万葉集巻2

 (最新見直し2014.03.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、万葉集巻2について確認しておく。第2巻は、85-232まで。85-125、126-189、202-234に分かれる。天皇の時代ごとに分類し、それぞれ年代順に載せている。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)のすぐれた挽歌(ばんか)がある。ここでは「万葉集巻2の1」として「85-125」を採録する。

 原文確認は「万葉仮名で読む万葉集」が良い。「訓読万葉集 巻1 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―」、「万葉集メニュー」、「万葉集」、「万葉集入門」、「河童老の万葉集を読む」その他を参照する。「万葉集メニュー」の万葉集読解9、万葉集読解10、万葉集読解11、万葉集読解12、万葉集読解13、万葉集読解14、万葉集読解15、万葉集読解16、万葉集読解17、万葉集読解18をの解釈をベースに組み立てた。


 2011.8.28日 れんだいこ拝


 難波(なには)の高津の宮に(あめ)の下知ろしめしし天皇(すめらみこと)(みよ)

【巻2(85)。】
 巻2の冒頭歌。 相聞(したしみうた)。
題詞
歴史解説
 磐姫皇后(おほきさき)の作歌。「相聞 / 難波高津宮御宇天皇代 [大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇] / 磐姫皇后思天皇御作歌四首」(磐姫皇后(おほきさき)の天皇を(しぬ)ばしてよみませる御歌四首(よつ))。巻2の冒頭歌。これより巻2が始まるが「相聞」と銘打たれている。巻1は「雑歌」となっている。相聞(そうもん)とは、「個人の情感を交わし合う意で恋情歌が多い」と記され万葉集の部立ての一つとしている。題詞に以下の四首は仁徳天皇の皇后(磐姫)の作歌による旨の記載がある。すなわち、85~88番歌は磐姫(いわのひめ)の作としている。磐姫は古事記では石之日賣命と表記されている。

 磐姫皇后は葛城襲津彦(かづらきそつひこ)の娘で、葛城氏は葛城地方一帯を治めた豪族である。葛城地方とは大和の西の地方にある葛城(かつらぎ)山脈のふもとを云う。磐姫皇后は大和の一族以外から初めて皇后になった女性である。この歌に詠まれている君とは夫の仁徳天皇のことです。この四首は古事記などに出てくる仁徳天皇と磐姫皇后に関する古代歌謡をもとにされて伝承されてきたもので、もともとは短歌の形にさえ洗練されていないものであったが、長い年月をかけて詠い継がれるうちに洗練され歌に詠み換えられて来たと解されている。古事記は次のように記している。磐姫皇后が新嘗祭に必要な「みつながはし」の葉をとりに紀州へ出掛けているときに、仁徳天皇が八田の若郎女という女性を宮廷に入れて寵愛した。それを知った磐姫皇后は激怒し、難波の宮廷には帰らず、舟で川を遡り山城の国の豪族の家に篭ってしまった。仁徳天皇は磐姫皇后の怒りをおさめるために自ら出向き、社殿の外で皇后のために心をおさめる歌を詠った。磐姫皇后の四首の歌は一連の連作は、どれも愛しい人を想う激しい嫉妬を感じさせる歌ばかりである。嫉妬は深い愛情の証として解する必要があろう。磐姫皇后は難波の宮に帰ることなく仁徳天皇を恋焦がれながら亡くなっていく。磐之姫命稜は奈良の平城宮跡の北、国道24号線を北上したところにある。この地に二代綏靖(すいぜい)天皇の高丘宮跡伝承地がある。高丘宮跡伝承地は奈良県葛城市にある九品寺(くほんじ)から一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)へ向かう葛城古道の中間あたりにある。
 巻一は「雑歌」のみであったが、巻二は、前半の「相聞」(85~140)と後半の「挽歌」(141~234)とからなる。まず一行目の「相聞」は140番歌までかかり、二行目の「難波の高津の宮に天の下知らしめしし天皇のみ代 [大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと) 謚(おくりな)して仁徳天皇といふ]」は、90番歌までかかる。そして三行目「磐姫(いはのひめの)皇后(おほきさき)、天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて作らす歌四首」は、85~88番歌までの四首にかかることは言うまでもない。この四首は、夜のはじめから夜中をへて明け方までの時の流れにつれて変化する恋の心情を連作に仕立てたもので、他に例を見ない作品といえる。「磐姫皇后」は、仁徳天皇の皇后で、『日本書紀』に「磐之媛命」、『古事記』に「石之日売命」と記す。父は、竹内宿禰の子葛城襲津彦。履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇の母。気性激しく嫉妬深い皇后として伝えられている。記紀が伝える話については別途機会があれば述べることとしたい。なお、85番歌には、「右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉」の左注があり、この歌が「山上憶良が編纂した『類聚歌林(るいじうかりん)』に載っていたものである」ことを記している。
 「右の一首の歌は、山上憶良臣が類聚歌林に載せたり。古事記に曰く、輕太子、輕大郎女に(タハけぬにその太子、伊豫の湯に流さる。この時、衣通王、恋慕に堪えずして追い徃く時の歌に曰く、0090 君がゆき 日長くなりぬ 山たづの迎へを行かむ 待つには待たじ。これに山多豆と云えるは、今の造木(ミヤツコギ)也。右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と、説とところ同じからず。歌主も亦異れり。()れ日本紀を(カムガ)ふるに曰く、難波高津宮に御宇(アメノシタシロシメ)しし大鷦鷯(オホサザキ)天皇、廿二年春正月、天皇皇后に語り給いて曰く、八田皇女を(メシイ)れて、妃と為さむ。時に皇后聴し給わず。ここに天皇(ミウタ)詠みして、以て皇后に乞わし給う、云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后、紀伊国に遊行(イデマ)して、熊野岬に到り、そこの御綱葉を取リて還り給う。ここに天皇、皇后の在さぬことを伺いて、八田皇女を娶りて、宮の中に納れ給う。時に皇后、難波の(ワタリ)に到リ、天皇の八田皇女を()しつと聞かし給いて、大にこれを恨み給う、云々。亦曰く、遠つ飛鳥宮に御宇しし雄朝嬬稚子宿禰天皇、二十三年春三月甲午朔庚子、木梨輕皇子を太子と為す。容姿佳麗(カホキラキラシ)。見る者自ら()づ。同母妹(イロモ)輕太娘皇女も亦艶妙なり、云々。遂に竊に(タハ)けぬ。乃ち悒懐少し()む。廿四年夏六月、御羮(オモノ)の()りて以て氷を作す。天皇(アヤ)しみ給う。その所由(ユヱ)をと(ウラ)しめ給うに、卜者(マウ)さく、内の乱有らむ、けだし親親相姦か、云々。仍ち大娘皇女を伊豫に移すと云えるは、今案るに、二代に時この歌を見ず」。
原文  君之行 氣長成奴 山多都祢  迎加将行  <待尓>可将待 
和訳
 君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ。
現代文  「あなたが旅立ってから日かずも長く経ってしまいました。山路をたずねて迎えに行こうか。それとも待ちつづけていようかな。(思案しています)」。
文意解説  発句「君之行 氣長成奴 」「君が行き 日長くなりぬ」と訓む。「君」は夫。仁徳天皇を指す。「行き」は「行く」の連用形が名詞化したもの。ここは天皇のお出かけを意味するから「行幸」の意となる。「之」はガ。「氣長成奴」は「け(日)長く成(な)りぬ」と訓む。「氣」はケで、日数の意の「日(け)」を表わすのに用いられている。ケは日(ひ)の複数で、二日以上にわたる場合に用いる。「長」は「長く」と訓む。「成」は「成(な)り」と訓む。「成る」は、「その時刻や時期に達する。その時に至る。また、時が経過する」の意。「奴」はヌ。夫が旅立ってから随分日が経つ。待ち遠しい心情を詠った歌だと知れる。当時の観念では女性は待っているというのが一般的。それを自分から「山を越えて訪ね当てようかしら」というのであるから、その恋情は並大抵ではなかったことが伺われる。 「

 結句「山多都祢 迎加将行  <待尓>可将待」は「山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」と訓む。山多都祢」は「山たづね」と訓む。「多都祢」はタヅネ。「先に行ったものや所在のはっきりしないものを、何かを手がかりに捜し求める」の意。「迎加将行」は「迎へか行(ゆ)かむ」と訓む。「迎」は「迎へ」と訓む。「迎ふ」は、「こちらに向かって来るものに対して、途中まで出かけて待ち受ける」ことを意味する。ここは本来「迎へに」とあるべきところを字余りになるので「に」を省略したものと考えられる。「加」はカ。「将」は「まさに…す」と訓読される字であるが、萬葉集では「将行」も「行(ゆ)かむ」と訓む。「待尓可将待」は「待ちにか待たむ」と訓む。「待」は「待ち」と訓む。「待つ」は「人、時、物事などの到来や働きかけを予期し、期待して、その場にとどまってじっとしている」ことをいう。「尓」はニ。「待ちに待つ」は、ひたすらに待つことを表わす。「可」はカ。「将待」は「待たむ」と訓む。

【巻2(86)。】
題詞
歴史解説
 磐姫皇后(おほきさき)の作歌。。「磐姫皇后思天皇御作歌四首」の二首目である。前歌(85番歌)の続きの歌である。
原文  如此許 戀乍不有者  高山之 磐根四巻手 死奈麻死物呼(乎)
和訳  かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根(いはね)しまきて 死なましものを
現代文  「これほどに恋しくて苦しむのならば、じっと待ってなどいないで、いっそあの高い山の岩を枕にして死んでしまいたい(ほど恋しい)ものを。(でも実際は女の身、こうして死ぬ思いでお待ちしています)」。
文意解説
 発句「如此許 戀乍不有者  高山之」「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の」と訓む。「如此許」は「如此(かく)許(ばか)り」と訓む。「如此」は「コノゴトク」の義でカクに用いたもの。「事態を、話し手が自分の立場から現実的、限定的にとらえて、それを指示する。このように」の意。「許」は「ゆるす」が原義であるが「計」と通じバカリと訓む。「ばかり、ほど」の意を持つ。「ばかり」は、上代では副詞的な要素に下接した「かくばかり」「いかばかり」の形が過半を占め、「おおよそ…ぐらい」の意を表わしており、多く疑問・推量・仮定などの不確実な意味の表現において用いられる。「戀乍不有者」は「戀(こ)ひつつ有(あ)らずは」と訓む。「戀」は「戀(こ)ひ」と訓む。「戀ふ」は、上代では、「時間的、空間的、心理的に離れている物事を慕い、会えずに嘆く気持を表わす」のに用いられる。「乍」はツツ。「~し続けて」の意。「不有」は「有(あ)らず」と訓む。「者」はハ。「有らず」のズは下のハと付いて連語ズバを作る。ズハについて古典基礎語辞典は次のように解説している。
 「打消の助動詞ズの連用形に、係助詞ハを軽く添えたもので歌によく使われる。ズハがくると、その終末部は推量の助動詞マシ・ム・ナム・ベシで終わるものがほとんどである。ズシテに近く、ズハの上の部分が現実の事柄を示し、後半の推量の部分が事実に反する事柄を述べるという構造になっていることが多い。なお、この形については、意味的に、もし…でないならばという意の仮定条件を表わすところから、ズの未然形に接続助詞バが付いたとする説がある。しかし、中世末期までズハと清音である。中世に、ズハを強調するためにズとハの間に撥音ンが入ってバが濁音化し、ズンバの形が生じた。このズンバ・ズバは、現在でも漢文訓読語として用いられている」。「恋ひつつあらずは」は「じっと待ち焦がれてなどいないで」。
 「高山之」は「高山の」と訓む。14番歌1句の「高山」は「かぐやま(香具山)」と訓んだが、ここでは「高山(たかやま)」と訓み文字通り「高い山」の意。「之」はノ。

 結句「磐根四巻手 死奈麻死物呼(乎)」「磐根(いはね)しまきて 死なましものを」と訓む。「磐根四巻手」は「磐根(いはね)しまきて」と訓む。「磐根」は「いはね」と訓み、ネは接尾語で「大きな岩」の意。「磐」一字でも「いはお」と訓んで「大きな岩」の意味をもつ。「いはお」は高くそびえ立つ大きな岩をいい、「いはね」はどっしりと安定した大きな岩をいう。「四」はシ。「巻」はマキと訓む。「枕(ま)く」は「巻く」と同語源で「枕にする。枕にして寝る」の意。同じ意の「まくらく」は66番歌に既出。「手」はテ。「磐根しまきて」は「磐根を枕にして」。磐(いわお)では枕にし辛いが、石ならぴったり。「磐根しまきて」は皇后の名「磐姫」にかけて詠み込まれている匂いがする。「死奈麻死物呼」は「死なまし物(もの)を」と訓む。「死」は「死ぬ」。その未然形「死な」を表わすためナに「奈(ナ)」を用いている。「麻死」はマシ。非現実的な事態についての推量、あるいは、非現実的事態を述べて後悔・希望・意志などの意を表わす助動詞。ここは後者で希望を表わす。「物」は、他の語句を受けて、それを一つの概念として体言化する形式名詞。「呼」はヲ。

【巻2(87)。】
題詞
歴史解説
 磐姫皇后(おほきさき)の作歌。「磐姫皇后思天皇御作歌四首」の三首目である。
原文  在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日
和訳  ありつつも 君をば待たむ うち靡(なび)く 我が黒髪に 霜(しも)の置くまでに
現代文  「じっとこのまま、あなたを待ちませう。私のふさふさの黒髪に霜が降り白髪で真っ白になろうとも」。
文意解説
 発句「在管裳 君乎者将待 打靡」は「ありつつも 君をば待たむ うち靡く」と訓む。「在管裳」は「在(あ)りつつも」と訓む。「このままずっと」の意。「在」はアリと訓む。「管」は「くだ、つつ」を意味するが、ここはツツ。「裳」はモ。「君乎者将待」は「君をば待たむ」と訓む。「君」は夫である仁徳天皇を指す。「乎者」はヲバ。現代語ではほとんど見られず、動作の対象を強調する場合には、「この話はもう止めます」のようにハだけを用いるのが普通である。ただし、方言として残っている地方もある。「将待」は「待たむ」と訓む。「待つ」は、「人、時、物事などの到来や働きかけを予期し、期待して、その場にとどまってじっとしている」ことをいう。「打靡」は「打ち靡(なび)く」と訓む。「草木、髪などがさっと横に伏せる」ことをいう。「打ち」はウチと訓み、下の動詞の意味を強めたり単に語調をととのえたりする。おだやかな動作を表わす語に付いて、「すこし、ちょっと」の意味を加える場合もある。「靡く」は次の「黒髪」にかかる。萬葉集全注には「ウチナビクは、しなやかに靡く意で、草や玉藻などの形容に多く用いる。ここは若い女性の豊かな黒髪をあらわす」とある。面白くて惹かれるのが新編日本古典文学全集の頭注で、「うちなびくーここは女性の垂髪のゆらゆら揺れ動くさまを表す。「天武紀」11年(682年)の条に、男女共結髪せよ、という詔が発せられたが、守られず、四年後の朱鳥元年、再び女子に限って垂髪を許した、とある。その後慶雲2年(705年)に女子も老嫗以外結髪せよと発令された」と記している。
 
 結句「吾黒髪尓 霜乃置萬代日」は「我が黒髪に 霜の置くまでに」と訓む。「吾黒髪尓」は「吾(わ)が黒髪に」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「黒髪」は「色黒くつやのある髪。また、髪の美称」であり、萬葉集には珍しくないが、源氏物語、宇津保物語、枕草子などには見出せない。大和物語には「むばたまの我が黒髪は白川のみづはぐむまでなりにけるかな」とあるが、和歌の例である。和歌の例は他に古今集、後撰集などにもあるが、散文の例を見出せないので「黒髪」は歌語だったと思われる。「尓」はニ。「霜乃置萬代日」は「霜(しも)の置くまでに」と訓む。「霜」は「霜ふり」として既出。「乃」はノ。「置」は「置く」と訓み、「露や霜が生じて、ある場所を占める。また、雪などが降って地にたまる」ことをいう。「霜」の語に下接する動詞には、「ふる(降)」と「おく(置)」があり、万葉集にはともに見られる。一方、中国では、一年間を二十四節気に分けるが、その一つに、「霜降」がある。この「霜降」を訓読したものが「霜降る」と考えられるが、これは上代から現在まで歌に用いられている。これに対し、「霜置く」は日本古来の言い方である。「萬代日」はマデニ。「日」の仮名使用は萬葉集にこの一例しかない。「までに」は、副助詞マデに二が付いた形。時間・程度などの至りつく点を示す。「霜の置くまでに」は、「夜が更けて髪に霜の置くまでも」と一夜のことをいうが、四首連作中の一首としてみるならば、霜を白髪の比喩として、黒髪が白くなるまで、と解する方が良いと思われる。霜を白髪に例える例は、中国文学の霜鬟(そうかん)・霜髪(そうはつ)・霜蓬(そうほう)などに見られる。

【巻2(88)。】
題詞
歴史解説
 磐姫皇后(おほきさき)の作作とされている。「或ル(マキ)ノ歌ニ曰ク、右ノ一首ハ、古歌集ノ中ニ出デタリ」。「磐姫皇后思天皇御作歌四首」の最後、四首目である。
原文  秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息
和訳  秋の田の 穂の上に霧(き)らふ 朝霞 何時邊(いつへ)の方に 我が恋ひ息(や)まむ
現代文  「秋の田の稲穂の上にかかる朝霞。(その霞はいつか消えていきます) 私の晴れないこの思いの恋はどこへ消えていくのでせう。(容易なことでは消えませんわ)」。 
文意解説
 発句「秋田之 穂上尓霧相 朝霞」「秋の田の 穂の上に霧(き)らふ 朝霞」と訓む。「秋田之」は間にノを補読して「秋の田の」と訓む。秋、稲が実っている田をいう。「之」はノ。「秋の田の」は後に枕詞として使われるようになるが、ここは実景の描写。なお、枕詞としてのかかり方としては次の三つがある。①「穂」のホにかかる。②「稲」の「去(い)ね」にかかる。③刈り取るところから「かりそめ」にかかる。「穂上尓霧相」は「穂(ほ)の上に霧(き)らふ」と訓む。「穂上」は「ほのへ」と訓む注釈書もあるが、「穂(ほ)の上(うへ)」と訓む。実際に朗詠される時は、「ほのへ」と聞こえたるが、訓みとしては「うへ」とする。「ほのへ」だと「穂の辺り」の意となってしまう。ここは「穂の上」の意でなければならない。「尓」はニ。「霧相」は、「霧(き)らふ」と訓む(この形は36番歌に「花散相」として既出)。フはアフ(合ふ)から生まれたもので、同じくアフと訓む「相」の字を宛てたものである。「霧(き)らふ」は、霧が次から次に立ちこめてくることをいう。「朝霞」は「朝霞(あさかすみ)」と訓む。「霞」は「霞立つ」として既出。「朝霞」は「朝霧」というのにほぼ等しい。朝方に立ちこめる霧が霞んで見える様子をいう。万葉集では、後世のように霞が春、霧が秋のものと季節的に固定するほど明確に区別しては捉えていなかった。

 結句「何時邊乃方二 我戀将息」「何時邊(いつへ)の方に 我が恋ひ息(や)まむ」と訓む。「何時邊乃方二」は「何時邊(いつへ)の方(かた)に」と訓む。「何時」は「いつ」と訓み、未来および過去の事柄について、その事のある、または、あった時点に関する疑問を表わす不定称代名詞。「邊」は「辺」の旧字で「へ」と訓み、場所の「あたり」を意味する。「乃」はノ。「方」は「かた」と訓み、方向を示す語。「二」はニ。「何時邊(いつへ)の方(かた)に」をどのように解して良いかがむずかしい。賀茂真淵『萬葉考』はこれをイヅベノカタニと訓んで、「何れの方」と方角の意で解しているが、契沖『万葉代匠記』は「イツ邊ノ方ニ」とし、「邊ノ方トハ、渺々ト見エ渡ル田ノ、其カタハラナリ」と解し、「霞ハ、カタヘニ晴行コトモアルヲ、イツカ、我モソノゴトク、胸ノ晴テ戀ノ止ンゾトナリ」と釈している。即ち「何時」はその文字通り時間に、「邊乃方」は場所方向に解いたのである、また野中晴水「『何時邊乃方』考」は、「邊」をユフベ・ハルベのベと同じく時を表わす名詞と考え、「方」も「明け方」「夕方」のように時を表わす例があるので、イツヘノカタで何時ごろという意を表わすとした。以上三説のいずれが正しいか判断はむずかしい。一句全体を場所的に解釈するのも逆に一句全体を時間的に解釈するのもやはり違うのではないかと思う。では『万葉代匠記』の説かというとこれにも全面的に賛成というわけにはいかない。そこで、ここの「何」はその下の「時」と「邊」の両方にかかっていると考え、「何時(いつ)」であり「何邊(いづへ)」でもある「何時邊(いつへ)」とみて「いついづこへ」という意に解したいのだが如何であろうか。「乃方二」の格助詞二を表わすのに数字の二を用いているのは、「何時乃方」と「何邊乃方」の二つを表わしている事を示したものではないだろうか。岩波大系本や中西本は「どちらの方向」の意に解している。これに対し伊藤本は「いつになったら」の意に解している。「我戀将息」は「我が戀(こひ)息(や)まむ」と訓む。「我戀」は「我が戀(こひ)」。前の三首で詠んできた時の流れに変化する恋の心情をさす。「将息」は「息(や)まむ」と訓む。動作や状態の存在しなくなることをいう。「何時邊の方に我が戀息まむ」は、「(はげしい)我が恋の思いは何時どのように終息するのだろうか」の意となろう。

【巻2(89)。】
題詞
歴史解説
 「磐姫皇后思天皇御作歌四首」の三首目の87番歌の類歌である。「或る本歌曰く」。左注には「右一首古歌集中出」とあり、「或る本」というのが「古歌集」であると言っていることになる。「古歌集」という名は、巻七、九、十一などにも見え、これを一つの定まった歌集と見る説もあるが、わからない。87番歌は、この古歌をもとにして詠われたものと考えられる。これは直前の88番歌の異伝歌に見えるがそうではない。85~88番歌すべてを念頭に置いた上での題詞であることが歌意を考えれば明らかである。
原文  居明而 君乎者将待 奴婆珠<能> 吾黒髪尓 霜者零騰文
和訳  居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも
現代文  「朝まで寝ないで、このままずっとお待ちします。私の黒髪にたとえ夜の霜が降りて白髪になりませうとも」。
文意解説
 発句「居明而 君乎者将待 奴婆珠<能>」「居明かして 君をば待たむ ぬばたまの」と訓む。「居明而」は「居(ゐ)明かして」と訓む。「居明」は「居(ゐ)明かし」と訓む。「居明かす」は「起きたまま夜を明かす。夜が明けるまで寝ないで座り続ける」の意。「而」はテ。「君乎者将待」は「君をば待たむ」と訓む。87番歌の「君」は夫である仁徳天皇を指したが、この古歌では詠み手である女性の敬愛する男性をいう。「乎者」はヲバ。「将待」は「待たむ」と訓む。「奴婆珠能」は「ぬば珠(たま)の」と訓む。ここでは次句の「黒髪」にかかる枕詞。

 結句「吾黒髪尓 霜者零騰文」「我が黒髪に 霜は降るとも」と訓む。「吾黒髪尓」は「吾が黒髪に」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「黒髪」は「色黒くつやのある髪。また、髪の美称」。「尓」はニ。「霜者零騰文」は「霜(しも)は零(ふ)るとも」と訓む。「霜」は、秋の末から冬にかけて寒い朝、地上や地上の物体を一面におおって白くみせる氷のこまかい結晶をいい、下接する動詞には、「ふる(降)」と「おく(置)」があり、万葉集にはともに見られる。「者」はハ。「零」は「零(ふ)る」と訓む。「騰文」はトモ。この句の訓みについては、「霜(しも)は零(ふ)れども」とする説もある。「零(ふ)れ」+ドモがついた形と見るもので意味が変わってくる。ここは、「たとえ霜が降ったとしても」の意で、トモを「待たむ」の意味を強めたものと見ることとする。

【巻2(90)。】
題詞
歴史解説
 軽大郎女(かるのいらつめ)作歌。「古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王 不堪戀慕而追徃時歌曰」。(「古事記が伝えるには、軽太子は、(同母妹の)軽太郎女と不倫の関係を持った。そこで、軽太子を伊予国の(道後)温泉に流罪とした。この時、衣通王(=軽太郎女)が軽太子を恋い慕う気持ちを抑えきれず追って行く時にうたっていうには、」。これは『古事記』の允恭記を引用したものであるが、原文のままの引用ではない。『古事記』には「天皇崩之後、定木梨之軽太子、所知日継、未即位之間、奸其伊呂妹軽大郎女而歌曰」に続く78番の歌謡ではじまる物語が一連の歌謡を交えながら語られている。軽太子は允恭天皇の御子、皇太子に定まっていたのであるが、未だ即位しない間に同母妹の軽大郎女(諸本に「太」とあるが、『古事記』に「大」とあるのによるべきであろう)とみだらな関係を持ったため、人心は軽太子から離れ、同母弟の穴穂御子(後の安康天皇)を擁立する動きとなった。結局軽太子は捕えられて伊予国に流されることになる。流されることになった時に軽太子がうたった歌謡が85・86番とあり、その後に「其衣通王献歌。其歌曰」として87番の歌謡がある。「衣通王」は、軽大郎女の美しさをほめる通称。これに「故、後亦不堪恋慕而、追往時、歌曰、」として、当該90番歌に相当する88番の歌謡が続いている。

 この歌は仁徳天皇の皇后磐姫の作とされる85番歌と表現や心情がうり二つである。そしてこちらの歌は題詞に軽大郎女(かるのいらつめ)作とし、古事記に記載があるとしている。実際、古事記の允恭天皇記にこの歌が出ている。また、本歌の左注にも詳細な説明が施されている。簡略に記すと、軽太子(かるのひつぎのみこ)と軽大郎女は同母の兄妹だったが、密通の仲になったため軽太子は伊予(四国)に流される。その太子の後を追った軽大郎女が詠ったのが本歌だという。こうなると、85番歌や本歌は磐姫皇后の歌か軽大郎女か不明ということになる。

 古事記88番の歌謡の原文は次の通りで、一字一音の仮名書き。「岐美賀由岐(きみがゆき) 気那賀久那理奴(けなかくなりぬ) 夜麻多豆能(やまたづの) 牟加閉袁由加牟(むかへをゆかむ) 麻都爾波麻多士(まつにはまたじ)」。そして二行の分かち書きで「此云山多豆者、/ 是今造木者也」と注がつけられている。この古事記88番歌謡を訓字主体表記に書改めたものが当該90番歌であることは疑いない。というのは萬葉集にも二行の分かち書きの注がそっくりそのまま記載されているからである。そして本歌は、「磐姫皇后思天皇御作歌四首」の一首目の85番歌の原歌で、編者が参考までに引用したものであるから、萬葉集の歌の数からは除くべきとの説もあるが、今は取り敢えず90番歌として訓む。 
原文  君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待
和訳  君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
現代文  「あの方がお出かけになって 日数が長く経った。山たづの葉が向かい合うように迎えに行こう。待っていることはすまい」。 
文意解説  発句「君之行 氣長久成奴 山多豆乃」「君が行き 日長くなりぬ 山たづの」と訓む。「君之行」は「君が行(ゆ)き」と訓む。ここの「君」は軽太子を指す。「岐美」→「君」、「由岐」→「行」と訓字表記に改め、ガの表記は「賀」を「之」に改めている。「氣長久成奴」は「け(日)長く成りぬ」と訓む。85番歌の「氣長成奴」に対して、「長く」を「長久」と表わしている。「山多豆乃」は「山たづの」と訓む。「夜麻多豆能」の「夜麻」→「山」、「能」→「乃」に書改めている。「能」はノ。「山たづ」については、古事記の注をそのまま付けて、「造木(みやつこぎ)」のことであると記している。「造木(みやつこぎ)」は、植物「にわとこ(接骨木)」の古名で、現在のニワトコのことだという。「山たづの」は、接骨木(にわとこ)の葉が向かい合って生えているところから、「むかふ」にかかる枕詞。85番歌には「山尋ね」とあり、ここも「山尋ね」ではなかろうか。すくなくともそう解するのがすなおだと思う。

 結句「迎乎将徃 待尓者不待」「迎へを行かむ 待つには待たじ」と訓む。「迎乎将徃」は「迎へを徃(ゆ)かむ」と訓む。「乎」はヲ。「将徃」は「徃(ゆ)かむ」と訓む。「待尓者不待」は「待つには待たじ」と訓む。原文の「麻都」→「待」、「爾波」→「尓者」、「麻多士」→「不待」に書き改めている。「不待」は「待たじ」を表わす。「爾波」→「尓者」の書改めについて。「尓」は「爾」の俗字で通俗的文字に代えたもの。「波」→「者」に代えている。

 近江の大津の宮に天の下知ろしめしし天皇の代(みよ)

【巻2(91)。】
題詞
歴史解説
 天智天皇の作歌。「近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇 謚曰天智天皇] / 天皇賜鏡王女御歌一首(天智天皇の鏡女王(かがみのおほきみ)に賜へる御歌(おほみうた)一首)」。天智天皇の御代の歌は、この91番歌~102番歌までとなる。本歌は天智天皇が鏡王女に賜った御歌である。鏡王女は、藤原鎌足の正室であるが、正室になったのは鎌足の晩年になってからのようで、鎌足の間に子はない。また父母共に不明で、古く、鏡王を父とする額田王と姉妹とする説があったが、鏡王女の墓が舒明天皇の陵域内にあることから、今は、姉妹説は支持されることが少なく、舒明天皇と血縁関係にある人物とみられている。
原文  妹之家毛  継而見麻思乎  山跡有  大嶋嶺尓  家母有猿尾 [一云 妹之當継而毛見武尓] [一云 家居麻之乎]
和訳  妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを [一云 妹があたり継ぎても見むに] [一云 家居らましを]
 妹が あたり継ぎても見むに 大和なる 大島の()に 家()らましを
現代文  「愛しい人の家をずっと見続ける為に、いっそ私の家が君の家を望見出来る大島の嶺にあったならと思うよ。 [あるいは、あなたのいるあたりを続けて見たいのに] [あるいは、私の家があって住まうことができればよいのに]」。 
文意解説
 発句「妹之家毛  継而見麻思乎  山跡有」「妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる」と訓む。「妹之家毛」は「妹が家も」と訓む。「妹」は、ここでは鏡王女を指す。「之」はガ。「家」は人々が寝起きして生活を営んでいるところ。「毛」はモ。「妹が家も」は「鏡王女の家も」の意。「継而見麻思乎」は「継(つ)ぎて見ましを」と訓む。「継」は「継ぎ」と訓む。「而」はテ。「継ぎて」は「ずっと」で、すなわち「いつでも」の意。「見」は「見(み)」。「麻思乎」はマシヲ。非現実的なことを述べて後悔や希望・意志などを表わすのに用いられる。「実際には見えない家を続けてみられたら良いのに」という歌倒置的表現である。異伝 [一云 妹之當継而毛見武尓] は「妹(いも)があたりを継ぎても見むに」と訓む。本文の「妹が家」を「妹があたり」と漠然と言い、「見ましを」を「見むに」と歌い変えたもの。「山跡有」は「やまと(大和)なる」と訓む。「山跡」は地名「大和」の表記に用いたもの。「跡」はト。「有」は「なる」と訓む。

 結句「嶋嶺尓  家母有猿尾」「大島の()に 家()らましを」と訓む。「大嶋嶺尓」は「大嶋の嶺(ね)に」と訓む。「大嶋」はノを補読して「大嶋の」と訓む。「嶋」は「島」の異体字。「島」は海鳥の住む岩島をいう。「嶺」は山の頂上のとがった所をいう。「大嶋の嶺」は奈良県生駒郡と大阪府中河内郡との境の山と思われる。高安山か信貴山か。「尓」はニ。「家母有猿尾」は「家も有(あ)らましを」と訓む。「母」はモ。「有」は「有(あ)ら」と訓む。「猿尾」はマシヲと訓む。「猿」が反実仮想の助動詞マシの借訓字として用いられている。その「猿」の連想からヲに「尾」の文字を用いて戯書風な表記にしたものと考えられる。「家も有らましを」は、「鏡王女の家もあったら良いものを」の意。ここの家を作者(天智)の家とする説もあるが、鏡王女の家とする方が素直であろう。異伝[一云 家居麻之乎] は「家居(を)らましを」と訓む。「家居る」の主語は二句の「見む」の主語と同じく作者(天智)となる。従って、この家は作者の家ということになり本文の歌とは意味が大きく違うこととなる。

【巻2(92)。】
題詞
歴史解説
 鏡王女の作歌。「鏡王女奉和御歌一首」(鏡女王の(こた)(まつ)れる歌一首)。天智天皇の91番歌に鏡王女が応えた歌である。
原文  秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者
和訳  秋山の 樹()の下(がく)り 行く水の ()こそ(まさ)らめ 御思ほさむよは
 秋山の 樹の下隠り 行く水の 我れこそ益さめ 思ひよりは
現代文  「秋山の木の下を行く水は表からは見えませんが、私のあなたへの思いも見えなくてももっと深いものです」。
文意解説
 「『万葉集』を訓(よ)む(その153)」参照。「秋山の樹の下隠り行く水の」までの3句は自分の思いを水にたとえている。

 発句「秋山之 樹下隠 逝水乃」「秋山の 樹()の下(がく)り 行く水の」と訓む。「秋山之」は「秋山の」と訓む。「秋山」は秋季の山をいい、萬葉集では「秋山」を詠んだ歌は17首あり、「春山」を詠んだ歌9首より多い。「之」はノ。「樹下隠」は「樹(こ)の下(した)隠(かく)り」と訓む。「樹下」は、間にノを補読して「樹(こ)の下」と訓む。「樹」は「木」と同じくキであるが、キが母音交替をしてコとなったもので、「木立」を「こだち」と訓むのと同じ。「隠」は「隠(かく)り」と訓む。「隠る」の意味・用法は、現代語「隠れる」との隔たりを見いだすことができず、この語が日本語の中でも、きわめて基礎的な語であることを示している。「逝水乃」は「逝(ゆ)く水の」と訓む。「逝」は「逝(ゆ)く」と訓む。「逝」の字は「ゆく、さる」が本義であるが、のちに「しぬ、みまかる」の意にも用いるようになった。ここにはその意はなく、「行く」と同じ意。「ゆく水の」は、水の流れるさまから「過(す)ぐ」および「留(とど)めかぬ」にかかる枕詞として使われることもあるが、ここはもともとの意。天智天皇に対する鏡王女のひそやかな思いを比喩する序詞であるが、この序詞について、澤瀉『萬葉集注釋』がそのことに触れているので次に引用しておく。
 「この三句は下の句にかかる譬喩的な序である。序といふものはその序をうける言葉を直接修飾するはずのもので、従つてこの序は、下の「吾こそ増さめ」といふ「増す」といふ言葉の譬喩として、夏かれの時も過ぎて、秋の深みゆくまゝに、ゆく水の水量のまさるやうにーといふ風にかかつてゐる事になる。しかしまた「木の下隠り」といふ言葉も、我がひそやかな思ひの譬喩となつてゐる事も認めてよい。但、「木の葉に埋もれて」といふ風にこまかく冩實的に釋しては云ひすぎで、前の歌の「大島の嶺」をうけて、「秋山」の木の下を見えがくれに流れてゆく水を思ひやりつゝ序としたと見るべきである」。

 結句「吾許曽益目 御念従者」()こそ(まさ)らめ 御思ほさむよは」と訓む。「吾許曽益目」は「吾(われ)こそ益(ま)さめ」と訓む。「吾」は「わ」と訓む例が多いが「われ」と訓む例もある。ここは、「吾(われ)」と訓み、「わが思い」の意。「許曽」はコソ。「吾(われ)こそ」と訓んだ例として1番歌がある。「益」はマサと訓む。「益[増]す」には、「数量・程度などが多くなる。増加する」の意の他に、「いっそうすぐれる。まさる」の比較の意でも用いられ、ここは後者の意。「目」はメ。「御念従者」は「念(おも)ほすよりは」と訓む。「御念」(77番歌に既出)は「念(おも)ほす」と訓む。「念ほす」は「念ふ」にスを付けた敬語表現。この「念ほす」の主語は言うまでもなく、天智天皇である。「従」は「より。… から」の意で使われる。「者」はハ。

【巻2(93)。】
題詞
歴史解説
 鏡王女の作歌。「内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首」(「内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原の(まへつきみ)の、鏡女王を(つまど)ひたまふ時、鏡女王の内大臣に贈りたまへる歌一首」)。「娉」は、「とう。めとる」が字義で、ここは「つまどふ」または「よばふ」と訓まれて、「求婚する」の意。

 鏡王女の情事の相手は藤原鎌足。もしも鏡王女が額田王と同じ女性だとしたら、彼女は天武天皇とも恋情を交わすので恋多き女性となる。相手が天智天皇、藤原鎌足、天武天皇という史上最も華々しい役割を演じた有名人物たちである。歴史の教科書には必ず登場する大化の改新、壬申の乱の主役たちである。
原文  玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜<裳>
和訳  玉くしげ 覆(おほ)ふを安み 明けていなば 君が名はあれど 吾が名し惜しも
現代文  「玉くしげ 蓋を開けるのは簡単なように(噂はすぐに立ちます) 夜が明けてから帰られたら(宜しいですのに)。あなた様は殿方だから浮き名が流れても差し支えないのでしょうが、女の身である私は困ります」。
文意解説  発句「玉匣 覆乎安美 開而行者」「玉くしげ 覆ふを安み 明けていなば」と訓む。「玉匣」は「玉匣(たまくしげ)」と訓む。「たまくしげ」は枕詞。この歌の場合は「化粧箱(玉くしげ)の蓋を閉めて安心したら(ほっとしたら)」と取り、なのに、「開けて(明けて)去っていらっしゃった」ととれば情事の光景にぴったりである。つまり枕詞に解する必要はどこにもない。古代に限らず、いつの世も情事の後は人に見られぬように夜の明けないうちにそそくさと立ち去るのが男のたしなみなのだろう。「玉匣」は「玉櫛笥」とも書き、「たま」は美称で美しいくしげ。「くしげ」は、櫛や化粧の道具を入れておく箱をいう。「たまくしげ」は枕詞として使われ、多くの言葉にかかる。ここもくしげの蓋をする意で「おほふ」にかかる枕詞とする説があるが、ここでは実質的な意味を持つように思われる。参考までに「たまくしげ」の枕詞の用法についてみておこう。まず、くしげを開く意で、「ひらく」「あく」にかかる。また「あく」の「あ」と同音を含む地名「あしき」にかかる。次に、くしげの蓋の意で、「ふた」と同音を含む語にかかる。地名「二上山、二見、二村山」など。また「二年(ふたとせ)、二尋(ふたひろ)、二つ」などにもかかる。更に、くしげの身の意で、「身」と同音を含む「三諸(みもろ)、三室戸(みむろと)、恨み」にかかる。一説に、くしげを開けて見る意で、「見」と同音を含む語にかかるともいう。その他にもまだある。「覆乎安美」は「覆(おほ)ふを安(やす)み」と訓む。「覆」は「覆(おほ)ふ」と訓み、ここは玉匣の蓋をすることをいう。「乎」はヲ。「安」は「安(やす)」。「美」はミ。玉匣の蓋をするのはやさしいので、の意となる。そしてこの句までが「明けて」をおこす序詞。玉匣の蓋を開ける意のアケテと、夜が明けてという意味のアケテを掛詞として次句に続く。真淵『萬葉考』に「匣の蓋は、覆ふをもやすしとて開るとつゞけたり、さて夜の明ることにいひかけたる序のみ」とある。これに対し、澤瀉『萬葉集注釋』は、次のように述べる。
 「明ける」とつゞける為に「覆ふをもやすし」といふ事は無用なことであつて、「玉くしげ」から直接つゞけばよいわけである。それでこの「おほふ」は事實二人の仲をおほひかくす意である。當時権勢世に並ぶ者のない鎌足の事であるから人目を憚らぬ振舞にも出かねない。それを作者は案ずるのである。
 大変面白い見解ではあるが、「おほふ」を男女の仲を隠すというような抽象的意味に用いた例は萬葉集には他に見られず、やはり序詞としてみる説に従うこととする。「開而行者」は「開(あ)けて行(い)なば」と訓む。「開」は「開(あ)け」と訓む。「而」はテ。「行」は「行(い)な」と訓む。「者」はバ。「行者」は普通ユカバと訓まれるが、アケテユカバでは単独母音節を中間に含まない六音句となって字余りの原則にかなわないことから、萬葉集注釋がアケテイナバに改めたのに従う。ユクよりもイヌの方が或る場所を離れ去る意味が強い。

 結句「君名者雖有 吾名之惜<裳>」「君が名はあれど 吾が名し惜しも」と訓む。「君名者雖有」は「君が名は有(あ)れど」と訓む。「君名」は、間にガを補読して「君が名」と訓む。「者」はハ。「雖有」は「有(あ)れど」と訓み、単純にアルケレドモの意には訳しがたい例で、日本古典文学大系の補注に「アレド、またはアレドモだけで、成句的にトモカクモという意味になる場合がある」としているのが正しい。「吾名之惜裳」は「吾(わ)が名し惜しも」と訓む。「吾名」はガを補読して「吾(わ)が名」と訓む。ここの「之」はシ。「惜」は「惜し」。「裳」はモ。

【巻2(94)。】
題詞
歴史解説
 藤原鎌足の作歌。「内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首(内大臣藤原の卿(藤原鎌足)の、鏡女王に報贈(こたへ)たまへる歌一首)」。鏡王女の93番歌に応えて詠じた藤原鎌足の歌である。
原文  玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者 遂尓有勝麻之<自>  [玉匣 三室戸山乃]
和訳  玉くしげ 三室(みむろ)の山の さな葛(かづら) さ寝ずは 遂にありかつましじ
 玉くしげ 三室(みむろ)の山の さな(かづら) さ寝ずは 有りかてましも
現代文  「玉くしげ。ミモロの山のさなかずら。あなたと共寝をしないで帰るなんてことができましょうか。(とても堪えられません)」。
文意解説  発句「玉匣 将見圓山乃 狭名葛」「玉くしげ 三室(みむろ)の山の さな(かづら)と訓む。「玉匣」は「玉匣(たまくしげ)」と訓む。「みもろ」にかかる枕詞。鏡王女歌を受けての初句と解したい。「将見圓山乃」は「みもろの山の」と訓む。「将見圓山」は旧訓「ミムマト山」であったが、荷田信名の萬葉集童蒙抄が「ミムロノ山」と改訓し、更に山田孝雄の萬葉集講義が「ミモロノ山」と改めた。その理由を「『将見圓』は字のままによめば、『ミムマロ』といふべきに、これをここに用ゐたるは、『ミモロ』の『モ』は『ム』にもあらず、『マ』にもあらず、いづれにもつかぬ中間音の『モ』なりしが故にわざとかかる書きざまをなしたりしなるべし」と述べている。訓みとしては「将見」は「みむ」、「圓」は「まと」であるので、旧訓のミムマトヤマが正しいように思うが、そういう名の山は見当たらないし、異伝にも「或本歌曰 玉匣 三室戸山乃」(「或る本の歌に曰く、 玉匣(たまくしげ) 三室戸山(みむろとやま)の」 とあるので、ここは「三室の山」すなわち「三輪山」のこととしておく。「乃」はノ。「狭名葛」は「さな葛(かづら)」と訓む。「狭名」はサナ。「さな葛」は植物「さねかづら(真葛)」と同じでモクレン科のつる性常緑木。そのつるが伸びて、一時はわかれても、またからみ合うところから「のちに逢う」にかかる、あるいは、そのつるがどこまでも長く伸びるところから「遠長し」、「絶えず」などにかかる枕詞として用いられる。ここの例では、「さねかづら」と類音を持つ「さ寐(ね)」にかかる序詞の一部として用いられている。すなわち次句の「さ寐(ね)ず」をおこす序詞となっている。「狭名」は「狭根」の誤記とする説もある。「さね葛」の例は長歌だが、207番歌に「~さね葛 後も逢はむと~」とある。「さねかずら」なら「さ寝ず」にすんなり符合するが「さな」となると意味不明だとする。「狭名は狭根の誤記、あるいは両者とも読みはサネとも考えられる」としている。

 結句「佐不寐者 遂尓有勝麻之<自>」「さ寝ずは 有りかてましも」と訓む。「共寝をしないで帰るなんてことができましょうか」と解する。「佐不寐者遂尓」は「さ寐(ね)ずは遂に」と訓む。「佐」はサ。「不寐」は「寐(ね)ず」と訓む。「者」はハ。「さ寐(ね)ずは」は「寝ないでは」の意であるが、ここでは「共寝しないでは」と解する。「遂尓」は「遂に」と訓み、「おしまいに、結局は」などの意。「有勝麻之自」は「有(あ)りかつましじ」と訓む。「有」は「有(あ)り」と訓む。「勝」はカツ。動詞の連用形に付いて「…するに耐える、…することができる」の意を表わす。これに打消の意志・推量を表わす助動詞マシジが接続する。ここも「かつ」と終止形なので、橋本進吉が、下の「麻之自」をマシジと改訂したことは十分うなづける。「麻之自」はマシジ。「ましじ」について、古典基礎語辞典の解説を見ておく。
 「上代語。語源的には反実仮想の助動詞マシに、打消推量の助動詞ジが付いたという考え方がある。ただ、マシは未然形に接続するが、マシジは終止形に接続するから、反実仮想のマシにジが加わったのではなく、マシジ全体で否定推量を表すので、推量の助動詞ラム・ラシが終止形を受けるように、終止形で文をいったん終わりにして、その下にマシジと否定推量を加えるのであろう。なお、ラ変型の動詞の場合は連体形に付く。中古に入ると、マジに転じ、それが後世まで使われるようになる」。

【巻2(95)。】
題詞
歴史解説
 内大臣・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)卿の作歌。「内大臣藤原の卿(藤原鎌足)の釆女(うねべ)安見児(やすみこ)()たる時よみたまへる歌一首」。 この歌は内大臣が采女安見児を妻にしたときに詠んだ一首である。安見児(やすみこ)は采女(女官)の一人であり、人が皆うらやむほどの女性(美人ないし才色兼備?)だった。その女性を得ることができた「ああこの私が」と詠っている。「得かてに」は原文にあるとおり「(得難尓)得難い」である。 今回は、第95番歌を訓む。題詞に「内大臣藤原卿娶釆女安見兒時作歌一首」とある。「内大臣藤原卿」は藤原鎌足。「娶」は「まきし」あるいは「めとりし」と訓み「妻として迎えた」との意。「采女」は天皇の御膳の事その他に奉仕する宮中の女官で、容姿端麗であることが選定条件であった。「安見兒」はその采女の名。采女は原則として終身の職であり、采女を妻として迎える事などは普通あり得ないが、それを鎌足は賜ったので、その時に喜びのあまりに詠んだ歌である。

 藤原鎌足ははじめ中臣鎌子(なかとみのかまこ)といって、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を討ち取り大化の改新を行った中心人物である。以降、権勢を得、天智天皇(中大兄皇子)から采女安見児を妻とすることが許された。この藤原鎌足を祖として、子の藤原不比等など藤原一族は新興貴族として政治の主導権を握り、大和朝廷と日本の歴史を大きく動かしていくことになる。和多武峰談山神社(やまととうのみねたんだんじんじゃ)に藤原鎌足像がある。この鎌足像が破裂し、談山神社の裏にある御破裂山が雷鳴するとき天下に災いが起こると云われている。
原文  吾者毛也 安見兒得有 皆人乃 得難尓為云 安見兒衣多利
和訳  われはもや 安見児(やすみこ)得たり 皆人の 得(え)難(がて)に為(す)と云(い)ふ 安見児得たり
現代文  「わたしは安見児を手に入れることができたよ。宮廷の人々が皆望んでも決して手に入れることの叶わなかった安見児をわがものとしたよ」。
文意解説
 発句「吾者毛也 安見兒得有 皆人乃」「われはもや 安見児得たり 皆人の」と訓む。「吾者毛也」は「吾(われ)はもや」と訓む。古事記の歌謡に「阿波母与(あはもよ) 賣尓斯阿礼婆(めにしあれば)」の例があることから、ここを「吾(あ)はもや」と訓む説もあるが、強いて四音に訓む必要はなく、「吾」は「われ」と訓む。「者」はハ。「毛也」はモヤ。モヤは1番歌の「籠もよ」の「もよ」と同じ。後の「皆人」に対し、「吾は」を強調する働きをしている。「安見兒得有」は「安見兒(やすみこ)得たり」と訓む。「安見兒」は采女の名。「得」は「得(え)」と訓む。「有」は完了の助動詞タりを表わすのに用いている。タりは、テアリが約まってできた語であることから「有」の字が宛てられたもの。「安見兒得たり」は、采女の安見兒を我がものにした、の意。「皆人乃」は「皆(みな)人の」と訓む。「皆人」は「みなひと」と訓み、「その場にいる人、全員」の意。万葉集では、特定の集団に属する全ての人をさす場合にミナヒトと言い、不特定多数の人々を広くさす場合にはヒトミナと言って区別していたとする説もある。「乃」はノ。

 結句「得難尓為云 安見兒衣多利」得かてにすとふ 安見児得たりと訓む。「得難尓為云」は「得(え)難(がて)に為(す)と云ふ」と訓む。「得」は先述。「難尓」で「がてに」と訓む。「為」は「為(す)」。「云」は「云ふ」で、前にトを補読して「と云ふ」と訓む。「難尓」を「がてに」と訓むことについては、日本古典文学大系の四八五番歌の補注に「かてに」と「がてに」について詳しく述べており、興味深い内容なので、それを引用して説明に代える。
 カテニは普通、耐える意のカツ(下二段活用)の未然形に、否定のズの古形ニが接続して成立した語と説かれている。語源的な説明としてはそれで正しいものと考えられるが、注意すべきことは、奈良時代の人々が、一般に果たしてそのような意識、つまり、ニは否定のズの連用形なのだという意識をもっていたかどうかということである。否定のズとかヌとかは、万葉集の訓仮名表記の部分では(字音仮名ばかりで書いてあるところは別として)不、莫の文字で書くのが通例で、不や莫を用いないのは、願望のヌカ、ヌカモの場合である。これは、ヌカ、ヌカモという助詞全体で一語と意識されていて、それを語源にさかのぼって、否定のズの連体形ヌにカモの接続した形という意識が無かった結果、不や莫をその部分にあてなかったものと考えられる。それと同様のことが、カテニの場合にも起こっている。すなわち、行過勝尓(ユキスギカテニ)(二五三)、待勝尓(マチカテニ)(一六八四)というような例があるのは、ニが否定のズの連用形であることを忘れた(あるいは知らない)表記と見られるのである。さらに、表意的な文字として勝の他に、難が用いられている。得難尓為(エガテニス)(九五)、待難尓為(マチガテニスレ)(六二九)などの例がそれである。難尓という表記は、カタシという形容詞の語幹カタに助詞ニがついたもので、一種の混淆(コンタミネーション)の結果である。これを何と訓んだかについては、恐らくガテニと訓んだのではないか。「君待ち我弖尓(ガテニ)」(八五九・三四七〇)の二例の存在が、その証となる。つまりカテニという言葉は、元来はカツの未然形にズの連用形がついて成立したが、奈良時代ではその語源意識は失われカテニはガテニに移行しつつあり、ガテニで一まとまりとして意識されていた。その意識の形成は、否定のニの一般的衰退、「難し」という意味・語形の類似する語の存在という事情が密接な関係をもっていたということである。

 「安見兒衣多利」は「安見兒(やすみこ)えたり」と訓む。「衣多利」はエタりと訓む。

【巻2(96)。】
題詞
歴史解説
 久米禅師(くめのぜんじ)の作歌。「久米禅師娉石川郎女時歌五首」(「久米禅師(くめのぜむし)石川郎女(いしかはのいらつめ)(つまど)ふ時の歌五首(いつつ)」)。題詞によって本歌以下5首、すなわち96~100番歌は久米禅師(くめのぜんじ)が石川郎女(いしかはのいらつめ)に求婚したときのやりとりであることが分かる。「久米禅師」は、出身・経歴・年齢など不詳であるが、久米氏出身で、のちに禅師になった男性と考えられる。禅師は、特に修験があり、病を治して幸福を招来する特殊な僧侶に冠せられる称号。「石川郎女」も伝未詳。石川朝臣氏の女性ということであるが、その名は『万葉集』の6箇所に見える。その全てが同一人物とは考え難く、四人説・三人説が唱えられている。「郎女」は「いらつめ」と訓み、上代の女子に対する親愛の情をこめた称で、多く、どこの(何家の)という限定とともに用いられ、単独例は少ない。また、用法において、一般に「をとめ」より身分、才能、人格などの点ですぐれた女性に対して用いられるという。「いら」は「いろも」「いろせ」「かぞいろ」など特別な親愛関係を示す「いろ」と関係があり、「つ」はもと、連体修飾の助詞。男子に対する愛称には郎子(いらつこ)がある。
原文  水薦苅 信濃乃真弓 吾引者 宇真人<佐>備而 不欲常将言可聞
和訳  み薦(こも)刈る 信濃の真弓 我が引かば 宇真人(うまびと)さびて いな(否)といなと言はむかも
現代文  「み薦刈る 信濃の弓をかまえてハートを射貫こうとしても、お高い貴女は否とおっしゃるでしょうね」。
文意解説
 発句「水薦苅 信濃乃真弓 吾引者」「み薦(こも)刈る 信濃の真弓 我が引かば」と訓む。「水薦苅」は「水薦(みこも)苅(か)る」と訓む。「水薦(みこも)」は、水中に生える真菰(まこも)で、イネ科の大形多年草のこと。「苅」は「苅(か)る」と訓み、「草木、頭髪など、むらがって生えているものを短く切りさる」ことを言う。「みこもかる」は、水薦の多くはえている信濃の地で、それを刈りとる意で、地名「信濃」にかかる枕詞である。同じ「信濃」にかかる枕詞に「みすずかる」があるが、日本国語大辞典の「みすずかる」の語誌には次のように書かれている。
 「万葉集」に見える「水薦苅」(2・96)、「三薦苅」(2・97)を、羽倉信名は「万葉集童蒙抄」でミスズカルと訓んだ。この説は、賀茂真淵の誤字説と相俟って、枕詞として「みすずかる」を定着させたが、近代に入り、木村正辞「万葉集美夫君志」で、「篶」は、当時なかった字とされ、読みはスズのまま、「薦」に戻された。さらに武田祐吉「万葉集全注釈」で、読みもミコモカルとされ、現在では、この「薦」という字のままでコモと読む説が有力となっている。これは、「十巻本和名抄‐六」の「薦 唐韻云薦〈作甸反 古毛〉」という記述や、万葉集に、「苅薦」(3・256)が、異伝として「可里許毛」(15・3609)とあることなどから裏付けられる。「信濃乃真弓」は「信濃(しなの)の真弓(まゆみ)」と訓む。「信濃(しなの)」は東山道八カ国の一つで、梓弓を多く産出した。

 「乃」はノ」。「真弓(まゆみ)」の「真」は、美称の接頭語。「み薦(こも)刈る 信濃の真弓」句は次の「引かば」をおこす序詞。弓を引く意と相手の気を引く意とをかける。「吾引者」は「吾(わ)が引かば」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「引」は「引か」と訓む。「者」はハ。ここはバと訓む。自分に靡くようにあなたの心を引いたならばという意で下の句に続く。
 
 結句「宇真人<佐>備而 不欲常将言可聞」「宇真人(うまびと)さびて いな(否)といなと言はむかも」と訓む。「宇真人佐備而」は「うま人(ひと)[貴人]さびて」と訓む。「宇」はウ。「真」はマ。「宇真人」は「うまひと」と訓み、「身分、家がらの良い人。貴人」の意。「佐備」はサビ。「さぶ」は接尾語であり、体言に付いて、「…にふさわしい振る舞いをする、…らしい様子・状態である」意を表わす。「而」はテ。「不欲常将言可聞」は「いな[否]と言(い)はむかも」と訓む。「不欲」は「欲せず」の意から「いな」を表わすのに用いたもので、義訓。「常」はト。「将言」は「言(い)はむ」と訓む。「可」はカ。「可聞」はカモ。

【巻2(97)。】
題詞
歴史解説
 郎女の作歌。前の96番歌で久米禅師が、明確な意思表示はせず、「もし私があなたの気を引いたら、貴人らしくいやだというでしょうか」と、遠回しに反応を伺おうとしているのに対して、石川郎女が答えた歌がこの97番歌と次の98番歌である。
原文  三薦苅 信濃乃真弓 不引為而 弦作留行事乎 知跡言莫君二
和訳  み薦(こも)刈る 信濃の真弓 引かずして 弦はくるわざを 知ると言はなくに
現代文  「み薦刈る信濃の弓を引くように気を引くこともしないですから返事のしようもないではありませんか。(弓をかまえて飛ばしもなさらないで何をっしゃるんですか)」。
文意解説
 発句「三薦苅 信濃乃真弓 不引為而」「み薦(こも)刈る 信濃の真弓 引かずして」と訓む。「三薦苅」は「み薦(こも)苅(か)る」と訓む。「みこも」の「み」を「三」で表記している。「信濃」の枕詞。「信濃乃真弓」は「信濃(しなの)の真弓(まゆみ)」と訓む。前の歌(96)と同じく次の「引かず」をおこす序詞。前の歌の言葉をそのまま取って、返歌に用いるのは良くある手法。「不引為而」は「引かず為(し)て」と訓む。「不引」は「引かず」と訓む。「為」は「為(し)」。「而」はテ。弓を引くように私の気を引くこともしないでおいて、と言ったもので、相手の久米禅師が明確な求婚の意思表示をせずにこちらの返事を得ようとしていることに不満を示している。

 結句「弦作留行事乎 知跡言莫君二」「弦はくるわざを 知ると言はなくに」と訓む。「弦作留行事乎」は「弦はくる行事(わざ)を」と訓む。契沖の万葉代匠記が「強」を「弦」、「佐」を「作」に替えて「弦作留」として「ツルハクルと訓むべきか」とした。「矢をつがえて飛ばすわざを」の意となる。これを承けて、賀茂真淵の萬葉考がこれを「ヲハクル」と訓み、弓弦を懸けることだとしている。他方、原文は「強佐留行事乎」であり「強(し)ひさる行事(わざ)を」と訓む。澤瀉の萬葉集注釋は誤字説をしりぞけ、「強佐留」を「シヒザル」と訓んで「強引に迫ることをしない」の意に解している。但し、「強佐留」をシヒザルと訓むことには無理がある。シヒザルならば「不強」と表記されるのが普通で、「強佐留」と書かねばならない理由を見出せない。ここは素直にシヒサルと訓むのが良い。「強」は「強(し)ひ」と訓み、「佐留」はサルで、「いやだとことわる。辞退する」の意で、日本書紀にも用例が見出せる。「強(し)ひさる」で「無理にもいやだとことわる」の意となる。この表現は、前の歌の末句「いな[否]と言(い)はむかも」に対応したものと考えられる。「否(いな)」と「強(し)ふ」が対応して用いられる例を236番歌の持統天皇の歌に見ることができるので参考に記しておく。「不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里」(いなといへど 強流(しふル)志斐(しひ)のが 強ひ語り このごろ聞かずて あれ恋ひにけり)。「行事」は、「意識的に何かを行うこと」を意味する和語のワザに宛てた義訓。「乎」はヲ。「知跡言莫君二」は「知ると言(い)はなくに」と訓む。「知」は「知る」。「跡」はト。「言」は「言(い)は」。「莫」は禁止・否定のナ。「君」はク。「言(い)はなく」は、「言はぬあく」のヌとアが約まって「言はなく」となったもの。「二」はニ。「知っているとは言わないのに」の意であるが、本歌の場合には、「できるわけがありません」と意訳することができよう。

【巻2(98)。】
題詞
歴史解説
 郎女の作歌。前歌に続いてさらに一言がこの歌。無解説でそのまま意がとれよう。「弓をおかまえになっただけのこの状態で嫁いだら」と、後の心を不安視している様子が伝わってくる。「梓弓」(あづさゆみ)は枕詞。30例もある。 今回は、第98番歌を訓む。前の97番歌で、明確な意思表示をしない久米禅師に不満を示した石川郎女が、本歌では、意思表示をして下さればそれに応じる気持ちがあることを告げつつ、相手の気持ちが将来変わるのではないかとの不安を詠んでいる。
原文  梓弓  引者随意  依目友  後心乎  知勝奴鴨
和訳  梓弓(あづさゆみ) 引かばまにまに 依(よ)らめども 後の心を 知りかてぬかも
現代文  「梓弓を引くように私の心を引かれるならお心のままに従いましょうが、後々のあなたの心をはかりかねます(それが不安なのです)」。
文意解説
 発句「梓弓  引者随意  依目友」「梓弓 引かばまにまに 依らめども」と訓む。「梓弓」は「梓弓(あづさゆみ)」と訓む。「梓(あづさ)」はカバノキ科の落葉高木で材は非常に固い。「梓弓(あづさゆみ)」は、この木で作った丸木の弓。上代、狩猟、神事などに用いられた(3番歌に既出)。信濃は「梓弓」を多く産出し、続日本紀大宝2年3月の条に「信濃国、梓弓一千二十張を献る。以て太宰府に充つ」とある。96・97番歌の「信濃の真弓」を言い換えたもので、ここも次句の「引かば」にかかる枕詞として用いられている。参考までに枕詞としての「梓弓」の用法を整理しておくと、① 弓のつるを引く、または張るところから「い・いる・ひく・はる」にかかる。② 弓の各部の名称から「もと・すゑ・つる」にかかる。③ 弓を引けば、弓の本と末とが寄るところから「よる」にかかる。④ 弓が反るところから「かへる」にかかる。⑤ 矢を射ると、音が出るところから「や・音」などにかかる。等いろんな言葉の枕詞として用いられ、萬葉集にも20数例ある。「引者随意」は「引(ひ)かば随意(まにま)に」と訓む。「引者」は既出で、それを承けて使っている。「引」は「引(ひ)か」と訓む。「者」はハ。ここはバに流用する。「随意」は「まにまに」と訓み、「相手の心のままに従う」意。「まにまに」について古典基礎語辞典の解説は次のように記す。
 上代にのみ使われた語に、マニマがある。これには漢字の「随」や「随意」が当てられ、他の人の意志や事のなりゆきにまかせての意で用いられた。その用法は格助詞のノやガを介して上の体言を受け、一つの連用修飾句を作るものであった。マニマニはこのマニマに格助詞ニが付いた語で、意味・用法ともマニマと変わらず、すでに上代でマニマよりも多く用いられていた。

 中古以降はマニマニのみが残り、一つの事柄が進むのにしたがって、別の事柄も進行していくときの、…にしたがって、…につれての意でも使うようになる。また歌などでは、末句の終止に「…のまにまに、…がまにまに」の形で使われる例が多い。この場合は、どうなりと思うままにの気持ちが込められているようである。「依目友」は「依(よ)らめども」と訓む。「依」は「依(よ)ら」と訓む。「よる」には色々な意味があるが、ここでは「気持が、そちらに傾く。任せてそれに従う」の意。「目友」はメドモ。

 結句「後心乎  知勝奴鴨」「後の心を 知りかてぬかも」と訓む。「後心乎」は「後(のち)の心(こころ)を」と訓む。「後心」はノを補読して「後(のち)の心(こころ)」と訓む。「乎」はヲ。久米禅師の将来の自分に対する気持、今と同じように思っていてくれるかどうかを言う。「知勝奴鴨」は「知(し)りかてぬかも」と訓む。「知」は「知り」。「勝」は「かて」と訓む。補助動詞として用いられ、動詞の連用形に付いて「…するに耐える、…することができる」の意を表わす。「奴」はヌ。「鴨」は詠嘆のカモ。

【巻2(99)。】
題詞
歴史解説
 久米禅師(くめのぜんじ)の作歌。郎女から好感触を得た禅師はここで一気に彼女を射止めようとする。「弦緒取りはけ」の弦緒(つらを)は下駄の鼻緒の緒と同意。長く張った弦を引いてだ。後々の心変わりなどしないと(つまり、ずっと添い遂げようと)決心しているからこそ引いていると彼女を安心させようとしている。今回は、第99番歌を訓む。本歌は、前の石川女郎の歌(98番歌)に対する久米禅師の返歌である。
原文  梓弓 都良絃取 波氣引人者 後心乎 知人曽引
和訳  梓弓 弦緒(つらを)取り ()け引く人は 後の心を 知る人ぞ引く
現代文  「梓弓に弦を強く張って引く人(自分)は(心変わりをしない)後の心を知っているからこそ引くのです」。
文意解説
 発句「梓弓 都良絃取 波氣引人者」「梓弓 弦緒(つらを)取り ()け引く人は」と訓む。「梓弓」は「梓弓(あづさゆみ)」と訓む。98番歌に同じ。前の歌の言葉をそのまま取って、返歌に用いるのは良くある手法。「梓弓」は、梓の木で作った丸木の弓のことであるが、枕詞として色々な言葉に冠せられたことは前に述べた。「都良絃取波氣」は「つらを[弦緒]取(と)りはけ」と訓む。「都良」はツラ。「絃」はここではをとして用いられたものだが、字義そのものを意識しての用字であると考えられる。「つら」は、「弓のつる」の意をあらわす言葉であり漢字では「弦」。「つらを」は「弦緒」で「緒」は糸や紐を表わす。「つる」は「弓に張る糸」のことだから、「つらを」の「を」は無くても意味は変わらないわけだが、糸を強調した言葉と言える。ここで「を」表わすのに用いられた「絃」は、形声文字で声符は玄(げん)、「強く糸を張った状態のもの」をいい、弓には「弦」の字を用いる。「都良絃」は単に「弓に張る糸」と解するのではなく、「弓に強く張られた糸」と解されなければならないと思う。「取」は「取(と)り」と訓む。「波氣」はハケ。「取りはく」は、弓に弦をつけることをいう。「梓弓 弦緒(つらを)取り」は「梓弓に弦を強く張って」の意で、「引く」に続けた序詞。「引人者」は「引(ひ)く人(ひと)は」と訓む。「引」は「引く」の連体形。「引く」は弓を引く意味と、相手を誘う意味と掛詞になっている。「引く人」は作者の久米禅師自身である。「者」はハ。

 結句「後心乎 知人曽引」「後の心を 知る人ぞ引く」と訓む。「後心乎」は「後(のち)の心(こころ)を」と訓む。98番歌に同じ。98番歌では、石川郎女から見ての久米禅師の将来の自分に対する気持、今と同じように思っていてくれるかどうかということを意味したが、ここでは、久米禅師が自分の将来とも変わらぬ気持を言ったものである。「知人曽引」は「知る人そ引く」と訓む。「知」は「知る」の連体形。「知る人」は「後の心を知る人」である。「曽」はソ。「引」は既出。「引く人は後の心を知る人そ引く」というのは、「引く人は後の心を知る人そ」という表現と「引く人は後の心を知ればこそ引け」というような表現が混線した変則的な言い方と思われる。このことについて、澤瀉『萬葉集注釋』は、次のように述べている。(なお、『萬葉集注釋』は「曽」を「ぞ」の濁音で訓んでいる。)
 行末の事をわきまえてゐる人が引く、といふので、「引く人は」と云つて、「知る人ぞ引く」というのは、語法が整はず、井上氏新考に「シリテコソヒケ」などあるべきなり」とあるは尤もであるが、かうした物いひは今の人も不注意になすところであり、このまゝに、むしろ「引く人は」と云ひながら「知る人ぞ」とくりかへしたところに作者のきほひ込んだ心が示されてゐるとみるべきである。〈井上氏新考とあるのは、井上通泰『萬葉集新考』のこと。〉

【巻2(100)。】
題詞
歴史解説
 久米禅師の作歌。石川郎女に対する思いをユーモラスな比喩を用いて歌ったもの。
原文  東人之 荷向篋乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乗尓家留香問
和訳

 東人(あづまひと)の 荷前(のさき)の箱の ()の緒(を)にも 妹は情(こころ)に 乗りにけるかも

現代文  「東人(あづまびと)の荷箱に使われる頑丈な紐のように(固く結ばれて)、貴女はしっかりと乗ってくれたよ」。
文意解説
 『万葉集』を訓(よ)む(その161)」その他を参照する。 
 発句「東人之 荷向篋乃 荷之緒尓毛」東人(あづまひと)の 荷前(のさき)の箱の ()の緒(を)にも」と訓む。「東人之」は「東人(あづまひと)の」と訓む。「東人」は「あづまびと」、「あづまうど」、「あづまど」などとも訓まれ東国地方の人をいう。「之」はノ。「東人」について、日本国語大辞典は語誌に次のように記し、いなか者の意を含んだ言い方として用いられるようになったのは平安朝になってからとしている。
 「続日本紀‐神亀五年八月に中衛府に精強な東舎人を充てた記事が見え、同‐神護景雲三年十月・宣命にも東人は常に云く、額には矢は立つとも背は矢は立たじとあって、奈良時代には東人は勇猛な者と見られていた。しかし、十巻本和名抄‐二の辺鄙〈略〉阿豆万豆や挙例の色葉字類抄のように、平安朝以後には田舎、またはみやび心のない田舎者という属性が強く感じられる」。
 「荷向篋乃」は「荷向(のさき)の篋(はこ)の」と訓む。「荷向(のさき)」は「荷前」とも書き、律令制下、毎年諸国から貢物として奉る調の絹、綿などのうち、その年の初物をいう。これを朝廷から伊勢大神宮をはじめ諸陵墓に奉り、その残りを天皇が受納したとされる。「篋」は、本来は竹で編んだはこをいうが、「箱」と同じように用いたもので荷向を入れた箱のこと、竹で編んだものとはかぎらない。「乃」はノ。「荷之緒尓毛」は「荷の緒(を)にも」と訓む。「荷」は、持ち運んだり、運送したりする品物をいい、ここでは「荷向(のさき)の篋(はこ)」を指す。「緒(を)」は、糸や紐など細長いもので、物を結びとめるものをいう。「尓毛」は二モで、「~のようにも」の意。荷向を入れた箱は緒で結んで馬に負わせるので、その結んだ荷の緒のようにも、という意となる。当時、荷向などの貢物は、西国からは船で、東国からは馬で運ばれており、馬に乗せた荷が落ちないように、緒で固く結ぶことが必要であった。発句は、「東国の人が貢物として奉る調の初物を入れた箱を馬の背に乗せて固く結んだ紐のようにも」という意で、結び句を起こす比喩の序詞となっている。単なる比喩とする注釈書もあるが、序詞は、もと即興的景物の表現から陳思(心情)へと転換する発想形式であったと考えられることからすれば、直喩を表わす語を含む本歌の例も、比喩の序詞として良いと思われる。

 結句「妹情尓 乗尓家留香問」「妹は情(こころ)に 乗りにけるかも」と訓む。「妹情尓」は「妹は情(こころ)に」と訓む。「妹」は「妹は」と訓む。写本の付訓にイモガココロニとあり、萬葉代匠記その他多くその訓によっていたが、真淵の萬葉考がイモハと改めた。佐伯梅友の万葉語研究は、この点を詳細に吟味し、ケルカモで結ぶ文においては「~ガ」ではなく「~ハ」というのが通例であることを確かめている。ここの妹は言うまでもなく石川郎女を指す。「情」には「こころ。なさけ。まこと」の訓みがあるが、萬葉集では全て「こころ」と訓まれている。「尓」は二。「乗尓家留香問」は「乗りにけるかも」と訓む。「乗」は「乗り」と訓む。「尓」は二。「家留」はケル。「香問」はカモ。「妹は情に乗りにけるかも」は、愛する女性と信頼し合い、固く結ばれたことへの感動を表わす表現といえよう。

【巻2(101)。】
題詞
歴史解説

 大伴宿禰(おおとものすくね)の作歌。「大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首」(「大伴宿禰(おほとものすくね)巨勢郎女(こせのいらつめ)を娉ふ時の歌一首」)。大伴宿禰(おおとものすくね)は大伴旅人(おおとものたびと)の父。求婚の相手は巨勢郎女(こせのいらつめ)。題詞の次に [大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也]とあり、大伴宿祢は諱(いみな)を安麻呂と言い、難波朝(孝徳天皇の御代)の右大臣大紫大伴長徳卿の第6子で、平城朝(元明天皇の御代)に大納言兼大将軍の任ぜられて薨じたことが記されている。大伴宿祢は、初め、巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3子をもうけ、後に、石川郎女との間に坂上郎女と稲公(君)の2子をもうける。この石川郎女が前の久米禅師と歌を交わした石川郎女と同一人物であるかどうかははっきりしないが、年代が離れている点からすると別人物のように思われる。

原文  玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
和訳  玉葛(たまかづら) 実ならぬ木には 千早ぶる 神そ()くちふ 成らぬ木ごとに
現代文  「玉かずらのように実のならない木には恐ろしい神が寄りつくということです。実の成らない木のすべてに(男の気持ちを受け入れない女性には、恐ろしい神が寄りつくということですよ」。
文意解説
 発句「玉葛 實不成樹尓波 千磐破」「玉葛(たまかづら) 実ならぬ木には 千早ぶる」と訓む。「玉葛」は「玉葛(たまかづら)」と訓む。「玉葛」の「たま」は美称で、「かづら」はつたなどつる性の植物の総称である。「玉葛(たまかづら)」は枕詞として使われ、その用法を整理すると次のようになる。
 ① つるがどこまでも延びてゆくところから、「長し」「いや遠長く」「絶えず」「絶ゆ」などにかかる。また延びる意の「はう」の意で、「延ふ」と同音の「這ふ」にかかる。② かづらの花・実の意で、「花、実」にかかる。一説に、「花のみ咲く」、「実ならぬ」にかかるともいう。但しこの用法は枕詞でないとする説もある。本歌の場合にあたる。③ つる草の一つ「ひかげのかずら」を「かずら」とも「かげ」ともいうところから、「かげ」と同音、または同音を含む「影」「面影」にかかる。④ 髪飾りとしての意で用いられ、これを頭に懸けるところから、「懸く」にかかる。「實不成樹尓波」は「實(み)成(な)らぬ樹(き)には」と訓む。「實」は「実」の旧字。「不成」の「不」はズに用いたもので、「不成」は「成らず」と訓むが、ここはその連体形で「成(な)らぬ」と訓む。「樹」は「木」に同じキ。「尓波」はニハ。「千磐破」は「千磐破(ちはやぶ)る」と訓む。「ちはやぶ」は「いちはやぶ」の変化したもので、「猛々しく行う、勢い激しく振る舞う」の意。その連体形の「ちはやぶる」は神の枕詞として使われるようになるが、ここは本来の意味合いで、「狂暴な、恐ろしい」の意で用いている。「千磐破」は借訓表記であるが、勢いの猛々しく恐ろしい意味を視覚的にあらわしており、義訓に近い用字と言えるので漢字表記を残した。この歌、岩波大系本も伊藤本も「恐ろしい神がとりつく」と解している。中西本は「恐ろしい」を「すさまじい」としているが歌意に変わりはない。

 結句「神曽著常云 不成樹別尓」「神そ()くちふ 成らぬ木ごとに」と訓む。「神曽著常云」は「神(かみ)そ著(つ)くと云ふ」と訓む。「神(かみ)」は、古代人が、天地万物に宿り、それを支配していると考えた存在であり、自然物や自然現象に神秘的な力を認めて畏怖し、信仰の対象にしたものである。「曽」はソ。ここは強い指示を表わす係助詞ソ(後にぞと濁音になるが、上代では清音)に用いられている。「著」は「著(つ)く」と訓む。ある物と他の物とのすきまがなくなる、離れない状態になることをいう。「常」はトに用いたもの。「云」は「云ふ」。「不成樹別尓」は「成(な)らぬ樹(き)別(ごと)に」と訓む。「別」は類聚名義抄に「コトニ・コトナリ・ハナル・ワキマフ・ワカツ・ワク」の訓がある。ここでは接尾語の「ごと」に用いている。「ごと」は、名詞や動詞の連体形などに付いて連用修飾語となるが助詞二を伴うことも多く、その物、またはその動作をするたびに、そのいずれもが、の意を表わす。「…はみな。どの…も。…するたびに」など。「尓」は二。

【巻2(102)。】
題詞
歴史解説

 巨勢郎女の作歌。「巨勢郎女報贈歌一首」(巨勢郎女が報贈(こた)ふる歌一首)。題詞の次に [即近江朝大納言巨勢人卿之女也]とあって、巨勢郎女(こせのいらつめ)は、すなわち近江朝(天智天皇の御代)の大納言巨勢人(こせのひと)卿の娘であることを記している。大伴宿禰と巨勢郎女は結果的には結婚し旅人を生んでいる。

原文  玉葛  耳開而  成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
和訳  玉葛 花のみ咲きて ならずあるは 誰が恋にあらめ 我れ恋ひ思ふを
 玉葛 花のみ咲きて 成らざるは 誰()が恋ならも 吾()は恋ひ()ふを
現代文  「玉葛のように花だけ咲かせて実を結ばぬ恋というのはどなたの恋のことでしょうか。私はあなたを恋しく思っていますのに実にさせないのはどこのどなたでしょう」。
文意解説
 発句「玉葛  耳開而  成有者」「玉葛 花のみ咲きて ならずあるは」と訓む。「玉葛」は「玉葛(たまかづら)」と訓む。つたなどつる性の植物の美称。枕詞と見る説も有るが、玉葛そのものを指すと解する方が良いと思う。「花耳開而」は「花(はな)のみ開(さ)きて」と訓む。「花」は、植物の器官の一つで、一定の時期に美しい色彩を帯びて形づくるものをいい、種子植物では、有性生殖を行なうために分化した花葉と花軸の総称。普通、つぼみが開いたもので、受精して実を結ぶ。しかし、葛の中でサネカズラは雌雄異株であり、雄株は花だけで結実はないという。「耳」はノミ。「開」は「開(さ)き」と訓む。「開」を「さく」と訓む例は既出。「さく」は「花のつぼみがひらく」ことをいうので「ひらく」の「開」の字が充てられたもの。現在では「さく」には「咲」の字が用いられるが、初期万葉歌・人麻呂歌集歌の「さく」に「咲」が用いられた例はない。「而」はテ。「不成有者」は「成(な)らざるは」と訓む。「不成」は「成らず」と訓むが、それに「有」がついた「不成有」は、「成らずあり」で、その「ずあ」が約まって「成(な)らざり」、ここはその連体形で「成(な)らざる」と訓む。「者」はハ。101番歌の「實(み)成(な)らぬ樹(き)には」を承けた表現で、「實」は省略されているが、「実のならないのは」の意。「花のみ開(さ)きて成(な)らざるは」は、「花だけ咲いて実がならない、そのように結ばれることのない恋は」の意。花とは言葉の巧みなこと、実は心の誠実さのたとえで、言葉ばかり巧みで、実の心のないことをあらわすものと解されている。

 結句「誰戀尓有目 吾孤悲念乎」「誰が恋にあらめ 我れ恋ひ思ふを」と訓む。「誰戀尓有目」は「誰(た)が戀(こひ)に有(あ)らめ」と訓む。「誰」は、不定称の代名詞で、タレまたはタと訓まれる。タはタレに比して用法は限られ、ガを伴って連体修飾語として用いることは多い。ここもその例で「誰(た)が」と訓む。「戀」は「恋」の旧字で「こひ」。「尓」はニ。「有目」は「有(あ)らめ」と訓む。「目」はメ。疑問語(イヅク・タレ)を受けて文末が已然形で結ばれる場合は反語の意味を表すので、ここも反語的用法で、「実のならない恋とはいったい誰の恋のことなのでしょうか」という言葉の裏に、不実なのは誰の恋でもない、ほかならぬあなた自身の恋だという気持が込められている。なお、ニアラメはナラメとも訓んだとも考えられるが、ここは「尓」の表記があるので8音の字余りで訓んでおく。「吾孤悲念乎」は「吾(あ)はこひ念(おも)ふを」と訓む。「吾」の訓みは「われは」、「わは」、「わが」、「あは」と色々あるが、ここは、ガよりもハを補読する方がふさわしいので、「吾(あ)は」の訓みを採った。「孤悲」はコヒで「恋」を表わすのに用いたもので、「孤り悲しい」という漢字本来の意味をも踏まえた用字であり、萬葉集では好んで使われた表記で28例を数える。「念」は「念(おも)ふ」。「乎」はヲ。ただし、このヲには「~のに」という逆接の意が含まれている。

 明日香の清御原(きよみはら)の宮に天の下知ろしめしし天皇の代

【巻2(103)。】
題詞
歴史解説
 天武天皇の作歌。「明日香清御原宮御宇天皇代 [天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇謚(おくりな)曰天武天皇] / 天皇賜藤原夫人御歌一首(天皇の藤原夫人(ふじはらのきさき)に賜へる御歌(おほみうた)一首)」。この歌のやりとりは天武天皇と藤原夫人(ふぢはらのぶにん)。夫人はすでに天皇の后におさまっているから求婚歌ではない。天武天皇の御代の歌としては、本歌と本歌に対する返歌の104番歌「藤原夫人奉和歌一首」の二首のみである。天武天皇は、21及び25~27番歌の作者として既出。在位は、673年から686年まで、朱鳥元年(686)9月に崩御。藤原夫人は、藤原鎌足の娘の五百重娘のこと。天武天皇の夫人となり、新田部皇子を生む。天武崩御後、異母兄の藤原不比等と結婚し、麻呂を生む。

 藤原夫人は鎌足の娘の五百重(いおえ)娘のことで、天武天皇の夫人の一人(この当時は一夫多妻制が普通で、夫人とは后に次ぐ妃)である。大原の里は藤原一族の地で、飛鳥坐神社のすぐ東に存在している。飛鳥の宮廷、浄御原(きよみはら)と大原の里は1キロ、歩いても30分もかかからない距離にある。浄御原(きよみはら)宮の地に伝板蓋宮跡(でんいたぶきのみやあと)がある。藤原夫人の住んでいた大原は飛鳥坐神社の東にあり、この一帯が藤原氏の本拠地であった。大原の里にこの歌の万葉歌碑がある。次に紹介する藤原夫人の返歌と二首並んでいる。
原文  吾里尓 大雪落有 大原乃  古尓之郷尓 落巻者後
和訳  我が里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 降らまくは後(のち)
現代文  「わが里に大雪が降っているぞ。君のいる大原の古びた里に降るのはもっとあとだろうね」。
文意解説
 発句「吾里尓 大雪落有 大原乃」「我が里に 大雪降れり 大原の」と訓む。「吾里尓」は「吾(わ)が里に」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「里」は田社のあるところをいう。「人家の集まっている所」の意である和語の「さと」にあてられた。「尓」はニ。「吾が里」は、清御原の宮のある飛鳥の地のことを言ったもの。「大雪落有」は「大雪落(ふ)れり」と訓む。「大雪」は「おほゆき、ひどく降る雪、たくさんつもった雪」をいう。「大雪」の語は萬葉集に他に2例あるのみで、平安時代の歌には「大雪」の語は見えない。 「落」は「落(ふ)れ」と訓む。「ふる」は「雨・雪などが空から落ちてくる」ことをいう。「落有」は「落れり」と訓む。「落り有り」が約まって「落れり」となったもの。「り」は存在もしくは完了を表わす助動詞で、「降った」と完了形で訳している注釈書もあるが、「有」の字が用いられていること、また、この歌の下句や、後の藤原夫人との照応を考えると現に降っている意味とする方がふさわしい。なお、奈良や飛鳥地方では、滅多に大雪が降ることはなかったらしく、珍しく降った雪に興じて、大原にいる夫人の所に歌が贈られたもので、どれほどの雪が降ったのかわからないが、「大雪落れり」には誇張があるだろうし、そこに親しみやユーモアも込められていると思われる。「大原乃」は「大原の」と訓む。「大原」は地名で、現在の奈良県高市郡明日香村小原(おうばら)。藤原鎌足誕生の伝承地で、飛鳥の清御原の宮推定地からは約1キロの所。「乃」はノ。

 結句「古尓之郷尓 落巻者後」「古(ふ)りにし里に 降らまくは後(のち)と訓む。「古尓之郷尓」は「古(ふ)りにし郷(さと)に」と訓む。「古」は「古(ふ)り」と訓む。「尓」は二。「之」はシ。「郷」は「里」と同じく「さと」。「里、郷」は、古代の地方行政区画の呼び名でもある。大宝令の施行から霊亀元年(715)まで行なわれた国郡里(こくぐんり)制では、50戸を一里(さと)として最小単位とし、また霊亀元年からの郷里制では、それまでの里を郷(さと)と改称し、この下に二、三の里(こざと)を置いたが、里は天平12年(740)頃廃止され、それ以後は郷の組織が最小の区画となった。「尓」は二。「古りにし郷」は、古くなってしまった郷、即ちもとは賑やかな所であったが、今は訪ねる人も少なく、さびれてしまっている郷の意である。「落巻者後」は「落(ふ)らまくは後(あと)」と訓む。「落」をここでは「落(ふ)ら」と訓む。「巻」はマク。「むあく」の約まった物で「落らまく」で「降るであろうこと」の意。「者」はハ。「後」は時間的なアト。時間の流れの中で、ある事柄が生じた時点を基準とした後続の時間帯や時点をいう。

 この歌は、「落れり」、「古りにし」、「落らまく」とフリ、フレ、フラというフルの繰り返しの音律効果や、「大雪」、「大原」と同音連ねての軽快な調子で、即興の戯歌にふさわしい明るい雰囲気を強めている。

【巻2(104)。】
題詞
歴史解説

 藤原夫人の作歌。「藤原夫人奉和歌一首」(藤原夫人の和へ奉れる歌一首)。前歌を受け取って夫人が詠んだ歌がこの歌。この地は藤原一族の本拠地であり、この里の神「おかみ」は水を司る龍神であると云われている。

原文  吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
和訳  我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
現代文  「あら、その雪はわが大原の神に頼んでわたしが降らせた雪なのですが、それのおこぼれがそちらにも降ったのですね」。
 古典文学大系と萬葉集全歌講義は、口訳の後に( )書きで歌の意を補足しているので参考までに記しておく。
 古典文学大系  私の住む岡の水の神に言いつけて降らせた雪のかけらが、そちらに降ったのでしょう。(だのに先に降ったなどおっしゃって得意になっていらして。まあおかしい。)
 萬葉集全歌講義  私が、私の住むこの岡の竜神に言って降らせた雪の、そのかけらがそちらに降ったのでしょうよ。(それなのに、大雪だなどと、おっしゃって)
文意解説
 発句「吾岡之 於可美尓言而 令落」「我が岡の おかみに言ひて 降らしめし」と訓む。「吾岡之」は「吾(わ)が岡の」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「岡」は、本義は「焼けた土」。丘を意味する字は崗に作るべきだが、「焼けた赤土色の丘」の意で「岡」が使われた。日本では「丘、岡」とも「土地の小高くなった所。低い山。台地になったところ」の意のオカに用いられた。「之」はノ。「吾が岡」は藤原夫人の住む「大原のさと」を指している。大原は、丘陵になっていて、岡と言うにふさわしいところである。「於可美尓言而」は「おかみに言ひて」と訓む。「於可美」はオカミ。「山中や水中にすんでいて、水、雨、雪などをつかさどると信じられている神。龍蛇の神。龍神。水神」のこと。直接歌には詠み込まれていないが、当然「何をおっしゃるの」が入っている。日本書紀神代上第5段一書第7に「【雨の下に口を三つ横に並べ、またその下に龍という字】此云於箇美」とある。「尓」はニ。「言」は「言(い)ひ」と訓む。「而」はテ。この「言ひて」を「頼んで」あるいは「命じて」と訳する注釈書もあるが、そのような意を含んでいるとしても「言って」と軽く訳す方がこの歌には合っているように思う。「令落」は「落(ふ)らしめし」と訓む。令・命は神意に関して用いる語で、神意に従うことから令善の意となり、また命令の意から官長の名、また使役の意となる。漢文の助字としては、使役・仮定の機能を持ち、漢文訓読では、「しむ」(…させる)「しめば」(…だとしたら)と訓まれる。ここも漢文の用法で、「令落」で「落(ふ)らしめし」と訓んで「降らせた」の意。シメは使役の助動詞シムの連用形。この句を賀茂真淵『萬葉考』は、フラセタルと訓んでいるが、タルに相当する「有」の文字がないことや続く句の終りがシであることから、フラシメシとシを補読して訓む方が良いように思う。

 結句「雪之摧之 彼所尓塵家武」「雪のくだけし そこに散りけむ」と訓む。「雪之摧之」は「雪の摧(くだ)けし」と訓む。ここには「之」が二度使われているが、上の「之」は、「雪(ゆき)」という名詞に続いており主語を示すノに用いたもの。下の「之」は、「摧」という「くだく」の連用形「摧(くだ)け」に続いておりシに用いたものである。「くだく」には「砕、摧」の字があてられ、「物に力が加わって小さくこわれる」ことをいう。「くだけ」を動詞、シを過去の助動詞と見たが、ここの「くだけ」を動詞の連用形の名詞化したものと見てシを強調の副助詞とする説がある。次の句の主語となるべきものであることから、「くだけ」を名詞、シを助詞と見る説が注釈書の多くを占める。しかし、澤瀉『萬葉集注釋』が主張するように、動詞に過去の助動詞シを加えた形が一文の主語や目的語になった例は萬葉集にも見ることができるし、動詞の連用形が名詞として使われることは一般的には認められるけれど全ての動詞の連用形が名詞として存在するわけではなく、「くだけ」という名詞の用例は他には見出せない。このことから考えると、ここは動詞の連用形「くだけ」に過去の助動詞シがついたものと見て、「くだけたのが」の意と取るのが良いと思う。「彼所尓塵家武」は「彼所(そこ)に塵(ちり)けむ」と訓む。「彼所」は、相手側の場所の意の「そこ」と訓む。つまり相手の天武天皇のいる清御原の宮のある飛鳥の地を指していったもの。「尓」はニ。「塵」は、「散り」を表わすための借訓字であるが、雪のくだけたのが塵となってという意味を表わすための用字なので「塵(ちり)」の字を残すこととする。「家武」はケム。

 「大雪の元はこちらですわ。だって、淤加美神に言ってこちらの里に降らせてもらったんですもの」と応じている。そして弾んだ気分で「雪のくだけしそこに散りけむ」と言い返している歌だ。丁々発止のとても華やかな応酬歌とみていい。天武というといかめしいイメージがあるが、まだ藤原京のような本格的な大宮殿など存在しない時代のひなびた飛鳥の時代。大雪にはしゃぐ古代人天武の素顔が見えるようなおおらかなやりとりではないか。

 藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代

【巻2(105)。】
題詞
歴史解説
 大伯皇女(おほくのひめみこ)の作歌。「藤原宮御宇天皇代[天皇謚曰持統天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇也] / 大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首(大津皇子の、伊勢の神宮(かみのみや)(しぬ)(くだ)りて上来(のぼ)ります時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)のよみませる御歌二首(ふたつ))。「天皇とは謚(おくりな)して持統天皇、持統11年(697)に皇位を軽皇子(文武天皇)に譲って、尊号を太上天皇という」。「大津皇子が竊(ひそ)かに伊勢神宮に下り、上京する時に、大伯皇女がお作りになったお歌2首」。万葉歌中でも最も有名な歌のひとつである。歌の作者は大津皇子(おおつのみこ)の姉、大来皇女(おおくのひめみこ)である。大来皇女は伊勢斎宮で神宮のトップ。大津皇子は、天武天皇と太田皇女(天智天皇の皇女)の子で、2歳上の同母姉が大伯皇女である。天武天皇崩御後の朱鳥元年(686)10月2日に、謀反が発覚したとして逮捕され、翌日には死を命じられている。享年24歳。妻の山辺皇女も共に死んだ。辞世の和歌と漢詩を含め、和歌と漢詩各4首が今に伝えられている。大伯皇女は、天武2年(673)四月、伊勢の斎宮に任ぜられて、泊瀬の斎宮にこもり翌年伊勢に向かう。大津皇子とは13歳と11歳の時に別れたままであった。死を予感した大津は最後に一目姉に会いたいという思いでひそかに伊勢神宮に下ったものと思われる。皇子といえども天皇の許可なく伊勢神宮に参拝するのは禁じられていたが、許可が下りないことがわかっていた皇子は、ひそかに姉に会いに行ったのである。13年ぶりの再会を秘密裏に果たしたと思った大津だが、この行動は、皇后・皇太子側にいち早く知らされ、大津謀反の意志の顕れの一つと取られたに違いない。大伯皇女が斎宮の任を解かれて上京したのは朱鳥元年11月で、既に大津の刑死後であった。大伯皇女は大宝元年(701)12月に41歳で薨去。歌は、当該2首の他に、大津の死を悲しむ挽歌4首(163~166)がある。  大伯皇女が大津皇子を偲んで詠んだ歌は万葉集に全部で六首ありますが、これもそのうちの一首である。「我が背子」の背子(せこ)はむろん弟の大津皇子のこと。大津皇子は大和に帰って直後に謀反のかどで死を賜るので、この歌の時がまさに今生(こんじょう)の別れ。暁(あかとき)は原文に「鷄鳴」とあり、大来皇女は夜が明けるまで夜通し弟を見送って立ち尽くしていたことが分かる。まるで弟の死を知っていたかのような歌と行為である。否、事前に知らされていたのだろう。 

 大津皇子と大伯皇女は天武天皇の子。弟の大津皇子は他の天武天皇の皇子たちの中でもとくに文武に優れていて人望もあつく、天武天皇亡き後はこの皇子を天皇にと望む声も多かった。姉の大伯皇女は天武天皇即位と同時に斎宮(いつきのみや)として伊勢神宮に入り、巫女として伊勢神宮に仕えていた。二人を生んだ大田皇女は若くしてこの世を去ったため、二人の姉弟の絆はとくに深かった。天武天皇の死により、この二人の姉弟に悲劇がおこった。二人の母である大田皇女の妹であり天武天皇の妻であった沙羅羅(さらら)皇女(後の持統天皇)は、自分の子である草壁皇子を天皇にしたいと願い、大津皇子を亡きものにしようとしたと云われている。そんな不穏な動きを察してか、大津皇子は密に伊勢に下り姉の大伯皇女に会いに行く。この当時、伊勢神宮の神は最高の霊験を持った神として敬われ、時の天皇の内親王を巫女として祭っていた。神聖な伊勢神宮に、天皇以外の男子が勝手に伊勢神宮の最高位の巫女とともに近づくことは皇位をうかがう重罪とされていた。にもかかわらず大津皇子。危険を犯し大伯皇女に会いにいった。この歌はそんな危険を冒しての伊勢神宮での姉弟の再会後、ふたたび大和へ帰って行く弟を見送る姉の心情がよく表れている一首である。この直後、大津皇子はこの行為によって皇位をうかがった謀反人とされ捕まり、処刑されてしまう。この姉弟の再会を詠んだもう一首の歌が次の歌である。奈良県桜井市朝倉の脇本遺跡がある。大伯皇女が伊勢神宮の斎宮になるために身を清めた場所である泊瀬斎宮(はつせいつきのみや)ではないかと云われている。大津皇子と大伯皇女の母である大田皇女のお墓(宮内庁指定)は、明日香村のはるか南西の地、越智野にある斉明稜に並んで(斉明稜から少し下ったところ)建っている。最近の研究では飛鳥駅の南西にある牽牛塚古墳と越塚御門古墳こそが斉明天皇と大田皇女のほんとうの墓だといわれている。2010年12月、大田皇女のほんとうのお墓といわれる越塚御門古墳石室が発見された。
原文  吾勢I乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
和訳  我が背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更(ふ)けて 暁(あかとき)露に 我れ立ち濡れし
現代文  「わたしの弟を大和に見送って、夜のふける中、やがて明方の露に濡れるまで、わたしはずっと立ちつづけたのです」。
文意解説
 発句「吾勢I乎 倭邊遺登 佐夜深而」「我が背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更(ふ)けて」と訓む。「吾勢祜乎」は「吾(わ)がせこ[背子]を」と訓む。「吾」は格助詞の「が」を補読して「吾(わ)が」。「勢祜」はセコで、男子の愛称である「背子」を表わすのに用いている。ここは弟の大津皇子を指す。「乎」はヲ。「倭邊遺登」は「倭(やまと)[大和]へ遺(や)ると」と訓む。「倭」は、現在では「大和」と表記される。ここでは当時の都である飛鳥の地を指す。「邊」は「辺」の旧字で、方向を示す格助詞「へ」を表わす訓仮名として用いたもの。「遺」は、ラ行四段活用の他動詞「遺(や)る」の終止形。「遺る」には、「先でどうなるかわからないまま、人を送り出す。」という意があり、帰したくない気持を強いて抑えて、弟の立場を思って送り出さなければならないという作者の悲痛な思いが込められている。「登」はト。「佐夜深而」は「さ夜(よ)深(ふ)けて」と訓む。「佐」はサ。語調をととのえるもので実質的な意味はない。「深」はカ行下二段活用の自動詞「ふく」の連用形で「深(ふ)け」。「ふく」は、「更・深・老」の字が充てられ、時間が経過し、事態が深まることを表わす語。ここは「夜が深くなる。深夜に及ぶ」の意。「而」はテ。

 結句「鷄鳴露尓 吾立所霑之」「暁(あかとき)露に 我れ立ち濡れし」と訓む。「鷄鳴露尓」は「鷄鳴(あかとき)[暁]露(つゆ)に」と訓む。「鷄鳴」は「一番鶏が鳴く」意から「あかとき」を表わすのに用いられた義訓字。「あかとき」は、中古以降「あかつき」に転じるが、上代の文献で「五更、鶏鳴」等の表記がなされるとおり、夜明け前の未だ暗い頃をさすと見られ、上代語の「あさけ」や中古以降の「あけぼの」よりも一段早い時間帯をいう。「五更」は午前四時頃を指す。「露」は、大気中の水蒸気が冷えた物体に触れて凝結付着した水滴で、夜間の放射冷却によって気温が露点以下(氷点以上)になったとき生じる。「尓」はニ。「吾立所霑之」は「吾(わ)が立(た)ち霑(ぬ)れし」と訓む。「吾」は「吾(わ)が」。「立」は「立(た)ち」。「所霑」は「ぬる」の連用形の「霑(ぬ)れ」の表記に用いられたもの。「之」はシ。過去の助動詞キの連体形シに用いたもの。上に係助詞がないのに連体形で結ぶ例は他にもあり、詠嘆の意味を込めて結ぶ場合に用いられた。

【巻2(106)。】
題詞
歴史解説
 大伯皇女の作歌。「大津皇子が竊(ひそ)かに伊勢神宮に下り、上京する時に、大伯皇女が大津皇子を見送る際にお作りになったお歌二首」の第2首である。哀傷きわまりない歌である。大伯皇女が大津皇子を想い詠んだ歌は六首あるが、そのどれもがいまの人々が読んでも共感できる非常に哀愁漂う名歌となっている。この歌も前の巻二(一○五)の歌とおなじ大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)を偲んで詠んだ歌のひとつである。巻二(一○五)の歌と並んでおり、先の歌の序文からして伊勢神宮での姉弟の再会後の別れを詠んだ歌とみて間違いない。
原文  二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
和訳  ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ
現代文  「二人で越えても難渋する秋の山を、(今ごろは)あなたはたった一人で越えていることでせう」。
文意解説
 発句「二人行杼 去過難寸 秋山乎」「ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を」と訓む。「二人行杼」は「二人(ふたり)行けど」と訓む。「二人」は、上代では一組の男女を指してよく使われ、その一方が自分自身であることが多い。「ふたり…す」などの形で副詞的に用いられる時は、「(誰それと私が)一緒に…する」の意となる。「行杼」は行(ゆ)けド。「二人行けど」は、「二人で連れだって行っても」の意。「去過難寸」は「去(ゆ)き過ぎ難(かた)き」と訓む。「去」は「去(ゆ)き」と訓む。「去」を用いることによって「ある場所から立ち去って、他の場所へ行く」という「いぬ」の意味を込めたものと考えられる。「過」は「過ぎ」。「難」は「かたし」を表わすのに用いたもので、「寸(キ)」を添えたもの。「去(ゆ)き過ぎ難(かた)き」は淋しく恐ろしくて容易に通りすぎがたいことを言う。ここの意を秋山の趣きが深いことに惹かれて行き過ぎかねると解する説があるが、それは「かたし」と「かてに」との混同からくるもので、それでは「二人行けど」が生きないことになり、誤った説と言わざるをえない。「秋山乎」は「秋山を」と訓む。「秋山」は「秋季の山」。「秋山」を詠んだ歌は万葉集に17首ある。「乎」はヲ。

 結句「如何君之 獨越武」「いかにか君が 独り越ゆらむ」と訓む。「如何君之」は「如何(いか)にか君が」と訓む。「如何」は、古くはイカデカと訓まれていたが、荷田信名『萬葉集童蒙抄』がイカニカに改めた。山田孝雄『萬葉集講義』は、イカデは萬葉集に仮名書きの例が見えず、おそらく平安時代に入ってから生じた語であろうと説いてイカニ説を支持した。以降これがほぼ定説となった。イカデでは、何故という理由を問うことになり、どのようにと状態を問うイカニの方が、意味上もここの訓みに適していると言えよう。「君」は女性が敬愛する男性に対して使う呼称で、ここは、大伯皇女が弟の大津皇子を呼んで言ったもの。「之」はガ。「獨越武」は「獨り越ゆらむ」と訓む。万葉集に「獨り」は50の用例があるが、その大部分は男女二人の関係に置いて一人である意を示している。ここも「二人」に対して「獨(ひとり)」と言ったもので、姉弟の二人に対して弟一人の意。「越武」は、表記不足で「越良武」とも「越奈武」とも記されていないので、コユラムともコエナムとも訓むことができる。しかし、前歌との関係から言えば、夜更けて弟を見送り、そのまま闇の中に立ち続けた大伯皇女が、暁の露に濡れつつ、今ごろ弟はどのようにして秋山を越えているだろうと想像して詠まれたとするコユラムの方が、これから越えようとしている状態をいうコエナムと解するより勝っている。そこで、「越」は「越(こ)ゆ」と訓み、「武」はムであるがラを補読してラムと訓む。

【巻2(107)。】
題詞
歴史解説
 大津皇子の作歌。「大津皇子贈石川郎女御歌一首」(大津皇子の、石川郎女(いしかはのいらつめ)に贈りたまへる御歌一首)。石川郎女という女性は万葉集の中に数人出てきて、どの人物とどの人物が同一人物なのかはっきりとした解釈が出来ていない。石川郎女(いしかはのいらつめ)は、石川朝臣氏の女性で、大津皇子と草壁皇子に愛され、後に大伴安麻呂の妻となって坂上郎女を生んだ。久米禅師との相聞歌(96番~100番歌)に登場した石川郎女とは、同一人物とする説と別人物とする説とあるが、どちらとも言い難い。

 二上山の麓、当麻寺のすこし北側の奈良県当麻町県民グラウンドの東にこの歌の歌碑が立っている。近くには大津皇子の「ももづたふ…」の歌碑もある。香芝市中央公民館に巻二(一○七)の歌碑があるある。歌碑の反対側に巻二(一○八)の歌もある。側に大伯皇女の巻二(一六五)の歌の歌碑もある。
原文  足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所<沾>  山之四附二
和訳  あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに
現代文  「あしひきの山の雫(しずく)に君を待ち続けて僕はずぶ濡れになってしまったよ。山の雫に」。
文意解説
 「妹待つと」の妹(いも)はむろん、石川郎女。「あしひきの」は、山にかかる代表的な枕詞。全部で111例に及ぶ。姉と別れて山を越えていくときの歌だろうか。 「山のしづくに」を二度も繰り返しているところに石川郎女に逢えなかった大津皇子の寂しい気持ちがよく表れている。ところで、草壁皇子がこの石川郎女に対して贈った恋歌もこの一連の恋歌の関連歌のような形として万葉集に掲載されている。石川郎女が草壁皇子の恋人であったのなら、大津皇子との恋愛の三角関係も考えられる。

 発句「足日木乃 山之四付二 妹待跡」「あしひきの 山のしづくに 妹待つと」と訓む。「足日木乃」は「足ひきの」と訓む。「足」はアシと訓む。「日木」は、ヒキ。「乃」はノ。「あしひきの」は「山」にかかる枕詞として記紀歌謡にも用いられているが、原義は不明である。日本国語大辞典の「あしひきの」の[語誌]は次のように記す。
 上代の用例で、一字一音の仮名書きになっている場合は、「キ」は乙類の仮名が使われている。しかし、万葉には「足引・足曳」など訓仮名で表記された例も中期以降のものに見え、この場合は「キ」は甲類音である。したがって、万葉の中期にはすでに原義が不明になっていて、当時の語源解釈からこのような文字を当てるようになったものと推定される。原義的には、「ひこづらふ」などの「ひこ」の変化したものという説がある。「コ」は乙類音であるので、キ乙類に転ずる可能性があるという。そのほか、古来種々の説があるが、確実性はない。なお、平安時代のアクセントでは「あしひきの」の「あし」は、足のアクセントとは異なり、葦(あし)と同一だという。

 「山之四付二」は「山のしづくに」と訓む。「山」は「やま」。「之」はノ。「四」はシ。「付」は「くっついて離れない状態になる」意のツク。「四付」でシヅクと訓む。「二」はニ。「山のしづく」は、山の岩角や木の葉、木末などから落ちるしづく[雫=液体のしたたり落ちる粒状のもの]をいう。その「しづく」が、四つ、二つと体にくっついて離れないという状態を「四付二」という表記に込めたものかと考えられる。「妹待跡」は「妹待つと」と訓む。「妹」は、男性から結婚の対象となる女性をさす称であり、ここは石川郎女をさす。「待」は「待つ」。「人、時、物事などの到来や働きかけを予期し、期待して、その場にとどまってじっとしている」ことをいう。「跡」はト。「妹待つと」は「あなたの来るのを待つとて」の意。

 結句「吾立所<沾>  山之四附二」「我れ立ち濡れぬ 山のしづくに」と訓む。「吾立所沾」は「吾(わ)が立ち沾(ぬ)れぬ」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「立」は「立ち」。「所沾」は「沾(ぬ)れ」の表記に用いられたもので「所霑」と同じ用法。「沾」は「霑」の声符で同義。105番歌では「所霑」の後に「之」の表記があったが、ここは何の表記もない。意味上、ヌを補読して訓まれることが、古くから行われているのでそれに従って、「立ち沾れぬ」と訓んで、「立っていて濡れた」の意ととる。「山之四附二」は「山のしづくに」と訓む。繰り返しで、「つく」の表記のみ「付」から「附」に変えている。「附」の声符は「付」で同義。この繰り返しは、「山のしづく」を強く印象づける狙いがあり、「四付[附]二」の表記に込めた意をもくみとるべきであろう。

【巻2(108)。】
題詞
歴史解説
 石川郎女の作歌。「石川郎女奉和歌一首」(石川郎女が和へ奉れる歌一首)。「石川郎女」が、大津皇子の107番歌(以下、前歌)に対して「和(こた)へ奉(まつ)った歌」である。

 石川郎女は草壁皇子の后であり、この大津皇子との関係は不倫であったとも伝えられている。石川郎女はなかなかに恋多き女性で、他にも大伴田主や大伴宿奈麿とも恋仲にあったらしいことから、僕は草壁皇子も恋人の一人であって夫婦ではなかったとも解される。
原文  吾乎待跡 君之<沾>計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
和訳  我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
現代文  「私を待ってあなたが濡れたという山のしずくになりたいものだわ」。
文意解説
 発句「吾乎待跡 君之<沾>計武 足日木能」「我を待つと 君が濡れけむ あしひきの」と訓む。「吾乎待跡」は「吾(あ)を待つと」と訓む。この句は、旧訓ワレヲマツト(6音)であったが、賀茂真淵『萬葉考』がアヲマツト(5音)に改めた。「吾」は、今まで主に「わ」と訓んできたが、ここは、より親愛の情を含むとされる「あ」と訓むこととする。「乎」はヲ。「待」は「待つ」の終止形。「跡」はト。この句は前歌の「妹待跡」を承けたもの。「君之沾計武」は「君が沾(ぬ)れけむ」と訓む。「君」は、女性が敬愛する男性に対して使う呼称で、ここは大津皇子をさす。「之」はガ。「沾」は「沾(ぬ)れ」と訓む。「計武」はケム。この句は前歌の「吾立所沾」を承けたもの。「あなたが濡れたとかいう」の意で「山のしづく」にかかる。ところで、前歌の「所沾」や105番歌の「所霑」を「ぬれ」と訓んだが、ここに「沾」一字でも「ぬれ」と訓むという例が出てきた。ということは「所」の字は「ぬれ」と訓むことには不必要な文字であって不読文字ということになる。105番歌の[補足]で「所霑」を「霑(ぬ)れ」と訓むことについて述べたことは再考しなければならない。前歌・105番歌の例は共にその上に「立」の字があり、「立所沾」、「立所霑」で、「立ち濡る」という複合動詞になっている。「所」の字はこの場合、「立っている」その「ところ」で「濡れた」ということを表わすのに用いたものかも知れない。「所」の用法については注意を要する。「足日木能」は「足ひきの」と訓む。ノの表記を「乃」から「能」に変えている。「あしひきの」は「山」にかかる枕詞。

 結句「山之四附二 成益物乎」「山のしづくに ならましものを」と訓む。「山之四附二」は「山のしづくに」と訓む。「成益物乎」は「成(な)らましものを」と訓む。「成」は「成(な)ら」と訓む。「なる」は、あるものやある状態から、他のものや他の状態に変わることをいう語で、ここは、「人」から「山のしづく」に変化することを意味する。「益」はマシ。「物」は、個々の具体物から離れて抽化された事柄、概念をいう語で、現在では通常「もの」と仮名書きされる。「乎」はヲ。「ものを」で以て、文末にあって活用語の連体形を受ける終助詞となる。「ものを」は、詠嘆表現に用いられるが、単なる詠嘆表現の場合と詠嘆の中に現在または過去の事実に対する不満や後悔の念などが含まれる場合があり、ここは後者の場合で、現代語のノ二に相当する。

【巻2(109)。】
題詞

 大津皇子の作歌。「大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌一首 [未詳](大津皇子、石川女郎(いしかはのいらつめ)(しぬ)()ひたまへる時、津守連通(つもりのむらじとほる)が其の事を(うら)ひ露はせれば、皇子のよみませる御歌一首。いまだ詳(つばひ)らかならず)」。この歌までが大津皇子関連の歌。大津皇子がひそかに石川女郎と関係を結んだ時に、津守連通がそのことを占い顕わしたので、皇子がお作りになった歌一首ということである。石川女郎は、石川郎女と同じとされ、共に「いらつめ」と訓まれている。津守連通は、摂津の住吉の津を守ることを職掌とした氏族の一人で、姓は連。通は、和銅7年正月、正七位上より従五位下、同10月美作守に、養老5年正月には、陰陽の学業にすぐれその道の師範にふさわしいとして、絁・糸・布・鍬を賜っている。同7年正月五位上。題詞の下に、「未詳」の小字注がある写本が見られるが、何を未詳とするのか定かではない。題詞の述べる作歌事情について何らかの疑問を持った後人の注かと思われる。この歌このままでは不可解で背景に大津皇子の謀反事件があると知っていないと分からない歌である。津守(人名)の占いによって謀反の疑いがかけられるとはまさに承知しながら、である。津守は当時有名な占い師だったようである。共寝した石川郎女は次歌によって太子草壁皇子の相手でもある。石川郎女は果たして同一人か別人か興味を引く。  

原文  大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
和訳  大船(おほぶね)の 津守が占(うら)に 告()らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し
現代文  「大船の泊まる津守の占いで良からぬことを告げることを知っていながら私たち二人は一夜を共にしたんだよね」。
文意解説  発句「大船之 津守之占尓 将告登波」「大船(おほぶね)の 津守が占(うら)に 告()らむとは」と訓む。「大船之」は「大船の」と訓む。「大船」は「大きな船」の意。「之」はノ。「大船の」は枕詞で、その用法を整理しておくと、① 大船のゆったりとして安定したさまから、ゆったり、落ち着いたの意の「ゆた」にかかる。② 大船がゆらゆらと揺れるさまから、揺れ動く、動揺する意の「ゆくらゆくら」にかかる。③ 大船を頼みにするところから、「思ひ頼む」「頼む」にかかる。④ 大船の渡る渡り、大船にいる楫取(かとり)から「渡り」「楫取」と同音の地名「渡り」「香取」にかかる。また、大船の停泊する津から、「津」と同音を持つ人名「津守」にもかかる。最後の④の後の例が本歌の例に当たるが、「大船の」を「津守」に冠した例は、本歌以外には一例もなく、大津皇子の独創といえる。「大船の津守」は、「天皇所有の船の出入りする津を守る者」の意であって、「大船」は決して津守を讃美する言葉ではなく、何ほどの存在とも思っていなかった津守連通に、足許をすくわれた皇子の怒りが、この枕詞になったものと思われる。「津守之占尓」は「津守(つもり)が占(うら)に」と訓む。「津守」は題詞の「津守連通」を指す。「之」はガ。助詞ガとノの違いについては、青木怜子「奈良時代における連体助詞『ガ』『ノ』の差異について」が詳しいが、そこにも記されているようにガには親愛・軽侮の気持が込められる場合があるので、ここは軽侮の気持を込めた「が」とした方がふさわしいと思う。「占」は神に祈って卜し、神意を問うことを占(せん)という。「神意を伺うこと」を意味する和語の「うら」にあてられた。「尓」はニ。「将告登波」は「告(の)らむとは」と訓む。「将」は「まさに…す」と訓読される字であるが、萬葉集ではにしばしば用いられ、ここの「将告」も「告(の)らむ」と訓む。旧訓に「ツゲム」とあったのを荷田信名の萬葉集童蒙抄で「ノラム」と改訓された。ノルは呪力ある発言を表わし、ツグ・イフとは異なる。「登波」はトハ。意外・不満・感謝などの感情を引き起こした事柄を取り立てていうのに用いる。

 結句「益為尓知而 我二人宿之」「まさしに知りて 我がふたり寝し」と訓む。「益為尓知而」は「まさしに知りて」と訓む。「益為尓」でマサシ二と訓み「たしかに」の意。「益」はマサ。108番歌ではマシの借訓字として用いられていた。「為」はシ。「尓」はニ。「まさしに」は「まさし」の「まさ」に二が付いた「まさに」と同じ意味と思われるが珍しい形である。「知」は「知り」。「而」はテ。「我二人宿之」は「我が二人宿(ね)し」と訓む。「我」はガを補読して「我が」。「二人」は「二人(ふたり)」。「宿」はネ。「之」はシ。

【巻2(110)。】
題詞
歴史解説

 日並皇子(ひなみのみこ)(みこと)の作歌。日並皇子尊は草壁皇子のこと。「日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首 [女郎字曰大名兒也]」(日並皇子(ひなみのみこ)(みこと)の石川女郎に贈り賜へる御歌一首。女郎、(アザナ)ヲ大名児ト曰フ)。大津皇子は草壁皇子側から謀反の疑いをかけられ抹殺されている。その大津皇子の恋人が石川郎女(いしかはのいらつめ)。この歌は題詞によって草壁皇子が恋人石川郎女に贈ったものと分かる。96~100番歌にわたって久米禅師(くめのぜんじ)が求婚し、好返答をした相手も石川郎女。が、石川郎女は大伴田主(おおとものたぬし)に恋する女性としても登場する(126番歌)。そしてその歌の左注に彼女は独り寝の身を嘆く女性とまで書かれている。万葉集の中に石川郎女(石川女郎)と呼ばれる人物は何人か出てきますが、すべて同じ人物なのかはたまた別の人物なのかはっきりとはしていない。石川郎女は固有名詞ではなく「石川家の娘」というほどの呼び方とも考えられる。大津皇子と草壁皇子の相手を同一人と断定し、延々と論陣を張る古代史家もいるようであるが断定は慎重に願いたいものである。天武10年2月に皇太子と成るが、持統3年4月に皇太子の地位のまま、28歳で薨じる。歌は、本歌一首のみで、漢詩も伝わらず、その人となりなどについてはわからない。

 わが子である草壁皇子を天皇にしたいと願う沙羅羅皇女の謀略によって大津皇子は謀反の罪で処刑されてしまうことになる。

原文  大名兒  方野邊尓 苅草乃  束之間毛 吾忘目八
和訳  大名児(おおなご)の 彼方(をちかた)野辺(のへ)に 刈る草(かや)の 束(つか)の間(あひだ)も 我れ忘れめや
現代文  「大名児が遠くの野辺で刈る草のほんの束の間も、僕は君の事を忘れるなどということはないよ」。
 「大名児よ 遠くの野で 刈っているかやのひとにぎりほどの短い間も わたしは忘れようか(忘れはしない)」
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その171)」その他を参照する。
 発句「大名兒  方野邊尓 苅草乃」「大名児(おおなご)の 彼方(をちかた)野辺(ぬへ)に 刈る草(かや)の」と訓む。「大名兒」は「大名兒(おほなこ)」と訓む。金沢本などの古写本にはオホナコカとあり、西本願寺本以後はオホナコヲとし、それがほぼ通説となった。しかし、助詞ヲに当たる文字がなく、オホナコとする注釈書も少なくない。ヲの読み添えは、人麻呂作歌には見られるがそれ以外には例がない。ヲを読み添える説では、ヲを間投助詞とみる説と目的格の格助詞と見る説にわかれているが、読み添えたもので論議をするのも愚かに思える。ここは、表記のままに「大名兒(おほなこ)」と訓み、愛する人の名前が思わず口に出たもので、相手に直接呼びかけたものとみたい。初句が固有名詞の4音で始まる例は確かに珍しいが、他にも例はある(3883)。「大名児が」を「大名児を」とする書もあるが、「大名児が」とする中西本にほぼ従いたい。大名児(おおなご)は江戸時代風にいうと「大名主の娘さん」。「その子を忘れられようか」という歌意に取るのは初句と終句を結びつけなければならない。あまりにも目的語が飛び離れていて無理がある。加えて、たんに「その子を忘れられようか」ではあまりにも歌趣が平凡。「彼方の野辺で草を刈っていたあの子のことが」と受け取りたいのである。したがって、原文の「大名兒」に乃を補って「大名児の」と解したい。この草壁皇子の歌に対する石川女郎の返歌は万葉集には記載されていない。

 「彼方野邊尓」は「彼方(をちかた)野邊(のへ)に」と訓む。「彼方」は、現在では「あちら」または「かなた」と読まれる遠称の代名詞であるが、ここは「をちかた」と訓み、「ある地点から、遠く隔たっている方角、方向。遠方」の意を表わす名詞である。「野邊」は「野辺」で、「野のほとり。野原」の意。「尓」はニ。「苅草乃」は「苅(か)る草(かや)の」と訓む。「苅」は「苅(か)る」。「草木、頭髪など、むらがって生えているものを短く切りさる」ことを言う。「草」は「くさ」ではなく「かや」と訓み、屋根を葺くための萱草(かやくさ)の意。「乃」はノ。

 結句「束之間毛 吾忘目八」「束(つか)の間(あひだ)も 我れ忘れめや」と訓む。「束之間毛」は「束(つか)の間(あひだ)も」と訓む。「束」は、一定数のものを束ねて一束としたことから「整えて結ぶ」ことをいう。まとまることを結束といい、行動については終束という。字訓は「つかねる。たばねる。たば」であるが、ここは、長さの単位である「つか」と訓む。「つか」は、手でつかんだほどの長さ、すなわち、指4本分の幅にあたる。古代の単位で和数詞について「八束(やつか)、十束(とつか)」などと用いた。「之」はノ。「間」は、「すきま、あいだ、しずか、やすらか」などの意がある。ここは「あひだ」。「束(つか)の間(あひだ)」は、一束(ひとつか)、すなわち指4本の幅の意から、時間がごく短いこと、少しの間をいう。現在も「つかのま」という言葉で使われる。「毛」はモ。「吾忘目八」は「吾(われ)忘れめや」と訓む。「吾」は主として「わ」と訓んできたが、ここは「われ」と訓む。「大名兒」と呼びかけた主体の「われ」であり、作者の草壁皇子である。「忘」は「忘れ」と訓む。「わする」は、この場合、「恋しいという思いを忘れる」ことをいう。「目八」はメヤ。上代の終助詞ヤは活用語の已然形に付いて反語の意を表わした。

 この歌は、草壁皇子の石川女郎に対する愛を訴えた歌であるが、この歌に対する石川女郎の返歌はない。大津皇子と石川女郎のひそかな関係が津守通によって明らかにされた歌の後に配列されているが、草壁皇子がこの歌を贈ったのはそれ以前のことであったのではないかと思われる。何れにしてもこの歌は石川女郎が実は草壁皇子の想い人であったことを明かす証徴の歌としてここにおかれたものであることに違いない。

【巻2(111)。】
題詞

 弓削皇子(ゆげのみこ)の作歌。「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」(吉野(よしぬ)の宮に(いでま)せる時、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王に贈りたまへる御歌一首)。弓削皇子(ゆげのみこ)は天武天皇の第6皇子とされる。母は天智天皇の皇女である大江皇女。同母兄に長皇子がいる。二人とも大海人皇子時代の天武天皇を知っている。額田王はあまりにも有名な20番歌「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」により大海人皇子が恋い焦がれた女性。天武天皇はすでに崩御して久しい。

原文  古尓 戀流鳥鴨  弓絃葉乃 三井能上従 <鳴><濟>遊久
和訳  (いにしへ)に 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の 御井の上より 鳴き渡り行く
現代文  「古を 恋う鳥であろうか。ユズリハの樹のある、み井の上を鳴きながら飛んでゆくのは」。
文意解説  発句「古尓 戀流鳥鴨  弓絃葉乃」(いにしへ)に 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の」と訓む。「古尓」は「古(いにしへ)に」と訓む。1字で「いにしへ」と訓む。「いにしへ」は「往(い)にし方(へ)」の意で、現在と遮断された遠く久しい過去を漠然という言葉。「古昔」で「いにしへ」と訓む例も既に見た(13・45番歌)。「尓」はニ。「戀流鳥鴨」は「戀(こ)ふる鳥かも」と訓む。「戀流」は「戀(こ)ふる」と訓む。「流」はル。「鳥」は「とり」。「鴨」はカモ。「弓絃葉乃」は「ゆづる葉の」と訓む。「弓絃」は弓に張る撚り糸で、「ゆみづる」または「ゆづる」と訓まれる。ここは「ゆづる」の音を借りたもので、「弓絃葉」で「ゆづる葉」と訓む。今「ゆずり葉」といい、トウダイグサ科の常緑高木である。新葉と旧葉の交代がよく目立つところからの名。また、父から子に財産を譲るという意味から、新年や祝事の飾りものとして珍重される。「乃」はノ。

 結句「三井能上従 <鳴><濟>遊久」「御井の上より 鳴き渡り行く」と訓む。「三井能上従」は「み井(ゐ)の上より」と訓む。「三」はミ。「井(ゐ)」は泉や流水から、水をくみとる所。能はノ。「上(うへ)」は、空間的に高い位置、場所をいう。「従」は「より。… から」の意で使われるところから、時間・場所の起点や経過する地点を表わす格助詞ヨりを表わす。ここは通過点を示すヨりに用いたものでヲというに等しい。なお「従」は、「より」と同じ意の格助詞ユに用いる例もある。「鳴濟遊久」は「鳴き濟(わた)りゆく」と訓む。「鳴」は「鳴き」と訓む。「なく」は、「ね(音)」と同語源のナが動詞化したもので、生物が種々の刺激によって声を発することをいう。「濟」は「渡」と同義で「濟(わた)り」と訓む。「わたる」は、ある経路を通って一方から他方へ行くことを表わす言葉で、ここは「鳥が空中を飛び過ぎる」ことをいう。「遊久」は「行く」のユク。鳥が遊んでいるように次から次と渡って行く様子をイメージさせる用字である。
歴史解説

【巻2(112)。】
題詞
歴史解説

 額田王の作歌。「額田王奉和歌一首[従倭京進入](額田王の(こた)へ奉れる歌一首)」。弓削皇子の111番歌(以下、前歌という)に対する返歌で、[従倭京進入]の注があることから、額田王が倭(やまと)の京(みやこ)から差し上げた歌であることがわかる。

原文  古尓 戀良武鳥者 霍公鳥  盖哉鳴之 吾<念>流<碁>騰
和訳  いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公(ほととぎす) 盖(けだし)や鳴きし 吾(わ)が念(おも)へるごと
現代文  「古を恋うて鳴いているという鳥は霍公鳥でしょう。おそらくそれは鳴いたでしょう。わたしが古のことを思っているように」。 
文意解説
 発句「古尓 戀良武鳥者 霍公鳥」「いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公(ほととぎす)と訓む。「古尓」は「古(いにしへ)に」と訓む。弓削皇子が額田王と共有する「古」とは何時のことを指すのだろうか。弓削皇子については、懐風藻の葛野王伝に、高市皇子薨後の皇太子選定の席で葛野王が主張する直系継承に異をとなえようとして、葛野王に叱責され黙ったことが伝えられている。この葛野王は、壬申の乱に敗れた弘文天皇(大友皇子)の第1皇子であり、母は天武天皇(大海人皇子)と額田王との娘である十市皇女である。つまり、葛野王は額田王の孫である。斉明・天智・天武朝という動乱の時期をまさに波乱万丈に生き抜いてきた額田王とその孫よりも若い弓削皇子とが共有する「古」とは何時か。それは二人にとって共に懐かしい人物である天武天皇(大海人皇子)と過ごした時間ということになるのではないだろうか。前歌について、土屋文明の『萬葉集私注』には「持統天皇に供奉した作者は、み井のゆづる葉の上を鳴き渡る鳥に懐旧の情抑へがたく、徃昔共に来たりし額田王を思ひいでて其の思を一首に托して贈られたものであらう」とある。弓削皇子と額田王が徃昔共に吉野に行ったことがあるのかどうかは不明であるが、いずれにしても、弓削皇子はこの行幸時に鳴き渡る鳥を見て、父天武を懐かしく思い出されるとともに、その思いを共有できる相手として、天皇となった持統ではなく、額田王を選ばれたということだと考えられる。「戀良武鳥者」は「戀(こ)ふらむ鳥(とり)は」と訓む。前歌「戀(こ)ふる鳥(とり)かも」を承けたもの。「良武」はラム。普通現在推量をあらわすが、ここでは現在の事態について、人から伝聞したり読んで知ったりする意味をあらわす。「者」はハ。「霍公鳥」は「ほととぎす」と訓む。「霍公鳥」を「ほととぎす」と訓むことについては、「思霍公鳥歌」と題して、「保登等藝須(ほととぎす) 今之来鳴者…」と歌っていることからも明瞭である。「霍」は「郭」と同音であり「郭公」とも書かれる。「郭公」は、中国ではカッコウのことで、同じホトトギス科の鳥ではあるがホトトギスより大きな鳥である。蜀の王望帝が事情あって不本意ながら譲位し、後その魂がホトトギスとなって「不如帰去」と鳴いたという故事により「古を恋うて鳴く鳥」とされた。

 結句「盖哉鳴之 吾<念>流<碁>騰」
盖(けだし)や鳴きし 吾(わ)が念(おも)へるごと」と記す。「盖哉鳴之」は「盖(けだし)や鳴(な)きし」と訓む。「盖」は「けだし」と訓み、あり得る事態を想定する時の肯定的な仮定の気持を表わす語で「ひょっとすると。もしかすると」の意。「哉」はヤ。「鳴」は「鳴(な)き」。「之」はシ。上のヤをうけて「鳴きし」と連体形で止める。「吾念流碁騰」は「吾(わ)が念(おも)へるごと」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「念」は「念(おも)へ」。「流」はル。「碁騰」はゴトと訓む。「ごとく。ように。同じく」の意。

 額田王は弓削皇子歌の鳥を霍公鳥(ホトトギス)と解しこう詠じている。ホトトギスはけたたましい声でさえずるが、その鳴き声は哀調を帯びているという。その哀調を帯びた鳴き声は「私の思いそのもの」と彼女は詠っている。

【巻2(113)。】
題詞
歴史解説

 額田王の作歌。「従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首」(吉野より(こけ)()せる松が()折取()りて(おく)りたまへる時、額田王の奉入(たてまつ)れる歌一首)。「蘿」は『本草和名(上)』に「松蘿一名女蘿」とあって、和名は「末都乃古介(まつのこけ)」とある。「柯」は「木の枝」。この題詞によれば、「(弓削皇子が)吉野から苔(こけ)の生えた松の枝を折って送った時に、額田王が差し上げた歌一首」ということになる。題詞に「弓削皇子」の文字はないが、本歌の内容から、先の弓削皇子の111番歌はこの松の枝に結びつけられて送られてきたものと考えられ、「吉野から苔(こけ)の生えた松の枝を折って送った」のが弓削皇子であることは歌の配置からしても明らかであろう。この歌は当時の手紙のやりとりの様子を頭に入れておくと理解が深まる。自分の歌や手紙は使いのものに託して相手側に届ける習わしだった。この場合は松の枝に結びつけて届けられた。吉野(旅先)にいる弓削皇子から届いた松の枝に額田王もまた返歌を結びつけて送り出したに相違ない。「通はく」にいったりきたりする松の枝のいとおしさ(はしきやし)がこもっている。

原文  三吉野乃  玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久
和訳  み吉野の 玉松が枝は はしきかも 君が御言を 持ちて通はく
現代文  「吉野の松の枝は何と愛しいものでせう。あなたの御言葉をお持ちして通ってくるとは」。
文意解説
 発句「三吉野乃  玉松之枝者 波思吉香聞」「み吉野の 玉松が枝は はしきかも」と訓む。「三吉野乃」は「み吉野の」と訓む。「三吉野」は既出。「三」はミ。地名に美称のミを冠するのは、古代では「吉野、熊野、越」に限られ、いずれも、格別の異境と意識され、霊威の地と見なされていた。吉野は、奈良県の吉野山地を占める吉野郡一帯の地域の総称で、古くから大和朝廷の聖地とされた。「乃」はノ。「玉松之枝者」は「玉松(たままつ)が枝(え)は」と訓む。「玉松」の「玉」は美称で、「玉松」は「美しい松」の意。本居宣長は『玉の小琴』に「玉松と云うこと、此外に例なし、玉の字は山の誤也」と書いているが、萬葉集には「玉江」「玉衣」など一例だけのものは珍しくなく、上代には玉を美称として用いることが多かったことを考えれば、やはりここは弓削皇子から送られた松ということで美称を用いたと考える方が良い。ここの「之」はガ。「枝」はエと訓むが「えだ」に同じ。「者」はハ。「波思吉香聞」はハシキカモ。「吉き思いを香りとともに聞く」の意を込めたものかと思われる。「はしき」は「いとおしい。かわいらしい。慕わしい」の意。

 結句「君之御言乎 持而加欲波久」「君が御言を 持ちて通はく」と訓む。「君之御言乎」は「君(きみ)が御言(みこと)を」と訓む。「君」は、女性が敬愛する男性に対して使う呼称だが、ここは、弓削皇子を呼んで言ったもの。「之」はガ。「御言」は「言」を敬っていう語で、ここは弓削皇子の「おことば」の意。「乎」はヲ。「持而加欲波久」は「持ちてかよはく」と訓む。「持」は「持ち」。「而」はテ。「加欲波久」はカヨハク。「かよはく」は「かよふ」(連体形)に形式体言の「あく」が付いた形、いわゆる活用語を体言化するク語法で「かよふあく」が「かよはく」になったものである。ク語法を使うことによって、体言止めに準じたものとして詠嘆を強めている。「かよふ」は、ある地点から他の地点へ行くことを示すが、単に人の往来することを表わす場合と、ある所へ何度も往来することを表わす場合とがある。ここは前者で、松が弓削皇子の消息を持って来たことを擬人化して言ったものである。

 稲岡耕二『萬葉集全注』は、この歌について、「【考】消息と木の枝」として次のように述べている。
 消息を木の枝に付けることは、おそらく人麻呂の時代(天武・持統朝)以後おこなわれるようになったのであろう。折口信夫の言うように、普通は梓の杖を持ったらしい。この弓削皇子の場合は、吉野の蘿むした松の枝を折り取って使った所に、額田王の長寿をことほぐ心がこめられているのであろう。そうした皇子の心づかいに対し額田王の喜びと謝意を歌ったのが、一一三歌である。

【巻2(114)。】
題詞
歴史解説

 但馬皇女(たぢまのひめみこ)の作歌。「但馬皇女在高市皇子宮時思穂積皇子御作歌一首但」(馬皇女(たぢまのひめみこ)の、高市皇子の宮に(いま)せる時、穂積皇子を(しぬ)ひてよみませる御歌一首)。但馬皇女(たぢまのひめみこ)、高市皇子、穂積皇子の三人はすべて天武天皇の皇子たちで、いわば兄弟妹同志。同父同志の恋愛も結婚も許された時代だったので、憶測を呼び、図式的に種々結びつけて論陣を張る向きもある。問題は但馬皇女が慕った相手が穂積皇子(ほづみのみこ)だった点にある。但馬皇女は天武天皇の皇女で、母は藤原鎌足の娘の氷上娘。同母の兄弟姉妹はなく、母は天武11年(682)正月に宮中で薨じた。その後、異母兄の高市皇子の宮に引き取られた(妻の一人として)ものと考えられる。高市皇子は天武天皇の皇子で、母は胸形君徳善の娘の尼子娘。妻(正室)に御名部皇女。子に、長屋王、鈴鹿王。母の出自は低かったが最年長の皇子として、壬申の乱(672)においては、父の支えと成って活躍した。時に19歳。天武崩御後、皇太子草壁も薨じた後の、持統4年(690)7月には太政大臣となり、皇太子に準じた扱いを受けていたが、持統10年(696)7月、43歳で薨去した。穂積皇子も天武天皇の皇子で、母は蘇我赤兄の娘の太蕤娘(おほぬのいらつめ)。出生順から言うと高市・草壁・大津・忍壁・磯城・舎人・長に次ぐ第8番目の皇子であったらしい。既出の弓削皇子よりは少し年長で、持統4・5年に17、18歳かと推定される。本歌を持統朝の作歌とすると、40歳に近い高市皇子の妻の一人であった但馬皇女が、20歳前後の穂積皇子に心を奪われたということになろう。なお、穂積皇子の同母妹には、紀皇女と田形皇女がいる。

 穂積皇子と但馬皇女はどちらも天武天皇の子で、異母兄妹である。当時は母親の異なる兄弟同士の結婚は認められていたので、この二人が恋をすることも普通のことであった。題詞によれば、ろ但馬皇女は高市皇子(こちらも天武天皇の子で但馬皇女や穂積皇子と異母兄弟)の宮で暮らしていたようである。一説によると但馬皇女と高市皇子は夫婦であったともいわれている。そう解釈するとこの穂積皇子との恋は不倫の関係になる。高市皇子と但馬皇女には十五歳ほどの年齢差があることからして、夫婦ではなく父のような保護者だったとも考えられる。いずれにせよ但馬皇女には世間の常識に背いてでも恋に生きようとする一途なイメージがある。

原文  秋田之  穂向乃所縁 異所縁  君尓因奈名  事痛有登母
和訳  秋の田の 穂向(ほむき)きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛(こちた)くありとも
現代文  「秋の田の稲穂が風になびいていっせいに穂先が同じ方向に向くように、私も心をなびかせて君に寄りたい。たとい人の噂はうるさかろうとも」。
文意解説
 発句「秋田之  穂向乃所縁 異所縁」「秋の田の 穂向(ほむき)きの寄れる 片寄りに」と訓む。「秋田之」は「秋の田の」と訓む。「秋田」は間にノを補読して「秋の田」と訓み、「秋、稲が実っている田」の意。日本が葦原瑞穂の国と美称されるだけに「万葉」以来、和歌に数多く詠まれている。「之」はノ。「秋の田の」は、「穂」「稲」との関連で同音の「ほ」「去(い)ね」に、また、秋の田を刈り取るところから、同音を含む「かりそめ」にかかる枕詞として用いられるようになる。「穂向乃所縁」は「穂(ほ)向(む)きの縁(よ)れる」と訓む。「穂向」は「穂(ほ)向(む)き」と訓み、「実った稲などの穂が一方に傾いていること」をいう。「向」は「向き」が名詞化したもの。「乃」はノ。「所縁」は「縁(よ)れる」と訓む。「縁」は「縁(よ)れ」+ルが付いた形。漢文の助字である「所」は通例、受身に用いられるが、ここは存続の助動詞リの連体形のルに援用されたもので、「穂向きの縁れる所」という意味をも表わすものかと思われる。「よる」は多くの意味を持つが、大きく三つの意味に分かれる。①(寄)ある物やある所、また、ある側に近づいて行く。②(拠・縁)気持が、そちらに引きつけられる。③(依・因・由)よりどころとなる事柄に基づく。ここは①の意味で使われているが、「縁」の字が用いられているところから、②の意味を込めているとも考えられる。「異所縁」は「異所(かた)縁(よ)りに」と訓む。ここをコトヨリニと訓む説がある。その説の根拠として「異」の字はカタとは訓めないことを挙げるが、澤瀉『萬葉集注釋』が指摘するように、「異」一字では確かにカタとは訓めないが、この句を「異所」「縁」に分けて考えて、「異所」二字をカタの義訓と見ることができるであろう。「異」「所縁」に分ける考えだと、カタヨリニ、コトヨリニのいずれに訓むとしても「所縁」をヨリニとするのは「所」の存在を無視することになり不都合だと思われる。類歌に2247番歌「秋田之 穂向之所依 片縁 吾者物念 都礼無物乎」があり、こちらの3句の表記が「片縁」となっていることからも「異所(かた)縁(よ)りに」の訓みが妥当と思われる。「かたよりに」は「ひたすらに」の意。「異所」の表記について、日本古典文学全集は「高市皇子とは別な方へという気持で書いたものか」と注している。

 結句「君尓因奈名  事痛有登母」「君に寄りなな 言痛(こちた)くありとも」と訓む。「君尓因奈名」は「君(きみ)に因(よ)りなな」と訓む。ここの「君」が穂積皇子を指すことは言うまでもない。「尓」はニ。「因」は「因(よ)り」。「奈」はナ。「名」はナ。「事痛有登母」は「事痛(こちた)く有(あ)りとも」と訓む。「事痛」はコトイタクの約でコチタクと訓む。「事」は「言」と同意で、「事痛(こちた)く」は「人の口がうるさく」の意。「有」は「有(あ)り」。「登母」はトモ。仮に仮定条件で表わして意味を強める働きをする。

【巻2(115)。】
題詞
歴史解説

 但馬皇女の作歌。「勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首(穂積皇子に(のりこ)ちて、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、但馬皇女のよみませる御歌一首)」。天皇のご命令で、穂積皇子を近江の志賀の山寺に遣わされた時に、但馬皇女がお作りなった歌一首ということで、114番歌に続いて、但馬皇女の穂積皇子への恋歌である。

原文  遺居<而>  戀管不有者  追及武  道之阿廻尓 標結吾勢
和訳  後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(し)かむ 道の隈廻(くまみ)に 標(しめ)結へ我が背
現代文  「後に残され恋に苦しんでいるぐらいなら、いっそ追いかけてゆきたいと思います。だから道の曲がり角ごとにしるしをつけておいてほしいのです。愛しき君よ」。
文意解説
 発句「遺居<而>  戀管不有者  追及武」「後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(し)かむ」と訓む。「遺居而」は「おく(後)れ居(ゐ)て」と訓む。「遺」の字義は「つかわす。おくる。やる。はなつ」であるが、ここは「おくる」の音を借りて「おくれ」に充てている。「後(おく)る」は「人に行かれてあとに残される」ことをいう。「居」は「居(ゐ)」。「動く物がある場所にとどまって存在する」ことを表わす。「而」はテ。「後れ居て」は「家にじっとしていて」である。「戀管不有者」は「戀(こ)ひつつ有(あ)らずは」と訓む。「戀」は「戀(こ)ひ」。「管」は「くだ。ふえ。つつ形のもの。つつ」が字義であるが、ここはツツと訓む。「戀管」で以て「戀(こ)ひつつ」と訓む。ツツは動作の継続を表わし、「戀ひつつ」は「恋しく思い続ける」という意になる。「不有」は「有(あ)らず」と訓む。「者」はハ。「有らず」のズは打消しの助動詞の連用形で、下の強調の係助詞ハと付いてズハを作る。この句は、16番歌「戀乍不有者」とツツの表記のみ違う同句であり、ズハがくると、その後は推量の助動詞で終わるものがほとんどで、ズハの上の部分が現実の事柄を示し、後半の推量の部分が事実に反する事柄を述べるという構造になっていることが多い。「恋ひつつあらずは」で、穂積皇子を慕う但馬皇女の思いがただならぬものであることが分かる。「追及武」は「追ひ及(し)かむ」と訓む。「追」は「追ひ」。「及武」はシカム。「追ひ及く」は、「先行しているものに追いつく」の意。「追ひ及かむ」で「後を慕って追いつきましょう。追いかけていこう」との意志をあらわすが、そんなことはできるはずもなく、ズハを承けて事実に反する事柄を述べているものといえる。

 結句「道之阿廻尓 標結吾勢」「道の隈廻(くまみ)に 標(しめ)結へ我が背」と訓む。「道之阿廻尓」は「道の阿(くま)廻(み)に」と訓む。「道」は「道の隈(くま)」。「阿」も「八十(やそ)阿(くま)落(お)ちず」に既出で、「阿」は「山のくま、山のわき、さか、くま、ふもと、おか。水ならば入りこんだ岸」などの意を持つ。「廻」についても「荒(あら)き嶋廻(しまみ)を」に既出。「廻(み)」は「まわり、あたり」の意。めぐる意の「廻(み)る」の連用形が名詞化した語で接尾語的に用いられる。「之」はノ。「尓」はニ。「標結吾勢」は「標(しめ)結(ゆ)へ吾がせ(背)」と訓む。「標」の本義は「こずえ、高い枝」であるが、それを「しるし」として立てるところから「しるし」の意をも表わすようになった。一方、和語の「しめ」は「占める」の連用形が名詞化したもので、「神の居る地域、また、特定の人間の領有する土地であるため、立入りを禁ずることを示すしるし。木を立てたり、縄を張ったり、草を結んだりする」ことをいう。ここの「標」は、和語の「しめ」の表記に充てて、「めじるし」の意に用いたものである。「結」は「結(ゆ)へ」。「標結ふ」は「めじるしをつける」の意。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「勢」はセ。女性が、自分の夫あるいは恋人である男性に対して用いる「せ(背)」を表わすのに用いたもの。

【巻2(116)。】
題詞
歴史解説

 但馬皇女の作歌。「但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首」(但馬皇女の、高市皇子の宮に在せる時、穂積皇子に(しぬ)()ひたまひし事既形(あらは)れて後によみませる御歌一首)。114番歌から連続する但馬皇女歌。題詞に「但馬皇女、高市皇子の宮に在住の折り、高市皇子の宮に穂積皇子に会い、すでに露見した後の歌」。

 この後、但馬皇女は亡くなってしまう。これを、「降(ふ)る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに」(降る雪はそんなに積もらないでくれ吉隠の猪養の岡に眠っている但馬皇女が寒いだろうから)万葉集巻二(二○三)と穂積皇子が詠っている。国道165号線沿い、桜井市出雲の初瀬川の淵にこの歌の歌碑がある。

原文  人事乎  繁美許知痛美  己世尓  未渡 朝川渡
和訳  人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
 人言を 繁み言痛み 生ける世に 未だ渡らぬ 朝川渡る
現代文  「世間の風評が怖いので渡るに渡られませんでしたが、(世間に知れたからには)生まれてはじめて夜明けの川を渡ってお会いしにいきます」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その177)」その他参照。「人言を繁み言痛みおのが世に」は字句どおり「世間の風評が怖いので」。
 
 発句「人事乎  繁美許知痛美  己世尓」「言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み おのが世に」と訓む。「人事乎」は「人事(ひとごと)を」と訓む。前にも述べたことだが、古く「こと」は「言(こと)」をも「事(こと)」をも表わした。これは一語に両義があるということではなく、「事」は「言」に表われたとき初めて知覚されるという古代人的発想に基づくものである。ここの「人事」は「人言」で「他人の言うことば。世人のことば。また、世間のうわさ」の意で用いられている。「乎」はヲ。「繁美許知痛美」は「繁(しげ)みこち痛(た)み」と訓む。「繁」は「繁(しげ)」。「しげし」は「あまり多くてわずらわしい」の意。「美」はミ。「許知」はコチ。「許知痛」で以て、「こち痛(た)」を表わす。「こちたし」は114番歌に既出。「こと(言・事)いた(痛)し」の変化した語で、「人の言葉、うわさなどが多くて、うるさい」ことをいう。「己世尓」は「己(おの)が世(よ)に」と訓む。「己」は自称の代名詞「おの」。同じ自称「おのれ」は単独で用いるが、「おの」は、助詞のガを伴うか、あるいは直接体言に冠して用いる。ここもガを補読して「己(おの)が」と訓む。「世」は、生涯・時代・世の中などを表わす語。竹の節と節との間をいう「よ(節)」と同語源で、時間的・空間的に限られた区間の意を持つ。ここは生涯、一生の意で使ったもので、自分の生まれてから今までを省みて「己(おの)が世(よ)」と言ったもの。「尓」はニ。

 結句「未渡 朝川渡」「いまだ渡らぬ 朝川渡る」と訓む。「未渡」は「未(いま)だ渡(わた)らぬ」と訓む。「未」は「いまだ…ず」と否定を表わす再読文字。「未渡」は「未(いま)だ渡(わた)らぬ」と訓む。「未(いま)だ」は、名詞「今」にダ二の語根と同じダが付いたもので、あとに否定の語を伴って、現在でもなお事柄が実現していない意を表わす。「渡」は「渡(わた)ら」。「わたる」は「船や馬などに乗って、また、泳いだり浅瀬を歩いたり、橋を使ったりして、海や川の一方の岸から他方の岸へ行く」ことをいう。「未」の再読は、打消しの助動詞「ず」の連体形で「ぬ」。「朝川渡」は「朝(あさ)川(かは)渡(わた)る」と訓む。36番歌「旦(あさ)川(かは)渡(わた)る」と同句であるが、36番歌は「船を並べて朝に川を渡る」情景を詠ったものであり、本歌とは情況を異にしている。この句について、阿蘇瑞枝『萬葉集前歌講義』は次のように述べている。
 アサは、昼を中心とした時間帯「アサ・ヒル・ユフ」の最初の部分で。夜の時間帯「ユフベ・ヨヒ・ヨナカ・アカツキ・アシタ」の最終部分のアシタと時間的には重なるが、アシタには、「夜が明けて」という気持が常についている点で、アサと相違するという(『岩波古語辞典』)。必要あって従者を連れて人々と共に朝の川を渡ったことがないわけではないと思うが、ここは男のもとから一目を避けつつ、とはいえ避けようのない明るい朝の光に身をさらしつつ川を渡って帰って来るほかなかった皇女の辛い思いのうかがわれる表現。

 この見解は、澤瀉「萬葉集注釋」が「ここは特に人目にたたぬ夜明けと見るべきであらう」として「人目を忍ぶためにまだ夜の明けきらぬ頃に川を渡られる事があつたと見るべき」とするのとは大きく違うものと言えよう。どちらとも決め難いところであるが、何れにしても、作者の体験をそのまま歌にされたものである事には違いない。

【巻2(117)。】
題詞
歴史解説

 舎人皇子(とねりのみこ)の作歌。「舎人皇子御歌一首」(「舎人皇子(とねりのみこ)の舎人娘子(とねりのいらつめ)に賜へる御歌一首)。舎人皇子は、天武天皇の皇子で、天武5年(676)の生まれ。母は天智天皇の皇女の新田部皇女。養老4年5月に完成した日本書紀の編纂に携わったことで知られる。日本書紀編纂の総裁。萬葉集に短歌三首(本歌の他に1706番歌、4294番歌)を残す。

原文  大夫哉  片戀将為跡 嘆友 鬼乃益卜雄  尚戀二家里
和訳  大夫(ますらを)や 片恋せむと 嘆けども 鬼の益荒雄(ますらを) なほ恋ひにけり
現代文  「あのますらお(強く勇ましい男子)たるものが片恋を嘆くけれども、鬼のますらおは(あきらめきれずに)なお恋続けているよ」。
文意解説
 発句「大夫哉  片戀将為跡 嘆友」大夫(ますらを)や 片恋せむと 嘆けども」と訓む。「大夫哉」は「大夫(ますらを)や」と訓む。「益荒男」とも書き、「立派な男子。強く勇ましい男子」を意味するが、宮廷人であることを誇る意識を背景に使われることが多かったことから、官位の呼称である「大夫」が用いられるようになったと考えられる。「哉」はヤ。「片戀将為跡」は「片戀(かたこひ)為(せ)むと」と訓む。「片戀(かたこひ)」は、「一方の側からだけ異性を恋しく思うこと。自分を思ってくれない人を恋すること。一方的な恋。片思い」をいう。3929番歌に「加多孤悲(かたこひ)」の仮名表記がある。「将」は、「まさに…す」と訓読される字であるが、萬葉集では、動詞の未然形+助動詞「む」を表わすのにしばしば用いられ、ここの「将為」も「為(せ)む」と訓む。「せむ」は「為(す)」の未然形。スは、「意志を持って動作・作用などを行う」ことをいうのに使われる。「跡」はト。「嘆友」は「嘆(なげ)けども」と訓む。「嘆」は「嘆(なげ)け」と訓む。「なげく」には「歎」の字を用いることもあるが、「嘆」と「歎」は同声・同義の字である。萬葉集では「嘆」の字を多く使っている(50例)が、「歎」も使われている(15例)。「友」の字義は「とも、同僚、同輩」であるが、萬葉集では接続助詞のトモ、ドモを表わす借訓字として良く使われる。ここはドモに用いられている。

 結句「鬼乃益卜雄  尚戀二家里」「鬼の益荒雄(ますらを) なほ恋ひにけり」と訓む。「鬼乃益卜雄」は「鬼(しこ)のますらを」と訓む。「鬼」は「醜」の省字とみて「しこ」と訓まれているのに従う。「しこ」は「醜悪なこと。けがらわしいこと。いとわしいこと」の意で、多く、接頭語的、または「しこの」「しこつ」の形で、ののしったりへりくだったりする場合に用いられる。「鬼(しこ)のますらを」は「無骨もの」というほどの意味にとっておけばよかろう。「醜女(しこめ)」「醜草(しこぐさ)」「醜手(しこて)」「醜(しこ)ほととぎす」「醜屋(しこや)」「醜(しこ)つ翁(おきな)」「醜(しこ)の御楯(おたて)」など。「乃」はノ。「益卜雄」は「ますらを」をあらわしたもの。「益」はマス。「卜」は、獣骨や亀版を灼(や)いて現れるひびわれの形の象形文字で、そのひびわれによって吉凶を卜(うら)うことをいうが、ここはその字訓の「うら」を借りたもの。「雄」はヲ。「雄」は、鳥の雌雄をいう字であるが、雄壮・雄健など、男性的な徳性をいうことが多く、「ますらを」にはぴったりと言える。「尚戀二家里」は「尚(なほ)戀(こ)ひにけり」と訓む。「尚(なほ)」は副詞で、一つの判断や意志を、対立する判断や意志を付けることによって、確認する気持を表わす。「やはり。どう見ても」の意。「戀」は「戀(こ)ひ」。「二家里」は二ケリ。完了の助動詞「ぬ」の連用形に過去の助動詞「けり」の付いたもの。すでに完了している事柄について、その事実にあらたに気づいた気持を表わす。詠嘆の気持を伴うことが多い。「…してしまった(ことよ)。…してしまっている(ことだなあ)」の意。

【巻2(118)。】
題詞
歴史解説

 舎人娘子の作歌。「舎人娘子奉和歌一首(舎人娘子が和へ奉れる歌一首)」。117番歌(以下、前歌という)の舎人皇子のお歌に対して、舎人娘子(とねりのをとめ)がお答えした歌一首である。舎人娘子は、61番歌に既出。舎人皇子の養育氏族である舎人氏の娘で、宮廷に出仕しており、61番歌は、大宝2年(702)冬の参河国行幸に従駕した際の歌であった。舎人氏は百済系帰化氏族である。

原文  嘆(歎)管  大夫之 戀礼許曽  吾髪結乃  漬而奴礼計礼
和訳  嘆きつつ 大夫(ますらをのこ)の 恋ふれこそ 吾(わ)が髪結(ゆふかみ)の 漬()ちて濡れけれ
現代文  「嘆きながら、すぐれた男子であるあなたが恋してくださるからこそ、私の結い上げている髪が濡れてほどけたのですね」。
文意解説  発句「嘆(歎)管  大夫之 戀礼許曽」「嘆きつつ 大夫(ますらをのこ)の 恋ふれこそ」と訓む。「嘆管」は「嘆(なげ)きつつ」と訓む。「嘆」は「嘆(なげ)き」と訓む。前歌の「嘆(なげ)けども」を承けての表現である。「管」はツツ。「ながら」の意で動作の並行を表わす。「大夫之」は「大夫(ますらをのこ)の」と訓む。「大夫」は、前歌の「大夫(ますらを)や」を承けての表現だが、ここは「ますらをのこ」と訓む。「ますらをのこ」は「ますらを」に同じ。「之」はノ。「ますらをの」では5音になるので、「ますらおのこの」と7音に訓むのが定説になっている。「戀礼許曽」は「戀(こ)ふれこそ」と訓む。「戀礼」で以て「戀(こ)ふれ」と訓む。「礼」はレ。「許曽」はコソ。上代では、コソには活用語の已然形に付いて順接の確定条件を強く指示する用法があった。ここもその例で、コソの上にバを補ってみるとわかりやすい。「戀ふればこそ」に同じ。なお、「礼」の字を「乱」とする元暦校本では、マスラヲノ・カクコフレコソと訓み、紀州本では、マスラヲノ・コヒミタレコソと訓んでいる。「恋ふれこそ」は「恋してくださるので」。

 結句「吾髪結乃  漬而奴礼計礼」「吾(わ)が髪結(ゆふかみ)の 漬()ちて濡れけれ」と訓む。「吾髪結乃」は「吾(わ)が髪結(ゆふかみ)の」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「髪結」は語順に訓めば「かみゆひ」であるが、次の句の意からすると、ここは髪そのものでなければならず、「かみゆひ」では意味が通らない。ここは「ゆふかみ」と訓み「結った髪」の意に取るのが良いと思われる。「乃」はノ。「漬而奴礼計礼」は「漬(ひ)ちてぬれけれ」と訓む。「漬」は「漬(ひ)ち」と訓む。「ひつ」は平安中期以降、上二段活用に転じる。上代から中古にかけて和歌に多く用いられた語で、散文での用例はあまり見られない。「水につかる。ひたる。ぬれる」の意。「漬(ひ)ちて」は「びっしょり」だ。「而」はテ。「奴礼」はヌレ。「ぬる」は「髪など細長いものがずるずるとゆるんで解けたり、抜けたりする」ことをいう。「計礼」はケレ。上の係助詞コソを承けて已然形で結んだもの。この句の解釈として、当時、恋されると髪がほどけるという俗信があったのだろうという説と、嘆きが霧に立つという発想を踏まえて、皇子の嘆きの霧が自分の髪を濡らしたのでほどけたのだとする説がある。両説は特に対立するものでもなく、両説を共に生かして考えて良いように思う。「ぬれけれ」だが、岩波大系本等はこぞって「髪が解ける」と解している。直感は「びっしょり濡れてしまいましたわ」。それを「解ける」と解したのは、すぐ後述する123番歌に「たけばぬれたかねば長き妹が髪・・・」とあるのを根拠にしているようだ。123番歌の場合は「ぬれ」は「解く」と解するのが自然である。が、本歌の場合は「解く」では歌意が成立しない。「ぬれ」は前節でみた大伯皇女(おほくのひめみこ)の有名な105番歌の結句に「我れ立ち濡れし」という形で出てくる。この結句の原文は「吾立所霑之」だ。本歌と123番歌の「ぬれ」は「奴礼」と表記されている。「奴礼」は他歌にも登場する。たとえば「露霜の濡れて」の原文表記は「都由思母能奴礼弖」である。かくて、ここは歌意のとおる「濡れけれ」だとすべきだと思う。

【巻2(119)。】
題詞
歴史解説

 弓削皇子(ゆげのみこ)の作歌。「弓削皇子思紀皇女御歌四首弓削皇子(ゆげのみこ)紀皇女(きのひめみこ)(しぬ)ひてよみませる御歌四首(よつ))。本歌119番歌~122番歌までの四首は、弓削皇子が紀皇女を思ってお作りになった恋歌であることがわかる。弓削皇子は、111番歌の作者として既出。天武天皇の皇子で、母は天智天皇の皇女である大江皇女。同母兄の長皇子と共に、持統天皇に疎外されたと推測される。母の出自の低かった高市皇子が太政大臣として高く遇され、蘇我赤兄の娘を母とする穂積皇子が、次いで高く遇されたのに対し、穂積とほとんど同年輩と推測される長・弓削両皇子が不遇であったのは、兄弟の母が天智天皇の皇女で、皇位継承の資格を持つことから持統天皇が警戒したためと考えられる。紀皇女は穂積皇子の同母妹であるから、弓削皇子と紀皇女との結婚によって、穂積と長・弓削兄弟が姻戚になることは、皇孫軽皇子に皇位を譲りたい持統天皇にとって最も警戒すべきことであったと言える。弓削皇子の恋は、このような政治的状況からみて絶望的なものであったことが推察される。

原文  芳野河  逝瀬之早見  須臾毛  不通事無  有巨勢<濃>香問
和訳  吉野川 行く瀬の早み 暫(しま)しくも 淀むことなく 有りこせぬかも
現代文  「吉野川の流れの早いところのように、しばらくも停滞することなく (二人の仲も) あってほしいなあ」。
文意解説
 「しましくも」は「いっときとして」で、「淀むことなく」はそのまま、「ありこせぬかも」は「あってくれたらなあ」と恋の円滑な進展を願望している。まるで下三句だけで成立しているような歌。

 発句「芳野河  逝瀬之早見  須臾毛」「吉野川 行く瀬の早み 暫(しま)しくも」と訓む。「芳野河」は「芳野河(よしのかは)」と訓む。芳野河は吉野川。「芳野川」の表記で既出。紀ノ川上流部のことを奈良県でいう名で、大台ケ原山(1695メートル)を源とし、吉野町で高見川を合わせ、極端な曲流をなし、宮滝を経る。五條市付近で段丘地形の盆地をつくり、和歌山県に入り紀ノ川となる。「逝瀬之早見」は「逝(ゆ)く瀬の早み」と訓む。「逝」は「逝(ゆ)く」と訓む。「逝」は、後に「しぬ、みまかる」の意にも用いるようになるが、「行く」と同じ意で用いられている。「瀬」は「石の多い山川の急湍のところ。浅瀬」をいう。「之」はノ。「早見」は「早み」。「見」はミ。ここの「瀬の早み」については、ミ語法の変形と見て「瀬を早み」と同義で「流れが早いので」とする説と「早み」を名詞と見て「流れの早いところ」とする説がある。ここは、「高み、繁み」等と同じく、形容詞または形容動詞の語幹に付いて名詞をつくる接尾語ミで、そのような状態をしている場所をいうものだとする後者の説をとり比喩的な序詞と解したい。「須臾毛」は「しましくも」と訓む。「しまし」は「しばし」の古形で、限定された少時間内の意を表わす語。「わずかの間。少時。当分」の意。それにクが付いたのが「しましく」で多く下にモを伴って用いられる。ここもその例。「須臾(しゅゆ)」は、「暫くの間」を意味する仏教語で、その意から「しましく」に充てられたもの。「毛」はモ。なお、萬葉集には「しまらく」の例が東歌に一例あるが、「しばらく」の語例はない。

 結句「不通事無  有巨勢<濃>香問」「淀むことなく 有りこせぬかも」と訓む。「不通事無」は「不通(よどむ、淀む)事(こと)無(な)く」と訓む。「不通」は、普通、「通はず」又は「通はぬ」と訓まれるが、ここは、「不通」になることによって、「流れがとどこおり水がたまる」あるいは「物事が順調に進まないでとどこおる」ことになることから、その意を表わす「淀む」の義訓として用いられたもの。ちなみに萬葉集には「不通」は10例あるが、そのうち6例が「淀む」の義訓として、残り4例が「通はず(ぬ)」として用いられている。「有巨勢濃香問」は「有(あ)りこせぬかも」と訓む。「有」は「有(あ)り」。「巨勢」はコセで、主に上代に使われた希求の助動詞コスの未然形コセを表わす。なお、助動詞「こす」は、実際には無理で不可能な内容の事柄を望んでいて、否定表現と共に用いることが多い。萬葉集の例では、未然形は「こせね[シテクレヨ]」「こせぬかも[シテクレナイモノカナア]」、終止形は「こすな[シテクレルナ]」という言い方に限られる。「濃香問」はヌカモ。

【巻2(120)。】
題詞
歴史解説
 弓削皇子(ゆげのみこ)の作歌。「弓削皇子思紀皇女御歌四首」の2首目である。
原文  吾妹兒尓  戀乍不有者  秋芽之  咲而散去流  花尓有猿尾
和訳

 吾妹子(わぎもこ)に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを

現代文  「いつまでも、いとしいあの人に恋い続けていないで、秋萩の如く咲いて散る、私もそういう花になりたいのに」。
文意解説
 発句「吾妹兒尓  戀乍不有者  秋芽之」吾妹子(わぎもこ)に 恋ひつつあらずは 秋萩の」と訓む。「吾妹兒尓」は「吾妹兒(わぎもこ)に」と訓む。「吾妹兒」は「吾妹子」に同じ。「兒(こ)」は親愛の意を表わし、「吾妹(わぎも)」は「わがいも」が変化したもの。自分の、妻や恋人である女性、または広く女性を親愛の気持をこめて呼ぶ語。「尓」はニ。「戀乍不有者」は「戀ひつつ有(あ)らずは」と訓む。「戀」は「戀(こ)ひ」と訓む。「戀ふ」は、上代では、「時間的、空間的、心理的に、離れている物事を慕い、会えずに嘆く気持を表わす」のに用いられる。「乍」はツツ。「不有」は「有(あ)らず」と訓む。「者」はハ。「有らず」のズは打消しの助動詞の連用形で、下の強調の係助詞ハと付いて連語ズハを作る。ズハの後は推量の助動詞マシ・ム・ナム・ベシで終わるものがほとんどで、ズハが現実の事柄を示し、後半の推量の部分が事実に反する事柄を述べるという構造になっていることが多い。ここでも、「戀ひつつ有る」ことが現実の事柄を示し、反実仮想の助動詞マシを含む句が後半の部分ということになる。「秋芽之」は「秋芽(あきはぎ、萩)の」と訓む。「あきはぎ」は「萩の花」のこと、秋に花が咲くのでいう。萬葉集では「はぎ」を表わすのに「芽」「芽子」の字を用いている。「はぎ」が古株から芽を出すことからの用字であり、「はぎ」の名も「生え芽(き)」の意味でその名がついたものと言われる。現在用いている「萩」の字は、秋の代表的な草花の意で使われたもので、新撰字鏡に「萩」の字をあげて「波支(はき)又伊良(いら)」とあることから、平安時代には既に用いられていたことがわかる。ただ、秋の草の意で用いられた「萩」の字は、「椿」の場合と同様、漢字としての「萩」とは別の国字と見るべきものである。漢字の「萩」は「よもぎ」の類をいう。なお、萬葉集に「萩」を詠む歌は141首あり、草木類の第1で、巻8・巻10に特に多く、時代的には奈良遷都以後の作に多い。花の時期により「秋萩」とあるものが多く、78例を数える。

 結句「咲而散去流  花尓有猿尾」「咲きて散りぬる 花に有(あ)らましを)」と訓む。「咲而散去流」は「咲きて散去(ちりぬ)る」と訓む。「咲」は「咲き」。既出の「さく」には「開」の字が充てられていたが、ここが「さく」に「咲」の字を充てたはじめての例である。「咲」の字は古事記の使用例では全て「笑ふ」の意に用いられており、「咲」は「笑」の通用文字であった。本歌が作られた頃から「さく」の意に用いるようになったと考えられる。萬葉集では「さく」の意に「開」の字を用いた例96、「咲」を用いたもの70で、「開」の方が多い。「而」はテ。「散去」は「散り去(ぬ)」。「流」はル。「咲きて散去(ちりぬ)る」は、「咲いてすぐに散り去ってしまった」の意。「花尓有猿尾」は「花に有(あ)らましを」と訓む。「花」は、ここは紅紫色の萩の花をいう。「尓」は二。「有」は「有(あ)ら」。「猿尾」はマシヲ。

【巻2(121)。】
題詞
歴史解説
 「弓削皇子思紀皇女御歌四首」の3首目である。「紀皇女を思っての歌」。題詞によって玉藻を刈り取りたいという、その玉藻は紀皇女を指していると分かる。
原文  暮去者  塩満来奈武  住吉乃  淺鹿乃浦尓  玉藻苅手名
和訳

 夕さらば 潮満ち来なむ 住吉(すみのえ)の 浅香の浦に 玉藻(たまも)苅りてな

現代文  「夕方になったら汐が満ちて来ませう。住吉の浅香の浦で(今のうちに)玉藻を刈ってしまいたい」。
文意解説
 発句「暮去者  塩満来奈武  住吉乃」「夕さらば 潮満ち来なむ 住吉(すみのえ)の」と訓む。「暮去者」は「暮(ゆふ)去らば」と訓む。「暮」の字を「ゆふ」と訓む。「去」は「去(さ)ら」と訓む。「者」はバ。接続助詞バは、活用語の未然形に付く場合には順接の仮定条件を表わし、已然形に付く場合には順接の確定条件を表わす。ここは旧訓サレバと已然形で訓まれていたが、次にナムとあることから『萬葉代匠記』がサラバと未然形に訓むことに改めたもの。上代では、一日の明るい時間帯を3区分して、アサ→ヒル→ユフといっており、従って「ゆふ」は明るい間の終わりの部分を指すが、単独で用いられることはほとんどなく、「夕風」「夕霧」「夕日」「夕さる」など、他の語と複合して使われる。「夕さる」は「夕方になる。夕方がくる」の意で「夕さらば」は「夕方になると」。「塩満来奈武」は「塩[汐]満ち来(き)なむ」と訓む。「塩」は、「海水または岩塩から製し、精製したものは白い結晶で、食生活上なくてはならない調味料」であることは言うまでもないが、ここでは「汐(しほ)」の意で用いられている。「しほ」は、「海面が月と太陽の引力によって周期的に高くなったり低くなったりして、海水が岸また沖の方へ交互に動くこと。また、海流の動き。潮流。海水の流れ」をいう。「潮」は「朝しほ」、「汐」は「夕しほ」の意。「満来」は「満(み)ち来(き)」と訓む。「みちく」は、「満ちて来る。満潮になる」の意。「奈武」はナム。「…するようになるだろう。…になってしまうだろう。きっと…だろう」の意。「住吉乃」は「住吉(すみのえ)の」と訓む。「住吉」は摂津国の古郡名で、平安初期以降「すみよし」と呼称される。歌枕の一つ。「吉」はエともエシとも訓まれたので、日吉神社ももとヒエであったのがヒヨシとなったのと同じで、「住吉」も萬葉の時代には「すみのえ」と訓まれ、後に「すみよし」となったもの。「乃」はノ。

 結句「淺鹿乃浦尓  玉藻苅手名」「浅香の浦に 玉藻(たまも)苅りてな」と訓む。「淺鹿乃浦尓」は「淺鹿(あさか)[浅香]の浦に」と訓む。「淺鹿乃浦」は大阪府堺市東部の古名で、大和川の沿岸一帯にあたり、古くは海に面していた。摂津の名所で歌枕の一つ。一般には「浅香」と表記される。「乃」はノ。「尓」はニ。「住吉の浅香の浦に」が微妙。紀皇女は住吉(大阪)の女性だったのか、それとも、たんに「朝の内に」というために浅香の地名を持ち出したのだろうか判断がつかない。「玉藻苅手名」は「玉藻(たまも)苅(か)りてな」と訓む。「玉藻」の「玉(たま)」は美称で「美しい藻」の意。「苅」は「苅(か)り」。「苅る」は、「むらがって生えているものを短く切り払う」意。ここの「手名」はテナ。話し手自身の行為についての強い願望を表わすのに使われた。「(汐が満ちて来ない今のうちに)玉藻を刈ってしまいたい」ということだが、これは「人に邪魔されないうちに、あの人と結ばれたい」という気持を比喩的に表現したものと考えられる。

【巻2(122)。】
題詞
歴史解説
 「弓削皇子思紀皇女御歌四首」の四首目である。
原文  大船之  泊流登麻里能  絶多日二  物念痩奴  人能兒故尓
和訳  大船の 泊()つる泊りの たゆたひに 物()ひ痩せぬ 他人(ひと)の子故に
現代文  「大船が港碇泊するたびに(あの人が帰って来られたかと思い)、波の揺れと同じように私の心も揺れて、あなたのせいで痩せてしまいましたよ」。
文意解説
 発句「大船之  泊流登麻里能  絶多日二」「大船の 泊()つる泊りの たゆたひに」と訓む。「大船之」は「大船(おほふね)の」と訓む。「大船」は文字通り「大きな船」の意。「之」はノ。「大船の」が枕詞として使われるようになったことは既述。「泊流登麻里能」は「泊(は)つるとまりの」と訓む。「泊流」で以て「泊(は)つる」と訓む。ここの「泊」が「はつ」の連体形であることを明確に示すために、「流=ル」を補記している。「はつ」は、「船が港に着いて泊まる。停泊する」の意。「登麻里能」はトマリノ。「登麻里」は、「泊(とまり)」で、「船が停泊すること。また、そのところ。船着き場。港。津」をいう。「能」はノ。「大船が停泊する船着き場の」となり、次の「たゆたひに」に続く譬喩的な序詞。恋のために心の安定しないありさまの譬喩としたものであることは間違いないが、「大船が停泊する船着き場のたゆたひ」とは、どういう状態を言うのかが定かでない。諸注釈書の口訳をみると、「大船の碇泊する港のように」とするものが多いが、この口訳では意味が良く分からない。『萬葉集全歌講義』は、「大きな船が停泊する港の波がゆらゆら揺れるように」と口訳しており、それなりに意味は通るが、歌が詠まんとしていることから離れるような気がする。ここは「大船が港でなお動揺してとどまらない状態」を詠ったものとする説を支持したい。この説をとる『萬葉集全注』は、次のように述べている。
 「大船の」は「思ひ頼む」の比喩的枕詞として多く用いられているように、本来安定しているはずのものである。しかもそれが港に入っていながら動揺することを表現しているので、思いもかけぬ恋にとらわれた気持を伝えるものとなる。
 「絶多日二」は「たゆたひに」と訓む。「たゆたひ」は、「ゆらゆら動いて定まらないこと。また、気持が定まらないこと。心が動揺すること」をいう。「たゆたひ」の用例としては、他に「今者不相跡(いまはあはじと) 絶多比奴良思(たゆたひぬらし)」(542番歌)、「吾背子之(わがせこが) 情(こころ)多由多比(たゆたひ)」(713番歌)がある。もう一つの「絶多比」の例は、「たひ」は同じ常用音仮名だが、「たゆ」を表わすのに「絶」を借訓字として用いている。そしてそれは、動詞「絶ゆ」の「人との関係が切れる。縁が切れる。交わりがとぎれる」の意を含めるための用字であると考えられる。ここの「絶多日」の表記にも、「たゆ」に「絶」を使っていること、その表記を「多比」でなく「多日」と「ひ」に「日」を用いていることには、それなりの意が込められていると考えられる。二も普通は「尓」が用いられるが、ここは「二」を使っている。「絶多日二」の表記が表わしているのは、「二人の音信が絶える日が多い」という嘆きを込めたものと思うが、うがちすぎであろうか。

 結句「念痩奴  人能兒故尓」「物()ひ痩せぬ 他人(ひと)の子故に」と訓む。「物念痩奴」は「物(もの)念(も)ひ痩(や)せぬ」と訓む。ここの「物」は、ものを見る・もの覚ゆ・ものを思う、等と使われる「もの」で、「感じたり考えたりする事柄。悩み事、考え事、頼み事、尋ね事など」の意。「念」は「おもふ」と訓むが、「もの」と「おもふ」と直接続いた場合は「ものおもふ」のオ音が欠落して「ものもふ」と訓むのが通例であったことが仮名書き例によって知られている。ここもその例で「物念」で以て「ものもふ」の連用形で「物(もの)念(も)ひ」と訓む。「痩」は「痩(や)せ」。「やす」は、「体重が減りからだが細くなる」意。「奴」はヌ。「人能兒故尓」は「人(ひと)の兒(こ)故(ゆゑ)に」と訓む。21番歌に「人嬬(ひとつま)故(ゆゑ)に」とあった。ここの「人(ひと)の兒(こ)」を「人妻」の意とする説もあるが、作者が「人の子」と言っていることに従う。「人の子」の原義は「親をもつ子」であるので、男子についても言うが、萬葉集では、男子が恋人である女性を指して言っている例が多く、「あの子」「あの人」ほどの意として良いと思う。「故に」は「~であるのに」の意にとるが、ここでは「~のために」の意で、方言で言えば「~のせいで」がぴったりくる。

【巻2(123)。】
題詞
歴史解説
 三方沙弥(みかたのさみ)の作歌。「三方沙弥娶園臣生羽之女未經幾時臥病作歌三首」(三方沙弥(みかたのさみ)が、園臣生羽(そののおみいくは)()()ひて、幾だもあらねば、臥病(やみふ)せるときの作歌(うた)三首)。この題詞は、第125番歌までかかる。三首は、贈答歌であり、各歌の下に作者名が記されており、本歌と125番歌の作者は「三方沙弥」であり、124番歌の作者は「娘子」(=園臣生羽の女)であることがわかる。結婚後間もなく男が病床に臥して、妻のもとに通えなくなり、その後の妻の様子を気がかりに思う男の歌と、夫への変わらぬ愛を誓う年若い妻の歌である。「三方沙弥」の「沙弥」は、出家した男子でまだ具足戒(比丘・比丘尼の保つべき戒律)を受けるに至らず、比丘になっていない未熟な僧をいう。「三方」は氏の名と思われるが、「山田史御方(三方とも)」のように、名前を三方とする説もある。氏としては「御方大野」「三方宿祢広名」などの名が『続日本紀』にみえるが、いずれも本歌の作者「三方沙弥」との関係は不明。「園臣生羽の女」の「園臣生羽」についても伝未詳。
原文  多氣婆奴礼  多香根者長寸  妹之髪  此来不見尓  掻入津良武香
和訳  ()けば()れ 束かねば長き 妹が髪 このころ見ぬに 掻(か)き入れつらむか
現代文  「かきあげて束ねると解け、束ねないと長すぎた、あなたの髪は、この頃見ない間に掻き上げ束ね入れて整えただろうか」。
文意解説
 発句「多氣婆奴礼  多香根者長寸  妹之髪」()けば()れ 束かねば長き 妹が髪」と訓む。「多氣婆奴礼」はタケバヌレと訓む。「多氣」はタケを表わすのに用いたもの。「たく」は、手(て)を動詞化した語で、手を用いて何かをする意を表わすと考えられ、ここでは「髪をかきあげたばねる」の意。「婆」はバ。「奴礼」は、「漬(ひ)ちてぬれけれ」で既出の「ぬれ」を表わす。「ぬる」は、「髪など細長いものがずるずるとゆるんで解けたり、抜けたりする」ことをいう。ここの「ぬれ(布礼)」は、前節で118番歌結句の「・・・漬ちてぬれけれ」の「ぬれけれ」とは異なるのではないかとの私見がある。すなわち118番歌の「ぬれけれ」は普通に「濡れけれ」であって、「ばらける」と解する必要がないとしたが、本歌の場合、「たけば」は「束ねれば」の意なので、この「ぬれ」は「ほどける」でないと具合が悪い。「布礼」は普通に「濡れて」の意味で使われている。他に「寝れ」の用法もある。「思ひつつ寝ればかもとな・・・」というような使われ方をしている。「多香根者長寸」は「たかねば長き」と訓む。「多香」は「たく」の未然形「たか」を表わすのに用いたもの。「香根者」はカネバ。「長寸」は「長き」と訓む。「寸」はキ。「妹之髪」は「妹が髪」と訓む。「妹」は男性から結婚の対象となる女性、または、結婚をした相手の女性をさす称。ここでは妻。「之」はガ。「髪」は「頭に生える毛」。当時、女性の髪は、童女期には現在のおかっぱのようにしていたが、やや長ずると、放り髪と言って、後方へ垂らした。更に婚期に達すると、髪を上げて結ったのであり、それが女の成年のしるしであった。

 結句「此来不見尓  掻入津良武香」「このころ見ぬに 掻き入れつらむか」と訓む。「此来不見尓」は「此来(このころ)見ぬに」と訓む。「此来」は、当時の中国の俗語と思われ、「此頃」と同じく「このころ」と訓む。「近い過去から現在までの漠然とした時間をさしていう。ちかごろ。最近」の意。「不見」は「見ず」と訓んだが、ここは「見ぬ」と訓む。「尓」はニ。「掻入津良武香」は「掻(か)き入(い)れつらむか」と訓む。「掻入」は「掻(か)き入れ」と訓む。「かきいる」は、「髪を掻き上げ束ね入れてつくろう」ことをいう。「津良武」はツラム。「香」はカ。

【巻2(124)。】
題詞
歴史解説
 妻の「園臣生羽の女」の作歌。本歌は、「三方沙弥」作の123番歌(以下、前歌という)に対する妻の「園臣生羽の女」の返歌である。
原文  人皆者  今波長跡 多計登雖言  君之見師髪  乱有等母
和訳  人皆は 今は長しと たけと言へど 君が見し髪 乱れたりとも
現代文  「人は皆、いまはもう長くなったので掻き上げて束ねなさいと言うけれど、あなたのご覧になった髪はたとえ乱れていましょうとも(そのままにしてあります)」。
文意解説
 発句「人皆者  今波長跡 多計登雖言」「人皆は 今は長しと たけと言へど」と訓む。「人皆者」は「人皆は」と訓む。「人者皆」を採ってヒトハミナと訓む説もあるが、澤瀉『萬葉集注釋』が言うように、「人は皆」と「人」と「皆」との間に助詞を入れるのは平安朝以後の作に見られるもので、それによって音調をなめらかにやわらかくしたものである。萬葉集では「人皆者 芽子乎秋云」があり、「比等未奈能 美良武麻都良能」のように、「人皆の」の例は7例あることから、ここも「人皆者」を原文として「人(ひと)皆(みな)は」と訓むべきであろう。「今波長跡」は「今は長しと」と訓む。「今」の原義には時間の今昔の意味はなかったが、「今」は「近」と音が似ていることから、「近」が場所的に至近の意を表すのに対して時間的に至近の時を表わすのに「今」が使われるようになったという。「波」はハ。「長」は「ながし」。「跡」はト。「多計登雖言」は「たけと言えど」と訓む。「多計」はタケ。既出。前歌のケには「気」が使われているが、ここでは「計」と表記されている。「たけと」は前歌で述べたように「束ねたら」という意味。「登」はト。「雖言」は「雖云」と同じ。「雖」の字義は「いえども」で、①仮定。たとえ…であっても。②既定。…であるけれども。③譲歩。…ではございますが。と三用法がある。ここは②で、逆接の確定条件を表わす接続助詞ドとして使われている。「雖言」は「言(い)えど」と訓む。この「言えど」はトを二つ重ねているので、「たけと」だけではなく、「今(いま)は長(なが)しと」にもかかり、「髪がもう長くなった」と言い、また「髪をかきあげ束ねなさい」、「とも言うけれど」の意となる。

 結句「君之見師髪  乱有等母」「君が見し髪 乱れたりとも」と訓む。「君之見師髪」は「君が見し髪」と訓む。「君(きみ)」は既述。上代では、女性が男性に対して用いる場合が多い。ここでは夫の「三方沙弥」を指す。「之」はガ。「見」は「見(み)」。「師」はシ。この句は、前歌の「妹(いも)が髪(かみ)」に対応している。「乱有等母」は「乱れたりとも」と訓む。「乱有」で以て「乱(みだ)れたり」と訓む。「乱」は「乱(みだ)れ」。「有」はタり。「等母」はトモ。この句は、前歌の「掻(か)き入(い)れつらむか」に対して、「たとえ乱れていましょうとも、勝手に掻き上げて束ねるようなことはしたくない」として「あなたにお逢いできるまではこのままに」という心を示したものである。
「あなたが見慣れた髪をまわりの人達は「束ねたら」というけれど、と伸びている様子を倒置的表現で述べて置いて、一転、再度「あなたが見慣れた髪ですもの」と戻って「たとえ乱れてもそのままにしておきますわ」と述べる形になっている。

【巻2(125)。】
題詞
歴史解説
 「三方沙弥」の作歌。「三方沙弥娶園臣生羽之女未經幾時臥病作歌三首」の三首目。病床にあって妻の歌(124番歌)を受け取った夫が、妻のもとを訪ねることもできない我が身を不甲斐ないとも思い、やりばのない妻への愛情を抱いて苦しんで詠んだ歌といえよう。前二歌の歌意を理解した上でこの歌を鑑賞すると、いっそう作者三方沙弥の心情が強く伝わってくる歌である。
原文  橘之  蔭履路乃 八衢尓  物乎曽念  妹尓不相而
和訳  橘の 蔭(かげ)踏む道の 八衢(やちまた)に 物をぞ思ふ 妹に逢はずして
現代文  「たちばなの木陰をふんでゆく道の四つ角で、あれこれともの思いをすることだ。いとしい妻にあわないままだが。(元気にしておられるだろうか、気にかけておりますよ)」。
文意解説
 「『万葉集』を訓(よ)む(その186)」その他を参照する。

 発句「橘之  蔭履路乃 八衢尓」「橘の 蔭踏む道の 八衢(やちまた)に」と訓む。「橘之」は「橘(たちばな)の」と訓む。「橘」はミカンの古名。京都御所の紫宸殿(ししんでん)の南階下の西側にある「右近(うこん)の橘(たちばな)」はこれである。萬葉集では、「橘」は六十八首の歌に詠まれている。平城京の大路に街路樹が植えられてあったことは知られているが、藤原京でもおそらく街路樹が植えられており、「橘」は、その一種であったものかと思われる。「之」はノ。「蔭履路乃」は「蔭(かげ)履(ふ)む路(みち)の」と訓む。「蔭」は、「光線や風雨の当たらないところ」の意で、ここは、街路樹となっている「橘」の「木陰」をいう。「履」は「履(ふ)む」と訓む。「ふむ」は「足で下のものを押えるようにして前に進む」ことをいう。「路」は、もともとは神霊が降格することを示す字で「神の降る道」をいうが、一般に「人の行き来するところ」の意で用いる。「乃」はノ。次の「やちまた」にかかる序詞。「八衢尓」は「八衢(やちまた)に」と訓む。「八衢」は「道が八つに分岐している所。また道がいくつにも分かれている辻」の意であるが、「分かれ道が多くて迷いやすいこと」や、「あれこれと考えて心が乱れること」などのたとえにもいう。「八衢」は前者の意では名詞であり、後者の意では、ナリ活用の形容動詞である。ここでも、上の句とのつながりでは、「~道の四方八方に枝分かれする所」を意味するが、下句へはそれを比喩として、「あれこれと迷いやすい状態」を表現している。「尓」はニで、「八衢」を名詞と見る場合には場所を表わす格助詞の二に用いたものであるし、形容動詞と見る場合は、連用形の語尾二用いたものとなる。「道の八衢(やちまた)」は市街地の四つ角等のこと。恋情があふれ出た好感の持てる歌である。

 結句「物乎曽念 妹尓不相而」「物をぞ思ふ 妹に逢はずして」と訓む。「物乎曽念」は「物(もの)をそ念(おも)ふ」と訓む。ここの「物」は、「個々の具体物から離れて抽象化された事柄、概念」を表わし、「感じたり考えたりする事柄。悩み事、考え事など」の意。「乎」はヲ、「曽」はソ。「念」は「念(おも)ふ」。この句に作者の凝縮した思いが込められている。「妹尓不相而」は「妹(いも)に相(あ)はずして」と訓む。「妹」は、妻の「園臣生羽の女」をさす。「尓」は二。この句「妹尓不相而」については、イモニアハズテと7音に訓む説とイモニアハズシテと八音に訓む説とがあるが、ここは澤瀉『萬葉集注釋』が詳しく論じている通り、イモニアハズシテと句中に単独母音を含む字余り句の8音句に訓むべきであろうと思う。その論拠としては、第一に、「シ」に相当する文字の無い場合でも、訓み添えの疑いない例があること [「波不立而(なみたてずして)」(一二二三番歌)「含不有而(ふふめらずして)」(1648番歌)]、次に、「不相而」と書いてアハズシテと訓む確実な例の存すること [2869番・2980番歌の3句など]、最後に、「イモニアハズテ」と訓むと句中に単独母音を含みながら7音で、いわゆる準不足音句になること、の3点があげられる。なお、準不足音句については木下正俊『万葉集語法の研究』に詳論があるが、それによれば、短歌の各句の準不足音句は、第2句と第4句に圧倒的に多く、反対に第1、3、5句には極端に少ない。その理由は明らかではないが、とりわけ第5句においては音数不足を忌避する傾向が強いようである。





(私論.私見)