長歌()。
発句「石見乃海 角乃浦廻乎」は「石見の海 角の浦廻を」と訓む。「石見乃海」は「石見(いはみ)の海」と訓む。「石見」は「石見国」の意で、島根県の西半分にあたる旧国名。国庁は、浜田市下府(しもこう)にあった。「乃」はノ。この句は、旧訓にイハミノウミとあったのを賀茂真淵が萬葉考にイハミノミと改訂したが、萬葉集の仮名書例に「古之能宇美乃(こしのうみの)」、「奈呉能宇美乃(なごのうみの)」など字余りにウミと記されたものを見るし、「駿河能宇美」、「伊豆乃宇美」など「国名+ノウミ」の形も見られることからすると、ここは旧訓のイハミノウミを採るのが良いと思われる。「角乃浦廻乎」は「角(つの)の浦廻(うらみ)を」と訓む。「角」は、ここは地名のツノ。和名抄の石見国那賀郡に「都農」とあるのがそれで、現在の島根県江津市都野津町、石見赤瓦の産地として知られる。「浦廻」は「うらみ」と訓み、「海岸の曲って入りくんだあたり。入江の曲りくねった所のまわり」をいう。「廻」は、「荒き嶋廻(しまみ)を」及び歌「道の阿(くま)廻(み)に」に既出で、「めぐる」意の「廻(み)る」の連用形が名詞化した語で接尾語的に用いられ、「まわり、あたり」を意味する。「乎」はヲ。
2句「浦無等 人社見良目 能咲八師 浦者無友」は「浦なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも」と訓む。「浦無等 人社見良目」と、「滷無等[一云 礒無登] 人社見良目」とは対句を成す。「浦無等」は「浦無(な)しと」と訓む。「浦」は、「海、湖などの湾曲して、陸地に入り込んだ所」をいう。「無」は「無(な)し」。「等」はト。「浦無し」は、船着き場になるような良い浦がないことを言ったものと考えられる。「人社見良目」は「人こそ見らめ」と訓む。「人」は「世の人々。また、世間」の意。「社(こそ)」は記紀の人名にも見え、広く使われた字で、神社に祈願をかけることから、希望の意のコソ、更に係助詞のコソにも用いられるようになった。ここは係助詞のコソに用いたもの。「見」は「見(み)」。「良目」はラメ。上のコソを受けて係り結びの法則により已然形で結んだもの。推量の助動詞ラムの接続について古典基礎語辞典は次のように述べている。
接続 活用語の終止形に付く。ただし、ラ変型活用の語には連体形に付く。上代では、上一段活用動詞の場合、「人皆の見らむ(良武)松浦(まつら)の玉島を見ずてやわれは恋ひつつ居らむ」(万葉862)とあるように連用形に付く。ただし、この「見らむ」の連用形ミは、終止形がミル(見る)となる前のいっそう古い時代の終止形ミが化石的に残ったものと考えることもできる。なお、助動詞ラシやベシにも、これと同様の接続の仕方が認められる。 |
「能咲八師」は「よしゑやし」と訓む。名義抄に「能。ヨシ・ヨク・ヨクス・ヨウス・タフ・タヘタリ」の訓みがある。ここの「能」はヨシ。「咲八師」はヱヤシ。「よしゑやし」は、上代で使われた語で、副詞の「よし」(縦し、仕方ない、ままよと許容・容認する意を表わす)に、いずれも感動・詠嘆を表わす間投助詞のヱヤシ(上代語)が付いてできたもの。満足のゆかない事情や理由があっても、仕方がないとして許容する時に用いる。下に逆接の仮定条件を示す接続助詞トモを伴うことが多い。「浦者無友」は「浦は無(な)くとも」と訓む。「浦無等」に対応しての表現。「者」はハ。「友」はトモ。「滷無等」は「滷(かた)無(な)しと」と訓む。「滷」の原義は、「塩分を含む地」で同義の「潟」と共に、日本では「かた」と訓まれ、「遠浅の海岸で、潮の満干によって隠れたり現われたりする地」をいう。「無等」は前句に同じ。[一云
礒無登] は[一云 礒(いそ)無(な)しと]と訓む。「礒(いそ)」は「岩に波のうち寄せるところ」の意で、特に海岸の波打ちぎわやその近くの海中で、岩塊や岩礁の多い所を言う。「無登」は「無等」に同じ。トの表記に「等」と同じ「登」を用いたもの。本句の推敲過程を追うと、①の138番歌には「滷無跡」とあったものを、②である131番歌[一云]で「礒無登」で「滷」を「礒」に変えたが、③の131番歌本文で「滷無等」として、元の「滷」を採用し「礒」は捨てられたことになる。「人社見良目」は「人(ひと)こそ見(み)らめ」と訓む。①138番歌ではラメの表記を、「良米」として「米」を用い「良目」ともしていたが、本歌では「良目」表記にしている。ここまでは、石見の角の海岸の実態を詠んだものであると考えられる。というのは、国庁跡付近から都野津の東北6キロ江川(ごうのかわ)河口付近までの海岸線は、途中に唐鐘(とうがね)の千畳敷・赤鼻の岬と波子(はし)の北の大崎の鼻のほかは出崎もなく、浦も潟もない単調な海岸であるからである。
3句「滷無等 人社見良目 縦畫屋師 滷者無鞆」は「潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 潟はなくとも」と訓む。「縦畫屋師」は「よしゑやし」と訓む。「縦」はヨシと訓み、「ゆるめる。ほしいまま」の意を持つ「畫屋師」はヱヤシ。「よしゑやし」は「たとい…でも。万一…になっても」の意。「滷者[一云
礒者]無鞆」は「滷(かた)は[一云 礒(いそ)は]無(な)くとも」と訓む。「滷無等」及びその異伝である[一云 礒無登]に対応しての表現。「者」はハ。「鞆」はトモ。対句になっており、対句に続いての二連対を構成している。更にこの二連対は、「浦」と「滷もしくは磯」という語で連結されている。「浦無等」・「人社見良目」→「能咲八師」・「浦者無友」。「滷無等」・「人社見良目」→「縦畫屋師」・「滷者無鞆」。
[一云 礒無登] → [一云 礒者]。
4句「鯨魚取 海邊乎指而」は「鯨魚取り 海辺を指して」と訓む。「鯨魚取」は「鯨魚(いさな)取り」と訓む。「いさな」には二通りの違った意味がある。「魚」はナ。「いさ」には「小さな」と「大きな」の意がある。「大きな」の意には「くじら(鯨)」を宛てる。「取」は「取り」。上代では「鯨魚(いさな)取り」の形で枕詞として用いられ、鯨を取る所の意で、海、浜、灘(なだ)など海に関する語にかかる。「取」を連用形に訓むのは、日本書紀允恭紀の歌謡に「異舎儺等利(いさなとり) 宇弥能波摩毛能(うみのはまもの)」の仮名書き例があることによる。「海邊乎指而」は「海邊を指して」と訓む。「邊」は「辺」の旧字。「海辺」で上代では「うみへ」と清音に訓んだ。「乎」はヲ。「指」は「指(さ)し」。「さす」は、「目あてとしてその方へ向ける。目ざす」の意。「而」はテ。
5句「和多豆乃 荒礒乃上尓」は「渡津の 荒礒の上に」と訓む。「和多豆乃」は「わたづの」と訓む。「和多豆」には、「わたづ」と訓む説と「にきたづ」と訓む説とがある。「にきたづ」説の代表と思える澤瀉『萬葉集注釋』を少し長くなるが引用して見てみよう。
「原文「和多豆」とあるので、ワタヅと訓み渡津の意とし、都野津より更に一里餘も東にある江川の東岸の江津市渡津のことだとする説が多く行はれてゐるが、この歌の異傳である或本の歌(138)には「柔田津」とある。それとこれとは同じもので「和」の字は「和(ニキ)細布(タヘ)」、「和(ニキ)海藻(メ)」などのやうに、ニキと訓ませるつもりで書いたものと思はれる。「和多豆(ワタヅ)」をニキタヅと訓み誤つた為に柔田津と書くやうになつたと説く人々があるが、これはもつてまはつた解釋で、人麻呂は自作に推敲を加へ、いろいろに書きかへ、文字も自由にとりかへて用ゐたので、「屋上の山」を又「室上山」とも書き、「勿散(チリナ)亂曽(マガヒソ)」を又「知里勿(チリナ)亂曽(マガヒソ)」とも書いた如く、和多豆とも柔田津とも書いたので、柔田津とある事こそニキタヅと訓む證とみるべきである。渡津では位置として不適當で、ここはまだ出發前、妻とむつみかはした時、そのより寝た地の事を云つてゐるのであるから、出發後、次の長歌にある渡(わたり)の山の附近の渡津をもち出すのは早すぎるのである。たゞその柔田津がどこかといふ事が不明であるが、「和田(ニキタ)」とは「荒田」と對する言葉で、よく耕され土壌の肥えた豐饒な田の意で、都野津附近にさうした田野があつて和田津と云ったと見ればよいであらう。普通名詞にも近い地名で、現に伊豫にも同名のに熟田津(8)があつたのだが、それも今日知られなくなつてゐるやうに、この柔田津もその名が失はれたと見るべきである」。 |
以上、説得力ある論述である。しかし、いくら人麻呂が「文字も自由にとりかへて用ゐた」としても、当時の表記の常識を踏まえたうえのことであり、もしその常識を破っての表記をする場合には、それなりの理由があっての事と考えられる。これまでの萬葉集における音訓交用表記の研究によれば、地名ニキタヅを「和多豆」と表記する事は常識ではありえないことである。確かに「和」はニキと訓読することができるが、ワ音の常用音仮名として頻度の極めて高いものでもある。「多豆」もタヅである事からすると、「和多豆」は地名「ワタヅ」を表わしたものと考えるのが正しいと思う。
「和多豆」は「ワタヅ」説を採り、「柔田津」と同じだと見る澤瀉のニキタヅ説をしりぞけた。ちなみに「柔田津」の「柔」はニキ、「田津」はタツであるから、「柔田津」は、ニキタツと言う地名を表記したものでワタヅとは違う地であったと思われる。推敲の結果、ニキタツの地よりワタヅの地がこの歌にふさわしいとして変更したものと考えられる。もし「柔田津」と「和多豆」とが同じ地名を表記したものであるとしたら、なぜ同じ地名の表記を推敲の結果、「柔田津」→「和多豆」に変更したのか、その理由が求められるが、その説明は、先に引用した澤瀉『萬葉集注釋』にはない。「荒礒乃上尓」は「荒礒(ありそ)の上(うへ)に」と訓む。「荒礒」は「ありそ」と訓む。「あらいそ」の変化した語で、荒い磯の意だが、万葉後期には、「いそ(磯)」とほぼ同義の歌語として用いられるようになり、平安以降は「ありそうみ」「ありその浦」「ありその浜」の形で、真砂の数の尽きぬたとえとしたり、「在り」「有り」と掛けて詠むことが多くなる。大伴家持作の3959番歌に「古之能宇美乃(こしのうみの) 安里蘇乃奈美母(ありそのなみも)」の仮名書き例がある。「上」は「うへ」と訓み、「あるものの付近。辺り」の意。「尓」はニ。
6句「香青生 玉藻息津藻」は「か青なる 玉藻沖つ藻」と訓む。「香青生」は「か青(あを)生(な)る」と訓む。「香」はカで、その字義を踏まえた用字であり礒の「かおり」を想起させる。カは、主として形容詞の上に付いて語調を整え、強める働きをする。「迦具漏伎可美(か黒き髪)」、「可夜須伎(か安き)」などの例がある。「青(あを)」は、色の名で、三原色の一つ。本来は、黒と白との中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍をさし、時には、黒、白をもさした。「生」は「生(な)る」と訓んだが、自動詞「なる」ではない。ここの「なる」は、「にあり」が約まってできた断定の助動詞「なり」の連体形で、表記としては普通「有」が用いられるので、「香青有」と記すべきところである。勿論そんな事は承知の上で、人麻呂は、敢えて「香青生」として生命感あふれる藻のイメージを表現しようとしたものと考えられる。その意図は見事に当たって.この句が目から飛び込んだ瞬間、豊かなイメージが広がる。「玉藻息津藻」は「玉藻(たまも)おき[沖]つ藻(も)」と訓む。「玉藻」は既出。「玉(たま)」は美称で「美しい藻」の意。「息津藻」は「沖つ藻」で既出。「おき」に「息」の字を用いたのは、前句「香青生」の「生」の用字からの連想。「息」は、会意文字で、自(じ)+心。自は鼻の象形字で、鼻息で呼吸することは、生命のあかしである。「津」はツ。
7句「朝羽振 風社依米」は「朝羽振る 風こそ来寄せ」と訓む。「朝羽振」は「朝(あさ)羽振(はふ)る」と訓む。「朝」は「夕」とセットで詠われる事が多い。用例として「朝猟(あさかり)に」、「暮(ゆふ)猟(かり)に」、「朝越え座(ま)して」、「夕去り来れば」が挙げられる。ここでも「夕(ゆふ)羽振(はふ)る」とセットになっている。「羽振」は「羽振(はふ)る」と訓み、「鳥が勢いよく飛びあがる。とびかける。はばたく」の意である。この言葉は、朝・夕の対比に加えて、以下の風・浪を鳥の羽ばたく様子に比喩したものと考えられる。「風社依米」は「風こそ依(よ)せめ」と訓む。「風」は既出。「社」はコソで、対句に使用されていたが、ここでも対で使われている。「依米」は「依(よ)らめ」とも「依(よ)せめ」とも訓めるが、ここは玉藻を風が寄せてくることを詠っているのであるから、自動詞の「よる」ではなく他動詞の「よす」と考えられる。従って、「依」は「依(よ)せ」と訓む。「米」はメ。上の「こそ」を受けての係り結び。
8句「夕羽振る 波こそ来寄せ」は「夕羽振る 波こそ来寄せ」と訓む。「夕羽振流」は「夕(ゆふ)羽振(はふ)る」と訓む。「夕」は「朝」に対応したもの。「羽振流」は「羽振(はふ)る」で同じだが、ここでは活用語尾のルを「流」で表記している。「流」を表記したのは次の「浪」を意識しての表記かと思われる。「浪社来縁」は「浪(なみ)こそ来(き)縁(よ)れ」と訓む。「浪」は既出。「社」はコソ。「来縁」は、「来よる」の已然形「来よれ」とも、「来よす」の已然形「来よせ」とも訓める。対応する「依(よ)らめ」「依(よ)せめ」には自動詞と他動詞の違いがあったが、「来よる」「来よす」は、共に自動詞で意味も「寄せて来る」で同じである。多くの注釈書は、対句である事から、「依らめ」と訓んだものはそれに合わせてここを「来よれ」と訓み、「依せめ」と訓んだものは「来よせ」と訓んでいる。しかし、澤瀉『萬葉集注釋』は、「依(よ)せめ」と訓みながら、ここは「来(き)縁(よ)れ」と訓んで、次のように述べている。
原文「來縁」を前の句と對してキヨセと訓む説もあるが、浪が藻をよせる事を「來よす」とは云はない。「來よす」といふ言葉はあるが、それは、「白浪之(シラナミノ) 來縁島乃(キヨスルシマノ) 荒礒尓毛(アリソニモ)」(2733)の如く、自動詞で、浪そのものがよせてくるのであつて、「風こそよせめ」の「よせ」と同じものではない。ここはむしろキヨレと訓んで、前の句では風が藻をよせると云ひ、ここでは浪が寄つて來る意で、對句にはなつてゐるが、文としてははじめから前の句の終までで結ばれ、後の句は獨立し、夕方に立つ浪が寄つて來る、と一旦そこで切れるが、その浪と共に、と下へつゞいて序となつてゐる。 |
この澤瀉説に賛同して、「来(き)縁(よ)れ」の訓みを採る。対句について、推敲過程である、①の138番歌と③の131番歌本文を比較してみて見ると、澤瀉説の正しさがわかる。前後の句を加えて記してみると、
① 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依
夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依
③ 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米
夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依
一字一字の用字に付いても細心の注意を払って推敲されているが、その事はおくとして、今注目したいのは、①においては明らかに対句に重きをおいて作歌がなされていることである。「明来」「浪」と「夕去」「風」という対になる言葉以外の表記「者」「己曽来依」を全て同じとしている事がそれを表わしている。「来依」は「来よれ」、「来よせ」のどちらに訓んでも「寄って来る」の意で、「玉藻沖つ藻」に「浪」が寄せ、「風」が吹き寄ることを詠ったものである。それに対して、③は明らかに趣を異にしている。対句は残しながらも「風」「浪」の順序を入れ替え、その役割を変更している。その役割の変更を示すのが、①において「浪」、「風」に共に使われた「来依」の変更である。まず「風」については「来依」から「依米」へと変更しているが、この意図は、「来依」という自動詞から「依」という他動詞に変えて推量の意の助動詞「(米)め」を加えることによって、前の句の「玉藻沖つ藻」を「風」がよせてくるだろう様子を表わそうとしたもので、初句からこの句までで一つの文の結びとなるようにしたものと考えられる。次に「浪」については、「来依」から「来縁」への変更で、意味は変わらないが、他動詞として用いた「依」とは違うことを示すために用字を変えたものと思われる。「風」が他動詞を伴って、一文を結ぶ役割を果たしたのに対して、後にまわされた「浪」は自動詞を伴って、独立した句を構成することになると共に、次の21句の「浪」を起こす序詞の働きをになう事となる。更に今ひとつ①から③への推敲で大きく変わっているのは、①の単なる「明来」と「夕去」との時についての対だけであったものを、③では朝夕の対比に加えて、「羽振(はふ)る」という言葉でもって、鳥が羽ばたくイメージにより、風や浪の形状が具象化し、詩的形象化を一段と進めたことである。ただし、ここでも対句でありながら、独立した句である事を示すために「羽振(はふ)る」の表記を「羽振」から「羽振流」に変えていることに注目すべきであろう。
9句「浪之共 彼縁此依 玉藻成」は「波の共 か寄りかく寄る 玉藻なす」と訓む。「浪之共」は「浪(なみ)の共(むた)」と訓む。「浪」は、「浪(なみ)こそ来(き)縁(よ)れ」の序によって「その浪」と承けたもの。「之」はノ。「共」はムタと訓む。ノ、ガの付いた形に接続して「…とともに」、「…のままに」の意の副詞句を構成する。「可是能牟多(かぜのむた) 与世久流奈美尓(よせくるなみに)」、「君(きみ)我牟多(がむた) 由可麻之毛能乎(ゆかましものを)」などの仮名書き例がある。「彼縁此依」は「彼(か)縁(よ)り此(かく)依(よ)る」と訓む。「彼」と「此」は、「か」「かく」と訓み、「あちらに」と「こちらに」の意。「縁、依」は、共に「よる」であるが、「縁」は「縁(よ)り」と訓み、「依」は「依(よ)る」と訓む。この句は、旧訓カヨリカクヨリであったのを、鹿持雅澄『萬葉集古義』がカヨリカクヨルと改訂したが、それ以降も二説に分かれている。「カクヨル」と訓めば、「玉藻」の修飾語となり、「カクヨリ」ならば「依(よ)り宿(ね)し」にかかることになる。「調子の上からはカヨリカクヨリがすぐれている」とする説もあるが、「カクヨリ」では作者が浪と共に寝ることになって文脈上ふさわしくない。『萬葉集古義』に「こをカヨリカクヨリと訓て、妹がよることとするはひがことなり。こは玉藻のよる事を云るなれば必かよりかくよるとよむべきことなり」と評したのが正しいと思う。「玉藻成」は「玉藻(たまも)なす」と訓む。「玉藻」は既出。「なす」は、「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意。上代東国方言では「のす」という形でも用いられる。「玉藻なす」は、美しい藻のようにの意で、「浮かぶ」「寄る」「靡(なび)く」にかかる枕詞。
10句「依宿之妹乎 露霜乃」は「寄り寝し妹を 露霜の」と訓む。「依宿之妹乎」は「依(よ)り宿(ね)し妹を」と訓む。「依」は「依(よ)り」。「宿」はネ。「之」はシ。「玉藻なす依り宿し」は、玉藻のように寄り添って寝たの意で、「妹」を修飾している。「妹」は別れてきた妻を指す。「乎」はヲ。異伝の[一云
波之伎余思 妹之手本乎] は、[一に云ふ はしきよし 妹(いも)が手本(たもと)を]と訓む。「波之伎余思は、ハシキヨシ。「はしきよし」は、「いとしい。愛すべきである」の意。「はしきやし」ともいう。「妹之」の「之」はガ。「手本」は「たもと」と訓む。着物の、袖口の下の袋のようになった部分をいう「袂(たもと)」とは異なり、字義の通り、手首もしくは袖口のあたりを指す。この異伝の二句は、直前の、「玉藻なす 依り宿し妹を」に替わる表現のようであるが、それだと、その前の「浪の共 彼縁り此依る」とのつながりが悪い。澤瀉『萬葉集注釋』に「これは或いは一本には上二句の下にこの二句があり、くりかへしの対句をなしてゐたもので、『或書有二…句一』といふ風な注であるべきものを『一云』としてしまつたものかと考へられる」とあるのに従うべきであろう。この部分の推敲過程を見てみよう。①の138番歌、②の131番歌[一云]、③の131番歌本文、を比較してみると、①玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎。②玉藻成 依宿之妹乎 波之伎余思 妹之手本乎。③玉藻成 依宿之妹乎。このように、この部分は、もとは四句構成であり、①の「靡き吾が宿し 敷妙の 妹が手本を」という間接的表現に飽き足らず、より直接的である「依り宿し妹を」とする過程で、②の繰り返しの対句としたものを、最終的には、下の二句を切り捨てて、より簡潔で力のこもった表現としたものと考えられる。「露霜乃」は「露霜(つゆしも)の」と訓む。宣長の『玉勝間』に「こは後の哥には、露と霜とのことによめども、萬葉なるは、みなたゞ露のこと也」とある。たしかに露のことを「露霜」と言った例も見られるが、露と霜の双方を言った例もあるので、それぞれ歌に即して解するべきだと思われる。ここの「露霜の」は、比喩的な枕詞として使われたもの。枕詞としての「露霜の」には大きく次の四つの掛かり方があり、ここは⑵の例にあたる。⑴ 露や霜が消えやすいところから、「消える」やそれに類した語にかかる。…「消ゆ」「過ぐ」にかかる。⑵ 露霜が置く意で、「置く」やそれと同音またはそれを含む語にかかる。…「置く」「起く」「晩手(おくて)」「小倉山」「岡辺」などにかかる。⑶ ⑵の「置く」と同意の「降る」と同音の地名「布留」や「古里」にかかる。⑷ 露や霜は秋の景物であるので、「秋」にかかる。
11句「置而之来者 此道乃」は
「置きてし来れば この道の」と訓む。「置而之来者」は「置(お)きてし来(く)れば」と訓む。「置」は「置(お)き」と訓む。自動詞の「おく」は、「露や霜が生じて、ある場所を占める。また、雪などが降って地にたまる」の意である。他動詞の「おく」は、さまざまな意味を持つが、大きく次の四つに分類される。⑴ 事物に、ある位置を占めさせる。対象に心をとめる。気にかける。⑵ 間に、はさみすえる。隔てる。⑶ 物事をそのままの状態にしておいて、特別に扱わない。あとに残しとどめる。⑷ 動詞の連用形、または、それに助詞「て」の付いた形に続けて補助動詞のように用いて、ある状態をそのまま続ける意や、その状態を認めて許す意を表わす。ここの「おく」は、自動詞の「露霜の降りとどまる」意と、他動詞の「あとに残す」意との掛詞になっている。「而」はテ。「之」は。「来」は「来(く)れ」。「者」はバ。「露霜の 置きてし来れば」は、「露や霜が置くように、置いて(あとに残して)来たので」の意となる。「此道乃」は「此(こ)の道(みち)の」と訓む。「此(こ)の」は、コにノの付いたもの。近代語では「こ」の単独用法がないので、一語とみて「連体詞」としている。話し手が、空間的、心理的に近い事物や人をさし示すものであるが、上代・中古には、中称・遠称の代名詞が未発達であったために、話し手、聞き手からやや遠い事物をもさし示す例もみられる。「此(こ)の道(みち)」は、今自分(作者)が通っているこの道をいう。
12句「八十隈毎 萬段」は
「八十隈ごとに 万たび」と訓む。「八十隈毎」は「八十(やそ)隈(くま)毎(ごと)に」と訓む。「八十(やそ)隈(くま)」は、「数多くの曲がり角」の意。「毎(ごと)」は、接尾語で名詞や動詞の連体形などに付いて、連用修飾語となる。助詞二を伴うことも多い。ここも「に」を補読して「ごとに」と訓む。その物、またはその動作をするたびに、そのいずれもが、の意を表わす。「…はみな。どの…も。…するたびに」などの意。「萬段」は「萬段(よろづたび)」と訓む。仮名書きの長歌である4408番歌の中に「与呂頭多妣(よろづたび) 可弊里見之都追(かへりみしつつ)」とある所から「よろづたび」と訓まれているが、「段」を「たび」と訓む理由は未詳。小島憲之の説によると、「段」はくぎり、分断されたものの意であり、「その動作が何度とな繰り返される」のが「萬段」だという。
13句「顧為騰 弥遠尓」は
「かへり見すれど いや遠に」と訓む。「顧為騰」は「顧(かへりみ)為(す)れど」と訓む。79番歌では「顧(かへりみ)為(し)乍(つつ)」とあったが、ここは「顧(かへりみ)為(す)れど」。「顧」は「かへりみ」と訓み、「後方を振り返ってみること」の意の名詞。「為」は「為(す)れ」。「騰」はド。「~けれども。~のに。~だが」の意。「弥遠尓」は「弥(いや)遠(とほ)に」と訓む。「弥」は、「ひさしい」が本義だが、「いよいよ、ますます」の意として「いや」と訓む。「いや」は、接頭語イが物事のたくさん重なる意の副詞ヤに付いたもので、物の程度の盛んな事を表わす。人麻呂の長歌によく出て来る表現で既出。「遠」は「遠(とほ)」。「尓」はニ。
14句「里者放奴 益高尓」は
「里は離りぬ いや高に」と訓む。「里者放奴」は「里(さと)は放(さか)りぬ」と訓む。「里(さと)」は既出。人家のあつまっている所、人の住んでいる所、村落をいう。ここは置いて来た妻のいる里のこと。「者」は。「放」は「放(さか)り」。「さかる」は「離る」とも書き、「離れる。へだたる。遠ざかる」の意。「奴」はヌ。「益高尓」は「益(いや)高(たか)に」と訓む。「益」は、「ますます」の字義から、「弥」と同じくイヤと訓む。「高」はク「高(たか)」。「尓」は二。
15句「山毛越来奴 夏草之」は
「山も越え来ぬ 夏草の」と訓む。「山毛越来奴」は「山(やま)も越(こ)え来(き)ぬ」と訓む。「山」は、末句に「此の山」と詠まれる「山」であり、反歌に詠われている「高角山」を指すものかと思われる。「毛」はモ。「越」は「越(こ)え」。「来」は、「来(き)」と訓む。「奴」はヌ。列挙強調の働きをする二句対になっている。「妻の住む里からますます遠く離れて来、高い山も越えて来た」の意。「夏草之」は「夏草(なつくさ)の」と訓む。「夏草」は、「夏の草。夏になって繁茂している草。」を言うが、また、特に、「布を作るためにとる夏葛」をさすこともある。「之」はノ。「夏草の」は枕詞として使われ、次の五つのかかり方がある。⑴ 地名「あひね」にかかる。「あひね」の所在およびかかり方未詳。一説に、夏の草が萎(な)えるの意で「ね」にかかるとも。⑵ 夏草の生えている野の意で、「野」を含む地名「野島」や「野沢」にかかる。⑶ 夏の草が日に照らされてしなえる意で、「思ひしなゆ」にかかる。⑷ 夏の草が繁茂するところから、「繁し」「深し」にかかる。⑸ 夏草を刈る意で、「刈る」と同音を含む「仮」「仮初(かりそめ)」に続く。ここは⑶の用例で、次の「念(おも)ひしなえ」にかかる。ただ、本歌のかかり方に付いて、『萬葉集全注』は「こんもりと生い茂った夏草が、秋になってしおれるようにしょんぼりとしている様子」からであるとする。25句に「露霜の」とあるところから詠われている季節を秋と推測しての説である。
16句「念思奈要而 志怒布良武」は
「思ひ萎えて 偲ふらむ」と訓む。「念思奈要而」は「念(おも)ひしなえて」と訓む。「念」は「念(おも)ひ」。「思奈要」はシナエ。「しなえ」は「しなゆ」の連用形。「念(おも)ひしなゆ」で複合動詞とみることもできる。「而」はテ。「夏草の 念(おも)ひしなえて」は、残された妻の消沈のさまを萎れる夏草に譬えて詠ったもの。「志怒布良武」は「しのふらむ」と訓む。「しのふ」は、「偲ふ」。「忍ふ」とは別語、「忍ふ」のノ音は乙類。「らむ」は推量の助動詞。
結句「妹之門将見 靡此山」は
「妹が門見む 靡けこの山」と訓む。「妹之門将見」は「妹(いも)が門(かど)見(み)む」と訓む。「妹」は残して来た妻。ここの「之」は格助詞の「が」。「門(かど)」は妻の住む家の門の辺りを指す。「将」は、漢文の助字で「まさに…す。」と訓読される再読文字であるが、『萬葉集』では、動詞の未然形+助動詞「む」を表わすのにしばしば用いられ、ここの「将見」も「見(み)む」と訓む。「靡此山」は「靡(なび)け此(こ)の山」と訓む。「靡」は「靡(なび)け」。「此(こ)の山(やま)」は、今越えて来た「山」で、その山に遮られて「妹の門」が見えなくなったので「靡け」と言ったのである。この一句に人麻呂の痛切な思いが凝縮されている。
朝、夕の風や波で育つ玉のような藻を詠い、その藻と藻を揉む波を妻と自分に例えて寄り寝したことを詠い、その妻を家に置いてきたことを旅の途中で万回も思い出したが遠く離れて来てしまったと詠い、そして、これまで越えてきた山や草に対して、靡び臥せて妻の住む門が見えるようにしろと、詠んでいる。言いたいことは「靡けこの山」の一言。修辞が長いところに特徴がある。