万葉集巻3-2

 (最新見直し2011.8.25日)

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 ここで、万葉集巻3について確認しておく。「訓読万葉集 巻1 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―」、「万葉集メニュー」、「万葉集」その他を参照する。

 2011.8.28日 れんだいこ拝


【巻3】
 第3巻は、235-295まで。235-295、296-336、337-407、415-483に分かれる。第3巻は雑歌(ぞうか)、譬喩(ひゆ)歌、挽歌(ばんか)で構成されている。ここでは、337-407、415-483を採り上げる。万葉集読解27、万葉集読解28、万葉集読解29、万葉集読解30、万葉集読解31、万葉集読解32、万葉集読解33、万葉集読解34を参照する。

【巻3(337)。】
 
題詞  山上憶良臣の作歌。「山上憶良臣が宴席から退出する時の歌」。
原文  憶良等者  今者将罷  子将哭  其彼母毛  吾乎将待曽
和訳  憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ
現代文  「」。
文意解説
 この歌によって328番歌から始まる一連の歌が太宰府に赴任していた大伴旅人を囲んでの宴席上で詠われたらしい歌であることが分かる。そしてその宴の一員に山上憶良(やまのうえのおくら)も加わっていた。この宴がいつ開かれていたのか確定できないが、旅人の太宰府在任期間は神亀年間(724~729年)とされている。この時旅人は65歳前後の頃である。山上憶良はその旅人よりも2歳年長である。
歴史解説

【巻3(338)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。「大宰帥大伴卿(旅人)の酒を讃える歌十三首」。338~350番歌は大伴旅人の歌。
原文  験無  物乎不念者  一坏乃  濁酒乎  可飲有良師
和訳  験なき ものを思はずは 一杯の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
現代文  「はっきりしないことなど思わずに、」。
文意解説  「験(しるし)なきものを思はずは」の「験」は「徴」。なので「はっきりしないことなど思わずに」だ。331番歌などで「都を見ずに終わってしまうのか」などと諦めきった歌を残している旅人。ここの「験なき」は「あてのない先行き」くらいにとっておけばよかろう。
歴史解説

【巻3(339)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  酒名乎  聖跡負師  古昔  大聖之  言乃宜左
和訳  酒の名を 聖(ひじり)と負ほせし いにしへの 大き聖の 言の宣(よろ)しさ
現代文  「」。
文意解説  「酒の名を聖と負ほせし」を岩波大系本は「魏の太祖が禁酒令をで酒呑みが清酒を聖人、濁酒を賢人呼んだ故事」を引き合いに出し、補注さえ設けて縷々説明している。「酒のことを聖(ひじり)と名付けた至言者(大き聖)がいる」であり、「まさに至言よ」が歌意。
歴史解説

【巻3(340)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  古之  七賢  人等毛  欲為物者  酒西有良師
和訳  いにしへの 七の賢しき人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし
現代文  「中国古代の七賢人として有名な人々も好んだのは酒であるようである」。
文意解説  本歌は前歌と異なって故事を述べた方が理解の助けになる。一般に七賢人といえば古代ギリシャの治者をいうが、ここは古代中国の故事で、酒を呑みながら清談(天下国家を談ずる)に耽った竹林の七賢人のこと。
歴史解説

【巻3(341)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  賢跡  物言従者  酒飲而  酔哭為師  益有良之
和訳  賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし まさりたるらし
現代文  「酒の席で、訳知り顔で説き立てるよりは酔い泣きしている方がましと思うよ」。
文意解説  「賢しみと物言ふよりは」は「訳知り顔で説き立てるよりは」の意。
歴史解説

【巻3(342)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  将言為便  将為便不知  極  貴物者 酒西有良之
和訳  言はむすべ 為むすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし
現代文  「なすすべもない時、自分を慰めてくれる酒に優るものはない」。
文意解説  「言はむすべ為むすべ知らず」の「すべ」はいうまでもなく「なすすべもなし」の術(すべ)。
歴史解説

【巻3(343)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  中々尓  人跡不有者  酒壷二  成而師鴨  酒二染甞
和訳  なかなかに 人とあらずは 酒壷に なりにてしかも 酒に染みなむ
現代文  「人ではなくて酒壷になって酒に浸っていたい」。
文意解説  「なかなかに」は「なまじっか」。
歴史解説

【巻3(344)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  痛醜  賢良乎為跡  酒不飲  人乎熟見<者>  猿二鴨似
和訳  あな醜(みにく) 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る
現代文  「」。
文意解説  「あな醜(みにく)」は「アア醜い」だが現代的感覚だと「何と見苦しいことよ」。「賢しらをすと」は「利口ぶって」だ。分からないのは結句の「猿にかも似る」。
歴史解説

【巻3(345)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  價無  寳跡言十方  一坏乃  濁酒尓  豈益目八<方>
和訳  価なき 宝といふとも 一杯の 濁れる酒に あにまさめやも
現代文  「どんなに貴重な宝といえど、一杯のドブロクにもかなわない」。
文意解説  「価なき宝」は、むろん、値打ちのないという意味ではなく、「値のつけようがないほど高価な宝」という意味である。
歴史解説

【巻3(346)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  夜光  玉跡言十方  酒飲而  情乎遣尓  豈若目八方
和訳  夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あにしかめやも
現代文  「」。
文意解説  前歌と相似した歌。「心を遣るに」は「憂さを晴らすに比べれば」である。むろん、前歌の「あにまさめやも」も本歌の「あにしかめやも」も同意。
歴史解説

【巻3(347)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  世間之  遊道尓  怜者  酔泣為尓  可有良師
和訳  世のなかの 遊びの道に すずしくは 酔ひ泣きするに あるべくあるらし
現代文  「荒涼たる気分の自分には酔いつぶれて泣き崩れるしかないではないか」。
文意解説  「遊びの道」とは当時の官人たちがたしなんだ歌舞音曲や狩猟等を指している。「すずしくは」は原文の「怜者」からして冷淡(無関心)の意。
歴史解説

【巻3(348)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  今代尓之  樂有者  来生者  蟲尓鳥尓毛  吾羽成奈武
和訳  この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我れはなりなむ
現代文  「」。
文意解説  「この世にし」の「し」は例によって強調の「し」。
歴史解説

【巻3(349)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  生者  遂毛死  物尓有者  今生在間者  樂乎有名
和訳  生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
現代文  「」。
文意解説  「遂にも」は「結局は」の意。
歴史解説

【巻3(350)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  黙然居而  賢良為者  飲酒而  酔泣為尓  尚不如来
和訳  黙然をりて 賢(さか)しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほしかずけり
現代文  「黙りこくって利口ぶる奴らより酒に酔い泣きしてた方がましではないか」。
文意解説  244番歌や246番歌等と同工異曲。黙然は「もだ」と読む。
歴史解説

【巻3(351)。】
 
題詞  沙弥満誓(さみまんせい)の作歌。
原文  世間乎  何物尓将譬  <旦>開  榜去師船之  跡無如
和訳  世のなかを 何に譬へむ 朝開き 漕ぎ去(い)にし船の 跡なきごとし
現代文  「」。
文意解説  「朝開き漕ぎ去(い)にし」とは朝港が開かれて船が出て行くこと。人生を船の航跡が跡形もなくなってしまうことにたとえた無常の歌とされている。大伴旅人を取り囲んだ宴の歌は328番歌から始まり、この351番歌に至って終焉している。この宴に参加した人々は小野老朝臣、大伴四綱、大伴旅人、沙弥満誓、山上憶良の少なくとも五人であったことがうかがえる。旅人を除く4人は1,2首づつしか歌を遺していないが旅人だけは18首も遺している。
歴史解説

【巻3(352)。】
 
題詞  若湯座王(わかゆゑのおほきみ)の作歌。
原文  葦邊波  鶴之哭鳴而  湖風  寒吹良武  津乎能埼羽毛
和訳  葦辺には 鶴が音鳴きて みなと風 寒く吹くらむ 津乎の崎はも
現代文  「」。
文意解説
 「鶴が音」は「たづがね」と読む。津乎の崎(つをのさき)はどこの岬のことか分かっていない。寒風吹きすさぶ岬と鋭く鳴く鶴の声、手前には葦が生えているばかり。荒涼とした風景である。
歴史解説

【巻3(353)。】
 
題詞  釋通觀(しゃくつうぐわん)の作歌。
原文  見吉野之  高城乃山尓  白雲者  行憚而  棚引所見
和訳  み吉野の 高城の山に 白雲は 行きはばかりて たなびけり見ゆ
現代文  「」。
文意解説  「高城の山」はどの山のことか不明だが、不明のままでも鑑賞には差し支えなかろう。そこに白雲がとどまってたなびいているという風景歌。
歴史解説

【巻3(354)。】
 
題詞  日置少老(へきのをおゆ)の作歌。
原文  縄乃浦尓  塩焼火氣  夕去者  行過不得而  山尓棚引
和訳  縄の浦に 塩焼く煙 夕されば 行き過ぎかねて 山にたなびく
現代文  「煙が山側に流れていってたなびいている」。
文意解説  縄(なは)の浦は兵庫県相生市那波町の海岸とされる。「夕されば」は「夕方になると」である。
歴史解説

【巻3(355)。】
 
題詞  生石村主真人(おひしのすぐりのまひと)の作歌。
原文  大汝  小彦名乃  将座  志都乃石室者  幾代将經
和訳  大汝 少彦名の いましけむ 志都の石屋(いはや)は 幾代経にけむ
現代文  「二神がいらっしゃっyたという、この志都(しつ)の石屋(いはや)は幾代の年月を経てきたことだろう」。
文意解説  大汝(おほなむち)や少彦名(すくなひこな)の名は記紀を読んだことのある人ならお馴染みの神の名である。 大汝は大国主命(おほくにぬしのみこと)、大己貴命(おほなむち)等々色々な呼び方をされている。出雲大社の祭神である。また、少彦名は沖合から波に乗ってやってきた小さな神で、大汝と共に国造りを行った神として描かれている。
歴史解説

【巻3(356)。】
 
題詞  上古麻呂(かみのこまろ)の作歌。
原文  今日可聞  明日香河乃  夕不離  川津鳴瀬之  清有良武 [或本歌發句云 明日香川今毛可毛等奈]
和訳  今日もかも 明日香の川の 夕去らずか 川津(はづ)鳴く瀬の さやけくあるらむ
 明日香川 今もかもとな 夕去らずか 川津(はづ)鳴く瀬の さやけくあるらむ
現代文  「蛙たちが長い夕暮れどきに鳴き交わす明日香川のせせらぎが今日も美しく流れていることだろう」。
文意解説  「今日もかも」は「今日もまた」である。「夕不離」を諸家は「夕さらず」と訓じて「夕方になると」の意と解している。「夕さらず」は本歌のほかに3例あるが全部原文表記が微妙に異なる。夕不去(1372番歌)、初夜不去(2098番歌)、暮不去(2222番歌)、そして本歌の「夕不離」。諸家はすべて「毎夕」の意にとっているが、夕暮れの長い時節を詠う「夕さらず」だと思われる。事実、2163番歌の「朝夕毎」のように毎度の場合はちゃんと「毎」の字が入っている。なお、この歌の上二句に異伝が伝えられている。「今日もかも」に相当する部分が「今もかもとな」となっている。「もとな」は現在でも「心もとない」と使われているように「なにゆえか」の意。本歌の「今日もかも」はその意のとおり「ずっと継続して」ということ。が、異伝の方は今現在の状況を踏まえて歌にしている。異伝歌の方が数段秀でた歌に思われる。
歴史解説

【巻3(357)。】
 
題詞  山部宿祢赤人(やまべのすくねのあかひと)の作歌。山部宿祢赤人(やまべのすくねのあかひと)の歌六首」。本歌~363番歌(異伝歌を含む)までは赤人の作。
原文  縄浦従  背向尓所見  奥嶋  榜廻舟者  釣為良下
 縄の浦ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 漕ぎ廻る舟は 釣りしすらしも
現代文  「ゆっくり漕いで移動する船が目に入るが釣りをしているだろうか」。
文意解説  縄(なは)の浦は3番前の354番歌参照。「縄の浦ゆ」の「ゆ」はたびたび出現しているように「から」。そがひは原文の「背向」からうかがわれるように、遙か遠く沖合の島のこと。つまり、手前に縄の浦があって釣り船の背後の島のことを指していると思われる。絵はがきのように美しい光景である。すでに見た赤人の代表歌「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(318番歌)といい本歌といい、雄大な情景を実にのびやかに詠っている。
歴史解説

【巻3(358)。】
 
題詞  山部宿祢赤人(やまべのすくねのあかひと)の作歌。
原文  武庫浦乎  榜轉小舟  粟嶋矣  背尓見乍  乏小舟
和訳  武庫の浦を 漕ぎ廻る小舟 粟島を そがひに見つつ 羨しき小舟
現代文  「粟島を背後にして小舟がのんびりと釣りなどをしている。羨ましい限り」。
文意解説  武庫の浦は兵庫県武庫川河口の近海。この歌にも「そがひ」が使用されている。「自分の背後」の意に取る人もあるようだが、不可。原文に「背尓」とあるように、背後のこと。
歴史解説

【巻3(359)。】
 
題詞  山部宿祢赤人(やまべのすくねのあかひと)の作歌。
原文  阿倍乃嶋  宇乃住石尓  依浪  間無比来  日本師所念
和訳  阿倍の島 鵜の住む磯に 寄する波 間なくこのころ 大和し思ほゆ
現代文  「」。
文意解説  阿倍の島は所在不詳。その島の磯には鵜が住み着いている。その磯に絶え間なく波が打ち寄せる。その波のように絶え間なく(しきりに)大和が思われる。つまり強い望郷の歌である。
歴史解説

【巻3(360)。】
 
題詞  山部宿祢赤人(やまべのすくねのあかひと)の作歌。
原文  塩干去者  玉藻苅蔵  家妹之  濱褁乞者  何矣示
和訳  潮干なば 玉藻刈りつめ 家の妹が 浜づと乞はば 何を示さむ
現代文  「故郷の妻に浜のみやげを乞われたら他に何を示そう」。
文意解説  「潮干なば玉藻刈りつめ」は「潮が干いたら藻を狩り集めておいてくれないか」の意。だが、結句の「何を示さむ」は両様に取れる。一つは「この土地の浜のみやげは藻しかないので」と取る解し方。が、これを反語表現と取るのも可能かと思う。「藻をおいて他にいい土産があろうか」と。つまり、ここの藻は他のなにものにもましてすばらしいの意になる。藻に玉という美称がついていることを考えると後者の意にとっておきたい。
歴史解説

【巻3(361)。】
 
題詞  山部宿祢赤人(やまべのすくねのあかひと)の作歌。
原文  秋風乃  寒朝開乎  佐農能岡  将超公尓  衣借益矣
和訳  秋風の 寒き朝明を 佐農の岡 越ゆらむ君に 衣貸さましを
現代文  「」。
文意解説  佐農の岡(さぬのをか)はどこの岡か未詳。朝明(あさけ)はむろん夜明け。衣(きぬ)は着物。他はそのままで歌意が取れよう。
歴史解説

【巻3(362)。】
 
題詞  山部宿祢赤人(やまべのすくねのあかひと)の作歌。
原文  美沙居  石轉尓生  名乗藻乃  名者告志<弖>余  親者知友
和訳  みさご居る 磯廻に生ふる 名乗藻の 名は告らしてよ 親は知るとも
現代文  「親に知られてもいいから名を教えてよ」。
文意解説  ミサゴは猛禽類。鷹の仲間。磯廻(いそみ)は磯の湾曲した場所。名乗藻(なのりそ)はそう呼ばれた海藻の一種。「なのりそ」は「名告りそ」とも書けるので下二句を導き出すための序歌になっている。女性への求婚歌。
歴史解説

【巻3(363)。】
 
題詞  山部宿祢赤人(やまべのすくねのあかひと)の作歌。
原文  美沙居  荒礒尓生  名乗藻乃  <吉>名者告世  父母者知友
和訳  みさご居る 荒磯に生ふる 名乗藻の よし名は告らせ 親は知るとも
現代文  「」。
文意解説  前歌の異伝歌。ほぼ同歌といっていい求婚歌。ここまでが赤人の歌。
歴史解説

【巻3(364)。】
 
題詞  笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)の作歌。本歌と次歌の二首は笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)の歌。
原文  大夫之  弓上振起  射都流矢乎  後将見人者  語継金
和訳  ますらをの 弓末振り起し 射つる矢を 後見む人は 語り継ぐがね
現代文  「」。
文意解説  「ますらを」は男の美称で「立派な男が」の意。この歌の末尾の「~がね」に関して、岩波大系本は数多くの実例歌を挙げ詳細な補注を施している。参考までに実例歌を掲げておくと、1906番歌、1958番歌、2304番歌などである。これによると、「語り継ぐがね」は「語り継ぐかも知れないのだから」となる。つまり、前半部で「弓末(ゆずゑ・・尻)を振り起してしっかり射放ったますらをの矢は」と詠い、後半部でなぜかといえば「後見む人は語り継ぐがね」と示しているわけである。当時、山中で国境越えをする際大きな神木に矢を射る習俗があったという。前記補注に「各地の神木の大樹の中(杉など)から数多くの矢じりが見出された記録がある」とある。
歴史解説

【巻3(365)。】
 
題詞  笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)の作歌。
原文  塩津山  打越去者  我乗有  馬曽爪突  家戀良霜
和訳  塩津山 打ち越え行けば 我が乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも
現代文  「」。
文意解説  塩津山(しほつやま)は近江(滋賀県)と敦賀(福井県)の国境付近の山。その山を越えて行くとき私が乗った馬がつまづいたという歌だが、岩波大系本は結句の「家恋ふらしも」を「家人が私を慕っているらしい」と解している。伊藤本も中西本も同様の解である。岩波大系本が解の例として挙げているのは、1696番歌の「衣手の名木の川辺を春雨に我れ立ち濡ると家思ふらむか」である。たしかにこの歌の場合は家は家人を意味している。直前に「春雨に私が立ち濡れていると」とあるからである。が、本歌はこれとは全く異なる。「馬ぞつまづく」といったん歌意が切れている。第三句の「我が乗れる」は状況句に過ぎなく、主体は「馬」にあるこというまでもない。馬ぞと強調の「ぞ」まで付されている。そして結句の「家恋ふらしも」につなげている。なので私は「馬も故郷を思って急ぐ余りつまづいた」の意だと思う。つまりそれだけ作者の望郷の念が強い歌に相違ない。
歴史解説

【巻3(366)。】
 
題詞  笠朝臣金村の作歌。「角鹿津乗船時笠朝臣金村作歌一首 并短歌 」。
原文 越海之    角鹿乃濱従   大舟尓   真梶貫下     勇魚取   海路尓出而   阿倍寸管  我榜行者    大夫乃   手結我浦尓   海未通女  塩焼炎     草枕    客之有者    獨為而   見知師無美   綿津海乃  手二巻四而有  珠手次   懸而之努櫃   日本嶋根乎
和訳 こしのうみの つのがのはまゆ おほぶねに まかぢぬきおろし いさなとり うみぢにいでて あへきつつ わがこぎゆけば ますらをの たゆひがうらに あまをとめ しほやくけぶり くさまくら たびにしあれば ひとりして みるしるしなみ わたつみの てにまかしたる たまだすき かけてしのひつ やまとしまねを
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(367)。】
 
題詞  笠朝臣金村の作歌。角鹿津(つのがのつ)で乗船する時の歌。本歌も366番長歌ともども笠朝臣金村の歌。
原文  越海乃  手結之浦<矣>  客為而 見者乏見  日本思櫃
和訳  越の海の 手結が浦を 旅にして見れば 羨しみ大和偲ひつ
現代文  「旅路にあって海岸風景を見ると羨ましい限りである」。
文意解説  角鹿津は敦賀(福井県)の港。手結(たゆひ)が浦は敦賀湾の田結海岸だという。結句の「大和偲ひつ」は一見唐突に見える。が、海のない大和と敦賀湾では似ても似つかない光景である。が、遠く異なった光景を見ているからこそ、かえって故郷のことに思いがいくのだろう。
歴史解説

【巻3(368)。】
 
題詞  石上大夫(いそのきみのまえつきみ)の作歌。左注に「石上朝臣乙麻呂(いそのかみのあそみおとまろ)が越前国(福井県北部から石川県南部にかけての国)の国守に任ぜられている」とある。
原文  大船二  真梶繁貫  大王之  御命恐  礒廻為鴨
和訳  大船に 真楫繁貫き(まかじさしぬき) 大君の 命かしこみ 磯廻(いそみ)するかも
現代文  「」。
文意解説
 この歌は単独で鑑賞しても感興が湧きにくい。「真楫繁貫き(まかじさしぬき)」は「多くの梶を取りつけて」の意。「大君(おほきみ)の命(みこと)かしこみ」は「朝廷の命を受けてやってきた(すなわち金村を迎えて)」である。結句の「磯廻(いそみ)するかも」(磯めぐり)は越前国海岸(日本海)を順次案内してめぐっていることを指している。前歌は中央の大和からやってきた笠朝臣金村が海路中に詠った歌だった。本歌は国守石上朝臣の歌と注記されている。さらに次歌の内容を考慮すると、国守自らが金村と共に船に同乗して案内役をかって出ている場面と考えていい。
歴史解説

【巻3(369)。】
 
題詞  前歌に応えての歌。この歌の作者は記されていないが左注に「作者未詳だが、笠朝臣金村歌集にある」とある。物部氏は大伴氏と共に軍事氏族として朝廷に仕え発展してきた名族である。石上氏(いそのかみうじ)はその物部氏のいわば本家。したがってこの歌は案内役に立っている国守石上朝臣を持ち上げている歌と分かる。
原文  物部乃  臣之壮士者  大王之  任乃随意  聞跡云物曽
和訳  物部の 臣の壮士は 大君の 任けのまにまに 聞くといふものぞ
現代文  「」。
文意解説  「物部(もののべ)の臣(おみ)の壮士(おとこ)は」と詠い出し、「朝廷の命に忠実な忠臣」と結んでいることになる。「聞く」は耳で聞くなどという意味ではなく、いうことを聞くの意で、「命に従う」である。
歴史解説

【巻3(370)。】
 
題詞  安倍廣庭卿(あへのひろにはのまえつきみ)の作歌。
原文  雨不零  殿雲流夜之  潤濕跡  戀乍居寸  君待香光 
和訳  雨降らず 殿曇る夜の じとじとと 恋ひつつ居りき 君待ちがてり
現代文  「」。
文意解説  この歌の第三句「潤濕跡」の訓は「うるほへど」、「ぬるぬると」、「濡れひづと」とまさにまちまちである。というのも、この歌、第三句までは相手を待つ気持ちの比喩。そしてそのようにも「潤濕跡」と下の句に続く歌である。なので「潤濕跡」は前半部にも後半部にも通じる訓でないといけない。どの訓もよしとしなければならないが、私は待つ身の心情に重点を置いて「じとじとと」と訓じておきたい。「殿曇る」は一面の曇り。梅雨時の天候そのものの天気で「じめじめと」と訓じてもいいだろう。「君待ちがてり」は「君を待ちつつ」だ。君というのは通常女性から男性を呼ぶときに使われる言葉なので女性歌のような歌である。
歴史解説

【巻3(371)。】
 
題詞  出雲守門部王(いづものかみかどへのおほきみ)の作歌。「出雲守門部王(いづものかみかどへのおほきみ)が京(みやこ)をしのんで作った歌」。細注に「後に大原真人(おほはらまひと)の氏(うじ)を賜う」と記されている。
原文  飫海乃  河原之乳鳥  汝鳴者  吾佐保河乃  所念國
和訳  意宇の海の 河原の乳鳥 汝が鳴けば 我が佐保川の 思ほゆらくに
現代文  「」。
文意解説  意宇(おう)の海は松江市の東方にある中海。「乳鳥」は白い鳥でユリカモメを指していると考えてよかろう。「我が佐保川」は題詞から推察されるように佐保川(奈良市)のこと。
歴史解説

【巻3(372)。】
 
題詞  山部宿祢赤人(やまべのすくねあかひと)の作歌。「山部宿祢赤人登春日野作歌一首 并短歌 」(山部宿祢赤人(やまべのすくねあかひと)が春日野に登った時の歌)。
原文 春日乎  春日山乃    高座之   御笠乃山尓   朝不離   雲居多奈引   容鳥能   間無數鳴    雲居奈須  心射左欲比   其鳥乃   片戀耳二    晝者毛  日之盡    夜者毛  夜之盡    立而居而  念曽吾為流    不相兒故荷
和訳 はるひを かすがのやまの たかくらの みかさのやまに あささらず くもゐたなびき かほとりの まなくしばなく くもゐなす こころいさよひ そのとりの かたこひのみに ひるはも ひのことごと よるはも よのことごと たちてゐて おもひぞあがする あはぬこゆゑに
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(373)。】
 
題詞
原文  高按之  三笠乃山尓鳴<鳥>之  止者継流  <戀>哭為鴨
和訳  高座の 御笠の山に鳴く鳥の 止めば継がるる 恋もするかも
現代文  「」。
文意解説  春日野は平城京の近辺の高台。春日山の麓にあたる。高座(たかくら)は野に設けた天皇の玉座のことが原義だが、ここでは神聖な(立派な)なくらいの意味。「その御笠の山に鳥が鳴いているが鳴き止んだかと思うと別の鳥が鳴き継ぐ」までが我が恋の比喩。370番歌の「殿曇る云々」と同様。断ち切っても断ち切っても断ち切れない恋の心情を吐露した歌。
歴史解説

【巻3(374)。】
 
題詞  石上乙麻呂朝臣(いそのかみのおとまろのあそみ)の作歌。笠の山を傘に見立てて詠った歌である。
原文  雨零者  将盖跡念有  笠乃山  人尓莫令盖  霑者漬跡裳 
和訳  雨降らば 着むと思へる 笠の山 人にな着せそ 濡れは漬(ひ)つとも
現代文  「笠の山は大きな傘のような神聖な山だ。私たち人間がびしょ濡れになろうともそのまま聳えていてくれ」。
文意解説  「着む」は「使用する」、結句の「濡れは漬(ひ)つとも」(びしょ濡れになろうとも)の意である。岩波大系本は、「雨が降ったら自分が着ようと思っている笠の山だから他の人には着せるな、その人がたといびっしょり濡れてしまおうとも」と解している。随分身勝手な内容の歌になる。
歴史解説

【巻3(375)。】
 
題詞  湯原王(ゆはらのおほきみ)の作歌。
原文  吉野尓有  夏實之河乃  川余杼尓  鴨曽鳴成  山影尓之弖
和訳  吉野なる 菜摘の川の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山蔭にして
現代文  「」。
文意解説  菜摘(なつみ)の川は吉野川上流の川という。「山の蔭に川が淀んでいてそこで鴨たちが鳴いている」という歌。
歴史解説

【巻3(376)。】
 
題詞  湯原王(ゆはらのおほきみ)の作歌。「宴席の歌」とある。湯原王は王とあるように地位の高い皇族である。その王が「我が君」と呼びかけているのだから、宴席の客は王と同等ないし親しい友と考えてよかろう。
原文  秋津羽之  袖振妹乎  珠匣  奥尓念乎  見賜吾君
和訳  あきづ羽の 袖振る妹を 玉櫛 笥奥に思ふを 見たまへ我が君
現代文  「薄衣をまとって踊る彼女を私は密かに思っているのだが、きれいだろ彼女は、なあ君」。
文意解説  「あきづ羽」はトンボの薄い羽。玉櫛笥(たまくしげ)は化粧箱ないし枕詞。
歴史解説

【巻3(377)。】
 
題詞  湯原王(ゆはらのおほきみ)の作歌。
原文  青山之  嶺乃白雲  朝尓食尓  恒見杼毛  目頬四吾君
和訳  青山の 嶺の白雲 朝に日に 常に見れども めづらし我が君
現代文  「」。
文意解説  この歌は前歌を読まないと分からない歌。「嶺の白雲のようにいつも見慣れている彼女だが、めづらしいだろ、なあ君」という歌。なので「めづらし」の取り方がポイントになる。「愛(め)づらしい」ととれば美人、「珍しい」ととれば踊る姿となる。恋愛感情の目でみれば新鮮という意味にもとれる。前歌も本歌も「我が君」(なあ君)と呼びかけていることからすると、「なかなか美人だろ」と言っているように見えるのだが・・・。
歴史解説

【巻3(378)。】
 
題詞  山部宿祢赤人の作歌。「山部宿祢赤人が故太政大臣(藤原不比等)宅の庭園の池を見て作った歌」。
原文  昔者之  舊堤者  年深  池之瀲尓  水草生家里
和訳  いにしへの 古き堤は 年深み 池の渚に 水草生ひにけり
現代文  「」。
文意解説  かっての権力者不比等にまつわる歴史的背景をも感じさせる。このため抒景歌のひとことでは評しきれない重みと風情を感じさせる秀歌である。
歴史解説

【巻3(379)。】
 
題詞  大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)の作歌。「大伴坂上郎女祭神歌一首 并短歌」。
原文  久堅之   天原従     生来    神之命    奥山乃   賢木之枝尓   白香付   木綿取付而   齋戸乎   忌穿居     竹玉乎   繁尓貫垂    十六自物  膝折伏     手弱女之  押日取懸    如此谷裳  吾者祈奈牟   君尓不相可聞
和訳  ひさかたの あまのはらより あれきたる かみのみこと おくやまの さかきのえだに しらかつけ ゆふとりつけて いはひべを いはひほりすゑ たかたまを しじにぬきたれ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(380)。】
 
題詞  大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)の作歌。長歌と共に大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)の歌。左注に「大伴氏の氏神を祭神として祀った時の歌」とある。
原文  木綿疊  手取持而  如此谷母  吾波乞甞  君尓不相鴨
和訳  木綿畳 手に取り持ちて かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも
現代文  「幣帛を両手に捧げて必死にお祈りしています私。君にお目にかかれないかと思って」。
文意解説  木綿畳(ゆふだたみ)は神に捧げる折りたたんだ幣帛(へいはく)のことであろう。
歴史解説

【巻3(381)。】
 
題詞  筑紫の娘子(をとめ)の作歌。「名を兒嶋という筑紫の娘子(をとめ)が太宰府から奈良に旅立とうとする官人に贈った歌」。
原文  思家登  情進莫  風候  好為而伊麻世  荒其路
和訳  家思ふと 心進むな 風まもり 好くしていませ 荒しその道
現代文  「」。
文意解説  「家思ふと心進むな」は「故郷を胸にはやる気持ちを抑えて」である。「風まもり」は「風向きや強さを見極めて」の意で、海路のことを示している。荒しはいうまでもなく大和へは遠く険しいことを案じた表現。
歴史解説

【巻3(382)。】
 
題詞  丹比真人國人(たぢひのまひとくにひと)の作歌。「登筑波岳丹比真人國人作歌一首 并短歌」。この歌は筑波嶺(つくはね)に登って丹比真人國人(たぢひのまひとくにひと)が作った歌並びに短歌。
原文  鷄之鳴   東國尓     高山者   左波尓雖有   朋神之   貴山乃     儕立乃   見杲石山跡   神代従   人之言嗣    國見為   築羽乃山矣   冬木成   時敷時跡    不見而徃者  益而戀石見   雪消為   山道尚矣    名積叙吾来煎
和訳 とりがなく あづまのくにに たかやまは さはにあれども ふたかみの たふときやまの なみたちの みがほしやまと かむよより ひとのいひつぎ くにみする つくはのやまを ふゆこもり ときじきときと みずてゆかば ましてこほしみ ゆきげする やまみちすらを なづみぞあがける
現代文  「」。
文意解説  長歌。大要を述べると、「神代(かみよ)の昔から名山と語り継がれてきた筑波嶺を登らずじまいで去るわけにいかない」である。
歴史解説

【巻3(383)。】
 
題詞
原文  築羽根矣  Z耳見乍  有金手  雪消乃道矣  名積来有鴨
和訳  筑波嶺を 外のみ見つつ ありかねて 雪消の道を なづみ来るかも
現代文  「雪解け道を難渋しながら登ってきました」。
文意解説  筑波嶺は茨城県筑波郡にある名山。「外のみ見つつありかねて」は「無関心ではいられなくて」である。「雪消(ゆきげ)の道」は「雪解け道」。「なづみ」は「難渋して」。
歴史解説

【巻3(384)。】
 
題詞  山部宿祢赤人の作歌。
原文  吾屋戸尓  韓藍種生之雖干  不懲而亦毛  将蒔登曽念
和訳  我がやどに 韓藍蒔き生ほし 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとぞ思ふ
現代文  「庭に鶏頭を種から育てたところ枯れた。けれども懲りずにまた種を蒔こうと思う」。
文意解説
 韓藍(からあゐ)は鶏頭の花。「我がやどに」は「私の家の庭に」である。「懲りずて」(懲りずに)に着目して韓藍を女性と解し比喩の歌ととることもできる。比喩ととらなくとも鶏頭は一年草なのでまた今年も咲かそうというのは自然な行為である。寓意と取る場合は曲解に堕することのないように注意を払わなければならない。
歴史解説

【巻3(385)。】
 
題詞  仙柘枝(やまひとつみのえ)の作歌。この歌から三首、385~387番歌は仙柘枝(やまひとつみのえ)の歌。左注で、「この歌は或いは吉野人である味稲(うましね)が柘枝仙媛(つみのえのやまひめ)に贈った歌」としている。更に「柘枝傳(つみのえでん)にはこの歌は見当たらない」と注記されている。この注によれば、万葉集編纂当時、今は伝わらない柘枝傳という書が現存していたようである。
原文  霰零  吉志美我高嶺乎  險跡  草取可奈和  妹手乎取
和訳  あられ降る 吉志美が岳を 険しみと 草取りかなわ 妹が手を取る
現代文  「」。
文意解説  初句の「霰零」(原文)を岩波大系本も伊藤本も「あられふり」と訓じて枕詞としている。中西本は「あられ降る」としている。吉志美が岳(きしみがたけ)にあられが降って悪い理由は見当たらないので枕詞としていない。第四句の「草取りかなわ」を諸家すべて「草取りかねて」としているが首肯し難い。歌の場面はあられが降り、険しい山中を行く場面である。「かねて」を「かなわ(可奈和)」としているのは全万葉歌中この歌しかない。「かねて」は「かねて」と使われていて、その例は数多い。「妻まちかねて(不得而)」(268番歌)、「越えかねて(不勝而)」(301番歌)、「行き過ぎかねて(不得而)」(354番歌)等々。つまり、「かなわ(可奈和)」を「かねて」としている例はない。そう解するなら最低限その解説が必要であるのに諸家は「かなわ(可奈和)」に一切注記を施していない。「かなわ(可奈和)」を「草取りかねて」と解するのでは歌意が不自然であり、「かなわない」の意味で使われる「かなわ」の意味にとるのが良い。「かなわない」の場合は「不」、「無」、「奈之」等何らかの否定文字が入って来ると思っていいので、「かなわ」は「適う」すなわち「しっかり適合している」といった類の意となる。そこで「草取りかなわ」は「草取りの時のようにしっかり握って」の意味だと考えたい。恋人同士ないしは夫婦の微笑ましい登山中の光景歌となる。「かなわ」を「かなえ(鼎)」あるいは「かなわ(金輪)」と受け取ることもできよう。いずれも意味は同様で「しっかり結ぶ」である。
歴史解説

【巻3(386)。】
 
題詞  仙柘枝(やまひとつみのえ)の作歌。
原文  此暮  柘之左枝乃  流来者  樑者不打而  不取香聞将有
和訳  このゆふべ 柘のさ枝の 流れ来ば 梁は打たずて 取らずかもあらむ
現代文  「柘の枝が流れて来ても梁は仕掛けずに枝を捉えることはしないでおこうか」。
文意解説  「柘(つみ)のさ枝」の柘は柘植(つげ)の木のことだろうか、それとも中西事典(万葉集事典)が記すように山桑の木のことだろうか。判断できない。梁(やな)は川の流れに設ける魚を捕る仕掛け。岩波大系本は柘の枝を仙女の化身として読解を試みている。発句が「このゆふべ」と具体的でなまなましい。前歌の左注に「この歌は『柘枝傳』に見当たらない」とあるので、一連の歌は柘枝傳の内容を踏まえているかも知れない。「このゆふべ」とあるからには特定の日に柘枝仙媛にかかる祭りの類が行われていたのだろうか。
歴史解説

【巻3(387)。】
 
題詞  仙柘枝(やまひとつみのえ)の作歌。左注に「右一首、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)の作」とある。
原文  古尓  梁打人乃  無有世伐  此間毛有益  柘之枝羽裳
和訳  いにしへに 梁打つ人の なかりせば ここにもあらまし 柘の枝はも
現代文  「遠い昔に梁を仕掛けた人さえいなかったならばここにも柘の枝があるだろうになあ」。
文意解説  前歌では「柘の枝が流れて来ても」とある。そして今回はないと詠っている。やはり「柘の枝」は桃太郎の桃のように、当時の人には常識として通じる物語上の存在だったのだろうか。
歴史解説

【巻3(388)。】
 
題詞  「羈旅歌一首 并短歌 」。この歌と短歌は旅の歌。
原文 海若者   霊寸物香    淡路嶋   中尓立置而    白浪乎   伊与尓廻之   座待月   開乃門従者   暮去者   塩乎令満    明去者   塩乎令干   塩左為能  浪乎恐美    淡路嶋   礒隠居而    何時鴨   此夜乃将明跡   侍従尓   寐乃不勝宿者  瀧上乃    淺野之鴙    開去歳   立動良之    率兒等   安倍而榜出牟  尓波母之頭氣師
和訳 わたつみは くすしきものか あはぢしま なかにたておきて しらなみを いよにめぐらし ゐまちづき あかしのとゆは ゆふされば しほをみたしめ あけされば しほをひしめ しほさゐの なみをかしこみ あはぢしま いそがくりゐて いつしかも このよのあけむと さもらふに いのねかてねば たぎのうへの あさののきぎし あけぬとし たちさわくらし いざこども あへてこぎでむ にはもしづけし
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(389)。】
 
題詞  左注に「若宮年魚麻呂が読み上げた歌だが作者は不詳」とある。太宰府の任を解かれ、遠路大和に向かう途上の歌だろうか。
原文  嶋傳  敏馬乃埼乎  許藝廻者  日本戀久  鶴左波尓鳴
和訳  島伝ひ 敏馬の崎を 漕ぎ廻れば 大和恋しく 鶴さはに鳴く
現代文  「」。
文意解説  島伝いに敏馬(みぬめ・・・神戸市灘区)の崎あたりを進んでいくところである。「さは」は「多く」。群がって鳴き交わす鶴たちの声が故郷大和への恋しさをつのらせるという望郷の歌。
歴史解説

【巻3(390)。】
 
題詞  紀皇女御歌(きのひめみこ)の作歌。本歌~414番歌は譬喩歌(ひゆか・・たとえ歌)として扱われている。
原文  軽池之  汭廻徃轉留  鴨尚尓  玉藻乃於丹  獨宿名久二
和訳  軽の池の 浦廻行き廻る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに
現代文  「」。
文意解説  軽の池は奈良県橿原市にあった池。その浦(岸)の周辺を泳ぎ回る鴨たち。その鴨でさえ「玉藻の上にひとり寝なくに」(共寝するのに)という歌。「あーあ。私には共寝する人もなく」という嘆息が聞こえてくるような歌。
歴史解説

【巻3(391)。】
 
題詞  沙弥満誓(さみまんぜい)の作歌。筑紫觀世音寺の建立別当(長官)沙弥満誓(さみまんぜい)の歌。
原文  鳥総立  足柄山尓  船木伐  樹尓伐歸都  安多良船材乎
和訳  鳥総立て 足柄山に 船木伐り 木に伐り行きつ あたら船木を
現代文  「」。
文意解説  「鳥総(とぶさ)立て」は樹を切り倒した後、切り株にその梢を立てて山神を祀る習慣があった。足柄山は船材の産地として知られた箱根の山々。船材としての木は大きな良木。ただの材木とは違う。ここまでは分かる。分かりづらいのは第三句の「船木伐り」でいったん歌が切断している点である。発句の「鳥総立て」から明らかなようにもうこの船木は切り倒されている。続く「木に伐り行きつ」は船木としてではなく、ただの材木として切り倒していったことを意味している。そこで、この歌にある船木はきこりが船木として認定した船木でないことを意味している。つまり、この船木は真性の船木ではなく、作者が船木にするといいのにと、たんに「見立てた木」だと分かる。つまり作者が見立てた美しい女性の比喩だと知れる。「どこのどいつか知らないが船木にするといい木を、ただの材木として切りおった」という歌意であることが分かる。結句の「あたら船木を」に手中にしぞこなった女性を惜しむ気持ちがにじみ出ている。
歴史解説

【巻3(392)。】
 
題詞  大伴宿祢百代(おおとものすくねももよ)の作歌。太宰府大監(三等官)大伴宿祢百代(おおとものすくねももよ)の歌。
原文  烏珠之  其夜乃梅乎  手忘而  不折来家里  思之物乎
和訳  ぬばたまの その夜の梅を た忘れて 折らず来にけり 思ひしものを
現代文  「」。
文意解説  「ぬばたまの」は枕詞。この歌も前歌と同じく女性を木(梅の木)にたとえている。「た忘れて折らず」は妙な表現。散文ならすんなり「手折り忘れて」となるところ。五、七にするための苦心の表現とみていい。「あーあ」と嘆息する様が効果的に表現されている。
歴史解説

【巻3(393)。】
 
題詞  沙弥満誓(さみまんぜい)の作歌。391番歌と同じく沙弥満誓の歌。
原文  不所見十方  孰不戀有米  山之末尓  射狭夜歴月乎  外見而思香
和訳  見えずとも 誰れ恋ひざらめ 山の端に いさよふ月を 外に見てしか
現代文  「」。
文意解説  「誰れ恋ひざらめ」は「誰がこころ惹かれずにおられよう」である。「外に見てしか」は「第三者として見ていても」である。女性を単刀直入に月に見立てた平明な歌。
歴史解説

【巻3(394)。】
 
題詞  余明軍(よのみやうぐん)の作歌。
原文  印結而  我定義之  住吉乃  濱乃小松者  後毛吾松
和訳  標結ひて 我が定めてし 住吉の浜の 小松は後も 我が松
現代文  「」。
文意解説  標結(しめゆ)ひては標縄を張っての意。小松はむろんまだ少女の女性。「少女の頃から目星をつけているが、成人後も妻にしておきたい」という願望のこもった歌。「妻にするまで待つ」を松にかけて「我が松」と結句しているところが余興歌を思わせる。
歴史解説

【巻3(395)。】
 
題詞  笠女郎(かさのいらつめ)の作歌。「笠女郎(かさのいらつめ)が大伴宿祢家持(おおとものすくねのやかもち)に贈った歌三首」。395~397番歌は笠女郎歌。
原文  託馬野尓  生流紫  衣染  未服而  色尓出来
和訳  託馬野に 生ふる紫草 衣に染め いまだ着ずして 色に出でにけり
現代文  「」。
文意解説  託馬野(つくまの)の所在地不明。紫草(むらさき)は紫の染料に使われる。恋心を紫の着物にたとえている。「色に出でにけり」は「ひとに知られてしまった」である。
歴史解説

【巻3(396)。】
 
題詞
原文  陸奥之  真野乃草原  雖遠  面影為而  所見云物乎
和訳  陸奥の 真野の草原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを
現代文  「そんな異国にいらっしゃる方でも面影に現れるというではありませんか。(なぜなかなかお会いできないのでしょう)」。
文意解説  陸奥(みちのく)の真野は福島県相馬郡内の地という。当時の人にとって陸奥の地は遙か異国の地。が、むろん、現実の家持はすぐ近くの都びと。
歴史解説

【巻3(397)。】
 
題詞
原文  奥山之  磐本菅乎  根深目手 結之 情忘不得裳
和訳  奥山の 岩本菅を 根深めて結びし 心忘れかねつも
現代文  「」。
文意解説  作者が言いたいのは下の二句。「固く契り合ったあなたを忘れられようか」である。「山奥の岩に根深く生えている菅草のように」が「固く」を導き出すための序。
歴史解説

【巻3(398)。】
 
題詞  藤原朝臣八束(ふぢはらのあそみやつか)の作歌。この歌と次の399番歌は藤原朝臣八束(ふぢはらのあそみやつか)の歌。
原文  妹家尓 開有梅之 何時毛々々々 将成時尓 事者将定
和訳  妹が家に 咲きたる梅の いつもいつも なりなむ時に 事は定めむ
現代文  「」。
文意解説
 梅は少女(すなわち妹)のたとえで、成長したら「事は定めむ」、すなわち妻にしたいという歌。
歴史解説

【巻3(399)。】
 
題詞  藤原朝臣八束(ふぢはらのあそみやつか)の作歌。
原文  妹家尓  開有花之  梅花  實之成名者  左右将為
和訳  妹が家に 咲きたる花の 梅の花 実にしなりなば かもかくもせむ
現代文  「」。
文意解説  前歌とほぼ同じ内容の歌。が、第四句の「実にしなりなば」が効いていてよりスマートな歌になっている。
歴史解説

【巻3(400)。】
 
題詞  大伴宿祢駿河麻呂(おおとものすくねするがまろ)の作歌。前節(第29節)でみた394番歌「標結ひて我が定めてし住吉の浜の小松は後も我が松」にずばり呼応したような歌である。
原文  梅花  開而落去登  人者雖云  吾標結之  枝将有八方
原文  梅の花 咲きて散りぬと 人は言へど 我が標結ひし 枝にあらめやも
和訳  「少女が花開いて結婚したと人は言うけれど、まさか私が標を結んだその子のことではあるまいな」。
現代文  「」。
文意解説  先の394番歌は余明軍(よのみやうぐん)で駿河麻呂とは別人。それにしても表現、内容ともに両歌は見事に呼応している。余明軍は駿河麻呂の青年期の名前で実は同一人物なのであろうか。
歴史解説

【巻3(401)。】
 
題詞  大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の作歌。「大伴一族の宴席で大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が吟じた歌」。
原文  山守之  有家留不知尓  其山尓  標結立而  結之辱為都
和訳  山守の ありける知らに その山に 標結ひ立てて 結ひの恥しつ
現代文  「」。
文意解説  「山守のありける知らに」は「管理する山番がいるとも知らず」である。後半は「その山に標杭を立てて縄を張るなんてまあ恥ずかしい」である。この歌が女の側からの働きかけの比喩の歌だとすると、随分積極的な女性である。が、この歌宴会の趣旨や構成を考えてみないとストレートに理解し辛いところがある。というのは一つおいた先の403番歌にこの宴の主賓と目される大伴家持と坂上郎女の娘(大嬢)が登場するからである。とすると、本歌の寓意は作者本人が男を確保したという意味ではなく、娘に成り代わって詠ったということになる。
歴史解説

【巻3(402)。】
 
題詞  大伴宿祢駿河麻呂の作歌。前歌に即応して応えた大伴宿祢駿河麻呂の歌。
原文  山主者  盖雖有  吾妹子之  将結標乎  人将解八方
和訳  山守は けだしありとも 我妹子が 結ひけむ標を 人解かめやも
現代文  「」。
文意解説  前半が「たとえ山番があったところで」である。そして後半は「あなた様が結んだ標縄だもの、誰が解くというのでしょう」である。駿河麻呂は坂上郎女の次女(二嬢)の相手である。坂上郎女は巫女であり大伴本家の祭主だった。
歴史解説

【巻3(403)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。「大伴宿祢家持(おおとものすくねやかもち)が大伴坂上家の大嬢(おおいらつめ)に贈った歌」。大伴家持は柿本人麻呂とともに万葉集を代表する歌人で、万葉集の編纂者とも目される人物。旅人の子。大嬢は「一番上のお嬢様」のこと。401番歌の作者坂上郎女の娘。
原文  朝尓食尓  欲見 其玉乎  如何為鴨  従手不離有牟
和訳  朝に日に 見まく欲りする その玉を いかにせばかも 手ゆ離れずあらむ
現代文  「いつもいつも眺めていたいその玉をどのようにしたら我が手中から離れないようにできるのでしょう」。
文意解説  「朝に日に」(あさにけに)は「朝も昼も」である。この歌に至って家持と大嬢を結びつけたのは坂上郎女だったことが分かる。前二歌で「標結ひ」と詠ったその標結ひは家持と大嬢のことだったのである。三歌をまとめて解さないと分かりづらい。
歴史解説

【巻3(404)。】
 
題詞  娘子(をとめ)の作歌。「娘子(をとめ)が佐伯宿祢赤麻呂(さへきのすくねあかまろ)に贈った歌」。
原文  千磐破  神之社四  無有世伐  春日之野邊  粟種益乎
和訳  ちはやぶる 神の社し なかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを
現代文  「」。
文意解説  404~406番歌も前三歌と同様まとめて解さないと分かりづらい。単独歌として解そうとするとてこづるが、まとめて読めば歌意は平明。「ちはやぶる」は枕詞。「神の社(やしろ)」は「奥方」である。「春日の野辺」はおそらく赤麻呂の屋敷がある所。「粟蒔(あはま)かましを」は「お会いしたいものですわ」である。
歴史解説

【巻3(405)。】
 
題詞  佐伯宿祢赤麻呂(さへきのすくねあかまろ)の作歌。赤麻呂が更に贈った歌。
原文  春日野尓  粟種有世伐  待鹿尓  継而行益乎  社師怨焉
和訳  春日野に 粟蒔けりせば 鹿待ちに 継ぎて行かましを 社し恨めし
現代文  「」。
文意解説  「春日野に粟蒔けりせば」はむろん前歌をうけてのもの。続いて「鹿待ちに」とあるので「粟を待つ鹿のように私もなりたい」というほどの意。結句はいうまでもなく「怖いかみさんが控えていてはなあ」である。
歴史解説

【巻3(406)。】
 
題詞  娘子(をとめ)の作歌。娘子が再度返した歌。
原文  吾祭  神者不有  大夫尓  認有神曽  好應祀
和訳  我が祭る 神にはあらず 大夫に 憑きたる神ぞ よく祭るべし
現代文  「私がお祭りしている神ではありませんわ。あなた様の神ではありませんか。よくお祭りあそばせ」。
文意解説  
歴史解説

【巻3(407)。】
 
題詞  駿河麻呂の作歌。「駿河麻呂(前出)が坂上家の二嬢に求婚した歌」。二嬢とあるから家持の相手の大嬢の妹である。
原文  春霞  春日里之  殖子水 葱苗有跡云師  柄者指尓家牟
和訳  春霞 春日の里の 植ゑ子水 葱苗なりと言ひし 枝はさしにけむ
現代文  「植えた時苗だったのにもう今では枝が出てきて立派に成長されましたね」。
文意解説  春霞は春日の枕詞(?)。子水葱(こなぎ)は水葱の子。水葱(なぎ)は湿地等に生える水草。葉は食料になる。むろん、二嬢の喩え。
歴史解説

【巻3(408)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。「家持が坂上家の大嬢(おおいらつめ)に贈った歌」。
原文  石竹之 其花尓毛我 朝旦  手取持而  不戀日将無
和訳  なでしこが その花にもが 朝な朝な 手に取り持ちて 恋ひぬ日なけむ
現代文  「あなたがなでしこの花なら毎朝毎朝手にとって愛(め)でない日はありませんのに」。
文意解説  なでしこは大嬢(おおいらつめ)のこと。
歴史解説

【巻3(409)。】
 
題詞  駿河麻呂の作歌。家持が403番歌で大嬢を玉に喩えて詠っている。その家持歌になぞらえたのか今度は駿河麻呂が二嬢を玉に喩えて詠ったのがこの歌。
原文  一日尓波  千重浪敷尓  雖念  奈何其玉之  手二巻難寸
和訳  一日には 千重(ちへ)波しきに 思へども なぞその玉の手に 巻きかたき
現代文  「」。
文意解説  「一日(ひとひ)には千重波(ちへなみ)しきに」は「たった一日でも次々と押し寄せてくる波のように、しきりに」である。「玉を手に巻く」とは腕輪を巻くことで「わがものとする」の意。激しい求愛の歌である。
歴史解説

【巻3(410)。】
 
題詞  坂上郎女(前出)の作歌。橘(たちばな)は二嬢の喩え。
原文  橘乎  屋前尓殖生  立而居而  後雖悔  驗将有八方
和訳  橘を 屋前に植ゑ生ほし 立ちて居て 後に悔ゆとも 験あらめやも
現代文  「」。
文意解説  「立ちて居て」は「気もそぞろで心配でならず」の意。要するに「手塩にかけて」。「後に悔ゆとも験(しるし)あらめやも」は「後で後悔するようなことになっては仕方がない」の意。なお、屋前は「やど」と「には」の両説あるようだ。やどと訓じ難いが、そうするにはそれなりの理由があるのだろう。が、原文による限り「には」と訓むべきだと私は思う。
歴史解説

【巻3(411)。】
 
題詞  前歌に対し応えた歌。
原文  吾妹兒之  屋前之橘  甚近殖而師故二  不成者不止
和訳  我妹子が  屋前の橘いと 近く植ゑてし故に ならずはやまじ
現代文  「橘を実らせないことがあってはいけませんよ」。
文意解説
歴史解説

【巻3(412)。】
 
題詞  市原王(いちはらおほきみ)の作歌。
原文  伊奈太吉尓  伎須賣流玉者  無二  此方彼方毛  君之随意
和訳  いなだきに きすめる玉は 二つなし かにもかくにも 君がまにまに
現代文  「」。
文意解説  岩波大系本は「いなだき」は「頂(いただき)」 とし、「きすめる」は「蔵(きす)める」として、「女性の髪の頭頂部に大切な玉を隠す」と解している。これらの用語は万葉歌中他に一例も見られない。市原王は男性なのになぜ大切な玉を秘蔵しているという女性歌になっているのだろう。「いなだき」や「きすめる」には別の意味があるのだろうか。なお、「いただき」の実例なら4377番歌「母刀自も玉にもがもや戴きてみづらの中に合へ巻かまくも」がある。「戴きて」は文字通り「頭に乗せて」である。
歴史解説

【巻3(413)。】
 
題詞  大網公人主(おほあみのきみひとぬし)の作歌。宴の場で吟じた歌とあるから400番歌以降の歌は大伴一族の宴会の場で披露された歌のようである。
原文  須麻乃海人之  塩焼衣乃  藤服  間遠之有者  未著穢
和訳  須磨の海女の 塩焼き衣の 藤衣 間遠にしあれば いまだ着なれず
現代文  「」。
文意解説  須磨は現在の神戸市須磨区のこと。海女が潮を焼くときに着衣が藤の繊維で作られたごわごわした目の荒い粗末な服のようで、その目の荒いことを「間遠にしあれば」と表現し、たまにしか着ることがないので「着なれず」と結んでいる。つまり、その女とはたまにしか共寝しないので「味は分からんのよ」と座の者一同に告げた歌である。405番歌や406番歌と同様しこたま酒がまわって酔いの勢いで飛び出した和歌と窺われる。
歴史解説

【巻3(414)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  足日木能  石根許其思美  菅根乎  引者難三等  標耳曽結焉
和訳  あしひきの 岩根こごしみ 菅の根を 引かばかたみと 標のみぞ結ふ
現代文  「」。
文意解説  「あしひきの」とくれば「山」と続く決まり文句。枕詞。「こごしみ」は「しっかりとからみついて」の意。菅は大嬢のことか母の坂上郎女のことか?。「かたくて抜けないので標縄を張るだけにしました」とあるので両様にとれる。宴席上での歌はこれで終了となる。
歴史解説

【巻3(415)。】
 
題詞  上宮聖徳皇子(うへのみやのしやうとこのみこ、聖徳太子)の作歌。「上宮聖徳皇子(うへのみやのしやうとこのみこ、聖徳太子)が竹原井(たかはらのゐ)においでになった時、龍田山の死者をご覧になって悲しんでお作りになった歌。415~483番歌まで挽歌。宴会の歌から挽歌へと転じている。ここに聖徳の表記があり、万葉時代にはすでに聖徳と敬われていたことが確認できる。奈良時代初期(720年)編纂の日本書紀にも既に「豊耳聡聖徳」や「東宮聖徳」の表記が見えている。題詞の下に細字で施されている注記は、「(この歌の作られた時代は)小墾田宮(をはりたのみや)に天皇がおられた時、すなわち、豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめ)、諱(いみな)を額田、諡(おくりな)を推古と申す天皇の時代である」とある。かっては「小墾田宮」と記せば済んだだろうに、本名を記し、諱を記し、さらに諡の推古まで記さないと万葉集の読者には分からなくなっていたようだ。推古天皇の時代は629年まで続いている。奈良時代の開始は710年、その間80年ほどしかない。平安時代開始の794年まで下っても170年弱。にもかかわらず、注記に推古という諡を記す必要があったようだ。
原文  家有者  妹之手将纒  草枕  客尓臥有  此旅人A怜
和訳  家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ
現代文  「家に居れば妻の手を枕にしているだろうに、旅の空の下の草枕が恨めしい」。
文意解説
 龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。「手まかむ」は「手枕にして」、「旅に臥(こ)やせる」は「旅の空に横たわる」の意。聖徳皇子の思いがすんなり伝わってくる平明にして率直な歌である。
歴史解説

【巻3(416)。】
 
題詞  大津皇子(おおつのみこ)の作歌。「大津皇子(おほつのみこ)の被死(みまか)らしめらえし時に、磐余(いはれ)の池の般(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りませる御歌一首」(大津皇子(おおつのみこ)が死を目前にして磐余(いはれ)の池を前に涙を流しつつ詠った歌)。左注に「藤原宮朱鳥元年冬十月」とある。朱鳥元年は656年。大津皇子はその年に薨去したことになる。大津皇子といえば謀反のかどで草壁皇子(くさかべのみこ)側によって死を賜わった悲劇の皇子。伊勢神宮の斎宮だった姉の大来皇女(おおくのひめみこ)が作った有名な歌がある。105番歌「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし」だ。幾度読み返しても涙を誘われる名歌である。
原文  百傳  磐余池尓  鳴鴨乎  今日耳見哉  雲隠去牟
和訳  ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
現代文  「磐余の池に鳴く鴨を見納めにして私はあの世に旅立とう」。
文意解説  「ももづたふ」は枕詞。死を目前にして詠う歌にしてはやや冷めており、「雲隠りなむ」もどこか第三者的表現。したがって代作の疑いがかけられそうである。
歴史解説  大津皇子が処刑された場所は自宅のあった訳語田(おさだ)の宮だったと云われ、この歌はそこへ移送される途中に磐余の池の鴨を見て詠んだものと思われる。奈良県桜井市戒重の春日神社に訳語田幸玉宮伝承地がある。大津皇子の宮は磐余の訳語田(おさだ)にあり、ここで最後を迎えたと伝えられている。戒重の春日神社は、大泊皇女や大津皇子の歌碑がある吉備春日神社の北北東、広い道路沿いの目立つ場所に鎮座している。磐余は、現代にははっきりとした地名を残していないが橿原市東池尻町から桜井市池之内にかけての付近がその有力地である。磐余の池もすでになくなっていますが、このあたりにあったものと推測される。橿原市東池尻町の御厨子(みずし)観音で有名な妙法寺の前に大津皇子の辞世の歌であるこの歌の歌碑が立っている。大津皇子が処刑されたとき、妃の山辺皇女(やまのへのひめみこ)は髪を振り乱し裸足で駆けつけて殉死し、それを見た人たちは皆すすり泣いたと日本書紀に伝えられている。

【巻3(417)。】
 
題詞  手持女王(たもちのおほきみ)の作歌。「河内王(かふちのおほきみ)を豊前国(とよのみちのくのくに)の鏡山に葬りし時に手持女王(たもちのおほきみ)が作った歌3首」。417~419番歌は手持女王作。河内王は複数いるようだが、豊前国(福岡県東部から大分県北西部にかけての一帯の国)の鏡山に葬られたとあるから、太宰府の長官に任ぜられていた王と考えられている。手持女王はその妻であるらしい。
原文  王之  親魄相哉  豊國乃  鏡山乎  宮登定流
和訳  大君の 親魂逢へや 豊国の 鏡の山を 宮と定むる
現代文  「」。
文意解説  「大君の親魂(むつたま)逢へや」は「すっかり慣れ親しんだあなた様の魂にお会いできるのでしょうか」である。「宮と定むる」は「墓所と決めました」だが、解し方によって歌の趣が異なる。夫が任地に赴いたとき、その妻は通常夫の実家(河内)ないし都(大和)にいる。任地(太宰府)の人々が豊前国に墓所を設けたとすると、手持女王は近畿から遠路やってきて喪主を務めたことになる。他方、手持女王は夫と共に太宰府で暮らしていたとする考え方もあろう。前者なら墓所の再訪は困難となり、永遠の別れという意味の歌となる。後者なら「安らかにお休みなさい、また参ります」という歌となる。
歴史解説

【巻3(418)。】
 
題詞  手持女王(たもちのおほきみ)の作歌。
原文  豊國乃  鏡山之  石戸立  隠尓計良思  雖待不来座
和訳  豊国の 鏡の山の 岩戸立て 隠りにけらし 待てど来まさず
現代文  「」。
文意解説  次歌ともども本歌は神話を下敷きにしている。記紀に有名な岩戸神話が語られている。その概要を紹介するとこうである。天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸(いはと)に隠れて世の中が常世(とこよ)の闇に包まれてしまう。弱り果てた神々は岩戸の前でどんちゃん騒ぎを演ずる。外は常世の闇の筈なのに不審に思った天照大神が岩戸を少し開けてのぞき見ようとした。とたんに岩戸の脇に控えていた手力男神(たぢからおのかみ)が岩戸をこじ開け天照大神を引き出した。同時に別の神(天児屋命と太玉命)が鏡を差し出した。以上が神話の概要。さて、この歌には鏡、岩戸、隠れたといった神話関連用語が相次いでおり神話を下敷きにしている。鏡は岩戸神話の重要な用語である。
歴史解説

【巻3(419)。】
 
題詞  手持女王(たもちのおほきみ)の作歌。
原文  石戸破  手力毛欲得  手弱寸  女有者  為便乃不知苦
和訳  岩戸破る 手力もがも 手弱き 女にしあれば すべの知らなく
現代文  「けれども私は手弱き女の身、どうしたらよいのでしょう」。
文意解説  この歌にも手力という神話関連用語が見える。前歌ともども「なんとかお会いしたい」という歌。「手力もがも」は「(岩戸を破るほどの)力があったなら」という願望。
歴史解説

【巻3(420)。】
 
題詞  丹生王(にふのおほきみ)の作歌。「石田王卒之時丹生王作歌一首 并短歌」。この長歌及び短歌2首は石田王(いはたのおおきみ)が死去した際、丹生王(にふのおほきみ)が作った歌。
原文 名湯竹乃  十縁皇子   狭丹頬相  吾大王者    隠久乃   始瀬乃山尓   神左備尓  伊都伎坐等   玉梓乃   人曽言鶴    於余頭礼可 吾聞都流   狂言加   我聞都流母   天地尓   悔事乃     世間乃   悔言者     天雲乃   曽久敝能極   天地乃   至流左右二   杖策毛   不衝毛去而   夕衢占問  石卜以而    吾屋戸尓  御諸乎立而   枕邊尓   齋戸乎居    竹玉乎   無間貫垂    木綿手次  可比奈尓懸而  天有   左佐羅能小野之 七相菅   手取持而    久堅乃   天川原尓    出立而   潔身而麻之乎  高山乃   石穂乃上尓   伊座都類香物
和訳 なゆたけの とをよるみこ さにつらふ わごおほきみは こもりくの はつせのやまに かむさびに いつきいますと たまづさの ひとぞいひつる およづれか わがききつる たはことか わがききつるも あめつちに くやしきことの よのなかの くやしきことは あまくもの そくへのきはみ あめつちの いたれるまでに つゑつきも つかずもゆきて ゆふけとひ いしうらもちて わがやどに みもろをたてて まくらへに いはひべをすゑ たかたまを まなくぬきたれ ゆふだすき かひなにかけて あめなる ささらのをのの ななふすげ てにとりもちて ひさかたの あまのかはらに いでたちて みそぎてましを たかやまの いはほのうへに いませつるかも
現代文  「」。
文意解説  長歌。丹生王はその妻のようだ。
歴史解説

【巻3(421)。】
 
題詞  丹生王(にふのおほきみ)の作歌。
原文  逆言之  狂言等可聞  高山之  石穂乃上尓  君之臥有
和訳  およづれの たはこととかも 高山の 巌の上に 君が臥やせる
現代文  「ああ我が君がなくなったなんて、冗談、そう、そらごとに決まっているわよね」。
文意解説  「およづれ」も「たはこと」も「そらごと」のこと。結句の「君が臥(こ)やせる」は「あの方がふせっている(つまり死んでいる)」の意。むろん、反語表現。
歴史解説

【巻3(422)。】
 
題詞  丹生王(にふのおほきみ)の作歌。
原文  石上 振乃山有  杉村乃 思過倍吉  君尓有名國
和訳  石上 布留の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに
現代文  「あの杉林のように大変素晴らしいあの方をどうして忘れ去ることができましょう」。
文意解説  石上(いそのかみ)は奈良県天理市石上(いそのかみ)神宮の鎮座する一帯。その杉林は有名だったようだ。この第三句までは「過ぎ」を導くための序歌とされる。下二句を岩波大系本は「(スギという言葉のように)私の思う心がスギ去って行くような君ではないのに」としている。反語表現である。
歴史解説

【巻3(423)。】
 
題詞  「同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首」。
原文  角障経   石村之道乎   朝不離   将歸人乃    念乍    通計萬口波   霍公鳥   鳴五月者    菖蒲    花橘乎     玉尓貫 一云 貫交    蘰尓将為登   九月能   四具礼能時者  黄葉乎   折挿頭跡    延葛乃   弥遠永 一云  田葛根乃  弥遠長尓    萬世尓   不絶等念而 一云 大舟之   念憑而     将通    君乎婆明日従 一云 君乎従明日者  外尓可聞見牟
和訳 つのさはふ いはれのみちを あささらず ゆきけむひとの おもひつつ かよひけまくは ほととぎす なくさつきには あやめぐさ はなたちばなを たまにぬき  ぬきまじへ かづらにせむと ながつきの しぐれのときは もみちばを をりかざさむと はふくずの いやとほながく くずのねの いやとほながに よろづよに たえじとおもひて おほぶねの おもひたのみて かよひけむ きみをばあすゆ   きみをあすゆは よそにかもみむ 03 0423 右一首或云柿本朝臣人麻呂作
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(424)。】
 
題詞  山前王(やまくまのおおきみ)の作歌。この歌は423番長歌の題詞によれば420~422番歌と同様、石田王の死去に伴う歌。ただし作者は山前王(やまくまのおおきみ)。短歌は本歌と次歌の2首で、かつ、或る本が伝える異伝歌だという。さらに、次歌には左注が付いていて、「この2首は紀皇女(きのひめみこ)の死去に伴う歌で、かつ、石田王に代わって山前王が作った歌」とある。
原文  隠口乃  泊瀬越女我  手二纒在  玉者乱而  有不言八方
和訳  こもりくの 泊瀬娘子が 手に巻ける 玉は乱れて ありと言はずやも
現代文  「」。
文意解説  「こもりくの」は枕詞。例外なく泊瀬にかかる。泊瀬は奈良県桜井市の郷の名。「泊瀬娘子(はつせをとめ)が手に巻ける玉」とはいうまでもなく腕輪の玉。玉に緒(を)を通して腕輪としていたのだが、その緒が切れてバラバラに乱れている様を表現している。「ありと言はずやも」は「~だというではありませんか」である。つまり、石田王の死去に接した泊瀬娘子の心乱れた様子を腕輪に託して詠った歌と分かる。
歴史解説

【巻3(425)。】
 
題詞
原文  河風  寒長谷乎  歎乍  公之阿流久尓  似人母逢耶
和訳  川風の 寒き泊瀬を 嘆きつつ 君が歩くに 似る人も逢へや
現代文  「寒風の中、私は川辺を嘆きつつ歩き回っているのだが、かっては共に歩いていたあなたに似た人にさえ出会わない。ああ」。
文意解説  「似る人も逢へや」は岩波大系本に従えば「似た人にも逢いはしない」。この歌の歌意を諸家は概ね「寒風すさぶ泊瀬の川辺を君が嘆きながら歩き回る。その君に似た人にも逢いはしない」としている。しかし、川辺を歩き回り「似た人にも逢いはしない」と嘆いているのは作者自身である。主語が略されている場合は作者自身であることが常識である。「君嘆きつつ」なら主体は君だが、「嘆きつつ君が」となっている。
歴史解説

【巻3(426)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。香具山に横たわっている死人を悲しんで詠った柿本人麻呂の歌。当時の人々の旅は行き倒れと背中合わせだったらしいことがうかがわれる。前回、死者を目にして悲しんで詠った聖徳太子の歌(415番歌)を見たばかりだが、柿本人麻呂の歌(221挽歌)なども同種の歌であり、人麻呂自身が行き倒れ死を直前にした歌(223番歌)を遺している。
原文  草枕  羈宿尓  誰嬬可  國忘有  家待<真>國
和訳  草枕 旅の宿りに 誰が夫か 国忘れたる 家待たまくに
現代文  「」。
文意解説
 草枕はたびにかかる枕詞とされているが、旅といえば行き倒れと背中合わせだったらしい当時の状況と関連のある用語という気もする。「誰が夫か」は「たがつまか」と読む。「国忘れたる」は「故郷の国にたどり着けず」である。「家待たまくに」は「家では家人が待っているだろうに」である。
歴史解説

【巻3(427)。】
 
題詞  刑部垂麻呂(おさかべのたるまろ)の作歌。田口廣麻呂(たぐちのひろまろ)の死去に際し詠った刑部垂麻呂(おさかべのたるまろ)の歌。
原文  百不足  八十隅坂尓  手向為者  過去人尓  盖相牟鴨
和訳  百足らず 八十隈坂に 手向けせば 過ぎにし人に けだし逢はむかも
現代文  「花等を手向ければ、あの世にいった人にもしや(けだし)会えるかも」。
文意解説  「百足らず」は枕詞。八十隈坂は読み方に「やそくまさか」と「やそすみさか」の二説があるようだが、「手向けせば」とあるので道祖神なり峠神なり何らかの神の類に相違ない。
歴史解説

【巻3(428)。】
 
題詞  柿本人麻呂の作歌。土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬山(はつせのやま)に火葬せし時詠った柿本人麻呂の歌。
原文  隠口能  泊瀬山之  山際尓  伊佐夜歴雲者  妹鴨有牟
和訳  こもりくの 初瀬の山の 山の際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ
現代文  「その山あいに雲がただよっているが、葬ったあの子であろうか」。
文意解説  「こもりくの」は枕詞。例外なく泊瀬にかかる。泊瀬は奈良県桜井市の郷の名。
歴史解説

【巻3(429)。】
 
題詞  柿本朝臣人麻呂の作歌。「溺れ死んだ出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬せし時詠った柿本朝臣人麻呂の歌二首」。
原文  山際従  出雲兒等者  霧有哉  吉野山  嶺霏霺
和訳  山の際ゆ 出雲の子らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく
現代文  「」。
文意解説  「山の際(ま)ゆ」は「山あいから」の意。兒等となっているので複数の乙女を火葬したのだろうか。「霧なれや」は「霧になってしまったのだろうか」である。火葬した煙が山間から嶺に立ちのぼっていって青空に細くたなびく、どこかもの悲しい光景が浮かんでくる歌である。
歴史解説

【巻3(430)。】
 
題詞  柿本朝臣人麻呂の作歌。
原文  八雲刺  出雲子等  黒髪者  吉野川  奥名豆颯
和訳  八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ
現代文  「」。
文意解説  「八雲さす」は岩波大系本も伊藤本も出雲にかかる枕詞。「八雲立つ」ともいうが「八雲立つ」という用例は万葉集に全く見当たらない。「八雲さす」も他に用例はなく、この歌のみ。記紀にも見当たらない。結句の「沖になづさふ」は「沖にただよう」の意。
歴史解説

【巻3(431)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。「過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首 并短歌 東俗語云 可豆思賀能麻末能弖胡」(山部赤人が勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままのをとめ)の墓を通り過ぎるとき作った長歌と短歌)。
原文 古昔    有家武人之   倭文幡乃  帶解替而    廬屋立   妻問為家武   勝壮鹿乃  真間之手兒名之 奥槨乎   此間登波聞杼  真木葉哉  茂有良武    松之根也  遠久寸     言耳毛   名耳母吾者   不可忘
和訳 いにしへに ありけむひとの しつはたの おびときかへて ふせやたて つまどひしけむ かつしかの ままのてこなが おくつきを こことはきけど まきのはや しげくあるらむ まつがねや とほくひさしき ことのみも なのみもわれは わすらゆましじ
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(432)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。
原文  吾毛見都  人尓毛将告  勝壮鹿之  間間能手兒名之  奥津城處
和訳  我れも見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥津城ところ
現代文  「私も見たぞ人にも告げようぞ。この手児名の墓のことを」。
文意解説  短歌は二首。「勝鹿」は千葉、埼玉、東京にまたがる一帯。真間は市川市内。「手児名(てこな)」ははっきりしない。仮に「うら若くして死んだ乙女のことだ。児どもの手のような可愛い乙女」と解したい。「奥津城(おくつき)ところ」は墓のこと。大和から遙々と長旅を重ねてやってきた赤人がわざわざ立ち寄って歌にするくらいだから、当時、真間の手児名の墓といえば、「ああ」と分かるほど有名な存在だったかも知れない。
歴史解説

【巻3(433)。】
 
題詞  山部赤人の作歌。
原文  勝壮鹿乃  真々乃入江尓  打靡  玉藻苅兼  手兒名志所念
和訳  葛飾の 真間の入江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ
現代文  「」。
文意解説  前歌を読んだ人ならこの歌は一目瞭然。入江になびいている藻を眺めながら作者赤人は「この藻を刈り取っていただろう彼女のことがしのばれる」と想像の羽を広げている。
歴史解説

【巻3(434)。】
 
題詞  河邊宮人の作歌。「和銅四年(711年)辛亥、河邊宮人、姫嶋の松原に美人の屍(かばね)を悲しんで作った歌四首」。この題詞、228番歌の題詞とうりふたつである。異なるのは美人が嬢子となっていたことくらい。その際は二首だったが今回は四首。合わせて六首が河邊宮人の歌。前回と今回。同じく死去した女性を偲ぶ歌。六首が何かの都合で巻2と巻4に分載されたのだろうか。和銅四年は古事記成立の前年の年。
原文  加座皤夜能  美保乃浦廻之  白管仕  見十方不怜  無人念者 [或云 見者悲霜 無人思丹]
和訳  風早の 美穂の浦廻の 白つつじ 見れども寂し なき人思へば [或云 見れば悲しもなき人思ふに]
現代文  「その白つつじを見るにつけ寂しい。死んだ彼女が思われて」。
文意解説  「風早の美穂の浦廻(うらみ)の白つつじ」は「風の激しい美穗の浦に咲く白つつじ」という意だが、この美穗、307番歌の題詞に見える「紀伊国の三穂の石室((和歌山県美浜町)」のことだろうか。とすれば宮人は307番歌の作者博通法師(はくつうほふし)と同じ場所に立っていることになる。姫島は紀伊国の三穂の石室のある場所ということになる。異伝もほぼ同意。
歴史解説

【巻3(435)。】
 
題詞  河邊宮人の作歌。
原文  見津見津四  久米能若子我  伊觸家武  礒之草根乃  干巻惜裳
和訳  みつみつし 久米の若子が い触れけむ 礒の草根の 枯れまく惜しも
現代文  「その若子が触れた磯の草が枯れていくのは惜しい」。
文意解説  「みつみつし」は本歌のみの枕詞(?)である。307~309番歌に見えるように、久米の若子(わくご)は神として長らく石室に鎮座している。「その昔勇ましい久米の若子が触れてたくましい霊力をもらったにもかかわらず枯れてゆくのは残念」という意味なのか、それとも「久米の若子が荒々しく踏みにじったため美しい草が枯れゆくのを見るのは残念」という意味なのか、いずれだろう。
歴史解説

【巻3(436)。】
 
題詞  河邊宮人の作歌。
原文  人言之  繁比日  玉有者  手尓巻持而  不戀有益雄
和訳  人言の 繁きこのころ 玉ならば 手に巻き持ちて 恋ひずあらましを
現代文  「」。
文意解説  よく分からない歌である。次歌までは死んだ女性を見て悲しんで作った歌の筈である。なのに「人言の繁きこのころ」(人の噂の激しいこのごろ)とは何のことだろう。後半句は「もしもあなたが玉ならば腕輪にして持ち歩き、ずっと恋していたいのに」だ。これは挽歌なのではなく、現実の恋そのものの歌といってよい。
歴史解説

【巻3(437)。】
 
題詞  河邊宮人の作歌。
原文  妹毛吾毛  清之河乃  河岸之  妹我可悔  心者不持
和訳  妹も我れも 清みの川の 川岸の 妹が悔ゆべき 心は持たじ
現代文  「私たちは、清らかな川のように歩み、川岸が崩れて濁る(後悔する)ことのないような心でありたい」。
文意解説  本歌も前歌と同じく現実の恋を詠っている。恋を川岸に喩えている。岩波大系本は次のように記している。「前の歌とこの歌とは挽歌より相聞として適当な内容なので、ここにあるのはまちがって入ったかと言われている」。
歴史解説

【巻3(438)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。「神龜五年(728年)戊辰、大宰帥大伴卿(おおとものまえつきみ)(旅人のこと)が、故人をしのんで作った歌三首」。438~440番歌は大伴旅人の歌。
原文  愛人之纒而師  敷細之  吾手枕乎  纒人将有哉
和訳  愛しき人のまきてし 敷栲の 我が手枕を まく人あらめや
現代文  「」。
文意解説  「愛(うつく)しき人」とは「愛情に包まれた人」すなわちわが妻のことである。「敷栲の」(しきたへの)はよく出てくる枕詞。「まく」はいわずもがな「まくらにして」である。「まく人あらめや」は「枕にする人があるだろうか」で、強い哀しみと絶望感をあらわしている。
歴史解説

【巻3(439)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  應還  時者成来  京師尓而  誰手本乎可  吾将枕
和訳  帰るべく 時はなりけり 都にて 誰が手本をか 我が枕かむ
現代文  「」。
文意解説  「帰るべく時はなりけり」は「都にて」が続くので、むろん「いよいよ都(奈良)に帰る時がやってきた」の意。が、妻亡き今、都で誰が共寝してくれるのだろう」とこれまた強い哀しみをあらわしている。
歴史解説

【巻3(440)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  在京  荒有家尓  一宿者  益旅而  可辛苦
和訳  都なる 荒れたる家に ひとり寝ば 旅にまさりて 苦しかるべし
現代文  「都に帰って誰もいない家で独り寝をするのは。ああ」。
文意解説  「旅の独り寝はわびしくつらいものである。そのつらさよりもさらに辛いのは」ときて発句に続く。つまり倒置表現の歌である。330番台から340番台にかけて太宰府に赴任した頃の旅人といい、ここ三歌の歌といい、大伴旅人のいかにもお坊ちゃんお坊ちゃんした様子がうかがえる。
歴史解説

【巻3(441)。】
 
題詞  倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)の作歌。「神龜六年(729年)己巳、左大臣長屋王(ながやのおほきみ)死を賜ひし後倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)が作った歌」。長屋王は天武天皇の孫、高市皇子の子。倉橋部女王は未詳。
原文  大皇之  命恐  大殯乃  時尓波不有跡  雲隠座
和訳  大君の 命畏み 大殯(おほあらき)の 時にはあらねど 雲隠ります
現代文  「恐れ多くも大君の命により、まだその時期でみないのにお隠れになってしまわれた」。
文意解説  「大君の命畏み」は「天皇の命令を受けて」。「大殯(おほあらき、大荒城)の時」は「葬式の時」の意。「雲隠り(くもがくり)ます」は「お隠れになる」。「大殯の時にはあらねど」に無念の気持がこめられている。
歴史解説

【巻3(442)。】
 
題詞  「膳部王(かしはでべのおほきみ)を悲しんで詠われた歌」。左注に作者未詳とある。膳部王は長屋王(ながやのおほきみ)の子で、謀反の密告により父王と共に自害している。
原文  世間者  空物跡  将有登曽  此照月者  満闕為家流
和訳  世の中は 空しきものと あらむとぞ この照る月は 満ち欠けしける
現代文  「世の中は空しいものだなぁとつくづく思う。この満ち欠けする月を見ていると。(その満ち欠けのように世の中は無常だなあ)」。
文意解説  「あらむとぞ」は「あるのだと示す」と解されている。が、結句の「満ち欠けしける」には詠嘆がこもっている。意味は逆。満ち欠けする月自体は何も語っていない。
歴史解説

【巻3(443)。】
 
題詞  大伴宿祢三中(おおとものすくねみなか)の作歌。「天平元年己巳攝津國班田史生丈部龍麻呂自経死之時判官大伴宿祢三中作歌一首 并短歌」(「天平元年(729年)攝津國(せっつのくに。大阪から兵庫にかけての旧国名)の役人丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)の自殺に伴い、上官の大伴宿祢三中(おおとものすくねみなか)が作った長歌と短歌」)。
原文 天雲之   向伏國     武士登   所云人者    皇祖    神之御門尓   外重尓  立候     内重尓   仕奉      玉葛    弥遠長     祖名文   継徃物与    母父尓   妻尓子等尓   語而    立西日従    帶乳根乃  母命者     齋忌戸乎  前坐置而     一手者   木綿取持   一手者   和細布奉    平     間幸座与     天地乃   神祇乞禱    何在     歳月日香    茵花    香君之     牛留鳥   名津匝来与   立居而   待監人者    王之    命恐      押光   難波國尓    荒玉之   年経左右二   白栲    衣不干     朝夕    在鶴公者    何方尓   念座可     欝蝉乃   惜此世乎    露霜    置而徃監    時尓不在之天
和訳 あまくもの むかぶすくにの もののふと いはれしひとは すめろきの かみのみかどに とのへに たちさもらひ うちのへに つかへまつりて たまかづら いやとほながく おやのなも つぎゆくものと おもちちに つまにこどもに かたらひて たちにしひより たらちねの ははのみことは いはひべを まへにすゑおきて かたてには ゆふとりもち かたてには にきたへまつり たひらけく まさきくいませと あめつちの かみをこひのみ いかにあらむ としつきひにか つつじはな にほへるきみが にほどりの なづさひこむと たちてゐて まちけむひとは おほきみの みことかしこみ おしてる なにはのくにに あらたまの としふるまでに しろたへの ころももほさず あさよひに ありつるきみは いかさまに おもひいませか うつせみの をしきこのよを つゆしもの おきていにけむ ときにあらずして
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(444)。】
 
題詞  大伴宿祢三中(おおとものすくねみなか)の作歌。短歌は2首。
原文  昨日社  公者在然  不思尓  濱松之<於>  雲棚引
和訳  昨日こそ 君はありしか 思はぬに 浜松の上に 雲にたなびく
現代文  「」。
文意解説  「昨日こそ」の「こそ」は強調。「昨日たしかに君は生きていたのに」と詠い出し、後半は倒置表現で「火葬に付された君がもう浜松の上に雲となってたなびくことになろうとは」の意である。残念とも悲しいとも言わないで「雲にたなびく」とだけ詠っている。作者の心情がいっそう強く伝わってくる。秀句といってよかろう。
歴史解説

【巻3(445)。】
 
題詞  大伴宿祢三中(おおとものすくねみなか)の作歌。
原文  何時然跡  待牟妹尓  玉梓乃  事太尓不告  徃公鴨
和訳  いつしかと 待つらむ妹に 玉梓の 言だに告げず 去(い)にし君かも
現代文  「妻に告げる辞世の言葉も託さず、君はあの世に行ってしまった」。
文意解説  作者大伴三中は自殺した部下龍麻呂の妻をおもんばかって「いつしかと待つらむ妹に」と詠いだしている。「玉梓(たまづさ)の言(こと)だに告げず」と続いている。「玉梓の」は単に枕詞と解されている。が、「玉梓の言」は本歌の核心部分、決して枕詞のような飾り文句ではないので?とせざるを得ない。玉梓については209番歌の際にも解説したが、「玉は美称なので梓に着目すればよい。梓(あずさ)は落葉樹のひとつ。その梓の小枝に文を結びつけて使いの者に相手の女性ないし男性に届けさせる。その際使用される小枝は梓に限らなかったのだろうが、梓は代表的な木の一つで、梓の使いといえば当時の人々にはぴんときたものと思われる」()。「徃」は「去(い)にし」と訓ぜられている。
歴史解説

【巻3(446)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。「天平二年(730年)庚午、大伴旅人が太宰府の任務を終え、帰京する途次に作った歌5首」。446~450番歌は旅人の歌。旅人は京(奈良平城京)から太宰府卿(長官)として赴任したのが神亀4年(727年)頃とみなされている。そうだとすると太宰府に3年ほど赴任していたことになる。着任まもない頃かと思うが、328番歌から351番歌にかけて宴席の人々の歌が長々と収録されている。そこに見られる旅人は太宰府に追いやられ、激しく動揺、落胆した心象風景を詠うものだった。
原文  吾妹子之  見師鞆浦之  天木香樹者  常世有跡  見之人曽奈吉
和訳  我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき
現代文  「太宰府に赴任してくるとき妻と共に見たネズの木は今も立っているが、その妻は今は亡き人となっている」。
文意解説  「鞆(とも)の浦」は広島県福山市にある海岸。むろの木はヒノキ科のネズの木だという。
歴史解説

【巻3(447)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  鞆浦之  礒之室木  将見毎  相見之妹者  将所忘八方
和訳  鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも
現代文  「どこの地に生えるむろの木であってもむろの木を見るたびに亡き妻が思い出される」。
文意解説  歌意を「むろの木を見るたびに」と受け取ると、「そのたびに妻を思い出す」という意になるのが自然。が、歌の焦点は「相見し妹は」にある。私は逆接的に読むのがよいと思う。「共に妻と見たむろの木、その妻が忘れられようか」と読む。旅人が京から遠い鞆の浦くんだりまで再度出かけるとは思われない。
歴史解説

【巻3(448)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。左注に「右三首は鞆の浦を通り過ぎる日に作った歌」とある。
原文  礒上丹  根蔓室木  見之人乎  何在登問者  語将告可
和訳  磯の上に 根這ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか
現代文  「」。
文意解説  磯に根を這わせるむろの木、そのむろの木に呼びかけた歌である。「あなたを見た人(わが妻)はどちらにいるのだろう、教えてくれるだろうか」と呼びかけているのである。もの言わぬ木に呼びかけ、無言の問答を仕掛けざるを得ない点に、旅人の深い悲しみがよく出ている。
歴史解説
【巻3(449)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  与妹来之  敏馬能埼乎  還左尓  獨<之>見者  涕具末之毛
和訳  妹と来し 敏馬の崎を 帰るさに ひとりし見れば 涙ぐましも
現代文  「」。
文意解説  鞆の浦を過ぎて敏馬(みぬめ)の崎にさしかかった時の歌。敏馬の崎は神戸市灘区の崎。これにより、旅人は九州を出て広島を過ぎ神戸にさしかかった所と分かる。船旅で大和に向かっている。太宰府に向かうときは妻と共に見た崎だが、帰途はこうしてひとりで見なければならない。「思わず涙がにじんでくる」という歌である。
歴史解説

【巻3(450)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  去左尓波  二吾見之  此埼乎  獨過者 情 悲<喪 [一云 見毛左可受伎濃]
和訳  行くさには ふたり我が見し この崎を ひとり過ぐれば 心悲しも
現代文  「」。
文意解説  前歌と同趣旨の歌である。結句には異伝が付されているが「見る気もしない」の意で歌意はやはり同趣旨。左注に「右二首は敏馬の埼を通り過ぎる日に作った歌」とある。
歴史解説

【巻3(451)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。「ここからの三首は故郷に帰ってきたときの旅人の歌」。
原文  人毛奈吉  空家者  草枕  旅尓益而  辛苦有家里
和訳  人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり
現代文  「人気(ひとけ)のないがらんとした家は長旅にもまさって辛いなあ」。
文意解説  古代の長旅は辛く苦しかった。
歴史解説

【巻3(452)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  与妹為而  二作之  吾山齊者  木高繁  成家留鴨
和訳  妹として ふたり作りし 我が山斎は 木高く茂く なりにけるかも
現代文  「妻と二人して作り上げた庭も今では木高く茂っている」。
文意解説
 山斎(しま)は島とも表記されるが、要は自分の家の山水。
歴史解説

【巻3(453)。】
 
題詞  大伴旅人の作歌。
原文  吾妹子之  殖之梅樹  毎見  情咽都追  涕之流
和訳  我妹子が 植ゑし梅の木 見るごとに 心咽せつつ 涙し流る
現代文  「」。
文意解説
 「咽(む)せつつ」は激しく泣く様だが、「心咽せつつ」というのであるから心の中で激しく泣く様である。なのでおいおいと大声を出して泣くのではなく、「ひとりでに涙があふれてくる」様である。酒の歌を始めこうした大伴旅人の歌に接すると、貴公子然としながら、非常に繊細で心優しい一面を内包していることが分かる。
歴史解説

【巻3(454)。】
 
題詞  余明軍(よのみゃうぐん)の作歌。「天平三年(731年)辛未秋七月、旅人の死去に伴い作られた歌六首」。 帰京して半年前後の早い死である。454~458番の5首は458番歌の左注により旅人の付け人余明軍(よのみゃうぐん)の歌と知れる。断るまでもないが、ここにいう付け人は平城京でのことである。
原文  愛八師  榮之君乃  伊座勢婆  昨日毛今日毛  吾乎召麻之乎
和訳  愛しきやし 栄えし君の いましせば 昨日も今日も 我を召さましを
現代文   「」。
文意解説  「愛(は)しきやし栄えし君のいましせば」は「ご主君がお慕わしくご健在でいらっしゃったなら」である。
歴史解説

【巻3(455)。】
 
題詞 余明軍(よのみゃうぐん)の作歌。
原文  如是耳  有家類物乎  芽子花  咲而有哉跡  問之君波母
和訳  かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも
現代文  「こんなことにおなりになるとは。萩の花は咲いただろうか、とおたづねでしたね」。
文意解説  「かくのみにありけるものを」は「こんなことにおなりになるとは」である。「(死を知らぬげに)萩の花は咲いただろうか、とおたづねでしたね」という歌である。
歴史解説

【巻3(456)。】
 
題詞  余明軍(よのみゃうぐん)の作歌。
原文  君尓戀  痛毛為便奈美  蘆鶴之  哭耳所泣  朝夕四天
和訳  君に恋ひ いたもすべなみ 葦鶴の 哭のみし泣かゆ 朝夕にして
現代文  「ご主君をお慕いしながら、朝夕鶴のように泣くばかりで他になすすべがありましょうか」。
文意解説  「いたもすべなみ」は「全くなすすべがありません」、「葦鶴(あしたづ)の哭(ね)のみし泣かゆ」は「芦辺の鶴のように声だけ上げて泣く以外」である。本歌は倒置表現として反語的に解すると分かりやすい。
歴史解説

【巻3(457)。】
 
題詞  余明軍(よのみゃうぐん)の作歌。
原文  遠長  将仕物常  念有之  君師不座者  心神毛奈思
和訳  遠長く 仕へむものと 思へりし 君しまさねば 心どもなし
現代文  「」。
文意解説  「遠長く」は現代語的に言えば「末長く」である。結句の「心どもなし」は「心の張りがなくなった」でいいことはいいのだが、原文に「心神毛」とあるのを見れば「茫然自失」の意ととった方がより適切に見える。
歴史解説

【巻3(458)。】
 
題詞  余明軍(よのみゃうぐん)の作歌。
原文  若子乃  匍匐多毛登保里  朝夕  哭耳曽吾泣  君無二四天
和訳  みどり子の 匍ひたもとほり 朝夕に 哭のみぞ我が泣く 君なしにして
現代文  「ご主君を亡くして這い回り声をあげて泣くばかり」。
文意解説  みどり子は赤子。「匍ひたもとほり」は「(赤子のように)這い回る」である。
歴史解説

【巻3(459)。】
 
題詞  この歌は作者不明だが、中務省(なかつかさしょう)管轄の内礼司から医薬も歌も届けられたことが左注に見えている。旅人への最後の挽歌。
原文  見礼杼不飽  伊座之君我  黄葉乃  移伊去者  悲喪有香
和訳  見れど飽かず いましし君が 黄葉の うつりい行けば 悲しくもあるか
現代文  「いつお会いしても見飽きることのなかったあなた様が黄葉のように変わり果ててしまわれた。悲しいことです」。
文意解説  「見れど飽かずいましし君が」は「いつお会いしても見飽きることのなかったあなた様が」の意。
歴史解説

【巻3(460)。】
 
題詞  大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)の作歌。「七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首 并短歌 」(「天平7年(735年)乙亥大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)が尼理願(あまりぐあん)の死去を悲しんで作った歌及び短歌」)。
原文 栲角乃   新羅國従    人事乎   吉跡所聞而   問放流   親族兄弟    無國尓   渡来座而    大皇之   敷座國尓    内日指   京思美弥尓   里家者   左波尓雖在   何方尓   念鷄目鴨    都礼毛奈吉 佐保乃山邊尓  哭兒成   慕来座而    布細乃   宅乎毛造    荒玉乃   年緒長久    住乍    座之物乎    生者    死云事尓     不免    物尓之有者   憑有之   人乃盡     草枕    客有間尓    佐保河乎  朝河渡     春日野乎  背向尓見乍   足氷木乃  山邊乎指而   晩闇跡   隠益去礼    将言爲便  将為須敝不知尓 俳佪    直獨而     白細之   衣袖不干    嘆乍    吾泣涙     有間山   雲居軽引    雨尓零寸八
和訳 たくづのの しらきのくにゆ ひとごとを よしときかして とひさくる うがらはらがら なきくにに わたりきまして おほきみの しきますくにに うちひさす みやこしみみに さといへは さはにあれども いかさまに おもひけめかも つれもなき さほのやまへに なくこなす したひきまして しきたへの いへをもつくり あらたまの としのをながく すまひつつ いまししものを いけるもの しぬといふことに まぬかれぬ ものにしあれば たのめりし ひとのことごと くさまくら たびなるほとに さほがはを あさかはわたり かすがのを そがひにみつつ あしひきの やまへをさして ゆふやみと かくりましぬれ いはむすべ せむすべしらに たもとほり ただひとりして しろたへの ころもでほさず なげきつつ わがなくなみた ありまやま くもゐたなびき あめにふりきや
現代文  「」。
文意解説
 長歌。長歌の内容から理願は新羅国からやってきて佐保川(奈良市)に住みついたことが分かる。
歴史解説

【巻3(461)。】
 
題詞  詳細な左注が記され、尼がどこに住み、なぜ大伴坂上郎女が本歌を作ることになったのかその経緯がうかがえる。簡単に要点を述べると「尼は数々の家の中から大伴安麻呂(旅人の父)家に寄寓し、長年住んで死去した。死去の際一家は有馬温泉(神戸市)に出かけていて、家にいたのは坂上郎女。なので彼女が歌作し、有馬に届けさせた」とある。
原文  留不得  壽尓之在者  敷細乃  家従者出而  雲隠去寸
和訳  留めえぬ 命にしあれば 敷栲の 家ゆは出でて 雲隠りにき
現代文  「住み慣れた家から飛び立った死者(霊魂)は雲の向こうに隠れた」。
文意解説  「留めえぬ命にしあれば」は「死は免れない」の意。「敷栲(しきたへ)の」は枕詞。「雲隠りにき」は「故国に旅立だたれた」という意に解してよかろう。
歴史解説

【巻3(462)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。「天平11年(739年)己丑(6月)、大伴家持、妾(をみなめ)の死去を悲しんで作った歌」。家持は後に坂上郎女の長女坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)を妻に迎えるが、妾とは同棲し、子ももうけているので事実上の前妻といってよい。
原文  従今者  秋風寒  将吹焉  如何獨  長夜乎将宿
和訳  今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長き夜を寝む
現代文  「これからは秋風(あきかぜ)が寒く吹くのだろうに、どんな風にしてひとりで長い夜を寝たらよいでしょうか」。
文意解説
 「今よりは」は「これから秋に向かう」という意味である。さて、「独り寝」とか「独り身の寂しさ」とかを詠じた歌は万葉集にはいくつもある。この歌の匂いが古今和歌集にも繋がる。「独り寝」を詠じた古今歌の一首は「秋なれば 山とよむまで 鳴く鹿に 我おとらめや ひとり寝る夜は」(古今582番歌)。
歴史解説

【巻3(463)。】
 
題詞  大伴書持(ふみもち)の作歌。 「前歌に対し、家持の弟、書持(ふみもち)が応えた歌」である。
原文  長夜乎  獨哉将宿跡  君之云者  過去人之  所念久尓
和訳  長き夜を ひとりや寝むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに
現代文  「そう詠われてみると、お姉さんのことがあらためて思い出されます」。
文意解説  「長き夜をひとりや寝むと」はむろん前歌を受けている。
歴史解説

【巻3(464)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  秋去者  見乍思跡  妹之殖之  屋前乃石竹  開家流香聞
和訳  秋さらば 見つつ偲へと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも
現代文  「『秋になったなら、いっしょに見て楽しみましょうね』と言って妻が植えた家の撫子(なでしこ)が咲いているんだな」。
文意解説  この歌以降しばらく家持の歌が続く。「秋さらば見つつ偲へと」は死去した妻の言葉。「秋さらば」は「秋になったら」のこと。「偲(しの)へと」は「思い出してご鑑賞あそばせと」という意味。そして一転「やどのなでしこ咲きにけるかも」は現実のやど(庭)の風景である。そして発句の「秋さらば」は現実に秋が到来していることをも示している。453番歌といい、この歌といい、何の解説も要せずそのまますんなり伝わってくる。いい歌である。
歴史解説

【巻3(465)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  虚蝉之  代者無常跡  知物乎  秋風寒  思努妣都流可聞
和訳  うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み 偲ひつるかも
現代文  「この世ははかないものと知ってはいますが、秋風が寒く、(妻のことを)思い出させられています」。
文意解説  「うつせみの」は枕詞とも言われる。「虚蝉之」、「空蝉之」、「打蝉之」などと書かれる。現世、空虚といった意味だが、ここは現世の意味。上三句は「この世は無常と分かってはいるが」。「秋風寒く」の次の「偲ひつるかも」は462番歌からの流れから「妻を思い出す」の意と分かる。が、この歌の優れているのは、「妹を」の語がなくとも全体の歌意からそれと知れる点である。
歴史解説

【巻3(466)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  吾屋前尓 花曽咲有 其乎見杼 情毛不行 愛八師 妹之有世婆 水鴨成 二人雙居 手折而毛 令見麻思物乎 打蝉乃 借有身在者 露霜乃 消去之如久 足日木乃 山道乎指而 入日成 隠去可婆 曽許念尓 胸己所痛 言毛不得 名付毛不知 跡無 世間尓有者 将為須辨毛奈思
和訳  我がやどに、花ぞ咲きたる、そを見れど、心もゆかず、はしきやし、妹がありせば、水鴨(みかも)なす、ふたり並び居(ゐ)、手折(たを)りても、見せましものを、うつせみの、借れる身なれば、露霜(つゆしも)の、消(け)ぬるがごとく、あしひきの、山道をさして、入日(いりひ)なす、隠(かく)りにしかば、そこ思ふに、胸こそ痛き、言ひもえず、名づけも知らず、跡(あと)もなき、世間(よのなか)にあれば、為(せ)むすべもなし
現代文  「私の家に花が咲いています。それを見ても心はすっきりしない。愛しい妻がいたのなら、鴨のように二人並んで花を手折って見せてあげられるものを。(この世で)借りている身なので露や霜のように消えてしまうように、山道をさして入日が消えてゆくように、(妻が)消えてしまったので、そのことを思うと胸は痛みのですが、言いようも無く、なんとたとえたらよいのか分かりません。はかないこの世の中だから、どうしようもありません」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(467)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  時者霜  何時毛将有乎  情哀  伊去吾妹可  <若>子乎置而
和訳  時はしも いつもあらむを 心痛く い行く我妹か みどり子を置きて
現代文  「死ぬ時はいつであってもいいだろうに、幼子を置いてなぜ今の時に旅立ってしまったんだ」。
文意解説  「」。
歴史解説

【巻3(468)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  出行  道知末世波  豫  妹乎将留  塞毛置末思乎
和訳  出でて行く 道知らませば あらかじめ 妹を留めむ 関も置かましを
現代文  「旅立つ道さえ知っていたら妹を留める関を作っておいたのに」。
文意解説
 「知らませば」は「知っていれば」である。
歴史解説

【巻3(469)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  妹之見師  屋前尓花咲  時者經去  吾泣涙  未干尓
和訳  妹が見し やどに花咲き 時は経ぬ 我が泣く涙 いまだ干なくに
現代文  「妻が植えたなでしこの花も咲き月日は過ぎた。が、私の涙はいまだに乾かない」。
文意解説  464番歌と並べて読むといっそう理解が深まる。
歴史解説

【巻3(470)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  如是耳  有家留物乎  妹毛吾毛  如千歳  憑有来
和訳  かくのみに ありけるものを 妹も我れも 千年のごとく 頼みたりけり
現代文  「」。
文意解説  「かくのみにありけるものを」は「死別になる定めにあったのに」である。そして「今が永遠に続くと思っていたのに」と続く。どの時代のどの男女にも当てはまる思いである。
歴史解説

【巻3(471)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  離家  伊麻須吾妹乎  停不得  山隠都礼  情神毛奈思
和訳  家離り います我妹を 留めかね 山隠しつれ 心どもなし
現代文  「家を旅立つ妻を留めることが出来ないで、死なせてしまった、ああ」。
文意解説  「心どもなし」は457番歌にも使われているが、「茫然自失」の状態。
歴史解説

【巻3(472)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  世間之  常如此耳跡  可都<知跡>  痛情者  不忍都毛
和訳  世の中は 常かくのみと かつ知れど 痛き心は 忍びかねつも
現代文  「」。
文意解説  「常(つね)かくのみと」は「むごいものだと」。「かつ知れど」は「頭では分かっているけれど」である。この歌も亡くした妻を思う悲痛な心情を詠っている。
歴史解説

【巻3(473)。】
 
題詞
原文  佐保山尓  多奈引霞  毎見  妹乎思出  不泣日者無
和訳  佐保山に たなびく霞 見るごとに 妹を思ひ出 泣かぬ日はなし
現代文  「」。
文意解説  現代短歌としてそのまま歌誌に載っていても不思議はない万人に届く歌である。
歴史解説

【巻3(474)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  昔許曽  外尓毛見之加  吾妹子之  奥槨常念者  波之吉佐寳山
和訳  昔こそ 外(よそ)にも見しか 我妹子(わぎもこ)が 奥つ城(き)と思へば 愛しき佐保山
現代文  「昔はなんとはなく見ていたのですが、私の亡くなった妻のお墓があるところと思うと、佐保山(さほやま)が愛おしい」。
文意解説  「昔こそ外(よそ)にも見しか」は「昔(これまで)は単なる山としか見ていなかったが」の意。「奥つ城(き)」は「眠っている場所」。すなわち墓所。「愛(は)しき」は「いとしい」。 
歴史解説

【巻3(475)。】
 
題詞  「十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首 」。
原文 挂巻母   綾尓恐之    言巻毛   齋忌志伎可物 吾王     御子乃命   萬代尓   食賜麻思    大日本   久邇乃京者   打靡    春去奴礼婆   山邊尓波  花咲乎為里   河湍尓波  年魚小狭走   弥日異   榮時尓     逆言之   狂言登加聞   白細尓   舎人装束而   和豆香山  御輿立之而   久堅乃   天所知奴礼   展轉    埿打雖泣    将為須便毛奈思
和訳 かけまくも あやにかしこし いはまくも ゆゆしきかも わがおほきみ みこのみこと よろづよに めしたまはまし おほやまと くにのみやこは うちなびく はるさりぬれば やまへには はなさきををり かはせには あゆこさばしり いやひけに さかゆるときに およづれの たはこととかも しろたへに とねりよそひて わづかやま みこしたたして ひさかたの あめしらしぬれ こいまろび ひづちなけども せむすべもなし
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(476)。】
 
題詞  「天平十六年(744年)甲申春二月安積皇子(あさかのみこ)薨去に際し作った歌及び短歌6首」。
原文  吾王  天所知牟登  不思者  於保尓曽見谿流  和豆香蘇麻山
和訳  わが大君 天知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和束(わずか)そま山
現代文  「お亡くなりになるとは思いもしなかったので漠然と見ていただけの山だったのに」。
文意解説  475番長歌以下も家持の歌だが前歌までとは全く異なる意味合いを持つ。安積皇子は聖武天皇の皇子。「和束そま山」は京都府相楽郡和束町にある用材を育てる山。安積皇子の陵墓がある。「天知らさむと」は「天をお治めになる」すなわち「お亡くなりになる」である。「おほにぞ見ける」は「漠然と見ていただけの」の意。
歴史解説

【巻3(477)。】
 
題詞  大伴家持の作歌。
原文  足桧木乃  山左倍光  咲花乃  散去如寸  吾王香聞
和訳  あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が大君かも
現代文  「皇子から発する光で輝くように咲いていた山の花が一斉に散ってしまいました。わが皇子がお隠れになったので」。
文意解説  「あしひきの」は枕詞。私の皇子様よ。
歴史解説  天平16年(西暦744年)1月、聖武天皇(しょうむてんのう)の皇子のひとり、安積親王(あさかのみこ)が病気のために亡くなっている。この歌は大伴家持(おおとものやかもち)が天平16年(西暦744年)2月3日に詠んだ歌とされている。

【巻3(478)。】
 
題詞
原文 挂巻毛   文尓恐之    吾王     皇子之命   物乃負能  八十伴男乎   召集聚   率比賜比    朝獵尓   鹿猪踐起    暮獵尓   鶉鴙履立   大御馬之  口抑駐     御心乎   見為明米之   活道山   木立之繁尓   咲花毛   移尓家里    世間者   如此耳奈良之  大夫之   心振起      劔刀    腰尓取佩    梓弓    靭取負而    天地与   弥遠長尓    萬代尓   如此毛欲得跡  憑有之   皇子乃御門乃  五月蝿成  驟驂舎人者   白栲尓   服取著而    常有之    咲比振麻比   弥日異   更経見者    悲呂可聞
和訳 かけまくも あやにかしこし わがおほきみ みこのみこと もののふの やそとものをを めしつどへ あどもひたまひ あさがりに ししふみおこし ゆふがりに とりふみたて おほみまの くちおさへとめ みこころを めしあきらめし いくぢやま こだちのしげに さくはなも うつろひにけり よのなかは かくのみならし ますらをの こころふりおこし つるぎたち こしにとりはき あづさゆみ ゆきとりおひて あめつちと いやとほながに よろづよに かくしもがもと たのめりし みこのみかどの さばへなす さわくとねりは しろたへに ころもとりきて つねにありし ゑまひふるまひ いやひけに かはらふみれば かなしきろかも
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(479)。】
 
題詞
原文  波之吉可聞  皇子之命乃  安里我欲比  見之活道乃 路 波荒尓鷄里
和訳  はしきかも 皇子の命の あり通ひ 見しし活道(いくじ)の 道は荒れにけり
現代文  「薨去されたため荒れてしまいました」。
文意解説  「あり通ひ」は「ご存命中通われていた」である。「活道(いくじ)の道は」の活道は長歌から「活道山」と分かる。
歴史解説

【巻3(480)。】
 
題詞
原文  大伴之  名負靭帶而  萬代尓  憑之心 何 所可将寄
和訳  大伴の 名に負ふ靫(ゆき)帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ
現代文  「」。
文意解説  「靫(ゆき)帯びて」は矢を入れた靫を背負って。つまり武人としてお仕えしてきた大伴一族は「皇子を亡くして心もとない」という歌である。家持の歌はここで終了。
歴史解説

【巻3(481)。】
 
題詞  「悲傷死妻高橋朝臣作歌一首 并短歌」。
原文 白細之   袖指可倍弖   靡寐    吾黒髪乃    真白髪尓  成極      新世尓   共将有跡    玉緒乃   不絶射妹跡   結而石   事者不果    思有之   心者不遂    白妙之   手本矣別    丹杵火尓之 家従裳出而   緑兒乃   哭乎毛置而   朝霧    髣髴為乍    山代乃   相樂山乃    山際    徃過奴礼婆   将云為便  将為便不知   吾妹子跡  左宿之妻屋尓  朝庭    出立偲     夕尓波   入居嘆會    腋挾    兒乃泣毎    雄自毛能   負見抱見    朝鳥之   啼耳哭管    雖戀    効矣無跡    辞不問   物尓波在跡   吾妹子之  入尓之山乎   因鹿跡叙念
和訳 しろたへの そでさしかへて なびきねし あがくろかみの ましらがに なりなむきはみ あらたよに ともにあらむと たまのをの たえじいいもと むすびてし ことははたさず おもへりし こころはとげず しろたへの たもとをわかれ にきびにし いへゆもいでて みどりこの なくをもおきて あさぎりの おほになりつつ やましろの さがらかやまの やまのまに ゆきすぎぬれば いはむすべ せむすべしらに わぎもこと さねしつまやに あしたには いでたちしのひ ゆふべには いりゐなげかひ わきばさむ このなくごとに をとこじもの おひみうだきみ あさとりの ねのみなきつつ こふれども しるしをなみと こととはぬ ものにはあれど わぎもこが いりにしやまを よすかとぞおもふ
現代文  「」。
文意解説  長歌。
歴史解説

【巻3(482)。】
 
題詞  妻を亡くし、悲しんで作った歌及び短歌。作者不詳。
原文  打背見乃  世之事尓在者  外尓見之  山矣耶今者  因香跡思波牟
和訳  うつせみの 世のことにあれば 外に見し 山をや今は よすかと思はむ
現代文  「これまで無関係と思っていた山だったが、今では妻が眠る山。これからは心のよりどころと思うであろうよ」。
文意解説  上三句は465番歌の上三句に類似。世は無常、の意。「外(よそ)に見し」は474番歌の「外にも見しか」と同意。
歴史解説

【巻3(483)。】
 
題詞
原文  朝鳥之  啼耳鳴六  吾妹子尓  今亦更  逢因矣無
和訳  朝鳥の 哭(ね)のみし泣かむ 我妹子に 今またさらに 逢ふよしをなみ
現代文  「いとしい妻に再度逢おうにも逢う術がない」。
文意解説
 「朝鳥の哭(ね)のみし泣かむ」は「毎朝ただ声をあげて泣く鳥のように」という比喩である。「よしをなみ」は「すべがない」である。悲痛な歌である。以上で巻3の終了。
歴史解説





(私論.私見)