万葉集巻2-2

 (最新見直し2014.03.05日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは「万葉集巻2の2」として「126-201」を採録する。「訓読万葉集 巻1 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―」、「万葉集メニュー」、「万葉集」その他を参照する。万葉集読解9、万葉集読解10、万葉集読解11、万葉集読解12、万葉集読解13、万葉集読解14、万葉集読解15、万葉集読解16、万葉集読解17、万葉集読解18を参照する。

 2011.8.28日 れんだいこ拝


【巻2(126)。】
題詞
歴史解説
 石川女郎の作歌。「石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首」(石川女郎が、大伴宿禰田主(おほとものすくねたぬし)に贈れる歌一首)。 写本によっては、その下に小字2行で [即佐保大納言大伴卿之第二子 母曰巨勢朝臣也] と記しており、本歌は、石川女郎が大伴宿祢田主に贈った歌であり、大伴宿祢田主は、即ち佐保大納言大伴卿の第2子で、母は巨勢朝臣であるということがわかる。石川女郎は、石川朝臣氏の女性で、大津皇子と草壁皇子に愛され、後に大伴安麻呂の妻となって坂上郎女を生んだ石川郎女(大津皇子との相聞歌107番・108番歌に既出)と同一人物である。佐保大納言大伴卿というのは、大伴安麻呂のことであり、巨勢郎女との結婚に関わる贈答歌が101番・102番歌にあった。大伴安麻呂と巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂がいる。安麻呂の若い妻である石川女郎が、義理の息子(評判のみやび男ながら、なかなか道徳的な田主)をからかって贈ったのが本歌である。

 この歌には次のような、長い左注が付けられている。
 「大伴田主字曰仲郎 容姿佳艶風流秀絶 見人聞者靡不歎息也 時有石川女郎 自成雙栖之感恒悲獨守之難 意欲寄書未逢良信 爰作方便而似賎嫗 己提堝子而到寝側 哽音蹢足叩戸諮曰 東隣貧女将取火来矣 於是仲郎 暗裏非識冒隠之形 慮外不堪拘接之計 任念取火就跡歸去也 明後女郎 既恥自媒之可愧 復恨心契之弗果 因作斯歌以贈謔戯焉」。
 「大伴田主ハ、字仲郎(ナカチコ)ト曰リ。容姿佳艶、風流秀絶。見ル人聞ク者、歎息(ナゲ)カズトイフコト()シ。時ニ石川女郎(イラツメ)トイフモノアリ。自ラ雙栖ノ感ヒヲ成シ、恒ニ独守ノ難キヲ悲シム。(ココロ)ハ書寄セムト欲ヘドモ、未ダ良キ(タヨリ)ニ逢ハズ。爰ニ方便ヲ作シテ、賎シキ嫗ニ似セ、己レ堝子(ナベ)ヲ提ゲテ、(ネヤ)ノ側ニ到ル。哽音跼足、戸ヲ叩キ(トブラ)ヒテ曰ク、東ノ隣ノ貧シキ()、火ヲ取ラムト来タルト。是ニ仲郎、暗キ(ウチ)ニ冒隠ノ形ヲ識ラズ、慮外ニ拘接(マジハリ)ノ計ニ堪ヘズ。念ヒニ任セテ火ヲ取リ、跡ニ就キテ帰リ去ヌ。明ケテ後、女郎既ニ自ラ媒チセシコトノ愧ヅベキヲ恥ヂ、復タ心契(チギリ)ノ果タサザルヲ恨ム。因テ斯ノ歌ヲ作ミ、以テ贈リテ諺戯(タハブ)レリ」。
 大伴田主(おほとものたぬし)、字(あざな)を仲郎(ちうらう)と曰(い)ふ。容姿佳艶(ようしかえん)、風流秀絶(ふうりうしうぜつ) 見(み)る人(ひと)聞(き)く者(もの)、歎息(たんそく)せずといふことなし。時(とき)に石川女郎(いしかわのいらつめ)有(あ)り。自(みづか)ら雙栖(そうせい)の感(かん)を成(な)し、恒(つね)に獨守(どくしゆ)の難(かた)きを悲(かな)しぶ。意(こころ)に書(しょ)を寄(よ)せむと欲(おも)ひて未(いま)だ良信(りやうしん)に逢(あ)はず。爰(ここに)方便(はうべん)を作(な)して賎(いや)しき嫗(おみな)に似(に)せ 己(おの)れ堝子(なべ)を提(さ)げて寝(ねや)の側(かたはら)に到(いた)り、哽音蹢足(かうおんてきそく)して戸(と)を叩(たた)き諮(とぶら)ひて曰(い)はく、東隣(とうりん)の貧(まづ)しき女(をみな)、火(ひ)を取(と)らむとして来(きた)る。於是(ここに)仲郎(ちうらう)、暗(くら)き裏(うち)に冒隠(ぼういん)の形(かたち)を識(し)らず、慮(おもひ)の外(ほか)に拘接(こうせふ)の計(はかりごと)に堪(あ)へず。念(おも)ひの任(まま)に火(ひ)を取(と)り、跡(あと)に就(つ)きて歸(かへ)り去(さ)らしむ。明(あ)けて後(のち)に、女郎(いらつめ)、 既(すで)に自媒(じばい)の愧(は)づべきことを恥(は)ぢ、復(ま)た心(こころ)の契(ちぎり)の果(はた)さざるを恨(うら)む。因(よ)りて、斯(こ)の歌(うた)を作(つく)りて謔戯(ぎゃくぎ)を贈(おく)る。

 「大伴田主字曰仲郎」は「大伴田主(おほとものたぬし)、字(あざな)を仲郎(ちうらう)と曰(い)ふ」と訓む。「字」は「あざな」と訓む。「実名のほかに人々が呼びならわしている別名。また、その名を言うこと。通称」の意である。中国では、兄弟の順序を、殷では大中小、周では伯仲叔季と言った。「仲郎」の仲は、その「伯仲叔季」の2番目にあたるので、「仲郎」は二男を表わす呼称であろう。「容姿佳艶風流秀絶」は「容姿佳艶(ようしかえん)、風流秀絶(ふうりうしうぜつ)」と訓む。「容姿佳艶」は「姿かたちが、あでやかで美しいさま」をいう。「風流」については、「①個人の道徳的風格」の意で用いたもの。「秀絶」は「比類なくすぐれていること」をいう。「見人聞者靡不歎息也」は「見る人聞く者、歎息(たんそく)せずといふことなし」と訓む。「靡」は「なびく。うつくしい」の意を持つが、ここは、無・亡に通じることから仮借して否定詞に用いたもの。「時有石川女郎」は「時(とき)に石川女郎(いしかわのいらつめ)有(あ)り」と訓む。「時に」は「その時に」という意味であるが、それまで述べてきた事柄から離れて別の新しいことを言い出すときに用いたり、特に注意を引きつけるための話の冒頭で用いたりする語でもある。「自成雙栖之感恒悲獨守之難」は「自(みづか)ら雙栖(そうせい)の感(かん)を成(な)し、恒(つね)に獨守(どくしゆ)の難(かた)きを悲(かな)しぶ」と訓む。雌雄または夫婦がいっしょに仲良く住むことが「雙栖」で、「自ら雙栖の感を成し」とは、石川女郎が大伴田主と夫婦になって同棲したいという気持をおこしたことをいう。「獨守」は「独身のままでいること。ひとりみの状態を守ること。」の意であり、「獨守の難きを悲しぶ」は、ひとり寝の堪え難いことを言ったもの。「意欲寄書未逢良信」は「意(こころ)に書(しょ)を寄(よ)せむと欲(おも)ひて未(いま)だ良信(りやうしん)に逢(あ)はず」と訓む。ここの「書」は「てがみ。たより」の意で、「意に書を寄せむと欲ひて」で、「手紙を送りたいと思いながら」となって次の「未だ」に続く。「良信」は「良い使者」のこと、「未だ良信に逢はず」は「いまだに良い使者にあわない」つまり「使いをする良い者がいなかった」という意となろう。「爰作方便而似賎嫗」は「爰(ここに)方便(はうべん)を作(な)して賎(いや)しき嫗(おみな)に似(に)せ」と訓む。「爰」は「於」「是」と同じく「ここに」と訓む。「ここに」は接続詞で、①先行の事柄の当然の結果として、後行の事柄が起こることを示す。②話題の転換など、事柄を説き起こすことを示す。の二通りの使い方があるが、ここは①。「方便」は仏教用語で、下根(げこん)の衆生を真の教えに導くために用いる便宜的な手段をいうが、「目的のために利用される一時の手段。てだて。はかりごと。」などの意にも用いられる。ここも「はかりごと」の意。「作」は「為」と同義。「方便(はうべん)を作(な)して」で「はかりごとをめぐらして」。「賎(いや)しき嫗(おみな)」は「みすぼらしい老女」の意。「似(に)せ」は「にす」(他サ下二)の連用形。「にす」は「似るようにする。につかわしいようすにする。まねる」の意。「己提堝子而到寝側」は「己(おの)れ堝子(なべ)を提(さ)げて寝(ねや)の側(かたはら)に到(いた)り」と訓む。ここの「己れ」は「自分自身で」の意。「堝子」の「子」は接尾語で、「堝」は、「なべ」「つちなべ」の意。ここは火を入れるための道具としたものか。「哽音蹢足叩戸諮曰」は「哽音蹢足(かうおんてきそく)して戸(と)を叩(たた)き諮(とぶら)ひて曰(い)はく」と訓む。「哽音」は、しわがれ声を出すこと、あるいは、もつれるようなしゃべり方をいう。「蹢足」は。足許の不確かな状態をいう。老婆に似せて、しわがれ声を出し、たどたどしい足取りをしたのだろう。「諮」は『名義抄』に「トフ・トブラフ・ハカル・シヅカナリ・マウス」の訓みがあるが、ここはトブラフ。「東隣貧女将取火来矣」は「東隣(とうりん)の貧(まづ)しき女(をみな)、火(ひ)を取(と)らむとして来(きた)る」と訓む。「東隣貧女」は、中国文学の表現を踏まえたもので、石川女郎は、そのことを見破ってもらいたかったという興味深い説を『萬葉集全注』が述べている。
今回も、126番歌の左注の続きを訓む。

 「復恨心契之弗果」は「復(ま)た心(こころ)の契(ちぎり)の果(はた)さざるを恨(うら)む」と訓む。「復(ま)た」には次の三つの意味がある。①同じ行為、状態がもう一度出現するさまを表わす語で、「再び。もう一度。」②一つの状態が他の状態と類似、あるいは一致すると認める気持を表わす語で、「同様に。同じく。」③一つの状態の他に、もう一つ別の、類似、あるいは対立する状態のあり得ることを認める気持を表わす語。「ほかに。さらに。他方。」の三つで、ここは③の意。「恨」は「うらむ」(他マ上二)の終止形「恨(うら)む」。「うらむ」は、「自分の思い通りにならない物事やその状態などに不満を持ち、悲しく、残念に思い反発する気持を持つ。」ことを言う。「心契」は、「心からの願い。ひそかな願い。」の意。「弗果」は「果(はた)さざる」と訓む。「弗」は否定の助字。「果」は、目的を達するという意味。「心の契の果さざるを恨む」は、「ひそかな願いを果たすことのできなかったことを恨めしく思った」ということである。なお、前回の「既恥自媒之可愧」とこの「復恨心契之弗果」は対句をなしている。「因作斯歌以贈謔戯焉」は「因(よ)りて、斯(こ)の歌(うた)を作(つく)りて謔戯(ぎゃくぎ)を贈(おく)る」と訓む。「因」は「因(よ)りて」と訓む。「よりて」は接続詞で、動詞「よる」の連用形に助詞「て」の付いたもの。前の事柄が原因・理由になって、後の事柄が起こることを示す。「作斯歌以」で、「斯(こ)の歌(うた)を作(つく)りて」と訓む。「以」は助字で、次の三つの用法がある。①手段・方法・材料。…で。…を使って。②理由・条件。…によって。…のために。③接続。そして。ここは①。「贈謔戯焉」で「謔戯(ぎゃくぎ)を贈(おく)る」と訓む。「謔戯(ぎゃくぎ)」は、「謔」も「戯」も「たわむれ」の意。「焉」も助字で、訓読では読まないが、断定の語気を表わす。

 見てきたように、この左注には、漢籍から借用した語句や発想があり、老女の格好で「哽音蹢足」して男の寝室の戸を叩いたなど、必ずしも事実を伝えたものとは思われない。小島憲之は、この左注に付いて、宋玉作「登徒子好色の賦」や司馬相如作「美人賦」などとの関連をあげ、「この左注は、当時のものよりも、むしろ撰者の遊びによる注かも知れず」と言う。しかし、たとえ、この左注が、撰者の遊び、あるいは小説的作文を目的とした虚構であったとしても、126番歌・127番歌の贈答歌は、実際に石川女郎と大伴田主の間で交わされたものと認めてよいと思われる。大伴安麻呂の若い妻である石川女郎が、義理の息子 ー 評判のみやび男ながら、なかなか道徳的な田主 ー をからかって、所用あって訪ねたあとに、126番歌を贈ったものと考えられる。この歌には石川女郎の遊び心が認められるが、それに対して田主はまじめに応じている。田主の返歌が、次回に訓む127番歌である。
原文  遊士跡  吾者聞流乎  屋戸不借  吾乎還利  於曽能風流士
和訳  遊士(みやびを)と 我れは聞けるを 屋戸(やど)貸さず 我れを帰せり おその風流士(みやびを)
現代文  「あなたは粋なお方と聞き及んでいましたけれど、せっかく訪ねて行った私と共寝もしないでお帰しになるなんて、とんだ粋人ですこと」。
文意解説
 「『万葉集』を訓(よ)む(その187)」その他を参照する。

 発句「遊士跡  吾者聞流乎  屋戸不借」遊士(みやびを)と 我れは聞けるを 屋戸(やど)貸さず」と訓む。「遊士跡」は「遊士(みやびを)と」と訓む。「遊士」は、写本の訓に、「アソビヲ、タハレヲ」などとあったのを、宣長「萬葉集玉の小琴」に「遊士風流士を、考にみやびとと訓れたるにつきて、猶思ふに、さては宮人と聞えてまぎらはし、然れはみやびとをと訓へし、此称は男に限れり」と、ミヤビヲの訓を提示した。「みやび」は「鄙び、都び」等と同様「宮び」、即ち宮廷風というような意で、粗野、卑俗の反対で、教養のある、風雅を解する男を「みやびを」と言ったものである。遊士は漢語としては遊子と同じく旅人の意に用いられるようであるが、ここでは風雅の遊びを楽しむことができる人の意で用いたものと考えられる。風流士(みやびを)とは「雅な男」すなわち「粋人」。ここでは「男女の機微に通じたお方」というほどの意。「跡」はト。「吾者聞流乎」は「吾(われ)は聞けるを」と訓む。「吾」は「われ」(自称)で作者の石川女郎のこと。「者」はハ。「聞」は「聞(き)け」。「流乎」はルヲ。「屋戸不借」は「屋戸(やど)借(か)さず」と訓む。「屋戸」には大別して3種の意味がある。①家の戸口のあたりや庭さきなど家のある所をさす場合、②家(建物)そのものをさす場合、③宿、旅先などで寝る所を指す場合の3種。ここでは③の意。「不借」は「借(か)さず」と訓み、「屋戸(やど)借(か)さず」で以て「宿も貸さないで」の意となる。「共寝もしないで」の裏意味がある。

 結句「吾乎還利  於曽能風流士」「我れを帰せり おその風流士(みやびを)と訓む。「吾乎還利」は「吾(われ)を還(かへ)せり」と訓む。「吾」は既出。「乎」も既出のヲ。「還」は「還(かへ)せ」。「かへす」は、「人、物をもとの場所に移したり、物事を再びもとの状態にしたりする」ことをいう。「利」はリ。「於曽能風流士」は「おその風流士(みやびを)」と訓む。「於曽」はオソで、「にぶいこと。愚鈍なこと。気のきかないこと」を意味する。「能」はノ。「風流士」は「遊士」と同じく「みやびを」と訓む。中国で風流という場合、晋代以後には、①個人の道徳的風格、②放縦不羇、③官能的頽廃性を帯びたなまめかしさ、など多面的な使われ方がされた。石川女郎は、「みやびを」を、色好み的性格のものとして理解しているように思われる。

【巻2(127)。】
題詞
歴史解説
 大伴宿禰の作歌。「大伴宿祢田主報贈歌一首(大伴宿禰田主が報贈(こた)ふる歌一首)」。大伴宿祢田主(おほとものすくねたぬし)が、石川女郎の126番歌(以下、前歌という)に報(こた)えて贈った歌である。「報贈」は102番歌に既出。題詞に「報贈」とある歌は、贈歌の詞句をそのまま用いて、贈歌とは逆の意味に反転させる技法を使ったものが多いが、本歌もその一例。
原文  遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
和訳  風流士(みやびを)に 我れはありけり 宿貸さず 帰しし我れぞ 風流士にはある
現代文  「私はやはり風流人だったのですね。貴方を泊めず帰してしまいました。風流人ではありますけれど---」。
文意解説
 発句「遊士尓 吾者有家里 屋戸不借」「風流士(みやびを)に 我れはありけり 宿貸さず」と訓む。「遊士尓」は「遊士(みやびを)に」と訓む。前歌の「遊士跡」に呼応して詠い出したもので、「遊士」という詞句をそのまま用いている。だが.同じ「みやびを」と言っても、田主が言う「みやびを」は道徳的風格のある者を意味しているのに対して、石川女郎は「みやびを」を幾分色好み的性格のものとして理解しているところが異なっている。「尓」はニ。「吾者有家里」は「吾(われ)は有(あ)りけり」と訓む。この句の詠い出しも、前歌の「吾者聞流乎」と同じ「吾者」という詞句をそのまま用いている。「吾」は自称の代名詞であるから、前歌の「吾」は石川女郎のことで、本歌の「吾」は大伴田主のことである。「者」はハ。「有」は「有(あ)り」。「家里」はケリ。今まで気づかなかったことに初めて気づいた時の驚きや感動を表わすのに用いられるが、ここのケりは、自分で自分が「みやびを」であることを確認したという気持を表わしたものと思われる。「屋戸不借」は「屋戸(やど)借(か)さず」と訓む。この3句は、前歌の3句をそのまま使っており、「宿も貸さないで」の意であることは同じだが、前歌ではそのことが非難の対象として詠われたのに対して、本歌では賞賛の対象として詠われている。

 
結句「令還吾曽 風流士者有」「帰しし我れぞ 風流士にはある」と訓む。「令還吾曽」は「還(かへ)しし吾(われ)そ」と訓む。「令還」は、旧訓にカヘセルとあり、鹿持雅澄『萬葉集古義』にカヘセシと改め、井上通泰『萬葉集新考』に「過去に云ふべき処なればカヘセルにてはかなはず、カヘシシとよむべし」として、カヘシシと改訓した。これについて、澤瀉『萬葉集注釋』は次のように注している。
 「かへす」は四段活用であるからセシではいけない。前の歌にカヘセリとあるのをそのまゝうければカヘセルとあるべきやうにも思へるが、先方にみれんをもつ女には、歸されたのはなほ今のことであり、つつぱなした男にとつては、歸したのはもはや今に縁のない過去のことである。だから前者はカヘセルであり、後者はカヘシシであつて兩者の気持は生かされると云へるのではなからうか。ルと訓んでもシと訓んでも訓添になるが、完了のルは表記されてゐる場合が多いので、その意味でもシと訓む方がふさはしい。

 以上より、「令還」は「還(かへ)しし」と訓むべきであると思う。「吾曽」は「吾(われ)そ」と訓む。「曽」はソ。前歌の「吾(われ)を還(かへ)せり」と石川女郎が「宿も貸さないで私を還した」として末句の非難に続けたのに対して、本歌では大伴田主が「宿も貸さないで還した私は」として「宿を貸さなかった」行為を末句の賞賛に続けている。「風流士者有」は「風流士(みやびを)には有(あ)る」と訓む。「風流士」は「おその風流士」に既出だが、「みやびを」と同様に、女郎と田主ではその意味する所が違っている。ここの「者」は二を添えて二ワと訓む。「有」は、ソをうけて係り結びにより「有(あ)る」と訓む。


 前歌を受けて男の方が皮肉たっぷりに返した歌。「ありけり」は「だったのですね」である。「でも、何もしないで帰したその行為こそ粋人なんですよ」と負け惜しみとも取れる言い分で結んでいる。

【巻2(128)。】
題詞
歴史解説
 石川女郎の作歌。「同石川女郎更贈大伴田主中郎歌一首」(石川女郎がまた大伴宿禰田主に贈れる歌一首)。126番歌と同じ石川女郎が更に大伴田主中郎に贈ったのが本歌である。126番歌と同じ時に贈られたものであるかどうかは不明だが、左注に「右依中郎足疾贈此歌問訊也」[右は、中郎の足の疾(やまひ)に依り、此の歌を贈りて問訊(とぶら)へり]とあることから、前二首の贈答とは別のおりに、実際に足に病を持って不自由であった大伴田主を見舞った歌である可能性もある。しかし、やはりここは、田主が「屋戸借さず還しし吾そ風流士には有る」などと減らず口を叩いたのに対して、石川女郎が悔しまぎれに、かつて聞いた噂を持ち出して、それを誇張して「更に贈った」歌と考えた方が良いように思う。126番歌が「遊士と吾は聞けるを」と現在の風説をもとにして歌ったのに対して、本歌では「吾が聞きし耳に好く似る」とかつて聞いた噂を持ち出して歌ったものと言える。写本は、3句3字目を「未」とするが、賀茂真淵『萬葉考』に「末」として以降、それに従っている。意味からしてそれが正しいと思われる。彼女は久米禅師や大津皇子の相手としても登場している。細字注に彼女の字は「山田」とある。全く正体不明の謎の女性と言わざるを得ない。「右、中郎ノ足ノ()ニ依リ、此ノ歌ヲ贈リテ問訊(トブラ)ヘリ」。
原文  吾聞之 耳尓好似 葦若<末>乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
和訳  我が聞きし 耳によく似る 葦の末(うれ)の 足痛(ひ)く我が背 勤(つと)め給()ぶべし
現代文  「私が聞いた噂では、あなた様が耳たぶにも似た葦の葉先のように弱々しく足を引きずっていると聞き及んでいます。どうかお大事になさって下さいよ」。
文意解説  発句「吾聞之 耳尓好似 葦若<末>乃」「我が聞きし 耳によく似る 葦の末(うれ)の」と訓む。「吾聞之」は「吾(わ)が聞(き)きし」と訓む。「吾」はガを訓み添えて「吾(わ)が」と訓む。「聞」は「聞き」。「聞く」は、ここでは「噂を耳にする」意に使われている。「之」はシ。「耳尓好似」は「耳に好(よ)く似る」と訓む。「耳」は「みみ」で、聴覚をつかさどる身体器官の一つであるが、ここでは「聞いた話。聞こえてきた事柄。うわさ」の意。「尓」は二。「好」は「好(よ)く」と訓み、「非常に。はなはだしく。大変」などの意。「似」は「似る」と訓む説と、テを訓み添えて連用形として「似て」と訓む説とがある。わざわざ訓み添えて訓まなくても、連体形で訓んで次の句に掛かると見るのが良いように思う。枕詞であり、中に枕詞をはさんだ例は他にも見られる。「葦若末乃」は「葦(あし)の若末(うれ)の」と訓む。「葦(あし)」はイネ科の多年草。「若末(うれ)」は、草の茎や葉、木の枝などの先端をいう。「はずえ。こずえ」の意。葦の末は葦(ヨシ)の葉先。「葦」と「若末」の間にノを補読して訓む。「乃」はノ。「葦(あし)の若末(うれ)の」は、同音の繰り返しで、「足」にかかる枕詞として用いたもの。なお、「葦若末」は「葦牙(あしかび)」(葦の若芽の意)と同語であるとして、この句を「アシカビノ」と訓み、葦の芽がやわらかくなよなよしているところから、足の弱くなった病としての「足痛(訓は諸説あり)」にかかるとする説もあるが、文字に即してすなおに読めば「アシノウレノ」となることは、1937番歌の「小松之若末尓」をコマツガウレニと訓まれることによって裏づけられる。

 結句「足痛吾勢 勤多扶倍思」「足ひく我が背 つとめ給()ぶべし」と訓む。「足痛吾勢」は「足(あし)痛(ひ)く吾(わ)がせ[背]」と訓む。「足痛」の訓には、アナヘク、アシナヘ、アナヤム、アシイタ、アシヒクなど諸説あるが、山田孝雄『萬葉集講義』は、枕詞アシヒキノを「足疾乃、足病之」と記す例があること、又本歌の左注に「足疾」とあることから、病=疾=痛と認め、アシヒクとした。この説に従う。「吾」は「吾(わ)が」と訓む。「勢」はセ、女性が自分の夫あるいは恋人である男性に対して用いる「せ[背]」を表わすのに用いたもので、ここは田主を指す。「勤多扶倍思」は「勤(つと)めたぶべし」と訓む。「ご養生下さいませ」の意。「勤」は「勤(つと)め」と訓む。ここの「つとむ」は、「自愛する。自重する。軽はずみなことをしない。気をつける。慎む」などの意で使われている。「多扶倍思」はタブベシ。「多扶」で以てタブを表わすが、敬語「たまふ」の約まったもの。「倍思」は勧誘の助動詞べシを表わす。

【巻2(129)。】
題詞
歴史解説
 石川女郎の作歌。「大津皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂歌一首[女郎字曰山田郎女也宿奈麻呂宿祢者大納言兼大将軍卿之第三子也]」(大津皇子の宮の(まかたち)石川女郎が大伴宿禰宿奈麻呂(すくなまろ)に贈れる歌一首)。「侍(まかたち)」は、「まかだち」とも訓まれ、「貴人につき従う女」をいう。石川女郎が大津皇子の生前に侍女であったことを示す表現である。注にあるように、石川女郎は、あざな(通称)を山田郎女といい、126番・128番歌の作者と同一人物である。大伴宿祢宿奈麻呂(宿祢は姓(かばね))は、注によれば、大納言兼大将軍卿すなわち大伴安麻呂の第三子ということで、127番歌の作者である大伴田主の弟になる。どうも、126番歌と本歌は、安麻呂の妻となった石川女郎が、義理の息子たちである田主・宿奈麻呂への親愛の情を表わすのに恋歌の形式を用いて贈った歌と見た方が良いように思われる。ちなみに文武三年当時の石川女郎の推定年齢は37歳位で、宿奈麻呂はそれより10歳位若い27、8歳であったと思われる。
原文  古之 嫗尓為而也 如此許  戀尓将沈 如手童兒 [戀乎<大>尓忍金手武多和良波乃如]
和訳  古(ふ)りにし 嫗(おみな)にしてや かくばかり 恋に沈まむ 手童(たわらは)のごと [恋をだに忍びかねてむ手童のごと]
現代文  「すっかり古びてしまった おばあさんでありながら、これほどまでに恋に沈むものでしょうか。まるで幼な子のように」(異伝[恋くらい 辛抱できないものか 幼子のように])。
文意解説
 発句「古之 嫗尓為而也 如此許」「古(ふ)りにし 嫗(おみな)にしてや かくばかり」と訓む。「古之」は旧訓ではイニシヘノと訓む。賀茂真淵が歌意にそぐわないとしてフリニシに改訓している。但し、4音と字足らずになる。「古り」は「年月が経過してふるびる。古くなる。年をとる」の意。「嫗尓為而也」は「嫗(おみな)にしてや」と訓む。「嫗(おみな)」は「年とった女。老女」の意。ここでは石川郎女のことを指している。オミナ→オムナ→オウナと変遷したと思われ、ここでは古いオミナの訓みを採った。「尓」はニ、「為而也」は二シテヤ。二シテは、二にシテが付いてできた語で、「…であって。…であって、しかも」の意を表わす。ヤは「沈まむ」にかかる疑問の係助詞で、「年甲斐もない」と歎く意を込める。「如此許」は「如此(かく)許(ばか)り」と訓む。「如此」はコノゴトクの義で、副詞「かく」に用いたもの。「許」は「ゆるす」が原義であるが、「計」と通じ、「ばかり、ほど」の意を持つ。「ばかり」は、上代では副詞的な要素に下接した「かくばかり」「いかばかり」の形が過半を占め、語源である名詞「はかり」の意そのままに「おおよそ…ぐらい」の意を表わしており、多く疑問・推量・仮定などの不確実な意味の表現において用いられる。

 結句「戀尓将沈 如手童兒」「恋に沈まむ 手童(たわらは)のごと」と訓む。「戀尓将沈」は「戀(こひ)に沈(しづ)まむ」と訓む。「尓」は二。「将」は、「まさに…す」と訓読される字であるが、萬葉集では、動詞の未然形+助動詞「む」を表わすのにしばしば用いられる。ここの「将沈」も「沈まむ」と訓む。「しづむ」は、ここは、「深みにはまって抜け出せない」との意。「如手童兒」は「手童兒(たわらは)の如(ごと)」と訓む。「如」は比況の機能を持つ助字で、「…のようである」の意であることから、比況を表わす助動詞「ごとし」にあてられた。ここでは、「ごとし」の語幹のゴトと訓む。「同じ」の意を表わすコトの濁音化したもの。但し、日本語の語順としては最後に来る。「手童兒」は「たわらは」と訓むのは、異伝の仮名書き「多和良波(たわらは)」による。タは接頭語。「わらは」は、3歳から11、2歳までくらいの子供を言う。異伝[戀乎太尓 忍金手武 多和良波乃如] は[戀(こひ)をだに 忍(しの)びかねてむ たわらはの如(ごと)]と訓む。

【巻2(130)。】
題詞
歴史解説
 長皇子(ながのみこ)の作歌。「長皇子与皇弟御歌一首(長皇子の皇弟(いろどのみこ)(おく)りたまへる御歌一首)」。長皇子(ながのみこ)は天武天皇の皇子。ここにいう皇弟(いろと)は弓削皇子(ゆげのみこ)ということになる。「皇弟」は「すめいろと」と訓み、皇族の一人である弟の意で、ここは同母弟の弓削皇子(ゆげのみこ)(111、119~122番歌の作者として既出)を指す。従って、本歌は長皇子(ながのみこ)が弟の弓削皇子に与えた歌である。難訓歌ではないが、作歌事情も、2句・3句の意味も分かりにくいので、全体の意味の取り方に諸説がある歌である。
原文  丹生乃河瀬者 不渡而  由久遊久登  戀痛吾弟 乞通来祢
和訳  丹生(にふ)の川瀬は 渡らずて ゆくゆくと 恋痛(こひた)吾弟(あおと) いで通ひ来ね
現代文  「丹生の河の瀬を渡らずに、心落ちつかず恋の心に悶々としている弟よ。さあ私の所へ通って来なさい (そして心を晴らしなさい)」。
文意解説
 発句「丹生乃河瀬者 不渡而  由久遊久登」丹生(にふ)の川瀬は 渡らずて ゆくゆくと」と訓む。「丹生乃河」は「丹生(にふ)の河(かは)」と訓む。「丹生(にふ)」は丹砂を産出するところの意で、丹生と呼ばれる川はいくつもあるが、ここは吉野郡の大天井ケ岳(1439メートル)の北西に発し、黒滝村を流れて黒滝川と呼ばれ、丹生川上神社の前を流れて丹生川と呼ばれる川のことで、さらに西流して五条市で吉野川に合流する。「瀬者不渡而」は「瀬は渡らずて」と訓む。「瀬」は「歩いて渡れる程度の浅い流れ」を言い、川を渡るのに適している。「者」はハ。「不渡」は「渡らず」と訓む。「而」はテ。「ずて」で「…ないで」の意。この二句が何を意味するのかはっきりしないと記す注釈書もあるが、「ゆくゆくと」の序詞とする説が当たっていると思う。「瀬は渡らずて」は、菊地壽人『萬葉集精考』に「一々河瀬を踏んで通ふなどは煩わしく…瀬ぶみなどせず」と説かれているように、川は渡るのであるが、瀬をさがし求めて渡るという事はしないと言う意味ととるべきであろう。がむしゃらに直渡りに渡ろうと言う意味で、「瀬は渡らずて」は「ゆく」と続くので、「ゆくゆく」を引き出す序詞として使われたものと考えられる。「瀬は渡らずて」の行為者を作者と見るか、それとも歌を贈った相手の行為とみるかは、続く「ゆくゆくと」と「戀痛」をどう捉えるかによる。「由久遊久登」は「ゆくゆくと」と訓む。「由久登」はユクト。「遊」が「由」に代えて用いられている。「ゆくゆく」は、多くトを伴って用いられる副詞で、次の三つのさまを表す語として使われる。①心が落ち着かず定まらないさま。②遠慮のないさま、他をはばからないさま、心のままであるさま。③滞りなく物事の進行するさま。この句を③の意に解して「戀痛」の状態でいるのを作者自身だとして、「ずんずんと恋しさのつのる」とする注釈書が多い。しかしここは、作者が、弓削皇子の紀皇女への思いを詠った119番歌「芳野河(よしのかは)[吉野川]  逝(ゆ)く瀬(せ)の早(はや)み しましくも 不通(よどむ)[淀む]事(こと)無(な)く 有(あ)りこせぬかも」を踏まえて、「戀痛」の状態でいる弟を思いやって詠んだものと考えられる。「がむしゃらに直渡りに渡ろうと」する②の意味と実際には思い通りにならないことからくる①の意味で四句の「戀痛」につながっていくという二通りの意味を「ゆくゆくと」は持っているとみたい。「ゆくゆくと」は難訓とされ、「悶々と」とか「次第に激しく」とか「はやる気持」とか色々解釈が行われている。どう解釈しようと、恋歌の場合、「川を渡る」といえば「直接会う」というのが通常の意味。とすると、本歌は一方が女性でないと歌意が通じない。題詞は主語が欠けていて、本来は石川郎女ないし紀皇女等女性の名が記されていたと考えるのが自然。川を渡って行くのはいうまでもなく男性。なので弓削皇子に呼びかけた歌と考えざるを得ない。

 
結句「痛吾弟 乞通来祢」恋痛(こひた)吾弟(あおと) いで通ひ来ね」と訓む。「戀痛吾弟」は「戀(こひ)痛き吾(わ)が弟(せ)」と訓む。「戀痛」は「戀(こひ)痛(いた)き」と訓んで「吾弟」を修飾するととる説と「戀痛し」と訓んで、終止するととる説とあるが、「戀痛」の状態でいる「吾弟」という意で、「戀(こひ)痛(いた)き」説を採る。「吾弟」は「吾(わ)が弟(せ)」と訓む。セは、夫、兄弟、恋人などすべて男性を親しんでいう語で、主として女性が用いるが、男性が、兄弟その他の親しい男性に対して用いる場合もある。日本語のセを表記するのに適した漢字がなかったため勢、背の仮名が専ら使用されたが、表意的に記したものとして兄、弟があり、年上・年下であることを補い表わした。ここもその例。「乞通来祢」は「乞(いで)通ひ来(こ)ね」と訓む。「乞」を旧訓にコチと訓んだが、契沖『萬葉代匠記』に「乞の字はいてともよめり」とし、コチ・イデ両案を併記した。以後、諸注の訓も両説に別れている。ここは「乞」を「乞(いで)」と訓む説を採り、戀痛き弟への思いを込めての誘いかけの感動詞と考える。「通」は「通ひ」。「来」は「来(こ)」。「祢」は願望のネ。

【巻2(131)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首[并短歌]」(柿本朝臣人麿が石見国(いはみのくに)より()に別れ上来(まゐのぼ)る時の歌二首、また短歌(みじかうた))。二首とあるのは、131番歌と135番歌の長歌を指す。そして131番歌には3箇所に「一云」の異伝があり、135番歌にも1箇所に「一云」の異伝がある。次に[并短歌]と小文字で書かれている短歌とは、「反歌二首」の題詞を持つ132番歌・133番歌(131番歌の反歌)および132番歌の異伝である134番歌(これには「或本反歌曰」の題詞がある。)と、同じく「反歌二首」の題詞を持つ136番歌・137番歌(135番歌の反歌)の五首を指す。なお、136・137は、共に1箇所「一云」の異伝がある。更に131番歌、132番歌の異伝として、題詞に「或本歌一首[并短歌]」「反歌一首」を持ち、左注に「右歌躰雖同句々相替 因此重載」(右の歌は、形式は同じだが、詩句が相違している。それで重複して載録する。)とある138番歌、139番歌とがある。以上見たように「石見相聞歌」とは、131番歌~139番歌まで、異伝を含め三首の長歌と六首の短歌を総称して言う。その成立過程(推敲過程)は、①138~9、②131「一云」・134、③131~3、135~7「一云」、④131~3・135~7、であると考えられる。柿本人麻呂の「石見相聞歌」と称される一群の長歌・反歌を訓む。この歌群は、複雑な異伝を持ち、人麻呂の推敲過程を知る上で格好の研究材料であり、今まで多くの論及がなされてきているものである。
原文  石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 能咲八師 浦者無友 滷無等 人社見良目 縦畫屋師 滷者無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰  弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門将見 靡此山
和訳  石見の() (つぬ)浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して 渡津(わたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振(はふ)る 風こそ来寄せ 夕羽振(はふ)る 波こそ来寄せ 波の(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜(つゆしも)の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに (よろづ)たび かへり見すれど いや遠に 里は(さか)りぬ いや高に 山も越え()ぬ 夏草の 思ひ(しな)えて (しぬ)ふらむ 妹が門見む 靡けこの山
現代文  「石見の海の 角(つの)の海辺を よい浦がないと人は見るだろうが たとえ浦はなくとも よい潟がないと人は見るだろうが たとえ潟はなくとも 鯨のとれる海 その海辺をめざして わたづの 荒磯のほとり 青々と生えている 玉藻や沖の藻を 朝鳥の羽ばたきのように 風が吹き寄せるだろう 夕鳥の羽ばたきのように 波も寄せてくる その浪と共に あちらこちらへ寄る 玉藻のように 寄り添い寝た妻を 露や霜を置くように 置いて来たので この道の 多くの曲がり角毎に いくたびも 振り返ってみるけれど いよいよ遠く 妻の里は遠ざかってしまった いよいよ高く 山を越えて来てしまった 夏草が萎れるように 思いしおれて 私を偲んでいるだろう 妻の家の門の辺りを見たい 靡き伏せ、この山よ!」。(私が住んでいる石見の海には潟や浦がないと云われていまするが、よしんば潟や浦がなくとも、魚を取り、藻が育つ良いところです。
文意解説
 長歌()。
 
発句「石見乃海 角乃浦廻乎」「石見の() (つぬ)浦廻(うらみ)を」と訓む。「石見乃海」は「石見(いはみ)の海」と訓む。「石見」は「石見国」の意で、島根県の西半分にあたる旧国名。国庁は、浜田市下府(しもこう)にあった。「乃」はノ。この句は、旧訓にイハミノウミとあったのを賀茂真淵が萬葉考にイハミノミと改訂したが、萬葉集の仮名書例に「古之能宇美乃(こしのうみの)」、「奈呉能宇美乃(なごのうみの)」など字余りにウミと記されたものを見るし、「駿河能宇美」、「伊豆乃宇美」など「国名+ノウミ」の形も見られることからすると、ここは旧訓のイハミノウミを採るのが良いと思われる。「角乃浦廻乎」は「角(つの)の浦廻(うらみ)を」と訓む。「角」は、ここは地名のツノ。和名抄の石見国那賀郡に「都農」とあるのがそれで、現在の島根県江津市都野津町、石見赤瓦の産地として知られる。「浦廻」は「うらみ」と訓み、「海岸の曲って入りくんだあたり。入江の曲りくねった所のまわり」をいう。「廻」は、「荒き嶋廻(しまみ)を」及び歌「道の阿(くま)廻(み)に」に既出で、「めぐる」意の「廻(み)る」の連用形が名詞化した語で接尾語的に用いられ、「まわり、あたり」を意味する。「乎」はヲ。

 
2句「浦無等 人社見良目 能咲八師 浦者無友」「浦なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも」と訓む。「浦無等 人社見良目」と、「滷無等[一云 礒無登] 人社見良目」とは対句を成す。「浦無等」は「浦無(な)しと」と訓む。「浦」は、「海、湖などの湾曲して、陸地に入り込んだ所」をいう。「無」は「無(な)し」。「等」はト。「浦無し」は、船着き場になるような良い浦がないことを言ったものと考えられる。「人社見良目」は「人こそ見らめ」と訓む。「人」は「世の人々。また、世間」の意。「社(こそ)」は記紀の人名にも見え、広く使われた字で、神社に祈願をかけることから、希望の意のコソ、更に係助詞のコソにも用いられるようになった。ここは係助詞のコソに用いたもの。「見」は「見(み)」。「良目」はラメ。上のコソを受けて係り結びの法則により已然形で結んだもの。推量の助動詞ラムの接続について古典基礎語辞典は次のように述べている。
 接続 活用語の終止形に付く。ただし、ラ変型活用の語には連体形に付く。上代では、上一段活用動詞の場合、「人皆の見らむ(良武)松浦(まつら)の玉島を見ずてやわれは恋ひつつ居らむ」(万葉862)とあるように連用形に付く。ただし、この「見らむ」の連用形ミは、終止形がミル(見る)となる前のいっそう古い時代の終止形ミが化石的に残ったものと考えることもできる。なお、助動詞ラシやベシにも、これと同様の接続の仕方が認められる。

 「能咲八師」は「よしゑやし」と訓む。名義抄に「能。ヨシ・ヨク・ヨクス・ヨウス・タフ・タヘタリ」の訓みがある。ここの「能」はヨシ。「咲八師」はヱヤシ。「よしゑやし」は、上代で使われた語で、副詞の「よし」(縦し、仕方ない、ままよと許容・容認する意を表わす)に、いずれも感動・詠嘆を表わす間投助詞のヱヤシ(上代語)が付いてできたもの。満足のゆかない事情や理由があっても、仕方がないとして許容する時に用いる。下に逆接の仮定条件を示す接続助詞トモを伴うことが多い。「浦者無友」は「浦は無(な)くとも」と訓む。「浦無等」に対応しての表現。「者」はハ。「友」はトモ。「滷無等」は「滷(かた)無(な)しと」と訓む。「滷」の原義は、「塩分を含む地」で同義の「潟」と共に、日本では「かた」と訓まれ、「遠浅の海岸で、潮の満干によって隠れたり現われたりする地」をいう。「無等」は前句に同じ。[一云 礒無登] は[一云 礒(いそ)無(な)しと]と訓む。「礒(いそ)」は「岩に波のうち寄せるところ」の意で、特に海岸の波打ちぎわやその近くの海中で、岩塊や岩礁の多い所を言う。「無登」は「無等」に同じ。トの表記に「等」と同じ「登」を用いたもの。本句の推敲過程を追うと、①の138番歌には「滷無跡」とあったものを、②である131番歌[一云]で「礒無登」で「滷」を「礒」に変えたが、③の131番歌本文で「滷無等」として、元の「滷」を採用し「礒」は捨てられたことになる。「人社見良目」は「人(ひと)こそ見(み)らめ」と訓む。①138番歌ではラメの表記を、「良米」として「米」を用い「良目」ともしていたが、本歌では「良目」表記にしている。ここまでは、石見の角の海岸の実態を詠んだものであると考えられる。というのは、国庁跡付近から都野津の東北6キロ江川(ごうのかわ)河口付近までの海岸線は、途中に唐鐘(とうがね)の千畳敷・赤鼻の岬と波子(はし)の北の大崎の鼻のほかは出崎もなく、浦も潟もない単調な海岸であるからである。

 
3句「滷無等 人社見良目 縦畫屋師 滷者無鞆」「潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 潟はなくとも」と訓む。「縦畫屋師」は「よしゑやし」と訓む。「縦」はヨシと訓み、「ゆるめる。ほしいまま」の意を持つ「畫屋師」はヱヤシ。「よしゑやし」は「たとい…でも。万一…になっても」の意。「滷者[一云 礒者]無鞆」は「滷(かた)は[一云 礒(いそ)は]無(な)くとも」と訓む。「滷無等」及びその異伝である[一云 礒無登]に対応しての表現。「者」はハ。「鞆」はトモ。対句になっており、対句に続いての二連対を構成している。更にこの二連対は、「浦」と「滷もしくは磯」という語で連結されている。「浦無等」・「人社見良目」→「能咲八師」・「浦者無友」。「滷無等」・「人社見良目」→「縦畫屋師」・「滷者無鞆」。 [一云 礒無登] → [一云 礒者]。

 
4句「鯨魚取 海邊乎指而」鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して」と訓む。「鯨魚取」は「鯨魚(いさな)取り」と訓む。「いさな」には二通りの違った意味がある。「魚」はナ。「いさ」には「小さな」と「大きな」の意がある。「大きな」の意には「くじら(鯨)」を宛てる。「取」は「取り」。上代では「鯨魚(いさな)取り」の形で枕詞として用いられ、鯨を取る所の意で、海、浜、灘(なだ)など海に関する語にかかる。「取」を連用形に訓むのは、日本書紀允恭紀の歌謡に「異舎儺等利(いさなとり) 宇弥能波摩毛能(うみのはまもの)」の仮名書き例があることによる。「海邊乎指而」は「海邊を指して」と訓む。「邊」は「辺」の旧字。「海辺」で上代では「うみへ」と清音に訓んだ。「乎」はヲ。「指」は「指(さ)し」。「さす」は、「目あてとしてその方へ向ける。目ざす」の意。「而」はテ。

 
5句「和多豆乃 荒礒乃上尓」渡津(わたづ)の 荒礒(ありそ)の上に」と訓む。「和多豆乃」は「わたづの」と訓む。「和多豆」には、「わたづ」と訓む説と「にきたづ」と訓む説とがある。「にきたづ」説の代表と思える澤瀉『萬葉集注釋』を少し長くなるが引用して見てみよう。
 「原文「和多豆」とあるので、ワタヅと訓み渡津の意とし、都野津より更に一里餘も東にある江川の東岸の江津市渡津のことだとする説が多く行はれてゐるが、この歌の異傳である或本の歌(138)には「柔田津」とある。それとこれとは同じもので「和」の字は「和(ニキ)細布(タヘ)」、「和(ニキ)海藻(メ)」などのやうに、ニキと訓ませるつもりで書いたものと思はれる。「和多豆(ワタヅ)」をニキタヅと訓み誤つた為に柔田津と書くやうになつたと説く人々があるが、これはもつてまはつた解釋で、人麻呂は自作に推敲を加へ、いろいろに書きかへ、文字も自由にとりかへて用ゐたので、「屋上の山」を又「室上山」とも書き、「勿散(チリナ)亂曽(マガヒソ)」を又「知里勿(チリナ)亂曽(マガヒソ)」とも書いた如く、和多豆とも柔田津とも書いたので、柔田津とある事こそニキタヅと訓む證とみるべきである。渡津では位置として不適當で、ここはまだ出發前、妻とむつみかはした時、そのより寝た地の事を云つてゐるのであるから、出發後、次の長歌にある渡(わたり)の山の附近の渡津をもち出すのは早すぎるのである。たゞその柔田津がどこかといふ事が不明であるが、「和田(ニキタ)」とは「荒田」と對する言葉で、よく耕され土壌の肥えた豐饒な田の意で、都野津附近にさうした田野があつて和田津と云ったと見ればよいであらう。普通名詞にも近い地名で、現に伊豫にも同名のに熟田津(8)があつたのだが、それも今日知られなくなつてゐるやうに、この柔田津もその名が失はれたと見るべきである」。
 以上、説得力ある論述である。しかし、いくら人麻呂が「文字も自由にとりかへて用ゐた」としても、当時の表記の常識を踏まえたうえのことであり、もしその常識を破っての表記をする場合には、それなりの理由があっての事と考えられる。これまでの萬葉集における音訓交用表記の研究によれば、地名ニキタヅを「和多豆」と表記する事は常識ではありえないことである。確かに「和」はニキと訓読することができるが、ワ音の常用音仮名として頻度の極めて高いものでもある。「多豆」もタヅである事からすると、「和多豆」は地名「ワタヅ」を表わしたものと考えるのが正しいと思う。

 「和多豆」は「ワタヅ」説を採り、「柔田津」と同じだと見る澤瀉のニキタヅ説をしりぞけた。ちなみに「柔田津」の「柔」はニキ、「田津」はタツであるから、「柔田津」は、ニキタツと言う地名を表記したものでワタヅとは違う地であったと思われる。推敲の結果、ニキタツの地よりワタヅの地がこの歌にふさわしいとして変更したものと考えられる。もし「柔田津」と「和多豆」とが同じ地名を表記したものであるとしたら、なぜ同じ地名の表記を推敲の結果、「柔田津」→「和多豆」に変更したのか、その理由が求められるが、その説明は、先に引用した澤瀉『萬葉集注釋』にはない。「荒礒乃上尓」は「荒礒(ありそ)の上(うへ)に」と訓む。「荒礒」は「ありそ」と訓む。「あらいそ」の変化した語で、荒い磯の意だが、万葉後期には、「いそ(磯)」とほぼ同義の歌語として用いられるようになり、平安以降は「ありそうみ」「ありその浦」「ありその浜」の形で、真砂の数の尽きぬたとえとしたり、「在り」「有り」と掛けて詠むことが多くなる。大伴家持作の3959番歌に「古之能宇美乃(こしのうみの) 安里蘇乃奈美母(ありそのなみも)」の仮名書き例がある。「上」は「うへ」と訓み、「あるものの付近。辺り」の意。「尓」はニ。

 
6句「香青生 玉藻息津藻」「か青なる 玉藻沖つ藻」と訓む。「香青生」は「か青(あを)生(な)る」と訓む。「香」はカで、その字義を踏まえた用字であり礒の「かおり」を想起させる。カは、主として形容詞の上に付いて語調を整え、強める働きをする。「迦具漏伎可美(か黒き髪)」、「可夜須伎(か安き)」などの例がある。「青(あを)」は、色の名で、三原色の一つ。本来は、黒と白との中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍をさし、時には、黒、白をもさした。「生」は「生(な)る」と訓んだが、自動詞「なる」ではない。ここの「なる」は、「にあり」が約まってできた断定の助動詞「なり」の連体形で、表記としては普通「有」が用いられるので、「香青有」と記すべきところである。勿論そんな事は承知の上で、人麻呂は、敢えて「香青生」として生命感あふれる藻のイメージを表現しようとしたものと考えられる。その意図は見事に当たって.この句が目から飛び込んだ瞬間、豊かなイメージが広がる。「玉藻息津藻」は「玉藻(たまも)おき[沖]つ藻(も)」と訓む。「玉藻」は既出。「玉(たま)」は美称で「美しい藻」の意。「息津藻」は「沖つ藻」で既出。「おき」に「息」の字を用いたのは、前句「香青生」の「生」の用字からの連想。「息」は、会意文字で、自(じ)+心。自は鼻の象形字で、鼻息で呼吸することは、生命のあかしである。「津」はツ。

 
7句「朝羽振 風社依米」「朝羽振(はふ)る 風こそ来寄せ」と訓む。「朝羽振」は「朝(あさ)羽振(はふ)る」と訓む。「朝」は「夕」とセットで詠われる事が多い。用例として「朝猟(あさかり)に」、「暮(ゆふ)猟(かり)に」、「朝越え座(ま)して」、「夕去り来れば」が挙げられる。ここでも「夕(ゆふ)羽振(はふ)る」とセットになっている。「羽振」は「羽振(はふ)る」と訓み、「鳥が勢いよく飛びあがる。とびかける。はばたく」の意である。この言葉は、朝・夕の対比に加えて、以下の風・浪を鳥の羽ばたく様子に比喩したものと考えられる。「風社依米」は「風こそ依(よ)せめ」と訓む。「風」は既出。「社」はコソで、対句に使用されていたが、ここでも対で使われている。「依米」は「依(よ)らめ」とも「依(よ)せめ」とも訓めるが、ここは玉藻を風が寄せてくることを詠っているのであるから、自動詞の「よる」ではなく他動詞の「よす」と考えられる。従って、「依」は「依(よ)せ」と訓む。「米」はメ。上の「こそ」を受けての係り結び。

 
8句「夕羽振(はふ)る 波こそ来寄せ」「夕羽振(はふ)る 波こそ来寄せ」と訓む。「夕羽振流」は「夕(ゆふ)羽振(はふ)る」と訓む。「夕」は「朝」に対応したもの。「羽振流」は「羽振(はふ)る」で同じだが、ここでは活用語尾のルを「流」で表記している。「流」を表記したのは次の「浪」を意識しての表記かと思われる。「浪社来縁」は「浪(なみ)こそ来(き)縁(よ)れ」と訓む。「浪」は既出。「社」はコソ。「来縁」は、「来よる」の已然形「来よれ」とも、「来よす」の已然形「来よせ」とも訓める。対応する「依(よ)らめ」「依(よ)せめ」には自動詞と他動詞の違いがあったが、「来よる」「来よす」は、共に自動詞で意味も「寄せて来る」で同じである。多くの注釈書は、対句である事から、「依らめ」と訓んだものはそれに合わせてここを「来よれ」と訓み、「依せめ」と訓んだものは「来よせ」と訓んでいる。しかし、澤瀉『萬葉集注釋』は、「依(よ)せめ」と訓みながら、ここは「来(き)縁(よ)れ」と訓んで、次のように述べている。

 原文「來縁」を前の句と對してキヨセと訓む説もあるが、浪が藻をよせる事を「來よす」とは云はない。「來よす」といふ言葉はあるが、それは、「白浪之(シラナミノ) 來縁島乃(キヨスルシマノ) 荒礒尓毛(アリソニモ)」(2733)の如く、自動詞で、浪そのものがよせてくるのであつて、「風こそよせめ」の「よせ」と同じものではない。ここはむしろキヨレと訓んで、前の句では風が藻をよせると云ひ、ここでは浪が寄つて來る意で、對句にはなつてゐるが、文としてははじめから前の句の終までで結ばれ、後の句は獨立し、夕方に立つ浪が寄つて來る、と一旦そこで切れるが、その浪と共に、と下へつゞいて序となつてゐる。

 この澤瀉説に賛同して、「来(き)縁(よ)れ」の訓みを採る。対句について、推敲過程である、①の138番歌と③の131番歌本文を比較してみて見ると、澤瀉説の正しさがわかる。前後の句を加えて記してみると、

 ① 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 
             夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依
 ③ 香青生 玉藻息津藻 朝羽振  風社依米
             夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依

 一字一字の用字に付いても細心の注意を払って推敲されているが、その事はおくとして、今注目したいのは、①においては明らかに対句に重きをおいて作歌がなされていることである。「明来」「浪」と「夕去」「風」という対になる言葉以外の表記「者」「己曽来依」を全て同じとしている事がそれを表わしている。「来依」は「来よれ」、「来よせ」のどちらに訓んでも「寄って来る」の意で、「玉藻沖つ藻」に「浪」が寄せ、「風」が吹き寄ることを詠ったものである。それに対して、③は明らかに趣を異にしている。対句は残しながらも「風」「浪」の順序を入れ替え、その役割を変更している。その役割の変更を示すのが、①において「浪」、「風」に共に使われた「来依」の変更である。まず「風」については「来依」から「依米」へと変更しているが、この意図は、「来依」という自動詞から「依」という他動詞に変えて推量の意の助動詞「(米)め」を加えることによって、前の句の「玉藻沖つ藻」を「風」がよせてくるだろう様子を表わそうとしたもので、初句からこの句までで一つの文の結びとなるようにしたものと考えられる。次に「浪」については、「来依」から「来縁」への変更で、意味は変わらないが、他動詞として用いた「依」とは違うことを示すために用字を変えたものと思われる。「風」が他動詞を伴って、一文を結ぶ役割を果たしたのに対して、後にまわされた「浪」は自動詞を伴って、独立した句を構成することになると共に、次の21句の「浪」を起こす序詞の働きをになう事となる。更に今ひとつ①から③への推敲で大きく変わっているのは、①の単なる「明来」と「夕去」との時についての対だけであったものを、③では朝夕の対比に加えて、「羽振(はふ)る」という言葉でもって、鳥が羽ばたくイメージにより、風や浪の形状が具象化し、詩的形象化を一段と進めたことである。ただし、ここでも対句でありながら、独立した句である事を示すために「羽振(はふ)る」の表記を「羽振」から「羽振流」に変えていることに注目すべきであろう。

 
9句「浪之共 彼縁此依 玉藻成」「波の(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす」と訓む。「浪之共」は「浪(なみ)の共(むた)」と訓む。「浪」は、「浪(なみ)こそ来(き)縁(よ)れ」の序によって「その浪」と承けたもの。「之」はノ。「共」はムタと訓む。ノ、ガの付いた形に接続して「…とともに」、「…のままに」の意の副詞句を構成する。「可是能牟多(かぜのむた) 与世久流奈美尓(よせくるなみに)」、「君(きみ)我牟多(がむた)  由可麻之毛能乎(ゆかましものを)」などの仮名書き例がある。「彼縁此依」は「彼(か)縁(よ)り此(かく)依(よ)る」と訓む。「彼」と「此」は、「か」「かく」と訓み、「あちらに」と「こちらに」の意。「縁、依」は、共に「よる」であるが、「縁」は「縁(よ)り」と訓み、「依」は「依(よ)る」と訓む。この句は、旧訓カヨリカクヨリであったのを、鹿持雅澄『萬葉集古義』がカヨリカクヨルと改訂したが、それ以降も二説に分かれている。「カクヨル」と訓めば、「玉藻」の修飾語となり、「カクヨリ」ならば「依(よ)り宿(ね)し」にかかることになる。「調子の上からはカヨリカクヨリがすぐれている」とする説もあるが、「カクヨリ」では作者が浪と共に寝ることになって文脈上ふさわしくない。『萬葉集古義』に「こをカヨリカクヨリと訓て、妹がよることとするはひがことなり。こは玉藻のよる事を云るなれば必かよりかくよるとよむべきことなり」と評したのが正しいと思う。「玉藻成」は「玉藻(たまも)なす」と訓む。「玉藻」は既出。「なす」は、「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意。上代東国方言では「のす」という形でも用いられる。「玉藻なす」は、美しい藻のようにの意で、「浮かぶ」「寄る」「靡(なび)く」にかかる枕詞。

 
10句「依宿之妹乎 露霜乃」「寄り寝し妹を 露霜(つゆしも)の」と訓む。「依宿之妹乎」は「依(よ)り宿(ね)し妹を」と訓む。「依」は「依(よ)り」。「宿」はネ。「之」はシ。「玉藻なす依り宿し」は、玉藻のように寄り添って寝たの意で、「妹」を修飾している。「妹」は別れてきた妻を指す。「乎」はヲ。異伝の[一云 波之伎余思 妹之手本乎] は、[一に云ふ はしきよし 妹(いも)が手本(たもと)を]と訓む。「波之伎余思は、ハシキヨシ。「はしきよし」は、「いとしい。愛すべきである」の意。「はしきやし」ともいう。「妹之」の「之」はガ。「手本」は「たもと」と訓む。着物の、袖口の下の袋のようになった部分をいう「袂(たもと)」とは異なり、字義の通り、手首もしくは袖口のあたりを指す。この異伝の二句は、直前の、「玉藻なす 依り宿し妹を」に替わる表現のようであるが、それだと、その前の「浪の共 彼縁り此依る」とのつながりが悪い。澤瀉『萬葉集注釋』に「これは或いは一本には上二句の下にこの二句があり、くりかへしの対句をなしてゐたもので、『或書有二…句一』といふ風な注であるべきものを『一云』としてしまつたものかと考へられる」とあるのに従うべきであろう。この部分の推敲過程を見てみよう。①の138番歌、②の131番歌[一云]、③の131番歌本文、を比較してみると、①玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎。②玉藻成 依宿之妹乎 波之伎余思 妹之手本乎。③玉藻成 依宿之妹乎。このように、この部分は、もとは四句構成であり、①の「靡き吾が宿し 敷妙の 妹が手本を」という間接的表現に飽き足らず、より直接的である「依り宿し妹を」とする過程で、②の繰り返しの対句としたものを、最終的には、下の二句を切り捨てて、より簡潔で力のこもった表現としたものと考えられる。「露霜乃」は「露霜(つゆしも)の」と訓む。宣長の『玉勝間』に「こは後の哥には、露と霜とのことによめども、萬葉なるは、みなたゞ露のこと也」とある。たしかに露のことを「露霜」と言った例も見られるが、露と霜の双方を言った例もあるので、それぞれ歌に即して解するべきだと思われる。ここの「露霜の」は、比喩的な枕詞として使われたもの。枕詞としての「露霜の」には大きく次の四つの掛かり方があり、ここは⑵の例にあたる。⑴ 露や霜が消えやすいところから、「消える」やそれに類した語にかかる。…「消ゆ」「過ぐ」にかかる。⑵ 露霜が置く意で、「置く」やそれと同音またはそれを含む語にかかる。…「置く」「起く」「晩手(おくて)」「小倉山」「岡辺」などにかかる。⑶ ⑵の「置く」と同意の「降る」と同音の地名「布留」や「古里」にかかる。⑷ 露や霜は秋の景物であるので、「秋」にかかる。
 
 11句「置而之来者 此道乃」「置きてし来れば この道の」と訓む。「置而之来者」は「置(お)きてし来(く)れば」と訓む。「置」は「置(お)き」と訓む。自動詞の「おく」は、「露や霜が生じて、ある場所を占める。また、雪などが降って地にたまる」の意である。他動詞の「おく」は、さまざまな意味を持つが、大きく次の四つに分類される。⑴ 事物に、ある位置を占めさせる。対象に心をとめる。気にかける。⑵ 間に、はさみすえる。隔てる。⑶ 物事をそのままの状態にしておいて、特別に扱わない。あとに残しとどめる。⑷ 動詞の連用形、または、それに助詞「て」の付いた形に続けて補助動詞のように用いて、ある状態をそのまま続ける意や、その状態を認めて許す意を表わす。ここの「おく」は、自動詞の「露霜の降りとどまる」意と、他動詞の「あとに残す」意との掛詞になっている。「而」はテ。「之」は。「来」は「来(く)れ」。「者」はバ。「露霜の 置きてし来れば」は、「露や霜が置くように、置いて(あとに残して)来たので」の意となる。「此道乃」は「此(こ)の道(みち)の」と訓む。「此(こ)の」は、コにノの付いたもの。近代語では「こ」の単独用法がないので、一語とみて「連体詞」としている。話し手が、空間的、心理的に近い事物や人をさし示すものであるが、上代・中古には、中称・遠称の代名詞が未発達であったために、話し手、聞き手からやや遠い事物をもさし示す例もみられる。「此(こ)の道(みち)」は、今自分(作者)が通っているこの道をいう。

 12句「八十隈毎 萬段」八十隈(やそくま)ごとに (よろづ)たび」と訓む。「八十隈毎」は「八十(やそ)隈(くま)毎(ごと)に」と訓む。「八十(やそ)隈(くま)」は、「数多くの曲がり角」の意。「毎(ごと)」は、接尾語で名詞や動詞の連体形などに付いて、連用修飾語となる。助詞二を伴うことも多い。ここも「に」を補読して「ごとに」と訓む。その物、またはその動作をするたびに、そのいずれもが、の意を表わす。「…はみな。どの…も。…するたびに」などの意。「萬段」は「萬段(よろづたび)」と訓む。仮名書きの長歌である4408番歌の中に「与呂頭多妣(よろづたび) 可弊里見之都追(かへりみしつつ)」とある所から「よろづたび」と訓まれているが、「段」を「たび」と訓む理由は未詳。小島憲之の説によると、「段」はくぎり、分断されたものの意であり、「その動作が何度とな繰り返される」のが「萬段」だという。

 13句「顧為騰  弥遠尓」「かへり見すれど いや遠に」と訓む。「顧為騰」は「顧(かへりみ)為(す)れど」と訓む。79番歌では「顧(かへりみ)為(し)乍(つつ)」とあったが、ここは「顧(かへりみ)為(す)れど」。「顧」は「かへりみ」と訓み、「後方を振り返ってみること」の意の名詞。「為」は「為(す)れ」。「騰」はド。「~けれども。~のに。~だが」の意。「弥遠尓」は「弥(いや)遠(とほ)に」と訓む。「弥」は、「ひさしい」が本義だが、「いよいよ、ますます」の意として「いや」と訓む。「いや」は、接頭語イが物事のたくさん重なる意の副詞ヤに付いたもので、物の程度の盛んな事を表わす。人麻呂の長歌によく出て来る表現で既出。「遠」は「遠(とほ)」。「尓」はニ。

 14句「里者放奴 益高尓」「里は(さか)りぬ いや高に」と訓む。「里者放奴」は「里(さと)は放(さか)りぬ」と訓む。「里(さと)」は既出。人家のあつまっている所、人の住んでいる所、村落をいう。ここは置いて来た妻のいる里のこと。「者」は。「放」は「放(さか)り」。「さかる」は「離る」とも書き、「離れる。へだたる。遠ざかる」の意。「奴」はヌ。「益高尓」は「益(いや)高(たか)に」と訓む。「益」は、「ますます」の字義から、「弥」と同じくイヤと訓む。「高」はク「高(たか)」。「尓」は二。

 15句「山毛越来奴 夏草之」「山も越え()ぬ 夏草の」と訓む。「山毛越来奴」は「山(やま)も越(こ)え来(き)ぬ」と訓む。「山」は、末句に「此の山」と詠まれる「山」であり、反歌に詠われている「高角山」を指すものかと思われる。「毛」はモ。「越」は「越(こ)え」。「来」は、「来(き)」と訓む。「奴」はヌ。列挙強調の働きをする二句対になっている。「妻の住む里からますます遠く離れて来、高い山も越えて来た」の意。「夏草之」は「夏草(なつくさ)の」と訓む。「夏草」は、「夏の草。夏になって繁茂している草。」を言うが、また、特に、「布を作るためにとる夏葛」をさすこともある。「之」はノ。「夏草の」は枕詞として使われ、次の五つのかかり方がある。⑴ 地名「あひね」にかかる。「あひね」の所在およびかかり方未詳。一説に、夏の草が萎(な)えるの意で「ね」にかかるとも。⑵ 夏草の生えている野の意で、「野」を含む地名「野島」や「野沢」にかかる。⑶ 夏の草が日に照らされてしなえる意で、「思ひしなゆ」にかかる。⑷ 夏の草が繁茂するところから、「繁し」「深し」にかかる。⑸ 夏草を刈る意で、「刈る」と同音を含む「仮」「仮初(かりそめ)」に続く。ここは⑶の用例で、次の「念(おも)ひしなえ」にかかる。ただ、本歌のかかり方に付いて、『萬葉集全注』は「こんもりと生い茂った夏草が、秋になってしおれるようにしょんぼりとしている様子」からであるとする。25句に「露霜の」とあるところから詠われている季節を秋と推測しての説である。

 16句「念思奈要而 志怒布良武」「思ひ(しな)えて (しぬ)ふらむ」と訓む。「念思奈要而」は「念(おも)ひしなえて」と訓む。「念」は「念(おも)ひ」。「思奈要」はシナエ。「しなえ」は「しなゆ」の連用形。「念(おも)ひしなゆ」で複合動詞とみることもできる。「而」はテ。「夏草の 念(おも)ひしなえて」は、残された妻の消沈のさまを萎れる夏草に譬えて詠ったもの。「志怒布良武」は「しのふらむ」と訓む。「しのふ」は、「偲ふ」。「忍ふ」とは別語、「忍ふ」のノ音は乙類。「らむ」は推量の助動詞。

 結句「妹之門将見 靡此山」「妹が門見む 靡けこの山」と訓む。「妹之門将見」は「妹(いも)が門(かど)見(み)む」と訓む。「妹」は残して来た妻。ここの「之」は格助詞の「が」。「門(かど)」は妻の住む家の門の辺りを指す。「将」は、漢文の助字で「まさに…す。」と訓読される再読文字であるが、『萬葉集』では、動詞の未然形+助動詞「む」を表わすのにしばしば用いられ、ここの「将見」も「見(み)む」と訓む。「靡此山」は「靡(なび)け此(こ)の山」と訓む。「靡」は「靡(なび)け」。「此(こ)の山(やま)」は、今越えて来た「山」で、その山に遮られて「妹の門」が見えなくなったので「靡け」と言ったのである。この一句に人麻呂の痛切な思いが凝縮されている。

 朝、夕の風や波で育つ玉のような藻を詠い、その藻と藻を揉む波を妻と自分に例えて寄り寝したことを詠い、その妻を家に置いてきたことを旅の途中で万回も思い出したが遠く離れて来てしまったと詠い、そして、これまで越えてきた山や草に対して、靡び臥せて妻の住む門が見えるようにしろと、詠んでいる。言いたいことは「靡けこの山」の一言。修辞が長いところに特徴がある。

【巻2(132)。】
題詞
歴史解説
 反し歌二首。この歌は長歌に続く反歌二首の一である。これは柿本人麻呂の歌だが、彼は9年間ほど石見(いわみ。島根県西部)の国司の任にあったとされる。その任を解かれて都(大和藤原京)に上るときの歌とされる。つまり、この歌に詠われている妹(いも)は石見の国に残してきた妻ないし恋人ということになる。32番歌は、131番歌の反歌二首の一首目であるが、「石見相聞歌」と称される一群の長歌・反歌の成立過程(推敲過程)でいうと、①139番歌→②134番歌→③132番歌であると考えられる。
原文  石見乃也  高角山之  木際従  我振袖乎  妹見都良武香
和訳  石見のや 高角(たかつぬ)山の ()の間より ()が振る袖を 妹見つらむか
現代文  「石見の国の高角山の木々の間から、わたしが振った袖をいとしい妻は見たであろうかなあ」。
文意解説  発句「石見乃也  高角山之  木際従」「石見のや 高角(たかつぬ)山の ()の間より」と訓む。「石見乃也」は「石見(いはみ)のや」と訓む。「石見」は島根県の西半分にあたる旧国名。「乃」はノ。「也」はヤ。「高角山之」は「高角山(たかつのやま)の」と訓む。「角」は、「角(つの)の浦廻(うらみ)を」の詠われた地名の「つの」で、現在の島根県江津市都野津町。「高角山」は「角の里の高い山」の意で、人麻呂の造語だと思われる。「之」はノ。伊藤博は『万葉集の歌人と作品 上』において、「打歌山」が「高角山」の実名で、角の地の人々にとって角の地を見納める国境のなつかしい山であったのだろうが、「打歌山」の表現では、現地の事情を知らぬ都の人々にとっては表現の客観性をもたないから、角の地で最も高い山を意味する「高角山」の表現に改めたものと説いている。その真偽のほどはわからないが、「高角山」の内包する意味について述べているところは傾聴に値すると思うので次に引用しておく。
 『高角山』の『高』は、『高い』という意味を示す以上、『角の山』を、 “見はるかす山”としてとらえたものであろうことが知られる。一方、『角山』の『角』は、長歌の前奏部によれば、『妹の里』であることが窺える。(中略)『角』が『妹の里』であれば、『角の山』は妹の里の勢力範囲に属する山であることが確認される。妹の里の勢力範囲にある山でしかも高く見はるかす山であるということになれば、『高角山』は妹の里の果てにある山、いいかえれば、人麻呂が本格的に帰京の人とならねばならぬ異郷と妹の里との境の山、もっといえば、人麻呂が妹(妹の里)への決定的な別れを告げねばならぬ見納めの山という意味を内封する詞句であろうと思われる。
 「木際従」は「木(こ)の際(ま)より」と訓む。ここの「際」は「間」の意で、「木際」で「このま」と訓む。「従」は漢文の助字で、「より。… から」の意。ここでは、場所の起点を表わす格助詞「より」を表わすのに用いられている。この句を『萬葉代匠記』は、五句の「妹見つらむか」に掛かると見たが、それは当たらない。この句は、句の順序のままに次の4句に掛かると見るのが良い。

 結句「我振袖乎  妹見都良武香」()が振る袖を 妹見つらむか」と訓む。「我振袖乎」は「我(わ)が振る袖(そで)を」と訓む。「我」は「吾」と同じく自称の「わ」で、ガを補読して「我(わ)が」と訓む。「振」は「振る」。「袖」は「袖ふる」、「袖吹き反(かへ)す」として既出。衣服で、身頃(みごろ)の左右にあって、腕をおおう部分をいう。「乎」はヲ。万葉集の「袖振り」は、別離の場合にも、愛の表現にも、舞踊の型としても見られるが、ここは別れを惜しんでのこと。「妹見都良武香」は「妹見つらむか」と訓む。「妹」は別れてきた妻を指す。「見」は「見(み)」。「都」はツ。「良武」はラム。「香」はカ。

【巻2(133)。】
題詞
歴史解説
原文  小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
和訳  笹の葉は み山も清(さや)に 乱(さわ)げども 我れは妹思ふ 別れ来ぬれば
現代文  「笹の葉は山もざわめくほどにさやさやと音を立てて騒いでいるけれど、その音がいとしい妻を思わせる。今、別れて来たばかりなので。(余計にそう思う」。 
文意解説  発句「小竹之葉者 三山毛清尓 乱友」「笹の葉は み山もさやに さやげども」と訓む。「小竹之葉者」は「小竹(ささ)の葉は」と訓む。「小竹」はササともシノとも訓まれる。「ささ(笹)」は、「イネ科のタケ属で小形のものの総称」であり、「しの(篠)」は、「稈(かん)が細く、群がって生える竹類」をいうと辞書にあるが、笹と篠との相違は明確ではない。万葉集の人麻呂詠歌や人麻呂歌集においては、笹を「小竹」、篠を「細竹」と書き分けているとする説もある。「之」はノ。笹の「葉(は)」は、先のとがった狭長楕円形で、防腐作用があり、粽(ちまき)や鮨(すし)、和菓子を包むのに用いられる。「者」はハ。「三山毛清尓」は「み山も清(さや)に」と訓む。「三」はミ。接頭語ミは本来は霊威あるものに対する畏敬を表わしたが、美称としても用いられるようになった。「山」は、131番歌の「山も越え来(き)ぬ」を承けたもので、越えて来た山の様子を詠んでいる。「毛」はモ。「清尓」は「さやに」と訓む。「さや」は動詞「さやぐ」の語幹であり、擬声語「さやさや」から「さやに」の副詞となったもの。「さやに」は、笹の葉が「さやさやと音を立てて」の意。「さや」に「清」の字を用いたのは、笹の葉音が、「ざわざわ」と騒がしく厭われるものではなく、「さやさや」と清らかで明るいものであることを印象づけるためであると考えられる。「…も…に」という「AもBに」型は、「AもBするほどに」の意を表わすので、「み山(やま)も清(さや)に」は「山もざわめくほどにさやさやと音を立てて」の意となる。「山もざわめく」と言ってもそれは厭わしいものではなく「さわやかな・すがすがしい」風景である。「さや」に「清」の字を用いていることから明らかである。「乱友」は「乱(さわ)けども」と訓む。この句は難訓の一つで、色々な説がある。まず「友」の字をトモと訓むかドモと訓むかで説が分かれるが、ドモと訓む。何故なら、この確定条件を示すドモは、結句の〈已然形+バ〉という順接の確定条件と呼応しており、仮定条件を表わすトモであれば、それに呼応するのは〈未然形+バ〉の仮定条件でなければならないが、〈已然形+バ〉であることは動かないからである。「友」をドモと訓むと決まれば、「乱友」の訓みには、ミダレドモ説、マガヘドモ説、サヤゲドモ説及びサワケドモ説の四つの説に絞られるが、この四つの説を詳細に検討して、サワケドモ説が最も妥当な訓であるとした間宮厚司『万葉集の歌を推理する』(文春新書)の論を採る。「さわく」は、今日の「さわぐ」で「騒」の漢字を常用しているが、万葉集では、「さわく」には「驟・颯・動・乱・驟驂・散動」などの漢字が充てられ固定的ではなかった。「さわく」には「風、波、草木などがざわざわと音をたてて動く」の意味があり、多数の笹の葉が擦れ合って出す音と共に、風に吹かれて動く笹の葉を視覚的にも表現する言葉として選ばれたものと考えられる。そしてその「さわく」に「乱」の字を用いることにより、笹の葉の入り乱れる様子を表わすと同時に、作者の心の乱れをも表わそうとしたものかと思われる。

 結句「吾者妹思 別来礼婆」「我れは妹思ふ 別れ来ぬれば」と訓む。「吾者妹思」は「吾(われ)は妹思ふ」と訓む。「吾」は「われ」で作者。「者」はハ。「妹」は別れてきた妻。「思」は「思ふ」。「別来礼婆」は「別れ来(き)ぬれば」と訓む。「別」は「別れ」。「来礼」はヌレと訓む。「婆」はバ。

【巻2(134)。】
題詞
歴史解説
 或ル本ノ反シ歌。この歌、前々歌132番歌の異伝歌である。といっても「木際従」が「木間従文」と文(も)が付加されているだけで、両歌は全く同歌と断じてよい。なので132番歌を参照していただけば事足りよう。本歌は、132番歌の異伝で、139番歌から本歌を経て132番歌になったものと考えられる。
原文  石見尓有 高角山乃 木間従文 吾袂振乎 妹見監鴨
和訳  石見なる 高角山(たかつのやま)の 木の間ゆも 吾(わ)が袖振るを 妹見けむかも
 石見なる 高角山の 木の間よも 吾()が袖振るを 妹見けむかも
現代文  「石見の国の高角山の木々の間から、私が袖を振ったのを、いとしい妻は見届けてくれただろうよ」。
文意解説
 「『万葉集』を訓(よ)む(その203)」その他を参照する。

 
発句「石見尓有 高角山乃 木間従文」「石見なる 高角山の 木の間ゆも」と訓む。「石見尓有」は「石見(いはみ)なる」と訓む。「石見」は「石見国」の意で、島根県の西半分にあたる旧国名。「尓有」はナルと訓む。「に有る」と訓むこともできるが、それでは字余り句になるのでナルと訓むのが良い。「石見なる」は、132番歌の「石見のや」と言う臨場感あふれる表現とは違って、石見の国から離れた所で詠まれたことを示す表現で、結句の表現と合わせて考えると、この歌は回想歌として詠まれたものであると言える。「高角山乃」は「高角山(たかつのやま)の」と訓む。132番歌と「の」の表記は異なるが同じ。「角の里の高い山」の意。「木間従文」は「木(こ)の間(ま)ゆも」と訓む。「木間」は「木(こ)の間(ま)」と訓み、「木々のあいだ」の意。「従(ユ)」は「より。… から」の意。132番歌では「より」と訓んだが、ここでは「より」と同じく場所の起点を表わすユと訓む。「文」はモ。単に「より」と言うより、「ゆも」の方が強い表現。132番歌の「木(こ)の際(ま)より 我(わ)が振(ふ)る袖(そで)を」は、現に袖を振っていることを想像させる表現であるが、本歌の「木(こ)の間(ま)ゆも 吾(わ)が袂(そで)振(ふ)るを」には、やや後になってそのことを強調する気持が、この「ゆも」に現れている。

 
結句「吾袂振乎 妹見監鴨」()が袖振るを 妹見けむかも」と訓む。「吾袂振乎」は「吾(わ)が袂(そで)振るを」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「袂」は、名義抄にソデ・タモトの訓みがあり、「衣の袖口」の意。「振」は「振る」。「乎」はヲ。132番歌の「我(わ)が振る袖を」に対して、本歌では「吾(わ)が袂振るを」と、「振る」と「そで」が入れ替わっている。これは、「袖振り」を過去のこととする意識から「吾(わ)が袂(そで)振りしを」の意で「吾(わ)が袂(そで)振るを」としたものと考えられる。「妹見監鴨」は「妹見けむかも」と訓む。「妹」は別れてきた妻を指す。「見」は「見(み)」。「監鴨」はケムカモ。この結句によって、本歌は、回想の歌であることが明らかで、132番歌や139番歌よりも、後の時に視座を移しての抒情を詠んだものと解される。

【巻2(135)。】
題詞
歴史解説
 長歌。右、歌体同ジト雖モ、句々相替レリ。因テ此ニ重ネ載ス。
原文  角障經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有  伊久里尓曽 深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 靡(なび)き寐(ね)し兒(こ)を 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者 肝向 心乎痛 念乍  顧為騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有  屋上乃山乃 自雲間  渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而沾奴
和訳  角(つぬ)さはふ 石見の海の (こと)さへく (から)の崎なる 海石(いくり)にそ 深海松(ふかみる)生ふる 荒礒にそ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡(なび)き寝し子を 深海松(ふかみる)の 深めて()へど さ寝し夜は 幾だもあらず ()ふ蔦の 別れし来れば 肝向かふ 心を痛み 念(おも)ひつつ 顧(かへりみ)為(す)れど 大舟の 渡りの山の もみち葉の 散りの(みだ)りに 妹が袖 清(さや)にも見えず 妻隠(つまごも)る 屋上(やかみ)の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠(かく)ろひ来れば 天伝(あまつた)ふ 入日さしぬれ 大夫と 念(おも)へる(あれ)も 敷布(しきたへ)の 衣の袖は 通りて濡れぬ
現代文  「角(つの)さはふ(芽の伸びるのをさまたげる岩の) 石見の海の 言(こと)さへく(言葉が通じない韓(カラ)とその名も同じ) 辛の崎にある 海中にある岩に 深海松は生えている 海上の荒磯に 玉藻は生えている。玉藻(たまも)なす(玉藻のように) 寄り添い寝た妻を 深海松(ふかみる)の」(深海松のように)深く心に思うけれど 共寝した夜は まだいくらもなく 延(は)ふつたの(這う蔦の先が分かれるように) 別れて来たので 肝(きも)向(むか)ふ(肝に向き合う) 心が痛んで 妻のことを思いつつ 振り返ってみるが 大舟(おほふね)の(大船が海を渡るという、その) 渡の山の 黄葉の 散り乱れる中に 妻の振る袖も はっきり見えず 嬬(つま)隠(ごも)る(妻と共にこもる屋ではないが) 屋上の山の 雲間から 空を渡って行く月のように 名残惜しいけれども 隠れてきた折しも 天(あま)傳(つた)ふ(天空を伝い渡って) 入日がさしてきたので 大夫(ますらお)[立派な男子]だと 自負していた私も 敷妙(しきたへ)の」(敷いていた)衣の袖は 涙で濡れとおってしまった」。
文意解説  長歌()
 
発句「角障經 石見之海乃 言佐敝久」「角(つぬ)さはふ 石見の海の (こと)さへく」と訓む。「角障經」は「角(つの)さはふ」と訓む。「つのさはふ」は、人名「磐之媛(いはのひめ)」、地名「磐余(いはれ)」「石見(いはみ)」など、語頭に「いは」をもつ語にかかる枕詞であるが、語義・かかりかたは未詳。ただし、これを受ける人名・地名は全て「いは」を共有しているので、「岩」の意を介して続くと思われる。また万葉集中の五つの例がすべて「角障経」という表記であるところから、(イ)「つの」は植物の芽、「さはふ」は「障(さ)はふ」で、芽の伸びるのをさまたげる岩の意で係るとする説、(ロ)「つの」は岩角、「さは」は多で、角のごつごつした岩の意で係るとする説などがあり、他に、「つの」を「つな」「つた」と同源で、蔓性の植物とし、「さはふ」は「さは(多)・はふ(延)」の変化したものとして、蔦のからみついた岩の意で係るとする説もある。「角」と「障」は正訓字とも借訓字とも考えられるが「角」は「角の里」をイメージしての用字と思われるので漢字を残し、「障」は借訓字として平仮名とした。「經」はフ。「石見之海乃」は「石見の海の」と訓む。「之」も「乃」もノ。「言佐敝久」は「言(こと)さへく」と訓む。「言さへく」は言葉が通じない意で、カラ(韓・唐などの外国)にかかる枕詞。日本国語大辞典が「外国人のことばがわかりにくく、やかましく聞こえるところから、よくしゃべる意」としているがこれは誤り。「さへく」の「さへ」は「障る」「障ふ」と同根の言葉で、「さわく」や「さへづる」と同語とするのはあたらない。ここはカラと同音の「辛の埼」に冠する枕詞として用いたもの。

 2句「辛乃埼有  伊久里尓曽」(から)の崎なる 海石(いくり)にそ」と訓む。「辛乃埼有」は「辛(から)の埼(さき)なる」と訓む。「辛の埼」については諸説あるが何れとも定め難い。主な説を挙げておくと、①島根県邇摩郡仁摩町の海上の韓島の海浜、②江津市大崎鼻、③浜田市国分町唐鐘浦など。「有」は存在を示す助動詞「なり」の連体形「なる」を表わすのに用いたもの。「伊久里尓曽」は「いくりにそ」と訓む。「いくり」は「海中にある岩。暗礁」の意。「い」は接頭語で、「くり」は海中に隠れている岩をいうのではないかとされている。「尓」は二。「曽」はソ。

 3句「深海松生流 荒礒尓曽」深海松(ふかみる)生ふる 荒礒にそ」と訓む。「深海松生流」は「深海松(ふかみる)生(お)ふる」と訓む。「深海松」は海中の深いところに生えているミル。ミルは、海藻の一種で、形は、松葉を寄せ集めたようで房々しており、色は鮮やかな緑色。ミルメともいう。「生流」は「生(お)ふる」と訓む。「流」はル。「おふ」は「伸びる。成長する」の意。「荒礒尓曽」は「荒礒(ありそ)にそ」と訓む。「尓曽」は二ソ。

 4句「玉藻者生流 玉藻成」「玉藻は生ふる 玉藻なす」と訓む。「玉藻者生流」は「玉藻(たまも)は生(お)ふる」と訓む。「玉藻」も既出。「者」はハ。「生流」は既出。次の「玉藻成」、「深海松乃」を引き出す役割をも果たしている。
「玉藻成」は「玉藻(たまも)なす」と訓む。「玉藻(たまも)は生(お)ふる」を承けての表現。ナスは、「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意で、連用修飾、または連体修飾に用いられる接尾語。

 
5句「靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰」「靡き寝し子を 深海松(ふかみる)の 深めて()へど」と訓む。「靡寐之兒乎」は「靡(なび)き寐(ね)し兒(こ)を」と訓む。「靡」は「靡(なび)き」。「寐」は「寐(ね)」。「靡、寐」は、人麻呂の「阿騎野歌」と称される歌群の中の四十六番歌に既出。「之」はシ。「兒」は、象形文字で幼児の髪形を加えた形を表わし、もともとは嬰児の意だが、ここでの「兒(こ)」は、男から愛する女性をさしていう語として使われている。「乎」はヲ。「玉藻(たまも)なす 靡き寐し兒を」は「玉藻のように 靡き臥し共寝をした妻を」の意である。「深海松乃」は「深海松(ふかみる)の」と訓む。「深海松(ふかみる)生(お)ふる」を承けての表現だが、「ふかみるの」で、「深(ふか)め」にかかる枕詞である。同音「ふか」を利用したもので、他には「みる」と同音の「見る」にかかる例もある。ここでは「深海松のように深く」と比喩的な意味をも持っているようにも思われる。「深目手思騰」は「深(ふか)めて思(おも)へど」と訓む。「深目」は「深(ふか)め」と訓む。「目」はメ。「ふかむ」は、「深くする。思いを深くする。心深く思う」の意。「手」はテ。「思」は「思へ」と訓む。「騰」はド。「深海松(ふかみる)の 深めて思へど」は「深海松のように深く 妻への思いを深くするけれど」の意となるが、「目手=メテ」の表記でもって、妻の具体的な姿を思い浮かべての思いであることを示しているものと考えられる。

 
6句「左宿夜者 幾毛不有」「さ寝し夜は 幾だもあらず」と訓む。「左宿夜者」は「さ宿(ね)し夜(よ)は」と訓む。「左」はサ。名詞・動詞・形容詞の上に付いて、語調をととのえる働きをするもので、実質的な意味はない。「宿」は「寐」と同じで、「宿(ね)」と訓み、下に過去の助動詞キの連体形シを補読する。「夜」はヨで、「日没から日の出までの間」をいう。「さ宿し夜」は、「妻と共寝をした夜」の意。「者」はハ。この句は、旧訓にサヌルヨハと訓んでいたが、鹿持雅澄『萬葉集古義』にサネシヨハと改訓された。サネシヨハと訓むのは、「シ」を読み添えることになるが、「寐之」の表記があることから、「之」を表記しなくても訓み誤ることはないと考えて無表記としたもので、無表記とすることにより、過去のことではあるが現前のように想起している感じを出している。人麻呂作歌には、「シ」(過去)の用例が52例あるが、その大部分の45例は、之・師・斯などの仮名で書かれているが、7例は無表記である。「幾毛不有」は「幾(いく)だも有(あ)らず」と訓む。「幾」はダを補読して「幾(いく)だ」と訓む。「幾(いく)ら」と訓むこともできるが、「ここだ」と「ここら」の例も前者が古く、後者は萬葉集にはないことから、ここも古い「幾(いく)だ」の訓みを採る。モを伴って打消しの表現にかかる。日本国語大辞典の「いくだ」の【語誌】は次のように述べている。
 「いく」を基とする語に「いくだ」「いくら」「いくばく」等が、接尾語「だ」の付く語には「こきだ」「ここだ」等があり、これらの派生関係は子音交替等の観点から説明がつく。語としては数量の多いことを表わすが、否定の形で「あまり多くない」「いくらもない」意になる。

 「毛」はモ。「不有」は「有(あ)らず」と訓む。

 
7句「延都多乃 別之来者 肝向」()ふ蔦の 別れし来れば 肝向かふ」と訓む。「延都多乃」は「延(は)ふつたの」と訓む。「延」は「延(は)ふ」。「都多」はツタ。植物の「蔦(つた)」を表わす。「はふつたの」は、蔦(つた)のつるが幾筋にも分かれて延びていくところから、「別る」「己(おの)が向き向き」などにかかる比喩の枕詞。ここは「別れ」にかかる。「別之来者」は「別れし来れば」と訓む。「別」は「別れ」。「わかる」は「離れ去る」の意。「之」はシ。「来」は「来(く)れ」。「者」はバ。「肝向」は「肝(きも)向(むか)ふ」と訓む。「肝」は、広く内臓の総称で、「はらわた。五臓六腑」の意。「向」は「向(むか)ふ」。「むかふ」は「相対する」意。人の腹中には五蔵が群がり向き合っているところから「むらぎもの」とも「きもむかふ」とも言われ、五蔵は心の宿るところ考えられたのでと、共に「こころ」に冠する枕詞となった。「きもむかふ」は、古事記の歌謡にも「岐毛牟加布(きもむかふ) 許許呂袁陀邇迦(こころをだにか)」として例がある。

 
8句「心乎痛 念乍  顧為騰」「心を痛み 念(おも)ひつつ 顧(かへりみ)為(す)れど」と訓む。「心乎痛」は「心を痛み」と訓む。「心」は、人体で心の宿ると考えられたところで、「心臓。胸のあたり。胸さき」の意。「乎」はヲ。「痛」は「痛(いた)み」。「いたむ」は「からだに苦しみを感じる」意で、ヲによって痛む箇所を示す用法を持つ。「念乍」は「念(おも)ひつつ」と訓む。「念」は「念(おも)ひ」。「乍」はツツ。「顧為騰」は「顧(かへりみ)為(す)れど」と訓む。「顧」は「かへりみ」と訓み、「後方を振り返ってみること」の意の名詞。「為」は「為(す)れ」。「騰」はド。

 
9句「大舟之 渡乃山之」「大舟の 渡りの山の」と訓む。「大舟之」は「大舟(おほふね)の」と訓む。「大舟」は「おほふね」で「大船」と同じく「大きな船」の意。「之」はノ。「おほふねの」は枕詞で「ゆた」「ゆくらゆくら」「頼む」「渡り」などにかかる。ここは次の「渡」にかかる。「渡乃山之」は「渡りの山の」と訓む。「渡の山」は、江津市渡津町付近の山かと思われるが、江津市を流れる江の川河口の渡し場付近の山とも考えられる。「之」はノ。

 
10句「黄葉乃 散之乱尓」「もみち葉の 散りの(みだ)りに」と訓む。「黄葉乃」は「黄葉(もみちば)の」と訓む。既出例では「もみち」と訓じたが、ここは「もみちば」と訓む。木の葉の色づくのを「もみつ」と言い、色づいた葉を「もみちば」または「もみち」と言った。後世は「紅葉」の字を充てるが、万葉集ではほとんど「黄葉」の字が用いられている。「散之乱尓」は「散りの乱(まが)ひに」と訓む。「散」は「散(ち)り」と訓み「散ること」。「之」はノ。「乱」は「乱(まが)ひ」。「まがふ」は、花や黄葉などの入り乱れ、まじりあって見分け難い状態を言う。「尓」はニ。この句は、『元暦校本』にチリシミダレニと訓んでいたのを『紀州本』の朱訓、『細井本』などにチリノマカヒニとしたもの。「乱」字をミダレではなく、マカヒとした根拠として、「烏梅能波奈 知利麻我比多流」(838)、「毛美知葉能(もみちばの) 知里能麻河比波(ちりのまがひは)」(3700)などの仮名書き例がある。

 
11句「妹袖 清尓毛不見」「妹が袖 清(さや)にも見えず」と訓む。「妹袖」は「妹(いも)が袖(そで)」と訓む。「妹」は別れてきた妻をさし、連体修飾語を作る格助詞「が」を補読して「袖」にかかる。132番歌の「我(わ)が振(ふ)る袖(そで)を」の所で述べたように、万葉集の「袖振り」は、別離の場合にも、愛の表現にも、舞踊の型としても見られる。ここの「妹(いも)が袖(そで)」は、別れを惜しんで、妻が振る袖のことをいう。「清尓毛不見」は「清(さや)にも見(み)えず」と訓む。「清尓」は133番歌に既出。副詞「さや」は、多く二を伴って、「あざやかなさま、はっきりしているさま」を表わす語。「毛」はモ。「不見」は「見(み)えず」と訓む。

 
12句「嬬隠有  屋上乃山乃 自雲間」妻隠(つまごも)る 屋上(やかみ)の山の 雲間より」と訓む。「嬬隠有」は「嬬(つま)隠(ごも)る」と訓む。「嬬」は、「儒」に対して女巫をいう語であったが、万葉集では妻の意で多く用いられている。礼記に「天子の妃を后、諸侯の妃を夫人、大夫には孺人という」とあることから「孺」と同声の「嬬」を用いたものと思われる。「隠」は「隠(こも)る」であるが、ここは、「嬬(つま)隠(ごも)る」と濁音に訓む。「つまごもる」は、日本書紀の歌謡にも使われている枕詞で、その表記「逗摩御慕屢(つまごもる)」に従って濁音に訓む。「嬬隠」だけでも「つまごもる」と訓めるが「嬬隠有」とわざわざ「有」の字を表記している。字数を合わせるためか、何か意味があるのか、その理由はわからない。枕詞「つまごもる」は、①地名「小佐保(おさほ)」にかかる。かかりかた未詳。②物忌みなどのためにつまのこもる屋の意で「屋(や)」と同音を語頭に持つ地名「屋上の山」「矢野の神山」にかかる。ここは②の例。「屋上乃山乃」は「屋上(やかみ)の山(やま)の」と訓む。この句、訓みには問題ないが、「屋上の山」と異伝の「室上山」を同じ山とする説と別の山と見る説とで見解が別れている。なお、[一云]の異伝は本来「屋上乃山」の下に記入されるべきで「屋上乃」の次に入れられているのは間違い。澤瀉『萬葉集注釋』は、「屋上の山」を日本地誌提要のいう「高仙山又屋上山ト云那賀郡浅利村ヨリ十三町五間」であるとした上で、旧参謀本部の地図に「室神山或小富士」として高仙山が記入されていることを指摘して、異伝は屋上山と同じ山を室上山とも記したのを、萬葉集の編輯者はムロカミと訓み別の山と理解したのではなかろうかと推測している。これに対して、稲岡『萬葉集全注』は、澤瀉説を紹介した後で、澤瀉は、前の「和多豆」と「柔田津」も単なる表記の差違と見ているが、これは[一云]という異伝全体にかかわる問題として捉えねばならない側面を持つとして、柔田津(ニキタツ)と和多豆(ワタヅ)が異なるように、屋上(ヤカミ)と室上(ムロカミ)も異なると考えられると説いている。澤瀉は「室」の字はまたヤとも訓みうる字であるとするが、稲岡が指摘するように、確かに「石室」をイハヤと訓む例はあるが、これは石造りのむろを意味する熟字に和語のイハヤを宛てたもので、人麻呂歌集に「新室」(2351・2352)とあるのはニヒムロであってニヒヤではないことや、また萬葉集、古事記に「室」一字でヤに宛てた例を見ないことからして、「屋」「室」の両字は別義と見た方が良いと思う。「一云 室上山] は[一に云ふ 室上山(むろかみやま)]と訓む。島根県江津市の室神山(246メートル)、通称、浅利富士と呼ばれる山のことかと思われる。「嬬(つま)隠(ごも)る」との関係は、夫婦のこもる新室の意でムロに冠したものと解することができる。一方「屋上の山」は、江津市八神の地の山を言ったものと考えられる。「自雲間」は「雲間(くもま)より」と訓む。「自」はヨり。「自」の左下に小文字で「一」をつけ、「雲間」の左下に小文字で「二」をつけて、「雲間より」と訓む。「雲間」は「雲の絶え間.雲の切れ目」をいう。

 
13句「渡相月乃 雖惜」「渡らふ月の 惜しけども」と訓む。「渡相月乃」は「渡(わた)らふ月(つき)の」と訓む。「渡相」は、「渡(わた)らふ」と訓む(この形は、36番歌「散相」・88番歌「霧相」として既出)。反復・継続の助動詞フは、四段活用動詞アフ(合ふ)から生まれたもので、同じくアフと訓む「相」の字をこれに宛てたものである。「渡らふ」は、月が渡ってゆくことの時間的継続をあらわしている。「雖惜」は「惜(を)しけども」と訓む。この句は、旧訓にヲシメトモとあったのを賀茂真淵『萬葉考』がヲシケレドと改め、更に加藤千蔭『萬葉集略解』がヲシケドモと改めた。「惜」は、「惜(を)しけ」と訓む。上代においては、形容詞の未然形と已然形に「け」(ク活用)「しけ」(シク活用)の形があったことが知られている。「雖」は「いえども」。①仮定。たとえ…であっても。②既定。…であるけれども。③譲歩。…ではございますが。と、三つの用法がある。ここは②の意で使われている。

 
14句「隠比来者 天傳 入日刺奴礼」「隠(かく)ろひ来れば 天伝(あまつた)ふ 入日さしぬれ」と訓む。「隠比来者」は「隠(かく)らひ来(く)れば」と訓む。「隠比」は、「かくらひ」と訓む。助動詞「ふ」は「あふ」で、これが動詞連用形の後に加わって成立したものであり、ここも「かくる」の連用形「かくり」に「あふ」が付いた「かくりあふ」がもとの姿で、動詞語尾の母音の変形によって、「りあ」が「ら」になって「かくらふ」となったもの。「来者」は「来れバ」。「天傳」は「天(あま)傳(つた)ふ」と訓む。「あまつたふ」は、天空を伝い渡る意から「日、入日」にかかる枕詞。「あまづたふ」と濁音に訓む注釈書が多いが、後世に濁音となったもので、ここは、枕詞「天傳」の最も古い例として、清音に訓むこととする。「入日刺奴礼」は「入日(いりひ)刺(さ)しぬれ」と訓む。「入日」は、「夕方、西の方に沈もうとする太陽。夕日。落日。また、落日の光」をいう。「刺」は「刺(さ)し」と訓む。「さす」には主に「射す、差す」が使われ、「刺す」は他動詞に使われるものであるが、同語源の言葉である。「奴礼」はヌレ。

 
15句「大夫跡 念有吾毛」「大夫と 念(おも)へる(あれ)も」と訓む。「大夫跡」は「大夫(ますらを)と」と訓む。「大夫」は既出で、「ますらを」と訓み、「立派な男子。強く勇ましい男子」を意味するが、宮廷人であることを誇る意識を背景に使われることが多かったことから、官位の呼称である「大夫」が用いられるようになったものと考えられる。「跡」はト。「念有吾毛」は「念(おも)へる吾(われ)も」と訓む。「念有」は、「念(おも)へる」。「吾」は「われ」で作者の人麻呂。「毛」はモ。

 
結句「敷妙乃 衣袖者 通而沾奴」「敷布(しきたへ)の 衣の袖は 通りて濡れぬ」と訓む。「敷妙乃」は「敷妙(しきたへ)の」と訓む。「しきたへ」は「敷物とする栲(たへ)」の意。「栲」は梶(かじ)の木などの繊維で織った布、純白で光沢があることから「白栲」と称され、「白妙」とも表記(28番歌)された。枕詞「しきたへの」の用法を整理しておくと、① 敷物とする栲(たえ)、すなわち寝具の意となるところから、寝具として使われる「床」「枕」「手枕」などにかかる。② 夜の衣や袖なども、下に敷いて寝るところから、「衣」「袖」「袂」「黒髪」などにかかる。「黒髪敷きて」にかかる場合は、同音の繰り返しによるともいう。③ 「家」にかかる。夜床のある家の意からか。一説に、寝(い)と同音であるところから。④ 袖や床と同音を語頭にもつ地名「袖師の浜」「鳥籠(とこ)の山」「とこの海」などにかかる。ここは②の例で次の「衣袖」にかかる。「衣袖者」は「衣(ころも)の袖(そで)は」と訓む。「衣袖」は、間に格助詞「の」を補読して「衣(ころも)の袖(そで)」と訓む。「者」はハ。「通而沾奴」は「通(とほ)りて沾(ぬ)れぬ」と訓む。「通」は「通(とほ)り」。ここの「とほる」は「物の表から裏までしみこむ。」意。「而」は。「沾」は「沾(ぬ)れ」。「ぬる」は、「物の表面に雨、露、涙などの水がたっぷり付く」ことをいう。「奴」はヌ。「衣の袖は涙のために濡れとおった」の意。

 以上、「石見相聞歌」の長歌の二首目である135番歌を訓み終えたが、一首目の131番歌(第一長歌)の「置きてし来れば」から、本歌(第二長歌)では「別れし来れば」と詠われていることに象徴的に現れているように、本歌は決定的な別離の意識に貫かれている。そのことについて、神野志隆光「石見相聞歌」(『万葉集を学ぶ』第二集)が、本歌の枕詞に注目して次のように論を展開している。
 「直接に「別れ」ということの重みは大きい。それは冒頭の叙述を比べてなおさら明らかになる。第一長歌の「石見の海 角の浦廻を」に対して第二長歌は「つのさはふ 石見の海の 言さへく 韓の崎なる」とはじまる。同じく海の叙述だが、後者は明らかに意識的に枕詞を冠して歌いだす。「角障経」という表記、それは枕詞「つのさはふ」に一般的ではある。しかしここでは、慣用的というにとどまらずあえて有意味的に生かそうとしているのではなかろうか。すなわち妹の里「角」を「障ふ」 ー 海は妹の里と「我」とをへだてるものとしていまやある。「言さへく」とは「言」を「さへく」 ー 「韓の崎」はもはや「妹」との間に何も通わしようのない地である言を印象せしめる。「つのさはふ 石見の海の 言さへく 韓の崎なる」と、まさしく隔絶のイメージをもってはじめられたものと、「別れし来れば」と、まことに相応じている」。

【巻2(136)。】
題詞
歴史解説
 反し歌二首。「石見相聞歌」の長歌二首目(135番歌)の反歌二首の一首目である。
原文  青駒之 足掻乎速  雲居曽  妹之當乎  過而来計類 [一云 當者隠来計留]
和訳  青駒(あをこま)が 足掻(あがき)を速み 雲居(くもゐ)にそ 妹があたりを 過ぎて来にける[一云 あたりは隠り来にける]
現代文  「(わたしの乗った)青駒の足が早くて、もうはるか遠くに妻の家のあたりを後にして来たことだ」。
文意解説  発句「青駒之 足掻乎速  雲居曽」青駒(あをこま)が 足掻(あがき)を速み 雲居にそ」と訓む。「青駒之」は「青駒(あをこま)が」と訓む。「青駒」は「青馬」に同じで馬のこと。古代においてアヲは、黒と白との中間的性格を持つ範囲の広い色名で、灰色をもその範囲に含めていたので、青毛と白毛の雑じったものを青馬と言ったようである。後には「白馬」と書いてアヲウマと言われるようにもなった。「駒」は、説文解字に「馬の二歳なるを駒と曰ふ」とある。ただし、和語の「こま」の「こ」は愛称としての接頭語であり、必ずしも子馬のことを意味するものではない。古今集以後になると「馬(うま)」の語はほとんど用いられず、「こま」が歌語となった。「之」はノと訓むのがほぼ通説となっているがガと訓む説もある。ノとガの相違については、山田孝雄の『奈良朝文法史』に、ノは「下なる語に意義の主点を帰着せしめる」のに対して、ガは「連体用法に立ちながらその受ける語に意義上の主点をおく」とある。ここは「青駒が」と訓んで「青駒」に重点を置くことにより、「自分の感情をあとに残しつつ駒の早さを歎く意味が強められる」とする、稲岡『萬葉集全注』の説に賛同して、「青駒が」の訓みを採った。「足掻乎速」は「足掻(あが)きを速(はや)み」と訓む。3540番歌に「安可故麻我(アカコマガ) 安我伎乎波夜美(アガキヲハヤミ)」の仮名書き例がある。「足掻」は「足掻(あが)き」と訓み、動詞「あがく」の連用形の名詞化したもので、「馬、牛などが足で地面を蹴ること。転じて、馬の歩み」の意に用いられる。「乎」はヲ。「速」は「速(はや)」、それに接尾語のミを補読して、既出の[体言+を+形容詞の語幹+接尾語「み」]の形で、原因・理由(~ガ~ナノデ)を表わす。「足掻(あが)きを速み」は「歩みを速めて」。「雲居曽」は「雲居(くもゐ)にそ」と訓む。「雲居」の「居」は「すわる」の意で、「くもゐ」は「雲のあるところ」で、はるかに離れた場所をいう。場所を示す二を読み添えて「雲居(くもゐ)に」と訓む。「曽」はソ。雲居(くもい)は面白い表現。「雲が浮かんでいるあたり」といった意味なのだろう。山路を往来することの多かった古代の人々にとって山頂や峠から里を眺めるとき浮かぶ雲の姿はきっと日常的な風景だったに相違ない。「馬が速度を速めてここまでやってきたが」という心情である。

 結句「妹之當乎  過而来計類」「妹があたりを 過ぎて来にける」と訓む。「妹之當乎」は「妹(いも)があたりを」と訓む。「妹」は残して来た妻。ここの「之」もガと訓む。「當」は「当」の旧字で、ここは「辺り」の意の「あたり」を表わす。「乎」はヲ。「過而来計類」は「過ぎて来(き)にける」と訓む。「過」は「過(す)ぎ」。「すぐ」は、通過の意味だけではなく、去る、後にするの意があり、ここは後者の意である。「而」はテ。「来」は二を読み添えて「来(き)に」と訓む。「計類」はケル。前句のソを承けてケルと結んだもの。[一云 當者隠来計留] [一に云ふ あたりは隠(かく)り来(き)にける]と訓む。「當乎」が「當者」で、「過而来計類」が「隠来計留」であったとするものである。「者」はハ。「隠」は「隠(かく)り」。「かくる」は、萬葉後期には下二段活用の例があるが、前期はまだ四段活用が多いのでここも四段活用に訓む。「留」はル。異伝の「隠(かく)り来(き)にける」は、135番歌の「隠(かく)らひ来(く)れば」を承けた表現であり、まずはこのように詠まれたものであろう。しかし、推敲の結果、本文の「妹があたりを 過ぎて来にける」と、行為を叙べるだけに止めた単純な表現とすることにより、かえって感動が深くなったと思う。

 本歌は132番歌から続く柿本人麻呂の一連の歌。「自分が袖を振っているのを彼女は見ているかも知れない」という心理的にまだ近かった高角山から遠ざかり、その彼女の里も「もう雲居のあたりになってしまったんだなあ」という惜別の情のこもった歌である。異伝は「里はもう隠れて見えなくなってしまったなあ」の意だが、むろん歌意は本伝と変わるわけではない。

【巻2(137)。】
題詞
歴史解説
 「石見相聞歌」の第二長歌(135番歌)の反歌二首の二首目である。
原文  秋山尓  落黄葉  須臾者  勿散乱曽  妹之<當>将見 [一云 知里勿乱曽]
和訳  秋山に 落つる黄葉(もみちば) (しま)しくは な散り乱ひそ[一云 散りな乱ひそ] 妹があたり見む
現代文  「秋山に散る黄葉よ、妻のいる里を眺めたいのでしばらく散り乱れないでおくれ」。
文意解説  な散り乱ひそ」の「な~そ」は高校教科書でもなじみのある、ご存じ「~しないでおくれ」である。それより内容の方の「乱(まが)ひそ」だが、838番歌「梅の花散り乱ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて」に見られるように「散り乱れる」である。

 発句「秋山尓  落黄葉  須臾者」「秋山に 落つる黄葉(もみちば) しましくは」と訓む。「秋山尓」は「秋山(あきやま)に」と訓む。「秋山」は「秋季の山」。「秋山」を詠んだ歌は万葉集に十七首あるが、本歌が四首目。「尓」はニ。「落黄葉」は「落(お)つる黄葉(もみちば)」と訓む。この句は、旧訓にオツルモミチハとあったが、鹿持雅澄『萬葉集古義』に「花・黄葉の類の散るをオツルと云は古言にあらざるをや」と言って、「落」の字の下に「相」もしくは「合」の字が脱落したものと見て、チラフモミチバと改めた。澤瀉『萬葉集注釋』では、「落」にはチル・フル・オツの三通りの訓みがあり、ここはオツとは訓めずチルと訓むべきであることを縷々論じ、また継続の助動詞「ふ」の読み添えは十分あり得るとして、原文のままチラフモミチバと訓む説をとなえている。しかし、継続の助動詞「ふ」は、135番歌でも「渡相(わたらふ)」「隠比(かくらひ)」のように表記されており、ここだけ読み添えというのは考えにくい。脱字ということを認めないということであれば、オツルモミチバと訓むのが妥当であろう。「落」は「落(お)つる」。「黄葉」は「もみちば」と訓み、色づいた葉をいう。「須臾者」は「しましくは」と訓む。「須臾」は既出、「暫くの間」を意味する仏教語で、その意から「しましく」に充てられたもの。「しましく」は「しばし」の古形の「しまし」に副詞語尾「く」が付いたもの。「者」はハ。「しましくは」は「しばし」。

 結句「勿散乱曽  妹之<當>将見」「な散り(みだ)りそ 妹があたり見む」と訓む。「勿散乱曽」は「な散(ち)り乱(まが)ひそ」と訓む。135番歌の「散(ち)りの乱(まが)ひに」を承けたもの。「散乱」は「散(ち)り乱(まが)ひ」と訓む。「ちりまがふ」は、「ちる」と「まがふ」の複合動詞で、「散りみだれる。しきりに入りみだれて散る。また、散りみだれて見あやまる」の意。「勿」はナ。下にソを伴って、「な … そ」の形で用いられる。ソは終助詞で、これも禁止を表わす。禁止のナには「勿」の他に同じく漢文の助字で禁止を表わす「莫」の字も用いられたが、「莫」の字が常に「莫~」の形で、禁ずべき動作を表す動詞の上に書かれたのに対して、「勿」は禁ずべき動作を表す動詞の上にも下にも書かれ、その順序は日本語の語順によっていると判断される。従って「勿散」を漢文式の用字と見て、「勿」の左下に返り点のレ点を付けて「散りな」と訓むのは間違いであり、「勿」から先ず訓むべきだと思う。「妹之當将見」は「妹(いも)があたり見(み)む」と訓む。「妹」は残して来た妻。「之」はガ。「當」は「当」の旧字で、ここは「辺り」の意の「あたり」を表わすための借訓字。「将見」は「見(み)む」と訓む。[一云 知里勿乱曽] は [一に云ふ ちりな乱(まが)ひそ]と訓む。「な散(ち)り乱(まが)ひそ」の異伝。「散りな乱ひそ」と訓む説では、この異伝は、単なる表記の違いに過ぎないということになる。「な散り乱ひそ」と訓む説では、チリマガフが禁止される内容となり、異伝の[ちりな乱(まが)ひそ]では、チルこと自体というより、マガフことが禁止の内容となるような感を与える。実質的な意味には変わりがないと言えるだろうが、印象は異伝より本文の方が強いように思う。

【巻2(138)。】
題詞
歴史解説
 長歌。「或ル本ノ歌一首、マタ短歌」。138番歌は「石見相聞歌」の第1長歌(131番歌)の異伝である。138~9番歌が「石見相聞歌」の原形ということになる。138番歌は43句であったが、推敲の末、4句を削って、131番歌を135番歌と同じ39句にして、句数を合わせて連作としたものと考えられる。
原文  石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃  荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山
和訳  石見の() の浦を無(な)み 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 勇魚(いさな)取り 海辺を指して 柔田津(にきたづ)の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 波こそ来寄せ 夕されば 風こそ来寄せ(来(き)依(よ)れ) 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 靡き()が寝し 敷布(しきたへ)の 妹が手本(たもと)を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ はしきやし ()が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山
現代文  「石見の海には 舟を泊める浦がなくて よい浦がないと 人は見るだろうが よい潟がないと 人は見るだろうが たとえ 浦はなくとも たとえ 潟はなくとも 鯨のとれる海 その海辺をめざして 柔田津の 荒磯のほとり 青々と生えている 玉藻や沖の藻に  夜が明けると 浪が寄せてくる 夕方になると風が吹き寄る その浪と共に あちらこちらへ寄る 玉藻のように 靡いて寝た 馴染んだ 妻のたもとを 露や霜が置くように、置いて来たので この道の 多くの曲がり角毎に いくたびも 振り返ってみるけれど いよいよ遠く 里を離れて来た いよいよ高く 山も越えて来た いとしい わが妻が 夏草のように 思いしおれて 嘆いているであろ 角の里を見たい 靡き伏せ、この山よ!」。
文意解説  長歌。
 発句「石見之海 津乃浦乎無美」「石見の() 津の浦を無(な)みと訓む。「石見之海」は「石見の海」と訓む。「之」はノ。「津乃浦乎無美」は「津の浦を無(な)み」と訓む。「津」は「船の着く所」をいう。「乃」はノ。「浦」は「海、湖などの湾曲して、陸地に入り込んだ所」をいう。「乎」はヲ、「無」はナ、「美」はミ。「を無(な)み」は、「~がないので」の意。「津の浦を無(な)み」は、「船を泊めるような浦がないので」の意となる。

 2句「浦無跡 人社見良米」「浦なしと 人こそ見(み)らめ」と訓む。「浦無跡」は「浦無(な)しと」と訓む。「跡」はト。「人社見良米」は「人(ひと)こそ見(み)らめ」と訓む。ラメの表記以外は131番歌に同じ。「良」はラ。「米」はメ。これを131番歌では「良目」に改めている。

 3句「滷無跡 人社見良目」は「潟なしと 人こそ見らめ」と訓む。「滷無跡」は「滷(かた)無(な)しと」と訓む。「人社見良目」は「人(ひと)こそ見(み)らめ」と訓む。「目」はメ。先のラメを常用音仮名で統一した表記としたので、ここは変字法で音訓交用表記としたもの。

 4句「吉咲八師 浦者雖無」「よしゑやし 浦はなくとも」と訓む。「吉咲八師」は「よしゑやし」と訓む。「吉」はヨシで、131番歌では「能」を宛てている。「浦者雖無」は「浦は無(な)くとも」と訓む。トモの表記に「雖」を用いているが、131番歌では「無友」の表記に改めている。

 5句「縦恵夜思 潟者雖無」「よしゑやし 潟はなくとも」と訓む。「縦恵夜思」は「よしゑやし」と訓む。131番歌「縦畫屋師」で、「ゑやし」の表記を変えている。「恵夜思」はヱヤシ「潟者雖無」は「潟(かた)は無(な)くとも」と訓む。131番歌「滷者無鞆」で、「かた」の字と「とも」の表記を変えている。138番歌「はしきやし 吾(わ)が嬬(つま)の兒(こ)が 夏草(なつくさ)の 思(おも)ひし萎(な)えて 嘆(なげ)くらむ 角(つの)の里(さと)見(み)む」は、131番歌では「夏草の 念(おも)ひしなえて しのふらむ 妹が門(かど)見む」に相当するところで、共に末句の「靡(なび)け此(こ)の山」に続く。ここの変更の重要な点は、「見む」の対象を「角の里」から「妹が門」に改めているところにある。この変更によって、作者が見たい対象が妻にしぼられて、妻への思いがより強く鮮明に表現される。それに加えて、「妹が門」とすれば、上に「思(おも)ひし萎(な)え」る妻を主語として出す必要はなくなるので「はしきやし 吾(わ)が嬬(つま)の兒(こ)が」を削除できる。この削除により簡潔で力のこもった表現となり、山に靡けと命じるほどのほとばしる情熱に続くにふさわしい表現となったことは間違いないと思われる。

 6句「勇魚取 海邊乎指而」勇魚(いさな)取り 海辺を指して」と訓む。「勇魚取」は「いさ魚(な)取り」と訓む。131番歌と同じだが、「いさ」の表記が異なる。「勇」は「いさむ。いさましい。つよい。たけだけしい」の義を持ち、ここは「鯨」の異名である「いさ」を表わすための借訓字として用いた。しかし、「いさ」は「小さな」と言う意味をも持つので、「いさな」で「小さな魚」ととられかねない。それを避けるために、131番歌では「鯨魚取」としたものと思われる。「海邊乎指而」は「海邊(うみへ)を指して」と訓む。

 7句「柔田津乃  荒礒之上尓」柔田津(にきたづ)の 荒礒の上に」と訓む。「柔田津乃」は「柔田津(にきたつ)の」と訓む。「柔田津」は地名。「熟田津」とは同じニキタツだが違う場所。普通名詞に近い地名で各地に同じ地名があったものと推測される。「にき」は、後世「にぎ」とも言われる語素で、「くわしい、柔らかな、こまかい、穏やかな」などの意をそえる。131番歌ではこの13句を「和多豆乃」と変えており、「和」はニキとも訓めることから、「柔田津」の表記を変えたものと見る説もあるが、「和多豆」は素直にワタヅと訓んで別の地名に変えたものと見る説をとる。「海邊を指して」に続いて「渡る津」に通じるワタヅの地名がよりふさわしいと考えたものかと推察する。有名な「熟田津」と混同されることを避けたということも考えられる。「荒礒之上尓」は「荒礒(ありそ)の上に」と訓む。

 8句「蚊青生 玉藻息都藻」「か青なる 玉藻沖つ藻」と訓む。「蚊青生」は「か青(あを)生(な)る」と訓む。131番歌と同じだがカの表記が異なる。ここでは「蚊」を用いている131番歌では「香」に変更している。「香」の字音は、コウ(カウ)・キョウ(キャウ)で、字訓は、「か・かおり・におい・かんばしい」であることから使われている。カを使用頻度順にみると「鹿、蚊、香、髪、日」である。前の句の「荒礒」から「磯の香り」の連想し「香」に改めたものと考えられる。「玉藻息都藻」は「玉藻(たまも)おき[沖]つ藻(も)」と訓む。ここでは「沖つ藻」のツを「都」で表記しているが、131番歌では「津」に改めている。

 9句「明来者 浪己曽来依」は「明け来れば 波こそ来寄せ」と訓む。「明来者」は「明け来(く)れば」と訓む。「明」は「明け」。「あく」は「夜が終わって朝になる。明るくなる」の意。「来」は「来(く)れ」。クは、動詞の連用形に付いて、ある動作や状態が以前から今までずっと続いていることを表わす。「者」はハ。「浪己曽来依」は「浪(なみ)こそ来(き)依(よ)れ」と訓む。131番歌の「浪社来縁」に表記は異なるが同じ。「己曽」はコソ。「来依」は、「来(き)依(よ)れ」と訓む説と「来(き)依(よ)せ」と訓む説とある。どちらに訓んでも意味に違いはない。ここは「明け来れば」のレ音に呼応する「来(き)依(よ)れ」を採る。

 10句「夕去者 風己曽来依」は「夕されば 風こそ来寄せ(来(き)依(よ)れ)と訓む。「夕去者」は「夕(ゆふ)去(さ)れば」と訓む。「夕」について、日本国語大辞典の語誌の項に次のようにある。
 上代では、一日の明るい時間帯を三区分して、アサ→ヒル→ユフといっている。従って「ゆふ」は明るい間の終わりの部分を指すが、単独で用いられることはほとんどなく、「夕風」「夕霧」「夕日」「夕さる」など、他の語と複合して使われる。
 ここでも複合語の「夕さる」で用いられており、その已然形で「夕(ゆふ)去(さ)れ」と訓む。「夕さる」は、「夕方になる。夕方がくる」の意。「者」はバ。「風己曽来依」は「風(かぜ)こそ来(き)依(よ)れ」と訓む。131番歌では「風社依米」とある。

 11句「浪之共 彼依此依 玉藻成」は「波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす」と訓む。「浪之共」は「浪(なみ)の共(むた)」と訓む。「彼依此依」は「彼依(かよ)り此依(かくよ)る」と訓む。131番歌「彼縁此依」で、「依」の上の字を「縁」に変えているが、訓み同じ。
 
138番歌と131番歌を比較して再掲しておく。
138  蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依
131   香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依

 12句「靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎」「靡き()が寝し 敷布(しきたへ)の 妹が手本(たもと)を」と訓む。「靡吾宿之」は「靡(なび)き吾(わ)が宿(ね)し」と訓む。「靡」は「靡(なび)き」。「なびく」は「風、水などの力により、それに流されるような形になる」ことをいう。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「宿」は「宿(ね)」。「ぬ」は「寝る」の意。「之」はシ。「玉藻(たまも)なす 靡(なび)き吾(わ)が宿(ね)し」で、「玉藻のように 流されるような形になって私が(寄り添って)寝た」という意。「敷妙之」は「敷妙(しきたへ)の」と訓む。135番歌「敷妙乃」でノの表記は違うが既出。ここでは次句の「妹」にかかる枕詞として用いたもの。「妹之手本乎」は「妹(いも)が手本(たもと)を」と訓む。妻との別れを「たもとを 別れ・離るる」または「袖の別れ」といった例は、情愛のこもった表現として萬葉集にも多くの例がある。ここの推敲の過程を再掲すると、
 138番歌 (本歌)   玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎
 131番歌 [一云]   玉藻成 依宿之妹乎 波之伎余思 妹之手本乎
 131番歌(最終稿) 玉藻成 依宿之妹乎
 本歌から[一云]への変更は、この長歌の最も重要な末句のキーワードである「靡」の字をここでは使うことを避けたいと考えたものではないだろうか。そこで「依宿之妹乎」としたのだが、その際にはまだ「妹之手本乎」を「置いて来た」という初案を捨てきれずに、「しきたへの」を「妹」を直接修飾する「はしきよし」に変更してここを対句仕立てにしたが、最終稿では、「妹のたもとを置いて来た」という間接的表現は捨てて、端的に「妹を置いて来た」と言う表現にして対句を切り捨てたものと考えられる。

 13句「露霜乃 置而之来者」「露霜の 置きてし来れば」と訓む。「露霜乃」は「露霜(つゆしも)の」と訓む。「置而之来者」は「置(お)きてし来(く)れば」と訓む。

 14句「此道之 八十隈毎」「この道の 八十隈ごとに」と訓む。「此道之」は「此(こ)の道(みち)の」と訓む。「八十隈毎」は「八十(やそ)隈(くま)毎(ごと)に」と訓む。

 15句「萬段 顧雖為」「万たび かへり見すれど」と訓む。「萬段」は「萬段(よろづたび)」と訓む。「顧雖為」は「顧(かへりみ)為(す)れど」と訓む。131番歌と表記は異なるが同じ。ここでも漢文の助字「雖」(既出)を用いて漢文式表記としているが、131番歌では「顧為騰」と日本語の語順通りの表記に改めている。

 16句「弥遠尓 里放来奴」「いや遠に 里離り来ぬ」と訓む。「弥遠尓」は「弥(いや)遠(とほ)に」と訓む。「里放来奴」は「里(さと)放(さか)り来(き)ぬ」と訓む。「里から遠く離れて来た」の意で、131番歌では「里者放奴」として「里は遠く離れてしまった」という表現に変えている。

 17句「益高尓 山毛超来奴」「いや高に 山も越え来ぬ」と訓む。「益高尓」は「益(いや)高(たか)に」と訓む。「山毛超来奴」は「山(やま)も超(こ)え来(き)ぬ」と訓む。131番歌とは1字のみ異なるが同じ。異なる1字は「こえ」で、「超」から「越」に変えている。

 18句「早敷屋師 吾嬬乃兒我」「はしきやし ()が妻の子が」と訓む。「早敷屋師」は「はしきやし」と訓む。「早」はハ。「敷」はシキ。「屋」はヤ。「師」はシ。「はしきやし」は131番歌[一云]に使われた「はしきよし」に同じで「いとしい。愛すべきである」の意。「吾嬬乃兒我」は「吾(わ)が嬬(つま)の兒(こ)が」と訓む。「吾」は「吾(わ)が」。「嬬」は「妻」の意。「乃」はノ。「兒」は男から愛する女性をさしていう語。「我」はガで「将嘆」の主語。

 19句「夏草乃 思志萎而 将嘆」「夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ」と訓む。「夏草乃」は「夏草の」と訓む。「思志萎而」は「思ひし萎(な)えて」と訓む。131番歌「念思奈要而」と表記は異なるが同じ。「おもひ」を「念」から「思」に変え、「しなへ」を「志萎」(シナへ)から「思奈要」と全て音仮名表記に改めている。「将嘆」は「嘆くらむ」と訓む。「将」は、漢文の助字で「まさに…す」と訓読される再読文字である。萬葉集では、動詞の未然形+ムを表わすのにしばしば用いられている。ここでは、動詞の終止形+ラムを表わすのに用いられており、「将嘆」で「嘆くらむ」と訓む。ラムは次の「角里」にかかる。131番歌でこの句に対応する「志怒布良武(しのふらむ)」に改めている。

 結句「角里将見 靡此山」「角の里見む 靡けこの山」と訓む。「角里将見」は「角(つの)の里見む」と訓む。「角」は地名で現在の島根県江津市都野津町。「角の里」は残して来た妻の住む里である。「将見」は「見む」。131番歌では38句「妹(いも)が門(かど)見む」と改めている。「靡此山」は「靡(なび)け此(こ)の山」と訓む。

【巻2(139)。】
題詞
歴史解説
 「反歌一首」。反し歌。131番長歌から始まる前歌までの異伝を含む諸歌は、柿本人麻呂が石見の妻と別れて都に戻ってくるときのことを詠じている。138番長歌も異伝で、したがって本歌も異伝に属する。第二句の「打歌(うつた)の山」を132番歌の「高角山」と同じと考えれば、以下は全くの同文。後ろ髪を引かれる思いで石見を去る人麿の心情を詠っている。139番歌の左注には「右歌躰雖同句々相替 因此重載」(右の歌は、形式は同じだが、詩句が相違している。それで重複して載録する。)とある。138番歌の反歌であり、本歌が推敲されて、134番歌さらに132番歌になったと考えられる。
原文  石見之海  打歌山乃  木際従  吾振袖乎  妹将見香
和訳  石見の海 打歌(うつた)の山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
 石見の() 竹綱(たかつぬ)山の 木の間より 吾()が振る袖を 妹見つらむか
現代文  「石見の海辺の打歌の山の木々の間から、わたしが振った袖をいとしい妻は見たであろうかなあ」。
文意解説
 発句「石見之海  打歌山乃  木際従」「石見の海 打歌の山の 木の間より」と訓む。「石見之海」は「石見(いはみ)の海」と訓む。長歌(138番歌)の詠い出しをそのまま、反歌の1句としたもの。「打歌山乃」は「打歌(うつた)の山(やま)の」と訓む。この句の「打歌山」は、134番歌・132番歌では「高角山」になっている。旧訓にウツタノヤマとあったのを賀茂真淵『萬葉考』に「打歌(タカ)は假字にて、次に角か津乃などの字落とし事、上の反歌もて知べし」としてタカツノヤマの脱字とした。しかし、日本古典文学全集の頭注に「打の字は頂と同音でタの仮名とはなりえない」と記すように、タカを「打歌」と表記したとは認め難いし、脱字とするのも写本からは想像しにくく、真淵説には賛同しえない。「打歌」の二字は素直に訓めばウツウタであり、その約としてウツタとした旧訓に従うべきであると思う。「木際従」は「木(こ)の際(ま)より」と訓む。「際」は「間」の意で、「木際」で「このま」と訓む。「従」は「より。… から」の意。134番歌で「木間従文(このまゆも)」としたが、132番歌で元に戻している。

 結句「吾振袖乎  妹将見香」()が振る袖を 妹見つらむか」と訓む。「吾振袖乎」は「吾(わ)が振(ふ)る袖(そで)を」と訓む。「吾」は、自称の「わ」でガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「振」は「振(ふ)る」。「袖」は、衣服で、身頃(みごろ)の左右にあって腕をおおう部分をいう。「袖ふる」、「袖吹き反(かへ)す」などとして使われているように万葉集の「袖振り」は、別離の場合にも、愛の表現にも、舞踊の型としても見られるが、ここは別れを惜しんでのこと。この句は、134番歌で「吾袂振乎(わがそでふるを)」としたが、前句と同じく推敲の結果、初案に戻した例(ただし、「わ」の用字は「吾」から「我」に変更)である。「乎」はヲ。「わが袖振るを」に対して「わが振る袖を」の方が、「袖」に焦点がしぼられ、ひきしまるように思われる。「妹将見香」は「妹(いも)見(み)つらむか」と訓む。この句は、134番歌に「妹見監鴨(いもみけむかも)」、132番歌に「妹見都良武香(いもみつらむか)」とある。134番歌・132番歌の訓みについては疑問の余地がないが、本歌の「妹将見香」は漢文式の表記であるため、その訓みについては論議がある。澤瀉『萬葉集注釋』は、「香」の下に「聞」の字が誤脱したものとみて、「将見」を「見けむ」と訓んで「妹将見香聞(いもみけむかも)」とした。それに対し、稲岡『萬葉集全注』は、「将」をラムと訓む例として、「将嘆(なげくらむ)」(138)、「白水郎(あま)跡香将見(とかみらむ)」(252)をあげ、またツの訓み添え例についても人麻呂歌集略体歌に多くの例がある事をあげて、「妹将見香」のままで「妹(いも)見(み)つらむか」と訓めるとした。脱字説は考えにくく、「妹(いも)見(み)つらむか」の表記として「妹将見香」と書いたものと思われる。しかし、「将見」はミケムとも訓めることに思いが至り、134番歌では、「吾袂振乎(わがそでふるを)」を過去の事として、「妹見監鴨(いもみけむかも)」としてみたものと考えられる。しかし132番歌では、やはり、袖を振ったその時点に身を置いて「妹(いも)見(み)つらむか」の現在完了の表現とした方が良いと考え直して、今度は「訓み」に疑問のないように、「将見」の表記を仮名書きに改めて「妹見都良武香(いもみつらむか)」としたものであろう。

【巻2(140)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿が()依羅娘子(よさみのいらつめ)の作歌。「柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子与人麻呂相別歌一首」()。柿本朝臣人麿が()依羅娘子(よさみのいらつめ)が、人麿と相別(わか)るる歌一首。この歌は題詞により別れ際に人麻呂の妻が詠った歌と分かる。本歌は結句二句「いつと知りてか我が恋ひずあらむ」を正確に解さないと歌意の通じにくい。依羅娘子については、「石見相聞歌」で詠われた角の里に残して来た妻と同一人物と見る説と別人物と見る説の二説が相譲らない形で現在に至っている。「○○娘子」の表記からすれば、依羅娘子は、依羅氏出身の娘子か、依羅地方に住む娘子と理解される。そして、依羅氏が山陰地方に住んだ形跡は古代文献の中に求められず、ほとんど河内・摂津・和泉の三国に集中しているし、また依羅という地名も大和に近い河内・摂津か三河国に求められる。以上のことを勘案すると、依羅娘子を「石見相聞歌」の妻と同一人物とするのは無理であるように思われる。阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義』は、依羅娘子を「都にいる人麻呂の妻」として次のように述べる。「依羅娘子は、人麻呂が客死した後、夫の死を悲しむ挽歌二首(224、225)を詠んでいる。河内あるいは、摂津出身の女性と考えられるが、人麻呂が河内あるいは摂津に居住した形跡はないから、人麻呂の妻と伝える万葉集の記録を素直に受け入れるとすれば、在京の娘子と結ばれたに相違なく、依羅娘子は、おそらく宮廷に出仕する宮人の一人であったのだろう。
原文  勿念跡  君者雖言  相時  何時跡知而加  吾不戀有牟
和訳  な念(おも)ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ひずあらむ
現代文  「思い悩まないでと あなたは言うけれど、またお逢いする時が何時と分かっていれば、わたしは(これほどまで)恋しくは思わないでしょうに。(いつお会いできるかと分かっていれば恋い焦がれなくともすみますのに)」。
文意解説  発句の勿念跡  君者雖言  相時「な思ひと 君は言へども 逢はむ時」と訓む。「勿念跡」は「な念(おも)ひと」と訓む。「勿」はナ。禁ずべき動作を表す動詞の上にも下にも書かれ、その順序は日本語の語順によることをその所で述べた。「念」は「念(おも)ひ」。「跡」はト。「な思ひと」は「思い悩むなと」という意味である。反語歌である。この句は、旧訓にオモフナトとあったのを賀茂真淵『萬葉考』がナモヒソトと訓んじ、鹿持雅澄『萬葉集古義』がナオモヒトに改めたもので、語順通り「な」から先に訓むべきであり、また「家念」「妹念」などの場合は「念」をモヒ、モフなどとも訓むが、「念」が単独で用いられている場にオを省く例がないこと、および「な … そ」の「そ」を略する例はあることから、『萬葉集古義』に従って「な念(おも)ひと」と訓む。「なおもひそ」に同じく、「思うな」の意。夫が旅に出ている間、恋しく思い悩んだりするな、の意。「君者雖言」は「君は言へども」と訓む。「君」は、敬愛の意をもって相手をさす代名詞。上代では、女性が男性に対して用いる場合が多い。ここも作者の依羅娘子が夫である人麻呂のことを言ったもの。「者」はハ。「雖言」は「言へども」と訓む。「相時」は「相(あ)はむ時(とき)」と訓む。「相」は「相(あ)は」。それに推量の助動詞ムを読み添えて「時」に続く。この句、契沖『萬葉代匠記』に「アフトキヲトモヨムベシ」とあるが、何時逢えるかも分からないと言う状況であることから考えると旧訓のアハムトキの訓みの方がふさわしい。なお、推量の助動詞ムを読み添える例は、人麻呂歌集に少なからず見られる。
 
 結句何時跡知而加  吾不戀有牟「いつと知りてか 我が恋ひずあらむ」と訓む。「何時跡知而加」は「何時(いつ)と知(し)りてか」と訓む。「何時」は、未来および過去の事柄について、その事のある、または、あった時点に関する疑問を表わす不定称代名詞。「跡」はト。「知」は「知り」。「而」はテ。「加」はカ。「てか」は、「て」によって結ばれた文全体に対する疑問を表わすのに用いられる。ただし、ここの「か」は反語になって、下へ係っていると見られる。「吾不戀有牟」は「吾(わ)が戀(こ)ひざらむ」と訓む。「吾」は、自称で「わ」と訓み(「あ」と訓む説もある)、下にガを補読する。「不戀」は「戀(こ)ひず」。「有牟」の「牟」はムで、意志・意向を示す。「有牟」は「有らむ」。「不戀有牟」は「戀(こ)ひざらむ」と訓む。「何時と知って恋せずにいられようか、逢える時が分からないから恋せずにはいられない」の意となる。

 挽歌(かなしみうた) 後の崗本の宮に天の下知ろしめしし天皇(すめらみこと)(みよ)

【巻2(141)。】
題詞
歴史解説
 有間皇子作の作歌。「挽歌 / 後岡本宮御宇天皇代 [天豐財重日足姫天皇 譲位後即後岡本宮] / 有間皇子自傷結松枝歌二首(有間皇子の自傷(かなし)みまして松が枝を結びたまへる御歌二首)」。一行目の「挽歌」は234番歌までかかり、二行目の「後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇のみ代 [天豐財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめの)天皇(すめらみこと) 譲位の後に、後の岡本の宮に即(つ)きたまふ]」は、146番歌までかかる。そして三行目「有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」は、141・142番歌の二首にかかることは言うまでもない。141番歌に詠われている岩代は、紀の温泉(現在の白浜温泉)の手前約20キロの所で、有間皇子は、斉明3年(657)9月に療養の為に出かけた時と同4年11月捕えられて護送された時と、2回、紀の温泉に行っているから、その往復で4回岩代を通っている。141・142番歌に関しては、皇子の実作とする説と、第三者の仮託とする説とあり、皇子の作とする説にも、皇子が捕えられて紀の温泉に護送されて行く途中で詠んだとする説と斉明3年の紀の温泉への旅の途中詠んだと解する説とがある。『萬葉集』編纂者の考えを素直に受け取るとすれば、捕えられて護送される時の歌ということになろう。柿本人麻呂歌が終わって、一転して「挽歌」と明記された歌に入る。その最初の二歌(この歌と次歌)が有間皇子(ありまのみこ)の作。皇子はこの直後に謀反のかどで処刑される。自傷歌として有名な二首である。
原文  磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
和訳  磐白(いはしろ)の 浜松が枝を引き結び ま幸くあらば また帰り見む
現代文  「岩代の 浜の松の枝を 引き結んで(無事を祈るが) 幸いに無事であったなら また立ち帰ってこの松を見よう」。 
文意解説  発句「磐白乃 濱松之枝乎 引結」「磐白(いはしろ)の 浜松が枝を引き結び」と訓む。「磐白乃」は「磐白(いはしろ)の」と訓む。「磐白」は「磐代」と同じ地名で、現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。白浜温泉に近く、当時は熊野にも通じる交通の要所で、海を見晴るかす位置にあり、旅人が木の枝や草を結んで旅の安全を祈った場所。「乃」はノ。「濱松之枝乎」は「濱松が枝(え)を」と訓む。「濱松」は「浜辺にはえた松、浜辺の松」の意。「之」はガ。ガはノに比べて上下の構成関係が狭くて強い。「枝」はエと訓む。「えだ」に同じ。「乎」はヲ。「引結」は「引き結び」と訓む。「引結」は「引(ひ)き結(むす)び」。枝と枝とを引き寄せて結んで(あるいは一本の枝に結び目を作ることも考えられるが)、無事を祈ることを意味する。「結ぶ」は、無事を祈って霊魂を草や木に結び込める呪術的行為であった。

 結句「真幸有者 亦還見武」「ま幸くあらば また帰り見む」と訓む。「真幸有者」は「真(ま)幸(さき)く有(あ)らば」と訓む。「真(ま)」は接頭語で「完全である、真実である、すぐれている」などの意を加え、また、ほめことばとしても用いる。「幸」は「幸(さき)く」で「さいわいに。無事に。変わりなく。つつがなく」などの意。「有者」は「有(あ)らば」と訓む。「者」はバ。「真幸(まさき)くあらば」は「命があれば」の意。「亦還見武」は「亦(また)還(かへ)り見む」と訓む。「亦」はマタ。「再び、もう一度」の意。「還」は「還(かへ)り」。「かへる」は「事物や事柄が、もとの場所、状態などにもどる」こと。「見武」は「見(み)」にムが付いたもので「見(み)む」。「武」はム。「復還見牟」と表記は違うが同じ表現で「再び元の所へ戻って見よう」の意。処刑されるのを覚悟しての「また帰り見む」である

【巻2(142)。】
題詞
歴史解説
 有間皇子作の作歌。「有間皇子自傷結松枝歌二首」の二首目である。これは前歌と共に皇子が護送される途次の歌。捕らわれて紀の国に護送されるとき詠んだとされる。

 間皇子は、640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けられた。孝徳天皇の子で有力な皇位継承者の一人であった。孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり,中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係となる。中大兄皇子にとって有間皇子の存在は放ってはおけないものであった。
原文  家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
和訳  家にあれば 笥()に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る
現代文  「我が家にいれば器に食べ物を盛るのに,今は旅に出ているので(捕われて護送途中の身ですので)椎の葉に盛っています」。  
文意解説  発句「家有者 笥尓盛飯乎 草枕」「家にあれば 笥()に盛る飯(いひ)を 草枕」と訓む。「家有者」は「家に有(あ)れば」と訓む。「家」は、「自分の住まいとするところ。わが家」の意で、二を読み添えて「家に」と訓む。次の「有者」は、141番歌とは違って「有(あ)れば」と訓む。【活用語の已然形+ば】は、次の三つの意味を表わすのに用いられる。①原因・理由を表わす「~ノデ、~カラ」、②続いて起こることを表わす「~(スル)ト」、③恒常条件を表わす「~トイツモ」。ここでは③の意で、「家にいる時はいつも」。「笥尓盛飯乎」は「笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を」と訓む。「笥」は説文解字に「飯及び衣の器なり」とあって、「飯食を盛れる方形のはこ」または「衣装箱」を意味する。一方、和語の「け」は、「物を入れる器」の意で、特に「食器、食物を盛る器」をいうことが多い。ここも食器の意で「笥」の字を宛てたもの。「尓」はニ。「盛」は「盛(も)る」。「もる」は「飲食物で器をいっぱいにする。食物を皿などにのせる」ことをいう。「飯」は「いひ」と訓み、「米を蒸し、または炊いたもの」の意であるが、麦、粟などにもいう。上代には、甑(こしき)で蒸した強飯(こわいい)を食べたが、のちには、水で炊いた姫飯(ひめいい)、粥(かゆ)が普通になった。「乎」はヲ。「草枕」は「草枕(くさまくら)」と訓む。「草枕」は「旅」にかかる枕詞。道の辺の草を枕にして寝る意から「旅」にかかるとされる。

 結句「旅尓之有者 椎之葉尓盛」「旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る」と訓む。「旅尓之有者」は「旅(たび)にし有(あ)れば」と訓む。「旅」は、それ自体で非日常な出来事であるが、特にここでは冒頭に述べたように特異な旅であることを次の「尓之」が表している。「尓」は二。「之」はシ。「有者」は「有(あ)れば」だが、ここでの意味は、①原因・理由を表わす「~ノデ、~カラ」。「家(いへ)に有(あ)れば」と呼応しての表現で日常と非日常が対比せられる。「椎之葉尓盛」は「椎(しひ)の葉(は)に盛(も)る」と訓む。「椎(しひ)」は、ブナ科シイノキ属の植物の総称。「之」はノ。「椎(しひ)の葉(は)」は、一般に小さいことから、その上に飯を盛るのは難しいとして疑って、「しひ」ではなく「なら」ではないかという説もあるが、やはり小さい葉である「椎(しひ)の葉(は)」だからこそこの歌にふさわしいと言えるのではないだろうか。なお、「椎」は、万葉集以外で和歌によまれた例は少なく、歌語としては平安中期より、「しひしば(椎柴)」という形が定着しており、樹皮を喪服の染料に用いたところから、哀傷歌で多く詠まれた。

【巻2(143)。】
題詞
歴史解説
 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の作歌。「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が、結び松を見て哀咽(かなし)みよめる歌二首」。有間皇子の処刑事件があったのは斉明天皇4年(658年)。この歌を含めた143~146番歌の4歌は、146番歌の題詞に「大宝元年(701年)に結び松を見て詠んだ歌」との記載があり、すべてこの時の歌だとすると、処刑後、実に43年後の歌ということになる。43年後に同じ松の結び枝が残っていたとは信じがたい。紀伊の 磐代の地元の人々が有間皇子の処刑を傷んで保存に努め続けたものだろうか。 今回は、第143番歌を訓む。題詞に「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首」とあり、本歌と次歌(144番歌)は、「長忌寸(ながのいみき)意吉麻呂(おきまろ)が、結び松を見て哀(かな)しび咽(むせ)んで作った歌二首」であることが分かる。長忌寸意吉麻呂は、57番歌の作者(長忌寸奥麻呂)として既出。文武天皇時代の官人で、大宝元年(701)9月から10月にかけての持統太上天皇・文武天皇同行の紀伊国行幸に従駕しており、その途中岩代通過の際に、有間皇子の結び松と伝えられる松を見る機会があり、悲劇的最後を遂げた皇子を偲んで詠んだのが本歌であると考えられる。斉明4年(658)11月の有間皇子の事件からは、およそ43年の歳月が流れているが、衝撃的な事件として語り継がれていたことをこの歌は示している。本歌が、有間皇子の詠んだ141番歌「磐白の濱松が枝を引き結び真幸く有らば亦還り見む」を踏まえていることは明らかであろう。
原文  磐代乃  <崖>之松枝 将結 人者反而 復将見鴨
和訳  磐代(いはしろ)の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも
現代文  「岩代の崖(がけ)の松の枝を結んで(無事を)祈った人(有間皇子)は無事お帰りになってごらんになっただろうか」。
文意解説  発句「磐代乃  <崖>之松枝 将結」「磐代(いはしろ)の 岸の松が枝 結びけむ」と訓む。「磐代乃」は「磐代(いはしろ)の」と訓む。「磐代」は、「磐白」と同じ地名で、現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。白浜温泉に近く、当時は熊野にも通じる交通の要所で、海を見晴るかす位置にあり、旅人が木の枝や草を結んで旅の安全を祈った場所であった。「乃」はノ。「崖之松枝」は「崖(きし)の松(まつ)が枝(え)」と訓む。「崖」の字は、「岸」と同じく「きし」と訓み、共に現在の「がけ」の意味を表す字であった。後に「きし」には専ら「岸」の字を宛てて、「陸地が川・湖・海などの水に接したところ。みずぎわ。なぎさ」を意味するようになり、「がけ」に「崖」の字を宛てて、「山や岸などが険しくそばだっている所。きりぎし」を意味するようになった。「之」はノ。「松枝」は間にガを補読して「松(まつ)が枝(え)」と訓む。「崖(きし)の松(まつ)が枝(え)」は、141番歌の「濱松が枝」のことを指している。「将結」は「結(むす)びけむ」と訓む。「将」の字をケムという過去推量の助動詞の表記に用いることは、人麻呂作歌には見られないが、意志・推量の意のムの表記から、ラムの表記にも使われるようになり、それがさらにケムにも利用されるようになったものと思われる。ここは明らかに、有間皇子が「引き結んだ」という過去の事実について述べたものであり、「結(むす)びけむ」と訓み、次の「人」を修飾していると解される。

 結句「人者反而 復将見鴨」「人は帰りて また見けむかも」と訓む。「人者反而」は「人(ひと)は反(かへ)りて」と訓む。「人」は有間皇子を指す。「者」はハ。「反」は「反(かへ)り」。「かへる」には、大きく次の二つの意味がある。①(反・返)事物や事柄の位置が逆になる。また、物事の状態が変わる。②(返・帰・還)事物や事柄が、もとの場所、状態などにもどる。現在では「反」の字は①の意味にしか使われないが、ここでは②の意味で用いている。「而」はテ。「復将見鴨」は「復(また)見(み)けむかも」と訓む。「復」は、名義抄には「復。マタ・カヘル・カヘリテ・ムクユ・マサル・カハル・ソフ・オホフ・ツグ・トル・ツカフ・カフル・フタタビ・カヘリミル・マタスルコト・カヘス・カサネテ」とある。ここは「再び、もう一度」の意で「また」と訓む。「将見」は「見けむ」と過去推量で訓む。「鴨」(既出)はカモ。

【巻2(144)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「柿本朝臣人麿ノ歌集ニ云ク、大宝元年辛丑、紀伊国ニ幸セル時、結ビ松ヲ見テ作レル歌一首」。「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首」の二首目である。
原文  磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念
和訳  磐代(いはしろ)の 野中に立てる 結び松 心も解けず いにしへ思ほゆ
現代文  「岩代の野中に立っている結び松の枝が今も解けずにあります。それを見る私の心も結ぼれて解けず昔のことが(悲しく)思われます。(その昔処刑された有間皇子のことを思うと心が晴れません)」。
文意解説  この歌このままで十分分かる平明歌。「心も解けず」はいうまでもなく「気が滅入る」。

 発句「磐代之 野中尓立有 結松」「磐代(いはしろ)の 野中に立てる 結び松」と訓む。「磐代之」は「磐代(いはしろ)の」と訓む。前歌(143番歌)とノの表記は違うが同じ。「磐代」は地名で、現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。「野中尓立有」は「野中に立てる」と訓む。「野中」は、文字通り「野原の中」の意。「尓」はニ。「立有」は、「立(た)て」+ルで、「立てる」。「有」はル。「結松」は「結び松」と訓む。「結び松」は「小枝を結び合わせた松」をいう。松の小枝を結び合わせるのは、魂を結び込めて命の無事を祈る古代呪術の一つで、後には、誓いをかけたり、契を結んだりしたしるしにした。「野中に立てる結び松」は、前歌「崖の松が枝」とあったのと同じ松を指す。有間皇子の結び松の遺跡と言われる辺りは前方が崖になっており、背後は野と言ってもさしつかえない所である。「結び松」は、実際に枝を結んだ松を見て呼びかけた表現と考えられる。有間皇子が結んだ当時のままであったとは思えないが、意吉麻呂は、そのまま解けずにあるものと信じて詠んだものであろう。

 結句「情毛不解 古所念」「心も解けず いにしへ思ほゆ」と訓む。「情毛不解」は「情(こころ)も解けず」と訓む。「情」には「こころ。なさけ。まこと」の「訓み」があるが、萬葉集では130首の用例全て「こころ」と訓まれている。「毛」はモ。「不解」は「解(と)けず」。「解く」は「腹立ち・不機嫌・恨み・悲しみなど、心のわだかまりが消える」の意であり、「情(こころ)も解(と)けず」は、「悲しみが消えない」ことを言ったものだが、「解く」には、「結ばれていたものがわかれ離れる。結び目がほどける」という意味もあり、「結び松」から続けて考えると、「松の枝が結ばれたままで解けず今もある」という意味をも含んでの表現と解される。「古所念」は「古(いにしへ)念(おも)ほゆ」と訓む。「古」一字で、「いにしへ」と訓む。「いにしへ」は「往(い)にし方(へ)」の意で、現在と遮断された遠く久しい過去を漠然という言葉。「所念」を「おもほゆ」と訓む。ユは自発の助動詞で、未然形に付くから、本来は「念はゆ」となるところだが、オモハユのハが前の母音に引かれてホに転じた形で「念ほゆ」となる。

【巻2(145)。】
題詞
歴史解説
 山上臣憶良の作歌。山上臣憶良が追ひて(なぞら)ふる歌一首」。 「鳥翔成」を考える上で、古事記(景行天皇)に見える、倭建が白鳥に化す所の記述、「於是化八尋白智[鳥翔]天而向浜飛行(是(ここ)に八尋(やひろ)の白(しろ)ち鳥(とり)と化(な)り天(あめ)に翔(かけ)りて浜に向(むか)ひて飛び行(ゆ)きき)」の[鳥翔]の二文字が極めて示唆的である。その点について大久保論文が次のように述べている。「景行から恐れ遠ざけられる倭建と中大兄から危険視される有間、「一つ松あせを」と松をいとおしむ倭建と結び松に祈願を込める有間、足が「たぎたぎしく」なったり「三重の勾(まがり)の如く」なったりして難渋を重ねる倭建と「草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(2一四二)」と苦悩の旅を続ける有間など、両者をめぐる状況には共通点が少なくない。それも古事記に描くところの倭建像により近似しているのである。こうしたことから考えると、憶良は、悲劇の英雄倭建の最期と二重映しにすることによって、孤独悲運の貴公子有間の終焉の美的形象化をねらったのではなかったか。生前「吾が心、恒に虚(そら)より翔り行かむ」と希っていた倭建は、死ぬことによってそれを実現したのであったが、不条理の現実に懊悩する有間の姿にその願望を察知し、その囚われた魂の解放を図るべく、憶良は歌想を練ったのではなかったか。その象徴として「鳥」が不可欠であり、それゆえにその鳥は「白智鳥」のイメージでなければならないであろう。憶良が書紀などに基づいて類聚歌林の記述をしたり、祝詞・宣命に則って作歌したり(好去好来歌など)する傾向もこの想像を助けてくれようし、上代特殊仮名遣のモの厳密な区別はもとよりのこと、他の万葉作家と比較して古事記使用の仮名を好んで用いる(両方とも巻五の憶良署名歌において著しい)という憶良の用字法上の特色も、これと無関係ではないであろう」。
原文  鳥翔成有 我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
和訳  鳥翔けるなら 通ひつつ(ありがよひつつ) 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
現代文  「有間皇子の御魂は鳥となって常にこのあたりの空を通って見ておられるのであろう。鳥たちはしきりに松の上空を飛び交っているが松を見ている様子がない。そのように人々も松の由来を知らないが、松自身はよく知っているに相違ない」。
文意解説  発句「鳥翔成有 我欲比管 見良目杼母」「鳥翔けるなら 通ひつつ(ありがよひつつ) 見らめども」と訓む。「鳥翔成有」。岩波大系本は「古来難訓。平安時代の訓はトリハナル」としている。これに対し中西本や伊藤本は「天翔り」(アマガケリ)としている。佐々木本は「つばさなす」としている。万葉集中「翔」の文字が使用されているのは本歌以外に長短歌あわせて5歌ある。「アマガケリ」は一例ある(894番歌)が、原文は「阿麻賀氣利」であって「翔」の文字は使われていない。「翔」は5歌ともすべて鳥がかけるという意味で使われている。「鶴翔る見ゆ」(1189番歌)、「鴨翔る見ゆ」(1227番歌)、「天雲翔る雁」(1701番歌)等である。「とりかけり」の解釈もある。本歌の場合は「鳥」が入っているので、これを訓まねばならないように思われるのに「トリハナル」以外には訓んでいない。私説は「鳥翔けるなら」と訓みたい。「鳥が翔けるように」の意である。「見良目杼母」は「見らめども」と訓む。「見良目」はミラメ。推量の助動詞である。「らし」、「べし」なども同じ。「杼母」はドモ。逆接の接続助詞である。

 結句「人社不知 松者知良武」「人こそ知らね 松は知るらむ」と訓む。「人社不知」は「人こそ知らね」と訓む。「人社」の「人(ひと)」は「世の人々。一般の人間」の意。「社(こそ)」はコソ。「不知」は「知らね」と訓む。「知」は「知ら」。「こそ」を受けて已然形の已然形の結びとなる形は、単なる強調でなく特に逆接の前提句となることが多い。この場合も、逆接で、「人は知らないけれども」の意。「松者知良武」は「松は知るらむ」と訓む。「松」は「結び松」を指す。「者」はハ。「知」は「知る」。「良武」はラム。推量の助動詞である。

【巻2(146)。】
題詞
歴史解説
 「大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首[柿本朝臣人麻呂歌集中出也]」。前の「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首」(143・144)と同じく、大宝元年(701)9月から10月にかけての持統太上天皇・文武天皇同行の紀伊国行幸時に結び松を見て詠まれた歌であることが分かる。また、題詞下の[小字注]によって、この歌は柿本朝臣人麻呂の歌集にある歌であると知れる。
原文  後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞
和訳  後(のち)見むと 君が結べる 磐代(いはしろ)の 小松が(うれ)を またも見むかも
現代文  「後に見ようと皇子が結んだ岩代の小松の木末を皇子は見たであろうか。(二度と見られない皇子はさぞかしご無念でしょうね)」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その225)」その他を参照する。

 発句「後将見跡 君之結有 磐代乃」「後(のち)見むと 君が結べる 磐代(いはしろ)の」と訓む。「後将見跡」は「後(のち)見むと」と訓む。名義抄に「後。ノチ・ウシロ・シリヘ・ヲクレタリ・ヲコタル・ヲソシ・ヲクラス」の訓を記す。ここは「のち」で、「時間的に、それよりあと。ある時よりあと」の意。「将見」は「見(み)む」。「跡」はト。「君之結有」は「君(きみ)が結べる」と訓む。「君」は有間皇子をさす。「之」はガ。「結」は「結べ」。ここの「むすぶ」は、古代の呪術の一つで、魂を結び込めて生命の安全、多幸などを祈る気持の表現とされる「松の枝、草などの端をゆわえ合わす」ことをいう。「有」はルと訓む。助動詞りは、動詞の連用形にラ変活用の動詞アリ(有り)が付き、それが約(つづ)まって、アリの語尾リだけが切り離された形で助動詞として取り扱われるようになったもの。「磐代乃」は「磐代(いはしろ)の」と訓む。「磐代」は、現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。白浜温泉に近く、当時は熊野にも通じる交通の要所で、海を見晴るかす位置にあり、旅人が木の枝や草を結んで旅の安全を祈った場所であった。「乃」はノ。

 結句「子松之宇礼乎 又将見香聞」「小松が(うれ)を またも見むかも」と訓む。「子松之宇礼乎」は「子松(こまつ)がうれを」と訓む。「子松」は「小松」と同じだが、必ずしも「小さい松」とは限らず、松のことを親しんでいう語である。「之」はガ。「宇礼」はウレ。草の茎や葉、木の枝などの先端のことをいい、「はずえ。こずえ」の意。「若末」の表記で既出。「乎」はヲ。「又将見香聞」は「又(また)見けむかも」と訓む。「復将見鴨(復(また)見けむかも」と表記は違うが同じ。「又」は、名義抄に「又。マタ・サラニ・テ・アヤマル・スクル・ヲサム」の訓があるが、ここは「再び、もう一度」の意で「また」と訓む。「将見」は、ここでは「見けむ」と過去推量に訓む。「香聞」はカモ。なお、渡瀬昌忠「人麻呂歌集の皇子追悼挽歌」に、この句を古訓のとおり、マタモミムカモと訓むべきことを論じている。傾聴に値する論ではあるが、渡瀬説では、結句の主語を有間皇子でなく作者とすることになるため「後見むと」の主語と不整合となり、一首の統一性を欠くという難点があり、多くの注釈書は、なおマタミケムカモの訓みを支持している。

 近江の大津の宮に天の下知ろしめしし天皇の代

【巻2(147)。】
題詞
歴史解説
 倭姫の作歌。「近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇謚曰天智天皇] 」、「天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首」((天智)天皇の聖躬不豫(おほみやまひ)せす時、大后(おほきさき)の奉れる御歌一首」)(「天智天皇が病床の折り皇后が奉った歌」)。「聖躬」は「せいきゅう」と訓み、「天子の体」を意味する。「不豫(ふよ)」は、「不楽」「不安」の意であるが、中国の史書に「天子の病気」の意で使われたことから、ここも「天皇の病気」の意で用いられたもの。「聖躬不豫之時」は「せいきゅうふよのとき」と訓読できるが、当時の和文の訓みとして「みやまひしたまふとき」と多くの注釈書が訓んでいるのでそれに従う。「一書ニ曰ク、近江天皇ノ聖体不豫ニシテ、御病(ニハカ)ナル時、大后ノ奉献レル御歌一首ナリト」。有間皇子関連の歌は前歌で終わり、本歌は別の挽歌である。姫は、天智天皇の異母兄である古人大兄皇子の娘である。古人大兄皇子は、大化元年六月、出家して吉野に入ったが、同年九月、謀反を企てた罪で兵を差し向けられ、子と共に斬られ、妻妾も自殺した。倭姫は、幼少であったので無事であり、後に「父を死に追いやった」天智の皇后となった。天智天皇との間にみ子はいない。 「天智天皇に捧げる挽歌」は147番歌~155番歌の短歌六首と長歌三首からなる歌群である。
原文  天原 振放見者 大王乃 御壽者長久 天足有
和訳  天の原 振り放け見れば 大王(おほきみ)の 御寿(みいのち)は長く 天足(あまた)らしたり
現代文  「天空をふり仰いで見ると、大君のお命は長く久しく天空いっぱいに満ち満ちておられます」。
文意解説  発句「天原 振放見者 大王乃」「天の原 振り放け見れば 大王(おほきみ)の」と訓む。「天原」は「天(あま)の原(はら)」と訓む。「原」は「ひろびろとした平らな所」を指す語で、「海原」、「国原」と同じく「天原」は、「広く大きな空」の意。いま一つの意味として「天つ神が統治する天上界。高天原」があるが、ここは「広く大きな空」と解される。「振放見者」は「振(ふ)り放(さ)け見れば」と訓む。「振放」は「振り放(さ)け」。「ふりさく」は、「遠くに目をやる。遠くを仰ぎ見る」の意。「ふり」は、「ふり起こす、ふり立てる」などと動詞に冠して動作を強める接頭語。「さく」は「遠方に目を放つ。遠くを見やる」意で、「見放(みさ)く」として既出。「見者」は「見れば」と訓む。「天の原振り放け見れば」は「天空を仰ぎ見れば」である。「大王乃」は「大王(おほきみ)の」と訓む。「大王」の語彙は既述。ここでは、天智天皇を指す。「乃」はノ。

 結句「御壽者長久 天足有」「御寿(みいのち)は長く 天足(あまた)らしたり」と訓む。「御壽者長久」は「御(み)壽(いのち)は長く」と訓む。「御」は、名詞の上に付いて、それが神仏、天皇、貴人など尊敬すべき人に属するものであることを示し、敬意を添える語。「壽」は、「命の久しい」ことを表す言葉で、名義抄には「壽 イノチ・イノチナガシ・コトブキ・ヨシ・ヨロコブ」とある。「御壽」は、「みいのち」と訓み、「天皇の御壽命」をいう。「者」はハ。「長」は「長く」。「久」がなくても連用形に訓むところであるが、わざわざ「久」の字を用いて、「長久」とすることで「長く久しい」ことを強調したもの。「天足有」は「天(あま)足(た)らしたり」と訓む。「天」は、「天原」の「天」と同じく「天空」の意。「足」は「足(た)らし」と訓む。「たる」は、「満ちている」ことをいう。「有」はタり。「てあり」が約まってできた語であることから「有」と表記したもの。タりは完了の意味と存続の意味の両方を含み、いったん完了した動作・作用・状態が存続し続けていることをいい、現代語の「…ている」「…てある」に当たる。新編古典文学全集の頭注に「作者の目には天皇の生命力が見渡す限り天空に満ち満ちて見え、宝寿無限なること疑いなしと確信して言った」とある。確信に満ちた言い回しは祝福詞章の伝統であるが、その伝統を踏まえて、「天(あま)足(た)らしたり」という確信し断定して詠ったところに、天皇の病気回復を願う奉献歌としての本歌の真骨頂があると言えよう。タりは天皇を指す時もある。名の内に足彦(たらしひこ)抱く天皇もあって、六代孝安天皇、十二代景行天皇、十三代成務天皇がそうである。

【巻2(148)。】
題詞
歴史解説
 天智天皇の皇后の作歌。「一書曰近江天皇聖躰不豫御病急時太后奉獻御歌一首(天皇の病が重態の際の皇后の歌一首)」。題詞に異伝歌とある。。「一書曰」という形で始まっている題詞は、本歌と160番歌の二例しかなく、極めてめずらしい。「近江天皇」は、天智天皇を指すことは言うまでもない。「聖躰」は147番歌の「聖躬」と同じく「天皇の身体」のこと。「不豫」も147番歌に同じで「天皇の病気」の意。「御病(みやまい)急(にはか)なる時」は「危篤状態の時」ということであるが、本歌の内容は、既に天皇の霊魂は肉体を離れているので題詞とあわない。そのことが、この題詞がめずらしい形で始まっていることとあわせて、古くから論議を呼んでいる。賀茂真淵『萬葉考』は、この題詞に続く歌と次の歌の題詞とが脱落したのであろうと考え、「天皇崩御時大后御作歌」という題詞を次の歌の前からここに移すとい真淵らしい大胆な処置を取っているが、武断の謗りを免れまい。題詞を素直にこの歌の題詞と考えて、まず本歌を訓んで見た上で、題詞と歌との関係を考えることにしよう。
原文  青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相香裳
和訳  青旗(あをはた)の 木幡(こはた)の上を 通ふとは 目には見れども 直(ただ)に逢はぬかも
現代文  「青い旗のような木幡山の上を天皇のみ霊が通っておられるのを この目でたしかに見ているのだがもう直接お会いできないのでしょうか」。
文意解説  発句「青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽」「青旗(あをはた)の 木幡(こはた)の上を 通ふとは」と訓む。「青旗乃」は「青旗(あをはた)の」と訓む。「青旗」は「青い色の旗」であるが、「青旗の」は、次の「木旗」にかかる枕詞である。「乃」はノ。「青旗の」が「こはた」にかかるとする考え方には、次の二つの説がある。① 青々と葉の茂る木々を青い旗に見立てて、地名「木幡(こはた)」にかかる。②「木旗」は木の上につけた旗で、祭祀(さいし)の道具であるとして、「青旗」はその形容と見る。①②とも同音ハタの繰り返しが意識されていると思われる。②の説を取って「青旗」「木旗」を葬儀に用いられたものとする説もあるが、ここは①説を取る。「青旗の」は岩波大系本では枕詞(?)とあるが、中西本や伊藤本は「青々と樹木の茂る」と解している。「木旗能上乎」は「木旗(こはた)[木幡]の上を」と訓む。萬葉考などが「木旗」を「小旗」の意として、殯宮などの立てた白旗(青旗)と解する説があるが、万葉代匠記に地名の木幡としたのに従うべきであろう。「木旗」は2425番歌に「山科(やましな)の強田山(こはたやま)」とあるのと同地であろう。現在の「木幡」は、京都府宇治市の北部にあり、天智天皇陵のある京都市東山区山科御陵町からは南へ8キロほどの所であるが、古くは木幡の丘陵以北を広く山科と言ったものと思われる。「能」はノ。「上」は指示文字で、空間的に高い位置をいう語。「乎」はヲ。「賀欲布跡羽」は「かよ[通]ふとは」と訓む。「賀」はガだが、ここはカとして用いている。「欲布」はヨフ。「賀欲布」で「かよ[通]ふ」を表わす。「通ふ」とは特定の場所と場所を往来する行為をいうが、「青旗の木幡の上」を通うとすれば、鳥虫か霊魂などを想定するしかなく、ここは天皇の御魂と解釈しなければならず、「通ふ」の主語は天智天皇の霊とするしかない。「跡羽」はトハ。説明・思考・知覚などの対象やその内容を取り立てていうのに用いる。

 結句「目尓者雖視 直尓不相香裳」「目には見れども 直(ただ)に逢はぬかも」と訓む。「目尓者雖視」は「目には視(み)れども」と訓む。「目」は「視覚をつかさどるもの」の意。「尓」はニ。「者」はハ。「雖視」は「視(み)れども」と訓む。「直尓不相香裳」は「直(ただ)に相(あ)はぬかも」と訓む。「直に」は、「間に介在する物事がなく、直接に」の意。「不相」は「相(あ)はぬ」と訓む。「香裳」はカモ。吉井巌「倭太后の歌一首について」は、集中の悉皆調査から「目には見れどもただに逢はぬかも」について「命ある人への直接の逢会を願望するものであったことに相違なく、死者への哀惜を意味する表現であった筈はないのである」と結論付けている。また青木生子「近江朝挽歌群―その諸相と意義」は、「古代の死生観においては、生と死とは今日のような明確な断絶関係にあるのではなく、死は生との境目のない一定の連続期間を経過して後初めて其の死に到達すると思考されていたようである」として、この歌は「天皇の霊魂が聖体を離れて神上りされるのを留めようとしてタマフリの祭りがなされた時」のものであるとしている。まさに危篤状態の際に行われたタマフリの席で、皇后はいちはやく肉体を離れ出た天皇の霊を見たのであろう。「目(め)には視(み)れども」という一分一厘の疑いもない確信ある表現がそれを示している。そして天皇の霊を見た皇后は、「命ある人への直接の逢会を願望する」悲痛な叫びとして「直(ただ)に相(あ)はぬかも」と詠われたものと考えられる。その木幡山の上空を通ふ(往来する)のは御魂(みたま)なので、皇后が死期を悟っての歌と分かる。悲痛な歌である。

【巻2(149)。】
題詞
歴史解説
 天智天皇の皇后倭姫の作歌。「天皇崩後之時倭太后御作歌一首」(天皇の崩御(かむあがりま)せる時、〔倭〕大后のよみませる御歌二首)。本歌は、147・148番歌と同様、作者は天智天皇の皇后倭姫であるが、前の二首とは違い、天智崩御後に詠まれたものである。
原文  人者縦 念息登母 玉蘰 影尓所見乍 不所忘鴨
和訳  人はよし 念(おも)ひやむとも 玉葛(たまかづら) 影に見えつつ 忘らえぬかも
現代文  「ほかの人はたとえ忘れさることがあっても、「玉かづら」の「かげ」ではないが、この私はあなたの面影を忘れ去ることができません」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その228)」その他参照。

 発句「人者縦 念息登母 玉蘰」「人はよし 念(おも)ひやむとも 玉葛(たまかづら)と訓む。「人者縦」は「人(ひと)はよし」と訓む。ここの「人」は、「当人(作者)に対して、それ以外の人。他の人。」の意で用いられている。「者」は、訓仮名で係助詞「は」。「縦」は、「ゆるめる。ほしいまま」の意を持つことから、副詞の「よし」に宛てて用いられる(131番歌に既出)。「よし」には、二つの意味がある。①満足ではないが、仕方がないとして放任・許容するさまを表わす語で「まあいい。ままよ。」②多く下に逆接の仮定条件を表わす語を伴って、「たとい。かりに。万一。よしんば」の二つだが、ここは②の意。「念息登母」は「念(おも)ひ息(や)むとも」と訓む。「念」は「念(おも)ひ」で、「恋しく慕わしく感じること。また、その気持。いとしい気持。思慕の情」をいう。「息」は、「やむ」に用いられる(88番歌に既出)。ここは「念(おも)ひ息(や)む」という複合動詞となり、「思うことをやめる」の意。「登母」はトモ。「玉蘰」は「玉蘰(たまかづら)」と訓む。「玉(たま)」は美称。葛の冠という。「蘰」は、「縵、蔓、葛」に同じく「かづら」で、つる性の植物の総称。「たまかづら」は色々な言葉に係る枕詞として用いられることは既述。ここは、つる草の一つ「ひかげのかずら」を「かずら」とも「かげ」ともいうところから、「かげ」と同音の「影」にかかる枕詞として使われている。

 結句「影尓所見乍 不所忘鴨」「影に見えつつ 忘らえぬかも」と訓む。「影尓所見乍」は「影(かげ)に見(み)えつつ」と訓む。「影」は、「心に思い浮かべた、目の前にいない人の姿。おもかげ」の意で、亡くなった天智天皇のお姿を指す。「尓」はニ。「所見」は「見え」に宛てたもの。「みゆ」は「見る」の自発の形で、受身・可能の意にも用いられる。「不所見」(見えず)。「乍」はツツ。「不所忘鴨」は「忘らえぬかも」と訓む。「不所忘」は「忘(わす)らえぬ」を表わすのに用いられたもの。旧訓ワスラレヌであったが、契沖『萬葉代匠記』が、ワスラエヌに改訓し、以降、諸注釈書がそれに従い定訓となった。「鴨」はカモ。

【巻2(150)。】
題詞
歴史解説
 天智天皇の婦人(をみな)の作歌。「天皇崩時婦人作歌一首 [姓氏未詳]」(天皇崩時婦人作歌一首 姓氏未詳 (天皇の(かむあがりま)せる時、婦人(をみな)がよめる歌一首 。姓氏ハ詳ラカナラズ))。姓も氏も分からない婦人が詠んだもので、天皇を恋人のように詠んでいるところからすれば婦人(ヲミナメ或はタヲヤメ)は後宮の女官であろうと思われる。
原文  空蝉師 神尓不勝者 離居而 朝嘆君 放居而 吾戀君 玉有者 手尓巻持而 衣有者 脱時毛無 吾戀君曽 伎賊乃夜 夢所見鶴
和訳  うつせみし 神に(た、あ)へねば (さか)り居て 朝嘆く君 (はな)れ居て ()が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣(きぬ)ならば 脱(ぬ)く時もなく ()が恋ひむ(ふる)君そ 昨夜(きそ)() (いめ)に見えつる
現代文  「この世に生きている身は神上りなさったお方と共には居られないので、離れていて朝も私が嘆きつつ思う君よ。おそばから離れていても私が恋い慕う君よ。君がもし玉であったなら何時も手に巻いて持ち、もし衣であったなら片時も脱ぐことがないほどに、私が恋しく思っています。君が昨夜、夢に見えましたよ」。  
文意解説
 長歌()。
 発句「空蝉師 神尓不勝者 離居而」「うつせみし 神に(た、あ)へねば (さか)り居て」と訓む。「空蝉師」は「空蝉(うつせみ)し」と訓む。「空蝉」は「うつせみ」と訓み、「この世に生きている人」の意。「師」はシ。万葉集では、「うつせみ」は「この世」「(この世の)人」という意味に用いられ、虚しいものというニュアンスはない。しかし「空蝉」「虚蝉」「打蝉」などの表記が多いことから、後に、儚いものの譬えになっていったとみられる。「神尓不勝者」は「神(かみ)に勝(あ)へねば」と訓む。「神」はこの場合、神上りされた天智天皇を指す。「尓」はニ。「不勝」は「勝(あ)へね」と訓む。「あふ」は「たふ(堪)」と同意で、「堪える。我慢する。抵抗し負けまいとする」ことをいう。万葉集には「あふ」の仮名書き例は見られるが、「たふ」の仮名書き例は見られないことから、集内の「敢・勝・堪」は「たふ」でなく「あふ」と訓むことが定着している。なお、94番歌「有勝麻之自」の「勝」は「かつ」と訓んだが、それは「…するに耐える、…することができる」の意を表わす補助動詞カツに宛てた借訓字として用いたもので、「勝つ」とか「勝(まさ)る」とかの意で用いられたものではない。「勝」の字は、上代においては「あふ」と訓まれ、それが第一義であったと考えられる。「神(かみ)に勝(あ)へねば」の口語訳は、「到底神に近寄ることの出来ないものであるから」「神に逆らえないものだから」「神様には力及ばず」「神と共にはありえないので」「神上りなさったお方に近づくことはできないので」など、注釈書により様々であり、むずかしいが、3句との関係で見れば「神上りなさったお方と共には居られないので」というぐらいが妥当なところか。「離居而」は「離れ居(ゐ)て」と訓む。「離」は「離れ」。「居」は「居(ゐ)」。「而」はテ。「離」については、29番歌17句「天離」の例のように「さかる」とも訓まれるが、「天離」は枕詞の例であり、日常語としては「はなる」が一般的であったと思われる。

 2句「朝嘆君 放居而」「朝嘆く君 (はな)れ居て」と訓む。「朝嘆君」は「朝嘆く君」と訓む。「朝」は、昼を中心とした時間帯「アサ・ヒ・ユフ」の最初の部分をいう。夜の時間「ユフベ・ヨヒ・ヨナカ・アカツキ・アシタ」の最終部分「アシタ」と時間的には重なるが、「朝」には「夜が明けて」という気持が常にあるとされる。「嘆」は「嘆く」。「君」は、天智天皇を指す。「放居而」は「放(さか)り居(ゐ)て」と訓む。「放」は「放(さか)り」。「さかる」は「離れる。へだたる」の意。「居」、「而」は同じ。

 3句「吾戀君 玉有者」()が恋ふる君 玉ならば」と訓む。「吾戀君」は「吾(わ)が戀(こ)ふる君(きみ)」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「戀」は「戀(こ)ふる」。「君」は同じ。対句となっている。阿蘇『萬葉集全歌講義』の訓みを採用したのでその述べているところを引用しておく。① ハナレヰテ … ハナレヰテ 注釈、② サカリヰテ … サカリヰテ 全註釈・大系・全注・全訳注・和歌大系、③ ハナレヰテ … サカリヰテ 代匠記・略解・全集・集成・新全集・釈注・新大系、④ サカリヰテ … ハナレヰテ 古義・全釈・私注の四通りの訓がある。注釈は「集中にサカルの例が多いやうに見えるのは『天ざかる』『夷ざかる』『しなざかる』などの枕詞をはじめ、例の『歌語』として古語が活用されてゐる為であって、日常語としてはむしろハナルが通用されてゐたと」認むべき」として、共にハナレと訓んだ。全注は、「サカルには起点からの距離意識が強く感じられるのに対し、ハナルには(用例略)、離れた物や人そのものに重点があるように感ぜられる」として、共にサカリと訓んでいる。全註釈に「同一の句を繰り返すのが古歌の風格である」ともあるが、文字を変えていることと対句表現であることを顧慮し、③によった。先に示した訓みは、この説に賛同し採用したものである。「玉有者」は「玉ならば」と訓む。「玉」は既述。「有」は、二に「有り」が付いた「にあり」が約まってできた断定の助動詞「なり」を表わすために用いられたもので、ここは未然形「なら」と訓む。「者」はバ。「吾(わ)が戀(こ)ふる君(きみ)」が、もし「玉ならば(であったならば)」という意である。

 4句「手尓巻持而 衣有者」「手に巻き持ちて 衣(きぬ)ならば」と訓む。「手尓巻持而」は「手に巻き持ちて」と訓む。「手」は「人体の上肢。肩の関節部分から指先までの部分」をいう場合と「かいな、うでと区別して、てくびから先の部分。または、指、てのひらなどの部分を漠然とさす」場合とがある。玉などからなる装飾品としての「釧(くしろ)」(41番歌)は、手首や臂などにつけたと思われるので、ここは前者の意とした方が良いと思われる。「尓」はニ。「巻」は「巻(ま)き」。「持」は「持ち」。「而」はテ。同想の句に「玉有者(たまならば) 手尓巻以而(てにまきもちて)」(436)、「玉有者(たまならば) 手二母将巻乎(てにもまかむを)」(729)がある。「衣有者」は「衣(きぬ)ならば」と訓む。「衣」は衣服の意味で「きぬ」と訓む。「有者」は「ならば」。

 5句「脱時毛無 吾戀君曽」「脱(ぬ)く時もなく ()が恋ひむ(ふる)君そ」と訓む。「脱時毛無」は「脱(ぬ)く時も無(な)く」と訓む。「脱」は「脱(ぬ)く」。「ぬく」は、「身に付けている物を取り去る」ことをいい、「ぬぐ」と同じ意だが上代では清音。語源的には「抜く」と同一で、意味の分化に応じて清濁の違いによる語形の相違を生じたものと見られる。ここの「時」は、行為や状態を表わす連体修飾句を受け、形式名詞として用いる用法で、「そうする場合、そういう状態である場合」の意。「毛」はモ。「無」は「無(な)く」。これも同想の句として、「吾妹(わぎもこが) 衣有(きぬにありせば) 裏服矣(したにきましを)」(2852)、「衣尓有者(きぬにあらば) 下毛将著跡(したにもきむと)」(2964)がある。ここは対句をなしているが対句としては不整で、テニマキモチテに対しヌクトキモナクは述語を欠く。君がもし玉であったら何時も手に巻いて持ち、また衣であったら脱ぐ時もなく身に着けていようものを、の意。「吾戀君曽」は「吾(わ)が戀(こ)ふる君そ」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「戀」は「戀(こ)ふる」。ここの「君」は天智天皇を指す。「曽」はソ。

 結句「伎賊乃夜 夢所見鶴」昨夜(きそ)() (いめ)に見えつる」と訓む。「伎賊乃夜」は「君そきその夜(よ)」と訓む。「伎賊」はキソ。「伎賊」で以て、「昨夜」の意の「きそ」を表わす。「きぞ」ともいい、「そ」の本来の清濁は不明だが、「賊」は、日本書紀では清音仮名として使われているので、ここも清音とした。萬葉集での「賊」の用例はここの一例のみ。「乃」はノ。「夜」はヨと訓み、「日没から日の出までの間」をいう。「きそ」の「き」は「きのふ(昨日)」、「こぞ(去年)」のキ、コと関連して、過去の意があると考えられている。また「きその夜(よ)」のノは同格を表わし「昨夜という(である)夜」の意。「夢所見鶴」は「夢(いめ)に見えつる」と訓む。「夢」は二を補読して「夢(いめ)に」。「所見」は「見え」に宛てたもの。「鶴」はツル。ソの係り結び。3639番歌に「伊米尓美要都流(いめにみえつる)」の仮名書き例がある。「夢」の仮名書き例は全て「イメ」で「ユメ」の例はない。「イ」は「寐(ぬ=ねる)」の意で、「メ」は見ることを意味すると考えられる。

【巻2(151)。】
題詞
歴史解説
 額田王の作歌。「天皇大殯之時歌二首」(天皇の大殯(おほあらき)の時の歌四首)。150番長歌~155番長歌はすべて天智天皇崩御に関連して詠われた歌である。本歌は原文の細注に額田王とある。「大殯」はオホアラキと訓み、アラキは、死者を葬る以前、その死体を安置しておく所またはその期間を表す言葉で、そこでは蘇生を願って魂ごひのための歌舞・奏楽が行われたようである。オホは尊称、天皇や皇族の殯宮を特に大殯と言った。その時に詠まれた歌二首が151・152番歌ということである。
原文  如是有乃  懐知勢婆  大御船  泊之登萬里人  標結麻思乎
和訳  かからむと 予(かね)て知りせば 大御船(おほみふね) 泊(は)てし泊に 標(しめ)結はましを
現代文  「このように崩じられることを あらかじめ知っていたなら、大君の乗られていた船が停泊されていた時に、絆をしっかり結んでいたものを。(もう少し生きていていただきたかったのに)」。  
文意解説  発句「如是有乃  懐知勢婆  大御船」「かからむと 予(かね)て知りせば 大御船(おほみふね)」と訓む。「如是有乃」は「かからくの」と訓む。「如是」は「如此」と同じく「かく」。「有」は「有る」。「如是有」は、「かく有るアク」で、それが約まって「かからく」と訓む。「このようにあること」の意で、「天智天皇が崩御されてしまったこと」を言ったもの。「乃」はノ。この句は、旧訓にカカラムトとあるが、「乃」はトとは訓めないことから、カカラムトと訓む説では「乃」を「刀」の誤字とする説が生まれた。また、カカラムノと訓む説では、次の句の「懷」に係るとして「懷」をココロまたはオモヒと訓むことが唱えられた。しかし、有坂秀世が「シル(知)の考」で論じたように、「知る」は、「時の知らなく」(3749)、「磯の知らなく」(3892)、「すべの知らなく」(3937)、あるいは、「思ひやるすべの知らねば」(707)、「道の知らねば」(3344)などのように、体言+ノを受けて用いられることに注目すれば、「乃」の上の「如是有」を体言とみて、この句をカカラクノと訓んで次の句の「知りせば」に続くと考えることができよう。「懐知勢婆」は「懐(かね)て知(し)りせば」と訓む。「懐」の訓は多く、『名義抄』には、「懷。ココロ・イムダク・ウダク・オモフ・オモヒ・チカシ・ヤスシ・ナツク・カヘル・ナツカシムル・フツ(ト)コロニス・カクル・カヌ・カネタリ・イタイカナ・キタス・イタム・スツ・トドム・トドマル・キタル・イタル・ハラム・ハチ・ムツマシ・シタカフ・ヨル・ヤハラク」とある。ここは「カヌ・カネタリ」の訓みを採り「懐(かね)て」と訓む。「かねて」は「事前に。前もって」の意。その意味から後に「豫(予)」の字が宛てられるようになったもので、写本の異同はそのあたりから生じたものと考えられる。また、多くの訓みを持つ「懷」が使われたために諸説発生の原因となったが、大伴家持の3959番歌の「可加良牟等(カカラムト)可祢弖思理世婆(カネテシリセバ)」の仮名書き例に従い、「懐(かね)て」と訓むのが良いと思う。額田王が「懷」を用いたのは、「懷」(形声文字)の声符には「死者の衣襟の間に涙をそそぐ形」が含まれており、「死を哀惜する気持を表わす文字」であることを知っていたためと考えられる。「知」は「知り」。「しる」には、自動詞と他動詞があるが、ここは「物事のなりゆきがわかる」という意の自動詞と考えられる。「勢婆」はセバ。現実に反する事態を仮定条件として表わす語で、推量の助動詞マ士と呼応して用いられる。ここも末句のマ士と呼応している。なお、セバは、仮定条件が必ずしも過去に限定されないところから「せ」をサ変動詞「す」の未然形とみる説や、セバを一語の助詞として取り扱う説もある。上二句「如是有乃 懐知勢婆」は文字面だけだと難解。「懐」を岩波大系本は「こころ」、中西本は「おもひ」と読んでいる。が、そう読むと歌意不明となる。その意味は「かからむの懐知りせば」となり、天智天皇が望んで死のうと思っていたことになってしまう。百歩譲って「懐」を天皇の思いと取ろうにも取りがたい。天皇に対して、裸で「~の懐」などと詠み込む筈はない。まして死者となった天皇である。「御情」、「御懐」と最低限「御」が入らないと奇っ怪である。そのせいか伊藤本はこの二句を「かからむとかねて知りせば」と詠んでいる。この方が歌意が遙かに自然であろう。「お亡くなりになると知っておれば」となる。標は標縄の標で縄を張って悪霊から大御船(すなわち天智天皇)を護るのである。 

 ここで現行注釈書の訓諸説を整理しておくと、① かからむとかねて知りせば … 注釈・全集・集成・全注・新全集・釈注・和歌大系・新大系。② かからむのこころ知りせば … 全註釈・大系。③ かからむのおもひ知りせば … 大成・全訳注。ということになる。①が圧倒的で、それは先に挙げた家持の3959番歌の「可加良牟等(カカラムト)可祢弖思理世婆(カネテシリセバ)」の仮名書き例が根拠となっていることによるわけだが、1句の「かからむと」の訓みについては「乃」の表記を尊重する立場からは賛成しがたく、【体言+助詞「の」+「知る」】の用法とみて、「かからくのかねて知りせば」の試訓を提示したわけである。「大御船」は「大御船(おほみふね)」と訓む。「おほみ」は、尊敬の意を表わす接頭語。「大御船」は「天皇のお乗りになる船」を言う。ここは天智天皇が生前に琵琶湖で船遊びをされた時にお乗りになった船を指すものと思われる。

 結句「泊之登萬里人  標結麻思乎」「泊(は)てし泊に 標(しめ)結はましを」と訓む。勝子「泊之登萬里人」は「泊(は)てしとまりに」と訓む。「泊」は「泊(は)て」。「はつ」は「船が港に着いて泊まる。停泊する」ことをいう。「之」はシ。「登萬里」は「泊(とまり)」のトマリ。「船が停泊すること。また、そのところ。船着き場。港。津」の意。「人」はニ。「人」をニの仮名に用いた例は他に見えない。この句とよく似た句が、122番歌に既出の「泊(は)つるとまりの」で、その表記は「泊流登麻里能」である。ここも「人」が「尓」であれば、「泊之登萬里尓」で、122番歌と同様「泊」以外全て常用音仮名表記ということで、特に気にとめないところである。しかしここは「泊之登萬里人」であり、敢えて「人」の字を使ったものとすれば、そこには何らかの意味が込められているということにならないだろうか。そのようにして見ると、「登萬里人」は「萬里を登る人」あるいは「萬里を登りし人」と訓める。額田王が「神上がりした天智天皇」を「萬里を登りし人」として偲ぶ意味をこの表記に込めたと見るのは穿ち過ぎであろうか。「標結麻思乎」は「標(しめ)結(ゆ)はましを」と訓む。「標結」は既出。「標」の本義は「こずえ、高い枝」であるが、それを「しるし」として立てるところから「しるし」の意をも表わすようになった。一方、和語の「しめ」は、動詞「占める」の連用形が名詞化したもので、「神の居る地域、また、特定の人間の領有する土地であるため、立入りを禁ずることを示すしるし。木を立てたり、縄を張ったり、草を結んだりする」ことをいう。ここの「標」は、和語の「しめ」の表記に充てたもの。「結」は「結(ゆ)は」。「ゆふ」は「結ぶ。しばる。糸・ひも・なわなどでくくる」ことをいう。「標(しめ)結(ゆ)ふ」は、「目印を付ける」あるいは「標縄を張る」ことを言うが、ここは後者の意。「麻思乎」はマシヲ。「懐(かね)て知(し)りせば」を承けての帰結で、「前から知っていたら、標縄を張って大御船が出てゆかないようにしたものを」という意となる。

【巻2(152)。】
題詞
歴史解説
 舎人吉年(とねりのきね)の作歌。細注に舎人吉年(とねりのきね)とある。151番歌(前歌)に続いて「天皇大殯之時歌二首」の二首目であり、前歌同様、歌の下に作者名を小文字で記した写本があって、本歌の作者は舎人吉年であることがわかる。「舎人」は官名とも見られるが、ここは61番歌の作者である舎人娘子(とねりのをとめ)と同じく氏の名と見るべきであろう。舎人氏は百済系帰化氏族である。吉年は名前で、キネ、エトシ、ヨシトシとも訓まれているが、何れとも定めがたい。天智後宮の女官であったと思われる。巻四に、田部忌寸櫟子(たべのいみきいちひこ)と交わした相聞歌(492~495)がある。
原文  八隅知之  吾期大王乃  大御船  待可将戀 四賀乃辛埼
和訳  やすみしし 吾ご大王の 大御船(おほみふね) 待ちか恋ふらむ 志賀の辛崎
現代文  「あまねく天下を治めておいででしたわが大君が、大船に乗って帰つて来るのを今も待ち恋うています、志賀の唐崎で」。 
文意解説  発句「八隅知之  吾期大王乃  大御船」「やすみしし 吾ご大王の 大御船(おほみふね)」と訓む。「八隅知之」は「八隅知(やすみし)し」と訓む。「わが大君」および「わご大君」にかかる枕詞で八方を統べ治める意を表わす。「之」はシで、「知之」は「知し」。しかし、「知りし」であれば、「知る」の連用形「知り」に過去の助動詞「き」の連体形の「し」が付いたものとして理解できるが、「知し」では理解できない。古典基礎語辞典の解説には「シシは、動詞のナク(鳴く)・ナル(鳴る)に対して、ナス(鳴す)という語があるように、シク(領く)・シル(領る)に対して、おそらく存在していたに違いないシス(領す)の連用形と思われる」とある。この説によると「之」は動詞の活用語尾として用いられたことになる。一つの見解であろうとは思うが、疑問は残る。なお、古典基礎語辞典では「知る」と「領る」は別語として扱っている。「やすみしし」は枕詞だが、極めて特異な例である。全部で26歌に登場するが例外なく「我が(ないし我ご)おほきみ」にかかる。さらに、万葉歌は大部分(90%以上)が短歌だが、その短歌の例は本歌も含めてたった3例しかない。他の大部分(20)はたった10%以下の長歌の中で詠い込まれている。「吾期大王」は「吾(わ)ご大王(おほきみ)」と訓む。「吾」は、ガを補読して「吾(わ)が」と訓まれることが多いが、続いて「期」があるのでゴと訓み、「吾期」で「吾(わ)ご」と訓む。「大王」は、ここでは天智天皇を指す。「大御船」は「大御船(おほみふね)」と訓む。「おほみ」は、尊敬の意を表わす接頭語。「大御船(おほみふね)」は「天皇のお乗りになる船」の意で、ここは、天智天皇が生前に琵琶湖で船遊びをされた時にお乗りになった船を言ったもの。

 結句「待可将戀 四賀乃辛埼」「待ちか恋ふらむ 志賀の辛崎」と訓む。「待可将戀」は「待ちか戀(こ)ふらむ」と訓む。「待」は「待(ま)ち」。「可」はカ。「将」は「まさに…す」と訓読される再読文字であり、「将戀」で「戀(こ)ふらむ」と訓む。「戀」は「戀(こ)ふ」。「待ちか戀ふらむ」は「待ち戀ふらむか」に同じで、「大御船」に続けて「大御船が戻って来るのを待ち焦がれているのだろうか」という意となる。「四賀乃辛埼」は「四賀(しが)[志賀]の辛埼(からさき、唐崎)」と訓む。「思賀乃辛碕」の表記で既出。「四賀」はシガで地名の「志賀」を表わす。「志賀」は、滋賀県南西部の郡名で、琵琶湖と比良山地にはさまれた地域をいう。「乃」はノ。「辛埼」は地名で、今「唐崎」と書く。滋賀県大津市唐崎。大津京の時代、船着き場になっていたものと思われる。「志賀の唐崎」は倒置表現だが更に擬人化されている。「天皇の大御船を停泊させている港(志賀の唐崎)よ。大御船ともども天皇をお待ちしているのかい」という歌。

【巻2(153)。】
題詞
歴史解説
 天智天皇の皇后倭姫の作歌。「大后の御歌一首」(天智天皇が亡くなった時、皇后が詠んだ歌)。147~149番歌の三首と同じ、皇后の倭姫である。
原文  鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
和訳  鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海を 沖()けて 榜(こ)ぎ来る船 ()付きて 榜ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな()ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の (つま)(みこと)の 念(おも)ふ鳥立つ。
現代文  「鯨をとる海(その海ではないが) 近江の海を、沖を漕ぐ舟よ、岸辺を漕ぐ船よ、櫂の音を大きく立てないでおくれ。若草のようにいとしい夫の好きだった鳥が飛び立ってしまうから」。
文意解説  長歌()。

 発句「鯨魚取 淡海乃海乎」鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海を」と訓む。「鯨魚取」は「鯨魚(いさな)取(と)り」と訓む。「いさな」は「くじら(鯨)」の異名。「いさなとり」は、海に関する語にかかる枕詞。「淡海乃海乎」は「淡海(あふみ)の海を」と訓む。「淡海」は既出、「あはうみ」が約まって「あふみ」と訓む。「乃」はノ。「淡海の海」は「琵琶湖」をさす。「琵琶湖」の名は、北が広く南が狭い湖の形が和楽器の琵琶に似ていることから、江戸時代に名付けられたもの。この歌が詠まれた時代、「琵琶湖」は「湖」ではなく「海」と認識されていたものと思われ、「いさなとり」の枕詞が冠せられたのであろう。「乎」はヲ。

 2句「奥放而 榜来船 邊附而 榜来船」「沖()けて 榜(こ)ぎ来る船 ()付きて 榜ぎ来る船」と訓む。「奥放而」は「奥(おき)[沖]放(さ)けて」と訓む。「奥」を「沖」の意で用いた例は既出。「放」は「さかる」として使われていたが、ここは「放(さ)け」。「而」はテ。「奥(おき)[沖]放(さ)けて」は「沖に離れて」の意。「榜来船」は「榜(こ)ぎ来(く)る船(ふね)」と訓む。「榜」は「榜(こ)ぎ」。「こぐ」は「櫓(ろ)や櫂(かい)などを用いて船を進める」ことを言う。なお、現在「こぐ」に普通使われる「漕」の字は萬葉集には見られない。「来」は「来(く)る」。「く」は「こちらに向かって近づく」ことをいう。「榜(こ)ぎ来(く)る船(ふね)」は「漕いで近づいて来る船」の意。解釈について、『萬葉集全注』が面白い見方をしているので、引用しておく。
 代匠記に「奥サケテコキクル舟トハ奥ヲサカリテ此方ニクルト云ニハアラス。奥ノ遠ク放レル方ヨリ来ル舟ナリ」と言う。注釈には、この説明をやや適切でないものとして、「沖に離れて漕いで来る、即ち岸より離れて沖の方を通りつゝ近づく」の意と説いている。また古典全集頭注には「沖の方から離れて岸の方への意か」とある。しかしここは、次の「辺つきて」と対をなして、琵琶湖の湖面全体を表現していることを考える必要があろう。「朝」「夕」あるいは「夜」「昼」の対によって一日全体を表わすのを時間表現における古代的な方法とすれば、「沖」と「辺」あるいは「上」「中」「下」は、空間表現の方法であったと考えられる。従って、沖に遠く離れて漕いでくる船と、岸に近く漕ぐ船との対照により湖面全体の船を表現したものと見なされよう。
 
 「邊附而」は「邊(へ)附(つ)きて」と訓む。「邊」は「辺」に同じ。ここは「沖」に対して「岸に近い辺り」をいう。「附」は「付」と同義、「つく」の連用形で「附(つ)き」。「つく」は「触れそうなほどに近づく」ことをいう。「而」はテ。「邊(へ)附(つ)きて」は「岸辺に近く」の意。この句は旧訓に「ヘニツキテ」とあり、代匠記もそれによったが、賀茂真淵が、「ヘヅキテ」と四音に改訓した。その後、四音でも「ヘツキテ」と清音に訓むべきだとの説が大勢をしめるようになり現在に至っている。「榜来船」は「榜(こ)ぎ来(く)る船(ふね)」と訓む。先に引用した『萬葉集全注』の述べるように、この対句によって湖水全体の情景が、沖に遠く離れて漕いでくる船と、岸に近く漕ぐ船との対照により、髣髴として目に浮かんで来るように思われる。

 3句「奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽」「沖つ櫂 いたくな()ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ」と訓む。「奥津加伊」は「奥(おき)[沖]つかい[櫂]」と訓む。「奥」は同じで「おき[沖]」。「おき」は「おく(奥)」と同根と言われ、同じ平面で、遠く離れたほうを言う語であるが、水辺を遠く離れた所の意の「おき」は、水の深い所であることから、「深い」という字義を持つ「沖」を用いるようになったものと考えられる。「津」はツ。ツは、天・沖・辺・上・下・遠・近・向・本など地点・方角・位置・時などを表わす名詞を承けることが多い。「加伊」はカイで、船を漕ぐ「かい[櫂]」を表わすのに用いたもの。「沖つ櫂」は「沖を行く船の櫂」の意。「痛勿波祢曽」は「痛(いた)くなはねそ」と訓む。「痛」は「痛く」と訓み、「程度のはなはだしいさま」をいう副詞で「ひどく。はなはだしく。ずいぶん」の意。「痛(いた)し」の連用形からできたもの。「いたし」には、「肉体的・精神的に苦痛である」という意の他に「程度が甚だしい」という意があり、その場合は連用形で使われることが多く、漢字も「甚」が主に使われたことから、副詞「甚(いた)く」が生まれた。ここは、夫を失って精神的苦痛の中にある作者が詠んでいるので「痛」の字を用いたものかと思われる。「勿」はナ。ナは、下にソを伴って、「な … そ」の形で用いられる。ソの表記に「曽」を用いている。「波祢」はハネ。「はね」を表わす。「痛くなはねそ」は「水をひどく撥ねないでおくれ」の意。「邊津加伊」は「邊(へ)つかい[櫂]」と訓む。「邊」はへで「岸辺」の意。「津」、「加伊」は同じ。「邊つ櫂」は「岸辺近くを漕ぐ船の櫂」の意。「痛莫波祢曽」は「痛くなはねそ」と訓む。ここでは、ナに「勿」に変えて「莫」を用いている。前の対句に対応する形で対句を成している。

 結句「若草乃 嬬之 念鳥立」「若草の (つま)(みこと)の 念(おも)ふ鳥立つ」と訓む。「若草乃」は「若草の」と訓む。「若草」は、芽を出して間もない草。「乃」はノ。「若草の」は、枕詞で次のように用いられる。① 若草が柔らかくみずみずしいところから、「つま(妻・夫)」まれに「いも」にかかる。② 若草の新鮮なところから、「新(にひ)」にかかる。③ 心がひかれる、愛情をよせるの意の「思ひつく」にかかる。かかり方未詳。「つま」は愛すべきものである  ところからか。④ 「足結(あゆひ)」にかかる。かかり方未詳。ここは、①で「つま」に冠したもの。「嬬之」は「嬬(つま)の」と訓む。「嬬」は「つま」に宛てたもので萬葉集では男女何れにも用いている。「つま」には、⑴夫から妻をさして言う場合、⑵妻から夫をさして言う場合、⑶第三者から配偶者のいずれかをさす場合の三種があるが、ここは⑵。「之」はノ。「念鳥立」は「念(おも)ふ鳥(とり)立(た)つ」と訓む。「念」は「念(おも)ふ」。ここの「おもふ」は「愛する。大切にする」の意。「鳥」が、古代において「死」とかかわりが深いことについては、145番歌のところで述べた。「立」は「立つ」。この句の意は「生前、天智天皇が愛された鳥が飛び立つといけないから」ということであろうが、「念(おも)ふ」と現在形に訓んだのは、作者は今、「淡海の海」に相対し、これと対話することで生きている天皇と対話している空想の中にあり、「今もなお夫が愛している鳥」とする方が作者の気持に添うと思われるからである。これは51番歌が「采女の袖吹きかへす」と現在形で表現していたのと通じるものがあるといえよう。

【巻2(154)。】
題詞
歴史解説
 石川夫人(いしかはのおほとじ)の作歌。「石川夫人歌一首(石川夫人(いしかはのおほとじ)が歌一首)」。「後宮職員令(養老令)」によれば、天智七年二月条は、大臣の娘で天智天皇の皇子女を生んだ者をいずれも嬪(みめ)と称し、天武二年二月条では、大臣の娘で天武天皇の皇子女を生んだ者をいずれも夫人(おほとじ)と称している。ここの「石川夫人」は、天武朝以後の称に改め記されたものと推定され、天智天皇の嬪の誰かを指すと考えられる。天智天皇の嬪は、遠智娘(をちのいらつめ)・姪娘(めひのいらつめ)・橘娘(たちばなのいらつめ)・常陸娘(ひたちのいらつめ)の四人であるが、このうち「石川夫人」と呼ばれる可能性のあるのは、壬申の乱後、石川氏を名乗るようになった蘇我氏出身者ということになるので、蘇我倉山田石川麻呂の娘である遠智娘・姪娘か蘇我赤兄の娘の常陸娘ということになる。このうち遠智娘はすでに亡くなっているし、姪娘は『続日本紀』の元明紀に宗我嬪と呼ばれていることから、ここの「石川夫人」は常陸娘である可能性が高いと思われる。なお、同じ蘇我赤兄の娘であり、天武天皇夫人の太蕤娘(おほぬのいらつめ)(穂積皇子・紀皇女の母)も天武紀に石川夫人と称されている。
原文  神樂浪乃 大山守者 為誰<可>  山尓標結  君毛不有國
和訳  楽浪(ささなみ)の 大山守は 誰が為か 山に標結ふ 君も()さなくに
 ささ浪の 大山守は誰がためか 山に標(しめ)結ふ 君もあらなくに
現代文  「ささなみ[楽浪]の大山の番人は誰のために山に標縄をめぐらしているのだろうか。もはや大君(天智天皇)はこの世におられないのに」。
文意解説  発句「神樂浪乃 大山守者 為誰<可>」楽浪(ささなみ)の 大山守は 誰が為か」と訓む。「神樂浪乃」は「神樂(ささ)浪(なみ)の」と訓む。天智天皇の大津京が営まれた琵琶湖の西南沿岸地方の古名をいう。「神樂」をササに宛てるのは、神樂歌の囃言葉にササと言うところから。「神樂聲」をササと訓み、それを略した「神樂」、更にそれを略した「樂」をもササに宛てた。「乃」はノ。「大山守者」は「大山守(もり)は」と訓む。「山守」は、山に人がみだりに立ち入らないように番をする者。「おほ」は接頭語で、「大山守」は、天皇所有の山の番人をいう。「者」はハ。「為誰可」は「誰(た)が為(ため)か」と訓む。「為誰」は「誰(た)が為(ため)」と訓む。「た」は「たれ(誰)」に同じ不定称の代名詞で、ガを伴って連体修飾語として用いられる。「為(ため)」はガ、ノの付いた体言、または用言の連体形に接続し、形式名詞として用いられ、「ため」の上にくる言葉が、下にのべる恩恵、利益を受ける関係にあることを示す。「可」はカ。

 結句「山尓標結  君毛不有國」「山に標(しめ)結ふ 君もあらなくに」と訓む。「山尓標結」は「山に標(しめ)結(ゆ)ふ」と訓む。「山」は大山守とあるので、天皇所有の山をいう。「尓」はニ。「標(しめ)結(ゆ)ふ」は、「目印を付ける」あるいは「標縄を張る」ことを言うが、ここは151番歌と同じく後者の意で、カの結びで連体形として切れる。「君毛不有國」は「君も有(あ)らなくに」と訓む。「君」は天智天皇を指す。「毛」はモ。「不有國」の「不有」は、「有り」の打消の「有らず」を意味し、「國」はク二。「有(あ)らなくに」と訓む。「有らなく」は「有ら」にヌの付いた「有らぬ」に「あく」がついたいわゆるク語法で「有らぬあく」となり、それが約まって「有らなく」となったもの。それに二を添えて「有(あ)らなくに」。「もはや天智天皇はこの世にはおられないのに」の意。

【巻2(155)。】
題詞
歴史解説
 額田王の作歌。「従山科御陵退散之時額田王作歌一首」(山科の御陵(みささぎ)より退散(あが)れる時、額田王のよみたまへる歌一首)。天智天皇が亡くなり、埋葬が終わってお墓を退くとき額田王が詠んだ歌。山科の御陵」は、天智天皇の御陵で、現在の京都市山科区御陵(みささぎ)上御廟野町(かみごびょうのちょう)にあり、鏡山(山科区御陵大岩)の南麓に位置する。「退(まか)り」は、「貴人や目上の人の前から退出する」意のラ行四段活用の自動詞「まかる」の連用形。「散(あら)くる」は、「離散する」意のカ行下二段活用の自動詞「あらく」の連体形。「退り散くる時」とは何時のことかと言えば、壬申の乱の直前、近江方と天武(大海人皇子)方との間に緊張が高まり、恐らく両軍の戦い必至となった時点で、御陵への奉仕も打ち切られ、奉仕していた人たちも別れて行かざるを得なくなった時のことを言うのであろう。この歌は、その風雲急を告げる慌ただしい中でも退散の儀礼は行われ、その儀礼歌として詠われたものと思われる。長歌としては短く、儀礼歌としても必要最小の表現しかなされていないとも見られるが、作者の額田王にとっては、前皇太子でかつての夫である大海人皇子と亡き天智天皇の長子で娘婿でもある大友皇子の率いる近江朝廷との戦いに直面する状況下であることを思えば無理のないことであろう。しかし、さすが額田王と思われる表現が随所にあり、この歌に込められた作者の感慨の深さに驚かされる。
原文  八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百磯城乃 大宮人者 去別南
和訳  やすみしし 我ご大王の 畏(かしこ)きや 御陵(みはか)仕ふる 山科(やましな)の 鏡の山に (よる)はも ()のことごと 昼はも 日のことごと ()のみを 泣きつつありてや 百礒城(ももしき)の 大宮人は ()き別れなむ。
現代文  「あまねく天下を治めておられた わが大君の 恐れ多い 御陵の造営に奉仕している 山科の 鏡の山に 夜は 夜どおし 昼は ひねもす 声をあげて 泣いてばかりいて (ももしきの) 大宮人は 別れて行ってしまうのだろうか。畏れ多い大君のお墓をのある山科の鏡の山で、夜は夜の全部を、昼は昼の全部を泣き続けていた大宮人たちも去って別れていくのだろうか」。
文意解説  長歌()。大宮人達を観察し、去って行く大宮人達の変化を詠っている。去り際のひと時を捉えた歌。

 発句「八隅知之 和期大王之 恐也」「やすみしし 我ご大王の 畏(かしこ)きや」と訓む。「八隅知之」は「八隅知(やすみし)し」と訓む。「わが大君」および「わご大君」にかかる枕詞で、八方を統べ治める意を表わす。「和期大王之」は「わご大王(おほきみ)の」と訓む。「和期」はワゴ。意味は「わが」に同じ。「大王」は既述。ここは天智天皇を指す。「之」はノ。「恐也」は「恐(かしこ)きや」と訓む。「恐」は「恐(かしこ)き」。「也」はヤ。「かしこし」は、第一義的には「おそるべき霊力、威力のあるさま。また、それに対して脅威を感ずる気持を表わす」が、ここは「尊い者、権威のある者に対して、おそれ敬う気持を表わす。おそれ多い。もったいない」の意で、次の「御陵」を修飾するのに用いたもの。直面する事態に対する作者の恐れが口をついて出たものとも言えよう。

 2句「御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓」御陵(みはか)仕ふる 山科(やましな)の 鏡の山に」と訓む。「御陵奉仕流」は「御陵(みはか)奉仕(つか)ふる」と訓む。「御陵」は「みささぎ」とも訓むが、ここは音数の関係から「みはか」と訓む。「奉仕流」は「奉仕(つか)ふる」と訓む。「流」はル。「つかふ」は「奉仕する」の意であるが、それは御陵の清掃とかの奉仕ではなく、御陵そのものの造営のための奉仕を意味するのではないかと思われる。笹山晴生「『従山科御陵退散之時額田王作歌』と壬申の乱」は、「天智天皇の場合も、殯宮の儀の進行と並行して、その近親者は定められた山陵の地に仮廬を作り、山陵造営のことに奉仕していたのであろう。しかし、風雲はしだいに急をつげ、戦闘・防衛のため、人々は未整備の山陵にかたちだけの埋葬を済ませて退散していかなければならなかった」と、推測しているが、妥当な説かと思われる。「山科乃」は「山科(やましな)の」と訓む。「山科」は現在も残る地名で、京都と大津を結ぶ交通の要地。「乃」はノ。「鏡山尓」は「鏡(かがみ)の山に」と訓む。「鏡の山」は、今その名を残さないが、天智天皇の御陵の北の山(山科区御陵大岩)を指すものと思われる。「尓」はニ。

 3句「夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡」(よる)はも ()のことごと 昼はも 日のことごと」と訓む。対句になっている。「夜者毛」は「夜はも」と訓む。ここの「夜」は「よる」で「日没から日の出までの時間。太陽が没して暗い間」を言う。「者毛」はハモ。「特に取り立てて提示しようとするものに、強い執着や深い感慨を持ち続けている場合に使う」と岩波古語辞典にある。「夜之盡」は「夜(よ)の盡(ことごと)」と訓む。ここの「夜」はヨ。「よる」は「ひる」に対して暗い時間全体をさすのに対して、ヨはその特定の一部分だけを取り出していう。「之」はノ。「盡」、説文解字に「器中、空しきなり」とあり、器中を洗うことによって全てのものがなくなることを示す。その意から、すべてを傾注する、尽くすの意となる。ここでは「ことごと」と訓み、「残らず、全て」の意。「夜(よ)の盡(ことごと)」は、夜の特定の一部分の残らず全てであるから、「夜通し」の意となる。「晝者母」は「晝(ひる)はも」と訓む。「晝」(昼の旧字)は「ひる」で「太陽が空にあるあいだ。日の出から日没までの間」を言う。「者母」はハモ。「日之盡」は「日の盡(ことごと)」と訓む。「日」はヒ。ヨが夜の特定の一部分をいうのと同じ関係で、ヒも昼の特定の一部分を指すものと考えられる。「之」、「盡」は前句に同じ。「日の盡(ことごと)」は、昼の特定の一部分の残らず全てであるから、「昼中、終日(ひねもす)」の意となる。ここは夜と昼との対によって、夜も昼も止むことのないことを表わす対句となっており、ハモの繰り返しによって深い感慨を表現している。なお、この対句の類例は、「昼波毛 日之尽 夜羽毛 夜之尽」(204)、「昼者毛 日之尽 夜者毛 夜之尽」(372)などに見られるが、いずれも「昼は…夜は…」の形で、「夜は…」を先行させた例は他にない。「日没を通用日の始まり」とすることが天智朝以前には行われていたと、南方熊楠は「往古通用日の初め」で推定しているが、天武朝以降「日の出を通用日の始まり」とするという変化に伴って、この対句表現も変わったものと考えられる。とすれば、この対句は額田王によって創始されたものと言えるかも知れない。

 4句「哭耳呼 泣乍在而哉」()のみを 泣きつつありてや」と訓む。「哭耳呼」は「哭(ね)のみを」と訓む。「哭」は「ね」で「泣く」ことの名詞。「い」が「ぬ(ねる)」の名詞で、「寐(い)も宿(ぬ)る」(46番歌)のように用いられたのと同様に、「哭(ね)を泣く」などのように使われた。ここはそれにノミを加えたもので「哭(ね)のみを」として次の「泣く」に続けたもの。「耳」はノミで限定・強意を表わす。「呼」はヲ。なお、「哭」には、「葬に臨んで泣く。泣くように葬歌をうたう」の意がある。「泣乍在而哉」は「泣きつつ在(あ)りてや」と訓む。「泣」は「泣き」。「なく」は、生物が種々の刺激によって声を発することをいう語で、ここは「人が、精神や肉体への刺激にたえかねて、声を出し、また涙を流す」意で用いられている。勿論この場合「精神や肉体への刺激」というのは天智天皇が崩御されたことをいう。「乍」はツツ。「在」は「在(あ)り」。「而」はテ。「哉」はヤ。なお、「哭(ね)のみを泣(な)きつつ」は、陵前で繰り返される発哭・発哀の儀礼も含まれているとする説もある。

 結句「百磯城乃 大宮人者 去別南」「百礒城(ももしき)の 大宮人は ()き別れなむ」と訓む。「百礒城乃」は「百礒城(ももしき)の」と訓む。「百礒城(ももしき)の」は既出、「百の礒で築いた城」ということで「大宮」にかかる枕詞。「大宮人者」は「大宮人(おおみやひと)は」と訓む。「大宮人」は、宮廷に仕える人たちのことで、ここは近江朝の人たち。「去別南」は「去(ゆ)き別れなむ」と訓む。「去」は「去(ゆ)き」と訓む。「別」は「別れ」。「南」はナム。

 この句は「ちりぢりに別れて行ってしまうのだろうかなあ」という意である。単に題詞と同じ「退(まか)り散(あら)けむ」ではなく「去(ゆ)き別(わか)れなむ」とあることによって、戦いを前に、人々が離散することを予見している表現となっており、そこに作者の深い悲しみが見える。

 明日香の清御原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代

【巻2(156)。】
題詞
歴史解説
 高市皇子尊(たけちのみこ。天武天皇の第一皇子)の作歌。「明日香清御原宮御宇天皇代[天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇]」。「十市皇女(とおちのひめみこ。天武天皇の第一皇女、額田王の子)の(すぎま)せる時、高市皇子尊(たけちのみこ。天武天皇の第一皇子)のよみませる御歌三首」。(十市皇女が亡くなられた時に、高市皇子尊がお作りになった御歌三首の第1首)

 高市皇子と十市皇女は、大海人皇子の長男・長女(異母兄妹あるいは姉弟)として、年齢的にも近く幼い頃から親しかったと思われる。それが壬申の乱において、高市皇子は、天武軍を指揮して戦い、十市皇女の夫である大友皇子を死なしめた張本人の一人となってしまった。高市皇子は、自分が十市皇女を不幸にしてしまったとの思いを強く抱いていたに相違ない。その償いもできないまま、皇女を死なせてしまったとの悲しみが、この三首の歌にはあらわれている。
原文  三諸之神之 神須疑  已具耳矣自得見監乍共  不寝夜叙多
和訳  三諸(みもろ)の神の 神杉(かむすぎ) かくのみにありとし見つつ 寝(いね)ぬ夜ぞ多き
 三諸の神の神杉 夢にだに見むとすれども 寝ねぬ夜ぞ多き
現代文  「三諸の 三輪山の神杉のように神々しいので 近寄り難く遠く離れた所から 愛(いと)おしいと(互いに)目には見つつ (共に) 眠れぬ夜が多かったなぁ」。
文意解説  「万葉集を訓(よ)む(その240)」その他参照。

 発句「三諸之神之 神須疑」三諸(みもろ)の神の 神杉(かむすぎ)と訓む。「三諸之神之」は「三諸(みもろ)の神(みわ)の」と訓む。「みもろ」は、「神が降臨して依り付くところ。鏡や木綿(ゆう)をかけて神をまつる神座や、木・山・神社など」をいう普通名詞であるが、その代表的な「三輪山」のある所を指す地名としても使われ、「三諸の山」と言えば「三輪山」のことをいう。「之」はノ。「神」をそのまま「かみ」と訓む説も有るが、ここは「みわ」と訓みたい。「神」を「みわ」と訓むのは、次の157番歌の「神山」を「みわやま」と訓むのに同じ。「三輪山」は山全体がふもとにある大神(おおみわ)神社の神体とされている。本居宣長の『古事記伝』には「古大倭国に、皇大宮敷坐りし御代には、此美和大神を、殊に崇奉らして、たゞに大神とのみ申せば、即此神の御事なりしから、遂に其文字を、やがて大美和と云に用ふることにぞなれりけむ」とある。「神須疑」は「神(かむ)すぎ(杉)」と訓む。神が降臨されると信じられた神木の杉を指している。「須疑」はスギで杉を表している。三輪の杉は神木として特に有名で、その杉に触れると罰が当たると信じられていたことが次の歌によってわかる。「味酒呼 三輪之祝我 忌杉 手觸之罪歟 君二遇難寸」(712)(味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が 忌(いは)ふ杉 手觸(ふ)れし罪か 君に遇(あ)ひ難(がた)き)。

 結句「已具耳矣自得見監乍共  不寝夜叙多」「かくのみにありとし見つつ 寝(いね)ぬ夜ぞ多き」と訓む。「已具耳矣自得見監乍共」の十文字については解読不能となっている。諸説種々あるが未だ従うに足るものはない。現在まで定訓を見ない。そもそも表記が大混乱しており原文が不明にされている。1句なにか文節しているのかも大混乱している。これを解析するのに、仮に原文を「已具耳矣」の四文字であるとすると、どう訓めるか。「不寝夜叙多」は「寝(い)ねぬ夜ぞ多き」と訓む。「不寝」は「寝(い)ねぬ」と訓む。「いぬ」は「寝る」の意。「夜」はヨ。「よる」と「よ」の違いについては155番歌のところで既述。「叙」はゾ。「多」は「多(おほ)き」。上のゾの係り結びで連体形に訓む。この句は「寝られないことが多いことだ」の意ということで諸説がほぼ一致している。

【巻2(157)。】
題詞
歴史解説
 高市皇子尊の作歌。「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」(十市皇女が亡くなられた時に、高市皇子尊がお作りになった御歌三首)の二首目である。この歌もまた挽歌である。三輪山の山辺に祀る真麻木綿の短木綿を皇女の短命の比喩にしている。
原文  神山之  山邊真蘇木綿  短木綿  如此耳故尓  長等思伎
和訳  神山(かみやま)の 山辺(やまへ)真麻木綿(まそゆふ) 短か木綿(ゆふ) かくのみ故に 長くと思ひき
現代文  「三輪山の山辺に祀る真麻木綿は短い木綿だ。そういう訳で皇女の命も短かかったのであろうが、もっと長い木綿を祀っておれば命長くなったのだろうかとも思う」。
文意解説  発句「神山之  山邊真蘇木綿  短木綿」神山(かみやま)の 山辺(やまへ)真麻木綿(まそゆふ) 短か木綿(ゆふ)」と訓む。「神山之」は「神山(みわやま)の」と訓む。「神」を「みわ」と訓む。「之」はノ。旧訓にミワヤマノとあったのを、『萬葉代匠記』がカミヤマノと改め、その訓に従う注釈書もある。しかし、『萬葉集全注』が「どことも定められぬ山では、即境的な景物として山辺の麻を歌う必然性は乏しいだろう」と指摘するように、ここは三輪山のこととするのが歌に即している。「山邊真蘇木綿」は「山邊(やまへ)まそ[真麻]木綿(ゆふ)」と訓む。「山邊」は「山のほとり」の意。「邊」は「辺」の旧字。今も三輪山の西の道は山辺の道と呼ばれている。「真蘇」はマソ。「ソ」は「麻」の古名。「麻」をソと訓むのは、「打った麻」の意である「打麻(うちそ)」として既出している。「まそ」は麻の美称。よって「真蘇」は「真麻」を表わす。「麻」は、クワ科の一年草で、中央アジアの原産と考えられる。日本への渡来もきわめて古く、古代より、重要な繊維原植物として栽培されている。「木綿」は「ゆふ」と訓み、「楮(こうぞ)の樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細かにさいて糸としたもの」。ここは麻で作ったものを特に「真麻の木綿」と呼んだものと思われる。「ゆふ」は、幣(ぬさ)として神事や祭のときに榊(さかき)にかけて垂らすのに用いられた。「短木綿」は「短(みじか)木綿(ゆふ)」と訓む。「短(みじか)」は「みじかい」、低い形の意。「みじか山」「みじか袖」など。「短木綿」は、その「ゆふ」の短さを、十市皇女の短命の比喩に用いたものと考えられる。『萬葉集全注』に「ここは三輪山の山辺の麻で作った木綿が葬儀に用いられていたので、その短いことを比喩に利用したのであろう」とある。葬儀に用いられたかどうかは別にしても幣として祭られていた「真麻木綿」の短いのを見て詠んだものであることに違いないと思われる。

 結句「如此耳故尓  長等思伎」「かくのみ故に 長くと思ひき」と訓む。「如此耳故尓」は「如此(かく)のみ故(から)に」と訓む。「如此」はコノゴトクの義で、副詞「かく」に用いたもの。「耳」は限定のノミ。「故尓」にはユヱニとカラニとの二つの訓みがあるが、ここはカラニと訓む。その理由としては、①「伴之伎与之(はしきよし) 加久乃未可良尓(かくのみからに) 之多比己之(したひこし) …」(796番歌)の仮名書き例があること。②「故」の字を「から」と訓む例として、「己之(わが)景迹(こころ)故(から)」(2983番歌)があり、それは「己之(なが)行(こころ)柄(から)」(1741番歌)によっても認められること。③武田祐吉『萬葉集全註釋』が指摘するように「ユヱは、助詞ガを受ける以外は、他の助詞を受ける例が無い」ことの三点が挙げられる。古典基礎語辞典の解説には次のようにある。「助詞カラは、ウガラ(親族)・ハラカラ(同胞)・ヤカラ(族)のカラに同じで、もともと自然の血のつながりを意味している。それに格助詞ニの付いたカラニは、自然の成り行きでの意を表すところから、やがて、原因がほんのささいなことなのに、結果が意外に大きくて重いときに用い、…だけで、…ばっかりでの意に発展する。上代のカラニは、おおむねこの意味で使われている」。この解説に基づいて考えると、「如此(かく)のみ故(から)に」は、祭られていた幣の「真麻木綿」が短かったというほんのささいなことが、十市皇女の命を縮めるという重大な結果となってしまったということを意味していることになろう。「長等思伎」は「長くと思ひき」と訓む。「長」は「長(なが)く」。「等」はト。「思」は「思ひ」。「伎」はキ。この句の意は四句との関係からすると「皇女の命を長くと念じたことであった」の意となろう。

【巻2(158)。】
題詞
歴史解説
原文  山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行  道之白鳴
和訳  山吹の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
現代文  山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
 「まっ黄色な山吹の花々に彩られた山清水(泉)に水くみに行きたいのだが、そこへ行く道が分からない」。
文意解説  山吹はご存知鮮やかな黄色い花。「立ちよそひ」は「立ち装い」。高市皇子の悲嘆ぶりの大きさがよく分かる挽歌らしい挽歌である。今回は、「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」(十市皇女が亡くなられた時に、高市皇子尊がお作りになった御歌三首)の三首目である第158番歌を訓む。写本に異同はなく、原文は次の通り。

 発句「山振之 立儀足 山清水」「山吹の 立ちよそひたる 山清水」と訓む。「山振之」は「山ぶき[吹]の」と訓む。「振」はフルであるが、上代語ではフク(カ行四段活用の他動詞で「ふり動かす」意)とも訓まれたことから、フキの仮名に「振」の字を宛てたものと考えられる。「山振」は「山ぶき」と訓み、「山吹」のこと。山吹はバラ科の落葉低木で、晩春から初夏にかけて、五弁の黄色の美しい花を開く。「之」はノ。「立儀足」は「立ち儀(よそ)ひたる」と訓む。「立」は「立ち」。「たつ」は、「草木などが地から生えている」ことをいう。「儀」は、名義抄に「ノリ・トル・ヨソホヒ・カタチヨシ・スガタ・フルマヒ・メヅラシ・ナラブ・カタフク・キタル・ソナフ・オホイナリ・タグヒ」の訓があるが、「儀(よそ)ひ」と訓む。「よそふ」は「飾り整える」の意。「足」はタル。「山清水」は「山清水(やましみづ)」と訓む。「山清水」は「山の中にわき出ている清水」をいう。「立儀足山清水」は、旧訓にニホヒシヤマノシミツヲハ、サキタルヤマノシミツヲハとあったのを『代匠記』初稿本で、タチヨソヒタルヤマシミツと改め、以来それが定訓となった。1句からこの句まで「山吹の立ちよそひたる山清水」となるが、山吹の花の黄色から、これには「黄泉」の意が込められているものと考えられる。

 結句「酌尓雖行  道之白鳴」「汲みに行かめど 道の知らな」と訓む。「酌尓雖行」は「酌(く)みに行(ゆ)かめど」と訓む。「酌」は「酌(く)み」。「くむ」は「水などの液状のものを器ですくいとる」ことをいう。「尓」はニ。「雖行」は「行(ゆ)かめど」と訓む。メに相当する文字がないので「行(ゆ)けども」とも訓めるが、結句の内容から考えて「行(ゆ)かめど」の訓みが定訓となっている。「行(ゆ)かめど」は、「行こうと思うけれど」の意。なお、ムの無表記例は、既出例では140番歌三句「相時」を「相(あ)はむ時(とき)」と訓んだ例が挙げられるが、人麻呂歌集に少なからず見られる。「道之白鳴」は「道(みち)のし[知]らなく」と訓む。ここの「道」は、「山清水」(黄泉)に至る道、道筋のことをいう。「之」はノ。「白鳴」は「し[知]らなく」を表わすための借訓字。「白○」と記して「知らず」「知らに」を表した例としては、「…不知代経(いさよふ)浪乃(なみの) 去邊(ゆくへ)白不母(しらずも)」(264番歌)、「…田付乎(たづきを)白二(しらに)…」(619番歌)がある。「不知」では「知らなく」と訓ませ難いと考えての表記であろう。「知らなく」は「知らぬあく」が約まって「知らなく」となったもの。ここの「知る」は「物事の性質、なりゆき、対処すべき方法などがわかる」ことをいう。ク語法で終止する場合「なくに」止めの場合は詠嘆に加えて逆接的な意味が付加されるが、「なく」止めの場合は、専ら詠嘆の意味を表す。「道(みち)の知らなく」は「そこ(黄泉)へ行く道がわからないよ」の意となろう。

【巻2(159)。】
題詞
歴史解説
 持統天皇の作歌。「天皇崩之時大后御作歌一首」(天皇の(かむあがりま)せる時、大后のよみませる御歌一首)。天智天皇が亡くなった時に皇女の持統天皇が詠んだ歌。朱鳥元年(686)9月9日に崩じた天武天皇の死を悲しむ皇后鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)の歌。続く短歌二首(160・161番歌)も同じ事情のもとでの皇后の歌である。
原文  八隅知之 我大王之 暮去者 召賜良之 明来者 問賜良志 神岳乃 山之黄葉乎 今日毛鴨 問給麻思 明日毛鴨 召賜萬旨 其山乎 振放見乍 暮去者 綾哀  明来者 裏佐備晩 荒妙乃 衣之袖者 乾時文無
和訳  やすみしし 我が大王(おほきみ)の 夕されば ()したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも ()したまはまし その山を 振り()け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒布(あらたへ)の 衣の袖は ()る時もなし
現代文  「あまねく天下を治めておいでであった わが大君の(御魂が)夕方になると ごらんになっているにちがいない 夜が明けると おたずねになるにちがいない その神岳の 山の黄葉を (御在世であれば)今日も おたずねになろうものを 明日も ごらんになろうものを その山を 振り仰ぎ見つつ 夕方になると むしょうに悲しく 夜が明けると 心さびしく日を暮し 喪に服している粗末な この衣の袖は 乾く時もない。夕に見て、朝には問う神岳の紅葉を今日も問い、明日も見ているだろうか。その神岳を振り向いて見ると夕方には悲しく、朝には寂しくなり衣の袖が乾く時がない」。
文意解説  長歌。娘が父親が居なくなった後のさみしさを詠んでいる歌である。「『万葉集』を訓(よ)む(その247)」その他を参照する。

 発句「八隅知之 我大王之」「やすみしし 我が大王(おほきみ)の」と訓む。「八隅知之」は「八隅知(やすみし)し」と訓む。「わが大君」および「わご大君」にかかる枕詞として頻出例が多い。八方を統べ治める意を表わす。「我大王之」は「我(わ)が大王(おほきみ)の」と訓む。「我」は、ガを読み添えて「我(わ)が」。「大王」は既述。ここでは、天武天皇を指す。「之」はノ。

 2句「暮去者 召賜良之 明来者 問賜良志」「夕されば ()したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし」と訓む。「暮去者」は「暮(ゆふ)去(さ)れば」と訓む。121番歌の「暮(ゆふ)去(さ)らば」と同じ表記であるが、ここは「暮(ゆふ)去(さ)れば」と「去」を已然形の「去(さ)れ」に訓む。「者」はバ。「召賜良之」は「め[見]し賜(たま)ふらし」と訓む。「召」は、「見る」の敬語メスの連用形メシを表わすための借訓字。メスは、「見る」に敬語の「す」が続く場合に未然形ミがメに転じたものだが、四段活用。「召」を「呼び寄せる」意の正訓字とせずにメスの借訓字とする理由について稲岡『萬葉集全注』は次のように述べている。
 代匠記に「めしよせて御覧し」(初稿本)と注し、真淵の考に「召はめしよせて見給ふ也」と注するのは、正訓字と解したものであるが、呼びよせる意味の場合は「東の多芸の御門に伺侍へど昨日も今日も召す言もなし」(一八四)や「八十伴男を 召し集へ」(3・四七八)のように対象は人であり、ー蟹を擬人化した表現を含むー自然の景物ではない。「はしきかも皇子の命のありがよひ見(めし)し活道(いくぢ)の路は荒れにけり」(3・四七九)のように自然物を見る場合は「見(めし)」と記し、視覚的にも見る意味を明らかにしているが、ここでは対象が神岳の黄葉であるから、呼び寄せるのではなくミルの敬語と解するのが正しいであろう。

 『萬葉集全注』が言う様にこの句は次の「神岳(かむをか)の 山の黄葉(もみち)を」にかかるものであるから、「召」は「見る」の敬語メスの借訓字と見るのが良い。「賜」は「賜(たま)ふ」。「たまふ」には「賜、給」の字が宛てられるが、上位から下位へ物や恩恵を与える動作を表わすのが原義と思われる。そこから、恩恵を受ける下位者の立場を主として、「上位者が恩恵を与えてくれる、下さる」という、動作主を敬う気持が生じ、尊敬語が成立する。一方、恩恵を与える立場の者を主として、「恩恵を与えてやる、くれてやる」の意に用いられる場合も生じている。ここは尊敬表現。「良之」はラシ。「良之」で以て推量の助動詞「らし」を表わす。「らし」は「確実な根拠(多くの場合明示される)に基づいて現在の事態を確信的に推量する意をあらわす」(小学館『古語大辞典』)ものであるが、ここでは根拠は明示されていない。作者の皇后にとっては、根拠を明示するまでもない確信であったのだろうと思われる。ここの「らし」は連体形で「神岳の山の黄葉」にかかる。「明来者」は「明(あ)け来(く)れば」と訓む。138番歌に同じ。「明」はカ「明(あ)け」。「来」は「来(く)れ」。「者」はバ。「夜が明けてくると」の意。「問賜良志」は「問(と)ひ賜(たま)ふらし」と訓む。「問」は「問(と)ひ」。ここの「とふ」は「おとずれる」の意。「賜良志」は、「賜(たま)ふらし」で、「し」の表記は違う(「志」もシ音の常用音仮名)が4句に同じ。

 3句「神岳乃 山之黄葉乎」神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を」と訓む。「神岳乃」は「神岳(かむをか)の」と訓む。「神岳」は旧訓にカミオカとあり、『代匠記』・『萬葉考』以下多くの注釈書がこれを可としたが、「記紀歌謡」や『萬葉集』に「カミ~」の形ではなく、「カム~」の形が多いことから、「カム~」の方が古形とされてカムオカと訓まれるようになった。「乃」はノ。「神岳」は、「神岳に登りて、山部宿禰赤人が作る歌」と題詞にある324番歌の「三諸乃 神名備山尓…」とあるのと同じ所で、明日香の神奈備の地に在った丘に違いないと思われるが、現在に名をとどめておらず、甘橿丘の北の雷丘とする説や、橘寺の南にある通称ふぐり山に擬する説その他もあって確定できていない。「山之黄葉乎」は「山の黄葉(もみち)を」と訓む。「山」は「神岳の山」=「神名備山」。「之」はノ。「黄葉」は「もみち」で、「色づく」意の動詞「もみつ」の名詞形。萬葉集の「もみち」は、70例前後あるが、仮名書き例を除くと、紅葉1例、赤葉1例、赤2例の他は、全て「黄葉」である。動詞「もみつ」も、黄変・黄反・黄色・黄など、ほとんどが黄の文字を用いている。「乎」はヲ。

 4句「今日毛鴨 問給麻思 明日毛鴨 召賜萬旨」「今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも ()したまはまし」と訓む。「今日毛鴨」は「今日(けふ)もかも」と訓む。「今日」は「けふ」と訓み、「話し手が、今身を置いている、その日」をいう。「毛」はモ。「鴨」はカモ。「問給麻思」は「問(と)ひ給(たま)はまし」と訓む。「問」は「問(と)ひ」。「給」は「賜」と同じ「給(たま)は」。「麻思」はマシで「其山」にかかる。「明日毛鴨」は「明日(あす)もかも」と訓む。「明日」は「あす」と訓み、「現在を基点として、次の日」をいう。「毛鴨」はモカモ。「召賜萬旨」は「め[見]し賜(たま)はまし」と訓む。「召賜」は既出だが、ここの「賜」は未然形で「め[見]し賜(たま)は」と訓む。「萬旨」はマシ。「麻思」と同様に反実仮想の助動詞マシを表わし「其山」にかかる。「今日(けふ)もかも 問(と)ひ給(たま)はまし」と「明日(あす)もかも め[見]し賜(たま)はまし」が対句になっており、共に次の句にかかる。そしてこの対句の末尾のマシは、前のラシと見事に対応して、作者の心の動きを表現していると思う。「問ひ給ふ」「見(め)し賜ふ」という同じ行為を、初めの対句では現在推量の助動詞ラシを使って、天武の魂の存在を確信して、その御魂の行為として表現しているが、第二の対句では反実仮想の助動詞マシを使い、天武はもう崩(かむあが)りをして現し身を持たないということを納得して、「もし生きておられれば」同じ行為をされたであろうという仮想の行為として表現している。後に持統天皇となる作者は、夫の天武と共に神仙思想に傾倒していたと思われるが、このラシからマシへの転回は、天武が亡くなったという現実を見据える力を作者が備えていたことをいみじくも顕わしたものと言えるだろう。

 5句「其山乎 振放見乍」「その山を 振り()け見つつ」と訓む。「其山乎」は「其(そ)の山を」と訓む。「其」は「其(そ)の」で、中称の代名詞ソにノの付いたもの。前に述べたことや聞き手が了解していることをさし示す。「其(そ)の山は「神岳の山」=「神名備山」を指す。「乎」はヲ。「振放見乍」は「振(ふ)り放(さ)け見つつ」と訓む。「振放見」は「振(ふ)り放(さ)け見(み)」。「ふりさけみる」は、「遠くを仰ぎ見る。はるかかなたを見上げる。ふりさけあおぐ」の意。「乍」はツツ。この句から主語が作者に変わる。

 6句「暮去者 綾哀  明来者 裏佐備晩」「夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし」と訓む。「綾哀」は「あやに哀(かな)しみ」と訓む。「綾」は、字訓は「あや」で、意味は「あやぎぬ」。ここは副詞「あやに」を表わすための借訓字として用いたもの。「あやに」は感動詞アヤに二がついてできた語。言葉に表わせないほど、また、理解できないほどの感動をいう。「なんとも不思議に。わけもわからず。むやみに」の意。「あや」は、「あやし」「あやしぶ」などの「あや」と同源と言われる。「哀」は「哀(かな)しみ」と訓む。現代の感覚だと「かなしむ」の連用形の「かなしみ」と考えてしまうが、上代では「悲しく思う。歎く」意を表わす動詞は「かなしむ」ではなく、「かなしぶ」である。動詞「かなしぶ」も上代初めにはまだ存在せず、上代末になって、形容詞「かなし」の語幹に接尾語「ぶ」の付いた上二段動詞として成立した。その後平安初期にバ行四段活用となり、「かなしぶ」「かなしむ」と語形のゆれを生じることとなる。特に用例が多い今昔物語集では、「かなしぶ」「かなしむ」ほぼ半々であるが、それ以後は「かなしむ」が優勢に転じる。なお、「阿夜尓加奈之美(あやにかなしみ)」(4387番歌)の仮名書き例がある。「明来者」は「明け来れば」と訓む。裏佐備晩」は「うらさびくら[暮]し」と訓む。「裏佐備」で以て、「うらさび」を表わす。「うら」は「こころ」の意で、「裏」「浦」と同語源であるところから「裏」の字を宛てたもの。「佐備」はサビ。「うらさぶ」は「心さびしく感じる。何となく楽しまない。心がすさむ。また、さびれおとろえる」ことを言う。「晩」は、「くら[暮]し」を表わすのに用いたもので、「暮」と声義が近く通用された。「くらす」は「日が暮れて暗くなるまで時間を過ごす」ことを言うが、他の動詞の連用形に接続して、その行為を一日中し続ける意を表わす。ここも上の「うらさび」に接続して「一日中心さびしく過ごす」ことを意味する。

 結句「荒妙乃 衣之袖者 乾時文無」荒布(あらたへ)の 衣の袖は ()る時もなし」と訓む。「荒妙乃」は「荒妙(あらたへ)[栲]の」と訓む。「荒(あら)」は語素で、主として名詞の上について、これと熟合して用いられるが、ここでは「十分に精練されていないさま、粗製の、雑な、細かでない、すきまの多い」意を表わす。「妙(たへ)」は布の「栲(たへ)」を表わす。52番歌では、「荒妙(あらたへ)の」は、「あらたえ(繊維のあらい布)を作る材料である藤」というつづきで「藤」を含む地名「藤原」「藤井」「藤江」にかかる枕詞として用いられたが、ここは本来の「(藤や麻などを材料とする)繊維のあらい布の」の意で次の「衣」にかかる。「衣之袖者」は「衣(ころも)の袖(そで)は」と訓む。「荒妙の衣」は、粗末な衣を表わすが、喪服にも用いられた。ここは喪服で、「喪服の袖は」の意とみて良いだろう。「之」はノで、「者」はハ。「乾時文無」は「乾(ふ)る時も無(な)し」と訓む。「乾」は「乾(ふ)る」。「ふ」は「かわく。干(ひ)る」の意。「ふ」は、平安時代以降は上一段化して「ひる」となる。ここの「時」は、行為や状態を表わす連体修飾句を受けて「そうする場合、そういう状態である場合」の意を表わす。「文」はモ。「無」は「無(な)し」。

【巻2(160)。】
題詞
歴史解説
 持統天皇の作歌。「天武天皇(夫)崩御時の持統天皇御製歌2首」。「一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首」(一書ニ曰ク、天皇ノ(カムアガリマ)セル時、太上天皇ノ御製(ミヨ)ミマセル(オホミウタ)二首)。159番歌と同じく、160・161番歌は天武天皇崩御後の皇后鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)(後の持統天皇)の歌であり、長歌である159番歌の反歌に相当する位置づけでここに採録されたものと考えられる。ただ、平明な言葉の繰り返しとも見られる159番歌に対して、この二首には、中国道教や中国文学(月・星を詠う)の影響が色濃く顕われており、陰陽師の代作とする説もある。しかし、天武・持統天皇が、道教に帰依し、天文歴法にも熱心であったことからすれば、必ずしも代作と見なければならないこともないように思う。160番歌は、また難訓歌としても有名で、奇抜な内容(すなわち「燃えている火を袋に入れる」という幻術のことを詠っている)を承けての肝心の句に定訓がないため色々な解釈が行われて来た。しかし、間宮厚司の「『万葉集』一六〇番歌の訓釈」によって、正しい訓みがなされたと考えるのでその訓みに従うこととする。
原文  燃火物  取而L而  福路庭 入澄不言八 面智男雲
和訳  燃ゆる火も 取りて包みて 袋には ()ると言はずや 面(おも)知りたくも(面しるをくも)
現代文  「燃える火をも 取って包んで 袋に 入れるというではないか(同じ様に不思議なことだが) 面影がありありと目に浮かんで忘れられない夫がやって来ましたよ(神の力で拓かれた幸いの路を通って、この葬礼の行事の場である庭に)」。
文意解説
 発句「燃火物  取而L而  福路庭」「燃ゆる火も 取りて包みて 袋には」と訓む。「燃火物」は「燃(も)ゆる火(ひ)も」と訓む。「燃」は「燃(も)ゆる」。「火」は象形文字で、火の燃える形。「物」はモ。「燃えている火でさえも」の意。「取而裹而」は「取(と)りて褁(つつ)みて」と訓む。「取」は「取(と)り」。「裹」は「裹(つつ)み」。「而」はテ。「福路庭」は「ふくろ[袋]には」と訓む。「福路」は「ふくろ[袋]」を表わすための表記であるが、「ふく」に宛てた「福」には、「さいわい。神の助け」の意がある。また「ろ」にはロの「路」を用いているが、勿論「路」は「みち」を意味するので、「福路」には「さいわいのみち」の意があると見て良い。また「庭」は二ワ。本来の「何かを行なうための場所。何かの行事の行なわれるその場所」という意味(ここでは葬礼の場)をも表わしていると考えられる。この特殊な用字の使い方は、後の難訓箇所の訓みとも係ってくると思われる。

 結句「入澄不言八 面智男雲」()ると言はずや 面智男雲(おも)しるをくも)」と訓む。「入澄不言八」は「入(い)ると言(い)はずや」と訓む。ここの「入」は「入れる」の意。「澄」はト。「清澄、きよらか、あきらか」の意を意識しての用字と思われる。「不言」は「言はず」と訓む。「八」はヤ。岩波古語辞典によれば、ヤは、「終止形の下につき文の叙述の終りに加えられた場合には、相手に問いかける気持を表わす。この場合、話し手は、単に不明・不審だから相手に疑問を投げかけるものであるよりも、自分に一つの見込ないしは予断があることが多い」とある。ここも疑問というよりは、むしろ「言うではないか」の意。「面智男雲」は難解である。ここでは原文を「面智男雲」としたが、「面」を上句に続けて、「イルトハイハズヤモ」と訓み、「智男雲」の3字として訓む説のほか、「面智」を「面知日」あるいは「面知因」の誤字とする説もある。今までの訓みは、無訓のものを除くと、「男雲」をナクモと訓むかヲクモと訓むかで次のように二つに大別できる。
① ナクモと訓む説
 オモシルナクモ  『萬葉代匠記』・『萬葉集管見』・『萬葉集私注』
 シルトイハナクモ(智男雲) 『萬葉考』
 アハムヒナクモ(面知日男雲) 『萬葉集檜嬬手』
 アフヨシナクモ(面知因男雲) 『萬葉集新考』
 オモシラナクモ  『萬葉集全註釋』・『日本古典文学大系 萬葉集』
② ヲクモと訓む説
 アハムヒヲクモ(面知日男雲) 『萬葉集注釋』・『萬葉集全注』・
                『和歌文学体系 萬葉集』
 オモシルヲクモ  『万葉集 全訳注原文付』

 「男雲」をナクモと訓むか、ヲクモと訓むかで二つに大別できることを述べた。ナクモと訓む説は多いが、「男雲」をナクモと訓じるのが困難なことは、稲岡『萬葉集全注』が次のように述べている。
 男をナの仮名と見るのは、木下正俊「唇内韻尾の省略される場合」(万葉十号)に指摘するとおり、「南畝(ナモ)」(1・一八)、「南備(ナビ)」(9・一七七三)のように下接する音がMやBなどの子音である場合で、ナクモのようにK音の例はない。

 また、大野透『萬葉假名の研究』では、ナ音の略音仮名として「南」を挙げているが、「男」は挙げておらず、「男」はヲの訓仮名としてのみ認めている。以上のことから、「男雲」をナクモと訓む説は採らない。すると残るのは、アハムヒヲクモとオモシルヲクモということになる。アハムヒヲクモは澤瀉『萬葉集注釋』が試みた訓であるが、この訓を支持した稲岡『萬葉集全注』は,その採用理由について次のように述べている。
 「男」は澤瀉注釈に言うとおりヲの訓仮名と見るのが至当であろう。「男雲」をヲクモと訓み「招くも」と解した注釈の訓も至当なものと思う。「面智男雲」を結句の七音に宛て、「男雲」をヲクモとするなら、。「面智」は四音に読まれなければならない。オモシルとかメニツクなどと訓む説は男雲(ヲクモ)には続かないので否定されようし、第一「面智」の二字の訓として無理が目立つ。そうした訓に比べると、檜嬬手に「面智」を「面知日」の誤りと考え、「面知とは、逢見と云意の義訓なれば其の義を得て、面知日男雲(アハムヒナクモ)と訓べし」と記しているのは、すぐれた着想と言えよう。澤瀉注釈に檜嬬手の「面知日(アハムヒ)」と「男雲(ヲクモ)」を合わせ「逢はむ日招くも」という新訓を得て、「今は亡き天皇に再び謁見せむ日を招祷することよ」と解しているのは、檜嬬手説の修正案である。澤瀉自身が「逢はむ日」よりももっと直接的な言葉であってほしいような気もすると付言しており、別訓もありうると思うが、現在考えられる最良の訓と思う。

 これに対して、「男雲(ヲクモ)には続かないので否定されよう」とされたオモシルという訓みを採用し、「男雲(ヲクモ)」に続けて意味が通る解釈を示し、澤瀉が望んだもっと直接的な言葉としての新訓を唱えたのが、間宮「『万葉集』一六〇番歌の訓釈」と言えよう。「面智男雲」は「面(おも)しる[著]男(を)く[来]も」と訓む。「面」は「面影」。「智」は「しる[著]」を表わすのに用いたもの。「著し」は、「はっきりしている。明白である。いちじるしい」の意。「男」はヲ、男性を表す語素で〈形容詞の語幹+を〉の形で用いられる。例として、アラヲ(荒男)、マスラタケヲ(益ら健男)などが挙げられる。「面(おも)しる[著]男(を)」は、「面影がありありと目に浮かんで忘れられない男」の意で、作者の夫である天武のことを言ったものである。「雲」はクモ。この結句は、前四句で以て「不可能と思えることでも可能になる」と言ったことを承けて「ほら、亡くなった夫がやって来ましたよ」と詠ったもの。この結句は、長歌(159番歌)の最初の対句「暮(ゆふ)去(さ)れば め[見]し賜(たま)ふらし」「明(あ)け来(く)れば 問(と)ひ賜(たま)ふらし」の助動詞「らし」(確実に存在している気持の表現)に呼応したものと言えよう。「く[来]も」に「雲」を用いたのは、次の161番歌に「雲」を詠うことの布石と思われる。また「雲」には、死を暗示する働きや死者の霊魂をイメージさせる役割も託されているのかもしれない。「福路庭」は、「神の力で拓かれた幸いの路を通って、この葬礼の行事の場である庭に」という意で、「亡くなった夫がやって来た」と結句に続くものと考えられ、この結句が正しく訓まれる助けとして工夫したものと思われる。「澄」の用字も「あきらか」という意で、結句「面(おも)しる男(を)」の「しる[著]」(「はっきりしている」意)に対応させたものかとも考えられる。

【巻2(161)。】
題詞
歴史解説
 持統天皇の作歌。「一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首」の二首目。160番歌が長歌の助動詞「らし」(確実に存在している気持の表現)に呼応して天武の霊魂がやって来るのを目の当たりに見たことを詠ったのに対して、161番歌では、長歌の助動詞「まし」(反実仮想でしか表わせない諦念の表現)に呼応して、現身の天武は、星や月からも遠く離れ去って、最早戻ることがないことを詠っている。萬葉集で星を詠んだ歌人は、この歌の作者以外では、柿本人麻呂と山上憶良の二人しかいない。
原文  向南山  陳雲之  青雲之  星離去  月矣離而
和訳  向南山(きたやま)に たなびく雲の 青雲の 星(さか、はな)り行き 月も(さか、はな)りて
現代文  「北山に たなびいている雲の その青い雲(仙界に向かう天武)は 星を離れてゆき 月をも離れてゆくよ」。
文意解説  発句「向南山  陳雲之  青雲之」「向南山(きたやま)に たなびく雲の 青雲の」と訓む。「向南山」は、二を読み添えて「向南山(きたやま)に」と訓む。山田孝雄『萬葉集講義』に「『向南』二字を以て一語として『キタ』にあてたるにあらず、『向南山』三字を以て一語として直ちに『キタヤマ』の義に用ゐたるなるべし。南に向へる山は即ち北山に外ならざればなり」と記し、その他多くの注釈書も「向南山」をキタヤマと訓み「北山」の字をあてる。小島憲之「万葉人の庖厨に漢籍あり」は、「向南」の用字は崩御と関係があるとして、「これは毛詩などにもみえる如く、南はあかるい陽を示し、その反対に北は暗い陰を示す。顔延年、宗文元皇后哀策文(文選五八)の中に『南背国門、北首山園』とみえ、葬車の悲しくみささぎに向かふ描写を述べてゐるのは、単に南と北の対比ばかりでなく、北に墓処としての陰を示してゐる。『向南』は北であり、文字によって北と反対の南を表し、陰なる北を明確に示す」と、漢籍に典拠のあることを指摘している。以下の「陳雲」や「青雲」などと共に漢籍に典拠のあることは間違いないだろう。「陳雲之」は「陳(たなびく)雲の」と訓む。「陳」の義は「つらなる、つらねる」なので、類聚古集、紀州本の付訓にはツラナルクモノとある。しかし、雲がツラナルと言った例がなくタナビクの例が多いことから、江戸時代以後の諸注の大部分がタナビクと訓んでいる。斎藤茂吉『萬葉秀歌』は、ツラナルと訓み、「この方が型を破つて深みを増して居る」としている。なお、「たなびく」について日本国語大辞典の【補注】は次のように記している。「語構成については、「た─なびく(靡)」で、動詞「靡(なび)く」に接頭語「た」を冠したものとも、「たな─ひく(引)」で、タナは、トノと語源的に通じる接頭語であり、「たな─霧らふ」「たな─曇る」「たな─知る」などと同じタナであって、十分の意といわれる。用例の文脈から推すと、後者が妥当か。「万葉集」には「棚引」「棚曳」と当てた用例があり、当時すでに棚のように水平に長く引く意に解していたようである」。「青雲之」は「青雲(あをくも)の」と訓む。「青雲(あをくも)」は「青みを帯びた灰色の雲」。一説に、「晴れて雲もなく、青々とした空」をいうとするものもあるが、やはりここは前者の意。漢籍においては「青雲」は、祥瑞と見られたり、五行思想や仙界と結びつけられたりしている。ここは仙界に向かう天武を「青雲」と称したものと考えられる。「之」はノ。

 結句「星離去  月矣離而」「星(さか、はな)り行き 月も(さか、はな)りて」と訓む。「星離去」は「星離(はな)れ去(ゆ)き」と訓む。「星」は、広義には、「すべての天体」。狭義では「恒星」をいうが、一般には「太陽・月・地球を除く天体」をいう。「離去」を旧訓ワカレユキと訓み、『童蒙抄』ハナレユキ、『萬葉考』ハナレユク、宣長『玉の小琴』サカリユキと訓んだ。澤瀉『萬葉集注釋』は仁徳記歌謡の「大和邊に西風(にし)吹きあげて玖毛婆那禮(くもばなれ)」の例を挙げ、「ハナレと訓むべきものと思はれる。宣長がサカリとしたのは星や月を歳月の意に解した為」として、「雲や星を眼前に見る雲や星とすれば、右の「雲離れ」の例こそ最も適切なものと見るべきである」としている。適切な論だと思う。5句「月矣離而」は「月を離れて」と訓む。「月」は「地球にいちばん近い天体で、地球のただ一つの衛星」をいう。「矣」はヲ。「離」は4句に同じで「はなる」の連用形で「離(はな)れ」。「而」はテ。下の「去(ゆ)く」が省略されている。

 難解歌である。「向南山」を岩波大系本などは「南に向かう山」という意味から推察して北山としている。それは無理筋な読みで、中西本に従って「かむやま」即ち「神山」と詠みたい。歌意は、雲、星、月を詠みながら、「神(天皇)が亡くなったので取り巻いていた皇族や臣下たちが離れていった」ことを暗喩していると窺いたい。

【巻2(162)。】
題詞
歴史解説
 「天皇崩之後八年九月九日奉為御齊會之夜夢裏習賜御歌一首 [古歌集中出](天皇(すめらみこと)の崩(かむあが)りましし後の八年九月九日、奉為(おほみため)の御齊會(ごさいゑ)の夜の夢の裏(うち)に習ひ賜ふ御歌一首 [古歌集の中に出づ])」。天武天皇崩御後の八年とあるのは、持統七年(693)をさす。九月九日は、天武天皇崩御の日で、その日を国忌の日として毎年「齊會」を催すことが、持統二年二月十六日の詔で指示された。「齊會」とは、「僧を集めて斎食を施す法会」をいう。なお、「奉為」を「おほみため」と訓むのは、山田孝雄「奉為考」による。「夢の裏(うち)に習ひ賜ふ」は、「夢の中で幾度も繰り返し口ずさまれた」というほどの意か。「ならふ」は、物事に繰り返しよく接する意が原義で、「繰り返して馴れる。見習って練習する。」ことを言う。お手本になる歌があり、それを夢の中で繰り返し口ずさんで覚えた歌ということではないだろうか。

 本歌を評して、常套表現の羅列とか未完成の作だという向きもあるが、夢の中で覚えたそのままを詠まれたものと考えると、これはこれで不思議な雰囲気を持つ歌であると言える。「御歌」とのみあって、作者を明記していないが、持統天皇の作と見てよいだろう。なお、「古歌集」(89番歌の左注に既出)は、『萬葉集』編纂の為の資料となった歌集の一つで、持統・文武朝から奈良時代初期にかけての作歌を集めたものと推定される。
原文  明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子
和訳  明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は 沖つ藻も (なび)かふ波に 潮気のみ 香れる国に 味凝(うまごり) あやにともしき 高光る 日の御子
現代文  「明日香の 清御原の宮で 天下を お治めになられた 八隅を知ろしめす わが大君 高照らす 日の皇子は どのように お思いになられてか 神風の吹く 伊勢の国は 沖つ藻も 靡いている波の上に 潮の香ばかり 立ちこめている国に 美しい織物のアヤではないが (アヤに)むしょうにお逢いしたい 高照らす 日の御子」。
文意解説
 長歌(れんだいこ文法10句)。(「万葉集を訓(よ)む(その252)」)

 発句「明日香能 清御原乃宮尓」「明日香の 清御原の宮に」と訓む。「明日香能」は「明日香(あすか)の」と訓む。「明日香」は、奈良県高市郡明日香村付近一帯の称。北は大和三山にかぎられ、中央を飛鳥川が流れる。「能」はノ。「清御原乃宮尓」は「清御原(きよみはら)の宮に」と訓む。「清御原」は天武天皇の宮殿の名称、「浄御原」とも書く。「乃」はノ。「宮(みや)」は、「大王・天皇の住む御殿」をいう。「尓」はニ。「清御原宮」は、天武元年(672)冬、壬申の乱で勝利を得た大海人皇子が岡本の宮の南に造って移った所で、翌二年正月この宮で即位して天武天皇となる。以後、持統八年(694)十二月に藤原宮に移るまで持統天皇もここに住んだ。

 2句「天下 所知食之」は「天の下 知ろしめしし」と訓む。「天下」は「天(あめ)の下」と訓む。「天(あめ)の下」は、地上の世界全部を意味する漢語「天下(てんか)」を訳したもので、「高天原の下にある、この国土」を意味する。一字一音の表記として「阿米能志多」などの例がある。「所知食之」は「知らし食(め)しし」と訓む。「所知食之」は既出。「所知」は「知らし」と訓む。ここの「しる」は「統治する」の意。「食」は、24番歌5句のところで「食(を)す」または「食(は)む」と訓むと述べた。「食(を)す」には、「治める」の尊敬語として「お治めになる」の意味もあり、「食国(をすくに)」などとして使われるが、ここは「食(を)す」と訓むと上の「知らす」と意味が重複することになるので、仮名書きの例から、「しらしめす」と訓むのが良いとされ、「食す」=「召す」ということになった。「めす」は「見る」に尊敬のスが接続して「めす」となったもので、「ご覧になる」というのが本義であるが、食う、着る、などの尊敬語ともなり、「召す」と書く意に用いられるようになった。更にそれが単に補助動詞として、他の尊敬語動詞(助動詞)の連用形に付いて、尊敬の意をつけ加えるのに用いるようにもなった。「之」はシ。

 3句「八隅知之 吾大王」「やすみしし 我が大王」と訓む。「八隅知之」は「八隅知(やすみし)し」と訓む。「わが大君」および「わご大君」にかかる枕詞として常套句。八方を統べ治める意を表わす。「吾大王」は「吾(わ)が大王(おほきみ)」と訓む。「吾」はガを読み添えて「吾(わ)が」。「大王」は既述。ここでは天武天皇を指す。

 4句「高照 日之皇子」「高光る 日の皇子」と訓む。「高照」は「高照らす」と訓む。「照らす」は天上に高く照りたまう、の意で「日の皇子」にかかる枕詞。記紀歌謡に見える「高光る 日の皇子」と同じく、日の神の子孫として、天皇または皇子を賛美する表現。「高照らす」は、「高光る」をもとに人麻呂が創始したもので、他者を照らす意味もあり、特に讃美性が高いといわれている。「日之皇子」は「日の皇子(みこ)」と訓む。日の神、天照大神の子孫の意。古事記の歌謡に、倭建命を「多迦比迦流(たかひかる) 比能美古(ひのみこ) 夜須美斯志(やすみしし) 和賀意富岐美(わがおほきみ)」と称した例がある。ここは、その句を前後した形で、「八隅知(やすみし)し吾(わ)が大王(おほきみ)」と「高照らす日の皇子(みこ)」を対句にして、天武天皇を讃えて詠んだものである。「高照らす日の皇子」は、万葉集では天武・持統両天皇と天武系の皇子のみに用いられている。既出例では、軽の皇子を讃えた45番歌と持統天皇を讃えた50・52番歌がある。

 5句「何方尓 所念食可」「いかさまに 思ほしめせか」と訓む。「何方尓」は「何方(いかさま)に」と訓む。「何方」の二字でもって、状態や方法などについての疑問を表す形容動詞「いかさま」にあてたもので、「尓(二)」が付いて、副詞の「いかさまに」となり、「どのように、どんなふうに」の意を表す。「所念食可」は「念(おも)ほし食(め)せか」と訓む。「所念」は、今までに自発の「念(おも)ほゆ」と訓む例(7・64・144)と尊敬の「念(おも)ほす」と訓む例(29異伝・50)があった。ここは尊敬の「念(おも)ほす」の連用形で「念(おも)ほし」と訓む。「食」は、「食す」=「召す」の已然形で「食(め)せ」。「可」はカ。「何方(いかさま)に 念(おも)ほし食(め)せか」は、柿本人麻呂「近江荒都歌」(29)に「何方 御念食可」と表記は若干違うが既出の表現で、人麻呂に顕著な使用(他に167・217 ー 類句)が認められる語である。夢の中で手本となった歌は、あるいは人麻呂の歌であったのかも知れない。

 6句「神風乃 伊勢能國者」(かむかぜ)の 伊勢の国は」と訓む。「神風乃」は「神風(かむかぜ)の」と訓む。古事記の歌謡十三に「加牟加是能(かむかぜの) 伊勢能宇美能(いせのうみの)」の例により、「神風」は「かむかぜ」と訓む。「乃」はノ。「神風の」は「伊勢」の枕詞。伊勢は風の強い所で、その風を天照大御神の荒魂によって吹く風と見たものかと思われる。「伊勢能國者」は「伊勢の國は」と訓む。「伊勢」は、東海道十五か国の一つ。古くから皇大神宮の鎮座地として開け、大化改新で一国となる。「能」はノ。ここの「國」は、日本の行政上の一区画をなした土地の称として使われている。「者」はハ。天武天皇と伊勢の関係について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は、本歌の【歌意】の欄で次のように述べている。「天武天皇は、伊勢の神に対する信仰が篤く、壬申の乱に兵を挙げて伊勢入りをしたときは、三重県三重郡の朝明川の川辺で伊勢神宮を遥拝しており、戦後は大来皇女を斎王として伊勢神宮に遣わしている。天武天皇と伊勢神宮の結びつきの深さが皇后の夢に、伊勢の海の波の上におられる天皇の姿となってあらわれたのであろう。「それにしても、なぜ伊勢に、」との皇后の思いが、「神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に」という、言いさしの表現によくあらわれている」。確かに、前年に伊勢の国への行幸を行った持統の夢に、伊勢と天武が結びついてあらわれたということは十分に考えられるし、「それにしても、なぜ伊勢に、」との皇后の思いも「何方(いかさま)に 念(おも)ほし食(め)せか」の句がそれを示しており、適切な捉え方のように思う。

 7句「奥津藻毛 靡足波尓」「沖つ藻も (なび)かふ波に」と訓む。「奥津藻毛」は「奥(おき)つ藻(も)も」と訓む。「奥」の字を「沖」の意で用いる例は72・83番歌に既出。「津」はツ。「藻(も)」は、水中に生じる植物の総称である。和歌では、モ単独で詠まれることは少なく、「玉藻」「沖つ藻」「藻塩」「藻屑」などの複合語で多く見られる。「沖つ藻」は既出。「毛」はモ。
「靡足波尓」は「靡(な)みたる波(なみ)に」と訓む。「靡足」は、旧訓にナビキシとあったが、『代匠記』に「ナミタルトモ讀ベシ」とあるのに従って「靡(な)みたる」と訓まれるようになった。「足」をシの仮名に用いた例はあるが、いずれも上の音がア段である場合に限られるのでナビキシは採れない。「足」は、字訓に「たる」があることから、完了の助動詞「たり」の連体形「たる」の借訓字として用いたものと考えられる 。「靡」の訓みについては、稲岡『萬葉集全注』に『靡かせる意の動詞(下二段活用)「靡ぶ」に対し、四段活用の自動詞「靡ぶ」が想定されるし、バ行とマ行の音通ということでナム(連用形ナミ)という形も推定される』とある。ナビタルと訓んで良い気がするが、通説に従っておく。「尓」はニ。

 8句塩氣能味 香乎礼流國尓「潮気のみ 香れる国に」と訓む。で、「沖の藻も靡いている波の上に」の意となり、阿蘇『萬葉集全歌講義』では、そこに天武の姿を見た(皇后の夢)というように解しているわけである。「塩氣能味」は「塩氣(しほけ)のみ」と訓む。「塩氣」は「潮気」とも書き、「海上の水気。海水による湿り気。また、潮の気配やにおい」をいう。「能味」はノミ。「香乎礼流國尓」は「香(か)をれる國に」と訓む。「香乎礼流」で、「香(か)をれ」+ルを表す。「乎礼流」はヲレル。「煙、霧などが立ちこめる。また、火の気、潮の気などが漂う」ことをいう。「國」は国、「尓」は二。

 9句味凝 文尓乏寸味凝(うまごり) あやにともしき」と訓む。「味凝」は「うまこり」と訓む。「うまこり」は、美しい織物の意で、同じ意の「綾(あや)」と同音を持つ「あやに」にかかる枕詞。「うま」は「立派な。良い」意で、「こり」は「綾」の朝鮮語と同源という。「味」「凝」は共に「うま」「こり」を表すための借訓字であるが、15句「塩氣能味」の「塩味」からの連想から来る用字と思える。「文尓乏寸」は「あやに乏(とも)しき」と訓む。「文」は「綾」と同様、「あや」と訓まれ、「ななめに線が交錯している綾織りの模様。斜線模様」の意であるが、ここは下に「尓」を伴って、副詞「あやに」を表わすための借訓字として用いたもの。「あやに」は、「なんとも不思議に。わけもわからず。むやみに」の意。「乏寸」は、「乏(とも)しき」。「寸」はキ。ここの「ともし」は、「珍しくて心がひかれる」の意から転じて「慕わしい」「逢いたい」の意で使われたもの。「日之御子」にかかる。

 結句高照 日之御子「高光る 日の御子」と訓む。「高照」は「高(たか)照(て)らす」と訓む。「日之御子」は「日(ひ)の御子(みこ)」と訓む。「みこ」の表記が違うが8句に同じ。天武天皇を指す。

 藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代

【巻2(163)。】
題詞
歴史解説
 大伯皇女(おほくのひめみこ)の作歌。「大津皇子の(すぎま)しし後、大来皇女(おほくのひめみこ)の伊勢の斎宮(いつきのみや)より上京(のぼ)りたまへる時、よみませる御歌二首」。題詞から大津皇子(おおつのみこ)薨去の後、伊勢神宮より上京してきた大来皇女(おおくのひめみこ)が詠った歌だと知れる。すでに105番歌と106番歌で見たように、大来皇女は大津皇子の姉。処刑前夜に伊勢に会いに来た大津皇子を見送って哀傷極まる歌を詠った皇女である。大津皇子が処刑されたのは朱鳥元年(686年)10月。そして翌11月皇女は伊勢から藤原京に戻る。こうした経緯をやや詳細に述べたのはほかでもない。題詞や経緯が分からないと本歌は理解し辛いからである。「伊勢の国にいてもよかったのに」とはなんのことなのか、また、「君もいないのに」というその君は誰のことなのか、歌単独では分からないからである。今回から、「藤原宮御宇天皇代 [高天原廣野姫天皇<天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇>] 」と題されている「持統天皇の御代」の挽歌に進む。最初は、題詞に「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢齊宮上京之時御作歌二首」とある一首目の163番歌を訓む。題詞を訓み下すと「大津皇子薨(こう)ぜし後に、大来皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の齊宮(いつきのみや)より京(みやこ)に上(のぼ)る時に作りませるみ歌二首」となる。大津皇子の謀反事件については105番歌の所で述べた。作者の大来皇女(おほくのひめみこ)(105番歌の題詞では「大伯皇女」と表記)は、大津の姉であり、伊勢神宮の斎王であったが、その任を解かれて、朱鳥元年11月16日に京(大和)に到着した。大津皇子が刑死したのが10月3日であったから、すでに40日余が経っていたことになる。作者大来皇女は、上京して初めて弟大津の刑死を知ったものと思われ、本歌及び次歌(164)は、弟大津がすでに死んでいたことを知った直後の歌だと考えられる。本歌の4句・5句が、混乱し呆然とする作者の様子をストレートに伝えているし、次歌では、弟に逢いたい一心で、馬を急がせて帰って来たことを詠っている。

 反逆者となるかも知れない危険を犯し伊勢の国の斎宮であった姉の大伯皇女に会いに行った大津皇子。結局その行為がもとで彼は国家転覆を企んだ反逆者として捕縛され絞首刑に処せられてしまう。処刑の前、大津皇子は次のような時世の歌を詠んでいる。「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠(がく)りなむ」(万葉集巻四(四一六)(磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りに僕は雲のかなたに去るのだろうか)。なんともやるせなさの漂う一首である。この大津皇子謀反の背後には、文武に優れ人望厚い大津皇子ではなく自分の生んだ子である病弱の草壁皇子を、天武天皇亡き後の次の天皇にしたいと願う沙羅羅(さらら)皇女の陰謀があったとされている。ただ、姉の子でもある大津皇子を殺してまで望んだ草壁皇子の皇位継承も、結局は草壁皇子が病気で亡くなり実現しなかった。この後、草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの中継ぎとして、沙羅羅皇女自身が即位し持統天皇となる。この歌は持統天皇が即位したことで伊勢神宮の斎宮の職を解かれた大伯皇女が都に戻ったときに詠んだ二首のうちの一首である。このの歌の君とは弟の大津皇子。奈良県桜井市戒重の吉備春日神社境内にこの歌の歌碑がある。「金鳥臨西舎鼓聲 催短命泉路無賓 主此夕離家向」という大津皇子の漢詩の横に小さくこの歌が刻まれている。
原文  神風乃 伊勢能國尓母 有益乎  奈何可来計武  君毛不有尓
和訳  神風(かむかぜ)の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君も有(あ)らなくに
現代文  「あのまま神風の吹く伊勢の国にいればよかったのになぜ都に帰ってきたのだろう。愛しい君ももういないのに」。
文意解説
 発句「神風乃 伊勢能國尓母 有益乎」「神風(かむかぜ)の 伊勢の国にも あらましを」と訓む。「神風乃」は「神風(かむかぜ)の」と訓む。「神風(かむかぜ)の」は「伊勢」の枕詞。伊勢は風の強い所であることから「神風の吹く伊勢」と言われるようになったものと考えられる。「伊勢能國尓母」は「伊勢の國にも」と訓む。「伊勢の国」は、東海道十五か国の一つで、古くから皇大神宮の鎮座地として開けた所。「尓母」はニモ。「有益乎」は「有(あ)らましを」と訓む。「有」は「有(あ)ら」。「益乎」はマシヲ。「有(あ)らましを」は「居れば良かったものを」の意。

 結句「奈何可来計武  君毛不有尓」「何しか来けむ 君も有(あ)らなくに」と訓む。「奈何可来計武」は「奈何(なに)しか来(き)けむ」と訓む。「奈」は、「いかん。いかんせん」の意で、漢文では、多く「奈何・奈…何」のように、「何」と複合してその手段・方法・処置を尋ねる疑問の意を表す。「奈何可」を旧訓にナニニカと訓んだが(『金沢本』にはナニシカとある)、『萬葉考』にナニシカと改訓して以降、諸注多くこれに従っている。ただ、武田祐吉『萬葉集全註釋』はイカニカと訓んでいる。「奈何」の表記からすれば、イカニカと訓むのが良いようにも思えるが、イカニカは「どのようにして」の意であるのに対して、ナニシカは「何のために。何故」の意を表すもので、この歌にはナニシカの方がふさわしいと考えられる。なお、萬葉集では「奈何」をナニと訓む例はいくつもあることや、意味を強める副助詞「し」を訓み添える例も見られることから、「奈何可」をナニシカと訓むことに問題はない。「可」はカ。「来計武」は来ケム。過去の事態に関する不確実な想像・推量を表すが、ここは、上の「奈何(なに)しか」を承けて、急ぎ帰京したことの無意味であったことを思い、悔やみ歎く気持を表す。上の係助詞カの結びで連体形。「君毛不有尓」は「君(きみ)も有(あ)らなくに」と訓む。「君もいないのに」の意で逆接表現。「君」は弟の大津皇子を指す。「毛」はモ。「有勿久尓」は「有(あ)らなくに」。「不有」は、「有らぬあく」の約まった「有(あ)らなく」に宛てたもの。「尓」は二。 

【巻2(164)。】
題詞
歴史解説
 大伯皇女の作歌。「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢齋宮上京之時御作歌二首[大津皇子薨(こう)ぜし後に、大来皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の齊宮(いつきのみや)より京(みやこ)に上(のぼ)る時に作りませるみ歌二首]」の二首目である。
原文  欲見  吾為君毛  不有尓 奈何可来計武  馬疲尓
和訳  見まく欲(ほ)り ()が為(す)る君も 有(あ)らなくに(在()さなくに) 何しか来けむ 馬疲るるに
現代文  「一目みたいと思う君ももういないのに何をしに来たのだろう。馬が疲れるだけなのに」。
文意解説  発句「欲見  吾為君毛  不有尓」「見まく欲(ほ)り ()が為(す)る君も 有(あ)らなくに(在()さなくに)」と訓む。「欲見」は「見まく欲(ほ)り」と訓む。「欲見」は「見ることを欲っす」という意味である。「見」は「見むあく」の約まった「見まく」と訓む。「欲」は字訓「ほっする・ねがう・のぞむ・ほしい」で、現代も同じ意味で使われているが、「欲(ほ)る」が元々の姿である。ここは、「吾為」に続いており、「欲(ほ)り」と「為(す)」の間に「吾」が入った形で、「欲見(みまくほり) 吾待戀之(わがまちこひし)」(2124)、「欲見(みまくほり) 吾思妹者(わがおもふいもは)」(2793)などと同じ用い方で、「欲り」と「す」とがまだ一語と考えられておらず、「欲り」が独立した語であったことが認められる。「吾為君毛」は「吾(わ)が為(す)る君も」と訓む。「吾」はガを読み添えて「吾(わ)が」。「為」は「為(す)る」。「君」は弟の大津皇子を指す。「毛」はモ。「見まく欲(ほ)り吾(わ)が為(す)る君も」は「吾(わ)が見まく欲(ほ)り為(す)る君も」と同じであり、歌の調べの為に「吾」を中間に挿んだものと思われる。ただ、歌の調べの為だけではなく、「欲する」という気持の強さを表わすために「欲見」を置いたものとも考えられる。「逢いたいと(強く)私が願っている君も」の意。「不有尓」は「有(あ)らなくに」と訓む。「不有」は「有らず」だが「ぬあく」が約まって「なく」と訓む。「尓」はニ。

 
結句「奈何可来計武  馬疲尓」「何しか来けむ 馬疲るるに」と訓む。「奈何可来計武」は「奈何(なに)しか来(き)けむ」と訓む。萬葉集で「奈何」をナニと訓む例としては、「奈何為二(なにせむに)」(748)や「奈何不來喧(なにかきなかぬ)」(1487)が挙げられる。また、シを訓み添える例には、「奈何鴨(なにしかも)」、「何奇毛(なにしかも)」などがある。ということで「奈何可」をナニシカと訓むことに問題はない。「可」はカ。「来」は「来(き)」。「計武」はケム。「馬疲尓」は「馬疲るるに」と訓む。「馬」は、皇女の上京に使われた馬を意味し、それも多分乗馬として使ったものと思われる。前歌の「君」に対応させるのに「我」を以てせず、旅に用いた「馬」を以てしたところに、皇女の旅の疲れをも吹き飛ばしてしまった絶望的な悲しみを伝える効果をあげ、優れた連作となっている。「疲」は「疲(つか)るる」。「尓」は二。旧訓にウマツカラシニと訓んでいたのを、宣長『玉の小琴』にウマツカルルニと改訓し、以後両訓が行われている。しかしツカラシのシのような使役の意味の「ス」を無表記とした例は巻一・巻二に見当たらないこともあり、普通にウマツカルルニと訓むのが良い。「馬疲るるに」は倒置法で、「有(あ)らなくに」と同じく、「奈何(なに)しか来(き)けむ」に続く構成となっている。

【巻2(165)。】
題詞
歴史解説
 大伯(来)皇女の作歌。「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」([大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移(うつ)し葬(はぶ)る時に、大来皇女の哀しび傷みて作りませるみ歌二首])。この歌もちょっとした状況を頭に入れておく必要がある。二上山は奈良県葛城郡に聳える山でそこに大津皇子は葬られた。したがって弟背(いろせ)は大津皇子のことと分かる。「うつそみの」は今現在という意味で、「うつそみの人」は「現にこの世に生きてある身の人」。今回は、題詞に「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」とある一首目の165番歌を訓む。題詞を訓み下すと「大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移(うつ)し葬(はぶ)る時に、大来皇女の哀しび傷みて作りませるみ歌二首」となる。この歌の前の二首(163・164番歌)は、弟の大津皇子が刑死したことを知った直後の茫然自失といった状態で詠われたものであるが、本歌及び次歌(166)は、刑死の翌年の春、馬酔木の花が美しい頃に、大津皇子の屍を二上山に移葬することとなった時に詠まれたものである。移葬は、殯宮から屍を移し埋葬することを言うが、罪人である大津皇子に殯宮の礼が許されたとも思われず、取り敢えず近親者の手で仮に埋葬されていたものを正式に二上山に埋葬する許可が下りたので、移し埋葬したものと考えられる。この頃には、大来皇女は、呆然自失という状態からは脱して、諦めざるを得ないと思いはじめていたであろうが、「生きていて欲しかった」との思いも強く持っていたと思われる。その強い思いが、この二首(165・166)を生んだと言えよう。

 国家反逆者として処刑された大津皇子の遺体は一端仮の埋葬(この当時は墓が出来るまで仮に埋葬されその後本葬されました)をされた後、大和盆地の西の端にある二上山に埋葬された。実際に埋められた場所が何処なのかは諸説別れている。近年二上山の大和側の麓に発見された「鳥谷口古墳」がその埋葬地として有力視されている。この歌は大伯皇女が、藤原京から弟の大津皇子が眠る二上山を眺めて詠んだ歌である。二上山は現在では唐読みで「にじょうざん」と呼ばれているが万葉集の時代には「ふたかみやま」と呼ばれていた。大伯皇女のこの歌の歌碑は奈良県桜井市吉備にある春日神社前の池のほとりに立っている。大津の皇子の墓は二上山雄岳山頂付近にある。二上山の大和側麓に鳥谷口古墳がある。ここが本当の大津皇子の墓という説もあね。
原文  宇都曽見乃 人尓有吾哉  従明日者 二上山乎  弟世登吾将見
和訳  うつそみの 人なる(あれ)や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟(いろ)()()が見む
現代文  「現実の世の人であるわたしは、明日からは、二上山をあなたと思って見て暮らしませう」。
文意解説
 発句「宇都曽見乃 人尓有吾哉  従明日者」「うつそみの 人なる(あれ)や 明日よりは」と訓む。「宇都曽見乃」は「うつそみの」と訓む。「宇曽見(うつそみ)」は「うつせみ」の古形。「うつそみ」は現世の人を意味するが、現世の意味でも用いられ、ここは後者の意。「人尓有吾哉」は「人なる吾(われ)や」と訓む。ここの「人」は作者のことを指す。「尓有」は「なる」と訓む。二に「有り」が付いた「に有り」が約まってできたものであるところから、「尓有」の表記としたもの。「吾」は「われ」。「哉」はヤ。旧訓ヒトニアルワレヤであったが、『萬葉考』にヒトナルワレヤと改訓し、以降両訓が併存している。字義通りに訓めば「人にあるわれや」となるが、ここは、「ヒトナルワレヤ」と七音に訓むのが良いと思う。「従明日者」は「明日(あす)よりは」と訓む。「従」はヨり。漢文の語順表記で前に書かれているが「明日」の後で訓む。「明日」は「あす」と訓み、「現在を基点として、次の日」をいう。「者」はハ。

 結句「二上山乎  弟世登吾将見」「二上山(ふたかみやま)を 弟(いろ)せと()が見む」と訓む。「二上山乎」は「二上山(ふたかみやま)を」と訓む。「二上山」は奈良県と大阪府との境に位置する葛城連山のなかの二上山(にじょうざん)のこと。雄岳517メートル、雌岳474メートルからなり、雄岳山頂に大津皇子の墓と伝えられる墓がある。「乎」はヲ。「弟世登吾将見」は「弟(いろ)せと吾(わ)が見む」と訓む。「弟世」は、意味としては「弟」を示し、訓みとしては「せ」と言うべきことを示したもので、「いろせ」または「なせ」と訓むものと考えられる。「いろせ」の「いろ」は同母であることを表す語で、「せ」は、兄弟、恋人、夫など親しい男性を呼ぶ称である。同母兄弟を特定した語としては「いろえ」(同母兄)「いろと」(同母弟・妹)「いろね」(同母兄・姉)がある。「なせ」の「な」は二人称の「汝」で、「なせ」は兄・弟や夫という身近な男子を親しんで呼ぶ語である。ここは同母弟である大津皇子を指すので「いろと」「いろせ」と訓むべきであり、「いろと」ではなく「いろせ」であることを示すために「弟世」の表記を用いたものと考えられる。「世登」はセト。「吾」は「吾(わ)が」と訓む。「将見」は「見む」。ムは意志・意向の助動詞ムで上の係助詞ヤの結びで連体形。

【巻2(166)。】
題詞
歴史解説
 大伯皇女の作歌。この歌も謀反の罪で処刑された大津皇子を偲んで、姉の大伯皇女が詠んだ歌のうちの一首。左注「右一首今案不似移葬之歌 盖疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎」。諸注釈書が指摘するように「馬酔木」の花は早春に咲く花であることから大来皇女の上京した十一月中旬の歌というのはあり得ない。左注の注記者の誤解であることは明らかである、としている。

 三重県名張市夏見の夏見廃寺跡にこの歌の歌碑がある。夏見廃寺は、大伯皇女が父である天武天皇の追福を祈る為に建立した昌福寺がはじまりと伝えられている。一説によれば昌福寺は謀反の罪で殺害された弟の大津皇子を偲ぶ小堂であったともいわれ、謀反人とされた大津皇子を表だって弔えない為に父の追福を祈る為としたのかも知れない。夏見廃寺跡は国道165号線沿いの名張市役所の前、名張運動公園に隣接した場所にある。この後、701年に亡くなるまで大伯皇女がどのような人生を歩んだのかは現在に伝わっていない。
原文  礒之於尓  生流馬酔木乎  手折目杼  令視倍吉君之  在常不言尓
和訳  磯(いそ)の上に 生ふる馬酔木(あしび) 手()折らめど 見すべき君が 在()すと言はなくに
現代文  「岸のほとりに咲く馬酔木を手折って君に見せたいと思っても、見せてあげる君がこの世にいるとは誰も言ってくれません」。
文意解説
 発句「礒之於尓  生流馬酔木乎  手折目杼」「磯(いそ)の上に 生ふる馬酔木(あしび) 手()折らめど」と訓む。「礒之於尓」は「礒(いそ)の於(うへ)[上]に」と訓む。「礒、磯」は共に「いそ」と訓んで通用するが、本来は別字で、「礒」は、「石のごろごろするさま」をいい、「磯」は、「岩に波がうち寄せるところ」をいう。日本語の「いそ」にも、「石や巌」の意と「岩石の多い波打ち際」の意とがある。ここは「礒」の字が用いられている通り、「石や巌」の意である。「之」はノ。「於」の字について、澤瀉『萬葉集注釋』が次のように簡潔に述べている。
 「於」を上の意に用ゐる事については代匠記に山上憶良を文武紀大寳元年正月の條に「山於憶良」とある事を引き「南京ノ法相宗ノ學者、内典ヲ讀時、某ニオイテヲ某ノウヘニト讀習ヘルハ古風ノ故實ナルベシ」と云ひ、山田孝雄博士は萬葉集訓義考三(『萬葉集考叢』所収「於をウヘとよむこと」)に上代文獻や佛書、漢籍に於をウヘと訓む例をあげられてゐる。万葉集中には「大殿於(オホトノウヘニ)」(三・二六一)、「木末之於者(コヌレノウヘハ)」(七・一二六三)などがある。
 以上より「於」は「於(うへ)[上]」と訓む。「尓」はニ。「生流馬酔木乎」は「生(お)ふる馬酔木(あしび)を」と訓む。馬酔木(あせび又はあしび)は磯などに自生するツツジ科の常緑灌木。本州・四国・九州の山地の乾燥した所に自生し、早春下垂する白いつぼ形の花が多数総状に咲く。葉は有毒で殺虫剤に、材は挽物細工(ひきものざいく)などにする。「馬酔木」と書かれるのは、牛馬がその葉を食べると中毒を起こし、酔ったようになるからである。「生流」は「生(お)ふる」と訓む。「流(ル)」を用いている。「おふ」は「伸びる。成長する」意。「乎」はヲ。「手折目杼」は「手折(たを)らめど」と訓む。「手折」は「手折(たを)ら」。「たをる」は「手で折る。折り取る。また、折り取って持つ」の意。「目杼」はメド。

 結句「令視倍吉君之  在常不言尓」「見すべき君が 在()すと言はなくに」と訓む。「令視倍吉君之」は「視(み)すべき君(きみ)が」と訓む。「令」は使役を表す漢文の助字であることから、「令視」で以て、「視(み)」にスを付けて「視(み)す」と訓む。「倍吉」はべキ。「君」は亡くなってしまった弟の大津皇子を指すことは言うまでもない。ここの「之」はガ。「在常不言尓」は「在(あ)りと言はなくに」と訓む。「在」は「在(あ)り」。「常」はト。「不言」は「言(い)はなく」と訓む。「言はぬあく」のヌとアが約まって「言(い)はなく」となったもの。「尓」はニ。 「君がありと言はなくに」は字義にこだわって解すれば「君が在世していると誰も言ってくれないけれど」となる。「見せるべきあなたが、もうこの世にいない」とあっさり解せば良いと思う。

【巻2(167)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌](日並皇子(ひなみのみこ)(みこと)殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌(みじかうた))」。持統天皇の子、日並皇子(草壁皇子)が亡くなった時、柿本人麻呂が詠んだ歌。人麻呂は、晩年、久しぶりに『やまと』の地に帰り来て、滅ぼされた都のあまりにも荒れ果てた様子を見て、嘆きの中でいくつかの歌を残している。本歌もそのひとつである。「日並皇子尊」は、「日並知皇子尊」とも記され、皇太子に対する尊称であったとされるが、草壁皇子に対してしか用いられなかった。草壁皇子は、天武天皇の皇子で、母は皇后鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)(後の持統天皇)、天智天皇の皇女の阿閉(あへ)皇女(元明天皇)を妻とし、軽皇子(文武天皇)・氷高(ひたか)皇女(元正天皇)・吉備内親王(長屋王室)をもうけた。天武天皇十年(681)二月に二十歳で皇太子となる。天武崩御後の殯宮儀礼では、皇太子として公卿・百寮人を従えてしばしば慟哭の儀礼を行ったが、葬礼も終わった持統三年(689)四月十三日、皇太子の地位のまま二十八歳で薨じた。本歌は、天孫降臨の神話から詠み起こし、天武天皇の宮の造営と施政と崩御も詠んで、皇太子の即位を期待する人々の心を詠って、その早い薨去を惜しんでいる。本歌には反歌二首(168・169)が続く。また本歌には、「一云」として、11・12句、21・22句、35・36句、45句、63・64・65句の五箇所に異伝がある。

 飛鳥駅の南西にある佐田の地に岡宮天皇陵がある。宮内庁指定の草壁皇子のお墓である。岡宮天皇陵の北、佐田の春日神社境内に佐田・束明神古墳がある。最近の発掘でこの佐田・束明神古墳こそがほんとうの草壁皇子の墓(真弓の岡)ではないかとの説もある。日本書紀には草壁皇子の葬儀は「皇太子草壁皇子尊薨ず」とのみ記載され、非常に質素に執り行われたらしいことがうかがわれる。

 「天地の 初めの時し 久かたの 天河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひ座して」とあるのは、記紀の日本神話の伝えとは聊か異なっている。北山茂夫は、人麻呂がおそらく自らの家に伝わる旧辞をもとにかく詠ったのではないかと推理している。「高光る 日の皇子は 飛鳥の 清御の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます国と」は天武天皇への賛辞である。しかして、「天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに」と続ける。これは、天下万人が草壁皇子を新しい天皇として待ち望んでいたということを強調した部分であるといえる。これは、持統天皇の願いそのものでもあったと思われる。草壁の死後、妃阿閉皇女(元明天皇)、日高皇女(元正天皇)、軽皇子(文武天皇)が残され、持統天皇の意思に従うようにそれぞれ皇位につくこととなる。
原文  天地之 <初時>  久堅之  天河原尓 八百萬 千萬神之 神集  <集>座而 神分 <分>之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而]  神下  座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之  敷座國等 天原 石門乎開 神上 <上>座奴 [一云 神登 座尓之可婆]  吾王  皇子之命乃  天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國]  四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]
和訳  天地(あめつち)の 初めの時し ひさかたの 天の河原(あまのがはら)に 八百万(やほよろづ)  千万神(ちよろづ)の 神集(かむつど)ひ 集ひ(いま)して 神分(かむあが)り 分(あが)りし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) (あめ)をば  知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲(あまくも)の 八重掻き別()きて 神下(かむくだ) 座(いま)せまつりし  高照らす(高光る)  日の皇子は 飛鳥(あすか)の 清御原(きよみ)の宮に 神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ 我が大(おほきみ) 皇子(みこ)の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満(たた)はしけむと 天の下 食す国 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて  天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも
現代文  天地の 始まりの時のこと 久堅の 天の河原に 八百万 千万の神々が 神の集りに 集られて 相談に 相談を重ねられた時に 天照らす 日女の尊は 天の原を お治めになるとて 葦原の 瑞穂の国を 天と地の 寄り合う遠い果てまでも お治めになる 神の命として 天雲の 八重をかき分けて 天つ神の お下しになられた 高照らす 日の皇子(天武天皇)は 飛ぶ鳥の 浄御原の宮に 神として 御殿を構えられて (瑞穂の国は)代々の天皇の お治めになる国として 天の原の 岩戸を開いて 天に登り お隠れになった わが大君 日並皇子の尊が 天下を お治めになったとしたら 春の花のように 栄えるであろうと 満月のように 見事であろうと 天下の 四方八方の人が 大船のように 頼りに思って 天つ水を待つように 仰ぎ見待っていたのに どのように 考えられてか 縁もない 真弓の岡に 宮柱を しっかりと立て 殯宮を 高く営まれて 朝のお言葉も 仰せにならぬまま 日月も 多く重なった そのために 皇子の宮に仕える人たちは 途方にくれている
現代文  「天地創造のはじめのときに遥か彼方の天の河原に、八百万、一千万の神々がお集まりになって、神々をそれぞれの支配すべき国々に神としてお分かちになったとき、天照大神は天を支配されるというので、その下の葦原の中つ国を天地の接する果てまで統治なさる神の命として、天雲の八重に重なる雲をかき分けて神々しくお下りになった天高く輝く日の皇子は、明日香の浄御原の宮に神として御統治なさり、やがて天上を天皇のお治めになる永生の国として天の石門を開いて神としてお登りになった。その後わが大君たる皇子の尊が天下を御統治なさったなら、春の花のように貴いことだろうと、満月のようにみち足りることだろうと、天下のあちらこちらの人々がまるで大船のような大きな期待をもって、天からの慈雨を待ち仰ぐようであったのに、どうしたことか、ゆかりもない真弓の岡に宮殿の柱をりっぱにお建てになり宮殿を高々とお作りになって、毎朝の奉仕にもおことばを賜らぬ月日が多くなったことだ。そのために皇子の宮にお仕えした人々は、どうしたらよいか途方にくれているのです」。

 「天地の 始まりの時のこと 久堅の 天の河原に 八百万 千万の神々が 神の集りに 集られて 相談に 相談を重ねられた時に 天照らす 日女の尊は 天の原を お治めになるとて 葦原の 瑞穂の国を 天と地の 寄り合う遠い果てまでも お治めになる 神の命として 天雲の 八重をかき分けて 天つ神の お下しになられた 高照らす 日の皇子(天武天皇)は 飛ぶ鳥の 浄御原の宮に 神として 御殿を構えられて (瑞穂の国は)代々の天皇の お治めになる国として 天の原の 岩戸を開いて 天に登り お隠れになった わが大君 日並皇子の尊が 天下を お治めになったとしたら 春の花のように 栄えるであろうと 満月のように 見事であろうと 天下の 四方八方の人が 大船のように 頼りに思って 天つ水を待つように 仰ぎ見待っていたのに どのように 考えられてか 縁もない 真弓の岡に 宮柱を しっかりと立て 殯宮を 高く営まれて 朝のお言葉も 仰せにならぬまま 日月も 多く重なった そのために 皇子の宮に仕える人たちは 途方にくれている」
文意解説  発句「天地之 <初時> 」「天地(あめつち)の 初めの時し」と訓む。「天地」は「あめつち」と訓み、「天と地」。「初時」は、その天と地がはじめてできた時をいう。日本書紀の冒頭に「古天地未剖。陰陽不分。渾沌如鶏子。溟涬而含牙。及其清陽者薄靡而爲天。重濁者淹滯而爲地。精妙之合搏易。重濁之凝竭難。故天先成而地後定」とあり、未分化であった天と地が分離して、天と地になったという神話を記している。また古事記の冒頭に「天地初發之時[天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時]とあり、天地創造について、人麻呂が紀記と同じ考え方をしていたことがこの句からわかる。

 2句「久堅之  天河原尓」「久堅の 天の河原に」と訓む。「久堅(ひさかた)の」は「天」および天に関わる「雨」「月」などにかかる。「久堅之(乃)」「久方之(乃)」の用字例から、堅固な・久しい、の意を持つ表現だと思われる。「之」はノ。「天」はノを補読して「天(あま)の」と訓み、「高天原の」の意。「河原(かわら)」は高天原にあるとされた「安河」の河原を指し、神々が会合する場所とされた。「尓」はニ。

 3句「八百萬 千萬神之 神集」
「八百万(やほよろづ)  千万神(ちよろづ)の 神集(かむつど)ひ」と訓む。「八百萬」、「千萬」とも、数の限りなく多いことを表す。「之」はノ。「八百萬・千萬神の」は「大勢の神々が」の意。「神集」は「神集(かむつど)ひ・」と訓む。「神集」は神の動作に「神」を冠する表現で、「神集(かむつど)ひ」と訓む。9句「神分」・23句「神下」・35句「神上」も同じ表現。「集」はハ行四段活用の自動詞「つどふ」の連用形で「集(つど)ひ」。「つどふ」は「ある目的をもって集まる。会合などのために集まる」ことをいう。

 4句「<集>座而 神分」
「集ひ(いま)して 神分(かむあが)り」と訓む。「集座而」は「集(つど)ひ座(いま)して」と訓む。「座」は、「座(いま)し」。「います」は、尊敬語動詞「ます」にイの付いたもので、「いらっしゃる。おいでになる」の意。「而」はテ。古事記の有名な「天の石屋戸」の段に「八百萬神、於天安之河原、神集集而、[訓集云都度比]」とあるのと類似している。「神分」は「神分(かむはか)り」と訓む。「神分」は神の動作に「神」を冠した表現で、「神」は「かむ」と訓む。「分」は「分(はか)り」。「はかる」には、「計・量・測」の字を宛てて「物の数量、または時間の度合を一定の単位と比較して確かめる」意を表わす場合と「図・諮・議」の字を宛てて、「相談する。協議する」意を表す場合がある。ここは、後者の意であるが、「分」は長さの単位を表すことから「はかる」に宛てたものと考えられる。「はかる」と訓む根拠としては、大祓の祝詞に「八百萬神等乎(ヤホヨロヅノカミタチヲ)神集集賜比(カムツドヘニツドヘタマヒ)神議議賜比(カムハカルニハカリタマヒ)」とあることと、字鏡集よりも古いと思われる岩崎本字鏡に「分」の訓にハカラフがあることが挙げられる。

 5句「<分>之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命]」
「分(あが)りし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと)と訓む。「分之時尓」は「分(はか)りし時に」と訓む。「之」はシ。「時尓」は「その時に」の意。「尓」はニ。「天照 日女之命」は「天照(あまて)らす 日女(ひるめ)の命(みこと)」と訓む。「天照」は「天照(あまて)らす」と訓み、「天にあって照っていらっしゃる。天に輝いておられる」の意。「日女」は「ひるめ」と訓み、「日の女神」の意。「之」はノ。「命」は「みこと」と訓み、神や天皇などの高貴な人に対し、尊敬の意を表わして添える語で、「…のみこと」の形で用いる。「天照 日女之命」は、天照大神のことを指す。古事記には「天照大御神」とあり、日本書紀には「於是共生日神(ひのかみ)。號大日孁貴(おほひるめのむち)。〈…一書云。天照大神(あまてらすおおみかみ)。一書云。天照大日孁尊(あまてらすおほひるめみこと)。〉」とある。「孁」は「貴い女」の意。 [一云 指上 日女之命] は[一云 指(さ)し上(のぼ)る 日女(ひるめ)の命(みこと)]と訓む。「指上」は「さしあがる」と訓む可能性も残るが、多くの注釈書が「さしのぼる」と訓んで「日」の枕詞と見ているのに従う。「さしのぼる」は「日や月が高く登る」ことを言う。「指(さ)し上(のぼ)る」に対して本文の「天照(あまて)らす」は、尊敬の程度を深めた表現で、「高光る 日の皇子」から更に敬意を深めた「高照る 日の皇子」という表現が創られたと同じく、推敲の結果であろうと思われる。

 6句「天乎婆 所知食登」
「天(あめ)をば  知らしめすと」と訓む。「天」は「あめ」と訓み、「天つ神のいる処。高天原。また、神のいると信じられた天上界」のこと。「乎婆」はヲバ。動作の対象を強調する。「所知食」は「知らし」と訓む。ここの「しる」は「統治する」の意。「食」は、「食(を)す」と訓んで「治める」の尊敬語として「お治めになる」の意味もあるが、ここは「食(を)す」と訓むと上の「知らす」と意味が重複することになるので、「食(め)す」=「召す」と訓んで、他の尊敬語動詞(助動詞)の連用形に付いて尊敬の意をつけ加える補助動詞とみる。「登」はト。ここは旧訓アメヲハシロシメサムトと訓んだが、宣長『玉の小琴』にアメヲバシロシメストと改訓した。人麻呂作歌にはムの読み添えがないわけではないが、主体の意志を示すムを無表記とした例は無いことから、文字通りシラシメストと訓むのが正しいと思われる。なお、澤瀉『萬葉集注釋』は、ここをアメヲバシラシメセトと命令形に訓み、主語を「八百萬(やほよろづ)千萬神(ちよろづかみ)」とみるが、ここの主語は「天照(あまて)らす日女(ひるめ)の命(みこと)」と見るのが良いと考える。

 7句「葦原乃 水穂之國乎」「葦原の 瑞穂の国を」と訓む。「葦原(あしはら)」は「葦の生えている広い土地」の意。「乃」はノ。「水穂」は「みずみずしい稲(稲を主として麦・粟・稗なども含む)の穂」の意。瑞穂とも書かれる。「葦原(あしはら)の水穂(みづほ、瑞穂) の國」は、「葦原にあるみずみずしい稲の穂が実っている国」の意で、日本国の美称である。古事記には「豊葦原(とよあしはら)之千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)之水穂(みづほの)国」とあり、日本書紀には「葦原千五百秋(ちいほあき)之瑞穗(みづほの)國」と記す。「千秋長五百秋」、「千五百秋」は、「千年も五百年も収穫の季節が長く続く」意で、古代における国を予祝する表現である。「乎」はヲ。

 8句「天地之 依相之極」「天地の 寄り合ひの極み」と訓む。「天地之」は発句に同じ。「依相」は「依(よ)り相(あ)ひ」(寄り合い)と訓み、「互いに近づくこと。近づき接すること。また、そのところ」をいう。「極」は「極(きは)み」と訓み、「きわまるところ。限り。果て」の意。「天地(あめつち)の・依(よ)り相(あ)ひの極(きは)み」は「天と地とが一つに寄り合う果てまで」という空間的な意味を表すが、同時に、時間的にも無限の時の彼方までの意を示すものとも言われる。この表現を時間的な永遠性を表すのに用いている例として「天地乃(アメツチノ) 依會限(ヨリアヒノキハミ) 萬世丹(ヨロヅヨニ) 榮将徃迹(サカエユカムト)」(1047)「天地之(アメツチノ) 依相極(ヨリアヒノキハミ) 玉緒之(タマノヲノ) 不絶常念(タエジトオモフ)」(2787)を挙げることができる。

 9句「所知行 神之命等」「知らしめす 神の命と」と訓む。「所知」は、「知らし」の表記として用いたもの。「しる」は「統治する」の意。「行」は、「行(め)す」=「召す」と訓む。「行」の字を「めす」と訓む例は萬葉集には他に例がないが、続日本紀所載の宣命には「所念行須(オモホシメス)」(元明天皇、即位)などの例は多く、「聞行須(キコシメス)」(淳仁天皇、即位)「所知行之(シラシメシシ)」(天平神護二年、正月)などの例もある。「神之命」は、「神(かみ)の命(みこと)」と訓む。「命」は、神や天皇などの高貴な人に対し、尊敬の意を表わして添える語で、「…のみこと」の形で用いる。「等」はト。

 10句「天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而]  神下」
「天雲(あまくも)の 八重掻き別()きて 神下(かむくだ)り」と訓む。「天雲(あまくも)」は「空の雲」の意。「八重(やへ)」は、「八つ重なっていること。転じて、数多く重なっていること。また、そのもの」をいう。「天雲の八重」は、「天の八重雲」というのと同じであるが、山田『萬葉集講義』に、「かく実体を先にし、その数量を後にしてその間を『の』にてつづくる語法は古今に通ずる語格の一なるが、そが意味はその下の数量に重点をおくによりてかかる語格をなせるものにして、ただ語を上下におきかふるに止まるにあらず」と説明がある通り、重点が「八重」に置かれている形である。「掻別」は「掻(か)き別(わ)け」。「而」はテ。「かきわく」は、「前方をふさいでいるものを、左右へおしやるようにして道を開く。じゃまなものを横へおしてどける」ことをいう。「わく」を「掻(か)き別(わ)き」と訓む説もある。確かに、「天雲(あまくも)の・八重(やへ)掻(か)き別(わ)けて」に相当するところ、古事記には、「故爾詔天津日子番能爾爾藝命(ににぎのみこと)而、離天之石位(あまのいはくら)、押分天之八重多那(タナ)(此二字以音。)雲而、伊都能知和岐知和岐弖(イツノチワキチワキテ)、(自伊以下十字以音。)」とあってそこにワキとあることから、「わく」は元来四段活用の動詞であったことがわかる。しかし、萬葉集の時代には「わく」は、大体下二段活用に転じてしまっており、「意味的に弁別する」ことを言う場合にのみ四段活用の形が残されていたと見られる。ここは「掻(か)き別(わ)け」と下二段活用に訓むので良い。引用した古事記の最後の十字を倉野憲司校注本で見ると「稜威(いつ)の道(ち)別き道(ち)別きて」とある。[一云 天雲之 八重雲別而] は[一云 天雲(あまくも)の 八重雲(やへくも)別(わ)けて]と訓む。この異伝では、クモという同語を反復しているが、同語反復は、祝詞などに多く見られるように、口承の表現の特徴と言える。しかし「書くことの文学」では、同語反復は時に冗長に感じられるため、推敲した結果、それを避けて本文のようにしたものと考えられる。「神下」は「神下(かむくだ)し」と訓む。「神下」は、神の動作に「神」を冠した表現で、「神」は「かむ」と訓む。「下」は「下(くだ)し」。

 11句「座奉之 高照 日之皇子波」
(いま)せまつりし  高照らす(高光る)  日の皇子は」と訓む。「座奉之」は「座(いま)せ奉(まつ)りし」と訓む。「座」は「座(いま)せ」。「いらっしゃるようにさせる。おいでにならせる」の意。「奉」は「奉(まつ)り」。「之」はシ。ここの主語についても「八百萬(やほよろづ)千萬神(ちよろづかみ)」とみる説が多いが、ここの主語も「天照(あまて)らす日女(ひるめ)の命(みこと)」と見て良いのではないかと思う。ここまで詠われているのは、古事記の「葦原中国の平定」から「爾爾藝命(天孫降臨)」までの叙述に対応したものであるが、古事記においては、「爾爾藝命」を「天降し」たのは「天照大御神」であって「八百萬千萬神」ではない。「高照 日之皇子波」は「高照らす 日の皇子(みこ)は」と訓む。「高照らす」は、人麻呂が創始した「日の皇子」にかかる枕詞。「日の皇子」は、日の神である天照大神の子孫の意。「波」はハ。ここで問題となるのが「日の皇子」は誰を指すのかということである。先ず、上の句からの続きからすると、「天照らす日女の命」が「神下し座せ奉りし」とあるので、前句の説明で述べたように、「日の皇子」は「爾爾藝命」を指すことは明らかである。しかし、以下の句の展開からすると、「日の皇子」は、「物故した天皇ないし皇子」をも同時に指していると思われ、二重の意味を持つものと考えなければならない。つまり、ここの「日の皇子」は、いわば掛詞的に置かれていて、この歌が詠まれた時点で「日の皇子」と呼ばれうる人物(後述するように天武天皇・日並皇子=草壁皇太子の両説がある)を指しながら、その人物と「爾爾藝命」とを二重写しにすることにより、その神聖性を高める働きをしていると言えよう。この歌が詠まれた時点で「日の皇子」と呼ばれうる人物、それもすでに亡くなっている人物と言えば、天武天皇と日並皇子=草壁皇太子の二人ということになり、そのどちらを採るかで説が分かれている。天武天皇ととる説には、賀茂真淵『萬葉考』、鹿持雅澄『萬葉集古義』、井上通泰『萬葉集新考』、鴻巣盛廣『萬葉集全釋』、武田祐吉『萬葉集全註釋』、土屋文明『萬葉集私注』、澤瀉久孝『萬葉集注釋』、阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義』などがあり、日並皇子ととる説としては、契沖『萬葉代匠記』、本居宣長『萬葉集玉小琴』、岸本由豆流『萬葉集攷證』、山田孝雄『萬葉集講義』、窪田空穂『萬葉集評釈』などがあって、両説が完全に対立している。異伝を見る限り、人麻呂が考えていた「日の皇子」は天武天皇であったことは間違いないことを述べた。そしてそのことは、この異伝を推敲した結果である本文において変更されたとは考えられない。本文では、異伝の「座しにしかば」と次の句に続く表現を、「座しぬ」と終止とする表現に改めを「日の皇子」=天武天皇の叙述として完結させたものと考えられる。そして、以降、いよいよ日並皇子について述べることとなるわけである。

 さてそこで、日並皇子説の根拠となっている「天武に関する叙述が多くを占めるのは不自然だ」との見方についてはどのように考えたら良いのであろうか。そのことについて、身崎壽「日並皇子挽歌」(『万葉集を学ぶ』第二集)は、次のように述べている。
  …この長歌前段の解釈を困難にしている原因は、日並の死を悼むにあたってまず当人よりその父の天武の存在をクローズアップしているというこの作品の表現そのものにあるといえよう。しかしそれこそ人麻呂の意図したものであったとみなければならない。それは日並に生前さしたる功業がなかったからというような消極的な理由によるものではあるまい。そこには個人の資質や功業とはかかわらない、持統朝の宮廷社会を支配していたひとつの精神が如実に反映しているのだ。この時代にあって唯一にして最高の権威と尊崇の対象は、「壬申の乱」において自らの手で王権を戦いとった英主天武天皇であった。その天武の偉大な存在の前にあっては、たとえば諸皇子の個人的な力量などはさして問題にならないのだ。逆にいえば、日並は天武によって皇太子とされたがゆえに、そのことによって、他の皇位継承権者から厳然と区別される存在であったに違いない。つまり天武朝の皇太子であることが日並のすべてであったといってもよいのではなかろうか。その皇太子の死を悼む公的な挽歌において、右のような表現方法がとられたことはむしろ当然であったのだ。

 以上、長い引用になったが、示唆に富む論であると思う。
「持統朝の宮廷社会を支配していたひとつの精神」は、「高照らす日の皇子」という表現が万葉集では天武・持統両天皇と天武系の皇子のみに用いられているということに端的に顕われていると言えよう。この論を読んでいると、持統天皇について直接触れていないが、英主天武の権威を高め、自らの子孫に皇統を引き継がせる事に執念を燃やした持統天皇の姿が大きく浮かんで来る。

 12句「飛鳥之 浄之宮尓」
「飛鳥(あすか)の 清御原(きよみ)の宮に」と訓む。「飛鳥之」は、多くの写本がアスカノと訓んでいるが、『紀州本』にトブトリノとあり、それが古訓と思われる。日本書紀天武紀の朱鳥元年七月条に、「改元曰朱鳥元年。〈朱鳥。此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」とあり、赤雉の瑞祥にちなんで、年号を「朱鳥(あかみとり)」と改元するとともに、その宮殿「浄御原宮(きよみはらのみや)」を「飛鳥浄御原宮」と呼ぶようにしたというのだが、本居宣長『古事記伝』は、この記事をあげて、「飛鳥は、トブトリノと訓むべし、これをアスカと訓むは非なり。其の故は、朱鳥の祥瑞(シルシ)の出来たるをめで賜ひて、年の号をも然改め賜ひ、大宮の号にも、その朱鳥を取て飛鳥(トブトリ)の云々とは名づけ賜へるなり。あすかと云はむは、本よりの地なれば、殊更に、仍名宮曰など云ふべき由なきを思ふべし」と言い、「飛鳥」の二字をアスカと訓むに至ったのは後のことだと宣長は考えた。この考えは、沢瀉久孝『万葉の作品と時代』にも受け継がれているが、一方、井出至「『飛鳥』考」、土橋寛「『飛鳥』という文字」によれば、飛鳥を地名アスカに宛てたのは朱鳥の年号に関係がなく、右の朱鳥元年紀の宮号もアスカノキヨミハラノミヤと訓むべきだとする。土橋論文は、小野朝臣毛人墓誌(丁丑年=六七七年)の「飛鳥浄御原宮治天下天皇」の例などを挙げて、アスカを飛鳥と記すのは朱鳥元年以前からのことで、前掲の記事はむしろ朱鳥に府会した起源説話的説明と思われると言う。確かに土橋説が言うように地名アスカを飛鳥を記すことは朱鳥元年以前から行われていたのかもしれない。だとしても、ここは「飛(と)ぶ鳥(とり)の」と訓んで、明日香の地にある「浄之宮」にかかる枕詞とみるのが良いと思う。人麻呂の中では「飛鳥」は「飛(と)ぶ鳥(とり)の」という歌語であって、「飛鳥(あすか)」という地名を表す語ではないからである。そのことは、人麻呂作歌の「飛鳥(とぶとりの) 明日香乃河」の例からも明らかであろう。「浄之宮」は、「浄(きよみ)[浄御原]の宮(みや)」と訓み、天武天皇の宮殿を指す。「尓」はニ。

 13句「神随 太布座而」「神(かむ)ながら 太敷きまして」と訓む。「神随」は、人麻呂の「吉野讃歌」(38)や「安騎野歌」(45)では、「神長柄」と表記されていた「神(かむ)ながら」を正訓字表記したもので、「神の本性そのままに。神でおありになるままに」の意。「太布座」は、表記は異なるが「太敷座」に同じ。「太布」は、「太(ふと)布(し)き」。「ふとしく」(「ふと」は美称)は、「宮殿などの柱をしっかりとゆるがないように地に打ちこむ。宮殿を壮大に造営する」ことを言う。「座」は「います」。「います」として使われていたが、ここの「座」は「座(ま)し」。「而」はテ。「神随(かむながら) 太(ふと)布(し)き座(ま)して」は「神として壮大に宮殿を構えられて(天下を統治されて)」の意となる。「浄(きよみ)[浄御原]の宮(みや)」に宮殿を構えて天下を統治されたのは、天武天皇であるからこの句の主語は、天武天皇としなければ意味が通らないのは明白であろう。

 14句「天皇之  敷座國等」「天皇(すめろき)の 敷きます国と」と訓む。「天皇之」は「天皇
(すめろき)の」と訓む。「すめろき」は「皇祖神」「皇神祖」「皇祖」などと書かれていることが多く、「皇祖である天皇」を主として言うが、その皇祖より受け継いだ「当代の天皇」についても言うようになった。また「代々の天皇」ということを意味する場合にも使われた。「敷座國等」の「敷」は「敷(し)き」。ここの「しく」は「治める。支配する」意。「座」は「座(ま)す」。「國」は「水穂之國」と考えられるが、「高天原」と見る説もある。「等」はト。「天皇(すめろき)の敷(し)き座(ま)す國(くに)と」については、先の「日の皇子」を天武天皇ととる説と日並皇子ととる説との対立に関連して、その解釈が分かれている。①日並皇子説では、「天皇」を「当代の天皇」(持統)とし、「國」を「水穂之國」と見て、「御母の持統天皇がお治めになる國であるとして」と解している。日並皇子説の文脈の捉え方は、一括して挿入句と考えて解釈するわけである。一方、天武天皇説では、文脈の捉え方を一貫して主語は「日の皇子」=天武天皇と見る。解釈には二通りあって、②ひとつは、「天皇」を「皇祖歴代の天皇」とし、「國」を「高天原」と見て、「歴代の天皇方のおいでになる所(天皇が死後おもむくべき所)として」と解する。③もうひとつは、「天皇」を「皇統を受け継いで行く代々の天皇」とし、「國」を「水穂之國」と見て、「この国は代々の天皇がお治めになる国であるとして」と解する。天武天皇説では②が多くとられているが、ここで「國」を「高天原」と見るのは、天地分治を詠い、1「水穂之國」と詠っていることからすると無理がある。それよりも③の解釈をとって、天武天皇が、自分の崩御後は然るべき代々の天皇が位についてこの「水穂之國」を統治するであろうと予期して逝ったと、この歌は詠っていると見るのが良いと思う。すなわち、この表現によって、日並皇子=草壁皇太子の即位は他ならぬ天武天皇の意志であり、期待であったことを主張しているものと考えられる。

 15句「天原 石門乎開」「天の原 岩戸を開き」と訓む。「天(あま)の原(はら)」は、147番歌に「広く大きな空」の意で使われていたが、いま一つの意味として「天つ神が統治する天上界。高天原」があり、ここは「高天原」の意。「石門(いはと)」は「岩の戸」で、高天原の出入り口に門として岩戸があるとの発想からの表現。「乎」はヲ。「開」は「開(ひら)き」。「閉じ塞がったものを押し広げる」の意。

 16句「神上 上座奴」「神上(かむあが)り・上(あが)り座(いま)しぬ」と訓む。「神上」と同じく神の動作に「神」を冠した表現で、「神」は「かむ」と訓む。「上」は「上(あが)り」。「かむあがる」は「神が天にお上りになる。転じて、貴人がなくなる。崩御する」ことを言う。「座」は、「座(いま)し」。「います」は「いらっしゃる。おいでになる」の意。「奴」はヌ。 [一云 神登 座尓之可婆] は[一云 神登(かむのぼ)り 座(いま)しにしかば]と訓む。異伝で、「神登」は、「神上」と同じ表現で、「神」は「かむ」と訓み、「登」は「登(のぼ)り」。「かむのぼる」は「かむあがる」と意味は同じ。「座」は、本文と同じく「座(いま)し」。それに「尓之可婆(ニシカバ)」(全て常用音仮名)が続く。「にしかば」は、ヌの連用形二+キ已然形シカ+バ。「神登り座しにしかば」は、「神として天上の世界へ登っていらっしゃったので」という意となる。本文では「座しぬ」と終止していたので、その主語を日並皇子とすることもできるが、この異伝では、「天武が崩御したので日並皇子が…」と続くのでなければ意味が通らない。明らかにここの主語は天武天皇であり、人麻呂が考えていた「日の皇子」は天武天皇であったことは、少なくともこの異伝においては間違いないと言える。

 17句「吾王 皇子之命乃」「吾(わ)が王(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと)の」と訓む。「吾王」とあって、「吾大王」とはなっていないが、訓みとしては同じ「わがおほきみ」。「おほきみ」は天皇だけでなく、親王、王、王女など天皇の子孫を尊敬して言う場合にも用いられた。「大王」と書かれている場合は天皇を指す。「皇子」は「天皇の子。子孫」の意。「命」は、神や天皇などの高貴な人に対し、尊敬の意を表わして添える語で、「…のみこと」の形で用いる。「乃」はガ。「皇子の命」は、皇太子であった日並皇子=草壁皇子を指す。

 18句「天下 所知食世者」「天(あめ)の下(した) 知(し)らし食(め)しせば」と訓む。「天(あめ)の下(した)」は、地上の世界全部を意味する漢語「天下(てんか)」を訳したもので、「高天原の下にある、この国土」を意味する。「所知食」は既出。「所知」は、「知らし」。「しる」は「統治する」意。「食」は、「食(め)す」=「召す」で、ここは「食(め)し」と訓む。「世者」はセバ。セバで、事実に反することを仮定して下の句の条件句となる。「天(あめ)の下 知らし食(め)しせば」は「もし天下をお治めになったとしたら」の意。

 19句「春花之 貴在等」「春花(はるはな)の 貴(たふと)く在(あ)らむと」と訓む。「春花の」は枕詞で、①春の花が美しく咲いている意で、「盛り」「にほひさかゆ」にかかる。②春の花をめでる意で、「貴し」や「めづらし」にかかる。③春の花が散っていく意で、「うつろふ」にかかる。のように用いられる。ここは②。「貴」は「貴(たふと)く」。「在」は「在(あ)らむ」。「等」はト。

 20句「望月乃 満波之計武跡」「望月(もちづき)の 満(たた)はしけむと」と訓む。「望月(もちづき)」は「陰暦十五夜の月。満月」。「望月の」は枕詞で、①満月の欠けた所のない意で、「たたはし」や「足(た)る」などにかかる。②満月の美しく、観賞にあたいするものであるところから、「愛(め)づらし」にかかる。一説に、満月はひと月に一晩だけであるところから「珍し」にかかる。ここは①。「たたはし」は、シク活用形容詞で、四段活用動詞の「たたう(堪)」の形容詞化した語であり、「(満月のように)満ちているさまである。欠けたところのないさまである。大きくて威厳がある。いかめしく、立派である。厳格である」などの意。ここはその未然形で「たたはしけ」+推量の助動詞「む」+格助詞「と」を「満波之計武跡」と表記したもの。「跡」はト。なお、上代の形容詞は、「戀しけ、戀しく、戀し、戀しけ」のように、未然形「戀しけ」が存在し、已然形の「けれ」が十分発達しておらず、未然と已然が同形である場合が多い。

 21句「天下 四方之人乃」「天(あめ)の下(した) 四方(よも)の人(ひと)の」と訓む。「天下」は先出。「四方(よも)」は、「(ある所を中心として)東西南北。前後左右。しほう」が原義だが、「あちらこちら。諸方。また、いたるところ」の意でも使われ、「四方の人」は、「諸方の人。天下の人民」の意。 [一云 食國] は[一云 食(を)す國]と訓む。「天下」の異伝であるが、推敲の結果、「天(あめ)の下 知らし食(め)しせば」との呼応を考えて「天下」に改めたものと考えられる。「食國」は既出。「食」は、「食(を)す」と訓む。「食(を)す」は、上代の文献で尊敬語として使われた語。ヲサ(筬)、ヲサ(長)、ヲサム(治む)のヲサと同根であると見られる。ヲサ(筬)は織機の縦糸の乱れを整えるもの。ヲサ(長)は行政府の長官で、行政を整然と行う責任者。ヲサム(治む)は行政を統括し整然と実行すること。このようにヲサには、「整える、整然と行う」という意がある。ヲスは「治む」の尊敬語で、「お治めになる」意で、天皇が統治なさる国の意で「食(を)す國」と使うことが多い。

 22句「大船之 思憑而」「大船(おほふね)の 思(おも)ひ憑(たの)[頼]みて」と訓む。「大船之」は枕詞。ここは、大船を頼みにするところから、「思ひ頼む」「頼む」にかかる枕詞として使われている。「思憑」は「思ひ憑(たの)み」。「おもひたのむ」は、「心に頼む。頼みに思う。」ことを言う。「而」はテ。なお、「憑」の訓みについて名義抄には、「憑。タノム・ヨル・イカル・サカリニ・イキドホル・オホイナリ・アツラフ・ヨ(リ)トコロ」とある。

 23句「天水 仰而待尓」「天(あま)つ水(みづ) 仰(あほ)ぎて待(ま)つに」と訓む。「天水」は、「あまつみづ」と訓み、「天からの恵みの雨」を意味する。有名な大伴家持の雨を乞う歌に「弥騰里兒能(みどりこの) 知許布我其登久(ちこふがごとく) 安麻都美豆(あまつみづ) 安布藝弖曽麻都(あふぎてぞまつ)」(4122)の表現例がある。家持の歌では、文字通り、天よりの恵みの雨を仰ぎ待つ意であるが、ここの「天つ水」は比喩的な枕詞として用いたもの。「仰」は「仰ぎ」。「而」はテ。「待」は「待つ」。「尓」はニ。「天つ水・仰ぎて待つに」は、日並皇子の即位を仰ぎ待っていることを天よりの恵みの雨を待つことに譬えて詠ったもの。

 24句「何方尓 御念食可」「何方(いかさま)に (御)念(おも)ほし食(め)せか」と訓む。柿本人麻呂「近江荒都歌」(29)に「何方 御念食可」とあるのと「尓」の表記の有無はあるが同じ。直近の162番歌にも「何方尓 所念食可」とあり、これも表記は違うが同じ表現。「何方」は、状態や方法などについての疑問を表す形容動詞「いかさま」にあてたもので、それに「尓(二)」が付いて、副詞の「いかさまに」となり、「どのように、どんなふうに」の意を表す。「御念」は「(御)念(おも)ほし」と訓む。「食」は、「食す」=「召す」の已然形で「食(め)せ」。「可」はカ。

 25句「由縁母無 真弓乃岡尓」「由縁(つれ)も無(な)き 真弓(まゆみ)の岡(をか)に」と訓む。「由縁」は、旧訓にユヱとし、『代匠記』にヨシと改めたが、「都禮毛奈吉(ツレモナキ) 佐保乃山邊尓(サホノヤマベニ)」(460)、「何方(イカサマニ) 御念食可(オモホシメセカ) 津礼毛無(ツレモナキ) 城上宮尓(キノヘノミヤニ)」(3326)などの例によって『玉の小琴』がツレと訓んだのに従う。「由縁」は事の由来やゆかりをあらわす漢語であり、それを関係やつながりを表す和語のツレに宛てたもの。「母」はモ。「無」は「無(な)き」。「つれもなし」は、一語の形容詞として取り扱われ、「なんのゆかりもない。なんのかかわりもない」という意。ここでは生前何の縁故もなかった地に墓所が営まれたことを言ったものであろう。「真弓(まゆみ)の岡(をか)」は、奈良県高市郡明日香村真弓から同郡高取町佐田にかけての一帯の地をいう。日並皇子(草壁皇子)の陵は真弓丘陵と称される(『延喜式』諸陵式)この地に造られた。従来岡宮天皇陵と伝えられてきた所より300メートル北の束明神古墳が草壁陵ではないかと見られている。「尓」はニ。

 26句「宮柱 太布座」「宮柱(みやばしら) 太(ふと)布(し)き座(いま)し」と訓む。「宮柱」、は文字通り、「宮殿の柱」の意であるが、ここは「殯宮の柱」と考えられる。「太布」は「太(ふと)布(し)き」。「座」は、「座(いま)し」。「います」は本来「居り」「有り」「行く」の敬語動詞であり、その省略されたものが「ます」でそれも同様に用いられてもいるが、「ます」の方は単に上の動詞に敬意を添える補助動詞として用いられる事が多くなった。「座」は、本歌でも「います」「ます」の両方に用いられており、ここもどちらとも訓める。旧訓にフトシキマシテと訓んでいたのを、真淵『萬葉考』にフトシキイマシと改めたが、フトシキマシと六音に訓む説もある。七音に訓みたいが、旧訓はテを読み添える点で難があり採れないので、『萬葉考』に従いフトシキイマシと訓む。「宮柱を太く立派にお構えになり」の意。

 27句「御在香乎 高知座而」「御(み)在(あ)らかを 高知(たかし)り座(ま)して」と訓む。「御在香」は、宮殿を敬っていう「みあらか」を表すのに宛てたもので、50番歌9句に「都宮」の表記で既出。「み[御]」は神や天皇に関わる物事を表わす接頭語。「あらか」は独立して使われた例はないが、「ありか[在処]」の転で居所を指す。「香」はカ。「乎」はヲ。ここの「みあらか」は「殯宮」を指すと思われる。「高知座而」は38番歌八句に同じ。「高知」は、ラ行四段活用の他動詞「たかしる」の連用形で「高(たか)知(し)り」。「たかしる」は、「立派につくり構える。立派に統治する。」意。「高(たか)」は、「太(ふと)布(し)く」の「太(ふと)」と同様のほめことば。ここの「座」は「座(ま)し」。「而」はテ。この「御(み)在(あ)らかを・高知(たかし)り座(ま)して」は、前の「宮柱 太(ふと)布(し)き座(いま)し」と同じ内容を言い換えたもの。

 28句「明言尓 御言不御問」「明(あさ)[朝]言(こと)に 御言(みこと)(御)問(と)はさず」と訓む。「明」は、人麻呂がこの字を「夕」の対偶語としてアシタに宛てている例(217)があることから、アサと訓むことで諸注一致している。次の「言」については、これを借訓字とみて「朝毎に」の意とする説も『代匠記』以来多い。しかし、「言」を「毎」の意とするのは、かなり無理があると言わなければならない。というのは「毎」の意を表すのに人麻呂作歌では、「八十隈毎」(131)、「乞泣毎」(210)、「乞哭別」(213)などの例にあるように、「毎」「別」の字を用いており、「言」の字は、「言佐敝久」(135、199)のように明らかに言語を意味する時に用いているからである。ここはやはり「朝の言葉」の意と解したい。「尓」はニ。「御言」は「お言葉」。「不御問」は「問(と)はさず」と訓む。「とふ」は「話しかける。もの言う」の意。

 29句「日月之 數多成塗」「日月(ひつき)の 數多(まね)く成(な)りぬる」と訓む。この「日月」は時間の上の「月日」の意。155番歌のところで、対句表現の「夜は…昼は…」が古い形で後に「昼は…夜は…」の形となった事を述べたが、それと同じ様に、時日の「月日」も、人麻呂や憶良らは「日月」とあり、家持などは「月日」とあるので、古くは「日月」と言っていたのが後に「月日」に変わったものと考えられる。「數多」は、「數多(まね)く」。「まねし」度数が多い。度(たび)重なっている。頻繁(ひんぱん)である」ことを言う。「成塗」は、「成(な)りぬる」と訓む。「塗」はヌル。「何方(いかさま)に念(おも)ほし食(め)せか」の係助詞カの結びとして連体形に訓むが、個々を連体形には訓まず「成りぬれ」と已然形に訓む説もある。澤瀉『萬葉集注釋』は「『いかさまに思ほしめせか』の語は月日の経過した事にかかるのでなくて、殯宮を営みそこにこもりてものものたまはずなつた事にかかるので、その『か』をうける結びは自然消滅の形で、『かくて月日の経過してゆくので』と又下へつづく形であると」という。確かに「いかさまに思ほしめせか」は「日月(ひつき)の數多(まね)く成(な)りぬる」というだけにかかるものではなく、「おもほしめせか」より下「成りぬる」まで全体にかかるのであるが、やはり「か」の結びは「成りぬる」で承けていると見た方が良いと思う。「塗」の用字がそれを示していると考えられるし、茂吉評釈には、マネクナリヌレではソコユヱニとの続きが悪いと言っており、そのことにもうなづける。

 結句「其故 皇子之宮人 行方不知毛」「其(そ)こ故(ゆゑ)に 皇子(みこ)の宮人(みやひと) 行方(ゆくへ)知(し)らずも」と訓む。「其故」は、「そこゆゑに」という連語を表し、接続詞的に用いて前の事柄の当然の結果として後の事柄が起こることを示す。「それゆえに。それだから」の意。「皇子の宮人」は、日並皇子の宮に仕える人々。「行方」は「行くべき方」。「不知」は「知らず」。「毛」はモ。「行方(ゆくへ)知らずも」は、これから先どうなるか分からず途方にくれていることを詠ったもの。[一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為] は[一云 刺(さ)す竹(たけ)の 皇子(みこ)の宮人(みやひと) 歸邊(ゆくへ)知(し)らに為(す)]と訓む。「刺(さ)す竹(たけ)の」は、「君」「大宮人」「皇子」「舎人男(とねりおとこ)」などの宮廷関係の語にかかる。かかり方は未詳だが、「瑞枝さす」「五百枝さす」などの「さす」と同語で、竹が勢いよく生長することから宮廷をほめたたえる事柄に用い、それを舎人などにも転用したものと考えられる。「皇子宮人」はノを補読して「皇子(みこ)の宮人(みやひと)」と訓み、本文に同じ。「歸邊」は「行方」に同じく「ゆくへ」。「不知毛」は「知(し)らずも」と訓む。[一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]につき、「不知尓」は「知(し)らに」と訓む。「毛(モ)」に替えて「尓(二)」を表記している。「為」はス。途方にくれている。

 長歌(65句)。天を治める天照大神を詠い、その天照大神が国を治めるために日並皇子(草壁皇子)を明日香の浄御原の宮に下されたと詠い、その日並皇子が天下をすべてお治めになられたらこの世は春の花のように貴く満月のように満ち足りるだろうと人々が期待していたのに、真弓の岡の天の岩戸に隠れてしまったと詠い、物を言わない日が数多くなり、皇子に勤めた宮人もどうしていいか分からなくなっている、と詠んでいる。皇位争いで不利な立場に居た草壁皇子の人柄は舎人たちの歌に詠われるように、人々に愛され慕われるものだったことになる。

【巻2(168)。】
題詞
歴史解説
 柿本人麻呂の作歌。反し歌二首。柿本人麻呂の「日並皇子挽歌」と称される長歌(167番歌)の反歌一首目である。この歌は先の巻二(一六七)の草壁皇子の死を悼んで詠まれた柿本人麿の長歌につけられた二首の反歌のうちのひとつである。167番長歌に付されている題詞によって本歌は草壁皇子の薨去に際し柿本人麻呂が詠じた歌と分かる。  

 草壁の皇子の住まいは島の宮と呼ばれ、現在の明日香村の石舞台のすぐ前あたりだったと考えられている。この歌では草壁皇子の生存中は仕える舎人たちが行き交い活気のあったその島の宮が、皇子が亡くなってからは人影もまばらになりこのまま荒れてゆくだろうことが惜しいと嘆いている。人麿たち舎人にとって、草壁皇子が大きな存在であったかがうかがわれる。
原文  久堅乃  天見如久  仰見之  皇子乃御門之  荒巻惜毛
和訳  ひさかたの 天見るごとく  仰ぎ見し 皇子(みこ)の御門(みかど)の 荒れまく惜(を)しも
現代文  「はるか天を見るように仰ぎ見た皇子の御門の荒れてゆくだろうことが惜しくて仕方がありません」。
文意解説  発句「久堅乃  天見如久  仰見之」「ひさかたの 天見るごとく  仰ぎ見し」と訓む。「久堅乃」は「久堅(ひさかた)の」と訓む。「久堅之」とノの表記は違うが同句。「ひさかたの」は枕詞で「天」および天に関わる「雨」「月」などにかかる。「堅固な、久しい」の意を持つ表現だと考えられる。「乃」はノ。「天見如久」は「天(あめ)見る如く」と訓む。「天」は「天地(あめつち)」の「あめ」で、「天(てん)。空(そら)」の意。「見」は「見(み)る」。「如」は「…のようである」の意であることから、比況を表わす助動詞「ごとし」にあてられたもの。「ごとし」は、「同じ」の意を表わす「こと」の濁音化した「ごと」にシが付いたもの。その活用は「〇・ごとく・ごとし・ごとき・〇・〇」で、ここは連用形の「如(ごと)く」。「久」はク。「仰見之」は「仰(あふ)ぎ見し」と訓む。「あふぎみる」は「上の方を向いて見る」の意だが、心理的に高いものを見る意から「尊敬する。うやまう」の意をも持つ。「之」はシ。以上の上句は、167番歌の「天(あま)つ水(みづ)・仰(あほ)ぎて待(ま)つに」を承けて、草壁皇子の天皇即位の待たれたことを暗示的に詠ったものと言えよう。

 
結句「皇子乃御門之  荒巻惜毛」「皇子(みこ)の御門(みかど)の 荒れまく惜(を)しも」と訓む。「皇子乃御門之」は「皇子(みこ)の御門(みかど)の」と訓む。「皇子」は日並皇子(草壁皇子)を指す。「乃」はノ。「御門」は、「門」に接頭語のミがついたものだが、そこから家や屋敷の尊敬語となり、ここは「宮殿」の意。ここの「之」はノ。「荒巻惜毛」は「荒(あ)れまく惜(を)しも」と訓む。「荒」は「荒れ」。「巻」はマク。推量の助動詞ムのク語法で、ムにアクが付いたムアクが約まったもの。「惜」は「惜(を)し」。「毛」はモ。阿蘇『萬葉集全歌講義』は、「主人の死後、その庭園やその周辺の道路に草が生え、手入れが行き届かず荒れることを歌い歎くのは挽歌の慣用的な表現」と言う。

【巻2(169)。】
題詞
歴史解説
 柿本人麻呂の作歌。「或ル本、件ノ歌ヲ以テ後ノ皇子ノ尊ノ殯宮ノ時ノ反歌ト為ス」。この歌も先の巻二(一六八)の歌と一緒に巻二(一六七)の長歌につけられた二首の反歌のうちのひとつである。「あかねさす」も「ぬばたまの」も枕詞。日は天皇、月は草壁皇子の比喩に使われている。宮廷歌のひとつと考えてよかろう。今回は、169番歌を訓む。前歌に続いて、柿本人麻呂の「日並皇子挽歌」と称される長歌(167番歌)の反歌二首目である。
原文  茜刺  日者雖照者  烏玉之  夜渡月之  隠良久惜毛
和訳  あかねさす 日は照らせれど ぬば玉の 夜渡る月の 隠らく惜しも
現代文  「あかね色に日は照らすけれども、その日輪にも似た皇子(草壁皇子)がぬばたまの夜空を渡る月のように隠れてしまったことが惜しくて仕方がありません」。
文意解説

 発句「茜刺  日者雖照者  烏玉之」「あかねさす 日は照らせれど ぬば玉の」と訓む。「茜刺」は「茜(あかね)刺(さ)す」と訓む。「茜」は、アカネ科の多年草で、本州以西の山野に生え、夏から秋に淡黄緑色の小花が円錐形に集まって咲く。実は球形で黒く熟し、根はアリザリンやプルプリンなどの色素を含んでおり、赤黄色の染料とする。根が赤黄色をしているのでこの名があり、色名の一つとしても使われる。「刺」は「刺す」。「あかねさす」は「茜草指」の表記で既出の枕詞。その係り方に付いて見ておこう。① 赤い色がさして光り輝く意から、「日」「昼」「光」「朝日」等にかかる。② 紫色、蘇芳(すおう)色との色彩としての類似から、それぞれ同音の「紫草(むらさき)」および地名「周防(すおう)」にかかる。③ 顔が赤く照り輝いている意で、「君」にかかる。紅顔、紅頬(こうきょう)の意のほめことば。一説に、赤心、すなわち真心のある意でかかるという。ここは①で次句の「日」にかかる枕詞。ここで、動詞「さす」について古典基礎語辞典の解説を引用して、基本的な意味を押さえておく。

 自然界において、そのもののもつ活動力や生命力が発揮され、一つの方角に向って、直接的に突き進んでいく意。他動詞として漢字を用いれば「射す・差す・指す・刺す・挿す・注す・点す・鎖す・閉す・止す」など種々に使い分けるが、共通する基本的意味は先の鋭くとがったもの、あるいは細長いものを、まっすぐに目標の一箇所に突き込むことである。自動詞としては、そのものの生命力が直線的に伸びて沸き上ってくることをいい、自動詞タツ(立つ、タ四)と基本的に共通である。つまり、直線的な動きを基として、意味がきわめて多岐にわたっているのがサスである。

 「日者雖照有」は「日は照らせれど」と訓む。ここの「日」は「太陽」の意であるが、天武天皇崩御後、皇后の地位のまま国政にあたっている鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)(後の持統天皇)を天皇に準じるものとして、太陽に譬えたものと考えられる。「者」はハ。「雖照有」は「照らせれど」と訓む。「烏玉之」は「烏玉(ぬばたま)の」と訓む。「烏玉(ぬばたま)」は既述。ここでは次句の「夜」にかかる。

 結句「夜渡月之  隠良久惜毛」「夜渡る月の 隠らく惜しも」と訓む。「夜渡月之」は「夜(よ)渡(わた)る月の」と訓む。「夜」はヨと訓み、「よる」の特定の一部分を取り出して言ったもの。「渡」は「渡る」。ある経路を通って一方から他方へ行くことをいう語で、ここは「日や月が空を移動して行く」の意。「月」は、「日」が鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)(後の持統天皇)をを譬えたのに対応して、日並皇子(草壁皇子)を譬えたものである。「之」はノ。「隠良久惜毛」は「隠(かく)らく惜(を)しも」と訓む。「隠良久」は「かくるあく」が約まった「隠(かく)らく」と訓む。「良久」はラク。「惜毛」は「惜(を)しも」。

 なお、本歌には、歌の下に[<或本>以件歌為後皇子尊殯宮之時歌反也]の注記がある。「後皇子尊(のちのみこのみこと)」は高市皇子を指し、この歌が高市皇子の殯宮の時の歌(一九九番歌)の反歌であるとの注である。この注を注記者の誤りとする説もあるが、注の通り、高市皇子の殯宮の時の反歌としても用いられた可能性が高いとして、阿蘇『萬葉集全歌講義』は次のように述べている。

…一六九は、すでに天皇に準ずる立場で国政を担当している皇后鸕野皇女を日に喩え、皇太子の薨去を雲に隠れる月に喩えて惜しんでいるのだが、持統十年七月、太政大臣であると同時に後皇子尊と称された高市皇子の薨去と状況が似ており、本歌が高市皇子の殯宮で誦詠されたとしても不自然ではないと考えられるからである。ただし、高市皇子の殯宮の時の人麻呂の歌は、反歌二首がそろっており。それが本文歌といってよいから、複数回誦詠の機会をもったとき、反歌を替えて誦詠されることもあったのだと思われる。

【巻2(170)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]」。「或ル(マキ)ノ歌一首」。この歌は草壁皇子が亡くなったことを悼み、柿本朝臣人麿が詠んだ挽歌である。この後に「皇子殯宮舎人等慟傷作歌廿三首」が続く。前の反歌の別伝という説や後の舎人等の歌と同じグループの歌と解する説がある。しかし、「或本反歌」とはなっていないので、前の長歌の反歌としてではなく、人麻呂が日並皇子の殯宮の時に、独立の短歌一首として作ったものが伝えられたものと考えて良いと思われる。また「或本歌一首」という題詞からすると、「或本」においてこの人麻呂の歌と舎人等慟傷作歌とは一緒にされていなかったことは明らかであり、同じグループの歌とする説も無理があるように思われる。  

 草壁皇子は現在の島庄(石舞台のそば)にあった島の宮という離宮に住んでいた。ここはもともとは蘇我氏の邸宅で、飛鳥川の水を引きいれあちらこちらに滝や池が作られていたようで、蘇我氏が滅ぼされた後、草壁皇子に与えられていた。
原文  嶋宮  勾乃池之 放鳥  人目尓戀而  池尓不潜
和訳  島の宮 勾(まがり)の池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に(かづ)かず
現代文  「島の宮の匂の池の放ち鳥は(皇子の薨去を悲しみ)人の目を恋しがって池に潜ろうともしないよ」。
文意解説
 発句「嶋宮  勾乃池之 放鳥」「島の宮 勾(まがり)の池の 放ち鳥」と訓む。「嶋宮」は「嶋の宮」と訓む。「嶋の宮」は、日並皇子(草壁皇子)の宮殿。天武天皇時代は離宮として使われていたようで、天武元年九月紀に「詣于倭京而御嶋宮[倭京に詣(いた)りて嶋宮に御(おはしま)す]」とあるのも、同五年正月紀に「天皇御嶋宮宴之。[天皇、嶋宮に御して宴しき]」とあるのも同じ宮を指す。現在の奈良県高市郡明日香村島庄、石舞台古墳付近にあったことは確実と言われているが、「嶋の大臣」と呼ばれた蘇我馬子の家と直結して考えられるものかどうかは不明。なお、「嶋」は「泉水、築山などのある庭園」の意で、「庭に池を作り、池の中に小嶋を築くという造園法が当時として珍しかったことからの呼称である」と『萬葉集全注』にある。島の宮は蘇我馬子の墓と伝えられる明日香の有名な古墳で現存する。「勾乃池之」は「勾(まがり)の池の」と訓む。「勾の池」は、嶋の宮に造られた池で、池の形状からこのように言ったものと考えられる。後出の舎人等慟傷作歌の中に「上の池なる放ち鳥」とあるのと同じ池かと思われる。「勾」は形のまがったものの意に用い、勾玉・勾引・勾欄のように用いる。「乃」ノ。「之」はノ。「放鳥」は「放(はな)ち鳥」と訓む。「はなちどり」は、池に放し飼いにしている鳥のことで、ここは結句からみて水鳥。萬葉集古義に「飼せ賜ひし鳥どもを、薨まして後に放ちたるが、猶その池にをるなり」として、皇子の薨去後にその追善のために放された鳥を想定しているが、ここは以前から放し飼いにされていた水鳥と考えるのが歌意からしてふさわしいと思われる。

 
結句「目尓戀而  池尓不潜」「人目に恋ひて 池に(かづ)かず」と訓む。「人目尓戀而」は「人目(ひとめ)に戀(こ)ひて」と訓む。「人目」は「人間が見ること。人の目」の意。「尓」はニ。「戀」は「戀(こ)ひ」。「而」はテ。「こふ」は、眼前にないものに心ひかれることを言い、萬葉集ではニに導かれた文節を受けて「~にこふ」の形をとるのが普通で、ここもその例。「人目に戀ひて」は、日並皇子が生前愛した放ち鳥が、皇子の薨去により人気少なくなったことから皇子の死を感じ取り、人恋しい様子をしている、というふうにみて詠ったもの。「池尓不潜」は「池に潜(かづ)かず」と訓む。「池」は「勾の池」をいう。「尓」はニ。「不潜」は「潜(かづ)かず」と訓む。参考までに「かづく」について、『古典基礎語辞典』の解説を引用しておく。
 「頭からすっぽり水中に入る意。万葉集には「可豆久(かづく)」「可頭気(かづけ)」とあるので、ヅは濁音で、活用語尾クは清音だったと思われる。しかし、名義抄には、「潜女」にカツギメ、色葉字類抄では「潜」にカツグとあり、中古には上代と清濁が変わって用いられていたことがわかる。衣服をかぶる意のカヅク(被く)も、本来「すっぽりと身にかぶる」点で基本的に同じであることから、起源的には同一の語であると思われる」。文字面では「まがりの池」の鳥が潜(かず)かない(もぐらない)の意となる。

 「人目に恋ひて」につき、中西本は「人の目を恋しがって」としている。こう解したい。気になるのは原文の「人目尓」だ。これは訓にあるように「人目に」であって「人目を」ではない。ここの「尓」が「乎」なら「人目を」となってすっきりする。問題はこれで全面解決しない。鳥が「「もぐらず人目を恋する」ことにどういう意味があるのだろうかを詮索せねばならない。 「人目に恋ひて池に潜かず」はどう解したらいいのだろう。

【巻2(171)。】
 巻2(171)。
題詞
歴史解説
 草壁皇子の舎人の作歌。「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首(草壁)皇子の尊の宮の舎人等が慟傷(かなし)みてよめる歌二十三首(はたちまりみつ)」。この歌は草壁の皇子が亡くなったことを悼み、皇子に仕えていた舎人たちが詠んだ挽歌のうちの一首である。この歌からのち舎人たちが詠んだ二十三首の挽歌が続くが、どの歌も草壁皇子を失った失望感を素直な気持ちで詠み、また死者の魂を慰めようという気持ちが伝わってくるすばらしい挽歌となっている。舎人とは皇族(この場合は草壁皇子)に近侍し護衛を任務とした人々(一般に下級官人とされる)を云う。171~193番の23首はすべて下級官人たちの挽歌である。万葉歌がひとり皇族や高位高官の占有物ではなかったことがうかがわれる。二十三首のうち、この巻二(一七一)の歌は人麿の作という説や、もしくは二十三首すべてが人麿の作であるとする説もある。

 草壁皇子は現在の島庄(石舞台のそば)にあった島の宮という離宮に住み、亡くなった後は現在の高取町にある佐田の岡に葬られた。草壁皇子が亡くなった後も舎人たちは、島の宮の離宮や佐田の岡の墓に出仕したりしながら挽歌を詠んだことになる。
原文  高光  我日皇子乃  萬代尓  國所知麻之  嶋宮<波>母
和訳  高照らす(光る) 我が日の皇子(みこ)の 万代(よろづよ)に 国知らさまし 嶋の宮はも
現代文  「高々と光り輝く、わが日の御子の草壁皇子が生きていらっしゃれば、長らくお治めになる筈だった島の宮なのに・・・あぁ」。
文意解説  発句「高光  我日皇子乃  萬代尓」「高照らす(光る) 我が日の皇子(みこ)の 万代(よろづよ)に」と訓む。「高光」は「高光る」と訓む。空高く光り輝く太陽の意で、「日」にかかる枕詞。旧訓は「タカテラス」と訓んでいたが、古事記の歌謡仮名書き例「多迦比迦流(タカヒカル) 比能美古(ヒノミコ)」を挙げて、萬葉代匠記がこれをタカヒカルに改訓した。タカヒカルは天皇および皇子への賞辞として日神信仰を背景に使用された言葉で当時の宮廷儀礼歌の常套句であり、古事記歌謡に五例を見る。なお、「光」をテル・テラスに当てた例も萬葉集中にはあるが、タカテラスは人麻呂の創始とみられるので、ここはタカヒカルと訓む方が良いと思う。「高光」はタカヒカル、「高輝」、「高照」はタカテラスと区別して訓むべきと考える。「我日皇子乃」は「我が日の皇子(みこ)の」と訓む。「我」はガを補読して「我が」と訓む。「日皇子」は「日の皇子(みこ)」と訓み、天皇・皇子を敬っていう語であるが、ここは「日並皇子(草壁皇子)」を指す。「乃」はノ。「萬代尓」は「萬代(よろづよ)に」と訓む。「よろづよ」は「萬世」とも書き、「限りなく長く続く代(世)」の意で、御代が永久に続くことを祝っていう語。「尓」はニ。

 
結句「國所知麻之  嶋宮<波>母」「国知らさまし 嶋の宮はも」と訓む。「國所知麻之」は「國知らさまし」と訓む。この「國」は、日並皇子(草壁皇子)が統治されるはずであった「水穂之國」のこと。「所知」は「知らさ」と訓む。「麻之」はマシ。反実仮想の助動詞。次句の「嶋宮」を修飾する。皇子は亡くなられて国を治めることはできなくなったのであるが、もし御在世だったら萬世まで国をお治めになったであろうという気持をあらわしている。「嶋宮波母」は「嶋の宮はも」と訓む。「嶋宮」は、日並皇子(草壁皇子)の宮殿で、ここで政務を執られる予定であったものと思われる。「波母」はハモ。ハモについて日本国語大辞典の【語誌】が興味深いので参考までに記しておく。
 (1)語源的には「は」「も」いずれも係助詞であるが、文中用法の場合「も」の方は間投機能、文末用法では二語とも間投機能を担っていると考えられる。
 (2)文中用法は上代にも少なく、中古以降はほとんど見られなくなる。
 (3)文末の用法は和歌にみられるが、中古の例も含めて、ほとんどすべて体言を受ける「喚体の句」の例であり、いわゆる「述体の句」を受けるのは、「万葉‐二〇・四四一九」の東歌「家ろには葦火(あしふ)焚けども住み良けを筑紫に至りて恋ふしけも波母(ハモ)〈物部真根〉」一例のみである。ただし、この例に関しては「恋しけむはも」ではなく「恋しく思はむ」の東国語形であるとの説がある。
 (4)「万葉‐一四・三五一三」の「夕さればみ山を去らぬ布雲(にのぐも)の何(あぜ)か絶えむと言ひし児ら婆母(ハモ)〈東歌〉」、「万葉‐一四・三五六九」の「防人に立ちし朝明の金門(かなと)出に手離れ惜しみ泣きし児ら婆母(ハモ)〈防人〉」の例を「ばも」とよみ、「はも」の上代方言とする説〔日本古典文学大糸=万葉集〕もあるが、「万葉‐二・一七一」にも「島婆母」の例があるので、これも濁音と認めねばならぬか否か決め難い。

 この歌は、都であったやまとは滅ぼされてしまい今や荒れてしまっているが、高所に光り輝いていた日の皇子の歴史、すなわちやまとの国や、あきづ島にあった宮を万世、後々の世まで伝え残していかなければいけないと詠っている。

【巻2(172)。】
題詞  草壁皇子の舎人の作歌。「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の二首目。
原文  嶋宮  上池有  放鳥  荒備勿行  君不座十方
和訳  島の宮 (まがり)の池の 放鳥(はなちとり) 荒びな行きそ 君(い)さずとも
 嶋の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君座さずとも
現代文  「島の宮の上の池の放ち鳥よ、そんなにもすさんで行くな。宮の主がおられなくなっても元気であれかし」。  
文意解説  発句「嶋宮  上池有  放鳥」「島の宮 (まがり)の池の 放鳥(はなちとり)と訓む。「嶋宮」は「嶋(しま)の宮(みや)」と訓む。「嶋宮」は日並皇子(草壁皇子)の宮殿。「嶋」は「泉水、築山などのある庭園」の意で、歌にあるように庭園に池があり水鳥が放し飼いされていた。「上池有」は「上(かみ)の池(いけ)なる」と訓む。「上池」は嶋の宮の庭園にある池で、上・下あるいは上・中・下と、池のある位置により呼ばれた名称と思われる。「中の池」「下の池」に対して「上の池」ということで「上」はウヘノではなくカミノと訓む。なお、昭和46年から48年にかけての発掘調査で、石舞台の西方約100メートルの所に、7世紀のものと推定される一辺42.3メートルの正方形の大池跡が発掘されている。この大池は、正方形なので、170番歌の「勾の池」が形状からきた名称であるとすると、別の池ということになる。その後の調査でこの大池以外に小池もあったことが分かっているので、複数の池があったことはたしかである。「有」は、ニアリが約まってできた存在の意を表わす助動詞ナリの連体形ナルに宛てたもの。「放鳥」は「放(はな)ち鳥」と訓む。本歌は170番歌の「嶋宮 勾乃池之 放鳥」と景物・情景が酷似しているが、「上池」と「勾乃池」がおなじ池であるかどうかは分からない。

 
結句「荒備勿行  君不座十方」「荒びな行きそ 君(い)さずとも」と訓む。「荒備勿行」は「荒(あ)らびな行(ゆ)きそ」と訓む。「心すさんで離れてゆくな」というほどの意。「荒備」は「荒(あ)らび」を表す。「備」はビ。「あらぶ」は「柔備」として「にきぶ」の反対語で、「人に馴れ親しまなくなる。疎くなってゆく。離れてゆく」ことをいう。「勿」はナ。下にソを伴って、「な … そ」の形で用いられる。「行」はソを補読して「行(ゆ)きそ」と訓む。「君不座十方」は「君(きみ)座(ま)さずとも」と訓む。ここの「君」は日並皇子(草壁皇子)を指す。「不座」は「座(ま)さず」と訓む。「ます」は、「ある」「いる」の意の尊敬語で、存在、状態の主を敬う語であるが、特に、この世にいる、生存する意の尊敬語としても用いられる。ここは、その「特に」の場合の打消しで「いらっしゃらない。おいでにならない」の意。「十方」は、「四方」を「よも」と訓むことからトモに宛てたものと考えられる。「友」と同じく仮定条件で表して意味を強める働きをする。「たとえ ~ ても」。
歴史解説  島庄の北の丘の上にこの歌の歌碑が建っている。歌碑のある場所から島の宮(島庄)が見下ろせる。

【巻2(173)。】
 巻2(173)。
題詞
歴史解説
 草壁皇子の舎人の作歌。「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の三首目。「草壁皇子に仕えていた舎人が詠んだ二十三首の晩歌のうちの一首」。この歌は、この国の国家的象徴である「日の皇子」のありし日の栄華を追慕し、王朝の滅亡を嘆いている歌である。 
原文  高光 吾日皇子乃 伊座世者 嶋御門者 不荒有益乎
和訳  高照らす 我が日の皇子の いましせば 島の御門は 荒れずあらましを
現代文  「都のやまとも日の皇子も滅ぼされてしまった。高々と光り輝く日の皇子が生きていらっしゃったなら、この島の御門がこんなに荒れるようなことはなかったのに」。
文意解説  発句「高光 吾日皇子乃 伊座世者」「高照らす 我が日の皇子の いましせば」と訓む。「高光」は「高光(ひか)る」と訓む。空高く光り輝く太陽の意で、「日」にかかる枕詞で、天皇および皇子への賞辞として日神信仰を背景に使用された当時の宮廷儀礼歌の常套句といえる。「吾日皇子乃」は「吾(わ)が日の皇子(みこ)の」と訓む。171番歌「我日皇子乃」と最初の一字の表記が違うだけで同じ表現。「吾」は、「わ」にガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「日皇子」は「日の皇子(みこ)」と訓み、天皇・皇子を敬っていう語で、ここは「日並皇子(草壁皇子)」を指す。「乃」はノ。「伊座世者」は「い座(ま)しせば」と訓む。「伊座」は「い座(ま)し」と訓む。「います」は「いらっしゃる。おいでになる。ご健在」の意。イを表すのに「伊」を用いている。「世者」はセバ。事実に反することを仮定して下の句の条件句となる。

 
結句「嶋御門者 不荒有益乎」「島の御門は 荒れずあらましを」と訓む。「嶋御門者」は「嶋の御門(みかど)は」と訓む。「嶋」は「泉水、築山などのある庭園」の意。「御門」は、「門」にミがついたものだが、そこから家や屋敷の尊敬語となり、ここは「宮殿」の意。「嶋の御門(みかど)」は、「泉水、築山などのある庭園を持つ宮殿」の意で「嶋の宮」のことを言ったもので、「皇子(みこ)の御門(みかど)」と同じく、日並皇子(草壁皇子)の宮殿を詠ったもの。「不荒有益乎」は「荒(あ)れざらましを」と訓む。「不荒有」は「荒(あ)れざら」と訓む。「ある」は、「手入れが悪かったり、乱暴に使ったりして、土地や建物がいたみ、損なわれる。荒廃する」ことをいう。「益」はマシで、現在の事態に反する事を想定し(ここでは、草壁皇子が生きておられる事を想定)、「もしそうであったら ~ であろうに」(ここでは、荒れることはなかっただろう)と想像する表現。「乎」はヲ。

【巻2(174)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の四首目。
原文  外尓見之  檀乃岡毛  君座者  常都御門跡  侍宿為鴨
和訳  よそに見し 真弓の岡も 君座せば 常(とこ)つ御門と 侍宿(とのゐ)するかも
現代文  「これまで関わりないものと見ていた真弓の岡も、ここに君が葬られ、居られるとなれば、われら舎人(従者)は宮殿の御門の如く侍宿(とのい、警護する)し続けますよ」。
文意解説  発句「外尓見之  檀乃岡毛  君座者」「よそに見し 真弓の岡も 君座せば」と訓む。「外尓見之」は「外(よそ)に見し」と訓む。「無関係なものと思って見ていた」の意。「外」は「よそ」と訓み、「関係や関心がないこと。無縁な存在」の意。「よそ」は「余所」とも書かれるが、萬葉集にはその表記はなく、中世以降の当て字と思われる。「尓」はニ。「見」は「見(み)」。「之」はシ。なお、「檀乃岡毛」は「檀(まゆみ、真弓)の岡も」と訓む。「檀」は、ニシキギ科の落葉低木または小高木で、各地の山野に生え、観賞用に栽植される。今は、この材でこけしや将棋の駒を作るが、昔、この木で弓を作ったところからの名といわれる。「真弓」は、その産地の名を冠して、安達太郎(あだたら)真弓、十津川(とつかわ)真弓、常陸(ひたち)真弓、信濃(しなの)真弓などと称された。「檀(まゆみ)の岡」は、「由縁(つれ)も無(な)き・真弓(まゆみ)の岡(をか)に」と詠まれた「真弓(まゆみ)の岡(をか)」に同じ。奈良県高市郡明日香村真弓から同郡高取町佐田にかけての一帯の地をいう。萬葉集全歌講義に「現在の真弓と佐田の集落は約千メートル離れているが、万葉の真弓の岡と佐田の岡はひと続きの丘陵で、その南端を佐田の岡と呼んだらしい」とある。「君座者」は「君(きみ)座(ま)せば」と訓む。「君(きみ)」は日並皇子(草壁皇子)を指す。「座者」は「座(ま)せば」は、「日並皇子がいらっしゃるので」の意。真弓の岡に皇子の殯宮を設けたことは、人麻呂の長歌(167番歌)に「由縁(つれ)も無(な)き 真弓(まゆみ)の岡(をか)に 宮柱(みやばしら) 太(ふと)布(し)き座(いま)し 御(み)在(あ)らかを 高知(たかし)り座(ま)して」と詠われていることから知られる。

 結句「常都御門跡  侍宿為鴨」「常(とこ)つ御門と 侍宿(とのゐ)するかも」と訓む。「常都御門跡」は「常(とこ)つ御門(みかど)と」と訓む。「常(とこ)」は、ツを介して、あるいは直接に付く。また、形容詞の上に付いたり、副詞をつくったりする。「常である、永久不変の」などの意味を表わし、その永遠性をほめたたえる気持をこめることもある。用例として「とこつ御門、とこ夏、とこ葉、とこ初花、とこ滑め、とこめずらし、とこしくに、とこしえ、とことわ」などがある。「都」はツ。「御門」は「宮殿」の意。「跡」はト。「常(とこ)つ御門(みかど)と」は「いつまでも変わらぬ宮殿として」の意。「侍宿為鴨」は「侍宿(とのゐ)為(す)るかも」と訓む。日本書紀の雄略紀十一年の記事に「於是信濃國直丁與武藏國直丁侍宿」とあり、また皇極紀三年の記事にも「中臣鎌子連曾善於輕皇子故詣彼宮而將侍宿」とあって、「侍宿」の二字が用いられている。「侍宿」は、旧訓に「とのゐ」とあり、本居宣長『玉の小琴』に「とのゐのゐは、居にて夜殿に居といふ事也、昼をとのゐとはいはざるは、昼は務る事有て、たゞには居ぬ物也、夜は務る事なくて、たゞ居る故に、夜をとのゐとはいふ也」と記しているように、「殿居」の意で、「内裏や宮司に事務をとったり警護するために宿泊すること」をいう。「為」は「為(す)る」。「鴨」はカモ。

 この歌は、真弓の岡が分からないと分かり難い。「君座さず」(前々歌)や「いましせば」(前歌)から草壁皇子の遺骸は島の宮から離れていることが分かる。その移動先が真弓の岡なのである。そこで「よそに見し」の意味が判然とする。「これまで無縁の岡と思っていたが」の意であると分かる。

【巻2(175)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の五首目。
原文  夢尓谷  不見在之物乎  欝悒  宮出毛為鹿  佐日之<隈>廻乎
和訳  夢(いめ)にだに 見ずありしものを 欝悒(おほほ)しく 宮出もするか さひの隈廻(くまみ)
現代文  「夢にすら見ることはなかったのに、晴れやらぬ心で宮への出仕をすることよ。檜の隈あたりを通って。(これまで島の宮に出仕してきたのに重々しくも真弓の岡に出仕することになろうとは。夢想だにしなかった)」。
文意解説  発句「夢尓谷  不見在之物乎  欝悒」「夢(いめ)にだに 見ずありしものを 欝悒(おほほ)しく」と訓む。「夢尓谷」は「夢(いめ)にだに」と訓む。「夢」は既出。「夢」の仮名書き例は全て「イメ」と訓む。「ユメ」の例はない。「イ」は「寐(ぬ=ねる)」の意で、「メ」は見ることを意味すると考えられる。「尓」はニ。「谷」はダ二。万葉集では多く体言を直接承け、「…だけでも、せめて…だけでも」の意を表わし、常にその下には、否定・反語・仮定・推量・願望・意志・命令が来て、普通の肯定判断の終止形は来ない。この様に上代においてのダ二は係助詞としての働きを持っていたが、平安時代に入ると、必ずしも否定・反語などとは呼応しなくなり、副助詞のサへに接近し、「…までも、…でも、でさえも」の訳が適切になる例が増加し、副助詞に分類される事となる。「不見在之物乎」は「見(み)ざりし物(もの)を」と訓む。「不見在」は「見(み)ざり」と訓む。「之」はシ。「物」は、名詞で大きく四つの意味に用いられる。①なんらかの形をそなえた物体一般をいう。②個々の具体物から離れて抽象化された事柄、概念をいう。③抽象化した漠然とした事柄を、ある価値観を伴ってさし示す。④他の語句を受けて、それを一つの概念として体言化する形式名詞。直接には用言の連体形を受けて用いる。以上の四つで、ここは④。「乎」はヲ。「夢(いめ)にだに見(み)ざりし物(もの)を」は、「夢に見ることすらなかったのに」の意となる。「欝悒」は「欝悒(おほほ)しく」と訓む。「欝」は「鬱」の俗字。「鬱悒」は「うつゆう」という漢語で「気がふさぎ、愁える」という意であるが、それを和語の「おほほし」に宛てたもの。「おほほし」は、「ぼんやりして明らかでない」、「心が悲しみに沈んで晴れない」などの意。ここは「欝悒(おほほ)しく」と訓み「晴れやらぬ心で」との意。

 結句「宮出毛為鹿  佐日之<隈>廻乎」「宮出もするか さひの隈廻(くまみ)を」と訓む。「宮出毛為鹿」は「宮出(みやで)も為(す)るか」と訓む。「宮出」は、4108番歌の結句「美夜泥之理夫利(みやでしりぶり)」の仮名書き例から「宮出(みやで)」と訓む。「宮出」は、①宮を出る意、②宮を出入りする意、③宮に出仕する意、と解釈が分かれるが、ここは、真弓の岡の殯宮の場へ晴れやらぬ心で出仕する事を詠ったものと考えられるので、③の意にとるのが正しいと思う。「毛」はモ。「為」は「為(す)る」。「鹿」はカ。この句で切れて、結句と倒置された形。「佐日之隈廻乎」は「さひ[檜]の隈(くま)廻(み)を」と訓む。「佐」はサ。「日」はヒ、「之」はノ。「隈」は、他と境界を接する地点、奥まった場所をいう語としてクマ。「日之隈」は「ひ[檜]の隈(くま)」と訓み、地名。和名抄に「高市郡檜前比乃久万」とあり、現在の奈良県高市郡明日香村の野口・平田・檜前(ひのくま)の一帯にあたる。「廻(み)」は、「荒(あら)き嶋廻(しまみ)を」や「道(みち)の阿(くま)廻(み)に」として既出。「廻(み)る」の連用形が名詞化した語で「まわり、あたり」の意。萬葉集全注に、「日並皇子の葬送は、島の宮から檜隈のあたりを過ぎ、真弓の岡から現在の高取町佐田に葬られたのであり、その殯宮の期間には、舎人たちが檜隈のみちを侍宿のために通ったのである」とある。 

 本歌は倒置的に解するとぐっと迫るものがある。「さ」は地名の美称語。桧の隈(ひのくま)は地名。真弓の岡の東という。細かいが「廻(み)を」は「まわって」ないし「あたりを」である。「宮出(みやで)は前歌から分かるように真弓の岡の警護である。「おほほしく」は原文の欝悒(うつゆう)からうかがわれるように「気が重いこと」。

【巻2(176)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の六首目。
原文  天地与共 将終登念乍 奉仕之 情違奴
和訳  天地(あめつち)とともに 終(を)へむと思ひつつ 仕へまつりし 心違(たが)ひぬ
現代文  「天地の続く限りいつまでも(お仕えしよう)と思いながらお仕え申し上げてきた。その思いはかなわなくなった。(皇子を永遠にお守りしようとお仕えしてきたのに)」。
文意解説  発句「天地与共 将終登念乍」「天地(あめつち)とともに 終(を)へむと思ひつつ」と訓む。「天地の続く限りいつまでもお仕えしょうと」の意である。「天地与」は「天地(あめつち)と」と訓む。「天地」は「あめつち」と訓み「天と地」。「与」は旧字「與」で、名義抄に「與。アタフ・クミス・トモニ・カネタリ・ト・トモナフ・アツマル・ユルス・コレト・アツカル・マヌガル・カナ」とある。ここはト。「共将終登」は「共に終(を)へむと」と訓む。「共に」は、あるものが他のものと同じ状態であるさま、また、他に伴って同じ行為をするさまを表わす語で、「いっしょに。同じように」の意。「将終」は「終へむ」と訓む。「をふ」は、「(その時まで続けてきたことを)すませる。終わらせる。極めつくす。果たす。しとげる」の意。「登」はト。江戸時代の諸注に、ここの「終(を)へむ」を皇子の寿命のこととして「日並皇子の御在世、幾久しく限りなくましませ」(『童蒙抄』)と解せられたが、それは当たらない。ここの「終(を)へむ」は、次の「奉仕之」と関連して訓むべきで「天地の終わる時に自分たちの奉仕も終えよう」ということで、つまり永遠に続くものと考えられる天地と共に永遠にいつまでも、という心を詠んだものである。「念乍」は「念(おも)ひつつ」と訓む。「念乍」の「念」は「念(おも)ひ」。「乍」は借訓字でツツ。

 
結句「奉仕之 情違奴」「仕へまつりし 心違(たが)ひぬ」と訓む。「奉仕之」は「仕(つか)へ奉(まつ)りし」と訓む。「奉仕」は「奉仕(つか)ふる」と訓むが、ここでは「仕(つか)へ奉(まつ)り」と訓む。「つかふ」は、「目上の人のそばにいて、その用をする。その人に奉仕する」の意。「まつる」は「お仕え申し上げる」の意。「之」はシ。「情違奴」は「情(こころ)違(たが)ひぬ」と訓む。「情」には「こころ。なさけ。まこと」の訓みがある。「こころ」にはいろいろな意味があるが、ここの「こころ」は「あらかじめ考えていたこと」の意で、具体的には「天地の続く限りいつまでもお仕えしようとの思い」をいう。「違」は「違(たが)ひ」。「たがふ」は、「事柄の内容がくいちがう。ぴったりと合わなくなる。異なる」ことをいう。「奴」はヌ。「情(こころ)違(たが)ひぬ」で「思いがかなわなくなった」の意となろう。「心違ひぬ」は「こんなことになろうとは」である。 

【巻2(177)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の七首目。
原文  朝日弖流 佐太乃岡邊尓 群居乍 吾等哭涙 息時毛無
和訳  朝日照る 佐太(さだ)の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 やむ時もなし
現代文  「朝日の照る 佐田の岡辺に 群がり座っていて われわれが泣く涙は 止む時もない」。  
文意解説  発句「朝日弖流 佐太乃岡邊尓 群居乍」「朝日照る 佐太(さだ)の岡辺に 群れ居つつ」と訓む。「朝日弖流」は「朝日(あさひ)てる」と訓む。「朝日」は「朝の太陽。朝方の日」の意。「弖流」はテル。「照る」に宛てたもの。「日や月などが光輝を発する」ことをいう。この句を実景とするか、枕詞的な修飾語と見るかで説が分かれているが、結論から言えば、ここは実景と見るべきであろう。代匠記に「朝日テル佐太ノ岡トツヽケタルハ、古今ニ、夕月夜サスヤ岡邊ト云ヒ、拾遺ニ、朝彦カサスヤ岡邊トイヘル如ク、岡ト云ハンタメナリ。朝日ノ光イツクハアレト、先岡ニアタリタルカハナヤカニ見ユル故ナリ」と言い、萬葉考に「朝日夕日をもて、山岡宮殿などの景をいふは集中また古き祝詞などにも多し、是に及(シク)ものなければ也」と記し、また古事記の歌謡に「阿佐比能 比傅流美夜 由布比能 比賀氣流美夜」(朝日の 日照(で)る宮 夕日の 日がける宮)」(100歌)などあるのを考え合わせると、この句は伝統的な宮讃めの成句ということができよう。しかし、萬葉集全注が「持統朝は枕詞が実質的な修飾語としてあらためてとらえなおされていった時代でもあり、非実質的な枕詞としての性格をこの『朝日照る』に認めることには疑問が感ぜられる」と指摘するように、やはりここは実景を詠むのに、伝誦されている言葉を用いたものと見るのが良いように思う。暗い気持のまま朝を迎えた舎人たちにはまぶしすぎる朝日が照っている状況を詠ったものと考えられる。なお、今訓んでいる一連の日並皇子の舎人たちの挽歌群の中には、「朝日照る」からはじまる歌(表記は異なる)が、三首(本歌・189・192)ある。「佐太乃岡邊尓」は「佐太(さだ)[佐田]の岡邊(をかへ)に」と訓む。「佐太」は、現在の奈良県高市郡佐田で、「佐太の岡」は、萬葉集全歌講義に「現在の真弓と佐田の集落は約千メートル離れているが、万葉の真弓の岡と佐田の岡はひと続きの丘陵で、その南端を佐田の岡と呼んだらしい」とある「佐田の岡」のこと。「乃」はノ。「岡邊」は「岡辺」(「邊」は「辺」の旧字)で、「岡のほとり。岡のあたり」の意。「尓」はニ。なお、佐田の岡が詠われる時は常に「佐田の岡辺」とあることに注目して、渡瀬昌忠は、真弓の岡が殯宮のある丘陵本体で、舎人たちの奉仕する場所が丘陵南端で「佐田の岡辺」と称されたのではないかと推定している。「群居乍」は「群(む)れ居(ゐ)つつ」と訓む。「侍宿(とのい)しながら」の意である。「群居」は「群(む)れ居(ゐ)」。「乍」はツツ。 

 結句「吾等哭涙 息時毛無」「我が泣く涙 やむ時もなし」と訓む。「吾等哭涙」は「吾等(わ)が哭(な)く涙(なみた)」と訓む。「吾等」は、「吾等(わ)が」と訓む。「哭」は、155番歌「哭耳呼」で「泣く」ことの名詞「哭(ね)」として既出だが、ここでは「哭(な)く」と訓む。「涙」は、上代では「なみた」で、現代とは異なってタが清音であったことが「那美多」(798)などの仮名書き例から知られている。「息時毛無」は「息(や)む時(とき)も無(な)し」と訓む。「息」は、「息(や)む」。「時」は、行為や状態を表わす連体修飾句を受けて「そうする場合、そういう状態である場合」の意を表わすもので、159番歌「乾時文無」と同じ用法。「毛」はモ。「無」は「無(な)し」。 

【巻2(178)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の八首目。
原文  御立為之 嶋乎見時  庭多泉  流涙  止曽金鶴
和訳  み立たしの 島を見る時 にはたづみ 流るる涙 止めぞかねつる
現代文  「皇子がいつもお立ちになっていた 島(庭園)を見る時、にわたずみ (雨水があふれ流れる) のように流れる涙をとどめかねることだ。その島(の宮)を見ると降る雨のように流れ出てくる涙がとまらない」。  
文意解説  発句「御立為之 嶋乎見時  庭多泉」「み立たしの 島を見る時 にはたづみ」と訓む。「御立為之」は「み立(た)たしの」と訓む。「御」はミ。名詞の上に付いて、それが神仏、天皇、貴人など尊敬すべき人に属するものであることを示し、敬意を添える。「立為」は立たシ。接頭語ミがついてできたのが「み立たし」で、(皇子が)いつもお立ちになっていた場所の意。「之」はノ。「み執(と)らしの」と同じ形。「嶋乎見時」は「嶋を見る時」と訓む。「嶋」は「泉水、築山などのある庭園」の意である。「乎」はヲ。「見」は「見る」。行為や状態を表わす連体修飾句を受ける「時」は、「そうする場合、そういう状態である場合」の意となる。「庭多泉」は「にはたづみ」と訓む。「庭多」は二ワタ、「泉」は「和泉(いづみ)」からヅミ、「庭多泉」で以て「にはたづみ」と訓む。「にはたづみ」は「雨が降ったりして、地上にたまった水。または、あふれ流れる水。水たまり」をいう和語で、漢語では「潦(ロウ)」という。にわかに降る雨の意ともいう。名義抄に「潦。ニハタヅミ・アマミヅ」とある。萬葉集では、本歌の「庭多泉」のほか、「庭立水」(1370)、「尓波多豆美」4160)、「庭多豆水」(4214)と記され、表意的に「潦」(3339)と書かれたものもある。語源については、二ワは「にはか(俄)」、タツは「立つ」、ミは「水」とする説もあるが、萬葉集の文字表記から「庭」と関連づける説が有力である。また「にはたづみ」は、地上にたまった水が流れる様子から、「流る、行く、川」にかかる枕詞として用いられた。ここも次句の「流るる」にかかる比喩的な枕詞として使われている。

 結句「流涙 止曽金鶴」「流るる涙 止めぞかねつる」と訓む。「流涙」は「流(なが)るる涙(なみた)」と訓む。「流」は「流るる」。「ながる」は「たまってあふれたり、湧き出したりした液体が移動する」ことをいう。「涙」は「なみた」と清音に訓む。広辞苑には「眼球の上外側の涙腺から分泌される液体。常には少量ずつ分泌されて眼を湿し、かつ洗う役目があるが、精神感動や諸刺激によって分泌が盛んになる」とある。「止曽金鶴」は「止(と)めそかねつる」と訓む。「止」は「止(と)め」。「曽」はソ。「金鶴」はカネツル。カヌは、「…し続けることができない。…しようとしてもできない」の意となる。上にソがあるため、完了の助動詞ツの連体形ツルと係結びになっている。

【巻2(179)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の九首目。
原文  橘之  嶋宮尓者  不飽鴨  佐<田>乃岡邊尓  侍宿為尓徃
和訳  橘の 嶋の宮には 飽かぬかも 佐田の岡辺に 侍宿(とのゐ)しに行く
現代文  「橘の島の宮(の奉仕)にはまだ十分満足していないのにまあ佐田の岡辺に侍宿をしに行くことよ」。
文意解説  発句「橘之  嶋宮尓者  不飽鴨」「橘の 嶋の宮には 飽かぬかも」と訓む。「橘之」は「橘(たちばな)の」と訓む。ここの「橘」は地名。現在の奈良県高市郡明日香村橘の橘寺(菩提寺)があるあたりで、飛鳥川の上流左岸(西側)をいう。古くは、右岸(東側)の島庄あたりも橘と呼んだことが、秋山日出雄「付・嶋宮伝承発掘調査概要(『明日香村史』上)が次のように記している。
 「現在の島庄は応永二十七年以来の文書にその名が現われ、飛鳥川の右岸に位置し、左岸の橘とは別のようにも見られるが、島庄村は実は、明暦二年(一六五六)に橘村より村切りによって分村したのであった。現に口碑では、当時五戸の家々が橘より分かれて住んだと伝えている。故に島庄の古い墓地は橘に存し、また島庄の氏神社は戦時中に一時は橘の氏神社に合祀したこともあるという。このようにして島庄は、今でも橘とは密接な関係があることは、万葉集に「橘の嶋の宮」と歌われたことを理解するのに、はなはだ役立つところである」。
 「之」はノ。「嶋宮尓者」は「嶋の宮には」と訓む。宮は日並皇子(草壁皇子)の宮殿。「尓者」は二ハ。「不飽鴨」は「飽(あ)かねかも」と訓む。「不飽」は「飽(あ)かね」と訓む。「不飽」は、今までの例は全て「飽(あ)かぬ」と連体形に訓んだが、ここは已然形に訓む。上代の已然形は、接続助詞のバ・ド・ドモなどを伴うことなしに、それだけで確定条件を示すことができた。ここもその用法で「飽(あ)かねば」の意。「あく」は「満足する。堪能する」の意であるが、既出例は全て「見れど飽かぬ」という成句的表現で、「飽かず」は「十分に堪能し得ない」思いをあらわすことによって対象を讃美するのに多く用いられた。ここも「嶋の宮」に対する断ち切れない思いを表したものである。「鴨」はカモ。「飽(あ)かねかも」は、「まだ十分満足していないのにまあ」という意で、「もっともっと嶋の宮に仕えていたいのに」という嶋の宮への断ち切り難い思いを詠んだもの。岩波大系本等は「飽き足らない、物足りない」としているが、「十分であったのに」と反語に解さないと意が通じない。「佐田の岡辺に通うことになろうとは」と悲痛な心情を吐露している解したい。

 
結句「佐<田>乃岡邊尓  侍宿為尓徃」「佐田の岡辺に 侍宿(とのゐ)しに行く」と訓む。「佐田乃岡邊尓」は「佐田の岡邊(をかへ)に」と訓む。この句は表記が一字違うが177番歌「佐太乃岡邊尓」に同じ。「佐田」は、現在の奈良県高市郡佐田。「乃」はノ。「岡邊」は「岡辺」で、「岡のほとり。岡のあたり」の意。「尓」はニ。「佐田の岡辺」は、日並皇子の殯宮のある真弓の岡に続く丘陵で、舎人たちの奉仕する場所をいう。「侍宿為尓徃」は「侍宿(とのゐ)為(し)に徃(ゆ)く」と訓む。「侍宿(とのゐ)」は「殿居」の意で、「内裏や宮司に事務をとったり警護するために宿泊すること」をいう。「為」はシ。「尓」は二。「徃」は、「ゆく」の終止形「徃(ゆ)く」で、「目的の場所に向って進む」ことをいう。

【巻2(180)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十首目。172番歌との類歌で、4句は172番歌と同句となっている。
原文  御立為之  嶋乎母家跡  住鳥毛  荒備勿行  年替左右
和訳  み立たしの 島をも家と 棲む鳥も 荒びな行きそ 年かはるまで
現代文  「皇子がお立ちになた島を家として住んでいた鳥も、荒れててしまったので行ってしまった。年が代わるまでは、ここを見捨てないで居てほしいのに」。  
文意解説
 発句「御立為之  嶋乎母家跡  住鳥毛」「み立たしの 島をも家と 棲む鳥も」と訓む。「御立為之」は「み立(た)たしの」と訓む。「御」はミ。名詞の上に付いて、それが神仏、天皇、貴人など尊敬すべき人に属するものであることを示し、敬意を添える。「立」は「立(た)た」。「為」はシ。「み立(た)たし」は、(皇子が)いつもお立ちになっていた場所の意。「之」はノ。「嶋乎母家跡」は「嶋(しま)をも家(いへ)と」と訓む。「嶋(しま)」は、「泉水、築山などのある庭園」の意。「乎」はヲ。「母」はモ。「家(いへ)」は、ここでは「住む所」の意。「跡」はト。「住鳥毛」は「住(す)む鳥(とり)も」と訓む。「住」は「住(す)む」。「鳥(とり)」は、「嶋の宮」に飼われていた水鳥であろう。「毛」はモ。添加の意で、山田『萬葉集講義』に「『人も』に対していへるものにして言外に宮仕人をも下にいへる如くいへるなり」というのが当たっていると思う。

 結句「荒備勿行  年替左右」「荒びな行きそ 年かはるまで」と訓む。「荒備勿行」は「荒(あ)らびな行(ゆ)きそ」と訓む。「荒備」は、「荒(あ)らび」を表す。「備」はビ。「あらぶ」は、「にきぶ」(「柔備(にきび)」として79番歌に既出)の反対語で、「人に馴れ親しまなくなる。疎くなってゆく。離れてゆく」ことをいう。「勿」はナ。下に「動詞の連用形+そ」を伴って、「な … そ」の形で用いられる。ここも「行」は、ソを補読して「行(ゆ)きそ」と訓む。ここの「ゆく」は補助動詞としての用法で、上の動詞(ここでは「あらぶ」)の動作・状態の継続・進行を表す。「荒(あ)らびな行(ゆ)きそ」は「心すさんで離れてゆくな」という意。「年替左右」は「年(とし)替(かは)るまで」と訓む。「年(とし)」は、「一年間を単位とする歳月」をいう。「替」は「替(かは)る」。ここの「かはる」は「年月などが、改まる、また新しくなる」の意。「左右」は、両手(左右手)を「真手(まて)」といったところからの戯書で、時間的・空間的な限度を示す副助詞の「まで」として用いられたもの。「年(とし)替(かは)るまで」は「年が改まるまで」の意で、新年を迎えることも言うが、ここは、一周忌を過ぎるまでは、の気持を詠ったものであろう。

【巻2(181)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十一首目。
原文  御立為之  之荒礒乎 今見者 不生有之草 生尓来鴨
和訳  み立たしの 島の荒礒を 今見れば 生ひざりし草 生ひにけるかも
現代文  「皇子のお立ちになった 庭園の池の岩を今見ると、これまで生えていなかった草が生えてしまっているよ」。
文意解説  ここまでの数歌から「み立たしの島」の意は明らか。

 発句「御立為之  之荒礒乎 今見者」「み立たしの 島の荒礒を 今見れば」と訓む。「御立為之」は「み立(た)たしの」と訓む。「御」はミ。「立」は「立(た)た」。「為」はシ。「み立(た)たし」は、(皇子が)いつもお立ちになっていた場所の意。「之」はノ。「嶋之荒礒乎」は「嶋(しま)の荒礒(ありそ)を」と訓む。「嶋(しま)」は、「泉水、築山などのある庭園」の意。「之」はノ。「荒礒」は、「ありそ」と訓む。「あらいそ」の変化した語で、荒い磯の意だが、万葉後期には、「いそ(磯)」とほぼ同義の歌語として用いられるようになる。大伴家持作の3959番歌に「古之能宇美乃(こしのうみの) 安里蘇乃奈美母(ありそのなみも)」の仮名書き例がある。ここは「庭園の池の岩」のことを詠んだもの。荒礒(ありそ)はあらいそのことで、ごつごつした岩の海。ここでは池の端。「乎」はヲ。「今見者」は「今(いま)見(み)れば」と訓む。「今(いま)」は、「過去と未来との境になる時。現在」をいう語であるが、時間の幅があり、①ただいま。現在の瞬間。②現在の時点に少し幅を持たせた時間。「今は無理だが、半年後なら引き受けよう」③「昔」に対して、①を含んだある期間を表す。現代。今の時代。現今。今日(こんにち)。などを意味する。ここは①。「見者」は「見れば」と訓む。

 結句「不生有之草 生尓来鴨」「生ひざりし草 生ひにけるかも」と訓む。「不生有之草」は「生(お)ひざりし草(くさ)」と訓む。「不生」は、「おふ」の未然形「生(お)ひ」+ズ(「不」で表記)。「有」は「有(あ)り」。「之」はシ。「不生有之」は「生(お)ひず有(あ)りし」と訓むところであるが、「ず」+「あり」が約まって「ざり」となって「生(お)ひざりし」と訓む。ここで、助動詞ズの特殊な活用について補足しておこう。助動詞ズの活用系列は、ヌ系列(ナ・ニ・○・ヌ・ネ・○)、ズ系列(○・ズ・ズ・○・○・○)、ザリ系列(ザラ・ザリ・○・ザル・ザレ・ザレ)の三つがあった。そしてズ系列のズは、ヌ系列の連用形ニにサ変のスが結合したニスが転じて生じたものであり、ザリ系列は、種々の助動詞をズのすぐ下に付けるために、ラ変のアリ(有り)を介して成ったものであるとされている。「草」は、植物で地上に現われている部分が柔軟で木質にならないものの総称であるが、ここは「何の役にも立たない雑草」の意。「生尓来鴨」は「生(お)ひにけるかも」と訓む。「生」は「おふ」だが、ここは連用形の「生(お)ひ」。「尓」はニ。「来」はケルと訓む。ケりは、キ(来)に、アリ(有り)が付いて転じたものであることから「来」の字が宛てられたもの。二ケりは、既に完了している事柄について、その事実にあらたに気づいた気持を表わし、詠嘆の気持を伴うことが多い。「鴨」はカモ。

【巻2(182)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十二首目。
原文  鳥M立 飼之鴈乃兒 栖立<去>者 檀岡尓 飛反来年
和訳  鳥座(とくら)立て 飼ひし雁(かり)の子 巣立ちなば 真弓(まゆみ、檀)の岡に 飛び帰り来ね
現代文  「鳥小屋を立てて飼っていた雁の子が成長し巣立ったら、この真弓の岡に飛びかえって来てほしい」。 
文意解説  発句「鳥M立 飼之鴈乃兒 栖立<去>者」「鳥座(とくら)立て 飼ひし雁(かり)の子 巣立ちなば」と訓む。「鳥【土偏+而の下に一】立」は「鳥栖(とくら)立て」と訓む。【土偏+而の下に一】は「栖」に読み替えて「鳥栖」で「とくら」(「とぐら」とも)訓む。「とくら」は、「鳥座、塒」とも書き、「鳥がとまったり乗ったりするところ。鳥の寝るところ。鳥のねぐら。鳥を飼っておく小屋」のこと。「立」は「立て」。「たつ」は、作用、状態などを、はっきりわかるようにすることをいう語で、ここは「建造物などを造る」意。「鳥座(とぐら)立て」は「鳥小屋を作って」。「飼之鴈乃兒」は「飼ひし鴈(かり)の兒(こ)」と訓む。「飼」は「飼(か)ひ」。「かふ」は「食べ物や水などを与えて生命を養う。飼育する」ことをいう。「之」はシ。「鴈」は「雁」と同字とみて「鴈(かり)」と訓む。萬葉集では、「かり」は六十余りの例があるが、仮名書き例以外は全て「鴈」の字を宛てている。「かり」は、ガンカモ科の大型の鳥の総称で、冬の渡り鳥。「乃」はノ。「兒」は元々は嬰児の意だが、「卵生の鳥や魚などの場合には、卵そのもの、あるいは卵から孵化したものをいう」と日本国語大辞典にある。ここはそれで「雁の子」の意。この句の解釈について澤瀉『萬葉集注釋』は、「鴈(かり)」を雁鴨の類だとして、170・172番歌の「放ち鳥」とあったような水鳥をさしたものと見るべきだとしているが、稲岡『萬葉集全注』は、「鴈(かり)」は渡り鳥の「雁(がん)」で有るとして次のように述べている。
 「カリは、仁徳記歌謡に「…そらみつ 大和の国に 加里古牟(雁卵(かりこ)む)と聞くや」(七一歌)、「そらみつ 大和の国に 雁卵むと いまだ聞かず」(七二歌)と歌われ、書紀にも少異歌がある。雁は渡り鳥でふつう日本で繁殖することはないが、仁徳朝に難波の日女島でー書紀では河内の国の茨田ー雁が卵を産んだのでそれを瑞祥としたという。この万葉歌の場合も珍しく雁が子を生み、瑞祥として皇子に献上され飼育されていたものと想像される。「鳥栖立て飼ひし雁の子」という表現からも、前の「放ち鳥」とは異なり、特別に飼育されていたことが推測されよう」。
 以上の『萬葉集全注』の推論が的を得ているように思い、引用した。「栖立去者」は「栖立(すだ)ちなば」と訓む。「栖立」は「栖立(すだ)ち」。「すだつ」は「鳥が成長して親の巣を去る」ことをいう。「去者」はナバと訓み、事柄が完了したときを予想し仮定する表現で、「…てしまったら」の意。

 
結句「檀岡尓 飛反来年」「真弓(まゆみ、檀)の岡に 飛び帰り来ね」と訓む。「檀岡尓」は「檀(まゆみ)[真弓]の岡に」と訓む。「檀岡」は「由縁(つれ)も無(な)き・真弓(まゆみ)の岡(をか)に」と詠まれた「真弓(まゆみ)の岡(をか)」で、奈良県高市郡明日香村真弓から同郡高取町佐田にかけての一帯の地をいう。「尓」はニ。「飛反来年」は「飛び反(かへ)り来(こ)ね」と訓む。「飛」は「飛(と)び」。「空をかける。鳥が空中を行く」の意。「反」は「反(かへ)り」。「かへる」は「もとの場所にもどる」の意。「来」は「来(こ)」。クは「ある場所に向ってそこに至る」ことをいう。「年」はネ。真弓の岡から巣立っていく雁の子たちに向けて「帰ってきんしゃいな」と呼びかけている。

【巻2(183)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十三首目。
原文  吾御門 千代常登婆尓 将榮等 念而有之 吾志悲毛
和訳  わが御門 千代常磐(とことは)に 栄えむと 念(おも)ひてありし (あれ)し悲しも
現代文  「自分のお仕えする皇子の御殿を永久に栄えるであろうと(本心から)思っていたが、(この通り)。私は悲しいあぁ」。
文意解説  発句「吾御門 千代常登婆尓 将榮等」「わが御門 千代永久に 栄えむと」と訓む。「吾御門」は「吾(わ)が御門(みかど)」と訓む。「吾」は連体格の格助詞「が」を読み添えて「吾(わ)が」。「御門」は、「門」にミがついたものだが、そこから家や屋敷の尊敬語となり、ここは「宮殿」の意。「吾(わ)が御門(みかど)」は、「皇子(みこ)の御門(みかど)」、「嶋(しま)の御門(みかど)」と同じく、日並皇子(草壁皇子)の宮殿を詠ったもの。「千代常登婆尓」は「千代(ちよ)常(とこ)とばに」と訓む。「千代」は文字通りの意味では「千年」だが、「非常に長い年月」を言うのに用いる。「常」は「常(とこ)つ御門(みかど)」として既出だが、ここは下の「登婆」を伴って「常(とこ)とば」で一語。「登婆」は、トバ。「とことば」は、平安時代以降は「とことわ」となるが、「いつまでも変わらないこと。永久不変であること。」を意味する。「尓」はニ。参考までに、日本国語大辞典の「とことわ」の【語誌】を引用しておこう。
 「とこ」は永久不変の意味の「常」で、「とば」の語源は不明であるが、平安時代以後「とは」からハ行転呼音をへて「とわ」の形となって「とこ」が脱落し、今日の「とわに」に至っている。「とはに」は平安時代以後現われ、今日では「とわ」に「永久」の意味が込められている。

 「将榮等」は「榮(さか)えむと」と訓む。「将榮」は「榮(さか)えむ」と訓む。「さかゆ」は「草木が繁茂する。転じて、勢いが盛んになる」の意。「等」はト。

 結句「念而有之 吾志悲毛」「念(おも)ひてありし (あれ)し悲しも」と訓む。「念而有之」は「念(おも)ひて有(あ)りし」と訓む。「念」は「念(おも)ひ」。「而」はテ。「有」は「有(あ)り」。「之」はシ。「吾志悲毛」は「吾(われ)し悲(かな)しも」と訓む。ここの「吾」は「われ」と訓む。「志」はシ。「志」は「心にあるもの。本心」の意で、その意をも込めての用字だと考えられる。「悲毛」は「悲(かな)し」。「関心や興味を深くそそられて、感慨を催す。心にしみて感ずる。しみじみと心を打たれる」意。「毛」はモ。この5句について、稲岡『萬葉集全注』は【考】を設けて次のように述べている。
 「悲し」というような情意性形容詞で結ぶ歌は初期万葉歌にはなく、人麻呂歌集および作歌にはじめて見られるものである。そのことは益田勝実「柿本人麿の抒情の構造 その一・反歌の特色」(日本文学六巻二号)に指摘されているとおりで、人麻呂の時代とそれ以前とを区別する特徴の一つになっている。この舎人作歌に「われし悲しも」とあるのも、当時としては清新な表現であったと思われる。

【巻2(184)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十四首目。
原文  東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
和訳  東(ひむがし)の たぎの御門に 伺侍(さもら)へど 昨日も今日も 召す言もなし
現代文  「東の激流のほとりの御門に伺候しているが、昨日も今日もお召しのお言葉も聞かれない。ああ」。
文意解説  発句「東乃 多藝能御門尓 雖伺侍」「東(ひむがし)の たぎの御門に 伺侍(さもら)へど」と訓む。「東乃」は「東(ひむがし)の」と訓む。「東」は、48番歌に既出で「ひむかし」と訓む。宣長『古事記伝』に「ひむかし」の「ひむか」は「日向」で「し」は、風の神志那都比古(しなつひこ)の「し」で風の意であるとして「比牟加斯は、東風、尓斯は、西風のことなりしが、轉(うつり)て、其の吹く方の名とはなれるべし」とある。「ひむかし」→「ひんがし」→「ひがし」と変化して現在に至っている。「乃」はノ。「多藝能御門尓」は「たぎの御門(みかど)に」と訓む。「多藝能」はタギノ。「たぎ」は、「たぎつ(激つ・滾つ)」「たぎる(滾る・沸る)」などの「たぎ」と同根と考えられ、「水の激しく流れる所」を言う。平安朝以降は「たき(滝)」と清音になる。「たぎの御門(みかど)」は、宮の東側の「激流のほとりの御門」の意で、ここの「御門」は「宮殿」の意ではなく、「門」にミがついた本来の意味。嶋の宮の池には飛鳥川の上流から水を取り入れていたらしく、その取り入れ口が東門近くにあり、その水流が激しかったために「たぎの御門(みかど)」と呼び習わしていたものと考えられる。「尓」はニ」。「雖伺侍」は「伺侍(さもら)へど」と訓む。「さもらふ」は「様子をうかがい待つ」というのが本義だが、ここは「貴人のおそばにいて、その命令を待つ」の意。

 結句「昨日毛今日毛 召言毛無」昨日も今日も 召す言もなしと訓む。「昨日毛今日毛」は「昨日(きのふ)も今日(けふ)も」と訓む。「昨日」、「今日」は現代も全く同じ意味で使われている。「今日」は、「話し手が、今身を置いている、その日」をいうと述べた。「昨日」は「今日より一日前の日」をいう。「毛」はモ。「召言毛無」は「召(め)す言(こと)も無(な)し」と訓む。「召」は「召(め)す」。「めす」は、動詞「みる(見)」に上代の尊敬の助動詞スが付いて音の変化したもので、「見る」の尊敬語「御覧になる」が本義。ここでは、「人を呼び寄せる」「招く」の尊敬語として用いたもので「お呼び寄せになる」の意。「言」は、文字通り言葉の意と見る説と、「事」の意とする説があるが、ここは167番歌の「明(あさ)[朝]言(こと)に 御言(みこと)(御)問(と)はさず」の「明(あさ)[朝]言(こと)」が「朝のお言葉」であったのと同様に、ここも皇子の「お召しのお言葉」と解したい。「毛」はモ。「無」は「無(な)し」。ここで、「こと(言・事)」について、古典基礎語辞典の解説の一部を引用して「言」「事」の違いについて見ておこう。
 コトはモノ(物・者)と対比すると特性が明らかになる。モノは人間にとって、変えることのできないきまり、また変えることのできない存在をいう(もう一つ、別に怨霊の意のモノがある)。それに対し、人間の力で果たすことのできる義務、意欲的に可能な行為をコトという。行為は二つに分けられる。その一つは音声による、またその延長としての文字による行為。これをコト(言)とする。その二つは音声以外の、手、足、全身の力によってする行為。これをコト(事)とする。コト(言)もコト(事)も人間どうしの間でかわされる社会的な行為であるが、共にコト一つで表現されたから、奈良・平安時代の例では「言」であるか「事」であるか明確に区別できないものが少なくない。ー(中略)ー コト(言)は、コト(事)との区別を明確にしたいという表現上の欲求によってコトバ(言葉)・コトノハ(言の葉)という区別の鮮明な形が後に作り出されて、しだいにコトだけならば行為を表すことが多くなっていった。

【巻2(185)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十五首目。
原文  水傳 礒乃浦廻乃 石<上>乍自 木丘開道乎 又将見鴨
和訳  水伝ふ 礒(いそ)の浦廻(うらみ)の 石躑躅(いわつつじ) 茂()く咲く道を またも見むかも
現代文  「池水の流れに沿った 磯(岩場)の曲りかどの岩つつじが茂り咲いている道をふたたび見ることがあろうか」。
文意解説  発句「水傳 礒乃浦廻乃 石<上>乍自」水伝ふ 礒の浦廻の 石躑躅(いわつつじ)と訓む。「水傳」は「水傳(つた)ふ」と訓む。「傳」は「伝」の旧字で「傳(つた)ふ」。上代には、「水」を指す語としてはミヅの他にミも用いられたことが知られているが、ミヅが単独でも用いられたのに対して、ミは「たるみ(垂水)」や「みなそこ(水底)」などのように、複合語に見られるのみである。ここも「みなつたふ」と訓む説があり、日本国語大辞典も「みなつたう(つたふ)」を見出し語としてこの歌を例に挙げているが、「みづつたふ」と訓むのが正しい。旧訓は「ミヅヅテノ」と訓んだようである。下河辺長流の「萬葉集管見」で「ミヅツタフ」と改め、以後これに従う。「ミナツタフ」と訓む説もある。「礒乃浦廻乃」は「礒(いそ)の浦廻(うらみ)の」と訓む。「礒」は「石や巌」の意であるが、ここの「礒」は、庭園内の水際の岩を指して言ったもの。「浦廻」は「汀の湾曲したところ」をいう。「乃」はノ。「石上乍自」は「石上(いは)つつじ」と訓む。「石上」は「岩のほとり」の意味を表すための表記であるが、「上」の字は不読。「乍自」はツツジ。植物のツツジの表記に用いている。「いはつつじ」で一語をなし、「石や岩のほとりに生えるツツジ」をいう。なお、ツツジの品種としてのイワツツジは高山に自生する落葉小灌木で、ここはそれではない。

 
結句「木丘開道乎 又将見鴨」()く咲く道を またも見むかもと訓む。「木丘開道乎」は「もく開(さ)く道を」と訓む。「木丘」はモク。「もく」は「もし(茂し)」の連用形。「もし」は、草木が生い茂って盛んな様子をいう。「開」は「開(さ)く」と訓む。「花のつぼみがひらく」ことをいうので「ひらく」の「開」の字が充てられたもの。「道」は、嶋の宮の庭園内の道をいうか。「乎」はヲ。「又将見鴨」は「又(また)も見むかも」と訓む。「又」はモを補読して「又も」。「将見」は「見む」と訓む。「鴨」はカモ。他に「又見けむかも」あるいは「又見なむかも」とも訓めるが、「又見けむかも」は過去推量で「見たであろうかなあ」の意味となり、ここにはそぐわない。「又見なむかも」は、意味は通るが、将来に重点を置いた表現となる。ここは、「又も見むかも」で、「ふたたび見ることがあるだろうか」と可能性が乏しいことを思う現在の気持をツツジの咲き誇るのを見ながら詠んだものと見るのが良いと思う。この歌を散文的に解釈すれば「水際に岩つつじが咲く道を」となるが、岩つつじに焦点を当て「水際に咲くその岩つつじを」と解したい。

【巻2(186)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十六首目。
原文  一日者 千遍参入之 東乃 大寸御門乎 入不勝鴨
和訳  一日(ひとひ)には 千たび参りし 東(ひむかし)の 大き御門を 入りかてぬかも
現代文  「島の御殿に勤務していた頃は、一日にあれほど幾たびも出入りしていた東の大門。今では(閉じられていて)入ることもできなくなってしまったなあ(今は入ることがためらわれる)」。
文意解説  発句「一日者 千遍参入之 東乃」「一日(ひとひ)には 千たび参りし 東(ひむかし)の」と訓む。「一日者」は「一日(ひとひ)には」と訓む。「一日」は「ひとひ」と訓み、「日の数一つ。いちにち。また、いちにちの間。一日中」の意。「者」はハ。ここは前に二を読み添えて二ハと訓む。二を読み添える例は、142番歌「家ニ有者」、150番歌「夢ニ所見鶴」など少なくない。「千遍参入之」は「千遍(ちたび)参入(まゐ)りし」と訓む。「千遍」は「ちたび」と訓み、「千回。また、度数の多いこと」の意。「遍」の字義は「あまねし、ゆきわたる、すべて、みな」であるが、ここは「回数、度数」の意の「たび(度)」に用いたもの。「遍」を「たび」と訓むことは、続日本紀の宣命の例(宣命第三詔に「遍多(たびまね)く日重ねて」とあり、また第二十二詔に「此遍(このたび)の政(まつりごと)」とあるなど)によって知られる。「参入」は「参入(まゐ)り」。「まゐる」は「まゐ(参)」に「いる(入)」の付いた「まゐいる」の変化したもので、貴人の居所にはいって行くのが原義とされており、その語源に即した表記で、尊貴の人の所に参入する意を表した。「之」はシ。「東乃」は「東(ひむかし)の」と訓む。方角を表し、「ひむかし」→「ひんがし」→「ひがし」と変化して現在に至っている。「乃」はノ。

 結句「大寸御門乎 入不勝鴨」「大き御門を 入りかてぬかも」と訓む。「大寸御門乎」は「大(おほ)き御門(みかど)を」と訓む。「大寸」は、「大きい、また偉大な」の意を添える接頭語「大(おほ)き」に用いたもの。「寸」はキ。元来形容詞「おほし(大し・多し)」は数が多いことと、分量や質が大きく優れていることの二つの意味を持っていた。「おおき」(又は「おほい」) を接頭語として用いたもの。ここの「御門」は「たぎの御門(みかど)」と同じく、「宮殿」の意ではなく、「門」にミがついた本来の意味。本歌の「東の大き御門」は「東のたぎの御門」と同じで、本歌はその御門の大きく立派であることを詠んだものであろう。原文「大寸御門」を旧訓にタキノミカドとし『代匠記』などもそれによっているが、『萬葉考』に「寸(キ)は仮字也、仮字の下に辞を添るよしなし」として、大寸(オホキ)と訓んだように、タキノと訓むためには「大寸能」などとノの表記があるべきで、やはりオホキと訓むのが正しいと思われる。「乎」はヲ。このことについて『萬葉集全注』は、『日本古典文学全集』(小学館)の頭注に「動詞入ルや出ヅは、ヲ格の助詞を取らず、格助詞ユ・ヨリにつく。ここのヲは逆接の用法。大きい御門なのにの意」とあるのを引用して、「当時の語法を考慮した指摘で、従うべきものと思う」としている。「入不勝鴨」は「入(い)りかてぬかも」と訓む。「入」は「入り」。「いる」は「外から、ある物の中、ある場所の内へ移動する」ことをいう。「不勝」は「かてぬ」と訓む。「かつ」は、補助動詞として用いられ、動詞の連用形に付いて「…するに耐える、…することができる」の意を表わす。「入(い)りかてぬ」は、皇子のいない今は、「入ることがためらわれる」という意となる。「鴨」はカモ。

【巻2(187)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十七首目。
原文  所由無 佐太乃岡邊尓 反居者 嶋御橋尓 誰加住<N>無
和訳  所由(つれ)も無き 佐田の岡辺に 帰り居ば 島の御橋(みはし)に 誰れか住まはむ
 所由(つれ)もなき 佐太の岡辺に 君()せば 島の御階(みはし)に か住まはむ
現代文  「何のゆかりもない 佐太の岡辺に(自分たちが)帰って行って留まったら、(この嶋の宮の)庭園の御橋のところに誰がとどまるのであろうか。(誰もとどまるものはない)」。  
文意解説  発句「所由無 佐太乃岡邊尓 反居者」「所由(つれ)も無き 佐田の岡辺に 帰り居ば」と訓む。「所由無」は「所由(つれ)も無(な)き」と訓む。177番歌の「由縁母無」を「由縁(つれ)も無(な)き」と訓んだが、表記は違うがここも同じ。「所由」は、「ゆかりのある所」の意と解して、関係やつながりを表す和語のツレに宛てたもの。「佐太乃岡邊尓」は「佐太(さだ)[佐田]の岡邊(をかへ)に」と訓む。「佐太」はサダ。「佐太」で地名の表記に用いたもので、現在の奈良県高市郡佐田。「乃」はノ。「岡邊」は「岡辺」(「邊」は「辺」の旧字)で、「岡のほとり。岡のあたり」の意。「尓」はニ。「佐田の岡辺」は、日並皇子の殯宮のある真弓の岡に続く丘陵で、舎人たちの奉仕していた場所をいう。「反居者」は「反(かへ)[帰]り居(ゐ)ば」と訓む。「反」は「反(かへ)り」。「かへる」は「もとの場所にもどる」の意で現在では主として「帰る」の表記が用いられる。「居」は「居(ゐ)」。「ゐる」は「ある場所にとどまって存在する」ことをいう。「者」はハであるが、ここはバに流用している。本歌は「嶋の宮」にあって詠んだもので、自分が佐太の岡辺に帰り、そこに留まったら、と言うのである。作者は佐太の岡辺での奉仕に従事しており、所用のために「嶋の宮」に来てこの歌を詠んだと考えられる。

 結句「嶋御橋尓 誰加住<N>無」「島の御橋(みはし)に 誰か住まはむ」と訓む。「嶋御橋尓」は「嶋(しま)の御橋(みはし)に」と訓む。「嶋(しま)」は「泉水、築山などのある庭園」の意。「御橋」は「みはし」と訓み、ミは接頭語で橋を尊んでいう語。「尓」は二。この句について『萬葉代匠記』は、「御橋トハ書タレト、御階(原文は【土偏に皆】だが階の字で代用した以下同じ)ナルヘシ。我等コソ御階ノモトニ有テ仰事ヲモ承ツレ、誰カ今ヨリハスマントナリ」として、嶋の宮の御殿の階段をさすものと見た。しかし「嶋(しま)」一字で「嶋の宮」の意で用いたとは考え難く、また萬葉集の「橋」は、いずれも河川(もしくは天空)に架けられた橋を表すのに用いられていることから考えて、「嶋(しま)の御橋(みはし)」は、「文字通りに、島の池に架せられた御橋と解すべきである。」(『萬葉集注釋』)というのが正しいと思う。「誰加住儛無」は「誰(たれ)か住(す)まはむ」と訓む。「誰」は、近世後期以降は「だれ」と言うようになったが、それ以前は「たれ」。不定称代名詞で、その人とはっきりわからない人や、名を知らない人などに対して用いる。「たれか…せむ」などの形で疑問や反語的表現を伴って、その事柄の実現性などを強く否定する用法も多くみられ、ここもその用法。「加」はカ。「住儛無」は「住(す)まはむ」と訓む。「すむ」は「居住する」の意で使われることが多いが、もともとは「一つ所に定着する」意の言葉で、ここも「居住する」というよりも「その場所にとどまる」意とするほうが近い。「儛」は「舞」の異体字で、「すむ」の活用語尾「ま」+助動詞「ふ」の未然形「は」の「まは」を表すのに宛てた借訓字。「無」はム。

 「つれも無き」は「一人で」だが、佐田の岡辺に「一人で帰ってきて」なのか「帰ってきて独り居していると」の意なのか。後者だとすると、勤務していた当時の島の御殿の御階(みはし)を思い出している歌となる。

【巻2(188)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十八首目。
原文  旦覆 日之入去者 御立之 嶋尓下座而 嘆鶴鴨
和訳  あかねさす(朝ぐもり) 日の入りぬれば 御立たししの 島に()り居て 嘆きつるかも
現代文  「朝曇りして日が雲の陰に隠れていったので、皇子がいつもお立ちになったいた島(庭園)に下りてみませう。皇子を思い出して嘆いてまうでせう」。
文意解説  発句「旦覆 日之入去者 御立之」「朝ぐもり 日の入りぬれば み立(た)たしの」と訓む。「旦覆」は「旦(あさ)くもり」と訓む。旧訓以来「旦(あさ)くもり」の訓みがほぼ定着している。「旦」は「あさ」を表す象形文字。「覆」(古写本は、雨冠)は、「おおう、つつむ」の意であり、199番歌の中に「天雲乎(アマクモヲ) 日之目毛不令見(ヒノメモミセズ) 常闇尓(トコヤミニ) 覆賜而(オホヒタマヒテ)」とある。この例から見て、「覆」の字を「天雲の大空を覆う」意として「くもり」に宛てたものと考えられる。なお、「旦」をタナの音借とし、タナグモリと訓む説があり、斎藤茂吉もその説を採って2句は日没を詠んだものと解釈している。しかし、亀井孝「上代和音の舌内撥音尾と唇内撥音尾」に「舌内音の閑は、君(クニ)・散(サニ)・漢(カニ)などと同じくカニとは訓めるがカナとは訓めない」と言われているように、「旦」についてもタニと訓むことはできてもタナと訓むことは無理であろう。タナグモリ説は、旦(タン)をタナに転じ用いる例証として、信濃(シナノ)、因幡(イナバ)などの例を挙げているが、亀井説が指摘しているように、舌内撥音尾をナに転ずる例は固有名詞に限られており、タナグモリ説の例証も全て固有名詞であることから、一般に旦(タン)をタナに転じ用いたということは考えられない。「日之入去者」は「日の入り去(ゆ)けば」と訓む。「日」は「太陽」。「之」はノ。「入」は「入(い)り」。ここの「いる」は「見える所から、物陰に移動する」の意で太陽が雲に隠れることを詠ったもの。「去」は「去(ゆ)け」と訓む。ここの「ゆく」は動作・状態の継続、進行を表わすのに用いたもの。「者」バ。「日の入りゆく」という言葉は、「日の暮れてゆく」意に解されがちで、そのために一句の訓みにも諸説を生じたわけであるが、ここは「太陽が雲に隠れる」ことを言ったものと解される。岸本由豆流『萬葉集攷證』に「はじめは、うすぐもりなる時は、雲の底に日のあるのが見ゆれど、やうやくに。くもりかさなれば、日の見えずなりゆくを、入去(イリユク)とはいへるなるべし」と述べているのが当たっていると思う。「御立之」は「み立たしの」と訓む。「御立為之」の「為」の表記がないものであるが同句と考えて良い。「御」はミ。名詞の上に付いて、それが神仏、天皇、貴人など尊敬すべき人に属するものであることを示し、敬意を添える。「立」は「立たし」と訓む。「み立たし」は、(皇子が)いつもお立ちになっていた場所の意。「之」はノ。

 結句「嶋尓下座而 嘆鶴鴨」「島に下り居て 嘆きつるかも」と訓む。「嶋尓下座而」は「嶋に下(お)り座(ゐ)て」と訓む。「嶋」は、「泉水、築山などのある庭園」の意。「尓」はニ。「下」は「おる」の連用形で「下(お)り」。「おる」(現代語では「おりる」)は「高い所から低い所へ移り動く」ことをいう。「座」は「ゐる」の連用形で「座(ゐ)」。「ゐる」は、「立つ」の対で「座る」意。ここは舎人の動作であるから、悠然と座る意ではなく、侍る姿勢で「うずくまる」ことをいう。「而」はテ。「嘆鶴鴨」は「嘆きつるかも」と訓む。「嘆」は「嘆き」。「気持が満たされないで、ため息をつく。かなしみにひたる」ことをいう。「鶴鴨」はツルカモ。 

 [参考]『日本国語大辞典』の「おりる」の【語誌】が興味深かったので参考までに記しておく。「(1) 高い所から低い所への位置の移動を基本的に表わし、「あがる」の対義語と見なされるが、「坂ののぼりおり」「車ののりおり」というように、「のぼる」「のる」と対をなすこともある。「のぼる」の対義語に「くだる」があるが、それが「低い方へ」の意があるのに対して、「おりる」は「低い所に」の意が強い。そこから、場所的上下移動だけでなく、ある範囲・境界を抜け出るという意味をも派生させている。(2)「おちる」と異って、意志的な下方移動であり、生物、特に人間を主語にとるのが普通で、無生物を主語にとる場合も、他動詞「おろす」からの自動表現と見なされるものが多い」。

【巻2(189)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の十九首目。
原文  旦日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不為者 真浦悲毛
和訳  朝日照る 嶋の御門に 欝悒(おほほ)しく 人音(ひとと)もせねば 真心(まうら)悲しも
現代文  「かって人の出入りで賑わった朝日射す御殿もいまでは静まりかえって人の気配すらない、ああ」。
文意解説  発句「旦日照 嶋乃御門尓 欝悒」「朝日照る 嶋の御門に 欝悒(おほほ)しく」と訓む。「旦日照」は「旦日(あさひ)照(て)る」と訓む。「旦日」は、「朝日」で「朝の太陽」。「照」は「照(て)る」。「日や月などが光輝を発する」ことをいう。この句は177番歌の「朝日弖流」とあったのと表記は違うが同句で、やはり実景を詠ったものと考えて良いが、次句の「嶋(しま)の御門(みかど)」を修飾する枕詞的用法でもある。「嶋乃御門尓」は「嶋の御門(みかど)に」と訓む。「嶋乃御門」は「嶋御門」と同じく、「嶋の御門(みかど)」と訓み、「泉水、築山などのある庭園を持つ宮殿」の意で、「嶋の宮」すなわち日並皇子(草壁皇子)の宮殿のことを言ったもの。「乃」はノ。「尓」はニ。「欝悒」は「欝悒(おほほ)しく」と訓む。「欝」は「鬱」の俗字。「鬱悒」は「うつゆう」という漢語で「気がふさぎ、愁える」という意で、それを和語の「おほほし」に宛てたもの。「おほほし」は、「ぼんやりして明らかでない」、「心が悲しみに沈んで晴れない」などの意。ここは連用形で「欝悒(おほほ)しく」と訓み、「心晴れやらず」の意。

 結句「人音毛不為者 真浦悲毛」「人音もせねば まうら悲しも」と訓む。「人音毛不為者」は「人音(ひとおと)も為(せ)ねば」と訓む。「人音」は「ひとおと」で、「人のいる気配の物音」の意。「毛」はモ。「不為者」は「為(せ)ねば」と訓む。「人音」を「ひとおと」と訓むことについて、澤瀉『萬葉集注釋』の述べているところを参考までに引用しておこう。
 「人音」を金澤本以下の諸本にも諸注にもヒトオトとあるが、「水手之音喚(カコノコヱヨビ)」(四・五〇九)などの如くコヱとも訓める。コヱと訓めば人の話し聲になり、オトと訓めば物音、けはひ、音づれ、噂などの意となる。今はいづれに訓んでも意味は通ずるが、コヱと訓めば單獨母音節を挿まぬ八音の字餘りとなり、歌意としても單に人聲と見るよりは人の住んでゐる様子、けはひ、と見た方がふさはしく、集中には「ひとおと」の例はないが、「君者音文不為(キミハオトモセズ)」(七・一一七六)、「白風(アキカゼニ) 妹音所聴(イモガオトキコユ)」(十・二〇一六)などの例により今は古訓通りにヒトオトと訓む。

 「真浦悲毛」は「まうら悲(かな)しも」と訓む。「真」はマ。マは、名詞・動詞・形容詞・形容動詞・副詞などの上に付いて、「完全である、真実である、すぐれている」などの意を加え、また、ほめことばとしても用いる。「浦」は、「こころ」の意のウラ。「悲」は「悲(かな)し」。「まうら悲(かな)し」で以て、一語として扱って項目に立てている辞書もある。「心の底深く物悲しい」ことをいう。「毛」はモ。

【巻2(190)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の二十首目。
原文  真木柱 太心者有之香杼 此吾心 鎮目金津毛
和訳  真木柱(まきばしら) 太き心はありしかど この()が心 鎮(しづ)めかねつも
現代文  「真木柱のように 動じない心は あったけれど (皇子の薨去にあって)今のこの自分の心(悲しみの激動)を鎮めかねているよ」。
文意解説
 発句「真木柱 太心者有之香杼」「真木柱 太き心はありしかど」と訓む。「真木柱」は「真木柱(まきはしら)」と訓む。「真木」は、杉や檜など良質の建材となる木をいい、その材で作った柱を「真木柱(まきはしら)」という。宮殿や豪族の邸宅に用いられ、立派で太いことから、ここでは次の「太き」にかかる比喩的枕詞としたもの。「太心者」は「太(ふと)き心(こころ)は」と訓む。「太」は「太(ふと)き」。次の「心」を修飾する。「ふとし」には大きく二つの意味がある。ひとつは、「物体の周囲やさしわたしが長く、体積・面積が大きい」ことで、ふたつは、「心や気持が豊かで大きい」ことをいう。ここは後者で、「大胆で、物事に恐れず、動揺しない。落ち着きがあって安定している」の意。「心(こころ)」は、「人間の理性、知識、感情、意志など、あらゆる精神活動のもとになるもの。また、そうした精神活動の総称」の意。「者」はハ。「有之香杼」は「有(あ)りしかど」と訓む。「有」は「あり」の連用形で「有」。「之香」はシカ。過去の助動詞「き」の已然形「しか」を表す。「杼」はド「太(ふと)き心(こころ)は 有(あ)りしかど」は、「物に動じないしっかりした心はあったけれど(持っていたつもりだったが)」の意。

 結句「此吾心 鎮目金津毛」「このわが心 鎮(しづ)めかねつも」と訓む。「此吾心」は「此(こ)の吾(わ)が心」と訓む。「此」は、近称の代名詞二にノが付いた「此(こ)の」。「吾」もガを補読して「吾(わ)が」。「心」は既出。「此(こ)の吾(わ)が心」とは、「皇子の薨去による悲しみに打ち拉がれている今の自分の心」を言ったものと考えられる。「鎮目金津毛」は「鎮(しづ)めかねつも」と訓む。「鎮目」は「鎮(しづ)め」と訓む。「鎮」は、飢饉・疫病などで非命に倒れた者の呪霊をしずめる「鎮魂」が本義。「目」はメ。「しづむ」は、「浮かれたり乱れたりしている気持を落ち着かせる」の意。「金」はカネ。カヌは、他の動詞の連用形に付いて補助動詞として働き、「…し続けることができない。…しようとしてもできない」の意となる。「津毛」はツモ。なお、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の多くは、歌に地名が詠みこまれていて、作歌の場の推測が容易であるが、この歌には地名がないので、「嶋の宮」「真弓の岡」のいずれで詠まれたか不明だが、宮殿の「真木柱」を比喩的に詠っているので、恐らく「嶋の宮」での作歌であろうと思われる。

【巻2(191)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の二十一首目。
原文  毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨
和訳  けころもを 春冬まけて(かたまけて) 出でましし 宇陀の大野は 思ほえむかも
現代文  「常の衣を解くというそのトキではないが狩の季節を待ってお出かけになられた宇陀の大野は(これからも) 思い出されることであろうよ」。
文意解説
 発句「毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之」「けころもを 春冬まけて 出でましし」と訓む。「毛許呂裳遠」は「けころも(褻衣)を」と訓む。「毛許呂遠」はケコロヲ。「毛許呂裳」は「けころも」と訓むことでは諸説一致しているが、これを「毛の衣」と解する説と、「け」を「晴(はれ)」に対する「褻(け)」、すなわち神の祭や公の政など儀式や祝いごとをいう「晴」に対して日常的な私ごとをいう「褻」として、「日常の衣」意に解する説とがある。2句の訓みとも関係するが、前者の説では「けころもを春冬(はるふゆ)設(ま)けて」と訓んで、「春の毛衣、冬の毛衣とそれぞれ用意して」の意として、実質的な表現であるとする。後者の説では、「けころもを春冬(とき)片設(かたま)けて」と訓んで、「けころもを」を、着古したふだん着を洗うために解くというところから、「解き」と同音の「時」にかかる枕詞であるとする。前者の説は、「毛、裳」の表記から当然想起される「毛の衣」を主たる意味に採るものであるが、今までも見てきたように訓仮名表記は、漢字の持つ意味は裏の意味として残しながら、仮名として用いた音で表された和語の方に主たる意味があることを考えると、ここも「けころも[褻衣]」という和語を表わすための仮名表記と見て、「毛の衣」は裏の意味と解するのが良いと思われる。なお、日本国語大辞典の「け[褻]」の【語誌】には「古代においては、生活全般にわたって『ハレ=公(おおやけ)』と『ケ=私(わたくし)』とが明確に区別されていた。これは、服装にもっともよくうかがうことができるが、そのほか、寝殿造の建物や食事などにも、ハレ(晴)のためのものとケ(褻)のためのものとがあった」とある。「春冬片設而」は「春冬(とき)片設(かたま)けて」と訓む。旧訓は、「ハルフユ(カタ)マケテ」として(カタ)を小文字にて記すが、(カタ)を含めると九音になる。第二句の、しかも母音音節を含まない字余りは不適当であることから、「春冬」の訓みについて、武田祐吉『萬葉集全註釈』は「二字を合わせてトキと読む。時節の意である。春冬の二字を書いたのは、生前の御事蹟に就いて述べてゐるのであるから、實際、春季および冬季に宇陀の野に出遊せられたことがあって、それを想起してゐるのであらう」とした。春冬の文字を狩猟の行われる時節としてトキと訓ませたと見るのは正しいと思われる。「片設」は「かたまく」の連用形で「片設(かたま)け」。「かたまく」は、秋、春、冬、夕、時など時間を表わす語に添えて、一心に待たれる状況を表現する語で、「季節や時が来るのが待たれる。心から待ち受ける気持になる。また、時が移ってある時期になる。ある時節が近づく」ことをいう。「而」はテ。「幸之」は「幸(いでま)しし」と訓む。「幸」は旧訓にミユキセシであったのを『萬葉考』にイデマシシと改めたのが定訓となっている。「幸」=「行幸」で、5番歌13句の「行幸能」を「行幸(いでまし)の」と訓む。「いでまし」は「出座(いでます)」の連用形。「之」はシ。

 
結句「宇陀乃大野者 所念武鴨」「宇陀の大野は 思ほえむかも」と訓む。「宇陀乃大野者」は「宇陀(うだ)の大野(おほの)は」と訓む。「宇陀」は地名。「大野」は、狩りのできる「大きな野」の意だが、「大」には「大王」にみられるように尊称の意があり、公の狩猟地であったことが伺える。現在の奈良県宇陀郡大宇陀町一帯の丘陵をいう。薬草の季節である春と冬に出でます習慣があったようである。柿本人麻呂が軽皇子(日並皇子の子。後の天武天皇)に従って遊猟した「安騎野」も、その中に含まれる。45番歌に「阿騎(あき)の大野(おほの)に」と詠まれている「乃」はノ。「者」はハ。「所念武鴨」は「念(おも)ほえむかも」と訓む。「所念」は「念(おも)ほえ」。「おもほゆ」は動詞「おもう」(「念」で表記)に上代の自発・受身の助動詞ユ(「所」で表記)の付いてできた語で「思われる」の意。「武」はム。「鴨」はカモ。

【巻2(192)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の二十二首目。
原文  朝日照 佐太乃岡邊尓 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎
和訳  朝日照る 佐太の岡辺に 鳴く鳥の 夜鳴きかへらふ この年ごろを
現代文  「朝日の照っている 佐太の岡辺に鳴く鳥の夜鳴きの声も以前とは変わってきこえる。この一年は」。
文意解説
 発句「朝日照 佐太乃岡邊尓 鳴鳥之」「朝日照る 佐太の岡辺に 鳴く鳥の」と訓む。「朝日照」は「朝日照る」と訓む。「朝日弖流」、「旦日照」と表記は違うが同じ詠い出し。伝統的な宮讃めの成句で枕詞的に用いられているとも考えられるが実景を詠んだものと考えて良いと思われる。「佐太乃岡邊尓」は「佐太(さだ、佐田)の岡邊(をかへ)に」と訓む。「佐太」はサダ。地名の表記に用いたもので、現在の奈良県高市郡佐田。「乃」はノ。「岡邊」は「岡のほとり。岡のあたり」の意。「尓」はニ。「佐田の岡辺」は、日並皇子の殯宮のある真弓の岡に続く丘陵で、舎人たちの奉仕していた場所をいう。「鳴鳥之」は「鳴く鳥の」と訓む。「鳴」は「鳴く」。「なく」は、「ね(音)」と同語源の「な」が動詞化したもので、生物が種々の刺激によって声を発することをいう。「鳥」は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌」の歌群で詠まれている。「之」はノ。(これを、主語を示す「の」と見る説もあるが当たらない) 「朝日照る佐太[佐田]の岡邊(をかへ)に鳴く鳥の」までを序詞ととる説と実景ととる説がある。序詞説では、「しきりに鳴く鳥のように、我々はこの一年の間毎夜泣きつづけている」(『日本古典文学大系』)という意味に解するが、実景説は「岡のほとりに鳴く鳥の鳴き声が、この頃は前とは変わつて悲しく聞こえることである」(豊田八十代『萬葉集新釋』)というように解している。この両説の違いは、次句の訓みに関係する。

 結句「夜鳴變布 此年己呂乎」「夜鳴きかへらふ この年ごろを」と訓む。「夜鳴變布」は「夜鳴(よな)き變(かは)らふ」と訓む。「夜鳴」は「よなき」と訓み、「鳥などが、夜中に鳴くこと」の意。「變」は、「かはる」にも「かへる」のどちらにも訓むことができる。「かはる」は「物事の状態や質が、前と別の物になる。変化する」意。「かへる」は、「事物や事柄が、もとの場所、状態などにもどる」意であるが、「繰り返し…する」の意ともなる。「布」はフ。序詞説では「變布」を「かへらふ」と訓んで、4句を「舎人たちの夜泣きの続く」意味に解し、これに対して実景説では「變布」を「かはらふ」と訓んで、「鳥の夜鳴きの声もずっと変わって聞こえる」の意に解する。ここは「かはらふ」と訓む実景説を採るのが正しいと思われる。序詞説では、「夜鳴」は名詞ではなく動詞の連用形と見ることとなり、「變」は補助動詞「かへる」ということになるが、反復する意の補助動詞「かへる」にフを添えるのは意味の重複であり、実際に「かへらふ」という例は見られない。それに対して、「かはらふ」の例は、巻十九の大伴家持の作歌に「喧鳥乃(なくとりの) 音毛更布(こゑもかはらふ)」(4166番歌)の例がある。やはりここは実景説を採って、「夜鳴きの声が以前とは変わって悲しく聞こえる」意に解すべきであると思う。「此年己呂乎」は「此(こ)の年(とし)ころを」と訓む。「此年」は「此(こ)の年(とし)」。「己呂」はコロ。「かなり長い一定の期間」を言い、「年頃、月頃、日頃」などと熟して用いられる。ここでは、殯宮に奉しして翌年を迎えたので「年ころ」と言ったもの。「乎」はヲ。結句は倒置句。

【巻2(193)。】
題詞
歴史解説
 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の二十三首目、この歌群の終りの歌となる。「右、日本紀ニ曰ク、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨セリ 」。以上で、舎人による23首は終了する。皇子の宮や墓所について警護して暮らした古代人(こだいびと)の心情や暮らしの一端がしのばれて極めて興味深い。 
原文  八多篭良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙為
和訳  畑子らが 夜昼といはず 行く路を われはことごと 宮道(みやぢ)にぞする
 (やたこ)らが 夜昼と云はず行く路を (あれ)はことごと 宮道(みやぢ)にぞする
現代文  「畑で働く農民たちが夜昼を分かたず行く道を、自分は夜も昼も宮道として通うことである」。
文意解説  発句「八多篭良我 夜晝登不云 行路乎」「畑子らが 夜昼といはず 行く路を」と訓む。「八多籠良我」は「はたこ[畑子]らが」と訓む。「八」はヤであるが、ハとしても使われた。ここも、次に「多(タ)」があるので、「八多」でハタと訓む。「籠」は、萬葉集冒頭の「籠(こ)もよ み籠(こ)もち」で知られているが、ここは「子(こ)」を表すための借訓字として用いたもの。「子」はコで、それ、また、それをする人の意を表し、「八多籠」で以て、「はたこ[畑子]」と訓み、「畑で働く人、すなわち農夫」の意味と考えられる。「良」はラ。主として人を表わす語また指示代名詞に付いて、複数であること、その他にも同類があることを示す。「我」はガ。「夜晝登不云」は「夜晝(よるひる)と云(い)はず」と訓む。「夜晝」は「よるひる」と訓み、「夜(日没から日の出まで)と昼(日の出から日没まで)」。「登」はト。「不云」は「云(い)はず」。「夜晝(よるひる)と云(い)はず」は、「夜と言わず、昼と言わず」即ち「昼夜を分かたず」の意。現在では「昼夜」というのが普通だが、当時は「夜晝」と言ったようで、続日本紀宝亀二年〔七七一〕二月二二日・宣命にも「天下の公民の息安(やす)まるべき事を、旦夕(あさよひ)夜日(よるひる)と云はず、思ひ議り奏(まをしたま)ひ仕へ奉れば」(原文「天下公民之息安〈麻流倍伎〉事〈乎〉旦夕夜日不云思議奏〈比〉仕奉者」)とある。「行路乎」は「行(ゆ)く路(みち)を」と訓む。「行」は「行(ゆ)く」。「路」は「みち」で「人の行き来するところ」。「行(ゆ)く路(みち)」は「進んで行く道。通り過ぎて行く道」の意。「乎」はヲ。

 結句「吾者皆悉 宮道叙為」(あれ)はことごと 宮道(みやぢ)にぞする」と訓む。「吾者皆悉」は「吾(われ)は皆悉(ことごと)」と訓む。「吾」は、自称「われ」。「者」はハ。「皆悉」を旧訓にサナガラと訓んだが、萬葉考にコトゴトと改められ、以後これによる注釈書が多い。サナガラは上代文献に例を見ないのに対し、コトゴトは仮名書き例があり、また「悉」一字で「盡」と同じくコトゴトと訓む例も見られる。「皆(みな)」も「全部にわたってその状態であること。残らず。すべて。ことごとく」の意味があるから、「皆悉」の二字でコトゴトに宛てたものと見て間違いないと思われる。155番歌に「夜(よ)の盡(ことごと)」「日(ひ)の盡(ことごと)」とあったことを考えると、この「皆悉(ことごと)」も時間的な意味に解して、二句・三句の「夜晝(よるひる)と云(い)はず行(ゆ)く路(みち)を」と言ったのを受けて、「自分は」その道を「夜も昼もことごと」と詠ったものと考えられる。このコトゴトを「我等ことごとくが」と解する説や「その道すべてを」と解する説などもあるが当たらないと思われる。「宮道叙為」は「宮道(みやぢ)にぞ為(す)る」と訓む。「宮道」は「みやぢ」で「宮殿に通じる道。御所へ通う道」の意であるが、ここは、真弓の岡の殯宮の場へ晴れやらぬ心で出仕する事を詠った175番歌に「宮出」とあったのと同じように、墓所へ伺候する道を宮中への伺候に準じて「宮道」と言ったものと考えられる。「みやぢ」の後に二を補読して次に続く。「叙」はゾ。「為」は、ゾの結びで「為(す)る」。

【巻2(194)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「柿本朝臣人麻呂獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首[并短歌]」(河島皇子の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿が泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に献れる歌一首、また短歌)。194番歌の反歌である。左注に「右或本曰 葬河嶋皇子越智野之時 獻泊瀬部皇女歌也 日本紀<云>朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑浄大参皇子川嶋薨」(「右、或る本に曰はく、河嶋皇子(かはしまのみこ)を越智野(をちの)に葬(はぶ)る時に、泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に獻(たてまつ)る歌なりといふ。日本紀に云はく、朱鳥(あかみとり)五年辛卯(しんぼう)の秋九月、己巳(きし)の朔(つきたち)の丁丑(ていちう)に浄大参(じやうだいさん)皇子川嶋薨(こう)ずといふ」とある。
原文  飛鳥 明日香乃河之 上瀬尓 生玉藻者 下瀬尓 流觸経 玉藻成 彼依此依 靡相之 嬬乃命乃 多田名附 柔膚尚乎 劔刀 於身副不寐者 烏玉乃 夜床母荒良無 一云 阿礼奈牟 所虚故 名具鮫兼天 氣田敷藻 相屋常念而 一云 公毛相哉登 玉垂乃 越能大野之 旦露尓 玉裳者埿打 夕霧尓 衣者沾而 草枕 旅宿鴨為留 不相君故
和訳  飛ぶ鳥の 明日香の河の (かみ)つ瀬に 生(お)ふる玉藻は (しも)つ瀬に 流れ()らふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡(なび)かひし (つま)(みこと)の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝ねば ぬば玉の 夜床(よとこ)も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ほして 玉垂(たまたれ)の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故
現代文  「飛ぶ鳥の 明日香の川の上流の瀬に 生えている美しい川藻は下流の瀬に流れ靡いて触れあっている。その美しい川藻のように あちらに寄りこちらに寄りして、靡きあった妻のあなたのふくよかな柔らかい肌さえも、剣太刀のように身に添えて寝ることがないので、ぬばたまの黒さのような 夜の床も荒れていることだろう。それだから、どうにも心を慰められなくて、もしかすると逢いはしないかと思って玉を貫く緒、そのヲならぬ越智の大野の朝露に 美しい裳をびっしょりと濡らし夕霧に衣はしっとりと濡らして草を枕にわびしい旅寝をするのであろうかなあ。逢うことのできぬあの方であるのに」。
文意解説

 「『万葉集』を訓(よ)む(その296)」その他を参照する。

 発句「飛鳥 明日香乃河之」「飛ぶ鳥の 明日香の河の」と訓む。「飛鳥」は、ここでは「とぶとりの」と五音に訓む。167番歌には「飛鳥之」と「之(の)」を表記している。地名「明日香(あすか)」にかかる枕詞。天武天皇の時代、赤雉の瑞祥にちなんで、年号を「朱鳥(あかみとり)」と改元するとともに、その宮殿「浄御原宮(きよみはらのみや)」を「飛鳥浄御原宮」と呼ぶようにしたので、その所在地の「明日香」の地にも冠せられるようになったものといわれている。「明日香」は奈良県高市郡明日香村付近一帯の称で、北は大和三山にかぎられ、中央を「明日香の河(かは)」(現在の飛鳥川)が流れる。飛鳥川は、高取山を源とし、大和川に入る、全長28キロメートルの川。「乃」はノ。「之」はノ。

 2句「上瀬尓 生玉藻者」(かみ)つ瀬に 生(お)ふる玉藻は」と訓む。「上瀬尓」の「上瀬」はツを補読して「上つ瀬」と訓む。ツは、体言と体言との関係づけをを行うもので、同種の語にガ、ナ、ノがあるがツは位置や場所について使われることが多い。「上つ瀬」は「川の上流にある瀬」の意。「尓」は二。「生」は「生(お)ふる」。「おふ」は「(草木・毛などが)はえる。生じる」ことをいう。「玉藻」の「玉(たま)」は美称で「美しい藻」の意。「者」はハ。

 3句「下瀬尓 流觸經」「下(しも)つ瀬(せ)に 流(なが)れ觸(ふ)らばふ」と訓む。「下瀬尓」は「上瀬尓」と対句を成す。「上瀬」と同様、「下」と「瀬」の間にツを補読して「下つ瀬」と訓む。「下つ瀬」は「川の下流にある瀬」の意。「流」は「流れ」。「ながる」は「人や物が、液体とともに動いて行く。水などに運ばれて行く」ことをいう。「觸經」は「觸(ふ)らばふ」と訓む。「尓」は二。「經」はフ。「ふらばふ」は上代語で、「繰り返しさわる。触れ合う」の意で、古事記の歌謡100に「本都延能(ほつえの) 延能宇良婆波(えのうらばは) 那加都延爾(なかつえに) 淤知布良婆閇(おちふらばへ)[上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ]」と連用形「ふらばへ」としての用例がある。ここは終止形であることを示す為に「經」を表記したと思われる。初句からこの句までが次の「玉藻成」を起こす譬喩の序をなしている。

 4句「玉藻成 彼依此依」「玉藻(たまも)なす 彼(か)依(よ)り此(かく)依(よ)り」と訓む。「玉藻」は既出。「なす」は、「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意で、連用修飾または連体修飾に用いられる接尾語。上代東国方言では「のす」という形でも用いられる。語源的には、「似(に)す」、あるいは「成(な)す」とも関係があるかともいわれる。「彼此」はカクと訓み、「あちらに」と「こちらに」の意。「依」は「依(よ)り」。「よる」は「ある物やある所、また、ある側に近づいて行く」ことをいう。

 5句「靡相之 嬬乃命乃」「靡(なび)かひし 嬬(つま)の命(みこと)の」と訓む。「靡相之」は、「なびく」の連用形ナビキ(「靡」)+「あふ」の連用形アヒ(「相」)+シ(「之」)のナビキアヒシが約まってナビカヒシとなったもの。「なびく」の未然形「靡(なび)か」+フの連用形ヒで「靡(なび)かひ」と見ることもできるが、ここは「相」の字が使われていることからナビキアヒシが約まったと考えて、「互いに寄り添いあった」の意味と見るのが良いと思われる。「嬬乃命」は旧訓イモノミコトであったが、契沖がツマノミコトと改め、「嬬(つま)」を「夫(つま)」の借訓とみて川島皇子を指すものとしてから、諸注がこれにならい、ほぼ定説化していた。しかし、武田祐吉『萬葉集全註釈』に「明日香川の玉藻の序も、人麻呂の作の通例のことではあるが、婦人を叙する起句として適切である」としてツマノミコトは泊瀬部皇女(川島皇子妃)を指すとして以降は、ツマノミコトが誰を指すかについて、川島皇子説と泊瀬部皇女説の両説に分かれて論争が続いている。泊瀬部皇女説を採る稲岡『萬葉集全注』は次のように述べている。(引用中「河島皇子」とあるのは「川島皇子」に同じ。)

 人麻呂作歌(題詞中の例を除く)のツマは妻と書かれたものと、嬬と書かれたものと二種ある。妻は戸籍上の妻をあらわすのに対し、嬬は、夫の場合にも用いる。人麻呂の挽歌では、死者の配偶者にあたる人を「嬬」と表現している。したがってこの歌でも、死者である河島皇子が「君」と呼ばれているのに対して、その妃泊瀬部皇女を「嬬」と言ったのであろう。

 首肯できる説であり、玉藻の序も続く句の「柔膚」の表現も女性にふさわしいことからしても、泊瀬部皇女説を支持したいと考える。

 6句「多田名附 柔膚尚乎」「たたなづく・柔膚(にきはだ)すらを」と訓む。「多田名」はタタナ。「附」は「つく」の訓みを流用してヅク。「多田名附」で、「たたなづく」と訓む。「たたな」は、「たたぬ」「たたむ」などと語根を同じくするもので、「たたみ重なる」意を表わし、ヅクは「付く・着く」の意であろうという。幾重にも重なっている様子をいうことから「青垣」または「青垣山」にかかる枕詞として、古事記の次の有名な歌(歌謡30)に用いられている。「夜麻登波(やまとは) 久爾能麻本呂婆(くにのまほろば) 多多那豆久(たたなづく) 阿袁加岐(あをかき) 夜麻碁母礼流(やまごもれる) 夜麻登志宇流波斯(やまとしうるはし)」(大和は国のまほろば。たたなづく 青垣。山隠れる大和し麗し)。ここでは、人麻呂がこの古い枕詞を転用させて、次の「柔膚」にかかる枕詞としたものとされるが、そのかかり方については、「衣が重なったように柔らかになびく」意からとか、「身を折りかがめる」意からなど、諸説あるが定かでない。いずれにしても人麻呂が「たたなづく」を「柔膚」を修飾する語として用いたことは間違いない。「柔膚」は「にきはだ」と訓み、「柔らかな肌」の意である。これを修飾したと考えれば、「たたなづく」は「肉付きのよい、ふくよかな」の意であるとする阿蘇『萬葉集全歌講義』が正しいように思う。「尚」は、副助詞スラを表すのに用いたもので、下の「乎(ヲ)」を伴ってスラヲと訓む。上代によく使われた表現で、その受ける語に対して例外的・逆接的な事態が起こることを示すのに用いられた。「でさえも、なお」の意を表すことから「尚」の字が宛てられたものと考えられる。

 7句「劔刀 於身副不寐者」「劔刀(つるぎたち) 身(み)に副(そ)へ寐(ね)ねば」と訓む。「劔」は「つるぎ」と訓む。「つるぎ」は、「つるぎたち」「つるぎのたち」のように「たち」とともに用いられる例が多く、「たち」の一種とされたようでもあり、また「かたな」(片刃の太刀)に対する両刃の刀をさすともされる。一方「刀」は、和名抄に「刀。劍に似て一刃なるを刀と曰ふ。大刀、太知(たち)、小刀、賀太奈(かたな)」とある。ここは、「劔刀」で以て「つるぎたち」に宛てたものと考えられる。「つるぎたち」は身に添えて携えることから「身にそへ」の枕詞として用いたもの。「於」は漢文の助字で、訓読では読まないが、上下の語句の関係を示すので、送り仮名によってその意を表す。ここの「於身」では、対象を示す格助詞二を送って「身に」。「副」は「副(そ)へ」。「そふ」は「近くに寄せる。身近に寄せる。身につける」ことをいう。「不寐者」は「寐(ね)ねば」と訓む。「寝ないので」の意。この主語についても、川島皇子とする説と泊瀬部皇女とする説があるが、「つるぎたち」を「身にそへ」るのは男子であるから、ここは川島皇子が主語であると考えられる。

 8句[異伝]「烏玉乃・夜床母荒良無[一云 阿礼奈牟]」「烏玉(ぬばたま)の・夜床(よとこ)も荒(あ)るらむ[一に云ふ あれなむ]」と訓む。「烏玉乃」は、「烏玉之」とノの表記は異なるが同句で「ぬばたまの」。「ぬばたま」は既述。ここでは次の「夜床」にかかる。「夜床」は「よとこ」と訓み、「夜寝る床。ねどこ。ふしど」の意。この「夜床」についても、泊瀬部皇女の夜寝る床とも、葬られた川島皇子の横たわる床とも言われて論争があるが、不毛の論争であると思われる。ここの「夜床」は、男女相寝る床であり、生前の川島皇子と泊瀬部皇女が共に過ごした所を指していると考えれば良いと思う。「母」はモ。「荒」は「荒る」。「良無」はラム。「荒れているであろう」の意。推敲前と思われる異伝の方は、全て常用音仮名表記で、「あれなむ」となっている。「あ[荒]れ」+ヌの未然形ナ+ムで、「荒れてしまうだろう」の意。

 9句「所虚故 名具鮫兼天」「そこ故(ゆゑ)に なぐさ[慰]めかねて」と訓む。「所虚」は、ソコ。「故」は、名詞「ゆゑ(故)」に助詞「に」の付いてできた接続詞「ゆゑに」と訓む。「そこ故(ゆゑ)に」は「其故」の表記で既出、前の事柄の当然の結果として後の事柄が起こることを示す。「それゆえに。それだから」の意。「名具鮫」はナグサメ。「なぐさめ」を表す。「なぐさむ」は「心をなごやかに静まらせる。心を晴らす」ことをいう。「兼」はカネ。「かぬ」の連用形を表すのに用いたもの。ここのカヌは、「…し続けることができない。…しようとしてもできない」の意となる。「天」はテ。前の16句は、この「そこ故に慰めかねて」を引き出す表現としては、現在荒れているであろうの意の「荒るらむ」という本文の表現の方が適切であると言えるだろう。

 10句[異伝]「氣田敷藻 相屋常念而 [一云 公毛相哉登] 」「けだしくも・相(あ)ふやと念(おも)ひて [一に云ふ 公(きみ)も相(あ)ふやと] 」と訓む。「氣田」はケダ。「敷」はシク。「氣田敷」で以て、副詞の「けだしく」を表す。意味は「けだし」に同じ。「けだし」には二通りの使われ方があり、(1)あり得る事態を想定する時の、肯定的な仮定の気持を表わす語として使われ、「ひょっとすると。もしかすると」の意。(2)判断を下す時の、多分に確信的な推定の気持を表わす語として使われ、「多分。おそらく。思うに」の意。ここは(1)の意で使われている。なお、「けだしく」は、多くモを伴って「けだしくも」という形で用いられる。ここも、モの表記に「藻」を宛てている。この表記は、「玉藻」からの連想で用いたものかと思われる。「相」は「相(あ)ふ[逢ふ]」。「屋常」はヤト。「念」は「念(おも)ひ」。「而」はテ。以上、「相(あ)ふやと念(おも)ひて」となるが、この句には、異伝[公毛相哉登]がある。「公」は「きみ」で、亡くなった川島皇子を指す。「毛」はモ。「相」は本文に同じ。「哉」はヤ。「登」はト。異伝は「公(きみ)も相(あ)ふやと」となり、末句の「相(あ)はぬ君(きみ)故(ゆゑ)」と呼応していたと見られる。しかし、推敲により、「けだしくも 公(きみ)も相(あ)ふやと」を「けだしくも 相(あ)ふやと念(おも)ひて」に変更して、その呼応関係をなくした。その結果、末句の独立性が高まり、末句は際立って重要な一句となったものと思われる。

 11句「玉垂乃 越能大野之」「玉垂(たまだれ)の 越(をち)[越智]の大野(おほの)の」と訓む。「玉垂」は「たまだれ」(古くは「たまたれ」とも)と訓み、「玉を緒(を)で貫いて飾りとしたもの」のことで、その意から、「玉垂(たまだれ)の」は「緒(を)」と同音を含む語にかかる枕詞として用いられた。ここは地名「越(をち)」にかかる枕詞。「越」は、現在の奈良県高市郡高取町越智。「能」はノ。「大野」は「大きな野」の意。この長歌の反歌である195番歌の左注に「葬河嶋皇子越智野之時」とあることから「越の大野」とは「越智野」のことであり、そこに川島皇子が葬られたことが分かる。ここの「之」はノ。

 12句「旦露尓 玉裳者埿打」「旦露(あさつゆ)に 玉裳(たまも)はひづち」と訓む。「旦」を「あさ(朝)」と訓む例は既出。「露」も既出。「旦露」は「朝、葉の上などに降りた露」のこと。「尓」はニ。「玉裳」の「玉」は美称。「玉藻」は「美しい裳」のことで、「裳」は、古代、腰から下にまきつけた衣服の総称である。40番歌に「珠裳(たまも)のすそに」と「たま」の表記は違うが既出。「者」はハ。「埿打」は「ひづち」と訓む。「埿」は泥と土が合したもので、泥の俗字。「泥」は「ひぢ」と訓まれ、今の「どろ」である。「ひづつ」は、一説に「泥(ひぢ)」と「打つ」の複合語で、「泥でよごれる」意とするが、ここは「水につかる。びっしょり濡れる」の意。

 13句「夕霧尓 衣者沾而」「夕霧(ゆうきり)に・衣(ころも)は沾(ぬ)れて」と訓む。「夕霧」は「ゆふきり」と訓み、「夕方に立つ霧」をいう。「尓」は二。「衣」は名義抄に「衣。キモノ・コロモ・キヌ・キル・キヌキル・コロモキス・ツク・コケ」などの訓みを記すが、ここは「ころも」と訓む。「ころも」は、人のからだ、特に胴体をおおう物の総称。「者」はハ。「沾」は「沾(ぬ)れ」。「ぬる」は、「物の表面に雨、露、涙などの水がたっぷり付く」ことをいう。「而」はテ。「旦露(あさつゆ)に・玉裳(たまも)はひづち」と「夕霧(ゆうきり)に・衣(ころも)は沾(ぬ)れて」は対句をなしている。

 14句「草枕 旅宿鴨為留 不相君故」「草枕(くさまくら) 旅宿(たびね)かも為(す)る 相(あ)はぬ君(きみ)故(ゆゑ)」と訓む。「草枕」は、「旅」にかかる枕詞。「旅宿」は「たびね」と訓み、「自宅を離れ、よそで寝ること。旅先で寝ること」をいう。ここは、川島皇子を葬った越智野に宿ることをいったもの。「鴨」はカモ。「為留」は「為(す)る」。「不相」は「相(あ)はぬ」と訓む。「君(きみ)」は川島皇子を指す。「故(ゆゑ)」は、体言や活用語の連体形などに付けて用いる形式名詞で、「…のため」あるいは「…だのに。…であるが」の意に用いられる。ここは、「逢うことのかなわない君であるが」の意で、「けだしくも相(あ)ふやと念(おも)ひて」に戻ることになり、嘆きを深めるリフレインを作り出す表現となっている。


【巻2(195)。】
題詞
歴史解説
 反し歌一首。 右、日本紀ニ云ク、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨セリ。この歌の左注に、「右或本曰 葬河嶋皇子越智野之時 獻泊瀬部皇女歌也 日本紀<云>朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑浄大参皇子川嶋薨(或本に、川島皇子(かわしまのみこ)が越智野(奈良県高市郡)で薨去した際、泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に献じた歌という)」とある。これを当時の言葉で訓み下すと、「右、或る本に曰はく、河嶋皇子(かはしまのみこ)を越智野(をちの)に葬(はぶ)る時に、泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に獻(たてまつ)る歌なりといふ。日本紀に云はく、朱鳥(あかみとり)五年辛卯(しんぼう)の秋九月、己巳(きし)の朔(つきたち)の丁丑(ていちう)に浄大参(じやうだいさん)皇子川嶋薨(こう)ずといふ。」となろう。194・195番歌が「河嶋皇子挽歌」と称される所以であるが、194番歌を訓み終えての率直な感じを言えば、他の挽歌とは少し様相を異にしているように思われる。そのことは左注には「泊瀬部皇女に献る歌」とありながら、題詞では、献呈の相手が泊瀬部皇女と忍坂部(忍壁)皇子の二人になっているという問題とも関連しているのではないかと考えているが、そのことについてはこの反歌(195番歌)を訓み終えた後に別途論じることにしたい。誰が皇女に献じたのか、川島皇子は皇女とどんな関係の皇子なのかは記されていない。前歌(194番長歌)の題詞を見ると、「柿本人麻呂が泊瀬部皇女、忍坂部皇子(おさかべのみこ)に長歌とともに献じた短歌」とある。が、これだとますますこんがらかる。なぜなら歌意は皇女が川島皇子に呼びかける内容になっているからである。柿本人麻呂が歌を皇女に献じるのは分かるが、なぜ同時に忍坂部皇子にも献じなければならないのか分からない。二人は姉弟だったと説明されてもぴんとこない。忍坂部皇子は川島皇子の誤記なのだろうか。さらに194番長歌の題詞からはこの歌柿本人麻呂の歌であるかのごとく受け取れるが、代作なら「袖交へし君」などと詠み込むものだろうか。謎の多い歌のひとつである。
原文  敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛将相八方 [一云 乎知野尓過奴]
和訳  敷布(しきたへ)の 袖(そで)交へし君 玉垂(たまだれ)の 越智野過ぎぬ またも逢はめやも
 敷栲の 袖交へし君 玉垂の 越智野過ぎ行く またも逢はめやも [一云 越智野に過ぎぬ]
現代文  「互いに袖を交わし寝た君は越智野に葬り去られてしまわれた。もうお逢いすることは叶わないのですね 」。  
文意解説  発句「敷妙乃 袖易之君 玉垂之」敷布(しきたへ)の 袖交へし君 玉垂(たまだれ)の」と訓む。「敷妙乃」は「敷妙(しきたへ)の」と訓む。「しきたへの」は枕詞で次の「袖」にかかる。「袖易之君」は「袖(そで)易(か)へし君」と訓む。「袖」は「袖振る」など愛情表現に使われることが多い。「易」は名義抄に「易。カフ・カハル・カハルガハル・ソムク・ヤスシ・タヤスシ・タヤスク・カロカロシ・アナヅル・アキナフ」とあり、いろいろな訓みがある。ここは最初に挙げられている「かふ」の意で、その連用形「易(か)へ」と訓む。「之」はシ。「君」は亡くなった川島皇子を指す。「袖(そで)易(か)へし君」は、「袖をさし交わして共寝をした君」、「夫婦として愛し合ってきた君」の意。「玉垂之」は「玉垂(たまだれ)の」と訓む。「玉垂(たまだれ)の」は玉を緒(を)で貫いて垂らし、飾りとしたものの意から、「緒(を)」と同音を含む語にかかる枕詞として用いられた。ここは次の「越(をち)」にかかる枕詞。

 結句「越野過去 亦毛将相八方」「越智野過ぎ行く またも逢はめやも」と訓む。 [異伝]「越野過去」[一云 乎知野尓過奴] は「越野(をちの)過ぎ去(ゆ)く」[一に云ふ をち野(の)に過ぎぬ]と訓む。「越野(をちの)」は、現在の奈良県高市郡高取町越智を中心とする一帯の野で、左注に言う川島皇子が葬られたという「越智野」のこと。「過去」で以て「過ぎ去(ゆ)く」と訓む。[異伝]では、「越野(をちの)」を「乎知野」と仮名表記している。「乎」はヲ、「知」はチ。「尓」はニ。「過」は「過(す)ぎ」。「奴」はヌ。「すぎゆく」も「すぐ」も共に「死去する」の意があり、ここでは「埋葬する」ことを言ったものと考えられる。「越野過ぎ去(ゆ)く」は、川島皇子の埋葬されてゆくことを現在進行形で詠っており、推敲前と思われる[異伝]の「をち野に過ぎぬ」では「埋葬された」と完了形になっている。完了形よりも現在進行形の方が悲哀感が強いと考えて改めたのではないだろうか。なお、澤瀉『萬葉集注釈』は、本文の「過去」も「過ぎぬ」と訓み、単なる表記の違いと見ている。「亦毛将相八方」は「亦(また)も相(あ)はめやも」と訓む。31番歌の「亦母相目八毛」と同句。「亦も」は「再度。重ねて」の意。「将相」は「相(あ)はめ」と訓む。「八方」はヤモ。

【巻2(196)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「明日香皇女の城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌」。
原文
和訳  飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋(いはばし)渡し 下つ瀬に 打橋(うちはし)渡す 石橋に ()ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば()ふる 打橋に ()ひををれる 川藻もぞ 枯るれば()ゆる なにしかも 我が(おほきみ)の 立たせば 玉藻のごと ()やせば 川藻のごとく 靡かひし (よろ)しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折り挿頭(かざ)し 秋立てば 黄葉(もみちば)挿頭し 敷布の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かに 望月(もちつき)の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食(みけ)向ふ 城上の宮を 常宮(とこみや)と 定めたまひて あぢさはふ 目言(めこと)も絶えぬ そこをしも あやに悲しみ ぬえ(とり)の 片恋しつつ 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星(ゆふづつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰むる 心もあらず そこ故に ()むすべ知らに 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く (しぬ)ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が(おほきみ)の 形見にここを。
現代文  (飛ぶ鳥の) 明日香の川の 上の瀬に 飛び石を橋として渡し 下の瀬に 打橋の板をかけ渡す その石橋に 生え靡いている 玉裳は 絶えるとまた生えてくる 打橋に 生い茂っている 川藻でさえ 枯れると生えるものだ それなのにどうして 明日香皇女は お立ちになると 玉藻のように 横になると 川藻のように なびき合われた 美しい夫君の 朝宮を お忘れになられたのだろうか 夕宮を 離れ去られたのだろうか この世の人でいつまでもあられると 思っていた時 春のころは 花を折って髪にさし 秋になると 黄葉を髪にさし (敷妙の) 袖を取り合って (鏡のように) 見ても飽きることなく (望月のように) いよいよいとしく 思われた夫君と 季節季節に お出かけになり お遊びになった (みけむかふ) きのへの宮を 永遠の御殿と お定めになられて (あぢさはふ) 目で見ることも言葉を交わすこともな絶えてしまった そのために たまらなく悲しく思い  (ぬえ鳥の)亡き妻を慕う夫君 (朝鳥のように)お通いになる君が (夏草のように)思いしおれて (夕星[金星]のように) あちらへ行きこちらへ行き (大船のように) 落着かないご様子を見ると 休まる こころもない さりとてそこで なすべき術も知らない うわさだけでも 名前だけでも (天地のように) いよいよ遠くいつまでも お偲びしようと思う その御名にゆかりの 明日香川を 万代の後まで いとしい わが大君の 形見の地としてここを
文意解説  長歌()。「『万葉集』を訓(よ)む(その303)」その他を参照する。
 発句の「飛鳥 明日香乃河之」「飛ぶ鳥の 明日香(あすか)の河(かは)の」と訓む。194歌の初句と同句。

 2句「上瀬 石橋渡[一云 石浪]」「上(かみ)つ瀬に 石橋渡し[一に云ふ 石(いは)なみ] 」と訓む。「上瀬」は194歌の2句と同句。「石橋」は「いしばし」と訓む注釈書もあるが、旧訓に従って「いははし」と訓む。「いははし」は、今の「いしばし」とは違い、川の浅瀬に石を飛び石状に置いたもので、その上を踏んで川を渡るためのもの。[異伝]の「石(いは)なみ」も「いははし」と同じで、川の浅瀬に石を並べて置いたもの。「なみ」は横に並ぶ意の「なむ」の連用形が名詞化したもの。「渡」は「渡(わた)し」。「わたす」は、「橋、梁(はり)、紐などを一端から他端へかける」ことをいい、ここは「石橋をかけ渡す」意。

 3句「下瀬 打橋渡」「下つ瀬に 打橋(うちはし)渡す」と訓む。「下瀬」は194歌の3句と同句。「打橋」は「うちはし」と訓み、「板を両岸の間にかけ渡しただけの、取り外しのできる橋」のこと。上流の浅瀬に渡す「石橋」と違って、「打橋」は下流のやや深い所に用いた。「渡」は「渡す」。「上つ瀬に 石橋(いははし)渡し」、「下つ瀬に 打橋(うちはし)渡す」は二句対になっている。

 4句「石橋 [一云 石浪] 生靡留 玉藻毛叙」「石橋(いははし)に [一に云ふ 石(いは)なみに] 生(お)ひ靡(なび)ける 玉藻(たまも)もぞ」と訓む。ここは二をよみ添える。「生」は「生(お)ひ」。「おふ」は「(草木・などが)はえる。生じる」ことをいう。「靡」は「なびく」の已然形で「靡(なび)け」。「なびく」は「風、水などの力により、それに流されるような形になる」ことをいう。「留」はル。「玉藻」の「玉(たま)」は美称で「美しい藻」の意。「毛叙」はモゾ。

 5句「絶者生流 打橋」「絶ゆれば生(お)ふる 打橋(うちはし)に」と訓む。「絶」は「絶(た)ゆれ」。「たゆ」は「一続きのものが途中で切れる」ことを言う。「者」はバ。「生流」は「生(お)ふる」と訓む。上の係助詞「ぞ」の係結び。連体形であることを明示するために、ルを「流」表記している。四句対になっている。「打橋」(6句に既出)は、場所を示す二を補読して「打橋(うちはし)に」と訓む。

 6句「生乎為礼流 川藻毛叙」「生(お)ひををれる 川藻(かはも)もぞ」と訓む。「生」は「生(お)ひ」。「乎為礼流」は、「ををれる」と訓む。「ををる」は「生い茂る」ことをいう。「乎礼流」はヲレル。しかし、「為」を「を」とは訓めない。それについては、「為」を「烏」の誤字とする説や、「為」はその上の字をもう一度繰り返す時に使う文字だと見なす説などがある。また『萬葉集注釋』では、ここを「をゐれる」と訓んでいるが、ここは「花咲きををり…」という仮名書き例(923番歌「花咲乎遠理」など)により「ををれる」の訓みを採る。「為」は、字形の近さから「烏」の誤字である可能性が高い。「川藻」は「川の藻」で「玉藻」を言い換えたもの。「毛叙」も同じでモゾ。

 7句「干者波由流 何然毛」「干(か)[枯]るればはゆる 何(なに)しかも」と訓む。「干」は「干(か)[枯]るれ」と訓む。「かる」は、原義は「水分がなくなる」ことで、ここでは「植物が、水気がなくなって生気がなくなる」ことをいう。「者」はバ。「波由流」はハユル。「はゆる」は「はゆ」の連体形で、上の係助詞「ぞ」の結び。「何然」はナニシカと訓む。163番歌「奈何可」の表記で既出。「然」はシカ。シにカのついたもので、「何しか」は「どうして(…なのか)。なぜ(…するのか)」と理由・目的を不明のものとして指示する語。「毛」はモ。「何しかも」は「何しか」を強めた言い方で、「どうしてまた(…なのか)。なぜまた(…するのか)」の意。

 8句「吾<王><能> 立者 玉藻之<母>許呂」「吾(わ)が王(おほきみ)の 立(た)たせば 玉藻(たまも)のもころ」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「王」は「大王」と同じく「おほきみ」と訓む。「おほきみ」は天皇を尊敬していう語であるが、天皇の子孫を尊敬して、親王、王、王女などにも使われた。ここは後者で「明日香皇女」を指す。「能」はノ。西本願寺本は「生乃」とするが、金沢本、紀州本に「王能」とあるのを採る。「立者」は「立たせば」と訓む。「お立ちになると(いつも)」の意。「玉藻」は既出。「之」はノ。「母許呂」はモコロ。「同じようなさま。よく似た状態」をいう上代語で「ごと」に同じ。「如」とする写本が多いが金沢本に「母」とあるのを採る。

 9句「臥者 川藻之如久 靡相之」「臥(こ)やせば 川藻(かはも)の如(ごと)く 靡(なび)かひし」と訓む。「臥者」は「臥(こ)やせば」と訓む。「こゆ」は「寝ころぶ。横になる」の意。「川藻」は既出。「之」はノ。「如久」は「如(ごと)く」。「久」はク。「ごとし」は、「同じ」の意を表わす「こと」の濁音化した「ごと」にシが付いたもの。二句対を成している。「靡相之」は「靡(なび)かひし」と訓み、「互いに寄り添いあった」の意。「之」はシ。
 
 10句「宣君之 朝宮乎 忘賜哉」は「宣(よろ)しき君(きみ)が 朝宮(あさみや)を 忘れ賜(たま)ふや」と訓む。「宣」は「宣(よろ)しき」と訓む。「よろし」は「好ましい、ふさわしい」の意。「君」は明日香皇女の夫君「忍坂部皇子」を指す。「之」はガ。「朝宮」は「あさみや」と訓み、「朝の御殿」の意。「乎」はヲ。「忘」は「忘れ」。「賜」は「賜(たま)ふ」。「哉」はヤ。「忘(わす)れ賜(たま)ふや」で「お忘れになったのであろうか」の意。

 11句「夕宮乎 背賜哉」「夕宮(ゆふみや)を 背(そむ)き賜(たま)ふや」と訓む。「夕宮」は「ゆふみや」と訓み、「夕べの御殿」の意。「朝宮」と対をなし、朝宮・夕宮でもって、平常住み慣れている御殿を表す。「乎」はヲ。「背」は「背(そむ)き」。「そむく」は「背(そ)向く」で、ある方向に背を向けることを言う語で、ここは「離れ去る。出て行く」の意。対義語は「おもむく」。「背(そむ)き賜(たま)ふや」で「出て行かれたのだろうか」の意。「賜」、「哉」は前句と同じ。

 12句「宇都曽臣跡 念之時」「うつそみと 念(おも)ひし時(とき)」と訓む。「宇都曽」はウツソ。「臣」の訓は「おみ」だが、ここはミで、「宇都曽臣」で以て「うつそみ」と訓む。「うつそみ」は、165番歌に「宇都曽見」の表記で既出、「この世に生きている人」の意。「跡」はト。「念」は「念(おも)ひ」。「之」はシ。「時」は「とき」と訓み、時間の流れのなかで、上の連体修飾に対応する一部分をいう。「うつそみと 念(おも)ひし時(とき)」は「この世の人と思っていた時」ということになり、「明日香皇女の生前の時」の意を表す。

 13句「春部者 花折挿頭」「春(はる)へは 花(はな)折(を)り挿頭(かざ)し」と訓む。「春部者」は38番歌と同句。「部者」はへハ。「はるへ」(後には「はるべ」)は、「春の頃、春さき」の意。「折」は「折(を)り」。「花をる」は「花を手折る」ことをいう。「挿頭」は「挿頭(かざ)し」。38番歌に「花(はな)挿頭(かざし)」という名詞で既出。「かざす」は、「挿頭」という文字からもわかるように、「草木や花や枝葉を飾りとして髪または冠の巾子(こじ)の根に挿(さ)す」ことをいう。

 14句「秋立者 黄葉挿頭」「秋(あき)立(た)てば 黄葉(もみちば)挿頭(かざ)し」と訓む。「秋立者」は38番歌と同句。「者」はバ。「黄葉」も38番歌に既出、ここでは「もみちば」と訓む。「挿頭」は前句と同じ。二句対をなす。

 15句「敷妙之 袖携」「敷妙(しきたへ)の 袖(そで)携(たづさ)はり」と訓む。「敷妙之」は「しきたへの」と訓み既述。ここでは次の「袖」にかかる。「袖」は、愛情表現に用いられることが多い。「携」は「携(たづさ)はり」。「袖たづさわる」は「袖を互いにとりあう」という愛情表現である。

 16句「鏡成 雖見不猒」「鏡なす 見れども猒(あ)かず」と訓む。「鏡」は「かがみ」で「影見(かげみ)」の意とされる。物の姿や形を映し見る道具で、古くから祭具として用いられたため、大切なもの、清く澄むこと、貴く美しいもの、静かな水面などのたとえにも用いられた。「成」はナス。接尾語ナスは、名詞、時には動詞の連体形に付いて「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意で、語源的には、「似(に)す」、あるいは「成(な)す」とも関係があるかともいわれる。「雖見」は「見れども」と訓む。「いつ見ても(やはり)」の意。「不猒」は「猒(あ)かず」。「飽きることなく」の意。

 17句「三五月之 益目頬染」「三五月(もちづき)[望月]の 益(いや)め[愛]づらしみ」と訓む。「三五月」は「望月(もちづき)」と訓む。文選の「與我別所期、期在三五夕」の李善注に「三五謂十五日也」とあるように、「三五月」は、「十五日の月」即ち「望月」の意であり、中国詩の文字をそのまま利用した典拠のある語と言える。このことから、萬葉集に見られる数字遊びは日本独自のものとしてばかりではなく中国の影響も受けていることがわかる。「もちづきの」は枕詞で、そのかかり方には次の二つがあるが、ここは(2)で、次の「愛(め)づらし」にかかる。(1)満月の欠けた所のない意で、「たたはし」や「足(た)る」などにかかる。(2)満月の美しく、観賞にあたいするものであるところから、「愛(め)づらし」にかかる。一説に、満月はひと月に一晩だけであるところから「珍し」にかかる。「益目頬染」は、「益(いや)めづらしみ」と訓む。「益」を「いや」と訓む例は、「益(いや)高(たか)に」で既出。「いや」は物の程度の盛んな事を表わす。「目」はメ。「頬」はツラと訓んで「顔の両傍、目の下の部分」の意であるが、ここはヅラを表す。「染」は「しむ」と訓んで「ある色や濁りなどに染まる」あるいは「色に染まるようにする。色をつける」ことを言うが、ここではシミを表す。「目頬染」で以て「めづらしみ」の表記に宛てたもの。「めづ」は「愛する」意の他動詞で、それを形容詞として「愛すべき」意としたものが「めづらし」であり、それを更に動詞としたものが「めづらしむ」である。「めづらしみ」と連用形で、次の「念(おも)ほし」に続いて「お思いになる」内容を表す。

 18句「所念之 君与時々」「念(おも)ほしし 君と時々(ときどき)」と訓む。「所念」を「念(おも)ほし」と訓む。「念(おも)ほし」は、「おもふ」に尊敬の助動詞「す」が付いた「おもはす」が転じた「おもほす」の連用形。ここの「之」はシ。「君」は明日香皇女の夫君「忍坂部皇子」を指す。「与」はト。「時々」は、『萬葉代匠記』にヨリヨリ、『萬葉考』にヲリヲリと訓んだが、共に仮名書き例がなく、「等伎騰吉(トキドキ)」(4323番歌)の例はあるので、旧訓にある通り文字のまま「ときどき」と訓む。「その季節その季節。そのおりおり」の意。
 
 19句「幸而 遊賜之」「幸(いでま)して 遊(あそ)び賜(たま)ひし」と訓む。「幸」一字で「いでまし」と訓む。「いでまし」は「いでます」の連用形。「いでます」は、動詞「出づ」にマスが付いて一語となったもので、「お出かけになる」の意。「而」はテ。「遊」は「遊(あそ)び」。「あそぶ」は、「興のおもむくままに行動して楽しむ」の意で、神事に伴う舞楽を行なうことがもとといわれ、そこから広く楽しむ行動をもいうようになったとされる。「賜」は「賜(たま)ひ」。「之」はシ。

 20句「御食向 木【缶】之宮乎」「御食(みけ)向(むか)ふ きのへの宮(みや)を」と訓む。「御食」は「みけ」と訓み、「神や天皇など身分の高い人の食事」の意。「向」は「向(むか)ふ」。「むかふ」は「向き合う」が変化してできた語で、ここは、「食膳で種々の食物が向かい合っていること」を言ったもの。「御食(みけ)向(むか)ふ」は、その食膳の向かい合っている種々の食物の名と同音を含む地名にかかる枕詞として用いられた。例えば「葱(き)」・「粟(あは)」は、それぞれ地名「きのへ」・「あはじ」にかかるなど。「木【缶】」は、題詞の所で述べた通り、明日香皇女の殯宮が設けられた所の地名で「きのへ」と訓む。奈良県北葛城郡広陵町と言うのが通説であるが、高市郡明日香村の木部(きべ)とする説もある。ここの「之」はノ。「宮」は「殯宮」の意。「乎」はヲ。

 21句「常宮跡 定賜」「常宮(とこみや)と 定(さだ)め賜(たま)ひて」と訓む。「常宮」は「とこみや」と訓み、「いつまでも変わることのない宮殿」の意。「跡」はト。「定」は「定(さだ)め」。「さだむ」は「物事や心を一つの状態、場所に落ち着かせて動かないようにする」ことをいう。「賜」はテを補読して「賜(たま)ひて」と訓む。

 22句「味澤相 目辞毛絶奴」「あぢさはふ 目辞(めこと)も絶(た)えぬ」と訓む。「味澤相」は「あぢさはふ」を表す。「あぢさはふ」は、萬葉集に五例あるが、全て表記は「味澤相」。枕詞として使われたが、語義、かかり方ともに未詳である。ここでは次の「目」にかかる枕詞として用いられている。「目辞」は「めこと」と訓み、「実際に目で見、口で話すこと。会って語り合うこと」の意。「毛」はモ。「絶」は「たゆ」で、ここはその連用形「絶(た)え」。「奴」はヌ。

 「あぢさはふ」については、『日本国語大辞典』の【語誌】欄に「語源的には諸説があり」として諸説を紹介しているので参考までに引用しておこう。
 (1)「あぢ(味鳧)さは(多)ふ(経)=アジカモが多く群れわたる意」から、「め(群=『むれ』の変化した語)」と同音の「目」にかかり、アジカモが昼夜を問わず群れわたるところから「夜昼問わず」にかかるとする説〔冠辞考〕、
 (2)「味沢相」を「うまさはふ」と訓み、「うまし(味)あは(粟)ふ(生)=味のよいアワが生えている意」から、「め(群生)」にかかり、「夜昼知らず」へのかかり方は未詳とする説〔枕詞解〕、
 (3)「あぢ(多数)さ(植物)はふ(生)=多数の植物が生えている意」から、「め(芽)」にかかり、「夜昼知らず」へのかかり方は未詳とする説〔万葉集全註釈=武田祐吉〕、
 (4)「あぢ(味)さは(多)ふ(合ふ)=味のよい意」かとする説〔万葉集=古典文学大系〕、
 (5)「あぢ(味鳧)さは(障)ふ(接尾語)=アジカモをいつもさえぎっている意」から、アジカモを捕らえる網の「目」にかかり、昼夜を問わず網を張っておくところから「夜昼知らず」にかかるとする説〔井手至〕、などがある。

 23句[異伝]「然有鴨[一云 所己乎之毛] 綾尓憐」「然有(しか)れかも [一に云(い)ふ そこをしも] あやに憐(かな)しみ」と訓む。「然有」は、副詞「しか(然)」にラ変の動詞「あり(有)」の付いた「しかあり」が変化した「しかり」の已然形で「然有(しか)れ」と訓む。「しかり」は「そうである。そのようである」の意。「鴨」はカモ。「しかれかも」で「そうであるからか。そのゆえにか」の意となる。 [異伝]の [所己乎之毛]は、全て音仮名(「所」以外は常用音仮名)で「そこをしも」と訓み、「し」は強意、「も」は詠嘆を表し、「その事をまあ」の意。「綾尓」は「あやに」と訓み、感動詞「あや」に助詞「に」がついてできた語で、言葉に表わせないほど、また、理解できないほどの感動をいう。「なんとも不思議に。わけもわからず。むやみに」の意。「綾尓」はアヤニ。「憐」は「憐(かな)しみ」と訓む。「憐」の字義は「あわれむ」で「哀」の字と同義。表記は違うが159番歌「綾哀」と同句であり、「阿夜尓加奈之美(あやにかなしみ)」(4387番歌)の仮名書き例にもとづく訓みである。異伝の「そこをしも あやにかなしみ」では平板な印象があり、推敲の結果「しかれかも あやにかなしみ」の本文に改めたものと考えられる。

 24句[異伝]「宿兄鳥之 片戀嬬[一云 為乍] 」 「ぬえ鳥(とり)の 片戀(かたこひ)嬬(つま)[一に云(い)ふ しつつ]」 と訓む。「宿」は「ぬ」、「兄」はエ。「宿兄鳥」は「ぬえ鳥(とり)」で、「とらつぐみ」の異名。「之」はノ。「ぬえ鳥の」は、ぬえ鳥の鳴き声が悲しげに聞こえるところから、「うら歎(な)く」「のどよふ」「片恋ひ」にかかる枕詞として使われた。ここは次の「片戀嬬」にかかる。「片戀嬬」(「戀」は「恋」の旧体字)は、「かたこひつま」と訓み、「亡くなった明日香皇女を恋い慕う夫(つま)」のことを言ったもので、「忍坂部皇子」を指す。「片戀嬬」の下に[一云 為乍]とあるのは、「片戀為乍」という異伝があったことを示す。「為」はシ、「乍」はツツで「片戀為乍」は「片戀(かたこひ)しつつ」と訓む。この異伝について、稲岡『萬葉集全注』は次のように述べている。
 異伝すなわち作者の初案では「片恋しつつ」となっていたことを示す。この形では、あとの「朝鳥の通はす君」の「通はす」と「片恋しつつ」とが同時並行的な行為のように理解される。それを「片恋嬬」と改めると、夜どおしぬえのように泣き明かし、朝早く殯宮に通う皇子の姿が明確に印象づけられるようだ。確かにその通りだと思う。「片恋嬬」は次の「通はす君」と同格の主語となって、51句・52句と次の53句・54句が対句となるように改めたものとも考えられる。

 25句[異伝]「朝鳥 [一云 朝霧]  徃来為君之」「朝鳥(あさとり)の [一に云(い)ふ 朝霧(あさきり)の]  徃来(かよ)[通]はす君(きみ)が」と訓む。「朝鳥」は、ノを補読して「朝鳥(あさとり)の」と訓む。朝方鳥が、ねぐらを飛び立って、あちこち行き通うところから、「朝立つ」「通う」「音(ね)なく」にかかる枕詞として用いられた。異伝の[朝霧]も、ノを補読して「朝霧(あさきり)の」と訓み、朝方に立つ霧のように流れ通うところから、「通ふ」にかかる枕詞として使われたもの。これも異伝の「朝霧」が初案で、それを「ぬえ鳥」との対を意識し推敲して「朝鳥」に改めたものと考えられ、より具象的で効果的な表現にもなったと言えよう。「徃来」は「往来」(「徃」は「往」の俗字)で、「行き来をする」ことを言う漢語であり、それを「二つの場所を何回も行き来する」ことをいう和語「かよふ」に宛てたもの。「為」はシ及びスの訓仮名で、ここはス。「徃来為」は「徃来(かよ)[通]はす」と訓む。「君」は明日香皇女の夫君「忍坂部皇子」を指し、「徃来(かよ)[通]はす君」は、「片戀嬬」を言い換えたことになる。ここの「之」はガ。

 26句「夏草乃 念之萎而」「夏草の・念(おも)ひし萎(な)えて」と訓む。「夏草之 念思奈要而」と表記は異なるが同句。「夏草」は、「夏の草。夏になって繁茂している草」を言う。「乃」はノ。「夏草の」は枕詞。夏の草が日に照らされてしなえる意で、「思ひしなゆ」にかかる。「念」は「念(おも)ひ」。ここの「之」はシで、次の「萎」と合わせて「之萎」で以て、「しなゆ」の連用形「しなえ」を表す。「萎」一字で、「なゆ」とも「しなゆ」とも訓めるが、ここは「しなゆ」に用いたことを明らかにするために「之」を冠したものと思われる。「しなゆ」は「しぼむ。生気を失ってしおれる」ことをいう。「而」はテ。「夏草の 念(おも)ひし萎(な)えて」は、明日香皇女に先立たれた夫君「忍坂部皇子」の消沈のさまを萎れる夏草に譬えて詠ったもの。

 27句「夕星之 彼徃此去」「夕星(ゆふつづ)の 彼(か)徃(ゆ)き此(かく)去(ゆ)き」と訓む。「夕星」は「ゆふつづ」と訓み、「夕方、西の空に見える金星」のことで、「宵の明星。太白星。長庚(ちょうこう)」ともいう。「ゆふつづ」は、夕日に続いて出るところから、「夕続」が語源ではないかとする説もある。「之」はノ。「夕星(ゆふつづ)の」は枕詞で、金星が宵の明星として夕方はやく西の空に見えるところから「夕べ」にかかり、また、金星はその周期の半ばは明けの明星として東に現われるところから「か行きかく行き」にかかる。ここは後者。「彼徃此去」の「彼」「此」は、「か」「かく」と訓み、「あちらに」と「こちらに」の意。「徃、去」は共に「ゆく」の連用形で「徃(ゆ)き」「去(ゆ)き」と訓む。「徃」は既出で「往」の俗字。「去」を「ゆき、ゆく」と訓む。

 28句「大船 猶預不定見者」「大船の 猶預不定(たゆたふ)見れば」と訓む。「大船」はノを補読して「大船の」と訓む。「たゆたふ」にかかる枕詞に用いられたもの。「猶預不定」は漢訳仏典に頻出する語で、「猶預」は「ためらう。躊躇する」こと、「不定」は「定まらない」ことを言う。和語「たゆたふ」の義に同じとしてその表記にあてたもの。「たゆたふ」は「心が動揺して落ち着かない」ことを言う。「見者」は「見れば」と訓む。

 29句「遣<悶>流 情毛不在」「遣悶(なぐさ)もる 情(こころ)も在(あ)らず」と訓む。「悶」につき西本願寺本は「問」とするが、金沢本、類聚古集』などに「悶」とあるのを採る。「遣悶」は「悩みやわずらわしさを晴らすこと。気晴らし」ことを言う漢語「けんもん」であるが、それを「なぐさむ」に宛てたもの。「遣悶流」はその連体形であることを示したもので「遣悶(なぐさ)もる」と訓む。ナグサモルはナグサムの連体形ナグサムルの転。ナグサムルの方は時代が新しく、古くはナグサモルであったとされている。「流」はル。「情」は、「こころ。なさけ。まこと」の訓みがあるが、萬葉集では百三十首の用例全て「こころ」と訓まれている。「毛」はモ。「不在」は「在(あ)らず」と訓む。「遣悶(なぐさ)もる 情(こころ)も在(あ)らず」は、皇女の死を悲しんでおられる夫君のご様子を見ると、作者の心も慰めようもなく心が晴れないということを詠ったもの。

 この長歌の主要部分である③は、明日香皇女の生前の姿を描くが、夫君との仲のよさや夫君と共に春秋の花・黄葉を楽しむ様子を詠っており、続く④は、明日香皇女の死後の殯宮に通う夫君の悲しみに沈む様子を詠っている。このように、この長歌は夫君である忍坂部皇子に著しく重点がおかれている。196番歌の冒頭にも述べた通り、この長歌は殯宮の時に詠まれた公的な殯宮挽歌であるが、もと忍坂部皇子に仕えていた人麻呂の私情がこのような形で出てしまったものと言えるかもしれない。だが、それだからといって決して歌の格調を損なっておらず、永遠の偲びを誓う⑤の詞章は、殯宮儀礼の場で朗詠するにふさわしい結びとなっていると言えよう。


 30句「其故 為便知之也」「其(そ)こ故(ゆゑ)に 為(せ)む便(すべ)知(し)れや」と訓む。「其故」は、「そこゆゑに」という連語を表し、接続詞的に用いて前の事柄の当然の結果として後の事柄が起こることを示す。「それゆえに。それだから」の意。「為便」は「すべ」または「せむすべ」と訓まれる。人麻呂の作にも、「嘆友(なげけども) 世武為便不知尓(せむすべしらに)」(210番歌)と「雖嘆(なげけども) 為便(せむすべ)不知(しらに)」(213番歌)とがある。明らかに同じ句と思われるこれらの表記を比較することによって、「為便」が「すべ」「せむすべ」の両方に用いられたことが分かる。前者は「せむすべ」の仮名表記で、「為」はス、「便」はベ。後者は「せむすべ」の正訓字表記と考えられ、「為」は、「す」の未然形「為(せ)」にムを補読して「為(せ)む」を表し、「便」は「方法・手段」の意の「すべ」を表すのに用いたものであろう。「便」には「音信・たより」の義があり、「通信の方法・手段」ということから、「すべ」に宛てたものと考えられる。「せむすべ」は「なすべき方法や手段」の意。『萬葉考』は、「為便」をスべに訓み、「知之也」を「知らましや」と訓んだが、『萬葉集注釋』は、「為便」を「せむすべ」と四音に訓んで、下の「知之也」を「知(し)れや」と三音に訓む。「知之也」を「知らましや」と訓むのは無理があり、『萬葉集注釋』の説に従って「知之也」は「知れや」と訓む。「知れや」は、「知(し)れ」にヤが付いたもので、上代では、活用語の已然形+ヤで疑問・反語を表した。ここは反語。「知之也」を「知れや」と訓めるかということについて、『萬葉集注釋』は次のように述べている。
 …「知之」は漢文式に訓めば「之を知る」であるから、國語としてはその「之を」を略することが出來ると思ふ。「之」の字は集中に夥しく用ゐられてゐるが、正訓としてのノか正音假名としてのシかいづれかに用ゐられる事が通例であるが、例外として「平城(ナラ)之(ナル)人(ヒト)」(十・1906)の如きがあり、これは正訓でもなく假名でもなく、その意味によつて用ゐられたものである。さういふ例もありとすれば、今の如く反語としての勢を成さうとして、「せむすべ之を知らむや」の意を示す為に「為便知之也」と特に「之」の字を書添へたといふ事は十分認められる事ではなからうか。その事は同じ作者に、「朝露乃如(アサツユノゴト)也 夕霧乃如(ユフキリノゴト)也」(217)の如き漢文式な書添のある事を参照すれば一層うなづかれる事でないかと考へる。即ちこれはセンスベナシヤと訓み、どうしてよいかなすべきすべを知らぬ、の意と解くべきである。「そこ故に」をうけてここで切れる。

 31句「音耳母 名耳毛不絶」「音(おと)のみも 名(な)のみも絶(た)えず」と訓む。ここの「音(おと)」は、「評判。うわさ。風聞」の意である。「耳」はノミ。「母」はモ。「名」は「名前」で、ここでは明日香皇女の名。「耳」は上に同じ。「毛」はモ。「不絶」は「絶(た)えず」。皇女のお噂だけでも、またお名前だけでも絶えず~しよう、の意で、「思(しの)ひ徃(ゆ)かむ」に掛かると考えられる。

 結句「天地之 弥遠長久」「天地(あめつち)の 弥(いや)遠(とほ)長(なが)く」と訓む。「天地之」は167番歌と同句。「天地」は「あめつち」と訓み、「天と地」。「之」はノ。「天地(あめつち)の」は「天地の如く」の意。「弥」は、「ひさしい」が本義だが、「いよいよ、ますます」の意として「いや」と訓む。「いや」は、接頭語イが物事のたくさん重なる意の副詞ヤに付いたもので、物の程度の盛んな事を表わす。人麻呂の長歌によく出て来る表現で既出。「遠」は「遠(とほ)」。同じく「長久」は「長(なが)ク」。

【巻2(197)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「短歌二首」。前歌は題詞も左注も献じたとあるのに、ここでは「作る歌」とある。ここに記された皇女の夫が前歌の題詞に記された忍坂部皇子。とりあえず、后を亡くした忍坂部皇子の心情を汲んで柿本人麻呂が作った歌である。
原文  明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼尓賀有萬思 [一云 水乃与杼尓加有益]
和訳  明日香川 しがらみ渡し 塞()かませば 流るる水も のどにかあらまし[一云水の淀にかあらまし]
現代文  「明日香川にしがらみを渡して流れをせきとめたならば流れる水ももっとゆったりするだろうに。どのようにしたらお慰めできるのでしょう」。
文意解説
 発句「明日香川 四我良美渡之 塞益者」「明日香川 しがらみ渡し 塞()かませば」と訓む。「明日香川」は「明日香川(あすかがわ)」と訓む。長歌(196番歌)の「明日香乃河」、「明日香河」に同じ。現在の飛鳥川のこと。「四我良美渡之」は「しがらみ渡(わた)し」と訓む。「四我良美」はシガラミ。「水流をせき止めるために、川の中に杭(くい)を打ち並べて、その両側から柴(しば)や竹などをからみつけた柵」をいう。「渡之」は「渡し」と訓む。「之」はシ。「わたす」は、「橋、梁(はり)、紐などを一端から他端へかける」の意で、ここでは「しがらみをつくる」ことをいう。「塞益者」は「塞(せ)かませば」と訓む。「塞」は「塞(せ)か」。「せく」は「水の流れをせきとめる」ことをいう。「益者」はマセバ。「塞(せ)かませば」で、「もしも水の流れをせきとめたならば」の意。

 結句「進留水母 能杼尓賀有萬思 [一云 水乃与杼尓加有益]」「流るる水も のどにかあらまし[一云水の淀にかあらまし]」と訓む。「進留水母」は「進(なが)[流]るる水(みづ)も」と訓む。「進留」は「進(なが)るる」と訓む。「留」はル。「進」の字を「ながる」と訓むことについて、『萬葉集全注』の解説を引用しておこう。「進」をナガルと訓むのは珍しい。小島憲之「万葉用字考証実例(一)」(『万葉集研究』第二集)に、万象名義に進を「子者反。晋也、前也、善也、登也、行也」と注し、また流を「玉云、水行也、放縦也、求也、移也」と注するのをあげて、進は流と同じ訓詁になりうることを言う。また、『諸橋大漢和辞典』の進字の項に「進水」の語があり、「若天旱増レ堰進レ水」の例を見る。これは堰に水を流し通ずる意で、この歌の場合に近い例と言えよう。人麻呂もそれに類する漢籍の用語を知っていたのであろうが、確例をまだ見出さない。漢籍に通じていた人麻呂が「進」を「ながる」に宛てて用いたことは間違いないと思う。またルに「留」を宛てたのは、「進む」と「留まる」という対義語を意識してのことで、「留まる」は、異伝の「よどに」に対応していると思える。「水」は「みづ」で、ここは「明日香川の流れ」をいう。「母」はモ。「能杼尓賀有萬思」は「のどにか有(あ)らまし」と訓む。「能杼尓賀」はノドニカ。「のどにか」は、「のどかに」と同じで、「おだやかに。ゆったりと」の意の副詞と考えて良い。「有」は「有(あ)ら」。「萬思」はマシ。反実仮想の場合、条件と帰結と呼応して、上代では「ませば…まし」の形が多いが、ここもその例で、「塞(せ)かませば」を受けたもの。[一云 水乃与杼尓加有益] は[一云 水(みづ)のよどにか有(あ)らまし]と訓む。この異伝により、推敲前には、「流るる水も」は「流るる水の」で、「のどにか有(あ)らまし」は「よどにか有(あ)らまし」であったということがわかる。「よど」は淀、よどみ。異伝は、「流れる水が淀になったであろうに」の意となるが、斎藤茂吉が、これを「理に堕ちてまづい」と評している通りで、推敲後の本文の方が格段に優れているように思う。

 明日香川の激しい流れを皇子の激しい悲しみになぞらへて詠った歌。つまり「~塞かませば」までは「柵で急流を塞き止めれば」である。そして「のどにか」も異伝の「淀にか」も「流れがゆったり」の意。

【巻2(198)。】
題詞
歴史解説
  柿本朝臣人麿の作歌。「柿本人麻呂自身の皇女をしのぶ歌」。
原文  明日香川 明日谷[一云 左倍]将見等 念八方[一云 念香毛]  吾王 御名忘世奴[一云 御名不所忘]
和訳  明日香川 明日さへ見むと 思へやも 我が王の 御名忘れせぬ
 明日香川 明日だに[一云 さへ]見むと思へやも[一云 思へかも] 我が大君の 御名忘れせぬ [一云 御名忘らえぬ]
現代文  「明日香川の名のとおり、せめて明日だけでもお逢いしたいが、お逢いできるだろうとは思えないのに、わが大君のお名前を忘れることができない」。
文意解説
 発句「明日香川 明日谷[一云 左倍]将見等 念八方[一云 念香毛] 」「明日香川 明日さへ見むと 思へやも」と訓む。「明日香川」は「あすかがわ」と訓む。ここの「明日香川」は、次の「明日」を言うために同音反復の技巧でおいた枕詞。ただ、明日香川は、明日香皇女ゆかりの川として、197番歌では皇女の生命の比喩ともなっているので、ここも皇女その人を暗示する語ともなっていると考えた方が良いように思われる。「明日谷 [一云 左倍]将見等」は「明日(あす)だに [一に云(い)ふ さへ]見むと」と訓む。「明日(あす)」は、「現在を基点として、次の日」をいう。「谷」はダ二。期待される最小限のものごと・状態を指示する語であり、従って「だに」を含む句の述語は、命令・意志・願望・仮定あるいは否定・反語である事がほとんどである。「せめて…だけでも」の意。異伝では「谷」のところを「左倍」であったとする。「左倍」はサへ。既に存在する事実の上に、さらに同類の事実が添加する意を表わす語で、「(その上)…までも」の意。「将見」は「見む」と訓む。「等」はト。「念八方」は「念(おも)へやも」と訓む。「念」は「念(おも)へ」。「八方」はヤモ。反語の意を表す。[一云 念香毛]は[一に云(い)ふ 念(おも)へかも]と訓む。「念」は既述。「香毛」はカモ。

 結句「吾王 御名忘世奴[一云 御名不所忘]」「我が王の 御名忘れせぬ」と訓む。「吾王」は「吾(わ)が王(おほきみ)の」と訓む。「吾王能」、「吾王乃」とノの表記はないが同じ。「おおきみ」は明日香皇女を指す。「御名忘世奴」は「御名(みな)忘(わす)れせぬ」と訓む。「御名(みな)」も長歌の70句に既出、明日香皇女の「お名前」のこと。「忘」は「忘(わす)れ」が名詞化して「御名(みな)忘(わす)れ」という名詞としたもの。「世奴」はセヌ。[一云 御名不所忘] は[一に云(い)ふ 御名(みな)忘(わす)らえぬ]と訓む。「御名」は先述。「不所忘」は「忘(わす)らえぬ」と訓む。動詞「わする」は、先に下二段活用としたが、上代においては四段活用もあったことが知られており、有坂秀世は「国語音韻史の研究ー「わする」の古活用について」で、四段型に受動体を示す辞が加わって融合したのが下二段型であると説明している。推敲前と思われる異伝と本文とを比較してみると、
 異伝「明日(あす)さへ見(み)むと 念(おも)へかも 吾(わ)が王(おほきみ)の 御名(みな)忘(わす)らえぬ」
 本文「明日(あす)だに見(み)むと 念(おも)へやも 吾(わ)が王(おほきみ)の 御名(みな)忘(わす)れせぬ」
推敲前では、「明日もまたお逢いしようと思うから、お名前が忘れられないのだろうか」と単純に詠っているのであまりインパクトがないのに対して、推敲後では「せめて明日だけでも(お逢いしたいが)お逢いできるだろうとは思えないのに、お名前を忘れることができない」と、逢いたいのに逢うことが出来ないという現実を、反語を使うことによって詠い込み、インパクトある表現に仕上げていると思う。

【巻2(199)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]」(高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌)。高市皇子が亡くなった時、柿本人麻呂が詠んだ歌。高市皇子は、天武天皇の皇子十人のうち、誕生順で言えば第一皇子であったが、母の身分が低かった(母は胸形君徳善の娘尼子娘)ために、天武朝にあっては、草壁・大津に次ぐ第三位の皇子として遇された。しかし、持統朝にあっては、太政大臣として厚遇され、「後の皇子尊」とも称されるようになる。「後の皇子尊」とは、皇太子草壁皇子を皇子尊と称したのに対する尊号である。従ってこの題詞でも、「高市皇子尊」となっている。「城上」は「きのへ」と訓み、高市皇子の殯宮が営まれた場所の地名で、現在の奈良県北葛城郡広陵町かと思われる。題詞に[并短歌]とあり、次の200番歌の題詞に「短歌二首」とあるので、200番歌と201番歌が、199番歌の反歌であることがわかる。更に202番歌の題詞に「或書反歌一首」とあることから、199~202を合わせて「高市皇子挽歌」と称している。
原文  <挂>文 忌之伎鴨 [一云 由遊志計礼抒母] 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座

 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃國之 真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 [一云 <掃>賜而] 食國乎 定賜等 鶏之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡 不奉仕 國乎治跡 [一云 掃部等] 皇子随 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻【弖】 吹響流 小角乃音母 [一云 笛之音波]  敵見有 虎可【叫】吼登 諸人之 恊流麻【弖】尓 [一云 聞<或>麻泥] 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去来者 野毎 著而有火之 [一云 冬木成 春野焼火乃] 風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓 [一云 由布乃林]  飃可毛 伊巻渡等 念麻【弖】 聞之恐久 [一云 諸人 見<或>麻【弖】尓] 引放 箭<之>繁計久 大雪乃 乱而来礼 [一云 霰成 曽知余里久礼婆]  不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相<競>端尓 [一云 朝霜之 消者消言尓 打蝉等 安良蘇布波之尓]  渡會乃 齊宮従 神風尓 伊吹<或>之 天雲乎 日之目毛不<令>見 常闇尓 覆賜而 定之

 水穂之國乎 神随 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代<尓> 然之毛将有登 [一云 如是毛安良無等] 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎 [一云 刺竹 皇子御門乎]  神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 <埴>安乃 御門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮尓至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未<不>盡者 言<左>敝久 百濟之原従 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神随 安定座奴 雖然 吾大王之 萬代跡 所念食而 作良志之 香<来>山之宮 萬代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文
和訳  かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神(まかみ)の原に 久かたの (あま)御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて (かむ)さぶと 磐隠(いはがく)ります。 

 やすみしし 我が(おほきみ)の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)(いま)して 天の下 治めたまひ ()す国を 定めたまふと (とり)が鳴く (あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて 千磐(ちは)破る 人を(やは)せと (まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら ()きたまへば 大御身(おほみみ)に 大刀取り帯ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士を (あども)ひたまひ 整ふる (つつみ)の音は (いかつち)の 声と聞くまで 吹き()せる 小角(くだ)の音も (あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 差上(ささ)げたる (はた)の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風の(むた) 靡くがごとく 取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に 旋風(つむし)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの(かしこ)く  引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて(きた)れ (まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜(つゆしも)の ()なば消ぬべく ()く鳥の 争ふはしに 度會(わたらひ)の (いは)ひの宮ゆ 神風に 息吹(いぶき)惑はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし 

 瑞穂の国を 神ながら 太敷き(いま)して やすみしし 我が大王の 天の下 (まを)したまへば 万代(よろづよ)に (しか)しもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮(かむみや)に 装ひ(まつ)りて 遣はしし 御門の人も 白布(しろたへ)の 麻衣(あさころも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと (しし)じもの い匍ひ伏しつつ ぬば玉の 夕へになれば 大殿(おほとの)を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ(もとほ)り (さもら)へど 侍ひかねて 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに (おも)ひも いまだ尽きねば (こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かむはふ)り 葬り(いま)して あさもよし 城上の宮を 常宮(とこみや)と 定め(まつ)りて 神ながら 鎮まり()しぬ しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと()へや (あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども。
現代文  「心にかけて思うことも 憚られることであるなあと 口に言うことも まことに恐れ多い 明日香の 真神の原に (久堅の[堅固な]) 天つ御門[宮殿]を 恐れ多くも お定めになられて 神らしく振舞われるとて 天の岩戸にお隠れになっておいでになる

 (やすみしし) わが大君[天武天皇]が お治めになる 北国[美濃]の 真木が茂り立つ 不破山を越えて (高麗剣) 和射見が原の 行宮に お出ましになって 天下を お平らげになり この国を 安定させようと (鶏が鳴く) 東の国の 軍卒を お召しになって 狂暴で命令に従わない 者どもを帰服させよ 従わない 国を治めよと 皇子として[高市皇子に] お任せになったので 皇子は御身に 太刀を帯びられ 御手に 弓をお持ちになられ 軍勢を 引き連れられて 隊伍を整える 鼓の音は 雷の音と 聞こえるほどで 吹き鳴らす 小角(笛)の音も 敵に向かって 虎が吼えるのかと 人々の おびえるほどで 捧げ持った 旗のなびくさまは 冬が終わって 春ともなると 野ごとに つけてある火が 風と共に なびいて行くようで 取り持っている 弓弭の鳴り響くさまは 雪の降る 冬の林に つむじ風が 渦巻き吹いているのかと 思うほどに 聞くも恐ろしく 引き放つ 矢の繁く多いことは 大雪の 乱れ降るようで 従わずに 手向かっていた者たちも 露霜のように 消えるなら消えてもかまわないと 飛ぶ鳥が先を争うように 争っているその時に 伊勢の度会の 神宮から 神風を吹かせて 敵をまどわし 天雲をもって 日の光も見えぬほどに 天下を常闇に 覆いかくされて 乱を平定された

 この瑞穂の国を 天皇が神であるままに お治めになられ (やすみしし) 我が大君(高市皇子)が 天下の 政務を御執りになったので いついつまでも そのように続くであろうと 木綿花のように めでたく栄えている時に 然(しか)れども 吾(わ)が大王(おほきみ)の 萬代(よろづよ)と 念(おも)ほし食(め)して 作(つく)らしし 香来山(かぐやま)の宮(みや) 萬代(よろづよ)に 過(す)ぎむと念(おも)へや 天(あめ)の如(ごと) 振(ふ)り放(さ)け見(み)つつ 玉(たま)たすき 懸(か)けて偲(しの)はむ 恐(かしこ)かれども しかしながら 我が大君が 万代までもと お考えになって お作りになられた 香具山の宮が 万代まで 滅びると思われようか 大空のように 振り仰ぎ見つつ 玉だすきをかけるように 心にかけてお偲び申し上げよう 恐れ多くはあるが 
我が大君 (高市)皇子の宮殿を 神の宮として お飾り申しあげて 召し使っておられた 宮殿の従者たちも 真っ白な 麻の喪服を着て 埴安の 御門の原に (あかねさす) 昼は毎日 鹿のように 這い伏して  (ぬばたまの) 夕方になると 宮殿を 振り仰ぎつつ 鶉のように 這い廻って お仕えするが その甲斐もないので 春鳥のように 嘆いていると 嘆きも まだ過ぎ去らないのに 悲しい思いも まだ尽きないのに (言さえく) 百済の原を通って 神として 葬り申し上げ (あさもよし) 城上の宮を 永久の宮殿として 高々と造り営まれて 御自ら神として お鎮りになられた。しかしながら 我が大君が 万代までもと お考えになって お作りになられた 香具山の宮が 万代まで 滅びると思われようか 大空のように 振り仰ぎ見つつ 玉だすきをかけるように 心にかけてお偲び申し上げよう 恐れ多くはあるが」
文意解説  長歌(149句)。萬葉集中最大の長歌である。これを、れんだいこ解釈は「三段に仕分け」して訓むことにする。「『万葉集』を訓(よ)む(その315)」その他参照。

 発句「<挂>文 忌之伎鴨 [一云 由遊志計礼抒母] 言久母」「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも」と訓む。一字目「挂」を類聚古集、西本願寺本は「桂」とするが、金澤本、紀州本に「挂」とあるのを採る。「挂」は玉篇に「懸也とあり、掛と同字である。挂は、宣命の第五詔に挂畏、第二十九詔に挂〔末久毛〕畏、第四十五詔に挂〔麻久毛〕畏〔岐〕とある」ところから、古くはこの一字で「かけまくも」と訓まれていたことが知られる。萬葉集の「かけまくも」の用例としては、ここでは「文(モ)」を添えて「挂文」の二字で書かれているが、他に「挂巻母(かけまくも) 、綾尓恐之(あやにかしこし)」、懸麻久乃(かけまくの) 由々志恐伎(ゆゆしかしこき)」などの例がある。「挂(か)け」の「かく」には、「言葉にかける、言葉に出す」または「心にかける、心に思う」の意があり、次の「言(い)はまくも」との対応で、それを同じ意の繰り返しと見てここを「言葉にかける」意とする説と繰り返しではないと見て「心にかける」意とする説に分かれている。ほぼ同じ意味だがニュアンスの違う表現の対句と見るのが良いと思うので後者の説をとる。「まく」は「むあく」の約まったものでムにアクが付いた形。モを添える。「忌之伎」は「忌(ゆゆ)しき」と訓む。「ゆゆし」は「忌」の字に相当する意で、「忌み憚り慎まれる」ことをいう。「之伎」はシキ。「鴨」はカモ。ここのカモを詠嘆の終助詞と見てここで切れるとする説もあるが、澤瀉『萬葉集注釋』が言うように、間投助詞として入れられたもので、「石見のや」(132番歌)の場合と同様、それらの助詞を越えて文意は下へ続くのであり、「畏伎(かしこき)」と同じ形で下へ続くと見るのが良い。[一云 由遊志計礼抒母] は[一に云(い)ふ ゆゆしけれども]と訓む。「ゆゆしけれ」は「ゆゆし」の已然形。ドモは逆接の確定条件を表す接続助詞。後句との続き具合が良くないので手直しされたものと考えられる。「言久母」は「言(い)はまくも」と訓む。「言久」は、「言(い)はまく」と訓む。「母」はモ。

 2句「あやに畏き 明日香の 真神の原に」「あやに畏き 明日香の 真神の原に」と訓む。「綾尓畏伎」は「あやに畏(かしこ)き」と訓む。「綾尓」はアヤ二と訓み、感動詞「あや」に二がついてできた語で、言葉に表わせないほど、また、理解できないほどの感動をいう。「なんとも不思議に。わけもわからず。むやみに」の意。「畏伎」は「畏(かしこ)き」と訓む。「伎」は、キ。「かしこし」は「恐れ多い」ことをいう。「挂(か)けまくも 忌(ゆゆ)しきかも」と「言(い)はまくも あやに畏(かしこ)き」とは対を成して、共に次句に続くと見られる。但し、この句は冒頭の詠い出しとして、単に次句の「明日香の真神の原」を修飾するだけでなく、この長歌全体にかかる詞句と考えた方が良いように思われる。「明日香乃」は「明日香(あすか)の」と訓む。「明日香」は既述。「乃」はノ。「真神之原尓」は「真神(まかみ)の原に」と訓む。「真神之原」は、明日香村飛鳥の飛鳥寺(安居院)を中心とする一帯で、天武天皇の皇居浄御原宮のあった地とされる。「尓」はニ。日本書紀の崇峻天皇元年(588年)の記事に「壤飛鳥衣縫造祖樹葉之家。始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田」とあり、喜田貞吉博士は「其の法興寺は今の安居院(あんごゐん)即ち俗稱飛鳥大仏の地たること疑ひを入れない」(『帝都』七八頁)と述べられている。 

 3句「久堅能 天都御門乎」「久堅(ひさかた)の 天(あま)つ御門(みかど)を」と訓む。「久堅(ひさかた)の」は既出。「能」はノ。「天」は「あま」(被覆形)「あめ」(露出形)の訓みがあるが、ここは「都(ツ)」に続く形で「天(あま)つ」と訓む。「御門(みかど)」は、ミがついた「門」の尊敬語で、そこから家や屋敷の尊敬語となり、特に天子・天皇の居処をいい、朝廷を表わす言葉となった。ここは、天武天皇の宮殿、飛鳥浄御原宮を指す。「乎」はヲ。

 4句「懼母 定賜而」「懼(かしこ)くも 定(さだ)め賜(たま)ひて」と訓む。「懼」の字義は「おそれる。おどろく」であり、ここは「恐れ多い」意の「懼(かしこ)く」と訓む。「母」はモ。「懼(かしこ)くも」は「おそれおおくも。もったいなくも。もったいないことに」の意。「定」は「定(さだ)め」。「さだむ」は、物事や心を一つの状態、場所に落ち着かせて動かないようにすることを言う語。「賜」は「賜(たま)ひ」。「たまふ」には「賜、給」の字が宛てられるが、上位から下位へ物や恩恵を与える動作を表わすのが原義と思われる。そこから、恩恵を受ける下位者の立場を主として、「上位者が恩恵を与えてくれる、下さる」という、動作主を敬う気持が生じ、尊敬語が成立する。一方、恩恵を与える立場の者を主として、「恩恵を与えてやる、くれてやる」の意に用いられる場合も生じる。ここは尊敬表現に用いている。「而」はテ。

 5句「神佐扶跡 磐隠座」「神(かむ)さぶと 磐(いは)隠(かく)り座(ま)す」と訓む。「かみ(神)」が名詞や動詞などの上に来て複合を作る場合、多くは「かむ」(後には「かん」)の形をとるが、ここの「神」もそれで「かむ」と訓む。「佐扶」はサブ。体言に付いて、「…にふさわしい振る舞いををする、…らしい様子・状態」である意を表わす。「神(かむ)さぶ」は「神らしく行動する。神にふさわしい振舞いをする」ことをいう。「跡」はト。「磐(いは)」は、「平らかで円く大きな器のような形状をした岩石」をいうが、ここは「天の岩戸」のことを言ったもの。「隠」は「隠(かく)り」。「座」はマス。「磐(いは)隠(かく)り座(ま)す」は、167番歌の「天(あま)の原(はら) 石門(いはと、岩戸)を開(ひら)き 神上(かむあが)り 上(あが)り座(いま)しぬ」に相応するもので、「天の岩戸にお隠れになっておいでになる」の意で崩御されたことをいう。
 
 6句「八隅知之 吾大王乃 所聞見為」「八隅知(やすみし)し 吾が大王(おほきみ)の 聞こし見(め)す」と訓む。「八隅知(やすみし)し」は既出。「之」はシ。「吾大王乃」の「吾」はガを読み添えて「吾が」。「大王」は既述。ここでは天武天皇を指す。「乃」はノ。「所聞見為」は、「所聞食」と表記は違うが同句で、「聞こし見(め)す」と訓み「統治し給う」の意。

 7句「背友乃國之 真木立」「背(そ)とも[面]の國の 真木立つ」と訓む。「背友乃」は「背(そ)とも[面]の」と訓む。「背面(そとも)」は、「背(そ)つ面(おも)」すなわち「山の背面」の義で「山の、日の当たる方から見て背後に当たる方向。山の北側。また北の方角」を意味する。「友乃」はトモノ。「背面(そとも)の國」は、「北方の国」の意で、ここは文脈に照らして「美濃の国」を指すと考えられる。「之」はノ。「真木立」は「真木(まき)立つ」と訓む。「真木」は、すぐれた木の意で、建築材料となる杉や檜などの総称。檜などの生い茂っている山のことを「真木立つ山」と言った。ここは不破山の形容。

 8句「不破山越而 狛劔」「不破山(ふはやま)越えて 高麗剣(こまつるぎ)と訓む。「不破山」は、岐阜県不破郡と滋賀県米原市との境に位置する山。古代、不破関が置かれていた。「越而」は「越えテ」。『萬葉集注釋』は、この句について、「不破山を『越えて』とあると、天皇の御軍勢が近江からその山を越えて東へ出られたやうに考へられるが、次に述べるやうに、天皇は伊勢から美濃へ出られたので、道順は逆になつてゐる。そこでこの『不破山越えて』といふ言葉は、大和にゐる作者から考へて、不破山を越えた彼方の、といふ風に解釈すべきかとも思はれる」と述べている。またさらに「當時従軍したわけでもない作者が大和にあつて思ひやつての作として、必ずしも道順などはくはしく考へず、音に聞えた不破山の名を持ち出して、その山越えて、と云つたと見るべきであらうか」とも記す。これに対して『萬葉集全注』は、「人麻呂作歌における『こえ(越)』のこの他の用例(1・二九、1・四五、2・一三一など)から言うと、実際に山を越えたと解するのが自然であり、『真木立つ 不破山越えて』という表現からも、それが妥当と思われる。地理的な誤解というよりも、天武天皇の東行の道筋について日本書紀の記載するところと多少の齟齬があったのかもしれない」とする。日本書紀の記す所を事実とすれば、不破山を越えて和射見(わざみ)が原に入ったように詠む本歌は、事実に即していないということになるのだが、人麻呂としては、事実をそのように捉えていて事実そのままに詠んだつもりではなかったかと思う。「狛劔」は「狛(こま、高麗)劔(つるぎ)」と訓む。高麗伝来の柄(つか)の頭が鐶(かん)になっている大刀のことで、古墳時代から奈良時代の主要な刀剣の様式であった。柄頭を環に作るのを特色とするところから「輪(わ)」と同音のワを語頭に持つ語にかかる枕詞として使われた。ここも次の「和射見が原」の枕詞として用いたもの。

 9句「和射見我原乃 行宮尓」和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に」と訓む。「和射見」はワザミで、「和射見」で地名「わざみ」を表す。「我」はガ。「和射見が原」は岐阜県不破郡関ヶ原町の関ヶ原のこと。一説に、大垣市青野を中心とする青野が原ともいわれるが、地理的位置から見て関ヶ原が良いとされている。「行宮尓」は「行宮(かりみや)に」と訓む。「行宮」は、漢語では「あんぐう」で和語では「かりみや」。天皇の行幸などの際、仮にその地に設けられる宮居をいう。

 10句「安母理座而 天下 治賜 [一云 <掃>賜而]」天降(あも)(いま)して 天の下 治めたまひ」と訓む。「安母理」はアモリ。天(あま)降(お)りの約で、天上から地上に降りることをいう。天皇がある場所に行かれることを神話的に表現する場合にも用いられ、ここもその例で、天武天皇が挙兵して「和射見が原」の「行宮」に到着したことを神話的に表現したもの。「座」は「座(いま)し」。「います」は、「いらっしゃる。おいでになる」の意。「而」はテ。「天下」は「天(あめ)の下」と訓む。「天(あめ)の下」は、地上の世界全部を意味する漢語「天下(てんか)」を訳したもので、「高天原の下にある、この国土」の意。「治賜」は「治(をさ)め賜ひ」と訓む。「治」は「治(をさ)め」。「をさむ」は「ものごとを安定した状態にする」ことをいう。「賜」は「賜ひ」。[一云  <掃>賜而] は[一に云(い)ふ  掃(はら)ひ賜(たま)ひて]と訓む。「掃」は、西本願寺本などに「拂」とあるが、金沢本、類聚古集に従い「掃」を採る。「掃」は「掃(はら)ひ」。「はらふ」は、「邪悪なもの、服従しないものを除去する」ことをいう。「而」はテ。

 11句「食國乎 定賜等」「食(を)す國(くに)を 定め賜(たま)ふと」と訓む。「食國乎」は50番歌と同句。「食」は、「食(を)す」の連体形に訓む。「食(を)す」は、上代の文献で尊敬語として使われた語。ヲサ(筬)、ヲサ(長)、ヲサム(治む)のヲサと同根であると見られる。ヲサ(筬)は織機の縦糸の乱れを整えるもの。ヲサ(長)は行政府の長官で、行政を整然と行う責任者。ヲサム(治む)は行政を統括し整然と実行すること。このようにヲサには、「整える、整然と行う」という意がある。「食(を)す」は、天皇が統治なさる国の意で「食(を)す國(くに)」と使うことが多く、ヲスは「治む」の尊敬語、すなわちお治めになる意である。「乎」はヲ。「定賜」は既出。「定」は「定(さだ)め」。「さだむ」は、物事や心を一つの状態、場所に落ち着かせて動かないようにすることを言う語。「賜」はここは終止形。「等」はト。「天(あめ)の下(した) 治(をさ)め賜(たま)ひ」と「食(を)す國(くに)を 定め賜(たま)ふと」は、同じ内容を少し言葉を変えて対句にしたもの。

 12句「鶏之鳴 吾妻乃國之」「鶏(とり)が鳴(な)く 吾妻(あづま)[東]の國(くに)の」と訓む。「鶏」は「にわとり」だが、ここは「とり」と訓む。ここの「之」はガ。「鳴」は「鳴く」。「とりがなく」は地名「あづま」にかかる枕詞であるが、かかり方については諸説あり、(イ)東国のことばが中央の人たちには解しがたく、鶏が鳴くように聞こえたところから、(ロ)「鶏が鳴くぞ、やよ起きよ吾夫(あづま)」の「吾夫」が「東国」の「あづま」と同音であるところから、(ハ)鶏が鳴くと東方から空が白みはじめるところから、(ニ)鶏が鳴いて夜が明けるの意で「あ」に続くとか、鳥の鳴き声を「あ」と聞いたところから、などといわれる。『萬葉集注釋』は「今の場合下の東の意のアヅマに「吾妻」の文字を宛てたのも或いは人麻呂の枕詞解釋を示すものとも考へられよう」と記して(ロ)説をとっている。「吾妻乃國」は「東の國」。「乃」はノ。「東の國」は、一般には、足柄山・碓氷峠以東をさすが、ここでは伊勢・尾張・美濃などを言ったものと考えられる。「國」の下の「之」はノ。

 13句「御軍士乎 喚賜而」「御軍士(みいくさ)を 喚(め)し賜(たま)ひて」と訓む。「御軍士」は、「みいくさ」と訓み、天皇が直接に統率する軍隊・兵士を敬っていう語。ミは敬意を添える接頭語。「乎」はヲ。「喚」は、「召喚」という類義の二字熟語からもわかるように「召」と同じく、『玉篇』に「呼也」とあり、「呼びよせる」の意で、「喚(め)し」と訓む。名義抄にも「喚。サケブ・メス・ヨバフ・ヨブ」とある。「賜」は「賜(たま)ひ」。「而」はテ。

 14句「千磐破 人乎和為跡」「千磐(ちは)破(やぶ)る・人(ひと)を和(やわ)せと」と訓む。「千磐破」は、「千磐(ちは)破(やぶ)る」と訓む。「ちはやぶ」は「いちはやぶ」の変化したもので、「猛々しく行う、勢い激しく振る舞う」の意。その連体形の「ちはやぶる」は枕詞として使われるようになるが、ここは本来の意味合いで、「狂暴な、恐ろしい」の意で次の「人」を修飾するのに用いたもの。「ちはやぶる」の表記に用いられている「千磐破」の「千磐(ちは)」は、「千の磐」で、それを「破る」ほど「勢いの猛々しく恐ろしい」という意味で用いたもので義訓に近い用字と言える。「ちはやぶる人」は、「狂暴で命令に従わない人」の意。「乎」はヲ。「和為」は、「和(やわ)せ」。セを「為」で表記。「やはす」には「やわらげる。やわらかにする」と「平和にする。討ち平らげる。帰順させる」の意があり、ここは後者。「跡」はト。

 15句「不奉仕・國乎治跡」「奉仕(まつろ)ろはぬ 國(くに)を治(をさ)めと」と訓む。「不奉仕」は、「奉仕(まつろ)ろはぬ」と訓む。「まつろふ」は、「まつらふ」が変化したもので、「献上する、奉仕する」意の「まつる」の反復継続形。「まつろはぬ國」は、「服従しない國」の意。「乎」はヲ。「治」は、「治(をさ)め」。「跡」はト。[一云 掃部等] は[一に云(い)ふ 掃(はら)へと]と訓む。「掃」は、24句の異伝に既出で、「掃(はら)へ」。「部」はへ。「等」はト。「千磐(ちは)破(やぶ)る 人(ひと)を和(やわ)せと」と「奉仕(まつろ)ろはぬ 國(くに)を治(をさ)めと」は対句。

 16句「皇子随 任賜者」「皇子(みこ)ながら 任(ま)け賜へば」と訓む。「皇子」は高市皇子を指す。「随」は「神随」として既出の「かむながら」のナガラ。「皇子(みこ)ながら」は「皇子として」の意。「任」は「任(ま)け」。「まく」は、支配者が下の者に対し命令して行動させる意を表わす語で、ここは「任命する」の意。「賜者」は賜(たま)へバ。なお、「任賜者」を「よさしたまへば」と訓む説もある。「よさし」は「お任せになる」意の「よさす」の連用形。しかし、「大王 任乃随意」(369番歌)に対応する仮名書き表記「大王能 麻氣能麻尓麻尓」(3962番歌)があるところから、「任」は「任(ま)け」と訓むのが良いと思われる。

 17句「大御身尓 大刀取帶之」「大御身(おほみみ)に 大刀(たち)取帶(は)[佩]かし」と訓む。「大御」は「おほみ」と訓み、尊敬の意を表わす接頭語。「大御身」は「天皇のおからだ。玉体」の意に使われるが、ここは高市皇子のことを言ったもの。「尓」はニ。「大刀(たち)」は、長大な刀の総称で、短小の「かたな」に対していう。「取帶」は「取り帶(は)か」と訓む。「帶」は名義抄に「帶。ハク・オビタリ・メグラス・オビク」とあり、現在「はく」に通常使われる「佩」は、名義抄に「佩 オビタリ・オハシム・ハク・カツグ・オヘリ・オフ・オホフ・オムモノ」とある。「とりはく」は、「取って身につける。特に、太刀などを腰におびる」ことをいう。「之」はシ。

 18句「大御手尓 弓取持之」「大御手(おほみて)に 弓(ゆみ)取り持たし」と訓む。「大御手」は「大御身」と同じく、普通「天皇の御手」の意に使われるが、ここは「高市皇子の御手」を言ったもの。「尓」は二。「弓」は、攻撃具の一つで矢をつがえて射るもの。「取持」は「取(と)り持(も)た」と訓む。「とりもつ」は「手に取って持つ。手に握る」ことをいう。「之」はシ。「大御身(おほみみ)に 大刀(たち)取り帶(は)[佩]かし」と「大御手(おほみて)に 弓(ゆみ)取(と)り持(も)たし」は二句対。

 19句「御軍士乎 安騰毛比賜 齊流」「御軍士(みいくさ)を あども[率]ひ賜ひ 齊(ととの)ふる」と訓む。「御軍士乎」は先出。「安騰毛比」は、アドモヒ。「あどもひ」は「あどもふ」の連用形。「あどもふ」は、「ひきつれる。ともなう」ことをいう和語で、その意味から、漢字の「率」が宛てられる。「賜」は「賜ひ」。「御軍士(みいくさ)」は、天皇が直接に統率する軍隊・兵士を敬っていう語であるが、これを天皇から全権委任を受けた高市皇子が統率したことを詠ったもの。「齊流」は「齊(ととの)ふる」と訓む。「流」はル。「ととのふ」は、「秩序ある状態にまとめる。調和のとれた好もしい状態にもって行く」ことをいう。

 20句「鼓之音者 雷之 聲登聞麻【弖】 」「鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 聲と聞くまで」と訓む。「鼓(つづみ)」は、古代日本では、打楽器の総称で、形状や材質は問わない。ここの「之」はノ。「音」は「おと」で、広義には聴覚で感ずる感覚全般をいい、狭義には生物(有情物)の「こえ」以外の物理的音声をいう。「者」はハ。「雷」は、「いかづち」で、「いか(厳)つ(=の)ち(霊)」の意。すなわち「たけだけしく恐ろしいもの」をいい、本来、恐ろしい神の意で、記紀の神話に見える例は、鬼や蛇のようなものと考えられるが、ここは「かみなり」の意で用いられている。「之」はノ。参考までに日本国語大辞典の「いかづち」の【語誌】を次に引用しておく。
 「雷に関する語には、音の側面を強調するナルカミ・ハタタガミや光の側面のイナヅマ・イナビカリ、あるいは落雷を表わすカムトケなどがあり、イカヅチは神格化された雷の総称として、音や光の区別なく用いられた。やがてナルカミ、さらにはカミナリが雷の総称として用いられるようになる」。
「聲」は「こゑ」で、広義には、「物が振動しておきる音」をいい、狭義には、「人や動物が発音器官を使って出す音」をいう。ただし、ここの「聲」は「おと」と訓むべきであるという説もあるが、そのことについては後述する。「登」はト。「聞」は「聞く」。「麻」はマ。【弖】は原文では【人偏に弖】であるが「弖」に同じと考えてデ音の音仮名とみる。「麻弖」でマデ。

 「齊(ととの)ふる 鼓(つづみ)の音(おと)は 雷(いかづち)の 聲(こゑ)と聞(き)くまで」と詠まれている「おと」と「こゑ」について見ておきたい。 この長歌では壬申の乱の状況を「音(おと)」を中心に詠っているように思えるのだが、現代語の「おと」「こえ」と古代の「おと」「こゑ」の関係の違いをおさえておかないと、その意味する所を理解出来ないと思われる。そこで、日本国語大辞典の「おと」の【語誌】にその違いが述べられているので次に引用しておく。
 現代語の「おと」は無生物の発するもの、「こえ」は動物など生物が主に発声器官を使って発生させている(と聞き手がとらえた)ものを表わし、無情物対有情物の対義関係にあるが、古くは「こえ(こゑ)」は生物の声のほか、琴、琵琶、笛など弦・管楽器、また、鼓、鐘、鈴などの打楽器などの音響にも使われた。特に弦・管楽器については原則的に「こゑ」が使われ、「おと」が使われるのは特別な場合に限られた。このことから、「こゑ」は発生源そのものの性質と深く結び付いた独特の音声を指し、聞けばそのものと認識されるような音声に対して使われていたものと考えられる。それに対して「おと」は、古くは原則的に「物と物とがぶつかった時、あるいはこすれあった時に出る物理的な衝突音、摩擦音」を表わし、そのほか、耳ざわりだと感じられる大きな音声、かすかではっきりとは識別しがたい音声など、「こゑ」としては認識されないものの場合に使われている。

 これによると、「齊(ととの)ふる鼓(つづみ)」は、平時であれば、「発生源そのものの性質と深く結び付いた独特の音声」ということで「こゑ」というべきところであり、逆に「雷(いかづち)」の方は、「物理的な衝突音、摩擦音」ということで「おと」というべきところである。そのことを踏まえた上で、「齊(ととの)ふる 鼓(つづみ)の音(おと)は 雷(いかづち)の 聲(こゑ)と聞(き)くまで」と人麻呂が詠んだのは、戦時と言う異常な状態を表現したものと言えるのではないだろうか。隊伍を整える鼓の「おと」(平常時には「こゑ」に聞こえるもの)が、(平常時には「おと」に聞こえる)雷の「こゑ」のように聞こえるほどであったという意と解釈したい。「音」「聲」については、『名義抄』にそれぞれ、「音 オト・オトヅル・コヱ・カゲ・ワタル」「聲 コヱ・キク・ナ・ラ(ヨ)シ・イラフ・アラハス・オト・ナラス・ノノシル」とあり、共に「おと」とも「こゑ」とも訓まれたことが知られており、人麻呂の有名な「泣血哀働歌」(207番歌)に出て来る「音」は「こゑ」と訓まれ、「聲」は「おと」と訓まれるのが定説となっていることからすると、人麻呂は「音」を「こゑ」、「聲」を「おと」として使い分けていたとも考えられるので、ここも「齊(ととの)ふる 鼓(つづみ)の音(こゑ)は 雷(いかづち)の 聲(おと)と聞(き)くまで」と訓むのが正しいのかもしれない。そのように訓めば、先の日本国語大辞典の説明とも矛盾しないことになる。ただ、本歌については「音」を「おと」と訓むのがほぼ定説となっており、「聲」については「こゑ」と訓む説がほぼ通説で「おと」と訓む説も一部にはあるという状況である。ここでは通説にしたがって訓み、その解釈を試みたわけであるが、引き続き考えるべき課題としたい。「雷之聲」をナルカミノオトと訓む説があるが、これは、「人麻呂歌集出」と左注のある1092番歌に「動神之(なるかみの) 音耳聞(おとのみききし)」とあって、ナルカミノオトというのが当時の普通の表現であったことが一つの根拠となっている。「雷」の訓みについては、人麻呂歌集および人麻呂作歌においては「雷」一字ならばイカヅチであり(235)、ナルカミの場合は略体歌でも「雷神」と書かれていることから、ここもイカヅチと訓むのが良いと考えられる。また、ナルカミノオトの例のオトには「音」の字が宛てられており、「聲」の字を宛てたものはない。

 21句「吹響流 小角乃音母」「吹(ふ)き響(な)せる 小角(くだ)の音(おと)も」と訓む。「吹」は「吹(ふ)き」。「響」は「響(な)せ」。「流」はル。「ふきなす」は「笛などを吹いて、音をたてる」ことをいう。「小角」は、和名抄に「小角、久太乃布江」とあり、古代の軍楽器の一つで、管の形をした小さな笛のこと。「大角、波良乃布江」と共に用いられ、軍防令によると、各軍団(兵士一千人)にはそれぞれ鼓二面と大角二口、小角四口が置かれたという。「乃」はノ。ここの「音」も「おと」と訓まれているが「こゑ」かもしれない。「母」はモ。[一云 笛之音波] は[一に云(い)ふ 笛(ふえ)の音(おと)は]と訓む。最初一般的な「笛」としていたものを推敲して具体的な軍楽器の「小角(くだ)」に改めたと考えられる。ここの「之」はノ。「音」は本文に同じ。「波」はハ。

 22句「敵見有 虎可【叫】吼登」「敵(あた)見たる 虎か叫吼(ほゆ)ると」と訓む。「敵」は形声文字で、偏の部分が、声符で(テキ)、これは帝を祀ることをいい、帝を祀ることは帝の嫡系たるもので、「相匹敵するもの」の意がある。これに攴(ぼく)を加えて、敵対者の意としたのが「敵」。名義抄には「敵。アタル・カタキ・アタ・ヒトシ・ウタシム」とあり、ここはアタと訓む。古典基礎語辞典には「あた【仇・敵】名」として掲載されており、「解説」が興味深いので次に引用しておく。
 アタヒ(価)・アタフ(能ふ)・アタル(当たる)のアタと同根。ぴったりと向き合って対立し存在するもの。類義語カタキ(敵)は元来は一対をなすものの一方を指す語で遊び相手や結婚相手を指すこともあったが、中世ごろには主に敵対するものの意で使われる。アタは近世中期までは清音であったが、敵対するものの意をカタキが表すようになるにつれ、アタは主に、害やうらみなどのよくないことを表すようになった。一方、アダ(徒)も無益・無用の意を表すので両者の混同が起こり、アタがアダになったと考えられる。

 「見有」は、「見たる」と訓む。「たり」は「てあり」が約まって出来たもので「有」の字が宛てられたもの。「虎」は、ネコ科の哺乳類。アジアの特産種で、シベリア南部からインド、ジャワにかけて分布するが、現在どの地域でも生息数が激減し絶滅が心配されている。「虎」を詠んだ歌は、萬葉集には三首ある(本歌および3833・3855番歌)。「可」はカ。【叫】は原文では【口偏に刂】という字であるが「叫」と同字と見なしたもの。下の「吼」と合わせて「叫吼」の二字で「叫吼(ほゆ)る」と訓む。「ほゆ」は「けものなどが大声で鳴く」ことをいう。「登」はト。

 23句「諸人之 恊流麻【弖】尓」「諸人(もろひと)の 恊(おび)ゆるまでに」と訓む。「諸人」は、「母呂比得(もろひと)」などの仮名書き例により「もろひと」と訓み、「もろもろの人。多くの人。衆人」の意。ここの「之」はノ。「恊」は、「協」と同字で、名義抄に「協。カナフ・ヤハラグ・ヲビヤカス」とあるように、「脅」の字に通じ、「おびやかす」の意がある。ここは「恊流」で以て、「おびえる」意に用いたもの。「流」はル。「麻【弖】」はマデ。「尓」はニ。 [一云 聞<或>麻泥] は[一に云(い)ふ 聞き或(まと)ふまで]と訓む。「聞」は「聞き」。<或>は、西本願寺本などには「惑」とあるが、類聚古集、紀州本に「或」とあるのを採った。「或」は「惑」の省文(字画を省略した字)で「或(まと)ふ」。「麻泥」はマデ。「泥」はデ。「聞き或(まと)ふまで」は初案と思われる。「聞いて当惑するほどに」の意であるが、本文の「おびえるほどに」と言う方が「虎が吼えているのかと」に対する表現としてはぴったりくる。

 24句「指擧有 幡之靡者」「指擧(ささ)げたる 幡(はた)の靡(なび)きは」と訓む。「指擧」は「指擧(ささ)げ」と訓む。「ささぐ」は「さしあぐ」の約まった語で、「高くさしあげる。かかげる」ことをいう。「有」はタルと訓む。「幡」は軍防令の義解に「幡者旌旗惣名也」とあり、「旗」と同じく「はた」と訓む。当時の「はた」は、縦に細長いのぼりのような形のものが多かったようである。「之」はノ。「靡」は「靡(なび)き」。「なびくこと。ゆれうごくこと」。「者」はハ。

 25句「冬木成 春去来者」「冬こもり 春去り来れば」と訓む。この二句は、額田王の「春秋優劣判定歌」(十六番歌)の冒頭の二句に同じ。「冬こもり」は「春」にかかる枕詞。そのかかり方については諸説があるが、冬の間活動をやめていた植物が芽を出して茂る春の意で、「春」にかかるとする説が有力である。ただし、この場合は「冬籠り」とは別語となる。他に、冬に活動をやめて籠っていたものが春になると外に出る意からとする説、「冬が終わり」の意から「春」に続くとする説などもある。平安時代にはすでに「冬籠り」の意識で用いられていたと考えられる。「去来」は、「去る」ことと「来る」ことで「往来する」の意で使われるが、和語「さる」は、移動する意で、古くは近づく場合にも遠ざかる場合にも使われたもので、ここは近づくの意で用いられている。「去」は「去り」。「来」は「来(く)れ」。「者」はバ。

 26句「野毎 著而有火之」「野毎(ごと)に 著(つ)きて有る(あ)火の」と訓む。「野毎」は二を補読して「野毎(ごと)に」と訓む。旧訓にノヘコトニとあるが、「邊」の文字がないので五音に訓むのは無理。「毎(ごと)」は二を伴うことが多いのでここも補読して四音に訓む。「…はみな。どの…も。…するたびに」の意。「著」は「著(つ)き」。「つく」は、ある力、作用などがはたらくことをいう語で、ここは「火が燃え始める。また、あかりがともる」意に用いたもの。名義抄に「著。キル・ツク・ハク・アラハス・シルス・クル・ワタイル」と多くの訓みを記す。「而」はテ。「有」は「あり」の連体形で「有る(あ)」。「野毎(ごと)に著(つ)きて有る(あ)火(ひ)」とは、春先の初めに野山の枯れ草を焼く火を言う。「之」はノ。[一云 冬木成 春野焼火乃] は[一に云(い)ふ 冬こもり 春野(はるの)焼く火の]と訓む。この異伝は、初案では二句に詠んでいたことを示しているものと考えられる。異伝では相対的に規模の小さな野火が印象されるが、本文では「野毎(ごと)に」とあって、広い区域の野火がイメージ化され、歌のスケールを大きくしているように思う。

 27句「風之共 靡如久」「風の共(むた) 靡(なび)くが如く」と訓む。「風之共」は「浪之共」の「浪」が「風」に変わったもので同じ表現。「之」はノ。「共」はムタ。名詞または代名詞にノガの付いた形に接続して、「…とともに」「…のままに」の意の副詞句を構成する。「可是能牟多(かぜのむた) 与世久流奈美尓(よせくるなみに)」(3661)、「君(きみ)我牟多(がむた) 由可麻之毛能乎(ゆかましものを)」(3773)などの仮名書き例がある。「靡如久」は「靡(なび)く」。ガを補読する。「なびく」は「風、水などの力により、それに流されるような形になる」ことをいう。「如久」は「如(ごと)く」。「久」はク。「ごとし」は、「同じ」の意を表わす「こと」の濁音化した「ごと」にシが付いたもの。「春野を焼く火が風にあおられて赤々と広がっているかのようである」と、「幡(はた)の靡(なび)きは」について述べているわけで、この「幡(はた)」は「赤旗」であってそれを「火」に喩えたものであり、天武方が赤旗を用いていたことが分かる。

 28句「取持流 弓波受乃驟」「取(と)り持(も)てる 弓(ゆ)はずの驟(さわ)き」と訓む。「取持」は、「取り持て」と訓む。「とりもつ」は「手に取って持つ。手に握る」ことをいう。「流」はル。「弓波受」は「弓(ゆ)はず」と訓む。「波受」はハズ。「ゆはず」は、「ゆみはず」に同じで、「弓の両端の弦(つる)をかけるところ」をいい、上の方を末弭(うらはず)、下の方を本弭(もとはず)という。「弭」は「奈加弭」として既出。「乃」はノ。「驟」は、説文解字に「馬、疾(はや)くするなり」とあり、副詞に用いて、にわか、しばしばの意とするが、萬葉集ではこの「驟」の字をサワクに宛てて訓む例があり、ここもサワキと訓む。なぜ「驟」がサワクに宛てられたか、その根拠は不明である。サワクに宛てて訓む例としては、478番歌「五月蠅成(サバヘナス) 驟驂舎人者(サワクトネリハ)」、1690番歌「阿渡川波者(アドカハナミハ) 驟鞆(サワケドモ)」、1704番歌「細川瀬(ホソカハノセニ) 波驟祁留(ナミノサワケル)」などがある。「さわき」は、動詞「さわく」の連用形の名詞化したもので、「声や物音などがやかましいこと。さわがしいこと」をいう。

 29句「三雪落 冬乃林尓」「み雪(ゆき)落(ふ)る 冬(ふゆ)の林(はやし)に」と訓む。「三雪落」は既出。「三」はミ。「落」は「落(ふ)る」。名義抄に「落。オツ・オトロフ・トモガラ・フル・ソソグ・シヌ・ツラヌ・ハジメ・ミチ」とある。「ふる」は「雨・雪などが空から落ちてくる」ことをいう。45番歌では実景を詠ったものであったが、ここの「み雪落(ふ)る」は冬の枕詞のように用いたもの。「冬」は「終」の初文。四季の一つ「ふゆ」に用いられるようになって別に「終」の字が作られた。「冬」は、現在では12月から翌年の2月まで、旧暦では10月から12月をいう。天文学的には冬至から春分の前日まで、二十四節気では立冬から立春の前日までをいう。四季のうちで最も寒い。「乃」はノ。「林」は「はやし」。「生(は)やし」の意で、樹木の群がり生えている所。「尓」はニ。 [一云 由布乃林] は[一に云ふ  ゆふの林(はやし)]と訓む。「由布」はユフ。この異伝について、萬葉集全注は「異伝を生じた理由について一説に、冬を『布由』と仮名表記した一本があり、それを『由布』と誤写したとするが、確かでない。むしろ、全註釈に『雪の積った林を、木綿で作った林と譬喩したのであろう』という方が正鵠を射ているのではなかろうか。本文のように改められたのは、『み雪降る木綿の林』より本文にリアリティが感じられるからだろう」と述べている。

 30句「飃可毛 伊巻渡等」「飃(つむじ)かも い巻(ま)き渡(わた)ると」と訓む。「飃」は「つむじ」と訓み、「つむじ風」の意。「つむじ風」は、「うずまくように吹き起こる強い風。渦巻状に回転して上る強い風。旋風」のことで、右まわりのものも左まわりのものもある。「可毛」はカモ。「伊」はイ。「巻渡」は「巻き渡(わた)る」。「風などが巻いて吹き渡る」ことをいう。「等」はト。

 31句「念麻【弖】 聞之恐久」「念(おも)ふまで 聞(き)きの恐(かしこ)く」と訓む。「念」は「念(おも)ふ」。「麻【弖】」はマデ。「聞」は「聞き」と訓み、「聞くこと」の意。「之」はノ。「恐久」は、「恐(かしこ)く」。「久」はク。「かしこし」は、おそるべき霊力、威力のあるさまや、また、それに対して脅威を感ずる気持を表わす語で、「おそるべきだ。おそろしい」の意。[一云 諸人 見<或>麻【弖】尓] は[一に云(い)ふ  諸人(もろひと)の 見(み)或(まと)までに]と訓む。「諸人」は51句に同じ。<或>は、西本願寺本などには「惑」とあるが、類聚古集、紀州本に「或」とあるのを採った。「或」は「惑」の省文(字画を省略した字)で、「或(まと)ふ」。麻【弖】はマデ。「尓」は二。異伝で、視覚印象を強調した表現となっているが、本文の「み雪ふる … 聞(き)きの恐(かしこ)く」の方が、視覚聴覚双方に関わる表現でより鮮やかな印象を受けるように思う。

 32句「引放 箭<之>繁計久」「引(ひ)き放(はな)つ 箭(や)の繁(しげ)けく」と訓む。「引放」は「引き放(はな)つ」。「矢などを引いてはなつ。はなちやる」ことをいう。「箭」は玉篇に「矢也」とある。もと矢竹の意とも言われる。<之>の字は西本願寺本などにはないが類聚古集、紀州本にあるのを採った。ノに用いたもの。「繁計久」は、「繁(しげ)けく」と訓む。「計久」はケク。「しげけく」は「頻繁であること、すき間もないほど密であること」の意。

 33句「大雪乃 乱而来礼」「大雪(おほゆき)の 乱(みだ)れて来(きた)れ」と訓む。「大雪」を詠み込んだ歌は萬葉集には三首のみで、本歌以外には、103番歌「吾里尓(わがさとに) 大雪落有(おほゆきふれり)」と4285番歌「米都良之久(めづらしく) 布礼留大雪(ふれるおほゆき)」がある。「乃」はノ。「大雪の」は比喩的枕詞で、「大雪のように」ということで「乱れ」にかかる。「乱」は「乱れ」。「而」はテ。「来礼」は「来(きた)れ」と訓む。「礼」はレ。「きたる」は「き(来)いた(至)る」の変化した語で、「人や物事がやってくる」ことをいう。上代の已然形は下に順接の確定条件を表す接続助詞「ば」が付いているのと同じ働きをしたので、ここは「大雪のように乱れ飛んでくるので」の意となる。[一云 霰成 曽知余里久礼婆] は[一に云(い)ふ 霰(あられ)なす そちよりくれば]と訓む。「霰」は既出。「霰」を詠んだ歌は他に四首あり、合計六首で、「大雪」の三首より多い。「成」はナスを表す。「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意。「曽知余里久礼婆」は、ソチヨリクレバ。「そちよりくれば」と訓むことは簡単に出来るが、「そちより」の意味がよくわからない。これについて萬葉集注釋は次のように述べている。
 其方此方(ソチコチ)の其方の意に諸注にあり、そなたから來れば、の意と解かれてゐるが、「こち」の語(一三〇、その他)は用例があつても「そち」の語は他に見えず、且つ「より」は「余里」の文字が用ゐられてをり、「余」は乙類の假名であり、「従(ヨリ)」の意のヨは甲類であつて當らない。私注には「數多く」として「ソチは十箇の意か」とあり、古典大系本には矢とし、「サチの轉か」ともある。大野晋氏の「日本語と朝鮮語との語彙の比較についての小見」の中では矢の朝鮮語Satであり、それが國語のSatiであるとされてゐる。それらの説によれば「より」は「寄り」の意となり、「寄る」のヨは乙類であるから假名遣も當たるといふ事になる。以上を踏まえて、「そちよりくれば」は「矢寄り来れば」と解して、この異伝は「霰のように矢が向ってくるので」の意と採る。

 34句「不奉仕 立向之毛」「奉仕(まつろ)ろはず 立(た)ち向(むか)ひしも」と訓む。「不奉仕」は、「奉仕(まつろ)ろはず」と訓む。「まつろふ」は「服従する」の意。「立向」は「立ち向(むか)ひ」。「之」はシ。「毛」はモ。「奉仕(まつろ)ろはず立ち向ひしも」は「服従せず抵抗していた者も」の意。

 35句「露霜之 消者消倍久」「露霜(つゆしも)の 消(け)なば消(け)ぬべく」と訓む。「露霜(つゆしも)の」は、「露霜乃」とノの表記は違うが既出で、比喩的な枕詞として使われ、次に示す四つの掛かり方があり、ここは(1)の例にあたる。(1)露や霜が消えやすいところから、「消える」やそれに類した語にかかる。(2)露霜が置く意で、「置く」やそれと同音またはそれを含む語にかかる。(3)「置く」と同意の「降る」と同音の地名「布留」や「古里」にかかる。(4)露や霜は秋の景物であるので「秋」にかかる。

 「消」は「消(け)」。「久(く)」については参考までに古典基礎語辞典の解説を次に引用しておく。
 「キユ(消ゆ)と同義。もっぱら歌に用いられる。未然形・連用形・終止形の例があり、特に「けぬ」(連用形ケに完了の助動詞ヌが付いたもの)の例が圧倒的に多い。クは、あとかたもなくなる意で、その大半は露・雪などの天然現象を対象とする。また、比喩的に「死ぬ」を表わすこともある。この場合は露・雪・霜などの語が含まれた枕詞に続くことが多い」。
 以上の引用から分かるように、「消者」は「消(け)なば」と訓み、「消倍久」は「消(け)ぬべく」と訓む。ここのクは、先の引用にあるように、「露霜の」という枕詞に続いて「死ぬ」の意に用いられたもの。「露霜(つゆしも)の消(け)なば消(け)ぬべく」は「露霜のように消えて死ぬなら死んでしまってかまわないと」の意。

 36句「去鳥乃 相<競>端尓」「去(ゆ)く鳥の 相競(あらそ)ふ端(はし)に」と訓む。「去鳥」は「去(ゆ)く鳥」。「去」を「ゆく」と訓む例は既述た。「乃」はノ。「ゆくとりの」は、飛び立って行く鳥が先を争うようにの意で「あらそふ」にかかる比喩の枕詞。「相<競>」は、「あらそふ」の連体形で「相競(あらそ)ふ」と訓む。<競>の字は、西本願寺本には「竟」とあるが、類聚古集、紀州本などに「競」とあるのを採った。「あらそふ」は「相手と競う。張り合う」意で、「相」は「互いに」の意を込めて添えたものと考えられる。「端」は「はし」。中心部から離れている部分を言う語で、主に空間に用いられるが、上代には時間的用法(「間」の字をあてることがある)もあって、「ほんの短い間。ある物事が行なわれたちょうどその折。…する間に一方で」の意として使われた。「尓」はニ。[一云 朝霜之 消者消言尓 打蝉等 安良蘇布波之尓] は[一に云(い)ふ 朝霜(あさしも)の 消(け)なば消(け)と言(い)ふに うつせみと あらそふはしに]と訓む。「朝霜(あさしも)の」は、朝方の霜が消えやすいところから「け(消)、きゆ(消)」にかかる枕詞。次の「消者消言尓」の訓みについては諸説が分かれており、次の五通りの訓みがなされている。1 ケナバケヌテフニ 旧訓。2 ケナバケヌトフニ 講義・茂吉評釈・全註釈。3 ケナバケトフニ  私注・大系・おうふう本。4 ケナバケトイフニ 塙本・全集・全訳注・全注・新全集・釈注・和歌大系・新大系。5 ケナバケヌガニ  古義(言は香の誤)・注釋(言は、我に同じ)。ここでは原文の文字を素直に訓んでいる4に従うこととするが、5の『注釋』の説も、『玉篇』に「言」は「我也」とあることから、傾聴に値するものと思う。「打蝉」は「うつせみ」と訓み、「虚蝉」、「空蝉」の表記で既出。「この世」または「この世に生きている人」の意。「等」はト。「安良蘇布波之尓」は「アラソフハシニ」=「争(あらそ)ふ間(はし)に」と訓む。

 天武天皇による壬申の乱から説き始め戦いの場面が描かれる。その戦いの中での高市皇子の活躍は、「大御身に 大刀取り帯ばし 大御手 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ」と歌われている。だが、その戦いの栄光も色あせるように、場面はすぐに皇子の死に移る。「遣はしし 御門の人も 白布の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ」とは、持統天皇による葬儀に、官人たちがいそいそと従っている様子を描いているようにも思われる。この歌は、古来挽歌のうちでも様々な憶測を呼んできたものであるが、持統天皇のお抱え歌人としての人麻呂が、あくまで天皇の意思を体現して詠んだ歌のように聞こえる。

 37句「渡會乃 齊宮従」「渡會(わたらひ)の 齊宮(いつきのみや)ゆ」と訓む。「渡會」は、伊勢国(三重県)の郡名で「わたらひ」と訓む。現在の伊勢市を中心とした地域で、古くから伊勢神宮の神郡(かみごおり)であった。「乃」はノ。「齊宮」は、163番歌の題詞に既出。天神(あまつかみ)をまつる宮殿の意であるが、ここは、伊勢神宮を指す。また、伊勢の大神をまつる斎王の居所あるいは斎王を指していうこともある。「従」はユ、「より。…から」の意を表す。

 38句「神風尓 伊吹<或>之」「神風(かむかぜ)に い吹(ふ)き或(まと)はし」と訓む。「神風」は既出で、いずれも「神風乃」で「伊勢」の枕詞として用いられた例であったが、ここは「神の起こす威力ある風」の意。「尓」はニ。「伊」はイ。「吹」は「吹き」。<或>は、68句異伝と同じで、西本願寺本などには「惑」とあるが、類聚古集、紀州本に「或」とあるのを採った。「或」は「惑」の省文(字画を省略した字)。68句の異伝では、「或(まと)ふ」と訓んだが、ここは、「或之」で以て、「或(まと)はし」と訓む。「之」はシ。「まとはす」は「どうしてよいかわからなくさせる」ことをいう。

 39句「天雲乎 日之目毛不<令>見」「天雲(あまくも)を 日(ひ)の目(め)も見(み)せず」と訓む。「天雲(あまくも)」は「空の雲」の意。「乎」はヲ。『萬葉集注釋』に「『天雲を』は天雲をもつて、の意。少し無理な云ひ方であるが、さう解かないと『覆ひ給ひて』へつゞかない」とあるように、ここは「天雲を(厚く覆って)」と言葉を補足して解さないと意味が通じにくい。「日の目」は、「日の光。太陽の光線。日ざし」の意。「毛」はモ。<令>の字は、これを「合」とするものもあるが、古写本にいずれも「令」とあるのを採った。「不令見」は、「見せず」と訓む。

 40句「常闇尓 覆賜而 定之」「常闇(とこやみ)に 覆(おほ)ひ賜(たま)ひて 定(さだ)めてし」と訓む。「常闇」は、「とこやみ」と訓み、「永久に暗闇であること。また、そのさま」の意。ここは「尓」を伴って「常闇(とこやみ)に」と訓む。「覆」は「覆(おほ)ひ」。「賜」は「賜(たま)ひ」。「おほふ」は「全体に広がりかぶさってつつむ」ことをいう。「たまふ」は、補助動詞で尊敬表現。「而」はテ。神風を吹いて敵を混乱させただけでなく、天雲を厚く覆って、闇夜がいつまでも続く状態にして、敵を一層混乱させたことを詠ったものである。「い吹き或(まと)はし」「覆(おほ)ひ賜(たま)ひ」の主語は、伊勢神宮の祭神である天照大御神である。「定之」は「定めてし」と訓む。「定」は「定め」。テを補読する。ここの「之」はシ。この句について『萬葉集注釋』は「壬申の亂の平定した事を云つたので、『大御身に』以下壬申の亂に於ける高市皇子の功業を述べて來たのであるが、この『定めてし』の主語は天武天皇と見てよい。實戦の指揮は皇子であるが、全軍の統監は天皇であり、この『定めてし』の語は前の『をす國を定め給ふと』に呼應すると見るべきである」と述べている。なお、この句は次の句を修飾するものである。

 41句「水穂之國乎 神随」「水穂(みづほ)[瑞穂]の國(くに)を 神(かむ)ながら」と訓む。「水穂」は「みずみずしい稲(稲を主として麦・粟・稗なども含む)の穂」の意。瑞穂とも書かれる。「之」はノ。「水穂の國」は「みずみずしい稲の穂が実っている国」の意で、日本国の美称である。「乎」はヲ。これも167番歌「神随・太布座而」と同じ(表記に一字違いはあるが)。「神(かむ)ながら」は、本歌の35句に「皇子随(みこながら)」とあったのと同じ用法で、「神の本性そのままに。神でおありになるままに」の意。

 42句「太敷座而 八隅知之」「太敷(ふとし)き座(ま)して 八隅知(やすみし)し」と訓む。「太敷」は「太敷(ふとし)き」。「ふとしく」(「ふと」は美称)は、「宮殿などの柱をしっかりとゆるがないように地に打ちこむ。宮殿を壮大に造営する」ことを言う。「座」は「座(ま)し」。「而」はテ。「定めてし」の主語を天武天皇と述べたが、ここの主語も天武天皇。ここの主語を高市皇子とする説もあるが、「『瑞穂の國を云々』の三句はこの大八島國を治め給ふ天皇の御事としてはじめて認められる言葉である」とする『萬葉集注釋』の説に従う。高市皇子は次句以降に登場することになる。

 43句「吾大王之 天下 申賜者」「吾(わ)が大王(おほきみ)の 天(あめ)の下(した) 申(まを)し賜へば」と訓む。本歌の「八隅知之 吾大王乃」と同じ表現だが、「大王」は天武天皇であったが、ここの「大王」は高市皇子を指す。「大王」の下の「之」はノ。「天の下」は、「高天原の下にある、この国土」の意。「申賜」は「申(まを)し」に「賜(たま)へ」が付いたもので、「申(まを)し賜(たま)へ」と訓む。ここの「まをす」は「政務について奏上する。政治をとり行なう」意。「天の下申し賜ふ」は、天皇に対して天下の政を奏上する意から政治を執る意に使われるようになった慣用語であるが、この主語はその意味からして当然、高市皇子ということになる。「者」はバ。

 44句「萬代<尓> 然之毛将有登」「萬代(よろづよ)に 然(しか)しも有(あ)らむと」と訓む。<尓>は西本願寺本にはないが金沢本、類聚古集、紀州本にあるのを採った。「萬代尓」は「よろづよ」。「萬世」とも書き、「限りなく長く続く代(世)」の意で、御代が永久に続くことを祝っていう語。「尓」はニ。「然(しか)」はシカ。彼方にある物をさし示し、感動的意味が伴う副詞。「そのように。そのごとく。さように」の意。「之毛」はシモ。「将有」は「有(あ)らむ」と訓む。「登」はト。[一云 如是毛安良無等] は [一に云(い)ふ 如是(かく)もあらむと]と訓む。「如是(かく)」は、「然(しか)」が彼方にあるを指す「そのように」の意であるのに対して、此方にあるを指す「このように」の意で、「事態を、話し手が自分の立場から現実的、限定的にとらえて、それを指示する」のに用いる副詞。「毛」はモ。「安良」はアラ。「無」はム。「等」はト。

  45句「木綿花乃 榮時尓」「木綿花(ゆふはな)の・榮ゆる時に」と訓む。「木綿」は「ゆふ」と訓み、「楮(こうぞ)の樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細かにさいて糸としたもの」をいう。「木綿花(ゆふはな)」は木綿で作った白い造花。「乃」はノ。「ゆうはなの」は、木綿花のように美しく枯れることなく栄えるの意から、「栄(さか)ゆ」にかかる比喩の枕詞。「榮」は「榮(さか)ゆる」。「時尓」は「そういう時に」の意。「尓」はニ。高市皇子の執政によって御世の繁栄していることを詠ったもの。

 46句「鶉成 伊波比廻」「鶉(うづら)なす いはひ廻(もとほ)り」と訓む。「鶉」はキジ科の鳥。全長約20センチメートル。頭が小さく、尾が短く、からだは丸みを帯びる。「鶉」を詠み込んだ歌は萬葉集に八首あるが、うち半分の四首は「鶉鳴く」と鳴き声を賞美してのものだが、人麻呂は、鶉が這い回る様子に心惹かれた様で、239番歌でも「十六社者(ししこそは) 伊波比拜目(いはひをろがめ) 鶉己曽(うづらこそ) 伊波比廻礼(いはひもとほれ) 四時自物(ししじもの) 伊波比拜(いはひをろがみ) 鶉成(うづらなす) 伊波比毛等保理(いはひもとほり)」と詠っている。「成」はナス。「…のように、…のような、…のごとく、…のごとき」などの意で、語源的には、「似(に)す」、あるいは「成(な)す」とも関係があるかともいわれる。「伊波比」はイハヒ。「は(這)ひ」を表す。「廻」は「廻(もとほ)り」。「もとほる」は「まわる。めぐる。徘徊する」ことをいう。

 47句「雖侍候 佐母良比不得者」「侍候(さもら)へど さもらひ得(え)ねば」と訓む。「雖侍候」は、「雖」を用いたもので「侍候(さもら)へど」と訓む。「雖伺侍」を「伺侍(さもら)へど」と訓んだのに同じ。なお、「侍」「候」はそれぞれ一字でも「さもらふ」と訓むがここは二字を宛てたもの。「さもらふ」は「様子をうかがい待つ」というのが本義だが、ここは「貴人のおそばにいて、その命令を待つ」の意。次の「佐母良比」は「さもらふ」の連用形「さもらひ」を仮名書きで表記したもの。「不得者」は「得ねば」と訓む。「う」は「…できる」の意。

 48句「春鳥之 佐麻欲比奴礼者」「春鳥の さまよひぬれば」と訓む。「春鳥の」は、春の鳥のようにの意で、「さまよふ」、「音(ね)を泣く」にかかる枕詞として使われた。「之」はノ。「佐麻欲比奴礼者」は、「さまよひ」+ヌレ+バ。「さまよふ」は「嘆き悲しむ、嘆息しうめき声をあげる」ことをいう。

 49句「嘆毛 未過尓」「嘆きも 未(いま)だ過ぎぬに」と訓む。「嘆」は「嘆(なげ)き」。「毛」はモ。「未」は、「未(いま)だ…ず」と訓む。「未過尓」は「未(いま)だ過ぎぬに」と訓む。「すぐ」は、「物事が盛んな状態から、衰退・消滅・終了の状態へと進んで行く」ことをいう。「嘆(なげ)きも未(いま)だ過(す)ぎぬに」は「嘆きもまだ消え去らないのに」の意。

 50句「憶毛 未<不>盡者」「憶(おも)ひも 未(いま)だ盡(つ)きねば」と訓む。「憶」は、名義抄に「憶 オモフ・オボユ・ムカシ・ハツ」とあり、ここは「憶(おも)ひ」と訓む。「毛」はモ。「未<不>盡者」は、西本願寺本では「未盡者」とあるが、金沢本、類聚古集、紀州本に「未不盡者」とあるのを採った。「未」は「いまだ」を表すのに用いたものと考え、漢文の再読文字とは見ない。「盡」は、名義抄に「盡。ツキヌ・ツクス・コトコトク・ククル・コゾル・アツ」とあり、ここは「盡(つ)き」。「不」をズの已然形ネと訓む(「未」を再読文字と見れば「不」が無くても良いわけだが)。「者」はバと訓む。ネバは、順接・逆接いずれをもあらわすが、ここは逆接。「つく」は、「物事がだんだん減っていってなくなる」ことをいう。「憶(おも)ひも未(いま)だ盡(つ)きねば」は「思いもまだ尽きないのに」の意。

 51句「言<左>敝久 百濟之原従」「言(こと)さへく 百濟(くだら)の原(はら)ゆ」と訓む。「言<左>敝久」の<左>を西本願寺本などに「右」とあるが、金沢本により「左」を採った。「言(こと)さへく」と訓む。「左敝久」はサヘク。「さへく」の「さへ」は「障る、障ふ」と同根の言葉であり、「言さへく」は外国人の言葉のはっきり聞き取りにくい意で、韓・唐などの外国にかかる枕詞。ここは次の百濟にかかる。「百濟(くだら)の原(はら)」は奈良県北葛城郡広陵町百済の付近の原をいう。「之」はノ。「従」はユで「より。…から」の意を表す。

 52句「神葬 々伊座而」「神(かむ)葬(はぶ)り 葬(はぶ)りい座(ま)せて」と訓む。「神葬」は、「神集(かむつど)ひ、神下(かむくだ)し、神上(かむあが)り」と同類で、「神(かむ)葬(はぶ)り」と訓む。「葬(はぶ)り」は「はぶる」の連用形。「はぶる」は「死者を墓所に送って収める。野辺送りして棺を埋葬する」ことをいう。「伊座」は、「い座(ま)す」と訓んだが、ここは「座(いま)せ」と訓む。「伊」はイ。「います」は、「(…て)いらっしゃるようにさせる」の意。「座(いま)せ奉(まつ)りし」として既出。「而」はテ。

 53句「朝毛吉 木上宮乎」「あさもよし 木上(きのへ)[城上]の宮(みや)を」と訓む。「朝毛吉」は55番歌に同じ。「朝」はアサ。「毛」はモ。「吉」は、第17番歌「青丹吉」の「青丹(あをに)よし」の「よし」に同じく、間投助詞ヨ、シの重なってできたもので、文節末に添えて詠嘆を表わす。「あさもよし」は、地名「紀」「城上(きのへ)」にかかる枕詞。「麻裳」が原義で、良い麻裳を産する紀の国の「紀」にかかると考えられる。転じて、同音の「城上(きのへ)」にもかかった。「木上」は題詞に「城上」とあったのと同じで「きのへ」と訓む。地名で、現在の奈良県北葛城郡広陵町かと思われる。「木上宮」は「きのへ」で営まれた高市皇子の殯宮をいう。「乎」はヲ。

 54句「常宮等 高之奉而」「常宮(とこみや)と 高(たか)くし奉(まつ)りて」と訓む。「常宮(とこみや)」は、「いつまでも変わることのない宮殿」の意。「等」はト。「高之奉而」の訓義については次の様に諸説がある。① タカクマツリテ この訓みを採るものには、「之」を読まない説(大系・釈注)と「之」を「久」の誤字とする説(童蒙抄・略解・新大系)とがある。② タカクシマツリテ この訓みを採るものには、シを動詞と見る説(講義・注釋・全訳注・全注)とシを助詞と見る説(全註釈)とがある。③ タカクシタテテ これは旧訓で、全集・新全集がこの訓を採用している。④ タカシリマシテ 「之奉」を「知座」の誤りとするもの(万葉考)。⑤ サダメマツリテ 「高之」を「定」の誤りとするもの(玉の小琴)。以上、いろいろな説があるが、ここは原文に即して②の訓みを採るのが素直だと思う。その場合、シを動詞と見て、その下の「奉(まつ)り」は、130句の「い座(ま)せ」と同様、補助動詞と見るのが良い。「高」は「高(たか)く」。「之」はシ。「奉」は「奉(まつ)り」。「而」はテ。

 55句「神随 安定座奴」「神(かむ)ながら 安定(しづま)り座(ま)しぬ」と訓む。「神随」は、「神の本性そのままに。神でおありになるままに」の意。「安定」について、萬葉集注釋は「『安定』を舊訓にシツマリとある。説文(七)に『安(ハ)靜也』とあり、『定(ハ)安也』とある。増韻には定靜也とあり、共に靜の意があると思はれ、二字でシヅマリと訓ませたと見てよい」としている。これに従って、「安定」は、「安定(しづま)り」と訓む。「座」は「座(ま)し」。「奴」はヌ。

 56句「萬代尓 過牟登念哉」「萬代(よろづよ)に 過(す)ぎむと念(おも)へや」と訓む。「萬代尓」は95句に同じ。「萬代(よろづよ)」は「限りなく長く続く代(世)」の意。「尓」はニ。「過」は「過ぎ」。ここの「すぐ」は、「滅びる」意で使われている。「牟登」はムト。「念哉」の「念」は「念(おも)へ」。「哉」はヤ。この「萬代(よろづよ)に 過(す)ぎむと念(おも)へや」という句について、『万葉考』に「過失めやてふ也。万代とほぎ作らしし宮なれば、失う代あらじ。是をだに御形見と仰ぎ見つつあらんと也」と説いている。また『萬葉集講義』は「前後のつづき、言たらずして、かた言のやうに見え、無理なるやうなれど、古はかかるいひざまもせしならむ」と言い、『茂吉評釈』には「万代尓のところで息の休みがある」と記している。

 57句「天之如 振放見乍」「天(あめ)の如(ごと) 振(ふ)り放(さ)け見(み)つつ」と訓む。「天」は、「天地(あめつち)」の「あめ」で、「天(てん)、空(そら)」の意。「之」はノ。「如」はゴトシで、「ごとく。ように。同じく」の意。「振放見乍」の「振放見」は「振り放(さ)け見(み)」。「ふりさけみる」は「遠くを仰ぎ見る。はるかかなたを見上げる。ふりさけあおぐ」の意。「乍」はツツ。「天の如振り放け見つつ」は、高市皇子の御殿、すなわち香来山の宮を大空を仰ぎ見るように仰ぎ見つつ、と詠ったもので、御殿を天の如く仰ぎ見るという表現は168番歌の「天(あめ)見る如く仰ぎ見し皇子(みこ)の御門(みかど)の」と同じ。

 結句「玉手次 懸而将偲 恐有騰文」「玉(たま)たすき 懸(か)けて偲(しの)はむ 恐(かしこ)かれども」と訓む。「玉手次」は29番歌に同じで、5番歌にも「珠手次」の表記で既出。「玉、珠」は、共に「たま」と訓み、「まるく美しいもの」をいう。「手次」は「てつぎ」という言葉もあるが、ここは「たすき」と訓む。上代から神事などの際、袖が供え物に触れるのを防ぐ手段として用いられた。「玉(たま)たすき」は、実際に勾玉・菅玉などの玉の付いた襷であるとする説と、玉に実質的な意味はなく単に襷の美称であるという説がある。「たまくしげ、たますだれ」などと同様、本来、実際に玉の付いたものを言ったものが、次第に美称となったと考えられる。ここでは「たすきをかける」意で、次の「かけ」にかかる枕詞。「懸而」は「懸(か)けテ」。「玉襷を懸けて」の意と「心に懸けて」の意の両義を含むと考えられる。「将偲」は、「偲(しの)はむ」と訓む。「しのふ」は「過去のことや離れている人のことなどをひそかに思い慕う」ことをいう。「恐有騰文」は「恐(かしこ)かれども」と訓む。旧訓カシコケレドモを『万葉考』にカシコカレドモと改訓した。他にカシコクアリトモと訓む説もあるが、ここは『万葉考』に従って、カシコクアレドモの約まったカシコカレドモと訓む。「恐」は「恐(かしこ)く」。「有」は「有(あ)れ」。従って「恐有」は「恐(かしこ)く有(あ)れ」となり、それが約まって「恐(かしこ)かれ」。「騰文」はドモ。「恐(かしこ)かれども」は「恐れ多いことではあるが」の意。

【巻2(200)。】
題詞
歴史解説
  柿本朝臣人麿の作歌。「短歌二首」。「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]」。本歌と次歌は199番長歌と共に前歌と同様柿本人麻呂作と長歌の題詞に明記されている。天武天皇の長子である高市皇子(たけちのみこ)の薨去に伴う挽歌である。
原文  久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 戀渡鴨
和訳  久かたの 天知らしぬる 君故に 日月(ひつき)も知らに 恋ひわたるかも
現代文  「いつの間にか月日が流れていくが、私たち臣下はずっと皇子様をお慕いしています」。
 「永久に堅固な天上の世界をお治めになられることになった皇子故に月日の経つのもわからないほどに 恋いつづけていることだよ」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その337)」その他を参照する。

 発句「久堅之 天所知流 君故尓」「久かたの 天知らしぬる 君故に」と訓む。「久堅之」は「久堅(ひさかた)の」と訓む。「久堅(ひさかた)の」は、既出。「天所知流」は「天(あめ)を知らせる」と訓む。「天をお治めになる」すなわち「お亡くなりになった」の意。この句、旧訓にはアメニシラルルとあり、『童蒙抄』はアメヲシラスルとしたが、『万葉考』がアメシラシヌルと改訓してからは、それに従うものが多い。しかし『萬葉集講義』に「されど、『流』一字を『ヌル』ともよむも如何なれば或は『天ヲ知ラセル』とよむにあらざるか」と言うようにヌを読み添えて、「ぬる」の活用語尾を「流」で表記したものと見るのは無理があるように思う。読み添えを考えるなら「天」の下にヲを読み添える方が無理がなく、「流」はルの表記と見れば、意味はアメシラシヌルと訓むのと変わらないので、ここは『萬葉集講義』の訓みを採りアメヲシラセルと訓む。「天(あめ)」は、ヲを補読して「天(あめ)を」と訓む。「所知」は「知らせ」と訓む。「流」はル。この句は、高市皇子が亡くなったことを、天を治めるようになってしまったと表現したものである。「君故尓」は「君故(ゆゑ)に」と訓む。「君」は高市皇子を指す。「故尓」にはユヱニとカラニとの二つの訓みがある。ここはユヱニと訓む。「だから。そのために。したがって」の意。

 結句「日月毛不知 戀渡鴨」「日月(ひつき)も知らに 恋ひわたるかも」と訓む。「日月毛不知」は「日月(ひつき)も知らず」と訓む。現代語流に言えば「月日も知らず」。「日月」は時間上の「月日」の意。人麻呂や憶良らは「日月」とあり、家持などは「月日」とあるので、古くは「日月」と言っていたのが後に「月日」に変わったと考えられる。「毛」はモ。「不知」は「知らず」。二句の「しる」は「治める」の意であったが、ここの「しる」は「わかる。意識する。認識する」の意。「戀渡鴨」は「戀(こ)ひ渡るかも」と訓む。「わたる」は「…しつづける」の意で、「こひわたる」は「恋い慕いながら月日を経る」ことをいう。「鴨」はカモ。

【巻2(201)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。
原文  <埴>安乃 池之堤之 隠沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑
和訳  埴安の 池の堤の 隠り沼(ぬ)の ゆくへを知らに 舎人は惑(まと)ふ
現代文  「埴安の池の堤に囲まれた隠り沼のように行方もわからないので舎人は途方にくれている」。
文意解説
 発句「<埴>安乃 池之堤之 隠沼乃」「埴安の 池の堤の 隠り沼(ぬ)の」と訓む。「埴安乃」は「埴安(はにやす)の」と訓む。「埴安」は、奈良県橿原市の古地名で、藤原宮の東、香具山の麓をいう。そこに高市皇子の御殿があった。「乃」はノ。「池之堤之」は「池の堤(つつみ)の」と訓む。「池」は「くぼ地に水が自然にたまった所。または、地面を掘ったり土手を築いたりして水をためた所」の意で、湖沼より小さいものをいう。ここの二つの「之」はノ。「堤」は「包むものの」意から「湖沼・川・池などの岸に沿って、水があふれないように土を高く築いたもの。土手。堤防」の意となったもの。「埴安の堤」は「埴安乃 堤上尓」という表現で詠われている。「隠沼乃」は「隠(こも)り沼(ぬ)の」と訓む。「堤などで囲まれて水が流れ出ない沼」のこと。「隠(こも)る」は、「囲まれて外界と遮断されている中に入っていること。囲まれた中に入っている、あるいは、包まれていたり、含まれていたりして、外に出ない」ことをいう。これに対して類義語の「かくる」は「物の陰に入って他人・他所から見えなくなる。また。見られないように意図して、物陰に入る、人目につかないように潜む、人目を逃れる」ことをいい、「こもる」とは意が異なる。この句旧訓にカクレヌノとあったのを『萬葉代匠記』がコモリヌノと改訓したもので、「こもる」「かくる」の意味から考えて、正しい改訓と言える。「乃」はノで、「~のように」の意。ここまでが「埴安の池の堤に囲まれて水の流れ行く方のない沼のように」の意で、次の句「去方(ゆくへ)を知らに」を起こす序詞となっている。なお、「池の堤の隠(こも)り沼(ぬ)」と言う言い方は少し奇妙で、池の他に沼が別にあるようにも聞こえるが、この意は「堤につつまれた隠(こも)り沼(ぬ)」ということであり、結局「埴安の池」そのものを「隠(こも)り沼(ぬ)」と言ったものと考えられる。

 結句「去方乎不知 舎人者迷惑」「ゆくへを知らに 舎人は惑(まと)ふ」と訓む。「去方乎不知」は「去方(ゆくへ)を知らに」と訓む。「去」を「ゆく」と訓む例は既出。「去方」は「行方」に同じで、「今後の有様。ゆきつく先。先のなりゆき。将来。前途」の意。「乎」はヲ。「不知」にはシラズとシラニの二通りの訓みかたがあるが、ここはシラニと訓む。「知らないで、知らずに、知らないので」の意となり、次に来る事柄の理由を表す時に用いられる。「舎人者迷惑」は「舎人(とねり)は迷惑(まと)ふ」と訓む。「舎人(とねり)」は、「天皇、皇族などに近侍し、雑事にたずさわった者」をいうが、ここは高市皇子に仕えた舎人を指す。「者」はハ。「迷惑」の「惑」は、「長歌」に「或」(惑の省文)の表記で「まとふ」「まとはす」に宛てられていたが、「迷」の字も当時「まとふ」と訓んだ例が、208番歌「秋山之(あきやまの) 黄葉乎茂(もみちをしげみ) 迷流(まとひぬる)」に見られる。ここでは「迷惑」の二字で以て「まとふ」に宛てたものである。「まとふ」は「考えが定まらずに、思案する。分別に苦しむ。途方に暮れる」ことをいう。





(私論.私見)