この時期、娘の十市皇女に葛野王も生まれ、 公私共に額田王が最も充実していた時期だったと思われる。しかし、天智天皇の死後、額田王と十市皇女母娘の運命は大きく変えられる。古代最大の内乱「壬申の乱」が起き、一旦は出家し、吉野に隠棲した大海人皇子が兵を率い、
挙兵。叔父と甥の間で、皇位継承の激しい戦いが行われる。 額田王と十市皇女はこの渦中に巻き込まれる。戦いは一ヶ月で終了、672年の七月二十三日、
大友皇子は山前で自害、二十五歳の悲劇的な最期を遂げた。この戦いの間の額田王と十市皇女の動向が伝えられている当時の史料はないが、乱終了後、飛鳥に戻ったと思われる。五年後、
額田王に再び悲劇的な報せが伝えられる。 娘十市皇女が宮中で急死する。以降の様子も伝えられていない。晩年になってから弓削皇子との歌のやり取りをしたらしく、おそらく、これが額田王の歌人としての最後の活動だったと思われる。