万葉集巻3

 (最新見直し2011.8.25日)

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 2011.8.28日 れんだいこ拝


【巻3】
 第3巻は、雑歌百五十五首(235~389)・譬喩歌二十五首(390~414)・挽歌六十九首(415~483)の合計二百四十九首を採録している。235-483まで。235-295、296-336、337-407、415-483に分かれる。第3巻は雑歌(ぞうか)、譬喩(ひゆ)歌、挽歌(ばんか)で構成されている。ここでは、235-295、296-336を採り上げる。万葉集読解19、万葉集読解20、万葉集読解21、万葉集読解22、万葉集読解23、万葉集読解24、万葉集読解25、万葉集読解26を参照する。

【巻3(235)。】
題詞  柿本朝臣人麿の作歌。「天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」(「天皇が雷岳(いかづちのおか)に御遊(いでま)しし時に、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)の作れる歌一首」)。これより巻三に入る。頭書に「雑歌」とある。ここで詠う天皇の御名が記されていないので天皇一般を讃えて詠んだ歌と伺うべきだろう。この「天皇」は、天武・持統・文武のいずれかであることには違いないにしても確定することはできない。しかし、左注に「右或本云獻忍壁皇子也 其歌曰 王 神座者 雲隠伊加土山尓 宮敷座」とあって、忍壁皇子に献じたという本歌の類歌を記していることからすると、本歌は持統朝の作と考えるのが自然で、この類歌を改作する形で、人麻呂は持統天皇の雷岳行幸の際に誦詠したものと思われる。雷岳は、奈良県高市郡明日香村にある高さ約十メートルほどの小丘で、飛鳥川をはさんで南の甘橿丘に対している。「王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座」(王(おほきみ、大君)は 神(かみ)にし座(ま)せば 雲隠る いかづち(雷)山(やま)に 宮敷(みやし)き座(いま)す)(大君は 神であられるので 雲に隠れる 雷山に 宮を構えておられる)。阿蘇『萬葉集全歌講義』は、この異伝(「ある本歌」)と本歌を較べて次の様に述べている。
 「ある本歌」は、類似の表現で詠まれてはいるが、「天雲の」と「雲隠る」、「雷の上に」と「雷山に」、「庵らせるかも」(③説を採っている)と「宮敷きいます」、そのどれをとっても本文歌の方が格調が高く優れている。ある本歌は、「雷山に宮敷きいます」が現実的であるだけに「雲隠る」が浮き上がって、言葉の上だけの誇張ないしは遊びといった感がある。
原文  皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為<流鴨>
和訳  皇(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷の上に 廬(いほり)せるかも
現代文  「天皇は神であられるので、天雲にとどろく雷神の更に上に仮宮しておられるよ」。
文意解説
 発句「皇者 神二四座者 天雲之」「大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の」と訓む。「皇者」は「皇(おほきみ、大君)は」と訓む。「皇」は旧訓にスメロキとあったのを萬葉考にオホキミと改訓。スメロキは皇祖の天皇又は皇統の意で、「皇祖、皇祖神、皇神祖」などと表記されていて、「皇」一字での表記例はない。題詞に「天皇」とあって、現天皇を意味しているのでオホキミと訓むべきであろう。「者」はハ。「神二四座者」は「神にし座(ま)せば」と訓む。この句は「神西座者」と二シの表記は違うが同句。「二、四」は数字として用いられるが、ここではニシとして用いられている。「座」は「座(ま)せ」。「ます」は「ある、いる」の意の尊敬語。「者」はバ。「天雲之」は「天雲(あまくも)の」と訓む。「天雲(あまくも)」は「空の雲」の意。「之」はノ。

 結句「雷之上尓 廬為<流鴨>」「雷の上に 廬(いほり)せるかも」と訓む。「雷之上尓」は「雷(いかづち)の上に」と訓む。「雷」は、「雷丘」であると同時に、歌の中では「雷神」の意味をも持つ。「之」はノ。「上(うへ)」は指示文字で、空間的に高い位置をいう語。「尓」はニ。「廬為流鴨」は「廬(いほり)為(せ)るかも」と訓む。この句を、阿蘇「萬葉集全歌講義」によって整理すると、①イホリスルカモ、②イホリセルカモ、③イホラセルカモ、④イホリセスカモの四通りの読み方がある。ここでは②を採る。「流」はル。「鴨」は詠嘆のカモ。雷岳(いかづちのおか)というのは明日香村にある丘の名である。廬(いほり)は臨時に用意された仮宮。
歴史解説  天武天皇が壬申の乱で勝利した後、律令制度が確立され大和朝廷による中央集権化が進む。この歌の歌碑が雷丘の前の道を少し北に行った道沿いにある。

【巻3(236)。】
題詞  「天皇賜志斐嫗御歌一首(天皇の志斐(しひ)の嫗(おみな)に賜(たま)へる御歌(みうた)一首)」。この歌は嫗に直接賜ったとあり、天皇の嫗に対する感謝の情を述べた歌と云うことになる。天皇の御製と知れるが何天皇なのかは分からない。天武・持統・文武のいずれかであることには違いないにしても確定することはできない。持統天皇が中臣志斐に対して詠んだ戯れの一首と解されている。志斐(しひ)は嫗(おみな)とあるので相当年配の女性だと分かる。天皇のそばにいて長らく身の回りの世話をしてきた女性と思われる。「志斐」氏に関する話しが新撰姓氏録に次のように記載されている。
 「天武天皇の時代に、「名代」という者が、楊の花を天皇に献じ、天皇が何の花かと聞くと辛夷の花だと言い、他の人々がこれは楊の花だと言っても、「名代」はなお強いて辛夷の花だと奏上したので、「安倍志斐連」の姓を賜った」。
 この話は本問答歌と無関係ではないように思われ、「志斐」という氏の名に興を催されての御歌と考えられる。
原文  不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里
和訳  いなと言へど 強ふる志斐のが 強ひ語り このころ聞かずて 朕(われ)恋ひにけり
現代文  「もう聞きたくないと言っているのに、志斐(しひ)が強いて聞かせようとしてきた。このごろ聞かせようとしないので久しぶりに聞きたくなったよ」。
文意解説  発句「不聴跡雖云 強流志斐能我 強語」「いなと言へど 強ふる志斐のが 強ひ語り」と訓む。「不聴跡雖云」は「いな[否]と云へど」と訓む。「私はもう聞きたくないというのに」の意である。「不聴」について萬葉代匠記は「聴ハ、聴聞ノ聴ニアラス、聴許ノ聴ナリ。此ノ集ニ不欲ヲイナトヨミ、日本紀ニ不須ヲイナトヨメル、皆同意ナリ」という。すなわち、「不聴」は、「聞かず」ではなく「許さず」の意で「否」にあたり、96番歌の「不欲」と同じく、「いな」と訓む。「跡」はト。「雖云」は「云(い)へど」と訓む。「強流志斐能我」は「強(し)ふる志斐(しひ)のが」と訓む。「強流」は「強(し)ふる」。「流」はル。「志斐(しひ)」は氏(うじ)の名。「能」はノ。「志斐(しひ)の」は、題詞の「志斐(しひ)の嫗(おみな)」の略と考えられ、「嫗(おみな)」とあることから老婆であったことが分かる。「我」はガ。「強語」は「強(し)ひ語(かた)り」と訓む。「相手が聞きたがらないのにむりに話を聞かせること。また、その話」の意。西宮「萬葉集全注」に「志斐の語るお話は、無理強いに聞かせる話だ、となるから、『志斐』の名にこじつけ(誣(しひ))の意を込めたものと言える」と記す。「強ふる志斐のが強ひ語り」は文字遊びのような趣があって、まるで幼児が祖母にせがんでいるような響きがある。

 結句「比者不聞而 朕戀尓家里」「このころ聞かずて 朕(われ)恋ひにけり」と訓む。「比者不聞而」は「比者(このころ)聞(き)かずて」と訓む。山田孝雄「萬葉集講義」が次のように解している。
 「『比者』を『このころ』とよむは元來『比』一字にて『近來』の意を有するに基づく。後漢書光武紀建武七年四月の紀に『比陰陽錯謬日月薄蝕』と見えたり。『比者』の『者』は『近者』『頃者』『今者』『昔者』の『者』と同じく時の副詞を構成する助辭たり。さて『比者』を『このごろ』の義に用ゐたるは六朝時代の俗語と見えて、當時の尺牘に見えたり。たとへば王羲之の『積雪凝寒帖』に『比者悠々、如何可言』とあるが如きこれなり」。
 「萬葉集講義」の説に従い「比者(このころ)」と訓む。「不聞」は「聞(き)かず」。「而」はテ。「朕戀尓家里」は「朕(われ)戀(こ)ひにけり」と訓む。「朕(われ)」は、もと貴賤を問わない自称であったが、天子の自称としての使用は、秦の始皇帝からで、日本でも天皇の自称として用いられた。「戀」は「戀(こ)ひ」。「尓家里」はニケリ。
歴史解説

【巻3(237)。】
題詞  志斐(しひ)の嫗(おみな)の作歌。「志斐嫗奉和歌一首 [嫗名未詳]」(「志斐(しひ)の嫗(おみな)の和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首」)。「嫗が名はいまだ詳(つばひ)らかならず」。前歌に対する志斐の嫗の返歌である。
原文  不聴雖謂  語礼々々常 詔許曽 志斐伊波奏 強<語>登言
和訳  いな(否])と言へど 語れ語れと 詔(の)らせこそ 志斐いは奏(もう)せ 強ひ語りと詔る
現代文  「(天皇の文字遊びのような歌を受けて嫗は)語れ語れと仰って無理強いなさったのはあなた様ではございませんか。これこそ強い語りと云うものでございましょう」。 
文意解説  発句「不聴雖謂  語礼々々常 詔許曽」「いなと言へど 語れ語れと 詔(の)らせこそ」と訓む。「不聴雖謂」は「いな[否]と謂(い)へど」と訓む。前歌の「不聴跡雖云」と表記は違うが同句で、それをもって、返歌の発句としたもの。「不聴」はトを補読して「いな[否]と」と訓む。「雖謂」は、「謂(い)へど」と訓む。「謂」は、名義抄に「謂。イフ・イハク・ノタマハク・カタラフ・モノガタリ・オモフ・タメ・ノブ・ツトメ」の訓を示す。「謂」に「何をおっしゃいますか」の意を含ませている。「語礼語礼常」は「語れ語れと」と訓む。「語礼」は「語れ」。「礼」はレ。「常」はト。「語」は、名義抄には、「語 コト・コトバ・カタラフ・カタル・モノガタリ・モノイフ・ウワサ・サヅク・イフ・トフ・カタラク・アフ・サヘヅル」とあって、多くの訓を示す。「詔許曽」は「詔(の)らせこそ」と訓む。「おっしゃるからこそ」の意。「詔」は、旧訓ノレハを宣長の「玉の小琴」にノラセと改訓、以後それが定訓となった。「許曽」はコソ。特に強い指示を表す。ノラセは、告げる意の動詞ノルの尊敬表現ノラスの已然形。ノル自体は敬語ではなく、「呪的に宣言する」の意。ノラセコソはノラセバコソに同じ。

 結句「志斐伊波奏 強<語>登言」「志斐いは奏(もう)せ 強ひ語りと詔る」と訓む。「志斐伊波奏」は「志斐(しひ)いは奏(まを)せ」と訓む。「志斐いは」は「志斐めは」である。「志斐」は題詞の「志斐(しひ)の嫗(おみな)」で作者自身を指す。前歌が、シフ・シヒ・シヒの同音反復を使ったことを承けて、自分のことを「志斐(しひ)」と言い、次の「強(し)ひ語(かた)り」との同音反復を意図したものである。「伊」はイ。この助詞については、古くは格助詞とされたが、その後格助詞説は否定されて、現在では間投助詞説と副助詞説があり意見がわかれている。下にまた助詞が続いていることからすると、副助詞と見るのが良いように思う。「波」はハ。「奏」は「奏(まを)せ」と訓む。「まをす」は、上代語(上代の末には「まうす」の形に変化した)、「言う」の謙譲語で、言う対象を敬う。「申しあげる。言上する」の意。なお、已然形で言い切りにしているのは、上の「こそ」の結びだからであるが、この語法は逆接条件句に用いられることが多く、「~のだが」と言った気持を表す。「強語登言」は「強(し)ひ語りと言(い)ふ」と訓む。「それこそ強ひ語りというものでございますよ」の意。「強語」は前歌に同じ。「登」はト。「言」は「言(い)ふ」。「言(い)ふ」の主語は天皇だが、無敬語表現となっている。これは、「謂(い)へど」が無謙譲語表現であるのと対応している。この歌では「詔(の)らせ」と「奏(まを)せ」は、敬語表現と謙譲語表現で対応させている。歌であるから、時に待遇表現を省いて常態に表現することは他にも例が見られる。この返歌の掛け合い振りから二人の間柄が非常に親密だったことが窺われる。
歴史解説

【巻3(238)。】
題詞  長忌寸意吉麻呂の作歌。「長忌寸意吉麻呂應詔歌一首(長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)詔(みことのり)に応えて歌った一首)」。長忌寸意吉麻呂は57・143・144番歌の作者として既出。「忌寸」は、八色の姓の四位。『萬葉集』中に短歌十四首があるが、うち八首(3824~3831)は、いわゆる物名歌であり当意即妙の歌作を得意とした。
原文  大宮之 内二手所聞 網引為跡 網子調流 海人之呼聲
和訳  大宮の 内まで聞こゆ 網引(あびき)為(す)と 網子調(ととの)ふる 海人(あま)の呼び声
現代文  「宮殿の内まで聞こえてきます。網引をするとて網子らを集め統御する漁夫の呼び声が」。
文意解説  発句「大宮之 内二手所聞 網引為跡」「大宮の 内まで聞こゆ 網引(あびき)為(す)と」と訓む。「大宮之」は「大宮の」と訓む。「大宮」の「大(おほ)」は、讃美・尊敬の意を添える接頭語。「大宮(おほみや)」は、天皇の御所である「皇居、内裏」の意であるが、ここにいう「大宮の」は都の大宮のことではない。どこの浜辺か不明だが天皇がそこへ行幸された時の歌で離宮としての難波宮の宮殿を指すと思われる。「之」はノ。「内二手所聞」は「内まで聞こゆ」と訓む。「内(うち)」は、空間的、平面的に、ある範囲や区画、限界などの中、すなわち、外側でないほうをいう語である。「二手」は既出。「左右」を「まで」と訓んだのと同様、「二手」は、両手(左右手)を「真手(まて)」といったところからの戯書的な借字で、時間的・空間的な限度を示す副助詞の「まで」を表す。「所聞」は「きこゆ」。「不所聞」の表記で「聞(き)こえず」と訓む例として既出。「網引為跡」は「網引(あびき)為(す)と」と訓む。「網引」は、「あびき」と訓み、「地引き網などの網を引いて魚をとること」をいう。「為」は「為(す)」と訓む。「ある動作や行為を行なう」ことをいう。「跡」はト。

 結句「網子調流 海人之呼聲」は「網子調(ととの)ふる 海人(あま)の呼び声」と訓む。「網子調流」は「網子(あご)調(ととの)ふる」と訓む。「網子」は、「あご」と訓み、「網引きの共同作業に従事する者。地引き網を引く人」の意。日本古典文学全集の頭注に「アゴは漁労を専門とする網元であるアマに従属し網引作業に携わる者」とある。「調流」は「調(ととの)ふる」と訓む。ルを「流」で表記。「ととのふ」は、「人を呼び集め統御する」意。「調」につき、名義抄に「調。トトノフ・シラブ・シラベ・エラブ・アシタ」とある。「海人之呼聲」は「海人(あま)の呼び聲」と訓む。「海人(あま)」は、海または湖で魚類、貝類、海藻などを取るのを業とする人のことで、上代には諸所に置かれた海人部(あまべ)に属し、海産物を朝廷に貢納し、航海にも従事した。「漁夫。漁人。あまうど。あまびと。いさりびと。りょうし」の意。「之」はノ。「呼聲」は「よびこゑ」と訓み、「人々に呼びかける声」。


 御題から「あれは何の声だろう」という天皇の疑問にこたえて作った歌と分かる。浜辺の宮でご休息中に聞こえてきた威勢のよい海人(あま)の呼び声にふっと疑問を漏らされた天皇。「網引(あびき)すと」という一句から引き網漁の一光景と分かる。「網子(あご)ととのふる」は「指揮官が網子を指揮して」である。目の前にその光景が浮かび、かつ、耳元に海人の人々の威勢のいいかけ声も聞こえてくる。簡潔な表現にして、それを聞く天皇ご一行の新鮮な驚きまでも表現されている。48番歌の「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」に優るとも劣らぬ名歌である。
歴史解説

【巻3(239)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。「長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌](長皇子が池に網漁にお出ましになったとき柿本人麻呂が作った長短歌」。この長歌は、「并(あは)せて短歌(たんか)」とあるように、次の240番歌の頭書に「反歌一首」、更に次の241番歌の頭書に「或本反歌一首」とあって、二首の短歌を伴っており、「長皇子への献歌」と称される一つの歌群(239~241)を形成している。長皇子(ながのみこ)は天武天皇の皇子で、母は天智天皇の皇女大江皇女であり、同母弟に弓削皇子がいる。長皇子と人麻呂との関係は良く分からない。人麻呂は、弓削皇子に対しては幾度も歌を献じているが、長皇子に対する歌はこの一組三首のみである。長皇子本人の歌は萬葉集に五首の短歌が記載されている。
原文  八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拝目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞
和訳  八隅知(やすみし)し 吾(わ)が大王(おほきみ) 高光る 吾が日の皇子(みこ)の 馬(うま)並(な)めて み猟(かり)立(た)たせる 弱薦(わかこも)を 猟路(かりぢ)の小野(をの)に ししこそば いはひ拝(をろが)め 鶉(うづら)こそ いはひ廻(もとほ)れ ししじもの いはひ拝(をろが)み 鶉(うづら)なす いはひもとほり 恐(かしこ)みと 仕(つか)へ奉(まつ)りて 久堅(ひさかた)の 天(あめ)見(み)る如(ごと)く まそ鏡(かがみ) 仰(あふ)ぎて見(み)れど 春草(はるくさ)の 益(いや)めづらしき 吾(わ)がおほきみ[大君]かも
現代文  「天下を隅々まで治めておいでの わが大君 高く光り給う わが日の皇子が 馬を並べて 狩を催しておられる 若い薦を刈る (そのカルではないが)猟路の小野で 鹿こそは ひざまずいて拝みもしよう 鶉こそは はい回りもしよう (鹿でも鶉でもない私たちだが) 鹿のように ひざまずいて拝み 鶉のようにはい回って 恐れ多いことと思って お仕え申し上げて 悠久の 大空を仰ぐように 清く澄んだ鏡を見るように 仰ぎ見るけれども 春草のように ますますお慕わしい わが大君であることよ」。
文意解説  長歌(れんだいこ式12句)。

 発句「八隅知之 吾大王」「八隅知(やすみし)し 吾(わ)が大王(おほきみ)」と訓む。「八隅知(やすみし)し」は、「わが大君」および「わご大君」にかかる枕詞として常套句で、八方を統べ治める意を表わす。「吾」はガを読み添えて「吾(わ)が」。「大王」は既述。ここでは、長皇子を指す。

 2句「高光 吾日乃皇子乃」「高光る 吾が日の皇子(みこ)の」と訓む。「高光」は、「たかひかる」と訓み、空高く光り輝く太陽の意で、「日」にかかる枕詞。「たかひかる」は、天皇および皇子への賞辞として日神信仰を背景に使用された言葉で当時の宮廷儀礼歌の常套句であり、古事記歌謡に五例を見る。なお、「高光」を「たかてらす」と訓む注釈書もあるが、「たかてらす」は、「たかひかる」という常套句から人麻呂が創出した枕詞とみられるので、「高光」は「たかひかる」、「高輝、高照」は「たかてらす」と区別して訓むべきだと考える。「吾」は「吾(わ)が」。「日乃皇子」は、「日の皇子(みこ)」と訓み、「日の神、天照大神の子孫」の意で、天皇・皇子を敬っていう語であり、ここでは長皇子を指す。「乃」はノ。「八隅知(やすみし)し 吾(わ)が大王(おほきみ)」と「高(たか)光(ひか)る 吾(わ)が日の皇子(みこ)の」とを対句にして、長皇子を讃えたもので、天武・持統両天皇と天武系の皇子のみに用いられた表現である。

 3句「馬並而 三猟立流」「馬(うま)並(な)めて み猟(かり)立(た)たせる」と訓む。「馬並而」は、「馬數而、馬副而」と表記は異なるが同句で「馬(うま)並(な)めて」と訓み「馬を並べて」の意。「並」は「並(な)め」。「なむ」は「ならべる。つらねる」ことをいう。「數、副」をナムと訓む。「三」はミで、「三猟」は、「み猟(かり)」と訓み、天皇や皇子などの狩することを敬って言ったもの。この歌では数字を随所に用いており、「御猟」と表記するところを「三猟」としている。「立流」は「立たせる」と訓む。ここの「たつ」は「催す」の意で、「み猟り立たせる」は「猟りを催しておいでになる」の意。


 4句「弱薦乎 猟路乃小野尓」「弱薦(わかこも)を 猟路(かりぢ)の小野(をの)に」と訓む。「弱」は「わか」と訓む。字通に「弱を幼弱の意に用いるのは、若njiakと声義が通ずるからであろう」とする。「弱(若)年」「弱(若)輩」などの語がそれで、「弱冠」は、『礼記』に「二十を弱と曰ふ。冠(元服)す」とあり、男子二十歳、成人の年をいう。「薦」は、鎌倉前期の漢和辞書である字鏡集には「薦。クサ・コモ・ノブ・フサク・アク・コモフサ・タテマツル・ススム・ムシロ・カサス(ヌ)」と多くの訓みを記すが、ここは「こも」と訓み、植物「まこも(真菰)」の古名である。「弱薦(わかこも)」は、若くしなやかな菰。芽を出したばかりの菰。」の意。「乎」はヲ。「弱薦(わかこも)を」は、若菰を刈る意で、「刈る」と同音を含む地名「猟路(かりぢ)」にかかる枕詞として用いたもの。「猟路(かりぢ)」は、題詞にも「猟路(かりぢ)の池(いけ)」とあり、池があってしかも狩猟に適した場所であったことは間違いないと思われるが、その所在は未詳。諸説があるが、奈良県宇陀郡榛原町の芳野川と宇陀川との合流地点付近の湿地帯を思わせる小字名が、標高320メートル付近に集中していることから、そこに古代に池があったと想定した鳴上善治の説(「『猟路の池』榛原の説」万葉八五号)が最も有力な説であるように思う。「乃」はノ。「小(を)」は愛称の接頭語で、鹿や猪のよくとれる野を言い、必ずしも小さいわけではない。「尓」はニ。

 5句「十六社者 伊波比拝目」「ししこそば いはひ拝(をろが)め」と訓む。「十六」は、九九(くく)の四四(しし)=十六(じゆうろく)から、「しし」に宛てた戯書。本歌では数字遊びの表記が目立つが、ここがその最たるもの。「しし」は食肉として用いる獣の総称で、特に、鹿又は猪をいい、これらを区別する場合には、それぞれ「かのしし」「ゐのしし」といった。「社」はコソ。「者」はハ。係助詞のコソとハが重なったコソハは萬葉集ではコソバと連濁に訓まれる例(217番歌9句「露己曽婆[露(つゆ)こそば]」など)が多いので、ここもコソバと訓む。「伊波比」は既出。「拝目」は「拝(をろが)め」と訓む。「目(メ)」を添えることにより、上の「こそば」の係り結びで、已然形となることを明示したもの。「をろがむ」は、「をがむ」の古形で、「身をかがめて礼をする」ことを言い、天皇やその皇子に対する動作で、「仕へまつる」と共に使うことが多い語である。

 6句「鶉己曽 伊波比廻礼」「鶉(うづら)こそ いはひ廻(もとほ)れ」と訓む。「鶉(うづら)」は、キジ科の鳥、全長約20センチメートルで、頭が小さく、尾が短く、からだは丸みを帯びる。動作が機敏でよく歩き回る。「己曽」はコソ。「伊波比」は先出。「廻礼」は「廻(もとほ)れ」。「礼(レ)」を添えることにより、上の「こそ」の係り結びで、已然形となることを明示したもの。「もとほる」は「まわる。めぐる。徘徊する」ことをいう。

 7句「四時自物 伊波比拝」「ししじもの・いはひ拝(をろが)み」と訓む。「四」「時」は共にシで、「四時」は「十六」と同じく「しし」を表すのに用いたもので、ここも数字遊びが見られる。「自」はジ。「物」は「もの」を表わす借訓字で、「自物」で以て接尾語「じもの」を表す。「じもの」には、①(本来それとは違うものであるが、あたかも) …のよう(な恰好)で。②(本当にそのものらしい)恰好で。③(本当にそれらしい) …の気持がして。の三つの意があるが、ここは①の意。既出の「じもの」の付いた語としては、「鴨じもの」(50番歌)、「鹿(しし)じもの」(199番歌)、「鳥じもの」「をとこ[男]じもの」(210・213番歌)が挙げられる。「伊波比」は先出。「拝」は「拝(をろが)み」。

 8句「鶉成 伊波比毛等保理」「鶉(うづら)なす いはひもとほり」と訓む。「鶉成」は199番歌117句と同句。「鶉」は11句に既出。「成」は接尾語「なす」を表す借訓字で、接尾語「なす」は、名詞、時には動詞の連体形に付いて、「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意で、語源的には、「似(に)す」、あるいは「成(な)す」とも関係があるかともいわれる。「伊波比」は10句に同じ。「毛等保理(モトホリ)」は「もとほる」の連用形「もとほり」を表す。

 9句「恐等 仕奉而」「恐(かしこ)みと 仕(つか)へ奉(まつ)りて」と訓む。「恐」はミを読み添えて「恐(かしこ)み」と訓む。「恐(かしこ)」は、形容詞「かしこし」の語幹で、「恐(かしこ)み」は、「恐れ多いと思って」の意。「等」はト。「仕奉」は「仕(つか)へ奉(まつ)り」と訓む。「つかへまつる」は、動詞「つかへる(仕)」に動詞「まつる(奉)」のついてできた語。「仕える」の謙譲語で、仕える対象を敬う気持を明確化して表現する。「而」はテ。

 10句「久堅乃 天見如久」「久堅(ひさかた)の 天(あめ)見る如(ごと)く」と訓む。「久堅乃」は204番歌5句と同句。「ひさかたの」は、「天」および天に関わる「雨」「月」などにかかる枕詞としてよく使われたもので、その表記には「久堅之(乃・能)」「久方之(乃)」などがあることから、「堅固な・久しい」の意を持つ表現であると考えられる。「天見如久」は168番歌2句と同句。「天」は「天地(あめつち)」の「あめ」で、「天(てん)。空(そら)」の意。「見」は「見る」。「如」は、「…のようである」の意であることから、比況を表わす助動詞「ごとし」にあてられたもの。「ごとし」は、「同じ」の意を表わす「こと」の濁音化した「ごと」に、形容詞をつくる活用語尾「し」が付いたもの。その活用は「〇・ごとく・ごとし・ごとき・〇・〇」で、ここは連用形の「如(ごと)く」。「久」はク。

 11句「真十鏡 仰而雖見」「まそ鏡(かがみ) 仰(あふ)ぎて見(み)れど」と訓む。「真十鏡」は、「麻蘇可我美」(3765)、「末蘇可我弥」4221)の仮名書き例から、「まそ鏡(かがみ)」と訓むべきものと思われるが、「真墨乃鏡」(3885)、「真十見鏡」(3314)の例があるので、「真澄の鏡」の意がマソミ鏡と転じ、更にマソ鏡となったものと考えられる。「十」は「そ(甲類)」の訓仮名として用いたものであるが、ここにも数字を使っている。「まそ鏡」は、「曇りのない清らかな鏡」をいうが、枕詞として用いられ多くのかかり方があるので次に整理しておくと、① 鏡を見る意で、「見る」にかかる。②「見」と同音を含む地名「敏馬(みぬめ)」「南淵山(みなぶちやま)」にかかる。③ 鏡は箱に入れてあるところから、「蓋(ふた)」と同音を含む地名「二上山(ふたがみやま)」にかかる。④ 鏡を磨(と)ぐの意で、「磨ぐ」に、床のそばに置くの意で、「床の辺さらず」に、鏡を掛けるの意で、「かく」にそれぞれかかる。⑤ 鏡を月にたとえて、「清き月夜」「照り出る月」にかかる。⑥ 鏡に映る影の意で、「面影(おもかげ)」にかかる。ここは、①で次の「見る」にかかる。「仰而」は「仰(あふ)ぎて」と訓む。「雖」は「いえども」。ここではドとして用いられ、「雖見」は「見れど」と訓む。

 結句「春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞」「春草(はるくさ)の 益(いや)めづらしき 吾(わ)がおほきみ[大君]かも」と訓む。「春草之」は29番歌31句と同句。「春草」は、「春になって萌え出る草。若草。」「之」はノ。「春草(はるくさ)の」は枕詞で、春の草がめでるべきである意から次の「めづらし」にかかる。「益」は、「ますます」の字義から、「弥」と同じく、「いや」と訓む。「目」はメ。「頬」は、顔の両傍、目の下の部分をいう「つら」であるが、ここはヅラ。「四寸」はシキ。「目頬四寸」で「めづらしき」を表す。「めづらし」には「賞美する価値がある。珍重に価する。好ましい。すばらしい」の意と、「見ることがまれである。めったにない」の意がある。諸注釈書の口訳を見ると「お慕わしい」とするものが多い。「吾」は「吾(わ)が」。「於富」はオホ「吉美」はキミ。「於富吉美」は既出の「大王(おほきみ)」を仮名書きしたもので、「富」「吉」「美」という好字を選んで用いている。「可聞」はカモ。
歴史解説

【巻3(240)。】
題詞  柿本人麻呂の作歌。「反歌一首」。239番歌(以下、「長歌」という)の反歌である。
原文  久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓為有
和訳  ひさかたの 天行く月を 網に刺し 我が大君は 蓋(きぬがさ、衣笠)にせり
現代文  「悠久の大空を渡ってゆく月を網を張って捕え わが大君は(神でいらっしゃるので)衣笠にしていらっしゃる」。
文意解説  発句「久堅乃 天歸月乎 網尓刺」「ひさかたの 天行く月を 網に刺し」と訓む。「久堅乃」は「久堅(ひさかた)の」と訓む。は「天」および天に関わる「雨」「月」などにかかる枕詞で、ここも長歌と同じく次の「天」にかかる。「天歸月乎」は「天(あま)歸(ゆ、行)く月を」と訓む。「天」はアマ、アメの二通りに訓まれる。「天歸」は「天(あま)歸(ゆ、行)く」と訓む。藤原浜成の「歌経標式」(772年)に、この歌が仮名書きで記載されているが、それに「阿麻由倶(あまゆく)」とあることによる。「歸」を「ゆく」と訓むことについて、西宮「萬葉集全注」は「『歸』は『広雅』釈詁に『往也』とある如く『ゆく(空を渡る)』意ととるべきで、『歸』字を使っているから『西の空に帰る(沈む)』意を表わすなどと狭く考えなくてよい」と記す。ここの「月」は天体の月。「乎」はヲ。「月を」は3句「刺(さ)し」と5句「為(せ)り」にかかる。「天行く月を網に刺し」とは、池面に映じた月を網で捉えた情景のこと。「網尓刺」は「網に刺し」と訓む。「網」は「糸、縄、針金などで目をあらく編んだもの」をいう。ここは、「魚や鳥獣を捕るための糸、縄製のもの」をいう。大伴家持の歌に「保登等藝須(ほととぎす) 夜音(よごゑ)奈都可思(なつかし) 安美指者(あみささば) 花者須具登毛(はなはすぐとも) 可礼受加奈可牟(かれずかなかむ)」(3917番歌)とあり、「網(あみ)さす」という語は「鳥を捕えるために網を張る」ことの意で使われていたことがわかる。では「網」と「さす」の間に二が入るアミニサスとはどういう意味か。これにつき佐竹昭広の「人麿の反歌一首ー意味論的考察」、西宮「萬葉集全注」が次のように説明している。「ほととぎす聞けども飽かず網取りに取りて馴つけな離れず鳴くがね」(19・四一八二)とあるのと構想的に同じであるとして「網を張って月を捕える」の意と説く。フレイザー「金枝篇」(第五章「天候の呪術的調節」)の「太陽の運行を阻止し、永遠の状態に固定することの希求として太陽を糸の網目で捕えたりする例」も然りである。月を網を張って捕えたという人麻呂の当意即妙の着想であり、「大君は神にしませばひさかたの天ゆく月を盖にせり」となる。「尓」は二。「刺」は「刺(さ)し」。

 結句「我大王者 盖尓為有」「我が大君は 蓋(きぬがさ、衣笠)にせり」と訓む。「我大王者」は「我が大王(おほきみ)は」と訓む。「我大王」は「吾大王」と同じで長皇子を指す。「者」はハ。「盖尓為有」は「盖(きぬがさ)[衣笠]に為(せ)り」と訓む。「盖」は「きぬがさ[衣笠]」と訓み、「絹または織物で張った長柄(ながえ)の傘」を言う。昔、天皇、親王、公卿などの貴人が外出する際、背後からさしかざしたもの。「尓」は二。「為有」は「為(せ)り」と訓む。「為(せ)り」は、「す」の未然形「為(せ)」に完了の助動詞「り」が付いたものとも説明される。蓋(きぬがさ)は大きな笠のことだが、それを天蓋に見立てて皇子を持ち上げている。柿本人麻呂らしい荘重な歌である。
歴史解説

【巻3(241)。】
題詞  柿本人麻呂の作歌。
原文  皇者 神尓之坐者 真木<乃>立 荒山中尓 海成可聞
和訳  大君は 神にしませば 真木(まき)の立つ 荒山中に 海を成すかも
現代文  「わが大君は 神でいらっしゃるから 檜などの生い茂っている 人気(ひとけ)のない山の中に 海をお作りになったよ」。
文意解説  この歌は前歌とは別伝(或本)による歌として採録されている。「真木の立つ」は樹木が生い茂る様を表現している。そんな荒れた山中にとし、結句につないでいる。結句の「海を成すかも」の「かも」はむろん仮定法の「かも」ではない。詠嘆の「かも」だ。なので、山中の池も皇子がお出ましになると「海のように広々と見えることよ」と詠っていることになる。皇子の持ち上げ方は堂に入っており人麻呂らしい荘重な歌である。今回は241番歌を訓む。頭書に「或本反歌一首」とあるのは、本文歌とは別の本に、本文歌と同じ長歌の反歌として載っていたことを示すもので、241番歌は、239番歌の反歌の異伝であることがわかる。

 発句「皇者 神尓之坐者 真木<乃>立」「大君は 神にしませば 真木(まき)の立つ」と訓む。「皇者」は「皇(おほきみ)[大君]は」と訓む。ここの「皇(おほきみ)[大君]は、天皇ではなく長皇子を指す。「者」はハ。「神尓之坐者」は「神(かみ)にし坐(ま)せば」と訓む。「神二四座者」と表記は違うが同句。表記の違っているところは3箇所。ひとつは、断定の助動詞「なり」の連用形「に」に、ここでは「尓(二)」を用いているところ。ふたつめは、強意を表す副助詞「し」にはシ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)をもちいているところ。みっつめは、「ます」に「坐」を宛てて、その已然形「坐(ま)せ」としたところである。「坐」は、字通に「土+人+人。土は土主、神を迎えるところ。その左右に人が対坐して訟事を決する。それで訴訟の関係者を座といい、当事者として裁判にかかわることを坐という。すなわちもと裁判用語である」としている。名義抄に「坐 ヰル・マシマス・スウ・ヲリ・ツミ・ヨル・ヨリテ・ツミス」の訓を記す。「者」はバ。「真木乃立」は「真木(まき)の立(た)つ」と訓む。人麻呂の「安騎野歌」45番歌11句に「真木立」とあり「真木(まき)立(た)つ」と訓んだ。ここは「真木(まき)の立(た)つ」と訓む。「真木」は、すぐれた木の意で、建築材料となる杉や檜などの総称。「立」は「立つ」。「たつ」にはいろいろな意味があるが、ここでは「物や人が、たてにまっすぐな状態になる。また、ある位置や地位を占める」意と共に「作用、状態などが目立ってあらわれる」意も同時に持つものと考えられ、「真木立つ山」とは「檜などの生い茂っている山」の意で使われた。

 結句「荒山中尓 海成可聞」「荒山中に 海を成すかも」と訓む。「荒山中尓」は「荒(あら)山中(やまなか)に」と訓む。「荒(あら)」は、語素で主として名詞の上について、これと熟合して用いられ、「人手の加わっていない、自然のままの、人気(ひとけ)のない」の意を表わす。「山中(やまなか)」は文字通り「山の中」の意。「尓」はニ。「真木(まき)の立(た)つ 荒(あら)山中(やまなか)に」は「檜などの生い茂っている 人気(ひとけ)のない山の中に」ということになろう。「海成可聞」は「海を成(な)すかも」と訓む。「海成」は、ヲを補読して「海を成(な)す」と訓む。「海」は「広く水をたたえているところ。古くは海洋の他、大きな湖や沼をも指した」と日本国語大辞典にある。また、西宮『萬葉集全注』に「一般的に湖・沼・池・海をミヅウミ・ヌマ・イケ・ウミと言い、また総体としてウミとも言ったが、ここでは猟路の池のことをウミと言ったもの。したがって、海のように広い池だからウミと言ったのではない」という。いずれにしても、この「海」は239番歌の題詞にあった「猟路池」を指すことは明らかであろう。「成」は「成(な)す」。「なす」は「生み出す。作り出す」ことをいう。「可聞」はカモ。阿蘇『萬葉集全歌講義』の「海を成すかも」の注には「ナスは、作り出す意。猟路の池を海と称して、普通の人のできない偉大なことを、皇子は神でいらっしゃるからなし得た、意で讃美したもの」とある。
歴史解説

【巻3(242)。】
題詞  弓削皇子の作歌。「長皇子の弟皇子である弓削皇子(ゆげのみこ)の歌」。弓削皇子は、119~122番歌の際見たように、紀皇女(きのひめみこ)への恋歌を残した皇子として有名である。
原文  瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓
和訳  滝の上 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思はなくに
現代文  「その雲のようにいつも天空高くにいられると思っているわけではありません」。
文意解説  滝壺から上を仰ぎ見て作った歌と考えてよかろう。そこの三船山に雲がかかっている。

 発句「瀧上之 三船乃山尓 居雲乃」「滝の上 三船の山に 居る雲の」と訓む。

 結句「常将有等 和我不念久尓」「常にあらむと 我が思はなくに」と訓む。
歴史解説

【巻3(243)。】
題詞  春日王(かすがのおおきみ)の作歌。「春日王奉和歌一首(春日王(かすがのおほきみ)の和(こた)へ奉(まつ)る歌一首)」。前歌に対する春日王(かすがのおおきみ)の返歌である。春日王は、天智天皇の第二皇子である川嶋皇子(34番歌の作者)の子。弓削皇子の母大江皇女は、川嶋皇子の同母姉であったから、弓削皇子にとって春日王は、母方の従兄弟の関係であった。弓削皇子の薨去の約一ヶ月前の、文武三年(699年)六月二十七日に、浄大肆(従四位上に相当)で卒。頼りに思っていた春日王の死が、弓削皇子の死の引き金になったのかも知れない。春日王は、弓削皇子の脆さを十分に知っており、その悲観的な人生観を懸命に和らげようとしていたものと思われ、本歌においてもそのことがうかがえよう。
原文  王者 千歳二麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也
和訳  大君は 千年に座さむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや
現代文  「大君は千年もの長い年月をお元気でいらっしゃるでしょう。(仰せの)白雲も三船山にいつもかかっていますが、その雲が絶えるなんてことがありましょうか(いつだってかかっていますよ)」。
文意解説  発句「王者 千歳二麻佐武 白雲毛」「大君は 千年に座さむ 白雲も」と訓む。1句「王者」は「王(おほきみ)は」と訓む。「王」は既述。ここでは弓削皇子を指す。「者」はハ。「千歳二麻佐武」は「千歳(ちとせ)にまさむ」と訓む。「千歳(ちとせ)」は「千の年。数えつくせぬ程の長い年月。末長く」の意。「とせ」は、「とし」と同源で、歳月・年齢を数える助数詞。「二」は数字だが二。「麻佐武」はマサム。「ます」は「ある」、「いる」の意の尊敬語で「いらっしゃる」。「白雲毛」は「白雲も」と訓む。「白雲」は「白い雲。白く見える雲」。「白」を「しら」と訓む語としては他に「白波、白露、白玉」などがある。「毛」はモ。「白雲」は前歌(242番歌)の弓削皇子の御歌の「三船(みふね)の山に居(ゐ)る雲」を承けたもの。

 結句「三船乃山尓 絶日安良米也」「三船の山に 絶ゆる日あらめや」と訓む。「三船乃山尓」は「三船の山に」と訓む。「三船乃山尓」は、弓削皇子の御歌の2句と同句。「三船山」は、奈良県吉野郡吉野町宮滝と吉野川をはさんで東南に位置する487メートルの山。「乃」はノ。「尓」は二。「絶日安良米也」は「絶(た)ゆる日(ひ)あらめや」と訓む。「絶」は「絶ゆる」。「たゆ」は、続いているものが途中で切れるのが原義で、「絶ゆる日」は「途絶える日」の意で、具体的には「雲がかからなくなる日」という意味となろう。「安良米」はアラメ。「あり」の未然形アラ+ムの已然形メが付いたアラメ。「也」はヤ。上代には、活用語の已然形にヤが付いて疑問・反語を表わした。ここは反語。
歴史解説

【巻3(244)。】
題詞  「或本歌一首」。左注には「右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出」とあるので、「或本」というのが「人麻呂歌集」であることがわかる。歌の内容から前々歌(242番歌)の別伝歌と分かる。別伝歌とはいえ、歌はほぼ同一の内容。西宮『萬葉集全注』は、「【考】編者の意図」として次のように述べている。
 242番歌と類似の歌が「或本」に出ていたので、ここに引合に掲出したもの。そして、この歌は人麻呂歌集にあるということを左注として編者が注したのである。弓削皇子の異伝歌であるが、242番歌とこの歌との前後関係は分からない。およそ人麻呂歌集には他人の歌を収録していることがある(九・1720~1725)。ここも、弓削皇子御歌などの作者名とこの歌を記して、人麻呂みずからの歌集に収録しておいたことが分かる。弓削皇子は文武三年(699)の薨去で、人麻呂は慶雲三年から和銅二年(706~709)の間に没と言うから、晩年に至るまで、他人の歌をも収録し続けたことになる。万葉集の編者がこれを利用したのは当然である。新勅撰集(巻十八)に、この歌の作者を人丸としているが、これは左注によって、それを作者名と誤ったものである。
原文  三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常将在跡 我思莫苦二
和訳  み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに
現代文  「み吉野の 三船の山に いつもわき立つ雲のように いつまでも世にあろうとは 私は思わないなあ」。
文意解説  発句「三吉野之 御船乃山尓 立雲之」「み吉野の 三船の山に 立つ雲の」と訓む。「三吉野之」は「み吉野(よしの)の」と訓む。「み吉野(よしの)の」を初句とする歌は、既出のものでは25・74・113番歌がある。表記も本歌と同じなのは25番歌。「三」はミ。地名に美称の「み」を冠するのは、古代では「吉野、熊野、越」に限られ、いずれも、格別の異境と意識され、霊威の地と見なされていた。「吉野」は、奈良県、吉野山地を占める吉野郡一帯の地域の総称。古くから大和朝廷の聖地とされた。「之」はノ。242番歌の1句「瀧(たき)の上(うへ)の」と較べると、「み吉野(よしの)の」の方が誰にでも通じるわかりやすさはあると思うが、逆に「瀧(たき)の上(うへ)の」の方にこそ臨場感があり優れているように思われる。「御船乃山尓」は「み船(ふね)の山に」と訓む。ミの表記は違うが、242番歌2句及び243番歌4句と同句。「三船山」のミは美称であり「御」とも表記されていたことがわかる。「立雲之」は「立つ雲の」と訓む。「立」は「立つ」。「物、人などが、目だった運動を起こす」ことを言う語であるが、ここは「雲が現れ出る」ことを言ったもの。「之」はノ。242番歌の「居(ゐ)る雲(くも)の」と比較すると、「常住」を意味する「常」を形容する句としては、「立つ雲」とするよりは「居る雲」とした方がふさわしいように思う。

 結句「常将在跡 我思莫苦二」「常にあらむと 我が思はなくに」と訓む。「常将在跡」は「常(つね)に在(あ)らむと」と訓む。「常将有等」と表記は違うが同句。「将在」は「在(あ)らむ」と訓む。ここの「あり」は、「山にかかっている雲がある」ことと「作者がこの世にある」ことの両方をいう。「跡」はト。「我思莫苦二」は「我(わ)が思(おも)はなくに」と訓む。「和我不念久尓」と表記は違うが同句。「我」はガを補読して「我(わ)が」。「思」は「思(おも)は」。「莫苦二」はナクに。ナクは「ぬあく」が約まったもの。
歴史解説

【巻3(245)。】
題詞  長田王(をさだのおほきみ)の作歌。「長田王被遣筑紫渡水嶋之時歌二首[長田王(ながたのおほきみ)、筑紫(つくし)に遣(つかは)されて水嶋(みづしま)に渡(わた)りし時の歌二首]」とあり、次の246番歌と共に長田王が水嶋に渡った時に作った歌である。この歌と次歌および248番歌の3首は筑紫(九州)に派遣された長田王(をさだのおほきみ)の歌。長田王は、81~83番歌の作者として既出。天平初年のころ、風流侍従と評された一人だが、出自は不明。前にも述べたが、『続日本紀』によってその足跡をたどると、和銅四年(711)四月、従五位上より正五位下。同八年四月、正五位上。霊亀二年(716)正月、従四位下。同年、十月近江守。神亀六年(729)三月正四位下【注:この年は二月に長屋王の乱があり、八月に天平と改元された】。天平元年九月、衛門督。天平四年(732)十月、摂津大夫。同六年二月には、朱雀門前の歌垣で栗栖王らと頭をつとめた。同九年六月、散位正四位下で卒【注:散位は位階を帯びるが官職についていない者をいう】。水嶋は、熊本県八代市の球磨川の分流の一つである南川の河口左岸にある、高さ7、8メートル、周囲約40メートルほどの岩山からなる小島とするのが通説であったが、鶴久「『水島』考」(万葉昭和三十四年四月)は、通説にいう小島の対岸の、今は陸地になっている大鼠蔵(おおそうぞう)島であるとした。これは、通説の小島では小さ過ぎて、景行紀十八年四月壬申の条に天皇がこの島に泊るとあるのにふさわしくないとし、肥後国逸文風土記にも「積(ひろさ)七十里(さと)ばかり」(おおよそ四キロ四方)とあり球磨の乾(北西)の方向七里沖の海中にあると記すことと、古地図とを照合して大鼠蔵(おおそうぞう)島に比定したものである。この論が今では有力となっているといえよう。なお、景行紀十八年四月壬申の条は、水島の地名起源伝説を記したもので、「自海路泊於葦北小嶋而進食。時召山部阿弭古之祖小左。令進冷水。適是時嶋中無水。不知所爲。則仰之祈于天神地祗。忽寒泉從崖傍涌出。乃酌以獻焉。故號其曰水嶋也。其泉猶今在水嶋崖也。」とある。内容を要約すると「葦北の小島で食事をして水を飲もうとしたが、この島には水が無かった。そこで神々に祈ったところ崖の傍らに清水が湧き出たので、その島を水島と名付けた」ということである。
 
原文  如聞 真貴久奇母 神左備居賀 許礼能水嶋
和訳  聞きしごと まこと尊く奇しくも 神さびをるか これの水島
現代文  「かねて聞いているように 実に尊く 不可思議にも 神々しいことだなあ この水島は」。 
文意解説  発句「如聞 真貴久奇母」「聞きしごと まこと尊く奇しくも」と訓む。「如聞」は「聞くが如(ごと)」と訓む。「かねて聞き及んでいたとおり」の意。「如」は、比況の機能を持つ漢文の助字で、「…のようである」の意であることから、比況を表わす助動詞「ごとし」にあてられた。ここでは、その語幹の「ごと」と訓む。「ごと」は、「同じ」の意を表わす「こと」の濁音化したもので「ように。同じく」の意。日本語の語順では後に来るが、漢文の書き方によって前にきている。「聞」は、ガを補読して「聞くが」と訓む。ここを旧訓に従って「聞きし如」と過去の助動詞「し」(「き」の連体形)を補読して訓む説も多いが、ここは、「聞いて既に承知している」ことを言ったもので、不定時に「聞くが如(ごと)」と訓んで「かねて聞いているように」の意と解したい。「真貴久」は「真(まこと)貴(たふと)く」と訓む。「真(まこと)」は、ことば、事柄などの意を表わす「こと(言・事)」に、接頭語「ま(真)」の付いたもので、名詞として使われるが、ここは副詞として、間違いなくその状態であることを強調するために用いたもので、「じつに。本当に。実際」の意。「貴久」は、「貴(たふと)く」を表したもので、クに「久」を用いている。「奇母」は「奇(くす)しくも」と訓む。「奇」は「奇(くす)しく」と訓む。「くすし」は、超自然的な霊異をつつしみうやまう気持でいい表わす語で、「不可思議である。神秘的である。霊妙である」の意。「母」はモ。このモは、次の句の終助詞「か」と呼応して「…も…か」の用法で、意味を強める働きをする。

 結句「神左備居賀 許礼能水嶋」は「神さびをるか これの水島」と訓む。「神左備居賀」は「神(かむ)さび居(を)るか」と訓む。「神左備」は「神佐備」の表記で既出、「神(かむ)さび」と訓む。「左備」はサビ。「神さび」は「神らしく振る舞うこと」をいう。「居」は「居(を)る」。ここの「をり」は、動作、作用、状態の継続、進行を表わす補助動詞。「賀」はカ。「許礼能水嶋」は「これの水嶋(みづしま)」と訓む。「許礼能」はコレノと訓み、物事を指示していう語で、意味は「この」に同じだが、「この」よりも指示性が強い。「水嶋」は熊本県八代市の小島だという。「これの水島」の場所は分からないが古代当時のよほど有名な聖地と拝することができる。一首の主格を最後に置いて感動を深めている。
歴史解説

【巻3(246)。】
題詞  長田王の作歌。245番歌(以下、「前歌」という)に続いて長田王が水嶋に渡った時に作った歌である。
原文  葦北乃 野坂乃浦従 船出為而 水嶋尓将去 浪立莫勤
和訳  葦北(あしきた)の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 浪(なみ)立つなゆめ
現代文  「葦北の野坂の浦から船出して水島に行こう。浪よ決して立つなよ」。
文意解説  発句「葦北乃 野坂乃浦従 船出為而」「葦北(あしきた)の 野坂の浦ゆ 船出して」と訓む。「葦北乃」は「葦北(あしきた)の」と訓む。「葦北」は、熊本県葦北郡及び水俣市の地。和名抄の肥後國の郡名に「葦北 阿之木多(あしきた)」とある。水嶋は今は八代市であるが、上代では葦北郡内にあったことが前歌のところで引用した景行紀の記事によってわかる。「乃」はノ。「野坂乃浦従」は「野坂の浦ゆ」と訓む。「野坂の浦」は今はその所在が不明。江戸時代の国学者長瀬真幸の門下生、中島廣足の『相良日記』には「野坂の浦は、さだかならねど、今の佐敷の津のあたりならむ、と或人のいへる。げに此の島(水嶋)迄の船路、五里ばかりもあれば、かの船出してとよみ給へるにも、かなふべし」とあり、葦北郡芦北町佐敷(さしき)説を唱えた。他に同郡同町の田浦(たのうら)説(大日本地名辞書)がある。「従」はユに用いられたもので、ここは場所の起点を示す。「~から」の意。「芦北の野坂の浦」は熊本県葦北郡の浜辺。「船出為而」は「船出為(し)て」と訓む。「船出」)は「ふなで」と訓み、「船が港を出ること。出帆」の意。「為」は「す(為)」の連用形で「為(し)」。「而」はテ。

 結句「水嶋尓将去 浪立莫勤」「水島に行かむ 浪(なみ)立つなゆめ」と訓む。「水嶋尓将去」は「水嶋に去(ゆ、行)かむ」と訓む。「水嶋」は鶴久「『水島』考」(万葉昭和三十四年四月)のいう今は陸地になっている大鼠蔵(おおそうぞう)島と思われる。「尓」は二。「将去」は「去(ゆ、行)かむ」と訓む。「去」は現在では「さる」と訓まれるが、萬葉集では「ゆく」と訓む例が多くある。「浪立莫勤」は「浪(なみ)立つなゆめ」と訓む。「浪」は「風や震動などによって水の表面に起こる起伏運動。水面のうねり。波浪」の意。「立」は「立つ」。「風、波などが起こり動く」ことをいう。「莫」は禁止のナに用いたもの。「勤」は「ゆめ」と訓み、禁止の語句と共に用いて「決して(…するな)。必ず(…するな)」の意を表わす。漢字表記には「勤」の他、「努、努力、慎、夢」などを当てる。強く注意を促すための語であり、それを更に重ねて強めた語に「ゆめゆめ」がある。「波立つなゆめ」は「ゆめゆめ波立つなよ」である。「前歌」との排列について、澤瀉『萬葉集注釋』は「前の作が水島を眼前にしてのものであり、今のは水島へ行かうとする作であつて、その順序が問題になり、今のは歸途の作だといふ解釈もある。しかしたゞ歌の順序だけでさう定める事も出來ない。不用意に並べられたとも又は全註釋にも注意してゐるやうに、次の歌との關係といふ事も考へられるかも知れない」という。この『注釋』の見解を紹介した上で、西宮『萬葉集全注』は「しかし、これは結論を先に述べる手法によって先に水島を見た感動の歌を置き、245~248番歌の順序は構成されたものと思う」と述べている。『全注』の見解に一理があるように思う。
歴史解説

【巻3(247)。】
題詞  石川大夫(いしかはまえつきみ)の作歌。「石川大夫和歌一首 [名闕] 」とあり、「石川大夫(いしかはのまへつきみ)の和(こた)ふる歌(うた)一首」ということで長田王の246番歌に対しての返歌であるが、[名闕]として名が書かれていない。前二歌に対し石川大夫(いしかはまえつきみ)が呼応して作った歌。石川大夫が特定できないが長田王の従者の一人と考えられる。「大夫」は、四位、五位の官人に対する称であるところから、左注には「右今案 従四位下石川宮麻呂朝臣 慶雲年中任大貳 又正五位下石川朝臣吉美侯 神龜年中任小貳 不知兩人誰作此歌焉」と記して、宮麻呂(みやまろ)と吉美侯(きみこ)の二人の人名を挙げて、二人のうちのどちらがこの歌の作者であるか分からないとしている。歌の排列位置からすると、本歌は和銅以前の作と思われるので、慶雲二年(705)から和銅元年(708)三月まで大弐であった宮麻呂の方が、神亀元年(724)二月に正五位下になった吉美侯よりも、この歌の作者にかなっていると考えられる。
原文  奥浪 邊波雖立 和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方
和訳  沖つ波 辺波(へなみ)立つとも 我が背子が 御船の泊り 波立ためやも
現代文  「沖の波や 岸の波がたとえどんなに立っていようとも あなたの お船の着く港に 波が立ちましょうか(いやけっして立ちますまい)」。
文意解説  「辺波(へなみ)」は岸に打ち寄せる波。「我が背子」は通常夫や恋人を指す。が、この場合は作者が男性なので、「わが主君」といったほどの意味である。結句の「波立ためやも」は前歌の「波立つなゆめ」を受けての一句。そして長田王の前々歌の内容から「ご主人様は水島に最大限の敬意を込めて赴こうとしていらっしゃるのですから」という気持ちを込めたうえ、「波立ためやも」(波立つことなどありましょうか)と結んでいる。

 発句「奥浪 邊波雖立 和我世故我」「沖つ波 辺波(へなみ)立つとも 我が背子が」と訓む。「奥浪」は「奥(おき)[沖]つ浪(なみ)」と訓む。「奥浪」は153番歌1句「奥波」と「なみ」の表記は違うが同句。間にツを読み添えて「奥(おき)[沖]つ浪(なみ)」と訓む。ツは、主として体言と体言との関係づけを行い、位置や場所について言うものが多い。また、「天つ神」と「国つ神」、「沖つ波」と「辺つ波」、「海(わた)つ霊(み)」と「山つ霊」、「上つ瀬」と「下つ瀬」など、対になって使われるものが多数を占める。「邊波雖立」は「邊波(へなみ)立(た)つとも」と訓む。「邊波(へなみ)」は「海辺に寄せる波。岸辺にうち寄せる波。へつなみ」の意。「雖立」は、「立つとも」と訓む。接続助詞「とも」は、確定的な事実について、仮に仮定条件で表して意味を強めるのに用いられる。ここも現に波が立っているが、たとえどんなに立っていようともの意。「和我世故我」は「わがせこ[背子]が」と訓む。「和」はワで、自称の代名詞ワに用いたもの。「我」はガ。「世故」はセコで、広く男性を親しんでいう「せこ[背子]」を表す。「せこ」は主として女性が用いるが、男性が他の親しい男性に対して用いる場合もあり、ここはその例で、石川大夫が長田王に対して用いたもの。「我」は上の「我」に同じ。

 結句「三船乃登麻里 瀾立目八方」「御船の泊り 波立ためやも」と訓む。「三船乃登麻里」は「み船(ふね)のとまり」と訓む。「三」はミで美称。「み船(ふね)」は、長田王が水嶋に向けて船出したその船をさす。「乃」はノ。「登麻里」はトマリ。「船が停泊すること。また、そのところ。船着き場。港」の意。「瀾立目八方」は「瀾(なみ)立ためやも」と訓む。「瀾」は「なみ」と訓む。「浪」、「波」、「瀾」と「なみ」の表記を変えているが、そのことについて、西宮『萬葉集全注』は「大浪・小波・怒濤の如きニュアンスを感じさせる用字である」としている。「立」は「立た」。「目八方」はメヤモ。「目八」はメヤ。「方」は「顔」の意の「面」に由来し、「面」が「(顔の向く)方向」をも意味した。「方」をモを表わす。
歴史解説

【巻3(248)。】
題詞  長田王の作歌。「又長田王作歌一首」。245・246番歌と同じく、長田王が「筑紫」に遣わされた時に作った歌である。説明が後になったが、「筑紫」は、古く、九州地方の称で、九州地方全体を指す場合、九州の北半、肥の国・豊国を合わせた地方を指す場合、筑前・筑後を指す場合、筑前国、もしくは大宰府を指す場合などがある。長田王が派遣されたのは南九州を含む九州地方一円であったことが、この歌からうかがえる。
原文  隼人乃  薩麻乃迫門乎  雲居奈須  遠毛吾者  今日見鶴鴨
和訳  隼人(はやひと)の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも我れは 今日見つるかも
現代文  「隼人の住む 薩摩の瀬戸を 遠くにじっとかかって居る雲のように はるか遠くに私は 今日(初めて)見たことだよ」。 
文意解説  この歌を理解するには地名と地形の理解が欠かせない。熊本県の西の海が八代海だが、水島はその北方に位置している。中ほどに芦北があり、南端に八代海を東シナ海から区切るように狭くなった海峡(瀬戸)がある。その東側が薩摩国(鹿児島県)である。芦北から八代海に出た船は北上していき、その南方遙かには薩摩国が望める。遙か南方には瀬戸水道があり、そこに雲がかっているという歌である。

 発句「隼人乃  薩麻乃迫門乎  雲居奈須」「隼人(はやひと)の 薩摩の瀬戸を 雲居なす」と訓む。「隼人乃」は「隼人(はやひと)の」と訓む。「隼人(はやひと)」は、古代、大隅・薩摩(鹿児島県)に住み、大和政権に従わなかった集団をいう。五世紀後半頃には服属したらしく、やがて中央に上番して宮門の警衛などに当たり、一部は近畿地方に移住した(畿内隼人と称される)。令制では隼人の司に管轄され、宮城の警衛に当たった。一方、在地の隼人は、律令時代に入って反乱を繰り返し、続日本紀には、文武四年(700)、大宝二年(702)、和銅六年(713)、養老四年(720)に、その反乱の記録がある。これらの反乱の原因の多くは、隼人支配の強化、特に造籍班田(戸籍を造り、田を収公し耕作させて稲を供出させること)に対する反抗であったと思われる。「はやひと」の呼称については、敏捷勇猛であることからハヤブサに因んで隼人と称されたとする説のほか、南風(はや)の地の人とする説もある。「乃」はノ。「隼人の」は「隼人の住む」の意。「薩麻乃迫門乎」は「薩麻(さつま)[薩摩]の迫門(せと)[瀬戸]を」と訓む。「薩麻(さつま)[薩摩]」は、九州南部、鹿児島県西半部の旧国名で、西海道11か国の一つ。古代は隼人族の居住地であった。鎌倉時代に島津氏が守護となり、江戸時代は一国一藩を形成したが、廃藩置県後、鹿児島県に編入された。「乃」はノ。「迫門」は、「せと」と訓み、「両方から陸地がせまった狭い海峡」の意。現在では「瀬戸」の字が宛てられるが、万葉集では「迫門」「湍門」の字が用いられている。「薩摩の瀬戸」は、鹿児島県出水郡の長島と同県阿久根市脇本黒之浜との間にある海峡で、いま「黒之瀬戸」と呼ばれている。「乎」はヲ。「雲居奈須」は「雲居(くもゐ)なす」と訓む。「雲居」は、遠くにじっとかかって居る雲の意。「奈須」はナスで、「…のように、…のごとく、」などの意を表す。

 結句「遠毛吾者  今日見鶴鴨」「遠くも我れは 今日見つるかも」と訓む。「遠毛吾者」は「遠(とほ)くも吾(われ)は」と訓む。「遠」は「遠(とほ)く」。「とほし」は、「空間・距離のへだたりが大きい。はるかに離れている。へだたっている」ことをいう。「毛」はモ。「遠(とほ)くも」は次句の「見つる」を修飾する。土屋文明『萬葉集私注』に「遠くも來りての意であらう」とするが、その意味はない。しかし、この句の語の排列は「はるばると国の果てまで来たものだ」という気分を醸し出しており、それを歌人の感性がとらえたものとしてみるとおもしろい。「吾(われ)」は作者の長田王。「者」はハ。「今日見鶴鴨」は「今日(けふ)見つるかも」と訓む。「今日(けふ)」は、「話し手が、今身を置いている、その日」をいう。「見鶴鴨」は、「見つるかも」と訓む。
歴史解説

【巻3(249)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。「柿本朝臣人麻呂覊旅歌(きりょか)八首」。この歌から8首。すなわち249~256番歌は柿本人麻呂が旅先で作った歌である。「覊旅歌」とは「旅に関する感懐を詠んだ和歌」のことをいい、和歌の部立ての一つとしても用いられた。「覊」は会意文字で、『字通』に「网(あみ)+革+馬。馬のおもがい、たづなをいう。〔説文〕七下に「馬の絡頭なり」とあるのはおもがい。羈絆はたづな。羈をとって旅するので、羈旅の意となる」とある。「おもがい」について、日本国語辞典は「馬具の緒の一つ。銜(くつわ)を固定するために、馬の顔につける緒。紐先を銜の立聞(たちぎき)にからませて、上の羂(わな)を馬の頭にかけ、小紐(こひも)を頸の下にまわして結び留める」と記している。人麻呂の「覊旅歌八首」の一首目である249番歌は、いわゆる難訓歌の一つで、4句5句について未だ定まった訓がなく、4句5句の六字についてもどこで区切るかで、二字・四字とするものと三字・三字とするものとに分かれている。
原文  三津埼  浪矣恐  隠江乃  舟公宣 奴嶋尓
和訳  御津の崎 波を畏(かしこ)み 隠江(こもりえ)の 船がしら告ぐ 奴島(のしま)に
現代文  「御津の崎で波が荒いので入り江に隠っていたが、波が漸く治まってきた。船が奴島に向けての出航を告げている」。
文意解説
 発句「三津埼  浪矣恐  隠江乃」御津の崎 波を畏(かしこ)み 隠江(こもりえ)のと訓む。「三津埼」は「三津(みつ)の埼(さき)」と訓む。「三津」は「御津」、「美津」の表記で既出。「三、御、美」は、いずれもミを表す。「津」は港。「三津」は、朝廷直轄の港であった「難波の港」を尊んでいったもの。「埼(さき)」は「崎、岬、碕」とも書かれ、「陸地が海や湖などの中へつきでた所」をいう。御津の崎(みつのみさき)は難波の御津(大阪)と解されている。「浪矣恐」は「浪(なみ)を恐(かしこ)み」と訓む。「海乎恐」を「海を恐(かしこ)み」と訓んだのと同じように訓む。「浪(なみ)」は「風や震動などによって水の表面に起こる起伏運動」をいう。「矣」はヲ。「矣」は、漢文の助字であって訓仮名とは認められず、訓読では読まない文字であることから、単なる添字とみなして訓み添えであるとする説もある。回りくどい説であり、漢文の助字「者而」をハテの訓仮名として扱うのと同じく「矣」もヲの訓仮名とみなすほうが萬葉集の用字の実態にあうように思う。「恐」は「かしこし」の語幹の「恐(かしこ)」で、「恐ろしいこと。恐れ多いこと」の意。下にミを補読する。「隠江乃」は「隠(こも)り江の」と訓む。「隠江乃」は、「隠沼乃」を「隠(こも)り沼(ぬ)の」と訓んだのと同じように「隠(こも)り江の」と訓む。「囲まれて外界と遮断されている中に入っていること。囲まれた中に入っている、あるいは、包まれていたり、含まれていたりして、外に出ない」ことをいう。「江(え)」は、元来は、川、海、湖、堀などの一般的な呼び名であるが、特に「陸に入り込んでいる部分」を指すことが多い。「隠(こも)り江」は「奥まった入り江」、「入り江に隠って居る状態」の意。

 結句「舟公宣 奴嶋尓」は「船がしら告ぐ 奴島(のしま)に」と訓む。「舟公宣奴嶋尓」は古来難訓で諸説紛々の状況である。「舟公宣」をどう読むべきかにつき、荷田信名『萬葉集童蒙抄』は「舟泊 宿奴島尓」と改めて「フネコギトメテ ヤドレヌシマニ」、賀茂真淵『萬葉考』は「舟令寄 敏馬崎尓」と改めて「フネハヨセナム ミヌノサキニ」、本居宣長『玉の小琴』は「舟八毛何時 寄奴島尓」と改めて「フネハモイツカ ヨセムヌシマニ」と訓んでいる。誤字説は他にもあリ、澤瀉『萬葉集注釋』のように「宣」の一字を「宿」の誤字としているものもある。鹿持雅澄『萬葉集古義』は「舟寄金津 奴島埼尓」と改めて「フネヨセカネツ ヌシマノサキニ」と訓んでいる。こういう誤字説はいかがなものだろうか。但し、原文に即して訓む論も諸説ある。まずは区切りについても議論百出している。三字・三字とする説としては、塚原鉄雄が「舟公宣」を「フナキミノリシ」、「奴嶋尓」を「ヌシマチカヅク」と訓んでいる。が、萬葉集で夥しく用いられている「尓」が「汝」の意に用いられたと思われる一例(1124番歌4句「尓音聞者(ながこゑきけば)」)を除き全てニとして用いられていることからすると、やはり無理があると思われる。塚原説以外は、「舟公」、「宣奴嶋尓」と区切っている。その訓みについても次の諸説がある。① フネコグキミガ ノルカヌシマニ 岸本由豆流『萬葉集攷證』。② フナビトキミガ ノリヌシマベニ 武田祐吉『萬葉集全註釈』。③ フネナルキミハ ユクカヌジマニ 土屋文明『萬葉集私注』。④ フネナルキミハ ノラスノシマニ 大浜厳比古「『舟公宣奴嶋尓』私訓ー 万葉歌結句中間切れについての考察」。⑤ フネナルキミハ ノルヌシマニト 井出至「柿本人麻呂の羈旅歌八首をめぐって」・『新潮日本古典集成』・伊藤博『万葉集釈注』。⑥ フネナルキミハ ノラスヌシマニ 西宮一民『萬葉集全注』。

 ここでは取りあえず「船がしら告ぐ奴島(のしま)に」と訓んでおく。「公宣」を「しら告ぐ」と訓む。「公」を「しら」と訓めるのかどうか、「宣」を「告ぐ」と訓めるのかどうか。これについては考証を要するが歌意には通じているように思える。「奴嶋」は、次歌(250番歌)の「野嶋之埼尓」とある「野嶋」のことで「のしま」と訓むとされている。「奴」はヌであるが、大野透『萬葉假名の研究』に「奴は例外的にノ(甲類)の假名に用ゐられる事もあるが、努の疎略な代用字として用ゐられてゐるのでなければ(現存の用例では固有名の慣用表記に於て代用されてゐる)、極めて特殊な技巧的用字に限られてゐる」とある。ここも議論を要する。「奴島」が「奴国」と関係している可能性も合わせて訓みが重要となっている。ノ、ナ、ヌとも読める。「尓」はニ。
歴史解説

【巻3(250)。】
題詞  柿本人麻呂の作歌。人麻呂の「覊旅歌(きりょか)八首」の二首目。
原文  珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴 一本云 處女乎過而 夏草乃 野嶋我埼尓 伊保里為吾等者
和訳  玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の 野島が崎に 船近づきぬ
現代文  「玉藻を刈っている(その様子を見ながら)敏馬を通過して行くと 夏草の(生い茂る) 野島の崎に (われわれの)舟はもう近づいてしまった」。
文意解説  難波を出た船は敏馬(みぬめ・・・神戸市灘区)を過ぎて野島(兵庫県の島)に近づいてきたという歌である。玉は美称。

 発句「珠藻苅 敏馬乎過 夏草之」玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草のと訓む。「珠藻苅」は「珠藻(たまも)苅(か)る」と訓む。「珠藻苅」は「玉藻苅」と「たま」の表記は異なるが同句。「珠藻」「玉藻」は、「たまも」と訓み「たま」は美称で、「美しい藻」の意。「苅」は「苅(か)る」。「かる」は「むらがって生えているものを短く切り払う」ことをいう。なお、「苅」は「刈」の俗字。「たまもかる」は、美しい藻を刈っているの意で、実際の景色を描写しながら、海辺の地名、「みぬめ、からに、をとめ、おほく、いらご、「あさか」などにかかる枕詞として用いられるようになる。ここは、次の「敏馬(みぬめ)」を修飾するのに用いたものであることは言うまでもないが、娘子たちが海藻を刈っている様子を実際に目にして詠ったものと考えられる。「敏馬乎過」は「敏馬(みぬめ)を過ぎて」と訓む。「敏馬」は、古く、「汶売、美奴売、三犬女、見宿女」等の文字で書かれることもあった所で、兵庫県神戸市灘区岩屋中町の式内社「敏馬神社」付近をいう。「乎」はヲ。「過」は「過ぎて」と訓む。「すぐ」は「ある場所の近くを通って、そこから離れ去って行く」ことをいう。「夏草之」は「夏草(なつくさ)の」と訓む。「夏草之」は枕詞として用いられ次の五つのかかり方がある。(1)地名「あひね」にかかる。「あひね」の所在およびかかり方未詳。一説に、夏の草が萎(な)えるの意で「ね」にかかるとも。(2)夏草の生えている野の意で、「野」を含む地名「野島」や「野沢」にかかる。(3)夏の草が日に照らされてしなえる意で、「思ひしなゆ」にかかる。(4)夏の草が繁茂するところから、「繁し」「深し」にかかる。(5)夏草を刈る意で、「刈る」と同音を含む「仮」「仮初(かりそめ)」に続く。ここは(2)の用例で次の「野嶋」にかかるが、これも「夏草が生い茂る」実景を詠ったものと考えたい。

 結句「野嶋之埼尓 舟近著奴」野島が崎に 船近づきぬと訓む。「野嶋之埼尓」は「野嶋(のしま)の埼(さき)に」と訓む。「野嶋」を、前歌(249)で行き先として宣言された所と訓み、現在の兵庫県淡路市野島の淡路島の北端から西側に約四キロの地としている。「之」はノ。「埼(さき)」は、「崎・岬・碕」とも書かれ、「陸地が海や湖などの中へつきでた所」をいう。「尓」はニ。「舟近著奴」は「舟(ふね)近著(ちかづ)きぬ」と訓む。今回の旅が船旅であることは前歌「舟公」からも分かるが、ここの「舟」は、今回の旅の一行が乗った船を指す。「近著」は「近著(ちかづ)き」と訓む。「著」は「着」と同字。「ちかづく」は「距離が近くなる。側に寄る。近寄る」ことをいう。「奴」はヌ。

 次に「一本云」の異伝(3606番歌に同じ)「一本云 處女乎過而 夏草乃 野嶋我埼尓 伊保里為吾等者」を見ておく。「處女乎過而」は「處女(をとめ)を過(す)ぎて」と訓む。この「處女(をとめ)」は地名で、兵庫県芦屋市から神戸市東部にかけての地域を指す。本文の「敏馬(みぬめ)」が都に少し近い「處女(をとめ)」に代わり、「而」で表記されているが、通過地点を詠んだものに変わりはない。「夏草乃」は「夏草の」と訓む。ノの表記は違うが本文に同じ。「野嶋我埼尓」は「野嶋(のしま)が埼(さき)に」と訓む。これも本文の「之」が「我」変更されているだけで、本文と同じと言える。この異伝が「野嶋(のしま)が埼(さき)」となっていることから、本文の「之」をガと訓む説がある。しかし、ガと訓むのは萬葉集では異例であり、人麻呂の原作はノと訓まれていたのが伝誦の間にガに転じたものと考えられる。「伊保里為吾等者」は「いほり[廬]為(す)吾等(われ)は」と訓む。「伊保里」はイホりで「いほり[廬]」を表す。「為」は「為(す)」。「いほりす」は「仮小屋を作って宿る」ことをいう。「吾等」は、一人称代名詞「われ」(複数)を表したもので、「吾等(われ)」と訓む。「者」はハ。
歴史解説

【巻3(251)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。人麻呂の「覊旅歌(きりょか)八首」の三首目である。
原文  粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 紐吹返
和訳  粟路(あはぢ、淡路) の 野島が崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す
現代文  「淡路の野島の崎の浜風に 妻が結んでくれた(旅の安全を祈ってくれた)着物の紐を(そのいとしい妻を思いながら)吹き返させている」。
文意解説  発句「粟路之 野嶋之前乃 濱風尓」「粟路(あはぢ、淡路) の 野島が崎の 浜風に」と訓む。「粟路之」は「粟路(あはぢ、淡路)の」と訓む。「粟路」は、旧訓にアハミチとあり、萬葉代匠記にアハヂと改められたもので、アハミチと訓まれていたことから、近江路と誤解されていたようで、玉葉集にはこの歌の初二句を「近江路の野島が埼の」として載せられている。しかし、ここは前の249・250番歌の続きからみて「淡路」でなければならず、また山部赤人作の933番歌の「淡路乃(あわぢの) 野嶋之海子乃(のしまのあまの)」とあって、淡路島の野嶋を詠ったものであることは明らかと言えよう。「之」はノ。「野嶋之前乃」は「野嶋(のしま)の前(さき、埼)の」と訓む。「野嶋之前」は前歌(250)の「野嶋之埼」に同じで「野嶋(のしま)の前(さき、埼)」と訓む。「前」は、「武良前野逝(むらさきのゆき)」に「さき」を表わすための借訓字として既出。ここも「埼」を表すための借訓字だが、わざわざ「前」の字を用いていることに何らかの意味があるように思われる。「前」の字通に「正字は歬、あるいは歬に刀を加えた形。止+舟+刀。止は趾(あし)ゆび。舟は盤。盤中の水で止(あし)を洗って、刀で爪を剪りえるのである。前は趾指の爪を切る意の字であるが、前後の意から前進、また往昔などの意となる」とあって、「爪をきりそろえる」というのが原義であり、「爪を切ることは修祓の儀礼」で「旅立ちの前や帰還の時に行う」としている。本歌の詠われた当時にそのような儀礼の風習がわが国にあったかどうかは不明だが、人麻呂は「前」の字に「これからの旅の安全を祈念する気持を込めて用いた」と考えるのは穿ち過ぎであろうか。「乃」はノ。「濱風尓」は「濱風に」と訓む。「濱風」は「浜に吹く風」の意。「尓」は二で「~によって」の意。

 結句「妹之結 紐吹返」「妹が結びし 紐吹き返す」と訓む。「妹之結」は「妹(いも)が結びし」と訓む。「妹」は大和に残して来た愛(いと)しい妻を指す。「之」はガ。「結」はシを補読して「結びし」と訓む。「結」は「むすぶ」の已然形に完了の助動詞リの連体形ルを補読して「結べる」と訓むことも可能であるが、澤瀉『萬葉集注釋』は、山田『萬葉集講義』の説を引いて次のように述べて「結びし」と訓むべきであるとしている。「講義には「ムスベル」とよむときは、その紐を主としていひ、「ムスビシ」とよむときは、その結びし人を主としていふ如き心持ちがあるとして、「その紐を風の吹き翻すにつけて妹をしのぶものなるべければ、なほ『ムスビシ』とよむ方やよからむ」とあるは大體當を得てゐる。なほ云へば、(中略)「結べる」は今現に結ばれてゐる紐について云ひ、「結びし」は結んだ折の妹を偲んでの言葉といふべきであらう」。なお、「結びし紐」の意味について、阿蘇『萬葉集全歌講義』に「旅立ちの際に、妻が夫の衣の紐を結ぶのは、夫の道中の無事を祈り、再会を誓う呪的儀礼としての行為」であると解説している。「紐吹返」は「紐(ひも)吹き返す」と訓む。「紐」は、下紐が詠まれている場合もあるが、ここは風に吹き返されるのであるから「上衣をとめる為の紐」と考えて良い。「吹返」は、「袖吹反」の「吹反」と同じく「ふきかへす」で「吹き返す」と訓む。「ふきかへす」は「ふく」の連用形「ふき」+「かへす」でできた複合動詞で、「風が吹いて、衣服の袖や裾や紐などを翻す」ことをいう。澤瀉『萬葉集注釋』は、「濱風に」と「吹き返す」とのつながりに疑問を持って詳しく論考を加えているが、その結論として「『濱風に吹きかへす』は『濱風に吹きかへさせる』意であるが、それは『吹きかへさしむ』と云ふ程強くなく、『濱風が吹きかへす』又は『濱風に吹きかへる』とはちがつてをり、軽い使役、即ち「濱風の吹きかへすにまかす」といふに近い意味をあらはすものと解すべきである」としている。「妹が結びし紐」は出立に際し、妻が結んでくれた紐のことである。「妹が結びし」が歌のポイント。作者人麻呂の心情が手に取るように伝わってくる。
歴史解説

【巻3(252)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。人麻呂の「覊旅歌(きりょか)八首」の四首目である。
原文  荒栲 藤江之浦尓 鈴木釣 泉郎跡香将見 旅去吾乎 一本云 白栲乃 藤江能浦尓 伊射利為流
和訳  荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 海人とか見らむ 旅行く我れを
現代文  「(あらたへの) 藤江の浦で 鱸を釣る。浜行く人は私を海人(あま)と見るだろうか(公務を帯びて旅をしているこの私を)」。
文意解説  発句「荒栲 藤江之浦尓 鈴木釣」荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に 鱸(すずき)釣ると訓む。「荒栲」は「荒栲(あらたへ)の」と訓む。「荒(あら)」は語素で、主として名詞の上について、これと熟合して用いられるが、ここでは「十分に精練されていないさま、粗製の、雑な、細かでない、すきまの多い」意を表わす。「栲(たへ)」は、梶や藤の木などの繊維で織った純白で光沢がある布。上代では、織り目のあらい織物を総称して「荒栲(あらたへ)」と言ったが、中古以降は、絹織物を「和栲(にきたへ)」と言うのに対して、「荒栲(あらたへ)」は麻織物のことを指すようになる。ここは、ノを補読して「あらたへの」と訓む。「あらたへの」(50番歌5句に「荒妙乃」の表記で既出)は、「あらたへ(繊維のあらい布)を作る材料である藤」というつづきで「藤」を含む地名「藤原」「藤井」「藤江」にかかる枕詞。ここは、次の「藤江」にかかる。「藤江之浦尓」は「藤江(ふぢえ)の浦(うら)に」と訓む。「之」は連体修飾の格助詞「の」で、「藤江(ふぢえ)の浦(うら)」は、現在の兵庫県明石市藤江付近の海岸。「尓」はニ。「鈴寸釣」は「すずき[鱸]釣(つ)る」と訓む。「鈴寸」は「鱸(すずき)」を表すための借訓字 (「寸」は「き(甲類)」の常用訓仮名) 。「鱸(すずき)」は、スズキ科の海産魚で、全長は約1メートルに達する。北海道から九州までの沿岸に分布し、釣り魚として今も人気がある。「釣」は「釣(つ)る」。「つる」は「魚や虫などを釣り針や糸にひっかけて取る」ことをいう。

 結句「泉郎跡香将見 旅去吾乎 一本云 白栲乃 藤江能浦尓 伊射利為流」海人とか見らむ 旅行く我れをと訓む。「白水郎跡香将見」は「白水郎(あま)[海人]とか見(み)らむ」と訓む。「白水郎」は既出で「あま」と訓む。何故「白水郎」が「あま[海人]」の意となるかについては諸説があるが、小島憲之『上代文学と中国文学』に中国の「会稽郡(浙江省)白水郷(地方)の漁民達が有名であり、やがてその漁業を生業とする者の代名として「白水郎」の名をもつてするやうになつたものと思はれる」とあるのが有力な説と言えるだろう。「跡」はト。「香」はカで、疑問の係助詞に用いたもの。「将見」は「見らむ」と訓む。推量の助動詞「らむ」は終止形に接続するのが通例だが、上代では上一段動詞ではミラムという風に連用形に続いた(55番歌4句にも「見良武」とあった)。「旅去吾乎」は「旅去(ゆ)く吾(われ)を」と訓む。この「旅(たび)」には、宮廷に仕える官人としての公務の旅であるとの思いが込められているように思われる。「去」は「去(ゆ)く」と訓む。「たびゆく」の語は「客去君跡[客(たび)去(ゆ)く君と]」に既出。「吾(われ)」は、この歌の作者である人麻呂。「乎」はヲ。

 「一本云」の異伝(3607番歌に同じ)を見ておく。1句「白栲乃」は「白栲(しろたへ)の」と訓む。「白栲(しろたへ)の」は「荒栲(あらたへ)の」と同じ意で、次の「藤江」にかかる枕詞。2句「藤江能浦尓」は「藤江(ふぢえ)の浦(うら)に」と訓む。ノが「能」となっているだけの違いで本文と同句と言える。3句「伊射利為流」は「いさり為(す)る」と訓む。「伊射利」はイサりで、漁をすることを意味する「いさり」を表す。「いさり」は、磯や潟で貝を採る「あさり」に対して、舟で沖に出てする漁をいう。「為流」は「為(す)る」を表わす。「流」はル。
歴史解説

【巻3(253)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。人麻呂の「覊旅歌(きりょか)八首」の五首目である。
原文  稲日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見 [一云 湖見]
和訳  稲日野(いなびの)も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古(かこ)の島見ゆ
現代文  「稲日野も 行き過ぎかねるように 思っているのに 心惹かれる 加古の島が見えてきた(あるいは「港が見えてきた」ともいう)」。
文意解説  発句「稲日野毛 去過勝尓 思有者」「稲日野(いなびの)も 行き過ぎかてに 思へれば」と訓む。「稲日野毛」は「稲日野(いなびの)も」と訓む。「稲日野(いなびの)」は地名で、14番歌に「伊奈美國波良」と詠われた「印南国原」と同じく、明石から加古川あたりにかけての平野を指す。ビとミは音が近くイナミをイナビとも言ったもので、古事記(景行記)に「針間之伊那【田偏に比】(はりまのいなび)」とあるのも「播磨の印南」のことである。また播磨風土記の「賀古の郡」に、景行天皇が「印南の別嬢(わきいらつめ)」に求婚した時に、それを聞いて驚いた別嬢が「南毗都麻(なびつま)の嶋」に逃げ渡ったが、別嬢の白い飼い犬が海に向かって吠えたので、天皇はこの島に別嬢がいることを知って島に渡り別嬢と結婚したという説話を載せている。「毛」はモ。「去過勝尓」は「去(ゆ)き過ぎかてに」と訓む。「去過」は、「去過難寸[去(ゆ)き過ぎ難(かた)き]」として既出。「去」は「去(ゆ)き」。「過」は「過ぎ」。「勝尓」は「かてに」と訓む。「かてに」については、95番歌の「難尓[難(がて)に]」のところで詳しく述べたが、奈良時代には既に二が否定のズの連用形であるということは忘れられ、「かてに」は「がてに」に移行しつつあり、一つのまとまった語として、動詞の連用形に付いて、「…することができずに、…するにたえなくて」の意に用いられていたと考えられる。ここでは次の「思ふ」に続いて「~かてに思ふ」で「~かねるように思う」の意となる。「思有者」は「思(おも)へれば」と訓む。「思」は「思(おも)へ」。「有」は、オモヘレバはオモヒアレバの約であることから「有」の字で表記されている。「者」はバ。このことについて、澤瀉『萬葉集注釋』は次のように述べている。
 「『れば』は完了の助動詞『り』の已然形に『ば』がついた條件法で、『何々してゐると』と譯されてよいが、後世順接にのみ用ゐられるのが、逆接にも用ゐられる事、「盡きねば」(二・一九九)の條で述べたやうに。ここも印南野の景にも心惹かれてゐるに又前方には ー という意であるから逆接に近い心持ちで用ゐられてゐる」。

 結句「心戀敷 可古能嶋所見 [一云 湖見]」「心恋しき 加古(かこ)の島見ゆ」と訓む。「心戀敷」は「心戀(こほ)しき」と訓む。67番歌「物戀之伎尓」を「物(もの)戀(こほ)しきに」と訓んだのと同様に「戀敷」は「戀(こほ)しき」と訓む。「敷」はシキ。「可古能嶋所見」は「可古(かこ)の嶋(しま)見ゆ」と訓む。「能」はノ。「可古(かこ)の嶋(しま)」は、兵庫県の加古川河口にあった三角州の島状であったものを指したものかと思われるが、播磨風土記の説話の別嬢が隠れた「南毗都麻(なびつま)の嶋」を思い浮かべて、人麻呂が「心戀(こほ)しき」と詠ったものかも知れない。「所見」は「見ゆ」と訓む。[一云 湖見]は、[一に、湖(みなと)見ゆ、と云ふ] と訓む。この異伝は、「可古(かこ)の嶋(しま)見ゆ」を「可古(かこ)の湖(みなと)見ゆ」とするものである。「みなと」は「河口の船着き場」の意。「湖」を「みなと」と訓む従来の説は八音の字余りとなることから、「みと(水門)」と訓む説もあるが、萬葉集で使われている「湖」の五例が全て「みなと」と訓まれていることから、ここも「みなと」と訓む。

 (懐かしくて)「過ぎかてに思へれば」(過ぎ去りがたく思っていると)ほどなく「あの恋しくてならなかった加古の島が見えてきた」という歌である。原文は異伝に「湖見」とあると注記している。湖は「港(水門)」が定説だが原文は「可古能嶋所見」となっている。異伝は「嶋所見」の部分が「湖見」となっている。が、そう解釈すると、島が消えてしまって「水門見ゆ」とせざるを得なくなる。島が焦点になっている歌が水門(みなと)が焦点の歌になってしまう。河口は非常に広く大きく、漠然としている。船上から眺めて「心恋しき加古の島」ならぴったりだが、「心恋しき加古の水門」では茫洋としてぴんとこない。定説に異を唱えるようだが、「嶋所見」の異伝は所を湖に代えた「嶋湖見」の意だと思う。つまり湖はうみ。「嶋湖見」は「島み見ゆ」ではなかろうか。「島み」はむろん島の入り江のことである。「島み」が入り江の意で使用されるのは42番歌の「潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を」で分かる。
歴史解説

【巻3(254)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。人麻呂の「覊旅歌(きりょか)八首」の六首目である。
原文  留火之 明大門尓 入日哉 榜将別 家當不見
和訳  燈火(ともしび)の 明石大門(おおと)に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
現代文  「灯火(ともしび)の明石の大きな海峡に(船が)さしかかる日には(大和とも)漕ぎ別れてしまうことであろうか。もう(妻子のいる)家のあたりは見られない」。
文意解説  発句「留火之 明大門尓 入日哉」「燈火(ともしび)の 明石大門(おおと)に 入らむ日や」と訓む。「留火之」は「留火(ともしび、灯火)の」と訓む。写本の多くがトモシヒノと訓んでいるが、「留」をトモシと訓みがたいとして、「留」は「蜀」の誤写で「蜀火」でトモシビと訓むのだという説が唱えられたりした。しかし、春日政治「萬葉集と古訓點」は、この「留」はトマルと訓むが、トモルとも訓み得ることを示したあと、「さうして燭(トモ)る(自動)に假用する事が可能ならば他動トモスに假用することも成立ち得ると解する」と述べている。このことから「留火」のままでトモシビと訓む。「之」はノ。「ともしびの」は次の「明(あかし)」にかかる枕詞。「明(あかし)」は「ともしび。あかり」の意であり、「ともしび」=「あかし」である所から、地名「明石」の枕詞としたものと考えられる。「明大門尓」は「明(あかし)[明石]大門(おほと)に」と訓む。「明」は地名「明石」を表す。「大門(おほと)」は、ここでは「大きな海峡」の意。「明大門」は「明石海峡」のことで、明石市と淡路島の北端との間の幅約四キロの海峡。今は明石海峡大橋(1998年4月に開通)がかかっている。「尓」は二。「入日哉」は「入(い)らむ日や」と訓む。「入日」は「入(い)らむ日」と訓み、船が明石海峡にさしかかる日のことをいったもの。「哉」はヤ。この句は澤瀉『萬葉集注釋』ではイルヒニカと訓んでおり、その事に触れながら、阿蘇『萬葉集全歌講義』は次のように述べており、ここではその説に従った。
 「注釈に、「イラムと訓めばムの表記を略した事になり、イルヒニと訓めばニの表記を略した事になるが、人麻呂の作には助動詞『む』の表記を略した例はなく、助詞『に』はよく略されてをり『入日』はイルヒと訓む事が極めて自然であり、船が明石海峡に入る日は未然であるが、『都べに多都日近づく』(十七・三九九九)などの例もあつて、イラムと『む』を入れる必要はない」とした。しかしながら、人麻呂の作に助動詞「む」の表記を略した例は「貴在等」(2・一六七)、「為便」(2・一九六、二一三)のようにあることはあるのであって、イラムヒと訓めないわけではない。木下正俊『万葉集語法の研究』が説くように、未来時に関する時間前提格用法として、イラムヒヤと訓みたい。「多都日」(17・三九九九)の場合、確定的予定であって単なる未来推量ではないという違いが明らかになるであろう」。
 木下正俊の「未来時に関する時間前提格」とは、日・時・朝(あした)などの時間語を使って、「Aする時に(Bするであろう)」の意を表すのに用いられる「完了性の仮定条件に似た時間前提を行なう格」のことをいう。

 結句「榜将別 家當不見」「漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず」と訓む。「榜将別」は「榜(こ)ぎ別れなむ」と訓む。「榜」は「榜(こ)ぎ」。「こぐ」は「櫓(ろ)や櫂(かい)などを用いて船を進める」ことをいう。なお、現在「こぐ」に用いられる「漕」の文字は萬葉集中には見られない。「将別」は「別れなむ」と訓む。「わかる」は「大和から離れ去る」ことを言ったもので、明石海峡は畿内の西の限界であり、海峡を越えればもう畿外で家との絆は完全に切れてしまうという強烈な哀感が結句の表現を生んだと考えられる。「家當不見」は「家のあたり見ず」と訓む。「家當」は、「君之當者[君があたりは]」に準じて、ノを補読して「家(いへ)のあたり」と訓む。「當」は「あたり(辺り)」と訓む。「不見」は「見ず」と訓む。結句は倒置の形で、家のあたりを見ずに漕ぎ別れてしまうことであろうかの意となる。

 「燈火(ともしび)の」を岩波大系本は枕詞としている。全万葉歌中「燈火の」を枕詞的に用いた例は他に一例もない。2642番歌の「燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ」のように「燈火の」は文字通り「こうこうと照らす明かり」の意味で使われている。「入日哉」を、どの諸家も「明石にさしかかる日」と解している。しかしここは「入らむ日や」又は「日入らむや」と訓じた方がより適切であろう。明石海峡は夕日を浴びてまさに「燈火の」と形容するに相応しい瞬間なのである。「背後の家の大和方面もこうこうと照る夕日で見えない」というのが歌意で、夕日の美しさ輝かしさ、旅情、別離の情が混然一体となった名歌の誕生となるのである。
歴史解説

【巻3(255)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。人麻呂の「覊旅歌(きりょか)八首」の七首目である。柿本人麻呂が、旅の帰路にあって、明石にさしかかり、奈良の家で待つ妻のことを思いながら詠ったとされている。
原文  天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見 [一本云 家門當見由]
和訳  天ざかる 鄙(ひな)の長路(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島(やまとじま)見ゆ[一本云 家のあたり見ゆ]
現代文  「空遠く離れた 遠い地方からの長い道のりを通って、ずっと都を恋しく思いながら明石海峡までやってきたら、その先に恋しい大和が見える」。
文意解説  明石からは確かに紀伊半島は見える。しかし奈良を見るには苦しい。 「天離る鄙の長道ゆ」(あまざかるひなのながぢゆ)は、「大和から遠く離れた田舎の長旅をやってきて」である。前歌が往路でこの歌が復路。同じ明石海峡に関連する歌を隣り合わせに置いたのは編者の美学だろうか。

 発句「天離 夷之長道従 戀来者」「天ざかる 鄙(ひな)の長路ゆ 恋ひ来れば」と訓む。「天離」は「天(あま)離(ざか)る」と訓む。「天離」は人麻呂の「近江荒都歌」(29番歌)と同句。「天(あま)」は、「あめ」の母音交替形で、アマ…、アマノ…、アマツ…などの形で複合語を作ることが多い。上代では、アマ…はアマカケル・アマギラフ・アマクダル・アマザカル・アマテル・アマトブなど動詞の例がめだつ。「離」は、その字義に「かかる、はなす、はなれる」などがあることから、「はなれる、遠ざかる」を意味する和語「さかる」にこの字をあてた。「あまざかる」は「空遠く離れる」意であるが、枕詞として「向(むか)つ」または「鄙(ひな)」にかかる。この語の清濁は、時代によって異なり、日本書紀の歌謡例では、アマサカルとよめるし、万葉集のかな書きの例では、アマサガルが1例、アマザカルが16例である。日葡辞書では、アマサガルとアマサカルの両形があり、謡曲ではアマサガルといっていたらしい。ここでは万葉集で用例が多い「あまざかる」を採った。「夷之長道従」は「夷(ひな)の長道(ながち)ゆ」と訓む。「夷」は、「えびす、東方の族」が本義。これを「ひな」と訓むのは、和名類聚抄の郡名一覧に、安房国朝夷郡とあり、その記載郡名訓が「阿左比奈(あさひな)」とあることによる。「ひな」は「都から遠く離れた所。いなか」の意。「之」はノ。「長道」は「ながち」と訓み、「道のりが長く遠い道」の意だが、ここは遠い西の地方(九州と思われる)からの海路を辿って来たことを言ったもの。「従」はユ。「より」を意味し、「~を通って」の意。「戀来者」は「戀(こ)ひ来れば」と訓む。「戀」は「恋」の旧字で、「戀(こ)ひ」。ここの「こふ」は「都を恋しく思う」ことをいう。「来者」は「来(く)れば」と訓む。「く」は、「空間的に近づく」ことを意味するが、ここではその意とともに、「戀(こ)ひ」に付く補助動詞として「ずっと…する」の意をも表していると考えられる。「夷(ひな)の長道(ながち)ゆ戀(こ)ひ来(く)れば」は「遠い地方からの長い道中ずっと都を恋しく思いながら来ると」の意。

 結句「自明門 倭嶋所見 [一本云 家門當見由]」「明石の門(と)より 大和島(やまとじま)見ゆ[一本云 家のあたり見ゆ]」と訓む。「自明門」は「明(あかし)[明石]の門(と)より」と訓む。「自」は「従」と同じく「より」を意味する。漢文式の表記で前にあるが日本語の語順では後に訓む。「明門」は「明(あかし)の門(と)」と訓み、「明(あかし)[明石]大門(おほと)」と同じく「明石海峡」のことで、明石市と淡路島の北端との間の幅約四キロの海峡をいう。「倭嶋所見」は「倭嶋(やまとしま)[大和島] 見ゆ」と訓む。「倭嶋」は「やまとしま」と訓む。「倭」は、わが国の古名として中国の史書に見え、それをそのまま「やまと」の表記に用いていたが、天平宝字元年(757)以降は「大和」と書かれるようになった。「嶋」は「島」の旧字。「倭嶋(やまとしま)[大和島]」は、大和国(奈良県)を中心とする地域をいうが、明石海峡から大和国と河内国(大阪府)との国境にある生駒・金剛山地の連山が島のように望まれるところから特にそのように言ったもので、多く、海から見ていう時に用いられた。「所見」は「見ゆ」と訓む。[一本云 家門當見由] は[一本に云ふ 家門(いへ)のあたり見(み)ゆ]と訓む。「家門當」は、「家當」を「家(いへ)のあたり」と訓んだのと同じく、「家門」を「家門(いへ)の」と訓み、「當」は「あたり(辺り)」を表わすための借訓字とみて「家門(いへ)のあたり」と訓む。「見由」は「所見」と同じく「見ゆ」と訓む。「由」はユ。
歴史解説

【巻3(256)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。人麻呂の「覊旅歌(きりょか)八首」の最後八首目である。
原文  飼飯海乃  庭好有之  苅薦乃 乱出所見 海人釣船 一本云 武庫乃海 舶尓波有之 伊射里為流 海部乃釣船 浪上従所見
和訳  笥飯(けひ)の海の 庭よくあらし 刈薦(かりこも)の 乱れて出づ見ゆ 海人(あま)の釣船
現代文  「笥飯(けい)の海の 漁場は穏やかであるらしい 刈薦のように 乱れた状態で漕ぎ出ているのが見える 漁夫の釣り船が」。
文意解説  発句「飼飯海乃  庭好有之  苅薦乃」「笥飯(けひ)の海の 庭よくあらし 刈薦(かりこも)の」と訓む。「飼飯海乃」は「飼飯(けひ)の海の」と訓む。「飼飯(けひ)の海」は、淡路島の西海岸にあたる、現在の兵庫県南あわじ市慶野の慶野松原の海岸。訓は「けひのうみの」と字余りになっているが、「けひうみの」と訓じてもよいのではなかろうか。「乃」はノ。「庭好有之」は「庭好(よ)く有(あ)らし」と訓む。庭は庭のように見える海面のこと。「庭」については、日本国語大辞典は四つの意味を挙げている。①何かを行なうための場所。②水面、海面。③家屋の周りの空地。のち、草木を植え、築山、泉水をしつらえた所。④家の入り口、台所、店先などの土間。ここは②の意。家などの生活空間の周辺にあって、狩猟、農事などを行なう地域を表わすのが原義である。語源は諸説あるが、「ニ(土。丹と同根)+ハ(場)」が考えられる。海面を指す本歌の例も、海全体を指すウミやワタツミと異なり、眼前の一部の海面であり、海人にとっての生活の場・作業場・漁場としての意味と解される。「好」は「好(よ)く」と訓み、海面が穏やかである事を「よし」と言ったもの。「有之」は、「あるらし」が約まったもので「有(あ)らし」と訓む。「之」はシ。「苅薦乃」は「苅薦(かりこも)の」と訓む。「刈り取ったこも」の意。96・97番歌に「み薦(こも)苅(か)る」とあった。「こも」は、植物「まこも(真菰)」の古名でムシロの材料に使用される。「かりこもの」は、刈り取ったこもの乱れやすいところから「みだる」にかかる枕詞。

 結句「乱出所見 海人釣船」「乱れて出づ見ゆ 海人の釣船」と訓む。「乱出所見」は「乱れて出(い)づ見(み)ゆ」と訓む。「乱」はテを補読して「乱れて」と訓む。「出」は「出(い)づ」。「所見」は「見ゆ」。この句「乱れ出(い)づ見ゆ」と「乱れ」に続くテを補読しないで訓む説もあるが、「乱れ出(い)づ」は「これからばらばらに漕ぎ出る」の意となり、「乱れて出(い)づ」の「漕ぎ出ている船が乱れて状態にある」の意とは異なる事を指摘して、「乱れて出(い)づ見ゆ」と訓むとした鶴久の説(「『乱れいづ見ゆ』か『乱れていづ見ゆ』か」万葉昭和34年一月)に従った。また、句中に「出(い)づ」の単独母音音節を含んでいるから準不足音句と認められるのでテを補読する方が望ましいと言える(木下正俊『万葉集語法の研究』)。「海人釣船」は「海人(あま)の釣船(つりぶね)」と訓む。「海人(あま)」は、海または湖で魚類、貝類、海藻などを取るのを業とする人のことで、上代には諸所に置かれた海人部(あまべ)に属し、海産物を朝廷に貢納し、航海にも従事した。「漁夫。漁人。いさりびと。りょうし」の意。次の「釣船」を修飾しているのでノを補読する。「釣船(つりぶね)」は「釣りをするのに使う船。また、釣りをしている船」をいう。

 「一本云」の異伝「一本云 武庫乃海 舶尓波有之 伊射里為流 海部乃釣船 浪上従所見」(3609番歌にほぼ同じ)の「武庫乃海」は「武庫(むこ)の海の」と訓む。「武庫の海」は、現在の兵庫県の尼崎市から西宮市にかけての海をいう。「舶尓波有之」は「舶には有(あ)らし」と訓む。「舶」は「船」に同じ。「尓波」は二ハ。「尓波」を「庭」と採って「船庭(ふなには)」=「良い漁場」と解する説もある。「有之」は「有(あ)らし」。「伊射里為流」は「いさり為(す)る」と訓む。252番歌「伊射利為流」と「り」の表記のみが異なるだけで同句。「伊射利」はイサり。漁をすることを意味する「いさり」を表す。「為流」は、「為(す)る」を表わす。「流」はル。「海部乃釣船」は「海部(あま)の釣船(つりぶね)」と訓む。本文5句「海人釣船[海人(あま)の釣船(つりぶね)]」と表記は違うが同句。「海部」は「海人部(あまべ)」(大化前代、阿曇連の領有支配をうけて、海産物を大和政権に貢納した集団)を意味するが、ここでは「あま」と訓む。「浪上従所見」は「浪(なみ)の上(うへ)ゆ見ゆ」と訓む。「従」は、「より」を意味する漢文の助字だが、経由を表すユに用いたもの。「浪(なみ)の上(うへ)ゆ」は波の上を経由しての意。「所見」は「見(み)ゆ」。

 多くの漁船が入り乱れて海面に出てきた様子を詠っている。
歴史解説

【巻3(257)。】
 巻3(257)。
題詞  鴨君足人(かものきみのたりひと)の作歌。「鴨君足人香具山歌一首 并短歌 」。長歌と短歌は鴨君足人(かものきみのたりひと)作。 「君」は姓(かばね)。天平宝字三年(759)に「君」の姓を持つ者は「公」字に換えよの命が出た。藤原宮跡の近く、奈良県橿原市縄手町に「鴨公小学校」があり、「鴨公」の名が残っているが、このあたりに本歌の作者は、住んでいたものと思われる。本歌は、19句からなる長歌で、題詞に[并短歌]とあるように反歌二首(258・259番歌)を伴っている。また「或本歌云」として異伝(260番歌)があり、その左注に「右今案 遷都寧樂之後怜舊作此歌歟〈右、今案(かむが)ふるに、都を寧樂(なら)に遷したる後に舊(ふ)りぬるを怜(あはれ)びて此の歌を作るか〉」とある。これらの歌群(257~260)は、左注にある通り、平城遷都後に旧都を訪ねた足人(たりひと)が懐旧の情を催して詠んだものに相違ないだろう。
原文  天降付 天之芳来山 霞立 春尓至婆 松風尓 池浪立而 櫻花 木乃晩茂尓 奥邊波 鴨妻喚 邊津方尓 味村左和伎 百礒城之 大宮人乃    退出而 遊船尓波 梶棹毛 無而不樂毛 己具人奈四二
和訳  天降(あも)り付(つ)く 天(あめ)の芳来山(かぐやま)[香具山] 霞(かすみ)立(た)つ 春(はる)に至(いた)れば 松風(まつかぜ)に 池浪(いけなみ)立(た)ちて 櫻花(さくらばな) 木(こ)の晩(くれ)茂(しげ)に 奥(おき)[沖]邊(へ)には 鴨(かも)妻(つま)喚(よ)ばひ 邊(へ)つ方(へ)に あぢむらさわき 百礒城(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)の 退(まか)り出(で)て 遊(あそ)ぶ船(ふね)には 梶(かぢ)棹(さを)も 無(な)くてさぶしも こぐ人(ひと)なしに
現代文  「天から降ってきたという 天の香具山 霞の立つ 春になると 松の梢を吹く風に (麓(ふもと)の埴安(はにやす)の)池の波が立ち 桜花は 木陰いっぱいに咲き茂り 池の沖の方では 鴨が妻を求めて鳴き立て 岸辺の方では あじ鴨の群れが鳴き騒ぎ 百の礒で築いた城とも讃えられる 大宮にお仕えする人々が 御殿から退出して 遊んだ船には 楫も棹もなくて さびしいことだ (今はその船を)漕ぐ人もなくて」。
文意解説  発句「天降付 天之芳来山」「天降(あも)り付(つ)く 天(あめ)の芳来山(かぐやま、香具山)」と訓む。「天降」は、「安母理(あもり)」の仮名書きで既出、天(あま)降(お)りの約で、天上から地上に降りることをいう。伊予国風土記の逸文に「自郡家以東北、在天山。所名天山由者、倭在天加具山。自天々降時、二分而、以片端者、天降於倭国。以片端者、天降於此土。因謂天山、本也」(「郡の役所より東北の方角に天山(あまやま)がある。天山と名付けている理由は、大和の国に天(あめ)の加具山(かぐやま)がある。その山が天から降って来た時に二つに割れて、片方は大和の国に天降(あまくだ)った。片方はこの伊予の国に天降った。これが天山と名付けている本縁である」)(新編日本古典文学全集)という話を伝えている。この伝説によって、「天降(あも)り付(つ)く」は、「天の香具山」「神の香具山」にかかる枕詞として用いられている。「天の香具山」は、「天乃香具山、天之香来山」の表記で既出、ここでは「天之芳来山」と表記。「天」は「あめ」で神ののぼりいますところ。「之」はノ。「芳来」はカグ。万葉集の「かぐやま」を表わすために使用された三例(28・199・257[本例]番歌)のみである。

 2句「霞立 春尓至婆」「霞(かすみ)立つ 春に至れば」と訓む。「霞立」は既出。「霞(かすみ)立つ」は枕詞で、霞が春に立つところから春にかかり、また同音「かす」により地名「春日(かすが)」にかかるが、ここは次の「春」にかかる。「尓」はニ。「至」は「至れ」。「いたる」は「ある時期、時節になる」ことをいう。「婆」はバ。

 3句「松風尓 池浪立而」「松風に 池浪(いけなみ)立ちて」と訓む。「松風は「松の梢に当たって音をたてさせるように吹く風」をいう。「尓」は二。「池浪(いけなみ)」は、「池の中にたつ波」をいうが、ここの「池」は、香具山の北麓から西麓にかけてひろがっていたという埴安(はにやす)の池を指すものと思われる。「立」は「立ち」。「たつ」は「風、波などが起こり動く」ことをいう。「而」はテ。

 4句「櫻花 木乃晩茂尓」「櫻花(さくらばな) 木(こ)の晩(くれ)茂(しげ)に」と訓む。「櫻花(さくらばな)」は「桜の花」。829番歌に「烏梅能波奈(うめのはな) 佐企弖知理奈波(さきてちりなば) 佐久良婆那(さくらばな) 都伎弖佐久倍久(つぎてさくべく)」という仮名書き例がある。日本国語大辞典の「さくらばな」の【補注】に「『桜』『桜花』『花桜』ともに歌語として使用例があるが、具体的な相違は明確ではない。散文では『桜の花』と表現される」とある。「木(こ)の晩(くれ)」は「木が茂って暗いこと。また、そのところ。こぐれ」の意。「茂尓」は「茂(しげ)に」。「木(こ)の晩(くれ)茂(しげ)に」は「木陰が暗くなるほどの茂みの状態で(咲く)」の意。

 5句「奥邊波 鴨妻喚」「奥(おき)[沖]邊(へ)には 鴨(かも)妻(つま)喚(よ)ばひ」と訓む。「奥」を「沖」の意で用いている。「邊」は「辺」の旧字。「奥(おき、沖)邊(へ)」は、「沖方」とも書き、「沖のほう。遠くの海上。沖のあたり」の意。下に二を読み添える (澤瀉『萬葉集注釋』は原文「尓波」とあったのではないかと推論している) 。「波」はハ。「鴨(かも)」は、ガンカモ科の鳥のうち、比較的小型(全長40~60センチ)の水鳥の総称。「妻」は、字通に「髪飾りを整えた婦人の形。髪に三本の簪(かんざし)を加えて盛装した姿で、婚儀のときの儀容をいう」とある。「喚」は、名義抄に「喚。サケブ・メス・ヨバフ・ヨブ」とあり、207番歌では「よぶ」に使われていたが、ここは「喚(よ)ばひ」と訓む。「よばふ」は「呼び続ける」の意で、「鴨(かも)妻(つま)喚(よ)ばふ」は「雄鴨が雌鴨を求めて鳴き続ける」ことをいう。

 6句「邊津方尓 味村左和伎」「邊(へ)つ方(へ)に あぢむらさわき」と訓む。ここの「邊(へ)」は、「沖」に対して「岸辺」を意味するのに用いたもの。「津」はツ。「方」は「辺」と同じくへと訓み、「あたり。ほとり。そば」の意だが、方向を意味する表記とも言える。「尓」はニ。「味」はアジ。ここの「あぢ」は鴨の一種である「あぢがも」の意。「あぢがも」は、「巴鴨(ともゑがも)」の異名で、全長約40センチメートルの小形の美しいカモで、シベリア中東部で繁殖し、日本には秋に本州以南の各地に渡来する。「あぢがも」によって、季節は春から秋へと移っていることを詠っていると考えられる。「村」は「群(むら)」を表すための借訓字で、2番歌2句「村山[群山(むらやま)]」に既出。「左和伎」はサワキ。現在の「騒ぐ」。「奥(おき、沖)邊(へ)には 鴨(かも)妻(つま)喚(よ)ばひ」と「邊(へ)つ方(へ)に あぢむらさわき」は二句対をなして、「池の沖の方では、鴨が妻を求めて鳴き立て」、「岸辺の方では、あじ鴨の群れが鳴き騒ぎ」と池の様子を詠っている。

 7句「百礒城之 大宮人乃 退出而」「百礒城(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)の 退(まか)り出(で)て」と訓む。「百礒城之」は既出。「ももしきの」は、「大宮」にかかる枕詞として用いられたが、「大宮」を「多くの石で築いた城(き)」の意で称えたものとされ、「百の礒で築いた城」ということで「百礒城(ももしき)」の字があてられたと考えられる。「大宮人」は、宮廷に仕える人たちのこと。「之」はノ。「退出」は、「退(まか)り出(で)」と訓む。「まかりづ」は、「まかりいづ」の変化したもので、貴所や貴人のもとから出るの意の謙譲語で、その「出る」動作の出発点やそこにいる人を敬う。「而」はテ。

 8句「遊船尓波 梶棹毛」「遊(あそ)ぶ船(ふね)には 梶(かぢ)棹(さを)も」と訓む。「遊」は「遊(あそ)ぶ」。「あそぶ」は「思うことをして心を慰める。遊戯、酒宴、舟遊びなどをする」ことをいう。ここでは「遊んだ」の過去であるべきだが、51番歌の「袖(そで)吹(ふ)き反(かへ)す」と同じ表現で、作者が現にその遊ぶ様子をまざまざと思い浮かべて詠んでいる詩的現在とでも言うべき用法。「船」はその船遊びをした船で、現在もそこにあり、作者はそれを見ているわけである。「尓」は二。「波」はハ。「梶(かぢ)」は、船をこぐのに用いる道具で、櫓(ろ)や櫂(かい)の総称。「棹(さを)」は、水底を突いて船を前進させる細長い棒で、竹や木の棒を用いる。「毛」はモ。
 
 結句「無而不樂毛 己具人奈四二」「無(な)くてさぶしも こぐ人(ひと)なしに」と訓む。「無」は「無(な)く」。「而」はテ。「不樂」は「不怜」と同じく、「さぶし」。「さぶし」は、「本来あるべき状態になく、また、本来備わっているはずのものが欠けていて、気持が満たされない」ことをいう。「毛」はモ。「己具」はコグ。次の「人(ひと)」を修飾する。「奈四二」はナシ二。「無くて。無いのに」の意。漕ぐ人が無くなったから、梶棹も失われてしまったのであるが、それを倒置して「漕ぐ人が無くて」と余情をたたえたものである。
歴史解説

【巻3(258)。】
 巻3(258)。
題詞  鴨君足人の作歌。「反歌二首」。この歌と次の259番歌も鴨君足人の歌である。
原文  人不榜  有雲知之  潜為  鴦与高部共  船上住
和訳  人漕がず 有(あ)らくもしるし 潜(かづ)きする 鴛(をし)とたかべと 船の上に住(す)む
現代文  「人が漕ぐこともない そのことは明白だ。水にもぐるオシドリとタカベとが船の上に住みついている」。 
文意解説  発句「人不榜  有雲知之  潜為」「人漕がず 有(あ)らくもしるし 潜(かづ)きする」と訓む。「人不榜」は「人榜(こ)がず」と訓む。257番歌の末句「こぐ人なしに」を承けて発句としたもの。「不榜」は「榜(こ)がず」と訓む。「榜」を「こぐ」と訓む例は既出。「有雲知之」は「有(あ)らくもしるし」と訓む。「有雲」は「有(あ)らくも」と訓む。「雲」はクモ。「あらく」は「あること」の意。「知之」は「しるし」と訓む。「之」はシ。「しるし[著し]」は「はっきりしている。他からきわだっている。明白である。いちじるしい」の意。「潜為」は「潜(かづ)き為(す)る」と訓む。「潜」は「潜(かづ)き」と訓む。「かづく」は「頭からすっぽり水中に入る」ことをいう。「為」は「為(す)る」。「する」は「ある動作や行為を行なう」ことをいい、ここでは「潜(かづ)き為(す)る」で「水にもぐる」ことを意味し、次の句の水鳥を修飾したもの。

 結句「鴦与高部共  船上住」「鴛(をし)とたかべと 船の上に住(す)む」と訓む。「鴦与高部共」は「鴦(をし)とたかべと」と訓む。「鴦(をし)」は、ガンカモ科の水鳥(全長約45センチ)であるオシドリ(鴛鴦)の古名。「高部」は「たかべ」と訓み、これもガンカモ科の水鳥(全長30~40センチ)で、コガモ(小鴨)の異名。「高」はタカ、「部」はべ。タカベはコガモの異名とするのが一般的であるが、川口爽郎『万葉集の鳥』ではミコアイサ説を主張している。ミコアイサもガンカモ科の水鳥(全長約42センチ)。「与」「共」は、共に並列を示すト。「共」は「トモ」あるいは「トモ二」と訓み、モを落としてトに宛てる。「共に」は「あるものが、他のものと同じ状態であるさま、また、他に伴って同じ行為をするさまを表わす」の意味を込めた用字ではないかと考えられる。「船上住」は「船の上に住む」と訓む。この「船」は257番歌で詠われた大宮人が遊んだ船を指す。「上」は「うへ」または「へ」と訓むが、ここは「船上」で以て、船の下にノを読み添え、上の下に場所を示す二を補読して、「船の上に」と訓む。「住」は「すむ」の終止形で「住む」。「鳥獣虫魚などが巣をつくって、そこにいる。巣を営む。ねぐらとする」ことをいう。「あらくもしるし」は「荒らくも著し」で「荒れ果てて著しい」である。「鴛(をし)とたかべと」は「オシドリやコガモ」である。「潜(かづ)きする」はむろん水鳥たちの潜る様子である。人が漕がなくなってしまった船の荒れ果てた様子を捉えた歌である。この反歌は、257番歌の長歌が、香具山の麓にあった埴安の池を描写し、その池に船遊びをする大宮人の姿が見られなくなったことを詠ったのを承けて、かつて大宮人が遊んだ船に、今はオシドリとタカベとが住んでいると詠ったものである。奈良遷都によってかつて栄えた旧都がさびれてしまった、その寂寞感を、易しい表現でありながらうまく捉えいて非凡な作と言えるだろう。
歴史解説

【巻3(259)。】
 巻3(259)。
題詞  鴨君足人の作歌。前歌に続いて、鴨君足人(かものきみたりひと)の香具山を詠んだ長歌(257番歌)の反歌二首のうちの二首目である。
原文  何時間毛 神左備祁留鹿 香山之  <鉾>椙之本尓  薜生左右二
和訳  いつの間も 神さびけるか 香具山の 桙杉(ほこすぎ)の本に 苔生すまでに
現代文  「いつのまに こうも神々(こうごう)しくなってしまったのか 香具山の 矛のように立っている杉の根もとに 苔がはえるほどに」。
文意解説  発句「何時間毛 神左備祁留鹿 香山之」「いつの間も 神さびけるか 香具山の」と訓む。「何時間毛」は「何時(いつ)の間(ま)も」と訓む。「いつの間になあ」と解する。「何時(いつ)」について、古典基礎語辞典は「イは、イヅク(何処)・イヅレ(何れ)・イカニ(如何に)などと同根で、疑問・不明の意を表す。イツは時を示す不定称代名詞。未来および過去の事柄に関して、それがあるだろう、もしくはあった時が明確でなく、疑わしい場合に用いる」と解説している。「何時間」は、「何時(いつ)の間(ま)」と訓み、過去の時の経過がそれと意識されないことを表わす語で、「いつか知らないあいだ」の意。「毛」はモ。西宮『萬葉集全注』に「モは詠嘆の係助詞。『伊都乃麻可(イツノマカ)』(5・八〇四)は、イツノマにカの添った表現であるが、このようにモやカがつく時はイツノマニのニは現われないのだと講義にある」とし、また澤瀉『萬葉集注釋』にも「『も』は詠嘆の助詞。何時の間にマア、の意。『も』を次の句の『か』の下においても同じ意。『何時の間にも』といふべきところを『に』を省略した形である」としている。「神左備祁留鹿」は「神(かむ)さびけるか」と訓む。「神左備」は既出、「神(かむ)さび」と訓む。「左備」はサビ。「神さび」は、「神らしく振る舞うこと。神々しくなる」をいう。要は非常に古びたということである。「祁留」でケル。「けり」の詠嘆は、今まで気づかなかったことに初めて気づいた時の驚きや感動を表す。「鹿」はカ。「香山之」は「香山(かぐやま、香具山)の」と訓む。「香山」の二字で「香具山」を表す。「香」は、いわゆる二合仮名と称される二音節を表記する音仮名で、カガ・カグ・カゴなどの表記に使われた。ここではカグを表すのに用いたもの。「之」はノ。

 結句「<鉾>椙之本尓  薜生左右二」「桙杉(ほこすぎ)の本に 苔生すまでに」と訓む。「鉾椙(ほこすぎ)」は「矛杉」のことで、「矛の形をしてまっすぐに伸びた杉」をいう。ここの「之」はノともガとも訓めてどちらとも決し難いが、写本の訓みは全てガと書かれていることや、9番歌「五可新何本(イツカシガモト)」の例もあるので、ここはガと訓む方が良いように思う。「本」は、木の下部に肥点を加えて木の根もとを示す指事文字で、モトと訓んで「草木の根もと」の意。「尓」はニ。 「薜生左右二」は「薜(こけ)[苔]生(む)すまでに」と訓む。この句は、228番歌5句「蘿生萬代尓[蘿(こけ)生(む)すまでに]」と表記は異なるが同句。「薜」は、『廣韻』に「薜荔(ヘイレイ)」とあり、かづらの一種であるが、『名義抄』には「薜」「荔」ともにコケの訓があり、「蘿」と同じくコケ[苔]の意に用いたものと考えて良い。「生」は「生(む)す」。「むす」は「草や苔(こけ)などがはえてふえる」ことをいう。「苔むす」は、「古くなる、古めかしくなる、永久である」ことのたとえに用いられることが多く、ここもその例。国歌の「君が代」に登場している。「左右二」はマデ二と訓む。「左右」は、両手(左右手)を「真手(まて)」といったところからの戯書。「二」はニ。
歴史解説

【巻3(260)。】
 巻3(260)。
題詞  長歌。「或本歌云 」(或る本の歌に云はく)。鴨君足人(かものきみたりひと)の香具山を詠んだ長歌(257番歌、以下「本文歌」という)の異伝である。反歌を挟んで長歌の別伝が採録されているのは珍しい。左注に「右今案 遷都寧樂之後怜舊作此歌歟〈右、今案(かむが)ふるに、都を寧樂(なら)に遷したる後に舊(ふ)りぬるを怜(あはれ)びて此の歌を作るか〉」とある。
原文  天降就 神乃香山 打靡 春去来者 櫻花 木暗茂 松風丹 池浪飆 邊津遍者 阿遅村動 奥邊者 鴨妻喚 百式乃 大宮人乃 去出 榜来舟者 竿梶母 無而佐夫之毛 榜与雖思
和訳  天降(あも)り就(つ)く 神(かみ)の香山(かぐやま)[香具山] 打ち靡(なび)く 春(はる)去(さ)り来(く)れば 櫻花(さくらばな) 木(こ)の暗(くれ)茂(しげ)に 松風(まつかぜ)に 池浪(いけなみ)飇(た)ち 邊(へ)つへには あぢむら動(さわ)き 奥邊(おきへ)には 鴨(かも)妻(つま)喚(よ)ばひ 百(もも)しきの 大宮人(おほみやひと)の 去(まか)り出(で)て 榜(こ)ぎける舟(ふね)は 竿(さを)梶(かぢ)も 無(な)くてさぶしも 榜(こ)がむと思(おも)へど
現代文  「天から降ってきたという あの神聖な香具山 草木がしなやかにうち靡く 春がやってくると 桜花は 木陰が暗くなるほど咲き茂り 松の梢を吹く風に、(麓(ふもと)の埴安(はにやす)の)池の波が立ち 池の岸辺には あじ鴨の群れが鳴き騒ぎ 沖の辺では 鴨が妻を求めて鳴き立て (ももしきの)  大宮にお仕えする人々が 御殿から退出して 漕いでいたその船には 棹も楫もなくて さびしいことだ 船を漕ごうと思ったのだが」。
文意解説  発句「天降就 神乃香山」「天降(あも)り就(つ)く 神(かみ)の[香具山]」と訓む。「天降就」は、「つく」の表記が異なるだけで本文歌1句に同じで、「天降(あも)り就(つ)く」と訓み枕詞。「神乃香山」は、「神(かみ)の香山(かぐやま、香具山)」と訓み、「天(あめ)の芳来山(かぐやま)[香具山]」とは、「香具山」の表記が違うのと、「香具山」を修飾する語が「天(あめ)の」と「神(かみ)の」とで違うが、「天(あめ)の」も「神(かみ)の」も香具山の神聖性を称える接頭語的修飾語なので意味的には同じ。

 2句「打靡 春去来者」「打ち靡(なび)く 春(はる)去(さ)り来(く)れば」と訓む。「打靡」は、「打ち靡(なび)く」。「うち」は接頭語で、「うちなびく」は「草木がさっと横に伏せる」ことをいうが、春には草木がなびくことから、次の「春」にかかる枕詞として使ったもの。「春去来者」は16番歌と同句。「去」は「去り」。「さる」は、「自然にその時がめぐってくる」ことを言い、時が近づくのにも遠ざかるのにも用いる。「来」は「来(く)れ」。「者」はバ。「春去り来れば」は「春がやってくると」の意。

 3句「櫻花 木暗茂」「櫻花(さくらばな) 木(こ)の暗(くれ)茂(しげ)に」と訓む。「櫻花(さくらばな)」は本文歌と同句。「木暗茂」は、本文歌「木乃晩茂尓[木(こ)の晩(くれ)茂(しげ)に]」に準じて助詞を補読して「木(こ)の暗(くれ)茂(しげ)に」と訓む。「このくれ」の漢字表記としては「木暗・木晩・木暮」がある。

 4句「松風丹 池浪飇」「松風に 池浪(いけなみ)飇(た)ち」と訓む。「松風丹」は本文歌と二の表記が異なるだけで同じ。ここでは二に「丹」を用いている。「池浪飇」は本文歌「池浪立而」と対応するもので、「飇」は「飇(た)ち」と訓む。「飇」は「飆」に同じ。「飆」は「つむじ風。暴風。乱れる」の意であるが、池波が立って乱れる様子を表わすための用字と考えられる。

 5句「邊都遍者 阿遅村動」「邊(へ)つへには あぢむら動(さわ)き」と訓む。「邊津方尓・味村左和伎[邊(へ)つ方(へ)に あぢむらさわき]」に対応するもので、表記が違うだけで意味は同じ。ここでは、ツに「都」を用い、へには「遍」を用いている。「者」は二を訓み添えて二ワと訓む。「阿遅」はアジで、鴨の一種である「あぢ」を表す。「村」は「群(むら)」を表す。「動」は「動(さわ)き」。「さわく」は現在の「騒ぐ」で、「動」には「おどろく、さわぐ、まどう、みだれる、あらそう」の意がある。220番歌に「散動」の二字で「さわく」に宛てた例がある。

 6句「奥邊者 鴨妻喚」「奥邊(おきへ)には 鴨(かも)妻(つま)喚(よ)ばひ」と訓む。これも本文歌「奥邊波・鴨妻喚[奥(おき)邊(へ)には・鴨(かも)妻(つま)喚(よ)ばひ]」と「は」の表記が異なるだけで同句。本文歌では、二句ごとその前後を入れ換えている。

 7句「百式乃 大宮人乃」「百(もも)しきの 大宮人(おほみやひと)の」と訓む。「百礒城之 大宮人乃[百礒城(ももしき)の・大宮人(おほみやひと)の]」と表記は異なるが同句。

 8句「去出 榜来舟者」「去(まか)り出(で)て 榜(こ)ぎける舟は」と訓む。「去出」は、本文歌の「退出而」に準じて「去(まか)り出(で)て」と訓む。「去」は名義抄に「去。サル・イヌル・マカル・ヲサム・ヤル・ミタシネ・スツ・ツカハス・オハシヌ・イマシヌ・サケマク・トホシ・ウス・シヌ・シリゾク・マカス・モテイテ」と多くの訓を示すが、ここはマカル。「榜来」は、「榜(こ)ぎける」と訓む。「来」を助動詞「けり」の借訓の文字として用いた例は29番歌に既出。「舟」は大宮人が船遊びをした船を指す。「者」はハ。本文歌では「遊(あそ)ぶ船(ふね)」と過去のことであるのに詩的現在で表現していたが、ここでは「こぎける」と過去の意を言葉の上にも示している。

 9句「竿梶母 無而佐夫之毛」「竿(さを)梶(かぢ)も 無(な)くてさぶしも」と訓む。「竿梶母」は「さを」と「かぢ」の順序が前後していること、「さを」の漢字表記が違うこと、モの仮名表記が違うことの相違点があるが、本文歌と意味は同じ。「無而佐夫之毛」は「さぶしも」が仮名表記になっているが、これも本文歌と同句。「佐夫之毛」はサブシモ。

 結句「榜与雖思」「榜(こ)がむと思へど」と訓む。「榜」は「榜(こ)がむ」と訓む。「与」はト。「雖思」は「思(おも)へど」と訓む。「こぐ人(ひと)なしに」と客観的な表現であったが、ここは作者の主観を出して詠っている。
歴史解説

【巻3(261)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。「柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首 并短歌」(柿本人麻呂が新田部皇子(にひたべのみこ)に献上した歌。新田部皇子は天武天皇の第七皇子)。次の262番歌がその反歌である。新田部皇子は天武天皇の皇子の中で、最年少の皇子で、母は、104番歌の作者として既出の藤原夫人(=藤原鎌足の娘の五百重娘)である。新田部皇子の生年は分からないが、文武四年(700)正月に浄広弐を授けられており、これが初叙位であるから、この頃に二十歳か二十一歳であったものと推定される。人麻呂が献じたこの歌がいつ頃作られたものか定かではないが、人麻呂作歌の最後が文武四年、人麻呂歌集歌の年判明の最後のものが大宝元年(701)であるから、新田部皇子がまだ二十歳前後の頃に献じたものと考えられる。
原文  八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 茂座 大殿於久方 天傳来 白雪仕物 徃来乍 益及常世
和訳  やすみしし 吾(わ)が大君(おほきみ) 高照らす 日の皇子(ひのみこ) 敷きいます 大殿の上に ひさかたの 天伝ひ来る 雪じもの 行き通ひつつ いや常世(とこよ)まで  
現代文  「あまねく天下を治め給う わが大君の 高く照り輝く 日の皇子(新田部皇子)が お住まいになっている 御殿の上に はるかかなたの 大空を伝って降ってくる 雪のように(絶えまなく) 行き通いつづけて(お仕えしよう) いついつまでも変わらずに」。
文意解説  長歌。  
 発句「八隅知之 吾大王」「やすみしし 吾(わ)が大君(おほきみ)」と訓む。「八隅知之 吾大王」は既出。「八隅知(やすみし)し」は、「わが大君」および「わご大君」にかかる枕詞として常套句で、八方を統べ治める意を表わす。「吾」はガを読み添えて「吾(わ)が」。「大王」は、大和国家の王者が諸豪族に超越する立場を獲得するに至って「王(きみ)」のうちの大なる者の意で「大王(おほきみ)」と称するようになったもの。ここでは、新田部皇子を指す。

 2句「高輝 日之皇子」「高(たか)輝(て)らす 日の皇子(ひのみこ)」と訓む。「高輝」は「たかひかる」「たかてらす」の二つの訓みがあり、説が分かれている。今までの既出例では、「高光」は「たかひかる」と訓み、「高照」は「たかてらす」と訓んで区別してきた。どちらも「日」にかかる枕詞であるが、「たかひかる」の方が古く、天皇および皇子への賞辞として日神信仰を背景に使用された言葉で当時の宮廷儀礼歌の常套句として、古事記歌謡にも五例を見る。「たかてらす」は、「たかひかる」という常套句をもとに人麻呂が創出した枕詞とみられる。「高輝」は、本歌の一例のみであり、やっかいなことに「輝」は『名義抄』に「輝。テル・ヒカリ・ヒカル・カカヤク・フスフ」とあってテルともヒカルとも訓まれていたので、人麻呂が「たかひかる」「たかてらす」の何れと詠んだのか確定できないが、「たかひかる」から「たかてらす」への移行過程に生まれた表記ではないかと思う。ということで、ここでは「高(たか)輝(て)らす」と訓むこととする。「日之皇子」は天照大神の子孫の意。ここの「日之皇子」は「吾大王」と同じく新田部皇子を指す。

 3句「茂座 大殿於」「しき[敷き]座(いま)す 大殿(おほとの)の於(うへ)[上]に」と訓む。「茂座」は紀州本にシケクマス、西本願寺本、陽明本にシキイマスとある。シキイマスは仙覺の改訓であるが、荷田信名『萬葉集童蒙抄』がこれに異を唱え、「茂」をサカエの義訓と考えた。この事について、澤瀉『萬葉集注釋』は「重、繁、茂」がシゲとして通用されていた事は明らかであるとした上で次のように述べている。
 そして一方に「白雪庭尓(シラユキニハニ) 零重管(フリシキニツヽ)」(十・1834)、「沫雪之(アワユキノ) 庭尓零敷(ニハニフリシキ)」(八・1663)の如く「重」とも「敷」とも書かれてシクと訓まれてゐるところを見ると「繁」も「茂」もまたシキと訓む事は十分認められる。しかも「零敷」の「敷」は、重、頻、の意の借訓の文字として用ゐられたものであるが、今は敷、領、の意の借訓の文字として「茂」が用ゐられたのである。即ち仙覺の改訓に従ひ、「宮敷座(ミヤシキイマス)」(235或本)の「しきいます」と同義に解すべき事少しも疑の餘地は無い。「茂」をサカエの義訓と考へるはいかにも童蒙抄らしい後世振である。

 以上の澤瀉の説に従い、「茂座」は「しき[敷き]座(いま)す」と訓む。「大殿(おほとの)」は、宮殿の美称で、ここは新田部皇子の御殿を指す。「おほ」は尊称で、「との」は尊貴、壮麗な建物の意。「於」をウヘと訓む。ここは二を補読して「於(うへ、上)に」と訓む。

 4句「久方 天傳来」「久方(ひさかた)の 天傳(あまづた)ひ来(く)る」と訓む。「久方」はノを補読して「久方(ひさかた)の」と訓み、次の「天」にかかる枕詞。「ひさかたの」は既述。「天傳」は、「日、入日」にかかる枕詞「あまつたふ」として既出。ここでは「天傳(あまづた)ひ」と訓む。「来」は「来る」。「天傳(あまづた)ひ来(く)る」は「空を伝って降ってくる」の意。

 5句「白雪仕物 徃来乍」「白雪(ゆき)じもの 徃来(ゆきかよ)ひつつ」と訓む。「白雪」の二字で「ゆき」と訓む。「家門」の二字を「いへ」と訓んだのと同じで、「門」「白」は添字。このことについて、岸本由豆流『萬葉集攷證』には「家門の二字を、いへとよめるは、義をもて、門の字を添てかける也。こは、いでましといふを、幸とも行幸ともかき、ゆきといふを、雪とも白雪ともかき、うつろふといふを、移とも、變とも、移變とも書、おぶといふを、佩とも、佩具とも書る類にて、集中猶いと多し」とある。「仕」はジ、「物」は「もの」を表す。「仕物」は接尾語「じもの」を表す。「じもの」には、①(本来それとは違うものであるが、あたかも) …のよう(な恰好)で。②(本当にそのものらしい)恰好で。③(本当にそれらしい) …の気持がして。の三つの意があるが、ここは「雪のように(絶えまなく)」の意で、次の「ゆきかよふ」を修飾している。そして「大殿(おほとの)の於(うへ)[上]に久方(ひさかた)の天傳(あまづた)ひ来(く)る白雪(ゆき)じもの」は、「雪」と「ゆきかよふ」との同音の繰り返しによる序詞となっている。「徃来」は、「往来」に同じで、ここでは「ゆきかよふ」の義訓に用いたもの。「徃」は一字で「ゆき」と訓めるので、「ゆきかよふ」と訓むとあたかも「来」を「かよふ」と訓んでいるようでおかしいが、本来ならば「徃来」の二字は「かよふ」の義訓であるべきところを、ここは上の序詞との関係で「ゆき」の言葉は欠かせないので、「徃来」の二字でもって「ゆきかよふ」の義訓としたものと考えざるを得ない。「ゆきかよふ」は「常にゆききする」ことをいう。「乍」はツツ。ここは継続で、下に「仕へ申さむ」の気持の語句が略された形、「行き通い続けて(お仕えしよう)」の意。

 結句「益及常世」「益(いや)常世(とこよ)まで」と訓む。「益」は、「ますます」の字義から、「弥」と同じく「いや」と訓む。イヤは、接頭語イが物事のたくさん重なる意の副詞ヤに付いたもので、物の程度の盛んな事を表わす。「及」はマデ。ここは漢文式表記で「常世」の前に書かれているが日本語の語順では最後に訓む。「常世」は、不老不死の永遠の理想郷の意から時間的に永遠の意にも用いられるようになったもの。
歴史解説

【巻3(262)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。この歌は長歌の内容から新田部皇子の宮に柿本人麻呂が通勤していた時の歌と分かる。
原文  矢釣山  木立不見  落乱 雪驪 朝樂毛
和訳  矢釣山 木立も見えず 降りまがふ 雪の騒ける 朝楽しも
現代文  「」。
文意解説  矢釣山(やつりやま)は奈良県明日香村の山ということなので、皇子の宮もその近辺にあったのだろう。「雪の騒ける」の「騒(さや)ける」は風騒ぐと同意で、雪が多い様をいっている。
歴史解説

【巻3(263)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。「従近江國上来時刑部垂麻呂作歌一首」(刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)が上京してくるとき作った歌)。次の264番歌には、人麻呂が「近江國(おふみのくに)より上(のぼ)り来る時」に作った歌とする題詞があり、この両歌を並べて記載していることからすると、両歌は、同じ旅の時に詠まれた歌ではなかったかと思われる。刑部垂麻呂は、伝不詳であるが、462番歌の作者でもあり、萬葉集に二首の歌を伝えている。刑部氏は、忍坂部(忍壁)皇子の養育氏族であるから、刑部垂麻呂と人麻呂との間に親交があったことも十分考えられる。
原文  馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我歸 志賀尓安良七國
和訳  馬ないたく 打ちてな行きそ 日ならべて 見ても我が行く 志賀にあらなくに
現代文  「馬をひどく 鞭打って急いで行こうとするな 幾日もかけて 見ようとして行く 志賀ではないのだから(せめてゆっくり行こう)」。
文意解説
 発句「馬莫疾 打莫行 氣並而」「馬ないたく 打ちてな行きそ 日ならべて」と訓む。「馬莫疾」は「馬(うま)な疾(いた)く」と訓む。「馬(うま)」は、当時の旅の交通手段として使われた。「莫」は、禁止のナ。「疾」は、字通に「卜文・金文の字形は大(人の正面形)の腋(わき)の下に矢のある形。腋の下に矢を受け、負傷する意である」として、「① やきず、やむ、やまい。② はやい、とし、すみやか、はげしい。③ なやむ、にくむ、うらむ、いかる。」の意があるとしている。萬葉集では、イタクともトクともハヤクとも訓まれているが、ここはイタクと訓んで、次の「打つ」にかかる。「いたく」はク活用形容詞「いたし」の連用形から「程度のはなはだしいさま」をいう副詞となった語で、「ひどく。はなはだしく。ずいぶん」の意。「打莫行」は「打(う)ちてな行(ゆ)きそ」と訓む。「打」はテを補読して「打(う)ちて」と訓む。「うつ」は「物を物に向けて強く当てる」ことをいう語で、ここは「鞭でもって馬をたたく」ことをいう。「莫」は1句に同じ。「行」はソを補読して「行(ゆ)きそ」と訓む。終助詞ソは上のナと合わせて「ナソ」の形で禁止を表す。「莫」が重複していることについて、澤瀉『萬葉集注釋』は次の様に述べている。
 禁止の「な」が二つ重ねてあるので一方を衍字とする説があり、注疏にはウマイタクと訓んでゐる。「知里勿乱曽(チリナマガヒソ)」(二・157)「半也久奈知利曽(ハヤクナチリソ)」(五・849)の如く「散り、亂ひ」「早く、散り」など二語の場合はその二語の間に「な」を入れる例であるが、今の場合は「疾く、打ちて、行き」の三語から成つてをり、しかも二句に亘つてゐる為にイタクナウチテユキソと云つても、イタクウチテナユキソと云つても散文的に聞えて調子がとれない為に両句に「な」を入れて調子を整へたものと見るべきであらう。否定の語を二つ重ねれば肯定の意になつてしまふからたゞ調子の為に重ねるといふ事は許されないが、禁止の語はくりかへされること今もあり、むしろその意を強める為にくりかへす事も許されると思はれ、ウマナイタク ウチテナユキソの句をすらりと讀む時、その語調に快感をこそ感ずれ、重複の不合理は感じないやうに、古人も同様であつたのではないかと考へる。

 たしかに、澤瀉が言うように語調を整えるということもあるが、ここは「馬をひどく鞭打つこと」と「急いで行くこと」の双方を禁ずる意であるように思う。なお「急いで」という意味の語は特にないが、「馬を鞭打つ」ということは「馬を急がせる」ことを意味するし、「疾」の用字にもその意が込められていると思われる。「氣並而」は「け[日]並(な)らべて」と訓む。「氣」はケ(乙類)音の常用音仮名で、60・85・90番歌と同じく、日数の意の「日(け)」を表わすのに用いられたもの。「並」はバ行下二段活用の他動詞「ならぶ」の連用形で「並(な)らべ」「而」は接続助詞「て」。「け[日]並(な)らべて」は「幾日もかけて」の意。

 結句「弖毛和我歸  志賀尓安良七國」「見ても我が行く 志賀にあらなくに」と訓む。「見弖毛和我歸」は「見てもわが歸(ゆ)く」と訓む。「見」は「見(み)」。「弖」はテ、「毛」はモ。「和」は自称のワ。我はガ。「歸」は「行」と同じく「ゆく」、ここは「歸(ゆ)く」。「歸」を「ゆく」と訓む例は既出。「志賀尓安良七國」は「志賀(しが)にあらなくに」と訓む。「志賀」は、滋賀県南西部の郡名で琵琶湖と比良山地にはさまれた地域をいう。「尓」はニ。「安良七國」は「あらなくに」と訓む。「あらぬ」のク語法「あらなく」に二を添えたもの。

 二人は一緒に近江に行っていたのだろうか。「馬ないたく打ちてな行きそ」は「な~そ」の形。「~するな」の意。厳密にいうと「いたく打ちてそ」と「そ」を加えるか、または「行きそ」と「な」を削除しないと「な~そ」は完成しない。「岩波大系本」なども「「な」の重複で異例」の注を付している。が、要は「馬に鞭打って急がせるな」という意味に変わりはない。不審は「日(け)ならべて見ても」である。結句二句は「そんなに何日もかけて志賀を旅しているわけにいかない」の意だが、上三句と矛盾している。上三句で「馬を急かせるな」といっておきながら結句では「急げ」といっている。この点諸家は何の注記も行っていない。色々な解釈は出来るだろうがすっきりしない。 
歴史解説  「」。

【巻3(264)。】
題詞  柿本人麻呂の作歌。「柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首」。前の263番歌と同じく「近江國(おふみのくに)より上(のぼ)り来る時」に「宇治河(うぢかは)の邊(へ)」で詠われた歌である。
原文  物乃部能  八十氏河乃  阿白木尓  不知代經浪乃  去邊白不母
和訳  もののふの 八十(やそ)宇治川の 網代(あじろ)木に いさよふ波の ゆくへ知らずも
現代文  「朝廷に多くのもののふが仕えているが、もののふの氏の名をもつ宇治川の網代木に留まっている波の行方(ゆくえ)わからない。(この先どうなることだろう)」。
文意解説   発句「物乃部能  八十氏河乃  阿白木尓」は「もののふの 八十(やそ)宇治川の 網代(あじろ)木に」と訓む。「物乃部能」は「物(もの)のふの」と訓む。「物乃布能」と表記は違うが同句。「物」は「もの」を表す借訓字とも考えられるが、兵器の意とする説もあるので、「物(もの)」と正訓字扱いにした。「乃」はノ。「部」はフで、このフについても未詳だが、上代、軍事警察の任に当たった「もののべ(物部)」と関係の深い語と考えられている。「物(もの)のふ」は朝廷に仕える文武官人の諸集団(職分によって集団が分かれていた)の総称。「能」は「之」と同じくノ。「物(もの)のふの」は、朝廷に仕える氏族の数の多いところから「八十氏人(やそうじびと)」「八十伴緒(やそとものお)」にかかる枕詞として、また、数が多い意で、「八十(やそ)」および、その複合語や「八十」と同音を含む地名にかかる枕詞として用いられた。「八十氏河乃」は「八十(やそ)氏河(うぢかは、宇治川)の」と訓む。「八十氏河」も既出。「乃」はノ。「八十氏」と「八十宇治」とをかけたもので「氏河」は「宇治川」のこと。支流の多いことから「八十(やそ)氏河(うぢかは)」と呼んだものかと思われる。モノノフノヤソまでをウヂの序詞と見る説もある。琵琶湖から発した瀬田川が京都府宇治郡に入って宇治川となり、巨椋池(おぐらのいけ)に注いでいたわけで、当時、宇治川は、建築資材の運搬に欠かせない川であったと言える。「もののふの八十うぢ」は宇治川を引き出すための序。「阿白木尓」は「あじろ木(き)[網代木]に」と訓む。「阿」はア。「阿白」で以て「網代(あじろ)」を表す。「白」を借訓字に用いたのは、5句の「白」とも呼応して「浪」の白さを表わすためのものかと思われる。「網代」は、「網の代わり」の意で、「川の瀬に設ける魚とりの設備」をいう。数百の杙(くい)を網を引く形に打ち並べ、その杙に経緯を入れ、その終端に筌(うけ)などを備えた簗(やな)のようなもの。宇治川では冬、氷魚(ひお)を捕えるのに用いたので有名。「網代木」は、「網代を支える為に、水中に打った杙」のこと。「尓」は二。

 結句「知代經浪乃  去邊白不母」「いさよふ波の ゆくへ知らずも」と訓む。「不知代經浪乃」は「いさよふ浪(なみ)の」と訓む。「不知」は「いさ知らず」の意からイサ。「代」はヨ、「經」はフ。「不知代經」で「いさよふ」と訓む。「進まないでとまりがちになる。停滞する。とどこおる」の意。ここは次の「浪」を修飾する。「乃」はノ。「不知代經」の表記について、新編日本古典文学全集の頭注に「イサの原文『不知』はイサ知ラズの気持で書いた。イサヨフのヨは甲類だが、原文に乙類の『代』を書くのは、幾代を経たか分からないという気持を表すか」とあるが、漢文として読めばまさにそのように解せるということを意識した用字であるに違いない。「去邊白不母」は「去(ゆ)く邊(へ)しらずも」と訓む。「去(ゆ)く邊(へ)」は、「めあてとして進み行く方向。向かうべき先」の意。「去」を「ゆく」と訓む。「邊」は「辺」の旧字で、「その辺り。その方向」などの意。「白不」は「しらず」と訓む。「不知」をイサの表記に用いたため別の表記を考えたのであろう。「あじろ」の表記に「白」を用いたところから、ここでも「浪」の白さを強調する為もあって、「白」を「しる」の未然形「しら」に用い、打消しの助動詞「ず」に漢文の助字「不」を宛てたものと考えられる。「母」はモ。
歴史解説

【巻3(265)。】
 
題詞  長忌寸奥麻呂歌(ながのいみきおきまろ)の作歌。「長忌寸奥麻呂歌一首」。長忌寸奥麻呂は57番歌の作者として既出。「忌寸」は姓で、八色の姓の四位。「奥麻呂」は「意吉麻呂」とも書かれ、『萬葉集』中に短歌十四首があるが、うち八首(3824~3831)は、いわゆる物名歌であり、当意即妙の歌作を得意とした。
原文  苦毛  零来雨可  神之埼  狭野乃渡尓  家裳不有國
和訳  苦しくも 降り来る雨か 三輪の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに
現代文  「つらいことにまあ雨が降って来たよ。船がやってくる間、三輪の崎の 佐野の渡し場には雨宿りする家もない」。
文意解説  発句「苦毛  零来雨可  神之埼」「苦しくも 降り来る雨か 三輪の崎」と訓む。「苦毛」は「苦しくも」と訓む。「苦」は「苦しく」。「難儀である。つらい。せつない」の意。「苦しくも」は「鬱陶しいことよなあ」というほどの意味。「毛」はモ。「零来雨可」は「零(ふ)り来る雨か」と訓む。「零」は「零(ふ)り」と訓む。「来」は「来る」。「雨」は既出。なお、「雨」を詠み込んだ歌は萬葉集に百六首あるが本歌は三首目。「可」はカ。「神之埼」は「神(みわ)[三輪]の埼(さき)」と訓む。ここの「神」は、156・157番歌の「神」と同じく「みわ」と訓む。「之」はノ。「埼(さき)」は「崎・岬・碕」とも書かれ、「陸地が海や湖などの中へつきでた所」をいう。「神(みわ)の埼(さき)」は地名で、現在の和歌山県新宮市三輪崎。

 結句「狭野乃渡尓  家裳不有國」「狭野の渡りに 家もあらなくに」と訓む。「狭野乃渡尓」は「狭野(さの、佐野)の渡(わた)りに」と訓む。「狭野(さの)」も地名で、現在の和歌山県新宮市佐野。「三輪の崎狭野(さの)」は岩波大系本の注に「和歌山県新宮市大字三輪崎の西南」とある。地図に三輪崎の西南に隣接して佐野がある。木ノ川の河口に当たる場所である。そこのどこかに船の渡し場があったのだろうか。「乃」はノ。「渡」は「渡(わた)り」と訓み、「川や海の、一方の岸から他方の岸へ渡る場所。渡し。渡し場」の意。「狭野(さの)の渡(わた)り」は、佐野の荒木川もしくは佐野川の渡し場を言ったものであろうという (『万葉の歌ー人と風土ー9』) 。「尓」はニ。「家裳不有國」は「家(いへ)も有(あ)らなくに」と訓む。「家(いへ)」は「わが家」の意。「裳」はモ。「不有國」は「安良七國」の表記で既出。「有(あ)らなくに」は、「有(あ)ら」にヌの付いた「あらぬ」のク語法「有(あ)らなく」に二を添えたもの。

 なお、この歌について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は【歌意】として次の様に述べている。
 わが家のように頼りにできそうな家もない旅先で、雨に打たれるわびしさを詠んだ歌。「降り来る雨か」と詠嘆し、「家もあらなくに」と訴えるような響きを持たせたところに、この歌の特色がある。藤原定家の、「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」(新古今 6・六七一)は、これを本歌とする。奥麻呂の歌には、定家の美意識はなく、人恋しい情感だけが溢れている。結句の「家」は、雨を避けるための単なる家ではない。家人のいるわが家の意である。熊野灘に面するこの一帯は、多雨地帯として知られており、強烈な雨は奈良の都のそれではないと、犬養孝『万葉の旅 上』は云っている。また、西宮『萬葉集全注』にも、「これ(=藤原定家の歌 [引用者注])は一幅の絵であるのに対し、265番歌は絵にはならない。最後まで抒情で、心の中は妻子のいるくつろげる家で雨を避けることしか考えていないからである。」とある。更に西宮は、「それはまさに奥麻呂の即興的に作りあげる即物的詠歌の世界である。そういう意味では、263番の刑部垂麻呂の歌と264番の人麻呂の歌とが対蹠的なるゆえ一組とされたと同じように、奥麻呂の歌と次の人麻呂の歌(266)との対蹠的なるゆえに一組にされたと見ることができるであろう。」と述べて、巻三の編者の「有意識的編述の態度」に言及している。
歴史解説

【巻3(266)。】
 
題詞  柿本朝臣人麻呂の作歌。「柿本朝臣人麻呂歌一首」。この歌は、柿本人麻呂が、琵琶湖にたたずんで、滅んだ近江大津宮を偲んで詠ったとされている。旅の途上で廃都に立ち寄った時の心情を詠ったものと思われる。
原文  淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思<努>尓 古所念
和訳  淡海(あふみ、近江)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ
現代文  「近江の海の夕波千鳥よ。お前が鳴くと心がうちしおれて昔のこと(近江朝の頃)が思われる」。 
文意解説  発句「淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者」「淡海(あふみ、近江)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば」と訓む。「淡海乃海」は「淡海(あふみ)の海(うみ)」と訓む。「淡海」は「淡海國」として既出で、アハウミが約まってアフミと訓み、「近江の国」の意。「琵琶湖」をさす。「乃」はノ。日本書紀の歌謡(30)に「阿布弥能弥(アフミノミ)」の仮名書きがあることから「淡海乃海」をアフミノミと五音に訓む説もある。しかし、131番歌1句「石見乃海」のところでも述べたように、萬葉集の仮名書き例には「古之能宇美乃(コシノウミノ)」、「奈呉能宇美乃(ナゴノウミノ)」など字余りにウミと記されたものを見るし、「駿河能宇美」、「伊豆乃宇美」など「国名+ノウミ」の形も見られることからすると、「石見乃海」をイハミノウミと訓んだのと同様に、ここもアフミノウミノと訓むのが良い。この句は、意味上は、次の2句を修飾するのであるから、ノが下にあるところだが、そのノを省くことによって、呼格として、感動の情を強くする効果を生じているのも、131番歌一句「石見乃海」と同じである。「夕浪千鳥」は「夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)」と訓む。「夕浪(ゆふなみ)」は「夕方の波。夕べにたつ波」のこと。「千鳥(ちどり)」は、多数で群をなして飛ぶところからの呼ばれたもので、チドリ科の鳥の総称。ふつう、ムナグロ、ダイゼンなどを除き、主としてチドリ属の鳥をいい、全長は15~20センチメートルくらい。くちばしは比較的短く、先端がふくれており、あし指は三本だけで後指はない。体の下面が白く背面は灰褐色で、胸・頭部に黒斑のあるものが多く、海岸・河原などにすみ小動物を捕食する。多くは渡り鳥で、日本で繁殖する種類にシロチドリ、コチドリ、イカルチドリなどがある。「夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)」は、岸本由豆流『萬葉集攷證』に「夕べの浪に立さわぐ千鳥を、やがて一つの語として、夕浪千鳥とはいへる也」とある通り、人麻呂の造語の一つだが、簡潔で美しい響きを持つ語である。「汝鳴者」は「汝(な)が鳴けば」と訓む。「汝(な)」は、奈良時代には、もっとも一般的な対称代名詞(二人称)として用いられている。特に歌ではもっぱらこの語を使用するが、敬意は高くなく、対等もしくはそれ以下の相手に対して用い、動物や植物などに呼びかける時にも用いる。ここも「千鳥」に対して用いたもので、ガを補読する。「鳴」は「なく」の已然形で「鳴(な)け」。「者」はバ。

 結句「情毛思<努>尓 古所念」「心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ」と訓む。「情毛思努尓」は「情(こころ)もしのに」と訓む。「情」は既述。「毛」はモ。「思努尓」はシノ二。草木のしおれなびくさまをいうが、転じて、心のしおれるさまなどを表わす語となったもので、「しおれなびいて。しおれて。ぐったりと」の意。「古所念」は「古(いにしへ)念(おも)ほゆ」と訓む。「古(「いにしへ)」は「往(い)にし方(へ)」の意で、現在と遮断された遠く久しい過去を漠然という言葉。「所念」を「念(おも)ほゆ」と訓む例は既出。ユは自発の助動詞で、未然形に付くから、本来は「念はゆ」となるところだが、オモハユのハが前の母音に引かれてホに転じた形で「念ほゆ」となる。「千鳥」は原文にも「千鳥」とあり、具体的な鳥の種類を指しているわけではあるまい。私自身はユリカモメととっているが、「多くの鳥たち」くらいの意味にとっておけば十分だろう。「心もしのに」は「しみじみと」。旧都を思いやる歌。「汝が鳴けば」がよく効いている。
歴史解説  近江大津宮は天智天皇が琵琶湖の西岸に築いた宮である。壬申の乱で天武天皇によって滅ぼされ炎上した。この史実を踏まえているのか、それ以前の近江譚に絡んでいるのかは分からないが歌の背景を知っておくと理解が深まる。近江の海は琵琶湖のことだが、より限定的には近江京が置かれた琵琶湖南端部を指しているに相違ない。

 参考までに、西宮『萬葉集全注』の「作品の理解」についてを付記しておく。「天智天皇は十年(六七一)十二月三日崩御、十一日に新宮(にいみや)に殯した。山科御陵の地である。その大殯(おおあらき)の時の倭姫(やまとひめ)皇后の歌に「鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来(く)る船 …… 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ …… 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ」(2・一五三)がある。「夫の思ふ鳥」とは、天智天皇遺愛の鳥である。鳥は死者の霊を異郷に運ぶと信じられていた。ここでは、その「御霊(みたま)の鳥」である。人麻呂はこの御歌を踏まえて「夕波千鳥」と表現しているとみるべきである。その千鳥に「流亡への悲嘆」を見たがゆえに、「いにしへ思ほゆ」なのである。御霊の鳥を見ることと、その鳴声を聞くことが、琵琶湖の「夕」と波音とに調和し、近江の天智朝の流亡の悲嘆が増幅されて、千古の名作となった。このように、前(二六五)と今(二六六)とは同じ旅でも、その詠嘆の対象と内容とは全く相反するので、その対比の妙を以て「組み」としたものと考えてよい」。

【巻3(267)。】
 
題詞  志貴皇子の作歌。「志貴皇子(しきのみこ)の御歌一首」。志貴皇子(しきのみこ)は天智天皇の第七子皇子。壬申の乱で近江朝廷が敗れてのちの天武・持統天皇の治世下で、敗北者側の皇子として肩身の狭い立場にいた。母が貴族ではなく地方豪族の娘であったことも彼の立場をさらに肩身の狭いものにしていた。そんななかで彼が取った生き残るための手段は、皇族としての高い地位を求めずとにかく目立たないようにひっそりと生きることであった。実際に彼はこの目立たない生き方を貫き、他の皇子や貴族たちが権力争いなどで謀殺される中を生き残る。志貴皇子は、梢に飛び移ろうとして猟師に撃たれたむささびとに、才覚を奮い、高い地位を求めたがために謀殺されていったそんな他の皇子や貴族たちの姿を見たのかも知れない。後年、称徳天皇が明確な後継者を指名しなかったため、その死後、志貴皇子の子である白壁王が即位して光仁天皇となり天智天皇の血筋がふたたび天皇を引き継ぐこととなった。以後、現代の今生(平成)天皇に至るまで代々、天智系の血を引いた天皇が続いている。志貴皇子が目立たない人生を送り、天智系の血筋を後の世に引き継いだ賜物と云える。奈良市の高円山の西麓にこの歌の歌碑がある。奈良県ヘリポートを東へ下ったすぐ側にある春日宮天皇陵(田原西稜:志貴皇子のお墓)がある。子である光仁天皇が即位したことで、志貴皇子は死後に春日宮天皇の称号を贈られる。即位した天皇ではないので歴代の天皇には数えられないが、死後に天皇の呼び名を与えられた目ずらしスケースである。春日宮天皇陵の東に2キロほどの場所に光仁天皇の御陵(田原東稜)もある。今回は267番歌を訓む。題詞に「志貴皇子御歌一首」とあり、作者は、志貴皇子である。志貴皇子は、51・64番歌の作者として既出。230番歌の題詞にある「志貴親王」も同じ。志貴皇子は、天智天皇の第七皇子であるが、その子の白壁王が、天武系が途絶えたために、四十九代の光仁天皇となり、以後、皇統は天智系となる。光仁即位後の宝亀元年(770)十一月追尊されて御春日宮(かすがのみやにおはしましし)天皇といい、田原天皇とも称された。
原文  牟佐々婢波  木末求跡  足日木乃  山能佐都雄尓  相尓来鴨
和訳  むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟夫(さつを)に あひにけるかも
現代文  「むささびは木の枝へ飛び移ろうとして、(あしひきの)山の猟師にみつかってしまったのだな」。 
文意解説  むささびは木の枝から枝へと飛び移るリスの仲間。「木末(こぬれ)求むと」の「木末」は字面から推察出来るように梢のこと。「猟夫」は「さつを」と読むが、実際は逆で、原文にある「佐都雄」を「猟夫」の文字で当てたものだろう。「あしひきの」は枕詞。「木末求むと」を「幹を駆け上ろうと」と解するのか、「梢を求めるとて飛びまわって」と解するべきか二切る。結句二句の「山の猟夫にあひにけるかも」は、文字通りなら「滑空して飛び移っている内に偶然に漁師に出会ってしまった」となる。出会って驚いたむささびの様子に焦点を当てた、やや滑稽味を帯びた歌かと思う。
歴史解説  発句「牟佐々婢波  木末求跡  足日木乃」「むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの」と訓む。「牟佐々婢波」は「むささびは」と訓む。「牟」はム、「佐」はサ、「婢」はビ。「牟佐々婢」で動物の「むささび」を表す。「むささび」は、「リス科の哺乳類。体長約30~50センチメートル。外形はリスに似ているがやや大きい。手足間の体側に皮膜がよく発達し、これを広げて枝から枝へ飛び、100メートル以上も滑空できる。尾は円筒状で、太くて長い。背面は灰褐色、赤褐色などで下面は白く、ほおに白斑がある。昼は樹木の空洞などで眠り、夜活動して果実や木の実、葉などを食べる。日本では本州以南の各地の森林に分布。類似種にモモンガがある」(『日本国語大辞典』より)。なお、「むささび」は、本歌以外にも詠まれているが、1028番歌の表記は「武射佐毗」であり、「射」はザであることから「むざさび」とも言ったことがわかる。「木末求跡」は「木末(こぬれ)求(もと)むと」と訓む。「木末(こぬれ)」は、「こ(木)のうれ(末)」の約まったもので、「樹木の先端の部分。こずえ」の意。「うれ」については、146番歌4句「子松(こまつ)がうれを」に既出。「求」は「求(もと)む」。「もとむ」は「本(もと)になるものを得ようとして尋ねさがす」ことをいう。「跡」はト。むささびは、高所から斜め下にしか滑空できないので、梢の方へ梢の方へと登る習性があり、そのことを「木末求むと」と詠んだもので、「梢を求めてかけ登ろうとして」の意となる。「足日木乃」は「足(あし)ひきの」と訓む。「足日木乃」は、「足日木能」と表記は違うが同じ。「日木」はヒキで、「乃」はノ。「あしひきの」は「山」にかかる枕詞として記紀歌謡にも用いられているが、原義は不明である。萬葉集には「足引・足曳」などと表記された例も中期以降のものに見え、万葉の中期にはすでに原義が不明になっていて、当時の語源解釈からこのような文字を当てるようになったものと推定されるが、「足」と関連した原義である可能性はあるので漢字表記のままとした。井出至「枕詞『あしひきの』考」では、古代製鉄業者がたたらを踏むことによって引き起こした職業病が「足攣(ひ)き」で、鉱山で働きその病にかかった者を「足攣(ひ)きの山人」と言ったという。

 結句「山能佐都雄尓  相尓来鴨」「山の猟夫(さつを)に あひにけるかも」と訓む。「山能佐都雄尓」は「山のさつ雄(を)[男]に」と訓む。「山」は、「火山作用、浸食作用、造山作用によって地表にいちじるしく突起した部分。高くそびえたつ地形。また、それの多く集まっている地帯。山岳。日本では古来、神が住む神聖な地域とされ、信仰の対象とされたり、仏道などの修行の場とされたりもした」(日本国語大辞典より)。「能」はノ。「佐都」は、サツで。「さつ」は「さち(幸)」で、矢、弓などの狩猟用具や、狩猟をする人などの上について、それが狩猟に関するものであることを示す。61番歌2句に「得物(さつ)矢(や)」の例があった。ここは次の「雄(を)[男]」に冠したもので、「さつ雄(を)[男]」は、猟師の意。「尓」はニ。「相尓来鴨」は「相(あ)ひにけるかも」と訓む。「相」は「相(あ)ひ」。「相」を「あふ」と訓む。「尓」は二。ここの「来」はケル。「鴨」はカモ。直訳すれば「出会ったことだよ」ということになるが、具体的には猟師に見つかって射られ捕獲されたことをいう。

 参考までに、この歌について、斎藤茂吉『萬葉秀歌』が述べている主要部分を付記しておく。
 … この歌には、何處かにしんみりとしたところがあるので、古來寓意説があり、徒らに大望を懐いて失脚したことなどを寓したといふのであるが、この歌には、鼯鼠の事が歌つてあるのだから、第一に鼯鼠の事を詠み給うた歌として受納れて味ふべきである。寓意の如きは奥の奥へ潜めて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。さうして味へば、この歌には皇子一流の冩生法と感傷とがあつて、しんみりとした人生觀相を暗指してゐるのを感じ、選ぶなら選ばねばならぬものに屬してゐる。寓意説のおこるのは、このしみじみした感傷があるためであるが、それをば寓意として露骨にするから、全體を破壊してしまふのである。

【巻3(268)。】
 
題詞  長屋王(ながやのおおきみ)の作歌。天武天皇の孫皇子。「長屋王故郷歌一首[長屋王(ながやのおほきみ)の故郷(ふるさと)の歌(うた)一首(しゆ)]」。左注に「右今案従明日香遷藤原宮之後作此歌歟」(「右は、今考えて見ると、明日香宮から藤原宮に遷られた後に作られた歌ではないだろうか」)と記されている。この左注から分かることは、編集当時既に、作歌の年代が分からなくなっていたということ、歌の内容からは藤原遷都(694)以後とも奈良遷都(710)後とも考えられるが、編者は藤原遷都後の歌と考えたということである。長屋王(75番歌の作者として既出)は、天武天皇の孫。父は高市皇子、母は天智天皇の娘御名部皇女で、妃は草壁皇子の娘、吉備内親王。704年(慶雲1)無位から正四位上に昇り、藤原不比等没後の721年(養老5)従二位右大臣として政界の首班となり、724年(神亀1)聖武即位とともに正二位に進む。しかし、729年(神亀6)二月、国家を傾けようとしたという密告により、吉備内親王や王子とともに自殺させられた。「長屋王の変」と呼ばれるこの事件が、皇位継承の可能性のある長屋王を除くために藤原氏の画策した陰謀であることは明らかで、この乱後、藤原光明子の立后が実現し、藤原氏が政界を牛耳ることとなっていく。なお、昭和63年の発掘調査により長屋王邸跡から約3万5千点の木簡が出土し、それが「長屋王家木簡」と呼ばれて、当時を知る上での貴重な同時代文字資料となっている。
原文  吾背子我  古家乃里之  明日香庭  乳鳥鳴成  嶋待不得而
和訳  我が背子が 古家の里の 明日香には 千鳥鳴くなり 嶋待ちかねて
現代文  「愛しいあなたの住まいが遺されている飛鳥では、島を待ちきれないと千鳥が鳴いています」。
 「あなたの 古い家のある 明日香の里では 千鳥が鳴いています。立派な庭園を待ちかねて(都が移って荒れてしまったお屋敷にふたたび立派な庭園ができることを願って)」。
文意解説  発句「吾背子我  古家乃里之  明日香庭」「我が背子が 古家の里の 明日香には」と訓む。「吾背子我」は「吾(わ)が背子(せこ)が」と訓む。「吾瀬子之」、「和我世故我」に表記は異なるが既出。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「背子(せこ)」は、広く男性を親しんでいう語で、主として女性が用いるが、男性が他の親しい男性に対して用いる場合もあり、ここはその例。「我」はガ。背子が誰を指すかは不明だが、いずれにしても故郷に立派な庭園を持っていた高貴な人で、その邸宅の跡がなおある作者と親しい人であることには違いない。中西進は、背子に草壁皇子を擬し、古家を嶋の宮とする説を述べている(『万葉集の比較文学的研究』第六章)。「古家乃里之」は「古家(ふるへ)の里の」と訓む。「古家(ふるへ)」は、「ふるいへ」の約まったもので、「もと住み馴れた家で、今は住まなくなっている家」をいう。「乃」はノ。「里」は人家のあつまっている所、人の住んでいる所、村落をいう。「之」も上の「乃」と同じく連体修飾の格助詞「の」。「明日香庭」は「明日香(あすか)には」と訓む。「明日香」は、奈良県高市郡明日香村付近一帯の称で、北は大和三山にかぎられ、中央を飛鳥川が流れる。豊浦宮に推古天皇が即位して後、百余年間都が置かれた所である。「庭」は二ハ。「嶋」と呼応した用字と考えられる。

 結句「乳鳥鳴成  嶋待不得而」「千鳥鳴くなり 嶋待ちかねて」と訓む。「乳鳥鳴成」は「乳鳥(ちどり、千鳥)鳴(な)くなり」と訓む。「乳鳥」は既出の「千鳥」を表したもので、「乳」はチの訓仮名であると思うが、この用字には「幼鳥」の意が込められているようにも考えられるので「乳鳥(ちどり)」と漢字表記のままにした。「鳴」は「鳴く」。「成」はナり。ナりは、「鳴く」のように音響に関係がのある語に続くときは、その音が聞えるの意で、姿は見えないことをいう。「嶋待不得而」は「嶋(しま)待ちかねて」と訓む。「嶋」は、草壁皇子が亡くなった時に詠まれた「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の中でよく使われていた語で、「泉水、築山などのある庭園」の意であり、草壁皇子の宮殿は「嶋の宮」と呼ばれていた。「待」は「待(ま)ち」。「不得」は、文字通りに訓めば「得(え)ず」であるが、ここは義訓で、ナ行下二段活用の他動詞「かぬ」の連用形「かね」を表す。「かぬ」は、補助動詞として動詞の連用形に付いて、その動詞の示す動作内容を「…し続けることができない。…しようとしてもできない」の意とする働きがある。ここでは「待(ま)ちかぬ」で一語の複合語として、「待っていることを耐え難く思う。待ちわびる」の意となる。「而」はテ。この句については、先にも述べた通り、「嶋待ちかねて」という表現は一般的でないことから、「嶋」を「嬬」の誤字として、「嬬待ちかねて」と解する説が多い。しかし、阿蘇『萬葉集全歌講義』は「嶋待ちかねて」説を採って次のように述べる。
 「千鳥が妻を求めて鳴いている」という表現で詠まれる状況はあたりまえ過ぎて、「わが背子が古家の里の明日香には」という、特殊な情景を受ける表現にふさわしいとも思われない。「立派な庭園も、あなたがいらっしゃらなくなってからは、さびれてしまって、千鳥ももとのように立派な庭園になることを願って鳴いています」という表現の方がよいと思う。

 この阿蘇の説に賛同する。このように解することにより、3句の「庭」の用字も生きて来ると思う。立派な庭園になることを願って鳴いている乳鳥(ちどり)もやがては立派に成鳥となることであろうという願いも込めて。結句の「嶋待ちかねて」の「嶋」をどう解するべきか。居宅の主(あるじ)の意ととらないと歌意が通じない。主がいなくなったことなど鳥たちには分からない。分からないからこそ「嶋の主」が現れるのを待ちかねている鳥たちの心情が哀傷を帯びてくる。なお、嶋は嬬の誤字として「妻待ちかねて」と訓じる見方もある。
歴史解説

【巻3(269)。】
 
題詞  阿倍女郎(あべのいらつめ)の作歌。「阿倍女郎屋部坂歌一首(阿倍女郎(あへのいらつめ)の屋部坂(やべさか)の歌(うた)一首)」。阿倍女郎については伝不詳。阿倍女郎を作者とする歌は、『萬葉集』に五首あり、本歌と505・506・514・516番歌である。「屋部坂(やべさか)」の所在地については、諸説あり定まらない。主な説としては次の三説が挙げられる。① 奈良県磯城郡田原本町矢部(吉田東伍『大日本地名辞書』)。② 奈良県高市郡明日香村小山(山田孝雄『萬葉集講義』)。③ 奈良県生駒郡平群町(土屋文明『続萬葉紀行』『萬葉集私注』)。 所在地は確定できないが、本歌を詠むと「屋部坂」は、常に人が通る交通の要所と思われ、坂の両側は赤茶けた地肌を露出していたという情景が想像される。
原文  人不見者  我袖用手  将隠乎  所焼乍可将有 不服而来来
和訳  人見ずは 我が袖もちて 隠さむを 焼けつつかあらむ 着ずて来にけり
 人見ずは わが袖もちて 隠さむを 焼けつつかあらむ 著せずて来にけり「佐々木本」
 人見ずは わが袖もちて 隠さむを 燃えつつかあらむ 着ずて来にけり「岩波大系本」
 人見ずは 我が袖もちて 隠さむを 焼けつつかあらむ 着ずて来にけり「伊藤本」
 人見ずは わが袖もち て隠さむを 燃えつつかあらむ 着せずて来にけり「中西本」
現代文  「人がもし見ていなかったら 私の袖で隠してあげようものを 焼け続けていくのだろうか (私の胸の内も、屋部坂と同じように) 袖で覆うこともしないまま来てしまったなあ」
文意解説  この歌の訓読みが様々である。「焼けつつ」と「燃えつつ」、「着ずて」と「着せずて」の相違が認められる。本歌の区分は相聞歌ではなく雑歌として採録されている。初句の「人見ずは」は、相聞歌なら「人目をはばかって」と解釈したいが原文は「人不見者」となっていて「人目につかないなら」である。「袖もちて隠さむを」はそのままに解する。「焼けつつあらむ」は何が焼けているのか不明。「着ずて来にけり」も誰のことか分からない。

 発句「人不見者  我袖用手  将隠乎」「人見ずは 我が袖もちて 隠さむを」と訓む。「人不見者」は「人見ずは」と訓む。ここの「人(ひと)」は「他人。当人以外の不特定の人」の意で、屋部坂を通る人をいう。「不見者」は「見ずは」と訓む。西宮『萬葉集全注』は、「このズハは『隠さむを』のムと呼応して、事実に反することを仮定する用法」だとして、「室町時代までズワと発音され、今日の謡曲の発声にもそれが残されている。ズバではない。この屋部(やべ)の坂は人が通るので、人目がないということはありえない。それで反実仮想の『人見ずは』となるのである」と述べている。「我袖用手」は「我が袖(そで)もちて」と訓む。「我」はガを補読して「我が」と訓む。「袖」は、衣服で、身頃(みごろ)の左右にあって腕をおおう部分をいう。「用手」は「もちて」をあらわす。「もちて」は、動詞本来の意味が次第に薄れて格助詞的に用いられて、手段・方法・材料などを表し、「…で(もって)。…によって」の意。「用」は、「もちいる」の意であるが、「以」と通じ、「もって」の意もあるので、「用(もち)て」と漢字のままとしても良いのかもしれない。「手」はテ。「袖」との関連からの表記と思える。「将隠乎」は「隠(かく)さむを」と訓む。「将隠」は「隠(かく)さむ」と訓む。「乎」はヲ。「人(ひと)見(み)ずは 我(わ)が袖(そで)もちて 隠(かく)さむを」という訓みについて異論はないものの、これだけでは何を隠そうというのか皆目わからない。下句は難解というが、この上句も難解である。西宮『萬葉集全注』に「代匠記は胸の火をつつむと解し、考は赤裸の屋部坂を蔽い隠すと解し、全註釈は山が焼けているのを袖で隠すと解した。この中で、考がもっとも自然」として、賀茂真淵『萬葉考』の説を採り、「下句の『焼け』から、この屋部坂が赤茶けた地肌をまる出しにしていたことが分かるのは、その焼けただれたような地肌を袖で隠してあげたい、と解されるからである」と述べている。また、土屋『萬葉集私注』は「屋部はヤベであるが、恐らく本來はヤカベであつたらうから、此の歌は坂の名のヤカベを『焼け』に連想して、興じ作つた歌と見るべきである」とし「坂とは言ひながら胸の内が焼けて居てはかはいさうだ。その焼ける思ひを私の袖でかくしてもやりたかつたが」の意と解している。澤瀉『萬葉集注釋』は土屋の説を紹介した後、「私は前に作者の思ひと見たのであるが、みづからの思ひを袖に隠さうといふのに『我が袖』といふのはことごとしく、『我が』は相手を豫想しての言葉で、隠すのはみづからの思ひでなくて、山と見る方が穏やかである」と述べて、全註釈の山が焼けているのを袖で隠すと解する説を支持している。題詞に「屋部坂(やべさか)の歌(うた)」とあることからすると『萬葉集全注』が「考がもっとも自然」と言うように『萬葉考』の「赤裸の屋部坂を蔽い隠す」と解するのが良く、『萬葉集私注』の説が妥当に思われる。


 結句「所焼乍可将有 不服而来来」「焼けつつかあらむ 着ずて来にけり」と訓む。「所焼乍可将有」は「焼けつつか有(あ)らむ」と訓む。「所焼」は、「念曽所焼[念(おも)ひそ焼くる]」に既出、「「焼け」と訓む。名義抄に「燒 ヤク・タク・モユ」とあるところから、「所焼」をモエ(燃え)と訓む説もある。しかしここは、作者が「赤裸の屋部坂」の、あたかも土器を焼き上げたような様相を見て、坂の名のヤカベからの連想で、「屋部坂」を擬人化してその胸の内が焼けているものとして詠ったものと考えられるので、ヤケと訓む方が良いと思う。「乍」はツツ。「可」はカ。「将有」は「有(あ)らむ」と訓む。但し、この「将有」を、澤瀉『萬葉集注釋』では「あるらむ」と訓んでいるので、その述べるところを見ておこう。
 舊訓にヤケツヽカアラムとして諸注多くそれに從つてゐる。さう訓みながら「燒けてゐることでせう」(全註釋)とか、「今もそのまま燒けつづけて居ることであらうか」(私注)とか譯されてゐるが、「あらむ」といふ語からはさういふ譯は出て來ないはずである。「外耳(ヨソノミニ) 聞乍可(キキツヽカ)将有(アラム)」(四・392)、「不盡乃高嶺之(フジノタカネノ) 燒管香(モエツヽカ)将有(アラム)」(十一・2695) の例でもわかるやうに、アラムと訓めば、作者みづからが然ゆる思ひをつゞける事か、といふ事であるべきである。

 澤瀉が言う通り、「あらむ」と訓むということは、この句の主語は作者ということでなければならず、『全註釋』や『私注』のように「山」や「坂」を主語として口訳するならば「あるらむ」と訓まねばならないだろう。しかし、「将有」を「あるらむ」と訓む例は皆無ではないが、「あるらむ」と訓むと一句九音の字あまりとなるので、やはりここは通例通り、「あらむ」と訓むべきであろう。この歌が難訓歌となった原因は、この句の主語が明示されていないことにあるのだが、作者は、この句のなかで、主語の転換を行なったものと考えられないであろうか。先に述べた通り、この歌は「屋部坂」を擬人化してその胸の内が焼けているものとして詠っており、「焼(や)けつつ」の主語は、上の句とのつながりで考えると「隠(かく)さむを」の対象である「屋部坂」ということになろうが、ここで作者は擬人化した「屋部坂」と自分の思いを重ねて、主語を自分に転換して「焼(や)けつつか有(あ)らむ」と詠ったのだと考えられる。すなわち、「焼(や)けつつか有(あ)らむ」は「屋部坂の胸の内が焼けているのと同じように私の胸の内も焼け続けていくのだろうか」の意となろう。このように解することは、自分の思いを不盡の高嶺になぞらえて詠った、2695番歌(澤瀉も例に引いた)と同じである。

 参考までに2695番歌を見ておこう。「吾妹子尓 相縁乎無 駿河有 不盡乃高嶺之 燒管香将有」(吾妹子(わぎもこ)に 相(あ)ふ縁(よし)を無(な)み 駿河(するが)なる 不盡(ふじ)の高嶺(たかね)の 燒(も)えつつか有(あ)らむ)(大意)吾妹子に逢うきっかけが無いので、駿河の国の不尽の高嶺のように(心のなかで)燃えつづけていくことであろうか。(大意)は『日本古典文学大系』による。

 「不服而来来」は「服(き)せずて来(き)にけり」と訓む。「不服而」は「服(き)せずて」と訓む。澤瀉『萬葉集注釋』に「後世使役と考へられるものが、當時はサ行活用の他動詞と見るべき形で、『吹き返す』(251)、『寝さぬ』(五・802)の如きがあり、『服』一字をキルともキスとも訓む事は自由であつたと思はれる」とあるが、「服(き)せずて」と訓むと、この句は八音の字あまりとなることから「服(き)ずて」と訓む説もある。ただ、「ずて」を含む字余りは、236番歌4句「比者不聞而[比者(このころ)聞かずて]」の既出例がある。「ずて」は平安時代の「で」の前身であり、古代でも口頭の発話は「で」の音近かったことから、これを含む字余りは許容されたと考えられる。歌の意から考えると「服(き)せずて」と訓むのが良い。「来来」は、「来にけり」と訓む。ヌを補読する例は、133番歌5句「別来礼婆[別れ来ぬれば]」に既出。また助動詞「けり」を「来」で表記した例は、267番歌5句「相尓来鴨[相(あ)ひにけるかも]」に既出。
歴史解説

【巻3(270)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人覊旅歌八首」。本歌以下8首(270~277番歌)は高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の旅先の歌。黒人は古人とも言われ万葉集を代表する歌人の一人。「高市連黒人」は、32・33・58・70番歌の作者として既出。持統・文武朝の下級官人で、旅の歌をよくしたことで知られ、『萬葉集』に短歌十八首を残すが全て旅の歌である。「覊旅歌」については、「柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首」のところでも述べたが、「旅に関する感懐を詠んだ和歌」のことをいい、和歌の部立ての一つとしても用いられた。
原文  客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保船 奥榜所見
和訳  旅にして もの恋しきに 山下の 赤のそほ船 沖を漕ぐ見ゆ
現代文  「旅先で 何となく恋しい思いでいる時に 山の下の方にいる 赤い船が 沖の方へ漕いで行くのが見える」。
文意解説
 旅の途上で、高台ないし山頂から海の沖を一人眺めると、なんとなく物寂しくも人恋しい思いに見舞われる。そほは赤土のこと。「赤のそほ船」というのだからよほど鮮やかな赤船だったのだろう。もの恋しさに加えて沖ゆく船に旅情をそそられる、しみじみとした好歌である。

 発句「客為而 物戀敷尓 山下」「旅にして もの恋しきに 山下の」と訓む。「客為而」は「客(たび)に為(し)て」と訓む。「客」は、「草枕 客(たび)尓之有者(にしあれば)」及び「草枕( 客(たび)去君跡(ゆくきみと)」に既出で「たび」と訓む。「為」は「為(し)」。「而」はテ。「客」の下に二を補読して「客(たび)に為(し)て」と訓み、表記は違うが「旅尓之而」と同句で「旅にあって」の意。「物戀敷尓」は「物戀(ものこほ)しきに」と訓む。この句も「物戀之伎尓」と表記は違うが同句。「物戀敷」は「物(もの)戀(こほ)しき」と訓む。「敷」はシキ。「ものこほし」は「何となく恋しく思われる」の意。「尓」はニ。「山下」は「山下の」と訓む。この句は旧訓にヤマモトノとあったのを宣長『玉の小琴』にヤマシタノと改めて以後、それが定訓となった。ただ、宣長はこの句を枕詞としたが、それは否定され、文字通り、山の下の方すなわち麓の意とするのが通説となっている。

 結句「赤乃曽保船 奥榜所見」「赤のそほ船 沖を漕ぐ見ゆ」と訓む。顔っこ「赤乃曽保船」は「赤(あけ)のそほ船」と訓む。「赤」は、今アカと言ってアケとは言わないが、アカは、「阿迦胡麻(アカコマ)」「阿可毛(アカモ)」(五・804)「安可袮(アカネ)」(十五・3732)のように他の語と複合して用いられたもの(被覆形)で、単独で用いられる時(露出形)はアケであったと思われる。「乃」はノ。「曽保」はソホ。「曽保」で以て「赭(そほ)」を表し、「色の赤い土」の意。「そほ船(ふね)」は、赭で赤く塗った船をいう。「そほ船」だけで赤色の船の意なのに、さらに「赤(あけ)の」を冠したもの。赭で塗ることについては、船材の保護のため、魔除けのため、官船のしるし、とする説などがある。澤瀉『萬葉集注釋』に「必ずしも赤く塗つた船が官船とは斷じられないが、今もさうであるやうに近海の漁船などは白木のまゝであつたと思はれ、大型の航海用の船などに赭土を塗つたもので、ここも遠く沖へ漕ぎ出てゆく都通ひの官船と見たのであらう。」と述べているように官船であったと見てもよいように思うが、西宮『萬葉集全注』のように「この船は都通いの官船であるとしなければならない。」と断定してこの歌を解釈する事には賛成できない。「奥榜所見」は「奥(おき)[沖]へ榜(こ)ぐ見(み)ゆ」と訓む。「奥」と「榜」は直近260番歌に、「所見」は直近256番歌に既出であり、それぞれ「奥(おき)[沖]」「榜(こ)ぐ」「見ゆ」と訓むことに問題は無いが、「奥(おき)[沖]」の下に補読する助詞によって、「沖に」(『萬葉集全注』他)、「沖を」(『萬葉集注釋』他)、「沖へ」(『萬葉集全歌講義』他)の三訓の説がある。それぞれの説になるほどと思うところがあり決め難いが、阿蘇『萬葉集全歌講義』の論ずるところに惹かれたので「沖へ」の説を採ることとした。阿蘇は次のように述べている。「沖榜所見」は、「沖に」とも「沖を」とも訓めるが、「山下の」との関わりからいえば、「沖へ」がよい。「山下の」船が今ははや「沖を(に)」漕いでいるとすると、その意外な舟足の早さに驚いているような感じになるが、「今山下にいる舟」が、沖へ向って漕いで行くところとすれば、沖に離れようとしている舟は心ぼそげで、舟旅をしている黒人も言いあらわし難い寂寥を感じたに相違ない。山の緑、船の赤、海の青、波の白と、鮮明な色彩のなかで、絵画的構図が浮び上がる。感情をあらわにせず、「沖へ漕ぐ見ゆ」と留めたところに作者の旅愁の言い知れぬ深さが感じられる。
歴史解説

【巻3(271)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人覊旅歌八首」の二首目。潮が引いて干潟が現れる。エサを求めてやってきた鶴たちが鳴き声をあげながら飛ぶ様を詠ったもの。
原文  櫻田部  鶴鳴渡  年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
和訳  桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし 鶴鳴き渡る
現代文  「桜田の方へ鶴が鳴きながら渡って行く。年魚市潟では潮が引いたらしい。鶴が鳴きながら渡って行く」。  
文意解説  発句「櫻田部  鶴鳴渡  年魚市方」「桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟(あゆちがた)」と訓む。「櫻田部」は「櫻田(さくらだ)へ」と訓む。和名抄に「尾張国愛智郡作良(さくら)」があり、「櫻田(さくらだ)」は、その作良(さくら)の地の田の意であるが、衾田ー衾道(212番歌)、鮎田ー年魚道(3260番歌)などと同じく櫻田として地名になっていたものと思われる。現在の名古屋市南区の桜台町、元桜田町、桜本町、西桜町のあたりをいい、「古く『作良』はこれらの町を含む笠寺台地全体を指していたのであろう」(加藤静雄『万葉の歌 人と風土』12)という。「部」はへ。「鶴鳴渡」は「鶴(たづ)鳴き渡る」と訓む。「鶴」は「たづ」と訓む。萬葉集では、助動詞「つる」の訓借仮名として「鶴」を用いることがあるものの、鳥名「鶴」はすべて「たづ」と訓ぜられる。鶴が「たづ」と訓まれたのは、「たづき」を「鶴寸(たづき)」と訓借する例からも推定でき、上代すでに「たづ」は歌語として定着していたようである。「つる」は、ツル科の鳥の総称。南アメリカを除く世界に分布し、14~28種ある。体長80~150センチメートルと大形で、いずれもくちばしが長く、くびとあしが長い美しい体型をしている。飛翔時には、くびとあしを前後に伸ばし、ゆっくり下へ羽ばたき、早く強く翼を上に戻す。雌雄いっしょに行動し、鳴き声は鋭い。湿原や草地にすみ、サギ類のように樹上に止まることはない。松上の鶴といわれているのはコウノトリを誤認したものである。雑食性で、穀類、草の葉・実、ドジョウなどの小魚、昆虫、カエル、トカゲなどを食べる。日本では、北海道の釧路・根室で繁殖するタンチョウ、山口県熊毛町・鹿児島県高尾野町に渡来するナベヅル、同じく高尾野町に渡来するマナヅルが見られ、いずれも特別天然記念物とされている。この他に、クロヅル・カナダヅル・ソデグロヅル・アネハヅルなどがまれに飛来し、動物園ではアフリカ産のカンムリヅルなども飼育されている。古来、その端正な姿態から神秘的な鳥とされ、カメとともに長寿の象徴となり、吉祥の鳥ともされる(以上、『日本国語大辞典』による)。「鳴」は、「なく」の連用形で「鳴(な)き」。「渡」はラ行四段活用の自動詞「わたる」の終止形で「渡(わた)る」。「わたる」は既出だが、今までの例は、「海や川の一方の岸から他方の岸へ行く」または「日や月が空を移動して行く」の意で使われたものであったが、ここは「鳥が空中を飛んで行く」の意。「年魚市方」は「年魚市方(あゆちがた、潟)」と訓む。「年魚」は「鮎(あゆ)」のことで、鮎が一年で生を終えることに基づくが、ここはアユ。「市」は「いち」だが、「跡(あと)」をトに用いたのと同じように、ここはイを省略してチに用いたもの。「方」は同じ音の「潟」に宛てたもので、「潮が引けばあらわれ、潮が満ちれば隠れる地」を意味する。「年魚市方(あゆちがた)」は、名古屋市南区の低地帯の名称で、「笠寺台地が半島状に南に向って突き出した東側と西側の海面をも含んだ半島の周辺だろう」(前掲『万葉の歌 人と風土』12)という。

 結句「塩干二家良之 鶴鳴渡」は「潮干にけらし 鶴鳴き渡る」と訓む。「塩干二家良之」は「塩干(しほひ)[潮干]にけらし」と訓む。「塩干(しほひ)[潮干]」は「潮が引くこと。ひき潮。また、潮が引いたあとの浜」の意の名詞だが、ここの「干」は「干(ひ)」。「ふ」は「潮がひく。干潮となる」ことをいう。「二」はニ。「家良之」は、ケラシ。過去の助動詞「けり」に推定の助動詞「らし」の付いた「けるらし」の約まったもの。一説にケりが形容詞的に活用したものとも言われる。「鶴鳴渡」は「鶴(たづ)鳴(な)き渡る」と訓む。

 なお、この歌について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は「桜田も年魚市潟も美しい地名である。この用語の美しさが前の歌におけると同様に、歌の美しさを助けている。鶴が群れ飛ぶ姿もまた美しい。調べの面から言えば、二句と五句とに同じ句を用いて音楽的である。更に、二句切れ、四句切れで、一首が三段に切れており歯切れがよい。ア段音が多く、以上の諸条件とあいまって、全体的に明るい印象である」と述べているが、その通りだと思う。
歴史解説

【巻3(272)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人覊旅歌八首」の三首目。
原文  四極山  打越見者  笠縫之  嶋榜隠  棚無小舟
和訳  四極山(しはつやま) うち越え見れば 笠縫(かさぬひ)の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟
現代文  「四極山を 越えて見渡すと 笠縫の 島に漕ぎ隠れてゆく 棚もない小さな舟が見える」。 
文意解説  発句「四極山  打越見者  笠縫之」「四極山(しはつやま) うち越え見れば 笠縫(かさぬひ)の」と訓む。「四極山」は「四極山(しはつやま)」と訓む。「四極山(しはつやま)」については未詳。『萬葉代匠記』は、「和名抄云。参河国幡豆郡礒泊 之波止 是今ノ四極ト同シキ歟。(中略)又住吉ニモ礒齒津アリ」と述べて、之波止をシハツの転として、愛知県幡豆(はず)郡吉良町・幡豆(はず)町あたりの渥美湾に望んだ海岸の地とする説をとった。これに対して『萬葉考』は、日本書紀の雄略天皇十四年に呉国の使いが漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)その他を伴って住吉津に泊まり、「爲 呉客道 通 磯齒津路、名 呉坂」とあることにより「西成郡に在山なる事しるし」と言って、住吉説をとった。現在の大阪市東住吉の長居公園の丘陵地とも、同区山坂二丁目の山坂神社付近の台地ともいわれる所である。愛知と大阪のいずれとも決めがたいが、「笠縫」との関係からいえば大阪の東住吉区説が有力と考えられる。「打越見者」は「うち越え見れば」と訓む。「打」はウチに宛てたもの。接頭語ウチは下の動詞を強めたり単に語調をととのえたりする。「越」は「越え」。「見者」は「見れば」と訓む。「笠縫之」は「笠縫(かさぬひ)の」と訓む。「笠縫(かさぬひ)」についても未詳。「之」はノ。次句の「嶋」に続くので、「笠縫(かさぬひ)の嶋(しま)」で考えなければならない。宣長『玉かつま』に「笠縫ノ嶋は、今東生ノ郡の深江村といふところ、是なるべし、此所、菅田多く有て、其菅他所より勝れたり、里人むかしより笠をぬふとを業として名高く、童謡にもうたへり、(中略)笠縫氏は、此所の人にぞありけむ、さて此深江村は、大坂ノ城より東にあたりて、河内の堺に近し、此地いにしへは嶋なりしよし、里人いひ傅へたり」とある。澤瀉『萬葉集注釋』はこの『玉かつま』の論を紹介して、「難波は菅の産地であり、右の説のやうにそこに笠縫氏が住んだ事は認められ、今笠縫の地名は残つてゐないが、大伴氏の所領により『大伴のみ津』(一・63)の名があるやうに、笠縫氏の住んだところを笠縫と云つたといふ事は十分認められる」としている。以上より、笠縫は、現在の大阪市東成区東部の深江南三丁目の深江稲荷(笠縫神社)のあたりと考えて間違いないと思われる。

 結句「嶋榜隠  棚無小舟」「島漕ぎ隠る 棚なし小舟」と訓む。「嶋榜隠」は「嶋(しま)榜(こ)ぎ隠(かく)る」と訓む。「嶋(しま)」には「泉水、築山などのある庭園」の意もあるが、ここは「周囲を水で囲まれた陸地」の意。深江稲荷(笠縫神社)のあたりは、今は市街地だが、古くは古大和川とその支流に潤う沼沢地で、その中にあった島と考えられる。「榜」は「榜(こ)ぎ」。「隠」は「隠(かく)る」。終止形も同形なので、終止形とみて四句切れとする説もあるが、結句を修飾する句と見るのが素直で良いと思う。「棚無小舟」は「棚(たな)無(な)し小舟(をぶね)」と訓む。この句は、同じ黒人の作である58番歌5句と同句。「棚(たな)無(な)し小舟(をぶね)」は、棚板すなわち舷側板を設けない小船のこと。上代から中世では丸木舟を主体に棚板をつけた船と、それのない純粋の丸木舟とがあり、小船には後者が多いために呼ばれたもの。貧弱で安定を欠く舟なので、この言葉で不安な感じ、心許ない感じを起こさせる。

 この歌についても、阿蘇『萬葉集全歌講義』の述べる所を参考までに引用しておこう。
 住吉大社の南の津から東行して四極山を越える道が、竜田山越えの道につながっていた。四極山と笠縫島との位置関係からみて、本歌は東行の旅中と推測される。故郷大和へ向う旅である。笠縫島に漕ぎ隠れる棚無し小舟をうたっているところは、黒人歌特有の旅愁を感じさせるところであるが、初二句の「四極山 うち越え見れば」という表現には、山を越して突然海の景色が目に入った時のはずむ調子があり、故郷に近づく喜びを反映しているようである。古今集巻二十の「大歌所の御歌」の部に、本歌を「しはつ山ぶり」として、
 しはつ山うち出でて見れば笠ゆひの島漕ぎかくる棚無し小舟(20・一〇七三)
と載せる。大歌所は、日本古来の宮廷歌謡を保管・教習した役所で、地方の風俗歌や神事歌が採集され、宮廷の儀礼歌とされた。本歌も、いつのころか、大歌所の歌として採用されたばかりでなく、古今集の「大歌所御歌」五首の中に撰ばれた。大歌所の前身が万葉集の時代の歌【人偏に舞】所であるから。宮廷歌謡として採用されたのは、万葉の時代であったかもしれない。

 四極山(しはつやま)も笠縫の島(かさぬいのしま)も不詳。270番歌を想起させる旅情歌である。漕ぎ行く小舟がが島影に隠れようとする瞬間の、まるで絵はがきのような情景である。
歴史解説

【巻3(273)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人覊旅歌八首」の四首目。
原文  礒前  榜手廻行者  近江海  八十之湊尓  鵠佐波二鳴
和訳  磯の崎 漕ぎ廻み行けば 近江の海 八十(やそ)の湊(みなと)に 鵠(たづ、鶴)さはに鳴く
現代文  「磯の崎を 漕ぎ廻って行くと 近江の海の 多くの湊に 鶴が数多く鳴きかわしている」。
文意解説  発句「礒前  榜手廻行者  近江海」「磯の崎 漕ぎ廻み行けば 近江の海」と訓む。「礒前」は「礒(いそ)の前(さき)[埼]」と訓む。「礒」は、「石や巌」の意で、水辺に臨んだ岩石の多い陸地をいう。「前」を「崎」に宛てる。「礒(いそ)の前(さき)[埼]」は、「岩石の多い陸地が海・湖などに突出しているところ」の意。「榜手廻行者」は「榜(こ)ぎたみ行(ゆ)けば」と訓む。この句は「榜多味行之[榜(こ)ぎたみ行(ゆ)きし]」と類句。「榜」は「榜(こ)ぎ」。「手廻」は「たみ」を表わす。「たむ」は「まわる。迂回(うかい)する。めぐる」の意。「手」はテであるが、母音交替によりタとしても用いられた。「廻」は「湾廻(うらみ)・磯廻(いそみ)・隈廻(くまみ)」などと同じくミに宛てたものだが、この字は「まわる」の意であるので、動詞「たむ」に宛てて「廻(た)む」と表記されることもある。「行者」は、ここは已然形として「行(ゆ)けば」と訓む。「者」はバ。「漕ぎ廻(た)み行けば」は「舟で漕ぎめぐってゆくと」である。「近江海」は「近江(あふみ)の海(うみ)」と訓む。「近江(あふみ)の海(うみ)」は、「淡海乃海(淡海(あふみ)の海)」に同じく、「近江の国の海」の意で、「琵琶湖」をさす。

 結句「八十之湊尓  鵠佐波二鳴」「八十(やそ)の湊(みなと)に 鵠(たづ、鶴)さはに鳴く」と訓む。「八十之湊尓」は「八十(やそ)の湊(みなと)に」と訓む。「数多くの(琵琶湖)の港、港」の意。「八十(やそ)」は、数の八〇(はちじゅう)だが、数の多いことをいうのに用いたもの。「之」はノ。「湊」は、字通に「奏は奏楽。諸楽を合奏するので、湊集の意がある」とする。舟があつまるところから「みなと」の意となった。名義抄にも「湊。ミナト・アツマル」とある。「尓」はニ。「鵠佐波二鳴」は「鵠(たづ、鶴)さはに鳴(な)く」と訓む。「鵠」は、白鳥の古名の「くくひ」とも訓まれるが、ここは鶴の意で「たづ」と訓む。中国でも鵠と鶴は通用していたとされているし、名義抄にも「鵠。コフ・ツル・クグヒ」とある。「佐波二」はサハニ。「澤二」の表記で既出、「数多く」の意。「鳴」は「鳴く」。古代はよほど数多くの鶴が生息していたのだろう。

 この歌についても、阿蘇『萬葉集全歌講義』の述べる所を参考までに引用しておこう。
 本歌は、琵琶湖の湖岸沿いに舟で漕ぎ進んでいる歌であるが、「高島の勝野の原」(3・二七五)や「高島の阿渡の水門」(9・一七一八)の歌があることからすれば、琵琶湖の西湖岸沿いに北上している際の歌であろうか。まだ日の高い日中の歌らしく、磯の崎を漕ぎめぐりつつ湖岸に沿うて行けば、河口や入江にさしかかるたびに群れ飛ぶ鶴の姿が目に入り、そのにぎやかに鳴く声が聞えてくる。魅力溢れる光景が次々と眼前に展開されるのである。明るい日中だからこそ、満喫できる湖の快適な旅であろう。
歴史解説

【巻3(274)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人覊旅歌八首」の五首目。
原文  吾船者  枚乃湖尓  榜将泊  奥部莫避  左夜深去来
和訳  我が船は 比良の港に 漕ぎ泊(は)てむ 沖へな離り さ夜更けにけり
現代文  「私の船は 比良の港に漕いでいって泊ろう。もう沖へ離れないでくれ。夜も更けてしまったぞ」。

 この歌についても阿蘇『萬葉集全歌講義』の【歌意】を参考までに引用しておく。
「家にても たゆたふ命 波の上に 思ひし居れば 奥か知らずも」(17・三八九六)の歌からも思いやられるように、日中でも大海の旅は心細いものであるのに、夜ともなれば、たとえ湖上でも、琵琶湖のような大きな湖では、できれば陸上に、それができなければ、せめて港にと思うのが自然であろう。特に、比良のあたりは、犬養孝氏の『万葉の旅 中』によれば、琵琶湖は、堅田から志賀町に向うと湖水は急に広くなり、雄松崎を中心として南比良・北比良・南小松・北小松付近になると、はるかかなたに沖の島、安土の山々を望んで、もうすっかり大海の感である。うしろには南北にわたって比良山の連嶺が屏風のようにそびえ、大津付近とはまったく趣を異にしている。という状況であるから、都から来た者としては、心細さもひとしおであったろう。本歌は、たとえ港に入らずとも、沖に離れたりはしないでほしい、との気持である。実際に舟人に依頼もし、その心を詠んだのであろう。作者の人恋しい気持も伝わってくる歌である」。
文意解説  発句「吾船者  枚乃湖尓  榜将泊」「我が船は 比良の港に 漕ぎ泊(は)てむ」と訓む。「吾船者」は「吾(わ)が船は」と訓む。「吾」は自称「わ」にガを補読して「吾(わ)が」。「吾(わ)が船」は、作者の黒人が乗っている船をさす。「者」はハ。「枚乃湖尓」は「枚(ひら、比良)の湖(みなと、港)に」と訓む。「枚(ひら)」は地名で、滋賀県大津市の「比良」。「枚」をヒラと訓むのは、紙などを数える助数詞をヒラというところから。「乃」はノ。「湖」について、萬葉集で使われている「湖」の例は全て「みなと」と訓まれている。「尓」はニ。「榜将泊」は「榜(こ)ぎ泊(は)てむ」と訓む。「榜」は「榜(こ)ぎ」。「将泊」は、「泊(は)てむ」と訓む。「はつ」は「船が港に着いて泊まる。停泊する」ことをいう。「漕ぎ泊てむ」は「この港で泊まることになろう」。

 結句「奥部莫避  左夜深去来」「沖へな離り さ夜更けにけり」と訓む。「奥部莫避」は「奥(おき、沖)へな避(さか)り」と訓む。「奥(おき)[沖]」は既出。「部」はへ。「莫」はナ。「避」は「さかる」の連用形で「避(さか)り」。「さかる」は「離れる」の意で、「奥(おき、沖)へな避(さか)り」は「沖の方に流されないでくれよ」の意である。「左夜深去来」は「さ夜(よ)深(ふ)けにけり」と訓む。「左」はサ。接頭語サは、名詞・動詞・形容詞の上に付いて語調をととのえるもので実質的な意味はほとんどない。「さ夜」、「さ霧」、「さ迷う」、「さとし」、「さ噛みに噛む」、「さまねし」など。「さ夜」の場合、「夜」は「よ」と訓む。「深」は「深(ふ)け」。「ふける」は、時間が経過し、事態が深まることをいう語で、漢字表記としては「深」の他に「更」「老」が用いられる。ここは「夜が深くなる」ことをいう。「去」はヌ。「来」はヶリ。
歴史解説

【巻3(275)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人覊旅歌八首」の六首目。
原文  何處  吾将宿  高嶋乃  勝野原尓  此日暮去者
和訳  何處(いづく)にか 吾(わ)が宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば
現代文  「どのあたりで 自分は野宿をしようか。高島の 勝野の原で日が暮れようとしている」。
文意解説  発句「何處  吾将宿  高嶋乃」「何處(いづく)にか 吾(わ)が宿らむ 高島の」と訓む。「何處」は「何處(いづく)にか」と訓む。同じ黒人の作である58番歌「何所尓可[何所(いづく)にか]」と表記は異なるが同句。「處」は「処」の旧字。「何處(いづく)」は「いづこ」の古形。二とカの表記はないが、58番歌の例により補読する。「吾将宿」は「吾(わ)が宿りせむ」と訓む。この句、『萬葉集注釋』『萬葉集全歌講義』『日本古典文学大系』などは「吾(われ)は宿(やど)らむ」と訓んでいる。しかし、『新編日本古典文学全集』の頭注に「第二句『吾将宿』をワレハヤドラムと読むものが多いが、カが上にあれば主格はハをとらない」とあり、これを支持する『萬葉集全注』も「ワレハヤドラム(注釈など)は不可。なぜなら上句『いづくにか』と疑問の助詞カがあるので、『我(わ)』の主格の下はガ助詞がくるのであって、ハ助詞はつかないから(古典全集)」としており、これらの説に従って「吾(わ)が宿(やど)りせむ」の訓みを採る。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「将宿」は「宿りせむ」。「高嶋乃」は「高嶋の」と訓む。「高嶋(たかしま)」は地名で、現在の滋賀県高島市高島町、琵琶湖西岸の北部。「乃」はノ。

 結句「勝野原尓  此日暮去者」「勝野の原に この日暮れなば」と訓む。「勝野原尓」は「勝野(かつの)の原(はら)に」と訓む。「勝野(かつの)の原(はら)」は、現在の高島町勝野から安曇川町にかけての一帯に広がっていた原野をいう。このあたりは、湖西で一番広い平野部で、今は人家も多いがもとは荒涼とした原野であったと思われる。「尓」はニ。「此日暮去者」は「此(こ)の日(ひ)暮れなば」と訓む。「此日」は「此(こ)の日」と訓み、「この太陽」の意。「暮去者」は「暮(く)れなば」と訓む。「去」をヌに用いた例は、直近では274番歌にあった。なお、この句について『萬葉集全注』は次のように注している。「この日」とは「今日という日」の意か「目の前の太陽」の意か曖昧である。そこで用例を検すると、「由良(ゆら)の岬にこの日暮しつ」(7・一二二〇)、「妹(いも)が家道(いへぢ)にこの日暮しつ」(10・一八七七)の如きは、今日という日を暮らしたの意であるが、「この日暮れぬ」という場合は、今日という日が暮れるの意よりも、この目の前にある太陽が沈んでしまうの意に用いているようである。中でも「渡る日の 暮れゆくが如(ごと)」(2・二〇七)、「天伝ふ日の暮れゆけば」(17・三八九五)は日没の意であることを具体的に表現したものである。それで「この日暮れなば」を注釈の如く、日没の意とするのがよい。この論を支持して、「此日」は「この太陽」の意とした。

 この歌についても阿蘇『萬葉集全歌講義』の【歌意】を参考までに引用しておこう。
 「高島の 勝野の原に この日暮れなば」と、仮定条件で詠んではいるが、この歌の場合、きっとそのあたりで暮れてしまうに相違ないという予想で、不安な気持になっているのである。陸路の旅であるか舟の旅であるか、意見が分かれている。舟の旅とするのは、注釈・全注など。通説は、陸路で、釈注も「通説に従って陸路と見るのがおだやかであろう」とする。舟であったら原野に宿る不安は不要であろうと思われるから、やはり陸路の旅と考えたい。比良の港から勝野までは一〇キロ余、二七四番歌とは別時の旅であろう。
歴史解説

【巻3(276)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人覊旅歌八首」の七首目。「左注」に「一本云」として、本歌に唱和して詠ったと思われる一首の歌(以下、「一本歌」という)を記している。
原文  妹母我母  一有加母  三河有  二見自道  別不勝鶴 一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去
和訳  妹も我れも 一つなれかも 三河なる 二見(ふたみ)の道ゆ 別れかねつる
現代文  「妻も私も 一心同体であるからか 三河の国の 二見の道から なかなか別れられないのは」。
文意解説  「妹(いも)」は妻を指すのか旅先で出会った彼女をさすのか不明。三河の二見(愛知県東部)で別れがたい思いを詠っている。この歌には女性側の「三河の二見の道ゆ別れなば我が背もわれも一人かもいかむ」という別本にあるという歌が併記されている。この返歌からするとどうも彼女は妻ではないようである。

 発句「妹母我母  一有加母  三河有」「妹も我れも 一つなれかも 三河なる」と訓む。「妹母我母」は「妹(いも)も我(われ)も」と訓む。「妹(いも)」は作者の妻(旅先での一夜妻とする説もある)を指し、「我(われ)」は作者。「母」はモ音。「一有加母」は「一(ひと)つなれかも」と訓む。「一」は「ひとつ」(「つ」は接尾語)と訓み、「いくつかの物事が、あたかも単一の物のように、いっしょになって同一の状態をなすさま。一体化したもの。一心同体」の意。「有」は、「なれ」と訓む。指定・断定の助動詞「なり」は「に有り」から音韻の変化を経て成立した語であるので「有」の字が宛てられたもの。「加」はカ。「母」はモ。「三河有」は「三河(みかは)なる」と訓む。「三河(みかは)」は「東海道一五か国の一国。大化改新のころに一国となる。鎌倉時代は安達・足利氏が守護となり、室町時代は仁木・一色・細川・足利氏などが守護となる。戦国時代には今川・武田・徳川・織田の諸氏が争い、徳川氏が制覇。江戸時代は天領・大名領が入り乱れ、廃藩置県後額田県を経て、明治五年(1872)愛知県南部となる。三州」(『日本国語大辞典』より)。「有」は「なる」。

 結句「二見自道  別不勝鶴 一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去」「二見(ふたみ)の道ゆ 別れかねつる」と訓む。「二見自道」は「二見(ふたみ)の道(みち)ゆ」と訓む。貝原益軒『吾妻路之記』に「赤坂三州寶飯郡より御油へ十六町……右は三河のふたみ道とて、わかれぢあれど、末はひとつになるとかや。」とあり、これにより『地名辭書』には「按に二見路は後世姫街道と稱したり、萬葉に『妹も我も一つなれかも』とよめるを見れば、古代より山道を姫等の通路とし、海道の荒井の渡をば男子の通路とする習俗のありけるにや」と記している。以上より「二見(ふたみ)の道(みち)」は、愛知県豊川市の国府(こう)町と御油(ごゆ)町との境で、東海道の本道と姫街道(浜名湖口の難所を避けたもの)との分岐点と見てよいだろう。「自道」は「自」の左下に返り点のレ点を付けて「道(みち)ゆ」と訓む。「自」(255番歌他に既出)は、「従」と同じく漢文の助字で「より」を意味し、ここは、その意を表す格助詞「ゆ」に用いたもの。「別不勝鶴」は「別れかねつる」と訓む。「別」は「別(わか)れ」。「不勝鶴」は、「かねつる」と訓む。「かねつる」は、178番歌に「金鶴」の表記で既出。「かぬ」は、他の動詞の連用形に付いて補助動詞として働き、「…し続けることができない。…しようとしてもできない」の意となる。

 次に本歌に唱和したと思われる「一本歌」を見ておく。1句「水河乃」は「水河(みかは)[三河]の」と訓む。「水河」は、表記は違うが「三河」に同じ。「乃」はノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、連体修飾の格助詞「の」。2句「二見之自道」は「二見(ふたみ)の道(みち)ゆ」と訓む。本歌4句に同じ。3句「別者」は「別(わか)れなば」と訓む。「別」は本歌五句に既出。完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」を補読。「者」はバ。4句「吾勢毛吾文」は「吾(わ)がせ[眥]も吾(われ)も」と訓む。「吾勢」は「吾(わ)がせ[眥]」で「わが夫」の意。「勢」はセ。「毛」はモ。「吾(われ)」は「一本歌」の作者。「文」はモ。5句「獨可文将去」は「獨(ひとり)かも去(ゆ)[行]かむ」と訓む。「獨(ひとり)」は既出。万葉集に「獨(ひとり)」は五十の用例があるが、その大部分は男女二人の関係に置いて一人である意を示す。「可」はカ。「文」はモ。「将去」は「去(ゆ)[行]かむ」と訓む。

 この歌についても阿蘇『萬葉集全歌講義』の【歌意】を参考までに引用しておこう。
 数字の一・二・三を詠みこんだ遊戯性の濃い歌。宴席で披露されたものであろう。一本歌のこれに唱和した歌は、遊女の歌である可能性が高い。あるいは、集成がいうように、一本歌は土地の伝承歌で、それに合わせて黒人が二七六番歌を詠作したという場合も考えられる。
歴史解説

【巻3(277)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人覊旅歌八首」の八首目。高市連黒人の旅の歌はこの歌で了となる。
原文  速来而母  見手益物乎  山背  高槻村  散去奚留鴨
和訳  早来ても 見てましものを 山背(やましろ)の 多賀の槻群(つきむら) 散りにけるかも
現代文  「もっと早く来て見ておけばよかったのに。山城の多賀の欅(けやき)の林の(美しい)黄葉はもう散ってしまったなあ」。
文意解説  発句「速来而母  見手益物乎  山背」「早来ても 見てましものを 山背(やましろ)の」と訓む。「速来而母」は「速(はや、早)来ても」と訓む。「速」は「疾(と)く」と訓む説と「早(はや)」と訓む説とに分かれている。ここでは「速(はや、早)と訓む。「もっと早く」の意。「来而母」は「来てモ」。「見手益物乎」は「見てましものを」と訓む。「見」は「見(み)」。「手」はテ。「益」はマシ。「物乎」はモノヲを表し、「~のに。~けれども」の意。「山背」はノを読み添えて「山背(やましろ)の」と訓む。「やましろ」は「畿内五か国の一つ。大化改新後一国となる。古く山背・山代と書かれたが、延暦一三年(794)桓武天皇が平安京を置くとともに山城と改められた。鎌倉時代は京都守護(のち六波羅探題)が置かれ、室町時代は幕府が開かれ、侍所所司が守護を兼ねた。江戸時代は京都に所司代・町奉行、伏見に奉行が置かれ、また淀藩が置かれた。明治四年(1871)の廃藩置県後、京都府と淀県となったが、まもなく淀県は廃止され、京都府の南部となる」(日本国語大辞典より)。なお「山背」は、大和から見て、山の後ろの意からの用字と考えられる。「早来ても見てましものを」は「もっと早く訪れたかったなあ、見てみたかったのに」である。

 結句「高槻村  散去奚留鴨」「多賀の槻群(つきむら) 散りにけるかも」と訓む。「高槻村」は「高(たか)の槻(つき)村(むら、群)」と訓む。「山背高槻村」は古来難訓視されていたが、生田耕一は「山城の多賀の槻の木群(こむら)」(萬葉集難語難訓攷)と解いて、タカノツキムラと訓んだことにより漸く定訓を得た。「高」は、現在の京都府綴喜郡井手町多賀で、「高神社」のある地。土地が高い所から「高」と名付けたのを後に二字に改められたものであろう。「槻(つき)」は、植物「けやき(欅)」の古名。「村」は「群(むら)」を表す。「槻(つき)むら[群]」で以て「欅(けやき)の林の黄葉」の意を表したものと考えられる。槻群(つきむら)は、大樹で豪華な紅葉が美しい欅(けやき)の群落のこと。多賀神社が鎮座する名勝の地。古代の多賀には歌に詠われるような欅群落の名勝地があったことになる。「散去奚留鴨」は「散りにけるかも」と訓む。「散」は「散り」。「去」は二。「奚留」はケル、「鴨」はカモ。 「さぞかし紅葉の美しい群落だろうに」という作者のため息が聞こえてくる。結句の「散りにけるかも」に残念がる気持ちがよく表現されている。一種の倒置表現である。 

 阿蘇『萬葉集全歌講義』の【歌意】を参考までに引用しておく。
 「槻の木の黄葉の美しさは、巻十三・三二二三、四番歌に、歌われている。高の槻群のもとに来てみると、黄葉が一面に散り敷いている。これが散る前は、どんなに美しかったろう、と残念に思っている歌である。『とく来ても見てましものを』とまず残念に思う気持を率直に述べ、『高の槻群散りにけるかも』と詠嘆しているところ、黄葉の美に惹かれる心情がよく伝わってくる」。
歴史解説

【巻3(278)。】
 
題詞  高市(たけち)連(むらじ)黒人(くろひと)」の作歌。「高市連黒人歌二首」とあり、本歌と次の280番歌は「高市(たけち)連(むらじ)黒人(くろひと)」の作である。そして続く281番歌は、「黒人妻答歌一首」との題詞があって、黒人の妻の作である。黒人の歌は直近に「高市連黒人覊旅歌八首」(270~277番歌)を訓んだが、本歌も旅の歌である。
原文  然之海人者  軍布苅塩焼  無暇  髪梳乃小櫛  取毛不見久尓
和訳  志賀の海女は 藻刈り塩焼き 暇なみ 髪梳の小櫛 取りも見なくに
現代文  「海女たちは櫛を取り出して髪をすく暇もないくらい忙しい」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その451)」その他参照する。
 発句「然之海人者  軍布苅塩焼  無暇」「志賀の海女は 藻刈り塩焼き 暇なみ」と訓む。{暇(いとま)なみ」は「暇がなく」。「髪梳の小櫛」の髪梳は「髪を剥(す)くこと」だが仮名振りが難しい。岩波大系本は「けずり」、中西本は「くしら」としている。伊藤本は「髪梳」を「櫛笥」に変えて「くしけ」としている。文字通り「かみすきのをぐし」と読んでよかろう。「志賀の海女」の「志賀」につき、諸家は九州の志賀島としている。現在では金印の出土地として有名である。「志賀(しか)」の地名が使われているのは全万葉歌中、30首近くに上る。そして「海女」は必ずしも海辺で働く女性を指すとは限らない。単に「志賀」といえば琵琶湖大津の近辺を指している例がほとんどである。本歌の場合「塩焼き」とあるから志賀島の「志賀」と思われる。本歌の歌意は平明。

 結句「髪梳乃小櫛  取毛不見久尓」「髪梳の小櫛 取りも見なくに」と訓む。 今回は278番歌を訓む。題詞に「石川少郎歌一首」とあり、石川少郎(いしかはのせうらう)の歌であると分かるが、更に左注に「右今案 石川朝臣君子号曰少郎子也」とあって、巻三の編者は、この歌を石川朝臣(いしかはのあそみ)君子(きみこ)、号は少郎子(太郎・仲郎・少郎の少郎)の作であるとしていることが分かる。石川朝臣君子は247番歌の左注に「正五位下石川朝臣吉美侯(きみこ)」として既出。本歌の類歌として2742番歌があるが、その左注にも「右一首或云石川君子朝臣作之」と記されている。
 写本の異同としては、4句4字目<小>を「少」とするものもあるが、『古葉略類聚鈔』『大矢本』『京都大学本』により「小」を採る。原文は次の通り。

 然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃<小>櫛 取毛不見久尓

 1句「然之海人者」は「しか[志賀]の海人(あま)は」と訓む。「然」は借訓字で地名「しか」に用いたもの。「しか」は、巻十六の「筑前國志賀白水郎十首」(3860~3869)の左注に「滓屋郡志賀村」とあるところで、福岡市東区志賀島。「之」は連体修飾の格助詞「の」。「海人」(238・256番歌に既出)は、海または湖で魚類、貝類、海藻などを取るのを業とする人のことで、上代には諸所に置かれた海人部(あまべ)に属し、海産物を朝廷に貢納し、航海にも従事した。「者」は係助詞「は」。「しかのあま」は『萬葉集』で多く詠まれているが、その表記はさまざまであり、次にその例を挙げておく。
 四可能白水郎(1245)、之加乃白水郎(1246)、
 志賀乃白水郎(2622)、壮鹿海部(2742)、
 思香乃白水郎(3170)、之賀能安麻(3652)。
 本歌の「あま」は5番歌にも登場した「海處女(あまをとめ)」を指したものと考えられる。というのは、次句で詠まれている作業は「海處女(あまをとめ)」の仕事であったから。
 2句「軍布苅塩焼」は「軍布(め)[藻]苅(か)り塩(しほ)焼(や)き」と訓む。「軍布」は、『萬葉代匠記』に「昆ト軍ト音近ケレバ昆布ニヤ。」とあり、昆布は海藻の代表なので「藻(め)」と訓む。「苅」(121番歌他に既出)は、ラ行四段活用の他動詞「かる」の連用形で「苅(か)り」。「苅る」は、「むらがって生えているものを短く切り払う」意。「塩(しほ)」は、「海水または岩塩から製し、精製したものは白い結晶で、食生活上なくてはならない調味料」であるが、当時は、海水をしみ込ませた海藻を焼いて塩を作ったもので、その作業を「塩(しほ)焼(や)く」と言った。「焼」はカ行四段活用の他動詞「やく」の連用形で「焼(や)き」。
 3句「無暇」は「暇(いとま)無(な)み」と訓む。「無」はミ語法で、形容詞「無(な)し」の語幹に原因・理由を表す接尾語「み」(なお、この「み」は機能的には接続助詞とみられる)がついた形で「無(な)み」と訓む。「無」は日本語の語順では「暇」の後に来るのだが、漢文表記されて先にきている。「暇(いとま)」は、元来、物事と、物事との間にできる空白の部分を表わす語であるが、ここでは「ある物事をするために必要な時間のゆとり。ある物事をするためにあけることのできる時間。」の意で用いており、「暇(いとま)無(な)み」は「忙しく暇がないので」の意となる。
 4句「髪梳乃小櫛」は「髪梳(くしら)の小櫛(をぐし)」と訓む。「髪梳」は、大隅國風土記逸文に、「髪梳は、隼人の俗語(日常語)でクシラといふ」とあることによって、仙覚がクシラと訓み、以後多くがこれに従っている。土屋文明『萬葉集私注』に「想像するに作者石川少郎は任に九州にあって、此の興味深い俗語を聞く機会を得て、それに興じ直ちに取って己が歌中にとりいれたものであらう」とある。また西宮一民『萬葉集全注』も「さて『髪梳』は『髪をくしけずること』の意であるに違いない。ならば、『櫛る』の未然形の名詞化ー築(つ)クがツカ(塚)、綯(な)フがナハ(縄)となるなど、例が多いーであろう。奈良県御所(ごせ)市櫛羅(くしら)の地名また式内社に櫛羅(くしら)神社の名がある。これらは隼人との交流を考えなくとも「櫛(くし)(串)卜(うら)」の意であったと解した方がよい。しかし、少なくとも『髪梳』の文字自体から考えられることは、私注がすでに述べたように、作者石川少郎の任地が九州にあり、この俗語を聞く機会を得て、それに興じて直ちに取って己が歌中に入れたものであろう。その興味からの作とすれば、その訓もクシラでよいと考えられるのである。」と述べている。「乃」はノ(乙類)音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、連体修飾の格助詞「の」。「小櫛(をぐし)」は「櫛。また、小さな櫛」をいうが、「を」は接頭語で必ずしも「小さい」とは限らない。
 5句「取毛不見久尓」は「取(と)りも見(み)なくに」と訓む。「取」はラ行四段活用の他動詞「とる」の連用形で「取(と)り」。「毛」はモ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)で、係助詞「も」。「不見久」は、マ行上一段活用の他動詞「みる」の未然形「見(み)」+打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」(「不」で表記)の付いた「見(み)ぬ」のク語法で、「見(み)ぬあく」の「ぬ」と「あ」が約まって「見(み)なく」と訓む。ク語法の「く」を表すのにク音の常用音仮名で片仮名・平仮名の字源である「久」を用いたもの。「尓」はニ音の常用音仮名で格助詞「に」。ク語法に「に」を添えたものを結句としている場合は、詠嘆や何らかの余情を添える効果を意図しているものが多いが、ここもその例。

 278番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

 しか[志賀]の海人(あま)は 軍布(め)[藻]苅(か)り塩(しほ)焼(や)き
 暇(いとま)無(な)み 髪梳(くしら)の小櫛(をぐし)
 取(と)りも見(み)なくに

 志賀の海女は 海藻を刈ったり塩を焼いたりして
 忙しく暇がないので 髪をくしけずる櫛を
 手に取ってもみないことだ
歴史解説

【巻3(279)。】
 
題詞   高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。この歌と次歌の2首は高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌。黒人は前節(21)で見たように、旅の途上で8首の歌を残している。その際、276番歌に「妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる」と詠われている「妹」は妻か別の女か決定し難かった。が、この歌によって妻ではないことが分かる。というのは276番歌の「妹」とは三河(愛知県東部)で別れている。が、この歌の「我妹子」は兵庫県の女性らしいからである。「猪名野(いなの)」も「名次山(なすぎやま)」も兵庫県内の地名だ。「見せつ」は過去形で「見せた」である。「我妹子」といい「いつか示さむ」という結句から考えていっときだけの女性ではない。妻又は恋人と考えて差支えなかろう。以上から歌意は自ずから明らかだろう。
原文  吾妹兒二  猪名野者令見都  名次山  角松原  何時可将示
和訳  我妹子(わぎもこ)に 猪名野(ゐなの)は見せつ 名次山(なすきやま) 角(つの)の松原 いつか示さむ
現代文  「わが妻に (美しい)猪名野は見せた 名次山や 角の松原は いつになったら見せられるだろうか(早く見せたいものだ)」。
文意解説  発句「吾妹兒二  猪名野者令見都  名次山」「我妹子(わぎもこ)に 猪名野(ゐなの)は見せつ 名次山(なすきやま)」と訓む。「吾妹兒二」は「吾妹兒(わぎもこ)に」と訓む。「吾妹兒」は「吾妹子」に同じ。「兒(こ)(子)」は親愛の意を表す接尾語で、「わぎも」「わぎもこ」は、自分の、妻や恋人である女性、または広く女性を親愛の気持をこめて呼ぶ語。ここは黒人の妻を指す。「二」はニ。「猪名野者令見都」は「猪名野(ゐなの)は見せつ」と訓む。「猪名野(ゐなの)」は日本国語大辞典に「大阪府池田市から兵庫県尼崎市、伊丹市、川西市にかけ、猪名川下流に沿って広がった平野。古来名勝の地で、猪名野の八景として知られた。笹の名所」とある。「者」はハ。「令見」は「見せ」と訓む。「みす」のスは使役の意であるところから漢文の助字で使役を表す「令」を用いて表記したもの。「都」はツ。「見せつ」は、12番歌「野嶋波見世追[野嶋(のしま)は見せつ]」と同じ。「名次山」は「名次山(なすきやま)」と訓む。江戸時代後期の文筆家である伴蒿蹊の『閑田耕筆』に「名次山は西宮のうしろの山といふ。式にみゆる名次神社、今は石もて作れる小社ながら、大なる鳥居を建、其柱に氏名を記す。たがはざるべき歟」とあり、「名次山(なすきやま)」は現在の兵庫県西宮市名次町の丘陵地帯と思われる。今もそこに式内社名次神社がある。「次」をスキと訓むことについては、西宮『萬葉集全注』に「『次』の字は、「珠手次(タマダスキ)」(1・五)などに見え、スキと訓まれ、天武紀五年の訓注に『次、此云 須岐(スキ) 也』とある。スクは四段動詞で、次に続く、次から次へ送る、の意で、『次』の字自体の意味である。スギとかツギとかの発音の変化によってできた語ではない」とある。

 結句「角松原  何時可将示」「角(つの)の松原 いつか示さむ」と訓む。「角松原」は「角(つの)の松原(まつばら)」と訓む。「角(つの)」は131番歌にも地名として使われていたが、ここも場所は異なるが地名で、3899番歌に「都努乃(つのの)松原(まつばら)」と詠まれている所と同じ。『和名抄』武庫郡に「津門(都止)」とあることから、『萬葉代匠記』に「乃ト止トハ同韻ノ字ナレバ若コレナドニヤ。名次ト同郡ナルニモ思ヒヨラレ侍リ」という。阿蘇『萬葉集全歌講義』に「現在の兵庫県西宮市松原町津門(つと)。阪神西宮東口のすぐ東北の松原神社境内にわずかに松原を思わせるものがある。今は海岸線を遠く隔てているが、旧武庫川の河口、武庫の湊附近の一方は丘陵下まで湾入していたという。景勝の地であったのだろう」とある。「何時可将示」は「何時(いつ)か示(しめ)さむ」と訓む。「何時可」の「可」はカで「何時(いつ)か」と訓む。代名詞「いつ」にカの付いてできた語であり、未来および過去の事がらに関して、それがどの時点であるかはっきりしないことを表わす。「何時鹿」の表記で83番歌に既出。「将示」は「示さむ」と訓む。「しめす」は「ものを実際に見せる」ことをいう。

 黒人の歌なので、阿蘇『萬葉集全歌講義』の「歌意」を見ておこう。
 愛妻に猪名野を見せることのできた満足感と自分の知る景勝の地をもっと妻に見せて喜ばせてやりたいという夫としての気負いのようなものも感じられる。二七六の「妹」を「遊行女婦」の類とみた諸注もこの歌の「吾妹子」は、黒人の同行の妻をさすとし、二八一の作者は、文字通り黒人の妻と解する。遊女はむしろ各地を歩き知っていて、景勝の地を見せるとの発想は成り立たない点からも当然であろう。憶良の日本挽歌に、こうと知っていたら、亡き妻に国内をことごとく見せてやるのだったのにと悔やむ歌がある。ここも、愛妻家黒人の人柄を示すものであろう。
歴史解説

【巻3(280)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人歌二首」の二首目。
原文  去来兒等  倭部早  白菅乃  真野乃榛原  手折而将歸
和訳  いざ子ども 倭(やまと、大和)へ早く 白菅(しらすげ)の 真野の榛原(はりはら) 手折りて行かむ
現代文  「さあ皆の者、大和の国へ早く、白菅の生い茂った真野の榛原の木を手折って帰ろう」。  

 これも黒人の歌なので、阿蘇『萬葉集全歌講義』の「歌意」を見ておくと、「かねて話に聞いていた真野の榛原に来て喜びはしゃいでいる妻や従者たちに、帰りを促す歌。期待通りの反応を見せる人々に満足している作者の様子もうかがわれる。即興歌であろう」とした後に「真野の榛原」を詠んだ次の二首を掲げている。「いにしへにありけむ人の求めつつ衣に摺りけむ真野の榛原」(7・一一六六)、「白菅の真野の榛原心ゆも思はぬわれし衣に摺りつ」(7・一三五四)。
文意解説  この歌にいう「子ども」は子供のことではなく、旅の同行者一同を指している。この例をすでに63番歌「いざ子ども早く大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(第7節)で見ている。なので「いざ子ども大和へ・・・行かむ」は「さあ、一同大和へ帰ろう」と呼びかけている歌と分かる。「白菅の真野の榛原(はりはら)」は「白い菅(すげ草)が群生する真野(神戸市内)の榛(ハンノキ)の枝を」の意である。

 発句「去来兒等  倭部早  白菅乃」「いざ子ども 倭(やまと、大和)へ早く 白菅(しらすげ)の」と訓む。「去来兒等」は「去来(いざ)兒等(こども)」と訓む。「去来子等」と表記は一字違うが同句。「去来」は義訓字で、陶淵明の「帰去来辞」中の「帰去来兮」が「かえりなん、いざ」と訓ぜられ通りである。イザは、相手を誘うとき、自分と共に行動を起こそうと誘いかけるときなどに呼びかける語。「兒等」は部下や年下の者への呼びかけ。ドモは同類の物事が数多くあることを示す。必ずしも多数とは限らないで同類のものの一、二をさしてもいう。人を表わす場合は「たち」に比べて敬意が低く、目下、または軽蔑すべき者たちの意を含めて用いる。「ども」に充てられた「等」は、同じような人々、ある一定の種類に属する人々を、その集団として表現する語である「ともがら」の意を持つ。ここは旅に同行している妻や従者をさす。「倭部早」は「倭(やまと)へ早く」と訓む。「倭(やまと)」は、わが国の古名として中国の史書に見え、それをそのまま「やまと」の表記に用いていたが、天平宝字元年(757)以降は「大和」と書かれるようになったもので、大和国(奈良県)を中心とする地域をいう。「部」はへ。「早」は「早く」。この句は、下に「行かむ」が省かれているとする説と、5句の「行かむ」にかかるとする説があり、説が分かれている。大方は前説を採って、二句切れとするが、澤瀉『萬葉集注釋』は後説を採っており、それを支持したい。「白菅乃」は「白菅(しらすげ)の」と訓む。「白菅(しらすげ)」は「カヤツリグサ科の多年草。各地の林下の水湿地などに生える。根茎は長く地中をはって先端から新株を生じ、稈(かん)は高さ50~70センチメートル。葉は淡緑色で幅5~10ミリメートルの線形で先はとがり、柔らかく裏面は白色を帯びる」(日本国語大辞典より)。「乃」はノ。「白菅(しらすげ)の」は、次の「真野」の枕詞とする説もあるが、白菅が真野に生えていたことからの実景にもとづく修飾語と見るのが良いと思う。

 結句「真野乃榛原  手折而将歸」「真野の榛原(はりはら) 手折りて行かむ」と訓む。「真野乃榛原」は「真野(まの)の榛原(はりはら)」と訓む。「真野(まの)」は現在の神戸市長田区東尻池町・西尻池町・真野町などの一帯をさすと思われる。「乃」はノ。「榛」は元々は「はしばみ」と訓み、カバノキ科の落葉低木の名称だが、ここでは「はり」と訓み、「榛(はん)の木」のこと。カバノキ科の落葉高木。この木の樹皮・果実を古くは染料に用いた。摺り染めと浸し染めとがあり、摺り染めは実を黒焼きにして、その灰で染める。浸し染めは樹皮や実を煎じた汁で黒色や茶色に染めた。「榛原」は「榛(はり)の生えている原」をいう。「手折而将歸」は「手折(たを)りて歸(ゆ、行)かむ」と訓む。「手折」は「手折(たをら)り」。「たをる」は「手で折る。折り取る。また、折り取って持つ」の意。「而」はテ。「将歸」は「歸(ゆ、行)かむ」と訓む。「歸」は「ゆく」と訓む。

 なお、参考までに、2句は5句の「行かむ」にかかるとする、澤瀉『萬葉集注釋』の説を引用しておく。
 今、「いざ子ども」を初句とした類似の作をあげると、
(1) いざ子ども早く大和へ大伴のみ津の濱松待ち戀ひぬらむ(一・六三)
(2) いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜摘みてむ(六・九五七)
(3) いざ子どもたはわざなせそ天地のかためし國ぞ大和島根は(二十・四四八七)
の如きがあり、(1)と(3)とは二句切である事が明らかであり、今の初二句は(1)と極めて似てゐる為に、今もまた二句切であると無造作に考へられがちであるが、(1)の場合はー(3)の場合もー初二句とあとの三句とは主語を異にした全然別の文であるから二句切である事は當然である。しかし今の場合は、初二句はそのまゝ結句の述語へつゞくと見られる事(2)と全く同じである。(2)の第二句と結句の述語との間に多くの語をへだててゐるから第二句で一旦切るとは誰も考へない。その「香椎の潟に」に相當するものが「大和へ早く」であつて、語法上その間に相違はない。「摘みてむ」の述語に「香椎の潟に」が必要なやうに、それよりも更に一層「行かむ」の述語に「大和へ早く」の語は必要なのであり、兩者の間に數語をへだててゐようとも、兩者は密接につゞくべきものである。即ち今の歌を解くに(1)や(3)を例にすべきものでなく、構成を同じくする(2)によるべきものだと考へる。然るに従來二句切の解が行はれてゐるのは、一首全體の構成を考へないで、(1)の初二句との類例によつて(1)の解に準ずるといふ先入感に支配されたものといふべきである。それは單に語法上から云へるばかりでなく、作者の感動の表現としても、二句で切るといふ事は、その二句の力は強くなるやうであるが、上と下と作者の關心が分裂する事となり、それよりも第二句が第三四と共に結句へつゞくと見た方が一筋に筋の通つた姿になると考へる。それに「早く大和へ」と「大和へ早く」とはたゞ語を前後しただけで、意味に變化はないやうであるが、やはり語調に相違がある。「大和へ」と止める事は、「ローマへ。ローマへ。」などといふせりふを思ひ出すまでもなく今も日常に用ゐるところであり、「早く、早く。」と促す事も認められるところではあるが、「早く大和へ」と「大和へ早く」とを較べると、前者に詠嘆よびかけの意が強く、後者の方が散文的で下への接續性が強く、作者はその事を意識して語の前後を改めたと見ることも出來る。以上いろいろの理由から私はこの句を結句までつゞくものと認める。
歴史解説

【巻3(281)。】
 
題詞  黒人の妻の作歌。「黒人妻答歌一首」。前歌に応えて黒人の妻が詠った歌。
原文  白菅乃  真野之榛原  徃左来左  君社見良目 真野乃榛原
和訳  白菅(しらすげ)の 真野の榛原(はりはら) 行くさ来さ 君こそ見らめ 真野の榛原
現代文  「白菅の 真野の榛原を 行く時にも帰る時にも あなたはご覧になることでしょう その真野の榛原を(私はめったに見ることはないのですから、そんなにせきたてないでくださいな)」。
文意解説  発句「白菅乃  真野之榛原  徃左来左」「白菅(しらすげ)の 真野の榛原(はりはら) 行くさ来さ」と訓む。「白菅乃」は「白菅(しらすげ)の」と訓む。この句についての西宮『萬葉集全注』の【注】を次ぎに紹介しておこう。
 かやつりぐさ科の多年草。葉が白色を帯びた緑色なので「白菅」[「白」に傍点の○を付している。引用者注]という。水辺の湿地帯に生える。これが真野に生えていたので、実景に基づく修飾語である。「真野の浦の小菅(こすげ)の笠(かさ)を」(11・二七七一)、「真野の池の小菅を笠に」(11・二七七二) [「浦」と「池」に傍点の○を付している。引用者注]の如く、浦や池があるから、湿地帯としてまさに白菅の茂る地にふさわしい。ところがこれを枕詞とみる説がある(私注、注釈など)。それは次句との関係によるものであろうが、白菅の生えている真野、そして榛原(はりはら)の生えている真野で重複するからとの理由であるらしい。しかし、白菅は丈(たけ)が低く、榛(はんのき)は低木もあれば高木もあるが、ともかく白菅は樹木の下草(したくさ)なのだから共に生えていて少しもおかしくはない。
 以上の【注】によって、実景に基づく修飾語とみる説を支持する。「真野之榛原」は「真野(まの)の榛原(はりはら)」と訓む。「徃左来左」は「徃(ゆ)くさ来(く)さ」と訓む。「徃」は、「往」の俗字、既出で「徃(ゆ)く」。「左」はサ。「来」は「来(く)」。「徃(ゆ)くさ来(く)さ」で「行く時にも帰る時にも。行きも帰りも」の意となる。

 結句「君社見良目 真野乃榛原」「君こそ見らめ 真野の榛原」と訓む。「君社見良目」は「君こそ見らめ」と訓む。「あなたはご覧になったのですね」の意。「君」は黒人をさす。「社」は、記紀の人名にも見え、広く使われた字で、神社に祈願をかけることから、希望の意のコソを表わし、更に係助詞のコソにも用いるようになったもの。「見良目」は「見ラメ」。「良目」はラメ。上のコソの係結び。推量の助動詞ラムは、活用語の終止形に付くとされるが、「見る」「煮る」などの上一段活用の動詞は、上代では連用形に付く。「らし」「べし」なども同じ。「真野乃榛原」は「真野(まの)の榛原(はりはら)」と訓む。2句の繰り返しとなっている。「真野の榛原」を二度使ったことで結句が締まり、「ああ真野の榛原」という心情が吐露されている。阿蘇『萬葉集全歌講義』に「同じく即興で夫の歌に和した妻の歌。『白菅の真野の榛原』をそのまま詠みこみ、和歌としての形式をうまく成立たせている。『真野の榛原』の繰返しも歌謡風。リズム感に溢れている。妻の夫への情愛もこもっている」と述べている。
歴史解説

【巻3(282)。】
 
題詞  春日(かすがの)蔵首(くらのおびと)老(おゆ)の佐歌。「春日蔵首老歌一首」。春日蔵首老は56・62番歌の作者として既出。蔵首(くらのおびと)は姓(かばね)の一つ。元は弁基という僧で勅により還俗してこの名を賜ったもの。春日蔵首老の歌は万葉集に短歌八首ある。全て旅に関する歌と言ってよいが、遣唐使に贈る歌(62番歌)、旅情を詠んだ歌(282・298・1719番歌)、即興性・遊戯性に富んだ歌(56・284・286・1717番歌)がある。
原文  角障經  石村毛不過  泊瀬山  何時毛将超  夜者深去通都
和訳  つのさはふ 磐余(いはれ)も過ぎず 泊瀬山(はつせやま) いつかも越えむ 夜は更けにつつ
現代文  「夜が更けてきているのに、まだ磐余も越していない。いったいいつになったらその先の泊瀬山を越えられるだろう」。 
文意解説  発句「角障經  石村毛不過  泊瀬山」「つのさはふ 磐余(いはれ)も過ぎず 泊瀬山(はつせやま)」と訓む。「角障經」は「つのさはふ」と訓む。「つのさはふ」は、人名「磐之媛(いはのひめ)」、地名「磐余(いはれ)」「石見(いはみ)」など、語頭に「いは」をもつ語にかかる枕詞であるが、語義・かかりかたは未詳。ただし、これを受ける人名・地名は全て「いは」を共有しているので、「岩」の意を介して続くと思われる。また万葉集中の五つの例がすべて「角障経」という表記であるところから、(イ)「つの」は植物の芽、「さはふ」は「障(さ)はふ」で、芽の伸びるのをさまたげる岩の意で係るとする説、(ロ)「つの」は岩角、「さは」は多で、角のごつごつした岩の意で係るとする説などがあり、他に、「つの」を「つな」「つた」と同源で、蔓性の植物とし、「さはふ」は「さは(多)・はふ(延)」の変化したものとして、蔦のからみついた岩の意で係るとする説もある。(イ)の説は井出至「ツノサハフ・シナテル・シナタツー枕詞の解釈をめぐってー」で論じられたもので、この説に従う注釈書もある。ただ、阿蘇『萬葉集全歌講義』が指摘するように、「称美性が全くなくむしろ負のイメージの枕詞になる可能性がある点」で、井出説には難があると言えよう。この句は135番歌1句と同句であり、135番歌では「角(つの)さはふ」と「角の里」との対応を考えて「角」を漢字で残したが、ここでは「角」も「障」と同じ借訓字として平仮名とした。「經」はフ。「石村毛不過」は「石村(いはれ)[磐余]も過(す)ぎず」と訓む。「石村(いはれ)[磐余]」は、奈良県桜井市西部、天の香具山東方あたりの古地名、神武天皇が磯城(しき)の八十梟師(やそたける)を征服したという地であり、五、六世紀ごろの大和国家の政治的要地であった。「村」にはアレの古訓があり、イハレはイハアレの約。「毛」はモ。「不過」は、「過(す)ぎず」と訓む。「すぐ」は「ある場所、ある道筋を通って、その先へ行く。通過する」の意。「泊瀬山」は「泊瀬山(はつせやま)」と訓む。「泊瀬山(はつせやま)」は既出で、現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある山をいう。泊瀬は、四方を山に囲まれ奥深くこもって見えない所の意から「こもりくの」が泊瀬の枕詞になったとされる地であり、また墓所でもあったから、夜この道を行くのは恐ろしいことであったに違いない。

 結句「何時毛将超  夜者深去通都」「いつかも越えむ 夜は更けにつつ」と訓む。「何時毛将超」は「何時(いつ)かも超(こ)えむ」と訓む。「何時」はカを補読して「何時(いつ)か」と訓む。「毛」はモ。「将超」は「超(こ)えむ」と訓む。「こゆ」は「山、峠、谷、川、溝、関所など、障害となるものを通り過ぎて向こうへ行く」ことをいう。「超」を「こゆ」に用いた例は、29・138番歌に既出。「夜者深去通都」は「夜(よ)は深(ふ)けにつつ」と訓む。「夜」は「よる」とも「よ」とも訓むが、ここはヨ。「者」はハ。「深去」を「深(ふ)けに」と訓む。「深」は「深(ふ)け」。「ふける」は、時間が経過し、事態が深まることをいう語で、漢字表記としては「深」の他に「更」「老」が用いられる。ここは「夜が深くなる」ことをいう。「去」は、ヌの連用形二に宛てたもの。「通、都」ともにツ。「通都」はツツ。結句「つつ」で止めているところにも、作者の不安と焦りが示されていると言えよう。
歴史解説

【巻3(283)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人歌一首」。
原文  墨吉乃  得名津尓立而  見渡者  六兒乃泊従  出流船人
和訳  住吉の 得名津(えなつ)に 立ちて見わたせば 武庫の泊りゆ 出づる船人(ふなびと)
現代文  「住吉の得名津に立って見渡すと、武庫の港から漕ぎ出てくる船人が見えるよ」。

 阿蘇『萬葉集全歌講義』の「歌意」は次の通り。
 「住吉から武庫の泊までは大阪湾を隔てて約十八キロ。したがって船の人影までは見えないだろうと思われるが、「船」と云わず。「船人」と云ったところに、作者の船人に対する共感の情がうかがわれる。「住吉の得名津に立ちて見渡せば」という表現は、国見的な表現でもあるが、見えるものが遠く小さく見える船であるところに、黒人らしい旅情が伝わってくる。旅人の身振りも感じられて一首の印象を豊かにしている」。
文意解説  発句「墨吉乃  得名津尓立而  見渡者」「住吉の 得名津(えなつ)に 立ちて見わたせば」と訓む。「墨吉乃」は「墨吉(すみのえ)の」と訓む。「墨吉」は「住吉」と同じく「すみのえ」と訓む。摂津国の古郡名で平安初期以降「すみよし」と呼称される。住吉の得名津(すみのえのえなつ)は大阪市住吉区内。歌枕のひとつ。「吉」はエともエシとも訓まれたので、日吉神社ももとヒエであったのがヒヨシとなったのと同じで、「住吉」も萬葉の時代には「すみのえ」と訓まれ、後に「すみよし」となったもの。ただ「墨江」という表記もあったことから「墨江(すみのえ)」(今は住之江と書く)の地名も残った。「乃」はノ。「得名津尓立而」は「得名津(えなつ)に立ちて」と訓む。「得名津(えなつ)」は、現在の大阪市住之江区の南部(住之江・安立(あんりゆう))および住吉区墨江(すみえ)あたりから、堺市浅香山遠里(おり)小野(おの)町にかけての一帯とされるが、当時の住吉の港の地で、そこに立つと北に遠く武庫即ち今の西宮の港が正面に望まれたのである。「尓」はニ。「立」は「立ち」。「たつ」は「物や人が、たてにまっすぐな状態になる。また、ある位置や地位を占める」ことをいう。「而」はテ。「見渡者」は「見渡せば」と訓む。「みわたす」は「こちらからかなたをはるかに見やる」ことをいう。

 結句「六兒乃泊従  出流船人」「武庫の泊りゆ 出づる船人(ふなびと)」と訓む。「六兒乃泊従」は「むこ(武庫)の泊(とまり)ゆ」と訓む。「六兒」はムコで、「六兒」で地名「武庫」を表したもの。「乃」はノ。「泊(とまり)」は「船が停泊すること。また、そのところ。船着き場。港。津」の意。「武庫の泊」は、武庫川の旧河口附近にあった港。得名津から甲子園方面、すなわち北西方面に当たる。現在の武庫川は、兵庫県の尼崎市と西宮市との間を流れて海に入っているが、旧河口は、今の西宮市の津門とする説や神崎川と現在の武庫川の下流の中間とする説などがある(「兵庫県史」)。「従」はヨリで、出発地点を表すユに用いたもの。「出流船人」は「出(い)づる船人(ふなびと)」と訓む。「出流」は「出(い)づる」を表す。「流」はル。次の「船人」を修飾する。「船人(ふなびと)」は「船頭。水夫(かこ)」の意。実際には漕ぎ出て来る「船」が見えたのであろうが、作者には、それを操る「船人」の姿がありありと思い浮かんだのであろう。この歌は人麻呂の256番歌「飼飯(けひ)の海(うみ)の庭(には)好(よ)く有(あ)らし苅薦(かりこも)の乱(みだ)れて出(い)づ見ゆ 海人(あま)の釣船(つりぶね)」を意識して作られたものかもしれない。
歴史解説  

【巻3(284)。】
 
題詞  春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)の作歌。「春日蔵首老歌一首」。
原文  焼津邊  吾去鹿齒  駿河奈流  阿倍乃市道尓  相之兒等羽裳
和訳  焼津辺(やきつへ)に わが行きしかば 駿河なる 阿倍の市道(いちぢ)に 逢ひし児らはも
現代文  「焼津のあたりに 私が行った時に 駿河の国にある 阿倍の市で 逢ったあの女(こ)はどうしているかなあ」。 
文意解説  発句「焼津邊  吾去鹿齒  駿河奈流」「焼津辺(やきつへ)に わが行きしかば 駿河なる」と訓む。「焼津邊」は「焼津邊(やきつへ)に」と訓む。「焼津(やきつ)」は現在の静岡県焼津(やいづ)市。日本書紀巻七の景行天皇四〇年(庚戌110)の条に「是歳、日本武尊初至駿河。其處賊陽從之欺曰、是野也糜鹿甚多。氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情〈王謂日本武尊也。〉放火燒其野。王知被欺、則以燧出火之、向燒而得兔。〈一云、王所佩釼叢雲自抽之、薙攘王之傍草。因是得免。故號其釼曰草薙也。叢雲、此云茂羅玖毛。〉王曰、殆被欺。則悉焚其賊衆而滅之。故號其處曰燒津」という地名説話を載せている。この記事についての『新編日本文学全集』の口訳を参考までに記しておこう。
 この年に、日本武尊は、初めて駿河(するが)に到着された。その土地の賊が偽って従い、尊(みこと)を騙(だま)して、「この野に大鹿がたいへん多くおります。その吐く息は朝霧のようで、足は茂った林のようでございます。お出かけになって狩りをなさいませ」と言った。日本武尊は、その言葉を信用され、野の中に入って狩りをされた。賊は、かねてから王(みこ)を殺そうとする心があり[王とは日本武尊をいう]、火を放ってその野を焼いた。王は騙されたと気付かれると、即座に火打(ひうち)を打って火を起こし、迎え火をつけて難を免れることができた[一説に、王の腰に帯びた剣の叢雲(もらくも)が、ひとりでに抜けて、王の側(そば)近くの草を薙(な)ぎ払った。これによって難を逃れることができた。それでその剣を名付けて草薙(くさなぎ)というのであるという。「叢雲」はここではモラクモという]。王は、「寸での所で騙されるところだった」と言われた。そこで残すところなくその賊どもを焼き殺された。それゆえ、その土地を名付けて焼津(やきつ)という。

 「邊」(既出)は「辺」の旧字で、「その辺り。」の意。二を補読する。「場所+邊」とあれば下に「に」がくるのが常であり、257番歌9句「奥邊波」も「に」を補読して「奥(おき)[沖]邊(へ)には」と訓んだ。「吾去鹿齒」は「吾(わ)が去(ゆ)きしかば」と訓む。「吾」は、自称のワで、ガを訓み添えて「吾(わ)が」。「去」は、「去(ゆ)き」と訓む。「去」を「ゆく」と訓む例は既出。「鹿」はシカ。「齒」はバ。「去(ゆ)きしかば」はここでは、「行った時に」というほどの意となろう。「駿河奈流」は「駿河(するが)なる」と訓む。「駿河」は「東海道一五か国の一つ。大化改新のときに成立。天武天皇九年(六八〇)伊豆国を分離。古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設定された。南北朝時代以降は今川氏の領国となり、一時、武田氏に支配された。天正一〇年(一五八二)徳川家康が領有。明治四年(一八七一)の廃藩置県により静岡県に編入。駿州。」(『日本国語大辞典』より)。「奈流」はナル。

 結句「阿倍乃市道尓  相之兒等羽裳」「阿倍の市道(いちぢ)に 逢ひし児らはも」と訓む。「阿倍乃市道尓」は「阿倍(あへ)の市道(いちぢ)に」と訓む。「阿倍(あへ)」は地名で、『萬葉集全歌講義』に「もと阿倍郡は、一部が清水市に、一部は静岡市に編入して、いまは川の名に残るのみ。阿倍郡に駿河の国府があった。交通の要所でもあり、市が立つのにはふさわしい場所であった」とある。「乃」はノ。「市道」について『萬葉集全注』は「市道(いちぢ)は元来市(いち)へ行く道であるが、四方八方から市に通じていて、そこが辻(四辻・八衢(やちまた))になって広場であり、そこに市が立った。したがって『市道』と言えば『市』そのものを意味した。『道』はむしろこの場合は接尾語と考えてよい。そこでは歌垣が催され、異性に逢う機会も多かった」と述べている。「尓」はニ。「相之兒等羽裳」は「相(あ)ひし兒(こ)らはも」と訓む。「相」は「相(あ)ひ」。「相」を「あふ」と訓む。「之」はシ。ここの「兒」は市で逢った女性。「等」はラ。ここは愛称。「羽裳」はハモ。愛惜の情をこめた詠嘆をあらわす。

 焼津辺(やきづへ)は静岡県焼津市(やいづし)辺りのこと。阿倍は静岡市内。国府の置かれた所。市道(いちぢ)は市が開かれていた道。焼津方面に赴いた際、阿倍の市で出逢った娘たちを思い出して懐かしがっている歌。これを男女が市に集まって乱舞した、いわゆる歌垣(うたがき)の際の思い出ととってもよかろう。が、そう取らなくとも単純に美しく楽しげだった娘らを思い出しての歌として一向に差し支えない。
歴史解説

【巻3(285)。】
 
題詞  丹比真人笠麻呂(たぢふのまひちかさまろ)の作歌。「丹比真人笠麻呂徃紀伊國超勢能山時作歌一首」(「丹比真人笠麻呂(たぢふのまひちかさまろ)、紀伊の國に徃き、背の山(せのやま)を越える時作った歌」)。丹比(多治比とも書く)真人氏は、かなりの名族で、万葉の時代、左大臣多治比真人嶋をはじめ、多くの高官を出しているが、笠麻呂については、大宝から和銅にかけての人で、本歌および509・510番歌の作者であるということ以外は伝不詳。
原文  栲領巾乃 懸巻欲寸  妹名乎  此勢能山尓  懸者奈何将有 [一云 可倍波伊香尓安良牟]
和訳  栲(たく)領巾(ひれ)の 懸けまく欲しき 妹が名を この背の山に 懸けばいかにあらむ [一云 替へばいかにあらむ]
現代文  「栲で作った領巾を肩に掛けるように 言葉に出して言いたい 「妹」という名を この背の山に 付けたらどうであろう」。
文意解説  発句「栲領巾乃 懸巻欲寸  妹名乎」「栲(たく)領巾(ひれ)の 懸けまく欲しき 妹が名を」と訓む。「栲領巾乃」は「栲(たく)領巾(ひれ)の」と訓む。「栲(たく)」は、植物「かじのき(梶木)」、または「こうぞ(楮)」の古名で、『日本国語大辞典』の「たく(栲)」の【語誌】に「カジノキとコウゾは現在では区別されているが、古くはほとんど区別されていなかったようである。中国では『栲』の字はヌルデを意味する。『栲(たく)』は樹皮を用いて作った布で、『タパ』と呼ばれるカジノキなどの樹皮を打ち伸ばして作った布と同様のものとされる」とある。「領巾(ひれ)」は「ひら(枚)」と同語源といわれ、「細長く薄い布」をいう。古代、首から肩に掛けて左右へ長く垂らした装飾用の白い布として主に女性が用いられた。「乃」はノ。「栲(たく)領巾(ひれ)の」は、栲領巾を首にかける意で、「懸(か)く」にかかる枕詞。「懸巻欲寸」は「懸(か)けまく欲(ほ)しき」と訓む。「布を肩にかける」と「口にする」の懸けるとをかけている。「懸」は「懸(か)け」。「巻」は「まく」を表す。「懸(か)けまく」は「言葉に出して言うこと。心に考えること。思うこと」の意で、「挂文[挂(か)けまくも]」と表記は違うが既出。「欲寸」は「欲(ほ)しき」と訓む。「ほし」は「そうありたいと思うさま。望ましい。願わしい」ことをいう。「妹名乎」は「妹(いも)の名(な)を」と訓む。「妹名」は旧訓にイモガナとあったものを荒木田久老『萬葉集槻乃落葉』にイモノナと改め、「妹といふ名は、ことにかけていはまほしきを、といふ意也と、師はいへり。今按に、この山のうるはしきに、妹といふ名をかけたらば、せめて旅路の心なぐさに、みつつしぬばむといふ意なり。さては妹の名とよむべし」と述べ、以後の諸注多くこれに従っている。すなわち、イモガナでは「妹の名前」の意となるが、今は「『妹』という名」「『妹』という言葉」の意なのでイモノナと訓むということである。上代人は「妹(いも)・背(せ)」という語に対して特別の情感(夫婦・恋人の情感)を持っていたので、「『妹』という名」という表現が可能なのであったと、西宮『萬葉集全注』は指摘している。「乎」はヲ。

 結句「此勢能山尓  懸者奈何将有 [一云 可倍波伊香尓安良牟]」「この背の山に 懸けばいかにあらむ [一云 替へばいかにあらむ]」と訓む。「此勢能山尓」は「此(こ)のせ[背]の山に」と訓む。「此」は、近称の代名詞「こ」で、それに格助詞「の」を補読して「此(こ)の」と訓む。「此(こ)の」は現場指示の語。「勢能」はセノ。万葉集では「背の山」の表記として常に「勢能山」が用いられていることから地名表記として、漢字のまま「勢能山(せのやま)」と訓む注釈書もある。「背の山」は和歌山県伊都郡かつらぎ町にある168メートルの山で、紀ノ川の北岸にあり、南岸の妹山(124メートル)と共に多く歌に詠まれた。「尓」はニ。「懸者奈何将有」は「懸(か)けば奈何(いか)に有(あ)らむ」と訓む。「懸」は同じで「懸(か)け」。「者」はバ。「奈何」は既出で、そこでは「奈何(なに)」と訓んだが、ここは「奈何(いか)に」と訓む。「いかに」は副詞で、物事の状態、様子、作用などを疑問に思い、ためらったり問いかけたりする意を表わす。「将有」は「有(あ)らむ」と訓む。「紀伊の背の山」を「紀伊の妹山」と呼んだらどうだろうという歌。「背の山」は彼氏、「妹山」は彼女という、戯れの歌となっている。別伝では「いっそ山の名を妹山に取り替えたらどうか」とさらに戯れた歌となっている。文字遊びの歌といってよい歌である。

 5句の異伝 [一云 可倍波伊香尓安良牟] は[一に云(い)はく か[替]へばいかにあらむ]と訓む。「可倍」はカヘ。「か[替]へ」を表す。「波」はバ。「伊」はイ、「香」はカ、「尓」はニ、「安」はア、「良」はラ、「牟」はム。「伊香尓安良牟」は五句の「奈何(いか)に有(あ)らむ」を仮名表記したもの。
歴史解説

【巻3(286)。】
 
題詞  春日蔵首老の作歌。「春日蔵首老即和歌一首(春日蔵首老が作った歌一首)」。丹比真人(たぢひのまひと)笠麻呂(かさまろ)の前歌(285)に対して、春日(かすがの)蔵首(くらのおびと)老(おゆ)が即座に応えた歌である。
原文  宜奈倍  吾背乃君之  負来尓之  此勢能山乎  妹者不喚
和訳  よろしなへ わが背の君が 負ひ来にし この背の山を 妹(いも)とは呼ばじ
現代文  「よろしいですかな。わが背の君にちなんで名付けられてきた背の山を今さら妹の山とは呼べますまい」。
文意解説  発句「宜奈倍  吾背乃君之  負来尓之」「よろしなへ わが背の君が 負ひ来にし」と訓む。「宜奈倍」は「宜(よろ)しなへ」と訓む。「宣名倍」の表記で既出。「宜」は「宜(よろ)し」で、「適当である。ふさわしい」などの意。「奈倍」はナヘ。「宜(よろ)しなへ」で、「いかにも好ましく。ちょうどよい具合に。まさにふさわしく」などの意。ここでは「よろしいじゃありませんか」の意。「吾背乃君之」は「吾(わ)が背の君が」と訓む。「吾」は自称「わ」でガを補読する。「背(せ)」は、夫、兄弟、恋人などすべて男性を親しんでいう語で、主として女性が男性を呼ぶのに用いるものだが、ここは作者の老(おゆ)が笠麻呂に対して「吾(わ)が背」と呼んだもので、男が男に対して「背」と呼んだ例の一つである。「乃」はノ。「君(きみ)」は、目上の人に対し、敬称として添える語で、「…の君」「…が君」の形で用いる。男に対しても女に対しても用いた。「之」はガ。井上『萬葉集新考』には「二句は従來ワガセノ君ガとよみたれどさては意通ぜず。案ずるにもと吾背乃君之名とありしが名といふ字のおちたるなるべし」とある。確かにこの歌は意味の取り難いところがあって、『新考』のように考えると意味が取りやすいが、やはり脱字は考え難いので、従来の訓みに従うこととする。「負来尓之」は「負(お)ひ来(き)にし」と訓む。「負」は「負(お)ひ」。「おふ」は「名をもつ。その名を名のる」ことをいう。「来」は「来(き)」。動作や状態が以前から今までずっと続いていることを表わし「ずっと…する」の意。「尓」はニ。「之」はシ。「負(お)ひ来(き)にし」は「ずっと名乗ってきた」の意。

 結句「此勢能山乎  妹者不喚」「この背の山を 妹(いも)とは呼ばじ」と訓む。「此勢能山乎」は「此(こ)の勢(せ、背)の山を」と訓む。「乎」はヲ。「負(お)ひ来(き)にし」が修飾するのは「背の山」ではなくて「せ[背]」という名に対してである。「負ひ来にし」「せ[背]」と続くのであって「山」まで続くのではない。「負ひ来にし」「せ[背]」「そのせ[背]を名とする山」と二段になるべきである。このことを指摘して澤瀉『萬葉集注釋』は「それを『負ひ來にし此の勢の山』では言葉が足らない。少くも『勢云名能山』とでも改めねば意を盡した事にならぬ」と述べている。「妹者不喚」は「妹(いも)とは喚(よ)ばじ」と訓む。「妹」はトを補読して「妹(いも)と」と訓む。「者」はハ。「不喚」は「喚(よ)ばじ」と訓む。
 
 澤瀉『萬葉集注釋』は、この歌の不備を指摘して、解釈としては井上『萬葉集新考』の説が首尾一貫しているとして次のように述べている。
 「この句[=「負ひ来にし」筆者注]の主語が笠麻呂である事は問題の餘地が無いやうであるが、前の歌に「名を改めたらどうだらう」と云つたのに答へた言葉としては、「折角今迄かう呼ばれて來たものを今更……」といふべきところであるから、その「負ひ來にし」主は笠麻呂とするより勢の山とした方がぴつたりとおちつくのである。笠麻呂であれば「負ひ來にし」よりも「負ひませる」とでも云つた方がふさはしいのである。かう考へて來るとここで再びはじめに引いた新考の説が顧られるのである。「負ひ來にし」主を「勢の山」とする為には第二句を「吾が背の君が名」とするより他ないからである。のみならず「よろしなへ」も新考に「丁度ヨクといふことにてオヒキニシにかゝれり。」と云つてゐる如くであるが、その「負ひ來にし」主が勢の山とすれば、その勢の山が「せ」といふ名を負ひ來つた事が丁度よく、といふ事になつて、これも落ちつくのである。(中略)かう見て來ると新考の説は初句第三句共に適切な句となつて、首尾一貫した解説となるのである。では新考の説に従つて第二句に脱字があつたと認めるかといふに私はさうは考へない。新考の説は萬葉の脱字を發見して原作に復したものではなくて、明治、大正の世の宮中顧問官井上通泰氏が持統、文武の世の宮廷歌人オヒ春日老の作の不備に加筆したものであり、原作ははじめから今日見る本文のまゝであつたと私は考へる。たゞ春日老の作は推敲が不十分であつた。言葉が意を盡さなかつた。私をして想像を逞しくせしめれば、この作は、(1)丁度よくわが背の君が持つて來てゐる「せ」といふ名のこの山を妹とは呼ぶまい。(2)丁度よく吾が背の君の背といふ名を今日まで持つて來たこの勢の山を今更妹とは呼ぶまい。といふ風な二つの意味のどちらかとして疑義のない作にすべきであつたのを、どつちつかずのまゝに殘した事になつたので、(1)の解としては第四句の言葉が不十分ながら後世の學者もそれに氣づかなかつたやうに、作者もー今の世の歌人もずゐぶん言葉足らずの作をなすやうにー(1)の意にとれるはずだと思つてゐたのではなからうか。しかしまた作者には(2)の解にしたい心も動いてゐて、さういふ意にとられればとられたい心から初、三の句を用ゐたのであるが、第二句の不備をそのまゝに殘した為に井上氏の添削ともなつたと見られるのではなからうか」。
歴史解説  
【巻3(287)。】
 
題詞  石上卿(いそのかみのまえつきみ)の作歌。「幸志賀時石上卿作歌一首 [名闕]」(「阿多志賀に幸(いでま)しし時、石上卿(いそのかみのまえつきみ)が作った歌」)。「志賀(しが)に幸(いでま)しし時」とは何時の行幸をさすのか、また「名(な)闕(か)けたり」とされる「石上(いそのかみの)卿(まへつきみ)」とは誰を指すのか、という点でいろいろな説があるが、西宮『萬葉集全注』では、「志賀に幸しし時」は、霊亀三年(717)九月の元正天皇の美濃行幸の時であり、「石上卿」は、養老二年(718)五月に卒した従四位上石上豊庭であると推論している。霊亀三年九月(十一月十七日に養老元年と改元)の美濃の国への行幸では、往復に近江を通過していることや、次の288番歌が養老六年(722)の作と思われることからすると、本歌を霊亀三年の元正天皇美濃行幸時の作とする西宮の説は妥当のように思える。ただ、作者を石上豊庭とする説には、難点(従四位は卿に相当しない。『萬葉集』に本歌以外の歌を残していない。)もあり、石上乙麻呂(従三位。368・374番歌の作者)の作である可能性も高く、決めがたい。天皇名が不記載なのでいつの行幸のことか不明。が、志賀への行幸とあるので大和からの旅と分かる。
原文  此間為而  家八方何處  白雲乃  棚引山乎  超而来二家里
和訳  ここにして 家やもいづく 白雲の たなびく山を 越えて来にけり
現代文  「ここに立ってみると、わが家はどちらの方向にあたるのだろう。はるばると白雲の山又山を越えて来たのだけれど」。 
文意解説  「河童老の万葉集を訓(よ)む(その460)」その他を参照する。

 発句「此間為而  家八方何處  白雲乃」「ここにして 家やもいづく 白雲の」と訓む。「此間為而」は「此間(ここ)に為(し)て」と訓む。名義抄に「此間 ココ/彼間 カシコ」とあり、「此間」は、二を補読して「此間(ここ)に」と訓む。「ここ」は現在の場所を示す。「為而」は「為(し)て」と訓む。この「す」は「ある状態にある」の意。「此間(ここ)に為(し)て」は「ここにありて」と同じ。「ここに立ってみると」の意。「家八方何處」は「家(いへ)やも何處(いづち)」と訓む。ここの「家(いへ)」は妻子の住む家をいう。「八方」は既出。「八方」はヤモで。今迄の例ではほとんど反語に用いられていたが、ここは疑問詠嘆。「何處」は、イヅクともイヅチとも訓まれるが、ここはイヅチ。イヅクは場所に関する不定称であり、イヅチは方角に関する不定称。「白雲乃」は「白雲(しらくも)の」と訓む。「白雲(しらくも)」は既出で、「白い雲。白く見える雲」をいう。「乃」はノ。西宮『萬葉集全注』は「同音のシラズ(不知)を懸詞的に用いている。『白雲のたなびく山』と表現される山はそんなに低い山ではない。異郷で『白雲』を眺望するのは望郷歌としての発想で、類型的である」とし、阿蘇『萬葉集全歌講義』にも「白雲に『知らず』の意をかける。白雲は望郷歌の常套的表現」とある。

 結句「棚引山乎  超而来二家里」「たなびく山を 越えて来にけり」と訓む。「棚引山乎」は「たなびく山を」と訓む。「棚引」は、「たなびく」を表す。「たなびく」は「雲や霞が薄く層をなして横に長く引く」ことをいう。この語について、日本国語大辞典はその【補注】に次のように記している。語構成については、「た─なびく(靡)」で、動詞「靡(なび)く」に接頭語「た」を冠したものとも、「たな─ひく(引)」で、タナは、トノと語源的に通じる接頭語であり、「たな─霧らふ」「たな─曇る」「たな─知る」などと同じタナであって、十分の意といわれる。用例の文脈から推すと、後者が妥当か。万葉集には「棚引」「棚曳」と当てた用例があり、当時すでに棚のように水平に長く引く意に解していたようである。「超而来二家里」は「超(こ)えて来(き)にけり」と訓む。「超」は「超(こ)え」。「こゆ」は「山、峠、谷、川、溝、関所など、障害となるものを通り過ぎて向こうへ行く」ことをいう。「超」を「こゆ」に用いた例は、29・138・282番歌に既出。「而」はテ。「来」は「来(き)」。「二」はニ。「家里」はケり。「来(き)にけり」は269番歌で「来来」の表記で既出。
歴史解説

【巻3(288)。】
 
題詞  穂積朝臣老(ほづみのあそんおゆ)の作歌。「穂積朝臣老歌一首」。穂積朝臣老」については、阿蘇『萬葉集全歌講義』が簡潔に述べているのでそれを記しておくと、大宝三年正月、山陽道巡察使。時に正八位上。和銅二年(七〇九)正月、従六位下から従五位下。養老二年(七一八)正月、正五位下から正五位上に、同年九月、式部大輔にまでなったが、養老六年正月、天皇を批判した罪で斬刑に処せられるところを、皇太子のとりなしにより、死一等を減ぜられ佐渡に流された。天平十二年(七四〇)六月、許され帰京。同十六年二月、聖武天皇の難波行幸に際し、久迩京留守官となる。時に大蔵大輔、正五位上。天平勝宝元年(七四九)八月卒。この歌には、「右今案 不審幸行年月」という左注があり、志賀への行幸に従駕したおりの作と編者は考え、何時の行幸の時かわからないとしている。しかし、この歌の類歌である3241番歌の左注によれば、3241番歌は、或る書に穂積朝臣老が佐渡に配流の時の作と伝えているという。本歌も歌意からみて佐渡配流の際の歌と見てよいように思う。
原文  吾命之  真幸有者  亦毛将見  志賀乃大津尓  縁流白波
和訳  わが命し ま幸くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白波
現代文  「私の命さえ もし無事であったら 再びまた見ることもあろう 志賀の大津に 寄せる白波を」。
文意解説  発句「吾命之  真幸有者  亦毛将見」「わが命し ま幸くあらば またも見む」と訓む。「吾命之」は「吾(わ)が命(いのち)し」と訓む。「吾」は自称「わ」で、下にガを補読する。「命(いのち)」は、「継続されるべき、ただし限りのある生の力。生命。また、寿命」の意。「之」はシ。格助詞ノと訓むこともできるが、「条件句にはシ(副助詞)を含み、下に否定や推量などの助動詞で結ぶのが古来の文型である」(西宮『萬葉集全注』)ことから、ここはシと訓むべきであろう。「ま幸(さき)く」は「無事で」の意。「真幸有者」は「真(ま)幸(さき)く有(あ)らば」と訓む。「真(ま)」は、「完全である、真実である、すぐれている」などの意を加え、また、ほめことばとしても用いる。「幸」は、副詞「幸(さき)く」で、「さいわいに。無事に。変わりなく。つつがなく」などの意。「有者」は「有(あ)らば」と訓む。「者」はバ。「亦毛将見」は「亦(また)も見む」と訓む。副詞「また」を強めた言い方で、「再度。重ねて」の意。「将見」は、「見(み)む」と訓む。

 結句「志賀乃大津尓  縁流白波」「志賀の大津に 寄する白波」と訓む。「志賀乃大津尓」は「志賀の大津に」と訓む。「志賀」は、滋賀県南西部の郡名で、琵琶湖と比良山地にはさまれた地域をいう。「乃」はノ。「大津」は、滋賀県南部、琵琶湖南岸の地名で、古代、大津宮が置かれた所。阿蘇『萬葉集全歌講義』に「大津を通る湖西路は、北陸方面へ旅する人々の通る道であり、越前や佐渡に流される罪人の通る道でもあった」とある。「尓」はニ。「縁流白波」は「縁(よ)[寄]する白波(しらなみ)」と訓む。「縁流」は、「縁(よ)する」と訓む。「よす」は「(波が)岸などに迫り近づく。打ち寄せる」ことをいう。ルを「流」で表記している。「白波」は「しらなみ」と訓み「白い波。白くくだける波」をいう。

 1句の副助詞「し」については、『日本古典文学大系』の4483番歌の補注「助詞のシについて」に用例を挙げて詳しく論じられているので参考迄にその一部を紹介する。そこには、シは推量の助動詞に呼応するが、確定的・断定的な助動詞と呼応する例はほとんどないと述べた後、「それはシが強めとは言っても、助詞ハのような、確信をもって他を排除するような強めではなく、ゾのような、人に教示する断乎たる強めでもなく、コソのような、強い感情に支配されていることを示す強めでもない。またナムのような、対人関係を意識し、丁寧に相手に訴えるものでもなく、モのように、不安・不確実な気分の中で執着の念を表わすものでもなく、自分ひとりは、自然にこう思うのだが、という遠慮がちな気持を、それなりに、表明しているのがシであるというべきもののように思われる。」と述べられている。普通シは「強意」の副助詞と言われ、それで分かったような気になっているけれども、ここには用例に基づく深い考察が示されていて大変面白い。
歴史解説

【巻3(289)。】
 
題詞  間人宿祢大浦(はしひとのすくねおおうら)の作歌。「間人宿祢大浦初月歌二首」。この歌と次歌の2首は間人宿祢大浦(はしひとのすくねおおうら)の歌。題詞に「初月」とあるので三日月の月の歌と分かる。大浦(おほうら)については伝不詳であるが、日本書紀天武十三年十二月に「五十氏の連が宿祢の姓を賜る」との記事があり、その「五十氏」の中に「間人連」とあるので、間人宿祢(はしひとのすくね)氏はもと間人連であったことが知れる。「間人宿祢」作としては、他に1685・1686番歌がある。なお、「『間』をハシと訓むのは、二つのもので『挟(はさ)む』のハサと同根で、その間(あいだ)に当たる部分をハシというようになったもの。もちろん、両方の端もハシというが、これも同源である」という(西宮『萬葉集全注』より)。「初月」については、澤瀉『萬葉集注釋』に「『初月』は巻六にも『初月歌』と題して歌には『三日月』(993)とあるので、訓讀すればミカヅキであらう。『みかづき』は今も用ゐるやうに必ずしも舊暦三日の月に限らず『若月(ミカヅキ)見者(ミレバ)』(六・994)とも書き、新月といふに同じ意に用ゐたものと思はれる」とあり、諸注も皆「みかづき」と訓んでいる。
原文  天原  振離見者  白真弓  張而懸有  夜路者将吉
和訳  天の原 ふりさけ見れば 白真弓(しらまゆみ) 張りて懸(か)けたり 夜道はよけむ
現代文  「大空をふり仰いで見やると、三日月が白真弓を 張ったように白くかかっている。この分だと夜道はよかろう(歩きやすいだろう)」。 
文意解説  発句「天原  振離見者  白真弓」「天の原 ふりさけ見れば 白真弓(しらまゆみ)」と訓む。「天原」は「天(あま)の原(はら)」と訓む。「天(あま)の原」は「広く大きな空」の意で使われ、「天つ神が統治する天上界。高天原」の意で使われていたが、ここは「広く大きな空」の意。「振離見者」は「振り離(さ)け見れば」と訓む。「振放見者」と表記が一字違うが同句。「振離」は「振り離(さ)け」。「ふりさく」は、「遠くに目をやる。遠くを仰ぎ見る」の意。「ふり」は、「ふり起こす、ふり立てる」などと動詞に冠して動作を強める接頭語。「さく」は「遠方に目を放つ。遠くを見やる」意。この「さく」にここでは「放」に替えて「離」の字を宛てた。「離」も「放」と同じく「はなつ」の意がある。「見者」は「見れば」と訓む。「天の原ふりさけ見れば」は「夜空を仰ぎ見れば」の意。「白真弓」は「白(しら)真弓(まゆみ)」と訓む。「白真弓(しらまゆみ)」は「檀(まゆみ)を材料として作った白木の丸木弓」のこと。ここでは「初月」の三日月を弓の弦にたとえて「白真弓」と詠ったもので、この「白」には月が明るいことの意も含まれている。

 結句「張而懸有  夜路者将吉」「張りて懸(か)けたり 夜道はよけむ」と訓む。「張而懸有」は「張りて懸(か)けたり」と訓む。「張」は「張り」。「はる」は「たるみのないように引きのばし広げる」ことをいう語で、ここは「弓の弦をたるみなく引く」ことの意。「而」はテ。「懸」は「懸(か)け」。「有」はタリ。「たり」は、「て有(あ)り」が約まってできた語で、いったん完了した動作・作用・状態が存続し続けていることをいい、現代語の「…ている」「…てある」に当たる。「夜路者将吉」は「夜路(よみち)は吉(よ)けむ」と訓む。「夜路(よみち)」は「夜の道。また、夜間に道を行くこと」の意で、現在も同じように使っている。「者」はハ。「将吉」は「吉(よ)けむ」と訓む。白真弓のような月が空にかかって明るいので歩きやすいと思い「夜道はよかろう、大丈夫だろう」と詠ったものであろう。 
歴史解説  

【巻3(290)。】
 
題詞  間人宿祢大浦(はしひとのすくねおおうら)の作歌。
原文  椋橋乃  山乎高可  夜隠尓  出来月乃  光乏寸
和訳  倉橋の 山を高みか 夜隠(よごも)りに 出で来る月の 光乏しき
現代文  「倉橋の 山が高いからか 夜遅くなって 出てくる月の 光の乏しいことよ」。 
文意解説  「倉橋の山」は奈良県桜井市の音羽山とされている。いうが、むろんどこの山でも差し支えない。この歌は光景を思い浮かべるだけで十分な歌である。前方の山に月が出ようとしている。が、山が高いせいかまだ隠れていて月光が薄い。月の出寸前の神秘的な瞬間だ。

 発句「椋橋乃  山乎高可  夜隠尓」「倉橋の 山を高みか 夜隠(よごも)りに」と訓む。「椋橋乃」は「椋(くら)[倉]橋(はし)の」と訓む。「椋」を「くら」と訓むことについては、狩谷棭斎の『日本霊異記攷證』(上。第十話)に、「京」は「倉」の意であったが、京都の意に用いられるようになったので混同を避けて「木」偏を加えたものとあり、山田『萬葉集講義』は、「木」偏を加えたのは木造であることを示すもので、日本上代の「あぜくら」は木造・方形でまさに「椋」の一字でよくその義を示していると説いている。何れにしても「椋」は古くから「くら」と訓まれていたことが知られている。「椋(くら)[倉]橋(はし)」は、奈良県桜井市の地名。なお、この「くら」の語には「暗(くら)」がかけてあり、5句につながっていくと考えられる。「乃」はノ。「山乎高可」は「山(やま)を高(たか)みか」と訓む。この「山(やま)」は、奈良県桜井市倉橋の南にある音羽山(約852メートル)かと思われる。多武峰(619メートル)とする説もある。実地踏査をした林勉は、多武峰説では、月の出を望む地域が「その西腹横柿の500メートル四方の狭い斜面となり、今井谷以西ではその背後に音羽山がそびえて月は音羽山から出るのをみることになる」(「万葉集「夜隠」吉隠説批判ー主に地理上より見てー」国語と国文学昭三四・一一)と述べている。「乎高」は、ヲ~ミのいわゆるミ語法で、「を高み」と訓む。「乎」はヲ。「高」は「高(たか)」。それにミを補読する。「可」はカ。「夜隠尓」は「夜隠(よごも)りに」と訓む。「夜隠」は「夜隠(よごも)り」と訓み、「夜が深いこと。まだ夜が明けきらないこと。また、その時刻。深夜。夜ふけ」の意。「尓」はニ。「夜隠」をヨナバリと訓んで、地名の「吉隠」とする説もあるが、「夜」は甲類の「よ」、「吉」は乙類の「よ」であるという仮名違いなど難が多く、この地名説は否定されている。

 結句「出来月乃  光乏寸」「出で来る月の 光乏しき」と訓む。「出来月乃」は「出(い)で来る月の」と訓む。「出」は「出(い)で」。「来」は「来る」。この「月(つき)」は、夜更けに出る月であるので、「初月」ではあり得ない。「乃」はノ。「光乏寸」は「光り乏(とも)しき」と訓む。「光」は、「光り」と訓み、「(物理的あるいは視覚的意味で)明るい、輝かしい、美しいなどと感じられるもの」をいう。「乏寸」は、「乏(とも)しき」。「寸」はキ。2句の疑問の係助詞「か」の係結び。ここの「ともし」は、「物事が不足している。不十分である。少ない。とぼしい」の意。
 
 本歌に詠まれている「月」について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は次のように述べている。(引用中の、全註釈=武田祐吉『萬葉集全註釈』、全注=西宮一民『萬葉集全注』。)
 二九〇は、夜更けに出る下弦の月(陰暦二十二、三日頃の月)を詠んだものか、とされる。全註釈は、山が高いから遅く出るので、上弦の月でも月齢の多くなつた頃の月とした。全注は、題詞のままに、新月(上弦の月)とし、「新月(上弦の月)の月の出は見えないで、それから南中し沈みかけている時に見え始めるのであって、(中略)冬ならば日没時から八時半頃、夏ならば日没時から見え始め、もう九時から九時半頃にはその三日月は没することを知る必要がある。そうすると歌にあるように、『夜隠りに出で来る月』という表現にぴったりであって、月が見えた時はもう空中に出現しているわけである」という。朝から空に浮かんでいて、日没後、はや西の空に沈みかけている月を、「夜隠りに出で来る月」とは云わないだろうと思われる。万葉の時代の月の出月の入りの時刻は知りがたいが、現代と多少の相違はあってもさほど大きな違いはないと見るならば、五月と十月とでは、月の出に二時間ほどの差はあるが、いずれも日の出の時刻の方が早い。夏五月の場合でも冬十月の場合でも、「下弦の」月の頃でなければならないと思う。通説のように、下弦の月と見るのが自然と思われる。なお、この歌の類歌に、巻九・一七六三番歌沙弥女王の歌がある。

 巻三の編者は、元来別々にあった289・290番歌を、同じ「三日月」(上弦と下弦とがある)を詠ったものとして「初月二首」と題してまとめてしまった、ということになるが、「初月」は「みかづき」と訓んじるが、新月と同じ意に用いられるもので、下弦の「三日月」を意味するものではないので、編者の誤りといえよう。
歴史解説

【巻3(291)。】
 
題詞  小田事(をだのつかふ)の作歌。「小田事勢能山歌一首」(小田事(をだのつかふ)が背の山を越えて行く時の歌)。作者について、澤瀉『萬葉集注釋』は「『小田事』はものに見えず、事を京大本などにツカフと訓んでゐるが、古今六帖にはこの歌を載せて『をたのことぬし』とあるので、代匠記には『事主ナリケルヲ後ノ本ニ主ノ字ヲ落セルカ。』とある。例のない名であるから後に『主』を加へたとも考へられない事はないが、やはり六帖編纂の頃には『事主』とある本があつて、後に落ちたと見るべきであらう。」と述べている。あるいはそうかとも思うが、ここでは『京大本』に従って「事(つかふ)」と訓んでおく。伝不詳で、歌もこの一首のみ。
原文  真木葉乃  之奈布勢能山  之努波受而  吾超去者  木葉知家武
和訳  真木の葉の しなふ背の山 しのはずて わが越え行けば 木の葉知りけむ
現代文  「豊かな美しい木々が生い茂る有名な背の山、それを愛でずに行けば、木々の葉さえその無骨さを知るだろうに」。
文意解説  発句「真木葉乃  之奈布勢能山  之努波受而」「真木の葉の しなふ背の山 しのはずて」と訓む。「真木葉乃」は「真木(まき)の葉(は)の」と訓む。「真木」は、すぐれた木の意で、建築材料となる杉や檜などの総称。「葉」は「草や木の枝や幹から出る薄い平らな部分。主に光合成を行なう器官。『松の葉』『椎の葉』などのように木の名に付いて複合語で示されることが多い。」(『古典基礎語辞典』より)。ここも「真木(まき)の葉(は)」という複合語でノを補って訓む。「乃」はノ。「之奈布勢能山」は「しなふ勢能山(せのやま)[背の山]」と訓む。「之奈布」はシナフ。「しなふ」を表す。「弾力があって、たわみまがる。草木などがしなやかにまがる。しなしなとする」ことをいう。「勢能山(せのやま)」は、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある「背の山」(168メートル)のことで、紀ノ川の北岸にあり、南岸の妹山(124メートル)と共に歌に多く詠まれた。「之努波受而」は「しのはずて」と訓む。「しのふ」には二つの意味があり、①「故人や遠く離れた人、昔のことなどを思い慕う。ひそかに思い出しなつかしがる。」の意で、②「景色や動植物の美しさに感じて賞美する」の意。ここは②の意を主として、①の意を副として用いていると考えられる。岩波大系本も伊藤本もこれを「賞さないで」(めでないで)の意に解している。両書とも「ゆっくり鑑賞している暇がなく越えていく、そんな私の気持ちは木の葉が分かってくれるだろう」と解している。が、これは反語表現で歌意は全く逆なのではなかろうか。つまり、背の山の木々はそのくらい美しくすばらしいという意味だと思う。「受而」はズテ。この句を澤瀉『萬葉集注釋』などは「しのばずて」と訓むが、それは誤りであると西宮『萬葉集全注』は云う。「波」はバとして使われることはあるので、「しのばずて」とも訓めるが、『萬葉集全注』が指摘するように、「努」は甲類の「の」であり、「しの(忍)ぶ」の「の」は乙類であるから、ここは「しのふ」(「しの(偲)ふ」の「の」は甲類)であって「しの(忍)ぶ」ではないことは明らかである。上代では、「しの(偲)ふ」と「しの(忍)ぶ」は語形の上でも意味の上でも相違があったのだが、中古に入ると、上代特殊仮名遣いが崩壊してノの甲乙類の区別が失われ、「偲ぶ」のひそかに思い慕う意と「忍ぶ」のじっとこらえる意が近似していることもあって両者が混同して使われるようになったものと考えられる。この句の解釈について、『萬葉集全注』は「官命による旅のためかゆっくり賞美もできなかったというのであって、家郷を思う心を忍びかねて、ではないことは明らかである。ただ『背の山』から連想される『妹(いも)』のことを、ゆっくり思い慕いもせずに山越えをした、ということは背後にあると考える必要はあろう」と述べており、先に説明した「しのふ」の持つ二つの意味を主・副として詠まれた歌であることを捉えており卓見と言えよう。

 結句「吾超去者  木葉知家武」「わが越え行けば 木の葉知りけむ」と訓む。「吾超去者」は「吾(わ)が超(こ)え去(ゆ)けば」と訓む。「吾」は自称「わ」でガを補読する。「超」は「超(こ)え」。「こゆ」は「山、峠、谷、川、溝、関所など、障害となるものを通り過ぎて向こうへ行く」ことをいう。「去」は、「去(ゆ)け」と訓む。「者」はバに用いたもの。「木葉知家武」は「木(こ)の葉(は)知りけむ」と訓む。「木葉」は、間にノを補読して「木(こ)の葉(は)」と訓む。「真木(まき)の葉(は)」を指すことは言うまでもない。「知家武」は「知りけむ」と訓む。「家武」はケム。この句は「木の葉も自分の気持を分かってくれたであろう」と詠ったもの。
歴史解説

【巻3(292)。】
 
題詞  角麿(つのまろ)の作歌。「角麻呂歌四首」。本歌~295番歌の4首は角麿(つのまろ)作。「角」が氏で「麻呂」が名前と考えられるが、伝不詳。
原文  久方乃  天之探女之  石船乃  泊師高津者  淺尓家留香裳
和訳  ひさかたの 天(あま)の探女(さぐめ)の 岩船の 泊(は)てし高津は 浅せにけるかも
現代文  「かって、はるかかなたの大空から探女を乗せた神船が停泊した高津も、今では浅くなってしまったなあ」。
文意解説  発句「久方乃  天之探女之  石船乃」「ひさかたの 天(あま)の探女(さぐめ)の 岩船の」と訓む。「久方乃」は「久方(ひさかた)の」と訓む。「ひさかたの」は「天」にかかる枕詞。「久堅」という表記もよく使われる。「久堅」の「堅固な」というイメージに対して「久方」の方には「はるかかなたの」という意があるように思う。「乃」はノ。「天之探女之」は「天(あま)の探女(さぐめ)の」と訓む。「天之探女」は、古事記に「天佐具売、(此三字以音)」の表記で登場し、新編古典日本文学全集の頭注によれば「佐具売はサグリメ(探女)の転で、探偵役をする女の意」とある。探女(さぐめ)につき、記紀神話に天照大御神がその孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中國(あしはらのなかつくに)に天降らせる天孫降臨神話が記されている。天孫降臨に先立って高天原の神々は先ず葦原中國を平定しようとする。天孫降臨時は出雲国(島根県)を指していた。神々は相談して葦原中國に4度にわたって神々を派遣するが平定はうまくいかず、4度目にいたって大国主命(おおくにぬしのみこと)に国を明け渡させることに成功する。いわゆる国譲り神話である。ここで3度目に派遣された神が天稚彦(あめわかひこ)で、その神につきしたがって岩船に同乗したのが「天の探女」で、その船が停泊した所が高津(たかつ)だったという(摂津風土記)。高津は今の大阪市方円寺坂あたりと言われている。高津はその昔は船が停泊できるほど深い海だった。本歌はこうした神話を踏まえて詠われている。作者の言いたいことは結句の「浅(あ)せにけるかも」のみ。感慨に耽っている歌である。古事記の話を要約すると、高天原から国譲りの交渉のために派遣されていた天若日子の所に、任務を果たすことを催促する天つ神の詔命を伝えに来た雉を、「この鳥は、鳴き声がひどく悪い。だから射殺しておしまいなさい」と進言したのが「天佐具売」ということになる。日本書紀神代紀下には「天探女、此云阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)」とあるので、「天之探女」は「天(あま)の探女(さぐめ)」と訓む。次の「之」についてノと訓む説とガと訓む説に分かれている。ここではノと訓んで同音の繰返しとみておく。「石船乃」は「石船(いはふね)の」と訓む。「石船(いはふね)」は、石造りの船で「天空に浮かんで走り、神の乗り物とする想像上の船」をいう。神の天降りには必ずこの「石船(いはふね)」という表現が用いられた。「乃」はノ。

 結句「泊師高津者  淺尓家留香裳」「泊(は)てし高津は 浅せにけるかも」と訓む。「泊師高津者」は「泊(は)てし高津は」と訓む。「泊」は「泊(は)て」。「はつ」は「船が港に着いて泊まる。停泊する」ことをいう。「師」はシ。「高津」は、現在の大阪市東区法円坂の難波宮跡公園を中心とした上町台地の北部をいう古名で、「難波高津宮御宇天皇代」とあったように、仁徳天皇の高津宮があった所である。「者」はハ。摂津国風土記逸文は「難波高津は、天稚彦(注:古事記では天若日子)天降りし時、天稚彦につきて降れる天の探女、磐船に乗りてここに至る。天磐船の泊つる故を以て、高津と号す」という地名伝説を伝えている。「淺尓家留香裳」は「淺(あ)せにけるかも」と訓む。「淺」は「淺(あ)せ」。「あす」は「海や川や湖などの底が浅くなる。水が減って涸れる」ことをいう。「尓」は二。「家留」はケル。今まで気づかなかった事にはじめて気づいた時の驚きや感動を表現するのに用いられる。「香裳」はカモ。
歴史解説  

【巻3(293)。】
 
題詞  角麿(つのまろ)の作歌。
原文  塩干乃  三津之海女乃  久具都持  玉藻将苅  率行見
和訳  潮干の 三津の海女(あま)の くぐつ持ち 玉藻刈るらむ いざ行きて見む
現代文  「潮の引いた 御津の海女たちが くぐつを持って 玉藻を刈っているであろう、それを さあ、行って見よう」。 
文意解説  発句「塩干乃  三津之海女乃  久具都持」「潮干の 三津の海女(あま)の くぐつ持ち」と訓む。「塩干乃」は「塩干(しほひ)[潮干]の」と訓む。「塩干(しほひ)」は、「潮が引くこと。ひき潮。潮がれ。また、潮が引いたあとの浜。干潟になった海岸」をいう。「乃」はノ。この句は、旧訓にシホカレノとあったのを、『萬葉考』にシホヒノと改訓したもので、西宮『萬葉集全注』は「そこで、カレとヒの語はいかなる語に用いられるかについて検すると、『海は潮干(しほひ)て山は枯(かれ)すれ』(16・三八五二)を始めとして、集中、潮と涙と袖(衣袖(ころもで)を含む)についてはヒル、霜と水と山と植物についてはカルというように明瞭に区別がある。したがって、ここはシホヒノと四音で字足らずに訓む(大島信生説)。初句に字足らずの例はおおい。」と注している。「三津之海女乃」は「三津(みつ)の海女(あま)の」と訓む。「三津」は「御津、美津」の表記でも既出。「三、御、美」は、いずれも美称の接頭語ミを表す。「津」は港。「三津」は、朝廷直轄の港であった「難波の港」を尊んでいったものなので、口訳には、現在も尊称に用いられる「御」の字を使って「御津」とする。「之」はノ。「海女」は、「海人」と同じく「あま」と訓み、「海にもぐってアワビなどの貝類や、テングサなどの海藻を採取するのを仕事とする人」を意味する。『萬葉集』では「あま」を詠んだ歌が十六首あるが、うち「海人」と表記されたものが十五例で、「海女」の表記例は本歌の一例のみである。ただ「海人」と表記されたものでも、明らかに女性の「海女」と思われるものが三例ある。また、「海女」と考えられるものに5番歌に出て来た「海處女(あまおとめ)」があるが、この表記例は、5・3084番歌の二例。「乃」はノ。「久具都持」は「くぐつ持(も)ち」と訓む。「久具都」は、クグツ。植物「くぐ」を編んで作った手提げ袋「くぐつ」を表す。「くぐ」は、カヤツリグサ科の植物で今、浜すげといい、海辺に生える。「くぐつ」は、刈った藻の入れ物として用いられたものと思われる。なお、余談になるが、日本国語大辞典によれば、「くぐつ(傀儡)」は、袋類の「くぐつ」を作ることを生業とした漂泊民の集団で、人形遣いの技をもち、その人形を「くぐつ」に入れて歩いたことによるとの説があるという。「持」は「持(も)ち」。「もつ」は「手に取る。所持する。身につける。携帯する」ことをいう。

 結句「玉藻将苅  率行見」「玉藻刈るらむ いざ行きて見む」と訓む。「玉藻将苅」は「玉藻(たまも)苅(か)るらむ」と訓む。この句は「玉藻苅良武」と表記は違うが同句。「玉藻」は「美しい藻」の意で、「たま」は美称。「将苅」は、「苅(か)るらむ」と訓む。「かる」は「むらがって生えているものを短く切り払う」こと。玉藻を苅るのは海人(海女)の仕事であった。「らむ」は上の「海女の」のノをうけて連体形となり、「らむを」の意で下の句へ続く。「率行見」は「いざ行(ゆ)きて見む」と訓む。「率」は、日本書紀の開化天皇元年十月条に、率川宮を注して「率川此云 伊社箇波(いざかは) 」とあり、また日本霊異記(中、第三話)訓注にも「率(イサ)」とあることから、誘い率いる意で「いざ」と訓ませたものと考えられる。「いざ」の語は、「去来」の表記で既出。「行見」は「行(ゆ)きて見む」と訓む。
歴史解説

【巻3(294)。】
 
題詞  角麿(つのまろ)の作歌。「角麻呂歌四首」の三首目。
原文  風乎疾  奥津白波  高有之  海人釣船  濱眷奴
和訳  風をはやみ 沖つ白波 高からし 海人(あま)の釣船(つりぶね) 浜に帰りぬ
現代文  「疾風で風が烈しいので 沖の白波が高いらしい。海人の釣船が浜に帰ってきたよ」。
文意解説  発句「風乎疾  奥津白波  高有之」「風をはやみ 沖つ白波 高からし」と訓む。「風乎疾」は「風を疾(いた)み」と訓む。岩波大系本は「風をはやみ」と訓む。疾風のことである。万葉集で「風」を詠みこんだ歌は170余首にのぼる。「風はその特徴によって多くの種類に分けられる。例えば、季節(秋風)・時間(夕風)・地域(明日香風)・地形(海風)・吹いてくる方角(北風)・吹き方(旋風(つむじかぜ))・強弱(大風)などがある。中古の和歌では春夏秋冬の風のうちで秋風がもっとも多く詠まれている」(古典基礎語辞典より)。ここまでの既出例を挙げておくと、「山越(乃)風」、「明日香風」、「濱風」、「朝風」、「神風」、「時風」、「松風」である。「乎疾」は「を疾(いた)み」と訓む。「乎」はヲ。「疾」は「疾(いた)」。それにミを補読する。「疾」の字については、263番歌1句「馬莫疾」を「馬(うま)な疾(いた)く」と訓んだ例がある。このイタミの訓に対して、ハヤミ(萬葉集講義)の訓があるが、カゼヲイタミの場合は母音イを含む六音であるが、カゼヲハヤミでは母音を含まぬ六音となり字余りとなるのでハヤミとは訓めない。風についてハヤミと詠んだ例は3646番歌の「風波夜美(カゼハヤミ)」の一例のみで、風はイタミと云うのが普通で、ここはイタミと訓む。「風を疾(いた)み」は「風が烈しいので」の意。「奥津白波」は「奥(おき、沖)つ白波(しらなみ)」と訓む。「おきつしらなみ」は、万葉集に14例あり、漢字表記と仮名書きがそれぞれ7例ずつだが、漢字表記には全て「奥津白波(浪)」(津が欠けているのが1例あるが)とあって、「おき」には「奥」が宛てられている。「奥(おき、沖)つ白波(しらなみ)」は沖に立つ白い波。「高有之」は「高からし」と訓む。「高」は「高(たか)く」。「有之」は「有(あ)らし」と訓む。「之」はシ。この「有(あ)らし」が、上の「高く」についた「高くあらし」が更に約まって、「高有之」で以て、「高からし」と五音に訓み、「高いらしい」の意となる。

 結句「海人釣船  濱眷奴」「海人(あま)の釣船(つりぶね) 浜に帰りぬ」と訓む。「海人釣船」は「海人(あま)の釣船(つりぶね)」と訓む。「海人(あま)」は、海または湖で魚類、貝類、海藻などを取るのを業とする人のことで、上代には諸所に置かれた海人部(あまべ)に属し、海産物を朝廷に貢納し、航海にも従事した。「漁夫。漁人。いさりびと。りょうし」の意。次の「釣船」を修飾しているのでノを補読する。「釣船(つりぶね)」は「釣りをするのに使う船。また、釣りをしている船」をいう。「濱眷奴」は「濱に眷(かへ、帰)りぬ」と訓む。「濱」は二を補読して「濱に」と訓む。「濱」は「浜」の旧字。古典基礎語辞典は「海や湖の水際にあるなだらかで平らな地。類義語イソは、海や湖などの水際で岩石の多い所、また、その岩石。ウラ(浦)は陸地側に入り込んで湾曲した所」と解説している。「眷」は説文解字に「顧也(かへりみるなり)」とあって、身をまげて顧(かへり)みることをいう文字であるが、ここは「帰り」の意に借りたものと思われる。「奴」はヌ。
歴史解説

【巻3(295)。】
 
題詞  角麿(つのまろ)の作歌。「角麻呂歌四首」の四首目である。
原文  清江乃  木笶松原  遠神  我王之  幸行處
和訳  住吉(すみの江)の 岸の松原 遠つ神 わが大君の 幸行(いでまし)ところ
現代文  「松の並ぶここ住吉の松原はずっと昔に神でいらっしゃる大君が行幸なされた所よなあ」。
文意解説  発句「清江乃 木笶松原 遠神」「住吉(すみの江)の 岸の松原 遠つ神」と訓む。「清江乃」は「清(すみ)の江(え)[住吉]の」と訓む。「清江」は「住吉(すみのえ)」と同じ。摂津国の古郡名で、平安初期以降「すみよし」と呼称される。海の神を祭る住吉神社のある一帯が当時の住吉で、その近辺の海岸を住吉の岸と言った。なお、「清江」の文字も69番歌の左注の「右一首清江(すみのえの)娘子(をとめ)進長皇子[姓氏未詳]」に既出。「乃」はノ。「木笶松原」は「きし[岸]の松原」と訓む。「木笶」はキシ、「きし[岸]」を表す。「松原」を修飾するのでノを補読する。「松原」は、「松が多く生えている原」の意で、住吉の岸は「松原」の景勝地であったものと思われる。このの句については、先に述べた紀州本の「野木笶松原」を原文としてノギノマツバラと訓む説もある。この説を採る日本古典文学大系の補注は、「木笶」をキシノと訓んで「岸の」と解する従来説を批判し、「笶は本来、ヤ(矢)の意であるが、それをシノと訓むのは、が多く篠によってつくられることにもとづくのである」とした上で、「篠」のノは甲類で、「岸の」ノは乙類だから仮名違いであることを指摘している。そして、「笶」の字について「この字の万葉集における用字例を見ると、すべて助詞のノに用いている。これは何故かと考えてみるに、矢竹という意味を表わすノという語がある。和名抄『箆、乃(ノ)、箭竹名(ヤタケノナ)也』とあるのがそれである」と述べて「ここを、木笶のままでキシノと訓む無理が明らかになり、紀州本によって『野』を補って『清江乃野木笶松原』とし、スミノエノノギノマツバラと訓むべきであるということになろう。この場合、『野木』の解が問題である。野に生えている木を野木といったかどうかは疑わしいし、もしいったとしても『野木の松原』という表現はおかしい。そこで考えられるのは、野木を地名とみることである。しかし、今までのところ野木という地名を住吉の附近に見出してはいないので、参考までに以上のことを記しておく」としている。「野木」という地名が住吉附近にあれば、文句なくこの説ということになるだろうが、「野木」という地名は栃木県にあるのみで「住吉の野木」という結合は考えられない。一方、澤瀉『萬葉集注釋』が指摘するように「住吉の」「岸」と続いて詠まれる例は、万葉集に14例もあり、その結合は強い。『注釋』はその事を踏まえ「住吉の岸の松原」と訓むことに間違いはないとして、『類聚古集』の「清江野木笶野松原」の書写の経過を考えて、原文を「清江乃木笶乃松原」であったのが、「木笶」の下の「乃」が落ちたものと推定している。「乃」の脱字と見なくても、連体修飾の格助詞「の」を補読する例は多いので、「の」を補読して訓むことで良いと思う。なお、「岸」の表記には「木志、木師」があり、訓仮名・音仮名の連結表記の例があるので「木笶」を「岸」の表記として認めることはできる。しかし、「笶」の本歌以外の用例13例のうち、「の」と訓むのが11例、「矢(や)」と訓むのが2例で、シ音の音仮名と見るのは本歌1例のみということで、何故、数多いシ音の音仮名の中から「笶」を用いたのかという疑問は残る。「木笶松原」は「野木笶松原」と頭に「野」がついている写本もある。なので岩波大系本や伊藤」はこれを「野木の松原」としている。つまり野木を地名と解している。これに対し中西本は野のない写本に従い「岸の松原」としている。ここでは中西本に従っておく。「笶」は「し」と読み、語調の関係で「の」を加えて読んでいる。「遠神」は「遠(とほ)つ神(かみ)」と訓む。遠い昔の天つ神のようなの意。天つ神の血筋を受ける天皇を尊んでいう。次の「我王」にかかる枕詞。

 結句「我王之  幸行處」「わが大君の 幸行(いでまし)ところ」と訓む。「我王之」は「我(わ)が王(おほきみ)の」と訓む。「我」はガを補読して「我(わ)が」。「王」は「大王」と同じく「おほきみ」と訓む。「之」はノ。「幸行處」は「幸行(いでまし)處(ところ)」と訓む。「幸行」は「行幸」に同じで「いでまし」と訓む。「幸行(いでまし)處(ところ)」は、「天皇など高貴な人が旅に出て、滞在される場所。行幸される所」をいう。類似表現に、「遠神 吾大王乃 行幸能」がある。
歴史解説

【巻3(296)。】
 
題詞  田口益人大夫(たのくちのますひとのまえつきみ)の作歌。「田口益人大夫任上野國司時至駿河浄見埼作歌二首」(「田口益人大夫(たのくちのますひとのまえつきみ)上野(かみつけ・群馬県)の国司に任命されて、赴く途中、駿河の浄見埼(きよみのさき)に至ったときの作歌二首」)。本歌と次の297番歌は、作者「田口益人」が「上野國司」に赴任時に「駿河浄見埼」まで来て作った歌であることが分かる。「田口益人」は、『続日本紀』によると、慶雲元年(704)正月に従五位下を授けられ、和銅元年(708)三月二従五位上で、上野守に任ぜられている。和銅二年十一月には右兵衛率に任ぜられているので、上野守としては僅か二年に満たぬ在任であった。霊亀元年(715)四月には正五位上になっている。上野守に任ぜらた時は従五位上であったから大夫と記したもの。「上野(かみつけの)」は、「東山道の一国。現在の群馬県にあたる。北は岩代・越後、西は信濃、南は武蔵、東は下野に接する。大化改新後、毛野(けの)国が上・下に二分し、上毛野国と下毛野国となった。古代は東国経営の拠点となり、戦国時代は北条・上杉・武田氏の抗争の場となる。江戸時代は幕府領と小藩に分立。廃藩置県後九県に分かれ、明治九年(一八七六)群馬県となる。上州。上毛。」(『日本国語大辞典』より)。「國司」は、令制の地方官で、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官の総称だが、狭義の用法では、守だけを指す。「駿河浄見埼」は、現在の静岡県静岡市清水区興津清見寺町(清見寺がある)あたりの海岸の突出したところを浄見の埼と言ったものと思われる。
原文  廬原乃  浄見乃埼乃  見穂之浦乃  寛見乍  物念毛奈信
和訳  廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし
現代文  「廬原の 清見の崎の 三保の浦の ゆったりとした景色を見ていると 何の物思いもない(胸の中の思いはすべて消えてしまってはればれとした気持になった)」。  
文意解説  発句「廬原乃  浄見乃埼乃  見穂之浦乃」「廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の」と訓む。「廬原乃」は「廬原(いほはら)の」と訓む。「廬原」は和名抄の郡名に「伊保波良」の注があり、「いほはら」と訓む。現在の静岡市清水区廬原(いはら)町。「乃」はノ。「浄見乃埼乃」は「浄見(きよみ)[清見]の埼(さき)の」と訓む。「浄見乃埼」は題詞の「浄見埼」に同じ。版本には「清見」とあるが、古写本全て題詞と同じく「浄見」とある。「乃」はノ。「見穂之浦乃」は「みほ[三保]の浦の」と訓む。「見穂」はミホで地名「三保」を表したもので現在の静岡市清水区三保。「三保」は、清水港の入り海の出先で、清見崎とは南北相対している。「之」はノ。「浦」は「海、湖などの湾曲して、陸地に入り込んだ所」をいう。澤瀉『萬葉集注釋』に「作者は清見崎に立つてゐるので、對岸の三保に至る入海を三保の浦と云つたのである」とある。「乃」はノ。三保は三保の松原で有名だが万葉集ではこの歌にしか登場しない。あとは三穂や美穗でいずれも和歌山県の地名である。

 結句「寛見乍  物念毛奈信」「ゆたけき見つつ 物思ひもなし」と訓む。「寛見乍」は「寛(ゆた)けき見(み)つつ」と訓む。「寛」は『名義抄』に「ヒロシ・トホシ・トモガラ・ナダム・ユルス・ユルク・モト・ユタカナリ・アイス」などの訓があるが、ここはク活用形容詞「ゆたけし」の連体形の準体言用法で「寛(ゆた)けき」と訓む。「ゆたけし」は「広々としている。ゆったりしている。のどやかである」ことをいう。「見乍」は見ツツ。家持の作にも「海原乃(ウナバラノ) 由多氣伎見都々(ユタケキミツツ)」(4362番歌)とある。「物念毛奈信」は「物念(ものも)ひもなし」と訓む。ここの「物(もの)」は「感じたり考えたりする事柄。悩み事、考え事、頼み事、尋ね事など」の意。「念」は「念(おも)ひ」だが、「物念」と「物」につづく場合、モノオモヒのオが省略されてモノモヒとなることが次の仮名書き例から明らかなので、「物念」で以て「物念(ものも)ひ」と訓む。。モノモヒの仮名書き例としては、「比流波毛能母比(ヒルハモノモヒ)」(3732番歌)、「毛乃母比毛世受(モノモヒモセズ)」(4425)がある。「毛」はモ。「奈信」はナシ。「なし」を表す。「なし」は、存在の意を示す「有り」の対義語で「存在しない」の意。結句の「物思ひもなし」の「物思ひ」を旅愁とか愁いといった風に取らない方がいいと思う。歌が理屈っぽくなる。大自然に抱かれて伸びやかな思い(せこせこ考えない)にいる状態と考えていい。豊かに広がる海。その海を眼前にしての歌である。
 
歴史解説

【巻3(297)。】
 
題詞  田口益人大夫(たのくちのますひとのまえつきみ)の作歌。「田口益人大夫任上野國司時至駿河浄見埼作歌二首」の二首目である。
原文  晝見騰  不飽田兒浦  大王之  命恐  夜見鶴鴨
和訳  昼見れど 飽かぬ田子の浦 大君(おほきみ)の 命畏(かしこ)み 夜見つるかも
現代文  「田子の浦は昼見て飽きない絶景である。大君のご命令を恐れ謹んで夜にそっと見させていただこう」。

 この歌は、諸家の読解に従えば「昼間は見飽きることがないほど絶景の田子の浦だが、官命の旅故夜見る羽目になってしまった」となる。つまり絶景を楽しんでいるゆとりもない忙しい旅だったという意味になる。「命畏み」(みことかしこみ)を「官命故」と解するとこうなる。が、これでは不平を鳴らしているだけの歌になる。そこで、「命畏み」を「官命を畏み」と解し、昼見れば絶景の田子の浦を夜になってそっと見させていただこうと云う歌と窺うべきだろう。
文意解説  発句「晝見騰  不飽田兒浦  大王之」「昼見れど 飽かぬ田子の浦 大君(おほきみ)の」と訓む。「晝見騰」は「晝(ひる)見れど」と訓む。「晝(ひる)」は昼の旧字で「太陽が空にあるあいだ。日の出から日没までの間」をいう。「昼はも…夜はも」の既出例に見られるように夜と対応して詠まれることが多く、ここも五句の「夜」との対応で詠まれている。「見」は「見れ」。「騰」はド。「不飽田兒浦」は「飽かぬ田兒(たご、子)の浦」と訓む。「不飽」は「飽かぬ」と訓む。「晝(ひる)見れど飽かぬ」というのは、「昼見ても見飽きない」という意で、澤瀉「萬葉集注釋」は「作者は既にその美景を知つてゐた云ひ方であるが、必ずしも直接の知識でなく、噂に聞いて承知してゐると見てもよいであらう」という。「田兒浦」は、現在の表記では「田子の浦」で、「静岡県東部、駿河湾に注ぐ富士川河口付近の海岸。現在は東側の潤井川河口あたりまでをいうが、古くは西側の蒲原、由比の海岸を含めていった。多胡浦。歌枕」(日本国語大辞典より)。西宮「萬葉集全注」は「富士川の西、蒲原・由比・西倉沢の弓状をなす海岸で、今日の田子の浦ではない(澤瀉久孝『万葉古径』一)」と注している。「大王之」は「大王(おほきみ、大君)の」と訓む。「大王」は、大和国家の王者が諸豪族に超越する立場を獲得するに至って「王(きみ)」のうちの大なる者の意。主に天皇を尊敬して云うのに用いられ、現在では「大君」と表記されるのが一般的。「之」はノ。ここの「大王」は、作者が「上野守」に任じた元明天皇を指すと考えられる。

 結句「命恐  夜見鶴鴨」「命畏(かしこ)み 夜見つるかも」と訓む。「命恐」は「命(みこと)恐(かしこ)み」と訓む。「命(みこと)」は「御言」の意で、ミは接頭語。「こと(言)」を敬っていったもので、神、天皇のお言葉。「恐」は「かしこし」の語幹の「恐(かしこ)」で、「恐ろしいこと。恐れ多いこと」の意。下にミを補読して次句に続く。西宮「萬葉集全注」は、この句の注に「官命をさす。当時官命による旅行は日数が限られていて、『主計式』(上)では、上野と京都とでは上りが二十九日、下りが十四日とある。上りは調物などを運ぶので、下りの空手の倍ほどの日数が見積もってある。今は下りだが、三保の浦は296番歌の如く、心も晴々と見やったのであるけれども、噂にも名高い美景の田子の浦は夜の行程に入っていた。官命だから(注:「だから」に傍点)日程をのばすわけにはゆかなかったのである」と述べている。「夜見鶴鴨」は「夜見つるかも」と訓む。「夜(よる)」は「日没から日の出までの時間。太陽が没して暗い間」をいう。一句の「晝」と呼応している。西宮「萬葉集全注」に「清見の崎から田子の浦までの距離はさほでではないが、やはり薩埵(さつた)峠越えなどに意外に暇(ひま)どったのであろう」とあるが、清見の崎から三保の浦の景色を眺めてゆったりした気分になり、そこで時間を費やしすぎたのではなかろうか。
歴史解説

【巻3(298)。】
 
題詞  弁基(べんき)の作歌。「弁基歌一首」。左注に「右或云 弁基者春日蔵首老之法師名也」(「弁基はあるいは春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)の法師名か」)とある。「弁基」は、春日蔵首老の法名で、彼は大宝元年(701)勅により還俗した。282番歌の所で述べたように、春日蔵首老の歌は『万葉集』に短歌八首あり、全て旅に関する歌と言ってよい。本歌も282・1719番歌と同様、旅情を詠んだ歌であり、他に即興性・遊戯性に富んだ歌(56・284・286・1717番歌)及び遣唐使に贈る歌(62番歌)がある。
原文  亦打山  暮越行而  廬前乃  角太川原尓  獨可毛将宿
和訳  真土山(まつちやま) 夕越え行きて 廬前(いほさき)の 角太川原に ひとりかも寝む
現代文  「真土山を 夕方越えて行って 盧前の 角太河原で 一人寝をすることだろうか」。 
文意解説
 真土山(まつちやま)は大和と紀伊の国境。廬前(くらさき)の角太川原(すみだがはら)は和歌山県橋本市内の川原。川原に野宿というと、私たち現代人にはびっくり。だが、古代にあっては山中に宿ひとつないことなど少しも珍しいことではない。法師ばかりではなく、一般の古代人にとっては旅の途上での野宿はむしろ常態だったと考えてよい。 

 発句「亦打山  暮越行而  廬前乃」「真土山(まつちやま) 夕越え行きて 廬前(いほさき)の」と訓む。「亦打山」は「亦打(まつち)[真土]山(やま)」と訓む。この句は55番歌3句と同句。55番歌では、「あさもよし 木(き)(紀)人(ひと)乏(とも)しも 亦打(まつち)[真土]山(やま)  行(ゆ)き来(く)と見(み)らむ  樹(き)(紀)人(ひと)ともしも」と詠まれていた。真土山は、奈良県五條市と和歌山県橋本市との境にある真土峠の古称で、歌枕の一つ。萬葉集では、「まつちやま」を詠んだ歌は六首あるが、そのうち三首までが「亦打山」と書かれており、あとは「真土山、信土山、又打山」とある。「亦打山」の表記には何か意味があるように思うが不明。「暮越行而」は「暮(ゆふ)越え行きて」と訓む。「暮」は、初め草間に日の入る形の「莫」という字であったもので、説文解字に「莫は日且(まさ)に冥(く)れんとするなり」とあり、その後「莫」の字が多く否定詞に用いられるようになったため「暮」の字が作られた(字通による)。現在でも「夕暮れ」「暮れる」などに使われているが、古くは「夕」と同じく「ゆふ」とも「ゆふへ」とも訓んだ。既出例として「暮(ゆふ)猟(かり)」(5番歌)、「暮去者(ゆふさらば)」(121番歌)、「暮去者(ゆふされば)」(159番歌)、「暮尓至者(ゆふへになれば)」(199番歌)がある。「越行」は「越え行(ゆ)き」。「こえゆく」は「山、川、国ざかいなどを越えて行く」ことをいう。「而」はテ。「廬前乃」は「廬前(いほさき)の」と訓む。「廬前(いほさき)」は未詳だが、現在の和歌山県橋本市隅田(すだ)町にある「隅田八幡社」のあたりと推定されている。「乃」はノ。

 結句「角太川原尓  獨可毛将宿」「角太川原に ひとりかも寝む」と訓む。「角太河原尓」は「角太河原(すみだかわら)に」と訓む。「角太河原(すみだかわら)」は、橋本市隅田(すだ)町を流れる紀の川の河原。澤瀉『萬葉集注釋』は「國鐵和歌山線の奈良縣から和歌山縣へはひつた最初の驛が隅田で、今スダと云つてゐるが、これがこの作の角太(スミダ)である。吉野川が紀伊へはひつて紀の川となる。それが隅田驛の東を流れてゐる。川の名はその流れる土地土地によつていろいろ呼ばれるので、その紀の川の隅田あたりの河原をすみだ河原と云つたと思はれる。」と述べ更に、「今隅田驛の西北に八幡社の鳥居が見える。そのあたりをイホサキといひ、それから南へかけては、今も少し地を掘れば石ころばかりで、昔の河原のあとと思はれる、と大正十四年の夏私がはじめてこの地へ遊んだ折、出逢つた隅田村村長の話であつた。廬前はそのあたりの總名であつたのであらう。」という。「尓」はニ。「獨可毛将宿」は「獨(ひとり)かも宿(ね)む」と訓む。「獨(ひとり)」は既出。万葉集に「獨(ひとり)」は五十の用例があるが、その大部分は男女二人の関係に置いて一人である意を示しているが、ここは作者が僧侶であるので、男女二人の関係を想定して詠ったものではないと考えられる。「可」はカ。「毛」はモ。この「かも」は、下の未来の推量の助動詞「む」と呼応しているので、疑問の意を含みつつも詠嘆性が強い。「将宿」は「宿(ね)む」と訓む。

 なお、この歌の【歌意】について、阿蘇『萬葉集全歌講義』が的確に述べているので参考までに引用して記しておく。
 飛鳥・藤原の都から真土山までは、一日行程。真土山を越えるころは夕暮れが迫っている。旅に出て最初の異境での宿り、しかも一人寝のわびしさを詠んだもの。還俗前の僧侶としての旅ならば、一人寝を嘆くのもいかがかと思われるが、やはり旅先で一人迎える夜は不安・さびしさがつきまとうのであろう。初二句は説明的であるが、故郷大和を出て異境に入ったことが表現されている。
歴史解説

【巻3(299)。】
 
題詞  大納言大伴卿の作歌。「大納言大伴卿歌一首[未詳]」(大伴卿(おおとものまえつきみ)は柿本人麻呂とともに最も有名な万葉歌人大伴旅人の父である)。大納言は左右大臣に次ぐ官で、卿は三位以上の称。題詞の下の「未詳」の文字は『類聚古集』にはないが、『紀州本』以下の諸本にはあるから古くからあったものと思われ、「大納言大伴卿」とのみで名前がない為に記されたものと考えられる。この「大伴卿」は大伴安麻呂かその子の旅人が考えられるが、旅人は315番歌に「中納言大伴卿」として出てくることや、本歌の年代は和銅の頃と考えられ、その頃に大納言大伴卿と呼ばれていたのは安麻呂であることからすると、安麻呂であると思われる。大伴安麻呂は101番歌の作者として既出。
原文  奥山之  菅葉凌  零雪乃  消者将惜  雨莫零行年
和訳  奥山の 菅(すが)の葉しのぎ 降る雪の 消なば惜しけむ 雨な降りそね
現代文  「奥山の 菅の葉を押し伏せて (一面に)降っている雪が 消えてしまっては惜しかろう 雨よ降ってくれるな」。
文意解説
 発句「奥山之  菅葉凌  零雪乃」「奥山の 菅(すが)の葉しのぎ 降る雪の」と訓む。「奥山之」は「奥山の」と訓む。「奥山」は「人里離れた奥深い山。山の奥深いところ」の意。「之」はノ。「菅葉凌」は「菅(すが)の葉(は)凌(しの)ぎ」と訓む。「菅」は、カヤツリグサ科の植物の総称。カサスゲの葉で笠、カンスゲで蓑(みの)をつくり、シオクグ、ショウジョウスゲなどで縄をなうなど利用用途の多い植物。単独ではスゲだが、複合語を作ると母音交替でスガとなり、「すがごも(菅菰)」「すががさ(菅笠)」などの形で用いられる。また、4454番歌の「須我乃根(すがのね)」の仮名書き例もあり、ここも「菅葉」で「菅(すが)の葉(は)」と訓む。菅(すが)の葉の菅はヤマスゲのことというが、そうとは言い切れないという説もあって不詳。「凌」は「凌(しの)ぎ」。「しのぐ」は押しふせる。下に押えるようにする。おおいかぶせる。なびかす」ことをいう。「零雪乃」は「零(ふ)る雪の」と訓む。「零雪」は既出。「零」は「零(ふ)る」と訓む。「雪」は、古来より「花」「月」とともに代表的景物とされ、萬葉集にも「雪」を詠んだ歌は百二十七首あるが、「花」の三百三十一首、「月」の二百八十四首には及ばない。「乃」はノ。「しのぎ降る」は「押さえて降る」意だが、要するに覆い被さって美しい雪景色に染まったことを言う。この雪景色が消えてしまうのは惜しいので、「雨な降りそね」である。禁止の「な」はこれまでたびたび出てきている。

 結句「者将惜  雨莫零行年」「消なば惜しけむ 雨な降りそね」と訓む。「消者将惜」は「消(け)なば惜(を)しけむ」と訓む。「消者」は「消(け)なば」と訓む。「く」は「あとかたもなくなる」意で、その用例の大半は露・雪などの天然現象を対象とする。「将惜」は「惜(を)しけむ」と訓む。「をし」は「思うようにならなかったり、物事のねうちが生かされなかったりするのを残念に思う。心残りである」ことをいう。「雨莫零行年」は「雨な零(ふ)りそね」と訓む。「雨」は既出。なお、「雨」を詠み込んだ歌は萬葉集に百六首あるが、本歌は四首目となる。「莫」はナ。「零」は「零(ふ)り」。次の「行年」は旧訓にコソと訓んでいたが、今ではソネと訓むのが通説になっている。ナ~ソネの文型で、懇願的禁止表現とみることで意味が通るので、「行年」をソネと訓む。このことは、「行年」の文字を用いた全ての用例(本歌以外に四例、全て末句)においても、ナ~ソネの文型と見ることができることから間違いないと考えられる。本歌以外の四例を参考までに挙げておくと、「風莫吹行年(カゼナフキソネ)」(1319)、「言勿絶行年(コトナタエソネ)」(1363)、「雨莫零行年(アメナフリソネ)」(1970。本歌と同句) 、「犬莫吠行年(イヌナホエソネ)」(3278)である。しかし、なぜ「行年」をソネと訓むかについては未だ解明されていない。西宮『萬葉集全注』は一つの試案として次のように述べている。
 「行年」の「年」はネだから、「行」はソだとして、「来(コ)」に対する「行(ソ)」ではないかとする考え方もできないことはないが、「行(ソ)」の例がないので賛成を得難い。となると、「行年」二字でソネと訓む理由を考えればよいことを示している。思うにこうではあるまいか。「細竹(シノ)苅嫌(ナカリソネ)」(7・一二七六)の「嫌」をソネと訓ませることが参考になるのだが、「嫌」は憎むとか嫌うとかの意で、それをソネムと言ったこと、霊異記(上、第五話、興福寺本)や崇峻紀五年の古訓に見える。一方「行年」は過ぎ去った年齢を言うが、この「行年」という文字が「嫌う」印象を与えたのでソネムのソネと訓まれるようになったものか。享年(没年)の意に用いたのはいつのことか不明であるが、後にそういう意味になるということも、「行年」は語感として嫌われたのであろう。確かに「行年」の二字は、義訓もしくは借訓としてソネに用いられたのであろうと思われ、西宮の説はあるいは的を射たものかも知れない。
歴史解説

【巻3(300)。】
 
題詞  長屋王(ながやのおおきみ)の作歌。「長屋王駐馬寧樂山作歌二首(長屋王、馬を奈良山に駐めて作った歌2首)」。長屋王(ながやのおおきみ)は天武天皇の孫皇子。「寧樂山」は17番歌4句の「奈良能山」、29番歌14句の「平山」と表記は違うが既出で、奈良市北部の丘陵をいう。奈良と京都県境の山。
原文  佐保過而  寧樂乃手祭尓  置幣者  妹乎目不離  相見染跡衣
和訳  佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣(ぬさ)は 妹を目離(めか)れず 相(あひ)見しめとぞ
現代文  「佐保を通り過ぎて奈良の山越えにあたって手向として幣(ぬさ)を捧げます。どうぞ妻から目が離れてしまわないように。彼女と離れることなく互いに逢っていられますように」。
文意解説  発句「佐保過而  寧樂乃手祭尓  置幣者」「佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣(ぬさ)は」と訓む。「佐保過而」は「佐保(さほ)過ぎて」と訓む。「佐保(さほ)」は、現在の奈良市北部、「佐保川」の北側の法蓮町・法華寺町一帯をいい、平城遷都後は貴族たちの邸宅が営まれた所で、長屋王の邸宅もここに営まれることになるが、本歌が詠まれたのはそれ以前のことと思われる。「過」は「過ぎ」。「すぐ」は「通過する」ことをいう。「而」はテ。「佐保(さほ)過ぎて」は「佐保の地を通り過ぎて」の意。「寧樂乃手祭尓」は「寧樂(なら)の手祭(たむけ、向)に」と訓む。「寧樂(ねいらく)」は「安らかで楽しい」という意味の漢語であるが、これをナラと訓み、地名「奈良」を表わすのに用いている。「寧樂」の字義を踏まえた上での用字であると考えられる。「乃」はノ。「手祭」は、「手向草」の「手向」と同じく「たむけ」と訓む。「たむけ」には主に次の三つの意味がある。① 神仏に加護を願って、幣(ぬさ)など供え物をすること。また、その供え物。多く、旅人などが道の神に対して供える場合にいう。② 旅立つ人へのはなむけ。餞別。③ 道の神に旅中の安全を祈るところ。特に、越えて行く山路の登りつめたところ。峠。ここの「たむけ」について③説もあるが①説の意味と採る。「尓」は二。「寧樂(なら)の手祭(たむけ、向)に」は「奈良の山越えにあたって手向として」の意。「手向け」(たむけ)は供えること。幣(ぬさ)はお供え物のこと。峠の頂上に祠(ほこら)ないし地蔵が祀られていたと考えていい。「置幣者」は「置く幣(ぬさ)は」と訓む。「置」は「置く」。「おく」は「事物に、ある位置を占めさせる」ことをいうが、ここは「供え物として奉る」の意。「幣(ぬさ)」は、神に祈る時にささげる供え物のことで、麻・木綿(ゆう)・紙などで作った。「者」はハ。

 結句「妹乎目不離  相見染跡衣」「妹を目離(めか)れず 相(あひ)見しめとぞ」と訓む。「妹乎目不離」は「妹(いも)を目離(めか)れず」と訓む。「妹(いも)」は「男性から結婚の対象となる女性、または結婚をした相手の女性をさす称。恋人。妻」をいう。ここは作者の妻をさす。「乎」はヲ。「目不離」は「目離(めか)れず」と訓む。「めかる」は、対象から目が離れる、見なくなる意で、「親しい人や見馴れた物を見なくなる」ことをいう。「相見染跡衣」は「相(あひ)見しめとそ」と訓む。「相(あひ)」は「共に、互いに」が本来の意であるが、下の動詞を強める「心から、きっと」などの意にも用いられる。ここは後者。「見」は「見(み)」。「染」はシメ。後に「しむ」の命令形は「しめよ」と「よ」を付けるようになるが、古くは「よ」がなく連用形と同じ形であった。「跡衣」はトソ。
歴史解説

【巻3(301)。】
 
題詞  長屋王(ながやのおおきみ)の作歌。
原文  磐金之  凝敷山乎  超不勝而  哭者泣友  色尓将出八方
和訳  岩が根の こごしき山を 越えかねて 哭(ね)には泣くとも 色に出でめやも
現代文  「岩の根の ごつごつした山を 越えかねて 声に出して泣くことはあっても (妻への思いを)決して口に出しはしない」。 
文意解説  「岩が根のこごしき山」は「根を張ったように岩がごつごつした山」のこと。その岩山を馬で越すのはさぞかし難渋したであろう。「哭(ね)には泣くとも」は「おいおいと声をだして泣きたくなることはあっても」の意。厄介なのは結句の「色に出でめやも」である。題詞の書きっぷりからは単独行に思われる。が、単独行だと結句は読解し辛い。結句を文字通り解すると「顔色に出すことがあろうか」となる。この言い方は本人以外の第三者(お付きの者等)を意識しての表現だからである。複数行なら弱音を見せないという意味になる。単独行だと歌の読者を意識しての表現となる。いずれだろう。

 発句「磐金之  凝敷山乎  超不勝而」「岩が根の こごしき山を 越えかねて」と訓む。「磐金之」は「磐(いは)がね[岩が根]の」と訓む。「磐金」は、「石根」と同じく、「磐(いは)がね[岩が根]」と訓む。「金」はガネ。「岩が根」は、「土中にしっかりと根をおろした大きな岩」をいう。「磐根(いはね)」と同意。「磐」一字でも「いはお」と訓んで「大きな岩」の意味をもつが、「いはお」が「高くそびえ立つ大きな岩」を言うのに対して、「いはね」はどっしりと安定した大きな岩をいう。「之」はノ。「凝敷山乎」は「こごしき山(やま)を」と訓む。「凝敷」は「こごしき」を表わす。「こごし」は、「山道などで、岩がごつごつと重なって険しい」ことを形容する。「凝」の字は、「川の氷凝(ひこご)り」に既出で、「凝(こご)る」の「かたまって固くなる」という意を踏まえて「こごし」の「こご」に宛てたもの。「敷」はシキ。「こごしき山」は、「岩がごつごつと重なって険しい山」の意であり、題詞の「寧樂山」とは対極の山ということになる。「寧樂山」は、「平山」とも表記され、その語源説に「崇神天皇の時、官軍が山の草木を踏みナラしたところから」とするものがあるように、踏みならされた容易に越えることのできる山であった。「乎」はヲ。「超不勝而」は「超(こ)[越]えかねて」と訓む。「超」は「超え」。「こゆ」は「山、峠、谷、川、溝、関所など、障害となるものを通り過ぎて向こうへ行く」ことをいい、現在の漢字表記では普通「越」が用いられる。「不勝」はカネ。「かぬ」は、他の動詞の連用形に付いて補助動詞として働き、「…し続けることができない。…しようとしてもできない」の意となる。「而」はテ。

 結句「者泣友  色尓将出八方」「哭(ね)には泣くとも 色に出でめやも」と訓む。「哭者泣友」は「哭(ね)には泣(な)くとも」と訓む。「哭」(155番歌に既出)は、「ね」で「泣く」ことの名詞。「い」が「ぬ(ねる)」の名詞で、「寐(い)も宿(ぬ)る」(46番歌)のように用いられたのと同様に、「哭(ね)に泣(な)く」などのように使われた。ここもそれで、格助詞「に」を補読して「哭(ね)に」。「者」はハ。「泣友」は、「泣(な)くとも」と訓む。以上、4句までが、誇張した仮定法を用いたもので、今日から見るとやや大げさな表現とも思えるが、これによって結句の反語性が強められていると言えるだろう。「色尓将出八方」は「色(いろ)に出(い)でめやも」と訓む。ここの「色(いろ)」は「物事の表面に現われて、人に何かを感じさせるもの」を言う語で、「気持によって変化する顔色や表情。また、そぶり」あるいは「人情の厚いさま。外に現われる思いやりの気持。情愛」などの意。「尓」はニ。「将出」は「出(い)でめ」と訓む。「八」はヤ、「方」はモ。「八方」は、反語の意を表わす係助詞のヤ+詠嘆の終助詞のモ。

 なお、この句の注として、西宮『萬葉集全注』には次の様にある。
 メヤモは反語。「色に出(い)づ」とは、駒木敏によると、(A)他動詞的用法の場合ー相手との関係・心中の思いを公然化し、行動や言葉に出す意、(B)自動詞的用法の場合ー(1)そぶり・言葉などの行動がおのずと形をなしてしまう意、(2)その行動が第三者に知られる意、になるとし、今の歌は(A)で、「言葉に出す」と同義と言う(「『色に出づ』考ー慣用句と発想法」万葉昭和五十一年八月)。険しい山を越えるのがつらくて声を出して泣くということがたとえあっても、妻のことを声に出して言わないというのである。

 300番歌で「妹(いも)を目離(めか)れず 相(あひ)見(み)しめとそ」と詠った作者が、本歌では「哭(ね)には泣(な)くとも 色(いろ)に出(い)でめやも」と詠っている所が面白く、これを「長屋王駐馬寧樂山作歌二首」とした編者に感心させられる。
歴史解説

【巻3(302)。】
 
題詞  中納言安倍廣庭卿(あべのひろにはのまえつきみ)の作歌。阿倍廣庭(あへのひろには)(659年~732年)は右大臣御主人(みうし)の子で、神亀四年(727年)十月、従三位で中納言になり、天平四年(732)二月に薨。『懐風藻』に漢詩二首、『萬葉集』に短歌四首(本歌・370・975・1423)を残す。
原文  兒等之家道  差間遠焉  野干<玉>乃夜 渡月尓  競敢六鴨
和訳  児らが家道(いへぢ) やや間遠きを ぬばたまの夜 渡る月に 競ひあへむかも
現代文  「あの子の家までの道のりは ちょっと遠いが ぬばたまの実が黒いように黒い 夜空を渡る月と 競うことができるだろうか(月が隠れるまでにそれに負けずに行き着くことができるだろうか)」。 
文意解説  詠い出しの「子らが家道(いへぢ)」の「児ら」は一見複数に見える。が、中西本に「愛称」とある。卿の相手ともなれば邸宅も大きく使用人も含めて大勢居住していたのではなかろうか。なので意味は同じだろうが、邸宅と考えてよさそうである。「ぬばたまの」は枕詞。前半は「あの娘が住む家までまだ距離があるが」である。下二句は「月が沈むまでに到着できるだろうか」である。

 発句「兒等之家道  差間遠焉  野干<玉>乃夜」「児らが家道 やや間遠きを ぬばたまの夜」と訓む。「兒等之家道」は「兒(こ)らが家道(いへぢ)」と訓む。ここの「兒(こ)」は愛しく思っている女性をいう。妻と口訳している注釈書も多い。「等」はラ。人を表わす名詞や代名詞に付いて、謙遜また蔑視の意を表わすが、ここは愛称。「之」はガ。「家道」は「いへぢ」と訓み、「男が妻や恋人の家へ通う道のり」(『萬葉集全注』)をいう。「差間遠焉」は「やや間遠(まとほ)きを」と訓む。「差」の字は、岸本由豆流『萬葉集攷證』に「韻會に、差較也とあれば、やゝとよまん事明らけし」とあるように、比較して差のあることを意味し、ここはその程度を表わす副詞「やや」に宛てたもの。「やや」は「ちょっと、少し、いくらか」の意。なお、引用した『萬葉集攷證』に『韻會』とあるのは、韻書(漢字を韻によって分類した書物)の一つ『古今韻會挙要』のことで、同じ韻書の一つ『集韻』にも「差、異也。」とある。「間遠」は、「間遠(まとほ)き」。「まとほし」は「距離や時間が遠くへだたっている」ことをいう。「焉」はヲと訓む。196番歌の末句の末字に「焉」が使われており、そこでは「焉」を不読文字とした。しかし、ここの「焉」はヲと訓む。「野干玉乃」は「野干玉(ぬばたま)の」と訓む。「ぬばたま」は、植物の檜扇(ひおうぎ)(漢名を「射干/野干」という)の種子をいい、黒くて球状をなす。それで「ぬばたまの」は黒色やそれに関連した語にかかる枕詞となったが、既出例の表記を見ると、「奴婆珠能、烏玉之、烏玉乃、烏玉能」とあり、いずれも「たま」は「玉(珠)」の字を宛てており、「ぬばたま」が球状をなしていることを表している。

 結句「渡月尓  競敢六鴨」「渡る月に 競ひあへむかも」と訓む。「夜渡月尓」は「夜渡(よわた)る月に」と訓む。「夜渡」は「夜渡(よわた)る」。「よわたる」は「夜空を通過する。月や鳥などが夜空を行く」ことをいう。169番歌にも「夜渡月之」とあり、そのところの「月」は日並皇子(草壁皇子)を譬えたものであったが、ここは単なる天体の月の意。「尓」はニ。「競敢六鴨」は「競(きほ)ひ敢(あ)へむかも」と訓む。「競」は「競(きほ)ひ」。「きほふ」は「負けまいとしてはりあう。競争する」の意で、36番歌「舟(ふな)競(ぎほ)ひ」として既出。「敢」は「敢(あ)へ」。「あふ」は補助動詞的に用いて「十分にそうする。完全にそうする。押し切ってそうする。できる」という意を表す。「六」はム。「鴨」はカモ。

 この歌の作歌事情として『萬葉集全注』は次のように記している。
 安倍広庭は …(中略)… 神亀(じんき)四年(727)中納言、天平四年(732)七十四歳で没。すると中納言になったのは六十九歳となり、この老齢で妻の家へ通うというのもおかしく、この老齢なら妻はとっくに夫の家に同居していたはずである。しかし、老いらくの恋の対象としての「子」(あの女(こ))であるなら、年齢はものかは妻娉(つまど)いに出かけるのもまた当然である。それが月との競争を歌っているのは、逸る心のわりには脚が思うほど速くは動いてくれなかったのであろう。そう解すると、老人としての年齢がうかがえるのである。
歴史解説

【巻3(303)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。「柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首(柿本人麻呂が海路、筑紫国(北九州)に向かう時の歌二首)」。この歌と次歌の2首。人麻呂が筑紫の国に下る時に海上の旅の途中の明石海峡あたりにさしかかった時に詠んだ歌二首であることを示している。
原文  名細寸  稲見乃海之  奥津浪  千重尓隠奴  山跡嶋根者
和訳  名ぐはしき 印南(いなみ)の海の 沖つ波 千重に隠(かく)りぬ 大和島根は
現代文  「その名の美しい印南の海の沖の波。波が幾重にも重なってとうとう大和の山々は見えなくなってしまったよ」。
文意解説  発句「名細寸  稲見乃海之  奥津浪」「名ぐはしき 印南(いなみ)の海の 沖つ波」と訓む。「名細寸」は「名細(くは)しき」と訓む。「くはし」は充てられる漢字によって二つの意味がある。①「美・細・妙」の字が充てられる場合には「こまやかで美しい。精妙である。うるわしい」の意となる。②「詳・委・精」の場合は「細かい点にまでゆきわたっているさま。詳細である。つまびらかである。つぶさである」または「細部まで十分に知っているさまである。精通しているさまである」の意となる。「名細(くは)し」は①にあたり「名前のうるわしい。名のよい」の意。「名細寸」は「名細(くは)しき」を表したもの。「寸」はキ。「名ぐはしき」は「その名も美しい」である。「稲見乃海之」は「稲見(いなみ、印南)の海の」と訓む。「稲見乃海」は、「稲日野(いなびの)」(明石から加古川あたりにかけての平野)沿いの海をいう。ビとミは音が近くイナミをイナビとも言ったもので、古事記(景行記)に「針間之伊那毗(はりまのいなび)」とあるのも「播磨の印南」のことである。隠(な)び妻伝説で有名なところである。「乃」、「之」は共にノ。「奥津浪」は「奥(おき、沖)つ浪(なみ)」と訓む。「奥浪」と同じで、「奥(おき、沖)つ浪(なみ)」。「津」はツ。

 結句「千重尓隠奴  山跡嶋根者」「千重に隠(かく)りぬ 大和島根は」と訓む。「千重尓隠奴」は「千重(ちへ)に隠(かく)りぬ」と訓む。「千重」は「ちへ」と訓み、「数多くかさなること」をいう。「尓」は二。「隠」は「隠(かく)り」。「奴」はヌ。「山跡嶋根者」は「やまと(大和)嶋根(しまね)は」と訓む。「山跡」は地名「大和」の表記に用いたもの。「山」は「やま」。「跡」はト。「嶋根」の「根」は、元来大地の中に固定しどっしりと根を張っているものに付ける接尾語で「岩が根」の「根」と同じ。「者」はハで、「山跡嶋根」がこの歌の主題であることを示す。大和島根は大和の山々。結句の「大和島根は」がぴたっと決まった見事な歌。倒置表現の見本のような素晴らしい歌である。
歴史解説

【巻3(304)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。「柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首」の二首目である。
原文  大王之  遠乃朝庭跡 蟻通  嶋門乎見者  神代之所念
和訳  大王(おほきみ)の 遠(とほ)の朝庭(みかど)と あり通ふ 嶋門(しまと)を見れば 神代し思ほゆ
現代文  「大君の 都から遠く離れた政庁として 人々が行き来する海峡を見ると (この島々が生み出された)遠い神代のことが思われる」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その477)」その他参照する。
 発句「大王之  遠乃朝庭跡 蟻通」「おほきみの 遠の朝廷跡 あり通ふ」と訓む。 「おほきみ」は天皇。その朝廷はむろん大和にあるが、その支庁ともいうべき朝廷が九州太宰府に置かれていた。それを「遠の朝廷」(とほのみかど)と呼んでいた。その太宰府と大和の間を瀬戸内海の島々をくぐり抜けつつ当時の官人たちは船で往来していた。島門(しまと)はその島々の間のこと。神代(かみよ)とは記紀に記されている神話の時代のこと。ただここは島々を見ての神代なので柿本人麻呂の念頭にはあるいは神が日本の島々を産み落としていく場面のことがあったのかも知れない。前歌に続く秀歌である。 

 「大王之」は「大王(おほきみ)[大君]の」と訓む。「大王」は、大和国家の王者が諸豪族に超越する立場を獲得するに至って「王(きみ)」のうちの大なる者の意で「大王(おほきみ)」と称するようになったもので、主に天皇を尊敬して云うのに用いられ、現在では「大君」と表記されるのが一般的。「之」はノ。「遠乃朝庭跡」は「遠(とほ)の朝庭(みかど、朝廷)と」と訓む。「遠乃」は「遠(とほ)の」と訓み、「隔たりの程度がはなはだしい。遠くの。遠方の」の意。「朝庭」は「みかど」と訓む。「みかど」については本来「御門」と書き、接頭語のミがついた「門」の尊敬語であり、そこから家や屋敷の尊敬語となり、特に天子・天皇の居処をいい、朝廷を表わす言葉となった。ここは、遠方の朝廷、すなわち太宰府をはじめ、国府その他地方にあって天皇の政事の行なわれるところの意に用いたもの。この歌は筑紫の国に下る時に詠まれたものであるから、「遠(とほ)の朝庭(みかど、朝廷)は太宰府を指すと見てよいだろう。「跡」はト。「蟻通」は「あり通(がよ)ふ」と訓む。145番歌2句に「有我欲比」とあり「ありがよひ」と訓んだが、ここも同じで「あり通(がよ)ふ」。「ありがよふ」は「いつもかよう。いつも往来する。続けてかよう。かよい続ける」の意。「蟻」はアリの借訓字だが、人々の往来の様子を蟻が行き来する様子に見立てた用字であるのかもしれない。なお、この句について、西宮『萬葉集全注』は「従来『あり通(がよ)ふ』と連濁に訓まれ、アリは『常に』の意の接頭語と言われたが、内田賢徳は存在する意の本動詞だと説明する(「『あり』を前項とする複合動詞の構成」万葉昭和五十四年七月)。これにより「在(あ)り通(かよ)う」と訓む」としているが、ここは従来説に従う方が良いと考える。

 結句「嶋門乎見者  神代之所念」「島門を見れば 神代し思ほゆ」と訓む。「嶋門乎見者」は「嶋門(しまと)を見れば」と訓む。「嶋門(しまと)」は「島と島、または、島と陸地との間の狭い水路。」の意。大きなものでは明石海峡・関門海峡があるが、小さなものは数多い。明石海峡が畿内・畿外の分岐点とする意識が強かったことを考えると、この「嶋門(しまと)」は明石海峡と見てよいように思う。「乎」はヲ。「見者」は「見れば」と訓む。「神代之所念」は「神代(かみよ)し念(おも)ほゆ」と訓む。「神代(かみよ)」は、神が統治し、活動していたという、人の世に先立つ時代のことで、記紀の神話では、天地開闢(かいびゃく)から神武天皇以前、草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)までの神々の時代をいう。「之」はシ。「所念」を「おもほゆ」と訓む。ユは自発の助動詞で未然形に付く。本来は「念はゆ」となるところだが、オモハユのハが前の母音に引かれてホに転じた形で「念(おも)ほゆ」となる。

 阿蘇『萬葉集全歌講義』の述べるところが大変参考になると思うので引用しておく。
 304は、明石海峡にさしかかった折の海の神秘的な様子に感動し、ふと日本の島々が生み出されたと伝える神々の時代が思い出されたという歌。人麻呂には記紀系神話を詠みこんだ歌があることが特色のひとつ。川島皇子と共に歴史書編纂を命じられた忍壁皇子との関係から、人麻呂も古事記・日本書紀のもとになった歴史書編纂に関係した可能性が高い。同じ九州への旅の途中詠まれた二首の調べが、303は、「うねるやうな動乱調を以て」、後者は、「荘重な安定調を以て」成るというように、両者が「甚しく異なつた形象を有する」のも、人麻呂の魂が、「如何に対象に対して目を側めず凝滞する事なく感受し創造したかを示す好い例」と、五味智英『古代和歌』は記す。
歴史解説

【巻3(305)。】
 
題詞  高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作歌。「高市連黒人近江舊都歌一首」。左注に「右歌、或る本に小弁(せうべん)の歌とある。未審此小弁者也(いずれが真実か不詳)」とある。32・33番歌と同じ作者が同じように「近江舊都」を詠んだもの。
原文  如是故尓  不見跡云物乎  樂浪乃  舊都乎  令見乍本名
和訳  かく故に 見じと言ふものを 楽浪の 旧き都を 見せつつもとな
現代文  「こういう結果になるから見たくないと云ったのに、誰が荒れた楽浪(ささなみ)の古い都を見せようとしたのだろう。悲しい思いが止まらない」。
文意解説
 発句「如是故尓  不見跡云物乎  樂浪乃」「かく故に 見じと言ふものを 楽浪の」と訓む。「如是故尓」は「如是(かく)故(ゆゑ)に」と訓む。「如是」は既出。「故尓」には、ユヱニとカラニとの二つの訓みがあり、既出例では、ユヱニの例が、21番歌「人嬬(ひとつま)故(ゆゑ)に」、122番歌「人(ひと)の兒(こ)故(ゆゑ)に」、200番歌「君(きみ)故(ゆゑ)に」に、カラニの例が157番歌「如此(かく)のみ故(から)に」に見られた。ここはユヱニと訓む。。「如是(かく)故(ゆゑ)に」は「これだから。こういう結果になるから」と解す。「かく故に見じと言ふものを」は「だから目にしたくないというのに」と云う意味である。3句「楽浪(ささなみ)の旧き都」は琵琶湖南西部に置かれた大津京のことである。

 結句「舊都乎  令見乍本名」「旧き都を 見せつつもとな」と訓む。「舊都乎」は「舊(ふる)き都(みやこ)を」と訓む。この句は「故京乎[故(ふる)き京(みやこ)を]」と表記は違うが同じ。結句の原文は「令見乍本名」である。「見せつつもとな」と読む。「見せつつ」をどう解するべきか。諸家はいずれも「見せられる」と受け取っている。正しくは「見せつつ」である。つまり「自分に見せながら」(見やりつつ)と解するよりほかない。反語的表現で、荒んだかっての都を傷んでいると窺うべきだろう。「もとな」は「心もとない、やたらに。むやみに。無性に」の意。
歴史解説  近江の旧都跡に行くことになり、そこで予想通り悲哀の念にうたれた黒人が、誘った仲間を恨むという形でその悲しみの情を表出したもの。知友縁者が敵味方に分れて戦わねばならなかった悲劇をかねて聞いて、耳をおおわんばかりの痛ましさを常々感じていた。その人々の死んでいった跡を見ることはたえられないと思っていたにもかかわらず、同行の友に誘われて心ならずも来てしまった。予想通りのこの悲しみ、無理に誘った友が恨めしい、という気持である。

【巻3(306)。】
 
題詞  安貴王(あきのおおきみ)の作歌。安貴王は天智天皇の皇子である志貴皇子(しきのみこ)の孫に当たる。春日王の子で、市原王の父である。「幸伊勢國之時安貴王作歌一首」。伊勢の国の行幸の折に、安貴王(あきのおほきみ)が作った歌である。
原文  伊勢海之  奥津白浪  花尓欲得 裹而妹之 家裹為
和訳  伊勢の海の 沖つ白波 花にもが 包みて妹が 家づとにせむ
現代文  「伊勢の海の沖の白波が花であって欲しい。包んで(持ちかえり)妻へのみやげにしよう(と思うので)」。
文意解説  発句「伊勢海之  奥津白浪  花尓欲得」「伊勢の海の 沖つ白波 花にもが」と訓む。「伊勢海之」は「伊勢の海の」と訓む。伊勢国の海をさす。「之」はノ。「奥津白浪」は「奥(おき)[沖]つ白浪(しらなみ)」と訓む。この句は、「奥津白波」と「なみ」の表記が異なるだけで同じ。「おきつしらなみ」は、万葉集に十四例あり、漢字表記と仮名書きがそれぞれ七例ずつだが、漢字表記には全て「奥津白浪 (波)」(津が欠けているのが一例あるが)とあって、「おき」には「奥」が宛てられている。「奥(おき)[沖]つ白浪(しらなみ)」は、沖に立つ白い波。「花尓欲得」は「花(はな)にもが」と訓む。この「花(はな)」は、沖に立つ白い波を見て連想した「白い花」。「尓」は二。「欲得」は、願望を表わす終助詞「もが」にあてた義訓字。終助詞「もが」は、上代には詠嘆の助詞「も」がついた「もがも」、平安時代には詠嘆の助詞「な」を添えた「もがな」として使われることが多かった。「もがも」は既出。「花にもが」は「花であったなら」である。

 結句「裹而妹之 家裹為」「包みて妹が 家づとにせむ」と訓む。「裹而妹之」は「裹(つつ)みて妹(いも)が」と訓む。「裹而」は既出。「裹」は「裹(つつ)み」、「而」はテ。「つつむ」は「ある物を別の物で覆ったり囲んだりする」ことをいい、人に物を与えたり、渡したりする場合は「つつむ」のであった。「妹(いも)」は「男性から結婚の対象となる女性、または、結婚をした相手の女性をさす称。恋人。妻」をいう。ここは作者の妻をさす。「之」はガ。「家裹為」は「家裹(いへづと)に為(せ)む」と訓む。「家へ持ち帰るみやげ」の意。「つと」は「包んだ物」というのが原義であるので、「つつむ」の「裹」の字を用いたもの。「為」は「す」であるが、ここは上に二を補読し下にムを読み添えて「に為(せ)む」と訓む。「家づとにせむ」は「手土産にしよう」である。よほど美しい白波であったに相違ない。
歴史解説  安貴王は、因幡国から貢上された八上采女を愛し不敬の罪に問われたが、采女が生国に退けられたのを悲しむ歌(534・535番歌)を詠んでいる。天平元年(729)無位から従五位下、同十七年従五位上だから、采女の件で位階昇進かなわなかったことが分かる。本歌の題詞にある伊勢行幸は、養老二年(718)二月から三月にかけての美濃国行幸の時かと思われる。同年二月二十四日に「行所經至。美濃。尾張。伊賀。伊勢等國郡司及外散位已上。授位賜祿各有差。」(『続日本紀』)とある記事から、この時の行幸で、尾張・伊勢・伊賀を通ったことが知られる。本歌が養老二年の作であるとすると、安貴王の十九歳頃の作ということになろう。

【巻3(307)。】
 
題詞  博通法師(はくつうほふし)の作歌。「博通法師徃紀伊國見三穂石室作歌三首」(「博通法師(はくつうほふし)が紀伊国の三穂の石室((和歌山県美浜町)を訪れた時作った歌3首」)。307~309番歌が法師の歌。博通法師(はくつうほふし)が紀伊國(きのくに)に行って三穂(みほ)の石室(いはや)を見て作った歌であると分かるが、博通法師は他に見えず伝不詳で、歌もこの三首のみである。「紀伊國(きのくに)」は、「木の国」の「木」が長音的に発音されたものに「紀伊」の字をあてたもので、南海道六か国の一国。現在の和歌山県、および三重県の南部にあたる。紀伊國(きのくに)に行って詠んだ歌としては、285番歌「丹比真人笠麻呂徃紀伊國超勢能山時作歌一首」があった。三穂(みほ)の石室(いはや)は、和歌山県美浜町三尾にある「久米の穴」と呼ばれる大きな岩穴のことかと言われている。
原文  皮為酢寸  久米能若子我 伊座家留 [一云 家牟]  三穂乃石室者 雖見不飽鴨 [一云 安礼尓家留可毛]
和訳  はだ薄(すすき) 久米の若子が座(ま)しける 三穂の石室(いはや)は 見れど飽かぬかも
現代文  「 (はだすすき) 久米の若君が いらっしゃったという 三穂の岩屋は いくら見ても見飽きないよ」。
文意解説  「はだ薄」(はだすすき)を岩波大系本はずっと離れた四句目の「三穂」にかかる枕詞、伊藤本は久米の枕詞としている。人により掛かる言葉の解釈が異なっている。久米の若子(わくご)は久米氏の若様と考えてよく、岩屋に祀られていたに相違ない。枕詞としなくとも、その岩屋の付近にすすきの穂が生えていたと単純にとって少しも不自然ではあるまい。あちこちの離島を訪問した際、誰かが祀られている岩屋に出会うと、土地の人々の心根が感じられて、なかなかそこを離れがたかった経験がある。その心情が「見れど飽かぬかも」に込められている。

 発句「皮為酢寸  久米能若子我 伊座家留 [一云 家牟] 」「はだ薄(すすき) 久米の若子が座(ま)しける」と訓む。「皮為酢寸」は「はだすすき」と訓む。「皮」は、「肌」「膚」と同じくハダで仮名書きでは「波太」であり、「波太須珠寸」(1637)、「波太須酒伎」(3506)の仮名書き例から、ここも「はだすすき」と訓むことに異論はない。一方、45番歌の「旗須為寸[旗すすき]」という語もあって、その異同が問題となった。賀茂真淵『冠辞考』に「又皮の字を書きたるによれば、はたのたを濁りて膚(ハダ)のこころとし、さて穂を皮(ハダ)に含みもて漸に開(サキ)出るなれば、はだすゝきといふらむとも覚ゆ。さる時は右の久米といへるも皮(ハダ)に籠(コモ)る意にてつゞけしものとすべし」と説き、岸本由豆流『萬葉集攷證』に「薄は、穂に出ぬまへは、穂の隠(コモリ)たるものなれば、隠(コメ)といふべきを、くにかよはせて、くめとつゞけたるなり」と述べて、共に「久米」にかかる枕詞と解している。これに対して澤瀉『萬葉集注釋』は、「久米」にかかる枕詞とするのは無理だとして、「三穂」にかかる枕詞であると見るべきだとする。確かに澤瀉が言うように「はだすすき」は「本來は旗の意で、ハタと清音に云はれてゐたのが、ハダと云はれるやうになった」ものだと考えられるので、「穂」にかかる枕詞と解する方が「久米」にかかる枕詞とするより、つづきに無理がないようにも思われるが、やはり二句を隔てての枕詞とする方により無理があるように思う。ここは「久米」にかかる枕詞とする説に従うこととする。「久米能若子我」は「久米(くめ)の若子(わくご)が」と訓む。「久米(くめ)」は姓氏の一つ。「能」はノ。「若子」は旧訓ワカコとあったが『萬葉考』にワクゴと改訓された。3459番歌に「等能乃和久胡(トノノワクゴ)」の仮名書き例がある。「若子(わくご)」は「年少の男子。若い男。若人。また、年少の男子を敬っていう語。若様。若殿。若君」の意。「我」はガ。「伊座家留」[一云 家牟]は「い座(ま)しける」[一云 けむ]と訓む。「伊座」(は、「い座(ま)し」と訓む。「伊」はイ。「います」は、尊敬動詞「ます」に接頭語「い」が付いてできた語で「いらっしゃる。おいでになる」の意。「家留」はケル。異伝の[家牟]はケム。

 結句「三穂乃石室者 雖見不飽鴨 [一云 安礼尓家留可毛]」「三穂の石室(いはや)は 見れど飽かぬかも」と訓む。「三穂乃石室者」は「三穂(みほ)の石室(いはや)は」と訓む。「三穂乃石室」は題詞の「三穂石室」に同じ。「三穂(みほ)」は地名で、現在の和歌山県美浜町三尾。「乃」はノ。「石」を「いは」と訓む例は、今までも多く見てきたが、直近の例では「石船(いはふね)」(292)がある。「室」は普通「むろ」と訓むが、「石室」の場合は「石室(いはや)」と訓む。「いはや」は「岩の間にできた天然のほら穴。また、それを利用した住居。」の意。「者」はハ。「雖見不飽鴨」[一云 安礼尓家留可毛]は「見(み)れど飽(あ)かぬかも」[一云 あれにけるかも]と訓む。「雖見」は「見れど」と訓む。「不飽」は「飽(あ)かぬ」と訓む。「鴨」はカモ。異伝の[安礼尓家留可毛]は「あれにけるかも」と訓む。「安礼」はアレで「荒れ」を表す。「尓」はニ。「家留」はケル。「可毛」はカモ。
歴史解説

【巻3(308)。】
 
題詞  博通法師(はくつうほふし)の作歌。「博通法師徃紀伊國見三穂石室作歌三首」の二首目。
原文  常磐成  石室者 今毛安里家礼騰  住家類人曽  常無里家留
和訳  常磐なす 石室は 今もありけれど 住みける人ぞ 常なかりける
現代文  「永遠に変わらずに岩屋は今もあるけれど、ここに住んだという人は今はこの世にいないよなぁ。(しみじみと無常を感じるよ)」。
文意解説  発句「常磐成  石室者 今毛安里家礼騰」「常磐なす 石室は 今もありけれど」と訓む。「常磐成」は「常磐(ときは)なす」と訓む。「常磐」は、「とこいは」が約まった「ときは」と訓み、「常に変わらない岩。転じて、永久に続くこと。また、そのさま」をいう。「成」はナス。「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」の意を表す。既出例に「衣尓著成(きぬにつくなす)」(19)、「玉藻成(たまもなす)」(131)、「鏡成(かがみなす)」(196)、「鶉成(うづらなす)」(239)などがある。「常磐(ときわ)なす」は「永年変わらず(今も昔も)」の意である。「石室者今毛」は「石室(いはや)は今も」と訓む。「石室(いはや)」は既出で、「岩の間にできた天然のほら穴。また、それを利用した住居」の意。「者」はハ。「今(いま)」は、「過去と未来との境になる時。現在」をいう。「毛」はモ。「ありけれど」までは「石室(いわや)は今も昔に変わらず存在しつづけているが」の意で諸家一致している。

 結句「住家類人曽  常無里家留」「住みける人ぞ 常なかりける」と訓む。「住家類人曽」は「住みける人(ひと)そ」と訓む。「住みける人ぞ」を諸家揃って「祀られている久米の若子」を指すとしているが誤解であろう。久米の若子は祀られているのであって祭神である。その祭神が「住みける人ぞ」と歌われていると解するよりも、若子を祀った人々ないし岩屋を参拝する人々、つまり作者自身をも含む人々を指していると解するべきだろう。「曽」は強い指示を表す係助詞「そ」。「常無里家留」は「常(つね)無(な)かりける」と訓む。「常(つね)」は「常住。いつまでも変わらずあること」をいう。「無里」は、「なくあり」が約まった「無(な)かり」を表す。「里」はり。「家留」はケル。「常なかりける」は「無常」と解してよい。従って、不変の岩屋に対し作者自らの無常の思いをも込めた歌と窺うべきだろう。
歴史解説

【巻3(309)。】
 
題詞  博通法師(はくつうほふし)の作歌。「博通法師徃紀伊國見三穂石室作歌三首」の三首目で博通法師の最後の歌である。
原文  石室戸尓 立在松樹 汝乎見者 昔人乎 相見如之
和訳  石室戸(いはやと)に 立てる松の木 汝(な)を見れば 昔の人を 相見(あひみ)るごとし
現代文  「岩屋の入口に 立っている松の木よ お前を見ると 昔の人を(久米の若子) ほんとうに見ているようだ」。 
文意解説  松の木を久米の若子に見立てて在りし日を偲んでいる。

 発句「石室戸尓  立在松樹  汝乎見者」石室戸(いはやと)に 立てる松の木 汝(な)を見ればと訓む。「石室戸尓」は「石室戸(いはやと)に」と訓む。「石室戸」は、イハヤドと連濁で訓むものもあるが、「石室(いはや)の戸(出入り口)」の意で清音に訓んでおく。「石室(いはや)」は勿論、題詞にある「三穂石室」をいう。「尓」はニ。「立在松樹」は「立てる松の樹(き)」と訓む。「立在」は「立有」と同じく、「立てる」と訓む。ここではルの表記に「在」の字を宛てたもの。「松樹」は「松の樹(き)」と訓む。松は、日本では神の依る木として門松などにされ、古くから長寿や慶賀を表わすものとして尊ばれているが、万葉集でも松を詠んだ歌は八十首ほどある。「汝乎見者」は「汝(な)を見れば」と訓む。「汝(な)」は、奈良時代には、もっとも一般的な対称代名詞(二人称)として用いられ、特に歌ではもっぱらこの語を使用するが、敬意は高くなく対等もしくはそれ以下の相手に対して用い、動物や植物などに呼びかける時にも用いる。ここも「松(まつ)の樹(き)」に対して用いたもの。「乎」はヲ。「見者」は「見れば」と訓む。

 結句「人乎 相見如之」昔の人を 相見(あひみ)るごとしと訓む。「昔人乎」は「昔の人を」と訓む。「昔人」は既出。「むかし」は「向(むか)し」で現在に向って過ぎ去った時の意で、現在につながる過去の一時期、一時点をいう言葉。ここの「昔の人」は、307番歌の「久米(くめ)の若子(わくご)」であり、308番歌の「住(す)みける人」を指すことは言うまでもないだろう。「乎」はヲ。「相見如之」は「相見(あひみ)る如し」と訓む。「相見」は、「相見(あひみ)る」と訓む。接頭語「相(あひ)」は動詞の上に付く接頭語で「共に、互いに」が本来の意であるが、下の動詞を強める「心から、きっと、ほんとうに」などの意にも用いられ、ここは後者の意。「如之」は「如し」。この特殊な助動詞「ごとし」について、『古典基礎語辞典』の解説を参考までに引用しておこう。
 語源的には同一を意味するコトの語頭が濁音化したゴトに形容詞語尾シが付いたもの。語源から明らかなように、もともとは、ある事・物・状態などが、他と比較して同一であることをいう語。それが発展すると、比況や例示の意を表す。なお、比況は「山のごとき荷物」のように、「山」と「荷物」という、二つの違う種類のものを比べていい、例示は「富士のごとき山」のように、「山」の一つとして「富士」を挙げていうものである。『万葉集』では大半が比況の意にとれ、平安時代の女流文学では、ほとんど使われていない。しかも、ゴトシは主として漢文訓読語であったらしく、平安末期に成立した『今昔物語集』には盛んに使用されている。これは、この物語が仏教を説いた漢文を下敷きにして書かれた結果である。その後、中世に入ると、総じてよく使われるようになるが、慣用句的用法が多い。なお、平安時代以降、連用形ゴトクに、格助詞ニ、そしてラ変動詞のアリが付いたゴトクニアリが約(つづ)まったゴトクナリの形でも使われた(「磯の波は雪のごとくに、貝の色は蘇芳に」〈土佐二月一日〉。

 ゴトシはふつう助動詞の一種とみられており、本書でもそれに従ったが、…ノゴトキ、…ガゴトキと格助詞ノ・ガを受けることは本来の助動詞にはありえない。またゴトシの活用はク、シ、キなので、本来は形容詞の一つであったと考えられる。それは「…と同一だ」という意味であったから、上に何かを補わないと意味が成立しえないことが多かった。そこでゴトシは、あたかも付属語のように見られ、そのうち…ノゴトク、…ガゴトク、…ノゴトシ、…ガゴトシという連用形、終止形が成立するに至って一種の助動詞化が進行したものと思われる。
歴史解説

【巻3(310)。】
 
題詞  門部王(かどへのおおきみ)の作歌。この王の系統不詳とされる。「門部王詠東市之樹作歌一首 [後賜姓大原真人氏也]」とあり、口訳すると、「門部王が東の市の樹を詠んで作った歌一首 [後に姓大原真人の氏を賜った]」ということになる。門部王(かどへのおほきみ)は同時代に同名の二人がいたが、ここの門部王は、注に「後に大原真人を賜った」とあることから、長皇子(天武天皇の皇子)の孫で、河内王の子である門部王と分かる。和銅三年(710)正月、無位から従五位下。天平十一年(739)四月、弟の高安王と共に大原真人を賜り、臣籍に下る。伊勢守・出雲守等を歴任し、天平十七年(745)四月二十三日、大蔵卿従四位上で卒。風流侍従と称された者の一人。門部王の歌は、本歌の他、326・371・536・1013番歌がある。
原文  東  市之殖木乃  木足左右  不相久美  宇倍<戀>尓家利
和訳  東(ひむかし)の 市(いち)の植木の 木足(こだ)るまで 逢はず久しみ うべ恋ひにけり
現代文  「東の 市の並木の 木がこんもり茂るまで 逢わないまま久しい時が過ぎたので 恋しくなるのも無理はないなあ」。
文意解説  東(ひむがし)の市(いち)とは平城京の東側にあった市。岩波大系本も伊藤本も第三句の「木足左右」(こだるまで)を「木垂るまで」としている。中西本は「木足るまで」としている。「市の植木の」とある通り植えられた木々が幾年もかかって生長した姿を「木足」としていると思われる。幾年も(長らく)の比喩表現。「うべ恋ひにけり」は「恋しく思うのは当然でしょう」。

 発句「東 市之殖木乃 木足左右」「東(ひむかし)の 市(いち)の植木の 木足(こだ)るまで」と訓む。「東」は「東(ひむかし)の」と訓む。ノを補読して「東(ひむかし)の」と訓む。「ひむかし」は方角の名で日の出る方向をいう。「ひむかし」→「ひんがし」→「ひがし」と変化して現在に至っている。「市之殖木乃」は「市(いち)の殖木(うゑき)の」と訓む。「市(いち)」は、人が多く集まる所をいい、原始社会や古代社会では、高所や大木の生えている神聖な場所を選び、物品交換、会合、歌垣などを行なっていたが、特に物品の交換や売買を行なう所をいうようになった。「市(いち)」には、日を定めて定期的に開かれるものと、毎日定時的に開かれるものとがあった。「東(ひむかし)の市(いち)」は、平城京の東西におかれた市のひとつで、左京八条二坊にあった。現在の奈良市東九条町・杏(からもも)町のあたりと思われる。「之」はノ。「殖木」は「植木」に同じ。澤瀉『萬葉集注釋』に「『殖』の字今は『繁殖』などと主として「ふやす」意に用ゐられ、『うゑる』は専ら『植』の字を用ゐて『殖』は用ゐない。しかし『殖』は玉篇その他に『種也』とあつて『うゑる』の義に用ゐらるべき文字であり、萬葉では『殖』が用ゐられてをり、流布本によると『植』となってゐるものも古冩本には『殖』とあり、『植』とあるのは後に改めたものと考へられる。」という。なお、ここにいう「殖木(うゑき)」は杏(からもも)町という名が今に残っているように杏であったのではないかと思われる。阿蘇『萬葉集全歌講義』に「当時は、往来の人に夏は緑陰を作り、果実で喉の渇きをいやすために果樹を街路樹として植えることが奨励された。橘、杏など。杏は、からもも。アンズのこととも、中国渡来の桃の意か、ともいう」とある。「乃」はノ。「木足左右」は「木足(こだ)るまで」と訓む。「木足」は「木足(こだ)る」と訓む。「枝葉が充足している(繁茂している)」ことをいう。一説に「木垂る」として「枝が垂れ下がる」意と解するものもある。「左右」はマデと訓む。「左右」は、両手(左右手)を「真手(まて)」といったところからの戯書。

 結句「不相久美  宇倍<戀>尓家利」「逢はず久しみ うべ恋ひにけり」と訓む。「不相久美」は「相(あ)[逢]はず久(ひさ)しみ」と訓む。「不相」は、「相(あ)[逢]はず」と訓む。「久」は「久(ひさ)し」。長い時間が経過するさまを表す語で、「時が長くたっている。また、行く末長い。永遠である」の意。「美」はミ。「相(あ)[逢]はず久(ひさ)しみ」は「逢わないまま久しい時が過ぎたので」という意となる。「宇倍戀尓家利」は「うべ戀(こ)ひにけり」と訓む。「宇倍」はウべ。平安以降には普通「むべ」と表記される語で、あとに述べる事柄を当然だと肯定したり、満足して得心したりする意を表わす。「なるほど。まことに。もっともなことに。本当に」の意。「戀」は「戀(こ)ひ」。「尓」はニ。「家利」はケリ。
歴史解説

【巻3(311)。】
 
題詞  按作村主益人(くらのつくりのすぐりますひと)の作歌。「桉作村主益人従豊前國上京時作歌一首(按作村主益人(くらのつくりのすぐりますひと)が豊國から上京してきたときの歌)」。「桉」は革製の鞍に対して、わが国では木製の鞍を用いた為に、鞍を桉と書いたもので、「杯」を「坏」(338)と書くのと同類である。「村主」は、和名抄の注に「須久利」とあるので「すくり」と訓み、天武朝の八色(やくさ)の姓(かばね)以前から存した古代の姓の一つで、多く、韓、漢からの渡来人の小豪族に与えられた。豊國(とよくに)は西海道11ヶか国の一つ。古くは豊国(とよのくに)と呼ばれたが、文武天皇のころ、豊前・豊後の二つに分かれて、それぞれ一国となる。現在の福岡県から大分県にまたがる一帯の国。当時の徒歩上京では数週間もかかる遠隔の地である。
原文  梓弓  引豊國之  鏡山  不見久有者  戀敷牟鴨
和訳  梓弓 引き豊国の 鏡山 見ず久ならば 恋(こほ)しけむかも
現代文  「梓弓を引き響もすという豊国の鏡山を見ないで久しくなったらば、さぞかし恋しく思うことだろうな」。
文意解説  発句「梓弓  引豊國之  鏡山 」「梓弓 引き豊国の 鏡山」と訓む。「梓弓」は「梓弓(あづさゆみ)」と訓む。「梓(あづさ)」はカバノキ科の落葉高木で材は非常に固い。「梓弓(あづさゆみ)」は、この木で作った丸木の弓。上代、狩猟、神事などに用いられた。「引豊國之」は「引き豊國の」と訓む。「引」は「引き」と訓む。「梓弓(あづさゆみ)引き」までが、梓弓を引き放ってその弦の音を響かせる(「引き響(とよ)もす」という)意で、豊国のトヨを導く序詞。「豊國」は、九州地方北東部の古称で、豊前・豊後に分かれる以前の呼称。「之」はノ。「鏡山」は「鏡山(かがみやま)」と訓む。「鏡山(かがみやま)」は、現在もその名が地名として残っており、福岡県田川郡香春町(かわらまち)鏡山がそれである。太宰府から北九州に出る官道田川道に沿ったところに位置する。

 結句「不見久有者  戀敷牟鴨」
「見ず久ならば 恋(こほ)しけむかも」と訓む。「不見久有者」は「見ず久(ひさ)ならば」と訓む。「不見」は「見ず」と訓む。「久有者」は「久(ひさ)ならば」と訓む。3934番歌に「美受比佐奈良婆(ミズヒサナラバ)」の仮名書き例がある。「見ないで久しくなったらば」の意。「戀敷牟鴨」は「戀(こほ)しけむかも」と訓む。「戀敷」は「戀(こほ)しけ」と訓む。「こほし」は、上代語で後の「こひし」にあたり、その未然形は已然形と同形の「こほしけ」であった。「敷」はシケ。「牟」はム。「鴨」は詠嘆のカモ。任地で見慣れ親しんだ鏡山への惜別の思いを詠んで、人々との別れを惜しむ気持をも表したもの。離任の時の送別の席での挨拶の歌であろう。
歴史解説  

【巻3(312)。】
 
題詞  式部卿藤原宇合卿(うまかひのまえつきみ)の作歌。「式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首」(「式部卿藤原宇合卿(うまかひのまえつきみ)難波宮を改造せられた時の歌」)。難波宮は現在の大阪市中央区内。宮は大化の改新時に遡る前期難波宮と平城京の副都として作られた後期難波宮の二つが知られている。題詞に藤原宇合卿の名が見えるので後期難波宮のことと分かる。前期難波宮が廃れて田舎と言われた難波も宮が完成し、今では都らしくなってきたと喜んでいる歌であろう。 式部卿は、式部省の長官で、文官の人事・養成・大学の管理などを担当する正四位下相当の官職である。作者の藤原宇合は、藤原不比等の第三子で、式家の祖。72番歌の作者として既出だが、ここでその略歴に付いて、阿蘇『萬葉集全歌講義』の記すところにより詳しく見ておこう。
 霊亀二年(716)八月、遣唐副使に任命され、同月、正六位下から従五位下を特授され、養老元年(717)入唐、翌二年十二月に帰京した。養老三年正月、正五位下に昇叙。同年七月には、常陸守正五位上で安房・上総・下総国を管轄する按察使となる。同五年正月、長屋王の右大臣就任に伴い一挙に正四位上に昇叙。神亀元年(724)四月、蝦夷が反乱して陸奥国大掾が殺害されると、式部卿持節大将軍として蝦夷征討にあたった。翌二年閏正月に、征夷の功により従三位、同三年十月に式部卿従三位で知造難波宮事となる。天平三年八月に参議。同四年八月、西海道節度使に任ぜられる。同六年正月、正三位に進んだが、九年八月五日、病により薨。時に、参議式部卿兼大宰師正三位。四十四歳。歌は六首。巻一・七二。巻三・三一二(本歌)。巻八・一五三五。巻九・一七二九~三一。懐風藻に、五言詩四首、七言詩二首。経国集に賦一首。

 右の引用中に「知造難波宮事」とあるのは、後期難波宮造営の事をつかさどる官職をいう。本歌は、難波宮造営の任務を無事果たした折に詠まれた歌であり、作者の満足感が軽妙な言葉使いから伝わってくるようである。なお、後期難波宮は、天平十六年(744)二月から十七年二月まで皇都であった時期を除いて、延暦十二年(793)まで、平城京の副都として使用された。題詞に「難波堵」とある「堵」の字は、「かきね。かき。かこい。」の意であるが、これを都の意に用いたのは、32番歌の題詞に「旧都」を「舊堵」と記したのと同じ用字。
原文  昔者社  難波居中跡  所言奚米  今者京引  都備仁鷄里
和訳  昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は都引き 都びにけり
現代文  「昔こそ 難波田舎と 言われもしたであろうが 今、都を引き移して 実に都らしくなったものだなあ」。 
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その485)」その他参照。

 発句「昔者社  難波居中跡  所言奚米」「昔こそ 難波田舎と 言はれけめ」と訓む。「昔者社」は「昔者(むかし)こそ」と訓む。「昔者」の「者」は漢文の助字で、『名義抄』にも「昔者 ムカシ」とあり、二字で以て「むかし」と訓む。「社」はコソ。ここの「こそ」は3句まで係り、1句~3句で逆接の条件句を作る働きをしている。「難波居中跡」は「難波(なには)ゐなか[田舎]と」と訓む。「難波居中」は、「難波(なには)ゐなか[田舎]」で、一つの熟合語として使われ、「難波という田舎」の意。平城京のみやびな環境を喜ぶ都人が、難波を田舎と軽蔑して言った言葉。「跡」はト。「所言奚米」は「言(い)はれけめ」と訓む。「所言」は「言(い)はれ」と訓む。「奚米」はケメ。過去推量の助動詞。コソの係結び。
 
 結句「今者京引  都備仁鷄里」「今は都引き 都びにけり」と訓む。「今者京引」は「今者(いま)京(みやこ)引(ひ)き」と訓む。この句については、西宮『萬葉集全注』が「今日、イマミヤコヒキかイマハミヤコヒキかのいずれかの訓となっている。」と言うように「今者」の訓み方に関して二説がある。西宮は「『昔こそ』とあるので『今は』と言った方が落ち着くであろうし、またミヤとあるからいわゆる字余りの法則(佐竹昭広「万葉集短歌字余考」文学昭和二十一年五月)に反しない。」としてイマハ説を採る。一方、澤瀉『萬葉集注釋』は「『今者』は通例としてはイマハと訓むべきであり、上の『こそ』に對しても『は』があつた方がよいやうにも考へられるが、ここは上の『昔者』の用字と對應してこれも漢文的に用ゐたので、代匠記に既に注意してゐるやうに、二字でイマと訓むべきである」としてイマ説を主張している。「昔者」と同様「今者」も漢語であり、作者がこれを対応して用いている事は明らかだと思われるし、名義抄にも「今者 イマ」とあるから、何も字余りに訓む必要はないと思うのでイマ説を採ることとする。「京引」は、「京(みやこ)引き」と訓み、「都を引き移して」の意で、平城京をまねて、建物の移改築なども行なって、副都としての形を整えるという難波宮造営のことを言ったものと考えられる。「京」を「みやこ」と訓む。「引」は「引き」。「都備仁鷄里」は「都(みやこ)びにけり」と訓む。「都備」は「都(みやこ)び」と訓む。「備」はビ。「みやこぶ」という動詞は名詞「みやこ」にブが付いてできた語。ブは、現代語で「大人びる」という「びる」にあたり、「それらしくなる」の意。「仁」はニ。「鷄里」はケリ。
歴史解説

【巻3(313)。】
 
題詞  土理宣令(とりのせんりゃう)の作歌。「土理宣令歌一首」。土理宣令は渡来系の文人で、土理は刀利・刀里とも書かれる。本歌の他に1470番歌があり、『懐風藻』に五言詩二首がある。また、『経国集』に、和銅四年(711)三月五日付の対策文(官吏採用試験の問題に対する漢文で作成した答案)二篇を残している。
原文  見吉野之  瀧乃白浪  雖不知  語之告者  古所念
和訳  み吉野の 滝の白波 知らねども 語りし継げば いにしへ思ほゆ
現代文  「み吉野の 激流の白波よ(そのシラという言葉のように) 知らないことではあるけれど 語り継いできているので いにしえの事が偲ばれる」。
文意解説  柿本人麻呂は36番長歌の末尾に「水激る瀧の都は見れど飽かぬかも」と詠っている。吉野は渓谷美にあふれていて、水ほとばしる滝の都として有名だったことがうかがわれる。「その白波はまだ見たことがないので知らないけれど」が上三句の歌意。「語り継がれているので旧都がしのばれる」が下二句の意味。

 発句「見吉野之  瀧乃白浪  雖不知」「み吉野の 滝の白波 知らねども」と訓む。「見吉野之」は「み吉野(よしの)の」と訓む。「見」はミ。地名に美称のミを冠するのは、古代では「吉野、熊野、越」に限られ、いずれも、格別の異境と意識され、霊威の地と見なされていた。なかでも「吉野」は、古くから大和朝廷の聖地とされた。「之」はノ。「瀧乃白浪」は「瀧(たき)の白浪(しらなみ)」と訓む。「瀧」は「滝」の旧字。万葉時代の瀧(たき)は、現在我々がイメージするものとは違い、「急流。激流。早瀬」の意である。我々がイメージする懸崖から激しく流れ落ちる「滝」は、当時「たるみ」と言った。「乃」はノ。「白浪(しらなみ)」は「白い波、白くくだける波」の意で、ここでは吉野川の激流にくだける白い波をいう。実景を詠みつつも、「白浪」のシラという音と同音の「知(し)ら」を導くという技法で、次句の「知らねども」を起こす序詞となっている。「雖不知」は「知らねども」と訓む。ここでは何を知らないのかは述べられていないが、結句によって、それは語り伝えられた「昔の事」であり、それを自分は直接見聞したことはないけれども、と言ったのだと分かる。

 結句「語之告者  古所念」は「語りし継げば いにしへ思ほゆ」と訓む。「語之告者」は「語りしつ[継]げば」と訓む。「語」は「語(かた)り」。「かたる」は「物事を順序だてて話して聞かせる。あるいは、物事をことばで述べて相手に伝える」ことをいう。ここの「之」はシ。「告」は「継」の借字。「告(つ)げ」は下二段活用の未然形、「継(つ)げ」は四段活用の已然形であるが、音が同じツゲ(ゲは共に乙類)であるために借用したものである。「者」はバ。ここも何を語り継ぐのかは述べていないが、次に「古(いにしへ)」とあるので、それは「昔の事」だと分かる。具体的内容については、阿蘇『萬葉集全歌講義』が「天智十年十月の大海人皇子の吉野入り、天武八年五月の六皇子の盟、持統天皇の度々の吉野行幸などを指しているのであろう」と述べている。「古所念」は「古(いにしへ)念(おも)ほゆ」と訓む。「古」は、一字で「いにしへ」と訓む。「いにしへ」は「往(い)にし方(へ)」の意で、現在と遮断された遠く久しい過去を漠然という言葉。「所念」を「念(おも)ほゆ」と訓む。「ユは自発の助動詞で、未然形に付くから、本来は「念はゆ」となるところだが、オモハユのハが前の母音に引かれてホに転じた形で「念ほゆ」となる。

 参考までに、阿蘇「萬葉集全歌講義」の【歌意】を記しておく。
 吉野を訪れ、目の当たりにした風光のすばらしさに感動しつつ、この地を愛し訪ねた古人に思いをはせている。くわしいことは知らないが、しばしば行幸があった事実は伝え聞いている、まことに尤もだと、共感もし吉野の歴史に関して興味もそそられているのであろう。
歴史解説

【巻3(314)。】
 
題詞  波多朝臣小足(はたのあそみをたり)の作歌。「波多朝臣小足歌一首」。「小」は「少」とも表記されている。「小足」については伝不詳。
原文  小浪  礒越道有  能登湍河  音之清左  多藝通瀬毎尓
和訳  さざれ波 礒(いそ)越道(こしぢ)なる 能登瀬(のとせ)川 音のさやけさ たぎつ瀬毎(ごと)に
現代文  「磯を越し越の国へ行く道筋の能登瀬川(のとせがわ)はどの瀬も激しく流れているが、そのさざれ波の瀬音のすがすがしいことよ」。
文意解説  発句「小浪  礒越道有  能登湍河」「さざれ波 礒(いそ)越道(こしぢ)なる 能登瀬(のとせ)川」と訓む。「小浪」は「小浪(さざれなみ)」と訓む。「さざれ波」は「さざ波(細波)、小さな浪(波)」の意。さざ波が礒(水際)に押し寄せる光景である。越道(こしじ)を導く序歌と解されている。「礒越道有」は「礒(いそ)越道(こしぢ)なる」と訓む。「礒」は、「石や巌」の意で、水辺に臨んだ岩石の多い陸地をいう。「越す」と「越の国」の「越」とを掛けたもの。「越」は、北陸地方の古称で、のちに、越前・越中(さらにのちに、ここから能登が分離)・越後に分かれた。現在の福井・石川・富山・新潟の諸県にあたる。越道は越国(富山、石川、新潟の日本海側一帯を中核とする南北に長い勢力圏)を貫く道のことである。能登瀬川は能登半島を流れる渓谷のことを言っていると思われる。「有」は、指定・断定の助動詞「なり」に宛てたもので、ここは連体形の「なる」と訓む。「能登湍河」は「能登湍(のとせ)[瀬]河(がは、川)」と訓む。「能登」はノト。「湍」はセで、「能登湍(のとせ)」で川の名を表す。「能登湍河」を現代の表記にすると「能登瀬川」となろう。「湍」は「瀬」に同じだが特に「早瀬」を意味する。「能登瀬川」という名の川はないが、湖東の滋賀県米原市能登瀬を流れる天野川のことではないかとされている。当時北陸に行くのには湖西の道を通るのが一般的であったが、湖東を通ることもあったようである。

 結句「音之清左  多藝通瀬毎尓」「音のさやけさ たぎつ瀬毎(ごと)に」と訓む。「音之清左」は「音の清(さや)けさ」と訓む。「之」はノ。清左」は「清(さや)けさ」と訓む。「清」の字を「さやけ」と訓む。「さやけし」は「音、声などがはっきりとしてさわやかである。快い響きである。耳に快く感じられる」ことをいう。「多藝通瀬毎尓」は「たぎつ瀬毎(ごと)に」と訓む。「たぎつ瀬ごとに」とあるので滝の多い渓谷であろう。「たぎつ」は「水がわきあがる。水があふれるように激しく流れる」の意で、「多藝津」の表記で既出。「瀬(せ)」は「歩いて渡れる程度の浅い流れ。あさせ。また、急流。はやせ。広くは、川の流れや潮流」をいう。「毎尓」は「毎(ごと)に」と訓む。「ごとに」は、その物、またはその動作をするたびに、そのいずれもが、の意を表わし、「…はみな。どの…も。…するたびに」などに置き換えられる。この句は、激しく流れる瀬ごとに、その音のーと4句へとかえる倒置句である。
歴史解説

【巻3(315)。】
 
題詞  中納言大伴卿(おおとものまえつきみ、大伴旅人の父又は大伴旅人)の作歌。「暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首 [并短歌] [未逕奏上歌](暮春(ぼしゅん)の月、(聖武天皇が)吉野の離宮に幸(いでま)す時(行幸された時)、中納言大伴卿(おおとものまえつきみ、大伴旅人の父)が勅を奉って(お言葉をいただいて)作った歌。[并(あは)せて短歌]、[未(いま)だ奏上を逕(へ)ぬ歌])」。「暮春(ぼしゅん)の月」は陰暦三月の異称。猛春(初春)ー 正月、仲春 ー 二月、季春 ー 三月の季春に同じ。神亀元年(724)の聖武天皇の吉野行幸(三月一日から五日まで)の折のことと考えられる。この年の二月四日に聖武が即位し改元が行なわれたが、その直後の吉野行幸ということになる。「離宮」は「とつみや(外つ宮)」と訓み、「皇居以外に設けられた、皇室の宮殿」をいう。 [未(いま)だ奏上を逕(へ)ぬ歌]という注が具体的にどういうことを意味するかについては諸説あるが、文字通りの意味は「まだ奏上を経ていない歌」ということであり、「勅(みことのり)を奉(うけたま)はりて作」ったが、何らかの理由で上聞に達しなかったということであろうが、その理由は不明というより他はない。

 本歌の作者である中納言大伴卿(おほとものまへつきみ)というのは大伴旅人(たびと)のこと。旅人は、101・299番歌の作者の大伴安麻呂の長男であり、大伴家持の父である。旅人が中納言になったのは養老二年(718)三月、54歳の時であるが、本歌を聖武天皇吉野行幸時のものであるとすると、中納言である旅人、60歳の時の作ということになる。その後の旅人について、西宮『萬葉集全注』に「神亀五年(728)頃大宰帥(だざいのそち)、任地で妻大伴郎女(おおとものいらつめ)を失い、自らも脚瘡のため死に瀕したこともあり、酒を讃えた特異な歌を作り、漢詩文に学んだ教養人的文人として、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成した。天平二年(730)大納言となり帰京、同三年七月、従二位で没した。67歳。懐風藻にも詩一首を残す。」とある。『万葉集』には旅人の歌は71首((72首とも、76首とも)あるが、長歌は本歌一首のみであり、それも11句からなる短い長歌である。なお、題詞にある [未(いま)だ奏上を逕(へ)ぬ歌]という注が具体的にどういうことを意味するかについては諸説あるが、文字通りの意味は「まだ奏上を経ていない歌」ということであり、「勅(みことのり)を奉(うけたま)はりて作」ったが、何らかの理由で上聞に達しなかったということであろうが、その理由は不明というより他はない。
原文  見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師  <水>可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之<宮>
和訳  み吉野の 吉野の宮は 山柄らし 貴かるらし 川柄し 清(さや)けかるらし 天地と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 行幸(いでまし)の宮 
現代文  「み吉野の吉野の宮は山本来の貴さ故に貴いと聞かせていただいております。川も清くすがすがしいと聞かせていただいております。天地とともに万代までも長く久しく変わらずにあるでせう。その行幸の地吉野の離宮(に参らせていただきませう)」。 
文意解説  長歌。「『万葉集』を訓(よ)む(その488)」その他を参照。
 発句「見吉野之 芳野乃宮者」「み吉野(よしの)の 芳野(よしの)の宮(みや)は」と訓む。「見」はミ。地名に美称のミを冠するのは、古代では「吉野、熊野、越」に限られ、いずれも、格別の異境と意識され、霊威の地と見なされていた。なかでも「吉野」は、古くから大和朝廷の聖地とされた。「之」はノ。「芳野」は題詞に既出。「乃」はノ。「宮(みや)」は、題詞にあった離宮(とつみや)のこと。「者」はハ。澤瀉『萬葉集注釋』はこの1句・2句について、「ここは上は土地の名としてあげ、下は宮の名として云つた、とも見られるが、同語をくりかへした枕詞風な云ひ方で、古今集以後になると『みよし野のよし野の山に』とか『みよし野のよし野の瀧に』とかよく用ゐられてゐるが、集中ではここに一つあるだけである。かうした修辭にも作者の特色が示され、家持を經て王朝の歌風につゞくものが認められる」と述べている。

 2句「山可良志 貴有師」「山(やま)から[柄]し 貴(たふと)く有(あ)らし」と訓む。「山」は吉野山のことで、吉野川のほとりから大峰山に向けて高まる標高300~700メートルの尾根をいう。「可良」はカラ。「柄」を表す。「その物に本来備わっている性質、性格。本性。また、そのものの由来するところ」の意で、「國柄(くにから)」、「神柄(かむから)」として既出。「志」はシ。「貴」は、「貴(たふと)く」。「有師」は「有(あ)るらし」が約まって「有(あ)らし」と訓む。「師」はシ。

 3句「水可良思 清有師」「水(かは)[川]から[柄]し 清(さや)けく有(あ)らし」と訓む。「水」を「かは」と訓むのは、224番歌3句「石水之」を「石水(いしかは)[川]の」と訓んだ例があった。「可良」は3句に同じで、「その物に本来備わっている性質、性格。本性。また、そのものの由来するところ。」を意味する語素の「から[柄]」を表す。「思」はシ。「清」は、「清(さや)けく」と訓む。「さやけし」は「音、声などがはっきりとしてさわやかである。快い響きである。耳に快く感じられる」ことをいう。「有師」は「有(あ)るらし」の約まった「有(あ)らし」と訓む。対句になっている。

 4句「天地与 長久」「天地(あめつち)と 長(なが)く久(ひさ)しく」と訓む。「与」はトに用いたもので「~とともに」の意。「長」は「ながし」の「長(なが)く」、「久」が「ひさし」の連用形「久(ひさ)しく」。「天地(あめつち)と長(なが)く久しく」は、続日本紀の宣命、元明天皇の慶雲四年(707)七月十七日の「与天地共長与日月共遠不改常典」(「天地と共に長く、日月と共に遠く、改(かは)るましじき常の典(のり)」)とも共通する辞句で漢籍に由来する表現である。その一例として、新編日本古典文学全集は、梁の王僧孺の「礼物唱道発願文」に「与天地而長久」とあるのを挙げている。

 結句「萬代尓 不改将有 行幸之宮」「萬代(よろづよ)に 改(かは、変)らず有(あ)らむ 行幸(いでまし)の宮」と訓む。「萬世」とも書き、「限りなく長く続く代(世)」の意で、御代が永久に続くことを祝っていう語。「尓」は二。「不改」は「改(かは)らず」と訓む。「将有」は「有(あ)らむ」と訓む。「萬代尓不改」は、続日本紀の宣命、聖武天皇の神亀元年(724)二月四日の「万世尓不改常典」(「万世(よろづよ)に改(かは)るましじき常の典(のり)」)によるものかと思える。「行幸」は既出。もともと「幸」一字で「行幸」の意味を表わした。中国の漢時代の書物「独断」に「世俗、幸を謂ひて僥倖と爲す。車駕の至る、民臣其の澤を被り、以て僥倖となす。故に幸と曰ふなり」とある。「車駕」は天子が乗る車のことである。「民臣其の澤を被り」とあるのは、「天子がお出ましになった地方の人々は、食帛を賜い、爵祿を与えられ、田租を免じられた」ことなどを指している。「車駕の至る」=「天子のお出まし」→「僥倖を得る」=「幸」「行幸」ということである。「行幸」の訓みとしては「いでまし」「みゆき」がある。「いでまし」は動詞「出座(いでます)」の連用形の名詞化。「みゆき」は行くことを敬っていう語でミは接頭語、「御行」「御幸」とも書く。ここは「いでまし」。「之」はノ。「宮(みや)」は、題詞の離宮(とつみや)のことで「芳野(よしの)の宮(みや)」に同じ。
 

 阿蘇『萬葉集全歌講義』は、この歌について「簡潔で無駄のない表現、儀礼的な歌ながらも。のびやかな風があり、旅人の特質にかなっている。」と評した後に、清水克彦氏の論を紹介している。
 清水克彦氏は、この歌における「山」と「水」の字は、仁者の楽しむ山、知者の楽しむ水の意をあらわすとし、旅人の吉野の山や川に関する叙述が人麻呂をはじめとする他の歌人に比して著しく簡単であるのは、吉野の山川に対する讃美の感情そのものが充分に表現されていないというのではなくて、出典をふまえることによってその感情をあらわすという新たな方法がとられた為にその結果として叙述が簡略化したものと考えるべきではないだろうか、という。(『万葉論集』)。

 なお、出典の所に*が付けられており、先に触れた『続日本紀』の元明天皇即位宣命と聖武天皇の即位宣命の関係部分を後の*に注記されている
歴史解説  旅人は、101・299番歌の作者の大伴安麻呂の長男であり、大伴家持の父である。旅人が中納言になったのは養老二年(718)三月、54歳の時であるが、本歌を聖武天皇吉野行幸時のものであるとすると、中納言である旅人、60歳の時の作ということになる。その後の旅人について、西宮『萬葉集全注』に「神亀五年(728)頃大宰帥(だざいのそち)、任地で妻大伴郎女(おおとものいらつめ)を失い、自らも脚瘡のため死に瀕したこともあり、酒を讃えた特異な歌を作り、漢詩文に学んだ教養人的文人として、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成した。天平二年(730)大納言となり帰京、同三年七月、従二位で没した。67歳。懐風藻にも詩一首を残す」とある。万葉集には旅人の歌は71首((72首とも、76首とも)あるが、長歌は本歌一首のみであり、それも11句からなる短い長歌である。

【巻3(316)。】
 
題詞  「反歌」。
原文  昔見之  象乃小河乎  今見者  弥清  成尓来鴨
和訳  昔見し 象(きさ)の小川を 今見れば 弥(いよよ)清(さや)けく なりにけるかも
現代文  「昔見た 象(きさ)の小川を今見ると ますますすがすがしくなってきたことだなあ」。
文意解説  発句「昔見之  象乃小河乎  今見者」「昔見し 象(きさ)の小川を 今見れば」と訓む。「昔見之」は「昔見し」と訓む。「見」は「見(み)」。「之」はシ。澤瀉「萬葉集注釋」は「この作が題詞の條で述べたやうに、神龜元年とすれば、その時旅人は六十歳であり、持統三年は廿五歳にあたり、その頃から持統天皇は毎年幾回も吉野へ行幸になつてゐるので、恐らく旅人も幾回か供奉してゐた事と思はれ、その若かりし日の吉野を思ひ出して『昔見し』と云つたものと考へられる」と注している。「象乃小河乎」は「象(きさ)の小河(をがは)」と訓む。吉野川に注ぐ小川である。「象」は「象(きさ)の中山」として既出。「乃」はノ。「小河(をがは)」は「小川」と表記される。「象(きさ)の小河(をがは)」は、「吉野の金峰山と水分山とに発して山裾で合流し、象山と三船山との間の喜佐谷を北流して宮瀧の西で吉野川に注いでいる」(阿蘇「萬葉集全歌講義」。「乎」はヲ。「象」の字について日本古典文學大系の補注は次のように解説している。「象をキサと訓むのは、日本にキサ(象)という動物がいたのではない。キサという語があって、木目(もくめ)を意味した。顔に入墨することをキザムといい、木や牙などに条理をつけて形どることもキザムというのは、キサを活用させた語である。象という字は元来、動物の形に起源を有する文字であるというが、その意味は一般にはカタチ、カタドルであって、キサ、キザムと共通である。そこで日本語のキサ(木目)に対して象の字をあてたものにすぎない。類聚名義抄の象の訓にキザと濁点が付してあるのは注意すべきことで、キサは本来キザであったと見るべきかもしれぬ」。西宮「萬葉集全注」は次のように解説している。「『象』をキサと訓むのは、象の牙が年齢を刻(きざ)んでおり、『象』と言えば、上代人は動物そのものではなく象牙(ぞうげ)として接していたので、象のことをキサと言うようになった」。両方の説に共通するのは、キサという語はキザムという語と関係があるという点である。「今見者」は「今見れば」と訓む。

 結句「弥清 成尓来鴨」「弥(いよよ)清(さや)けく なりにけるかも」と訓む。「弥清」は「弥(いよよ)清(さや)けく」と訓む。「弥」は「いよいよ、ますます」の意で「いや」と訓んできたが、ここは「いよいよ」の約で「いよよ」訓む。「清」は「清(さや)けく」と訓む。この句は類聚古集以下諸本に「イヨイヨキヨク」と訓んでいたのを萬葉考に「イヨヨサヤケク」と改められた後は、それが定訓となった。「すがすがしい気持ち」と解する。「成尓来鴨」は「成りにけるかも」と訓む。「尓」は二。「来鴨」の「来」はケル。ケリは、今まで気づかなかったことに初めて気づいた時の驚きや感動を表す。「鴨」は詠嘆のカモ。
歴史解説

【巻3(317)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。「山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌](山部宿祢(やまべのすくね)赤人(あかひと)、不盡(ふじ)[富士]の山を望む歌一首[并(あは)せて短歌])」。山部赤人が富士山を望んで詠む。作者の山部赤人について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は「姓は宿祢。神亀元年(七二四)から天平八年(七三六)にいたる時期を中心に、五十首の歌が万葉集に記載される。長歌十三首。短歌三十七首。紀伊国行幸をはじめ、吉野行幸・難波行幸・播磨国行幸など、聖武天皇の行幸に従駕して、宮廷を讃美する歌を詠んでおり、宮廷歌人的性格が認められる。葛飾の真間娘子の伝説を詠んだ歌や伊予の温泉(愛媛県松山市の道後温泉)での作もある。自然詠にすぐれ、端正な歌風に特色がある。」と述べている。本歌は19句からなる長歌で、赤人が東国へ旅して、初めて富士山を見ての作である。有名な反歌(318番歌)「田兒の浦ゆ うち出でて見れば」の表現から、赤人が富士を望んだ位置がわかるので、赤人が見た富士の山容を想像することができるが、当時はまだ噴煙が立ち上がっていたものと思われる。
原文  天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原  振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波<伐>加利 時自久曽  雪者落家留 語告 言継将徃  不盡能高嶺者
和訳  天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ  照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
現代文  「天と地が出来た時から高く貴い富士の高嶺を仰いで見れば、日も陰になり月の光も見えず、雲は行く手を阻まれ、常に雪が降っている、この富士山を語り継ぎ、言い継いで行こう」。
文意解説  長歌(れんだいこ式10句)
 発句「天地之 分時従」「天地(あめつち)の 分(わか)れし時(とき)ゆ」と訓む。「天地之」は既出。「天地(あめつち)」は「天と地」。「之」はノ。「分」は「分(わか)れし」と訓んで次の「時(とき)」にかかる。「従」 はユ。「より」を意味する。1句・2句と同じ表現が、表記は少し異なるが、1520番歌「天地之 別時由」、2005番歌「天地等 別之時従」に見られる。この表現は日本書紀の冒頭部分に基づくものだが、その原文は先に167番歌のところで引用したので、ここではその訓み下し文を記しておこう。「古(いにしへ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分(わか)れず、渾沌(こんとん)にして鶏子(とりのこ)の如(ごと)く、溟涬(めいけい)にして牙(きざし)を含(ふふ)めり。其(そ)の清陽(せいやう)なる者(もの)は、薄靡(たなび)きて天(あめ)に爲(な)り、重濁(ぢゆうだく)なる者は、淹滯(とどこほ)りて地(つち)に爲(な)るに及(いた)りて、精妙(せいめう)の合搏(がふせん)すること易(たやす)く、重濁の凝竭(ぎようけつ)すること難(かた)し。故(かれ)、天(あめ)先(ま)づ成(な)りて地(つち)後(のち)に定(さだ)まる。」(新編日本古典全集による)。もと天と地は一つであって、それが天と地との二つに分かれたという神話は「天地剖判(ほうはん)神話」といい、中国ほか諸外国に普通に見られるものだが、日本書紀の表現は中国の『淮南子』『芸分類聚』から採られたとされる。

 2句「神左備手 高貴寸」「神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き」と訓む。「神左備」は「神(かむ)さび」と訓む。「左備」はサビ。「神さび」は「神にふさわしい。神々しい。神らしく振る舞う」ことをいう。「手」はテ。「高」は「高く」。「貴寸」は「貴(たふと)き」と訓む。「寸」はキ。

 3句「駿河有 布士能高嶺乎」「駿河(するが)なる ふじ[富士]の高嶺(たかね)を」と訓む。「駿河奈流」と「なる」の表記は違うが同じで「駿河国(静岡県の中央部.伊豆半島を除く)にある」の意。「なる」はナりの連体形であるが、場所を示す語の下に付いた場合は「存在」を表し、「~にある」「~にいる」という意になる。「有」を「なる」と訓む。「布士」はフジ。富士山を表す。万葉集では「布士、布自、不盡」などいろいろに書かれているが、「富士」の文字は見えず、「不盡」と書かれたものが最も多く、11例をかぞえる。「能」はノ。「高嶺(たかね)」は「高い峰。高い山のいただき」をいう。「乎」はヲ。

 4句「天原 振放見者」「天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)け見れば」と訓む。この二句は、147番歌の1・2句と同句で、289番歌の1・2句とも表記が少し異なるが同じ表現。「天(あま)の原」には、①「広く大きな空」②「天つ神が統治する天上界。高天原。」という二つの意味があるが、この場合は①の意。「振放」は「振(ふ)り放(さ)け」。「ふりさく」は、「遠くに目をやる。遠くを仰ぎ見る」の意。「見者」は「見(み)れば」。ここで注意しなければならないのは、147・289番歌の場合、「振(ふ)り放(さ)け見(み)る」という動作の対象は「天(あま)の原(はら)」であったが、本歌の場合、その対象は、6句の「ふじ[富士]の高嶺(たかね)」であるということである。つまり本歌の場合はアマノハラニフリサケミレバの意であって、アマノハラヲではないということである。

 5句「度日之 陰毛隠比」「度(わた)[渡]る日の 陰(かげ)も隠(かく)らひ」と訓む。「度日」は既出。「度」は「度(わた、渡)る」。「度(わた、渡)る日」は「空を移動して行く太陽」をいう。「之」はノ。「陰」は「かげ」で、普通は「光線や風雨のあたらないところ」を意味するが、ここの「かげ」は、「影」又は「景」と同じく「光」の意。「毛」はモ。「隠比」は「かくらひ」と訓む。フは「あふ」で、これが動詞連用形の後に加わって成立したものであり、ここも「かくる」の連用形「かくり」に「あふ」が付いた「かくりあふ」がもとの姿で、動詞語尾の母音の変形によってりアがラになって「かくらふ」となったもの。

 6句「照月乃 光毛不見」「照る月の 光も見えず」と訓む。「照月」の「照」は「照る」。「照る月」は「光輝を発する月」の意。「乃」はノ。「光」は「ひかる(光)」の連用形の名詞化したもので「光(ひか)り」と訓み、「(物理的あるいは視覚的意味で)明るい、かしい、美しいなどと感じられるもの」をいう。「毛」はモ。「不見」は「見えず」と訓む。ここは二句対をなす。

 7句「白雲母 伊去波伐加利」「白雲(しらくも)も い去(ゆ、行)きはばかり」と訓む。「白雲(しらくも)」は既出で、「白い雲。白く見える雲」をいう。「母」はモ。「~もまた」の意。「伊去」の「伊」はイ。「去」は「去(ゆ)き」。「波」はハ、「伐」はバ、「加利」はカリの。「波伐加利」で以て「はばかり」を表す。「はばかる」は「障害があって停滞する」ことをいい、物心両面に用いる。西宮『萬葉集全注』はこの句の注に「この場合の障害は富士の霊威をさすのであろう。高さ(噴煙も含まれる)による障害としては太陽や月の光が見えないことで表現しているのだから、ここは白雲の自由な行動が滞る理由としては、やはり精神的な面での『霊威』を考えた方がよい」と述べている。

 8句「時自久曽 雪者落家留」「時じくそ 雪は落(ふ、降)りける」と訓む。「時自久」は「時じく」と訓む。「自」はジ、「久」はク。「時じく」には①「時はずれである。時節はずれである。その時ではない」と②「時節に関係なくいつもある。常にある。絶え間ない」という二つの意味があるが、ここは②。「曽」はソ。強い指示を表わす係助詞のゾと同じで、上代は清音であった。「雪者落家留」の「者」はハ。「落」は「落(ふ)り」。「ふる」は「雨・雪などが空から落ちてくる」ことをいい、現在ではもっぱら「降」の字を用いるが葉集では「落」を用いる例が多い。「家留」はケル。前句のソを承けての結び。

 9句「語告 言継将徃」「語りつ[継]ぎ 言ひ継(つ)ぎ徃(ゆ、行)かむ」と訓む。「語」は「語(かた)り」。「告」は「継」の借字として既出で、ここも「継ぐ」の連用形「つぎ」を表すのに用いたもの。「言」は「言(い)ひ」。「継」は「継(つ)ぎ」。「将徃」は「徃(ゆ)かむ」と訓む。

 結句「不盡能高嶺者」「不盡(ふじ、富士)の高嶺(たかね)は」と訓む。「不盡能高嶺」は「布士能高嶺」と「ふじ」の表記が異なるだけで同じ。「富士」の表記として萬葉集では「不盡」が最も多いのでそのまま漢字を残すことにした。「者」はハ。
歴史解説

【巻3(318)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。山部宿祢赤人(やまべのすくねあかひと)の有名な代表歌。317番歌の題詞に[并(あは)せて短歌]とあり、本歌の頭書に「反歌」とあるので、本歌は317番歌(以下「長歌」という)の反歌であることがわかる。
原文  田兒之浦従  打出而見者  真白衣  不盡能高嶺尓  雪波零家留
和訳  田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
現代文  「田子の浦を通って 富士山の見える所へ出て見ると 真っ白に 富士の高嶺に 雪が降り積もっていることだ」。 
文意解説  発句「田兒之浦従  打出而見者  真白衣」「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ」と訓む。「田兒之浦従」は「田兒(たご)の浦ゆ」と訓む。「田兒之浦」は「田兒浦」に同じ。「之」はノ。「田兒(たご)の浦」は、「現在の田子の浦(富士市)ではなく、富士川河口西方の、興津(おきつ)川河口から薩埵(さつた)山麓・由比・蒲原(かんばら)あたりの弓状の海浜にあたる」(『萬葉集全歌講義』)という。「従」はユ。「より」を意味する。ここは経過する地点を表す。「打出而見者」は「うち出(い)でて見れば」と訓む。「打」はウチに宛てたもので、下の動詞を強めたり単に語調をととのえたりする。「出」は「出(い)で」。「而」はテ。「見者」は「見れば」。「田兒(たご)の浦ゆ うち出(い)でて見れば」は、新古今集(巻六)では「田兒(たご)の浦に うち出(い)でて見れば」とあるが、これは新古今集が改作したのではなく、平安朝以来の伝統的読みをそのまま採用したものであると日本古典文学全集の頭注にある。確かに一句の訓みは、旧訓にタコノウラニとあったのを荷田信名『萬葉集童蒙抄』がタゴノウラユと改訓したものであるから、この頭注の言うのが正しいと思われる。
 この「ゆ」については、澤瀉『萬葉集注釋』が詳しいので、参考までにそれを引用しておこう。
 ここの「ゆ」は「ひなの長道ゆ」(255)の「ゆ」に最も近いものであり、その場合は「ゆ」の含む範圍がひどく廣く、今は由比、蒲原のあたり比較的狭い範圍であるといふに過ぎない。そのあたりには薩埵(さつた)山その他、道に近く山があつて富士がそれにかくれて見えぬところがあるので、その道を通つてゐて、その山陰からはづれて、富士の秀嶺のあざやかに見さけられるところへ出て眺めると、といふ事を「田兒の浦ゆうち出でて見れば」と云つたのである。従つて右の「ひなの長道ゆ」を巻十五(3608)に既に「ひなの長道を」(注:「を」に○の傍点)としてゐるやうに、今の「ゆ」も後の言葉に直すと「を」といふ語が最もよく當つてゐる事になる。それを「打出て田兒の浦より見ればと心得べし」(考)と云つたり、「輕く爾の手爾波に似たり」(槻乃落葉)と云つたり、或いは「田兒の浦より、沖の方へといふ意なり」(古義)云つたりしてゐる説はいづれも當らない。同じ真淵が宇比麻奈備(上)に「かくて過にし礒もこゝも同じ田兒の浦ながら、かの山陰を打出て望(ノゾミ)し故に、」と云つたのが正しい。

 「真白衣」は「真白(ましろ)にそ」と訓む。「真白」は「真白(ましろ)に」と訓む。「まったく白いこと。また、その色。純白。まっしろ」の意。「衣」はソ。長歌の本歌も富士を望見して詠ったものであるが、「うち出でて見」て、視界に飛び込んで来た富士の姿を「真白にそ」と具象的に描くことで、長歌で述べ足りなかったところを表現したもので、この歌の最も大切な句と言えよう。この句は新古今集では「白妙(しろたへ)の」となっており、全く別の歌となっているが、それはそれで鑑賞すれば良い。

 結句「不盡能高嶺尓  雪波零家留」「富士の高嶺に 雪は降りける」と訓む。「不盡能高嶺尓」は「不盡(ふじ、富士)の高嶺(たかね)に」と訓む。「不盡能高嶺」は長歌の末句に同じ。「尓」はニ。「雪波零家留」は「雪は零(ふ、降)りける」と訓む。この句は、長歌の「雪者落家留」と「ふる」の表記が違っているだけである。「ふる」の表記に用いた「零」の字は、名義抄に「零。オツ・ハル・スズシ・フル」とある。この句は新古今集には「雪はふりつつ」とある。
歴史解説

【巻3(319)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。「詠不盡山歌一首[并短歌]」。、317・318番歌に続いて、不盡[富士]の山を詠んだ歌である。山部赤人が富士山を詠む歌とされているが諸説ある。①・山部赤人説、②・笠朝臣金村説、③・高橋連虫麻呂説、④・柿本人麻呂説がある。
原文  奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出<立>有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上  燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香<聞>  石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞
和訳  なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず くすしくも います神かも 石花の海と 名づけてあるも その山の つつめる海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも
現代文  「甲斐と駿河とあっちこっちの国の真ん中に立つ富士の高嶺は雲も行き手を遮られ、鳥も飛び立てず、火も雪で消し、雪も火で消す、言葉ではいい表わせない。名前を付けようのない不思議な神のいる山で、石花の海はこの山を包む海である(富士五胡のこと)。富士川もこの山を水源としている。大和の国の鎮守としての神がおられ、宝ともなっている山である。富士の高嶺はいつ見ても飽きないなぁ」。
文意解説  「河童老の万葉集を訓(よ)む(その494)」その他参照

 長歌(れんだいこ式10句)。

 発句「奈麻余美乃 甲斐乃國」「なまよみの 甲斐(かひ)の國」と訓む。「なまよみの」は地名「甲斐」にかかる枕詞とされるが、語義・係り方については未詳。ほの暗い意で、「峡(かひ)」にかかるという(中西進『旅に棲む』)説や「なまよみ」は「生黄泉」で、現(うつ)し国と黄泉国(よもつくに)との境界にある国という認識があって「生黄泉(なまよみ)の甲斐(かひ)」と命名されたとする(西宮『萬葉集全注』)説などがある。「甲斐(かひ)の國」は「東海道の一国。東は武蔵、相模、南、西は駿河、北は信濃に囲まれた山国。平安末期に源義光が甲斐守となり、その孫信義が武田氏を称し、守護を世襲した。江戸時代は、幕府の直轄領か親藩・譜代の大名が封ぜられ、廃藩置県後、甲府県を経て山梨県となる。甲州」(『日本国語大辞典』より)。

 2句「打縁流 駿河能國与」「うち縁(よ、寄)する 駿河(するが)の國と」と訓む。「打」はウチで、下の動詞を強めたり単に語調をととのえたりする。「縁流」は「縁(よ)する」と訓む。「よす」は「(波が)岸などに迫り近づく。打ち寄せる」ことをいう。「うち縁(よ、寄)する」は「波のうち寄せる」意で次の「駿河」にかかる枕詞。「駿河」は現在の静岡県の中央部で、伊豆半島を除く、大井川以東の地。「能」はノ。「國」は「国」の旧字。「与」はト。

 3句「己知其智乃 國之三中従」「こちごちの 國のみ中ゆ」と訓む。「己知碁知乃」の表記で既出。「己」はコ、「知」はチ、「其」はゴ、「智」は「知」と同じくチで、「己知其智」で以て「こちごち」を表す。「こちごち」は、「こち(此方)」を重ねたもので、どこと具体的にささず、不特定の二つ以上の方向ないし領域を指示する(不定称)語。「あちらこちら。あちこち。ほうぼう」の意。「乃」はノ。ここの「こちごちの國」は、「あちらとこちらの国」の意で、具体的には甲斐(かひ)の國と駿河(するが)の國を指す。「之」はノ。「三」はミ。「三中」は「み中」で、「御中、真中」とも表記され、「まんなか」の意。この「み中」について、西宮『萬葉集全注』は「『天(あめ)の御中(みなか)』(記上)、『里のみ中』(14・三四六三)とともに、空間的に神聖な中央の意。『誓約(うけひ)の中(みなか)』(紀、神代上)は時間的に神聖な真中(まんなか)。このように『み中(なか)』は真中なのであるが、神聖視された中央との意識がある」としている。「従」はユ。ここは動作の起点を示すヨりの意で使われている。

 4句「出立有 不盡能高嶺者」「出(い)で立てる 不盡(ふじ、富士)の高嶺(たかね)は」と訓む。「出」は「出(い)で」。「立有」は「立てる」と訓む。「出(い)で立てる」は、大空に向って突き出していることを詠ったもの。「不盡能高嶺」は既出。「不盡(ふじ)」は「富士」。「能」はノ。「高嶺(たかね)」は「高い峰。高い山のいただき」をいう。「者」はハ。

 5句「天雲毛 伊去波伐加利」「天雲(あまくも)も い去(ゆ)きはばかり」と訓む。「天雲(あまくも)」は「空の雲」の意。「毛」はモ。「伊」はイ。「去」は「去(ゆ)き」。「波」はハ、「伐」はバ、「加利」はカリ。「波伐加利」で「はばかり」を表す。「はばかる」は「障害があって停滞する」ことをいう。

 6句「飛鳥母 翔毛不上」「飛ぶ鳥も 翔(と)びも上(のぼ)らず」と訓む。「飛鳥」は既出。いずれも「飛ぶ鳥(とり)の」で地名「明日香(あすか)」にかかる枕詞であったが、ここは文字通り「飛ぶ鳥」のこと。「母」はモ。「翔」は、名義抄に「翔。カケル・フルマフ・アブク・アガル・トブ」とあるが、ここは「飛」と同じで「翔(と)び」と訓む。「毛」はモ。「不上」は「上(のぼ)らず」と訓む。澤瀉『萬葉集注釋』は「たゞ山が高くて、その高さまでのぼれないといふだけでなしに、天雲も行き憚るとあるやうに、霊峰の感に打たれて高くはのぼれないといふ心がこめられてゐると見るべきであらう」という。「天雲(あまくも)も い去(ゆ)きはばかり」と「飛ぶ鳥も 翔(と)びも上(のぼ)らず」とは二句対をなす。

 7句「燎火乎 雪以滅」「燎(も)ゆる火(ひ)を 雪(ゆき)もて滅(け)ち」と訓む。「燎」は「燎(も)ゆる」。名義抄に「燎。フスブ・ヤク・トモシビ・モユ・タク」とある。「燎(も)ゆる火(ひ)」は「(盛んに)燃えている火」の意。「乎」はヲ。230番歌の場合は、松明の火であったが、ここは富士の噴火をいう。富士山は万葉の時代はもちろん平安時代も噴煙を上げていたのである。「雪」は、317番歌に「時じくそ 雪は落(ふ、降)りける」と詠われた富士にいつも降っている雪である。「以」は「もて」と訓む説と「もち」と訓む説があるが意味は同じ。「…で(もって)。…によって」の意。「以」は現在も「もって」を表す漢字として用いられている。ここは澤瀉『萬葉集注釋』に従って「もて」と訓んでおく。(「もて」「もち」の相違については、澤瀉『萬葉集注釋』が詳しい)「滅」は、「火をけす、火をしずめる」というのが原義で、その意を表し「滅(け)ち」と訓む。「けつ」は現在の「消(け)す」。

 8句「落雪乎 火用消通都」「落(ふ)る雪(ゆき)を 火もて消(け)ちつつ」と訓む。「落」は「落(ふ)る」。「用」は「以」と同じくモテと訓む。名義抄にも「用。モチヰル・モチフ・モツ・モテ・ココヲモテ・ツカフ」とある。「消」も「滅」と同じく「消(け)ち」と訓む。「通、都」は、ともにツ。「通都」はツツに宛てたもの。「燎(も)ゆる火を 雪もて滅(け)ち」と「落(ふ)る雪を 火もて消(け)ちつつ」とは二句対をなす。

 9句「言不得 名不知」「言ひも得ず 名づけも知らず」と訓む。「言」は「言ひも」と訓む。「不得」は「得ず」と訓む。「名」はモを補読して「名づけも」と訓む。「不知」は「知らず」と訓む。
 この二句の訓みについて、澤瀉『萬葉集注釋』は、次のように述べている。
 紀州本にイヒモエス ナツケモシラスとあつたが、代匠記初稿本にはイヒモカネ ナヅケモシラズとし、略解にはイヒモエズ ナヅケモシラニとし、槻乃落葉にはイヒモカネ ナヅケモシラニとした。佐伯博士は『萬葉語研究』の中で、今は下の「靈しくいます」さまをいふ場合であるから「しらに」(一・五、二・二〇一)では適當でなくシラズがよく、また「不得」をカネと訓む例は前(二六八)にもあつたが、
  立ちてゐて待てど待可祢(マチカネ)出でて來し(十九・四二五三)
  ゆく舟を布利等騰尾加祢(フリトドミカネ)いかばかり戀しくありけむ(五・八七五)
  かちゆ吾が來し汝を念不得(オモヒカネ)(十一・二四二五)
など「かね」も「知らに」と同様理由をいふに用ゐ、状態をいふに用ゐてないのだからこれもエズがよいと述べられてゐる。「不得」を文字通りエズと訓んだと思はれる例には「吾者隠不得(ワハシノビエズ) 間無念者(マナクオモヘバ)」(十一・二七五二)がある。

 結句「霊母 座神香聞」「霊(くす)しくも 座(いま)す神かも」と訓む。「霊母」は「奇母」と表記は違うが同じ。「霊」は「奇」と同じく「霊(くす)しく」と訓む。「くすし」は、超自然的な霊異をつつしみうやまう気持でいい表わす語で、「不可思議である。神秘的である。霊妙である」の意。「母」はモ。「座」は「座(いま)す」。マスにイの付いたもので、存在を表わす「あり(有)」「お(を)り(居)」の、存在主を敬っていう尊敬語。「いらっしゃる。おいでになる。おわす。おわします」の意。「香聞」はカモ。
歴史解説

【巻3(320)。】
 
題詞  319番長歌~321番歌の3歌は、321番歌の左注にまとめて富士を対象とした類似の歌なのでここに収載した意味のことが記されている。作者不記載。
原文  不盡嶺尓 零置雪者  六月  十五日消者  其夜布里家利
和訳  富士の嶺(ね)に 降り置く雪は 六月(みなつき)の 十五日(もち)に消ぬれば その夜降りけり 
現代文  「富士の雪は六月十五日(むろん旧暦。現行暦では7月盛夏)にいったん消えるというが、その夜にはもう雪が降るという」。
文意解説  初句「不盡嶺尓 零置雪者  六月」「富士の嶺に 降り置く雪は 六月の」と訓む。「不盡嶺尓」は「不盡(ふじ)の嶺(ね)に」と訓む。319番歌に「不盡(ふじ)[富士]の高嶺(たかね)」と詠んだのを受けて「不盡(ふじ)の嶺(ね)」と言ったもの。「嶺」は、字通に「声符は領(りよう)(りよう)。領は跪いて神意を聴き入る人の儀容をいい、その領(えりくび)をあらわす意。〔説文新附〕九下に『山道なり』とあり、〔正字通〕に『山の肩領、道路を通ずべきもの』とする。峰・頂に対して、その肩領にあたる部分をいう。また連峰をなして相連なるものをいう」とある。「尓」はニ。「零置雪者」は「零(ふ)り置く雪は」と訓む。「零」は、「零(ふ)り」。「置」は「置く」。「零(ふ)り置く雪」は「降り積もった雪」の意。「者」はハ。「六月」は「六月(みなつき)の」と訓む。「六月」は、陰暦六月の呼称である「みなつき」にノを補読して「六月(みなつき)の」と訓む。「みなづき」と濁音に訓む注釈書も多い。漢字では「水無月」と書かれるが、これは「な」を「ない」の意に意識されて「無」の字があてられたものだが、本来はノの意で、「水の月」「田に水を引く必要のある月」の意であろうと言われている。陰暦六月は夏の終わりの月であり、「季夏」「晩夏」とも称される。

 結句「五日消者  其夜布里家利」「十五日に消ぬれば その夜降りけり」と訓む。「十五日消者」は「十五日(もち)に消(け)ぬれば」と訓む。「十五日」は、「三五月」を「三五月(もちづき、望月)」と訓んだ例があったことからわかるように、望月の日の意で「もち」にあてたもので、二を補読して「十五日(もち)に」と訓む。「消者」は、「消(け)なば」と訓むが、ここは「消(け)ぬれば」と確定条件に訓む。「消えてしまうと」の意。仙覚の『萬葉集註釈』に「富士ノ山ニハ、雪ノフリツモリテアルカ、六月十五日ニ、ソノ雪ノキエテ、子ノ時ヨリシモニハ、又フリカハルト、駿河國風土記ニミエタリト云ヘリ」とある。駿河國風土記は今に伝わっておらず、仙覚も直接風土記を見たのではなく、間接の伝聞であったので「ミエタリト云ヘリ」という表現になっている。「其夜布里家利」は「其(そ)の夜(よ)ふりけり」と訓む。「其」は、代名詞として「その、それ」に用いられる。「その」は中称の代名詞ソに格助詞のノの付いたもので、「前に述べたことや聞き手が了解していることをさし示す。古くは強い関心をもつものを指示するのに用いられた」(『日本国語大辞典』より)。「夜」は「よる」とも「よ」とも訓まれるが、ここはヨと訓む。「よる」と「よ」の違いは、「よる」は「ひる」に対して暗い時間全体をさすのに対して、ヨはその特定の一部分だけを取り出していう。ここは、仙覚の言葉を借りれば、六月十五日の「子ノ時ヨリシモニ」の時をさして言ったもの。「布里家利」は、フリケリ。「布里」は「零」と同じく「ふり」。「家利」はケり。
歴史解説

【巻3(321)。】
 
題詞  前歌に続いて、319番歌の二首目の反歌である。
原文  布士能嶺乎  高見恐見  天雲毛  伊去羽斤  田菜引物緒
和訳  富士の嶺を 高み畏み 天雲(あまくも)も い行きはばかり たなびくものを
現代文  「富士の峰が 高くて恐れ多いので、天雲さえも通過をためらってたなびいていることだよ」。
文意解説   「『万葉集』を訓(よ)む(その500)」その他を参照する。「高み畏み」は「高く恐れ多いので」。「い行きはばかり」がよく効いていて、富士への恐れがよく出ている。

 初句「布士能嶺乎  高見恐見  天雲毛 」「富士の嶺を 高み畏み 天雲(あまくも)も」と訓む。「布士能嶺乎」は「富士の嶺(ね)を」と訓む。317番歌に「布士能高嶺乎」とあったが、ここはその句から「高」の一字をとり五音としたもので、「高」の一字は次句の冒頭に持っていっている。「布士」で「富士」を表す。「能」はノ。「嶺(ね)」は320番歌に同じ。「乎」はヲ。「高見恐見」は「高み恐(かしこ)み」と訓む。「高見」は、「高み」と訓む。「恐見」も同じ形で、「恐(かしこ)み」。「天雲毛」は「天雲も」と訓む。「天雲」は「空の雲」の意。「毛」はモ。

 結句「伊去羽斤  田菜引物緒」「い行きはばかり たなびくものを」と訓む。「伊去羽斤」は「い去(ゆ)きはばかり」と訓む。この句も319番の長歌「伊去波伐加利」と表記は違うが同じ。「伊」はイ。「去」は「去(ゆ)き」。「羽」はハ。「斤」は、字通に「おのの形。〔説文〕十四上に『木を斫(き)るなり』とあり、手斧をいう。武器に用い、斤を両手でふりあげている形は兵。兵とは武器をいう。また重量の単位として用いる」とあり、名義抄に「斤。ハカリ」とある。「羽斤」は、「はばかり」を表すのに用いたもの。「はばかる」は「障害があって停滞する」ことをいう。「田菜引物緒」は「たなびくものを」と訓む。「田」はタ、「菜」はナ。「田菜引」で以て「たなびく」を表す。「たなびく」については287番歌「棚引山乎」のところで既述。「物」は、他の語句を受けて、それを一つの概念として体言化する形式名詞で、直接には用言の連体形を受けて用いる。「緒」はヲ。古くは「物(もの)を」と二語であったが、次第に「ものを」で一語の終助詞として使われるようになった。終助詞「ものを」には、①単なる詠嘆と、②実情に対する不満や残念の気持をこめての詠嘆という二つの用法があるが、ここは①。②の例は、108番歌に既出、又②の例から、転じて接続助詞として用いられた例としては305番歌があった。

 以上見たように、本歌は長歌の一部を再び短歌にしたもので、長歌と反歌とが一体であることがよくわかる。319番歌の作者について、西宮『萬葉集全注』の〔考〕を引用して四種の説があることを紹介し、「321番歌を訓んだ後に、西宮のいう『左注の意味』を検討して、作者を比定することとしよう。」と述べた。ここでその検討にうつろう。321番歌の左注には「右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉 以類載此」とあるが、これについて、西宮『萬葉集全注』に「左注の意味」と題して詳しく述べられている。少し長くなるが、次に引用する。
 「右の一首は、高橋虫麻呂が歌の中に出づ。類をもちてここに載す」とある。「右の一首」は、321番歌のみをさすとする説や、「三首」の誤りで、319~321番歌をさすとする説、さらに319番歌の〔考〕において紹介したように四種((イ)~(ニ))の作者比定説があるという如く、かなり錯綜している。注釈では、この「右の一首」は319番の長歌をさしたもので、反歌の二首(320、321)は当然その中に含まれると説いている。「一首」は「三首」の誤りとする説は独断であるが、結果的には三首をさすことになっている。既述の如く、319番の長歌と、320、321番の反歌とは密接不可分の関係にあった。それで注釈の如き解釈が最も穏当と思われる。そうすると、この三首は虫麻呂の歌だと、巻三の編者が注していることになるから、これほど確かな資料はないわけである。たまたま、319番歌の題詞に作者名が無かったから、編者が不審を懐いて、このような左注をつけたのだと考えられる。
 

 確かに「左注の意味」は、西宮の言う通りであろうと思われ、この三首の作者が高橋虫麻呂であることはほぼ間違いないが、さらに西宮はそれを補強する諸説を紹介して次のように続けている。
 この三首が虫麻呂の歌として過不足がないことは、注釈に、長歌の冒頭に枕詞を使った地名を重ねること(9・一七三八、一七五三などの虫麻呂の歌に見える)、指示代名詞「その」の反復が見られること、「こちごち」は人麻呂以外は虫麻呂のみ使用していることなどの特徴をもって説明し、万葉集新講にも、長歌に「詠何歌」と記すこと、内容面から、地理的説明のあること、叙事詩的色調を帯びていること、動的描写の多いこと、擬人法を用いていること、また表現技巧面から、対句の形式及び用法上の特色、観念語(例えば、国・飛ぶ・火・雪・山・海・神等)の反復が多いこと、句切れが多いことが虫麻呂の特色であることを指摘している。かくして、これらの三首は高橋虫麻呂の歌と考えて差支えはなかろう。
歴史解説

【巻3(322)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。「山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首[并短歌]」(「山部赤人が伊予の温泉(愛媛県松山市の道後温泉)に至った時作った長短歌」)。次の323番歌が反歌である。赤人については317番歌のところで述べた。「伊豫温泉」は、愛媛県松山市道後湯之町の道後温泉である。『日本書紀』に、舒明天皇十一年(639)十二月から翌年四月まで、斉明天皇七年(661)正月から三月にかけての行幸滞在記録があるほか、『伊予国風土記逸文』には、景行天皇・仲哀天皇・聖徳太子の行幸があったと記す。大和朝廷と早くから関わりをもった温泉であったことがうかがわれる。
原文  皇神祖之 神乃御言乃 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宜國跡 極此疑 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 敲思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸處
和訳  すめろきの かみのみことの しきませる くにのことごと ゆはしも さはにあれども しまやまの よろしきくにと こごしかも いよのたかねの いざにはの をかにたたして うちじのひ ことしのひせし みゆのうへの こむらをみれば おみのきも おひつぎにけり なくとりの こゑもかはらず とほきよに かむさびゆかむ いでましところ

 皇神祖(すめろき)の 神(かみ)のみこと[命]の 敷(し)き座(いま)す 國の盡(ことごと) 湯(ゆ)はしも さはに在(あ)れども 嶋山(しまやま)の 宣(よろ)しき國(くに)と こごしかも 伊豫(いよ)の高嶺(たかね)の 射狭庭(いざには)の 崗(をか)に立(た)たして 歌(うた)思(おも)ひ 辞(こと)思(おも)ほしし み湯(ゆ)の上(うへ)の 樹(こ)むら[群]を見(み)れば 臣(おみ)の木(き)も 生(お)ひ継(つ)ぎにけり 鳴(な)く鳥(とり)の 音(こゑ)[声]も更(かは)[変]らず 遐(とほ)[遠]き代(よ)に 神(かむ)さび徃(ゆ)かむ 行幸處(いでましところ)
現代文  「代々の 天皇様が お治めになっていらっしゃる 国という国にはみな 温泉は たくさんあるが その中でも島も山も 好ましくよい国として、険しくもそびえ立つ 伊予の高嶺につづく 射狭庭の 岡に立たれて 歌を案じ 言葉を練られた この温泉のほとりの 木々を見ると 臣の木も 生い代わって茂りつづけている 鳴く鳥の 声も変わっていない 遠い末の世までも 神々しい姿を保ってゆくだろう この行幸の地は」。
文意解説
 長歌。「『万葉集』を訓(よ)む(その501)」その他を参照する。

 初句「皇神祖之 神乃御言乃 敷座」「皇神祖(すめろき)の 神(かみ)のみこと[命]の 敷(し)き座(いま)す」と訓む。「皇神祖之・神乃御言乃」は「皇神祖(すめろき)の 神(かみ)のみこと[命]の」と訓む。この句は、29番歌の「天皇之 神之御言能」と表記は違うが、4089番歌の「須賣呂伎能(すめろきの) 可未能美許登能(かみのみことの)」の例により同じように訓まれる。「すめろき」は、「皇祖神、皇神祖、皇祖」などと書かれ、「皇祖である天皇」を主として言う言葉であるが、その皇祖より受け継いだ「当代の天皇」についても言うようになった。29番歌の場合は「天皇」という表記なので「当代の天皇」を意味したが、ここは「皇祖神」とあるので本来の「皇祖である天皇」の意である。「之」はノ。「すめろき」を別の表現で言い換えたのが「神乃御言」で、「神(かみ)のみこと[命]」と訓む。「みこと」のミは接頭語で本来は「御事」の意。「…のみこと」の形で、神や天皇などの高貴な人に対し尊敬の意を表わすのに用いる。普通名詞に添える場合と固有名詞に添えて接尾語的に用いる場合とがあり、漢字表記では「尊」又は「命」と書かれる。「乃」はノ。「敷座」は「敷(し)き座(いま)す」と訓む。「敷」は「敷(し)き」。ここの「しく」は「治める。支配する」意。「座」は、「ます」とも「います」とも訓むことは167番歌などに既出例があるが、ここは「座(いま)す」と訓む。尊敬を表す補助動詞として用いたもので、「敷(し)き座(いま)す」で以て「お治めになっていらっしゃる」の意。

 2句「國之盡 湯者霜 左波尓雖在」「國の盡(ことごと) 湯(ゆ)はしも さはに在(あ)れども」と訓む。「國之盡」は「國の盡(ことごと)」と訓む。ここの「國(くに)」は「行政上の一区画をなした土地の称」の意。「之」はノ。「盡」は「ことごと」と訓み、「残らず、全て」の意で、「~之盡」の形でよく使われる。既出例として、「神之盡、日之盡、夜之盡」がある。「國(くに)の盡(ことごと)」は「どこの国にも。国中。国という国にはみな」の意。「湯者霜 左波尓雖在」は「湯(ゆ)はしも さはに在(あ)れども」と訓む。ここの「湯(ゆ)」は「温泉」の意。和名抄に「温泉」に注して「一云温泉、和名由(ゆ)」とある。「者」はハ。「霜」はシモ。「左波尓雖在」は36番歌の「澤二雖有」と表記は異なるが同句。「左波尓」はサハニと訓み、「さは」は「多いさま。たくさん。あまた」の意。「雖在」は「在(あ)れども」と訓む。「湯(ゆ)はしもさはに在(あ)れども」は「温泉はたくさんあるけれども」の意で、「その中でも特に何々が良い」と続けて多数あるなかの一つをほめる、土地ほめ歌の類型的表現である。

 3句「嶋山之 宜國跡 極此疑」「嶋山(しまやま)の 宣(よろ)しき國(くに)と こごしかも」と訓む。「嶋山之 宣國跡」は「嶋山(しまやま)の 宣(よろ)しき國(くに)と」と訓む。「嶋山(しまやま)」は「水に臨んだ地の山」をいう。ここは海上から伊豫の山々を眺めて「嶋山(しまやま)」と言ったもの。「之」はノ。「宣」は「よろし」で、ここは「宣(よろ)しき」と訓む。「よろし」は「好ましい、ふさわしい」の意。ここの「國」は「伊豫の國」をさす。「伊豫」は、「道後温泉にちなんだ「いゆ」(「い」は発語、「ゆ」は湯)から転じた」といわれ、「南海道諸国の一つ。古くは伊余・伊与・夷与にもつくる。五国造の領域を合わせて成立。平安初期には十四郡から構成された(和名抄)。中世には、佐々木、宇都宮、細川、河野氏などが守護となり、天正一二年(一五八四)長宗我部氏が統一、翌年の豊臣秀吉の四国平定後、小早川氏の支配となった。江戸時代には、松山、宇和島、今治など八藩が分立。廃藩置県により、愛媛県となる。予州」(日本国語大辞典による)。「跡」はト。「極此疑」は「こごしかも」と訓む。「極此」は「こごし」を表すのに宛てたもの。「此」はシ。「極」を何故コゴの音に宛てたのであろうか。これについて新編日本古典文学全集は、322番歌の頭注に「コゴの原文『極』は『万象名義』に『高也、遠也、窮也』とあり、意味の上からと、呉音ゴク(ゴコ)の音からとの両面を兼ねた用法」としている。「こごし」は、301番歌2句「凝敷山乎[こごしき山(やま)を]」で既出、「岩がごつごつしていて険しい」ことをいう。「疑」は、賀茂真淵『萬葉考』に疑う意の義訓として「かも」と訓み、以来諸注これに従っている。「疑」及び「疑意」を「かも」と訓む例は、他にも「鴈宿有疑(かりねたるかも)」(2135番歌)、「秋夜之 月疑意君者(つきかもきみは)」(2299番歌)、「零之雪疑意(ふりしゆきかも)」(2324番歌)などがある。「こごしかも」は連体格として次の句を修飾する。「極此」は「神々しい」の「こごし」と訓むべきではなかろうか。

 4句「伊豫能高嶺乃 射狭庭乃」「伊豫(いよ)の高嶺(たかね)の 射狭庭(いざには)の」と訓む。「伊豫能高嶺乃」は「伊豫(いよ)の高嶺(たかね)の」と訓む。「伊豫(いよ)」は先述。「能」はノ。「高嶺(たかね)」は「高い峰。高い山のいただき」をいう。「伊豫(いよ)の高嶺(たかね)」は、石鎚山(1921メートル)及びその続きの山をさす。「乃」もノ。

 5句「崗尓立而 敲思 辞思為師」「崗(をか)に立(た)たして 歌(うた)思(おも)ひ 辞(こと)思(おも)ほしし」と訓む。「崗尓立而」は「崗(をか)に立(た)たして」と訓む。「尓」はニ。「立而」は、「立(た)たして」。「崗尓立而」は「崗(をか)に立(た)たして」と訓む。「射狭庭(いざには)の崗(をか)」は、松山市道後温泉の裏にある伊佐尓波神社の岡(約70メートル)で、赤人はこれを石鎚山に続くものとして詠ったものと考えられる。ここで「伊豫(いよ)の高嶺(たかね)の射狭庭(いざには)の崗(をか)」について、西宮『萬葉集全注』が述べているところを見ておこう。
 「伊予の高嶺」については諸説があったが、武智雅一の、石鎚山脈、特に道後の東北に近い高縄山・福見山また射狭庭(いざには)の背景としてそびえる山々をいうとする説(「『伊予の高嶺』私考」万葉昭和三十年七月)が認められるようになった。そこで、「高嶺の」のノは、その山々に続いて存在する、の意と解して、次の「射狭庭の岡」(愛媛県松山市道後温泉の裏にある伊佐尓波神社の岡と湯月城趾の岡。海抜七十メートルほどの小丘)との地理的関係が理解できるわけである。ところが近年奥村恒哉は、「こごしかも伊予の高嶺」と言えば「石鎚山」をさすより外はないこと、そして「高嶺の射狭庭の岡」という表現からは石鎚山の中に射狭庭の岡があるとしなければならないが、現に道後温泉から石鎚山は遠きに過ぎて視野に入らないので右の説は無理だとし、「伊予の高嶺」に歌枕的性格を認め、「石鎚山」の名に「石土毘古(イハツチビコ)命」(記上巻)の巨石信仰があり、神代以来の聖域として、石鎚山及び比較的近距離にある道後周辺の山々が考えられたので、赤人の「こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡」の表現があるのだと考え、「赤人は道後温泉の周辺の山々を見ていたのであるが、同時に石鎚山の神を見ているのである。また、そうすると、射狭庭の岡も石鎚山の一部分となるのである」。
 (「こごしかも伊予の高嶺」国語国文昭和五十五年二月)。首肯できる説と思われる。すなわち石鎚山の一峯として赤人が認めたのだ、ということを理解させてくれる論文である。以上引用したのでわかるように、現在では奥村恒哉の説がほぼ定説になっている。歌を理解するにおいては散文理解とは違った思考が求められることが、この例でよくわかる。

 「歌思 辞思為師」は「歌(うた)思(おも)ひ 辞(こと)思(おも)ほしし」と訓む。この二句には、今まで種々の訓がある。旧訓のウタフオモヒ・イフオモヒセシでは全く意味をなさないので、下河辺長流『萬葉集管見』にウタオモヒ・コトオモヒセシ、賀茂真淵『萬葉考』にウタシヌビ・コトシヌビセシ、本居宣長『玉の小琴』にウタオモヒ・コトオモハシシ、荒木田久老『萬葉集槻乃落葉』にウタオモヒ等と訓まれている。また、「歌」を「敲」の誤字とする説(武田祐吉『萬葉集全註釈』)もある。これらの説を踏まえて、西宮『萬葉集全注』は、次のように述べている。
 塙本では、全註釈説「敲思(ウチシノヒ) 辞思為師(コトシノヒセシ)」(言語を以て思慕追憶される)に従って、「敲思(ウチジノヒ) 辞思為師(コトオモホシシ)」としたが、古典全集では「歌(うた)思(おも)ひ 辞(こと)思ほしし」とする。諸本に異同がないので、「歌・辞」の文字で考えるのがよい。その場合、二つの「思」を同じくオモフと訓むのか。一方をシノフで訓むかで上の如く種々の訓となった。そこで「歌辞」についてみると、例えば四三七番歌の左注に「歌辞相違(あひたが)ひ、是非(ぜひ)別(わ)きがたし」とあるように、歌の文句の意である。ここではその「歌辞」を「歌」と「辞」との二つに分けて言っているに過ぎず、しかも内容的には歌を作られたことをさしているのであるから、二つの「思」はオモフと訓むべきで、シノフではないと言うべきである。すなわち、「歌の文句を案ずる」意である。

 以上の西宮の論に賛同して、「歌」「辞」は、それぞれ「うた」「こと」と訓み、二つ「思」は、共にハ行四段活用の他動詞「おもふ」で、13句の「思」は連用形で「思(おも)ひ」、14句の「思」は未然形「思(おも)は」だが、ハが前の母音に引かれてホに転じて、「思(おも)ほ」と訓む。「為」は「し」の訓仮名で、尊敬の助動詞「す」の連用形「し」に、「師」はシ音の音仮名で、過去の助動詞「き」の連体形の「し」に用いたもの。ところで、12句~14句の「崗(をか)に立(た)たして 歌(うた)思(おも)ひ辞(こと)思(おも)ほしし」の主語は誰なのであろうか?阿蘇『萬葉集全歌講義』は「三つの動詞の主語は、この地に行幸した人々。聖徳太子・舒明天皇などのほか、額田王なども含むか。」としている。1句・2句の「皇神祖(すめろき)の神(かみ)のみことの」の詠い出しの流れからは、この地に行幸し歌を詠んだ歴代の天皇等をここの主語と見る見方はできるであろう。ただし、ここの主語は斉明天皇であると見る説も多い。西宮『萬葉集全注』は、本歌(322番歌)の作歌事情として「赤人が道後温泉に到着し、その昔の行幸のことを偲(しの)び、昔と変わらぬ行宮の跡を賛美した歌である。その行幸として比定されるのは、斉明天皇の行幸の時(六六一年)で、その斉明天皇がその昔夫君の舒明天皇と伊予に来られた時(六三九年)のことを偲んで作歌されたその事を赤人が題材にしていることになる」と述べ、八番歌の左注にも言及した上で、「歌思ひ辞思ほしし」の主語は「斉明天皇と考えてよい。」としている。また『新編日本古典文学全集』の頭注にも「歌思ひ辞思ほししー斉明天皇の七年(六六一)天皇が夫君舒明天皇とこの地に遊んだ往時を偲び歌を作った(八左注)ことをいうか。」とある。確かにここの主語を斉明天皇だと考えても間違いではないが、斉明天皇に特定せず、この地に行幸されて歌を詠まれた歴代の天皇と見た方が歌の趣旨にあうように思われる。

 6句「三湯之上乃 樹村乎見者」「み湯(ゆ)の上(うへ)の 樹(こ)むら[群]を見れば」と訓む。「三」はミ。「み湯(ゆ)」は、道後温泉のことを言ったもの。「之」はノ。ここの「上(うへ)」は「あるものの付近。辺り。ほとり」の意。「乃」はノ。「樹村」は「樹(こ)むら[群]」と訓み、「木の群がり立っていること。また、その所。木のむれ。あるいは、樹木の枝葉が入り組んでいて、その下の陰になった所」をいう。「村」は「むら[群]」で、既出例には、「村山、村肝、磐村、村、阿遅村、槻村」がある。「乎」はヲ。「見者」は「見れば」。

 7句「臣木毛 生継尓家里」「臣(おみ)の木(き)も 生(お)ひ継(つ)ぎにけり」と訓む。伊予国風土記の逸文に「岡本(をかもと)の天皇(すめらみこと)と皇后との二躯(ふたはしら)を以ちて一度とす。時に大殿戸(おほとのど)に椹(むく)と臣(おみ)の木とあり。その木に鵤(いかるが)と此米(しめ)との鳥、集(すだ)き止まれり。天皇、この鳥が為(ため)に枝に稲穂(いなほ)どもを繋(か)けて養(やしな)ひ賜(たま)ふ」(新編古典日本文学全集による)とあって、「臣(おみ)の木(き)」の名が見えるが、「臣(おみ)の木(き)」については、未詳とする説と樅の木のことだとする説がある。樅の木説は、由阿『拾遺采葉抄』に「モミノ木歟」といい、契沖『萬葉代匠記』にも「臣木ハモミノ木ナルベシ。於ト毛ト同韻ニテ通ゼリ」とあり、本居宣長『玉の小琴』には「師云、樅の木也、古へ樅栂などを凡て、おみの木と云しをやゝ後に樅をば眞おみと云、まお、を約むればも也」と説明されている。「毛」はモ。「生」は、「生(お)ひ」。「おふ」は「(草木・毛などが)はえる。生じる」ことをいう。「継」は「継(つ)ぎ」。「尓家里」はニケリ」。先に引用した伊予国風土記の逸文は、舒明天皇の行幸(639年)のおりの話を記したものであるが、本歌は、それから百年近くの歳月を経ての作である。「その間には天武紀十三年(684)十月十四日の条に見える全国的大地震のため『時に伊予の温泉(ゆ)没(うも)れて出(い)でず』といった災害もあり、臣の木も枯れたりしたかも知れないが、ともかく新しい臣の木が生えかわっていたわけである」と西宮『萬葉集全注』は注している。

 8句「鳴鳥之 音毛不更」「鳴(な)く鳥(とり)の 音(こゑ)[声]も更(かは)[変]らず」と訓む。「鳴」は「鳴く」。「ね(音)」と同語源の「な」が動詞化したもので、生物が種々の刺激によって声を発することをいう。「鳥」は鳥の全形を象った象形文字。「之」はノ。「音」は「おと」とも「こゑ」とも訓むが、ここは「こゑ」と訓む。今は「こゑ」は「声」と表記し、「音」は「おと」として使い分けている。「毛」はモ。「不更」は「更(かは)らず」と訓む。「更」は「変更」という二字熟語が示すように「変」と同義だが、今では普通「変」が使われる。「更」の訓は多く、名義抄には「更。タガヒニ・サラニ・カサヌ・カサナル・ニハカナリ・カタヘ・アヤマル・カヘル・マタ・アラタム・アタラシ・カフ・カハル・カハルカハル・チナミ・フル・タガヒ・アカツキ・フ・ツグノフ」とある。

 結句「遐代尓 神左備将徃 行幸處」「遐(とほ)[遠]き代(よ)に 神(かむ)さび徃(ゆ)かむ 行幸處(いでましところ)」と訓む。「遐」の字は、名義抄に「遐。ハルカニ・ハルカナリ・サカル・サク・トホシ・ユク・アソブ」とあり、ここは「遐(とほ)[遠]き」と訓む。「遐(とほ)[遠]き代(よ)」は、過去に対しても将来に対しても言いうる言葉で、ここでは将来に対して言ったもので、「遠い末の世までも」の意。「尓」はニ。「神左備」は既出。「左備」はサビ。「神(かむ)さび」は「かむさぶ」の連用形、「神にふさわしい。神々しい。神らしく振る舞う」ことをいう。「将徃」は「徃(ゆ)かむ」と訓む。「行幸處(いでましところ)」は、295番歌5句「幸行(いでまし)處(ところ)」や315番歌11句「行幸(いでまし)之宮(みや)」と同じで、「天皇など高貴な人が旅に出て、滞在される場所。行幸される所」の意。
歴史解説

【巻3(323)。】
 
題詞  「反歌」。322番歌の反歌である。
原文  百式紀乃  大宮人之  飽田津尓  船乗将為  年之不知久
和訳  ももしきの 大宮人の 飽田津(にきたつ)に 船乗りしけむ 年の知らなく
現代文  「ももしきの) 大宮人が この熟田津で 船に乗ったという(額田王が『熟田津に船乗りしけむ』と詠った) その昔の年はもはやいつのことであったか分からないよ」。
文意解説  発句「ももしきの」は枕詞。長短歌合わせて万葉集には20例ある。例外なく大宮(おほみや)が後に続く。これまで5例登場しているが、すべて長歌。短歌は本歌が初出。この歌は額田王(ぬかたのおおきみ)の8番歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」を念頭に置いて詠われている。熟田津(にきたつ)は松山港あたりと目されている。すなわち大宮人で賑わった在りし日の昔を偲んでいる歌である。

 初句「百式紀乃  大宮人之  飽田津尓」「ももしきの 大宮人の 飽田津(にきたつ)に」と訓む。「百式紀乃」は「百(もも)しきの」と訓む。この句は「百式乃」と同じく「百(もも)しきの」と訓む。「式紀」はシキ。「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞で、万葉集には20の用例があり、そのうち「大宮人」にかかるものが18例、「大宮所(處)」にかかるものは2例である。「ももしき」の表記としては、「多くの石で築いた城(き)」の意を持つ「百磯城」が12例で圧倒的に多い。全て仮名書きは4040番歌の「毛母之綺」の一例で、その他は「しき」の仮名表記は「師紀」「石木」など様々だが、いずれも「もも」は「百」で表記されていて「多くの」の意を表していると考えられる。ノの表記には、「乃」(9例)・「之」(7例)・「能」(3例)で、無表記が1例ある。「大宮人之」は「大宮人(おおみやひと)の」と訓む。「大宮人(おおみやひと)」は、宮廷に仕える人たちのこと。ここでは、斉明朝の官人たちを指す。「之」はノ。「飽田津尓」は「飽田津(にきたつ)に」と訓む。この句は、8番歌「熟田津尓」と「にき」の表記は異なるが同句。「飽」の字は玉篇に「饒、飽也」とあり、「饒」をニキと訓んだ例(4028番歌の題詞「饒石川(ニキシカハ)」)があることから、「飽」もニキと訓むべきであると、岸本由豆流『萬葉集攷證』は述べている。「尓」はニ。

 結句「船乗将為  年之不知久」は「船乗りしけむ 年の知らなく」と訓む。「船乗将為」は「船乗り為(し)けむ」と訓む。「船乗」は「船乗り」と訓み、「船に乗ること」をいう。「将為」は「為(し)けむ」と訓む。ケムは、過去の事実の伝聞を表し、ここでは60年以上も昔の、額田王の「熟田津(にきたつ)に 船(ふな)乗(の)りせむと 月(つき)待(ま)てば 潮(しほ)もかなひぬ 今(いま)はこぎいでな」(8番歌)をさしている。ここの「けむ」は連体形で、次の「年」にかかる。「年之不知久」は「年(とし)の知(し)らなく」と訓む。「年(とし)」は、「大宮人が船乗りをしたというその昔の年」をいう。「之」はノ。「不知久」は、「知らぬあく」が約まって「知らなく」となったもの。「年(とし)の知らなく」は、158番歌の「道(みち)のし[知]らなく」と同じ表現で「~はわからないことよ」の意。ク語法で終止する場合「なくに」止めの場合は詠嘆に加えて逆接的な意味が付加されるが、「なく」止めの場合は、専ら詠嘆の意味を表す。土屋文明『萬葉集私注』に「遠い過去に對する詠嘆であつて、その年數が知り得られないといふ、理を含んだ意味ではない」あるように、斉明天皇の行幸の事は日本書紀に記録のある事であって調べればわかることである。
歴史解説

【巻3(324)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。「登神岳山部宿祢赤人作歌一首 并短歌 」。次の325番歌がその反歌である。作者の山部赤人は、317・318番歌の作者として既出。本歌は、「自然詠にすぐれ、端正な歌風」といわれる赤人の代表作といえよう。「神岳(かむをか)に登(のぼ)りて」と題詞にある「神岳(かむをか)」(159番歌に既出)については諸説がある。阿蘇『萬葉集全歌講義』にその要約があるのでそれを見ておこう。① 雷丘(明日香村雷 海抜110メートル)説 辰巳利文『大和地理研究』、大井重二郎『万葉集大和歌枕考』、澤潟久孝『万葉集注釈』、犬養孝『万葉の旅』、『万葉集事典』(講談社文庫)、私注・大系・全集・新大系「雷丘か」ほか。② 甘橿丘(明日香豊浦 海抜148メートル)説 坂口保『萬葉集大和地理辞典』、和田嘉寿男『大和の万葉』など。③ ミハ山(明日香村橘 海抜216メートル)説 岸俊男「万葉歌の歴史的背景」文学 昭46・9、西宮一民「飛鳥の神なび」美夫君志 昭51・7、全注、釈注「ミハ山であろう」、和歌大系「ミハ山か」、などがある。

 以上の三説がある。「雷丘」は、235番歌の題詞「天皇(すめらみこと)、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の作る歌一首」に出てくるが、「雷」は「神」に通じることから『萬葉代匠記』以来、159番歌に詠われた「神丘」と同地とされてきた。それで、本歌の「神岳(かむをか)」についても、①の雷丘説を採るものが多く通説となっていたわけであるが、岸俊男は、159・324(本歌)番の歌の内容からすると、「雷丘」ではふさわしくないと考え、橘寺の東南にあるミハ山(これは地籍図の呼称)、俗称フグリ山であるとした。そして西宮もこれを支持して、「神岳」と「雷岳」とは別である事を論じた。確かに、「雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時」と「神岳(かむをか)に登(のぼ)りて」という題詞から受ける印象も、前者はなだらかな丘陵を、後者はそれなりの高さの山を思わせるもので、③のミハ山説が妥当と考える。
原文  三諸乃 神名備山尓 五百枝刺 繁生有 都賀乃樹乃 弥継嗣尓 玉葛 絶事無 在管裳 不止将通 明日香能 舊京師者 山高三 河登保志呂之 春日者 山四見容之 秋夜者 河四清之 旦雲二 多頭羽乱 夕霧丹 河津者驟 毎見 哭耳所泣 古思者
和訳  みもろの かむなびやまに いほえさし しじにおひたる つがのきの いやつぎつぎに たまかづら たゆることなく ありつつも やまずかよはむ あすかの ふるきみやこは やまだかみ かはとほしろし はるのひは やましみがほし あきのよは かはしさやけし あさくもに たづはみだる ゆふぎりに かはづはさわく みるごとに ねのみしなかゆ いにしへおもへば

 三諸(みもろ)の 神名備山(かむなびやま)に 五百枝(いほえ)刺(さ)し 繁(しじ)に生(お)ひたる つが[栂]の樹(き)の 弥(いや)継(つ)ぎ嗣(つ)ぎに 玉葛(たまかづら) 絶(た)ゆる事(こと)無(な)く 在(あ)りつつも 止(や)まず通(かよ)はむ 明日香(あすか)の 舊(ふる)き京師(みやこ)[都]は 山(やま)高(たか)み 河(かは)とほしろし 春(はる)の日(ひ)は 山(やま)し見(み)がほ[欲]し 秋(あき)の夜(よ)は 河(かは)し清(さや)けし 旦雲(あさくも)に たづ[鶴]は乱(みだ)る 夕霧(ゆふぎり)に かはづは驟(さは)[騒]く 見(み)る毎(ごと)に 哭(ね)のみし泣(な)かゆ 古(いにしへ)思(おも)へば
現代文  「神の降臨する 神なび山に 多くの枝を伸ばし 生い茂っている つがの木の名のように つぎつぎに 玉かずらのように 絶えることなく このままずっと 止むことなく通いたいと思う 明日香の 古い都は 山は気高く 川も雄大である 春の日は 山が見事で 秋の夜は 川がすがすがしい 朝雲に 鶴は乱れ飛び 夕霧に 蛙はしきりに鳴く それを見るたびに 声を出して泣けてくる 昔のことを思うと」。
文意解説  長歌()。
 初句「三諸乃 神名備山尓」は「三諸(みもろ)の 神名備山(かむなびやま)に」と訓む。156番歌「三諸之」とノの表記は違うが同句。「みもろ」(「み」は接頭語)は、「み室(むろ)」の母韻変化とも、森(もり)の母韻交替とする説もあるが、「神が降臨して依り付くところ。鏡や木綿(ゆう)をかけて神をまつる神座や、木・山・神社など。」をいう。「乃」はノ。「神名備山」は、「神のいらっしゃる場所」という意の普通名詞「神(かむ)なび」に「山」が付いたものであるが、ここは、題詞の「神岳(かむをか)」をいったもので、「神の名を備えた山」の意を持つ表記として漢字表記のままで「神名備山(かむなびやま)」とした。「尓」はニ。

 2句「五百枝刺 繁生有」は「五百枝(いほえ)刺(さ)し 繁(しじ)に生(お)ひたる」と訓む。「五百」は「五百重(いほへ)」として既出、「数の非常に多いこと」の意で、「いほ」の形で接頭語的に用いられる。ここも「五百枝(いほえ)」で以て「数多くの枝」の意。「刺」は「刺(さ)し」。「さす」の基本的な意味については、169番歌のところで述べたが、ここの「さす」は「草木がもえ出る。また、枝が伸び出る」ことをいう。「繁」は「繁(しじ)に」と訓み、「こんもりと。ぎっしりと」の意の副詞で、草木の生い茂っているさまを表す。「生有」は、「生(お)ひたる」と訓む。「おふ」は「(草木などが)はえる。生じる」ことをいう。「たり」を「有」で表記するのは、「たり」が、完了の助動詞ツの連用形テにラ変活用動詞アリ(有り)が付いたテアリが約まってできた語であることによる。

 3句「都賀乃樹乃 弥継嗣尓」は「つが[栂]の樹(き)の・弥(いや)継(つ)ぎ嗣(つ)ぎに」と訓む。この二つの句は、29番歌の7句・8句「樛木乃・弥継嗣尓」と「つがのき」の表記は異なるが、同じ表現。「都賀」はツガで、マツ科の常緑高木である「栂(つが)」を表す。「栂」は国字で、当時この字はなかった。「乃」はノ。「樹」は、字通に「声符は【偏を除いた旁】の字(じゅ)。〔説文〕六上に『木の生植するものの總名なり』(段注本)とあり、樹木をいう」とある。「木」に同じ。次の「乃」はノで「~のように」の意。「弥」は「ひさしい」が本義だが、「いよいよ、ますます」の意として「いや」と訓む。「いや」は、接頭語「い」が物事のたくさん重なる意の副詞「や」に付いたもの。「継」は「糸をつぐ」、「嗣」は「後をつぐ、位につく」が本義。ここでは共に「つぎつぎ」を表わすのに用いられている。「尓」はニ。「つぎつぎに」で「次から次へと、順々に」の意。

 4句「玉葛 絶事無」は「玉葛(たまかづら) 絶(た)ゆる事(こと)無(な)く」と訓む。「玉葛」の「たま」は美称で、「かづら」はつたなどつる性の植物の総称である。「玉葛(たまかづら)」は、つるがどこまでも延びてゆくところから、「長し」「いや遠長く」「絶えず」「絶ゆ」などにかかる枕詞として使われたもので、ここでは、次の「絶ゆ」にかかる。8句「絶事無」は、36番歌22句「絶事奈久」および37番歌4句「絶事無久」と「なく」の表記が異なるだけで同句。「絶」は「絶(た)ゆる」。「たゆ」は「続いているもの(糸)が途中で切れる」ことを意味する。「事」は、用言の連体形を受けて、これを名詞化し、その語句の表わす行為や事態や具体的な内容などを体言化する形式名詞。「無」は「無(な)く」。

 5句「在管裳 不止将通」は「在(あ)りつつも 止(や)まず通(かよ)はむ」と訓む。「在」は「在り」の連用形に訓む。「管」は「くだ、つつ」を意味するが、ここはツツ。「裳(も)」はモ。「在(あ)りつつも」は、「このままずっと。今のままの状態を続けて」の意。金子元臣『萬葉集評釋』に「管裳」を戯書としていることについて、澤潟『萬葉集注釋』は「ズボン式の下裳か、それともタイトスカート式の裳があつたのかも知れない。さうすれば戯書といへる」としている。「不止」は「止(や)まず」。「やむ」は「物事が途中で行なわれなくなる。続いてきたある状態がとだえる」ことをいう。「将通」は「通(かよ)はむ」。「かよふ」は「何らかのつながりができて、ある目的で特定の場所に、いつも行き来する」ことをいう。

 6句「明日香能 舊京師者」は「明日香(あすか)の 舊(ふる)き京師(みやこ)[都]は」と訓む。「明日香」は、奈良県高市郡明日香村付近一帯の称で、北は大和三山にかぎられ、中央を飛鳥川が流れる。豊浦宮に推古天皇が即位して後、百余年間都が置かれた所である。「能」はノ。「舊」は、「旧」の旧字で、『名義抄』に「舊 フルシ・ヒサシ・モト・クミス」とあり、ク活用形容詞「ふるし」の連体形「舊(ふる)き」と訓む。「京師」は漢語で、『公羊伝』(『春秋』の注釈書)に、「京師とは何ぞ、天子の居なり。京とは何ぞ、大なり。師とは何ぞ、衆なり。天子の居は、必ず衆大の辭を以て之れを言ふ」とある。和語の「みやこ(都)」に宛てたもの。「者」はハ。

 7句「山高三 河登保志呂之」は「山(やま)高(たか)み 河(かは)とほしろし」と訓む。ここの「山(やま)」は大和三山をさすものと思われる。「高三」は「高(たか)み」。西宮『萬葉集全注』に「山が高くて、の意。普通は(ヲ)~ミのいわゆるミ語法で『ガ~ノデ』と原因理由を表わす場合に用いられるが、ここの如く次の句と並立して用いられる場合は、ものの状態を述べた用法と言うべきである。」と注している。「河(かは)」は飛鳥川をさすと考えてよいだろう。「登保志呂之」はトホシロシで、「とほしろし」を表わす。「とほしろし」は「大きく立派である。偉大である。雄大である」ことをいう。日本国語大辞典は、この語の【語誌】欄に次のように述べている。
 挙例の「万葉‐三・三二四」の「登保志呂之」は、かつて「あざやか」「さやか」の意と説かれたが、これを「白し」と関係づけることは、上代特殊仮名遣いの上から(「白」の「ろ」は甲類、「とほしろし」の「ろ」は乙類)否定されている。但し、この「ろ」が乙類であるのは、もともとの「白」が上の「とほ」が乙類であるのにひかれて転じたものと見る説もある。

 なお、「とほしろし」の意味が「大・偉大・雄大」の意であることは、石山寺蔵『大唐西域記』の長寛元年の加点に「人骸(ホネ)偉大(トヲシロシ)」とあること等から判明したものである。対句で、「山(やま)」と「河(かは)」という対偶語を使っているが、これが次の二句対に受け継がれて行く。

 8句「春日者 山四見容之」は「春の日は 山し見がほ[欲]し」と訓む。「春日」は既出で、「春日(はるひ)」と訓んだが、ここは間にノを補読して「春(はる)の日(ひ)」と訓む。意味は同じ。「者」はハ。「山」は前句の「山」を受けたもので大和三山を指す。「四」はシ。数字の「四」を用いたのは、「三」、「五」からの連想と思われる。「見容之」は、「記紀歌謡」の仁徳天皇の皇后の歌(『古事記』58番、『日本書紀』では54番)の「和賀美賀本斯久迩波(ワガミガホシクニハ)」や3985番歌「夜麻可良夜(ヤマカラヤ) 見我保之加良武(ミガホシカラム)」の仮名書き例により、「見がほ[欲]し」と訓む。「容」は、ガホを表わすのに用いた借訓字。「容貌」という二字熟語をつくる同義の「貌」を同じくガホの借訓字として用いた例が、1047番歌に「見貌石(ミガホシ)」とある。また、2327番歌に「見我欲(ミガホシ)左右手二(マデニ)」とあることから、ミガホシが「見が欲し」の意であることが察せられる。ここの「見」は、動詞「みる」の連用形の名詞化した「見(み)」で、「見ること」の意。「見が欲し」の「が」は「水が飲みたい」の「が」と同じで、対象語格の助詞。「欲し」は「ほし」で、「そうありたいと思う。望ましい。願わしい」の意。「容」という字を、ここの借訓字として用いたことについてだが、「容」は『字通』に「宀(べん)+谷(よく)。宀は廟屋、谷は祝詞を収める器の(さい)の上に、彷彿として神気があらわれる形。容とは神容をいう。その神容を拝することを願うを欲という」とある字で、ただの借訓字というより、「容」の字を使うことにより、「山し見が欲し」に「神容を拝することを願う」意を込めるとともに「欲し」と訓むことを示唆したものと言えるのではなかろうか。

 9句「秋夜者 河四清之」は「秋(あき)の夜(よ)は 河(かは)し清(さや)けし」と訓む。「秋夜」は「春日」の対偶語で、「秋(あき)の夜(よ)」。「者」はハ。「河(かは)」は前句の「河」を受けたもので、飛鳥川を指す。「清之」は「清(さや)けし」。「音之清左」を「音(おと)の清(さや)けさ」と訓んだ例があったように、「清」は「さやけし」の語幹「清(さや)け」を表わし、「之」はシ。「さやけし」は「音、声などがはっきりとしてさわやかである。快い響きである。耳に快く感じられる」ことをいう。二句対をなしている。

 10句「旦雲二 多頭羽乱」は「旦雲(あさくも)に たづ[鶴]は乱(みだ)る」と訓む。「旦雲」は、「あさくも(朝雲)」と訓み、「朝、空にたなびく雲。」をいう。「旦」を「あさ(朝)」と訓む例は既出。「二」はニ。「多」はタ。「多頭」で以て「鶴」を表わす。鳥名「鶴」は万葉集では全て「たづ」と訓まれている。仮名書き例も71番歌に「多津」の表記で既出。「羽」はハ。「乱」は「乱(みだ)る」。「みだる」は「入りまじる。錯綜する」ことをいう。「多頭羽」という表記が、多くの鶴の頭や羽の入り交じった様子を彷彿とさせる。

 11句「夕霧丹 河津者驟」は「夕霧(ゆふぎり)に かはづは驟(さは)[騒]く」と訓む。「夕霧」は既出で、「ゆふぎり」と訓み、「夕方に立つ霧」をいう。既出の二例は、「旦(朝)露」と対で詠まれていたが、ここは19句の「旦雲」との対で詠まれている。「丹」は二」。「河津」は「かはづ」で「カエル[蛙]の異名」。「河」は借訓字で、「津」は「つ」の常用訓仮名だが、ここは「づ」に流用したもの。「者」はハ。「驟」は「驟(さは)く」。「さわく」は、今の「騒ぐ」で、「やかましい声や音をたてる」ことをいう。二句対をなしている。阿蘇『萬葉集全歌講義』は、13句~22句を、三連対を構成していると見て、次のように述べている。
 山高み 川とほしろし  春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱る 夕霧に かはづは騒く

 連続する対句の後行の対句の対偶語が、先行する対句の対偶語を受け継いで対偶語を構成している場合、連対という。多くは、二連対であるが、本歌の連対は、「朝雲に 鶴は乱る」は、山の朝の景で、「夕霧に かはづは騒く」は、夕の川の景であるから、山と川の対偶表現は三対句にわたって連続しているので、三連対とした。「山高み」と「川とほしろし」は、連続する五音と七音であるから対句としない考え方もあるが、山と川の対比性は明らかで、後行の対句の対偶語「山」と「川」との関係が明瞭なので、一句対一と二句対二の三連対とした。

 結句「毎見 哭耳所泣 古思者」は「見(み)る毎(ごと)に 哭(ね)のみし泣(な)かゆ 古(いにしへ)思(おも)へば」と訓む。「毎見」は「見る毎(ごと)に」と訓む。「見」は「見(み)る」。「毎(ごと)」は、接尾語で名詞や動詞の連体形などに付いて、連用修飾語となる。助詞二を伴うことも多く、ここも「に」を補読して訓む。「…するたびに。」の意。「哭耳」は既出。「哭」は「ね」で「泣く」ことの名詞。「い」が「ぬ(ねる)」の名詞で、「寐(い)も宿(ぬ)る」(46番歌)のように用いられたのと同様に、「哭(ね)を泣く」などのように使われた。ここはそれに限定を表わす副助詞「のみ」(限定・強意を表わす漢文の助字「耳」で表記)を加えたもので、強意の副助詞「し」を補読して「哭(ね)のみし」として次の「泣く」に続けたもの。「所泣」は「泣(な)かゆ」と訓む。「古」は、一字で「いにしへ」と訓む。「いにしへ」は「往(い)にし方(へ)」の意で、遠く久しい過去を漠然という言葉だが、ここは明日香に都があった頃をさす。「思者」は「思(おも)へば」と訓む。
歴史解説

【巻3(325)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。この歌も324番長歌とともに山部赤人の歌。
原文  明日香河  川余藤不去  立霧乃  念應過  孤悲尓不有國
和訳  明日香川 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに
現代文  「明日香川に淀んでいる川淀(かわよど)の霧はやがて消え去る。旧都への思いがその霧のように晴れていくものならば(わが慕情はやがて消え失せるようなではない)」。
文意解説  初句「明日香河  川余藤不去  立霧乃 」「明日香川 川淀さらず 立つ霧の」と訓む。「明日香河」は「明日香河(あすかがは)」と訓む。「明日香河」は今の表記では普通「飛鳥川」と書かれる。日本国語大辞典には「奈良県明日香地方を流れる川。高取山を源とし、大和川に入る。全長二八キロメートル。昔は流路がたびたび変わったところから、定めなき世のたとえとされ、また、『あす』という音から、『明日(あす)』にかけても用いられた。歌枕」とある。確かに万葉集にも、2701番歌「明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも」のように「明日」にかける例も見られるが、万葉集では、「流れの早い、水かさの多い川」として恋の妨げになるものとして詠われていることのほうが多い(2702・2713番歌ほか)。「川余藤不去」は「川(かは)よど[淀]去(さ)らず」と訓む。「川余藤」は、「川(かは)よど[淀]」で、「川水のよどんでいる所」の意。「余」はヨ、「藤」はド。「不去」は「去(さ)らず」と訓む。「さる」は「ある場所から離れて行く」ことをいう。「立霧乃」は「立つ霧(きり)の」と訓む。「立」は「立つ」。「雲、霧、煙などが現れ出る」ことをいう。「霧」は、長歌(324番歌)の「夕霧」を承けたもの。「乃」はノ。

 結句「念應過  孤悲尓不有國」「思ひ過ぐべき 恋にあらなくに」と訓む。「念應過」は「念(おも)ひ過ぐべき」と訓む。「念」は「念(おも)ひ」。「應過」は、「不去」と同じく漢文的表記、「過ぐべき」と訓む。ここの「すぐ」は「ある気持などが消えてなくなる」ことをいう。「孤悲尓不有國」は「こひ[恋]に有(あ)らなくに」と訓む。「孤悲」は、動詞「こふ(恋ふ)」の連用形の名詞化した「こひ」を表わしたもの。古典基礎語辞典によれば、「こひ」は、本来は「離れている一人の異性に身も心も気持ちを表す。」が、ほかに「時間的、空間的に隔たった動植物・場所・事物などに思慕の情を寄せる場合にも比喩的に使われた。」とあり、「孤悲」という表記については、「一人悶々と恋着する様子をよく表した用字法である。」としている。ここの「こひ」は、長歌(324番歌)に「明日香(あすか)の 舊(ふる)き京師(みやこ)[都]は」と詠んだ「明日香」への思慕の情をいったもの。「尓」はニ音の常用音仮名で、格助詞「に」。「不有國」は、154・265番歌に同じ表記で、また263番歌では「安良七國」の表記で既出。「有(あ)らなくに」は、「有(あ)らなく」に二を添えたもの。「不」は2句に同じで、打消しの助動詞の表記に用いたもの。「國」は「くに」。この歌は単独ではすっきり解し辛い。結句の「恋にあらなくに」は何を恋しく思ってのことかはっきりしないからである。が、長歌の内容から旧都(飛鳥京)への強い復古の思いであることが分かる。反語表現の歌である。
歴史解説

【巻3(326)。】
 
題詞  門部王(かどへのおおきみ)の作歌。「門部王(かどへのおおきみ)が難波から漁父の燭光を見て作った歌」。
原文  見渡者  明石之浦尓  焼火乃  保尓曽出流  妹尓戀久
和訳  見わたせば 明石の浦に 燭す火の 穂にぞ出でぬる 妹に恋ふらく
現代文  「」。
文意解説  この歌の核心は第四句の「穂にぞ出でぬる」にある。諸家は「燭光(ともしび)のようにはっきりと人目につく」と解している。確かに「穂」は稲穂のようにはっきり突きだしてきたときに使われる用語なので「恋を燭光にたとえた」と解するに不満はない。が、それを「人目につく」と解するのは不当であろう。作者は難波の海辺から遠く明石方面を見ている。燭光が光っているのであるから真っ暗闇である。「目立つ」と「人目につく」は意味が違う。真っ暗闇に浮かぶ燭光の群れに神秘的な情景を感じ取り、「妹に恋ふらく」と結句している歌意をそのままに受け取るべきだろう。「人目につく」喩えに使うなら「漁り火のごと」で十分であり「明石の浦に燭す火の」と地名まで入れて具体的に詠む必要がない。遙か海上沖合に浮かぶ燭光群、その神秘的な情景と相まって作者の心に彼女を恋する恋情が催した様を歌い上げていると解するべきだろう。
歴史解説

【巻3(327)。】
 
題詞  或る娘子たちが干しアワビを包んで通觀僧(つうくわんほふし)に贈った。その際戯れに僧に祈願を請うた。これに応えて作った歌。
原文  海若之  奥尓持行而  雖放  宇礼牟曽此之  将死還生
和訳  海神の 沖に持ち行きて 放つとも うれむぞこれが よみがへりなむ
現代文  「干しアワビを海に放って祈願しても、結局は蘇ることはあるまい」。
文意解説  発句の「海神(わたつみ)の」は厳密には「海神が治める」の意だが単純に「海」と考えていい。続く「沖に持ち行きて放つとも」は、何を沖に持っていって放ったのか分からない。題詞により干しアワビと分かる。次句の「うれむそこれが」につき、岩波大系本と中西本は未詳としている。伊藤本は「どうしてこんなものが」と解している。「うれむぞ」の例として2487番歌に「奈良山の小松が末のうれむぞは我が思ふ妹に逢はずやみなむ」とある。すなわち「小松が末(うれ)のうれむぞ」という使われ方だ。「小松が末の」は「うれむぞ」を引き出すための序の形になっている。が、素直に比喩ととることもできる。つまり「松の小枝の先のように」である。したがって「うれむぞ」の「うれ」は「末」で、「むぞ」は「結局は」の「は」と同じで強調。なので「うれむぞ」は「結局のところ」という意味になる。問題はこう解したとき2487番歌の歌意が通るかである。色々思い悩んでも結局のところは「我が思ふ妹に逢はずやみなむ」とぴったり歌意が通ることが確認できる。本歌の「うれむぞ」も同様に「結局は」で歌意が通るだろうか。結句の「よみがへりなむ」は「蘇るだろうか」の意で、干しアワビの甦生を思念していることになる。
歴史解説

【巻3(328)。】
 
題詞  小野老朝臣(をののおゆのあそみ)の作歌。
原文  青丹吉  寧樂乃京師者  咲花乃  薫如  今盛有
和訳  あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
現代文  「」。
文意解説  この歌から351番歌に至る24歌は筑紫(九州)の太宰府に赴任している大伴旅人を囲んで宴会を催しているときの歌のようだ。なので故郷平城京への望郷の歌である。「あをによし」は80番歌にも出ているが奈良にかかる有名な枕詞。奈良の都は、こんもりした木々の緑はもとより、建ち並ぶ堂宇(建物群)には青、丹、朱等様々な色彩が施され華やかな都だったに相違ない。桜が咲きほこる様子と奈良の都の美しさをだぶらせて詠い込んだ秀歌である。
歴史解説

【巻3(329)。】
 
題詞  大伴四綱(おおとものよつな)の作歌。この歌と次歌の2首は大伴四綱(おおとものよつな)の歌。
原文  安見知之  吾王乃  敷座在  國中者  京師所念
和訳  やすみしし 我が大君の 敷きませる 国の中には 都し思ほゆ
現代文  「天皇は様々な国々を治めていらっしゃるが、なんといっても奈良の都のことが思い浮かぶ」。
文意解説
 「やすみしし」は枕詞。大部分(26例中23例)は長歌に使用されている。「敷きませる」は「お治めになっている」である。「都し」の「し」は強調の「し」。
歴史解説

【巻3(330)。】
 
題詞  大伴四綱(おおとものよつな)の作歌。
原文  藤浪之  花者盛尓  成来  平城京乎  御念八君
和訳  藤波の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君
現代文  「」。
文意解説  藤の花は奈良では桜よりすこし後に盛りとなるが太宰府ではもう藤の季節を迎えている。「思ほすや君」の君は大伴旅人のこと。波打つように咲きほこる藤の花を都の桜花になぞらえたかのような歌である。小野老朝臣の328番歌を意識しての歌だろうか。
歴史解説

【巻3(331)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。「帥大伴卿(そち、おおとものまえつきみ)の歌五首」。大伴卿とは大伴旅人のこと。331~335番歌は彼の歌。
原文  吾盛  復将變八方  殆  寧樂京乎  不見歟将成
和訳  我が盛り またをちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ
現代文  「」。
文意解説  「我が盛り」はむろん奈良の都で威勢を誇っていた時期のこと。「またをちめやも」は「復帰できるだろうか」である。「ほとほとに」は「いやいや」。「このまま都を見ずじまいになりそうだ」が結句。弱気が正面に出た歌。師(そち)は太宰府の長官。また卿(まえつきみ)は省の長(現在の大臣クラス)。そんな高官も太宰府の長官では不本意だったのだろうか。
歴史解説

【巻3(332)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  吾命毛  常有奴可  昔見之  象<小>河乎  行見為
和訳  我が命も 常にあらぬか 昔見し 象の小川を 行きて見むため
現代文  「」。
文意解説  「我が命も常にあらぬか」は「私の命が続くなら」である。後半の「象(きさ)の小川」すでに315番歌で見たように、吉野川に注ぐ小川のこと。同歌は旅人の父中納言安麻呂の歌。明らかに父の歌を意識した歌。「昔見し」は青年期を父と共に過ごした飛鳥時代のことを指している。父は315番歌の後、大納言に昇進し没する。旅人は太宰府時代は中納言。失意の淵に沈んだような歌だが、旅人も父のように大納言を望んでいたのだろうか。旅人歌は720年代後半に作られたとすると、実際は数年後の天平2年(730年)に京に呼び戻され、大納言に任ぜられている。
歴史解説

【巻3(333)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  淺茅原  曲曲二  物念者  故郷之  所念可聞
和訳  浅茅原 つばらつばらに もの思へば 古りにし里し 思ほゆるかも
現代文  「目前の浅茅原を前にしてもの思いにふけっていると昔過ごした故郷のことが思い起こされる」。
文意解説  浅茅原は丈の低い茅草が一面に生えている荒涼とした原。「つばらつばらに」は「つくづくと」、「古りにし里」は「故郷」のことである。
歴史解説

【巻3(334)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  萱草  吾紐二付  香具山乃  故去之里乎  <忘>之為
和訳  忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古りにし里を 忘れむがため
現代文  「その草を紐に付けているのは香具山があった故郷を忘れんがため」。
文意解説
 忘れ草は萱草だが、萱草を身に付けていると憂さも忘れると思われていたようである。
歴史解説

【巻3(335)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  吾行者  久者不有  夢乃和太  湍者不成而  淵有<乞>
和訳  我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にありこそ
現代文  「浅瀬になんかならないで昔どおりの淵のままであってくれ」。
文意解説  「我が行きは」は赴任を旅行と見立てた言い方だが、「久にはあらじ」と続くと、「寿命が尽きるのも長くはあるまい」と言う風に読み取れる。「夢のわだ」とは吉野川宮滝の美しい淵。以上が旅人の5首である。いずれも老境の悲哀が漂う。大伴旅人は大伴家持(おおとものやかもち)を子に持つ華麗な一族をして悲哀せしめるものは何だろうか。
歴史解説

【巻3(336)。】
 
題詞  沙弥満誓(さみまんせい)の作歌。
原文  白縫  筑紫乃綿者  身箸而  未者<伎>袮杼  暖所見
和訳  しらぬひの 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖かに見ゆ
現代文  「」。
文意解説
 発句の「しらぬひの」を「しらぬひ」の四音でとめている。且つ岩波大系本と伊藤本は枕詞としている。発句を四音とするのは滅多にない。あえて四音に読むのならその理由なり説明なりが必要であろう。「しらぬひ」の例は本例を含めてもたった3例しかない。いずれも本来五音で読まれてしかるべき位置に使われている。枕詞というのであれば原文の「白縫」を四音でとめてしまうのは不可解。「の」を補って「しらぬひの」としなければならない筈である。たとえば「いにしへの奈良の都」で有名な「いにしへの」。原文は「古」、「古之」、「古乃」、「古昔」、「昔者之」、「古都之」、「去家之」と実に様々に表記している。なのに諸家すべて「いにしへの」と五音に読んでいる(訓じている)。察するところ佐々木本が「しらぬひ」の四音どめにしているのでそれに従っているらしい。普通に五音に訓じて「しらぬひの」としておきたい。綿は「わた」のことだが、「着てみたことはないが暖かそうだ」という歌である。「しらぬひの」は「燃えさかる」とか「輝ける」といった類の美称語であろう。筑紫は太宰府を中心とする北九州。
歴史解説





(私論.私見)