長歌。「
『万葉集』を訓(よ)む(その501)」その他を参照する。
初句
「皇神祖之 神乃御言乃 敷座」は
「皇神祖(すめろき)の 神(かみ)のみこと[命]の 敷(し)き座(いま)す」と訓む。「皇神祖之・神乃御言乃」は「皇神祖(すめろき)の 神(かみ)のみこと[命]の」と訓む。この句は、29番歌の「天皇之 神之御言能」と表記は違うが、4089番歌の「須賣呂伎能(すめろきの) 可未能美許登能(かみのみことの)」の例により同じように訓まれる。「すめろき」は、「皇祖神、皇神祖、皇祖」などと書かれ、「皇祖である天皇」を主として言う言葉であるが、その皇祖より受け継いだ「当代の天皇」についても言うようになった。29番歌の場合は「天皇」という表記なので「当代の天皇」を意味したが、ここは「皇祖神」とあるので本来の「皇祖である天皇」の意である。「之」はノ。「すめろき」を別の表現で言い換えたのが「神乃御言」で、「神(かみ)のみこと[命]」と訓む。「みこと」のミは接頭語で本来は「御事」の意。「…のみこと」の形で、神や天皇などの高貴な人に対し尊敬の意を表わすのに用いる。普通名詞に添える場合と固有名詞に添えて接尾語的に用いる場合とがあり、漢字表記では「尊」又は「命」と書かれる。「乃」はノ。「敷座」は「敷(し)き座(いま)す」と訓む。「敷」は「敷(し)き」。ここの「しく」は「治める。支配する」意。「座」は、「ます」とも「います」とも訓むことは167番歌などに既出例があるが、ここは「座(いま)す」と訓む。尊敬を表す補助動詞として用いたもので、「敷(し)き座(いま)す」で以て「お治めになっていらっしゃる」の意。
2句
「國之盡 湯者霜 左波尓雖在」は
「國の盡(ことごと) 湯(ゆ)はしも さはに在(あ)れども」と訓む。「國之盡」は「國の盡(ことごと)」と訓む。ここの「國(くに)」は「行政上の一区画をなした土地の称」の意。「之」はノ。「盡」は「ことごと」と訓み、「残らず、全て」の意で、「~之盡」の形でよく使われる。既出例として、「神之盡、日之盡、夜之盡」がある。「國(くに)の盡(ことごと)」は「どこの国にも。国中。国という国にはみな」の意。「湯者霜 左波尓雖在」は「湯(ゆ)はしも さはに在(あ)れども」と訓む。ここの「湯(ゆ)」は「温泉」の意。和名抄に「温泉」に注して「一云温泉、和名由(ゆ)」とある。「者」はハ。「霜」はシモ。「左波尓雖在」は36番歌の「澤二雖有」と表記は異なるが同句。「左波尓」はサハニと訓み、「さは」は「多いさま。たくさん。あまた」の意。「雖在」は「在(あ)れども」と訓む。「湯(ゆ)はしもさはに在(あ)れども」は「温泉はたくさんあるけれども」の意で、「その中でも特に何々が良い」と続けて多数あるなかの一つをほめる、土地ほめ歌の類型的表現である。
3句
「嶋山之 宜國跡 極此疑」は
「嶋山(しまやま)の 宣(よろ)しき國(くに)と こごしかも」と訓む。「嶋山之 宣國跡」は「嶋山(しまやま)の 宣(よろ)しき國(くに)と」と訓む。「嶋山(しまやま)」は「水に臨んだ地の山」をいう。ここは海上から伊豫の山々を眺めて「嶋山(しまやま)」と言ったもの。「之」はノ。「宣」は「よろし」で、ここは「宣(よろ)しき」と訓む。「よろし」は「好ましい、ふさわしい」の意。ここの「國」は「伊豫の國」をさす。「伊豫」は、「道後温泉にちなんだ「いゆ」(「い」は発語、「ゆ」は湯)から転じた」といわれ、「南海道諸国の一つ。古くは伊余・伊与・夷与にもつくる。五国造の領域を合わせて成立。平安初期には十四郡から構成された(和名抄)。中世には、佐々木、宇都宮、細川、河野氏などが守護となり、天正一二年(一五八四)長宗我部氏が統一、翌年の豊臣秀吉の四国平定後、小早川氏の支配となった。江戸時代には、松山、宇和島、今治など八藩が分立。廃藩置県により、愛媛県となる。予州」(日本国語大辞典による)。「跡」はト。「極此疑」は「こごしかも」と訓む。「極此」は「こごし」を表すのに宛てたもの。「此」はシ。「極」を何故コゴの音に宛てたのであろうか。これについて新編日本古典文学全集は、322番歌の頭注に「コゴの原文『極』は『万象名義』に『高也、遠也、窮也』とあり、意味の上からと、呉音ゴク(ゴコ)の音からとの両面を兼ねた用法」としている。「こごし」は、301番歌2句「凝敷山乎[こごしき山(やま)を]」で既出、「岩がごつごつしていて険しい」ことをいう。「疑」は、賀茂真淵『萬葉考』に疑う意の義訓として「かも」と訓み、以来諸注これに従っている。「疑」及び「疑意」を「かも」と訓む例は、他にも「鴈宿有疑(かりねたるかも)」(2135番歌)、「秋夜之 月疑意君者(つきかもきみは)」(2299番歌)、「零之雪疑意(ふりしゆきかも)」(2324番歌)などがある。「こごしかも」は連体格として次の句を修飾する。「極此」は「神々しい」の「こごし」と訓むべきではなかろうか。
4句
「伊豫能高嶺乃 射狭庭乃」は
「伊豫(いよ)の高嶺(たかね)の 射狭庭(いざには)の」と訓む。「伊豫能高嶺乃」は「伊豫(いよ)の高嶺(たかね)の」と訓む。「伊豫(いよ)」は先述。「能」はノ。「高嶺(たかね)」は「高い峰。高い山のいただき」をいう。「伊豫(いよ)の高嶺(たかね)」は、石鎚山(1921メートル)及びその続きの山をさす。「乃」もノ。
5句
「崗尓立而 敲思 辞思為師」は
「崗(をか)に立(た)たして 歌(うた)思(おも)ひ 辞(こと)思(おも)ほしし」と訓む。「崗尓立而」は「崗(をか)に立(た)たして」と訓む。「尓」はニ。「立而」は、「立(た)たして」。「崗尓立而」は「崗(をか)に立(た)たして」と訓む。「射狭庭(いざには)の崗(をか)」は、松山市道後温泉の裏にある伊佐尓波神社の岡(約70メートル)で、赤人はこれを石鎚山に続くものとして詠ったものと考えられる。ここで「伊豫(いよ)の高嶺(たかね)の射狭庭(いざには)の崗(をか)」について、西宮『萬葉集全注』が述べているところを見ておこう。
「伊予の高嶺」については諸説があったが、武智雅一の、石鎚山脈、特に道後の東北に近い高縄山・福見山また射狭庭(いざには)の背景としてそびえる山々をいうとする説(「『伊予の高嶺』私考」万葉昭和三十年七月)が認められるようになった。そこで、「高嶺の」のノは、その山々に続いて存在する、の意と解して、次の「射狭庭の岡」(愛媛県松山市道後温泉の裏にある伊佐尓波神社の岡と湯月城趾の岡。海抜七十メートルほどの小丘)との地理的関係が理解できるわけである。ところが近年奥村恒哉は、「こごしかも伊予の高嶺」と言えば「石鎚山」をさすより外はないこと、そして「高嶺の射狭庭の岡」という表現からは石鎚山の中に射狭庭の岡があるとしなければならないが、現に道後温泉から石鎚山は遠きに過ぎて視野に入らないので右の説は無理だとし、「伊予の高嶺」に歌枕的性格を認め、「石鎚山」の名に「石土毘古(イハツチビコ)命」(記上巻)の巨石信仰があり、神代以来の聖域として、石鎚山及び比較的近距離にある道後周辺の山々が考えられたので、赤人の「こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡」の表現があるのだと考え、「赤人は道後温泉の周辺の山々を見ていたのであるが、同時に石鎚山の神を見ているのである。また、そうすると、射狭庭の岡も石鎚山の一部分となるのである」。 |
(「こごしかも伊予の高嶺」国語国文昭和五十五年二月)。首肯できる説と思われる。すなわち石鎚山の一峯として赤人が認めたのだ、ということを理解させてくれる論文である。以上引用したのでわかるように、現在では奥村恒哉の説がほぼ定説になっている。歌を理解するにおいては散文理解とは違った思考が求められることが、この例でよくわかる。
「歌思 辞思為師」は「歌(うた)思(おも)ひ 辞(こと)思(おも)ほしし」と訓む。この二句には、今まで種々の訓がある。旧訓のウタフオモヒ・イフオモヒセシでは全く意味をなさないので、下河辺長流『萬葉集管見』にウタオモヒ・コトオモヒセシ、賀茂真淵『萬葉考』にウタシヌビ・コトシヌビセシ、本居宣長『玉の小琴』にウタオモヒ・コトオモハシシ、荒木田久老『萬葉集槻乃落葉』にウタオモヒ等と訓まれている。また、「歌」を「敲」の誤字とする説(武田祐吉『萬葉集全註釈』)もある。これらの説を踏まえて、西宮『萬葉集全注』は、次のように述べている。
塙本では、全註釈説「敲思(ウチシノヒ) 辞思為師(コトシノヒセシ)」(言語を以て思慕追憶される)に従って、「敲思(ウチジノヒ) 辞思為師(コトオモホシシ)」としたが、古典全集では「歌(うた)思(おも)ひ 辞(こと)思ほしし」とする。諸本に異同がないので、「歌・辞」の文字で考えるのがよい。その場合、二つの「思」を同じくオモフと訓むのか。一方をシノフで訓むかで上の如く種々の訓となった。そこで「歌辞」についてみると、例えば四三七番歌の左注に「歌辞相違(あひたが)ひ、是非(ぜひ)別(わ)きがたし」とあるように、歌の文句の意である。ここではその「歌辞」を「歌」と「辞」との二つに分けて言っているに過ぎず、しかも内容的には歌を作られたことをさしているのであるから、二つの「思」はオモフと訓むべきで、シノフではないと言うべきである。すなわち、「歌の文句を案ずる」意である。 |
以上の西宮の論に賛同して、「歌」「辞」は、それぞれ「うた」「こと」と訓み、二つ「思」は、共にハ行四段活用の他動詞「おもふ」で、13句の「思」は連用形で「思(おも)ひ」、14句の「思」は未然形「思(おも)は」だが、ハが前の母音に引かれてホに転じて、「思(おも)ほ」と訓む。「為」は「し」の訓仮名で、尊敬の助動詞「す」の連用形「し」に、「師」はシ音の音仮名で、過去の助動詞「き」の連体形の「し」に用いたもの。ところで、12句~14句の「崗(をか)に立(た)たして 歌(うた)思(おも)ひ辞(こと)思(おも)ほしし」の主語は誰なのであろうか?阿蘇『萬葉集全歌講義』は「三つの動詞の主語は、この地に行幸した人々。聖徳太子・舒明天皇などのほか、額田王なども含むか。」としている。1句・2句の「皇神祖(すめろき)の神(かみ)のみことの」の詠い出しの流れからは、この地に行幸し歌を詠んだ歴代の天皇等をここの主語と見る見方はできるであろう。ただし、ここの主語は斉明天皇であると見る説も多い。西宮『萬葉集全注』は、本歌(322番歌)の作歌事情として「赤人が道後温泉に到着し、その昔の行幸のことを偲(しの)び、昔と変わらぬ行宮の跡を賛美した歌である。その行幸として比定されるのは、斉明天皇の行幸の時(六六一年)で、その斉明天皇がその昔夫君の舒明天皇と伊予に来られた時(六三九年)のことを偲んで作歌されたその事を赤人が題材にしていることになる」と述べ、八番歌の左注にも言及した上で、「歌思ひ辞思ほしし」の主語は「斉明天皇と考えてよい。」としている。また『新編日本古典文学全集』の頭注にも「歌思ひ辞思ほししー斉明天皇の七年(六六一)天皇が夫君舒明天皇とこの地に遊んだ往時を偲び歌を作った(八左注)ことをいうか。」とある。確かにここの主語を斉明天皇だと考えても間違いではないが、斉明天皇に特定せず、この地に行幸されて歌を詠まれた歴代の天皇と見た方が歌の趣旨にあうように思われる。
6句
「三湯之上乃 樹村乎見者」は
「み湯(ゆ)の上(うへ)の 樹(こ)むら[群]を見れば」と訓む。「三」はミ。「み湯(ゆ)」は、道後温泉のことを言ったもの。「之」はノ。ここの「上(うへ)」は「あるものの付近。辺り。ほとり」の意。「乃」はノ。「樹村」は「樹(こ)むら[群]」と訓み、「木の群がり立っていること。また、その所。木のむれ。あるいは、樹木の枝葉が入り組んでいて、その下の陰になった所」をいう。「村」は「むら[群]」で、既出例には、「村山、村肝、磐村、村、阿遅村、槻村」がある。「乎」はヲ。「見者」は「見れば」。
7句
「臣木毛 生継尓家里」は
「臣(おみ)の木(き)も 生(お)ひ継(つ)ぎにけり」と訓む。伊予国風土記の逸文に「岡本(をかもと)の天皇(すめらみこと)と皇后との二躯(ふたはしら)を以ちて一度とす。時に大殿戸(おほとのど)に椹(むく)と臣(おみ)の木とあり。その木に鵤(いかるが)と此米(しめ)との鳥、集(すだ)き止まれり。天皇、この鳥が為(ため)に枝に稲穂(いなほ)どもを繋(か)けて養(やしな)ひ賜(たま)ふ」(新編古典日本文学全集による)とあって、「臣(おみ)の木(き)」の名が見えるが、「臣(おみ)の木(き)」については、未詳とする説と樅の木のことだとする説がある。樅の木説は、由阿『拾遺采葉抄』に「モミノ木歟」といい、契沖『萬葉代匠記』にも「臣木ハモミノ木ナルベシ。於ト毛ト同韻ニテ通ゼリ」とあり、本居宣長『玉の小琴』には「師云、樅の木也、古へ樅栂などを凡て、おみの木と云しをやゝ後に樅をば眞おみと云、まお、を約むればも也」と説明されている。「毛」はモ。「生」は、「生(お)ひ」。「おふ」は「(草木・毛などが)はえる。生じる」ことをいう。「継」は「継(つ)ぎ」。「尓家里」はニケリ」。先に引用した伊予国風土記の逸文は、舒明天皇の行幸(639年)のおりの話を記したものであるが、本歌は、それから百年近くの歳月を経ての作である。「その間には天武紀十三年(684)十月十四日の条に見える全国的大地震のため『時に伊予の温泉(ゆ)没(うも)れて出(い)でず』といった災害もあり、臣の木も枯れたりしたかも知れないが、ともかく新しい臣の木が生えかわっていたわけである」と西宮『萬葉集全注』は注している。
8句
「鳴鳥之 音毛不更」は
「鳴(な)く鳥(とり)の 音(こゑ)[声]も更(かは)[変]らず」と訓む。「鳴」は「鳴く」。「ね(音)」と同語源の「な」が動詞化したもので、生物が種々の刺激によって声を発することをいう。「鳥」は鳥の全形を象った象形文字。「之」はノ。「音」は「おと」とも「こゑ」とも訓むが、ここは「こゑ」と訓む。今は「こゑ」は「声」と表記し、「音」は「おと」として使い分けている。「毛」はモ。「不更」は「更(かは)らず」と訓む。「更」は「変更」という二字熟語が示すように「変」と同義だが、今では普通「変」が使われる。「更」の訓は多く、名義抄には「更。タガヒニ・サラニ・カサヌ・カサナル・ニハカナリ・カタヘ・アヤマル・カヘル・マタ・アラタム・アタラシ・カフ・カハル・カハルカハル・チナミ・フル・タガヒ・アカツキ・フ・ツグノフ」とある。
結句
「遐代尓 神左備将徃 行幸處」は
「遐(とほ)[遠]き代(よ)に 神(かむ)さび徃(ゆ)かむ 行幸處(いでましところ)」と訓む。「遐」の字は、名義抄に「遐。ハルカニ・ハルカナリ・サカル・サク・トホシ・ユク・アソブ」とあり、ここは「遐(とほ)[遠]き」と訓む。「遐(とほ)[遠]き代(よ)」は、過去に対しても将来に対しても言いうる言葉で、ここでは将来に対して言ったもので、「遠い末の世までも」の意。「尓」はニ。「神左備」は既出。「左備」はサビ。「神(かむ)さび」は「かむさぶ」の連用形、「神にふさわしい。神々しい。神らしく振る舞う」ことをいう。「将徃」は「徃(ゆ)かむ」と訓む。「行幸處(いでましところ)」は、295番歌5句「幸行(いでまし)處(ところ)」や315番歌11句「行幸(いでまし)之宮(みや)」と同じで、「天皇など高貴な人が旅に出て、滞在される場所。行幸される所」の意。