けられた反歌である。左注「右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰 遷都近江國時 御覧三輪山御歌焉 日本書紀曰 六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江」(「右ノ二首ノ歌、山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ曰ク、近江国ニ都ヲ遷ス時、三輪山ヲ御覧シテ御歌ヨミマセリ。日本書紀ニ曰ク、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、近江ニ都ヲ遷ス)とある。

 三輪山は大和の神聖な山。この場合は「愛しい愛しいあなた」の意。三輪山に雲がかかってなかなか思う人の麗姿が拝めないもどかしさを歌っている。 奈良県桜井市にある大神神社の大鳥居の道を挟んで西に芝運動公園があり、その駐車場脇にこの歌の歌碑がある。
原文  三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
和訳  三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さふべしや
現代文  「三輪山をどうしてこのように隠すのですか。せめて雲だけでも心あってほしいものです。隠さないでいてくださいね」。
文意解説  発句「三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳」「三輪山を しかも隠すか 雲だにも」と訓む。「三輪山乎」は「三輪山(みわやま)を」と訓む。現在の奈良県桜井市の北部に位置する山で、山全体が、ふもとにある大神(おおみわ)神社の神体とされている。「乎」はヲ。「然毛隠賀」は「しかも隠(かく)すか」と訓む。「隠す」は、「物を人目につかないところに置いたり、覆ったりして、見えないようにする」こと。「然」は、「然(しか)れども。然(しか)るに」などと用いられるが、ここではシカ。指示語シに接尾語カの付いたもので、物をさし示し、感動的意味が伴う。「そのように。そのごとく。さように。かように」の意で、第13番歌のシカ二と同じ。「毛」はモ。「賀」はガ。カにも流用された。ここではカ。「も~か」は、疑問的詠嘆を示す語法で上代の歌に多く見られる一つの型。「雲谷裳」は「雲(くも)だにも」と訓む。「谷」はダ二。ダ二は万葉集では多く体言を直接承け、「…だけでも、せめて…だけでも」の意を表わし、常にその下には、否定・反語・仮定・推量・願望・意志・命令が来て、普通の肯定判断の終止形は来ない。この様に上代においての「だに」は係助詞としての働きを持っていたが、平安時代に入ると、必ずしも否定・反語などとは呼応しなくなり、副助詞の「さへ」に接近し、「…までも、…でも、でさえも」の訳が適切になる例が増加し、副助詞に分類される事となる。「裳」はモ。

 結句「情有南畝 可苦佐布倍思哉」「心あらなむ 隠さふべしや」と訓む。
「情有南畝」は「情(こころ)有(あ)らなも」と訓む。「情(こころ)無(な)く」を承けて「情(こころ)有(あ)ら」と詠んだもの。「南」は字音ナンでナ。「畝」は「母」と同音でモ。万葉集においても、既にナムの方がナモよりは多い。類聚古集が「畝」を「武」としたのは、ここを「なむ」と当時の言い方に改めたためだと思われる。「可苦佐布倍思哉」は「かくさふべしや」と訓む。「哉」はヤ。「べしや」は、当然の意を表す助動詞べシ+反語の意を表すヤで、「~してよいものか」の意の反語だが、婉曲な禁止を示す。

巻1(19)。井戸王
 
題詞
歴史解説
 井戸王(ゐとのおほきみ)の作歌。「天皇の蒲生野(かまふぬ)に遊猟(みかり)したまへる時の額田王のよみたまへる歌に井戸王の即ち和(こた)へたまへる歌」。

 
第19番歌を理解するために必須となる「三輪山伝説」について述べておく。古事記中巻の崇神天皇の所に次のように記されている。原文と訓読を併記する。原文は一見、漢文のようであるが、正格な漢文とは言えず、古事記独特の表記となっており、和語を書き表すのに漢字を用いる実験的な試みがなされていることが分かる。
  「此謂意富多多泥古人、所以知神子者、上所云活玉依毘売、其容姿端正。於  是有壮夫。其形姿威儀、於時無比。夜半之時、〓忽到来。故、相感共婚、供住之間、未経幾時、其美人妊身。爾父母恠其妊身之事、問其女曰、汝者自妊。无夫何由妊身乎。答曰、有麗美壮夫。不知其姓名。毎夕到来、供住之間、自然懐妊。是以其父母、欲知其人、誨其女曰、以赤土散床前、以閉蘇此二字以音。紡麻貫針、刺其衣襴。故、如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾即、知自鉤穴出之状而、従糸尋行者、至美和山而留神社。故、知其神子。故、因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也」。 
 「この意富多多泥古(おほたたねこ)といふ人(三輪山を祭る神主として、崇神天皇が大物主大神のお告げによって探し出した人)を、神の子と知る故は、上に云える活玉依毘売(いくたまよりびめ)、其の容姿端正(かたちうるは)しくありき。ここに壮夫(をとこ)有り。其の形姿威儀(かたちすがた)、時に比(たぐ)ひ無し。夜半(よなか)の時に、たちまちに到来(きた)る。かれ、相感(あひめ)でて共婚(まぐはひ)して、供住(す)める間、未だ幾時(いくだ)もあらねば、其の美人(をとめ)妊身(はら)みぬ。しかして、父母(ちちはは)其の妊身(はら)める事を恠(あや)しびて、其の女(むすめ)に問ひて曰(い)ひしく、「汝(いまし)はおのづからに妊(はら)めり。夫(を)なきに何の由(ゆゑ)にか妊身める」。答へ曰ひしく、「麗美(うるは)しき壮夫(をとこ)有り。其の姓名(かばね)も知らず。夕(よ)ごとに到来(きた)りて、供住(す)める間に、おのづからに懐妊みぬ」。ここをもちて、其の父母、其の人を知らむと欲(おも)ひて、其の女に誨(をし)へて曰ひしく、「赤土(はに)もちて床の前に散らし、閉蘇(へそ)の紡麻(うみを)もちて針に貫き、其の衣(きぬ)の襴(すそ)に刺せ」。かれ、教へのごとくして、旦時(あした)に見れば、針著ける麻(を)は、戸の鉤穴(かぎあな)より控(ひ)き通りて出でて、ただ遺(のこ)る麻(を)は三勾(みわ)(三巻)のみなりき。しかして即ち、鉤穴(かぎあな)より出でし状(さま)を知りて、糸のまにまに尋ね行けば、美和山(みわやま)に至りて神の社(やしろ)に留(とどま)りき。かれ、其れ神の子とは知りぬ。かれ、其の麻の三勾(みわ)遺りしによりて、其の地(ところ)を名づけて美和といふ」。

 ここで、「かれ(故)」について説明しておく。「かれ」は、「か(彼)」と「有り」の已然形「あれ」との複合した「かあれ」が約まったもの。奈良時代以前には、已然形だけで既定の条件を示す語法があったので「かあれ」だけで「かあれば」の意を表わした。「かれ」は「かあれば」で、前文を承けて「だから。それゆえ」の意となる。
原文  綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢
和訳  綜麻形(へそがた)の 林の岬(さき)の さ野榛(ぬはり)の 衣に付くなす 目につく我が夫(せ)
現代文  「三輪山の林の岬(さき)の野に生える真っ赤な木の葉が衣に落ちて付いております。その色がとても鮮やかであなたにお似合いですよ」。
文意解説
 発句「綜麻形乃 林始乃 狭野榛能」綜麻形(へそがた)の 林の岬(さき)の さ野榛(ぬはり)と訓む。「綜麻形乃」は「綜麻形(へそがた)の」と訓む。

 結句「衣尓著成 目尓都久和我勢」
「衣に付くなす 目につく我が夫(せ)と訓む。「衣尓著成」は「衣(きぬ)に著(つ)くなす」と訓む。「衣」は衣服の襟元を合わせた形を象る象形文字。ここでは衣服の意味で「きぬ」と訓む。「著」は形声文字で、声符は者(しゃ)。字通には次のように書かれている。
 者は堵(と)・書の字の従うところで、堵は呪符としての書を埋めて、邪霊の侵入を防ぐ堵垣、その呪符の文を書という。その書によって、呪的な力をそこに附著させるので、「著(つ)く」の意となる。その呪力が著明であることから顕著の意となり、著作の意となる。着と同字であるが、その慣用を異にするので、いま着(ちゃく)と項目を別にして扱う。

 「尓」はニ名。「成」はナス。接尾語ナスは「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意。「目尓都久和我勢」は「目につくわがせ」と訓む。「目」はメ。「目につく」は、他に用例がないが、「目に染み付く」ほどの意であろうと思われる。「わがせ」は「我が背」だが、いったい誰のことを指しているのであろうか。


 綜麻形(へそがた)の三輪山の林のふちっこに立つ狭野榛(さのはり)の木の葉が夫の衣に付いていることを誇りに歌う恋心の歌である。この歌は、三輪地方の古謡にもとづいて三輪山惜別の心情を詠ったものと考えられる。その理由は、1.「綜麻形」が三輪山伝説に基づく古くからのその土地の異名であること。2.「衣に(景物)つくなす(繰返し)ー 目につく(繰返し)わがせ(心)」という形式は謡もののおもかげを留めること。3.「榛」に三輪伝説ゆかりの「針」を懸け、「衣」と縁をもたせているなどの技法は東歌などにも良く見られる古謡の特色であること。以上などから、いとしい人と別れる矢先、その人がやたらに目について別れがたいという内容の古謡を、三輪山惜別の心情を表わす歌として利用し、第17番歌・第18番歌の三輪山愛惜の情に和したのが、第19番歌であったと言えるだろう。左注に「和した歌とは思えない」とあるのは、三輪山伝説や古謡を知らなかった人が書いたものと思われる。
訓読した文を読むと、「閉蘇」(綜麻)の「糸筋」(形)を辿ることによって「美和山」(三輪山)に至り着いたというこの伝説から、「三輪山」を別に「綜麻形」と称するようになったことが理解できる。

巻1(20)。額田王】

題詞
歴史解説
 額田王(ぬかたのおほきみ)の作歌。「天皇の、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし時に、額田王のよみたまへる歌」。全万葉歌中、最も有名な歌の一つである。奈良県香芝市役所のすぐ南の香芝市総合体育館駐車場前にこの歌の歌碑がある。
原文  茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
和訳  あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
現代文  「茜色を帯びる、あの紫草の野を行き 御料地の野を歩いておりましたところ、あなたは袖をお振りになられておりますが、野の番人が見ていないとでも思っておられるのでせうか。(あなたの天真爛漫さは分かりますが、もう少しご配慮していただけないかしら)」。
文意解説
 発句「茜草指 武良前野逝 標野行」「あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き」と訓む。「あかねさす紫野」は、あかね色の日が射し込んで紫色に染まった野(狩り場)の意。次歌(21番歌)の発句に「紫草能」(原文)とあるので本歌の「紫野」も「紫草」を指していると知られる。「あかねさす」は「日」にかかる枕詞とされている。「あかねさす」で始まる歌は本歌以外に5歌あるが例外なく日または昼にかかっている。本歌のように「紫野」にかかる例がある。「あかね色に輝く太陽の」という形容詞と解してに差し支えないと思う。「標野」は標縄(しめなわ)等で囲われた狩場。

 結句「野守者不見哉 君之袖布流」「野守(のもり)は見ずや 君が袖振る」と訓む。結句の「君が袖振る」が秀逸。「袖振るや君」などと言いたい所を「袖振る」と現在形でとめているため、げんに目の前で袖を振っている姿が浮かんできて迫力があり、且つ非常に印象的である。

 額田王が
多くの廷臣や 女官達と一緒に蒲生野に薬猟をしたいた時の歌と解される。袖を振っているのは大海人皇子(おおあまのおうじ、天武天皇)で前の夫。現在は大海人皇子の兄、中大兄皇子(天智天皇)の后とされる。ために、この関係がクローズアップされて評判になっている感がある。歌自体が非凡で秀逸。天武や天智を離れて二人の男性との恋情歌としてみても強い普遍性を獲得している。

巻1(21)。皇太子の作)】
 
題詞
歴史解説
 皇太子(ひつぎのみこ、後の大海人皇子にして天武天皇)の作歌。「皇太子答御歌 [明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇]」。「(額田王の「あかねさす…」の歌に答えて)皇太子の答へたまへる御歌」(皇太子の答へませる御歌〔明日香宮に天の下知らしめしし天皇、謚(おくりな)して天武天皇にといふ〕 )。左注には、「紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野 于時大皇弟諸王内臣及群臣 皆悉従焉」とある。これを現代語訳すると、日本書紀(天智紀)に言う、「天智天皇の7年(668)5月5日に、天皇が蒲生野に縦猟(かり)をなさった。その時、大皇弟(大海人皇子)・諸王・内臣(中臣鎌足)及び群臣がことごとく随従した」となる。この左注と第20番歌の題詞「天皇遊猟蒲生野時額田王作歌」から、第20番歌・第21番歌は668年の5月5日に詠まれた歌であることが分かる。前年の667年3月に近江に遷都をし、この668年正月に天智天皇は正式に天皇に即位している。いわゆる「大化の改新」以来やっと安定を迎えることが出来たとの思いがあったと思われる。それが「天皇遊猟蒲生野時」となったもので盛大な行事として執り行われたと考えられる。この時、天智天皇は数えて43歳、大海人皇子は生年が確定していないが、おそらく38歳ぐらい。そして、額田王は、ほぼ大海人皇子と同年齢と推定されているので30歳代後半であったとしてほぼ間違いない。当時にあっては熟年と言える年齢に皆が達していた。こうして見てくると、第20番歌・第21番歌が、巻二の相聞歌とされずに、巻一の雑歌として載せられている意味がわかってくる。つまりこの二首は「相聞歌」ではなく、天智天皇以下宮廷男女の集う宴席で、本日の狩りを祝福し人々の興を満たすために詠った、雅の「恋歌」であったと考えられる。芝市総合体育館駐車場前にこの歌の歌碑がある。額田王の巻一(二十)の歌碑の側に立っている。
原文  紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
和訳  紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば 人妻ゆゑに 吾(あれ)恋ひめやも
現代文  「紫草のように香れる君ではありますが、私が恋しく思い続けている訳ではありません。今は人妻の君を、私がどうして恋い慕うことがありませう。(野の番人の目なぞ気になされますな)」。
文意解説
 発句「紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者」「紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば」と訓む。「紫草能」は「紫草(むらさき)の」と訓む。「紫」一字でも「むらさき」と訓むが、ここでは「草」を添えて「紫草」で「むらさき」と訓み、ムラサキ科の多年草のこと。昔からその根は紫色の重要な染料であった。「能」はノ。「紫草の」は、紫草の根で染めた色の美しいところから、「にほふ」にかかる枕詞となる。「尓保敝類妹乎」は「にほへる妹を」と訓む。「尓保」はニホ。「敝類」はヘル。「にほふ」は、「色がきわだつ、または美しく映える。また、生き生きとした美しさや魅力が、内部からあふれ出るように、その人のまわりにただよって感じられる」の意を表わす。「にほへる」で次の「妹」を修飾している。「妹」は男性から結婚の対象となる女性、または、結婚をした相手の女性をさす称で「恋人、または妻」の意。「乎」はヲ。「尓苦久有者」は「にくく有(あ)らば」と訓む。「尓苦久」はニクク。「にくし」は、心にかなわないさま、気に入らないさまをいい、「きらいだ。憎らしい」の意だが、強い憎悪の意味はない。「者」はバ。「有らば」で仮定条件を表わす。

 結句「人嬬故尓 吾戀目八方」
「人妻ゆゑに 吾(あれ)恋ひめやも」と訓む。「人嬬故尓」は「人嬬(ひとつま)故に」と訓む。「嬬」は「儒」に対して女巫をいう語であり、万葉集では妻の意で多く用いられている。「人嬬」は「人妻」で恋うてはならぬ相手である。「故」は故意・事故が原義。そのことが原因をなすので事由の意となった。「尓」は二。文脈の上では「故に」は、逆説的に、「~であるのに」の意を示すことが多い。「吾戀目八方」は「吾(われ)戀(こ)ひめやも」と訓む。「吾」は「あれ」と訓じるものもあるが、「われ」と訓むことで統一する。「戀(こ)ふ」は「異性(時には同性)に特別の愛情を感じて思い慕う」。「目八」はメヤ。「方」はモ。「顔」の意の「面」に由来し、「面」が「(顔の向く)方向」をも意味した。「おも」のオを無視してモと訓む。「戀ひめやも」は、「戀ひ」+ムの已然形のメ+ヤ+モからなる。「にほへる妹(いも)」は、「紫のように目に映える(美しい)あなた」を意味し、その美しさは「目」で見る美しさであることを明らかにするために「目」が使われている。また「八方」はどこから見ても美しいことを表わしたものと考えることができる。

 明日香の清御原の宮に天の下しろしめしし天皇の代

巻1(22)。吹黄刀自
 
題詞
歴史解説
 吹黄刀自(ふきのとじ)の作歌。「十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌」(「十市皇女(とほちのひめみこ、天武天皇の第一皇女、額田王の子)の伊勢の神宮(おほみがみのみや)参赴(まゐで)たまへる時、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹黄刀自(ふきのとじ)がよめる歌」。刀自(とじ)は神宮の巫女と思われる。
原文  河上乃 湯津盤村二  草武左受  常丹毛冀名 常處女煮手
和訳  河の上(へ)の ゆつ磐群に 草むさず 常にもがもな 常處女(とこをとめ)にて 
現代文  「五十鈴川の清冽な岩群れに雑草が繁茂することがないように、十市皇女様もずっと處女のように美しく清らかであらせられるように」。
文意解説
 『万葉集』を訓(よ)む(その43)」その他を参照する。
 発句「河上乃 湯津盤村二  草武左受」
「河の上(へ) ゆつ磐群に 草むさず」と訓む。「河上のゆつ岩群」は五十鈴川の清冽な岩々を指すと思われる。「河上乃」は「河上(かわのへ)の」と訓む。「河上」は、川の上流を意味する場合には「かはかみ」と訓ずるが、川のほとりを意味する場合には「かはのへ」と訓む。ここは後者。「乃」はノ。「湯津盤村二」は「ゆつ盤(いは)むらに」と訓む。「湯津」はユツ。ユは「斎」の字が宛てられる名詞で「神聖であること。清浄であること」の意。これに上代の格助詞ツが付いてユツという連語となり、「神聖な、清浄な」の意を表わす。「盤」は「岩盤」の意で使われている。「盤」一字には「いは」という訓は古辞書に見当たらないが、多くの注釈書に従い「いは」と訓む。「村」は「むら(群)」を表わす。「二」は数字二。万葉集では数字を訓仮名として用いる例が数多くある。「草武左受」は「草むさず」と訓む。「武左受」はムサズ。「むす」は生す・産すで「草や苔などがはえてふえる」の意を表わす動詞。「むさず」で、激しく流れる水中に岩があるので、草が生え広がらないことをいう。

 結句「常丹毛冀名 常處女煮手」
「常にもがもな 常處女(とこをとめ)にてと訓む。「常丹毛冀名」は「常にも冀(がも)な」と訓む。「常」は、ここではツネと訓み「いつも変わらないでいるさま」を意味する。「丹」に二。「毛」はモ。「冀」はガモと訓む。「冀」は、本義は「 神像の坐する形、大きい」の意だが、 覬・希・幾などと通じ、「ねがう、こいねがう」の意も表わす。ここではその意でガモ。「もがも」は、願望を表わす終助詞で、上代語特有の語。「名」はナ。「常處女煮手」は「常(とこ)處女(をとめ)にて」と訓む。「常」はトコと訓む。「常である、永久不変の」などの意味を表わし、その永遠性をほめたたえる気持をこめる。「處女」は「をとめ」と訓み、「をとこ」に対し少女の意。「煮手」は二テを表わす。

巻1(23)。麻續王
 
題詞
歴史解説
 麻續王(をみのおほきみ)の作歌。「麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌」(「麻續王の伊勢國伊良虞(いらご)の島にへたまひし時、時(よ)の人の哀傷(かなしみ)よめる歌」)。麻続王(をみのおほきみ)は天武朝の皇族とされるが伝承不詳の人物で、罪があって稲葉の国に配流になったと云われている。その麻続王の流離譚をモチーフに詠われたもののひとつと思われる。この歌では伊勢の国の伊良虞に流されたとなっていますが、麻続王の流離譚は各地にあり、このような伝説として人々によって詠われた。
原文  打麻乎麻續王 白水郎有哉 射等篭荷四間乃 珠藻苅麻須
和訳  打つ麻(そ)を麻続の王(をみのおほきみ) 海人(あま)なれや 伊良虞(いらご)の島の 玉藻刈(たまもか)ります
現代文  「打った麻を績(う)む麻海人(をみのおほきみ)は海人なのかな。いやいやそんなはずはないのに伊良碁(いらご)の島の玉藻をわびしく刈ってらっしゃるよ。配流された王がまるで海人(漁業で生計を立てている島人)のように自ら藻を刈り取っていらっしゃる。おいたわしい」。
文意解説  発句「打麻乎麻續 王白水郎有哉」「打つ麻(そ)を麻続の 王海人(をみのおほきみあま)なれや」と訓む。「打麻乎」は「打(う)ち麻(そ)を」と訓む。「麻」は、クワ科の一年草で、中央アジアの原産と考えられる。日本への渡来もきわめて古く、古代より、重要な繊維原植物として栽培されている。「打麻」は「うちそ」と訓む。「麻を打つ」、すなわち麻を織る意。「乎」はヲ。「うちそを」は、繊維をとって糸を作るために打った麻から、麻(を=麻糸)を績(う)む意。「麻」を引き出す枕詞。「麻續」は「」と訓む。同じく麻を織る意。「海人なれや」(島人でいらっしゃるのだろうか)は反語表現。「麻續王」は、「續王(をみのおほきみ)」と訓む。「白水郎有哉」は「白水郎(あま)有(な)れや」と訓む。「白水郎」を「あま」と訓むことについては古くから書物に表わされているが、何故「白水郎」が「あま」の意となるかについては色々な説がある。小島憲之の説が有力で、その説によれば、「白水郎」は、中国の揚子江河口付近に住み、漁労を生業としていた住民の称であり、それを「あま」の表記に用いたとする。[小島憲之『上代文学と中国文学』]。「有哉」は「有(あれ)や」と訓む。「哉」はヤ。

 結句「射等篭荷四間乃 珠藻苅麻須」「伊良虞(いらご)の島の 玉藻刈(たまもか)ります」と訓む。
「射等籠荷四間乃」は「いらごのしまの」と訓む。「射」はイ。「等」は「ともがら」からラを表わす。「籠」はコ。ここではゴ。「荷」は字訓の「になう」から二を表わすが、ここではノ。これについて大野透『續萬葉假名の研究』は、「籠・四に照応する用字であり、又乃に対する用字である。荷(の)なる語は単独では用いられず、造語形として用いられている語であるから、假名の荷(の)は四間なる表記と緊密に結合しているものと認められる」と述べている。「間」は字訓の「すきま」からマ。「珠藻苅麻須」は「珠藻(たまも)苅(か)ります」と訓む。「珠藻」は「美しい藻」の意。「たま」は美称。「苅る」は「むらがって生えているものを短く切り払う」こと。「麻須」はマス。伊良虞(いらご、伊良湖岬)は愛知県渥美半島にあって島ではない。が、当時は岬部分が島であったのだろうか。それとも神島と共に一帯を伊勢の国の伊良虞と呼んでいたのだろうか。

巻1(24)。麻續王
 
題詞
歴史解説
 麻續王(をみのおほきみの作歌。「麻續王聞之感傷和歌(麻続王これを聞きて感傷して和(こた)へたる歌)」。 第23番歌と第24番歌は、「伊良虞」に結びつけて作り出された物語歌であって、実際に唱和しあったものではないとする説がある。たとえそのように仮託の歌であったとしても、思いを麻續王に入れこんで訓み、歌を味わうことが肝要である。この歌の左注には前回述べた日本書紀の記事を引用して、「伊良虞の島に流されたとするのは後の人が誤って記したものか」と記している。
原文  空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕  伊良虞能嶋之 玉藻苅食
和訳  うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良虞(いらご)の島の 玉藻(たまも)刈り食(を)(む)
現代文  「儚いこの命を惜しみつつ、(私は)浪にぬれ、伊良虞(いらご)の島のこの玉藻を刈り、食べて暮らしております」
 「私はこの世で生きていかねばならない。なので藻を刈り取って食べているのです」と歌っている。 
文意解説  発句「空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕」「うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ」と訓む。「空蝉之」は「空蝉(うつせみ)の」と訓む。「むなしい」という意から、「命、身、人、むなし」などにかかる枕詞として用いられている。「うつせみ」は「現にこの世に生きて在るこの世の人、現人」」または「この世」を表わす純粋の大和言葉。「空蝉」は「虚蝉」と同じく語義と関係のない借字であったが、その字から「蝉の抜け殻」のことも言うようになり、はかなさをもってとらえられるようにもなった。「之」はノ。「命乎惜美」は「命を惜しみ」と訓む。「命」は「おおせ、いいつけ、神のお告げ、おしえ、あたえる」、「いのち、うまれつき、さが、神よりうけたもの」などの意となる。「惜」は、いくたびも思い返すような情をいう。ここは「惜(を)し」で捨てがたく思う意。「乎」はヲ。「美」はミ。「浪尓所濕」は「浪(なみ)に濕(ぬ)れ」と訓む。「浪」は「風浪」の語があるように風によって起こる波をいう。「尓」はニ。「所濕」は「ぬれ」と訓む。「濕」は水が顕れる所、即ち湿った所が本義。「しめる。ぬれる。うるおう」などの意。ここでは「ぬる」に宛てられている。

 結句「伊良虞能嶋之 玉藻苅食」は「伊良虞(いらご)の島の 玉藻(たまも)刈り食(を)(む)」と訓む。「伊良虞能嶋之」は「伊良虞(いらご)の嶋の」と訓む。「伊良虞」は文字で地名の「いらご」を表わす。「能」はノ。「嶋」は「島」に同じ。山は海中の岩島のことをいい、海鳥の住む岩島を「島」という。「之」はノ。「玉藻苅食」は「玉藻(たまも)苅(か)り食(を)す」と訓む。「玉藻」は「美しい藻」の意。「たま」は美称。「苅り」は「苅る」の連用形。「食」は「たべもの」の意。ここでは「食べる」の意で用いられているが訓みは「食(を)す」、「食(は)む」の二説ある。「をす」は「はむ」の尊敬語であり意味としては変わらない。「はむ」説は自分が食べるのに尊敬語はおかしいというのが根拠。しかし上代にあっては、高貴な人が自らの行為に敬語を用いる例はあるので、ここも王と呼ばれる高貴な身分の麻續王が自らに敬語的表現を用いたものと考えてもおかしくない。「惜(を)しみ」を承けた表現であるから「をす」と訓むのが良いと考える。

巻1(25)。天武天皇(大海人皇子)
 
題詞
歴史解説
 天武天皇(かつての大海人皇子)の作歌。「天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)」。壬申(じんしん)の乱に関係する物語歌といわれている長歌である。壬申の乱とは、六七二年、皇位継承を巡って、大海人皇子が吉野に隠棲し、その後、兄の天智天皇の子である弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷を倒して、天武天皇となるまでの戦いである。天智天皇によって近江に遷された都が、この壬申の乱のあと再び奈良の大和に戻される。本歌は、天武天皇が自分がまだ大海人皇子(おほしあまのみこ)だったころ、皇位継承を巡る争いの中で近江を去り、奈良の吉野にこもる道中を回想して詠ったものといわれている。

 
「み吉野の」から始まるこれらの長歌は、天武天皇が、天智10年冬に(当時は大海人皇子)吉野入りをした時のことを、壬申の乱を経て即位をした後に回想して詠んだものと思われる。また、これらの長歌には、巻13に類歌が二首(第3260番歌・第3293番歌)有り、それらも句数は13で、型のみならず語彙も似ており、天武天皇御製歌の先行歌といえる。このことから御製歌は、古くからの格式高い社会的様式に拠って詠まれた歌であることが分かる。長歌を訓むにあたって、大海人皇子の吉野入りについて日本書紀の記事を確認しておこう。天智紀10年10月の条に、次のように記されている。
 十月庚辰《十七》。天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。踞坐胡床剃除鬢髮。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。十月壬午《十九》。東宮見天皇、請之吉野脩行佛道。天皇許焉。東宮即入於吉野。大臣等侍送。至菟道而還。(10月17日。天皇はご病気が重い。勅して東宮を呼んで寝室に召し入れ、詔して、「私は重病である。後事をお前に託したい」云々と仰せられた。すると東宮は再拜して病と称してこれを固辭してお受けせず、「どうか天下の大業を大后に付託なさり、大友王(おおとものおおきみ)に全ての政務を執り行って頂くようお願いします。私は天皇の爲に出家して修行したいと存じます」と申し上げられた。天皇はこれをお許しになった。東宮は立ち上がって再拜し、そのまま宮中の佛殿の南に行かれて、胡床に腰を掛け、鬢や髮を剃り落として、僧となられた。ここに天皇は次田生磐(すきたのおいわ)を遣して袈裟を送られた。10月19日。東宮は天皇にお目にかかり、吉野に行って佛道修行をしたいと願い出られた。天皇はこれをお許しになった。東宮はすぐさま吉野にお入りになった。大臣たちは菟道(うじ)までお見送りした後、引き返した。)
 
 同じ内容だが、天武側から見た記事として、天武即位前紀にも記載があるのでそちらも見ておこう。
 十月庚辰《十七》。天皇臥病以痛之甚矣。於是。遣蘇賀臣安麻侶。召東宮引入大殿。時安摩侶素東宮所好。密顧東宮曰。有意而言矣。東宮於茲疑有隱謀而愼之。天皇勅東宮授鴻業。乃辭讓之曰。臣之不幸。元有多病。何能保社稷。願陛下擧天下附皇后。仍立大友皇子。宜爲儲君。臣今日出家。爲陛下欲修功徳。天皇聽之。即日出家法服。因以收私兵器。悉納於司。十月壬午《十九》。入吉野宮。時左大臣蘇賀赤兄臣。右大臣中臣金連。及大納言蘇賀果安臣等送之。自菟道返焉。或曰。虎著翼放之。是夕。御嶋宮。(10月17日。天皇はご病気になられ、苦痛が甚だしかった。そこで蘇賀臣(そがのおみ)安麻侶(やすまろ)を遣わして、東宮を呼んで大殿に召し入れた。さて、安摩侶はもともと東宮の好誼を受けていたので、そっと東宮を顧みて、「用心してお話しなさいませ」と申し上げた。この時、東宮は隱謀があるのではないかと疑って用心なさった。天皇は東宮に勅して、皇位を授けようと仰せられた。東宮は辞退して、「不運にも私はもともと多くの病をかかえております。どうして国家を保つことができましょうか。どうか陛下よ、天下を皇后に付託なさって下さい。そうして大友皇子を立てて皇太子となさいませ。私は今日出家して陛下の爲に功徳を修めたいと存じます」と申し上げられた。天皇はこれをお許しになった。その日のうちに、東宮は出家をして法衣を着られた。そうして私有の兵器を残らず官司に納められた。 10月19日。吉野宮にお入りになった。この時、左大臣蘇賀(そがの)赤兄(あかえの)臣(おみ)。右大臣中臣(なかとみの)金連(かねのむらじ)。及大納言蘇賀(そがの)果安(はたやすの)臣(おみ)らは菟道(うじ)までお見送りして引き返した。ある人が、「虎に翼をつけて放した」と言った。この夕べに、東宮は嶋宮(しまのみや)にお泊りになった。)
原文  三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎
和訳  み吉野の 耳我(みみが)の峰に 時なくそ 雪は降りける 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を
現代文  「神聖な吉野の耳我の山には時知れず雪が降るという、絶え間なく雨が降るという。その雪や雨の絶え間ないように、道を曲がるたびに、物思いを重ねながら、その山道を辿ってきたことだよ」。
文意解説   万葉集を訓(よ)む(その46)」その他を参照する。
 発句「三吉野之 耳我嶺尓」「み吉野の 耳我(みみが)の峰に」と訓む。「三吉野之」は「み吉野(よしの)の」と訓む。「三」はミ。地名に美称の「み」を冠するのは、古代では「吉野、熊野、越」に限られ、いずれも、格別の異境と意識され、霊威の地と見なされていた。「吉野」は地名で、奈良県、吉野山地を占める吉野郡一帯の地域の総称。古くから大和朝廷の聖地とされた。「之」はノ。「耳我嶺尓」は「耳我(みみが)の嶺(みね)に」と訓む。「耳我」は「みみが」を表わすための借訓字だが、そのまま漢字表記をしてノを補読して「嶺」に続ける。「嶺」は山の領(えりくび)にあたるところをいう。和語の「みね」は、接頭語のミ+山の頂上尖った所をいうネで、「山のいただき」の意。「耳我の嶺」は吉野山の一峰の名であると思われるが、どの山かはわからない。吉野の金峯山のことか。「尓」はニ。

 2句「時無曽 雪者落家留」「時なくそ 雪は降りける」と訓む。「時無曽」は「時(とき)無(な)くそ」と訓む。「時」は、日景・時間に関してある状態が持続する場合にそれを時という。説文解字は「四時なり」と四季の意としている。「無」はナ。「時無く」は、時の区別なく、しょっちゅうの意。「曽」はソ。上代は清音であった。「雪者落家留」は「雪は落(ふ)りける」と訓む。「者」はハ。「落」は「木葉が落ちる」ことを表わし、雨露には「零」を用いるという区別がある。ここでは、「降る=雨・雪などが空から落ちてくる」の意で用いられているので、「ふる」の連用形の「ふり」と訓む。「家留」はケル。

 3句「間無曽 雨者零計類」「間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける」と訓む。 「間無曽」は「間(ま)無(な)くそ」と訓む。対句になっている。「間(ま)」は「時と時のあいだ」を意味し、「間無く」は「絶え間なく」の意。「雨者零計類」は「雨は零(ふ)りける」と訓む。対句。「零」は「雨が落ちる」意で、「落」と同じく「ふる」の連用形の「ふり」と訓む。「計類」はケル。

 4句「其雪乃 時無如」「その雪の 時なきが如(ごと)」と訓む。 「其雪乃」は「其(そ)の雪の」と訓む。「其」は箕(み)の形を表わした象形文字で、箕の初文。「其の雪」は「雪」を指す。「乃」はノ。「時無如」は「時(とき)無(な)きが如(ごと)」と訓む。前句を承けての表現。「如」は、比況の機能を持つ助字で、「…のようである」の意であることから、比況を表わす助動詞「ごとし」にあてられた。ここでは「ごと」と訓む。「ごと」は、「同じ」の意を表わす「こと」の濁音化したもの。

 5句「其雨乃 間無如」「その雨の 間なきが如」と訓む。「其雨乃」は「其(そ)の雨(あめ)の」と訓む。対句を成す。「其の雨」は「雨」を指す。「間無如」は「間(ま)無(な)きが如(ごと)」と訓む。対句を成し、前句を承けての表現。

 6句「隈毛不落」「隈(くま)もおちず」と訓む。「隈毛不落」は「隈(くま)も落ちず」と訓む。「隈」は畏(い)と通じている。「畏」には、畏懼して回避する意がある。深奥、恐懼すべきところをいい、神異のあるところが原義。そこから「隈(くま)」は「他と境界を接する地点、奥まった場所」をいうようになる。ここでは、「曲がり角」の意。「毛」はモ。「曲がり角」が複数であることを示す。「不落」は「落(おち)ず」と訓む。「隈(くま)も落ちず」は、第6番歌の「寐(ぬ)る夜(よ)落(おち)ず」と同じで、「隈ごと隈ごと、毎隈欠かさず」ということで、「道の曲がり角一つ残さず」の意。

 結句「念乍叙来 其山道乎」は「思ひつつぞ来(こ)し その山道を」と訓む。「念乍叙来」は「念(おも)ひ乍(つつ)ぞ来る」と訓む。「思いつつ来し」がどういう思いだったかについて解釈が分かれている。ここの「おもひ」について「思」ではなく「念」を用いることで自然賞愛や異性恋慕にとられることを排除している。その意味から「念」の一字は大切である。ここの「おもひ」は、その後の壬申の乱に向う政局についてのあれこれの「おもひ」であったと考えられる。「乍」は、「たちまち、あるいは」の意に用いられる。国語では「ながら」にあてられた。「ながら」は接続助詞ともされるが、ここでは同じ動作の反復や継続を表わすツツの意。「叙」はゾ。上代では清音であったとしてきたが、ここはゾとする。奈良時代は多くは清音であったが、時に濁音も使われ、後に濁音が優勢になったと考えられる。「曽、所」はソ、「叙、序」はゾとする。「来」は「むぎ。もたらす。くる」の意。ここの「来」の訓には二説ある。前に「来(く)る」と訓んだが、多くの注釈書は「来(こ)し」と訓む。「来(こ)し」説では、この歌は、「天武天皇が、天智10年冬に(当時は大海人皇子)吉野入りをした時のことを、壬申の乱を経て即位をした後に回想して詠んだもの」すなわち過去の出来事であるから、「来(く)る」ではなく「来(こ)し」だとし、「そ~ける」との関係からも「来(こ)し」とするのが良いとする。だが、たとえ過去の回想であっても、歌の場合それを現在形で表現することでより臨場感を持たせることはあって良いと思う。また、「そ~ける」の「ける」は過去(伝聞)の助動詞というよりも、詠嘆(回想)の助動詞と見るべきであると思う。過去の回想としてここまで詠んできた作者は、その回想の中で高まってきた詠嘆の感情、その現在の感情そのままに現在のことのように歌い上げたのではないだろうか。「其山道乎」は「その山道を」と訓む。「道」は導く意。祓除を終えたところを道という。「乎」はヲ。倒置句で「其の山道を」「念ひ乍ぞ来る」ということになる。 

 耳我の峯に絶え間なく降るといわれる雪や雨のように、曲がり角ごとに絶え間なく物思いをしながらその山道を来たという。後に兄の子である弘文天皇の近江朝廷に反乱を起こすことにもつながる隠棲の道中なわけなので、胸中の複雑さが知られる。

巻1(26)。
 
題詞
歴史解説
 「或ル本(まき)ノ歌」。左注は「右句々相換因此重載焉(右句々相換レリ。此ニ因テ重テ載タリ)」。
原文  三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
和訳  み吉野の 耳我(みみが)の山に 時じくそ 雪は降るちふ(言ふ) 間なくそ 雨は降るちふ(言ふ) その雪の 時じくがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)も堕(お)ず 思ひつつぞ来る その山道を
現代文  「神聖な吉野の 耳我の山に 定めなく常に 雪は降るという 絶え間も無く 雨は降るという 其の雪に 時の定めが無いように 其の雨に 絶え間が無いように 曲がり角一つ残さず ずっと物思いつつやってくることだ 其の山道を」。  
文意解説  長歌(れんだいこ式7句)。
 発句「三芳野之 耳我山尓」「み吉野の 耳我(みみが)の山に」と訓む。「三芳野之」は「み芳野(よしの)の」と訓む。「吉野」の字が「芳野」になっている。「芳」は説文解字に「香草なり」とあり、花の芬香あるものをいう。吉野が美しいところである意を込めたものと思う。「耳我山尓」は「耳我(みみが)の山に」と訓む。「嶺」が「山」に換わっている。

 2句「時自久曽 雪者落等言」「時じくそ 雪は降るちふ(言ふ)」と訓む。「時自久曽」は「時じくそ」と訓む。「時じ」には、「時はずれである。時節はずれである。その時ではない」という意味と「時節に関係なくいつもある。常にある。絶え間ない」という二つの意味がある。ここでは後者の意で、先歌の「時無くそ」と同じ意味。「自久」はジク。「雪者落等言」は「雪は落(ふ)ると言(い)ふ」と訓む。「等」はト。「言ふ」は「伝聞する」の意。先歌の「落(ふ)りける」の「ける」を伝聞と解してこの異伝がうまれたものかも知れない。

 3句「無間曽 雨者落等言」「間なくそ 雨は降るちふ(言ふ)」と訓む。「無間曽」は「間(ま)無(な)くそ」と訓む。「無間」と語順が入れ替わっている。「雨者落等言」は「雨は落(ふ)ると言(い)ふ」と訓む。

 4句「其雪 不時如」「その雪の 時じくがごと」と訓む。「其雪」は「其(そ)の雪の」と訓む。ノが省略されている。「不時如」は「時じきが如(ごと)」と訓む。3句を受けた表現で「不時」の二字で「時じ」を表わし、その連体形の「時じき」と訓む。下の「如」に続けるためにガを補読する。先歌の「時(とき)無(な)きが如(ごと)」と同じ意味を表わす。

 5句「其雨 無間如」「その雨の 間なきがごと」と訓む。「其雨」は「其(そ)の雨の」と訓む。ノを省略している。「無間如」は「間(ま)無(な)きが如(ごと)」と訓む。「無間」の訓み方は同じ。
 
 6句「隈毛不堕」「隈(くま)も堕(お)ず」と訓む。

 結句「思乍叙来 其山道乎」「思ひつつぞ来る その山道を」と訓む。「隈毛不堕」は「隈(くま)も堕(お)ちず」と訓む。「落」が「堕」に換わっている。「思乍叙来」は「思ひ乍(つつ)ぞ来る」と訓む。「念」が「思」に換わっている。「思」は「念」と同じ。「其山道乎」は「其(そ)の山道を」と訓む。

巻1(27)。天武天 

 
題詞
歴史解説
 天武天皇の作歌。「天皇幸于吉野宮時御製歌(天武天皇の吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌(おほみうた))」。左注に「紀曰 八年己卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮(紀ニ曰ク、八年己卯五月庚辰朔甲申、吉野宮ニ幸ス)」。 天武天皇8年(679年)5月5日の吉野行幸の時に詠まれた歌であることが分かる。この時の行幸は5月5日に吉野着、翌6日に6皇子の誓約、7日帰京という日程であり、聖地吉野で皇子たちに盟約させるのが目的であったことは明らかである。

 天武天皇は奈良県中央部の飛鳥の地に都を構えたが、そこから少し南に下ったところが吉野の地である。この吉野は狩場としても愛好されたが、なんといっても壬申の乱(六七二年)前夜天武天皇が逃れた地である。天武天皇(大海人皇子)はこの吉野で挙兵する。天武にとっていわば第二の故郷である。天武天皇の皇后は後の持統天皇。日本書紀によれば、その持統天皇は吉野に30回ほどに及ぶほどしばしば行幸を繰り返している。吉野に対する天武天皇の思い入れが並大抵ではなかったことが推察される。「よし」と「よく」が繰り返し連呼される本歌は一見言葉遊びに見えるが決してそうではない。「昔から吉野は素晴らしいところ(吉い野)だといわれているが、本当にそうではないか。お前たちよく見て頭にきざみつけておくといい」と天武はうたい、伴の人々にその思い入れの深さを吐露している。


 この時、天武天皇は、自分の子や縁者である6人の皇子たちを集め、みなが結束する事を盟約させたと云われている。当時の吉野は霊力の満ちた特殊な場所と考えられており、後に持統天皇なども何度も吉野への行幸を行いその霊力の恩恵に授かろうとした。近鉄吉野駅の前にこの歌の歌碑がある。吉野郡下市の中央公園にも歌碑がある。宮滝の吉野宮はいまの中荘小学校の辺りにあったといわれている。吉野上市から吉野川をさかのぼり数キロ東へいった場所に宮滝がある。近くには吉野歴史資料館もある。 「天武天皇8年(679年)5月5日の吉野行幸の時の様子につき、日本書紀の吉野行幸の記事を訓む。原文と訓読を併記する。
 「五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰、朕今日與汝等倶盟于庭、而千歳之後、欲無事。奈之何。皇子等共對曰、理實灼然。則草壁皇子尊先進盟曰、天神地祗及天皇證也。吾兄弟長幼并十餘王、各出于異腹。然不別同異、倶随天皇勅、而相扶無忤。若自今以後、不如此盟者、身命亡之、子孫絶之。非忘、非失矣。五皇子以次相盟、如先。然後天皇曰、朕男等各異腹而生。然今如一母同産慈之。則披襟抱其六皇子。因以盟曰、若違玆盟忽亡朕身。皇后之盟、且如天皇一。丙戌、車駕還宮。己丑、六皇子共拜天皇於大殿前」。
 「五月の庚辰(かうしん)の朔(つきたち)にして甲申(かふしん)に、吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。乙酉(いついう)に、天皇(すめらみこと)、皇后(きさき)と草壁(くさかべの)皇子(みこの)尊(みこと)・大津(おほつの)皇子(みこ)・高市(たけちの)皇子・河嶋(かはしまの)皇子・忍壁(おさかべの)皇子・芝基(しきの)皇子に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)、今日(けふ)、汝等(いましたち)と倶(とも)に庭(おほば)に盟(ちか)ひて、千歳(ちとせ)の後(のち)に、事(こと)無(な)からしめむと欲(おもほ)す。奈之何(いかに)」とのたまふ。皇子(みこ)等(たち)、共(とも)に對(こた)へて曰(まを)さく、「理實(ことわり)、灼然(いやちこ)なり」とまをす。則(すなは)ち草壁皇子尊、先(ま)づ進(すす)みて盟ひて曰さく、「天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)と天皇、證(あきら)めたまへ。吾(おのれ)、兄弟(えおと)長(ひととなり)幼(をさなき)、并(あは)せて十餘(とをあまりの)王(みこ)、各(おのもおのも)異腹(ことはら)より出(い)でたり。然(しか)れども同(おな)じきと異(ことな)れると別(わ)かず、倶に天皇の勅(みことのり)の随(まにま)に、相(あひ)扶(たす)けて忤(さか)ふること無(な)けむ。若(も)し今より以後(のち)、此の盟(ちかひ)の如(ごと)くにあらずは、身命(いのち)亡(ほろ)び、子孫(うみのこ)絶(た)えむ。忘(わす)れじ、失(あやま)たじ」とまをす。五皇子(いつたりのみこ)、次(つぎて)を以(も)ちて相盟(あひちか)ふこと、先(さき)の如し。然して後に、天皇の曰はく、「朕(わ)が男等(こども)、各異腹にして生(うま)れたり。然れども今し一母同産(ひとつおもはらから)の如くに慈(めぐ)まむ」とのたまふ。則ち襟(ころものくび)を披(ひら)き其の六皇子(むたりのみこ)を抱(うだ)きたまふ。因(よ)りて盟ひて曰はく、「若し玆(こ)の盟に違(たが)はば、忽(たちまち)に朕(わ)が身を亡(うしな)はむ」とのたまふ。皇后の盟ひたまふこと、且(また)天皇の如し。丙戌(へいしゆつ)に、車駕(すめらみこと)、宮(みや)に還(かへ)りたまふ。己丑(きちう)に、六皇子、共に天皇を大殿(おほとの)の前(まへ)に拜(をろが)みたてまつりたまふ」。

 先ず日付の確認だが、ご存知の通り、日付は十干・十二支の組合せで表わされていた。「五月の庚辰(かうしん)の朔(つきたち)にして甲申(かふしん)」は、五月の庚辰が一日であるので甲申は五日を表わす。乙酉は六日、丙戌は七日で、己丑は十日ということになる。念のために十干・十二支を記しておこう。十干は、甲(きのえ)(カフ)乙(きのと)(オツ)丙(ひのえ)(ヘイ)丁(ひのと)(テイ)戊(つちのえ)(ボ)己(つちのと)(キ)庚(かのえ)(カウ)辛(かのと)(シン)壬(みずのえ)(ジン)癸(みずのと)(キ) 十二支は、子(ね)(シ)丑(うし)(チウ)寅(とら)(イン)卯(う)(バウ)辰(たつ)(シン)巳(み)(シ)午(うま)(ゴ)未(ひつじ)(ビ) 申(さる)(シン)酉(とり)(イウ)戌(いぬ)(シュツ)亥(ゐ)(ガイ)  5日に吉野に着いて、翌6日にここに述べられている天皇及び皇后と6皇子の誓約の儀が執り行われ、7日には帰京という慌ただしい日程である。でもこの誓約の儀式は聖地吉野において行うことに意義があった。吉野の地で蜂起し壬申の乱を経て位に就いた天武天皇の強い意志があったと思われる。第27番歌は、日本書紀に記される6皇子の厳粛な儀式の後の宴席において詠まれたものだと思われ、天武天皇の機智溢れる歌に大いに席は和んだことであろう。
原文  淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与> 良人四来三
和訳  淑(よ)き人の 良(よ)しと吉(よ)く見て 好(よ)しと言ひし 吉野)吉(よ)く見よ 良(よ)き人よく見つ
現代文  「昔のりっぱな人が、よき所としてよく見て『よし(の)』と名付けたこの吉野。りっぱな人である君たちもこの吉野をよく見るがいい。昔のりっぱな人もよく見たことだよ」。 
文意解説

 発句「淑人乃 良跡吉見而 好常言師」「淑(よ)き人の 良(よ)しと吉(よ)く見て 好(よ)しと言ひし」と訓む。「淑人乃」は「淑(よ)き人の」と訓む。「淑人」につき、詩経に「淑人君子」とあり、「淑は善なり」と注する。「淑人(しゅくじん)」は「善良で徳のある人」をいう。次の「良人」と呼応する表現。「淑き人」は誰を指すのか。それは、吉野を「好しと言ひし」人である。吉野に行幸した先皇を漠然と指しているとも考えられるが、第25番歌・第26番歌を踏まえて考えると、8年前の天武天皇・皇后を中心とする吉野での結束が背景にあるに違いなく、これは6人の子に誓約をさせた天武天皇と皇后を指していると見るのがよいのではなかろうか。「乃」はノ。「良跡吉見而」は「良(よ)しと吉(よ)く見て」と訓む。「良」は「よい」の意を表わす。「跡」はト。「吉」は「吉(よ)く」。見は「見」。「而」はテ。「よし」は物事の本性、状態などが好ましく、満足すべきさまであることを意味する。「あし」の対義語。類義語の「よろし」よりも高い評価を表わす。「好常言師」は「好(よ)しと言(い)ひし」と訓む。「好」は「うつくしい」が本義だが、「よい。このむ」の意に用いる。この歌では形容詞「よし」に「淑、良、吉、好」の4文字を用いている。「常」はト。「師」はシ。

 結句「芳野吉見<与> 良人四来三」「吉野)吉(よ)く見よ 良(よ)き人よく見つ」と訓む。「芳野吉見与」は「芳野(よしの)吉(よ)く見よ」と訓む。「良人四来三」は「良(よ)き人よくみ」と訓む。「良人(りょうじん)」は「善良な人」を言い、「反道不順之人(道に叛き道理に従わない人)」と対比される。それ故、この歌の「良き人」は、反道不順ならざることを誓った六皇子を指していると考えられる。「四」は数字の「よつ」からヨを表わす。「四来」はヨク。「吉」を既に2回使っているので用字を変えたもの。「三」は数字の「みつ」からミ。このミは「見る」の意。

 藤原の宮に天の下しろしめしし天皇の代

巻1(28)。(持統)天皇の御製歌

題詞
歴史解説
 持統天皇の作歌。「(持統)天皇の御製歌」。百人一首にも取られている持統天皇(女性の天皇です)の有名な一首で持統天皇の御製歌(おほみうた)。百人一首や新古今和歌集では「春過ぎて夏来(き)にけらし白妙(しろたへ)の衣乾(ころもほ)すてふ天(あま)の香具山」となっているが、これは平安時代の歌の好みに合わせて詠い変えられたもの。この歌もさきに見た20番歌「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と並んで最も有名な歌である。
原文  春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
和訳  春過ぎて 夏来(きた)るらし 白妙(しろたへ)の 衣乾(ころもほ)したり 天(あま)の香具山(かぐやま)
現代文  「春も終わり夏がやってきたようですね。天の香具山に(神祭りの)純白の衣が乾されているのが見えますよ」。
文意解説  発句「春過而 夏来良之 白妙能」「春過ぎて 夏来(きた)るらし 白妙(しろたへ)の」と訓む。「春過而」は「春過ぎて」と訓む。「春」は、現在では3、4、5月であるが、旧暦では1、2、3月をいう。天文学的には春分から夏至の前日までをいい、二十四節気では立春から立夏の前日までをいう。二十四節気は、陰暦で太陽の黄道上の位置によって定めた季節区分。具体的に言うと、立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒となる。「過」は「過ぎ」と訓む。これにつき、説文解字は「度(わた)るなり」と度越・通過の意とする。「而」はテ。「夏来良之」は「夏来(きた)るらし」と訓む。「夏」は、現在では6月から8月、旧暦では4月から6月までをいう。天文学的には夏至から秋分の前日まで、二十四節気では立夏から立秋の前日までをいう。「来」は「来(き)至(いた)る」の約の「来(き)たる」とされ、「人や物事がやってくる」の意。「良之」はラシ。は目前の現象に基づく根拠のある推量を意味する助動詞。「白妙能」は「白妙(たへ)[栲]の」と訓む。「目に痛いほど真っ白な」という意味である。「妙(たへ)」は布の「栲(たへ)」を表わすために用いられている。「栲」は梶(かじ)の木などの繊維で織った布、純白で光沢があることから「白栲」と称される。「能」はノ。

 結句「衣乾有 天之香来山」「衣乾(ころもほ)したり 天(あま)の香具山(かぐやま)」と訓む。「衣乾有は「衣(ころも)乾(ほ)し有(た)り」と訓む。「衣」の訓みとしては、「きもの・ころも・きぬ・きる」などがあるが、ここでは「ころも」と訓む。「乾」は「旗がひらめく」が本義であるが「かわく。ほす」の意である。「有」は「てあり」の約のタリ。「天之香来山」は「天(あめ)の香(か)来(ぐ、具)山」と訓む。天の香具山は「天(あま)の」と付くように、かつて天から降りてきた山ともいわれ、大和の山の中でも特別の神の山として崇められていた。「香具山」を「香来山」と表記を換えている。「香具山」を「香来山」と換えたのは、「夏来良之」の「来」を承けたものと考えられる。新古今集巻三「夏歌の部」は、その巻頭歌に「持統天皇御歌」として、「春過ぎて夏来にけらし白たへの衣ほすてふ天の香具山」の歌を掲げる。「来にけらし」、「衣ほすてふ」が万葉集と違っているが、これは新古今集の撰者が改作したのではなく、平安時代以来の万葉集の訓読の一つがそうであったことによる。この新古今集の歌が百人一首に採られて人口に膾炙することになる。

巻1(29)。柿本朝臣人麿】

題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「過時柿本朝臣人麻呂作歌(近江の荒れたる都を過(ゆ)く時、柿本朝臣人麿がよめる歌)」。近江の旧京を詠んだ歌である。第30番歌・第31番歌と二首の反歌を伴う。近江の旧京大津は持統天皇の父天智天皇の都であったところ。この荒れたる都を過くときに作ったとあり、「近江荒都歌」と呼ばれる。歌聖と称される柿本人麻呂の登場となる。その最初の歌である。この題詞は「作歌事情+作者名+作歌」という形をとっているが、人麻呂作品の題詞にはもう一つ「作者名+作歌事情+作歌」の形があり、前者に公的な作品が、後者に私的な作品が目立つという特徴がある。
原文  玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 [或云 自宮]  阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥継嗣尓 天下  所知食之乎 [或云 食来]  天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 [或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而] 何方 御念食可 [或云 所念計米可]  天離 夷者雖有  石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立  春日之霧流  [或云。霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留]  百礒城之 大宮處 見者悲毛 [或云 見者左夫思母]
和訳  玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代よ(或云、宮ゆ) ()れましし 神のことごと (つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 天の下 知ろしめししを(或云、食(め)しける) そらみつ 倭(やまと、大和)を置きて 青丹よし 奈良山越えて いかさまに 思ほしけめか(或云、念(おも)ほしけめか) 天離(あまざか)る (ひな)にはあらねど 石走(いはばしる)る 淡海(あふみ)の國の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ 天皇(すめろぎ)の 神の命(みこと、御言)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草(はるくさ)の 茂(しげ)く生(お)ひ有(た)る 霞(かすみ)立(た)つ 春(はる)日(ひ)の霧(き)れる〔或云〕霞立つ 春日か霧(き)れる 夏草か 繁くなりぬる ももしきの 大宮處(おほみやどころ) 見れば悲しも(或云、見(み)ればさぶしも)
現代文  「〈玉たすき〉畝傍の山の 橿原の地の 英明な神武の御世より[或は 宮より] お生まれになった 歴代の天皇が 〈樛の木の〉 次々に続いて天下を 治めておられたのを[或は 治めてこられた]〈天に満つ〉 大和の地をさしおいて〈青丹よし〉奈良山を超え[或は〈そらみつ〉大和をさしおき〈青丹よし〉奈良山を越えて]どのように お思いになられたのか[或は お思いになられたのだろうか]〈天離る〉辺鄙な田舎ではあるが〈石走る〉近江の國の 樂浪の 大津の宮で天下を お治めになられた 天皇の あの天智天皇の大宮は ここだと聞くけれど 御殿は ここだと云うけれど 春の草が 茂く生えている 霞が立って 春の日が霞んでいる[或は 霞が立って 春の日が霞んでいるせいか 夏草が 繁くなっているからだろうか]〈百礒城の〉 大宮の跡を 見ると物悲しく思われるよ[或は 見ると心楽しまないことだよ]」。
文意解説  長歌(れんだいこ式17句)。
 発句「玉たすき 畝傍(うねび)の山の」は「
玉たすき 畝傍(うねび)の山の」と訓む。「玉手次」は「玉(たま)たすき」と訓む。「玉」は「まるく美しいもの」をいう。「手次」は「たすき」。上代から神事などの際、袖が供え物に触れるのを防ぐ手段として用いられた。「たまたすき」は枕詞。ここでは、たすきを頸(うなじ)にかける、または頸(うな)ぐところから、「頸(うなじ・うなぐ)」と類音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる。「畝火之山乃」は「畝火(うねび、畝傍)の山の」と訓む。「畝火」は地名の「畝傍」を表わす。畝傍山は大和三山の一つで「雲根火」とも表記されている。「之、乃」ともにノ。

 2句「橿原乃 日知之御世従 [或云 自宮]」は「橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代よ(或云、宮ゆ)」と訓む。「橿原乃」は「橿原(かしはら)の」と訓む。「橿原」は地名。畝傍山の東南麓、今の橿原市畝傍町のあたりをいい橿原神宮がある。また、畝傍山の東北麓には神武天皇陵がある。「乃」ノ。「日知之御世従」は「日知(ひじり)の御世(みよ)ゆ」と訓む。「日知」の語については諸説あるが、武田祐吉の万葉集全註釋は次のように述べる。
 「ヒジリは、日知と書いてあるのが語義であつて、日を知る人の謂なるべく、 古代、農耕の上に暦日を知る人を尊んで言つた語と考へられる。暦のことをヒヨミといふは、日を數へる義であり、月のことをツクヨミといふも、月數を數へる義であつて、共に農耕の生活から來た語であり、日知も同様の造語であらう。しかしながら漢字の入來るに及んで、その聖の字の訓として用ゐられ、聖の字の意味に習合した」。
 「之」はノ。「御世」は「みよ」と訓み、ミは接頭語で「天皇の治世」の意。「従」は「より」を意味するがユと訓む。異伝に「或云 自宮」とある。「自宮」は「宮ゆ」と訓む。「自」は「従」と同じく「より」を意味しユ。「宮」は天子の居るところの意。ここでは「橿原の」とあるので「橿原宮」ということになり、初代神武天皇の宮ということになる。従って、「日知」は、「政治を司る」と云う意。神武天皇を指すことになる。

 3句「阿礼座師 神之盡」は「
生(あ)れましし 神のことごと」と訓む。「阿礼座師」は「あれ座(ま)しし」と訓む。「阿礼」はアレ。「ある」は「現・生」の字があてられ、「神霊、天皇など、神聖なものが出現する。転じて、生まれる」の意。「座」は「坐」に通じマシと訓む。「師」はシ。「神之盡」 は「神の盡(ことごと)」と訓む。ここでの「神」は、歴代の天皇を神代の直系に属する現人神として捉えた語として使われている。「之」はノ。「盡」は「すべてを傾注する、尽くす」の意。ここでは「ことごと」と訓み「残らず、全て」の意。

 4句「樛木乃 弥継嗣尓」は「
樛(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに」と訓む。「樛木乃」は「樛(つが)の木の」と訓む。「樛」は木の枝が曲がることを意味するが、これを「栂(つが)の木」を表わすのに用いている。人麻呂の当時「栂の木」の「栂」という字はなかった。「栂」はいわゆる国字で、天正本節用集にはじめて見える。人麻呂が何故、「栂の木」に「樛木」という文字を借用したのかについて小島憲之はその論文「萬葉人の庖厨に漢籍あり」の中で次のように述べている。
 「ツガの木と樛との姿の類似から説明するのは未熟と云ふよりほかはない。人麻呂の創作過程を辿って見るに、『……(枕詞)いやつぎつぎに……』の一節に於いて、『つぎつぎ』の枕詞として何か創作しなければならなかつた、従つて同音の枕詞『つがのきの』が案出された、しかしその文字を何れの漢字にあてるかが問題である。しかもその漢字たるや、ひじりの御世以来歴代の天皇が次から次へと天下を治めると云つた意味を持つ文字ならばここに最もピツタリとするわけであり、遂に人麻呂は毛詩周南の『樛木』を思ひ出したわけである。この樛木は、[ここに毛詩周南からの引用が入るが、省略する]この例に見る如く蔓草などがからみつく木として知られて居り、これを少し展開させると天皇が前の天皇に續いてつぎつぎにと云つた表現にあたることになる、従つてこの際『ツガノキ』と『木枝下曲曰レ樛』との實體は各々違つてゐてよいわけになる、つまり人麻呂は單に毛詩の『樛木』を知つてゐたばかりではなく、その用例から歸納して萬葉文字へと表はして行つたのである。そこにまた彼の表現力が見られる」。
 「乃」はノ。「弥継嗣尓」は「弥(いや)継(つ)ぎ嗣(つ)ぎに」と訓む。「弥」は「いや」と訓む。「継」は「糸をつぐ」、「嗣」は「後をつぐ、位につく」が本義。ここでは共に「つぎつぎ」を表わすのに用いられている。「尓」はニ。「つぎつぎに」で「次から次へと、順々に」の意。

 5句「天下 所知食之乎 [或云 食来]」「天の下 知ろしめししを(或云、食(め)しける)」と訓む。「天下」は「天(あめ)の下(した)」と訓む。「天(あめ)の下」は「高天原の下にある、この国土」を意味する。一字一音の表記として「阿米能志多」などの例がある。「所知食之乎」は「知らし食(め)ししを」と訓む。「所知」は「知ろし」と訓む。「所」をシと訓む。「知る」はここでは「統治する」の意。「食」は「食(を)す」または「食(は)む」と訓む。「食(を)す」には、「治める」の尊敬語として「お治めになる」の意味もあり、「食国(をすくに)」などとして使われるが、ここで「食(を)す」と訓むと上の「知らす」と意味が重複することになる。仮名書きの例から、ここは「めし」と訓むのが良い。「召す」の意として用いられている。「之」はシ。「乎」はヲ。「知らし食(め)ししを」は「統治せられたのを」の意となる。異伝「或云 食来」の「食来」は「食(め)しける」と訓む。

 6句「天尓満 倭乎置而」「そらみつ 倭(やまと、大和)を置きて」と訓む。「天尓満」は「天(そら)に満(み)つ」と訓む。「天」は「あめ」「そら」と訓じて「最も高いところ、神ののぼりいますところ」の意を表わす。「尓」はニ。「そらみつ」は第1番歌でも使われているが、かかり方は未詳。「倭乎置而」は「倭(やまと)を置きて」と訓む。「倭」の字訓は「やまと」で、わが国の古名として中国の史書に載る。「乎」はヲ。「置」の字訓は「おく、ゆるす、たつ」など。「置く」には色々な意味があるが、ここでは「別にする・除く・さしおく」あるいは「あとに残しとどめる。また、見捨てる」の意。「而」はテ。「倭(やまと)を置きて」は、そのままの意に解するべきだろう。

 7句「青丹吉 平山乎超 [或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而]」は「青丹よし 奈良山越えて」と訓む。「青丹吉」は「青丹(あをに)よし」と訓む。「奈良」にかかる枕詞。「平山乎超」は「平山(ならやま)を超(こ)え」と訓む。「平山」は「奈良の山」のこと。「奈良山」の語源説に「崇神天皇の時、官軍が山の草木を踏みナラしたところから」とするものがある。「平」は「たいらか、たいらかにする」の意を表わす。一方、「ナラす」も「たいらかにする」意であるから、この字があてられ「平(なら)す」と書く。「平山」を「ならやま」と訓む所以である。「乎」はヲ。「超」は説文解字に「跳ぶなり」とあり、超越・超遠のように用いる。字訓は「こえる・とおい・おどる」。普通「山をこえる」は「山を越える」と書き、「越」の字を用いる。人麻呂がここで「超」の字を用いたのは、「山超え」であることを強調したものだと思われる。異伝「或云。虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而」は「そらみつ 倭(やまと)を置(お)き 青丹(あをに)よし 平山(ならやま)越(こ)えて」と訓む。本文の「を超(こ)え」を「越(こ)えて」に換えている。本文の方が音数が整えられており、異伝が先に作られ、それを推敲した結果が本文であることがわかる。

 8句「何方 御念食可 [或云 所念計米可] 」「いかさまに 思ほしけめか(或云、念(おも)ほしけめか)」と訓む。「何方」 は「何方(いかさま)に」と訓む。「何」は疑問詞に用いて「なに、なぞ、いかに、いづれ」などと訓まれる。「方」は遠方・方位・方角の意や方法・手段の意ともなる。「何方」の2字でもって、状態や方法などについての疑問を表す形容動詞「いかさま」にあてたもので「いかさまに」と訓む。「どのように、どんなふうに」の意。「御念食可」は「(御)念(おも)ほし食(め)せか」と訓む。「御念」は「念(おも)はす」と訓む。その連用形で「(御)念(おも)ほし」とする。「食」は、「食す」=「召す」の意で用いられたものでここは已然形の「食(め)せ」と訓む。「可」はカ。異伝「或云。所念計米可」は「念(おも)ほしけめか」と訓む。

 9句「天離 夷者雖有」
天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあらねど」と訓む。「天離」は「天(あま)離(ざか)る」と訓む。「天」は「あま」と訓む。「あめ」の母音交替形で、アマ…、アマノ…、アマツ…などの形で複合語を作ることが多い。上代では、アマ…はアマカケル・アマギラフ・アマクダル・アマザカル・アマテル・アマトブなど動詞の例がめだつ。「離」は字義に「かかる、はなす、はなれる」などがあり、「はなれる、遠ざかる」を意味する和語「さかる」にこの字があてられた。「あまざかる」は「空遠く離れる」意であるが、枕詞として「向(むか)つ」または「鄙(ひな)」にかかる。この語の清濁は、時代によって異なり、日本書紀の歌謡例では、アマサカルとよめるし、万葉集のかな書きの例では、アマサガルが一例、アマザカルが十六例である。日葡辞書では、アマサガルとアマサカルの両形があり、謡曲ではアマサガルといっていたらしい。ここでは万葉集で用例が多い方の「あまざかる」を採った。「夷者雖有」は「夷(ひな)には有(あ)れど」と訓む。「夷」は「えびす、東方の族」が本義。これを「ひな」と訓むのは、第4353番歌の左注に「朝夷郡」とあり、和名類聚抄の郡名一覧で調べると、これは安房国朝夷郡のことで、その記載郡名訓が「阿左比奈(あさひな)」であることによる。「ひな」は「都から遠く離れた所。いなか」。「者」はハ。ここでは上に二を補読して「二ハ」と訓む。二が補読される例は、[「場所」+「者」+「雖有」]という場合である。「雖有」の「雖」の字義は「いえども」で、①仮定。たとえ…であっても。②既定。…であるけれども。③譲歩。…ではございますが。と、三つの用法がある。ここは②の意味で使われている。「雖有」はアレドと訓む。

 10句「石走 淡海國乃」
石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の國の」と訓む。「石走」は「石(いは)走(ばし)る」と訓む。「石」は「いし、いわ、儀礼の対象とされる石」などの意。「走」は、万葉集には「霰たばしる」、「鮎子さばしる」などの表現が見え、「はしる」は勢い良く四方に散るさまも表わす。「石(いは)走(ばし)る」も岩の上を水が飛沫をあげて砕け散ったり、落下したりするのをいったもの。そこからたぎるように沸き立つという意の動詞「たぎ」や落下する「たるみ(滝)」に掛かる枕詞にも用いられるようになった。また石の上を走る溢水(あふみ)に通わせて、地名の「近江(あふみ)」にも掛かる。「淡海國乃」は「淡海(あふみ)の國の」と訓む。「淡」は味のうすいことをいう。また色や状態について、すべて淡薄なことをいう。淡水の海を「淡海(あはうみ)」という。浜名湖を遠つ淡海(遠江)、琵琶湖を近つ淡海(近江)と呼んだが、琵琶湖のある所の国名を文字に「近江」と書き、単にアフミと呼ぶに至った。「あふみ」は「淡海(あはうみ)」の約まったもの。ここでは近江の国名の原義である「淡海」を用いて「淡海國」とした。

 11句「樂浪乃 大津宮尓
楽浪(ささなみ)の 大津の宮に」と訓む。「樂浪乃」は「樂浪(ささなみ)の」と訓む。「樂浪(ささなみ)」は琵琶湖の西南沿岸地方の故地を暗喩している。神樂の囃言葉にササと言ったことから「神樂聲」をササと訓ませ、それを略して「神樂(ささ)浪(なみ)」とも書き、更にそれを略して「樂浪(ささなみ)」とも書いている。「大津宮尓」は「大津の宮に」と訓む。「大津」は滋賀県大津市。天智6年(667年)大和から「大津宮」に遷都した。

 12句「天下 所知食兼 天皇之」
「天の下 知ろしめしけむ 天皇(すめろぎ)の」と訓む。「天下」は「天(あめ)の下(した)」と訓む。「天下」は漢語「天下(てんか)」を訳したもので、「高天原の下にある、この国土」の意。「所知食兼」は「知(し)らし食(め)しけむ」と訓む。「所知」は既述。「兼」はケム。過去の事実を推量する助動詞。「天(あめ)の下(した)知(し)らし食(め)ししを …… 何方(いかさま)に念(おも)ほし食(め)せか …… 」を承けて、その係助詞カの結びをなしている形で、「天(あめ)の下(した)知(し)らし食(め)しけむ」としたものである。「天皇之」は「天皇(すめろき)の」と訓む。「皇」は「王位の象徴たる玉飾の鉞(まさかり)」が本義。「天皇」を「すめろき」と訓むのは、仮名書き例で、第4089歌の「須賣呂伎能(すめろきの) 可未能美許登能(かみのみことの)」などがあることによる。「すめろき」は「皇祖神、皇神祖、皇祖」などと書かれることが多く、「皇祖である天皇」を主として言うが、その皇祖より受け継いだ「当代の天皇」についても言うようになった。「すめらぎ」とも言う。ここは天智天皇を神として崇めて言ったもので、「あれ座(ま)しし神(かみ)の盡(ことごと)」と響きあう表現である。

 13句「神之御言能 大宮者」
「神の命(みこと、御言)の 大宮は」と訓む。「神之御言能」は「神(かみ)の御言(みこと)の」と訓む。「之」、「能」はともにノ。「みこと」のミは接頭語で「御事」の意。神や天皇などの高貴な人に対し、尊敬の意を表わして添える語。「…のみこと」の形で用い、普通名詞に添える場合と固有名詞に添えて接尾語的に用いる場合とがある。「尊」又は「命」と普通は書かれるが、ここは本来の「御事」を表わすのに「御言」と書いたもの。古代においては、「こと」は「言(こと)」をも「事(こと)」をも表わす。これは一語に両義があるということではなく、「事」は「言」に表われたとき初めて知覚されるという古代人的発想に基づくものとされる。時代とともに「言、事」の意味分化がすすみ、平安時代以降は、「言」の意には「ことのは」、「ことば」が多く用いられるようになる。「大宮者」は「大宮(おほみや)は」と訓む。「みや」のミは接頭語で「御屋」の意。それに更に「大」を加えて尊称としたもの。「者」はハ。

 14句「此間等雖聞 大殿者」「ここと聞けども 大殿は」と訓む。「此間等雖聞」は「此間(ここ)と聞けども」と訓む。「此間」は「この所」を意味し、万葉集では「此処(ここ)」の意で「此間」が多く用いられている。「等」はト。「雖」は「いえども」の意を持つドモとして使われている。「聞」は「きく、ききとる。おしえられる。ほまれ」などの意がある。「雖聞」は「聞けども」と訓む。「大殿者」は「大殿(おほとの)は」と訓む。「殿」は「たかどの」の意。「殿(との)」は、「身分の高い人の住む大きな邸宅。また、宮殿、役所など公の建物」をいう。「者」はハ。

 15句「此間等雖云 春草之」「ここと言へども 春草(はるくさ)の」と訓む。「此間等雖云」は「此間(ここ)と云へども」と訓む。「等」はト。「云」は「いう」の意。「雖云」は「云へども」と訓む。「春草之」は「春草の」と訓む。「春草」は、「春になって萌え出る草。若草」。

 16句「茂生有 霞立」「茂(しげ)く生(お)ひ有(た)る 霞(かすみ)立つ」と訓む。「茂生有」は「茂(しげ)く生(お)ひ有(た)る」と訓む。「茂」は「しげる、枝葉がこむ。さかん、ゆたか」などの意。ここでは「茂(しげ)く」と訓む。「生」は「はえる、うまれる。いきる。おいる、そだつ」などの意。ここは「生(お)ひ」と訓む。ここの「有」は「て有り」の約まってできた語でタりに用いられている。その連体形のタルと訓む。前句の「春草の茂(しげ)く生(お)ひ有(た)る」は「大宮處」を修飾する。廃墟になった後にも自然の営みは行われていることを詠うことで、人間の営みの儚さを思い見る悲しみがこめられており、有名な杜甫の「春望」の冒頭句「國破山河在 城春草木深」や芭蕉の句「夏草や兵どもが夢の跡」が想い起こされる。「霞立」は「霞(かすみ)立(た)つ」と訓む。「霞(かすみ)立つ」は枕詞、霞が春に立つところから「春」にかかり、同音「かす」により地名「春日(かすが)」にかかる。「春」にかかる場合は、多く実景として詠われる。

 結句「春日之霧流」「春日(ひ)の霧(き)れる」と訓む。「春日之霧流」 は「春日(ひ)の霧(き)れる」と訓む。「春日(ひ)」は「春の日。また、春の日の昼間」の意。「之」はノ。「霧」は説文解字に「地气發して、天應ぜざるをと曰ふ」とある。「きり、きりたつ。くらい。かるくこまかい、たちこめる」の意。ここでは「霧(き)れ」と訓む。「流」はル。「霞(かすみ)立つ春日(ひ)の霧(き)れる」も「春草の茂(しげ)く生(お)ひ有(た)る」と同様に「大宮處」を修飾する。
 
 異伝[或云。霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留]「 霞(かすみ)立つ 春日(ひ)か霧(き)れる 夏草か 繁(しげ)く成(な)りぬる」と訓む。異伝と本文の大きな違いは、本文の4句が「大宮處」を修飾する句になっているのに対して、異伝の4句はここで切れていることである。宮殿はここだと聞くが、それを見ることができないのは、春霞に遮られているためか、夏草が茂ってしまっているためか、と疑った形になっているのが異伝である。

 「百礒城之 大宮處 見者悲毛 [或云 見者左夫思母]」「百礒城(ももしき)の 大宮(おほみや)處(ところ) 見れば悲しも [或云 見ればさぶしも」」と訓む。「百礒城之」は「百礒城(ももしき)の」と訓む。「之」はノ。「百」は数の百を示す。字訓は「もも、もろもろ」。「礒」は、石のごろごろするさまをいう。「城」は武装都市のことをいう。「ももしきの」は、「大宮」にかかる枕詞として用いられたが、「大宮」を「多くの石で築いた城(き)」の意で称えたものとされ、「百の礒で築いた城」ということで「百礒城(ももしき)」の字があてられた。「大宮處」は「大宮(おほみや)處(ところ)」と訓む。「處」は「おる、ところ、おく」の意。所は名詞、處は動詞的な語であったようだ。「見者悲毛」は 「見れば悲しも」と訓む。「悲」は、「心が引きちぎられ、痛み悲しむ」意を表わし「悲し」と訓む。「毛」はモ。異伝の [或云 見者左夫思母] は「見ればさぶしも」と訓む。「左夫思母」はサブシモ。本文との違いは「かなし」と「さぶし」の違いであるので、言葉の意味を確認すると、「かなし」は、対象への真情が痛切にせまってはげしく心が揺さぶられるさまを広く表現するもので、悲哀にも愛憐にもいう。大きくは次の三つの意味がある。①死、別離など、人の願いにそむくような事態に直面して心が強くいたむ。なげかわしい。いたましい。②(愛)男女、親子などの間での切ない愛情を表わす。身にしみていとおしい。かわいくてたまらない。いとしい。③関心や興味を深くそそられて、感慨を催す。心にしみて感ずる。しみじみと心を打たれる。「見(み)れば悲(かな)しも」の「悲し」は、③の意味と考えられる。一方、「さぶし」は「さびし」に同じ。上代では「さぶし」の形で使われた。本来あるべき状態になく、また、本来備わっているはずのものが欠けていて、満たされない気持を表わす。物足りない、不満足、不景気、憂鬱、物悲しさなど心の楽しまぬ意に用いられた。

 橿原のひしりの御代、つまり神武天皇の時代から説き起こして、皇統をたどり、天智天皇の時に至って、石走る淡海の国に都が建てられたことを物語る。帝紀、旧辞によりつつ、神話的文脈の中で、天智天皇の業績をたたえているのであろう。だが、その都は、いまは荒れ果てて昔日の面影を残さない。人麻呂は霞立つ春日や夏草の茂みに対照させながら、そのことを歌う。中国の詩人杜甫の「春日」を思わせるようでもある。 

巻1(30)。
 
題詞
歴史解説
 (柿本人麻呂の作歌) 返し歌。今回は、第29番歌の反歌二首のうちの一首である。
原文  樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津
和訳  楽浪の 志賀の辛崎(からさき) 幸(さき)くあれど 大宮人(ひと)の 船待ちかねつ
現代文  「大津京の近辺の志賀の辛崎(からさき)はかってのままにさざ波を立てているけれど、その昔ここで大宮人達が舟遊びをしていたものだ。(もう見ることはできないが、その情景が思い出されてなりません)」。
文意解説  発句「樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有」「楽浪の 志賀の辛崎(からさき) 幸(さき)くあれど」と訓む。「樂浪之」は「樂浪(ささなみ)の」と訓む。「之」はノ。「樂浪(ささなみ)」は琵琶湖の西南沿岸地方の古名。「樂」の字を「ささ」と訓むのは神樂の囃言葉のササからきたものである。「思賀乃辛碕」は「思賀(しが、志賀)の辛碕(からさき、唐崎)」と訓む。「思賀乃」はシガノ。「思賀」で地名の「志賀」を表わす。「志賀」は、滋賀県南西部の郡名で、琵琶湖と比良山地にはさまれた地域をいう。「辛」はカラ。「碕」は水岸の曲折しているところをいう。わが国では岬の意に用いる。「辛碕」は地名で、今「唐崎」と書く。滋賀県大津市唐崎。大津京の時代、船着き場になっていたものと思われる。「雖幸有」は「幸(さき)く有(あ)れど」と訓む。「雖」は「いえども」。ここではドとして用いられている。「幸」は、ここでは「幸(さき)く」と訓む。「さいわいに。無事に。変わりなく。つつがなく」などの意があるが、ここでは「変わりなく」の意。既に「雖有」という表現があり「有れど」と訓んだが、ここはその間に「幸」が入った形。「幸(さき)く有(あ)れど」と訓む。上の句の「辛碕」が主語で、「それが変わらずにあるけれど」の意となる。「からさき」の「さき」と同音を繰り返して韻律的な効果も考えての表現となっている。

 結句「大宮人之 船麻知兼津」
「大宮(ひと)の 船待ちかねつ」と訓む。「大宮人之」は「大宮(おほみや)人の」と訓む。「之」はノ。「大宮人」は宮廷に仕える人たちのことで、ここは近江朝の人たち。第29番歌の「大宮處」を承けての表現。「船麻知兼津」は「船まち兼(か)ねつ」と訓む。この船は、大宮人が遊んだ船のことだとされている。「麻知」はマチ。「待ち」を表わすのに用いられている。「兼」は「兼ね」と訓む。「…し続けることができない。…しようとしてもできない」の意。「津」はツ。「舟待ちかねつ」は反語的表現。待っても待ってもの意。

 天智天皇崩御の折りに、舎人吉年が詠んだ第152番歌である。参考までに次に記しておく。「八隅知之(やすみしし)吾期大王乃(わごおほきみの)大御船(おほみふね) 待可将戀(まちかこふらむ)四賀乃辛埼(しがのからさき) 」。

 この歌は次の31番歌とともにちょっとした背景の理解が要る。「ささなみの志賀の辛崎(からさき)」とは滋賀県琵琶湖北岸に営まれた大津京の近辺。天智天皇の大宮が置かれたところ。「幸くあれど」は「かってのままにさざ波を立てているが」の意。かってここで大宮人達が舟遊びをしていたことを懐かしむ懐旧の歌である。

巻1(31)。

題詞
歴史解説
 (柿本人麻呂の作歌) 返し歌。 第29番歌の反歌の2首目。
原文  左散難弥乃 志我能 [一云 比良乃] 大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛 [一云 将會跡母戸八]
和訳  楽浪(ささなみ)の 志賀の大曲(おほわだ) 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも[一云 逢はむと思へや]
現代文  「楽浪(ささなみ)の志賀の入江が淀んでいても、昔の人に何としてでも再びお会いしたいと思う。(そう思いませんか皆の衆)」。
文意解説
 発句「左散難弥乃 志我能 [一云 比良乃] 大和太 與杼六友」「楽浪(ささなみ)の 志賀の大曲(おほわだ) 淀むともと訓む。「左散難弥乃」は「ささなみ(楽浪)の」と訓む。「志我能([比良乃)大和太」は、「志賀(比良)の大(おほ)わだ」と訓む。「志我能」はシガノ。「しが」は地名「志賀」で琵琶湖と比良山地にはさまれた地域をいう。「異伝」の「比良乃」はヒラノ。「比良」は滋賀県滋賀郡志賀町の地名。比良山東側のふもと、琵琶湖の南西岸にあり、北比良・南比良に分かれる。古くは南小松・木戸を含めて呼ばれた。大津京からは北に離れすぎている。「大」は「おほ」と訓み、広大の意や賛美、尊敬の意を添える接頭語。「和太」はワダ。地形の入り曲がっているところを意味し、入江などにいう。「大わだ」は「大曲」のことで、陸地が湾状に切れ込んだ場所。「與杼六友」は「よどむとも」と訓む。「與杼」はヨド。「六」は数字の六(む)つでム。「與杼六」で「淀(よど)む」を表わす。「流れがとどこおり水がたまる」の意。「友」はドモ。仮定条件で表わして意味を強める用法である。

 結句「昔人二 亦母相目八毛 [一云 将會跡母戸八]」「昔の人に またも逢はめやも(一云、逢はむと思へや)」と訓む。「昔人二」は「昔の人に」と訓む。「昔」は「向(むか)し」で現在に向って過ぎ去った時の意で、現在につながる過去の一時期、一時点をいう言葉。ここの「昔(むかし)の人(ひと)」は第三十番歌の「大宮人」を言い換えたもの。「二」は数字でニ。「亦母相目八毛[将會跡母戸八]」は「亦(また)も相(あ)はめやも[會(あ)はむともへや]」と訓む。「亦母」はマタモで「再度。重ねて」の意。「相」は「見る」ことを本義とする。ここでは「相(あ)は」と訓む。「目」はメ。「八」は数字の八(や)つでヤ。「六」、「二」を用いた所から、その和である「八」を用いたもの。「毛」はモ。「異伝 将會跡母戸八」は「逢はむと思へや」と訓む。の「将」は「まさに…す」と訓まれることから、意志・意向の意の助動詞ムを表わすために用いられる。「将會」は「會はむ」と訓む。「跡」はト。「母」はモ。「戸」はへ。「母戸」で「思へ」を表わす。「八」はヤ。


 かって共に過ごした大宮人たちを懐かしむ懐旧の歌である。流れがとまったように静かになる。このようにじっと待っているのに、こんなに会いたいのに、という歌である。この歌も直前の30番歌も共に柿本人麻呂の歌である。柿本人麻呂は勢いもあり荘重な宮廷歌人として名高い。確かに長歌にその才能が横溢していて歌聖と呼ばれるに相応しい。が、人麻呂はそうした歌に加えて、ここに示したような、素直に心に染みこんでくる歌も作っている。こうした両面を持ち合わせている点にこそ歌聖と呼ばれるに相応しい歌人との評を得る。

巻1(32)。高市連黒人

題詞
歴史解説
 高市連黒人(たけちのむらじくろひとの作歌。「高市古人感傷近江舊堵作歌 [或書云高市連黒人](高市連黒人が近江の旧堵(きゅうと、みやこ旧(あ)れたるを感傷しみよめる歌)」。「或る書に云はく、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)といへり」。

 天武天皇の壬申(じんしん)の乱によって近江朝廷は敗れ、都は再び大和の飛鳥地方(奈良県)に戻される。この歌はその後に古びてしまった近江の都へ立ち寄った高市古人が、繁栄していた昔の近江を思い出し感傷にふけり詠んだものとみなされている。
原文  古 人尓和礼有哉 樂浪乃 故京乎 見者悲寸
和訳  古(いにしへ)の 人にわれあれや ささなみの 古(ふる)き京(みやこ)を 見れば悲しき
現代文  「古い時代の人間だからか、私は楽浪の近江の旧都を見ると心がいたむことだよ」。
文意解説  発句「古 人尓和礼有哉」「古(いにしへ)の 人にわれあれや」と訓む。「古」は「古(いにしへ)の」と訓む。「古」は一字で「いにしへ」と訓む。「いにしへ」は「往(い)にし方(へ)」の意で、現在と遮断された遠く久しい過去を漠然という言葉。ノを補読する。「人尓和礼有哉」は「人にわれ有(あ)れや」と訓む。「尓」は二、「和礼」はニワレ。「哉」は、疑問・反語のヤ。「古(いにしへ)の人(ひと)にわれ有(あ)れや」で、「いにしえの人で自分はあるというのか、(そうではないのに)」という意となろう。

 結句「樂浪乃 故京乎 見者悲寸」「ささなみの 古(ふる)き京(みやこ)を 見れば悲しき」と訓む。「樂浪乃」は「樂浪(ささなみ)の」と訓む。「樂浪(ささなみ)」は琵琶湖の西南沿岸地方の古名である。神樂の囃言葉にササと言ったことから「神樂聲」をササと訓ませ、それを略して「神樂(ささ)浪(なみ)」とも書き、更にそれを略して「樂浪(ささなみ)」とも書いたものである。「故京乎」は「故(ふる)き京(みやこ)を」と訓む。「古き都」は原文で分かるように「故京」。つまり荒れ果てて今はなき都(京)のことである。「乎」はヲ。「故」は故意・事故を原義とし、そのことが原因をなすので事由の意となる。ここでは、「古」の意で「故(ふる)き」と訓む。「京」は都城、都の意を表わす。「見者悲寸」は「見れば悲しき」と訓む。「見者悲毛」とは最後の1字が違うだけ。「見」は「見れ」と訓む。「者」はバ。「悲」は心が引きちぎられ、痛み悲しむ意を表わす。ここの「悲寸」は「悲(かな)しき」と訓む。

巻1(33)。
 
題詞
歴史解説
 高市連黒人の作歌。
原文  樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
和訳  ささなみの 国つ御神の 心(うら)さびて 荒れ有(た)る京(みやこ) 見れば悲しも
現代文  「楽浪の地を治められていた国つ神の御魂も衰えて、荒廃に帰してしまった。この都を見ると悲しくてならない」。
文意解説  発句「樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而」「ささなみの 国つ御神の 心(うら)さびて」と訓む。「樂浪乃」は「樂浪(ささなみ)の」。「乃」はノ。「樂浪(ささなみ)」は琵琶湖の西南沿岸地方の故地を暗喩している。神樂の囃言葉にササと言ったことから「神樂聲」をササと訓ませ、それを略して「神樂(ささ)浪(なみ)」とも書き、更にそれを略して「樂浪(ささなみ)」とも書いたもの。「國都美神乃」は 「國つみ神の」と訓む。「都」は津、美神」はミカミ。「乃」はノ。「國つ御神」は、その國を支配する地主の神で天神に対する地祇。 「浦佐備而」は「うらさびて」と訓む。「浦」は「心」の意の「うら」を表わすために用いられた借訓仮名。「浦」は「裏」と同語源の言葉で、海、湖などの湾曲して、陸地に入り込んだ所をいう。「心」の意の「うら」も、意識して隠すつもりはなくても表面にはあらわれず隠れている心を表わし、「裏」と同語源の言葉である。「佐備」はサビ。「うらさび」の「うらさぶ」は「心さびしく感じる。何となく楽しまない。心がすさむ。また、さびれおとろえる」の意。「うらさぶ」が和歌で使われる時は、「浦」を掛けることが多いとされるが、ここも第1句の「樂浪」の「浪」を意識しての用字であると思われる。「而」はテ。

 結句「荒有京 見者悲毛」「荒れ有(た)る京(みやこ) 見れば悲しも」と訓む。「荒有京」は「荒れ有(た)る京(みやこ)」と訓む。「荒」は「荒れ」と訓む。「有」はタルと訓む。「京」は都城、都の意で、大津京を指す。「見者悲毛」は「見れば悲しも」と訓む。「見」は「見れ」。「者」はバ。「悲」は、心が引きちぎられ、痛み悲しむ意を表わす。ここでは「悲し」と訓み、「関心や興味を深くそそられて、感慨を催す。心にしみて感ずる。しみじみと心を打たれる」意を表わす。「毛」はモ。

 この歌も先の歌と同じく、力を失い衰退してしまった都の地霊を慰める鎮魂歌のようなもの。「国つ御神」は大津の守り神。神がお守り下さっていた都は今は荒れ果てて見る影もない。前歌が「見れば悲しき」、そうして当歌が「見れば悲しも」と「き」と「も」の一字違い。が、当歌の方が強い詠嘆感情を呼び起こす。「うらさびて荒れたる都」とあるのでいっそうその感が強い。

 伊藤博『萬葉集全注』は、第32番歌・第33番歌を「黒人荒都歌」と称して、「人麻呂荒都歌」と比較して述べているので、その部分を紹介しておこう。
 「黒人の第二首は、国つ御神への着眼に特色がある。黒人がここで、荒墟の因を国つ御神の衰退に求めているのは、天つ神の皇統譜を軸に荒都を嘆く人麻呂の歌と対照をなす。第一首では人麻呂の『昔の人にまたも逢はめやも』を承け、人麻呂に従属して、人麻呂に気づかいを送っている。しかし、第二首では、人麻呂に打って返すように、人麻呂が押し立てた天つ神ヘの関心を一切無視し、黒人自身の関心である国つ御神の霊魂の慰撫に没頭している。そして、その完全な転換の歌をもって、黒人は二首の連を閉じる。黒人の眼目が第二首にあり、それによって黒人独自の世界が打ち出されたことは疑えない。この独自性こそ、人麻呂への秘めたる意識そのものと見ることができる。黒人の歌には、国つ神の和みを得ることことのできなかった天つ神の子孫を、自らも含めて嘆く心があるのであろうか。人麻呂の驥尾に付しながら、近江旧都感傷歌にも人間存在そのものへの悲しみを深く見据える黒人らしい憂愁がたゆとうている」。

巻1(34)。川島皇子(かわしまのみこ)

題詞
歴史解説
 川島皇子(かわしまのみこの作歌。「紀伊国に幸せる時、川島皇子(かわしまのみこ。天智天皇の第二皇子)のよみませる歌(みうた)。「或ルヒト云ク、山上臣憶良ガ作」。「日本紀ニ曰ク、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国ニ幸ス」。日本書紀に登場する皇子たちがしばしば万葉歌の作者として題詞に登場するのは興味深い。単なる系図上の人物ではなく、生きた人物として生の声を忍ぶことができるのは実に素晴らしい。古代史にふくらみをもたらすことは間違いない。
原文  白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀  年乃經去良武 [一云 年者經尓計武]
和訳  白波の 浜松が枝の 手向(たむけ)ぐさ 幾代まてにか 年の経ぬらむ
現代文  「」。
文意解説
 発句「白浪乃 濱松之枝乃 手向草」白波の 浜松が枝の 手向(たむけ)ぐさと訓む。「白波の 浜松が枝の」は「白波が打ち寄せる浜辺の松の枝に手向けの品が架かっている」の意。「手向草」の草は種々(くさぐさ)の草で、品々の意味。布か帯か玉か何も記されていないので具体的には分からない。いずれにしても随分と長年月にわたって架かっていたもの。

 結句「幾代左右二賀  年乃經去良武 [一云 年者經尓計武]」幾代まてにか 年の経ぬらむと訓む。

 見知らぬ人が架けた「手向草」と解するのが素直だが、川島皇子周辺の親しい人物(たとえば大津皇子(おおつのみこ))に捧げられた品々と解していっそう哀傷の情を感じ取って鑑賞するのも悪くない、と思う。

巻1(35)。阿閇皇女(あべのひめみこ)
 
題詞
歴史解説
 阿閇皇女(あべのひめみこの作歌。「越勢能山時阿閇皇女御作歌(勢(せ)の山を越えたまふ時、阿閇皇女のよみませる御歌)。阿閇皇女天智天皇の第4皇女にして天武天皇の皇太子・草壁皇子(くさかべのみこ)の妻である。文武天皇を生む。文武崩御の後即位して元明天皇となる。この歌は夫を亡くした翌年に紀州(和歌山)を訪れたさいに詠まれたものといわれている。この歌もちょっとした背景を頭に入れて鑑賞すると興趣が高まる歌のひとつ。この歌が作られたとき皇女は夫と死別後まだ一年半。和歌山県(紀伊)に入って背の山を越えて行くときの歌。
原文  此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山
和訳  これやこの 大和(やまと)にしては わが恋ふる 紀路(きぢ)にありといふ 名に負(お)ふ背(せ)の山
現代文  「紀州路にあると聞いてかねて大和で心ひかれていた背の山。ああ、これこそその名にそむかぬ背の山だわ」。
文意解説  発句「此也是能 倭尓四手者」「これやこの 大和(やまと)にしては」と訓む。「此也是能」は「此(こ)れや是(こ)の」と訓む。「此」は之と同声でシ、字訓は「これ・この」。「也」はヤ。「是」は字音はゼ・シ、字訓は「さじ・ただしい・よい・これ・この」。「能」はノ。「これやこの」は「これぞこの」のゾがヤにかわったもので意味は同じ。以前から聞いていた事を現実の出来事によって強く肯定する語で、「これこそ例の。これがあの」の意。「倭尓四手者」は「倭(やまと)にしては」と訓む。「倭」はヤマト。「尓」はニ。「四」は数のシ。「手者」はテハ。「にしては」は「…においては。…にあっては」の意。

 結句「我戀流 木路尓有云 名二負勢能山」「わが恋ふる 紀路(きぢ)にありといふ 名に負(お)ふ背(せ)の山」と訓む。「我戀流」は「我(わ)が戀(こ)ふる」と訓む。「我」は一人称の代名詞に仮借して用いる。「戀」の字音はレンで字訓は「おもう・こう・こい・したう」。「流」はル。澤瀉『萬葉集注釋』では、この「戀(こ)ふる」を結句にかけるのは無理だとして、そのまま素直に次の句へ続いているとみるのが良いとしている。しかし、この歌の初句「これやこの」は明らかに結句の「勢能山」と呼応していることからしても、「戀(こ)ふる」は「勢能山」にかかるとする他の註釈の方が良いように思う。「木路尓有云」は「き路(ぢ)に有(あ)りと云ふ」と訓む。「木」はキ。「き路(ぢ)」は「紀路」で紀伊への道をいう。「尓」はニ。「有云」は「ありとふ」とも訓まれるが、母音を含む8音なので文字のまま字余りに訓んでおく。「名二負勢能山」は「名に負(お)ふせの山」と訓む。「名」は「な、なづける」の意となる。「二」は数字のニ。「負」も「背に財貨をおう、おう、になう」の意。「名に負ふ」は名にふさわしい実態を背負う意。「勢能」はセノ。「せの山」は和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山で、現在は「背ノ山」と書く。

巻1(36)。柿本朝臣人麿
 長歌。
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌(吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌)」。持統天皇は即位の年からその翌々年にかけて六回も、吉野宮に行幸している。その一つに従駕して作ったのがこの歌である。持統天皇の吉野行幸は在位中31回を数えている。吉野は、大海人皇子が、天智天皇の崩御前後の事情により難を逃れて身を寄せた地であり、壬申の乱に向けて挙兵の準備をしたところである。持統天皇は、この思い出の地に離宮を建てた。人麻呂は、その持統天皇の立場に立って離宮の造営を詠っている。大宮人が舟を並べて落ち激つ滝の宮処に向かうさまは、新しい天皇のもとに国民がこぞって国作りに励むというイメージが付与されている。
原文  八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡  御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可問
和訳  やすみしし 我が大王(おほきみ)の きこしをす 天の下に 國はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心を 吉野の國の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷き座(ま)せば ももしきの 大宮人は 船()めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし 水(みな)激(そそ)く 滝の宮處(みやこ)は 見れど飽かぬかも
現代文  「八方をお治めになっている 我が大君の 統治されている この天下に 国というものは 沢山有るけれど 山や川の 清らかな河内として 御心をお寄せになる 吉野の国の 花のしきりと散る 秋津の野辺に 宮殿の柱を 立派にお建てになると その御殿で お仕えしている人達は 船を並べて 朝に川を渡り 舟を漕ぐのを競って 夕に川を渡る この川のように絶える事なく この山のようにいよいよ高く君臨したまう 水音高く流れ落ちる この瀧の宮処は 見ても見ても見飽きることがない」。
文意解説  長歌(れんだいこ式13句)。
 発句「八隅知之 吾大王之 所」
「やすみしし 我が大王(おほきみ)の」と訓む。「八隅知之」は「やすみしし」と訓む。「八隅知」は「やすみし」。「之」はシ。「吾大王之」は「吾(わ)が大王(おほきみ)の」と訓む。「大王」は「大君」で天皇の尊称。「わがおほきみ」は、現在の天皇を敬っていう語。「之」はノ。

 2句「聞食 天下尓」は「きこしをす 天の下に」と訓む。「所聞食」は「聞(き)こし食(め)す」と訓む。「所知」を「知らし」と訓んだのと同じように「所聞」は「聞こし」と訓み、「食」は「食す」=「召す」で「食(め)す」と訓む。「聞く」にスがついて「聞かす」となり、そのカがコに転じて「聞こす」となったもの。「聞く」は聞知する意で、「聞こし食(め)す」は「知らし食(め)す」と同じく、統治し給うの意となる。「天下尓」は「天(あめ)の下に」と訓む。「高天原の下にある、この国土」を意味する。「尓」はニ。

 3句「國者思毛 澤二雖有」
「國はしも 多(さは)にあれども」と訓む。「國者思毛」は「國はしも」と訓む。「國」は既述。「者思毛」はハシモ。「澤二雖有」は「澤(さは)に有(あ)れども」と訓む。「澤(さは)」は本来は「水と草のまじわるところ」の意だが、物の多い意の「さは」にも用いられる。ニを伴って「澤(さは)に」と訓む。ちなみに「澤=沢」は同じ多いことを表わす「山」と重ねて「沢山(たくさん)」となる。「雖有」は「有(あ)れども」と訓む。

 4句「山川之 清河内跡」
「山川の 清き河内(かふち)と」と訓ム。「山川之」は「山川の」と訓む。「之」はノ。「清河内跡」は「清き河内(かふち)と」と訓む。「清」は清朗また清澄の意。万葉集では、山川の美を述べるのに「美し」とは言わずに「清し」を用いる。「河内」は文字通り、河につつまれているところ、河の行き巡っているところの意。吉野の離宮跡と思われる宮瀧は吉野川が三方を包むよう流れていて、「河内」と呼ぶにふさわしい地形である。「河内」はカハウチをつづめてカフチという。「跡」はト。

 5句「御心乎 吉野乃國之」
御心を 吉野の國のと訓む。「御心乎」は「御心(みこころ)を」と訓む。「御心(みこころ)」は、相手、特に神や天皇を敬ってその心を言う語で、ミは接頭語。「御心(みこころ)を」は「御心(みこころ)を寄す」の意で、「寄し」と同音を含む地名「吉野」にかかる枕詞と見ることもできるが、ここは「清(きよ)き河内(かふち)と」から続いて、「…として御心(みこころ)を寄す」となり、枕詞として固定したものとも言えない。枕詞にも意味を持たせる人麻呂の修辞法のすぐれたところといえる。「乎」はヲ。「吉野乃國之」は「吉野の國の」と訓む。「國」は人為的に定められた一定区域の地方をいう。大和の一部でありながら、特に「國」と呼ばれる土地は、この吉野と泊瀬と春日と難波とに限られる。いずれも格別な地域であると意識されていたことに基づく。「乃、之」ともノを表わす。

 6句「花散相 秋津乃野邊尓」
花散らふ 秋津の野辺にと訓む。「花散相」は「花散らふ」と訓む。「花」の正字は「華」。「散」は「たたいてほぐす、ちらす、ちる」の意。「相」は「あふ」と訓むことから「(あ)ふ」の借訓仮名として用いて、「散る」の未然形「散ら」に反復・継続の助動詞「ふ」の付いた「散らふ」の表記として「散相」としたもの。「散らふ」は「散り続ける」の意。「花散らふ」を「秋津」の枕詞とする説があり、稲の花が盛んに散る意で豊かな稔りの秋を引き出すとするものだが、賛成しがたい。「花散らふ」は実景を詠んだものとする説の方に組したい。第16番歌(春秋優劣判定歌) の「春去り来れば … 開かず有りし 花もさけれど」と詠われたまさにその「花」がしきりに散る様子を詠んだもので季節は「春」。次の句の「秋津の野辺」の「秋」の語との対を意識していると考えたい。これが実景だということであれば、行幸の時節を示しているとも見得る。枕詞とする説では、慣用される連体格は連濁しやすいとして「はなぢらふ」と訓むが、「はなちらふ」と清音に訓んで枕詞とは考えないこととする。「秋津乃野邊尓」は「秋津(あきづ)の野邊(のへ)に」と訓む。「秋津」は吉野離宮のあたりの地名。この地名は蜻蛉の古名の「あきつ」に由来したものと思われ、昆虫の蜻蛉は、記紀の仮名書きの例から上代においては「あきづ」と濁音であったのが後に清音となり「あきつ」となったとされているので、この地名も「あきづ」と訓むこととする。「乃」はノ。「野邊」は逆に古くは「のへ」であったものが後に「のべ」となったもので「のへ」と訓む。「野のほとり」の意。「尓」は二。

 7句「宮柱 太敷座波」
「宮柱 太敷き座(ま)せば」と訓む。「宮柱」は「みやはしら」と訓む。「皇居または宮殿の柱」の意で、ここでは吉野離宮の柱をいう。「太敷座波」は「太(ふと)敷(し)き座(ま)せば」と訓む。「太敷く」は、「宮殿などの柱をしっかりとゆるがないように地に打ちこむ。宮殿を壮大に造営する」ことをいう。「座(ま)す」は、動詞の連用形に付いて尊敬の意を添える補助動詞。「波」はバ。

 8区「百礒城乃 大宮人者」「ももしきの 大宮人は」と訓む。「百礒城乃」は「百礒城(ももしき)の」と訓む。「大宮」にかかる枕詞として用いられたもの。「乃」はノ。「大宮人者」は「大宮(おほみや)人は」と訓む。「大宮人」は宮廷に仕える官人のこと。「者」はハ。
 
 9句「船並弖 旦川渡」
「船並(な)めて 朝川渡り」と訓む。「船並弖」は「船並(な)めて」と訓む。「弖」はテ。「馬なめて」とあったのと同じく、「並(な)む」は「ならべる、つらねる」で、「船並(な)めて」は「船を並べて」の意。「旦川渡」は「旦(あさ)川渡る」と訓む。「旦」は「よあけ、あさ、あした」。「船を並べて、朝に川を渡って」の意。

 10句「舟競 夕河渡」
舟競(ふなきほ)ひ 夕川渡る」と訓む。「舟競」は「舟(ふな)競(ぎほ)ひ」と訓む。ここの訓みは第4462番歌に「布奈藝保布(ふなぎほふ)」の仮名書き例があることによる。「舟」は単独では「ふね」だが母音交替を起こして「ふな」ともなる。「競(きほ)ふ」は、「負けまいとしてはりあう。競争する」の意。「競」の字訓は「きそふ」だが、万葉集では「きそふ」の語は見られないので「きほふ」と訓む。「夕河渡」は「夕(ゆふ)河(かは)渡る」と訓む。「船で競争して、夕に河を渡る」の意となり、前句と対句をなす。「朝…」「夕…」の対句はよく見られる。

 11句「此川乃 絶事奈久」
この川の 絶ゆることなくと訓む。「此川乃」は「此(こ)の川の」と訓む。「此(こ)の」は、上の対句を受けて言ったものであり、また七句の「山川の」の「川」をも受けたもので、「此の川」は吉野川のこと。「乃」はノ。「絶事奈久」は「絶ゆる事なく」と訓む。「絶ゆ」は「続いているもの(糸)が途中で切れる」ことを意味する。「事」は、その語句の表わす行為や事態や具体的な内容などを体言化する形式名詞。「奈久」はナク。

 12句「此山乃 弥高思良珠」
この山の いや高からしと訓む。「此山乃」は「此(こ)の山の」と訓む。「此の山」は前句「此の川の」との対で吉野山のこと。「乃」はノ。「弥高思良珠」は「弥(いや)高しらす」と訓む。「弥」は「いよいよ、ますます」の意として「いや」と訓む。「高しる」は「立派に治める。立派に統治する」ことをいう。「高(たか)」は、「太敷く」の「太(ふと)」と同様のほめことば。「思良珠」はシラス。

 結句「水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可問」
「水(みな)激(そそ)く 滝の宮處(みやこ)は 見れど飽かぬかも」と訓む。「水激」は「水(みな)激(そそ)く」と訓む。「激(そそ)く」は音を立てて水が流れる意。ここの訓みには、他に「みづはしる、みなぎらふ、みづたぎつ」など諸説あるが、次の「瀧」に掛かる言葉であることから「激(そそ)く」を採る。「瀧之宮子波」は「瀧(たき)の宮こは」と訓む。「瀧(たき)の宮こ」は宮瀧にあった吉野離宮を指す。宮瀧の地は今は瀧がないが、当時はその名のように瀧があったと考えられている。「波」はハ。「見礼跡不飽可問」は「見れど飽かぬかも」と訓む。「礼跡」はレド。「飽(あ)く」は「満足する」意だが、打消しを伴う場合は「十分になってもうたくさんだと思う。いやになる。飽きる」の意になる。「不飽」は「飽(あ)かぬ」と訓み「飽きることはない」の意。「可問」はカモ。

 巻一の人麻呂作歌において「近江荒都歌」の次に置かれているのが「吉野讃歌」である。「近江荒都歌」では、近江の旧都を訪れた一人の人間の目を通して歴史の変転が見つめられ、自然と対比してその感慨を詠むものであったが、「吉野讃歌」では行幸の場において現在の天皇の治世を寿ぐことを明確な目的として詠まれたものである。新たな時代への賛美は、政治的な危機をはらんだ持統朝初期の朝廷が必要としたところであり、人麻呂はそれを「言葉の力」によって推し進め、人々に強い印象を与えたものと思われる。人麻呂は、表現としての伝統性を重んじながらも、自身の創造した表現を巧みにそこに盛り込むことによって「言葉の力」を引き出している。本歌は、吉野の国を褒め、雄略記の「秋津(蜻蛉)野」にも出てくるニギハヤヒ王朝の「秋津」を引き出し、出雲大社を暗喩する「宮柱 太敷(し)き座せば」を語り、「この川の 絶ゆる事なく」と詠い、「見れど飽かぬかも」で郷愁している。見事と云うしかない名歌である。

巻1(37)。

題詞
歴史解説
 反し歌。作者は柿本人麻呂とされている。水苔の周囲を絶えることなく流れ下っていく吉野川。いつまで眺めていても見飽きることがない。この吉野の宮は人麻呂の仕えていた持統天皇がしげしげと行幸を繰り返した場所である。
原文  雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
和訳  見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく 復(また)還(かへ)り見むや
現代文  「見ても見飽きることのない吉野の川の常滑のように絶えることなく、私も何度もやってきて、この滝の都を見よう」。
文意解説
 発句「雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃」は「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)」と訓む。「雖見飽奴」は「見れど飽かぬ」と訓む。「見ても見ても飽きない」の意。「雖見」は「見れど」と訓む。「奴」はヌ。「雖」は「いえども」。ここでは、逆接の確定条件を表わす接続助詞ドとして用いられ、「見れど飽かぬ」は長歌の末句をそのまま受けたもので人麻呂が創出した表現である。「吉野乃河之」は「吉野の河の」と訓む。「乃」はノ。「之」はノ。「吉野の河(かは)」は言うまでもないが、長歌で大宮人が朝に船を並べ夕に漕ぎ比べを競った川を受けている。「常滑乃」は「常(とこ)滑(なめ)の」と訓む。「常」は「つねに、ひさしい」の意。永久不変を意味する和語の「とこ」にあてられた。「滑」も骨になめらか、つややか、みだれるなどの意がある。「常滑」で「とこなめ」と訓み、「流れのある水底の石などに水ごけが付き、いつもなめらかですべりやすくなっているところ」をいう。常滑(とこなめ)は広辞苑を引くと「岩にいつも生えている水苔」とある。美しい清流に群生する緑色の苔が思い浮かぶ。「乃」はノ。

 結句「絶事無久 復還見牟」は「絶ゆることなく 復(また)還(かへ)り見むや」と訓む。「絶事無久」は「絶(た)ゆる事(こと)無(な)く」と訓む。「久」はク。長歌の「絶事奈久」の「奈」の表記を「無」に変えただけの同じ表現で人麻呂が創出したもの。「復還見牟」は「復(また)還(かへ)り見(み)む」と訓む。「復」の字訓は「かえる・むくいる・くりかえす・また」で、ここはマタと訓む。「還」の字訓は「かえる・めぐる」で、ここは「還(かへ)る」の連用形で「還(かへ)り」と訓む。「還る」は「事物や事柄が、もとの場所、状態などにもどる」こと。「見む」は、「見」にムが付いたもの。「復(また)還(かへ)り見む」は「再び元の所へ戻って見よう」の意となる。そして、この「見る」対象は、長歌にいう「瀧(たき)の宮こ」ということになろう。「見る」という対象讃美を、長歌から引き継ぐが、「見む」という主体の意志に引き付けた表現でもって、大宮人の共有的な意志を表わし、「瀧(たき)の宮こ」に対する賛美を集約する形で、あたかも個の思いの表白であるかのように一首を詠いおさめる。「牟」はム。
 伊藤博『萬葉集全注』はこの句について次のように語る。
 「この句は、空間を将来に追いやった表現で、人間や物象が無限に流れる時間の中で泳いでいることを自覚する者の言葉である。時間の刻みの中で涙を流した近江荒都歌の第二反歌「またも逢はめやも」を陽性にした表現で、この句によって、反歌は長歌からの離陸と発展を遂げることができた。長歌の空間はここで永遠の時間の上に載せられ、讃歌の機能を全うしたのである」。

巻1(38)。柿本朝臣人麿
 長歌。
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。この歌は持統天皇が吉野の宮に行幸したとき、同行した柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が詠んだものだといわれている。持統天皇(ぢとうてんわう)は天武天皇(てんむてんわう)の妻で、天武天皇が亡くなった後即位する。持統天皇は自分の子である草壁皇子(くさかべのみこ)を天皇にしたかったようで、姉の子である大津皇子を謀殺したとされている。結局、草壁皇子は病弱で即位できずに亡くなってしまったため、持統天皇が即位することになった。宮廷歌人・柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の歌はこれが万葉集の中で一番最初に出てくる歌である。
原文  安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 <芳>野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為<勢><婆>  疊有 青垣山 山神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭<刺>理 [一云 黄葉加射之]  <逝>副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流  神乃御代鴨
和訳  やすみしし わご大君(おほきみ) 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見を為(せ)せば 畳(たたな)はる 青垣山(あおがきやま) 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみじ)かざせり 逝(ゆ)き副(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかわ)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依(よ)りて仕ふる 神の御代かも
現代文  「わが天皇が、神そのものとして、神々しくおられるとして、吉野川の流れ激しい河内に、見事な宮殿を高くお作りになり、そこに登り立って国土をご覧になると、何層にも重なる青い垣根のごとき山では、山の神が天皇に奉る貢ぎ物として、大宮人らは春には花を挿頭(かざし)に持ち、秋になると紅葉を頭に挿しているよ。宮殿をめぐって流れる川の神も、天皇の食膳に奉仕するというので、大宮人らは上流には鵜飼いを催し、下流には網を渡して魚を捕っているよ。ほんとうに、山も川もこぞってお仕えする神たる天皇の御代だなあ」。

 安らかに天下をお治めになる わが大君が 神でおありになるままに 神らしく振る舞われるとて 吉野川の 水が激しく流れる河内に 高殿を 高々とお作りになり 登り立って 国見をなさると 幾重にも重なる 青垣のような山々は 山の神が 奉る貢ぎ物として 春には 花を髪にかざし 秋になると もみじをかざしている 離宮に沿って流れる 川の神も 大君のお食事に ご奉仕しようと 上の瀬に 鵜川の用意をし 下の瀬に 小網を張り広げる 山や川の神までも このように心服してお仕えする 神の御代であるよ
文意解説  長歌(れんだいこ式14句)。
 発句「安見知之 吾大王」「やすみしし わご大君(おほきみ)」と訓む。「安見知」は「やすみし」。「之」はシ。「やすみしし」は「我が大君」にかかる枕詞。「安見知之」の用字は、「安らかに知ろしめす」の意を含み、「八隅知之」の用字は、「国の隅々まで知らす」の意を含む。「吾大王」は「吾(わ)が大王(おほきみ)」と訓む。「大王」は「大君」で既述。

 2句「神長柄 神佐備世須登」「神ながら 神さびせすと」と訓む。「神長柄」は「神ながら」と訓む。「かみ(神)」が名詞や動詞などの上に来て複合を作る場合、多くは「かむ」(後には「かん」)の形をとる。「長柄」はナガラ。カラはその物に備わっている本性の意。「神(かむ)ながら」は「神の本性そのままに。神でおありになるままに」の意。「神佐備世須登」は「神(かむ)さびせすと」と訓む。「佐備世須登」は、サビセスト。サブは、「…にふさわしい振る舞いををする、…らしい様子・状態である」意を表わす。「神さび」は「神らしく振る舞うこと」の意。セスは、スの未然形セにスが付いたもの。「登」はトで「とて」の意。

 3句「<芳>野川 多藝津河内尓」「<芳>野川 激(たぎ)つ河内に」と訓む。「芳野川」は「芳(よし、吉)野川」と訓む。紀ノ川上流部のことを奈良県でいう名で、大台ケ原山(1695メートル)を源とし、吉野町で高見川を合わせ、極端な曲流をなし、宮滝を経る。五條市付近で段丘地形の盆地をつくり、和歌山県にはいり紀ノ川となる。「多藝尓」はタギニ。「津」はツ。「たぎつ」は「水がわきあがる。水があふれるように激しく流れる」の意。「河内」は、「河につつまれているところ、河の行き巡っているところ」の意。

 4句「高殿乎 高知座而」「高殿を 高知りまして」と訓む。「高殿乎」は「高殿(たかどの)を」と訓む。「高殿」は、「高く造った殿舎。高い建物。高楼。楼閣」の意。「乎」はヲ。「高知る」は、「立派に治める。立派に統治する」ことをいう。「座(ま)す」は、動詞の連用形に付いて尊敬の意を添える補助動詞。「而」はテ。

 5句「上立 國見乎為<勢><婆>」「登り立ち 国見を為(せ)せば」と訓む。「上立」は「上(のぼ)り立ち」と訓む。「のぼりたち」は第2番歌に「騰立」の表記で既出。現在では「のぼる」には、「登る、昇る、上る」の表記があり、意味に合わせて用いられることが多い。「登る」は「下から上へ、低い所から高い所へ移る」という意味の場合に、「昇る」は「高い地位、昇進する」あるいは「太陽・月などが空高く現れる。また、上方へすすんで高い所に達する」という意味の場合に用いる。その他の意味の場合には「上る」が使われる。ここでの意味からすると現在の表記では「登り立ち」となる。「國見」は、大王や地方の首長が高い所から国の地勢や人民の生活状態などを望み見ることを意味し、国を支配する者の支配の象徴的行為。「為勢婆」はヲセバ。「為波」とする諸本があり「為(す)れば」と訓まれていたが、古写本に「為勢婆」とあり「為(せ)せば」と訓むのが通説になった。バは順接の接続助詞「~(する)と」。

 6句「疊有 青垣山」「畳(たたな)はる 青垣山(あおがきやま)」と訓む。「疊有」は「疊有(たたなは)る」と訓む。「疊(たた)む」は、「ある」が付いて「たたなはる」という動詞となったものかと思われるが定かでない。「たたなはる」は、「山などが幾重にも重なり合ってつらなる。重畳する」の意、ここは連体形で次の句の「青垣山」にかかる。なお、「有」の字を「着」の字に誤ったものだとしてここを、「青垣山」にかかる枕詞である「たたなづく」とする説もある。「青垣山(あをかきやま)」は「垣のように、周囲をとりまいている、木の青々と茂った山」をいう。吉野の離宮の周囲が山で囲まれていることを詠んだもの。

 7句「山神乃 奉御調等」「山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と」と訓む。「山神乃」は「山神(やまつみ)の」と訓む。「乃」はノ。「やまつみ」のツはノの意の古い格助詞で、「やまつみ」は「山の霊(み)」の意で、山の神、山をつかさどる神霊のこと。古事記には「次生山神。名大山津見神」(次に山の神を生む。名は大山津見(おほやまつみの)神)とあり、日本書紀には「山神等號山祇」(山神たちを山祇(やまつみ)と号す)とある。「奉御調等」は「奉(まつ)る御調(みつき)と」と訓む。「等」はト。「奉」は「奉(まつ)る」と訓み、「やる(遣)」「おくる(送)」の謙譲語で、その動作の対象を敬い、「さしあげる。献上する」の意。「御調」は「みつき」と訓み、後の「みつぎ(貢)」で、「土地の産物として貢献するもの」をいう。「等」はトで、「として」の意。

 8句「春部者 花挿頭持」「春べは 花かざし持ち」と訓む。「春部者」は「春べは」と訓む。「部」はへ。「者」はハ。ここの訓みは他に「はるへには」がある。「はるべ」は古くは「はるへ」で、「春の頃、春さき」の意。「はるへには」の訓みは、五音に合わせるために二を補読したものであるが、ここは表記通りに訓んでおく。「花挿頭持」は「花挿頭(かざし)持ち」と訓む。「かざし」は、「かざす(挿頭)」の連用形の名詞化したもので、「挿頭」という文字が用いられていることからもわかるように、梅や桜などを頭に挿して飾りとしたものをいう。ここは山々に咲く花を、山の神が天皇への御調として花を挿頭していると見立てたもの。

 9句「秋立者 黄葉頭<刺>理 [一云 黄葉加射之]」「秋立てば 黄葉(もみじ)かざせり」と訓む。「秋立者」は「秋立てば」と訓む。「者」はバ。「春へは」と対句をなす。「黄葉頭刺理」は「黄葉(もみち)頭刺(かざ)せり」と訓む。「理」はリ。「黄葉」は、これを「もみち」と訓じる。木の葉の色づくのを「もみつ」と言い、色づいた葉を「もみちば」または「もみち」と言ったことによる。後世は「もみち」に「紅葉」の字を充てるが、万葉集ではほとんど「黄葉」の字が用いられている。「頭刺」は「挿頭」と同じく、頭に花などを飾りとしてさすことをいう動詞「かざす」にあてたもので、ここは已然形の「頭刺(かざ)せ」と訓む。「り」は完了・存続の助動詞。「花(はな)挿頭(かざし)持(も)ち」と対句をなす。この句には[一云 黄葉加射之]の異伝があり、こちらは[黄葉(もみちば)かざし] と訓む。こちらの「黄葉」は音数を合わせるため「もみちば」と訓む。「加射之」はカザシ。「かざし」は「かざす」の連用形。本文は「かざせり」と終止形で、この句で切れた独立した形をとる。対句で、春の花、秋のもみぢを対照させ、更に上の「疊有(たたなは)る」以下の句が、次の句と長い対句をなしており、前半に「山の神」の奉仕の様を述べたのに対し後半に「川の神」のそれを述べると言う整然とした構成で詠まれている。

 10句「<逝>副 川之神母」「逝(ゆ)き副(そ)ふ 川の神も」と訓む。「<逝>副」は「逝(ゆ)き副(そ)ふ」と訓む。「逝」は、説文解字に「往くなり」とあり、「ゆく、さる」が本義。のちに「しぬ、みまかる」の意にも用いるようになったが、ここにはその意はない。「副」の字訓に「さく、わかつ、そう」がある。「逝(ゆ)き副(そ)ふ」は、武田祐吉『萬葉集全註釋』が「宮殿の前を流れる吉野川を、逝(ゆ)き副(そ)ふ川と云つてゐる」と解いたのに従う。「川之神母」は「川(かは)の神(かみ)も」と訓む。「之」はノ。「母」はモ。

 11句「大御食尓 仕奉等」「大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると」と訓む。「大御食」の「大、御」は共に接頭語で、神や天皇の食事を尊んで「御食(みけ)」とも「大御食(おほみけ)」とも言った。「尓」はニ。「仕奉等」は「仕(つか)へ奉(まつ)ると」と訓む。「等」はト。「仕」の字訓は「つかえる、しごとする」。「奉」は既述。「仕奉」は、語順を入れ換えると「奉仕」となり、「仕(つか)へ奉(まつ)ると」は「奉仕するとて」の意。「奉(まつ)る御調(みつき)と」に対応する。

 12句「上瀬尓 鵜川乎立」「上つ瀬に 鵜川(うかわ)を立ち」と訓む。「上瀬尓」は「上(かみ)つ瀬に」と訓む。「上」の字訓には「うえ、かみ、あがる、のぼる」などがあるが、ここは「かみ」。「瀬」は説文解字に「水、沙上を流るるなり」とあり、浅瀬をいう。石の多い山川の急湍のところ。わが国では、狭い海峡を瀬門(せと)という。「尓」は二。この句を「上(かみ)つ瀬(せ)に」と訓むのは、古事記の允恭記の最後の歌謡に「加美都勢爾」の仮名書き例があることによる。「鵜川乎立」は「鵜川(うかは)を立(た)ち」と訓む。「乎」はヲ。「鵜川」は、川における漁法の一種。昼間、首縄をかけずに鵜を川に放ち、上流から下流へ魚を追わせて、あらかじめ川底に下ろした敷網と下流に立てきった網に魚が集まったところで、その網を引き上げる漁法であるという。「立つ」は設けるの意で、「鵜川を立つ」は「鵜川」の準備をすることをいう。

 13句「下瀬尓 小網刺渡 山川母」「下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も」と訓む。前句と対句をなす。古事記の允恭記の歌謡に「斯毛都勢爾」の仮名書き例がある。ツはノの意味の格助詞だが、位置や場所についていうものが多く、「天つ神」と「国つ神」、「沖つ波」と「辺つ波」、「内つ国」と「外つ国」、「海(わた)つ霊(み)」と「山つ霊」、「上つ瀬」と「下つ瀬」など、対になって使われるものがほとんどである。「尓」はニ。「小網刺渡」は「小網(さで)刺し渡す」と訓む。「小網」はサデと訓み、「掬網(すくいあみ)の一つ。交差させた竹や木に網を張ったもの。また、細い竹や木で輪を作り、平たく網を張って柄を付けたもの」をいう。「刺」の声符は朿(し)。朿は先の鋭くとがった木。これを標木として立てることもあり、また刺突するのに用いることもある。「渡」の声符は度(ど)。度は席を手にもって拡げる形。これにより彼方に及ぶ意がある。「刺(さ)し渡す」は、「小網」を川瀬に刺して横に張り渡したことを言うのではないかと思う。「山川母」は「山川も」と訓む。「母」はモ。「山」は、「疊有(たたなは)る」以下を、「川」は、「逝(ゆ)き副(そ)ふ」以下を承ける。上の長い対句をこの句で承けて、この句以下3句でもって、この長歌を結び、それが反歌へとつながる。

 結句「依弖奉流  神乃御代鴨」「依(よ)りて仕ふる 神の御代かも」と訓む。「依弖奉流」は「依(よ)りて仕ふる」と訓む。「依(よ)る」は心服、帰順の意。「弖」はテ。「奉」は普通「たてまつる」または「まつる」と訓む。「流」はル。この長歌でも、「奉御調等」は「奉(まつ)る御調(みつき)と」、「仕奉等」は「仕(つか)へ奉(まつ)ると」、といずれも「奉(まつ)る」と訓じた。しかしここは「奉流」で「つかふる」と訓む。巻二の額田王の歌である第155番歌に「御陵奉仕流」とあり「みはかつかふる」と訓まれるのを参考にしての訓みである。「神乃御代鴨」は「神の御代かも」と訓む。「乃」はノ。「鴨」はカモ。「御代」はミヨと訓み、「天皇の治世」の意。

巻1(39)。

題詞
歴史解説
 この歌は先に紹介した巻一(三十八)の柿本朝臣人麿の長歌に付けられた反歌(返し歌)。左注に「右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌」とある。当時の吉野は霊力の満ちた特殊な場所と考えられており、その霊力を授かろうと持統天皇による吉野行幸は計30回にも及んだ。藤原京のある飛鳥地方から吉野へ向かう道はいくつかありますが、この行幸に使われたのはおそらく今の明日香の柏森(かやのもり)と吉野の千股(ちまた)地区を結ぶ芋峠(いもとうげ)だろうといわれている。
原文  山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
和訳  山川も 依(よ)りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出為(せ)すかも
現代文  「山の神も川の神も一丸となって仕え従う現人神(あらひとがみ)の天皇は、神そのものとして、いま激流ほとばしる河内に船出されようとしておられるよ」。
文意解説  発句「山川毛 因而奉流 神長柄」「山川も 依(よ)りて仕ふる 神ながら」と訓む。「山川毛」は「山川も」と訓む。「毛」はモ。モを表わすのに長歌では「母」、ここでは「毛」が用いられている。「因而奉流」は「因(よ)りて奉(つか)ふる」と訓む。「而」はテ。「流」はル。「よりて」の表記は異なるが長歌の「依弖奉流」と同じ。「依りて」は「よりどころにして」の意。山や川もよりどころにして仕える神、すなわち天皇(持統)のこと。「河内に」は文字通り川の中の意。「神でいらっしゃる天皇であらせられるから激流渦巻く川の中へ舟出していかれた」の歌意になる。「神長柄」は「神(かむ)ながら」と訓む。「長柄」はナガラ。

 結句「多藝津河内尓 船出為加母」「たぎつ河内に 船出為(せ)すかも」と訓む。「多藝津河内尓」は「たぎつ河内(かふち)に」と訓む。「多藝尓」は、タギニ。「津」はツ。「船出為加母」は「船出(ふなで)為(せ)すかも」と訓む。「船出」を「ふなで」と訓むのは、「船乗」を「船乗り」と訓んだのと同様で、「船」の字が「ふね」から「ふな」に母音交代を起こしたものである。このような母音交代は、「雨隠(あまごも)り」、「酒杯(さかづき)」、「胸乳(むなぢ)」など上代語に多く見られる現象であり、独立して用いられる「あめ」、「さけ」などの語形を「露出形」と呼び、複合語の前項として用いられる「あまー」、「さかー」などの語形を「被覆形」と呼んでこの現象について研究を行った言語学者として有坂秀世(ありさかひでよ)がいることを先に紹介した。「為」は下にカモがあるので、「為 (す)」の連体形「する」と古くは訓じられていたが、賀茂真淵『万葉考』で、スを補って「為(せ)す」に改められたのに従う。長歌に「神長柄 神佐備世須登」とあるのと同様にここは天皇の御動作と見るべきであることは、この句が長歌の「上立 國見乎為勢婆」に対応するものであることからも明らかであると思われる。

 以上、「吉野讃歌」と称される長歌2首とそれぞれの反歌を訓み終えたが、第36番歌と第37番歌の第1歌群と第38番歌と第39番歌の第2歌群について、それを同時のものとするか、別時のものとするか、論が分かれている。それぞれの論は、第1歌群と第2歌群のそれぞれの表現と構想に即して、その類同と相違を見極めようとしているが決定的な結論は見いだしがたい。「吉野讃歌」を訓む冒頭で、持統天皇の吉野行幸は在位中31回を数え、そのいずれの時に詠まれたものかは確定できないが、第39番歌の左注を踏まえると、持統4年正月の即位直後の「四年庚寅二月幸吉野宮」あたりが可能性としては一番高いと述べた。もし、別時のものだとすると、第1歌群はこれより以前ということになり、「天武の葬儀を無事にすました翌年(持統3年)正月の最初の吉野行幸」時の作ということになるが、それも十分にあり得ることではある。

巻1(40)。柿本朝臣人麿 
 
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌」(天皇が伊勢國に幸しし時に京に留れる柿本朝臣人麻呂の作る歌)。柿本朝臣人麿が京(みやこ)に留りてよめる。人麻呂が行幸の様子を思い描きながら作った歌ということになる。この第40番歌から第42番歌までの三首が「留京三首」と呼ばれ、持統6年(692年)3月の持統天皇が伊勢行幸を行った際に、柿本人麻呂が都(藤原京遷都以前なので都は飛鳥)に留まって作った歌である。この伊勢行幸決定にあたり一つの事件が起きたことが、第44番歌の左注に日本書紀の記述として示されている。
原文  鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 D嬬等之 珠裳乃須十二 四寳三都良武香
和訳  嗚呼児(あみ、あご)の浦に 乗りすらむ 乙女らが 珠裳の裾に 潮満つらむか
現代文  「嗚呼見の浦で、をとめ(女官)たちが舟遊びを楽しんでいるが、長い裳の裾が海水に浸かっている。潮が満ちてきたのだろうか」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その76)」その他を参照する。
 発句「鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 D嬬等之」嗚呼児(あみ、あご)の浦に 乗りすらむ 乙女らが」と記す。「嗚呼見乃浦尓」は「嗚呼見(あみ)の浦に」と訓む。「嗚呼見」は地名を表わす。「乃」はノ、「尓」はニ。「嗚呼」は漢語で、ため息の声、感心したり悲しんだりするときの声。「ああ」と訓むがここではア。この歌の類歌である第3610番歌の左注に「柿本朝臣人麻呂歌曰 安見能宇良(あみのうら)」とある。「嗚呼見(あみ)の浦(うら)」は、鳥羽湾の西に突出する小浜地区の入り海で、今に「あみの浜」と呼ぶ所かという。「嗚呼見の浦」は「あみのうら」と読まれているが、具体的にはどこの浦のことか諸説があってはっきりしない。が、伊勢湾のどこかの浦というくらいの理解で良い。あみの浦でをとめ(女官)たちが舟遊びを楽しんでいる光景を詠っている。源氏物語絵巻でも見ているような美しい光景である。「船乗為良武」は「船乗り為(す)らむ」と訓む。「良武」はラム。「船乗り為(す)」は、ここでは船に乗って遊ぶ意。「〈女+感〉嬬等之」は「〈女+感〉嬬(をとめ)等(ら)が」と訓む。「〈女+感〉嬬」の文字は萬葉集中に15例あり、いずれも「をとめ」と訓む。「〈女+感〉」は「感」に同じと考えて良く、「心が動く」意。「嬬」は説文解字に「弱也」とあり、弱い女の義として「をとめ」の意に用いたものかと思われる。「等」はラ。ここは複数を示す接尾語である。「之」はガ。

 結句「珠裳乃須十二 四寳三都良武香」「珠裳の裾に 潮満つらむか」と訓む。「珠裳乃須十二」は「珠裳(たまも)のすそに」と訓む。「乃」はノ。「須」はス。「十二」は数字だが、「十」をソ、「二」をニとして用いたもの。次の句に「四、三」の数字が使われており、これの乗数の「十二」を使ったものかと思われる。「珠裳」は「美しい裳」の意で、裳は腰より下へ着ける衣。珠は美称。「四寳三都良武香」は「しほみつらむか」と訓む。「三」はミ。「良武」はラム。この表記には明らかに数字の文字遊びが見える。「四寳三」の文字列には「七宝」の意識が働いていると思われるが、「四宝」だけならば「金・銀・瑠璃・水精」である。

巻1(41)。 
 
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「伊勢國に幸せる時の歌。柿本朝臣人麿が京(みやこ)に留りてよめる」。
原文  釼著 手節乃埼二 今<日>毛可母 大宮人之 玉藻苅良<武>
和訳  (くしろ)() 答志(たふし)の崎に 今もかも 大宮人の 玉藻苅るらむ
現代文  「釧を着けたような麗しい手節の埼では、今日あたりも、大宮人たちが美しい藻を苅っていることだろうな」。 
文意解説  発句「釼著 手節乃埼二 今<日>毛可母」釵(くしろ)(ま) 答志(たふし)の崎に 今もかもと訓む。「釼著」は「釼(くしろ、釧)著(つ、着)く」と訓む。「釼」は「剣」の俗字であるが、上代の装身具である「くしろ」を表わす為にわが国で上代に作られた造字とされている。「くしろ」の漢字として今は、「うでわ」の意を持つ「釧」をあてる。仮名書き例としては「久志呂」がある。「釧(くしろ)」は、手首や臂(ひじ)につける輪状のかざり。貝、石、玉、金属などで作り、さらに鈴をつけたものもある。ふつうは両手につけるが、片手のときは左手につけたようである。彌生時代から古墳時代にかけて用いられた。「著」の声符は者(しゃ)。この字は、「着」と同字で「つく」と訓むことは、第19番歌の「衣(きぬ)に著(つ)くなす」の所で述べた。「釧着く」は、釧を着ける手節(たふし、手首)の意から、同音の地名「手節崎(たふしのさき)」にかかる枕詞として人麻呂が創ったものといわれる。「くしろ着く」は岩波大系本も伊藤本も「答志」の枕詞としている。「くしろつく」はこの歌だけで他には全くない。たった一例で枕詞と断定するのはいかがだろう。くしろは釧、古代の腕輪である。「・・・たまくしろ、てにとりもちて・・・」(1792番長歌)とか「たまくしろ、まきぬるいもも・・・」(2865番歌)といった例で分かるように、釧は釧そのものとして詠み込まれている。「くしろ着く」は「くしろ付く」、すなわち、「ここ答志島は釧に飾り立てられたような」と解しておきたい。で、この歌はこの美しい答志の浜で大宮人たちが玉藻を刈り取っている様子を思い描いている図とみたい。「手節乃埼二」は「手節(たふし)の埼(さき)に」と訓む。「乃」はノ。「二」は二。「節」の字訓は「ふし」で「竹のふし」が本義。「手節」は「たふし」と訓み、「手のふし。手の関節」の意。「手」をタと訓む。ここの「手節」は地名。「手節(たふし)の埼(さき)」は、三重県鳥羽市、鳥羽港の北方約七キロメートルの答志(とうし)島北東端の黒崎の古称という。「今日毛可母」は「今日(けふ)もかも」と訓む。「今日(けふ)」は、上代では、話し手が今身を置いている一日を意味する用法ばかりである。中古からは、キノフ(昨日)・ケフ・アス(明日)の3語でそれぞれ、過去・現在・未来を表わす用法も出てくる。(「世の中はなにか常なるあすかがはきのふの淵ぞけふは瀬になる」〈古今933〉)。「毛可母」はモカモ。「もかも」の用例は、「今日」または「今」を受けた例だけである。
 
 結句「大宮人之 玉藻苅良<武>」大宮人の 玉藻苅るらむと訓む。「大宮人」は、宮廷に仕える官人のことであるが、ここの「大宮人」を男性の官人とする説と女官と見る説とがある。女官説では、「留京三首」の1首目では漠然と「をとめら」と詠ったが、この2首目でそれは「大宮人」であることを示したものだとする。「玉藻苅良武」は「玉藻(たまも)苅(か)るらむ」と訓む。「之」はノ。「玉藻」は「美しい藻」の意。「たま」は美称。「苅る」は「むらがって生えているものを短く切り払う」こと。玉藻を苅るのは海人の仕事とされるが、ここはその鄙びた業を「大宮人」が仮に営んで楽しむ風流の行為であろう。「玉藻」は前の歌の「(をとめらの)珠裳」と同音であることも意図されたものであるように思われる。「良武」はラム。現在の推量を示す助動詞。

巻1(42)。  
 
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「伊勢國に幸せる時の歌。柿本朝臣人麿が京(みやけ)に留りてよめる」。
原文  潮左為二 五十等兒乃嶋邊  榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
和訳  潮騒に 伊良虞の島() 榜ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)
現代文  「波荒い風光明媚の海上を、私の彼女も乗った舟がいまごろ島の辺りを巡っていることだろうか」。
文意解説
 発句「潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷」潮騒に 伊良虞の島辺(へ) 榜ぐ船にと訓む。「伊良虞の島」は24番歌に「うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む」と歌われている。いずれの歌も「島」とある所を見ると、渥美半島の先端部は当時島であった可能性が高い。三重県鳥羽市と愛知県渥美半島先端の伊良湖岬は意外に近く、目と鼻の先。この間に答志島、菅島、神島等が浮かんでいる。風光明媚だが波も荒い。

 結び句「妹乗良六鹿 荒嶋廻乎」妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)と訓む。

巻1(43)。當麻真人麿(たぎまのまひとまろ)の妻 
 
題詞
歴史解説
 當麻真人麿(たぎまのまひとまろ)の妻の作歌。「當麻真人麻呂妻作歌(當麻真人麿(たぎまのまひとまろ)の妻が旅に出た夫を案じて詠んだ一首)」。伊勢國に幸せる時の歌。
原文  吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六
和訳  わが背子は 何処(いづく)行くらむ 奥(おき)つ藻(も)の 隠(なばり)の山を 今日か越ゆらむ
現代文  「私の夫はどのあたりを旅しているかな。沖の藻のなばる(隠れる)ではないが 隠(なばり)[名張]の山を今日あたり越えていることでせう」。
文意解説  発句「吾勢枯波 何所行良武 己津物」「わが背子は 何処(いづく)行くらむ 奥(おき)つ藻(も)の」と訓む。「吾勢枯波」は「吾(わ)がせこは」と訓む。「勢枯波」はセコハ。「吾」はワで自称、男女ともに用いる。ガを伴うことが多く、ここでもガを補読してワガと訓む。「せこ」は「背子」で、ここでは夫の當麻真人麻呂を指す。「何所行良武」は「何所(いづく)行(ゆ)くらむ」と訓む。「何所」は「いづく」と訓む。クは場所を表わす接尾語。「いづこ」の古形だが、平安時代以後も併用された。万葉集の仮名書き例では「伊豆久」とあり、「いづこ」の例はない。「行」は「ゆく」で「ある所を通過して進む」意。同義語に「いく」があるが、使用頻度は、室町期を過ぎる頃まで「ゆく」が優勢であった。万葉集では「いく」の仮名書き七例すべてが字余り句なので、上代ではその使用に何らかの音韻観念の違いがあったように思われるが、良く分からない。ラムは現在の推量を示す助動詞。「己津物」は「おき[沖]つも[藻]の」と訓む。「己起」はオキ。「津」はツ。「物」は「もの」。「沖つ藻の」は、沖の藻は海面下に隠れているので、隠れる意の「なばる」と同音の地名「なばり」にかかる枕詞としたものである。ただし、ここの訓みには異論があり、沖(オキ)のキは甲類、起(オキ)のキは乙類で仮名違いであることから、オクツモノと訓み、「奥つ物(奥の物)」の意で「なばり」にかかるとする説もある。何れの説も地名「なばり」にかかる枕詞と見ることに変わりはない。今は、「沖つ藻の」説をとるのが優勢になっているのでそれに従っておく。「沖つ藻の(おきつもの)を、岩波大系本や伊藤本などは「名張」の枕詞と注記している。が、名張にかかる「おきつもの」はこの歌のみのたった一例。41番歌の「くしろつく」ともども疑問なしとしない。

 結句「隠乃山乎 今日香越等六」「隠(なばり)の山を 今日か越ゆらむ」と訓む。「隠乃山乎」は「隠(なばり、名張)の山を」と訓む。「乃」はノ。「乎」はヲ。「隠」は「なば[隠]る」の連用形から転成したと思われる地名「なばり」を表わすために用いられたもの。「隠(なばり)[名張]」は現在の三重県北西部の地名。奈良市の東南、天理市の東に位置する。木津川上流の名張川と宇陀川の合流点にあり、上代には東海道、のち、大和国からの参宮街道が通じていて、宿駅として栄えた。「今日香越等六」は「今日(けふ)か越ゆらむ」と訓む。「香」はカ。「今日」は、「話し手が今身を置いている一日」を意味する。「越」は「越ゆ」で、「山、峠、谷、川、溝、関所など、障害となるものを通り過ぎて向こうへ行く」の意。「等六」はラムで「良武」の変字法である。

巻1(44)。石上の大臣の従駕
 
題詞  「石上の大臣の従駕石上大臣従駕作歌」(石上大臣(いそのかみのおほまえつきみ)の従駕(おほみとも)にして作る歌」。伊勢國に幸せる時の歌。左注に「右日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以浄廣肆廣瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎[敬の下に手]上於朝重諌曰、農作之前、車駕未可以動。辛未、天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮(右の一首は、石上(いそのかみのおほまえつきみ)従駕(おほみとも)つかへまつりてよめる。右、日本紀ニ曰ク、朱鳥六年壬辰春三月丙寅ノ朔戊辰、浄広肆廣瀬王等ヲ以テ、留守官ト為ス。是ニ中納言三輪朝臣高市麻呂、其ノ冠位(かがふり)ヲ脱キテ、朝ニササゲテ、重ネテ諌メテ曰ク、農作(なりはひ)ノ前、車駕以テ動スベカラズ。辛未、天皇諌ニ従ハズシテ、遂ニ伊勢ニ幸シタマフ。五月乙丑朔庚午、阿胡行宮ニ御ス)」と記されている。中納言三輪朝臣高市麻呂が「農作の時節に、行幸なさるべきではありません」と重ねて諫めたが、天皇はその諌めに従わず行幸を執り行ったことが記されている。旅行中の歌。
原文  吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳  日本能不所見  國遠見可聞
和訳  吾妹子(わぎもこ)を いざ見の山を 高みかも 日本(やまと、大和)の見えぬ 國遠(とほ)みかも
現代文  「さあ妻に会おうと、いざ見の山にさしかかったが、山が高いせいか、妻のいる故国大和はまだ見えません。まだ遠いのかも知れません(早く会いたいな)」。
文意解説
 発句「吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳」吾妹子(わぎもこ)を いざ見の山を 高みかも」と訓む。「吾妹子乎」は「吾妹子(わぎもこ)を」と訓む。「吾妹子」は「わぎもこ」と訓み、意味は「わぎも」に同じ。「こ」は親愛の意を表わし、「我が背」を「我が背子」というのと同じ。「わぎも」は「わがいも」が約まったもので、自分の、妻や恋人である女性、または広く女性を親愛の気持をこめて呼ぶ語。この一句は、「吾妹子を」「いざ見」と次の句へかけ言葉としてつづく枕詞。「乎」はヲ。「去来見乃山乎」は「去来(いざ)見の山を」と訓む。「去来」は義訓字。「乃」はノ。「乎」はヲ。「去来」について、陶淵明の「帰去来辞」中の「帰去来兮」が「かえりなん、いざ」と訓ぜられ、本来は「帰去」が動詞で「来」が語助の辞であるのを、「帰」と「去来」とに分けて、「去来」を「いざ」と理解したもので、この2字で「いざ」と訓むようになったもの。「去来(いざ)見の山」は、三重県飯南郡、奈良県宇陀郡、奈良県吉野郡の境にある「高見山」(1249メートル)のことをいう。大和・伊勢の各所から望まれ、国境の山として、旅人に強く意識されていた山と思われる。「高三香裳」は「高みかも」と訓む。「三」はミ。「香裳」はカモ。「高みかも」や「遠みかも」の「かも」は「だろうか」の意である。「いざ見の山」は山の名だがきっと当時の大宮人たちの俗称だったのだろう。

 結句「日本能不所見  國遠見可聞」「日本(やまと、大和)の見えぬ 國遠(とほ)みかも」と訓む。「日本能不所見」は「日本(やまと)の見えぬ」と訓む。「能」はノ。「日本」の訓みについて、現在の注釈書の多くは、当然の如く「大和」の字に置き換えて「やまと」としている。何故「やまと」と訓むのか説明は全くない。「日本」の表記が使われた初期の例としてもっと注目し、解説があってしかるべきだと思うのだが。日本国語大辞典の「日本」についての記述を参考までに記しておく。
 「『日本』」(「東の方」の意の「ひのもと」を漢字で記したところから)わが国の国号。大和(やまと)地方を発祥地とする大和朝廷により国家的統一がなされたところから、古くは「やまと」「おおやまと」といい、中国がわが国をさして倭(わ)国と記したため倭(やまと)・大倭(おおやまと)の文字が当てられた。その後、東方すなわち日の出るところの意から日本と記してヤマトと読ませ、大化改新の頃、正式の国号として定められたものと考えられるが、以降、しだいに「ニホン」、「ニッポン」と音読するようになった。ー〈中略〉ー 美称として、大八洲(おおやしま)、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)、葦原中国(あしはらのなかつくに)、秋津島、秋津国、大倭豊秋津島など」。
 「不所見」は「見えぬ」と訓む。「國遠見可聞」は「國遠(とほ)みかも」と訓む。「見」はミ。「可聞」はカモ。
歴史解説  

巻1(45)。
  長歌。
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌(軽皇子(かるのみこ)の阿騎の野に宿りましし時に、柿本朝臣人麿の作れる長歌)」。軽皇子(かるのみこ)は草壁皇子(くさかべのみこ)の子。この狩は、持統天皇の強い支持のもとで行われたらしい。というより、何人もの天武の皇子をさしおいて、草壁皇子の子であり自身の孫でもある軽皇子を引き立てるために、群臣を随身させて大規模な狩を催すことにより、後継者として印象づける狙いもあったようである。人麻呂は、そうした意図を十分に踏まえ詠っている。

 一読すると、ただ軽皇子との旅の情景を皇子を讃えて詠っているだけのように思えるが、この阿騎の野はかつて軽皇子の父親でありいまはもう亡くなってしまった草壁皇子が狩りに訪れた想い出の場所でもある。草壁皇子は持統天皇の子で若くして亡くなってしまった。かつて父である草壁皇子が訪れた想い出の場所である阿騎の野に、いまその再来のように軽皇子が馬を走らせている。この長歌自体はあまり有名ではなく、万葉集の解説でもほとんど取り上げられることがないが、この歌に付けられた四首の反歌は非常に有名である。
原文  八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
和訳  やすみしし わご大君(おほきみ) 高照らす(ひかる) 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太敷(ふとし)かす 京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を 石(いわ)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限(かぎ)る 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす 古(いにしへ)思ひて(ほして)
 阿騎(あき)の野に宿る旅人打ち靡(なびき)き眠(い)も寝(ぬ)らめやも古思(いにしへおも)ふに ま草(くさ)刈る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見(かたみ)とそ来(こ)し 東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ 日並皇子(ひなみしのみこ)の命(みこと)の馬並(な)めて御猟(みかり)立たせし時は来向かふ
現代文  「わが大君、高く輝く日の御子、皇子は神そのものとして神々しく、立派に君臨されている京(みやこ)を後にして、隠(こも)り国の泊瀬(はつせ)の山の真木(まき)が茂り立つ荒々しい山道を、岩や木々を押し分けて坂鳥の鳴く朝にお越えになり、玉の輝くような夕暮れになると、雪の降る阿騎の大野に旗薄や小竹を押しのけて、草を枕の旅宿りをされている。懐かしき父の想い出を胸に」。

 隅々までお治めになっているわが大君 高く照り輝かれる日の神の皇子が神であるままに 神らしく行動なさろうと 立派に営まれている 都さえも後にして山に囲まれた 泊瀬の山は 真木の生い茂った 自然のままの山道であるのを大きな岩や 道を遮る木々を押し伏せて 坂鳥のように(軽々と) 朝方、お越えになって玉の限りある光のような 夕方がやってくると 雪の降る 阿騎の大野に旗すすきや 小竹を押し伏せて 草を枕に 旅宿りをなさるよ過ぎしいにしえのことを偲ばれて
文意解説  長歌(れんだいこ式12句)。
 発句「八隅知之 吾大王」「やすみしし わご大君(おほきみ)と訓む。「やすみしし」は「我が大君」にかかる枕詞。「吾大王」は「吾(わ)が大王(おほきみ)」と訓む。「吾」は一人称のワ。ガを伴うことが多く、ここも補読する。「大王」の「王(きみ)」は、古くは有力豪族の尊称で首長というほどの意であったが、やがて、大和国家の王者が諸豪族に超越する立場を獲得するに至って「王(きみ)」のうちの大なる者の意で、その王者を「大王(おほきみ)」と称するようになったものと見られている。また「大王(おほきみ)」は、仕える側から、天皇・諸王などに対して日常的に用いられる尊称であるのに対し、類義語の「すめろき・すめらみこと(天皇)」は、天皇に対してのみ用いられる宮廷専用の、政治的、宗教的な尊称であるとされる。ここでは、4句の「日の皇子」と同じく軽皇子をいう。現代の表記では「我が大君」が一般的となっている。

 2句「高照 日之皇子」「高照らす(ひかる) 日の御子(みこ)」と訓む。「照らす」は天上に高く照りたまうの意で「日の皇子」にかかる枕詞。記紀歌謡に見える「高光る 日の皇子」と同じく、日の神の子孫として、天皇または皇子を賛美する表現。「高照らす」は、「高光る」をもとに人麻呂が創始したもので、他者を照らす意味もあり、特に讃美性が高いといわれている。「日の皇子」は「日の皇子(みこ)」と訓む。日の神、天照大神の子孫の意。古事記の歌謡に、倭建命を「多迦比迦流(たかひかる) 比能美古(ひのみこ) 夜須美斯志(やすみしし) 和賀意富岐美(わがおほきみ)」と称した例がある。ここは、その句を前後した形で、「やすみしし吾が大王」と「高照らす日の皇子」を対句にして、軽皇子を讃えて詠んだものである。「高照らす日の皇子」、「高光る日の皇子」は、万葉集では天武・持統両天皇と天武系の皇子のみに用いられている。

 3句「神長柄 神佐備世須等」「神ながら 神さびせすと」と訓む。「神ながら」は「神(かむ)ながら」と訓む。第38番歌に既出。「かみ(神)」が名詞や動詞などの上に来て複合を作る場合、多くは「かむ」(後には「かん」)の形をとる。「神(かむ)ながら」は、「神の本性そのままに。神でおありになるままに」の意。「神佐備世須等」は「神(かむ)さびせすと」と訓む。既出。接尾語の「さぶ」は、「…にふさわしい振る舞いををする、…らしい様子・状態である」意を表わす。「神さび」は「神さぶ」の連用形が名詞化したもので、「神らしく振る舞うこと」の意。「せす」はセにスが付いたもの。「等」はト「とて」の意。「神ながら神さびせすと」は、第38番歌で持統天皇に対して用いたものであり、それを「高照らす日の皇子」=軽皇子にも用いている。この長歌では、軽皇子が都を出発して泊瀬の山を越え、安騎野に旅宿する、その行動全体を「神ながら」の行為として讃美している。人麻呂は即位前の軽皇子を天武天皇に準じるものとして扱い、軽皇子を天武天皇の開いた王朝を継ぐものと措定して詠う。 
 
 4句「太敷為 京乎置而」は「太敷(ふとし)かす 京(みやこ)を置きて」と訓む。「太敷為」は「太(ふと)敷(し)かす」と訓む。第36番歌に「太(ふと)敷(し)き座(ま)せば」とあり、そこでも述べたが、「太(ふと)敷(し)く」は、「宮殿などの柱をしっかりとゆるがないように地に打ちこむ。宮殿を壮大に造営する」ことをいう。「太(ふと)敷(し)かす」はその尊敬表現で、ここは都が立派に営まれて存在していることをいう。「太」は立派である、あるいはしっかりしている意を表わす接頭語。「京を置て」 は「京(みやこ)を置(お)きて」と訓む。「置き」は「置く」の連用形。「京」は象形文字で、アーチ状の門の形で上に望楼を設け、これを軍営や都城の入り口に建てたことから、都城、都(みやこ)の意を表わすことになったものであることは、第32番歌の所で述べた。「置(お)きて」も既出で、第29番歌「倭(やまと)を置(お)きて」と同じく、「さし置いて」あるいは「置き去りにして」の意。第29番歌の場合、「歴代の天皇が都とした大和をさし置いて大津京へ遷都した」という重大事件を表わすのに用いられた言葉である。そのことを踏まえると、「立派に営まれている都さえもあとにして」の次ぎに述べるのは大津京遷都にも匹敵する事柄であると人麻呂が見ていることを表わしていると考えられる。そして次に述べられるのは、「軽皇子が泊瀬の山を越え、安騎野に旅宿する」という行為である。この歌は、そうした軽皇子の行動全体を「神ながら」の行為として讃美することによって、軽皇子こそが正統な皇位継承者であることを詠う意図を持っている。その趣旨を強化する伏線として「京(みやこ)を置(お)きて」の句があることに留意すべきであろう。

 5句「隠口乃 泊瀬山者」「隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は」と訓む。「隠口の」は 「隠(こもり)口(く)の」と訓む。注釈書のほとんどは「こもりくの」と平仮名書きを本文としているが、『日本古典大系』では「隠(こもり)口(く)の」を本文としている。「隠(こもり)く」の「く」は場所、所の意であるから、漢字をあてるとしたら「処」とでもすべきところ。それゆえ「口」はク音を表わす音仮名とみる方が良いのかもしれない。「こもりく」は、両側から山が迫ってこれに囲まれて隠(こも)った所を意味する。そのような地形を持つ「泊瀬」にかかる枕詞として古くから使われており、記紀歌謡にも5例の用例をみる。人麻呂が古くからあるこの枕詞に「隠口」の字をあてたのは、「泊瀬」が当時、大和から東国への通路の要所であり、東国への入り口であったことの意を込めたものではないかと考え、敢えて漢字のままとした。。「泊瀬山は」は「泊瀬(はつせ)の山(やま)は」と訓む。ノを補読して7音とする。「泊瀬山」は、現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある山をいう。山腹に長谷寺がある。ちなみに長谷寺は、古来、山岳信仰の霊地で、朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により道明が創建した本(もと)長谷寺に始まる。のち、聖武天皇の勅願寺となり、現在名を称した。

 6句「真木立 荒山道乎」「真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を」と訓む。「真木立」は「真木(まき)立(た)つ」と訓む。「真木」は、すぐれた木の意で、建築材料となる杉や檜などの総称。檜などの生い茂っている山のことを「真木立つ山」と言った。「真木の立つ」と「の」を補読し、5音にして訓むことも考えられるが、ここは4音のままの方が力強い。それにこの長歌では「の」は、固有名詞の「泊瀬山(はつせのやま)」の訓み添え以外は、「日之皇子」「隠口乃」などとしっかり表記されていることからしても、ここは4音のままとすべきであろう。「荒山道を」は「荒山道(あらやまみち)を」と訓む。「荒(あら)」は語素で、主として名詞の上について、これと熟合して用いられ、「人手の加わっていない、自然のままの」の意を表わす。ここの訓みを「荒(あら)き山道(やまぢ)を」とするものもある。しかし、ここは「真木(まき)立(た)つ」を承けた句であることから言えば「荒山」とまず承け、「その道を」ということで「荒山道(あらやまみち)を」と訓むのが良い。前句で自然のままに生い茂った山の道を行く様子を詠み、本句でそれが「荒(あら)き山道(やまぢ)」でもあることを詠んだものと考えたい。人麻呂の作歌である第241番歌に「真木乃立(まきのたつ) 荒山中尓(あらやまなかに)」の句がある。

 7句「石根 禁樹押靡」「石(いわ)が根 禁樹(さへき)おしなべ」と訓む。「石根」は「石(いは)が根」と訓む。ここも「石が根の」と訓む説もあるが、11句と同様、4音で訓む。「石が根」は、「土中にしっかりと根をおろした大きな岩。また、そのように大きな岩の根もと」のこと。「禁樹押靡」は「禁樹(さへき)押(お)し靡(な)べ」と訓む。「禁樹」は「通行を妨げる木」の意。「さへ」は「妨げる」意の「さふ」の連用形。「石根」と「禁樹」の二物を挙げて「荒(あら)き山道(やまぢ)」であることを表わしたものと考えられる。「押(お)し靡(な)べ」は、「押し靡かせて、押伏せて」の意。オシは接頭語で、ナべは「なびかせる」意の動詞「なぶ」の連用形。第1番歌の「やまとの國は 押しなべて 吾こそ居れ」を想起すれば、「押し靡べ」は、軽皇子が王者の資格充分であることをいう表現であることがわかる。

 8句「坂鳥乃 朝越座而」「坂鳥の 朝越えまして」と訓む。「坂鳥の」は「坂鳥(さかとり)の」と訓む。「坂鳥」は「朝早く山坂を飛び越えて行く鳥」のこと。その意から「朝越え」の枕詞としたもので、人麻呂独自の用法。矢野貫一「坂鳥考」に「鳥も山を越える時は、坂のある鞍部を飛ぶ。その鳥の習性を利用して山坂の上に張った網で朝早く飛び立つ鳥をとらえる猟法があり、これを古くから坂鳥という」とある。「朝越座て」は「朝(あさ)越(こ)え座(ま)して」と訓み、「朝早く坂をお越えになって」の意。「朝」の語にすぐ動詞を続けた例は万葉集中にいくつも見えるが、既出では、第4番歌の「朝踏む」がある。「座(ま)す」は、動詞の連用形に付いて尊敬の意を添える補助動詞。「隠(こもり)口(く)の」からここまでの句は、旅のうちの山越えの叙述。時間は「朝」で、次の句の「夕」に対する。困難な道を平地を行くように越えたことを述べて、軽皇子の神さびぶりを讃えたもの。

 9句「玉限 夕去来者 三雪落」「玉限(かぎ)る 夕さりくれば み雪降る」と訓む。「玉限」は「玉(たま)限(かぎ)る」と訓む。全ての注釈書が「玉かぎる」として、「かぎる」を平仮名書きとしている。そして「かぎる」は輝く意で、玉がほのかな光を出している意として、淡い光の意から「ほのか」や「夕」にかかる枕詞とする。しかし、「かぎる」という動詞を「輝く」意味と取るのは「玉かぎる」の場合に限られている。「かぎる」はやはり「限る」の意ととるべきで、「玉」の発する光に限りがあり、ほのかな光となっていることを言ったものと考える。いずれにしても「夕」にかかる枕詞とすることに変わりはないが、「限」の字を単なる借訓字とみるか正訓字とみるかの違いがある。「夕去来ば」は「夕(ゆふ)去(さ)り来(く)れば」と訓む。「夕方になってくると」の意。「去り来れば」は、第16番歌の「春去り来れば」と同じ。「み雪落」は「み雪(ゆき)落(ふ)る」と訓む。「み」は美称。「落」を「ふる」と訓むことについては、第25番歌の「雪は落りける」の所で述べた。これを枕詞とする説もあるが、ここは実景にもとづくものとみたい。少なくとも、眼前の実景と限らなくても雪の降る季節を示していると考えられる。

 10句「阿騎乃大野尓 旗須為寸」「阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき)」と訓む。「阿騎の大野に」は「阿騎(あき)の大野(おほの)に」と訓む。「阿騎野」については題詞の所で述べた。「大野」は、第4番歌の「内の大野に」と同じく、狩りのできる「大きな野」と考えて良い。もっとも「大」には「大王」にみられるように尊称の意があることも否めない。「旗すすき」 は「旗すすき」と訓み、「長く伸びた穂が風に吹かれて旗のようになびいている薄(すすき)」のこと。

 11句「四能乎押靡 草枕」「小竹(しの)をおしなべ 草枕」と訓む。「しのを押靡」 は「しのを押(お)し靡(な)べ」と訓む。「しの」は「小竹」「細竹」とも書かれ、「稈(かん)が細く、群がって生える竹類。篠竹」のこと。日本書紀の神代上第八段に「篠、小竹也。此云斯奴(しの)」とあり、「しの」のノ「奴」が用いられている。だが、この歌の表記では「四能」とあり「能」が宛てられている。「草枕」は「草枕(くさまくら)」と訓む。「旅」にかかる枕詞。

 結句「多日夜取世須 古昔念而」「旅宿(たびやど)りせす 古(いにしへ)思ひて(ほして)」と訓む。「たびやどりせす」の「たびやどり」を現在の漢字交じり表記で書くと「旅宿り」。「せす」は「なさる。あそばす」の意。この句は「朝越え座(ま)して」と対応する。「古昔念て」は「古昔(いにしへ)念(おも)ひて」と訓む。「古」一字で「いにしへ」と訓めるので「昔」は添字とも言える。「いにしへ」と「むかし」について、日本国語大辞典の「いにしえ」の【語誌】の欄に次のように書かれている。
 「『いにしえ』と『むかし(昔)』とは同じ意味にも用いられているが、しかし、基本的にはとらえ方に違いがあるとみられる。『いにしえ』は、『往にし方』の原義が示すように、時間的にものをとらえる場合に用いて今と連続的にとらえられるのに対して、『むかし』は、そのような過ぎ去るという時間的経過の観念が無く、今とは対立的に過去をとらえる場合に用いる。歴史的には『いにしえ』、物語的には『むかし』が用いられるのもこのためといえる」。
 ここでは、軽皇子が、父の草壁皇子が生前この地で狩りを行った時を偲んでいるわけであるから「今」と連続的にとらえる「いにしへ」とするのが良いと思われる。どういう「古昔(いにしへ)」であるか、またいかなる「念(おも)ひ」であるかは次の反歌で明かされることになる。

巻1(46)。
 
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。この歌は先の巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。吉野郡大宇陀町にある柿本人麻呂公園には、人麻呂(人麿)や軽皇子たちが訪れた当時を想像させてくれる建造物が復元され、また阿騎の野はいまも我々の目の前に広がっている。大宇陀町の阿紀神社にこの歌の歌碑がある。阿紀神社は柿本人麻呂公園の北西、かぎろひの丘のすぐ西にある。
原文  阿騎乃<野>尓 宿旅人 打靡  寐毛宿良<目>八方  古部念尓
和訳  阿騎(あき)の野に 宿る旅人 打ち靡(なびき)き 眠(い)も寝(ぬ)らめやも 古思(いにしへおも)ふに
現代文  「阿騎の野で夜を過ごす旅人は、心しずかに寝入ることができるだろうか。いや、できはしないよ、これほど昔のことが思い出されるというのに」。
文意解説  発句「阿騎乃<野>尓 宿旅人 打靡」は「阿騎(あき)の野に 宿る旅人 打ち靡(なびき)き」と訓む。「安騎の野(あきのの)」は奈良県宇陀市の野という。軽皇子(かるのみこ)は天武天皇の孫で元明天皇の息子にして後の文武天皇。父は草壁皇子(くさかべのみこ)。「安騎の野」は吉野の近くなので「いにしへ思ふに」のいにしえは吉野のことと知れば興趣は高まる。「宿る旅人」はむろん軽皇子。「うち靡き」は「手足を伸ばしてゆったりと」である。

 結句「寐毛宿良<目>八方  古部念尓」眠(い)も寝(ぬ)らめやも 古思(いにしへおも)ふにと訓む。「寝らめやも」は反語。「おやすみになられたいのだろうに」である。「祖父母(天武天皇と持統天皇)の故地吉野を思うとおやすみになれますまい、といった歌意になる。

巻1(47)。
 
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。この歌も巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。安騎の野の野宿を経て故地の都吉野に到着した時の歌。直前の46番歌と関連させて読むと分かりやすい。吉野郡大宇陀町、神楽岡神社にこの歌の歌碑がある。
原文  真草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曽来師
和訳  ま草(くさ)刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみちば)の 過ぎにし君が 形見(かたみ)とそ来(こ)し
現代文  「阿騎の野は草を刈るしかない荒野だけれど、黄葉のように去っていった君の形見としてまたやって来たんだよ」。
文意解説  発句「真草苅 荒野者雖有 黄葉」ま草(くさ)刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみちば)のと訓む。「黄葉の(もみぢばの)」は岩波大系本も伊藤本も「過ぎ」にかかる枕言葉としている。中西本は紅葉が過ぎてゆくと解して枕詞とは考えておられないようである。雑草を刈り取らねばならないほどの荒れ野ではあるが、祖父母や父母の故地であるから当時を忍んでやってまいりましたと詠っている。

 結句「過去君之 形見跡曽来師」過ぎにし君が 形見(かたみ)とそ来(こ)しと訓む。
「君が」の「君」は軽皇子の父草壁皇子のこと。

巻1(48)。
 
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。この歌も巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。持統天皇6年(692)、草壁皇子の遺児でまだ10歳の少年だった軽皇子(683-707、後の文武天皇)を伴った一行が、狩のため阿騎野(あきの)を訪れて野宿した。一行に同行した宮廷歌人の人麻呂は、狩りの日の朝、払暁の雄大な阿騎野の情景をこの歌に詠みこんだとされている。
原文
  東  野炎 立所見而 反見為者 月西渡
和訳  東(ひむがし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ
現代文  「東の野の果てに曙光がさしそめて、振り返ると西の空には低く下弦の月が見えている」。
文意解説  発句「東 野炎 立所見而」「東(ひむがし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて」と訓む。「東の」は「ひむがしの」と読む。「東」は、方位を表わす。宣長は古事記伝で次のように述べている。
 「『ひむかし』の『ひむか』は『日向』で『し』は、風の神志那都比古(しなつひこ)の『し』で風の意であるとして『比牟加斯は、東風、尓斯は、西風のことなりしが、轉(うつり)て、其の吹く方の名とはなれるべし』」。
 「ひむかし」→「ひんがし」→「ひがし」と変化して現在に至る。発句は「東」の1字とするか「東野」と2字とするかで説がある。古い写本の原文では「東野」として「あつまのの」と訓む。しかしそのような呼称の野は確認できないし、ここは「安騎野」であり、別の地名を唐突に持ち出すことは考えられず、やはりここは方角を表わす「東(ひむかし)」と考えた方が良いと思われる。「東」を「ひむかし」と訓むことについては和名抄でも確認ができる。「野炎」は「野に炎(かぎろひ)の」と訓む。「野」は「安騎野歌」と称される一連の歌群にあってのキーワードの一つである。長歌に「安騎の大野に」とあり、短歌の第一首に「安騎の野に」とあり、さらに短歌の第二首に「荒野には有れど」とある。「野」以外に「大野、荒野」の二種の「野」がこの歌群には出てきている。播磨風土記飾磨郡の所に「称大野者、本為荒野。故号大野。[大野と称(い)ふは、本(もと)、荒野たりき。故(かれ)、大野と号(なづ)く]」という記述があり、「大野」と「荒野」は非常に近い語義を持つものだったことが知られる。「炎」は、ここでは「かぎろひ」と訓む。「けぶり」説もある。「立つ」は「けぶり」の連語であり、「かぎろひ」には「燃ゆ」を用いるのが上代語の表現であるからだとしている。「野炎」と区切るのか「野炎立」とするのかも諸説ある。ここで鍵になるのが「所」という字である。万葉集中、「所」は、受身・可能・尊敬等を示す語を表わすのに宛てられる字である。「浪尓所濕」の「所濕」を「ぬれ」と訓んだ例や「所知食之乎」の「所知」を「知らし」と訓んだ例がある。ここでも「所見」は「見え」と訓むことになる。「所」を単独で「ところ」と訓む例はなく、また「ところ見て」という言い方もないことから「所見而」とすることはできない。従って、「野炎」、「立所見而」の2字・4字ということになる。「炎」は「かぎろひ」と訓む。輝く光のこと、つまり朝陽によって真っ赤に染まった空のこと。

 結句「反見為者 月西渡」「かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ」と訓む。「反見為者」は「反(かへ)り見為(す)れば」と訓む。「反り見」は「後方を振り返って見ること」。万葉集中に8例あり、「可弊里見」と音仮名中心で表記されるものや、「顧」と1字の訓字で表記されているものもある。「為者」は「すれば」の表記にたびたび用いられる。「すれば」は、「為(す)れ」にバが付いたもの。「月西渡」は「月かたぶきぬ」と訓む。「西渡」は義訓。写本の多くがこの句の横に「ツキカタフキヌ」と訓をつけている。このように訓じたのは、「月西渡」は、「月が空を渡って、もう西の方に傾いている」というつもりの説明的な表記だという理解に基づくもので、「西渡」は2字の組合せで「傾く」の語義を分析的に示そうとした義訓である。

 このままで万人がすっと理解出来る平明さが素晴らしく実におおらかで味わい深い一首である。この歌は、万葉集の中でも最も有名な歌であり人口に膾炙している。しかし、この訓みは賀茂真淵が考案したものであり、それまでは古い写本の原文ではの横「アツマノノ ケフリノタテル トコロミテ カヘリミスレハ ツキカタフキヌ」と訓まれていた。それはあくまで真淵の訓みであって定訓ではない。歌の格調は確かに真淵の訓の方が高いように思われるが、真淵の訓には上代語の文法上、あり得ない点が見られるとの異議もあり、未だにその訓みは定まっていない。「立所見而」は「立つ見えて」と訓む。

巻1(49)。
 
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。この歌は巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちの最後の一首。大宇陀町の道の駅の少し北、かぎろひの丘の東横にある大宇陀町中央公民館の入り口付近、時計台の側にこの歌の歌碑が立っている。軽皇子は後に即位して文武天皇となった。明日香村の高松塚古墳の南に文武天皇陵がある。
原文  日雙斯 皇子命乃 馬副而 御猟立師斯 時者来向
和訳  日並しの 皇子(みこ)の命(みこと)の 馬並(な)めて 御猟(みかり)立たせし 時は来向かふ
現代文  「日並皇子の命が天皇と馬を連ねて出猟なさったあの暁の時刻が、今日もやって来るのだ」。
文意解説  発句「日雙斯 皇子命乃 馬副而」日並しの 皇子(みこ)の命(みこと)の 馬並(な)めてと訓む。「日雙斯」は「日並しの」と訓む。「日並しの」は「太陽並みしの」と解する。即ち「日の御子(ひのみこ)」の意である。柿本人麻呂が仕えていたのは草壁皇子であるので、草壁皇子を指していることになる。契沖の万葉代匠記は「斯ハ知ノ字ノ假名ト心得ベシ」と述べている。しかしながら、人麻呂が「知」の意味を表わすのに「斯」を用いることは人麻呂の用字法からは考えにくい。ノを訓み添えて5音で訓むことにする。但し、「斯」の下にノを訓み添えることにつき万葉代匠記は疑問としている。「皇子」に続く固有名詞と考えてノを補読する説とノは訓み添えず4音のままとする説とに分かれる。「皇子命乃」は「皇子(みこの)命(みこと)の」と訓む。「皇子」は、天皇の子、天皇の子孫で、男女ともにいう。「命」は、「神(かみ)の御言(みこと)の」の「みこと」に同じ。ミは神や天皇などの高貴な人に対し尊敬の意を表わして添える語である。「…のみこと」の形で用いる。「尊」又は「命」と書かれることが多く、ここは「命」。「乃」はノ。「馬副而」は「馬(うま)副(なめ)て」と訓む。「馬(うま)數(なめ)て」と同じく、馬を並べての意味である。第4番歌の「數」をナメテと訓むのは、馬を並べて数(かぞ)えることからきた義訓であったが、ここの「副」をナメテと訓むのも義訓。「副」は「付き添う」意で、中央に草壁皇子の馬がいてそれに「付き添う」形で馬を並べた様子を「副」の字で表わしたもの。「而」はテ。

 結句「御猟立師斯 時者来向」御猟(みかり)立たせし 時は来向かふと訓む。「御猟立師斯」は「御猟(みかり)立たしし」と訓む。「師」、「斯」は共にシ。「御猟(みかり)」は、天皇や皇子などの狩することを敬っていう語。「立たし」は「立つ」の未然形「立た」にシが付いたもの。「時者来向」は「時は来(き)向(むか)ふ」と訓む。「者」はハ。「来向(むか)ふ」は「こちらに向かって近づいてくる」の意。古くは、時が近づく意に用いられたが、のちに人などについても用いられるようになったもの。ここでは当然前者の意。「来向ふ」であるから、太陽に向かってという勇壮な気分がみなぎる。ここの「時」を「季節」とする説もあるが、やはりここは「今まさに狩りに踏み立つその時」の意と捉えるのが良い。作者を含む一行は、第48番歌で間もなく夜が開けることを確認したことを詠って、亡き草壁皇子がこの同じ場所で狩りに出で立たれた時刻を待っていたのであった。草壁皇子の狩りにも同行したと思われる人麻呂だからこそ、第48番歌・第49番歌の二首は生まれたと言えるだろう。この二首の不可分な関係を押さえて鑑賞することが求められる。「日並皇子(草壁皇子)が馬を並べて出猟されたかつての時刻がもうすぐやって来る…そして同じように今度はその子である軽皇子が出猟するのだと詠っていることになる。荘重にして張り詰めた空気を伝える人麻呂らしい力強く、線の太い歌である。

巻1(50)。
 長歌。
題詞
歴史解説

 民の作。「藤原宮之役民作歌」(「藤原の宮営(つく)りに役(た)てる民のよめる歌」)。左注に「右日本紀曰 朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地 八年甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮」(「右、日本紀ニ曰ク、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原ノ宮地ニ幸ス。八年甲午春正月、藤原宮ニ幸ス。冬十二月庚戌ノ朔乙卯、藤原宮ニ遷リ居ス」)。

原文  八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
和訳  やすみしし 我が大王(おほきみ) 高ひかる(高照らす) 日の皇子(みこ) 荒布(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す國を 見めしたまはむと 都宮(おほみや)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなべに 天地(あめつち)も 依りてあれこそ 磐走(いはばし)る 淡海(あふみ)の國の 衣手の 田上(たなかみ)山の 真木(まき)さく 檜(ひ)のつまてを 物部(もののふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると 騒く御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らに 鴨じもの 水に浮き居て 吾(あ)が作る 日の御門に 知らぬ國 依り巨勢道(こせぢじ)より 我が國は 常世にならむ 図(ふみ)負へる 神(あや、くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまてを 百(もも)足らず 筏(いかだ)に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神随(かむながら)ならし
現代文  「隅々まで天下をお治めになる わが大君 高く天上を照らしたまう 日の御子は 荒妙(繊維のあらい布)を作る材料である藤のある 藤原の地に  お治めになっている国土を (更に良く)ご覧になろうと 都の宮殿を 高々とお造りになろうと 神として思し召しになる そのお考えにあわせて 天地の神々も (大君に)心服しているからこそ 石の上を走る溢水(あふみ)のように 豊かな近江の国の 衣手(衣服の袖)の「手(た)」で始まるあの 田上(たなかみ)山の 「真木栄(さ)く」と讃えられる良材の 檜の角材を  朝廷に仕える氏族の数の 八十氏(やそうじ)ならぬ宇治川に  美しい藻が浮かんでいるように 浮かべ流している その角材を取ろうと 忙しく立ち働く(大君の)民も 自分の家を忘れ わが身のこともまったく思わないで 鴨でもないのに鴨のように (軽々と)水に浮きながら 自分たちが作る 光り輝く宮廷に 未だ支配下にない国も「よしこせ(帰服して欲しい)」というその巨勢の地を通る道から わが国は 常世の国のように成って永遠に栄えるであろうという 瑞兆の文様を甲羅に持った 神秘な亀も 新しい御代と(それを祝福して出ずる) 泉川に 持ち運んで来た 檜の角材を 百には足りない(五十日(いか)ほどかけて)(丈夫な太い)筏に組んで 川を遡らせているのであろう このように天地の神と御民が先を争って励んでいるのを見ると (まことに大君は)神そのままであるらしい」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その92)」その他を参照する。長歌(れんだいこ式20句)。

 発句「八隅知之 吾大王」やすみしし 我が大王(おほきみ)と訓む。「八隅知之」は「八隅(やすみ)知(し)し」と訓む。「我が大君」にかかる枕詞。「之」はシ。「吾大王」は「吾(わ)が大王(おほきみ)」と訓む。

 2句「高照 日乃皇子」高ひかる(高照らす) 日の皇子(みこ)と訓む「高照」は「高(たか)照(て)らす」と訓む。第45番歌に同じ。「日乃皇子」は「日の皇子(みこ)」と訓む。「の」の用字に「之」と「乃」の違いはあるが、第45番歌と同じ。

 3句「荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎」荒布(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す國をと訓む。「荒妙乃」は「荒妙(あらたへ)の」と訓む。「荒(あら)」は、ここでは「十分に精練されていないさま、粗製の、雑な、細かでない、すきまの多い」意を表わす。「妙(たへ)」は、布の「栲(たへ)」を表わす。「荒妙(あらたへ)の」は、「あらたえ(繊維のあらい布)を作る材料である藤」というつづきで「藤」を含む地名「藤原、藤井、藤江」にかかる枕詞。「藤原我宇倍尓」は「藤原(ふぢはら)がうへに」と訓む。「藤原」は、奈良県橿原市東部の古地名。「藤井が原」とも呼ばれていたことから、藤の木陰に良い井水が出てそれを藤井と呼び、その辺りの野を藤井が原、又略して藤原と言ったものかと推察される。「宇倍」を「上(うへ)」を表わすのに用いている。「食國乎」は「食(を)す國(くに)を」と訓む。「食」は「食(を)す」と訓む。上代の文献で尊敬語として使われた語。「ヲサ(筬)、ヲサ(長)、ヲサム(治む)」のヲサと同根であると見られる。ヲサ(筬)は織機の縦糸の乱れを整えるもの。ヲサ(長)は行政府の長官で、行政を整然と行う責任者。ヲサム(治む)は行政を統括し整然と実行すること。このようにヲサには、「整える、整然と行う」という意がある。「食(を)す」は、天皇が統治なさる国の意で「食(を)す國(くに)」と使うことが多く、ヲスは「治む」の尊敬語、すなわちお治めになる意である。 4句「賣之賜牟登 都宮者」見めしたまはむと 都宮(おほみや)と訓む。 「賣之賜牟登」は「め[見]し賜(たま)はむと」と訓む。「賣」はメ。「之」はシ。「賣之」で「めし」を表わす。「めす」は「召す・見す」とも書かれ、動詞ミル(見る、マ上一)の未然形ミに、上代でのみ使われた尊敬の意を表わす助動詞スが付いて転じた語である。もともとミルの尊敬語でご覧になるの意であったが、それが広範にわたってご覧になって統治するというところから、「治む」の尊敬語、お治めになる意に発展した。但し、これらの意は上代のみに限られ、一般には、人を呼び寄せてご覧になるというところから、「招く」意の尊敬語、お呼び寄せになる意で、上代以降最も多く用いられている。「賜」は「賜(たま)ふ」。上位から下位へ物や恩恵を与える動作を表わすのが原義。補助動詞として用いられ、その動作の主を尊敬する意を表わす。ここはその未然形「賜(たま)は」で下の意志・意向を表わす助動詞「む」に続く。「牟」はム。「都宮者」は「都宮(みあらか)は」と訓む。「都宮」は「みあらか」と訓む。「御殿」とも書く。「み[御]」は神や天皇に関わる物事を表わす接頭語。「あらか」は独立して使われた例はないが、「ありか[在処]」の転で居所を指す。「都宮」の文字は皇都の宮殿の意。

 5句「高所知武等 神長柄 所念奈戸二」高知らさむと 神ながら 思ほすなべにと訓む。「高所知武等」は「高知らさむと」と訓む。「高知る」は、第36番歌の「弥(いや)高(たか)しらす」と第38番歌の「高(たか)知(し)り座(ま)して」に既出で、「立派に治める。立派に統治する」ことを云う。ここは「高所知」なので尊敬語の「高知らす」となる。「所知」を「知る」の尊敬語「知らす」と訓むことについては.人麻呂の「近江荒都歌」第29番歌のところで述べた。ここは下の意志・意向を表わす助動詞ムに続くので、未然形の「高知らさ」と訓む。「武」はム。「都宮(みあらか)は 高知らさむと」は「食(を)す國(くに)を め[見]し賜(たま)はむと」と対句をなしている。「神長柄」は「神(かむ)ながら」と訓む。これも人麻呂の「吉野讃歌」第38番歌と「安騎野歌」第45番歌と同句である。「神」は「かみ(神)」が名詞や動詞などの上に来て複合を作ると「かむ」(後には「かん」)の形をとる場合が多い。「長柄」はナガラ。「長」は「長い」、「柄」は「人柄、家柄」などの「柄(がら)」、その「なが」と「がら」を合わせて「ながら」としたもの。「所念奈戸二」は「念(おも)ほすなへに」と訓む。「所念」については第7番歌に既出で、「念(おも)ほゆ」と訓むとして次のように説明をした。
 「所」は漢文の助字で「る」「らる」に相当するが、受身・可能・自発を表わす「る」「らる」は、上代では「ゆ」「らゆ」であったことから、ここは「る」でなく「ゆ」としたもの。また「ゆ」は未然形に付く助動詞であるから、本来は「念(おも)はゆ」となるところだが、オモハユのハが前の母音に引かれてホに転じた形で「念(おも)ほゆ」と訓むことが定説となっているのでそれに従う。
 ここでは、前句の「所知」と同じく、受身・可能・自発のル、ラルではなく、尊敬の助動詞スに用いられた例で「念(おも)ほす」と訓む。「奈」はナ。「戸」はへ。「二」はニ。「なへに」は接続助詞の「なへ」に二の付いたもの。「なへ」は、活用語の連体形を受け、ある事態と同時に、他の事態の存することを示す上代語。「…とともに。…にあわせて。…するちょうどその時に」の意を表わす。「なへ」の語源については諸説があり、日本国語大辞典の「なへ」の語誌が諸説に触れているので参考までに次に引用しておく。
 ①「へ」の万葉仮名には「倍」「戸」が用いられているので、下二段活用動詞「並ぶ」または「並む」の連用形が語源で、したがって「なべ」と第二音節を濁音にみる説もあったが、借訓仮名では「苗」字が用いられているところから、第二音節は清音であると考えられるようになっている。清音とした場合、格助詞「に」に下二段活用他動詞連用形の「合(あ)へ」が付いたものとする説(日本古典文学大系‐万葉集4・4135注〈大野晉〉)、連体格助詞「な」に名詞「上(へ)」または「上(うへ)」が付いたものとする説(時代別国語大辞典‐上代編)などがある。なお、「な」には音の意味の「ね」または「な」である可能性もある。
 ②「並ぶ」が語源で「とともに」の意とする説(石垣謙二「助詞の歴史的研究」)、一つの事柄に他の事柄が偶然に継起併存する関係で、「…するまさにその時に」「…につれて」「…とともに」の意とする説(時代別国語大辞典‐上代編)、「万葉集」の実例がいずれも、聴覚的な事態の認識を契機としてとらえた視覚的事態に対する感動を叙したものとみられるところから、「そういえば…」「なるほど…」というニュアンスが感じられるとする説(日本文法大辞典)などがある。なお、「万葉‐12・3202」の「柔田津に舟乗りせむと聞きし苗(なへ)なにかも君が見え来ざるらむ〈作者未詳〉」のような例では、「その時にして、しかも」「…のに」という語感が伴う。
 ③上代には「なへ」単独でも、また格助詞「に」を伴った「なへに」の形でも用いられたが、中古以後は「なへに」の形のみとなる。
 6句「天地毛 縁而有許曽 磐走」は「天地(あめつち)も 依りてあれこそ 磐走(いはばし)る」と訓む。「天地毛」は「天地(あめつち)も」と訓む。ここの「天地」は「天神地祇」のことで、「天地の神」の意。「縁而有許曽」は「縁(よ)りて有(あ)れこそ」と訓む。「縁」は「縁(よ)り」と訓む。ここの「よる」は、人麻呂の「吉野讃歌」第38番歌の「依(よ)りて奉(つか)ふる」と同じく、心服・帰順するの意。「よる」の表記に使われる字は多く、「寄・倚・凭・拠・縁・依・因・由」などが今も使われる。「有(あ)れこそ」は第13番歌に既出。係助詞のコソは上代では、活用形の已然形(ここの場合は「有(あ)れ」)に直接接続して、すなわち接続助詞バをつけないで、「~なので~する」という確定条件を表わすことが多い。「磐走」は「磐走(いはばし)る」と訓む。人麻呂の「近江荒都歌」の「石(いは)走(ばし)る」と「いは」の字が違うだけで同句。「磐」の字は形声文字で声符は般(はん)。般は盤の初文。平らかで円く大きな器で、そのような形状の岩石を磐という。「磐走(いはばし)る」は岩の上を水が飛沫をあげて砕け散ったり、落下したりするのをいったもの。ここでは石の上を走る溢水(あふみ)に通わせて、地名の「淡海(あふみ)」にかかる枕詞として用いたもの。

 7句「淡海(あふみ)の國の 衣手の 田上(たなかみ)山のは「淡海(あふみ)の國の 衣手の 田上(たなかみ)山の」と訓む。 「淡海乃國之」は 「淡海(あふみ)の國の」と訓む。これも「近江荒都歌」の「淡海國乃」と表記は違うが同句。「衣手能」は「衣手(ころもで)の」と訓む。「衣手」は、着物の手の意から「衣服の袖。たもと」を意味する。古くから、多く和歌に用いられ、「衣手の」は様々な語にかかる枕詞としてよく使われる。ここでは、「手(た)」の縁で、「手(た)」と同音を語頭に持つ地名「田上(たなかみ)山」にかかる枕詞。「田上山之」は「田上山(たなかみやま)の」と訓む。「田上山」は地名。滋賀県大津市南部、瀬田川支流の大戸川と信楽(しがらき)川との間の山地。建築の良材である檜の名産地。

 8句「真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能」
真木(まき)さく 檜(ひ)のつまてを 物部(もののふ)と訓む。「真木佐苦」は「真木(まき)さく」と訓む。「真木」は、人麻呂の「安騎野歌」の長歌、第45番歌に既出。すぐれた木の意で、建築材料となる杉や檜などの総称。「真木さく」は「檜(ひ)」にかかる枕詞。真木を裂いてできた割れ目の意で、割れ目、すき間の意の「ひ」と同音の「檜」にかかるとする説と、「真木栄(さ)く」の意で良材としての「檜」にかかるという説がある。「桧乃嬬手乎」は「桧(ひ)の嬬(つま)手(で)を」と訓む。「桧」は「檜」の俗字。「檜」は形声文字で声符は會(会)(かい)。説文解字に「柏葉松身」とあり、松科の常緑樹。檜(ひのき)は火の木の意。樹皮を檜皮(ひわだ)といい、神殿・宮殿の屋根を葺くのに用いる。「嬬(つま)手(で)」は「荒削りした、かどのある材木。角材。」をいう。「つま(多く妻と書く)」は、建物などの正面を平(ひら)というのに対して、側面をいう語。建物ならば棟と直角の側面。そういうところに使う木材のことをも「つま」と言ったものかと思われる。「で」は材料の意。「物乃布能」は「物(もの)のふの」と訓む。「物(もの)のふ」の「もの」は兵器の意かというが明らかでなく、「ふ」も未詳だが、上代、軍事警察の任に当たった「もののべ(物部)」と関係の深い語と考えられる。令制前、大王に仕えた諸集団、大王に奉仕したさまざまな人々のこと。つかさどる職分によって集団が分かれていて、それら集団の総称として用いられていた。「物(もの)のふの」は、朝廷に仕える氏族の数の多いところから「八十氏人(やそうじびと)」「八十伴緒(やそとものお)」にかかる枕詞として、また、数が多い意で、「八十(やそ)」および、その複合語や「八十」と同音を含む地名にかかる枕詞として用いられた。

 9句「八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼」八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれと訓む。「八十氏河尓」は「八十(やそ)氏河(うぢかは)に」と訓む。「八十(やそ)」はたくさんの意。「八十氏」と「八十宇治」とをかけたもので「氏河」は「宇治川」のこと。支流の多いことから「八十(やそ)氏河(うぢかは)」と呼んだものかと思われる。モノノフノヤソまでをウヂの序詞と見る説もある。琵琶湖から発した瀬田川が京都府宇治郡に入って宇治川と呼ばれ、淀川に入るわけだが、田上山の檜は、瀬田川から宇治川へ流し、巨椋池(おぐらのいけ)から木津川を逆流させて運んだと言われている。「玉藻成」は「玉藻(たまも)成(な)す」と訓む。「玉藻」は人麻呂の「留京三首」の第40番歌と第41番歌に既出。ここは木材が多数水面に浮かんでいるさまを玉藻に例えた比喩表現。「玉藻(たまも)成(な)す」は、美しい藻のようにの意で、「浮(うか)ぶ、寄る、靡(なび)く」にかかる枕詞。「浮倍流礼」は「浮(うか)べ流(なが)せれ」と訓む。「浮ぶ」は「ものを、水面や空中に浮かぶようにする」意。ここでは活用語尾を表わすのに、べに「倍」を用いている。「浮倍」で「浮(うか)べ」と訓む。「流す」は「人や物を、液体とともに移動させる。水によって運ばせる」意。ここは「流せ」と訓む。「礼」はレ。ここでは完了・存続の助動詞りの已然形レに用いられている。従って「流礼」で「流せれ」と訓む。已然形で終わっているのは、「縁(よ)りて有(あ)れこそ」の「こそ」を承けて結んだもの。だが、同時に「流せれば」の意味を込めて下の句にも続く。天地の神の奉仕するさまを詠っている。

 10句「其乎取登 散和久御民毛 家忘」そを取ると 騒く御民(みたみ)も 家忘れと訓む。「其乎取登」は「其(そ)を取(と)ると」と訓む。「其」は代名詞として、「その、それ」の意に用いられる。ここは田上山から流されて来た木材を指す。「取」は「手に持つ。つかむ」の意。巨椋池(おぐらのいけ)あたりに待ち受けていて、流れて来た木材を取って木津川の方へ導く作業を詠ったものかと思われる。「散和久御民毛」は「さわく御民(みたみ)も」と訓む。「散和久」は「さわく」で、「忙しく動きまわる。忙しく立ち働く。奔走する」の意。「御民(みたみ)」は「天皇のものである人民」の意でミは接頭語。天皇の民を尊んでいうが、民自身が自らをいうこともある。「民」は象形文字で、一眼を刺して、その視力を害する形とされる。臣民という言葉があるが、臣も象形文字で目をあげて上を見る形、大きな瞳を示す。その目を刺す形が民で、臣民はともに本来は神の徒隷として、神にささげられたものをいう。民はのち新しく服属した民をいう語となり、政治支配の対象たるものをいう。「家忘」は「家(いへ)忘(わす)れ」と訓む。「家(いへ)」は、「人々が寝起きして生活を営んでいるところ。家族などが住んでいるところ。家屋敷、土地などを含んだ空間全体。また、特に自分の住まいとするところ。わが家」を意味するが、ここでは家郷、家人の意であろう。「家」は、犠牲を埋めて地鎮を行った建物の意。「忘れ」の「忘る」は、「他に熱中したり思いつめたりする物事があって、それが、ある事を気にかけない状態にしたり、思い捨てたりさせる」の意味で、家のことを忘れるほど仕事に打ち込んでいることを詠ったもの。

 11句「身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而」は「身もたな知らに 鴨じもの 水に浮き居てと訓む。「身毛多奈不知」は「身(み)もたな知らず」と訓む。「身(み)」は、その人のからだの意から転じて、「その人自身。自身。我が身」の意。「身」は「みごもる、はらむ」が原義。「多奈」はタナ。接頭語で、動詞に付いて、すっかり、全く、十分になどの意を添える。「たな知る」は「深く知る。十分わきまえる」の意。ここはその否定形で、未然形の「たな知ら」に打消しのズがついて「たな知らず」。「知らず」の表記は、漢文の助字で否定を表わす「不」を使って「不知」としている。「鴨自物」は「鴨(かも)じ物(もの)」と訓む。「鴨(かも)」は、「ガンカモ科の鳥のうち、比較的小形の水鳥の総称。全長40~60センチメートルぐらいで、一般に雄の羽色の方が美しい。あしは短く、指の間に水かきがあって巧みに泳ぐ。くちばしは扁平で柔らかい皮膚でおおわれ、感覚が鋭敏で、ふちにはくしの歯状の小板が並ぶ。河海、湖沼にすみ、淡水ガモと海ガモとに区別される。前者にはマガモ、カルガモ、後者にはスズガモ、クロガモなどがある。日本には冬季に北地から渡来し、春に北地に帰るものが多く、夏季ふつうに見られるのは、カルガモとオシドリのみである。肉は美味で、カモ汁、カモなべなどにする。マガモの飼育変種にアヒルがあり、アヒル(家鴨)に対し野(生)鴨ともいわれる」と日本語大辞典には記されている。「鴨」は中国では「あひる」をいうが、わが国では「かも」の意に用い、万葉集ではカモ。「自」はジ。「物」は、「もの」を表わす借訓仮名と見ることもでき、「鴨じもの」と訓んでも良い。「じもの」は、接尾語で、ジにモノが付いたもの。名詞に付いて、「…のようなもの、…であるもの(として)」の意で、比喩的にいう。連用修飾句を作ることが多い。「鴨(かも)じ物(もの)」は、「鴨のようなもの。多く、鴨というもののように」の意で、副詞的に「浮く」「浮寝」などの語を修飾する。「水尓浮居而」は「水(みづ)に浮(う)き居(ゐ)て」と訓む。「水(みづ)」は、「自然界に広く分布する液体で、海水となって地表面積の73パーセントを覆い、水蒸気となって大気中に拡散し、水滴となって雲や霧などを生じ、雨や雪などとなって地表に降り、川となって流れ、溜まって池や湖沼となる。動植物の主要構成要素で、人体の約70パーセントを占める。…(以下略)」と日本語大辞典にあるが、ここでは「川の水」の意。「浮」は「浮き」と訓む。「居」は「居(ゐ)」と訓む。「鴨じ物 水に浮き居て」は、鴨のように上手に水に浮いている様子を詠ったもの。

 12句「吾作 日之御門尓」吾(あ)が作る 日の御門にと訓む。「吾作」 は「吾(わ)が作(つく)る」と訓む。「作(つく)る」は「新しく創造する。また、材料・素材に手を加えて、もとと違った新しいものにする」の意。ここは「藤原宮」を造営していることをいう。「日之御門尓」は「日(ひ)の御門(みかど)に」と訓む。「日(ひ)」は、皇室や皇族に関する事柄につけて、ほめたたえる気持を表わす語。日の神、すなわち、天照大神の子孫の意とも、光り輝く太陽にたとえたことばともいう。「日の御子、日の御門」などと使われる。「御門(みかど)」は、もともとは接頭語のミがついた「門」の尊敬語。そこから家や屋敷の尊敬語となり、特に天子・天皇の居処をいい、朝廷を表わす言葉となった。「日の御門」は、朝廷を讃美していう表現で、ここでは造営中の「藤原宮」をさす。

 13句「不知國 依巨勢道従」知らぬ國 依り巨勢道(こせぢじ)よりと訓む。「不知國」は「知らぬ國」と訓む。「不知」は「知らぬ」と訓む。「知る」は「領有して統治する」意であるから、「知らぬ國」は、「未だ領地になっていない国」の意だと解する。「依巨勢道従」は「依(よ)し巨勢道(こせぢ)より」と訓む。「依」は、「依(よ)り」と訓むことも考えられるが、多くの注釈書は「寄す」の連用形「よし」の訓みをしている。「巨勢」は「こす」の命令形「こせ」と地名の「巨勢」を掛けている。「こす」は主に上代に使われた助動詞で、上代の希求・願望の終助詞コソと同根といわれる。活用は「こせ・〇・こす・〇・〇・こそ(こせ)」上代の特殊活用。動詞の連用形に付いて、相手の動作、状態が自分に利益を与えたり、影響を及ぼしたりすることを望む意を表わす。「…してくれ」「…してほしい」という、相手に対する希求、命令表現に用いられる。「よしこせ」で、朝廷の支配下に入って来て欲しい、帰服して欲しい、の意となる。「巨勢」は、大和国高市郡にあった古郷。現在の奈良県御所(ごせ)市古瀬の一帯にあたり、巨勢山がある。「巨勢道(こせぢ)」は、巨勢の地を通っている道。「道(ぢ)」は「みち」の意の「ち」が連濁音化したもの。「従」は既出。「より。… から。」の意で使われるところから、時間・場所の起点を表わすヨリ。 

 14句「國者 常世尓成牟」我が國は 常世にならむと訓む。「我國者」は「我(わ)が國は」と訓む。「常世尓成牟」は「常世(とこよ)に成(な)らむ」と訓む。「常世(とこよ)」は「常世の国」に同じ。古代人が、海のむこうのきわめて遠い所にあると考えていた想像上の国、現実の世とはあらゆる点で異なる地と考えた国で、後に、不老不死の理想郷、神仙境とも考えられた国である。「常世(とこよ)に」と副詞的に用いて、「いつまでも変わることなく」の意をも持つ。「成牟」は、「成(な)らむ」と訓む。「牟」はム。「成る」は、「ある状態から他の状態に移り変わる。また、ある状態に達する」ことをいう。「我が國は常世に成らむ」は「わが国は常世の国のように成って永遠に栄えるであろう」の意。

 15句「圖負留 神龜毛 新代登」図(ふみ)負へる 神(あや、くす)しき亀も 新代(あらたよ)と訓む。 「圖負留」は「圖(ふみ)負(お)へる」と訓む。「圖」は「絵図」の意で「圖(ふみ)」と訓むが、ここでは亀の甲羅に現れた文様を意味する。文様の意であるところから「圖(あや)」と訓ずる説もある。「圖」は倉廩の所在を記入した絵図で、その耕作地を図面化したもの、いわゆる地図である。「負留」は「負(お)へる」と訓む。「留」はル。「負ふ」は、「背中に載せる。背負う」の意。「圖(ふみ)負(お)へる」で、「甲羅に瑞兆の文様を持った」という意となる。「神龜毛」は「神(くすしき)龜(かめ)も」と訓む。ここの「神」は、「神秘的である」の意の形容詞「くすし」を表わすために用いられたもので、その連体形の「神(くすしき)」と訓む。瑞兆の文様を持った神秘な亀の出現を詠ったもの。「新代登」は「新(あらた)代(よ)と」と訓む。「新代」は「旧に替わって新しくなった世。事あらたまった新時代」の意。持統天皇が正式に即位し、藤原京の造営が始まったことをいったものである。アラタは開墾したばかりの田が原義。名義抄に「甾 。アラタ・アラタハル、田一歳」とあり、開墾一年の田の意。そこからアラタ(新た)の意、更にアラタム(改む)・アラタマル(改まる)が生じた。「新(あらた)」は、新しいこと、見た目にはっきりとした新鮮があることを言う。「新」は既出。「代(よ)」は、竹の節と節との間をいう「よ(節)」と同語源で、時間的・空間的に限られた区間の意を持ち、「国がある支配者によって統治される期間。特に、天皇によって統治される期間」をいう。漢字の「代」はかわるがわる交代することから用いられたもの。ちなみに「よ」に充てられるもうひとつの漢字「世」は、一つの時間的まとまりとしての30年(人が働く期間)、一世代を表わす。「吾(わ)が作(つく)る」から「依(よ)し巨勢道(こせぢ)より」の「よし」までが一つの序。「よしこせ」の意で「巨勢」を起こす。そしてまた「新(あらた)代(よ)と」までもが序で、これは「出づ」の意で「泉」を起こす。このように序の中にもう一つの序を含む構造になっている。この序は、御民の立場から、御代を寿ぎながら誠実に働く様をその心情を描くかたちで詠ったもので単なる序詞というよりこの歌のテーマの一つとも言えよう。

 16句「泉乃河尓 持越流」泉の川に 持ち越せると訓む。「泉乃河尓」は「泉(いづみ)の河(かは)に」と訓む。「泉の河」すなわち「泉川」は、京都府南部を流れる木津川の古名である。ここで、田上山からの木材の運搬経路について見ておこう。田上山で切り出された木材は、大戸川→瀬田川→宇治川と流し落される。それが、宇治川と泉川(木津川)の流れ込む広大な巨椋池(おぐらのいけ)に集まり、そこで筏を組んで今度は泉川の逆流に沿って上げられる。その上流からしばらく陸地を経て佐保川に流して下し、更にそれを、佐保川と泊瀬川の合流点から泊瀬川を逆流させて藤原へ運んだのである。筏を組んで泉川を遡る様子を詠ったもの。「持越流」は「持ち越せる」と訓む。「持越」は「持ち越せ」と訓む。「流」はル。「持ち越す」は、「持つ」の連用形に「越す」が付いた複合動詞で、「持って移す。持って次へ送る」の意 

 17句「真木乃都麻手乎 百不足」真木のつまてを 百(もも)足らずと訓む。「真木乃都麻手乎」は「真木(まき)のつま手(で)を」と訓む。「真木」は既出。すぐれた木の意で、建築材料となる杉や檜などの総称。「都麻手」は、「嬬(つま)手(で)」のツマを「都麻」表記にしたもので、意味は同じく「荒削りした、かどのある材木。角材」のこと。「百不足」は「百(もも)足(た)らず」と訓む。「百」は既出の指事文字。声符である白(はく)の上に、一横線を加えて、数の百を示す。字音はヒャク、字訓は「もも、もろもろ」で、ここでは「もも」と訓む。「不足」は「不知」と同様に、漢文の助字で否定を表わす「不」を使って「足らず」の表記としたもの。「百足らず」は枕詞で、百に足りない数である五十の意で、「五十(い)」の「い」を含む「筏(いかだ)」「斎槻(いつき)」にかかる。また同じく百に足りない数である八十の意で、「八十(やそ)」および「八十」の「や」と同音を含む地名「山田」にかかる場合もある。 

 18句「五十日太尓作 泝須良牟」筏(いかだ)に作り 泝(のぼ)すらむと訓む。「五十日太尓作」は「いかだに作(つく)り」と訓む。「五十」は数字だがイ。「日」はカ。「太」はダ。「筏(いかだ)」は、横に並べた木材や竹を蔓(つる)や縄でつなぎ合わせて、水に浮かべ流すもので、奥山からの木材の運送の手段としたものである。「筏」の文字は日本書記白雉四年の記事にもある。これを「五十日太」と表記したのは、「五十日」もかからないにしても、作るのに相当多くの日数を要したことを表わすためと、太い木材であったことを表わしたかったものかと思われる。「作」は「作(つく)り」と訓む。「泝須良牟」は「泝(のぼ)すらむ」と訓む。「泝」は「 さかのぼる、流れに逆らって上る」の意。「泝須」は「泝(のぼ)す」と訓む。「須」はス。「泝(のぼ)す」は「上流へ向けて進める」意。「良牟」はラム。

 結句「伊蘇波久見者 神随尓有之」勤(いそ)はく見れば 神随(かむながら)ならしと訓む。「伊蘇波久見者」は「いそはく見(み)れば」と訓む。「いそはく」は、「いそふ」のク語法。ク語法とは、活用語を体言化する語法で、活用語の連体形に形式体言のアクが付いた形。例をあげると、言はく・恋ふらく・語らく・願はく・見まく、など。「いそふ」は、「争ふ・勤ふ」と書いて「先を争う。また先を争って勤める」意。ここは、勤勉に立ち働く様子をいう。「見者」は「見れば」で、「民の競うように立ち働く様子を見ると」という意となり、「さわく御民(みたみ)も」ともあわせて役民ではない人の眼を窺わせる。「神随尓有之」は「神随(かむながら)ならし」と訓む。「神随」は人麻呂の「吉野讃歌」や「安騎野歌」では、「神長柄」と表記されていた「神(かむ)ながら」を正訓字表記したものに違いないが、「神(かむ)ながら」の「な」を省略した形の「かむから」と訓む説もある。「尓有之」についても「ならし」と「にあらし」の訓みがあり、この句の訓みには、「かむからならし、かむながらならし、かむからにあらし」がある。表記通り素直に訓めば「かむながらにあらし」となるが、通説である「神随(かむながら)ならし」と訓んでおく。

巻1(51)。志貴皇子
 
題詞
歴史解説
 志貴皇子(しきのみこ)の作歌。「明日香の宮より藤原の宮に遷り居(ま)しし後、志貴皇子のよみませる御歌」。この歌は志貴皇子(しきのみこ)の非常に有名な一首の一つである。志貴皇子は天智天皇の子。壬申の乱で大海人皇子が勝利し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位したのち、京は藤原京へと遷された。この歌は京が遷されたのち、志貴皇子がかつての宮だった明日香を訪れて詠んだもの。采女(うねめ)は侍女のことで、日本書紀三十六代孝徳天皇大化二年の条に「凡采女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者」とある。郡少領以上の役職者はその姉妹及子女を采女として貢れ(たてまつれ)、すなわち差し出しなさいというもの。しかも容姿端麗の者という。朝廷に生活を保障され、うまくいけば天皇の子さえ生むことができるので花形だったに相違ない。郡少領は各郡の次官クラス。伝板蓋宮跡(でんいたぶきのみやあと)を飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)とも云う。伝板蓋宮跡にこの歌の歌碑がある。甘樫丘にもこの歌の歌碑が立っている。
原文  婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
和訳  采女(うねめ)の袖 吹きかえす 明日香風(あすかかぜ) 京都(みやこ)を遠み 無用(いたづら)に吹く
現代文  「(美しい)采女の袖を明日香の風が吹きかえしているよ。いまはもう京も遠くなりむなしく吹いている」。
文意解説  発句「婇女乃 袖吹反 明日香風」「采女(うねめ)の袖 吹きかえす 明日香風(あすかかぜ)」と訓む。「明日香風」は「明日香(あすか)風」と訓む。明日香風は明日香(飛鳥)の地を吹く風である。伊香保風・佐保風など類似の例はあるが、明日香風はこの一例だけであり、作者志貴皇子によってその場で作られた表現だと思われる。すでに居を藤原に移していた皇子が、久しぶりに明日香の地を訪れて、吹く風を「ああこれが明日香の風だ」と感じたそのままを表わしたものと考える。

 結句「京都乎遠見 無用尓布久」「京都(みやこ)を遠み 無用(いたづら)に吹く」と訓む。「京都乎遠見」は「京都(みやこ)を遠(とほ)み」と訓む。「京都」は漢語で「けいと」。「京、都」両字とも「みやこ」を意味し、「京都」も「みやこ」と訓む。「乎」はヲ。「遠」は「遠し」の語幹として用いられている。「見」はミ。〔体言+を+形容詞の語幹+接尾語「み」〕の形で、原因・理由(~ガ~ナノデ)を表わす。「明日香藤原間は一里足らずの距離である。しかし作者はそれを遠みと感じたのである」と土屋文明『万葉集私注』はいう。「京都を遠み」は物理的な距離の問題ではない。新都と旧都に対する作者の思いの相違であり、新都にわく宮廷人に背を向けて旧都にやって来た作者との距離の問題と言えるかもしれない。「無用尓布久」は「無用(いたづら)にふく」と訓む。「無用」は漢語で「むよう」。これを「いたづらに」と訓む。何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語である。空虚・無常の気持ちを表すこの副詞は万葉人に好まれたが、これがその最初の用例である。「尓」は二。「布久」はフク。「吹く」を表わす。


 かって飛鳥(あすか)に都があった頃は都の風が美しい女官たちの袖を翻していた。が、今は都が遠く移ってしまったので、風はいたづらに吹くばかりという懐旧の思いを歌ったものである。

 山田孝雄の万葉集講義には、「(明日香に)都のありしとき采女の袖吹きかへししものなるを以てかくいはれたるにて、今も都ならば、采女の袖を吹き翻すべきこの風もといふ意なり」とある。岩波書店新古典文学大系本も「『袖吹きかへす』という現在形は『明日香が都だったら、当然、彼女たちの袖を吹きひるがえすはずの』という意。音数上の制約もあって現在形が用いられたと思われる」と注している。澤瀉久孝の万葉集注釋には、「動詞の連体形は必ずしも現在の事実を示すとは限らない。過去の事にも未来の事にも用ゐる事は今の口語にも常にある例である。殊に、…大宮人の まかり出て 遊ぶ船には 梶棹も 無くてさぶしも こぐ人無しに(3・二五七)の『遊ぶ船』が今現に遊んでゐる事でない事はあまりにも明瞭で論の餘地はない。今の『袖吹きかへす』もそれであつて、今現に吹きかへしてゐる、と解せなければならぬものではない」とある。小学館日本古典文学全集本も「この吹キ返スは歴史的現在としての用法」とし、第153番歌の「思ふ鳥立つ」の注では、「思ふは愛する意。過去の習慣を歴史的現在として述べる」としている。確かに、客観的な事実の問題としては「采女の袖吹き反す」という情景は過去のものに属するに違いなく、右の説のように「かへすべき」の意に解いたり、また歴史的現在としての用法とする考えも分からないではない。しかし、これらの説明は、作歌時点における作者に迫る点で不十分なのではないだろうか。作者は「采女の袖吹き反す」と歌っているのであって、「袖吹きかへしし」とも「袖吹きかへすべき」とも歌っていない。作者は明日香風に吹きかえされる采女の袖を現に見ているのであって、過去の情景を想い起こしているのでもなければ、当然そうあるべきだと考えているのでもない。客観的にはどうであれ、作者に現に見えるから、現にそう感じられるから現在形で歌ったものと考えた方が、作歌時点における作者に迫ることになるのではないだろうか。それが幻想であり、過去の情景であったと認識するのは下の句にいってからのことである。このような詩的現在とも言うべき用法は他にも例をあげることができるがここでは割愛する。

巻1(52)。
 
題詞
歴史解説
 「藤原の宮の御井の歌」。
原文  八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者  日經乃 大御門尓 春山<跡> 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳<為>之 青菅山者  背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門<従> 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也   日<之>御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水
和訳

 やすみしし 我ご大王(おほきみ) 高ひかる(照らす) 日の皇子(みこ) 麁妙(あらたへ、荒布)の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始めたまひて 埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見(め)したまへば 日本(やまと、大和)の 青香具山は 日の経(たて)の 大御門に 青山(はるやま)と ()みさび立てり 畝傍(うねび)の この瑞山(みづやま)は 日の(よこ)の 大御門に 瑞(みづ)山と 山さびいます 耳成(みみなし)の 青菅山(あをすげやま)は 背面(そとも)の 大御門に 宣(よろ)しなべ 神さび立てり 名細(くは)しき 吉野の山は 影面(かげとも)の 大御門よ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御蔭(みかげ) 天知るや 日の御影の 水こそは 常磐(ときは)に有らめ 御井のま清水(きよみづ) 

現代文  「 隅々まで天下をお治めになる わが大君 高く天上を照らしたまう 日の御子は 麁妙を作る材料の藤の木がある 藤井が原の地に 立派な宮殿を 始めて造営されて 埴安の (池の)堤の上に いつもお立ちになって ご覧になると 大和の 青々とした香具山は 東の 宮殿の御門に向って (いかにも)春山らしく 繁り立っている 畝傍山の この瑞々しい山は 西の 宮殿の御門に向って (いかにも)瑞山らしい 姿で立っている 耳成山の 青々とした菅の茂る山は 北の 宮殿の御門に向って (いかにも)好ましい具合に 神々しく立っている その名もうるわしい 吉野の山は 南の 宮殿の御門から   遥かな雲の 遠い彼方に連なっている (よき山々に囲まれて)高々とお治めになっている この宮殿 天上までも支配されている この宮殿の 水こそは 永遠に絶えないであろう(ことを願う) 御井の清水よ」。
文意解説  長歌(れんだいこ式21句)。
 発句「八隅知之 和期大王」やすみしし 我ご大王(おほきみ)と訓む。50番歌に同じ。
 2句「高照 日之皇子」高ひかる(照らす) 日の皇子(みこ)と訓む。50番歌に同じ。

 3句「麁妙乃 藤井我原尓」麁妙(あらたへ、荒布)の 藤井が原にと訓む。「麁妙乃」は「麁妙(あらたへ)の」と訓む。第50番歌の5句「荒妙(あらたへ)の」と字は違うが同じで、「藤」を含む地名にかかる枕詞。「麁」は「麤(そ)」の俗字。「麤」は「遠くはなれる、あらい」の意を示す。古典基礎語辞典は次のように解説している。
 「アラタヘはニキタヘ(和栲)の対義語。繊維のあらい布をいう。それは『藤』のつるなどを材料として作るので、アラタヘノは、藤(ふぢ)を含む地名にかかる枕詞として用いられる」。
 「藤井我原尓」は「藤井(ふぢゐ)が原(はら)に」と訓む。「藤井が原」は「藤原」と同地。「井」の傍らに藤の木があったことから呼ばれた地名であろうとされている。泉でも池でも清い水をたたえたところを「井」といった。

 4句「大御門 始賜而」大御門(おほみかど) 始めたまひてと訓む。「大御門」は「大御門(おほみかど)」と訓む。「御門(みかど)」は、接頭語のミがついた「門」の尊敬語で、そこから家や屋敷の尊敬語となり、特に天子・天皇の居処をいうようになった。第50番歌で既述。ここでも宮殿の意で用いられている。「大」は「大御食(おほみけ)」などと同じく、敬意を重ねた表現。「始賜而」は「始(はじ)め賜(たま)ひて」と訓む。「始」の「はじむ」は「開始する。端緒とする」などの意。以上「麁妙(あらたへ)の 藤井(ふぢゐ)が原(はら)に 大御門(おほみかど) 始(はじ)め賜(たま)ひて」は、「麁妙を作る材料の藤の木がある 藤原の地に 立派な宮殿を 始めて造営されて」という意で、新都讃歌の歌い出しとなっている。

 5句「埴安乃 堤上尓」埴安(はにやす)の 堤の上にと訓む。「埴安乃」は「埴安(はにやす)の」と訓む。「埴安」は、奈良県橿原市、香具山付近の古地名。香具山の北鹿から西麓に広がっていた地域で、池があった。「堤上尓」は「堤(つつみ)の上)に」と訓む。「堤」は「つつみ」と訓み、「包むものの意」から「湖沼・川・池などの岸に沿って、水があふれないように土を高く築いたもの。土手。堤防」の意となった。「包む」は、物の全体を、中の物が外にこぼれたりあふれたりしないように別の物でくるむ意。説文解字に「滯るなり」とあり、水をとめる意である。「上」は既出。

 6句「在立之 見之賜者」あり立たし ()したまへばと訓む。「在立之」は「在(あ)り立たし」と訓む。「在(あり)」は存在の意であり、従って継続の意ともなり、「立つ、通ふ、待つ」などの動詞に冠して、「常に、絶えず」などの意を添える。「立」は「立た」と訓む。「之」はシ。「在り立たし」は、「いつもお立ちになって」。「見之賜者」は「見(め)し賜へば」と訓む。「見之」は「めし」と訓む。「めす」は「召す、見す」とも書かれ、「見る」の未然形「み」にスが付いて転じた語で、もともとミルの尊敬語でご覧になるの意であったものが、広範にわたってご覧になって統治するというところから、「治む」の尊敬語、お治めになる意に発展した。もともとの成り立ちから「見之」の字を用いたもので、「之」はシ。ここの「賜」は「賜(たま)へ」と訓みバに続く。「埴安(はにやす)の 堤の上に 在(あ)り立たし 見(め)し賜へば」は「埴安の(池の)堤の上にいつもお立ちになってご覧になると」という意で、第2番歌の「騰(のぼ)り立ち國見を為(す)れば」や第38番歌の「上(のぼ)り立ち國見を為(せ)せば」と同じく「国見歌」であることを示す表現となっている。
 
 7句「日本乃 青香具山者」は日本(やまと、大和)の 青香具山はと訓む。「日本乃」は「日本(やまと)の」と訓む。「日本」は既述。「青香具山者」は「青(あを)香具山(かぐやま)は」と訓む。「青々と繁る天の香具山は」の意で、「青」は木々の繁茂を意味し讃美を表わす。「青草、青垣、青雲、青海原、青菜、青柴垣、青柳、青山」など用例が多い。「香具山」は「大和三山歌」に「高山」と表記さけており既述。

 8句「日經乃 大御門尓」日の(たて)の 大御門にと訓む。「日經乃」は「日の經(たて)の」と訓む。「日の經」は、東西南北の筆頭を經糸(たていと)で表わしたもので、陽の東を意味する。それに対し陰の西は緯糸(よこいと)で表わし「日の緯」と言っている。本朝月令には「高橋氏文云〈略〉日堅・日横・陰面・背面の諸国人を割移て」とあり、東西南北をそれぞれ日堅(ひのたて)・日横(ひのよこ)・陰面(かげとも)・背面(そとも)と称していたことが分かる。ただし、日本書紀の成務5年9月には「因以東西爲日縱。南北爲日横。山陽曰影面山陰曰背面」とあり、東西を日縱(ひのたて)、南北を日横(ひのよこ)、南を影面(かげとも)、北を背面(そとも)としている。また、中国では南北を経、東西を緯といい、縦横の名称が逆になっている。「大御門尓」は「大御門(おほみかど)に」と訓む。

 9句「春山<跡> 之美佐備立有」青山(はるやま)と ()みさび立てりと訓む。「春山<跡>」は「春山と」と訓む。「春山」は「春の山。春の季節の頃の山。春景色となった山」を意味する。本居宣長は、これを「青香具山者」を承けた句であることから「青山」の誤りと論じている。五行説により、色を四季に配すると「春」は「青」であるから、「春」を「青」に充てたと見る説も成り立つ。ここでは「春山(はるやま)」と訓んでおく。「跡」は写本の多くが「路」となっており「ぢ」と訓まれていたが、荷田春満の僻案抄に「路を跡と改めたもので、写本の一つである古葉略類聚鈔にはこの歌が重ねて並べて載せられており、前者には跡の草体が記され、後者に路の字が書かれている。これは、跡の草体が路に誤写された姿を示すものと思われ、僻案抄の説に従うべきもの」というのが定説となった。「之美佐備立有」は「しみさび立有(たて)り」と訓む。「之美佐備」は「しみさび」と訓む。「しみさぶ」は「草木が茂りさかえたさまになる」の意。「繁茂している」の意を表わす「しみ」に、「いかにもそれらしい状態になる」意の接尾語「さぶ」が付いてできた語。「立有」は「立有(たて)り」と訓む。「立ってそこに有る」ことを表現するための用字。

 10句「畝火乃 此美豆山者」畝傍(うねび)の この瑞山(みづやま)と訓む。「畝火乃」は「畝火(うねび)の」と訓む。「畝火」は大和三山の一つ畝傍山で「雲根火」、「畝火之山」として既出。「此美豆山者」は「此(こ)のみづ山は」と訓む。「此」は「此(こ)の」と訓む。近称の代名詞コにノの付いたもの。近代語では「こ」の単独用法がないので、「この」を一語とみて「連体詞」とする。「美豆」はミヅ。漢字では「瑞」と書かれ、他の語の上に付けて、みずみずしい、清らか、美しいなどの意を添える。例えば、「瑞枝、瑞垣、瑞茎、瑞穂」など。「美豆山」は「瑞山」で若草の生い茂ってみずみずしく美しい山をいう。「美しい豆のような山」という意味合いを込めた用字かと思われる。

 11句「日緯能 大御門尓」日の(よこ)の 大御門にと訓む。「日緯能」は「日(ひ)の緯(よこ)の」と訓む。「日(ひ)の緯(よこ)」は「西」のことをいったもの。「大御門尓」は「大御門(おほみかど)に」と訓む。

 12句「弥豆山跡 山佐備伊座」瑞(みづ)山と 山さびいますと訓む。「弥豆山跡」は「みづ山と」と訓む。「弥」は「美」と同じくミ。仮名としては「美」より古く、8世紀初頭まで常用されていたが次第に「美」に押され多用されなくなった。「弥豆山」は「瑞山」のこと。「山佐備伊座」は「山(やま)さびい座(ま)す」と訓む。「佐備」はサビで、「さぶ」は「…にふさわしい振る舞いをする、…らしい様子・状態である」意を表わす。「伊座」は「い座(ま)す」と訓む。「伊」はイ。「い座(ま)す」は「ます」にイが付いてできた語で「いらっしゃる。おいでになる」の意。

 13句「耳<為>之 青菅山者」耳成(みみなし)の 青菅山(あをすがやま)と訓む。「耳<為>之」は「耳為(みみなし)の」と訓む。2字目の<為>は、原文「高」とあるのを賀茂真淵『万葉考』に「為を高に誤し事定か也」として「耳為」に改め耳成山の意として以来諸注それに従っている。「青菅山者」は「青(あを)菅山(すがやま)は」と訓む。「青菅山」は「青々と菅(すげ)の茂っている山」をいう。宣長は、「菅」は「清」のあて字で「樹木の茂ったすがすがしい山」の意であるとするが、文字通り「菅」の意と見て良い。なお、「菅(すげ)」が複合語を作るときにスガとなるのは、「露出形」から「被覆形」への母音交替の一例である。

 14句「背友乃 大御門尓」背面(そとも)の 大御門にと訓む。「背友乃」は「背(そ)ともの」と訓む。「背友」は「背(そ)とも」と訓み、「背面(そとも)」で、「背(そ)つ面(おも)」すなわち「山の背面」の義で「北」のことを意味する。「友」はトモ。「大御門尓」は「大御門(おほみかど)に」と訓む。

 15句「宣名倍 神佐備立有」宣(よろ)しなべ 神さび立てりと訓む。「宣名倍」は「宣(よろ)しなへ」と訓む。は形容詞「よろし」の語幹にナへの付いたもので、「いかにも好ましく。ちょうどよい具合に。まさにふさわしく」などの意。「宣」は既出で、「宜(よろ)し」は「好ましい、ふさわしい」。「神佐備立有」は「神(かむ)さび立有(たて)り」と訓む。「神佐備」は「神(かむ)さび」と訓み「山(やま)さび」と同じ用法。「立有」は既述。  

 16句「名細 吉野乃山者」名細(くは)しき 吉野の山はと訓む。「名細」は「名(な)細(くは)しき」と訓む。「名(な)細(くは)し」と4音に訓む説もある。用例としては、第220番歌に「名細之(なくはし) 狭岑之島(さみねのしま)」があり、第303番歌に「名細寸(なくはしき) 稲見乃海(いなみのうみ)」があることから、「名細」の2字ではどちらとも訓めることがわかる。「くはし」はシク活用の形容詞で、ここは次の句の「吉野」を修飾しているのであるから素直に連体形の「くはしき」として「名くはしき」と5音に訓むこととする。「くはし」は、充てられる漢字によって意味が分かれる。まず、「美・細・妙」の字が充てられる場合には「こまやかで美しい。精妙である。うるわしい」の意となり、「詳・委・精」の場合は、「細かい点にまでゆきわたっているさま。詳細である。つまびらかである。つぶさである」または「細部まで十分に知っているさまである。精通しているさまである」の意となる。ここは「細」が使われているので前者の意となるが、「細」の本来の字義からすると後者の意になると思われるので間違いやすい。「名(な)細(くは)しき」は「名前のうるわしい。名のよい」の意で「吉野」にかかる。「吉野乃山者」は「吉野の山は」と訓む。吉野山は、「吉野川のほとりから大峰山に向けて高まる標高300~700メートルの尾根」のことをいう。藤原宮からは、東の多武峰と南の高取山の間に僅かに見えたものと思われる。

 17句「影友乃 大御門<従>」影面(かげとも)の 大御門よと訓む。「影友乃」は「影(かげ)ともの」と訓む。「影(かげ)とも」は「影(かげ)つ面(おも)」の意。この影は光の方で、日の光に当たる方、すなわち南のことをいう。「友」はトモ。「大御門<従>」は「大御門(おほみかど)ゆ」と訓む。「大御門」は既述。「従」は「徒」とする写本もあるが、元暦校本・類聚古集・紀州本の「従」を採った。「従」は漢文の助字で場所の起点をあらわすユに用いられたもの。ここは宮殿から遠い吉野山を叙しているので「大御門ゆ」としたものである。

 18句「雲居尓曽 遠久有家留」雲居にそ 遠くありけると訓む。「雲居尓曽」は「雲居(くもゐ)にそ」と訓む。「雲居」は、遠くにじっとかかって居る雲。雲そのものをさす事もあり、雲の居る彼方遠くの意にも用いる。ここは後者である。「遠久有家留」は「遠(とほ)く有(あ)りける」と訓む。「遠久」は、「遠(とほ)く」と訓ませるために「遠」に「久」のクを添えたもの。「遠」は遠く送る意であり、そこから遠方、遐遠の意となったものである。「有家留」は「有(あ)りける」。「家留」はケル。ソを承けての結び。以上、「名(な)細(くは)しき 吉野(よしの)の山(やま)は 影(かげ)ともの 大御門(おほみかど)ゆ 雲居(くもゐ)にそ 遠(とほ)く有(あ)りける」は、藤原宮のはるか南に位置する吉野山を詠っている。吉野山は藤原宮から最も遠いので最後に据えたため、方角が東西北南の順になっている。

 19句「高知也 天之御蔭」高知るや 天の御蔭(みかげ)と訓む。「高知也」は「高(たか)知(し)るや」と訓む。「高知る」は第38番歌に既出、「立派に治める。立派に統治する」ことをいう。「高」は、「太(ふと)敷(し)く」の「太」と同様のほめことば。「也」はヤ。「高知るや」を、天高くそびえる高殿が天日を覆って影をつくる意で「天の御影」にかかる枕詞とする説もあるが、特に枕詞とする必要はないように思う。「天之御蔭」は「天(あめ)の御蔭(みかげ)」と訓む。「天の御蔭」とは、宮殿のこと。「天の」は「天の香具山」の「天の」と同じくほめ言葉。「蔭」は、本来日光や雨などを避ける覆いをいうが、冠・笠・屋根などもいう。建物を「御蔭」というのは、祈年祭の祝詞に「皇御孫の瑞の御舎を仕えまつりて、天の御蔭・日の御蔭と隠りまして」とあるのに等しい。

 20句「天知也 日<之>御影乃」天知るや 日の御影のと訓む。「天知也」は「天(あめ)知るや」と訓む。「天知る」は、「天上を治める」の意で、37句の言い換え。「日<之>御影乃」は「日の御影(みかげ)の」と訓む。<之>が無い写本もある。「日の御影」も宮殿のこと。38句の「御蔭」とカゲの字を変えているのは、視覚上の変化を意識したもので、変字法、避板法ともいう。

 結句「水許曽婆 常尓有米 御井之清水」水こそは 常磐(ときは)に有らめ 御井のま清水(きよみづ)と訓む。「水許曽婆」は「水こそば」と訓む。ここの「水」は藤原宮の御井の水のことを言ったもの。「許曽婆」はコソバ。万葉集中にコソハという助詞は、仮名書したもの9例あり、そのうちハを「婆」で書いたもの7例、「波」で書いたものが2例である。「波(ハ)」と「婆(バ)」は万葉集で多少の例外はあるが原則として区別されている。複合した際にはコソバと濁音化するのが一般的である。「水こそば」は「水こそは」の意。「常尓有米」は「常(とこしへ)に有(あ)らめ」と訓む。ここの訓みには、他に「常(つね)に有(あ)らめ」と6音に訓む説と、「常(とこしへ)ならめ」と7音に訓む説がある。「常」はツネと訓むのが普通であるが、母音を含む6音に訓むのは、この句がこの歌にとっての要ともいえることを考えると、いかにも弱い。「常」一字をトコシヘと訓んだ確例はないが、第1682番歌の「常之倍尓(とこしへに)」などの用例を踏まえて、「常(とこしへ)」と訓みたい。「尓有」を「にあり」のつづまった「なり」と訓ずる場合もあるので、「常(とこしへ)ならめ」と7音に訓むことも可能ではあるが、「常(とこしへ)に」「有(あ)らめ」と格助詞「に」を明確に訓むことがこの場合は欠かせないと考え、8音の字余りに訓むこととする。「米」はメ。コソの係り結び。「こそ … め」の呼応は奈良時代では、単なる推量は表わさず、希求願望を表わす。ここも祈願の意を込めた表現。第1番歌の「我にこそは 告(の)らめ」もその例。「御井之清水」は「御井(みゐ)の清水(きよみづ)」と訓む。「御井」は良い水の出る井泉をいう。「御」はミ。「清水」は古写本ではキヨミヅと訓まれていたのを、荷田春満が『萬葉集僻案抄』でシミヅハと改め、更に賀茂真淵が『萬葉考』でマシミヅと改めたもので、多くの注釈書がそれに従って「ま清水(しみず)」と訓んでいる。スミミズと訓む説もある。「ましみづ」のマは接頭語で美称であるから、「ましみづ」も「しみづ」も「すみみづ」も「きよみづ」も「清らかに澄んだ水」を表わすことに変わりはない。わざわざマを訓み添える必要はなく古写本の訓みに従って良いと思われる。古写本の訓の方が本来の姿かもしれない。

巻1(53)。


題詞
歴史解説
 志貴皇子の作歌。「明日香の宮より藤原の宮に遷り居(ま)しし後、志貴皇子のよみませる御歌。藤原の大宮仕へ(あ)斎(つ)くや處女が共は羨(とも)しきろかも」。左注に「右歌作者未詳」とある。このあたりの歌はほとんどが高位高官の歌で作者も明記されている。なぜ作者不詳歌がここに採録されているのだろうか。前歌(51番歌)で采女(侍女)たちは当時は花形だったのではないか、としたが、その雰囲気がストレートに表現されている歌である。
原文  藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 處女之友者  <乏>吉<呂>賀聞
和訳  藤原の 大宮仕へ 生れつくや 處女がともは 羨しきろかも
現代文  「藤原宮に采女として仕える處女たち(處女がとも)はいいなあ」。
文意解説
 発句「藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉」は「藤原の 大宮仕へ 生れつくや」と訓む。「藤原之」は「藤原(ふぢはら)の」と訓む。「藤原」は第50番歌6句に既出。奈良県橿原市東部の古地名で、藤井が原とも呼ばれていた。長歌の6句「藤井が原に」を承けての詠い出しである。ここの「之」はノ。「大宮都加倍」は「大宮(おほみや)つかへ」と訓む。「大宮」は既出で、「おお」は接頭語)もとは、神、または天皇の御殿をさすが、転じて宮廷、朝廷をもさす。「大宮つかへ」は宮中に仕えることをいう。「都加倍」はツカヘ。「安礼衝哉」は「あれつぐや」と訓む。「あれ」は、第29番歌5句「あれ座(ま)しし」の「あれ」と同じで「ある」の連用形。「ある」は「現・生」の字があてられ、「神霊、天皇など、神聖なものが出現する。転じて、生まれる」の意。「安礼」はアレ。「衝」は濁音の「継ぐ」を表わすために用いたものとみて「つぐ」と訓んだが、この場合、「衝」は借訓文字となる。借訓文字はその訓の清濁を乱して借りられることはなく、「衝」の正訓は「つく」であるから「つぐ」の借訓仮名には用い得ないとする説がある。しかし、清濁には通用の例もあり、用い得ないと決めつける説には賛成しがたい。ここを「あれつく」と訓んだ場合、「大宮つかへ」になるべく「生まれついた」の意ととることになるが、それでは永遠に続く清水を寿いだ長歌の反歌としては意味をなさないと思う。ここはやはり「あれつぐ」で「大宮つかへ」に「次々に生まれてきた」として永遠性を讃える表現だと見たい。なお、第1053番歌の「八千年尓(やちとせに) 安礼衝之乍(あれつがしつつ)」の例も「あれつぐ」と解すべきものと考える。「哉」はヤ。

 結句「處女之友者  <乏>吉<呂>賀聞」は「處女がともは 羨しきろかも」と記す。「處女之友者」は「處女(をとめ)が友は」と訓む。「處女」は既出で、「若々しく生命力の盛んな女。成年に達した未婚の女」の意。長歌に詠まれた「御井」を管理したのは「大宮つかへの處女」であったとされる。ここの「之」はガ。「友(とも)」は「同じ仲間の人々。ともがら」の意。「者」はハ。「<乏>吉<呂>賀聞」は「乏(とも)しきろかも」と訓む。1字目は「之」3字目は「召」と写本のあり、シキテメスなどの訓が行われていたが、意味をなさず、本居宣長が玉勝間に「田中道麻呂が、乏吉呂賀聞を誤れる也といへるよろし」と書いたことにより、多くそれに従う。確かに「乏」の字を「之」と誤った例は他にも見られるし、「召」については「呂」とする写本も中に有り、「呂」の略体字を「召」と誤ったものと考えられる。「ともし」は「物事が不足している。財物が少ない。自分にはないものを持っている人などをうらやましく思う」などの意を表わす。ここは「羨ましい」の意。「吉」はキで「ともしき」を表わすための活用語尾として用いている。「呂」はロ。「賀聞」はカモ。岩波古語辞典には、「ろかも」は、「形容詞連体形をうけて感動の意をあらわす」とある。

 藤原の大宮仕へ()()くや処女が共は(とも)しきろかも


巻1(54)。
 
題詞
歴史解説
 坂門人足(さかどのひとたり)の作歌。「大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌(大寶元年辛丑の秋9月、太上天皇、紀伊国に幸しし時の歌)」。太上天皇(おほきすめらみこと)とは文武天皇に譲位した持統天皇のこと。「右一首、坂門人足」。この歌は、大宝元年(701年)の秋、持統天皇が文武天皇とともに紀伊国の「紀の牟婁(むろ)の湯」(白浜温泉)に行幸したとき、同行した坂門人足が詠んだ歌とされる。

 「大寶元年」は、701年にあたるが、その4年前の持統11年(697年)8月に、持統天皇は、皇孫軽皇子に譲位し、文武天皇の時代となり、太上天皇と呼ばれるようになった。この時の行幸は、大行天皇と呼ばれた文武天皇と共に紀伊国の武漏温泉に行かれたもので、9月18日出発、10月19日に帰京されている。この歌の左注には「右一首坂門人足」とあり、作者は「坂門人足(さかとのひとたり)」という人物であることはわかるが、伝未詳でどういう人物かは分からないし、歌もこの一首のみである。

 巨勢山(こせやま)は近鉄吉野線やJR和歌山線の「吉野口」駅から徒歩20分ほどの所に位置する奈良県御所市の標高300メートル弱の山。古代には豪族巨勢氏の治下にあったとされる。
近鉄吉野口駅のそばにある阿吽寺境内に、この歌の歌碑がある。奈良県御所市大字古瀬に巨勢寺跡がある。
原文  巨勢山乃 列々椿 都良々々尓 見乍思奈 許湍乃春野乎
和訳  巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を
現代文  「あの有名な巨勢山のつらつら椿を、その名のようにつくづくと見ながら偲ぼうよ。巨勢山の春野を。(椿が彩ってさぞかし美しいことだろうな)」。 
文意解説  発句「巨勢山乃 列々椿 都良々々尓」巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらにと訓む。「巨勢山乃」は「巨勢山(こせやま)の」と訓む。「巨勢」はコセ。地名を表わす。「巨勢」は、大和国高市郡にあった古郷で、現在の奈良県御所(ごせ)市古瀬の一帯にあたる。奈良県御所市古瀬と高市郡高取町の境にある丘陵を巨勢山といい、その西側のふもとに巨勢野がある。「乃」はノ。「列列椿」は「列列椿(つらつらつばき)」と訓む。八重に咲く桜や山吹を「八重桜」「八重山吹」と呼ぶのと同じように、椿の赤い花が繁った葉の間に点々と列なって咲くことから「列列椿」と呼んだものと考えられる。ただし、9月の歌であるから、眼前の椿に花はない。字句の「つらつらに」と頭韻を踏む。「都良都良尓」は「つらつらに」と訓む。「都良尓」はツラニ。「つらつらに」は、物ごとを念を入れてするさまを表わす語で、「つくづくと。しみじみと」の意。

 結句「見乍思奈 許湍乃春野乎」見つつ思(しの)はな 巨勢の春野をと訓む。「見乍思奈」は「見つつ思(しの)はな」と訓む。「見(み)」は「見る」の連用形。「乍」はツツの借訓仮名。萬葉集のツツの用例の大半は同じ動作が繰り返し行われることをいう反復の意を表わすが、ここは、同じ動作ではなく、二つの違った動作が同時に行われる時に用いた例。現代語の「…乍(なが)ら」に相当するが、普通ツツの下にくる動作の方が主体になる。「思」は「思(しの)は」と訓む。「奈」はナ。「思」を「しのふ」に訓む例は他にもあり、ここは意味の上からいって、「おもふ」ではなく「しのふ」と訓むのが良い。「しのふ」は、賞美する、なつかしく思う、意のほかに、眼前のものを媒介にして眼前にないものに思いを馳せる意がある。「許湍乃春野乎」は「こせの春野を」と訓む。「許」はコ。「湍」は「早瀬」を意味するが、ここではセ。「許湍(こせ)」は1句の「巨勢」に同じ。「春野」は文字通り「春の野原。春の姿になった野原」の意。「乎」はヲ。上の句の「しのふ」の対象を示したもので、「椿の花のない晩秋に、椿の花の列なり咲く春野のさまに思いを馳せよう」という意になろう。
 
 作者は眼前に巨勢山の椿を見つつ、「偲はな巨勢の春野を」と詠っている。秋9月の旧暦9月は晩秋。椿は咲いていないので、歌意は、「これがつらつら椿で有名な椿(の木)なのか」という意味である。「つらつら椿」の「つらつら」は「列々」で花々が連なって咲いている様を云う。その後の「つらつらに」は「つくづくと」の意と解するのが良い。原文も「列々」と「都良々々尓」と書き分けている。この歌の特色のひとつとして、歌の「調べ(リズム)」の滑らかさは特筆すべきものがあり、繰り返しの技法を使うことで、歌を口ずさんだ時に非常に心地よくすらすらと暗じられるようになっている。

巻1(55)。

題詞
歴史解説

 調首淡海(つきのおびとあふみの作歌。「太上天皇の紀伊國に幸せる時、調首淡海がよめる歌」。この歌は先に紹介した巻一(五十四)の歌とおなじく持統天皇が文武天皇とともに紀伊国の「紀の牟婁(むろ)の湯」(白浜温泉)に行幸したとき、調首淡海(つぎのおびとあふみ)が詠んだ作といわれている。左注には「右一首調首淡海」とあり、この歌の作者が「調首(つきのおびと)淡海(あふみ)」であることが分かる。平安時代初期の弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑である『新撰姓氏録』に、調氏は、百済国の努理使主(ぬりのおみ)の後(すゑ)で、応神天皇の御世に帰化し、顕宗天皇の御世に、絁絹(きぬ)の様(かた)を献じて、調首の姓を賜ったことが見える。淡海は、壬申の乱の際に舎人として大海人側で戦い、戦いの記録を日記に記した断片が伝わっているという。『続日本紀』には調連(つきのむらじ)とあり、後に連姓を賜っている。

 真土は奈良県と和歌山県の県境、和歌山県隅田(すだ)町にある。真土のすぐ手前、奈良県五條市の国道24号線沿いにこの歌の歌碑がある。国道24号線を和歌山に入ってすぐの小高い岡の上に「亦土山(真土山)」の石漂がある。国道24号線をさらに南下した場所(真土貯水場前)にもこの歌の万葉仮名原文歌碑がある。

原文  朝毛吉 木人乏母 亦打山 行来跡見良武 樹人友師母
和訳  麻裳(あさも)よし 紀人羨(きひとともし)しも 亦打山(まうちやま) 行き来(く)と見らむ 紀人羨しも
現代文  「良い麻裳を産するという 紀の国の人は羨ましいなあ。真土山を行き帰りに見れる紀の国の人は、ほんとに羨しものだ」。
文意解説  発句「朝毛吉 木人乏母 亦打山」は「麻裳(あさも)よし 紀人羨(きひとともし)しも 亦打山(まうちやま) 」と訓む。「朝毛吉」は「あさもよし」と訓む。「朝」はアサ。「毛」はモ。「吉」は、「青丹吉」の「青丹(あをに)よし」のヨシ。文節末に添えて詠嘆を表わす。「あさもよし」は、地名「紀」「城上(きのへ)」にかかる枕詞。「あさもよし」は岩波大系本ではキにかかる枕詞とある。「あさもよし」は万葉集中6例ある。短歌3例、長歌3例、すべてキにかかっている。「紀人(きひと)」は「紀の国の人々」。真土山(まつちやま)は奈良県五條市と和歌山県橋本市との境にある山。実際の真土山は標高100メートルほどの低山、さほど展望がきく場所とは思われない。「紀人羨し」の意味が今日では通じない。日本国語大辞典の「あさもよし」の[語誌]に次の記述がある。
 「アサモは「麻裳」「朝裳」の表記があるが、紀の国で麻を産したことは、「延喜式‐二三・民部」や、「麻衣着ればなつかし紀伊の国の妹背の山に麻蒔く我妹〈藤原卿〉」〔万葉‐七・1195〕からもわかるので、「麻裳」が原義で、良い麻裳を産する紀の国の「紀」にかかると考えられる。転じて、同音の「城上(きのへ)」にもかかった。一方、「朝裳」「麻裳」を「着る」の意から「紀(城・木)」にかかるとする説もあるが、この場合は、キが「着る」では甲類、「紀」では乙類と異なるので当たらない」。

 「麻裳」を「着る」の意から「紀(城・木)」にかかるとする説を、キが「着る」では甲類、「紀」では乙類と異なるので当たらないとしてしりぞけているが、そのように甲乙類の差異を絶対化して考えることには疑問がある。確かに、甲乙類に発音の違いはあったであろうが、後にその差が消滅していくことを考えると、類似音であったことには違いがないわけで、類似音による掛け言葉が用いられたことは十分あり得たのではなかろうか。逆にそのような類似音の掛け言葉の累積が甲乙類の差の消滅につながったという事も考えられなくはない。ただ、この場合は「あさもきる」ではなく「あさもよし」であるから、良い麻裳を産する紀の国と見た方が良い。「木人乏母」は「木(き)(紀)人(ひと)乏(とも)しも」と訓む。「木人」は「紀人」で紀の国の人。江戸後期の国語辞書である和訓栞〔1777~1862〕に「きい。紀伊はもと木国と書たるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書也。伊は紀の音の響なり」とある。「乏」は「乏(とも)し」と訓む。「羨ましい」の意。「母」はモ。「亦打山」は「亦打(まつち)(真土)山(やま)」と訓む。「真土山」は、奈良県五條市と和歌山県橋本市との境にある真土峠の古称。歌枕の一つ。萬葉集中、「まつち山」が出てくる六例の用例のうち三例までが「亦打山」と書かれており、あとは「又打山、真土山、信土山」が各一例である。「亦打」の表記に何か意味があるのかは不明。

 結句「行来跡見良武 樹人友師母」「行き来(く)と見らむ 紀人羨しも」と訓む。「行来跡見良武」は「行(ゆ)き来(く)と見らむ」と訓む。「行(ゆ)き来(く)と」は、「行(ゆ)くとて来(く)とて」で、すなわち「あちらへ行くとて又こちらへ来るとて、その往復に」という意である。「見らむ」は「見る」の連用形にラムの接続した形。習慣化された事柄を一般的な事実として推し量る形で述べたもの。 「樹人友師母」は「樹(き)(紀)人ともしも」と訓む。2句の繰り返しで、表記のみ変えている。「樹人」は2句の「木人」に同じ。「友師」は「乏(とも)し」を表記したもの。「母」はモ。

巻1(56)。
 
題詞
歴史解説

 春日蔵首老(かすがのくらびとおゆの作歌。「或本歌」。「大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌」の第一首目の第54番歌に関連する歌として別本より引用したものであることを示している。左注に「右一首春日蔵首老(右一首、春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ))」『続日本紀』の大宝元年3月壬辰(19日)の条に「僧弁紀をして還俗せしむ。… 姓春日倉首、名老(おゆ)を賜ひ、追大壱を授く」とある。弁紀は弁基とも書かれ、「弁基歌一首」の題詞を持つ第298番歌の左注には「右或云 弁基者春日蔵首老之法師名也」と記されている。僧弁紀(弁基)=春日蔵首老の歌としては、『萬葉集』に、56、62、282、284、286、298、1717、1719の計八首の短歌があり、『懐風藻』に詩一首がある。『続日本紀』の記事で還俗するにあたり、姓とともに名を賜っているところをみると、春日蔵首老は渡来系氏族かと思われる。この歌は54番歌にそっくりである。「巨勢の春野」、「つらつら椿つらつらに」という極めて特徴的な表現が全く同一である。このため、伊藤本は「この歌、54の原歌か」と注記している。こちらの歌は、実際に巨勢の春野に赴いて椿を目の前にして詠んでいる歌である。なので、もしも同一人の作なら54番歌を詠じてから、半年後に再度巨勢の春野を訪れて本歌を詠んだことになる。が、本歌の左注には「右一首、春日蔵首老」とある。54番歌の左注には「右一首、坂門人足」とある。これを素直に解すれば作者が異なっている。中西進編「万葉集事典」(講談社文庫)(以下単に「中西事典」と記す)によれば、「坂門人足」の項に「大宝元年(701年)持統太上天皇の行幸に従う」旨の、「春日蔵首老」の項に「法師弁基、大宝元年還俗後の名」という旨の記載がある。

 題詞の「或本」とあるのがいかなる本とも知られず、第54番歌との関係も明らかではない。眼前に春の花咲く椿を見て詠んだ第56番歌の方が、眼前にない春の景を偲んだ第54番歌よりも古く、当時人口に膾炙していた第56番歌を踏まえて第54番歌が詠われたとするのが一般的である。阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義』は、第54番歌は大宝元年9月の作であり、一方、第56番歌の作者春日老が還俗したのは同じ大宝元年の3月であることからすると、一般に解されていることは可能性が薄いと指摘する。春野を偲んだ第54番歌に和した歌が第56番歌で、現実に見る形で詠ってみせたものと考えるわけであるが、どうもそれでは腑に落ちない。第56番歌を弁基時代の作と考えれば一般に解されていることで良いわけだが、阿蘇氏は、弁基時代の歌であれば、第298番歌のように「作者名を弁基と書いたに相違ない。」として否定される。しかし、第298番歌が、第55番歌と同じ真土山を詠んだ歌であることからすると、第56番歌も弁基時代の歌であることは十分考えられる。左注に弁基作とないのは、左注を書いた編者に春日老の歌という認識があったのでそう記したに過ぎないと見ても良いのではないか。やはり一般の解のように第56番歌を原歌と見たいがどうであろうか。

原文  河上乃 列々椿 都良々々尓 雖見安可受 巨勢能春野者
和訳  河上の 列列椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は
現代文  「河のほとりの つらつら椿を つくづくと 見ても見ても見飽きない (椿の花咲く) 巨勢の春野は」。
文意解説
 発句「河上乃 列々椿 都良々々尓」「河上の 列列椿 つらつらに」と訓む。「河上乃」は「河上(かはのへ)の」と訓む。「河上」は、川の上流を意味する場合には、「かはかみ」と訓ずるが、川のほとりを意味する場合には「かはのへ」と訓む。澤瀉『萬葉集注釋』は、ここを吉野口の東を流れる曽我川の上流の意ととるべきであるとして「かはかみ」と訓むが、多くの注釈書は川のほとりの意と解しておりそれに従う。「列列椿」は「列列椿(つらつらつばき)」と訓む。第54番歌と同句。八重に咲く桜や山吹を「八重桜」「八重山吹」と呼ぶのと同じように、椿の赤い花が繁った葉の間に点々と列なって咲くことから「列列椿」と呼んだもの。「都良都良尓」はツラツラ二と訓む。第54番歌と同句。「都良尓」は、ツラニ。「つらつらに」は、物ごとを念を入れてするさまを表わす語で、「つくづくと。しみじみと」の意。

 結句「雖見安可受 巨勢能春野者」「見れども飽かず 巨勢の春野は」と訓む。「雖見安可受」は「見れどもあかず」と訓む。「雖」は漢文の助字で、字義は「いえども」で①仮定。たとえ…であっても。②既定。…であるけれども。③譲歩。…ではございますが。と、三つの用法がある。ここは②で、逆接の確定条件を表わす接続助詞「ども」として使われている。「雖見」は「見れども」と訓む。「安可受」はアカズ。「飽きることがない」の意。「巨勢能春野者」は「巨勢(こせ)の春野(はるの)は」と訓む。「巨勢」、「春野」は既出。第54番歌は「こせの春野を」と秋に「春野」を偲んで詠んだものであったが、ここでは眼前に広がる「春野」を詠ったものである。「能」はノ。「者」はハ。

巻1(57)。

題詞
歴史解説
 長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の作歌。「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌(二年(ふたとせといふとし)壬寅(みづのえとら)、太上天皇の参河國に幸せる時の歌)」。今回は、第57番歌を訓む。題詞に「」とある。「二年壬寅」は大宝2年(702) 壬寅の年であり、「太上天皇」は譲位後の持統天皇の尊称。この「参河國行幸」については、大宝2年10月10日(太陽暦の11月8日)に出発、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て、11月25日に帰京していることが『続日本紀』に記されている。この年の12月22日に太上天皇は崩じた(58歳)ので、これが最後の行幸となった。なお、この題詞は第61番歌までにかかるものと見られる。この歌の左注には 「右一首長忌寸奥麻呂」とあり、作者が「長(ながの)忌寸(いみき)奥麻呂(おきまる)」であることが分かる。「忌寸」は姓で、八色の姓の四位。「奥麻呂」は「意吉麻呂」とも書かれ、『萬葉集』中に短歌14首があるが、うち8首(3824~3831)は、いわゆる物名歌であり、当意即妙の歌作を得意としたことがうかがえる。
原文  引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓
和訳  引馬野(ひくまぬ)に にほふ榛原(はりはら) 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに
現代文  「引馬野に美しく色づいた榛(はんのき)の原。この中に入り乱れて(さあ.皆さん)衣をお染めなさいよ旅の記念に」。  
文意解説  発句「引馬野尓 仁保布榛原 入乱」は「引馬野(ひくまぬ)に にほふ榛原(はりはら) 入り乱れ」と訓む。「引馬野尓」は「引馬野(ひくまの)に」と訓む。古くは、十六夜日記に「こよひはひくまのしゆくといふところにとゞまる。このところのおほかたの名は、はま松とぞいひし」とあるところから、引馬野(ひくまの)を今の静岡県浜松市の北部にある曳馬町あたりとする説があった。しかし、久松潜一博士は「引馬野、安禮乃崎考」に、今の曳馬は遠江國で、参河國への行幸であるから参河の地に求めるべきであり、延享3年の三河國寶飯郡御馬村の古地圖に、その御馬村の南に安禮乃崎の名が記されており、引間神社もあるから、御馬村のあたりが引馬野であろうとされた。すなわち、今の愛知県南東部、御津(みと)町御馬(おんま)・下佐脇新田付近の地をいう。「尓」は二。「仁保布榛原」は「にほふ榛原(はりはら)」と訓む。「仁保布」は二ホフ。「にほふ」は「色がきわだつ、または美しく映える」意。「榛」は、もともとは「はしばみ」と訓み、カバノキ科の落葉低木の名称だが、ここでは「はり」と訓む。「榛(はん)の木」のことで、カバノキ科の落葉高木で湿地などに群生するという。「にほふ榛原」とは、匂いがよほどかぐわしい榛原と云う意味であろう。古事記雄略天皇の条に、雄略天皇が葛城山(かつらぎやま)に上った際のエピソード「大きな猪を射かけたところ、猪に追いかけられ、榛の木に登って逃げおおせた」が記されている。この木の樹皮・果実を古くは染料に用いた。摺り染めと浸し染めとがあり、摺り染めは実を黒焼きにして、その灰で染める。浸し染めは樹皮や実を煎じた汁で黒色や茶色に染めた。「榛原(はんばら」は「榛(はり)の生えている原」をいう。「入乱」は「入り乱れ」と訓む。「入」は「入(い)り」と訓む。「入る」は「外部から、ある場所、環境などに移る。はいる」の意。「乱」は「乱(みだ)れ」と訓む。「入りまじる。錯綜する」の意。

 結句「衣尓保波勢 多鼻能知師尓」衣にほはせ 旅のしるしにと記す。「衣尓保波勢」は 「衣(ころも)にほはせ」と訓む。「衣」の訓みとしては「きもの・ころも・きぬ・きる」などがあるが、ここでは「ころも」と訓む。「波勢」はハセ。「にほはせ」は、衣を「色づけなさい、染めなさい」の意。「多鼻能知師尓」は「たびのしるしに」と訓む。「多鼻」はタビで「旅」を表わしている。。萬葉集の用例はここの1例のみ。「能」はノ。「知」は「しる」。「師」はシ。「知師」で「しるし(印)」を表わす。「しるし」は「しるす(記)」の名詞化したもの。「尓」は二。

巻1(58)。

題詞
歴史解説
 高市連黒人の作歌。第57番歌と同じく、大宝2年(702) 壬寅の年の太上天皇参河國行幸時の歌である。左注に「右一首高市連黒人」とあり、作者が「高市(たけち)連(むらじ)黒人(くろひと)」であることが分かる。前に第32番歌について、題詞には「高市古人感傷近江舊堵作歌 [或書云高市連黒人]」とあるが、高市古人は誤りで黒人の作であることを述べた。黒人の作は、巻1に4首、巻3に12首、巻9、巻17に各1首の合計18首の短歌があり、全て旅中歌で旅愁を詠んだものが多い。『新撰姓氏録』に「高市連。額田部と同じき祖。天津彦根命の三世の孫、彦伊賀都命の後なり」とある。
原文  何所尓可 船泊為良武  安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
和訳

 いづくにか 船泊(ふなはて)為(す)らむ 安禮(あれ)の崎 榜ぎ()み行きし 棚無小舟(たななしをぶね)

現代文  「今ごろどこに 船泊まりしているであろうか 安礼の崎を 漕ぎめぐって行った あの棚もない小さな舟は」。 
文意解説
 発句「何所尓可 船泊為良武  安礼乃埼」は「いづくにか 船泊(ふなはて)為(す)らむ 安禮(あれ)の崎」と訓む。「何所尓可」は「何所(いづく)にか」と訓む。「何所」は既出。不定称の「いづ」に場所を示すクがついて「いづく」を表わす。「いづこ」の古形だが、平安時代以後も併用された。上代の「何所」の仮名書き例は、いずれも「伊豆久(いづく)」とあり、「いづこ」とする確例はない。「尓」はニ。「可」はカ。「船泊為良武」は「船泊(ふなはて)為(す)らむ」と訓む。「船泊」は「船が港にはいって泊ること。ふながかり」を意味する名詞。「はて」は、泊る意の動詞「はつ」の名詞形。名詞形「船泊」は歌にはこの1例のみだが、題詞には、第3612番歌の「長井浦舶泊之夜作歌」の例などいくつかある。「為」は「す」。「良武」はラム。「安礼乃埼」は「安礼(あれ)の埼(さき)」と訓む。「安礼」はアレ。ここは地名の「安礼崎」を表わす。愛知県南部、御津(みと)町の渥美湾に突き出ていた崎で、下佐脇新田(しもさわきしんでん)の西端にあったとみられる。前歌に出ている引間野の南の崎だという。「乃」はノ。「埼」は「崎、碕」と同じで岬の意。

 結句「榜多味行之 棚無小舟」「榜ぎ()み行きし 棚無小舟(たななしをぶね)と訓む。「榜多味行之」は「榜(こ)ぎたみ行(ゆ)きし」と訓む。「榜」は既出。「榜」の字訓としては「こぐ・いかだ・たてふだ」などがあるが、ここでは「こぐ」。「多味」はタミ。「たむ」は「まわる。迂回(うかい)する。めぐる」を意味する。古典文学大系は「漕(こ)ぎ廻(た)み」の字を用いるが、その補注には次のように書かれている。
 「漕ぎ廻み タミとはまがっている意。このミは湾廻(うらみ)・磯廻(いそみ)・隈廻(くまみ)のミと同じで、ミ乙類である。連用形がイ列乙類の動詞は上二段活用となるのが通例である。平安時代にしばしば用いられるダミタル声、ダミ声という言葉も、本来はこのタミであったと思われる。ダミタル声は、今日一般に濁った声というように理解されているようであるが、タミタル声が本来で、発音法が曲がっているという印象を与えるものを指したのであろう。それは恐らく母音の発音が、地方的に(殊に東国の者の場合に)差違が大きく、曲がりくねった感じを与えたものと思われる。恨むという動詞も、上二段活用であるから、ウラ(心)ミ(廻)というのが語源であるかもしれない。つまり、心が平らかであり得ず、ひねくれた状態になるというのが原義なのではあるまいか」。
 「行」は「行(ゆ)き」と訓む。「之」はシ。「棚無小舟」は「棚(たな)無(な)し小舟(をぶね)」と訓む。棚板すなわち舷側板を設けない小船のこと。上代から中世では丸木舟を主体に棚板をつけた船と、それのない純粋の丸木舟とがあり、小船には後者が多いために呼ばれたもの。貧弱で安定を欠く舟なので、この言葉で不安な感じ、心許ない感じを起こさせる。黒人は第272番歌でもこの言葉を使っている。「棚無し小舟」は側板(横板)も付いていない小さな舟のことだという。

巻1(59)。

題詞
歴史解説
 譽謝女王(よさのおほきみ)の作歌。「譽謝女王作歌」。『続日本紀』の文武天皇慶雲3年(706)6月の條に「丙申(24日)従四位下與射女王卒」とあるのみで系譜未詳。
原文  流經 妻吹風之 寒夜尓 吾勢能君者 獨香宿良<武>
和訳

 流らふる 雪(妻)吹く風の 寒き夜に 我が()の君は ひとりか()らむ

現代文  「絶え間なく吹き続ける寒い夜に、一人で寝ている夫を思うと、せつない」。
 長く日を経た私の旅衣に吹きつける風の寒い夜に、私の夫は独りで寝ていることだろうか。(阿蘇『萬葉集全歌講義』)
 絶え間なく横なぐりに吹きつける風の 寒い今宵、いとしいあの方は ひとりさびしく寝ていることであろうか。(伊藤『萬葉集全注』)
 チラチラと流れ散る雪を吹く風の寒い晩に、我が夫(せ)の君はひとりねをされてゐることであろうか。(澤瀉『萬葉集注釋』)
文意解説
 発句「流經 妻吹風之 寒夜尓」「流らふる 雪(妻)吹く風の 寒き夜に」と訓む。「流經」は「流(なが)らふる」と訓む。は「絶え間なく」の意。「流」が動詞「流る」を「經」が継続の助動詞フを表わす。それが結合して第36番歌の「散らふ」と同様に「流らふ」という「流る」の継続態を表わす動詞となったもの。「妻吹風之」は「妻(つま)吹く風(かぜ)の」と訓む。「妻」について諸説がある。「つま」は、「旅衣の端」、「家の切妻」説のほか「雪」あるいは「妾」の誤字とする説もある。新日本古典文学大系は「妾」の誤字として「われ」と訓むが、原文「妻」のままで、「わが背の君」に対する妻、すなわち女王自身の意となるのだから、敢えて誤字説を採る必要はないと思う。澤瀉が力説する「雪」誤字説には捨てがたい魅力を感じるが、やはり誤字説は採り難く、1句の訓みと共に今後の検討課題としたい。「吹く風(かぜ)」については特に説明を要しない。「之」はノ。妻は「切り妻造りの家」のことだが、自分(妻である私)の意をもかけている。「寒夜尓」は「寒き夜(よ)に」と訓む。「寒」は「寒(さむ)き」と訓む。「夜(よ)」は日没から日の出までの間をいう。「尓」はニ。

 結句「吾勢能君者 獨香宿良<武>」「我が()の君は ひとりか()らむ」と訓む。「吾勢能君者」は「吾(わ)がせの君(きみ)は」と訓む。「勢」はセで、ここは夫の意の「背(せ)」を表わす。親しみを持って呼ぶ「吾が背」と敬意を持って呼ぶ「君」との複合した形。「能」はノ。「者」はハ。「獨香宿良武」は「獨(ひとり)か宿(ぬ)らむ」と訓む。「獨(ひとり)」は既出。万葉集で「ひとり」とあるのは大部分が男女二人の関係に置いて一人である意を示す。この歌は京に留まって供奉の夫を思って詠んだ歌とも、またその逆とも考えられ、ここでも説が分かれている。「香」はカ。「宿(ぬ)」は既出。現在の「寝る」にあたる。「良武」はラム。

巻1(60)。
 
題詞
歴史解説

 長皇子(ながのみこ)の作歌。「長皇子御歌」。長皇子の母は、天智天皇の皇女大江皇女であり、同母弟に弓削皇子がいる。純粋で妥協できず苦しく短い人生を生きた弟と違い、洒脱な生き方を好んだ人であったようで萬葉集に本歌を含め5首を残すが、掛詞や序詞などを巧みに用いた技巧的な歌が多い。(残り4首は、巻1の65・73・84番歌と巻2の130番歌)

原文  暮相而 朝面無美 隠尓加 氣長妹之 廬利為里計武
和訳  暮(ゆふ)に逢ひて (あした)面無(な)み 隠(なばり)にか ()長き妹が 廬(いほ)り為(せ)りけむ
現代文  「夕方逢って翌朝は恥ずかしさに顔を隠す。その隠(なば)り(名張)の地にでも幾日も妹は廬(いほり)をしていたのであろうか」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その117)」その他を参照する。

 発句「暮相而 朝面無美 隠尓加」「暮(ゆふ)に逢ひて (あした)面無(な)み 隠(なばり)にか」と訓む。「暮相而」は 「暮(ゆふ)に相(あ)ひて」と訓む。「暮」は「暮(ゆふ)猟(かり)に」に既出で、「ゆふ」とし、二を補読して「暮(ゆふ)に」と訓む。注釈書が「暮」を「宵」の字に変えて「よひ」としているのだが、なぜ「よひ」とするのかを説明している書はない。萬葉集に「暮」を用いている歌は75首あるが、「よひ」と訓まれている例は本歌と第1536番歌の2例のみで、ほかは「ゆふ、ゆふへ」あるいは「暮らす、暮れ」と訓まれている。何故ここは「ゆふ」では駄目なのか。上代では、一日の明るい時間帯を3区分して、アサ→ヒル→ユフといっており、「ゆふ」は明るい間の終わりの部分を指すことから、この1句を「夜に共寝をする」意ととるには「ゆふ」では早すぎるので、「日が暮れて間もないころ。また、日暮から夜中までの間」を意味する「よひ」に変えたものと思われる。ちなみに上代では、夜は、「よひ・よなか・あかとき」に3区分していた。しかし「暮(ゆふ)に相(あ)ひて」でも意味は十分通るし、「ゆふ」と「あさ」「あした」の対句は多く見られることからすると、わざわざ「よひ」と訓み替える必要はないと思う。「相」は「あふ」の連用形で「相(あ)ひ」。「而」はテ。「朝面無美」は 「朝(あした)面(おも)無(な)み」と訓む。「朝(あした)」は夜の終わった時を言い「暮(ゆふ)に」に対する。「面(おも)無(な)み」は「面(おも)無(な)し」の語幹にミのついた形。「面(おも)無(な)し」は、顔の意味の「おも」とナシが結び付いてできた語で、「(自分自身の事柄に関して)恥ずかしく、人に合わせる顔がない。面目ない。おもはゆい」の意。この2句があるので「夜に共寝をする」意ととられる。「美」はミ。「隠尓加」は「隠(なばり)にか」と訓む。地名「なばり」を表わすために用いられたもの。「隠(なばり、名張)」は三重県北西部の地名。木津川上流の名張川と宇陀川の合流点にあり、上代には東海道、のち、大和国からの参宮街道が通じていて、宿駅として栄えた。「尓加」はニカ。

 結句「氣長妹之 廬利為里計武」()長き妹が 廬(いほ)り為(せ)りけむ」と訓む。「氣長妹之」は「け長(なが)く妹(いも)が」と訓む。「氣」はケ。ここでは日数の意の「日(け)」を表わすのに用いられている。「長」は「長く」と訓む。ここを「長き」と訓み「妹」にかかると見る説もあるが、次の句にかかるものと考える。「妹」は既述。ここの「之」はガ。「廬利為里計武」は「廬(いほ)り為(せ)りけむ」と訓む。「草木で造った粗末な家」の意であるが、その「いほ」を設営することを表わす動詞「いほる」の名詞形として「廬(いほ)り」という言葉が生まれ、「旅行中に泊まるために造る粗末な小屋」を意味するようになった。「利」はリ。「為里」はセリ。「計武」はケム。過去推量を表わす。
 
 補足:「暮相而 朝面無美」が「隠」を引き出すための序詞である。その後に続く「隠尓加 氣長妹之 廬利為里計武」の連関をうまく説明していると思える『古典文学大系』のこの歌の大意を記すと、長い間お前が旅先で宿っていたのは(夜会って朝はずかしさに隠(なば)るその)名張の地だったのか。(だからなかなか顔を合わせなかったのだね。)最後の( )の部分がミ語法の部分を表わしている。名張は三重県名張のこと。「名張にか」の原文は「隠尓加」、「姿を隠しているのかや」の意である。「廬(いほ)りせりけむ」は「借宿してたのだろう」である。「夜に共に寝て朝顔も会わせずに隠れたという名張で」で、つまり名張(隠れる)の地名にかけた歌。

巻1(61)。
 
題詞
歴史解説

 舎人娘子(とねりのいらつめの作歌。「舎人娘子従駕作歌(舎人娘子が従駕(おほみとも)つかへまつりてよめる)」。舎人娘子(とねりのをとめ)が大宝2年(702) 壬寅の年の太上天皇参河國行幸に従駕して作った歌であることが分かる。舎人娘子には、本歌以外に2首(巻2の118・巻8の1636)の歌がある。巻2の歌は舎人親王と応答した歌であるところからみると、舎人娘子は、舎人親王の養育氏族である舎人氏の娘で、宮廷に出仕していたものと思われる。舎人氏は百済系帰化氏族である。

原文  大夫之 得物矢手挿 立向射流 圓方波 見尓清潔之
和訳  大夫(ますらを)が 幸矢(さつや)()挟み 立ち向ひ射る 圓方(まとかた)は 見るに(さや)けし
現代文  「大夫(ますらを)が(狩猟に用いる)矢を手に挟み持って 立ち向かって 射る的、その名の的形[円方]の浦は 見るからに清々しい」。
文意解説  発句「大夫之 得物矢手挿 立向射流」大夫(ますらを)が 幸矢(さつや)()挟み 立ち向ひ射る」と訓む。「大夫之」は「大夫(ますらを)の」と訓む。「大夫」は既出。「ますらを」は「益荒男」とも書き、「立派な男子。強く勇ましい男子」の意。「大夫(ますらを)」は、宮廷機構の充実する天武・持統朝から頻出する語で、宮廷人であることを誇る意識を背景に使われることが多かったことから、官位の呼称である「大夫」が用いられるようになったものと考えられる。「之」はノ。 「得物矢手挿」は「得物(さつ)矢(や)手挿(たばさ)み」と訓む。「さつや」は「猟矢・幸矢」と記され、「狩猟に用いる矢」のことをいう。「さち」の母音交替形「さつ」に「矢」がついたもので、「さち」は「海の幸」「山の幸」の「さち」で「獲物・得物」の意である。「さつ」に「得物」の字を充てたのは、元の意味を踏まえたもので義訓字。「手挿」は「手挿(たばさ)み」と訓む。「挿」の字訓には「さす。さしはさむ。はさむ」があり、ここは「はさむ」。「たばさむ」は、「手や指、脇などにはさんで持つ」ことをいう。「手」の露出形テが複合語になったため,被覆形タに母音交替が起こったものと、今までの説明ではそのように言ってきたが、露出形・被覆形についての現在の研究では、古い語形の残存したものが被覆形であるとされているので、「手」は単独で使われる時には、もともと「タであったものが音韻変化の結果テとなるが、ここは複合語なのでもともとのタと訓むというのが正しい説明となる。「立向」は「立(た)ち向(むか)ひ」と訓む。「立ち向ふ」は「立って向かう。面と向かって立つ」の意。

 結句「圓方波 見尓清潔之」圓方(まとかた)は 見るに(さや)けし」と訓む。「射流圓方波」は「射(い)る圓方(まとかた)は」と訓む。「射流」は「射(い)る」と訓む。「流」はル。「圓方」は地名で、三重県松阪市の北東部、東黒部町一帯の海岸の古称、円方浦。歌枕の一つ。「的形」とも書き、初句より「射る」までは「的」に言い掛けた序である。「圓」は「円」で、矢を射る的は円形であることからの用字と見られる。「波」はハ。「見尓清潔之」は「見(み)るに清潔(さやけ)し」と訓む。「見」は「見(み)る」と訓む。「尓」はニ。「清潔之」は、「清潔(さやけ)し」と訓む。「さやけし」は、清く澄んでいるさまをいい、視覚的にも聴覚的にもくっきりはっきりした意で使われる。清らかなさま、はっきりしているさまを表わす副詞サヤに接尾語のケシが付いてできた語だが、ここでは漢語「清潔」を用い、それにシの「之」を付けて「清潔(さやけ)し」としたもの。なお、『伊勢国風土記』逸文の的形浦の条には、本歌が、謡い物らしい歌になって伝承されている。その歌を記しておくと、「ますらをの さつ矢たばさみ 向ひ立ち 射るや的形 浜のさやけさ」。

巻1(62)。
 
題詞
歴史解説

 春日蔵首老の作歌。「三野連[名闕]入唐時春日蔵首老作歌(三野連(みののむらじ)が唐(もろこし)に入(つか)はさるる時、春日蔵首老がよめる歌)」。三野連の無事の帰還を願って詠んだ歌。「三野連」については、明治5年に当時の奈良県平群郡萩原村から発掘された墓誌の記述からその名が判明した。墓誌には「美努連岡萬」と記され、続日本紀に「美努連岡麻呂」とある人である。天武13年(684)に連姓を賜り、大宝元年(701)、「従七位下中宮少進」として、遣唐使(第七次)一行に加わる。霊亀2年(716)正月、従五位下に叙せられ、主殿寮頭に任命される。神亀5年(728)10月20日卒、67歳。歌の作者である「春日蔵首老」については、第56番歌の作者として既に述べた通り、元は弁基という僧で勅により還俗してこの名を賜った人である。「三野連」との繋がりは、官人同士における漢詩文の教養を通してのことかと思われる。本歌及び次の第63番歌は、大宝元年正月に任命され、実際には翌2年6月に渡海した第7次の遣唐使に関わる歌である。本歌は送別の歌で、次歌は、中国本土での帰心を詠んだものである。第6次までの遣唐使が北路で、対馬を経て朝鮮半島の西海岸に沿って唐に渡ったのに対し、この第7次からは薩摩を経る南島路に変わったが、作者は従来通り北路を取るものと思って詠んでいる。

原文  在根良 對馬乃渡 々中尓 <幣>取向而  早還許年
和訳  ありねよし 対馬(つしま)の渡り 海中(わたなか) 幣(ぬさ)取り向けて 早帰り来ね
現代文  「高い峰々の多い対馬よ。その対馬へ渡る海路、その海のまっただ中に、海の神に幣をささげて(安全を祈り)一日も早く帰ってきて下さいね」。 
文意解説  発句「在根良 對馬乃渡 々中尓」ありねよし 対馬(つしま)の渡り 海中(わたなか)と訓む。「在根良」は「ありねよし」と訓む。「青丹よし」、「朝もよし」などと同じで枕詞に用いられる形。「ありねよし」は対馬にかかる枕詞とする説があるが、その理由は不明である。「ありね」は未詳だが、日本国語大辞典の語誌には次のようにある。
 「在根は荒嶺(あらね)の借字とする説がある。しかし、ありを(在峰)という語があることや、荒はありそ(荒磯)と変化したもの以外はアラと読むことなどから、在根はアリネと読み、目立つ峰と解するほうが妥当性がある。対馬の山が朝鮮航路の目印だったからといわれる。また、アリは韓語で下または南を意味し、対馬の南嶺の称呼だったのではないかという説(日本古語大辞典=松岡静雄)もある」。
 「よし」は詠嘆の間投助詞。「對馬乃渡」は「對馬(つしま)の渡り」と訓む。「對馬」は旧国名の一つで現在の長崎県対馬全島にあたる。舟の着く「津の島」の意で、「対馬」の用字は中国側の書記にもとづく。「乃」はノ。「渡」は「渡り」と訓み、船に乗って渡るところの意で、ここは筑紫から対馬に渡る海路を言う。「渡中尓」は「渡(わた)中に」と訓む。ここの「渡(わた)」は「海(わた)」の意。海をワタと呼ぶのは船で渡りゆくところの意からと思われる。「海中(わたなか)」は「海の中。海上」の意。「尓」は二。

 結句「<幣>取向而  早還許年」(ぬさ)取り向けて 早帰り来ねと訓む。「幣取向而」は「幣(ぬさ)取り向けて」と訓む。「幣」は、麻・木綿(ゆう)・紙などで作ったもので、神に祈る時にささげる供え物として航海の無事を祈って海中に投げ入れる。「取向」は「取り向け」と訓む。「手に恭しく捧げて神に奉る」意。「而」はテ。「早還許年」は「早(はや)還(かへ)りこね」と訓む。「早」は「すぐに。即座に」の意として使われている。「還」は「還(かへ)り」。「許」はコ。「年」はネ。

巻1(63)。

題詞
歴史解説
 山上憶良の作歌。「山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌(山上臣憶良が、大唐(もろこし)に在りし時、本郷(くに)(しぬ)ひてよめる歌)」。山上憶良は70歳超という、当時としては異例の高齢者でありながら児らを思う歌作が多いので有名な歌人。恋の歌などの相聞歌はなく、児らを思いやる歌が多い。 第7次の遣唐使の一員として唐に渡った憶良が、彼の地で詠んだ歌であり、萬葉集中、外国で詠まれた唯一の歌である。萬葉の時代、遣唐使や遣新羅使に任ぜられて海外の地を踏んだ者は多いが、歌を伝えていない。霊亀2年(716)の遣唐使と共に留学生として入唐し、帰国を果たせず彼の地で亡くなった阿倍仲麻呂の有名な歌があるが採録しているのは古今集である。憶良は大宝元年(701)1月、無位のまま遣唐少録に任ぜられているが、この抜擢は第7次の遣唐執節使となった粟田朝臣真人の推挽によるものと考えてほぼ間違いない。山上氏は粟田氏の比護のもとにあった小族であり、憶良も粟田真人の家に仕えていたものと思われる。第7次遣唐使の帰朝は執節使粟田真人が慶雲元年(704)7月、副使等は慶雲4年(707)3月、大使は養老2年(718)12月で、3回に分かれているが、憶良は執節使と共に最初の折りに帰朝したものと考えられる。憶良は和銅7年(714)1月、正六位下より従五位下に叙せられ、霊亀2年(716)4月、伯耆守に任ぜられているから、最初か2回目の帰国という事になる。帰国に当たって詠まれたのが本歌であるが、「去来子等」といきなり言い放った気合いは、一遣唐少録の声とは思えず、統率者に代わってのものと考えないわけにはいかない。その統率者は、憶良と関係の深かった執節使粟田真人と見るのが自然であり、憶良は真人と共に帰朝したと考える所以である。
原文  去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
和訳  いざ子ども 早日本辺(やまとへ)に 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ 
 宵に逢ひて (あした)面無み 隠(なばり)にか ()長き妹が 廬りせりけむ
現代文  「さあみんな、早く日本へ帰ろう。出立の地の大伴の三津の浜松。ああそのマツではないが、 人々が待ち焦がれていることだろう」。
文意解説  発句「去来子等 早日本邊 大伴乃」いざ子ども 早日本辺(やまとへ)に 大伴のと訓む。「去来子等」は「去来(いざ)子等(ども)」と訓む。「去来」はイザと訓む。相手を誘うとき、自分と共に行動を起こそうと誘いかけるときなどに呼びかける語である。「子等(ども)」は、部下や年下の者への呼びかけ。ドモは、同類の物事が数多くあることを示す。必ずしも多数とは限らないで、同類のものの一、二をさしてもいう。人を表わす場合は「たち」に比べて敬意が低く、目下、または軽蔑すべき者たちの意を含めて用いる。「等(ども)」は、同じような人々、ある一定の種類に属する人々を、その集団として表現する語である「ともがら」の意を持つ。ここは帰国につく一団の者を表わす。「いざ子ども」は岩波大系本の注に「従者、舟子などを親しんで呼んだ」とある。舟子はいうまでもなく「乗組員」。唐から帰国する時、一同乗船して出港せんとする時の歌と解してよかろう。なので子は「児」ではなく氏子(うじこ)の「子」と分かる。「早日本邊」は「早(はや)く日本(やまと)へ」と訓む。「早」は「早く」と訓み、下に「帰らむ」の意を込める。「日本」は、「日本(やまと)」と訓む。大化の改新の頃から用いられたわが国の国号である。「邊」は「へ」。「大伴乃」は「大伴(おほとも)の」と訓む。「大伴」は、大阪から堺にかけての総称、大伴氏管掌の地であった。「乃」はノ。

 結句「御津乃濱松 待戀奴良武」御津の浜松 待ち恋ひぬらむと訓む。「御津乃濱松」は「御津(みつ)の濱松(はままつ)」と訓む。「御津」の「御」は美称の接頭語で「津」は港。「大伴の御津」で「難波の港」をいう。「大伴の御津の浜松」は大伴氏の本拠があったとされる大阪湾の東浜一帯だという。西海航路の基点で、遣唐使一行にとっては最初に乗船して海に入るところ、帰着して船を下りるところでもあるから特に印象が強く、望郷の思いをかき立てる地名と言える。「乃」はノ。「濱松」は「浜辺の松」。「松」は次の「待つ」と同音の繰り返しを意識してのもの。「待戀奴良武」は「待ち戀(こ)ひぬらむ」と訓む。「待戀」は「待(ま)ち戀(こ)ひ」と訓む。「待ち戀ふ」は「待ちこがれる」の意。「奴」はヌ。「良武」はラム。

 この歌と密接に関連する歌に895番歌があり、「大伴の 御津の松原 かき掃きて 我れ立ち待たむ 早帰りませ」と詠まれている。この歌により、本歌に「浜松」とあるのは浜の松原を指していることがうかがわれる。

巻1(64)。
 
題詞
歴史解説

 志貴皇子(しきのみこ、天智天皇の第七皇子)の作歌。「慶雲三年丙午幸于難波宮時 / 志貴皇子御作歌(慶雲(きやううむ)三年(みとせといふとし)丙午(ひのえうま)、文武天皇が難波の宮に行幸せる時、志貴皇子が作られた歌)」。

原文  葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 <倭>之所念
和訳  葦辺(あしへ)ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕へは 倭(やまと、大和)し思ほゆ
現代文  「葦辺を浮かび行く 鴨の羽がいに 霜が降って 寒さが身にしみる夕暮れは とりわけ(あたたかいわが家のある)大和が思われる」。
文意解説  「寒き夕べ」を「葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて」と具体的な鴨の様子を詠って実感させる、非常に素晴らしい歌である。

 発句「葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而」葦辺(あしへ)ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて」と訓む。「葦邊行」は「葦(あし)邊(へ)行(ゆ)く」と訓む。「葦邊」は「葦の生い茂っている水辺」をいう。「葦」は、イネ科の多年草で、世界の温帯および暖帯に広く分布し、水辺に群生する。茎は中空の円柱形で直立し、高さ2~3メートルに達する。難波の景物を代表するものとされ、「葦が散る」という難波にかかる枕詞もある。「邊」は「辺」の旧字。「行」は「行(ゆ)く」と訓む。「鴨之羽我比尓」は「鴨(かも)の羽(は)がひに」と訓む。「羽我比」は「羽(は)がひ」と訓み、「羽交」と書かれることからも分かるように鳥の左右の翼が交わって重なるところをいう。「我比」はガヒ。「尓」はニ。「霜零而」は「霜(しも)零(ふ)りて」と訓む。「霜」は、秋の末から冬にかけて寒い朝、地上や地上の物体を一面におおって白くみせる氷のこまかい結晶を言うが、晴天で無風に近い冬の夜など、気温が氷点以下に下がるとき生ずる。「零」は「零(ふ)り」と訓む。「ふる」は「霜や露が地表に生ずる」意にも用いる。「霜」には「降る」とも「置く」とも言い、萬葉集ではそれぞれ10余例ずつで半ばしている。「而」はテ。

 結句「寒暮夕 <倭>之所念」「寒き夕へは 倭(やまと、大和)し思ほゆ」と訓む。「寒暮夕」は「寒(さむ)き暮夕(ゆふへ)は」と訓む。「寒」は「寒き」と訓む。「さむし」は、「気温が不快なほどに低いさま。また、そのように感じるさま。寒気を感じるさま」をいう。「暮夕」はハを補読して「暮夕(ゆふへ)は」と訓む。「暮」、「夕」共にそれぞれ1字でも「ゆふ」と訓むが、ここは同じ字を並べたもので、現在の「夕暮れ」にあたる。「倭之所念」は「倭(やまと)し念(おも)ほゆ」と訓む。「倭」は天平宝字元年(757)以来「大和」と書くようになる。「之」はシ。「所念」は「念(おも)ほゆ」と訓む。

巻1(65)。

題詞
歴史解説

 長皇子の作歌。長皇子御歌」。慶雲三年丙午幸于難波宮時の歌である。長皇子(ながのみこ)」は前歌の作者「志貴皇子」とは従兄弟にあたり、親交があったことは第84番歌の題詞に「長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」あることにより窺える。

原文  霰打 安良礼松原 住吉<乃>  弟日娘与見礼常 不飽香聞
和訳  霰(あられ)打ち 安良禮(あられ)松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘(おとひをとめ)と見れど 飽かぬかも
現代文  「あられ(霰)が降ってくるような寒々とした日に、あられ松原の住吉を、美しい女性と共に眺めていれば飽きることもないなあ」。
文意解説  発句「霰打 安良礼松原 住吉<乃>」霰(あられ)打ち 安良禮(あられ)松原 住吉(すみのえ)と訓む。「霰打」は「霰(あられ)打つ」と訓む。「霰」は、空中の雪に過冷却の水滴が付着した、白色不透明な小さな粒状のもの。冬期に限るが、古くは、夏に降る雹(ひょう)を含めてもいう。「打」は「打つ」と訓む。ここは「雨、風、波、雷などが強くうちつける」意。古事記の允恭記の歌謡に「佐佐婆尓(ささばに) 宇都夜阿良礼能(うつやあられの) 多志陀志尓(たしだしに)」(笹の葉に打って降る霰のたしだしという音のように)の例がある。ここを実景と見るかどうか説が分かれている。この時の難波宮行幸は、続日本紀によれば、慶雲3年(706)9月25日に藤原宮を発ち10月12日に還幸しており、太陽暦で言えば11月9日から25日の間で初冬に当たる。実景ということも充分あり得るだろう。ここで重要なことは、次の句の地名「「安良礼」に興趣を覚えつつ、志貴皇子の前歌の「霜」に応じて「霰」を持ち出した長皇子の技巧の才を見るべきであろう。「あられ松原」に冠した枕詞ともいえるが、万集中にこの1例のみであり、同音の反復を技巧として長皇子により創作された表現である。「安良礼松原」は「安良礼(あられ)松原」と訓む。「安良礼」はアラレ。元々は疎々(あらあら)松原の意で、疎に松のある原である所を言い固有名詞ではなかったが、後に「あらら松原」の地名が生じ、それが「あられ松原」に転じたものではないかと思われる。現在の大阪市住之江区安立(あんりゅう)付近とされる。「住吉乃」は「住吉(すみのえ)の」と訓む。「住吉」は摂津国の古郡名で、平安初期以降「すみよし」と呼称される。「吉」はエともエシとも訓まれたので、日吉神社ももとヒエであったのがヒヨシとなったのと同じで、「住吉」も萬葉の時代には「すみのえ」と訓まれ、後に「すみよし」となった。ただ「墨江」という表記もあったことから「墨江(すみのえ)」(今は住之江と書く)の地名も残った。

 結句「弟日娘与見礼常 不飽香聞」弟日娘(おとひをとめ)と見れど 飽かぬかもと訓む。「弟日娘与」は「弟(おと)日(ひ)娘(をとめ)と」と訓む。「弟日」は「娘」の通称で、遊行女婦(うかれめ)の名であろうとされる。住吉は西海に船の発する地で、太宰府などとともにこの類の女性がたむろしていたと見られる。遊行女婦は、後の遊女と異なり、歌作の芸や伎楽の芸などに秀で、官人や貴人の宴席に侍り座を取り持つことのできる教養人でもあった。「弟(おと)」は、若い意を表わし、「日(ひ)」は讃美性の強い言葉である。肥前国風土記に、任那に行く途中の大伴狭手彦と結ばれ、船出する狭手彦との別れを悲しみ、褶振(ひれふり)の峰に登って領巾を振り狭手彦を呼び返そうとした土地の美しい娘を「弟日姫子」と言っている。「娘」は「をとめ」と訓む。「与」はヨとも読むが、ここではト。このトについては「安良礼松原を弟日娘と共に」の意に解く説と「安良礼松原と弟日娘と二つとも」の意に解く説とがあるが、本歌は「安良礼松原」の美景を讃美したものと考えた方が素直に胸に迫ると思う。「見礼常不飽香聞」は「見れど飽かぬかも」と訓む。「礼」はレ。「常」はトと読むが、ここではド。「不飽」は「飽かぬ」と訓み「飽きることはない」の意。「香聞」はカモ。ロマンチックな雰囲気が漂ってくる歌である。

巻1(66)。置始東人

題詞
歴史解説

 置始東人(おきそめのあづまひと)の作歌。「太上天皇幸于難波宮時歌(長皇子(ながのみこ)太上天皇(おほきすめらみこと)の難波の宮に幸せる時の歌)」。太上天皇は持統天皇であるが、持統天皇が難波宮に行幸された記事は史書にはない。文武天皇3年(699)正月の行幸の折りにご同行されたものを、史書には天皇の行幸とのみ記したものと思われる。持統天皇は大寳2年(702) の崩御であり、この前の2首が慶雲3年(706)の作であることが間違いないなら、年代順を常とする巻一の掲載ルールからは外れていることになる。疑問の残る点で解釈には諸説がり、それぞれ一理はあるものの納得のいくものではない。ただ第54番歌より第65番歌の行幸の作の題詞にはいずれも年号が明記されているのに、本歌以降第75番歌までの作にはその記入がないことからすると、制作年代がはっきりしないものをここにまとめたものとする澤瀉『萬葉集注釋』の説が当たっているようにも思える。なおこの題詞「太上天皇幸于難波宮時歌」は以下4首にかかり、それぞれ左注に作者名を記す。本歌の左注には「右一首置始東人」とあり、作者は「置始(おきそめの)東人(あづまひと)」である。置始氏には、連姓の者もいるが、東人は無姓で伝未詳。ただ、弓削皇子に対する挽歌(204~206)を詠んでいるから、同皇子か長皇子に近侍していた下級官人であった可能性が高い。歌は本歌を含めて計4首。

原文  大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由
和訳  大伴の 高師の浜の 松が根を 枕()きて()る夜は 家し偲はゆ
現代文  「(美しいことで名高い)大伴の 高師の浜の その松の根を 枕にして寝ていても やはり家のことが偲ばれずにはいられない」。
文意解説  発句「大伴乃 高師能濱乃 松之根乎」大伴の 高師の浜の 松が根を 枕()きて()る夜は 家し偲はゆと訓む。「大伴乃」は「大伴(おほとも)の」と訓む。「大伴」は、大阪から堺にかけての総称、大伴氏管掌の地であった。「乃」はノ。「高師能濱乃」は「高師(たかし)の濱(はま)の」と訓む。「高師」は大阪府南西部の地名で、海岸はかつて「高師の浜」の景勝地として知られた。現在の大阪府高石市。「能」「乃」は共にノ。「松之根乎」は「松(まつ)が根(ね)を」と訓む。「松」は、常緑の木で多節、偃蹇(えんけん)としておごり高ぶる姿が愛されて、中国では古くから祝頌の詩に用いられた。ここの「之」はガ。「根」は「ねもと、木の株のところ」の意。「乎」はヲ

 結句「枕宿杼 家之所偲由」()きて()る夜は 家し偲はゆと訓む。「枕宿杼」は「枕(まくら)き宿(ぬ)れど」と訓む。「枕」は「枕(まくら)き」と訓む。「まくらく」は「枕にする」の意。「松が根を枕にする」というのは、「音に名高き大伴の高師の浜の美しい松原という景勝の地に旅寝する」という意を表わすための表現。「まくらく」という語は今日では耳慣れない言葉であるが、枕を動詞にして「まくらく」と云った確実な例が他にもある。第810番歌「和我麻久良可武(わがまくらかむ)」、第4163番歌「和礼(われ)枕(まくら)可武(かむ)」)、「宿」は第46番歌に既出。ここは「宿(ぬ)れ」と訓む。ヌは「寝る」の意。「杼」はド、逆接の確定条件を表わす。「家之所偲由」は「家(いへ)し偲(しの)はゆ」と訓む。ここの「家」には、「故郷の家、我が家、家人」などの意が込められている。ここの「之」はシ。「所偲」は「偲(しの)は」と訓む。「所」は「所偲」で「偲(しの)はゆ」と訓めるところだが、ここは訓と意を確かにするために下に「由」を表記している。「由」はユ。「自然に~される」「~しないではいられない」などとなる。

巻1(67)。
 
題詞
歴史解説

 高安大島の作歌。この歌も前歌と同じく旅先での歌。「太上天皇幸于難波宮時歌」で左注に「右一首高安大嶋」とあり、作者は「高安(たかやすの)大嶋(おほしま)」である。高安大嶋については、伝未詳であり、歌もこの一首のみ。

原文  旅尓之而 物戀之○○ ○○鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思
 澤瀉説に従い2句・3句に「伎尓」「鶴之」を補い、原文を次の通りとする。
 旅尓之而 物戀之〈伎尓〉〈鶴之〉鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思
和訳  旅にして 物(こほ)しきに 家語(いへごと)も 聞こえざりせば 恋ひて死なまし
現代文  「旅先にあって もの恋しいのに 鶴の声さえも 聞こえなかったら 家恋しさ(孤(ひとり)いる悲しみ)のあまり死んでしまうだろう」。 
文意解説  発句「旅尓之而 物戀之○○ ○○鳴毛」「旅にして 物(こほ)しきに 家語(いへごと)も」と訓む。「旅尓之而」は「旅(たび)にして」と訓む。「旅」の原義は、氏族旗を奉じて、一団の人が進む意で、その軍団、またその遠行することをいう。それが一般の人が住む土地を離れて移動することを表わすようになった。「尓之而」は二シテ。二アリテに同じ。「物戀之伎尓」は「物(もの)戀(こほ)しきに」と訓む。「物戀之伎」は「物(もの)戀(こほ)しき」と訓む。「尓」はニ。「○○鳴毛」を「鶴之鳴毛」として読まれている。「鶴之鳴毛」は「鶴(たづ)が鳴(ね)も」と訓む。「鶴」は鳥の「つる」を表わす時は「たづ」と訓む。万葉集で「鶴」を「つる」と訓むのは、助動詞ツルを表わす訓仮名として用いる場合である。ここの「之」はガ。「鳴」には「とりのこえ」の意もあり、これを「ね」と訓むことについては既述。「毛」はモ。当時の旅はすべて徒歩。かつ、幾日もかけて旅する大変な旅であるのが普通。哀愁を帯びた鶴の鳴く声さえも聞こえなければという歌だが、聞こえる声が「鶴の鳴く声のみ」というのが、かえっていっそう強い望郷の念をかきたてている。

 この歌は、現存する写本では2句・3句に脱字があるため、もとの姿が分からない。しかし、古写本の『元暦校本』『類聚古集』『紀州本』の三本とも「物戀之鳴毛」とあることから、武田祐吉『萬葉集全註釋』が、「物戀之xxxx鳴毛」を原形として、その欠落しているところを、第270番歌の「客為而(たびにして) 物(もの)戀(こほ)敷(しき)尓(に)」の例により、「キニ」の語と、「鶴ガ」の語を補って「物戀しきに鶴が音の」と訓じた。これを卓見として支持する澤瀉『萬葉集注釋』は次のように述べている。
 「臆説であつて、定訓とは為し難いが、今これを参考までに、」(『萬葉集全註釋』)と述べられているが、「鳴」をネと訓む事は「多頭我鳴(タヅガネ)」(10・2138)、「鶴鳴(タヅガネ)」(10・2249)などいろいろあり、この脱落は「物戀之(モノコホシ)…」の「之」を「…之鳴(ガネ)」の「之」と見あやまつてその間の3字をとばしてしまつたもので、この種の脱字は今日我々の日常に於いて十分認めうるところである。のみならず正倉院御物天平16年冩䟽所符案には、誤字、脱字に対する罰則まで残つてゐる。罰則とまでなつてゐる事は誤字脱字決して珍しいものでない事を示すものである。今この作の文字表記法を見るに假名表記が詳細になされてをり、その點から云つても「物戀之伎尓□之鳴毛」といふ表記になつてゐたと考へることは殆ど動かすべからざる推定と云つてよい。たゞ鳥の名が果たして鶴であるかといふ事は全註釋にも疑つてゐるやうに考慮の餘地のある問題である。
 このように述べて、鳥の名について一旦保留したあと、「雁」「鴨」についても検討した上で、「鶴」と「難波」が一緒に詠まれた歌の多くある事から「鶴」が一番妥当であろうとしている。

 結句「不所聞有世者 孤悲而死萬思」「聞こえざりせば 恋ひて死なまし」と訓む。「不所聞有世者」は「聞(き)こえず有(あ)りせば」と訓む。この句は「聞(き)こえざりせば」が一般的な訓だが、「ざり」という形は萬葉集ではまだ普遍の形になっていないのでこのように訓む。「不所聞」は「聞(き)こえず」と訓む。「有世者」は「有(あ)りせば」と訓む。「世者」はセバ。「孤悲而死萬思」は「こひて死(し)なまし」と訓む。「孤悲」はコヒ。「戀」が「孤(ひとり)」いる時の「悲(かな)しみ」であることを視覚に訴える用字といえる。「而」はテ。「死」は「死(し)な」と訓む。「萬思」はマシで反実仮想の助動詞に用いられている。ここも「萬(よろず)」の「思(おもい)」の意を込めた用字とも考えられる。

巻1(68)。
 
題詞
歴史解説

 身人部王(むとべのおほきみ)の作歌。「太上天皇幸于難波宮時歌」。左注に「右一首身人部王」とある。身人部王は、続日本紀に「六人部王」と記されている人物と同一人と思われる。和銅3年(710)正月、無位より従四位下に叙せられ、養老5年(721)正月、従四位上、同7年正月、正四位下、神亀元年(724)2月、正四位上に昇叙。天平元年(729)正月、正四位上で卒。妻は天武天皇の皇女の田形皇女。娘は笠縫女王で巻8・1611の作者。神亀の頃、風流侍従と称されたと家伝は記す。歌はこの1首のみ。

原文  大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉
和訳  大伴の 御津の浜なる 忘れ貝 家なる妹を 忘れて思へや
現代文  「大伴の御津の浜にある忘れ貝が見捨てられたように打ち上げられている。その忘れ貝の名のように家に待つ妻のことを思い忘れたりなどしようか(決して忘れたりはしないよ)」。
文意解説  発句「大伴乃 美津能濱尓有 忘貝」大伴の 御津の浜なる 忘れ貝と訓む。「大伴乃」は「大伴(おほとも)の」と訓む。「乃」はノ。「美津能濱尓有」は「美津の濱に有(あ)る」と訓む。「美津」は「御津」と同じ。「美、御」は美称の接頭語。「津」は港。「大伴の美津」で「難波の港」をいう。「能」はノ。「濱」は、海や湖の、水ぎわに沿った平地をいう。「大伴の御津の浜」は大阪から堺にかけての総称で大伴氏管掌の地であった。大伴一族の故郷の浜である。「尓」は二。「尓有」と表記されている場合には「ニアル」と訓むことを原則とするが朗詠する時にはつめて「ナル」と読むこともできる。「忘貝」は「忘れ貝」と訓む。「忘れ貝」は、本来二枚貝の一片の空貝をさした名称であるが、「鮑貝はその殻だけを見ると二枚貝の一片に見えるので、これも忘貝の一つに加えられた」と東光治「忘貝考」は述べている。忘貝を拾えば恋しい思いを忘れることができると考えられていた。この句は末句の「忘れて」にかかる。

 結句「家尓有妹乎 忘而念哉」は「家なる妹を 忘れて思へやと訓む。「家尓有妹乎」は「家に有る妹(いも)を」と訓む。「家」は「我が家」。「尓有」は二アル又はナルと訓む。「妹」は既述。「忘而念哉」は「忘れて念(おも)へや」と訓む。「忘」は「忘れ」と訓む。「而」はテ。「念」は「念(おも)へ」と訓む。「哉」はヤ。「忘れて念ふ」というのは不思議な表現だが、反語で、家で待つ妻を「忘れる筈もない」と解する。実際、萬葉集の歌で、「忘れて念へや」と「われ忘れめや」とが殆ど同じ意味で用いられていると思われる次の例がある。「夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや」(4・502)、「大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我れ忘れめや」(2・110)。なお、「この歌は、忘れ貝や忘れ草によって、恋の苦しさから逃れたいと願ったり、決して忘れないと誓ったりする歌の早い例。「忘れ貝」の表現は、あるいは、この時期の住吉への行幸従駕の官人らによって用い始められたものかも知れない」と阿蘇『萬葉集全歌講義』にある。

巻1(69)。
 
題詞
歴史解説

 清江娘子の作歌。この歌が「太上天皇幸于難波宮時歌」の四首目で最後の歌となる。左注に「右一首清江娘子進長皇子[姓氏未詳(右の一首は、清江娘子(すみのえのをとめ)が、長皇子に進(たてまつ)れる歌。姓氏ハ詳カナラズ)」とある。清江娘子(すみのえのをとめ)は65番歌に登場している弟日娘女(おとひをとめ)と同じ遊女ではないかという説がある由である。もしも遊女だとすれば、万葉集を巡って非常に重要で大きな問題を私たちに投げかけてくる。万葉集は貴族を始め高位高官の、いわゆる知識人層の作と理解されている。長歌なので後回しにしてあるが、50番長歌の題詞に「役民の歌」とある。さらに本歌は遊女の歌とある。複雑で難解に見える万葉仮名も古代の人々は役民(人夫)や遊女といった人々に至るまで広く使いこなしていたことを伺わせるからである。よほど使いこなす能力がなければ長歌や短歌などを作歌しうる筈がない。つまり、日本はすでに古代当時、驚くべき高識字率を示していた可能性が高くなる。

原文  草枕 客去君跡 知麻世婆 <崖>之<埴>布尓 仁寶播散麻思<呼>
和訳  草枕 旅行く君と 知らませば 岸の黄土(はにふ)に 匂はさましを
現代文  「すぐにお発ちになる旅のお方と存知あげていれば、(この住吉の)美しい埴生(はにゅう)の染料で染めて差し上げられたのに」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その126) 」その他参照する。
 発句「草枕 客去君跡 知麻世婆」「草枕 旅行く君と 知らませば」と訓む。「草枕」は「草枕(くさまくら)」と訓む。草枕(くさまくら)は野宿のこと。「旅」にかかる枕詞。「旅」と同音の「度(たび)」にかかることもある。更に、草の枕を「結う」意で、「結う」と同音の「ゆふ(夕)」を含む連語や地名「ゆふ山」などにもかかる。「客去君跡」は「客(たび)去(ゆ)く君と」と訓む。「客」は「まらひと・まらふと」と訓じられ異族神を意味するものであった。上代において「旅」は異族神の支配する家郷以外の地に在ることを意味したことから、その異境に在るという念いを込めて、「たび」に「客」の字をあてたものと考えられる。「去」は「去(ゆ)く」と訓む。「よそへ去ってゆく」の意を込めている。「君」は敬愛の意をもって相手をさす代名詞。上代では、女性が男性に対して用いる場合が多い。「跡」はト。「知麻世波」は「知らませば」と訓む。「知」は「知ら」と訓む。「麻世」はマセ。「波」はバ。多くの写本がここの字を「婆」に書いている。上代においては、反実仮想の場合、条件と帰結が呼応して、「ませば…まし」の形で用いられることが多く、ここも末句の「ましを」と呼応する。

 結句「<崖>之<埴>布尓 仁寶播散麻思<呼>」「岸の黄土(はにふ)に 匂はさましを」と訓む。「崖之埴布尓」は「崖(きし)の埴(はに)ふに」と訓む。「崖」は「涯」に通じ、「きし、みずぎわ」の意がある。日本語では「岸」を使い、「がけ、山涯、きわだつ地形のところ、たかい」の意がある。日本語の「きし」にも古くから大きく二つの意味に用いられている。一つは、「陸地が川・湖・海などの水に接したところ。みずぎわ。なぎさ」であり、もう一つは「岩石または地などのきり立ったところ。がけ。きりぎし。山ぎし。岩壁」である。萬葉集には「住吉の岸」をうたう歌が14例もあり、ここも「住吉の岸」を詠ったものと見て良い。「之」はノ。「埴(はに)」は、「きめが細かくてねばりけのある黄赤色の土」をいう。古代、これで瓦、陶器を作り、また、衣に摺りつけて模様をあらわし、丹摺(にずり)の衣を作った。「布」はフで、一面にそれを産する場所を意味する「生(ふ)」として用いられている。「埴(はに)生(ふ)」で「埴のある土地」の意。住吉は埴の産地としても知られており「住吉の岸」と「埴生」の取り合わせも集中に四例を数える。「尓」はニ。「仁寶播散麻思呼」は「にほはさましを」と訓む。「にほはす」は「つややかに美しく染める」意。「麻思」はマシ。3句の「ませば」を承けての帰結である。「呼」はヲ。

巻1(70)。
 
題詞
歴史解説

 高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌(大宝(だいほう)元年(はじめのとし)辛丑(かのえとうし)、太上天皇(先帝文武天皇)の吉野の宮に幸せる時、付き従った高市連黒人の作った歌)」。(清江娘子(すみのえのをとめ)が、長皇子に(たてまつ)れる歌。姓氏ハ詳カナラズ。大宝(だいはう)元年(はじめのとし)辛丑(かのとうし)、太上天皇の吉野の宮に幸せる時の歌 )。持統天皇の吉野行幸は31回にも及んでおり、何年の行幸時の歌であるかは分からない。象山(きさやま)は吉野町にある。象の中山とはこの象山のことである。

原文

 倭尓者 鳴而歟来良武  呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流

和訳  倭(やまと、大和)には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 (きさ)の中山 呼びそ越ゆなる
現代文  「大和にも今ごろわたしの想いを伝えに呼子鳥(かっこう)が来て鳴いているだろうか。象の中山を吾子(あこ)と呼びながら鳴き渡っていく声が聞こえるよ」。
文意解説  発句「倭尓者 鳴而歟来良武  呼兒鳥」「倭(やまと、大和)には 鳴きてか来らむ 呼子鳥」と訓む。「倭尓者」は「倭(やまと)には」と訓む。「倭」は現在では「大和」と表記される。狭義には大和国城下(しきのしも)郡の郷名(現天理市)、ついで畿内の一国(現奈良県)をさした語。広義には日本国の異称。ここでは狭義の意で藤原京を中心とする地域を指す。「尓」は二。「者」はハ。「二ハ」は、場所・時・対象・比較の基準など、格助詞二の意味を強調または取りたてて示す。「鳴而歟来良武」は「鳴きてか来(く)らむ」と訓む。「来らむ」(くらむ)は「行く」と「来る」の両様にとれる。古代では「来る」を英語の「Come」のように近づくという感覚で使っていたようだ。鳥が「大和に向かって」ととってもいいし、「大和に来ていることだろう」ととってもよかろう。「鳴」は「鳴き」と訓む。「而」はテ、「歟」は疑問の係助詞カ。「来」はク。「来(く)」は普通、「こちらに向かって近づく」意を表わすが、ここは、目的地を主体にした言い方で、「そちらへ行く」意として使われている。その目的地は「倭」である。「良武」はラム。推量を示す。「呼兒鳥」は「呼兒鳥(よぶこどり)」と訓む。「兒」は「子(こ)」の意。「呼子鳥」は郭公(かっこう)の異称とも杜鵑(ほととぎす)のことともいう。「カッコウ」という鳴き声が「吾子(あこ)」などとも聞こえることから呼子鳥と呼ぶ。

 結句「象乃中山 呼曽越奈流」
(きさ)の中山 呼びそ越ゆなる」と訓む。「象乃中山」は「象(きさ)の中山」と訓む。吉野の離宮跡と伝えられる宮滝の南正面にある山で「象山」のこと。東方の御船山と、西方の御薗上方の山との間にあるから象の中山というとするのが一般的。「中山」は、二つの地域の中間にある山の意であるから、この山塊の向こうは大和であると見たことに基づく語とする説もある。「呼曽越奈流」は「呼びそ越ゆなる」と訓む。「曽」はソ。「越」は「越ゆ」と訓む。「越ゆ」は、山、峠、谷、川、溝、関所など、障害となるものを通り過ぎて向こうへ行く意で、その上空を過ぎて行く場合にもいう。「奈流」はナル。伝聞推定に用いられたもので、上の係助詞ソを承けての結びである。望郷の念を素直に詠じた佳作である。 

巻1(71)。
 
題詞
歴史解説
 忍坂部乙麻呂の作歌。「 大行天皇幸于難波宮時歌(大行天皇(さきのすめらみこと)の難波の宮に幸せる時の歌)」。この題詞は第73番歌までの3首にかかると思われる。第73番歌は、前の2首の作者名が「右一首…」とあるのに対して「長皇子御歌」と第65番歌と同じ記載方法がとられている。「大行天皇」は天皇の崩御後、未だ諡号を奉らない間の称であるが、萬葉集では、元明天皇の時代を現在として先帝の意味で、文武天皇を専ら「大行天皇」と称している。文武天皇の難波宮行幸は文武3年(699)正月と慶雲3年(706)9月の二度である。第71番歌~第73番歌はそのいずれの時の歌か定かでないためここに置かれたものと考えられる。左注には「右一首忍坂部乙麻呂」とあり、作者は「忍坂部(おさかべの)乙麻呂(おとまろ)」、伝未詳で歌もこの1首のみ。
原文  倭戀 寐之不所宿尓 情無 此渚崎<未>尓 多津鳴倍思哉
和訳  倭(やまと、大和)恋ひ ()()らえぬに 心なく この()の崎に (たづ)鳴くべしや
現代文  「床に就いて大和のことを思うと恋しくて寝るに寝られない。その心も知らず鶴たちはなにゆえ鳴き交わすのだろう。(いっそう大和が恋しくなって、堪えがたいではないか)」。
文意解説  この歌も前歌と同様望郷の歌。「鶴(たづ)鳴くべしや」と反語的に結んでいるところが悲痛な思いを伝える。
 
 発句「倭戀 寐之不所宿尓 情無」「倭(やまと、大和)恋ひ ()()らえぬに 心なく」と訓む。「倭戀」は「倭(やまと)戀(こ)ひ」と訓む。「倭」は狭義の大和を意味し、藤原京を中心とする地域をいう。「戀」は「戀(こ)ひ」と訓む。「戀ふ」は、「人・土地・植物・季節などを思い慕う」意に用いられる。「寐之不所宿尓」は「寐(い)の宿(ね)らえぬに」と訓む。「寐(い)」は寝ることで名詞。「宿(ぬ)」はその動詞で「宿(ね)」と訓む。現在の「寝る」にあたり、「体を横たえて休む」意。「い」と「ぬ」はその間に「を」「も」「の」の助詞を入れて「いをねず」「いもねず」「いのねらえぬ」などと使われることが多い。「之」はノ。「不所宿」は「宿(ね)らえぬ」を表わすための漢文的表記。「不」はズ、「所」が可能の助動詞「らゆ」の未然形「らえ」にあたる。「尓」はニ。「情無」は「情(こころ)無(な)く」と訓む。「情」には「こころ。なさけ。まこと」の「訓み」がある。ここでは「こころ」で下の「無」は「無く」で「情(こころ)無(な)く」と訓み、「無情(むじょう)にも。思いやりもなく」の意。

 結句「此渚崎<未>尓 多津鳴倍思哉」「この()の崎に (たづ)鳴くべしや」と訓む。「此渚崎未尓」は「此(こ)の渚崎(すさき)みに」と訓む。「此」は「此(こ)の」と訓む。「渚崎」は、水中に突き出た洲の意で、浜の出鼻をいう。「渚」には「なぎさ」と「す」の意がある。「未」はミで、ここは第42番の「嶋廻(しまみ)」のミと同じく「まわり、あたり」の意に用いたもの。ミは、めぐる意の「廻(み)る」の連用形が名詞化した語で、接尾語的に用いられる。「尓」はニ。「洲崎廻」の廻(み)はちょっとした入り江状になった所である。「多津鳴倍思哉」は「たづ鳴くべしや」と訓む。「多」はタ。「津」はツだが、ここはヅ。「多津」で「鶴(たづ)」を表わす。「鳴」は「鳴く」と訓み、生物が種々の刺激によって声を発することをいう。「倍思」はべシで、当然・適当などの意をあらわす。「哉」はヤ。べシヤは「隠(かく)さふべしや」とあったのと同じ表現。また同じ難波の鶴の鳴くのを、第67番歌では「旅(たび)にして 物(もの)戀(こほ)しきに 鶴(たづ)が鳴(ね)も 聞(き)こえず有(あ)りせば こひて死(し)なまし」と詠って鶴の鳴く声に旅愁を慰めたいとしたのに対して、本歌では、大和のことが思われてならないから鳴くべきではないと訴えている。言葉は違うけれど「大和恋し」の気持ちは同じである。

巻1(72)。
 
題詞
歴史解説

 式部卿(のりのつかさのかみ)藤原宇合の作歌。「大行天皇の吉野の宮に幸せる時の歌」。

原文  玉藻苅 奥敝波不榜 敷妙乃  枕之邊 忘可祢津藻
和訳  玉藻刈る 沖へは榜がじ 敷布(しきたへ)の 枕の(ほとり) 忘れかねつも
現代文  「玉藻を刈るからとて沖遠くは舟を出すまい。」。
文意解説  発句「玉藻苅 奥敝波不榜 敷妙乃」玉藻刈る 沖へは榜がじ 敷布(しきたへ)と訓む。「敷栲の」(しきたへの)は岩波大系本に枕詞とある。敷栲の「栲」はすでに扱った万葉集の代表的一首28番歌「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」に出ている白い布を云う。「敷栲の」は枕詞というよりは文字通り「敷いた白布の」と解することも可能。

 結句「枕之邊 忘可祢津藻」枕の(ほとり) 忘れかねつもと訓む。

 「玉藻刈る沖へは漕がじ」という上二句と「枕のあたり忘れかねつも」の下二句について諸本の見方が微妙に分かれている。上二句を岩波大系本では「玉藻を刈る沖の方へは漕いで行くまい」とし、中西本では「玉藻を刈るからとて沖遠くは舟を出すまい」とし、伊藤本では「海女(あま)たちが玉藻を刈る沖辺なんか漕ぐまいぞ」としている。「漕がじ」は反語的表現で、「玉藻刈る沖へ漕ぎ出してきてしまったが、ああ、漕ぎ出さなければよかった」と解すれば、漕ぎ出したことが女との別れを意味し、後ろ髪を引かれるような男の情感が迫ってきて名歌の響きを伝えていることになる。

巻1(73)。
 
題詞
歴史解説

 長皇子の作歌。「大行天皇の吉野の宮に幸せる時の歌」。前2首と同じく「大行天皇幸于難波宮時歌」であるが、作者名の記載方法が違い、題詞に「長皇子御歌」とある。「長皇子」については60及び65番歌の作者として既出。天武天皇の第4皇子で、同母弟に弓削皇子がおり、従兄弟にあたる志貴皇子とも親交があった。

原文  吾妹子乎  早見濱風  倭有  吾松椿  不吹有勿勤
和訳  我妹子(わぎもこ)を 早み浜風 倭(やまと、大和)なる 吾()を松椿(つばき) 吹かざるなゆめ
現代文  「我が妻を(早く見たいと思うので)早く吹く浜風よ 大和にある、(待つといふ名の)松や椿を 必ず吹いて、(椿のように美しい妻に)私のこの思いを伝えておくれ」。
文意解説
 発句「吾妹子乎  早見濱風  倭有」「我妹子(わぎもこ)を 早み浜風 倭(やまと、大和)なる」と訓む。「吾妹子乎」は「吾妹子(わぎもこ)を」と訓む。「吾妹子」の「子(こ)」は親愛の意を表わし、「吾妹(わぎも)」は「わがいも」が変化したもの。自分の、妻や恋人である女性、または広く女性を親愛の気持をこめて呼ぶ語。「乎」はヲ。「早見濱風」は「早み濱風(はまかぜ)」と訓む。作者の長皇子には、旅先の地名に興趣を覚えて詠った歌があることから、ここの「早見」も地名と見る説がある。しかし、そのような地名は難波あたりに見られないので、地名説は採らず、「早(はや)み」と訓んで、形容詞の連体形と同じ意に用いたものと考えたい。「浄(きよ)み原」、「朱鳥(あかみとり)」の類で、「早見濱風」は、「早き浜風」の意。「吾妹子乎を早見」の意と掛詞にするために古風な語を用いたものである。「見」はミであるが、「見る」の意も表わしている。「早(はや)み」は、いわゆるミ語法をも連想させ、「早く見たいので」とも解せるのではなかろうか。「早み」が「早く妻に会いたい」と「浜風が吹くのを早めて」の両意にかかっている。「倭有」は「倭(やまと)なる」と訓む。「倭」はここでは狭義の大和を意味し、藤原京を中心とする地域をいう。「有」はナルと訓み、「存在」を表わし「~にある」「~にいる」という意味になる。断定の助動詞ナリは、二に「有り」がついた「にあり」が約まってできた語であることから「有」の字が用いられている。

 結句「吾松椿 不吹有勿勤」()を松椿(つばき) 吹かざるなゆめ」と訓む。「吾松椿」は「吾(わ)を松(まつ)椿(つばき)」と訓む。「吾」は、「われ」「あれ」「あを」などの訓みもあるが「吾(わ)を」と訓んでおく。「松」「椿」は大和の家にある植物を二つ挙げたものと思われるが、勿論「松」が「待つ」との掛詞であることは容易に分かる。「椿」のツバに「妻」を掛けているとの説もある。バとマは通じ用いられる例が多いから、そうした事も十分考えられる。「不吹有勿勤」は「吹(ふ)かざるな勤(ゆめ)」と訓む。「不吹有」は「吹かざる」と訓む。「勿」は禁止・否定のナ。「吹かざるな」は、否定を二つ重ねた言い方で、「吹いてくれ」というのをわざわざ「吹かずにあってくれるな」と言って切実な気持ちを表現している。それを更に強めているのが次の「勤」である。「勤」は「勤(ゆめ)」と訓み、禁止の語句と共に用いて「決して(…するな)。必ず(…するな)」の意。漢字表記には、「勤」の他、「努」「努力」「慎」「夢」などを当てる。強く注意を促すための語であり、それを更に重ねて強めた語に「ゆめゆめ」がある。旅先での望郷の歌。「浜風よ、速度を速めて一刻も早く故郷(大和)へ」の意。

巻1(74)。
 
題詞
歴史解説
 大行天皇の作歌。「大行天皇幸于吉野宮時歌(大行天皇の吉野の宮に幸せる時の歌)」。左注に「右一首或云 天皇御製歌(右の一首は、或るひとの云はく、天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)「大行天皇」は文武天皇をさす事については71番歌の所で述べた。その文武天皇の歌であるとも云うと左注が記すようにその可能性は高い。文武天皇は、この歌を除くと集中に作品を伝えないが、『懐風藻』には漢詩3首を伝える。文武天皇の吉野宮行幸は大宝元年2月と大宝2年7月の2回であるが、そのいずれかは不明。大宝元年、文武天皇は19歳。なお、本歌の題詞は次の長屋王の歌にもかかる。文武天皇と長屋王とは従兄弟の関係。歌は2首共に、妻と離れて旅先にある侘しさを詠んだものである。
原文

 見吉野乃  山下風之  寒久尓  為當也今夜毛  我獨宿牟

和訳  み吉野の 山の荒風(あらし)の 寒けくに はたや今宵も ()が独り寝む
現代文  「み吉野の山おろしの風がこんなに肌寒いのに、やはり今夜も私は(妻と離れて)独り寝をすることになるのかなあ」。
文意解説
 発句「吉野乃  山下風之  寒久尓」「み吉野の 山の荒風(あらし)の 寒けくに」と訓む。「見吉野乃」は「み吉野の」と訓む。「見」はミ。地名に美称のミを冠するのは古代では「吉野、熊野、越」に限られている。いずれも格別の異境と意識され、霊威の聖地と見なされていた。「乃」はノ。「山下風之」は「山の下風(あらし)の」と訓む。写本では「山下風」をヤマシタカゼと訓んでいたが、荷田春満『萬葉集僻案抄』がヤマノアラシと訓んだ。『倭名類聚鈔』に「嵐。廬含反、和名阿良之 山下出風也」とあるように、正しくは山下風と書くべきところを単に下風だけでもアラシの意に用いたものと思われる。用例としては他に「足檜木乃(あしひきの) 山下風波(やまのあらしは) 雖不吹(ふかねども)」(2350)、「足檜乃(あしひきの) 下風吹夜者(あらしふくよは)」(2679)。ここも「山」の下にノを補って「山の下風(あらし)」と訓み『僻案抄』に従うべきものと思われる。「之」はノ。「寒久尓」は「寒けくに」と訓む。「寒久」で「寒けく」と訓む。「久尓」はク二。

 結句「為當也今夜毛  我獨宿牟」「はたや今宵も ()が独り寝む」と訓む。「為當也今夜毛」は「はたや今夜(こよひ)も」と訓む。「為當也」はハタヤと訓み、副詞「はた」の危惧の気持ち強めた言い方で「ひょっとしたら。やはり。やはり…なあ。もしや」の意。「為當」は中国の六朝から唐代にかけて会話体などで多く用いられた表現で、日本書紀や律令の文にも見える。「也」はヤ。「今夜」は「こよひ」。「毛」はモ。「我獨宿牟」は「我(わ)が獨り宿(ね)む」と訓む。「我」は「我(わ)が」と訓む。「獨り」は「妻なしに」の意。「宿牟」はネム。この歌も前歌同様簡明な歌である。旅先で独り身をかこつ寒々とした光景である。

巻1(75)。
 
題詞
歴史解説
 長屋王(ながやのおほきみ)の作歌。「大行天皇幸于吉野宮時歌」。左注に「右一首長屋王」とある。長屋王は、天武天皇の皇孫で文武天皇とは従兄弟。父は高市皇子で、母は天智天皇の皇女御名部皇女。妻は元明天皇の皇女の吉備内親王。長屋王は後に左大臣にまでいたるが、藤原氏と対立し讒言により自尽する。享年46歳説(公卿補任)と54歳説(懐風藻)説とがあるが、後者によれば、大宝元年、26歳になる。歌は5首。『懐風藻』に漢詩3首。なお、昭和63年の発掘調査によりその邸宅が大量の木簡と共に発見された。その木簡群は、「長屋王家木簡」と称され、当時のなまの文字資料として大変貴重であり、その研究成果は「日本史」「日本語史」に大きな影響を及ぼしている。
原文

 宇治間山  朝風寒之  旅尓師手  衣應借  妹毛有勿久尓

和訳  宇治間山(うぢまやま) 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに
現代文  「宇治間山の朝風が寒くてたまらないが、旅先にあって衣を掛けてくれる女(ひと)もいない」。
文意解説
 発句「宇治間山  朝風寒之  旅尓師手」宇治間山(うぢまやま) 朝風寒し 旅にして」と訓む。「宇治間山」は「宇治間山(うぢまやま)」と訓む。宇治間山は現在その名は残っていないが、奈良県吉野郡吉野町千股辺りの吉野にそびえる山を言ったものとされている。飛鳥から稲淵・栢森(かやのもり)を経て芋ヶ峠を越え、吉野郡上市に出る道筋にあたる。「朝風寒之」は「朝風(あさかぜ)寒し」と訓む。「朝風」は朝に吹く風をいう。日の出後しばらく、海辺では陸地から海上に、また、山間では山頂から谷に向かって吹く。「寒之」は「寒し」。「旅尓師手」は「旅にして」と訓む。仮名表記に違いはあるが67番歌に同じ。「旅先にあって」の意。「尓」はニ。「師」はシ。「手」はテ。

 結句「衣應借  妹毛有勿久尓」「衣貸すべき 妹もあらなくに」と訓む。「衣應借」は「衣(ころも)借(か)すべき」と訓む。「衣」は衣服だが、ここは肌着をいう。旅などで男女が別れるとき、衣を交換する風習があった。その衣のことを特に「形見の衣」という。思い出のよすがにしようとしてのことであるが、肌着に付着した魂によって互いに守りあうという心遣いから出た習いとも見られる。「應」は「まさに…すべし」という再読文字であるが、ここでは、当然の意を表わす助動詞べシの連体形べキの表記に用いられている。「借」はカスともカルとも訓むが、ここはカスと訓む。現在の表記では「貸す」となるところであるが萬葉集には「貸」の文字はなく「借」の字に二つの訓みを持たせている。「妹毛有勿久尓」は「妹(いも)も有(あ)らなくに」と訓む。ここの「妹」については、妻と見る説と旅先における女性一般を親しんで称したものとする説に分かれる。前歌の「我(わ)が獨(ひとり)宿(ね)む」に裏づけられている「妻」に対して、ここは女性一般の「女(ひと)」と巾を持たせておきたい。「毛」はモ。「有」は、「有(あ)ら」と訓む。「勿」はナ。「久」はク。「有(あ)らなく」は、「有らぬあく」のヌと「アが約まってナとなったもの。「尓」はニ。

 74歌と75歌は共に旅先の景である「風」を通しての望郷歌と言えるが、74歌の「夜」の風に対して75歌では「朝」の風を持ち出している。この関係は74歌が旅の目的地である「吉野」を詠うのに対して、75歌が旅の途中の「宇治間山」を詠っているのと呼応している。「朝」から「夜」という時間的推移が、旅の「途中」から「目的地」という空間的移動に対応していると考えられる。このような対応関係を踏まえて、74歌が明らかに「妻」への思いを詠っているので、75歌の「妹」は「妻」とせずに女性一般の「女(ひと)」と考える説を採ることとしたものである。

 寧樂(なら)の宮に天の下知ろしめしし天皇の代

巻1(76)。
 
題詞
歴史解説
 元明天皇の作歌。「和銅元年戊申 / 天皇御製、和銅元年戊申天皇御製歌(寧樂(なら)の宮に天の下知ろしめしし天皇の代*和銅元年(はじめのとし)戊申(つちのえさる)、天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)」 。和銅元年(708)の前年の慶雲4年6月に文武天皇が崩御したが、その子の首皇子(後の聖武天皇)は未だ7歳であったので、中継ぎの天皇として、同年7月に文武天皇の母阿閇皇女(35番歌の作者)が47歳で即位した。第43代元明天皇である。慶雲5年の正月、武蔵国秩父郡より和銅が献ぜられたのに因んで、その年を和銅と改元。和銅元年2月には、平城遷都の計画を発表、3月には、右大臣石上麻呂を左大臣に、大納言藤原不比等を右大臣に任命している。飛鳥時代から奈良時代への移行期であり、律令制国家としての体制が着々と整備されつつある時代と言える。
原文

 大夫之  鞆乃音為奈利  物部乃  大臣 楯立良思母

和訳  大夫(ますらを) 鞆(とも)の音すなり 物部(もののふ) 大臣(おほまへつきみ) 楯立つらしも
現代文  「勇士たちの(弓を射て) 鞆に弦のあたる音が聞こえてくる 物部の 大臣が 楯を立てて(陣容を整えて)いるらしい」。
文意解説
 発句「大夫之  鞆乃音為奈利  物部乃」大夫(ますらを) 鞆(とも)の音すなり 物部(もののふ)の」と訓む。「大夫之」は「大夫(ますらを)の」と訓む。「ますらを」は「益荒男」とも書き、「立派な男子。強く勇ましい男子」の意。「之」はノ。「鞆乃音為奈利」は「鞆(とも)の音為(す)なり」と訓む。「鞆」は、弓を射る時、左の腕に結び付けて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの防具。手首に巻く丈夫な防具で、矢を放ったとき、弓の弦が反動で飛んできたとき、手首を守るためにつけられる。革の袋で、中に稲藁(いなわら)を満たし、外を黒漆塗りとし、革緒で結ぶ。弓を射るとこの「鞆」に弦が当たり、かなり大きな音を発する。これが「鞆乃音」である。「乃」はノ。「音為奈利」は3番歌に同じ。「音のするのが聞こえる」という意。「為」はス。「奈利」は伝聞推定のナリ。ここのナリは、断定のナリとは別語で、元々は音や声が耳に入ることをいい、…の音(声)がする意を表わすことは前(70番歌)にも述べたが、ここはまさにもとの意で使われている。「物部乃」は「物部(もののべ)の」と訓む。「物乃布能」は「物(もの)のふの」と訓んだ。ここも「物部(もののふ)の」と訓むのが一般的であるが、契沖『万葉代匠記』に「物部ヲモノヽフトヨメルハ此ニテハ誤ナリ。モノヽヘトヨムヘシ」としたのを卓見としてこの説を支持する伊藤博の説を採って「物部(もののべ)の」と訓む。「物部」が歌詞においてモノノフと訓むのが一般的なのは、「もののふ」に「朝廷に仕える氏族の総称」の意があり、「もののふの」が、その氏族の数の多い所から「八十伴緒」「八十氏」「八十」などにかかる枕詞として用いられるようになったことによる。ただし、「物部」は上代において軍事警察の任に当たった氏族名でもあることを忘れてはならない。ここは枕詞として用いられたものではなく氏族名の「物部(もののべ)」と訓むべきであると契沖は指摘したのである。「乃」はノ。

 結句
大臣 楯立良思母大臣(おほまへつきみ) 楯立つらしも」と訓む。「大臣」は「大臣(おほまへつきみ)」と訓む。44番歌の題詞に「石上大臣従駕作歌【石上大臣(いそのかみのおほまへつきみ)の従駕(おほみとも)にして作る歌】」とあり、ここの「大臣」もその「石上大臣」を指していると思われる。「石上大臣」は、冒頭に名を挙げた和銅元年3月に左大臣に任ぜられた石上麻呂のことである。石上麻呂はもと物部氏を名告っていたが、天武朝の末年に「石上」の氏を賜っている。しかし、日本書紀持統4年(690)正月、天皇即位の条に「物部麻呂朝臣樹大盾」とあり、持統即位の典礼に際して大楯を立てるという任にあたっては、古くからの習わしを意識し「物部」と呼ばれている。ここも同じ意識によって「石上」でなく「物部」称されたものと考えられる。以上のことを踏まえて「物部(もののべ)の大臣(おほまへつきみ)」と訓んで、石上麻呂を指すものとする。「楯立良思母」は「楯(たて)立つらしも」と訓む。「楯」は敵の矢・刀・槍などを防ぐ防具。「楯立つ」は、陣容を整えて邪気を払い、天皇への臣従を誓いつつ天皇の威力を寿ぐ儀礼であったと思われる。ここは元明天皇即位の典礼に際して行われたものと考えられる。「良思」は推量のラシ。「母」はモ。

巻1(77)。

題詞
歴史解説
 御名部皇女(みなべのひめみこ)の作歌。「御名部皇女奉和御歌(御名部皇女和(こた)へ奉れる御歌)」。御名部皇女は天智天皇の皇女で元明天皇の同母姉。高市皇子の妻となり、長屋王(75番歌の作者)を生む。
原文

 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓

和訳  吾が大王(おほきみ) ものな思ほし 皇神(すめかみ)の 嗣ぎて賜へる 吾(わ)が莫(な)けなくに
現代文  「我が大王よ、ご心配めさるな。天照大御神以来の代々の私がいないわけではないのですから。(私がついているではありませんか)」。
文意解説  発句「吾大王 物莫御念 須賣神乃」「吾が大王(おほきみ) ものな思ほし 皇神(すめかみ)の」と訓む。「吾大王」は「吾(わ)が大王(おほきみ)」と訓む。「吾」は一人称の「わ」でガを補読して訓む。「大王(おほきみ)」は、仕える側から、天皇・諸王などに対して日常的に用いられる尊称で、ここは元明天皇を指す。作者は元明天皇の姉であるが、臣下の礼をとっている。「物莫御念」は「物(もの)な念(おも)ほし」と訓む。「物」は、個々の具体物から離れて抽象化された事柄、概念をいう語であるが、ここは下の「念」を伴うことで、「物思い」、「心配」などの意をあらわす。「莫」はナ。禁止の意をあらわす。副詞「な」の上代の用法には三つの型がある。①下に動詞の連用形を伴って用いる。②下に「動詞の連用形+そ」を伴って用いる。③下に「動詞の連用形+そね(そよ)」を伴って用いる。このうち①③は中古には見られなくなり、②の「な…そ」の型と、終助詞による「…な」の形が中古以後に引き継がれる。ここは①の型で下の「御念」は「念(おも)ほし」と訓む。「念ほす」は「念ふ」にスを付けた敬語表現。「物(もの)な念(おも)ほし」で、「ご心配なさいますな」の意となる。天皇の御製を、天皇の任の重さに対する不安を込めた歌と見なした表現である。「須賣神乃」は「すめ神の」と訓む。「すめ神」は、「一定の区域を支配する神。各地に鎮座している神々」を言う場合もあるが、ここは「皇室の祖先に当たる神」、「天照大御神」を指す。「乃」はノ。

 結句「嗣而賜流 吾莫勿久尓」「嗣ぎて賜へる 吾(わ)が莫(な)けなくに」と訓む。「嗣而賜流」は「嗣(つ)ぎて賜へる」と訓む。「副(そ)へて賜へる」と読む説もある。菊地壽人『萬葉集精考』に「『つぎてたまへる』は吾の修飾語で『君に次ぎて吾をも下し給へる』として、代々の天皇は皇祖神の御議らひで、大八洲國の主として此世に下し給ふものといふが昔からの思想で、随つて今の天皇(元明)も、その意味で特に御下しくだされたのは、いふまでもないが、それに次いで、吾をも御下しくだされたといふのである。それは何の為かといへば、君の御護りとして、御補佐としての意である事は、歌の意を推してこれも明かな事である」とある。この説に基づき、この句は「嗣(つ)ぎて賜へる」と訓み、「大君の守り役として。一続きのものとして賜った。ご先祖が添えて下さった(私)」の意と考えたい。作者は元明天皇の同母姉で、妹の天皇の地位を重んじ、臣下の立場でこのように言ったものであろう。「吾莫勿久尓」は「吾が莫(な)けなくに」と訓む。「吾」を「われ」と訓む説もあるが「吾(わ)が」とする。「莫」は「莫(な)け」を表わすのに用いている。上代の形容詞には未然形にケの活用語尾が付されている。「勿」はナ。「久」はク。「莫(な)けなく」は、「莫け」にズの連体形ヌの付いた「莫けぬ」のク語法で、「莫けぬあく」の「ぬ」と「あ」が約まって「な」となったもの。「尓」は二。ク語法に二を添えたものを結句としている場合は詠嘆や何らかの余情を添える効果を意図しているものが多い。「吾がなけなくに」は二重否定で「私がいないわけではないのに」、すなわち「私がついているではありませんか」である。

巻1(78)。
 
題詞
歴史解説
 持統天皇又は元明天皇の作歌。「和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌 [一書云 太上天皇御製](和銅三年庚戌(かのえいぬ)春三月(やよひ)藤原の宮より寧樂の宮に遷りませる時、長屋の原に御輿(みこし)(とど)めて古郷(ふるさと)廻望(かへりみ)したまひてよみませる(みうた))」 (「和銅3年(710年)、大宮が藤原京から平城京に遷る際に藤原京をかえりみて作った歌」)。「一書ニ云ク、飛鳥宮ヨリ藤原宮ニ遷リマセル時、太上(持統)天皇御製ミマセリ」 。作者の名は書かれていない。編纂当時既に作者名を逸していたものと思われるが、[一書云 太上天皇御製]とあるのは、「太上天皇御製」である可能性が高いと判断して編纂者が注記したものと見られる。ただ、和銅3年に「太上天皇」に当たる人はいない。「太上天皇」は譲位後の天皇の尊称であり、これまで出てきた「太上天皇」は、文武天皇に譲位後の持統天皇を指して使われていた。この歌も「飛鳥 明日香」とある所から持統天皇の作とする説も称えられたが、題詞を重んじる限り、その説はあり得ない。作者に関する[一書云]の注記を、元明天皇の譲位後の尊称で表記されたものと考えれば、ここにいう「太上天皇」は、元明天皇を指すことになる。元明天皇は、霊亀元年(715)9月に娘の元正天皇に譲位された後、崩御される養老5年(721)12月の間、「太上天皇」であった。この歌は、『新古今集』巻十の羈旅歌の冒頭に元明天皇御製として載せられていることからも、元明天皇作と見てほぼ間違いないと思われる。

 天武持統天皇陵は明日香村野口にある。この歌が持統天皇作とすると、飛鳥宮から藤原京への遷都の際に夫である天武天皇の墓所に思いを馳せながら詠まれた歌と云うことになる。天理市西井戸堂町大門の山辺御県坐神社にこの歌の歌碑がある。
原文

 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武[一云 君之當乎 不見而香毛安良牟]

和訳  飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ [一に云ふ 君(きみ)があたりを 見(み)ずてかもあらむ]
現代文  「飛ぶ鳥の明日香の里を後にしていったなら、君のいるあたりを目にすることが出来なくなってしまうかも」。
文意解説
 発句「飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆」「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば」と訓む。「飛鳥」は「飛ぶ鳥の」と訓む。地名「明日香」にかかる枕詞。天武天皇の時代、赤雉の瑞祥にちなんで、年号を「朱鳥」と改元するとともに、その宮殿「浄御原宮」を「飛鳥浄御原宮」と呼ぶようにしたので、その所在地の「明日香」の地にも冠せられるようになったものとするのが通説だが、朱鳥改元以前から地名アスカに「飛鳥」の文字を当てたとする土橋寛の説や、「飛ぶ鳥の」はそもそも土地讃めの働きを持つ言葉で宮号とは直接関係ないとする井出至の説もある。歌の内容は「明日香の里を置きて去なば」とあるから飛鳥京からいっきょに平城京に遷ったことになっている。「明日香能里乎」は「明日香(あすか)の里を」と訓む。「明日香」は奈良県高市郡明日香村付近一帯の称。北は大和三山にかぎられ、中央を飛鳥川が流れる。豊浦宮に推古天皇が即位して後百余年間都が置かれた。「能」はノ。「里(さと)」は、人家のあつまっている所、人の住んでいる所、村落をいう。「乎」はヲ。「置而伊奈婆」は「置きていなば」と訓む。「置而」は「置きて」と訓んで、「さし置いて」あるいは「置き去りにして」の意。「伊奈婆」はイナバ。「いぬ」は「いく(行)」に比べて、時間的にも空間的にも離れて遠くへいく感じや、あるいは、消え去るの意味が強く、そのことが、「(時が)過ぎ去る」や「死ぬ」などの意味を派生するもととなっている。

 結句「君之當者 不所見香聞安良武[一云 君之當乎 不見而香毛安良牟]」君があたりは 見えずかもあらむ [一に云ふ 君(きみ)があたりを 見(み)ずてかもあらむ]」と訓む。「君之當者」は「君(きみ)があたりは」と訓む。「君」は敬愛の意をもって相手をさす言葉であるが、上代では、女性が男性に対して用いる場合が多い。ここでは元明天皇が亡き夫草壁皇子あるいは亡き息子文武天皇を偲んで言ったものかと思う。「之」はガ。「當」は「あたり(辺り)」。「者」はハ」。「君があたりは」は、「夫あるいは息子が眠る墓のある辺り」を言ったものと解する。「不所見香聞安良武」は「見えずかもあらむ」と訓む。「不所見」は「見えず」。「香聞」はカモ。「安良武」はアラム。「君があたりは見えずかもあらむ」は里から引っ越す途中、旧京を振り返って惜別の情に駆られる心情を示している。「もう二度と見ることはないのだろうか」と詠嘆している。異伝の「一云 君之當乎 不見而香毛安良牟」は「一に云ふ 君があたりを 見(み)ずてかもあらむ」と訓む。異伝の方が本文に比べ反語の性格(見ずにいられるだろうか)が強い。

巻1(79)。
  長歌。
題詞
歴史解説
 「或本従藤原京遷于寧樂宮時歌(藤原の京より寧樂の宮に遷りませる時の歌)」。左注に「右歌作主未詳」とあって、79・80番歌の作者が不明である。
原文  天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青<丹>吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之<氷>凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手来(→尓) 座多公与 吾毛通武
和訳  天皇(おほきみ)の 御命(みこと)畏(かしこ)み 和(にき)びにし 家を置き 隠國(こもりく)の 泊瀬の川に 船浮けて 吾(あ)が行く河の 川隈(くま)の 八十(やそ)隈おちず 万(よろづ)たび かへり見しつつ 玉ほこの 道行き暮らし 青丹よし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我(あ)が寝たる 衣の上よ 朝月夜(づくよ) さやかに見れば 栲(たへ)の穂に 夜の霜降り 磐床(いはとこ)と 川の氷(ひ)(こほ)り 冷(さ)ゆる夜を 息(やす、いこ)むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代まてに 座(い)まさむ君と 吾(あれ)も通はむ
現代文  「天皇の 仰せとあれば 住み慣れた 家を捨てて [こもりくの] 泊瀬川に 舟を浮べて わたしが行く川の 曲がり角の その多くの曲がり角ごと 幾たびも 振り返り振り返り [玉桙の] 日が暮れるまで進んで行き [あをによし] 奈良の都の 佐保川まで たどり着いて 私が寝て引被っている 衣の上に(照る) 朝月の光で はっきり見ると 真っ白に 夜の霜は降り 岩床のように 川の氷は固まっている そんな寒い夜を 休むことなく 通い続けて 作ったこの家に いつまでも お住い下さい、ご主人様! わたしもいつまでも通って御仕え致しましょう」。
文意解説  長歌(れんだいこ式15句)。
 発句「天皇乃 御命畏美」は「天皇(おほきみ)の 御命(みこと)(かしこ)」と訓む。「天皇乃」は「天皇(おほきみ)の」と訓む。「天皇」は29番歌では「すめろき」と訓んだが、ここは「おほきみ」と訓む。ここは元明天皇を指し、末尾の「おほきみ(多公)」とは別。「御命畏美」は「御命(みこと)畏(かしこ)み」と訓む。「御命(みこと)」は「み言」「お言葉」の意。「畏(かしこ)み」は、恐れ多い意の「かしこし」にミのついた形。「大君の御命(みこと)かしこみ」、「大王之 命恐」、「王之 御命恐」、「於保伎美乃 美己等可思古美」、「於保吉美能 美許等可之古美」の用例がある。「大君の御命(みこと)かしこみ」は、「天皇のお言葉を謹んで承けたまわって」の意。

 2句「柔備尓之 家乎擇」(にき)びにし 家を置き」と訓む。「柔備尓之」は「柔(にき)びにし」と訓む。「それまで馴れ親しんだ家を手放して」の意となる。「柔備」は「柔(にき)び」と訓む。「にきぶ」は「和栲(にきたへ)」、「柔膚(にきはだ)」などの「にき」を動詞化したもので、「柔和になる。くつろぎ安んじる。なれ親しむ」の意。「尓」はヌ。「之」はシ。「家乎擇」は「家を擇(お)き」と訓む。「擇」は「釋」の通用文字とされ、類聚名義抄には、「釋」にオク・ハナツ、「擇」にエラブ・ハナツの訓がある。ハナツにはオクの意があることから、「擇」を「置く」の連用形「擇(お)き」と訓むのが通説。「擇(はな)ち」と訓む説もあるが、やはり5音で訓む通説に従っておく。

 3句「隠國乃 泊瀬乃川尓 舼浮而」隠國(こもりく)の 泊瀬の川に 船浮けて」と訓む。「隠國乃」は「隠國(こもりく)の」と訓む。「隠口の」と表記は違うが同じ。「こもりく」は、両側から山が迫ってこれに囲まれて隠(こも)った所を意味し、「こもりくの」は、そのような地形を持つ「泊瀬」にかかる枕詞として古くから使われており、記紀歌謡にも5例の用例をみる。語源説に、コモリクはコモリクニ(隠国)の下略であるとするものや、泊瀬は口のコモ(隠)った地形であるところから、コモリクは隠口の義とするものがある。「泊瀬乃川尓」は「泊瀬(はつせ)の川に」と訓む。「泊瀬」は、奈良県桜井市東部の地名。初瀬川が大和高原から流出する渓口部にある。長谷寺の門前町、伊勢街道の宿場町として発達。上代、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)、武烈天皇の泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)が置かれた。桜・牡丹の名所で、現在は「はせ(長谷)」と呼ばれている。「初瀬川」は、「泊瀬」から三輪山山麓を廻って北流し、平端(ひらはた)の西で佐保川に合流し大和川となる。「舼浮而」は「舼(ふね)浮(う)けて」と訓む。「舼」は、類聚名義抄に「小艇。タカセフネ」とあり、小舟の意。「浮」は「浮(う)け」と訓む。「浮く」は「浮かべる」の意。

 4句「吾行河乃 川隈之 八十阿不落」()が行く河の 川(くま)の 八十隈(やそくま)おちず」と訓む。「吾行河乃」は「吾(わ)が行く河の」と訓む。藤原京から平城京に行くには、馬を利用すれば、当然陸路が容易であるが、本歌の作者は水路を行ったことが分かる。水路では泊瀬川を下り、佐保川を遡って平城京に至ることになる。「川隈之」は「川隈(かはくま)の」と訓む。「川隈(かはくま)」は、「川の折れ曲がって流れるところ。河流のいりくんだところ。また、川の深いところ」を意味し、航行上の難所を言う。「八十阿不落」は「八十(やそ)阿(くま)落ちず」と訓む。「八十(やそ)」は「数の多いこと」をいう。「阿」は、「山のくま、山のわき、さか、くま、ふもと、おか。水ならば入りこんだ岸」などの意を持つ。類聚名義抄にも、クマ・キシ・マガレルキシなどの訓が見える。「不落」は「落(おち)ず」と訓む。「寐(ぬ)る夜(よ)落(おち)ず」で既出。「欠落することなく」の意で、「寐(ぬ)る夜(よ)落(おち)ず」を「夜ごと夜ごと」としたのと同様、「八十(やそ)阿(くま)落(お)ちず」は、「多くの曲がり角ごとに」の意となろう。

 5句「万段 顧為乍」(よろづ)たび かへり見しつつ」と訓む。「万段」は「万段(よろづたび)」と訓む。「与呂頭多妣(よろづたび) 可弊里見之都追(かへりみしつつ)」とある所から「よろづたび」と訓まれているが、「段」を「たび」と訓む理由は未詳。小島憲之の説によると、「段」はくぎり、分断されたものの意であり、「その動作が何度とな繰り返される」のが「万段」だという。「顧為乍」は「顧(かへりみ)為(し)乍(つつ)」と訓む。「顧」は「かへりみ」と訓み、「後方を振り返ってみること」の意の名詞。「為」はシ。「乍」はツツ。

 6句「玉桙乃 道行晩」「玉ほこの 道行き暮らし」と訓む。「玉桙乃」は「玉桙(たまほこ)の」と訓む。「たまほこの」は、「道」にかかる枕詞。「たまほこ」の語義については、万葉集をはじめ、多くの漢字表記がいずれも「玉桙」またはこれと同義の文字であるところから、これを原義として「桙」の意とする説が多い。「ほこ」は現在では金偏の「鉾」のみを使い、京都の祇園祭に巡行する「山鉾」なども金偏だが、本来は木偏ではなかったかと思われる。木偏の「桙(ほこ)」は、武器である「鉾」を象って木で作りそれに装飾を施したもので、それを立てた山車(だし)などをも意味した。神事や祭礼に用いられたものであることから、同じく神事に用いられた「襷」に美称の「玉(たま)」をつけた「玉襷」の語があるのと同様に「玉桙」の語が生まれたものと思われる。「たまほこの」が、なぜ「道」にかかるかについては諸説がある。古くは「桙の身」の意で、「道」が同音ミを含むからという説が有力だったが、「み(身)」は上代特殊仮名遣で乙類、「道」の「み」は甲類であるから疑問。ほかに、「霊(ち)」の意などで「道」の「ち」に続くという説、桙のように真直ぐな道、道しるべとしての桙、など。また、分かれ道や集落の出入口の道のかたわらにある道祖神や庚申塚の前身としての陽石を立てる習俗と関係があるのではないかという説もあるが、今のところ未詳とするしかない。「道行晩」は「道(みち)行(ゆ)き晩(くら)し」と訓む。「道(みち)」は、人の行き来するところ、また、その往来にかかわる事柄をいう言葉。「通行するための筋。通行の用に供せられる所で、地点をつないで長く通じているもの」の意であり、陸路とは限らない。ここは.泊瀬川を下り、佐保川を遡って平城京に至る舟の航路をいう。「行」は「行(ゆ)き」と訓み、「目的の場所に向かって進む」の意。「晩」は、「晩(くら)し」と訓む。「くらす」は、他の動詞の連用形(ここでは、「行(ゆ)き」)に接続して、その行為を一日中し続ける意を表わす。現在では、「晩」の字と声義が近い「暮」の字を用いて「暮す」「暮らす」と表記される。

 7句「青丹よし 奈良の都の」「青丹よし 奈良の都の」と訓む。「青丹吉」は「青丹(あをに)よし」と訓む。「青丹」は、青黒色の土のこと。「吉」は、間投助詞「よし」を表わすための借訓字。「青丹(あをに)よし」は、地名「奈良」にかかる枕詞である。写本により「丹」の無いものもあるが、ここは明らかに「あをによし」で「丹」がなくてはならない所であろう。「楢乃京師乃」は「奈良の京師(みやこ)の」と訓む。「楢」は植物のナラであるが、ここでは地名の「奈良」を表わすための借訓字として用いられている。「京師」は音読みでは「けいし」で「みやこ」を意味するので、意味の通りに「京師(みやこ)」と訓む。続日本紀の神亀元年(724)11月の条に「亦有京師、帝王為居」とある。

 8句「佐保川尓 伊去至而」「佐保川に い行き至りて」と訓む。「佐保川尓」は「佐保川(さほかは)に」と訓む。「佐保川」は、奈良市、春日山の東側に発し、若草山北方を西流、さらに南流し、諸川や泊瀬川と合流して大和川となる川。上流に鶯滝(うぐいすだき)の景勝地をつくる。千鳥、蛍の名所として知られる。「伊去至而」は「い去(ゆ)き至りて」と訓む。「伊」はイ。「去」は「去(ゆ)き」と訓む。「至」は「至り」と訓む。「ある場所に行き着く。到着する」の意。佐保川との合流地点に到着したことを言ったもので、ここで一夜を明かしたのである。

 9句「我宿有 衣乃上従」()が寝たる 衣の上よ」と訓む。「我宿有」は「我(わ)が宿(ね)たる」と訓む。「我」は自称の「わ」で男女共に用い、ガを補って「我(わ)が」と訓む。「宿」は既出、「宿(ね)」と訓む。「有」は「たる」と訓む。「有」を「たり」に用いている理由については、古典基礎語辞典の「たり」の解説に示されていると思うので次ぎに引用しておく。
 完了の助動詞ツの連用形テに、ラ変活用動詞アリ(有り)が付いたテアリが約まってできた語。完了とは動作が完結することを意味し、アリはずっとそのままの状態でいることをいう。したがって、タリは、最初から完了の意味と存続の意味の両方を含み、いったん完了した動作・作用・状態が存続し続けていることをいい、現代語の「…ている」「…てある」に当たる。

 「衣乃上従」は「衣(ころも)の上(うへ)ゆ」と訓む。この句は、訓みは簡単だが、前後との関係で意味が通りにくい。「我(わ)が宿(ね)たる」は「衣(ころも)」にかかることは明らかだが、これをどのように解するかがまず問題になる。「衣」は「床」の誤りだとする説もあるが、木村正辞(まさこと)『萬葉集美夫君志』に「夜の衣を引被りながらに見るさまなり」とあるように、舟の中で寝ていた作者が、明け方の寒さに目を覚まして頭から引被った衣類の意に採るのが良いかと思われる。次に問題なのが「上(うへ)ゆ」で、この語は「見れば」に続くものと考えられるが、「ゆ」の本来の意味である「より」として「衣の上より」ということでは何となく落ち着かない。ここの「ゆ」は、「より」よりも「に」と解した方が落ち着く。「ゆ」は、上代も後期になると、「を」「に」「へ」とあるべき所にも使われるようになることから、ここはその早い例と考えたい。そうすれば、寝ている作者が掛けている衣類の上に朝月が照って、と次の句へとうまく続くことになる。

 10句「朝月夜 清尓見者」「朝月夜(づくよ) さやかに見れば」と訓む。「朝月夜」は「朝(あさ)月夜(つくよ)」と訓む。この場合、「月夜」は、月そのものを言う。「朝月夜」は有明の月。「月夜」を単に月の意に用いた例は既出。上代では「月夜」を「つきよ」と訓む用例は無く「つくよ」と訓む。ウ音とイ音の母音交替の例で、「神」の「かみ」「かむ」などと同じ。「清尓見者」は「清(さや)かに見れば」と訓む。「清尓」は「清(さや)かに」と訓み、光が澄みきって、明るくくっきりしたさまをいう。「見者」は「見レバ」と訓む。

 11句「栲乃穂尓 夜之霜落」(たへ)の穂に 夜の霜降り」と訓む。「栲乃穂尓」は「栲(たへ)の穂(ほ)に」と訓む。「栲」は、梶(かじ)の木などの繊維で織った布、純白で光沢がある。「しろたへ」「しきたへ」などで既出。ここは白色を表わすのに用いた。「穂」は「ほ(秀)」で、特に目立ってすぐれていることをいう。ここは白さを強調している。赤さを強調する言葉として「丹の穂」がある。「夜之霜落」は「夜(よる)の霜(しも)落(ふ)り」と訓む。64番歌に「霜(しも)零(ふ)りて」とあった。霜は、晴天で無風に近い冬の夜など、気温が氷点以下に下がるとき生じ、現在では「霜が降りる」と表現するが、この時代「霜降る」と言った。「ふる」に「落」の字を当てる例は既出。

 12句「磐床等 川之<氷>凝」「磐床(いはとこ)と 川の()(こほ)り」と訓む。「磐床等」は「磐床(いはとこ)と」と訓む。「磐床」は岩の表面が平らになって床のようになっている所をいう。「と」は「~のように」の意。川の水の凍っている様子を比喩した表現。「川之氷凝」は「川(かは)の氷凝(ひこご)り」と訓む。「凝」は「凝(こご)り」と訓む。この作についての最古の写本である『類聚古集』にはこの句は「川之水疑」とあるが、「疑」の字が「凝」の誤字であることは、他の写本が全て「凝」であることから見て間違いない。また「水」とあるのは『類聚古集』と『冷泉本』のみで『紀州本』その他の諸本は「氷」とあるので、「水」についても「氷」の「、」を落としたものと考えた方が良いと思われる。「川の水が凍る」というのと「川の氷が凍る」というのを比べると前者が理屈にかなうが、ここで用いられている「凝(こご)る」は、「かたまって固くなる」意味もあり、「凍る」と同じではない。「磐床(いはとこ)と」という修飾の語から考えてもここは川面の薄氷が、明け方の寒さによって盤石のように固まることを表現したものなので「水」では意味をなさない。

 13句「冷夜乎 息言無久 通乍」()ゆる夜を (やす、いこ)むことなく 通ひつつ」と訓む。「冷夜乎」は「冷(さむ)き夜(よ)を」と訓む。「冷」は「冷(さむ)き」と訓む。「冷」は説文解字に「寒きなり」とあり、寒冷をいう。名義抄も「冷。スズシ・ヒヤヤカナリ・サムシ・サム・サヤカニ・コホル」などの訓みを示す。「息言無久」は「息(いこ)ふ言(こと)無(な)く」と訓む。「息」は「息(いこ)ふ」と訓む。「息(やす)む」と訓む説もある。名義抄は「息。イコフ・イキ・ヤスム・ヤム・イキドホル・ムナシ・ヲフ・キユ・イタハル・オコス・アヤマル・オソル・カヘル・トドム・ナゲク・オモフ・ヤスシ」など多くの訓みがあることを示す。「息」は鼻息で呼吸することの意。上代において「言」は「事」に同じ。「無久」はナクと訓む。「通乍」は「通(かよ)ひ乍(つつ)」と訓む。「通」は「通ひ」と訓む。「かよふ」は、二つの場所の間を、行っては戻り、行っては戻りするのが原義。「乍」はツツ。12句の場合は、同じ動作の反復や継続を表わすのに用いられていたが、ここは、「通(かよ)ふ」そのものに反復の意があるので、二つの動作が並行して行われることを示す「ながら」の意で次の「作(つく)る」という動作との並行を表わす。

 14句「作家尓 千代二手来(→尓)」「作れる家に 千代まてに」と訓む。「作家尓」は「作れる家に」と訓む。「作」はルを補読して「作れる」と訓むのが通説である。しかし、「作れる」と訓むためにはルに相当する「流」か「留」の仮名表記があって然るべきのようにも思う。補読なしで訓むとすれば「作る家に」と6音になり字足らずになるが、7音で訓むべき4句を「家(いへ)を擇(お)き」と5音に字足らずで訓んでいるので、ここも字足らずのまま訓んでも良いのかも知れない。ちなみにテを補読するのであれば、「家(いへ)を擇(はな)ちて」と7音に訓むことができる。ここでは通説に従って「作(つく)れる」と訓んでおく。ここの「家(いへ)」は、生活の場としての住居をさす。「千代二手尓」は「千代(ちよ)までに」と訓む。「千代」は、文字通りの意味では「千年」だが、「非常に長い年月」を言うのに用いる。「二手」は、「左右」をマデと訓んだのと同様、両手(左右手)を「真手(まて)」といったところからの戯書的な借字で、時間的・空間的な限度を示す副助詞のマデとして用いられている。マデは二が付いたマデ二の形で用いられることが多く、ここも「千代(ちよ)までに」である可能性が高いことから、原文「来」を「尓」の誤字と見て改めたものである。「いつまでも」の意で次の「座(いま)せ」を修飾する。

 結句「座多公与 吾毛通武」()まさむ君と (あれ)も通はむ」と訓む。「座多公与」は「座(いま)せおほ公(きみ)よ」と訓む。「座」は「座(いま)せ」と訓む。「います」は「いらっしゃる。おいでになる」の意。「多公」は「おほ公(きみ)」と訓み、作者の主君を呼んだ尊称で、皇子または高貴の官人を指すものと思われる。1句「天皇(おほきみ)の」と区別し、ここの「おほきみ」は天皇の意ではないことを示したものと考えられる。「多」は「大」と相通じて用いられ「おほ」を表わす借訓字である。「公」の字訓はキミ、オホヤケ。「与」はヨ。「吾毛通武」は「吾(われ)も通(かよ)はむ」と訓む。「吾」はここでは「われ」と訓む。「毛」はモ。「通」は「通(かよ)は」と訓む。「武」はム。この末句は、作者が主君に対して永遠(とわ)の忠誠を誓った言葉といえよう。

巻1(80)。

題詞
歴史解説
 作主(よみひと)未詳(しらず)。反し歌 。藤原京から平城京に遷る時の歌。79番長歌の題詞に或本の記述としてこの事実を記している。
原文

 青丹吉 寧樂乃家尓者 万代尓 吾母将通 忘跡念勿

和訳  青丹よし 寧樂の家には 万代に 吾(あれ)も通はむ 忘ると()ふな
現代文  「昔より奈良が都として続いてきた。その地へ都が戻った。私も奈良の宮に通い続けようと思うが、皆さんもこたびの平城京遷都の意味を踏まえてしっかり頼むよ」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その141)」その他を参照する。
 発句「青丹吉 寧樂乃家尓者 万代尓」青丹よし 寧樂の家には 万代にと訓む。「青丹吉」は「青丹(あおに)よし」と訓む。「青丹」は、青黒色の土のこと。「吉」はヨシ。「青丹(あをに)よし」は、地名「奈良」にかかる枕詞。奈良坂のあたりから、顔料や塗料として用いる青土(あおに)を産出したからとされるが、証拠はない。「青丹吉、緑青吉」などと書かれ、その字面からすれば当時、都の建物の青や丹の美しさが連想されていたことは確かである。「寧樂乃家尓者」は「寧樂(なら、奈良)の家には」と訓む。「寧樂」はナラ。地名「奈良」を表わすのに用いられている。「寧」は「やすらか、やすんずる、さだまる、おちつく、しずか、ねんごろ」などの意。「樂」は「おんがく、なりもの。たのしむ。ねがう、このむ」の意がある。「寧樂」の字義を踏まえた上で、地名「なら」にこの二文字をあてたものであろう。「家」は、長歌の「作れる家に」の「家」であり、作者が奉仕している主君の邸をいう。万葉集では、家屋そのものを指し示す場合には普通「室」が使われ、このように「家」が家屋そのものを指し示す例はめずらしい。「乃」はノ。「尓」はニ。「者」はハ。二ハは、格助詞二の意味を強調または取りたてて示す場合に用いられる。「万代尓」は「万代(よろづよ)に」と訓む。長歌の「千代(ちよ)までに」に呼応する。「限りなく長く続く代」を意味し、御代が永久に続くことを祝っていう語である。「尓」は二。

 結句「吾母将通 忘跡念勿」(あれ)も通はむ 忘ると()ふなと訓む。「吾母将通」は「吾(われ)も通(かよ)はむ」と訓む。長歌の末句と表記は違うが同句。表記の違いは、ひとつは、モを長歌では「毛」、反歌では「母」を用いている。反歌では漢文的用法である「将通」の表記を用いている。「将」は「まさに…す」と訓読されるが、ここは「通(かよ)はむ」と訓む。「忘跡念勿」は「忘ると念(おも)ふな」と訓む。「忘」は「忘る」と訓む。「跡」はト。「念」は「念(おも)ふ」と訓む。「勿」はナ。「忘ると念(おも)ふな」は、相聞に多く使われる表現で、「あなたを忘れるなどと思わないで下さい」の意。ここは主君に向かって言っている。敬語表現ではないが、それだけに、主従の親しい関係が窺われる。この言葉の裏には、奉仕のために伺う間隔がたとえ空くことがあってもの意があると考えられる。

 奈良遷都を祝し、この都がいついつまでも続いて欲しいと願い詠っている。

巻1(81)。

題詞
歴史解説
 長田王(ながたのおほきみ)の作歌。「和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢齊宮時山邊御井作歌(五年(いつとせといふとし)壬子(みづのえね)夏四月(うづき)長田王を伊勢の斎宮(いつきのみや)に遣はさるる時、山辺の御井にてよめる歌)。 この題詞は、83番歌まで及ぶと見られるが、83番歌の左注に「右二首今案不似御井所作 若疑當時誦之古歌歟」とあり、82・83の二首は「山辺の御井で作った歌らしくない。あるいは、その時に誦詠された古歌であろうか」としている。作者の「長田王」は、天平初年のころ、風流侍従と評された一人。和銅4年(711)4月、従五位上より正五位下。同8年4月、正五位上。霊亀2年(716)正月従四位下、同年10月近江守。神亀6年(729)正四位下、同年9月、衛門督。天平4年(732)摂津大夫。天平6年2月には、朱雀門前の歌垣で頭をつとめた。天平9年6月、散位正四位下で卒。ここの三首のほか、245・246・248番歌の三首をのこす。題詞にある「齊宮」は伊勢神宮の斎王またはその居所をいうが、ここは後者。元明天皇は、阿閇皇女と呼ばれていた15歳の時に十市皇女と一緒に伊勢神宮を訪れており、その時の斎宮は大伯皇女であった。古代の女帝の御代における斎宮については記録がないため、元明朝の斎宮も誰であったかは分からない。あるいは女帝自身が神祭りの主であったために、派遣は無かったのかも知れない。男子である長田王が伊勢に派遣された理由も目的もわからないが、斎宮の建物の管理のために遣わされたものと考えられる。「山辺の御井」についても諸説あって明らかでない。三重県鈴鹿市山辺町の大井神社の傍に岡があり、泉が二つ北と南にあり、古くからここに山辺の御井の碑があるが、この場所は伊勢神宮への通路からすると往復二十里もの迂回路になることから疑問とされている。他にも三重県の津市久居や松坂市嬉野宮古町という説もあるが確定できない。
原文

 山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃  伊勢處女等 相見鶴鴨

和訳  山辺(やまへ)の 御井を見がてり 神風(かむかぜ)の 伊勢處女(をとめ)ども 相見つるかも
現代文  「山辺の 御井を見に来たのに合わせて(はからずも) 神風吹く 伊勢のおとめたちに 出逢ったことだ」。
文意解説
 発句「山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃」山辺(やまへ)の 御井を見がてり 神風(かむかぜ)の」と訓む。「山邊乃」は「山邊(やまのへ)の」と訓む。3235番歌の「山邊乃 五十師乃御井者」とあるのと同じところと思われ、名井として聞こえていたらしいが、現在その場所を確定することはできていない。「山辺の御井(みゐ)」は当時伊勢神宮の境内にあった名所のひとつだったとする説がある。「乃」はノ。「御井乎見我弖利」は「御井(みゐ)を見(み)がてり」と訓む。「御井」のミは接頭語で井を尊んでいう。水汲み場。「乎」はヲ。「見」は「見(み)」と訓む。「我弖利」はガテリ。「がてり」は「あわせて」、「かねて」の意を表わす上代語で「がてら」より古い形。もともとは、「まぜる」「合わせる」の意をあらわす動詞「かつ(糅)」の連用形に「あり」が続き、音変化を起こしてできた語といわれ、「かてり」と清音だったとも推測される。「見がてり」には色々詳細な注が付いているが、単純に「見がてら」ととっておけばよかろう。「神風乃」は「神風(かむかぜ)の」と訓む。古事記の歌謡十三に「加牟加是能(かむかぜの) 伊勢能宇美能(いせのうみの)」の例により、「神風」は「かむかぜ」と訓む。「神風(かむかぜ)の」で「伊勢」の枕詞。万葉集中「神風の」は6例あるが、すべて伊勢にかかっている。伊勢は風の強い所で、その風を天照大御神の荒魂によって吹く風と見たものか。「乃」はノ。

 結句「伊勢處女等 相見鶴鴨」「伊勢處女(をとめ)ども 相見つるかも」と訓む。「伊勢處女等」は「伊勢(いせ)處女(をとめ)等(ども)」と訓む。「伊勢」は、東海道15か国の一つ。古くから皇大神宮の鎮座地として開け、大化改新で一国となる。以後、平、北畠、織田の支配を経て江戸時代は6藩に分かれ、幕府の直轄地山田には奉行が置かれた。廃藩置県後、安濃津、度会(わたらい)県となり、明治9年(1876)合併して三重県となる。「處女」は既出で、「若々しく生命力の盛んな女。成年に達した未婚の女」の意。「等」はドモと訓む。同種のものが多いことを表わす接尾語。人を表わす場合のタチに比べて、距離を意識しない対象に用いるので、ある時には親愛の情を、ある時には低く見る心情を醸し出す。ここは前者。常識的には伊勢娘子(いせおとめ)は巫女さんたちととれる。が、参拝に訪れてきた娘子たちを指していると思われる。「相見鶴鴨」は「相(あひ)見(み)つるかも」と訓む。「相見」は「相(あひ)見(み)」と訓む。「相見る」は「出逢う」の意。「鶴」はツル、「鴨」はカモの借訓字。

巻1(82)。
 
題詞
歴史解説
 長田王の作歌。この歌は、「山辺の御井で作った歌らしくない。あるいは、その時に誦詠された古歌であろうか」と言われる二首のうちの一首である。
原文

 浦佐夫流 情佐麻<祢>之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者

和訳  うらさぶる 心さまねし 久かたの 天のしぐれの 流らふ見れば
現代文  「うらさびしい気分でいっぱいになります。無限の天空からの時雨(しぐれ)の降り続くのを見ておりますと」。 
文意解説
 「うらさぶる情(こころ)さまねし」は「うらさびしい気分でいっぱいになる」というほどの意。が、歌は倒置表現になっていて、「流れるように降りしきるしぐれを見ていると」が後にもってこられている。この倒置によりうらさびしさがいっそう強調されている。「ひさかたの」はいうまでもなく有名な枕詞のひとつ。
歴史解説  発句「浦佐夫流 情佐麻<祢>之 久堅乃」うらさぶる 心さまねし 久かたのと訓む。「浦佐夫流」は「うらさぶる」と訓む。「うらさぶる」は「心さびしく感じる。何となく楽しまない。心がすさむ。また、さびれおとろえる」の意。「浦」は「心」の意の「うら」を表わすために用いられた借訓字。「浦」は「裏」と同語源の言葉で、海、湖などの湾曲して、陸地に入り込んだ所をいう。「心」の意の「うら」も、意識して隠すつもりはなくても表面にはあらわれず隠れている心を表わし、「裏」と同語源の言葉である。「うらさぶ」が和歌で使われる時は、「浦」を掛けることが多い。ここに「浦」の字が使われていることが、左注を記した編者に「山辺の御井で作った歌らしくない」と思わせた理由の一つかも知れない。「佐夫流」はサブル。「情佐麻祢之」は「情(こころ)さまねし」と訓む。「情」を「こころ」と訓む。「さまねし」のサは接頭語。「まねし」は「度数が多い。度(たび)重なっている。頻繁(ひんぱん)である」の意。「佐麻祢之」はサマネシ。「久堅乃」は「久堅(ひさかた)の」と訓む。「ひさかたの」は「天(あま・あめ)」にかかる枕詞。記紀歌謡にもみえるが、語義およびかかり方は未詳。ただ、万葉集の表記に「久方」「久堅」とあるのは、天や天体を遠い彼方にあって永遠に堅牢であるものとする解釈の反映であることは間違いないと思う。その意を残すために「ひさかた」は平仮名書きとはしない。「乃」はノ。

 結句「天之四具礼能 流相見者」天のしぐれの 流らふ見ればと訓む。「天之四具礼能」は「天(あめ)のしぐれの」と訓む。「しぐれ」は、主として晩秋から初冬にかけての、降ったりやんだりする小雨をいう。この「しぐれ」を詠んでいることが、夏4月に詠まれた「山辺の御井で作った歌」とは季節が合わず、「らしくない」とされた理由の一つと思われる。「しぐれ」に「天(あめ)の」を冠したのは、それが天より降るものであるからで、「天の露霜」(651番歌)の類である。ここの「之」はノ。「四」は数字ではなくシ。「具礼能」はグレノ。万葉集には「しぐれ」を詠み込んだ歌は37首あるが、その表記としては「四具礼」が14例と一番多い。次が「鍾礼」の13例で、他には「之具礼」「志具礼」があるがいずれもレには「礼」が使われている。「能」はノ。「乃、之、能」と書き分けが行われており、近接する同音の用字を変える「変字法」の一例である。「流相見者」は「流れ相(あ)ふ見れば」と訓む。「流相」は「流(なが)れ相(あ)ふ」と訓む。「流れ相ふ」は、「しぐれ」が降るさまを表現したもので、雨の降るのを「流る」と詠んだ例は他にない。「見者」は「見レバ」と訓む。

巻1(83)。
 
題詞
歴史解説
 左注に「右二首今案不似御井所作 若疑當時誦之古歌歟(右ノ二首ハ、今案(カムガ)フルニ御井ノ所ノ作ニ似ズ。若疑(ケダシ)当時誦セル古歌カ)」。82番歌と同様この歌も、「山辺の御井で作った歌らしくない。あるいは、その時に誦詠された古歌であろうか」と言われる一首である。この歌、技巧的に見えるがさにあらず。歌意が素朴で直情的。五、七、七の下三句で足りる所を上二句を加えて歌に仕立てようとしたもの。素直な詠いっぷりに好感が持てる。
原文

 海底 奥津白波 立田山 何時鹿越奈武  妹之當見武

和訳  海(わた)の底 沖つ白波 立田山(たつたやま) いつか越えなむ 妹があたり見む
現代文  「白波がたつ沖を越えると立田山(たつたやま)が待ち受けている。ああ早くこの山を越えて妻が待つ故郷(くに)辺りに辿り着きたいものだ」。
文意解説  発句「海底 奥津白波 立田山」海(わた)の底 沖つ白波 立田山(たつたやま)と訓む。「海底」は「海(わた)の底」と訓む。「わたのそこ」は、万葉集に11例あり、その内の10例は「海底」又は「海之底」の表記だが、1例だけ仮名書きの例がある。長歌の813番歌に「和多能曽許(わたのそこ) 意枳都布可延乃(おきつふかえの)」とあるのがそれである。「海(わた)の底」は、海底の奥深い所の意で、「奥(おき)」と同音の「沖」にかかる枕詞。「奥津白波」は「奥(おき)[沖]つ白波(しらなみ)」と訓む。「おきつしらなみ」は、万葉集に14例あるが、漢字表記と仮名書きがそれぞれ7例ずつである。漢字表記は全て「奥津白波(浪)」(津が欠けているのが1例あるが)であり、「おき」には「奥」が宛てられている。「奥(おき)[沖]つ白波(しらなみ)」は、沖に立つ白い波。白波が立つというところから、「立つ」と同音を含む地名「立田山」の、また、「白波」の「しら」と同音の「知らず」の序詞として用いられることもある。「立田山」は「立田山(たつたやま)」と訓む。「立田山」は「龍田山」とも書かれ、奈良県北西部の生駒郡三郷町と大阪府との境にある山で、信貴山に連なる。古来、大和国と河内国とを結ぶ交通路のうち最も利用度の高い道が、この山を越えていた。奈良朝の人々が西国の旅において帰郷の目途にしたのがこの立田山である。紅葉(もみじ)の名所としても聞こえ、大坂夏の陣の古戦場の一つでもある。序詞を伴って「立田山」を詠っているこの歌を「山辺の御井で作った歌らしくない」と見たのは当然のように思われる。

 結句「何時鹿越奈武  妹之當見武」いつか越えなむ 妹があたり見むと訓む。「何時鹿越奈武」は「何時(いつ)か越えなむ」と訓む。「何時鹿」の「鹿」はカで「何時(いつ)か」と訓む。未来および過去の事がらに関して、それがどの時点であるかはっきりしないことを表わす。「越」は「越(こ)え」と訓む。「奈武」はナム。「何時越えられるのであろうか」の疑問の表現であるが、「早く越えて帰りたい」の意を裏に持つ。「妹之當見武」は「妹があたり見む」と訓む。ここの「妹」は家に残してきた愛しい妻の意。「之」はガ。「當」は「あたり(辺り)」を表わすための借訓字。「妹があたり」は、「家のあたり」と共に、恋歌・望郷歌の「見る」対象の中心とされており、用例が多い。「見」は「見(み)」と訓む。「武」はム。

 この歌も、82番歌同様「山辺の御井で作った歌らしくない」というのはその通りで、4月の伊勢での作とは到底考えられない。また「あるいは、その時に誦詠された古歌であろうか」についても、正鵠を射たものであると言えよう。当時旅先の宴では、土地の物をほめる歌と旅愁(望郷の念)を述べる歌とが同時に歌われ、その双方が揃うことで安全な旅が遂げられるという考えがあった。ここもそれで、81番歌は旅先の清浄にしてめでたい物をほめる歌、81・82番歌が古歌を利用した旅愁の歌である。この三首に共通するのは、どの歌にも「見る」の語があることであるが、これは、旅先にあって詠まれる歌の伝統ともいえる。他に三首がつながることと言えば、第一首の「御井」、第二首の「しぐれ」、第三首の「白波」ということで「水」の縁でつながっていることも、考えられる。また、歌の場「伊勢山辺」が「もみち」の名所であったことから、第一首の御井讃歌に第二首「しぐれ」の歌・第三首「立田山」の歌を呼び込んだ契機は「もみち」を媒介とする連想の糸ではないかとする説もある(村田正博「長田王の歌」『万葉集を学ぶ』第一集)。

巻1(84)。

題詞
歴史解説

 長皇子の作歌。「寧樂宮 / 長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌(長皇子(ながのみこ、天武天皇の皇子)が志貴皇子(しきのみこ、天智天皇の皇子)を邸宅に招いて倶宴(うたげ)を催している時の歌)」。この歌の左注に「右一首、長皇子」とある。つまり、長皇子が邸宅から見える高野原を志貴皇子に説明している歌である。 長皇子(ながのみこ)が佐紀宮で志貴皇子と共に宴を設けた時の歌であることが分かる。この宴での歌はこの一首のみしか採録されていないが、左注にわざわざ「右一首長皇子」と記されている所からすると他にも詠まれた歌があったものと思われる。現に、『元暦校本』『紀州本』などの目録を見ると、「長皇子御歌」の左に「志貴皇子御歌」の1行があり、もと志貴皇子の歌もここに記録されていた可能性が高い。巻八の「春雑歌」冒頭の志貴皇子の歌(1418)をそれと推測する説もあるが、明らかではない。本歌の作者である長皇子は、既に60・65・73番歌の作者として登場済み。天武天皇の第四皇子で、同母弟に弓削皇子がおり、志貴皇子は従兄弟にあたる。志貴皇子は、51・64番歌の作者として既出。題詞の「寧樂宮(ならのみや)」は、和銅3年(710)から延暦3年(784)11月に長岡京に遷都するまでの宮であり、聖武天皇の御代に一時的に山背国恭仁と難波に都がおかれたことはあるが、元明~光仁の七代と桓武の初期3年あまりの宮殿。今まで見てきたこの種の標題は、全て「…の宮に御宇天皇の代」とあったが、ここでは「寧樂宮」とのみある。「寧樂の宮時代」の意で記されたものであることは間違いないが、どうしてこのような記載になったのか疑問の残る所である。この題詞を書いた編者が「寧樂の宮」と同時代であったからではないかとする説が当たっているようにも思う。「佐紀宮(さきのみや)」は長皇子の宮で、佐紀は現在の奈良市佐紀町を中心とするあたりで平城京跡の北方の地をいう。

原文  秋去者 今毛見如 妻戀尓 鹿将鳴山曽 高野原之宇倍
和訳  秋さらば 今も見るごと 妻恋に 鹿()鳴かむ山そ 高野原(たかのはら)の上
現代文  「秋になると、(今も見るごと)牝鹿を恋うて牡鹿が鳴くという山が恋しい」。
文意解説
 発句「秋去者 今毛見如 妻戀尓」秋さらば 今も見るごと 妻恋にと訓む。「秋去者」は「秋さらば」と訓む。「秋になったら」の意。「秋」は、現在では9月から11月、旧暦では7月から9月までをいう。天文学的には秋分から冬至の前日まで、二十四節気では立秋から立冬の前日までをいう。太陽が次第に南下するため、昼は短く夜は長くなる。前半、台風の襲来、霖雨(りんう)などをみるが、後半は快晴に恵まれる。五穀がみのり、大気の澄んだ季節であり、また、草木が紅葉、落葉し、冬を前に、物の哀れの身にしむ季節でもある。「去」は「去(さ)ら」と訓む。移動する意で、古くは近づく場合にも遠ざかる場合にも使われた。季節や時を表わす語のあとに付けて「その時、季節になる」の意。「者」はバ。なお、「去者」は「去れば」とも訓めるが、ここは「鳴かむ」の推量ムに対応しており、仮名書き例を見ると「去れば」とあるものにムと承けるものはなく、ムと承けるものは全て「去らば」とあることから、ここも「去らば」と訓む。「今毛見如」は「今も見る如(ごと)らば」と訓む。作者がいつ、どういう境地でこの歌を詠んだのかという疑問が生じ、いろんな解釈が行われている。歌を詠んだ時期につき、秋説、夏説、春説と様々に推測されている。「毛」はモ」。「如」は「ごとく。ように。同じく」の意。この句は、訓みは簡単で口訳も「今も見るように」で問題ないと思われるが、「今」とは何時で、「見る」とは一体何を見ているのかという根本的な疑問が残る。この歌の宴に参加していた人には当然分かっていたのであろうが、歌全体の解釈に影響する問題であり、古来より諸説がある。「妻戀尓」は「妻(つま)戀(ご)ひに」と訓む。「妻(つま)戀(ご)ひ」は名詞で、夫婦または雌雄が互いに相手を恋い慕うことをいう。「尓」はニ。

 結句「鹿将鳴山曽 高野原之宇倍」鹿()鳴かむ山そ 高野原(たかのはら)の上と訓む。「鹿将鳴山曽」は「鹿(か)鳴(な)かむ山(やま)そ」と訓む。「鹿」は「鹿(か)」と訓み、「しか」の一般的名称を表わす。本来は、牡鹿をシカ、牝鹿をメカと言ったが、シカが「鹿(か)」と同様「しか」の一般的呼称を兼ねるに及んで牡鹿を「雄(を)鹿(しか)」、「さ雄(を)鹿(しか)」と呼ぶようになった。「将鳴」は「鳴(な)かむ」と訓む。「曽」はソ。「高野原之宇倍」は「高野原(たかのはら)のうへ」と訓む。「高野原」は、長皇子の邸宅「佐紀宮」(題詞)のあった奈良市佐紀町の北にあたり、今も小高い丘になっている。「之」はノ。「宇倍」はウヘ。「うへ=上」を表わす。

 84番歌につき、作者がいつ、どういう境地でこの歌を詠んだのかという疑問が生じ、いろんな解釈が行われている。古く江戸時代の注釈書では、鹿持雅澄『萬葉集古義』に「此の宴をせさせ給ふは秋時なるべし、されば又も秋になりなばの意とみべし」とあり、富士谷御杖『萬葉集燈』には、「此飲宴したまひしは春夏のほどなりけるなるべし」とある。また、やや詳しく論じたものに近藤芳樹『萬葉集註疏』があり、ここの「秋」は「物寂しい時節」の意であることを述べた上で、この宴は6月末から7月の始めの頃であるとし、「見る如」は二人の皇子が打ち解け、相対見給う意で、「二句見如の下に宴せんといふ言を加へて一首の意を味ふべし」と述べている。明治以降の注釋書では、菊地壽人『萬葉集精考』が「今も見る如」の用例をあげて、…いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見る如(3991)、とこ世もの この橘の いや照りに わご大君は 今も見る如(4063)、はしきよし けふの主人は 磯松の 常にいまさね 今も見る如(4498)。これらの「見る如」の語は意義軽くかつ広く、今「あるごと」(このように、の意)という如き心ばえで、「来る秋毎にあのやうに鹿の鳴くべき山でありますぞ」というほどの意ではないか、としている。従来の説と全く違う説を唱えたのが、山田孝雄『萬葉集講義』であるが、澤瀉『萬葉集注釋』がその論を要約している部分を次ぎに引用する。
 これらの諸説に對して最も論理的に新見を提示されたのは講義であり、「秋さらば…鹿鳴かむ」と云つてゐる以上秋ではない、しかも「今も見る如」と云へば鹿の鳴くさま現に見てゐるのである。しかもまた鹿の鳴くのは「聞く」のであつて、「見る」のでない。それを「見る」といふのは「鳴くさま」を見てゐるのである。即ち秋でなくて、鹿の鳴くのを目で見るといふ事は、實景でなくて、「その状をかたどれる物を見たるなりといふべきにあらずや」といふ結論に導かれ、…略

 澤瀉『萬葉集注釋』は、このように講義の説を要約して、その説は誠に理路整然としているとしながらも、自分の意見として、次の三つの点で異論を述べている。
一.「秋さらば」は未然である。従つて作者はその「秋」以前にゐる、即ち、夏かも知れない、春かも知れない、冬かも知れない。さてそれが認められるならば、そのも一つ前の秋でわるいといふ法はない。今眼前に鹿の鳴くのを見て、また秋が来たらこのやうに、といふに何の不思議もない。…略
二.「鹿の鳴く」のは聞くべきものには違ひないが、見るものでないとは云へない。眼前に鹿が鳴いて居れば我々はそれを見るのであって、聾でもなければおのづから耳はその聲を聞くのである。だから丁寧にいへば「見且つ聞く」のであるが、今の我々も一々鹿の鳴くのを見かつ聞くなどとそんなばかばかしい事は云はない。鹿の聲だけを聞くのならば「聞く」といふのは當然であるが、鹿の姿を眼前に見て居れば、鹿の鳴くのを見るといふのは常識である。視覺は聽覺に優先することは昔も今も同じである。「今も聞く如」とすれば鹿の姿はかくれてしまふ。所は佐紀の宮である。次に述べる高野原の上である。聲のみを聞く都人士には珍しい鹿の姿がここには眼前に見られるのである。この宮のあるじと思はれる作者にとつては「今も見る如」こそなくてならない言葉である。…略
三.更に蛇足を添へれば、作り物や繪畫であれば「今も見る如」よりも「ここに見る如」の方が適切であらう。飾り物の鹿と生きた鹿とであれば、「これ」と「あれ」である。同じ鹿が時をへだてて鳴くから「今」であり「あきさらば」となるのである。

 以上のように述べて、澤瀉『萬葉集注釋』は、最初にあげた鹿持雅澄『萬葉集古義』の解によるべきだと結論づけている。同じ立場を取る新日本古典文学大系は、この歌の脚注に次のように記す。
 歌の歌意は、安藤正次「万葉集「八四」の歌について」(著作集四)による。「この佐紀宮の宴は、秋の季節に催されたものであり、この歌は、宮近く鳴く鹿に感興をおぼえられた長皇子が、いささか誇りかに宮地の景勝をうたはれたものと解すべきであらう」。「今も見るごと」の句に、今眼前で見ているように、秋が来るたびに必ずという予祝の意を込めた祝言の歌である。





(私論.私見)