万葉集巻2-3

 (最新見直し2014.03.05日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは「万葉集巻2の2」として「202-234」を採録する。「訓読万葉集 巻1 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―」、「万葉集メニュー」、「万葉集」その他を参照する。万葉集読解9、万葉集読解10、万葉集読解11、万葉集読解12、万葉集読解13、万葉集読解14、万葉集読解15、万葉集読解16、万葉集読解17、万葉集読解18を参照する。

 2011.8.28日 れんだいこ拝


【巻2(200)。】
題詞
歴史解説
  柿本朝臣人麿の作歌。「短歌二首」。「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]」。本歌と次歌は199番長歌と共に前歌と同様柿本人麻呂作と長歌の題詞に明記されている。天武天皇の長子である高市皇子(たけちのみこ)の薨去に伴う挽歌である。
原文  久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 戀渡鴨
和訳  久かたの 天を知らせる 君故に 日月(ひつき)も知らに 恋ひわたるかも
現代文  「いつの間にか月日が流れていくが、私たち臣下はずっと皇子様をお慕いしています」。
 「永久に堅固な天上の世界をお治めになられることになった皇子故に月日の経つのもわからないほどに 恋いつづけていることだよ」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その337)」その他を参照する。

 発句「久堅之 天所知流 君故尓」「久かたの 天を知らせる 君故に」と訓む。「久堅之」は「久堅(ひさかた)の」と訓む。「天」および天に関わる「雨、月」などにかかる枕詞である。「堅固な、久しい」の意を持つ表現であると考えられる。「天所知流」は「天(あめ)を知らせる」と訓む。「天をお治めになる」すなわち「お亡くなりになった」の意。この句、旧訓にはアメニシラルルとあり、童蒙抄はアメヲシラスルとしたが、万葉考がアメシラシヌルと改訓してからは、それに従うものが多い。しかし萬葉集講義に「されど、『流』一字を『ヌル』ともよむも如何なれば或は『天ヲ知ラセル』とよむにあらざるか」と言うようにヌを読み添えて、「ぬる」の活用語尾を「流」で表記したものと見るのは無理があるように思う。れんだいこは「天を知らせる」と訓む。「天(あめ)」は、ヲを補読して「天(あめ)を」と訓む。「所知」は「知らせ」と訓む。「流」はル。この句は、高市皇子が亡くなったことを、天を治めるようになってしまったと表現したものである。「君故尓」は「君故(ゆゑ)に」と訓む。「君」は高市皇子を指す。「故尓」にはユヱニとカラニとの二つの訓みがある。ここはユヱニと訓む。「だから。そのために。したがって」の意。

 結句「日月毛不知 戀渡鴨」「日月(ひつき)も知らに 恋ひわたるかも」と訓む。「日月毛不知」は「日月(ひつき)も知らず」と訓む。現代語流に言えば「月日も知らず」。「日月」は時間上の「月日」の意。人麻呂や憶良らは「日月」とあり、家持などは「月日」とあるので、古くは「日月」と言っていたのが後に「月日」に変わったと考えられる。「毛」はモ。「不知」は「知らず」。二句の「しる」は「治める」の意であったが、ここの「しる」は「わかる。意識する。認識する」の意。「戀渡鴨」は「戀(こ)ひ渡るかも」と訓む。「わたる」は「…しつづける」の意で、「こひわたる」は「恋い慕いながら月日を経る」ことをいう。「鴨」はカモ。

【巻2(201)。】
題詞
歴史解説
 柿本朝臣人麿の作歌。
原文  <埴>安乃 池之堤之 隠沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑
和訳  埴安の 池の堤の 隠り沼(ぬ)の ゆくへを知らに 舎人(とねり)は惑(まと)ふ
現代文  「埴安の池の堤に囲まれた隠り沼のように行方もわからないので舎人は途方にくれている」。
文意解説
 発句「<埴>安乃 池之堤之 隠沼乃」「埴安の 池の堤の 隠り沼(ぬ)の」と訓む。「埴安乃」は「埴安(はにやす)の」と訓む。「埴安」は、奈良県橿原市の古地名で、藤原宮の東、香具山の麓をいう。そこに高市皇子の御殿があった。「乃」はノ。「池之堤之」は「池の堤(つつみ)の」と訓む。「池」は「くぼ地に水が自然にたまった所。または、地面を掘ったり土手を築いたりして水をためた所」の意で、湖沼より小さいものをいう。ここの二つの「之」はノ。「堤」は「包むものの」意から「湖沼・川・池などの岸に沿って、水があふれないように土を高く築いたもの。土手。堤防」の意となったもの。「埴安の堤」は「埴安乃 堤上尓」という表現で詠われている。「隠沼乃」は「隠(こも)り沼(ぬ)の」と訓む。「堤などで囲まれて水が流れ出ない沼」のこと。「隠(こも)る」は、「囲まれて外界と遮断されている中に入っていること。囲まれた中に入っている、あるいは、包まれていたり、含まれていたりして、外に出ない」ことをいう。これに対して類義語の「かくる」は「物の陰に入って他人・他所から見えなくなる。また。見られないように意図して、物陰に入る、人目につかないように潜む、人目を逃れる」ことをいい、「こもる」とは意が異なる。この句旧訓にカクレヌノとあったのを萬葉代匠記がコモリヌノと改訓したもので、「こもる」、「かくる」の意味から考えて、正しい改訓と言える。「乃」はノで、「~のように」の意。ここまでが「埴安の池の堤に囲まれて水の流れ行く方のない沼のように」の意で、次の句「去方(ゆくへ)を知らに」を起こす序詞となっている。なお、「池の堤の隠(こも)り沼(ぬ)」と言う言い方は少し奇妙で、池の他に沼が別にあるようにも聞こえるが、この意は「堤につつまれた隠(こも)り沼(ぬ)」ということであり、結局「埴安の池」そのものを「隠(こも)り沼(ぬ)」と言ったものと考えられる。

 結句「去方乎不知 舎人者迷惑」「ゆくへを知らに 舎人は惑(まと)ふ」と訓む。「去方乎不知」は「去方(ゆくへ)を知らに」と訓む。「去」を「ゆく」と訓む例は既出。「去方」は「行方」に同じで、「今後の有様。ゆきつく先。先のなりゆき。将来。前途」の意。「乎」はヲ。「不知」にはシラズとシラニの二通りの訓みかたがあるが、ここはシラニと訓む。「知らないで、知らずに、知らないので」の意となり、次に来る事柄の理由を表す時に用いられる。「舎人者迷惑」は「舎人(とねり)は迷惑(まと)ふ」と訓む。「舎人(とねり)」は、「天皇、皇族などに近侍し、雑事にたずさわった者」をいうが、ここは高市皇子に仕えた舎人を指す。「者」はハ。「迷惑」の「惑」は、「長歌」に「或」(惑の省文)の表記で「まとふ」「まとはす」に宛てられていたが、「迷」の字も当時「まとふ」と訓んだ例が、208番歌「秋山之(あきやまの) 黄葉乎茂(もみちをしげみ) 迷流(まとひぬる)」に見られる。ここでは「迷惑」の二字で以て「まとふ」に宛てたものである。「まとふ」は「考えが定まらずに、思案する。分別に苦しむ。途方に暮れる」ことをいう。

【巻2(202)。】
題詞
歴史解説
 「或ル書ノ反歌一首」。或本に202番歌を長歌(199番歌)の反歌として伝えていたことを示している。しかし、この歌の左注に「右一首類聚歌林曰 桧隈女王怨泣澤神社之歌也 案日本紀云十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨(右ノ一首ハ、類聚歌林ニ曰ク、檜隈女王、泣澤ノ神社ヲ怨メル歌ナリ。日本紀ニ案ルニ曰ク、〔持統天皇〕十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後ノ皇子尊薨セリ)」とあって、作者は人麻呂ではなく桧隈女王であると記している。この左注の口語訳を『萬葉集全歌講義』によって記すと「右の一首は、類聚歌林に、桧隈女王が、泣沢神社を怨んだ歌であると記している。日本書紀を調べて見ると、(持統)十年七月十日に後の皇子尊が薨去したとある。」となる。この左注により、類聚歌林は山上憶良の編纂した歌集で、そこにこの202番歌は桧隈女王(ひのくまのおほきみ)の歌として採録されていたことがわかる。また「後の皇子尊」は高市皇子の尊称であるから、高市皇子の薨去に関わる歌であることを示したものと思われ、恐らく人麻呂の長歌と同じく高市皇子の殯宮の時に誦されて書き留められたものが、或本には人麻呂の長歌の反歌として伝えられたものであろう。なお、桧隈女王は高市皇子の女(むすめ)ではないかと推測される。「泣澤神社」は、伊邪那岐命が妻伊邪那美命の死を悲しんで泣いた時の涙から生まれた神とされる「泣澤女神(なきさわめのかみ)」を祭神とする神社で、現在の橿原市木之本町にある畝尾都多本神社を指す。
原文  哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈 我王者 高日所知奴
和訳  哭沢(なきさは)の 神社(もり)にみわ据ゑ 祈れども 我が大君は 高日知らしぬ
 哭澤 神社神酒(みわ)据ゑ ()まめども 我が(おほきみ)は 高日知らしぬ
現代文  「哭沢(なきさわ)の 神社に神酒を捧げて お祈りしたのだが(その甲斐もなく) わが大君は 天上を治める方になってしまわれた」。
文意解説
 発句「哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈」「哭沢(なきさは)の 神社(もり)にみわ据ゑ 祈れども」と訓む。「哭澤之」は「哭澤(なきさわ)の」と訓む。「哭」は声を上げて泣くことを表す意。「之」はノ。「神社尓三輪須恵」は「神社(もり)にみわ[神酒]すゑ」と訓む。「神社」は神のいます所の意で「もり」と訓む。神霊は樹木が高く群がり立った所によりつくと考えられ、もとは社殿がなく森そのものを神のいます所として祭った。泣沢神社は天香具山の麓に鎮座する神社。「尓」はニ。「三輪」はミワと訓み、「神に供える酒」の意、「神酒、御神酒」とも表記される。語源説の一つに「三輪の神が酒神であるところから」〔言元梯・名言通・和訓栞〕とするものがあるが、そのことを意識しての用字であると思われる。「須恵」はスヱ。「すう」は「物を動かないように、一定の場所に置く。また、安置する。供する」ことをいう。「雖祷祈」は「祷祈(いの)れども」と訓む。「祷、祈」は共に「いのる」意を表す字で、ここは「祷祈」の二字で「いのる」に宛てたもの。「いのる」のイは神聖、斎の意で、「のる」は宣るの意。「いのる」で以て「神仏に請い願う」ことをいう。

 
結句「我王者 高日所知奴」「我が大君は 高日知らしぬ」と訓む。「我王者」は「我が王(おほきみ)は」と訓む。「我」はガを補読して「我(わ)が」。ここでは高市皇子を指す。「者」はハ。「高日所知奴」は「高日(たかひ)知らしぬ」と訓む。「高日(たかひ)」は「天に高く照る日。また、天上」の意。「所知」は「知らし」と訓む。「高日を知らす」とは「天知らす」と同じく天上を治められるようになられたこと、すなわち薨去せられたことを意味する。「奴」はヌ。

 寧樂(なら)の宮に天の下知ろしめしし天皇の代

【巻2(203)。】
題詞  穂積皇子(ほづみのみこ)の作歌。「和銅元年(はじめのとし)歳次戊申(つちのえさる)、但馬皇女の(すぎたま)へる後、穂積皇子の日雪落(ゆきのふるひ)御墓を遥望(みさ)けて、悲傷流涕(かなしみ)よみませる御歌一首」。(「但馬皇女(たじまのひめみこ)の薨去を悲しんで穂積皇子(ほづみのみこ)が作った歌」)。この歌は、但馬皇女が亡くなった後、恋人だった穂積皇子が但馬皇女を偲んで詠んだ歌である。但馬皇女は114~116番歌の作者である。すべて穂積皇子への思慕を物語る歌だった。二人は共に天武天皇の子。異母姉弟。114番歌の題詞に「但馬皇女、高市皇子の宮に在住の際穂積皇子を偲んだ歌」とあるので、すわ皇女は高市皇子の后だったのではないか、穂積皇子とは不倫関係にあったのではないかといった種々の憶測を呼んでいる。「吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡」はどこの岡か不明。おそらく皇女の眠っている岡。「あはに」は多く。「な降りそ」は「降るな」。今回は203番歌を訓む。題詞に「但馬皇女薨後穂積皇子冬日雪落遥望御墓悲傷流涕御作歌一首」とあり、これを訓み下すと「但馬皇女(たぢまのひめみこ)の薨(こう)じて後、穂積皇子(ほづみのみこ)、冬の日雪の落(ふ)るに遥に御墓を望み、悲傷流涕(ひしやうりうてい)して作りませる御歌一首」となる。但馬皇女は114~116番歌の作者として既出。穂積皇子もそれらの歌の題詞に既出。穂積皇子と但馬皇女は、天武天皇の皇子・皇女で異母兄妹。この歌について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は「但馬皇女が和銅元年六月に薨じた後の冬とあるので、その年の冬のことかと思われる。但馬皇女の穂積皇子への恋は、持統天皇の信任篤く太政大臣であった異母の長兄高市皇子の宮へ身を寄せていた当時のことで、しかも高市に次ぐ待遇を受けていた穂積皇子としては、高市皇子の妻の一人と周囲から見られていた但馬皇女に対して慎重な態度をとらざるを得なかった。相聞の部所収の但馬皇女の歌(114~116)を通して推測すれば、この恋は皇女の方が激しく積極的であったらしい。それに応えることのできなかった心の負い目が、長く穂積皇子の苦しみとなったようだ」と述べている。穂積皇子の歌は萬葉集に本歌の他三首(1513・1514・3816)あるが、いずれも皇子の但馬皇女への思いを感じさせるように思う。
原文  零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 塞為巻尓
和訳  降る雪は (あは)にな降りそ 吉隠(よなばり)の 猪養(ゐかひ)の岡の 塞(せき)為(な)さまくに(寒からまくに)
 降る雪は にな降りそ 吉隠の 猪養岡の 塞(せき)為さまくに
現代文  「雪よ、そんなに降り注がないでおくれ。吉隠にある猪養の岡への道のさえぎりのようになってしまうだろうから。(吉隠の猪養の岡に眠っている但馬皇女が寒かろうに」。
文意解説
 発句「零雪者 安播尓勿落 吉隠之」「降る雪は (あは)にな降りそ 吉隠(よなばり)の」と訓む。「零雪者」は「零(ふ)る雪は」と訓む。「零」は「零(ふ)る」と訓む。「雪」は、古来より「花、月」とともに代表的景物とされるが、萬葉集で「雪」を詠んだ歌は127首で、「花」の331首、「月」の284首には及ばないが、それは「雪」が冬に限定される景物であるためであろう。「者」はハ。「安播尓勿落」は「あはにな落(ふ)りそ」と訓む。「安播尓」はアワ二。「あはに」は「さはに」と同じく「多く。たくさんに」の意。「勿」はナ。ソを伴って「な … そ」の形で用いられる。ここも「落」はソを補読して「落(ふ)りそ」と訓む。「落」を「零」と同じく「ふる」と訓む例は多く見てきたが、直近では199番歌の「み雪落(ふ)る」がある。「吉隠之」は「吉隠(よなばり)の」と訓む。「吉隠(よなばり)」は地名で、奈良県桜井市吉隠。初瀬の東方、約2・5キロの所。「之」はノ。

 結句「猪養乃岡之 塞為巻尓」猪養岡の 塞(せき)為さまくに」と訓む。「猪養乃岡之」は「猪養(ゐかい)の岡の」と訓む。吉隠の地にあった岡の名前で「ゐかいのをか」。但馬皇女の御墓のあった所と思われる。「乃」はノ。「塞為巻尓」は「塞(せき)為(な)さまくに」と訓む。「塞(せき)」は、「物事をさえぎること。へだてること」をいう。ここでは「猪養の岡の塞」で「猪養の岡」への道の「さえぎり」の意。「為巻尓」は、「為(な)さまくに」と訓む。「何々をなす」を「何々なす」ということは、「何々を形成する」ということから「何々の観を呈する」ということになり、やがて「鏡なす」「玉藻なす」をともなって「の如く」の意ともなるに至ることになるので、ここの「塞(せき)為(な)す」というのも「塞(せき)のようになる」ことを言ったものと考えられる。
歴史解説  但馬皇女と穂積皇子の悲恋物語については巻二(一一四)~(一一六)で詠まれている。但馬皇女が眠っている吉隠の猪養の岡はいまははっきりとした場所が分からない。奈良県桜井市の吉隠公民館あたりから見渡せる岡のどこかと推定されている。吉隠公民館にこの歌の歌碑が建っている。吉隠は国道165号線を長谷寺から三重方面に向かった榛原の手前にある。

【巻2(204)。】
題詞  置始東人(おきそめのあづまひと)の作歌。「弓削皇子薨時置始東人作歌一首 并短歌 」(弓削皇子の薨(すぎま)せる時、置始東人がよめる歌一首、また短歌)。置始東人は66番歌の作者として既出。置始氏には、連姓の者もいるが、東人は無姓で伝未詳。ただ、本歌を含めて弓削皇子に対する挽歌(204~206)三首を詠んでいるから、同皇子か長皇子に近侍していた下級官人であった可能性が高い。弓削皇子も111番歌の作者として既出。天武天皇の皇子で、同母兄に長皇子がいる。『萬葉集』に異母妹紀皇女への恋に苦しむ歌を含めて、八首の短歌をのこす。本歌は16句からなる長歌であるが、歌の詞句は、人麻呂作歌や額田王作歌などに既出の表現が多く、賀茂真淵はこの歌を酷評して次の短歌二首を含めて後人の注であるとして他の本文より小字として行を下げて掲げている。真淵の評は過激に過ぎ、その処置も独断に過ぎると言えるが、人麻呂の作と比較すると真淵の評言も強ち間違っているとは言えないとも思われる。
原文  安見知之 吾王 高光 日之皇子 久堅乃 天宮尓 神随 神等座者 其乎霜 文尓恐美 晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡 臥居雖嘆 飽不足香裳
和訳  やすみしし 我が王(おほきみ) 高光る 日の皇子 久かたの 天(あま)つ宮に 神ながら 神と座(いま)せば そこをしも あやに畏み 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも
現代文  「安らかに天下を支配され たわが大君 高々と光り輝く 日のみ子 はるか彼方の 天上の宮に 神々しくも 神としておいでになったので そのことが 実に恐れ多く 昼は 昼中 夜は 夜通し  臥したり坐ったりして嘆くけれども なお嘆き足りないことだよ」。
文意解説  長歌(れんだいこ式で7句)。『万葉集』を訓(よ)む(その341)」その他を参照する。 
 発句「安見知之 吾王」やすみしし 我が王(おほきみ)と訓む。「安見(やすみ)知し」は、国を安らかに知ろしめす(治める)意から、「我が大君」およびその変形である「我ご大君」にかかる枕詞。用字としては「八隅知之」があるが、これは、もともと「安らかに知ろしめす」意の和語があったものに、「八方を統べ治める」という極めて中国的な発想の影響を受けるようになってから用いられるようになったものと考えられる。「やすみしし」は慣用的表現である。「吾王」は既述。「吾(わ)が王(おほきみ)の」と七音に訓むが、ここは「吾(わ)が王(おほきみ)」と六音に訓む。ここの「吾王」は弓削皇子を指す。

 2句「高光 日之皇子」は「高光る 日の皇子」と訓む。「高光」は既出。旧訓にタカテラスと訓んでいたが、古事記の歌謡の仮名書き例「多迦比迦流(タカヒカル) 比能美古(ヒノミコ)」を挙げて、『萬葉代匠記』がこれをタカヒカルに改訓したことは先に述べた。「たかひかる」は、空高く光り輝く太陽の意で、「日」にかかる枕詞で、天皇および皇子への賞辞として日神信仰を背景に使用された当時の宮廷儀礼歌の常套句といえる。「日之皇子」は既出で天照大神の子孫の意。 ここの「日之皇子」は、「吾王」と同じく弓削皇子を指す。古事記の歌謡に、倭建命を「多迦比迦流(たかひかる) 比能美古(ひのみこ) 夜須美斯志(やすみしし) 和賀意富岐美(わがおほきみ)」と称した例があるが、本歌の句は、それを前後した形で本歌の主格である弓削皇子を提示するのに用いたものである。

 3句「久堅乃 天宮尓」久かたの 天(あま)つ宮にと訓む。「ひさかたの」は、「天」および天に関わる「雨、月」などにかかる枕詞として使われている。ここは次の「天宮」にかかる。「ひさかたの」の表記には「久堅之(乃・能)」、「久方之(乃)」などがあることから、「堅固な・久しい」の意を持つ表現であると考えられる。「天宮」は旧訓アメノミヤであったが、『萬葉考』にアマツミヤと改めた。大祓の祝詞に「天津宮事(アマツミヤコト)」とあり、「安麻都美豆(アマツミヅ)」などの仮名書き例により、アマツミヤと訓むのが正しいと思われる。「天つ宮」は天上にある宮殿で、天皇や皇子などが現世を去るとともに移り住まわれると考えられた所である。「尓」はニ。

 4句「神随 神等座者」神ながら 神と座(いま)せばと訓む。「神随」は既出で、「神(かむ)ながら」と訓んで、「神の本性そのままに。神でおありになるままに」の意。「神等」は「神(かみ)と」で「神として」の意。「等」はト。「座」は「座(いま)せ」と訓む。「います」は、「いらっしゃる。おいでになる」の意。「者」はバ。

 5句「其乎霜 文尓恐美」「そこをしも あやに畏み」と訓む。「其乎霜」は「そこをしも」と訓む。196番歌異伝に「所己乎之毛」の表記で既出、「その事をまあ」の意。「其」は「其処、其所」とも書き「そこ」と訓む。「そこ」は、相手側の場所・事物、もしくは話題の場所・事物をさし示す代名詞。「乎」はヲ。「霜」はシモ。「文尓」はアヤニと訓み「綾」、「綾尓」の表記で既出。言葉に表わせないほど、また、理解できないほどの感動をいう。「なんとも不思議に。わけもわからず。むやみに」の意。「恐美」は「恐(かしこ)み」と訓み、「むしょうに恐れ多いこと」をいう。

 6句「晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡」「昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと」と訓む。ここは、155番歌「晝者母・日之盡」に、ハモの表記は異なるが同じ。「波毛」はハモ。「特に取り立てて提示しようとするものに、強い執着や深い感慨を持ち続けている場合に使う」(岩波古語辞典)。「盡(ことごと)」は「残らず、全て」の意なので、「晝(ひる)はも 日(ひ)の盡(ことごと)」は「昼は、昼中」の意となる。「夜羽毛 夜之盡」は「夜はも 夜(よ)の盡(ことごと)」と訓む。ここも、「夜者毛 夜之盡」と、ハモの表記は異なるが同じ。「夜は、夜通し」の意。「羽」はハ。ここの二句対は、155番歌では「夜」→「晝」であったものが、「晝」→「夜」と順序が変わっている。

 結句「臥居雖嘆 飽不足香裳 」「臥し居嘆けど 飽き足らぬかも」と訓む。「臥」は「臥(ふ)し」。「居」は「居(ゐ)」。「臥(ふ)し居(ゐ)」は「臥したり坐ったりして」の意。「雖嘆」は「嘆(なげ)けど」と訓む。「飽」は「飽(あ)き」。「不足」は「足(だ)らぬ」と訓む。「飽き足らぬ」は「心の満ち足りない」ことをいう。アキダラヌと濁音であったことは「阿岐太良奴比波(アキダラヌヒハ)」(836)、「安伎太良奴可母(アキダラヌカモ)」(4299)から知られる。「香裳」はカモ。この歌の末尾の形式は五七七でなく、四六七七となっており、長歌の形式からは外れている。
歴史解説

【巻2(205)。】
題詞
 置始東人(おきそめのあずまびと)の作歌。この歌と次歌は前歌(204番長歌)の題詞に、弓削皇子(ゆげのみこ)の薨去に伴い置始東人(おきそめのあずまびと)が作る歌とある。大君はいうまでもなく弓削皇子(天武天皇の皇子)。
原文  王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴
和訳  王(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも) 五百重(いほへ)が下に 隠りたまひぬ
現代文  「皇子は 神でいらせられるので 天雲の 幾重にも重なった奥に お隠れになってしまった」。205番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。
文意解説
 発句「王者 神西座者 天雲之」(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも)の」と訓む。「王者」は「王(おほきみ)は」と訓む。「王(おほきみ)」は弓削皇子を指す。「者」はハ。「神西座者」は「神(かみ)にし座(ま)せば」と訓む。この句は「長歌」の「神(かむ)ながら・神(かみ)と座(いま)せば」を承けたもの。「西」は二シ。二を強調して表わす。「座」は「座(ま)せ」。「ます」は「ある」「いる」の意の尊敬語。「者」はバ。この句は、人麻呂作歌でも、235番歌に「皇者(おほきみは) 神二四座者(かみにしませば)」、241番歌に「皇者(おほきみは) 神尓之坐者(かみにしませば)」の表記で用いられているし、巻19に「壬申年之乱平定以後歌二首」という題詞を持つ4260・4261番歌にも表記は少し異なるが同句があり、この句が壬申の乱後、天武天皇の神的権威を讃仰する詞句として慣用されたことが知られる。「天雲之」は「天雲(あまくも)の」と訓む。「空の雲」の意。「之」はノ。

 結句「五百重之下尓 隠賜奴」五百重(いほへ)が下に 隠りたまひぬ」と訓む。「五百重之下尓」は「五百重(いほへ)が下(した)に」と訓む。「五百重」は「いほへ」と訓み、「いくえにも物が重なっていること。数多く重なっていること」をいう。ここの「之」はガ。同じ連体修飾の格助詞「の」と用法は相重なるが、両助詞の機能的な差異から、自然とその使用環境は微妙な差異がある。第一に、人を表わす体言を受ける場合、待遇表現上の区別が認められる。「が」助詞が用いられた場合には、その人物に対する親愛、軽侮、憎悪、卑下等の感情を伴い、「の」助詞が用いられた場合には敬意あるいは心理的距離が感じられる。第二に、受ける語の種類が「の」助詞より狭く、従ってその関係構成も狭い。「下(した)」は、上・表の反対で、「内側・見えないところ」をいう。「尓」はニ。「隠賜奴」は「隠(かく)り賜(たま)ひぬ」と訓む。「隠」は「隠(かく)り」。「死ぬ」ことをいう。貴人が死ぬことの婉曲な表現である。「賜」は「賜(たま)ひ」。「たまふ」には「賜、給」の字が宛てられるが、上位から下位へ物や恩恵を与える動作を表わすのが原義と思われる。そこから、恩恵を受ける下位者の立場を主として、「上位者が恩恵を与えてくれる、下さる」という、動作主を敬う気持が生じ、尊敬語が成立する。一方、恩恵を与える立場の者を主として、「恩恵を与えてやる、くれてやる」の意に用いられる場合も生じる。ここは尊敬表現に用いている。「奴」はヌ。
歴史解説

【巻2(206)。】
題詞  反し歌一首
原文  神樂<浪>之 志賀左射礼 浪敷布尓 常丹跡君之 所念有計類
和訳  楽浪(ささなみ)の 志賀さざれ 波しくしくに 常にと君が 思ほえたりける
現代文  「楽浪の地の 志賀の湖のさざれ浪が しきりに寄せるようにしきりに いつまでも変わらずにいたいと君が お思いになっていたことよ」。
文意解説  「ささなみの志賀」とは30番歌で述べたように、琵琶湖沿岸の地名のひとつ。「ささなみの~しくしくに」は「常にと」(絶え間なく)を受ける比喩の序句。「皇子様は(ずっと長らく)健在でいたいものだと思っていらっしゃったのに」が下二句の意である。今回は206番歌を訓む。題詞に「又短歌一首」とある。前の長歌(204番歌)とは別の時に詠まれたもので、長歌の反歌というわけではない。しかし本歌は、作者が、公にはしなかった弓削皇子の心中の思いをも知り理解していたことを示すもので、この作者の弓削皇子に対する並々ならぬ思いを感じ取ることが出来る一首と言えよう。この作者にとっては、先の真淵が酷評した長歌も、その伝統的儀礼性・形式性こそが、弓削皇子に対する最高の礼を尽くした挽歌と思われたのではあるまいか。
 
 発句「神樂<浪>之 志賀左射礼 浪敷布尓」楽浪(ささなみ)の 志賀さざれ 波しくしくに」と訓む。「神樂浪之」は「神樂(ささ)浪(なみ)の」と訓む。「神樂浪乃」とノの表記は違うが同じ。「ささなみ」は既述。「志賀」は、「思賀」、「四賀」の表記で既出。滋賀県南西部の郡名で、琵琶湖と比良山地にはさまれた地域をいう。「左射礼」はサザレ。「わずかな」「小さい」「こまかい」などの意を添える。「さざれいし、さざれなみ、さざれがい」など。ここは「さざれ浪(なみ)」で「小さな浪」。「敷布尓」は「しくしくに」と訓む。「敷、布」ともにシクを表す。「しくしく」は、動詞「しく(頻)」を重ねてできた語で、物事があとからあとから重なり起こるさまをいう。「あとからあとから。しきりに。たえまなくの意。「尓」の二を伴った例で「しくしくに」。

 結句「常丹跡君之 所念有計類」は「常にと君が 思ほえたりける」と訓む。「常丹跡君之」は「常にと君が」と訓む。「常丹」は「常に」と訓む。二に「丹」を用いている。「常に」は、「いつまでも変わらず」の意で、下に、「ありたい」の意の「あらむ」「もが」などの語が略されていると考えられる。「跡」はト。「君」は弓削皇子を指す。「之」はガを表す。「所念有計類」は「念(おも)ほせりける」と訓む。「所念」は「念(おも)ほせ」と訓む。「有」はり。りは、もともと「有り」が付いてできた語が約まって、「あり」の語尾りだけが切り離された形で助動詞として取り扱われるようになったものである。「有」が助動詞「り」に宛てられているのはその成立の名残と言えよう。「計類」はケル。
歴史解説

【巻2(207)。】
題詞  柿本朝臣人麿の作歌。「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首[并短歌]」(柿本朝臣人麿が、妻(め)死(みまかり)りし後、泣血哀慟(かなしみ)よめる歌二首、また短歌)。「泣血哀慟歌」と称されている歌群の一首目の長歌である。「泣血哀慟歌」は、長短歌二組六首からなる歌群で、第一群は本歌と次に続く短歌二首(207~209)、第二群は210番歌とそれに続く短歌二首(210~212)という二群からなり、さらにその後に第二群の異伝(「或本歌曰」)である213番歌とそれに伴う短歌三首(213~216)の別群が続いている。「泣血」は「血の涙を流す」意で、『韓非子』に「和乃抱其璞、而哭於楚山之下、三日三夜、泣尽而継之以血」(和氏(かし)篇)とある。和氏(かし)は楚の人。あら玉を王に献じたが、玉と認められず足斬りの刑に処せられ、三世の王に至って始めて認められたという。和は認められないことを嘆いて血の涙を流したというこのお話から「泣血」という語が生まれたとされる。「哀慟」は、後漢書・済北恵王寿伝に「父没哀慟、焦毀過礼」とある。また「慟」は、171番歌題詞「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」に「慟傷」という語で既出、「慟(かな)しび傷(いた)みて」と訓んだ。「泣血哀慟歌」は、柿本人麻呂が軽の里に住む妻の死を悲しんで作った挽歌であるが、聴衆を意識した虚構や物語意図を含む創作歌としての面を指摘する論考もある。
原文  天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不已行者 人目乎多見 真根久徃者 人應知見 狭根葛 後毛将相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣淵之 隠耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隠如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使之言者 梓弓 聲尓聞而 [一云 聲耳聞而] 将言為便 世武為便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴  [或本 名耳聞而有不得者]
和訳  天(あま)飛ぶや (かる)の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば 懃(ねもころ)に  見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉蜻(かぎろひ)の 磐垣淵(いはかきふち)の (こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠(がく)るごと 沖つ藻の 靡(なび)きし妹は もみち葉の 過ぎて()にしと 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)の言へば 梓弓 音のみ聞きて 言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば ()が恋ふる 千重(ちへ)の一重も 慰むる 心もありやと 我妹子が 止まず出で見し 輕の市に ()が立ち聞けば 玉たすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる。
現代文  「(天飛ぶや) 《大空を飛ぶ雁そのカリではないが》 軽の道は わが妻の住む 里なので 念入りに 見たいと思うのだが 休みなく行ったら 人目につくし たびたび通ったら 人に知られてしまうので (さね葛)《真葛の蔓のごとく分かれていても》また後に逢おうと  (大船の) 《大船を信頼するように》将来をたのみにして (玉かぎる) 《玉の光のようにほのかに光る》岩に囲まれた淵ではないが 心の中でのみ 恋いしたっていたところ 大空を渡る日が 暮れてゆくように 夜空に照る月が 雲に隠れるように (沖つ藻の)《沖つ藻が靡くように》わたしに寄り添って寝た妻は (もみち葉の)《黄葉が散り過ぎるように》はかなくなってしまったと (玉梓の)《玉梓を持った》 使いが言うので (梓弓)《梓弓の音ならぬ》(意外な)知らせを聞いて 言いようもなく どうしようもなく 知らせだけを 聞いてもおられず この恋しい気持の 千分の一だけなりとも 気が晴れる こともあろうかと 妻がしょっちゅう出て見ていた 軽の市に 立って耳をすませると (玉たすき)《玉たすきを懸けるそのウナジではないが》畝火の山に 鳴く鳥の (声が聞こえないように妻の)声も聞こえず (玉桙の)《玉桙の様に真っすぐな》道を行く人も 誰ひとりとして 妻に似た人はいないので どうにもしようがなくて 妻の名を呼んで 袖を降ったことだよ」。
文意解説  長歌()。207番長歌の題詞に「妻を亡くした柿本人麻呂の作」とある。そして異伝も含めて216番歌まで長短歌10歌が続いている。「『万葉集』を訓(よ)む(その345)」その他参照。
 発句「天飛也 軽路者」「天(あま)飛ぶや 軽(かる)の路(みち)は」と訓む。「天(あま)飛ぶ」は「大空を飛ぶ」という意であるが、それにヤが付いた「天(あま)飛ぶや」は枕詞として使われた。「空を飛ぶ」意から「鳥」「雁」また「雁(かり)」と類音で地名の「軽(かる)」にかかる。ここは地名「軽」の枕詞として用いたもの。「軽路」は「軽(かる)の路(みち)」と訓む。「軽」は藤原宮の西南にあたる現在の橿原市大軽・見瀬・石川・五条周辺をいったものと思われる天武天皇十年十月紀に「軽市」と記されていて、その頃既に交易売買する市として発達していたことが知られる。「軽の路」はいわゆる下つ道の一部で、近鉄橿原神宮前の東に岡寺駅の方向に南北に走る道がその名残と言われている。「者」はハ。

 2句「吾妹兒之 里尓思有者」「吾妹兒(わぎもこ)が 里にし有(あ)れば」と訓む。「吾妹兒」は「わぎもこ」と訓み、「吾妹(わぎも)」(「わがいも」の変化した語)と同じく、自分の、妻や恋人である女性、または広く女性を親愛の気持をこめて呼ぶ語である。「兒」は「子」に同じで親愛の意を表す。「之」はガ。「里」は、人家のあつまっている所、人の住んでいる所、村落をいう。ここは妻の住む里のこと。「尓」はニ。「思」はシ。「有者」は「あれば」と訓む。

 3句「懃 欲見騰」「懃(ねもころ)に 見まく欲(ほ)しけど」と訓む。「懃」は「慇懃(いんぎん)」という漢語の一字で、「心を込めて念入りにするさま」の意を持つことから、同じ意の和語「ねもころ」を表すのに宛てたもの。ここでは「懃(ねもころ)に」と副詞に訓んで「心を込めて念入りに」の意で次の用言にかかる。「欲見」の「見」は「見むあく」の約まった「見まく」と訓む。「欲」は「ほし」の已然形で「欲(ほ)しけ」と訓む。「騰」はド。

 4句「不已行者 人目乎多見」「已(や)[止]まず行(ゆ)かば 人目(ひとめ)を多(おほ)み」と訓む。「不已」は「已(や)まず」と訓む。「やむ」は「止時毛無(やむときもなし)」など「止」の字が最も多く用いられているが、149番歌「念息登母(おもひやむとも)」のように「息」の字も用いられ、「已時毛無(やむときもなし)」ともあって、例は少ないが「已」の字も用いられている。名義抄には「已。ヤム・ヲハル・オコタル・スデニ・スツ・ハナハダシキ・モチヰル・ワキマフ・オサフ・ワヌシ・ノミナリ」の訓みを記す。「やむ」は「物事が途中で行なわれなくなる。続いてきたある状態がとだえる」ことをいうので、「やまず」は「絶え間なく」の意となる。「行者」は「行(ゆ)かば」と訓む。動詞「ゆく」と「いく」との違いについて、前から気になっていたので、日本国語大辞典で調べて見たところ「ゆく」の【語誌】に次のようにあった。
 (1)同義語に「いく」があるが、使用頻度は、室町期を過ぎる頃まで「ゆく」が優勢であった。「ゆく」は和歌のほか文字言語、ことに訓点資料に多く用いられた。音便形の「ゆいて」も、おおむね訓点資料や抄物に見られる。
  (2)慣用句は、より古い時代に出来たこともあって、古雅な「ゆく」の形をとることが多い。なお、上代に見られた「いゆく」の「い」は動詞に付く接頭語である。→「いく(行)」の語誌。

 続いて「いく」の【語誌】も興味深かったので記しておこう。
 (1)「いく」「ゆく」は合わせ用いられる。「万葉集」では「いく」の仮名書き七例すべてが字余り句なので、上代ではその使用に何らかの音韻観念の違いがあったようだが、使用度については室町を過ぎる頃まで「いく」が劣勢だった。「いく」はアシユクの約言イユクの中略ともいわれ〔碩鼠漫筆〕、「ゆく」より新しい俗な形であったかともいわれるが明らかではない。逆に「ゆく」の古形という説〔万葉集辞典=折口信夫〕もある。
 (2)「いく」は口頭語として使用度を高めていくが、なかでも連用形が促音便となる場合は「いって」「いった」で、「ゆって」「ゆった」とはならない。
 (3)明治以降では、国定読本(明治三七~昭和二四)が「いく」の方を基準としたが、大正期には一般の傾向として、一人称者の行為に「いく」、三人称者の行為に「ゆく」という使い分けが認められる。
 (4)現在では「常用漢字音訓表」で「いく」「ゆく」双方が認められているが、「ゆく」にくらべると「いく」は話し言葉的な感じを持っている。したがって、動詞の連用形に直接に付く「散り行く」「ふけ行く」など文章語的表現では、「いく」といわないで「ゆく」となる。

 「人目(ひとめ)」は「人間が見ること。人の目」の意で、ここでは「他人が見ること。他人が見て思うこと。世間の目。はため」の意で用いられている。「乎」はヲ。「多」は「多(おほ)」。「見」はミ。「人目を多み」は「人目につくので」の意。

 5句「真根久徃者 人應知見」「まねく徃(ゆ)かば 人(ひと)知(し)りぬべみ」と訓む。「真根久」はマネク。「まねく」を表す。「まねし」は、「度数が多い。度(たび)重なっている。頻繁(ひんぱん)である」ことをいう。「徃者」は「行者」に同じで「徃(ゆ)かば」と訓む。「徃」は「往」の俗字で既出。「人應知見」は、4193番歌「落奴倍美(ちりぬべみ)」の例により、「人(ひと)知(し)りぬべみ」と訓む。「應」は漢文の助字で「まさに…べし」と訓まれる再読文字。「見」はミ。「應知」だけでは「べし」とも「べみ」とも訓まれるので「見」の字を添えたもの。ヌは完了の助動詞であるが、ここは確認の意で、「しまう」などの意に近い。「べみ」は、べシ+ミがついた形。「人(ひと)知りぬべみ」は「人が知ってしまうに違いないから」の意。前の句とほとんど同じ内容を少し言葉を変えて対句にしたもの。

 6句「狭根葛 後毛将相等」「さね葛(かづら) 後(のち)も相(あ)[逢]はむと」と訓む。「狭根」はサネ。「さね葛(かづら)」は、「さな葛(かづら)」に同じで、モクレン科のつる性常緑木。そのつるが伸びて、一時はわかれても、またからみ合うところから「のちに逢う」にかかる、あるいは、そのつるがどこまでも長く伸びるところから「遠長し」「絶えず」などにかかる、枕詞として用いられる。ここは前者で、「後も逢はむ」の比喩的枕詞として使ったもの。「後」は、名義抄に「後。ノチ・ウシロ・シリヘ・ヲクレタリ・ヲコタル・ヲソシ・ヲクラス」の訓みを記すが、ここは「のち」と訓む。時間的に「ある時よりあと」をいう語で、ここでは「今後。将来。これから先」の意。「毛」はモ。「将相」は「相(あ)はむ」と訓む。「等」はト。

 7句「大船之 思憑而」「大船(おほふね)の 思(おも)ひ憑(たの)みて」と訓む。「大船之」は「おほふねの」と訓み、枕詞として次の4通りのかかり方がある。① 大船のゆったりとして安定したさまから、ゆったり、落ち着いたの意の「ゆた」にかかる。② 大船がゆらゆらと揺れるさまから、揺れ動く、動揺する意の「ゆくらゆくら」にかかる。③ 大船を頼みにするところから、「思ひ頼む」「頼む」にかかる。④ 大船の渡る渡り、大船にいる楫取(かとり)から「渡り」「楫取」と同音の地名「渡り」「香取」にかかる。また、大船の停泊する津から、「津」と同音を持つ人名「津守」にもかかる。ここは③の例にあたり、次の「思憑」にかかる。「思憑而」は167番歌と同句。「思憑」は「思(おも)ひ憑(たの)み」。「おもふ」と「たのむ」の複合動詞で「心に頼む。頼みに思う」ことを言う。「而」はテ。なお、「憑」の訓みについて名義抄には、「憑。タノム・ヨル・イカル・サカリニ・イキドホル・オホイナリ・アツラフ・ヨ(リ)トコロ」とある。

 8句「玉蜻 磐垣淵之」「玉(たま)かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の」と訓む。「玉蜻」は「玉(たま)かぎる」と訓む。「蜻」はカギル。「玉限」の表記で既出。「玉」の発する光に限りがあり、ほのかな光となっていることを「玉(たま)限(かぎ)る」と言ったものと考えられる。「玉(たま)かぎる」は萬葉集中に11例の用例があるが、うち5例が「玉蜻」の表記で最も多い。「玉かぎる」は「淡い光」の意から、「ほのか」「夕」にかかる枕詞として使われたが、人麻呂はこれを次の「磐垣淵」にかかる枕詞として用いた。「磐垣淵(いはかきふち)」は「垣根のようにめぐる岩の間にある淵。」をいうが、「玉かぎる」のかかり方については、(イ)ほのかに光る淵の水の意から、(ロ)玉が淵の水中にあるから、(ハ)玉は岩にまじって産出するから、などの諸説があり、定かでない。「之」はノ。「玉(たま)かぎる・磐垣淵(いはかきふち)の」は、次の「隠(かく)りのみ」を起こす序詞である。

 9句「隠耳 戀管在尓」「隠(こも)りのみ 戀(こ)ひつつ在(あ)るに」と訓む。この「隠」は、「隠沼」の「隠」と同じく「隠(こも)り」と訓み、「引きこもること」をいう。「耳」はノミ。「戀管」は「戀(こ)ひつつ」と訓み、「恋しく思い続ける」の意を表す。「在」は「在(あ)る」。ここの「あり」にツツを添えて、動作、作用、状態の進行、継続や、完了した作用の結果が残っていることを表わす。「尓」はニ。「隠(こも)りのみ 戀(こ)ひつつ在(あ)るに」は「引きこもって恋しく思い続けていたところ」の意。

 10句「度日乃 晩去之如」「度(わた、渡)る日の 晩(く、暮)れ去(ゆ)くが如(ごと)」と訓む。「度」につき、漢書律暦志上に「長短を度(はか)る以(ゆゑん)なり」とあり、席の大きさが長短の基準であったことがわかる。それで測量・度量の意となった。のち法制・制度の意となり、また渡と通用する。名義抄は「度。ワタル・ハカル・タクミ・モロモロ・タビ・ミチスグル・ミル・ハカリゴト・ヲリ・ノリ・オク・タス」の訓みを記す。ここは「度(わた)る」と訓む。「わたる」は「日や月が空を移動して行く」ことをいう。「日」は「太陽」。「乃」はノ。「晩去」は、旧訓にクレユクと訓んでいたのを『萬葉考』がクレヌクと改めたが、『萬葉集注釋』は「日がくれ、夜が更けるやうな場合には『久礼由氣婆(クレユケバ)』(十七・三八九五)、『深徃乎(フケユクヲ)』(九・一六八七)などあつてクレヌル、フケヌルといふ假名書例なくユクの方が實感がこもるので今も舊訓のまゝクレユクとする」とした。「晩」は、声義の近い「暮」の通用字として使われている。「晩(く)[暮]れ」と訓む。名義抄には「晩。オソシ・クレヌ・クレ・ヨフベ・ユフクレ・ノチ・ヒソカ・ウシロ・イツカ・ヒクレヌ・クル」とある。「去」は「去(ゆ)く」。「くれゆく」で「日や年が暮れていく。また、ある期間が終わりになっていく」ことをいう。ここの「之」はガ。「如」は「ごとく。ように。同じく」の意。「渡る日の暮れゆくが如」は「空を渡る太陽が暮れてゆくように」の意で、妻の死を喩えたもの。『萬葉集全注』は「渡る日が暮れてゆくことを死の喩えとする例は中国詩にも見られる。文選挽歌部の繆熙伯の詩に『朝発高堂上、暮宿黄泉下。白日入虞淵懸車息駟馬』とあるのはその一例」と記している。

 11句「照月乃 雲隠如」 「照る月の 雲隠(くもがく)る如(ごと)」と訓む。「照」は「照る」。「てる」は「日や月などが光輝を発する。ひかる」ことをいう。「乃」はノ。「雲隠」は「雲隠(くもがく)る」。「雲の中に隠れる」ことをいう。「如」は先述。「照る月の雲隠る如」は、妻の死を喩えたもので、対句を成す。

 12句「奥津藻之 名延之妹者」「奥(おき、沖)つ藻(も)の なび[靡]きし妹(いも)は」と訓む。「奥津」を「奥(おき、沖)つ」と訓む。「奥津藻」は「沖つ藻」で、「沖の海の底に生えている海藻」の意。「沖つ藻」の表記としては「奥津藻」以外に「己津物」、「息津藻」がある。「之」はノ。「おきつもの」は、沖の藻が、波になびくところから、「なびく」にかかる枕詞として用いたもの。「名延」はナビキと訓む。「延」の字をここで用いた意味は定かではないが、「延」は、「屍を収める玄室への道=はかみち」の意があることを意識したものかもしれない。「之」はシ。「妹」は亡くなった妻を指す。「者」はハ。

 13句「黄葉乃 過伊去等」「黄葉(もみちば)の 過ぎてい去(ゆ)くと」と訓む。「黄葉」は既述。ここでは「もみちば」と訓む。「乃」はノ。「もみちばの」は、木の葉が色づき、やがて散っていく意で、「移る」「過ぐ」にかかる枕詞として用いられた。47番歌「葉」一字を「葉」の上に「黄」を補って「もみちばの」と訓んだのも、次の句「過ぎ」にかかる枕詞と見たことによるものであった。「過」はテを読み添えて「過ぎて」と訓む。「伊」はイ。「去」は「去(ゆ)く」。「等」はト。

 14句「玉梓之 使之言者」「玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)の言(い)へば」と訓む。「玉梓」は「梓(あづさ)」に美称の「玉(たま)」を冠して出来た言葉で「たまあづさ」が約まって「玉梓(たまづさ)」と訓む。「梓(あづさ)」は、カバノキ科の落葉高木で、その材は非常に固く、古くこの木で梓弓をつくったことは3番歌の所でも述べたが、「玉梓(たまづさ)」は「便りを運ぶ使者の持つ梓の杖」のことをいう。古代、使者が、そのしるしに梓の木を携える風習があったとして、手紙を結びつけて運ぶのにも用いたとか、呪力を持つものとされていたとかいわれている。「之」はノで、「たまづさの」は「つかひ」にかかる枕詞として使われている。「使」は、「つかひ」と訓む。「つかひ」は「他へ出かけてゆき、命令や口上を伝えたり、用事をたしたりすること。また、その人。使者」を意味する。「之」はノ。「言者」は「言へば」と訓む。

 15句「梓弓 聲尓聞而」「梓弓(あづさゆみ) 聲(おと)に聞(き)きて」と訓む。「梓弓(あづさゆみ)」は「梓(あづさ)」の木で作った丸木の弓で、上代、狩猟、神事などに用いられた。「あづさゆみ」は、枕詞として使われ、次の5通りのかかり方がある。① 弓のつるを引く、または張るところから「い・いる・ひく・はる」にかかる。② 弓の各部の名称から「もと・すゑ・つる」にかかる。③ 弓を引けば、弓の本と末とが寄るところから「よる」にかかる。④ 弓が反るところから「かへる」にかかる。⑤ 矢を射ると、音が出るところから「や・音」などにかかる。ここは⑤の例で、次の「おと」にかかる。「聲」は、名義抄に「聲。コヱ・キク・ナ・ラ(ヨ)シ・イラフ・アラハス・オト・ナラス・ノノシル」の訓みがあり、199番歌では「こゑ」と訓んだが、ここでは「おと」と訓む。「おと」と訓むのは、上に「おと」にかかる枕詞「梓弓」があることと、ここの「聲」は「こゑ」の意にはなく「おと」にはある「たより。おとさた。知らせ」の意で用いられていることによる。「尓」はニ。「聞而」は「聞きて」と訓む。「聲(おと)に聞きて」は「知らせを聞いて」の意。[一云 聲耳聞而] は [一に云ふ 聲(おと)のみ聞(き)きて] と訓む。「耳」はノミ。「知らせだけを聞いて」の意。初案で、後の句との重複を避けて、本文「聲(おと)に聞きて」に改めたものと考えられる。

 16句「将言為便 世武為便不知尓」「言(い)はむすべ せむすべ知(し)らに」と訓む。「将言」は、「言(い)はむ」(ここの「む」は連体形)と訓む。「為便」はスべと訓む。「世武」はセム。「為便」は、前句と同じく「すべ」と訓み、「なすべき手だて。そうすればよいというしかた。手段。方法」の意で、多く打消を伴って用いられ、ここもその例。「不知尓」は「知らに」と訓む。「不知」だけでは「知らず」とも「知らに」とも訓まれるので「尓(二)」を添えて「知らに」と訓むことを明示したもの。「白土」の表記で既出。二は助動詞ズの連用形の古形で、理由を表わすことが多い。「言(い)はむすべ せむすべ知(し)らに」は「どう言ったらよいか。何としたらよいかわからないので」の意。

 17句「聲耳乎 聞而有不得者」は「聲(おと)のみを 聞(き)きて有(あ)り得(え)ねば」と訓む。「聲」「耳」は異伝に同じ。「乎」はヲ。「聞而」も異伝に同じ。「有」は「有(あ)り」。「不得者」は「得(え)ねば」と訓む。「聲(おと)のみを 聞(き)きて有(あ)り得(え)ねば」は「知らせだけを聞いてすませる気にもなれず(じっとしておられず)」という意。

 18句「吾戀 千重之一隔毛」「吾(わ)が戀(こ)ふる 千重(ちへ)の一隔(ひとへ)[重]も」と訓む。「吾戀」は、旧訓にワガコヒノと訓んでいたのを『萬葉考』がワガコフルと改訓したもの。「吾」はガを読み添えて「吾(わ)が」、「戀」は「戀(こ)ふる」と訓む。「千重」は「ちへ」と訓み、「数多くかさなること」をいう。「之」はノ。「一隔」は、「一重」とも書き、「そのものだけで、重なっていないこと。また、そのもの。ひとひら。一枚」の意。「千重の一隔」は、幾重もの中の一重で、「千に一つ。千分の一」を言う。萬葉集全注は「『隔』は新撰字鏡の『障』に『隔也』とあり、ヘタツの訓を見るように、間に障害となる物のある状態をあらわす。そこからへだてとして幾重にも重なったものを数える数詞の『へ』に隔の字が宛てられたのであろう」と述べている。「毛」はモ。

 19句「遣悶流 情毛有八等」「遣悶(なぐさ)[慰]もる 情(こころ)も有(あ)りやと」と訓む。「遣悶流」は既出。「悩みやわずらわしさを晴らすこと。気晴らし」ことを言う漢語「けんもん」で、それを和語の「なぐさむ」に宛てたもの。「遣悶流」は「遣悶(なぐさ)[慰]もる」と訓む。ナグサモルはナグサムの連体形ナグサムルの転。ナグサムルの方は時代が新しく、古くはナグサモルであったとされる。活用語尾「もる」のルに「流」を用いている。「情」には、「こころ。なさけ。まこと」の訓みがあるが、萬葉集では百三十首の用例全て「こころ」と訓まれている。「毛」はモ。「有」は、ここは「有(あ)り」。「八」はヤ。「等」はト。

 20句「吾妹子之 不止出見之」「吾妹子(わぎもこ)が 止(や)まず出(い)で見(み)し」と訓む。「吾妹子」は「吾妹兒」と同じ。「子」と「兒」は同じで、親愛の意を表す接尾語。「わぎも、わぎもこ」は、自分の、妻や恋人である女性、または広く女性を親愛の気持をこめて呼ぶ語である。ここの「之」はガ。「不止」は「止(や)まず」と訓む。「やむ」は「物事が途中で行なわれなくなる。続いてきたある状態がとだえる」ことをいうので、その打消しの「やまず」は「絶え間なく。しょっちゅう」の意となる。「出」は「出(い)で」。「いづ」は「(ある限られた所、外から見えない所、私的な所などから)広々とした所、人目にたつ所、表だった所などに現われる」ことをいう。「見」は「見(み)」。次の「之」はシ。

 21句「軽市尓 吾立聞者」「軽(かる)の市(いち)に 吾(わ)が立(た)ち聞(き)けば」と訓む。「軽市」は「軽(かる)の市(いち)」と訓む。「軽(かる)の路(みち)」のところで述べたように、「軽」は藤原宮の西南にあたる地名で、天武天皇十年十月紀に「親王以下、群卿が軽の市で装いをこらした乗馬を検閲した」ことが記されている。河内の餌香の市と並んで、軽の市は、日本最古の市の一つとされる (『国史大辞典』) 。「尓」はニ。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」。「立聞者」は「立(た)ち聞(き)けば」と訓む。軽の市にたたずんで耳をすましている人麻呂の姿がうかんでくるようだ。

 22句「玉手次 畝火乃山尓」「玉たすき 畝火(うねび、畝傍)の山に」と訓む。「玉手次」の「玉(たま)」は「まるく美しいもの」をいい、名詞の上に付けて美称の接頭語的に用いられる。「手」はテであるが、ここではタとして用いられており、「次」はスキで、「手次」で「たすき」と訓む。「たすき」は、上代から神事などの際、袖が供え物に触れるのを防ぐ手段として用いられた「肩にかける清浄な植物繊維の紐」をいう。ここの「玉たすき」は、たすきを頸(うなじ)にかける、または頸(うな)ぐところから、「頸(うなじ・うなぐ)」と類音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる枕詞として用いたもの。「畝火之山」は「畝火(うねび、畝傍)の山」で大和三山の一つ。有名な「大和三山歌」では「雲根火」と表記されていた。「尓」はニ。

 23句「喧鳥之 音母不所聞」「喧(な、鳴)く鳥の 音も聞こえず」と訓む。「喧」の字義は「やかましい、かまびすしい」であるが、ここは「なく(鳴)」に宛てたもので、その連体形で「喧(な、鳴)く」と訓む。常には「かまびすしい」と思える鳥の鳴く声さえもという意を込めた用字かと思われる。「之」はノ。「音」は名義抄に「音。オト・オトヅル・コヱ・カゲ・ワタル」とあり、ここは「こゑ」と訓む。「母」はモ。「不所聞」は「聞こえず」と訓む。「きこゆ」は、「きく(聞)」にユの付いた「聞かゆ」から転じたもの。

 24句「玉桙 道行人毛」「玉桙(たまほこ)の 道行く人も」と訓む。「玉桙(たまほこ)」は、「玉で飾った鉾、立派な鉾」をいうが、ここは、ノを読み添えて「玉桙(たまほこ)の」と訓み.次の「道」にかかる枕詞として用いたもの。なぜ「道」にかかるかについては諸説があることは79番歌の所で述べた。「道行人」は、旧訓ミチユキヒトであったが、『萬葉考』にミチユクヒトと改訓後は、多くの注釈書がこれに従っている。何れとも訓めるが、ミチユキヒトと熟語とするよりもミチユクヒトの方が、道を行き交う人の様子が浮かんでくるように思うので、「道行く人」と訓む。「毛」はモ。 

 25句「獨谷 似之不去者」「獨(ひとり)だに 似(に)てし去(ゆ)かねば」と訓む。「獨(ひとり)」につき、用例が多くあるが、その大部分は男女二人の関係に置いて一人である意を示している。しかし、ここは珍しく「人を数える数詞。一個の人」の意で用いられている。「谷」はダ二。最小限の一事をあげて「せめて~だけでも」と強調する働きをするが、後に否定を伴う場合は、「~でさえ」の意となる。「似之不去者」は旧訓ニテシユカネバであったが、「似て行く」(「し」は強意の助詞)ということは、「似た状態で行く」と言うような意味だが、そのままでは口語に直訳し難い表現であることや、「似之」をニテシとテを補読することにも疑問が持たれて、ニシガユカネバ(『萬葉集檜嬬手』)やニルガユカネバ(『萬葉集全註釋』)の改訓が提示された。しかし、『萬葉集注釋』が指摘する通り、上に「道行く人も」と言い、また「似る(人)が」と詠むのは拙い。ここはやはり旧訓通りに訓むのが良い。「似」はテを補読して「似て」と訓み、「似た状態で」の意。テの補読例としては、199番歌「定之(定(さだ)めてし)」がある。「之」はシ。「不去者」は「去(ゆ)かねば」と訓む。「獨(ひとり)だに 似(に)てし去(ゆ)かねば」は「一人でさえも妻に似た人は行かないので」の意。


 結句「為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴」「すべを無(な)み 妹(いも)が名(な)喚(よ)びて 袖(そで)そ振(ふ)りつる」と訓む。「為便」はスベと訓み、「なすべき手だて。手段。方法」の意で、多く打消を伴って用いられる。「乎無見」ヲナミ。「人目(ひとめ)を多(おほ)み」と同じで、原因・理由(~ガ~ナノデ)を表す。「すべを無(な)み」は、「なすべき手だてが無いので。どうしようもなく」の意。「妹之名」の「之」は、「妹」という親しい間柄に付いているのでガと訓む。「妹(いも)が名(な)」は、「(亡くなった)妻の名前」の意。「喚」は、名義抄に「喚。サケブ・メス・ヨバフ・ヨブ」とあり、ここは「喚(よ)び」と訓む。「而」はテ。「袖」は、衣服で、身頃(みごろ)の左右にあって腕をおおう部分をいう。「曽」はソで(後に「ぞ」となるが上代では清音)。「振」は「振り」。「鶴」はツル。「袖振り」の行為は、「君之袖布流、我振袖乎、吾振袖乎」などにも詠われているように万葉集では、別離の場合にも、愛の表現にも、舞踊の型としても見られるが、ここは愛情表現。 [或本 名耳聞而有不得者] は[或る本に 名のみを聞きて有(あ)り得ねば]と訓む。この異伝は、本文のどの詞句に相当するのか明示されていないが、「聲(おと)のみを 聞(き)きて有(あ)り得ねば」の異伝と考えて間違いないと思われる。しかしそこで「名のみを」とするのは適切な表現ではないとして作者が改めたものと考えられる。
歴史解説

【巻2(208)。】
題詞  柿本朝臣人麿の作歌。「短歌二首」。本歌と次の209番歌が、「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首[并短歌]」という題詞を持つ207番歌(「泣血哀慟歌」と称される歌群の一首目の長歌、以下「長歌」という)の反歌であることがわかる。
原文  秋山之 黄葉乎茂  迷流  妹乎将求  山道不知母 [一云 路不知而]
和訳  秋山の 黄葉(もみち)を茂み 惑はせる 妹を求めむ 山道(やまぢ)知らずも
 秋山の 黄葉を茂み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも [一云 道知らずして]
現代文  「秋山の 黄葉が茂っているので迷い入ってしまった 妻に会いに行こうにも道が分からない」。
文意解説  発句「秋山之 黄葉乎茂  迷流」「秋山の 黄葉(もみち)を茂み 惑はせる」と訓む。「秋山之」は「秋山(あきやま)の」と訓む。「之」はノ。「黄葉乎茂」は「黄葉(もみち)を茂(しげ)み」と訓む。長歌の「黄葉乃」を承けたもの。「黄葉」は、「もみち」とも「もみちば」とも訓むが、ここは「もみち」。「乎茂」は「を茂(しげ)み」と訓む。原因・理由(~ガ~ナノデ)を表わす。「黄葉(もみち)を茂(しげ)み」は「黄葉が茂っているので、黄葉の木々が茂っていて」の意。「迷流」は「迷(まと)[惑]ひぬる」と訓む。「迷」は「迷(まと)[惑]ひ」と訓む。「迷」と「惑」は同義で、事態に対する判断を定めかねて心が混乱することをいう、和語の「まとふ」に宛てられた。同義字による二字熟語「迷惑」も「まとふ」と訓む。現代では「迷」は「まよう」、「惑」は「まどう」と使い分けがなされている。日本国語大辞典の「まどう」の【語誌】欄には次のように記されている。
 (1)「古事記‐上」に見える神名「大戸惑子神」の訓注に「訓惑云麻刀比」とあるところから古くは「まとふ」と清音であったとされる。
 (2)本来は、事態をじゅうぶん把握できずに対処のしかたに迷う意である。平安時代後期になると「まよふ(迷)」との区別が薄れるが、「めでまどふ」「吹きまどふ」「思ひまどふ」「逃げまどふ」のように複合動詞となることが「まよふ」に比べて多い。
 (3)「まよう(まよふ)」が進む道や目標がわからずあちこち動き回るという行動に重点があるのに対して、「まどう(まどふ)」は、どちらかというとどうしたらよいかわからずおろおろするという心理状態に重点があると言われる。
 「まよふ」は、「布の織糸が弱って織目が片寄る」のが原義。転じて、「髪や糸筋などがもつれ乱れる」「こころが不安定に乱れる」意に用いるようになり、「まどふ」と混同するようになった。(3)に述べられているのは混同されるようになってからの違いを述べたもので、上代では「まとふ」「まよふ」は別語であった。ここでは道に「まよう」意であるが、「まとふ」と訓むのが正しい。「迷流」は、ヌを補読して「迷(まと)ひぬる」と訓む。「流」はル。完了の助動詞「ぬ」が連体形「ぬる」であることを明示するために用いられたもの。

 結句「妹乎将求  山道不知母 [一云 路不知而]」「妹を求めむ 山道(やまぢ)知らずも」と訓む。「妹乎将求」は「妹(いも)を求めむ」と訓む。「妹」は、長歌に「吾妹兒が」「なびきし妹は」「吾妹子が」「妹が名喚びて」と詠まれた亡き妻を指す。「乎」はヲ。「将求」は「求めむ」と訓む。「もとむ」は「本(もと)になるものを得ようとして尋ねさがす。尋ねさぐる」ことをいう。「山道不知母」は「山道(やまぢ)知らずも」と訓む。「山道」は「やまぢ」と訓み「山の道」。「不知」は「知らず」と訓む。「母」はモ。[一云 路不知不知] は[一に云ふ 路(みち)知らずして]と訓む。「路」は「道」に同じでミチ。「不知而」は、シを補読し「知らずして」と訓む。シテは、接続助詞的用法で「ずして、にして、として」の形で、並列・修飾・順接・逆接など種々の関係にある句と句とを接続する場合に用いられる。「路(みち)知らずして」は「道がわからなくて…」で、下に「行けなくて残念だ」の意が省略された形。 
歴史解説

【巻2(209)。】
題詞
原文  黄葉之 落去奈倍尓  玉梓之  使乎見者  相日所念
和訳  もみち葉の 散りぬるなべに 玉梓(たまづさ)の 使を見れば(つかひ) 逢ひし日思ほゆ
現代文  「  黄葉の 散ってゆく折しも (玉梓の)《玉梓を持った》使いを見かけると かつて妻と逢った日のことが思い出される」。
文意解説  発句「黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之」「もみち葉の 散りぬるなべに 玉梓(たまづさ)の」と訓む。「黄葉之」は「黄葉(もみちば)の」と訓む。「黄葉」が、長歌の「黄葉乃」を承けたものであることは前歌(208番歌)に同じだが、ここは「もみち」ではなく「もみちば」と訓む。「之」はノ。「落去奈倍尓」は「落(ち)[散]り去(ゆ)くなへに」と訓む。「落」は「落(ち)[散]り」と訓む。字訓の「ちる」の項には、「ちる。散・落。花や木の葉などが散りおちることをいう」とある。「去」を「ゆく」と訓む。「奈倍尓」はナへニ。活用語の連体形を受け、ある事態と同時に、他の事態の存することを示す上代語。「…とともに。…にあわせて。…するちょうどその時に」の意。「玉梓之」は「玉梓(たまづさ)の」と訓む。梓(あずさ)は落葉樹のひとつ。その梓の小枝に文を結びつけて使いの者に相手の女性ないし男性に届けさせる。その際使用される小枝は梓に限らなかったのだろうが、梓は代表的な木の一つで、梓の使いといえば当時の人々にはぴんときたものと思われる。「玉梓」は、「梓(あづさ)」に美称の「玉(たま)」を冠して出来た言葉で「たまあづさ」が約まって「玉梓(たまづさ)」となったもので、「便りを運ぶ使者の持つ梓の杖」のことをいう。「之」はノで、「たまづさの」は「つかひ」にかかる枕詞。

 結句「使乎見者  相日所念」「使を見れば(つかひ) 逢ひし日思ほゆ」と訓む。「使乎見者」は「使(つかひ)を見れば」と訓む。「使」は「つかひ」と訓む。「他へ出かけてゆき、命令や口上を伝えたり、用事をたしたりすること。また、その人。使者」を意味する。「乎」はヲ。「見者」は「見れば」と訓む。「相日所念」は「相(あ、逢)ひし日念(おも)ほゆ」と訓む。「若かりし頃の彼女とのやりとりが思い起こされる」の意がこめられている。その妻はもうこの世にいない。哀切きわまりない歌である。「相」を「あ(逢)ふ」と訓む。ここはシを補読して「相(あ、逢)ひし」と訓み、次の「日」を修飾する。「所念」を「「念(おも)ほゆ」と訓む。ユは自発の助動詞で、本来は「念はゆ」となるところだが、オモハユのハが前の母音に引かれてホに転じた形で「念ほゆ」となる。結び句について、阿蘇『萬葉集全歌講義』は次のように述べている。
 「玉梓の使」を、「妻の死を告げにきた使」(全註釈)、「死を告げる使者」(全訳注)などの解もあるが、集成・全注・釈注が説くように「恋文を運ぶ使が別の男女のために通うことをいう」のでなければならない。妻の死の知らせを聞いた作者は、「逢ひし日思ほゆ」というような余裕のある受け止め方はできなかったはずで、これは、しばらく日数も経ってやや冷静にその死を受け止める心の余裕が出来てからのことであろう。〈中略〉「別の男女のために通う」人麻呂とは無関係の使を見ての感慨と見る方が、人麻呂の想念の中に縹渺とした世界のひろがりが感じられてよいと思う。
 また、稲岡『萬葉集全注』は、次のような見解を述べている。
 「玉梓の使を見れば」(「見れば」に傍点をつけている)という二〇九歌の詞句の意味するのは「妹の死を告げに来た」(「告げに来た」に傍点)使を見ることではなく、文字通り使を見ることでしかない。それを通説のように「妹の死を告げに来た使を見ると」と受け取るのは、この反歌の表現を長歌の一部と重ね合わせて理解しているからであるが、人麻呂の長歌のうち、反歌の前に「短歌」と頭書された作品では、とくに第二反歌以下が長歌より時を隔てたのちの感情を歌うことが多い。
 以上、『萬葉集全歌講義』『萬葉集全注』の説に賛同する意で、その論を紹介した。
歴史解説

【巻2(210)。】
題詞
原文  打蝉等 念之時尓 [一云 宇都曽臣等  之] 取持而 吾二人見之 趍出之 堤尓立有 槻木之 己知碁知乃枝之 春葉之 茂之如久 念有之   妹者雖有 憑有之 兒等尓者雖有 世間乎 背之不得者 蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隠 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隠去之鹿齒   吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎 取與 物之無者 烏徳自物 腋挾持 吾妹子与 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 晝羽裳 浦不樂晩之  夜者裳 氣衝明之 嘆友 世武為便不知尓 戀友 相因乎無見 大鳥乃 羽易乃山尓 吾戀流 妹者伊座等 人云者 石根左久見手 名積来之  吉雲曽無寸 打蝉等 念之妹之 珠蜻 髣髴谷裳 不見思者
和訳  うつせみと 思ひし時に たづさへて ()が二人見し 走出(わしりで)の 堤に立てる (つき)の木の こちごちの()の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば 蜻火(かぎろひ)の 燃ゆる荒野に 白布(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)(かく)り 鳥じもの 朝()(いま)して 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ (をとこ)じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人()が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥(おほとり)の 羽易(はかひ)の山に ()が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ()し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉蜻(かぎろひ)の 髣髴(ほのか)にだにも 見えぬ思へば。
現代文  「」。
文意解説
 長歌()。「『万葉集』を訓(よ)む(その355)」その他参照。
 発句「打蝉等 念之時尓」「うつせみと 念(おも)ひし時に」と訓む。「打蝉等」は、199番歌の異伝と同句。「打蝉」は「うつせみ」と訓み、13番歌に「虚蝉」の表記で、24・150番歌に「空蝉」の表記で既出。「この世」または「この世に生きている人」の意。「等」はト。「念之時」は196番歌に既出。「念」は「念(おも)ひ」。「之」はシ。「時」は「とき」と訓み、時間の流れのなかで、上の連体修飾に対応する一部分をいう。「尓」はニ。[一云 宇都曽臣等 念之] は[一に云ふ うつそみと 念(おも)ひし]と訓む。「宇都曽臣」は196番歌に既出。「宇都曽」は、ウツソ。「臣」の訓は「おみ」だが、ここはミを表すのに用いたもので、「宇都曽臣」で以て「うつそみ」と訓む。本文と異伝の違いは「うつせみ」と「うつそみ」の違いでしかなく、この異伝の表現は213番歌に同じ。「うつせみ」は、「うつしおみ」→「うつそみ」→「うつせみ」と変化した語で、「うつし」は「顕」、「おみ」は「人」で、「この世に生きている人」がもともとの意であることがわかる。

 2句「取持而 吾二人見之」「取(と)り持(も)ちて 吾(わ)が二人(ふたり)見(み)し」と訓む。「取持」は「取(と)り持(も)ち」と訓む。「とりもつ」は「手に取って持つ。手に握る」ことをいう。「而」はテ。「吾二人」は、「吾」にガを読み添えて「吾(わ)が二人(ふたり)」と訓み、作者と妻を指す。「見」は「見(み)」。「之」はシ。「取(と)り持(も)ちて 吾(わ)が二人(ふたり)見(み)し」は「私たちが二人で手に取って見た」の意で、「槻の木のこちごちの枝」を修飾する。

 3句「走出之 堤尓立有」「走(はし)り出(で)の 堤(つつみ)に立(た)てる」と訓む。一字目は、原文【走(そうにょう)+多】の字であるが、この字は『玉篇』に「走也」とあり、「走」と同義なので代用する。「走出」は「走り出(で)」と訓み、「家から走り出たすぐの所。門口に近い所」の意。「之」はノ。「堤(つつみ)」は「包むものの」意から「湖沼・川・池などの岸に沿って、水があふれないように土を高く築いたもの。土手。堤防」の意となったもの。「尓」は二。「立有」は「立(た)てる」。

 4句「槻木之 己知碁知乃枝之」「槻(つき)の木(き)の こちごちの枝(え)の」と訓む。「槻木」は「つきのき」と訓み、植物「けやき(欅)」の古名。「之」はノ。「己」はコ、「知」はチ、「碁」はゴで、「己知碁知」で以て、代名詞「こちごち」を表す。「こちごち」は、「こち(此方)」を重ねたもので、どこと具体的にささず、不特定の二つ以上の方向ないし領域を指示する(不定称)語。「あちらこちら。あちこち。ほうぼう」の意。「乃」はノ。「枝」は、今まで既出の四例は全て「松(濱松・玉松)が枝」で、「まつがえ」と訓んだ。ここも「え」と訓むが「えだ」と同じ意。「之」はノ。

 5句「春葉之 茂之如久」「春(はる)の葉(は)の 茂(しげ)きが如(ごと)く」と訓む。「春葉」は、「はるのは」と訓み、春に芽吹く若葉のことを言ったもの。「之」はノ。「茂」は「茂(しげ)き」。次の「之」はガと訓む。「如」(199番歌他に既出)は、比況の助動詞「ごとし」の語幹。それにク音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)が付いた「如久」で以て、「ごとし」の連用形「如(ごと)く」を表したもの。「春の葉の 茂(しげ)きが如く」は、次の「念(おも)へりし」の比喩で、「春の若葉の繁っているように、しきりに深く」の意。

 6句「念有之 妹者雖有」「念(おも)へりし 妹(いも)には有(あ)れど」と訓む。「念有之」は、「念(おも)へりし」と訓む。「妹」は亡くなった妻を指す。「者」はハ。ここはその前に、断定の助動詞「なり」の連用形二を補読して二ワと訓む。二ワは、「あらず」「あれど」など多く否定または逆接の表現と呼応するが、ここもその例。「雖有」は「有(あ)れど」と訓む。「念(おも)へりし 妹(いも)には有(あ)れど」は「しきりに思いを寄せた妻ではあったが」の意。

 7句「憑有之 兒等尓者雖有」「憑(たの)[頼]めりし 兒(こ)らには有(あ)れど」と訓む。「憑有之」は「念有之」と同じ形。「憑(たの)[頼]めりし」と訓む。「憑」は既出。名義抄には、「憑。タノム・ヨル・イカル・サカリニ・イキドホル・オホイナリ・アツラフ・ヨ(リ)トコロ」の〉とある。「兒等」は「兒(こ)ら」と訓み、12句の「妹」と同じく、亡くなった妻のこと。「等」はラ。人を表わす名詞や代名詞に付いて、謙遜また蔑視の意を表わす。なお、自分に対する謙遜の気持は時代を下るとともに強くなり、相手や他人に対する用法は、古代では愛称、中世頃からは軽蔑した気持を表わす。ここは愛称。「尓者雖有」は「には有(あ)れど」で、ニを「尓」で表記している。二句対をなし、同じ内容を少し言葉を変えて対句にすることによって、意味を強めると同時に調子を整えている。

 8句「世間乎 背之不得者」「世間(よのなか)を 背(そむ)きし得(え)ねば」と訓む。「世間」は、漢語で「せけん」で、『史記』の李斯伝に「夫(そ)れ人生まれて世間に居るや、譬(たと)へば猶ほ六驥(りくき)を騁(は)せて、決隙(けつげき)(わずかのすきま)を過ぐるがごとし」とあり、「この世。世の中。」の意。ここでは「世間(よのなか)」と訓む。「乎」はヲ。「背」は「背(そむ)き」。「そむく」は「背(そ)向く」で、ある方向に背を向けることを言う語で、ここは「道理・常識などに合致しない。さからう。反対する」の意。ここの「之」はシ。「不得者」は「得(え)ねば」と訓む。「世間(よのなか)を・背(そむ)きし得(え)ねば」は、「人は必ず死ぬというこの世の道理に背くことができなくて」の意。

 9句「蜻火之 燎流荒野尓」「かぎろひの 燎(も)ゆる荒野(あらの)に」と訓む。「蜻火」は「かぎろひ(陽炎)」を表すための義訓字で、「蜻蛉火」とも書かれる。「かぎろひ」は「ゆらゆらと揺れるようなやわらかな光」をいう。それを蜻蛉(とんぼ)の羽の繊細なかがやきとして表現したのが「蜻蛉火」「蜻火」と言う表記であろう。「之」はノ。「燎流」は「燎(も)ゆる」と訓む。連体形であることを明示するために活用語尾のルを「流」で表記したもの。「燎」は名義抄に「燎。フスブ・ヤク・トモシビ・モユ・タク」の訓みを記す。「かぎろひのもゆ」は「ほのおのような光を放つ」ことをいい、古くから使われた表現で、古事記の歌謡にも「埴生坂 我が立ち見れば かぎろひの 毛由流(モユル)家群 妻が家のあたり」と歌われている。「荒野」の「荒(あら)」は語素で、主として名詞の上について、これと熟合して用いられ、「人手の加わっていない、自然のままの」の意を表わす。従って「荒野(あらの)」は「自然のままのさびしい野」をいう。「尓」はニ。

 10句「白妙之 天領巾隠」「白妙(しろたへ)[栲]の 天領巾(あまひれ)隠(かく)り」と訓む。「白妙之」は、「白妙能」、「白妙乃」の表記で既出。ここは次の「天領巾」にかかる。「天領巾隠」は旧訓アマヒレコモリであったのを『萬葉考』にアマヒレガクリと改訓して以降、諸注これに従っているが、「天領巾」が何を意味するかについては諸注で説が分かれている。諸説について『萬葉集全注』に簡潔にまとめられているのでそれを引用しておこう。「代匠記に「秋風の吹きただよはす白雲はたなばたつめの天つ領巾かも」(10・二〇四一)を引いて「白雲カクレトイヘルカトオホシケレハ」(精撰本)と記すのは、白雲をさして天領巾と言ったと見る説で、澤瀉注釈に継承されている。また、略解には「白たへの天ひれ隠は、葬送の旗をいふ。柩の前後左右に旗をたて持行さま也と宣長説也」とし、檜嬬手には柩を覆ふ蓋を「天領巾」と表現したものと解している。古義に「歩障」とするのは、和名抄の「葬礼圖云布帷以障婦人 今按俗用歩障是」から考えついた事らしい。こうした諸説に対して、攷証に「本集八の歌(天河原尓、天飛也)領巾可多思吉と見江たれば、幅も広く丈も長きものと見ゆ。されば、ここに天領巾隠といふはすべて失し人は天に上るよしにいへる事、集中の常にて、こゝはいまだ葬りのさまなれどもはや失しかば、天女にとりなして天つ領巾にかくるよしいへるにて、まへにもいへるが如く、領巾は長き幅もゆたかなるものなれば、これを振おほはヾ容もなかばはかくれぬべければ、天ひれがくりとはいへるなるべし」と天女の領巾説を主張し、講義にそれを受けて、「天領巾といへるは天女の空を飛ぶにまとへる天衣をさしていへる為に天領巾といひしなるべし」と天女の羽衣と解せられることが記されている。古典大系にも「天ヒレは天女の羽衣のようなもの。これを着て昇天したと考えたのであろう」との注を見る。古典集成にもこの天女の羽衣説は受け継がれているようだが、古典全集には「天領巾隠り」について「妻の死を象徴的に表現した語句」と言うのみで、具体的に立ち入った記述がない。右の諸説の中では、攷証に始まる天女の羽衣説が語句としてもっとも無理のない解と思われる。同時に、人麻呂がどのような現実を踏まえて、こうした美しいイメージを創出したかを考えると、代匠記に言う雲や、略解に言う旗などからの想像とも解されるだろう(中西進『柿本人麻呂』)」。「白妙(しろたへ)[栲]の・天領巾(あまひれ)隠(かく)り」は、妻がこの世を去って、その霊魂が天上に上がるイメージを、「白い領巾に身を隠して(包んで)」と表現したもので、「天領巾」は天空を飛翔する霊力を持つものと考えられる。

 11句「鳥自物 朝立伊麻之弖」「鳥(とり)じもの 朝立(あさた)ちいまして」と訓む。「鳥自物」は「鳥(とり)じもの」。「じもの」は、「鴨(かも)じもの」、「鹿(しし)じもの」として既出。接尾語で、形容詞語尾「じ」に「もの」が付いたもの。「…のようなもの、…であるもの(として)」の意である。「鳥(とり)じもの」は「鳥のように」の意で、次の「朝立つ」を修飾する。「朝立」は「朝立(あさた)ち」。「伊麻之弖」はイマシテ。「伊麻之」で以て、「います」の連用形「いまし」を表す。「弖」はテ。「鳥(とり)じもの 朝立(あさた)ちいまして」は「鳥のように、朝早く家をお立ちになって」の意。鳥が朝ねぐらを飛び立つのを喩えとして、朝早く家を出ることを表したのである。

 12句「入日成 隠去之鹿齒」「入日(いりひ)なす 隠(かく)りにしかば」と訓む。「入日(いりひ)」は、「夕方、西の方に沈もうとする太陽。夕日。落日。また、落日の光」をいう。「成」はナス。「なす」は、名詞、時には動詞の連体形に付いて、「…のように、…のごとく、」などの意で、語源的には、「似(に)す」、あるいは「成(な)す」とも関係があるかともいわれる。「入日(いりひ)なす」は、「入り日のように」の意で、入り日が隠れてゆくところから、人の死をいう「隠る」にかかる枕詞。「隠」は「隠(かく)り」。「「死ぬ」ことをいう。「去」は、「過去」の二字熟語が示すように、「ときがすぎる、むかし」の意を持つことから、完了の助動詞ヌに宛てたものかと思われる。ここは二と訓む。「之鹿」でシカを表す。「齒」はハの訓仮名であるが、ここではバに用いたもの。「去之鹿齒」は珍しい用字で、本歌の異伝である213番歌では「西加婆」とあり、「にしかば」と訓むことは間違いない。「ば」に「齒」を用いたのは「鹿」からの連想であろうか。「入日なす 隠りにしかば」は「入り日のように山の陰に隠れてしまわれたので」の意。

 13句「吾妹子之 形見尓置有」「吾妹子(わぎもこ)が 形見(かたみ)に置(お)ける」と訓む。「吾妹子之」は既出。「子」は親愛の意を表す接尾語で、「わぎも、わぎもこ」は、自分の、妻や恋人である女性、または広く女性を親愛の気持をこめて呼ぶ語。ここは亡き妻を指す。「之」はガ。「形見」は「かたみ」と訓み、「死んだ人、または遠く別れた人を思うよすがとなるもの。死後または別後にその人のものとして残されたもの。遺品や遺児」の意。「尓」は「~として」の意。「置有」は「置ける」と訓む。「吾妹子が 形見に置ける」は「わがいとしい妻が形見として置いていった」の意。

 14句「若兒乃 乞泣毎」「若兒(みどりこ)の 乞(こ)ひ泣(な)く毎(ごと)に」と訓む。「若兒」は、ワクコ・ワカコ・ワカキコなどの訓みもあるが、本歌異伝の213番歌に「緑兒」とあることからミドリコと訓むのがほぼ通説になっているのでそれに従う。「みどりこ」は、三歳くらいまでの幼児をいい、『正倉院文書』の戸籍には、一歳から三歳までの幼児を緑児・緑女と記している。「乃」はノ。「乞泣」は、「乞(こ)ひ泣(な)く」と訓む。「こひなく」は「物をねだって泣く」ことをいう。「毎」は接尾語「ごと」に二を補読して「毎(ごと)に」と訓む。「ごとに」は、名詞や動詞の連体形などに付いて、連用修飾語となる。その物、またはその動作をするたびに、そのいずれもが、の意を表わし、「…はみな。どの…も。…するたびに」などに置き換えられる。「若兒の 乞ひ泣く毎に」は「みどり児が物を欲しがって泣くたびに」の意。

 15句「取與 物之無者」「取(と)り與(あた)ふる 物(もの)し無(な)ければ」と訓む。「取與」は、「取(と)り與(あた)ふる」と訓む。六音の字あまりになるが、句中に単独母音を含むので異例とすべきものではない。ここの「物」について、宣長は『玉の小琴』に「物は玩物にて泣をなぐさめむ料の物也」と記している。「之」はシ。「無者」は「無(な)ければ」と訓む。「取り與ふる・物し無ければ」は「取って与える物とてないので」の意。

 16句「烏徳自物 腋挟持」「をとこじもの 腋(わき)挟(はさ)み持(も)ち」と訓む。「烏徳」は諸写本に「鳥穂」とあるが、『萬葉考』に「鳥」は「烏」、「穂」は「徳」の誤字として「をとこ」と訓んじたもの。「鳥穂自物」ではいかにも解釈し難いことや、本歌の異伝である213番歌の該当箇所も「男自物」となっているので、「をとこじもの」と訓むことは間違いないと思われる。しかし、なぜ「男」を「烏徳」の表記に変えたのかが分からないし、「烏」は訓仮名「を」として用いられているが、「徳」の字を仮名に用いた例はないことなど疑問は残る。ただ、「徳」も、人名に「徳太里(とこたり)」と書かれた例があるので「とこ」に宛てたものと考えることはできる。今は、諸註釈に従って「烏徳自物」を原文として「をとこじもの」と訓んでおく。「じもの」は21句「鳥じもの」で既出だが、「鳥じもの」を「(鳥ではないが)鳥のように」と解したと同じ様には、ここを「(男ではないが)男のように」と解することは出来ない。ではどのように解すれば良いか。橋本四郎「上代の形容詞語尾ジについて」(萬葉十五號)が、この「男じもの」を「犬じもの」(886番歌)と比較して論じているのでそれを見てみよう。橋本は「犬ジモノではジはどちらかといへば肯定に近いといふ面が強調されて譬喩に用ゐられたのであるが、ここでは決して譬喩の役割は果たしてゐないし、ジ自体もあくまで否定であるといふ面で強調されてゐると見られる。『体言』+『ジモノ』といふ同一形態をもつが故に同一の点で理会せねばならぬ理由はない。ジの表現性をある幅をもつ線的なものとすれば、彼と此とはその極端に位置するものと言へる」として、「この場合のジは、男らしくないと反省する気持と、それに対して男だと反撥する気持の複合したもの、いはば否定しつつ否定しきれない気持を表現し得てゐるといへるであらう」と述べている。橋本の言うように「をとこじもの」は「男らしくもなく。男なのに。男の身で」などと解するのが正解であろう。「腋(わき)」は「胸の側面で、腕のつけねのすぐ下の部分。わきの下」をいう。「挟」は「挟(はさ)み」。「持」は「持(も)ち」。「挟(はさ)み持(も)つ」は「抱えるように抱く」ことをいう。「をとこじもの・腋(わき)挟(はさ)み持(も)ち」は「男の身で、腋に抱えて」の意。

 17句「吾妹子与 二人吾宿之」「吾妹子(わぎもこ)と 二人(ふたり)吾(わ)が宿(ね)し」と訓む。「吾妹子」は亡き妻。「与」はト。「二人」も既出で作者と妻を指す。「吾宿之」は138番歌に既出。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「宿」は「宿(ね)」。「ぬ」は「寝る」の意。「之」はシ。「吾妹子(わぎもこ)と 二人(ふたり)吾(わ)が宿(ね)し」は「わがいとしい妻と二人で寝た」の意。

 18句「枕付 嬬屋之内尓」「枕(まくら)付(づ)く 嬬屋(つまや)の内(うち)に」と訓む。「枕付」は「枕(まくら)付(づ)く」と訓み、「つまや」にかかる枕詞。真淵の『冠辭考』に「夫婦(メヲ)は房(ネヤ)に枕を並付(ナラベ)てぬるが故にいへり」とある。「嬬屋(つまや)」は「夫婦の寝室。ねや。閨房。また、夫婦のために設けた家」をいう。「之」はノ。「内(うち)」は「空間的、平面的に、ある範囲や区画、限界などの中」の意で、外側でないほうをいう語。「尓」はニ。「枕(まくら)付(づ)く 嬬屋(つまや)の内に」は「(枕付く)《枕を並べた》妻屋の中で」の意。

 19句「晝羽裳 浦不樂晩之」「晝(ひる)はも・うらさび晩(く)[暮]らし」と訓む。「晝羽裳」は、「晝者母」及び「晝波毛」と「はも」の表記は異なるが同じ。「晝」(昼の旧字)は「ひる」で「太陽が空にあるあいだ。日の出から日没までの間」をいう。「羽裳」はハモ。「特に取り立てて提示しようとするものに、強い執着や深い感慨を持ち続けている場合に使う」(『岩波古語辞典』)連語「はも」を表す。「浦不樂晩之」は、「裏佐備晩」と同じく、うらさび晩(く)[暮]らし」と訓む。「浦不樂」で以て、「うらさび」を表わす。「うら」は「こころ」の意で、「裏、浦」と同語源であるところから「浦」の字を宛てたもの。「不樂」は、「うらさぶ」の「心楽しまず」という意を漢文表記したもの。「晩之」は、「晩(く)[暮]らし」で、「晩」は「暮」と声義が近く通用されたもの。「くらす」は「日が暮れて暗くなるまで時間を過ごす」ことを言うが、他の動詞の連用形に接続して、その行為を一日中し続ける意を表わす。ここも上の「うらさび」に接続して「一日中心さびしく過ごす」ことを意味する。

 20句「夜者裳 氣衝明之」「夜はも 氣衝(いきづ)き明(あ)かし」と訓む。「夜者裳」は、「夜者毛」、「夜羽毛」と「はも」の表記は異なるが同じ。「夜(よる)」は「日没から日の出までの時間。太陽が没して暗い間」をいう。「者裳」はハモ。「氣」は「気」の旧字体で、「呼吸、息」の意を持つ。名義抄にも「氣。イキ・ケハイ」とある。「衝」の本義は「つく、あたる」であるが、名義抄には「衝。マジハル・ツク・チマタ・ヨコタフ・オコリ・ユク・ムカフ・シル・フム・オリ・ツイカサヌ・キル・ヒトシ・ウルハシ・マトヒス・カサヌ」と多くの訓みが記されている。ここでは「氣衝」で以て、「いきづく」の連用形の「氣衝(いきづ)き」を表す。「いきづく」は「ためいきをつく。嘆息する」の意。「明之」は、「明(あ)かし」と訓む。「あかす」は「夜が明けるのを待ち過ごす。眠らないで夜を過ごす」ことをいう。「晝(ひる)はも うらさび晩(く)[暮]らし」と「夜はも 氣衝(いきづ)き明(あ)かし」は、「昼は一日中、心さびしく暮し」、「夜は夜で、ため息のつき通しで」の意で二句対をなす。

 21句「嘆友 世武為便不知尓」「嘆けども せむすべ知らに」と訓む。「嘆友」の「嘆」は「嘆(なげ)け」。「友」はドモ。「世武為便不知尓」の「世武」はセム。「為便」はスベと訓み、「なすべき手だて。そうすればよいというしかた。手段。方法」の意。多く打消を伴って用いられ、ここもその例。「不知尓」は「知らに」と訓む。「不知」だけでは「知らず」とも「知らに」とも訓まれるので「尓(二)」を添えて「知らに」と訓むことを明示したもの。

 結句「戀友 相因乎無見」「戀(こ)ふれども 相(あ)[逢]ふ因(よし)を無(な)み」と訓む。「戀」は「恋」の旧字で「戀(こ)ふれ」と訓む。「友」は逆接のドモ。「相」を「あ[逢]ふ」と訓む。「因」は囲就の意。「①むしろ。②常に臥蓆(がせき)として用いるもので、よる、たよる、つねにの意となる。③常に用いることから、もと、ちなみに、ふるいの意となる」とある。名義抄は「因。ヨル・ヨリテ・チナミ・ユヱ・ヨシ・ハタス・ツク・タネ・カソフ」の訓みを示す。ここの「因」は「よし」と訓み、「かかわりを持つための方法。手段。てだて。すべ」の意に用いられている。「乎無見」はヲナミ(「を無(な)み」)と訓む。原因・理由(~ガ~ナノデ)を表す。「嘆(なげ)けども せむすべ知らに」と「戀(こ)ふれども 相(あ)[逢]ふ因(よし)を無(な)み」は、「嘆くのだが、どうしてよいかわからず」、「恋しく思うのだが、逢うすべもないので」の意で、これも二句対をなしている。
歴史解説

【巻2(211)。】
題詞  柿本朝臣人麿の作歌。「短歌二首」。210番歌(「泣血哀慟歌」と称される歌群の二首目の長歌、以下「長歌」という)の反歌である。
原文  去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放
和訳  去年(こぞ)見てし 秋の月夜(つくよ)は 照らせれど 相見し妹は いや年離(さか)
現代文  「去年見た 秋の月は(同じように)照らしているが 一緒に眺めた妻はいよいよ年月と共に遠ざかってゆく」。
文意解説  発句「去年見而之 秋乃月夜者 雖照」去年(こぞ)見てし 秋の月夜(つくよ)は 照らせれど」と訓む。「去年見而之」は「去年(こぞ)見てし」と訓む。「去年」は「こぞ」と訓み、「今年の直前の年、過ぎ去ったばかりの年」をいう。「許序能秋(こぞのあき) 安比見之末尓末(あひみしまにま)」の用例がある。なお、「こぞ」は「過ぎ去ったばかりのその時」の意で「昨夜」の意で使われることもある。「見而之」は「見てし」と訓む。「去年(こぞ)見てし」は「去年(妻と共に)見た(又は眺めた)」の意。「秋乃月夜者」は「秋の月夜(つくよ)は」と訓む。「秋」 は、四季の一つで、現在では9月から11月、旧暦では7月から9月までをいい、天文学的には秋分から冬至の前日まで、二十四節気では立秋から立冬の前日までをいう。「乃」はノ。「月夜」は旧訓にツキヨと訓んだが、岸本由豆流『萬葉集攷證』にツクヨと改訓された。萬葉集にツクヨの仮名書き例は、4134番歌「由吉能宇倍尓(ユキノウヘニ)天礼流都久欲尓(テレルツクヨニ)」、4453番歌「伎欲伎都久欲仁(キヨキツクヨニ)」などがあるが、ツキヨの仮名書き例はないので、この改訓が支持されることとなった。なお「月夜(つくよ)」は「月や月の光」また「月の明るい夜」をいうが、ここは前者の意。「者」はハ。「雖照」は「照らせども」と訓む。「照らせれど」と訓む説もあり、まだ定訓を見ない。確かに735番歌の「照月夜尓」は「照れる月夜(つくよ)に」と訓まれており、完了の助動詞「り」を読み添える例があることから、ここもレを補読して「照らせれど」と訓むことは可能であろう。然し、人麻呂作歌では「り」の読み添えはほとんどなく、誤読の可能性がない場合には省略する例は見られるものの、別の訓みが可能な場合には必ず誤読を避けるため省略しない。ここも「照らせれど」と人麻呂が詠んだのであれば、「照らせども」にも訓める「雖照」という表記ではなく「雖照有」という表記にしたものと考えられる。「秋の月夜(つくよ)は照らせども」には言外に(今年も同じように)の意がこめられている。

 結句「相見之妹者 弥年放」「相見し妹は いや年(さか)る」と訓む。「相見之妹者」は「相見(あひみ)し妹は」と訓む。「相見」は「相見(あひみ)」。「之」はシ。「妹(いも)」は長歌に詠われた「妹」「吾妹子」と同じく亡き妻を指す。「者」はハ。なお、「あひみる」は「互いに相手を見る。顔を合わせる」という意味の自動詞として使われることも多いが、ここは「いっしょに、ある物を見る」という意味の他動詞として用いたもので、「相見(あひみ)し妹は」は「月を共に見た妻は」という意。「弥年放」は「弥(いや)年(とし)放(さか)る」と訓む。「弥」は「ひさしい」が本義だが、「いよいよ、ますます」の意としてイヤと訓む。接頭語イが物事のたくさん重なる意の副詞ヤに付いたもので、物の程度の盛んな事を表わす。イヤの漢字表記としては他に「益、重」がある。「年(とし)」は「一年間を単位とする歳月」の意。「放」は「放(さか)る」。「離る」とも書き、「離れる。へだたる。遠ざかる」の意。「いや年離(さか)る」は「ああ、その思い出も年月と共に遠ざかっていくことよ」である。「相見し妹は」がポイント。この一句によって焦点は月ではなく「相見し妹」であることが強く印象づけられる。いつまでも妻を思う人麻呂の心情がしみじみ表現された人麻呂の名歌の一つである。この句の解釈について『萬葉集全注』は次のように述べている。
 「ここは、いよいよ年月を隔ててゆくことを意味すると同時に、妻の面影そのものが遠く隔たったことを表すものと思われる。万葉集精考に『共に見し人は世になき人となって月日が段々遠ざかつて行く』とあるのは誤りではないが、月を共に見た妻の面影そのものも年月をへだててゆくのであろう」。
歴史解説

【巻2(212)。】
題詞  柿本朝臣人麿の作歌。
原文  衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無
和訳  衾道(ふすきぢ)を 引手(ひきて)の山に 妹を置きて 山道(やまぢ)を往けば 生けるともなし
 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし
現代文  「衾道よ 引手の山に 妹をのこして山路を行くと 生きている心地もしない」。  
文意解説  発句「衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而」衾道(ふすまぢ)を 引手(ひきて)の山に 妹を置きて」と訓む。「衾道乎」は「衾道(ふすまぢ)を」と訓む。「衾」は新撰字鏡に「布須万」、和名抄に「和名布須萬」とある。「ふすま」は「寝る時にからだの上にかける長方形の夜具」を言うが、ここは地名。「道」はチを表し、「みち、道路」の意で、地名の下に付く時には、そこへ行く道、その地域を通っている道、その付近などを意味し、この場合、多く連濁でヂとなる。ここも「衾道」で「ふすまぢ」と訓み、「ふすま」という所に行く道のこと。「乎」はヲ。「衾道を」の解釈が難しい。枕詞なのか地名なのかがはっきりしない。実際には「襖を引いて閉めるように妻を葬った山に別れを告げて」の意だと解したい。「別れを告げて」と取らないと「妹を置きて」がすっきりと腑に落ちない。「引出山」は「引出(ひきで)の山に」と訓む。『萬葉集全注』はこの句の注で「ここに『引出』と記すのは、ヒキデノヤマというのが本来の名であったことを思わせる。ヒキデという音の印象と、固有名ではあるが文脈における意味的効果とを勘案して再案では『引手(ヒキテ)』に改めたのであろう」と述べているが、その通りのように思う。今「衾」を地名としたが、この句を次の「引手の山」にかかる枕詞とする説もある。枕詞説では、「ふすまぢ」を夜具の乳(ち)(へりにつけた紐などを通すための小さな輪)と解し、それを引く意で引手の山にかかるとしたり、夜具を引く意でかかるとするが、あまりしっくりとはこない。地名説は、「衾田の墓」と呼ばれる手白香皇女(仁賢天皇の皇女)の墓のある奈良県天理市中山町のあたりとするものであるが、「ふすま」という地名があったとは確認出来ておらず、地名説にも疑問がないわけではない。しかし、「道」の文字が使われていることからすると、地名と見る方が自然と思われるので地名説を採った。「引手乃山尓」は「引手(ひきて)の山に」と訓む。「引手(ひきて)の山」は「長歌」の「羽易(はがひ)の山」と同じく龍王山を指すものと考えられる。「乃」はノ。「尓」はニ。「引手の山」について澤瀉『萬葉集注釋』が述べている所が参考になるので引用しておこう。
 大和志山邊郡の條に引手山に「在中村東呼曰龍王云々」と注してをり、今も龍王山と呼ぶものは三輪山の北、巻向山の西北に並ぶ山であり、その麓に衾田墓がある事を考へ、一方人麻呂集に三輪、巻向、初瀬の作の多い事も考へ合はせ、殊に、泊瀬川夕渡り來て我妹子が家の門(かなど)に近づきにけり (九・一七七五)の歌を見ると、そのあたりに妻問ふ家のあつた事も推察せられ、かたがた龍王山の麓にその妻の墓を考へるといふ事は最も自然であらう。そしてその引手の山をまた羽易の山とも呼んだと思はれる事長歌の條で述べた如くである。天皇とか皇子皇女とかなれば生前の御住所と離れた地に陵墓を築く事も當然認められるが、一般の人々にはやはり墓地は生前の住所に近いところであるべきで、これを以つても春日の地に墓地を求める事は當らない事が認められよう。

 「妹乎置而」は「妹(いも)を置(お)きて」と訓む。「妹(いも)」は「妹(いも)」は「長歌」に詠われた「妹」「吾妹子」と同じく亡き妻を指すこと前歌(211)の4句に同じ。「乎」はヲ。「置」は「置き」。「而」はテ。

 結句「山徑徃者 生跡毛無」「山道(やまぢ)を往けば 生けるともなし」と訓む。「山徑徃者」は「山徑(やまぢ)を徃(ゆ)けば」と訓む。「山徑」は「山路」に同じで「やまぢ」と訓む。「徑」は「径」の旧字で、「みち、こみち、ちかみち」の意。下にヲを補読する。「徃者」は、207番歌では「徃(ゆ)かば」と訓んだが、ここでは「徃(ゆ)けば」と訓む。「生跡毛無」は「生(い)けりとも無(な)し」と訓む。「生」は「生(い)きあり」が約まったもので、「生(い)けり」と訓み、「生きている」の意。「跡」はト。「毛」はモ。「無」は「無(な)し」。ここの「なし」は、補助的に用いて、否定の意を表すもので、引用を表す助詞「と」を受ける。この場合、「と」は動詞活用の終止形に付いて、その事態が起こっていないこと、また、自覚また確認できないことを表す。ここを「生けるとも無し」と訓む説もあるが、ここの「と」には乙類の「跡」が用いられているので助詞「と」である事は間違いなく、その上は終止形でなければならず、やはり「生(い)けりとも無(な)し」と訓むのが正しいと思われる。「生きている心地もしない」の意。

歴史解説

【巻2(213)。】
題詞  「或本歌曰」(或ル(マキ)ノ歌ニ曰ク)。
原文  宇都曽臣等 念之時 携手 吾二見之 出立 百兄槻木 虚知期知尓 枝刺有如 春葉 茂如 念有之 妹庭雖在 恃有之 妹庭雖在 世中 背不得者 香切火之 燎流荒野尓 白栲 天領巾隠 鳥自物 朝立伊行而 入日成 隠西加婆 吾妹子之 形見尓置有 緑兒之 乞哭別 取委 物之無者 男自物 腋挾持 吾妹子與 二吾宿之 枕附 嬬屋内尓 日者 浦不怜晩之 夜者 息衝明之 雖嘆 為便不知 雖戀 相縁無 大鳥 羽易山尓  汝戀 妹座等 人云者 石根割見而 奈積来之 好雲叙無 宇都曽臣 念之妹我 灰而座者
和訳  うつそみと 思ひし時に 手たづさひ 吾(あ)が二人見し 出立(いでたち)の 百枝(ももえ)槻(つき)の木 こちごちに 枝刺(さ)せるごと 春の葉の 茂きがごとく 念(おも)へりし 妹にはあれど (たの)めりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白栲(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝発ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける 緑児(みどりこ)の 乞ひ泣くごとに 取り(まか)す 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と 二人()が寝し 枕付く 嬬屋(つまや)のうちに 昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易(はかひ)の山に ()が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根(いはね)さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつそみと 念(おも)ひし妹が 灰而座者(灰(はひ)にて座(いま)せば)。
現代文  「この世の人だと 思っていた時 手を取り合って 二人で眺めた 門を出たすぐそばの 多くの枝を持つ槻の木 その木があちらこちらに 枝を伸ばしているように 春の若葉が 茂っているように しきりに思いをよせた 妻ではあるが 頼りにしていた 妻ではあるが 人は必ず死ぬというこの世の道理に 背くこともできないので ゆらゆらとほのおのような 光を放つ荒れ野に 真っ白な 領巾にその身を隠し 鳥のように 朝早く家を出て行って 入り日のように 隠れてしまったので わがいとしい妻が 形見に残していった みどり児が 物を欲しがって泣くたびに 持たせる 物とてないので 男の身で 幼な子をわきに抱きかかえ わがいとしい妻と 二人で共寝をした (枕付く)《枕を並べた》 妻屋の中で 昼は一日中 心さびしく暮し 夜は夜で ため息をついて明かし 嘆いても どうしてよいかわからないし 恋しく思っても 逢うすべもないので (大鳥の) 《大鳥が羽をまじえる姿の》 羽易の山に あなたの恋しく思っている 妻はいらっしゃいますと 言う人があったので 岩を踏みわけて 苦労して来たが その甲斐もなかった この世の人と思っていた 妻が 灰になっておられたので」。  
文意解説  長歌()。 
 発句「宇都曽臣等 念之時」「うつそみと 念(おも)ひし時(とき)」と訓む。「宇都曽臣」は既出。「宇都曽」はウツソ。「臣」の訓は「おみ」だが、ここはミで、「宇都曽臣」で以て「うつそみ」と訓む。「等」はト。210番歌「打蝉等」とは「うつせみ」と「うつそみ」の違いでしかないが、「うつせみ」は、「うつしおみ」→「うつそみ」→「うつせみ」と変化した語で、「うつし」は「顕」、「おみ」は「人」で、「この世に生きている人」がもともとの意であることがわかる。初案で「うつそみ」としたものを推敲の過程で新しい形の「うつせみ」に改めたものと思われる。「念之時」は210番歌「念之時尓」の「尓」が無い形で196番歌と同句。「念」は「念(おも)ひ」。「之」はシ。「時」は「とき」と訓み、時間の流れのなかで、上の連体修飾に対応する一部分をいう。「念之時」は、二を補読して「念(おも)ひし時(とき)に」と七音に訓むのがほぼ通説であるが、「尓」の表記が無いことを踏まえると、初案では「念(おも)ひし時(とき)」と六音に詠んだ可能性が高いと思われるので、二を補読しない訓みとする。

 2句「携手 吾二見之」「携(たづさ)はり 吾(わ)が二(ふた)り見(み)し」と訓む。「携手」は「手をとる」意の漢語「けいしゅ」で、それを「互いに手を取り合う」意の和語「たづさはる」に宛てたもの。ここは連用形で「携(たづさ)はり」と訓む。旧訓にタツサヘテとあり、『萬葉代匠記』にテタツサヒとし、『萬葉集攷證』にタツサハリと改めたもの。「携」「携手」共に「たづさはり」と訓む例として『萬葉集注釋』は人麻呂歌集の次の二首を挙げている。
 
 黄葉之(モミチバノ) 過去子等(スギニシコラト) 携(タヅサハリ) 遊礒麻(アソビシイソヲ) 見者悲裳(ミレバカナシモ)(九・1796)
 萬世(ヨロヅヨニ) 携手(タヅサハリ)居而(ヰテ) 相見鞆(アヒミトモ) 念可過(オモヒスグベキ) 戀尓有莫國(コヒニアラナクニ)(十・2024)

 210番歌は、「携手」から「取持而」に変更している。「携(たづさ)はり」が夫婦仲の睦まじさを表現しているのに対して、「取り持(も)ちて」は、槻の木の枝をを手に取り持って眺めるという、夫婦の動作を具体的でリアルに詠ったものと言えよう。「吾二」は、「吾」にガを読み添えて「吾(わ)が二(ふた)り」と訓み、作者と妻を指す。「見」は「見(み)」。「之」はシ。210番歌は「吾二人見之」で、「ふたり」の表記を「二人」に改めている。

 3句「出立 百兄槻木」「出(い)で立ちの 百(もも)え[枝]槻(つき)の木」と訓む。「出立」はノを読み添えて「出(い)で立ちの」と訓む。「出立(いでたち)」は、中古では「旅立ち。門出。出発」の意で使われるようになるが、上代では「走出」と同じく、「家を出たあたり。門前」の意で用いられた。日本書紀の歌謡に「隠(こも)りくの 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走り出の よろしき山の」(77番)とあり、萬葉集にもこれを踏まえたと思われる3331番歌「隠来之(こもりくの) 長谷之山(はつせのやま) 青幡之(あをはたの) 忍坂山者(おさかのやまは)  走出之(はしりでの) 宜山之(よろしきやまの)  出立之(いでたちの) 妙山叙(くわしきやまぞ)」の例がある。「百」は数の単位で「ひゃく」。「もも」とも訓み、「もろもろ。あらゆる、すべて」の意がある。「兄」はエで、ここは「枝」の意で用いたもの。「百枝(ももえ)」は「たくさんの枝。また、繁茂した枝」の意。「槻木」は「槻(つき)の木(き)」と訓み、植物「けやき(欅)」の古名。

 4句「虚知期知尓 枝刺有如」「こちごちに 枝(えだ)刺(さ)せる如(ごと)」と訓む。「虚」はコ、「知」はチ、「期」はゴ「虚知期知」で以て、「己知碁知」と同じく、代名詞「こちごち」を表し、「あちらこちら。あちこち。ほうぼう」の意。「尓」はニ。「枝」は、前句の「百兄槻木」と詠った「槻の木」の「えだ」をいう。「刺有」は、「刺(さ)しある」が約まったもので「刺(さ)せる」と訓む。「さす」は、「枝や葉が伸びる。草木が萌え出る」ことをいう。「如」は、比況の助動詞「ごとし」の語幹で、「~のように」の意。

 5句「春葉 茂如」「春の葉の 茂(しげ)きが如く」と訓む。助詞や活用語尾を全て省略した表記から210番歌では、それらを表記した「春葉之・茂之如久」に改められた。「春の葉の・茂きが如く」は、前の「枝刺せる如」、と共に11句の「念(おも)へりし」の比喩で、「枝を伸ばしているように、春の葉が茂っているように、しきりに深く」の意。

 6句「念有之 妹庭雖在」「念(おも)へりし 妹(いも)には在(あ)れど」と訓む。「念有之」は「念(おも)へりし」と訓む。「妹庭雖在」は「妹者雖有」と同じ。「妹(いも)」は亡くなった妻を指す。「庭」は二ワ。「には」は、「あらず」「あれど」など多く否定または逆接の表現と呼応するが、ここもその例。「雖在」は「在(あ)れど」と訓む。「念(おも)へりし・妹(いも)には在(あ)れど」は「しきりに思いを寄せた妻ではあったが」の意。

 7句「恃有之 妹庭雖在」「恃(たの)[頼]めりし 妹(いも)には在(あ)れど」と訓む。「恃有之」は、「憑有之」を「憑(たの)[頼]めりし」と訓んだのと同じく「恃(たの)[頼]めりし」と訓む。「恃」は、説文解字に「頼むなり」とあり、心中に自ら頼むところがあることをいう。名義抄にも「恃。タノム・アツ・ウク・ハカル」とある。「妹庭雖在」は前と同句。本句が前2句と二句対をなす。「兒等尓者雖有(兒(こ)らには有(あ)れど)」と言葉を変えている。

 8句「世中 背不得者」「世(よ)の中(なか)を 背(そむ)きし得(え)ねば」と訓む。 「世中」はヲを読み添えて「世(よ)の中(なか)を」と訓む。210番歌では「世間乎(世間(よのなか)を)」と表記は変えているが同じ。「背不得者」は、「背(そむ)きし得(え)ねば」と訓む。これも210番歌と同句であるが、本歌で読み添えた強意の副助詞シを、210番歌では「之」で表記している。

 9句「香切火之 燎流荒野尓」「かぎろひの 燎(も)ゆる荒野(あらの)に」と訓む。この二句も「かぎろひ」の表記は違うが、210番歌に同じ。「香切火」は、カギルヒとも訓まれているが、「玉蜻(タマカギル)」(207)の「蜻(カギル)」を210番歌で「蜻火(カギロヒ)」に用いているように、「香切火(カギロヒ)」と訓むことが認められよう。「香」はカ。「切」はギロと解される。「火」はヒ。

 10句「白栲 天領巾隠」「白栲(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠(かく)り」と訓む。これも、「しろたへの」の表記が異なるだけで、210番歌に同じ。「白栲」はノを補読して「白栲(しろたへ)の」と訓む。210番歌では「白妙之」の表記に変えている。

 11句「鳥自物 朝立伊行而」「鳥(とり)じもの 朝立(あさた)ちい行(ゆ)きて」と訓む。210番歌と同句。「朝立」は、「朝立(あさた)ち」と訓む。210番歌に同じ。「伊」はイ。「行」は「行(ゆ)き」。「而」はテ。「朝立(あさた)ちい行(ゆ)きて」は、210番歌では「朝立(あさた)ちいまして」と尊敬表現に改めている。

 12句「入日成 隠西加婆」「入日(いりひ)なす 隠(かく)りにしかば」と訓む。210番歌と同句。「隠」は、「隠(かく)り」と訓むことは210番歌に同じ。「西加婆」は二シカバ。210番歌も同じ「隠(かく)りにしかば」であるが、表記を「隠去之鹿齒」として「にしかば」を一字一音に改めている。

 13句「吾妹子之 形見尓置有」「吾妹子(わぎもこ)が 形見(かたみ)に置(お)ける」と訓む。この二句、210番歌と同句。

 14句「緑兒之 乞哭別」「緑兒(みどりこ)の 乞(こ)ひ哭(な)くごとに」と訓む。この二句も、210番歌に同じだが、表記が異なる。「緑兒」は「みどりこ」と訓み、三歳くらいまでの幼児をいう。「之」はノ。210番歌は「若兒乃」となっている。「乞哭」は「乞(こ)ひ哭(な)く」と訓む。「別」は名義抄に「別。コトニ・コトナリ・ハナル・ワキマフ・ワカツ・ワク」とあり、ここは「ごとに」と訓む。210番歌の表記は「乞泣毎」に改めている。

 15句「取委 物之無者」「取(と)り委(まか)する 物(もの)し無(な)ければ」と訓む。「手に持たせて自由にさせる物もないので」の意。「取」は「取り」。「委」は、類義二字熟語「委任」で知れるように「任」と同じく「まかす」の意。名義抄には「委 ユタカナリ・ウルハシ・ツマビラカニ・クハシ・タタナハル・スツ・オツ・ツモル・マカス・マジハル・ユヅル」と多くの訓みを記す。日本国語大辞典は「とりまかす[取委]」を項目に取り上げて、「取委(とりまかす)」と訓んでいる。しかし、「まかす」は、下二段活用と見られているので、連体形は「まかする」である。「取(と)り委(まか)する」では六音の字余りとなることから「取り委(まか)す」と訓む注釈書も少なくないし、上代に四段活用であったものが後世下二段活用に転じた例はいろいろあるので、その類推として四段活用であったと考えられない事もないが、今その確証はないので下二段活用であったものとして「取(と)り委(まか)する」と訓んでおく。210番歌では同じ字余りではあるが、句中に単独母音を含む「取(と)り與(あた)ふる」に改めている。

 16句「男自物 腋挾持」「男(をとこ)じもの 腋(わき)挟(はさ)み持(も)ち」と訓む。「男(をとこ)じもの」は、「をとこ」の表記を変えているが210番歌に同じ。「じもの」については210番歌のところでも橋本四郎「上代の形容詞語尾ジについて」を引用して述べたところだが、その後『岩波古語辞典』に「じもの」の「じ」は必ずしも否定の意ではないことが記されていることがわかったので参考までに引用しておく。(例文については省略)
じもの[接尾] 《ジはシク活用形容詞の語尾シと同根。…のような感じがする、…らしい恰好(かっこう)である、 の意。モノは物。複合して副詞を作る》
 ①(本来それとは違うものであるが、あたかも) …のよう(な恰好)で。②(本当にそのものらしい)恰好で。③(本当 にそれらしい) …の気持がして。
 ▽「らし」「めき」など、…らしい、…の様子だと訳される接尾語は、共通して二つの意味を持つ。一つは、別 のものなのに、あたかもそれらしい感じ、様子だという意味。二つは、事物が本当にそれらしい感じ、様子をし ているという意味。「じもの」にもその二つの場合がある。

 「をとこじもの」は、なかなか意味が取り難いが、②の意が一番近いように思う。「男の恰好で。男の身で」と解し、下に「ありながら」という言葉を補ってみるとわかりやすい。「腋(わき)挟(はさ)み持(も)ち」は210番歌と同句。

 17句「吾妹子與 二吾宿之」「吾妹子(わぎもこ)と 二(ふたり)吾(わ)が宿(ね)し」と訓む。210番歌と同句。ただし、「ふたり」の表記を「二」から「二人」へと改めている。

 18句「枕附 嬬屋内尓」「枕(まくら)附(づ)く 嬬屋(つまや)の内(うち)に」と訓む。これも、表記は少し異なるが、210番歌と同句。「枕(まくら)附(づ)く」の「附」を「付」の字に変更し、「嬬屋内」を「嬬屋之内」としてノを無表記の読み添えから「之」で表記することに改めている。

 19句「日者 浦不怜晩之」「日(ひる)[昼]は うらさび晩(く)[暮]らし」と訓む。「日」を「ひる」と訓む例は167番歌「日女(ひるめ)の命(みこと)」で既出。名義抄にも「日。ヒ・ヒル・ヒ(サ)キニ・ヤスシ」とある。「者」はハ。210番歌では「晝羽裳」として「晝(ひる)はも」に改めていることから、ここもモを読み添えて訓むものもあるが、ここはやはり表記通りに三音のままで訓むのが初案であったものと考える。「浦不怜晩之」は、「うらさび晩(く)[暮]らし」と訓み、210番歌「浦不樂晩之」に同じ。「浦不怜」は、「浦不樂」と同じく「うらさぶ」の漢文的表記。「怜」は、「うまし」の表記で既出、「よし、よろし。おもしろし」の意がある。

 20句「夜者 息衝明之」「夜(よる)は 息衝(いきづ)き明(あ)かし」と訓む。210番歌には「夜者裳(夜(よる)はも)」とあったが、ここは「夜者」で「裳」の表記はなく、「日(ひる)は」に対応して「夜(よる)は」と三音で訓む。「息衝」は「息衝(いきづ)き」。「息衝明之」は、「氣衝明之」と「いき」の字が異なるのみで同じ。

 21句「雖嘆 為便不知」「嘆けども 為(せ)む便(すべ)知らに」と訓む。「雖嘆」は「嘆(なげ)けども」と訓む。「嘆友」とも記されている。「為便」の「為」はスの未然形「為(せ)」にムを補読して「為(せ)む」を表し、「便」は「方法・手段」の意の「すべ」を表すのに用いたもので、「為(せ)む便(すべ)」と訓む。「不知」は「知(し)らに」と訓む。210番歌では、「せむすべ」を仮名表記に改めると共に、「不知」だけでは「知らず」とも「知らに」とも訓まれるので「知らに」と訓むことを明示するために「尓(二)を添え、「世武為便不知尓」という表記に変えている。この二句は、表記は異なるが210番歌に同じ。

 22句「雖戀 相縁無」「戀(こ)ふれども 相(あ)[逢]ふ縁(よし)を無(な)み」と訓む。「戀友・相因乎無見」に同じ。「戀(こ)ふれども」は、「雖戀」という漢文的表記から和文表記の「戀友」に改め、「相(あ)[逢]ふよしを無(な)み」については、「よし」の字を「縁」から「因」に変えるとともに、「無」一字ではミ語法に訓むのが難しいので「乎無見」の表記に改めている。なお、「よし」の漢字表記としては「由、因、縁」がある。

 23句「大鳥・羽易山尓」「大鳥(おほとり)の・羽易(はがひ)の山に」と訓む。「大鳥」はノを読み添えて「大鳥の」、「羽易山」も同じく「羽易」と「山」の間にノを補読して「羽易(はがひ)の山」と訓む。210番歌では、このノを「乃」で表記して「大鳥乃・羽易乃山尓」としている。

 24句「汝戀 妹座等」「汝(な)が戀(こ)ふる 妹(いも)は座(いま)すと」と訓む。「汝」はガを補読して「汝(な)が」。「戀」は「戀(こ)ふる」。「汝(な)」は「なれ」とともに、奈良時代には、もっとも一般的な対称代名詞として用いられている。特に歌ではもっぱらこの語を使用するが、敬意は高くなく、対等もしくはそれ以下の相手に対して用い、動物や植物などに呼びかける時にも用いる。210番歌では「吾戀流」に改められ、直説話法から間接話法へ変化している。「妹」はハを補読して「妹(いも)は」。「座」は、「ます」とも「います」とも訓むが、ここは「座(いま)す」と訓む。本句は、210番歌では「妹者伊座等」とより丁寧な表記になっているが「妹(いも)はい座(ま)すと」と訓み、同じ。

 25句「人云者 石根割見而」「人の云へば 石根(いはね)さくみて」と訓む。「人云者」は210番歌と同句。「石根割見而」は、「石根左久見手」と同じく、「石根(いはね)さくみて」と訓む。「割」はサク。「見」はミで、「割見」で以て「さくむ」の連用形「さくみ」を表すのに用いたもの。「而」はテ。しかし、この用字では「さく」の連用形「割(さ)き」+「みる」の連用形「見(み)」として「割(さ)き見(み)」と訓んでも意味が通るので、その誤読を避けるために210番歌では仮名書き表記に改めたものと思われる。「さくむ」は「岩や木の間を押し開き、踏み分ける。踏み分けていく」ことをいう。

 26句「奈積来之 好雲叙無」「なづみ来(こ)し 好(よ)けくもぞ無(な)き」と訓む。「好雲」は「好(よ)けくも」と訓む。「叙」はゾ。「無」は「無(な)き」。210番歌では「吉雲曽無寸」に表記を変えているが、「吉(よ)けくもそ無(な)き」で基本的に同じ。「叙」はゾであることから、「好(よ)けくもぞ」と訓むのが通説になっている。が、ゾは上代では清音ソであったと見られていることや、210番歌では「曽」に変えている事からすると、ここの「叙」はソ音として用いたものかもしれず、ソと訓むのが良いのかもしれない。なお、常陸風土記歌謡に「叙」をソに用いた例があることはある。


 27句「宇都曽臣 念之妹我 灰而座者」「うつそみと 念(おも)ひし妹(いも)が 灰(はひ)にて座(いま)せば」と訓む。「宇都曽臣等・念之時(うつそみと・念(おも)ひし時(とき))」と呼応したもの。「宇都曽」はウツソ。「臣」の訓は「おみ」だが、ここはミを表す。「宇都曽臣」は、トを読み添えて「うつそみと」と訓む。「うつそみ」は、「うつしおみ」→「うつそみ」→「うつせみ」と変化した語で、「うつし」は「顕」、「おみ」は「人」で、「この世に生きている人」がもともとの意である。210番歌では「打蝉等(うつせみと)」に改められている。「念之妹我」は、210番歌「念之妹之」とガの表記が異なるのみ。「念」は「念(おも)ひ」。「之」はシ。「妹(いも)」は亡くなった妻を指す。「我」はガ。「灰而座者」の訓みについては、『萬葉集全注』に従ったもので、その述べる所を引用しておく。
 結句「灰而座者」は、旧訓にハヒシテマセハと訓まれていたのを、攷証にハヒニテマセバと改めた。講義その他多くこの訓によるが、古典全集に「ハヒニテイマセバ」と訓む。「座」一字をイマスと訓む例はこの二一三歌にも「妹座」と見え、その他、一六七、一九九、二六一の諸歌にも例がある。一方、「座」をマスと訓む場合も一六七、一九九、二一〇歌などにあり、この二一三歌の結句の場合、どちらの訓も可能性がありそうに思われる。ただし人麻呂作歌の場合、マスは動詞に添えた尊敬をあらわす補助動詞としての用例に限られるようで、「朝越座而」(1・四五)、「太敷座而」(一九九)など、みなその例になる。これに対しイマスは、動詞アリ・ヲリなどの尊敬語で、「妹座」(二一三)、「茂座」(3・二六一)などを拾うことができる。したがって、この二一三歌の「灰而座者」も動詞アリの尊敬語としてイマセバと訓むのが、他の例とも合致するようだ。毛利正守「万葉集・長歌の字余り」(『万葉集研究』第十一集)によれば、長歌の結句中に、単独母音を含む確かな例は、全部で四六例あり、そのうち四四例までが字余りであるという。「ハヒニテイマセバ」と訓めば、この二一三歌の結句もそれに加えられることになる。なお、この結句により、ここに歌われている妹は火葬にされたことが知られる。

 以上、長い引用になったが、説得力のある説だと思う。
歴史解説

【巻2(214)。】
題詞  「短歌三首」。、214~216番歌の三首が、213番歌の反歌であることがわかる。213番歌は210番歌の異伝であり、213番歌の反歌である214・215番歌は、210番歌の反歌である211・212番歌の異伝である。213番歌が210番歌の初案と考えられるのと同様に、214・215番歌は211・212番歌の初案と思われる。214番歌~216番歌は213番長歌の題詞に「或る本にいふ」とあり、異伝であることを伝えている。211番歌と214番歌、212番歌と215番歌はほとんど同歌である。
原文  去年見而之 秋月夜者 雖渡 相見之妹者 益年離
和訳  去年(こぞ)見てし 秋の月夜(つくよ)は渡れども 相見し妹は いや年離(さか)る
現代文  「去年見た 秋の月は (同じように)大空を渡ってゆくが 一緒に眺めた妻は いよいよ年月と共に遠ざかってゆく」。  
文意解説  発句「去年見而之 秋月夜者 雖渡」「去年(こぞ)見てし 秋の月夜(つくよ)は渡れども」と訓む。「去年見而之」は「去年(こぞ)見てし」と訓む。「秋月夜者」は「秋の月夜(つくよ)は」と訓む。ノを補読して訓む。211番歌では「乃」で表記。これも同句と見てよい。「雖渡」は「渡れども」と訓む。「わたる」は、一方から一方へ移動することをあらわす動詞で、ここは「日や月が空を移動して行く」ことをいう。この句は、211番歌では「照らせども」に改められて、照る月の光が鮮明な印象を一首にもたらしている。

 結句「相見之妹者 益年離」「相見し妹は いや年離(さか)る」と訓む。「相見之妹者」は「相見(あひみ)し妹(いも)は」と訓む。「益年離」は「益(いや)年(とし)離(さか)る」と訓む。これも211番歌「弥(いや)年(とし)放(さか)る」と表記は違うが同句。「益」は、「ますます」の字義から、「弥」と同じくイヤと訓む。「離」は「放」と同じく「離(さか)る」と訓む。
歴史解説  

【巻2(215)。】
題詞  212番歌参照のこと。
原文  衾路 引出山 妹置 山路念邇 生刀毛無
和訳  衾道(ふすまぢ)を 引手(ひきで)の山に 妹置きて 山路(やまぢ)思ふに 生けるともなし
現代文  「衾路よ 引出の山に 妹をのこして その山路を思うと 生きている(と実感する)時もない」。  
文意解説  発句「衾路 引出山 妹置」「衾道(ふすまぢ)を 引手(ひきで)の山に 妹置きて」と訓む。「衾路」は「衾路(ふすまぢ)を」と訓む。「衾道(ふすまぢ)を」と表記は異なるが同じ。「妹置」は「妹(いも)を置きて」と訓む。ここでは、ヲ、テの表記が省かれている。

 結句「山路念邇 生刀毛無」山路(やまぢ)思ふに 生けるともなし」と訓む。「山路念邇」は「山路(やまぢ)念(おも)ふに」と訓む。「山路(やまぢ)」は「山中の道。山越えの道。また、単に山」の意。「念」は「念(おも)ふ」。「邇」はニ。211番歌4句は「山徑(やまぢ)を徃(ゆ)けば」と改められている。『萬葉集注釋』はこの句について「『山路を行けば』であれば作者がその山路にある事が明らかであるが、『思ふに』では作者の位置が明らかでなく、家にあつて思ひやるやうにも見え、これまた前の歌の切実さに及ばない」と述べている。確かに「山路(やまぢ)念(おも)ふに」では間接的で、弱いようには思うが、次の216番歌との関係からすれば、家近く帰って来ての詠と見るべきものと思われ、窪田『萬葉集評釋』に「山路」を山の意で言っていると記すのは一つの解釈ではあろう。「生刀毛無」は「生(い)けるとも無(な)し」と訓む。211番歌は「生跡毛無」で「生(い)けりとも無(な)し」と訓んだ。「刀」と「跡」が違うだけであるが、「刀」はト。「とき。あいだ。ほど。うち。ま」の意。用例としては、「夜之不深刀尓(よのふけぬとに)」(1822)、「古非之奈奴刀尓(こひしなぬとに)」(3748)などがある。
歴史解説

【巻2(216)。】
題詞  214・215番歌に続く、213番歌の反歌三首目である。
原文  家来而 吾屋乎見者 玉床之 外向来 妹木枕
和訳  家に来て 我が屋を見れば 玉床(たまとこ)の 外(ほか)に向きけり 妹が木枕(こまくら)
現代文  「家に帰って 嬬屋を見ると 床の中で あらぬ方を向いているのだった 妻の木枕は」。
文意解説
 発句「家来而 吾屋乎見者 玉床之」「家に来て 我が屋を見れば 玉床(たまとこ)の」と訓む。「家来而」は「家に来て」と訓む。「家」は下に場所を示す二を読み添えて「家に」。「家」は妻や家族がいるべき本拠を指す呼称。「来」は「来(き)」。「而」はテ。「家に来て」は「家に帰って」の意。「吾屋乎見者」は「吾(わ)が屋(や)を見れば」と訓む。「吾屋」は間にガを補読して「吾(わ)が屋(や)」。「屋(や)」は「家(いへ)」とは区別して用いられ、多く具体的建造物としての家を指す。ここの場合は夫婦生活した棟ないし部屋の意味での嬬屋を指して言ったものと考えられる。「乎」はヲ。「見者」は「見れば」と訓む。「玉床之」は「玉床(たまどこ)の」と訓む。「玉床」は「たまどこ」と訓み、「たま」は美称で「美しいふしど」の意。「之」はノ。

 結句「外向来 妹木枕」「外(ほか)に向きけり 妹が木枕(こまくら)と訓む。「外向来」は「外(ほか)に向(む)きけり」と訓む。「あらぬ方向に向いて転がっていた」である。なんとも痛ましく侘びしい光景である。この句は、旧訓にホカニムキケルとあったのを『萬葉集童蒙抄』にヨソニムキケリと改め、『萬葉考』にホカニムキケリとし、『萬葉集古義』にはトニムカヒケリとした。ここでの訓みの論点は、「外」をなんと訓むかということと、「来」の表す過去・詠嘆の助動詞「けり」は、連体形なのか終止形なのかという二点である。「向」は、「向(む)き」と訓むが、それについての異論はない。「外」の字は、トともヨソともホカとも訓みうるが、トと訓む例は少なく、「内尓毛外尓毛(ウチニモトニモ)」(4285)の例にあるように、内に対する外の意に用いられる場合に限られ、この句にはあてはまらない。ヨソと訓む例は174番歌一句「外尓見之(ヨソニミシ)」をはじめ用例は多い。ヨソの仮名書き例も「四十耳見乍(ヨソノミミツツ)」(383)、「與曽尓見之欲波(ヨソニミシヨハ)」(3417)「與曽尓也故非無(ヨソニヤコヒム)」(3631)など十例あるが、その九例までが下に「見る」の語がある。ホカは、仮名書き例が二例「保可尓奈氣加布」(3975)、「保加尓母伎美我」(3977)があり、「外」を従来ホカと訓んでいる例としては、人麻呂歌集の「荒礒越(アリソコシ) 外徃波乃(ホカユクナミノ) 外心(ホカココロ)」(2434)がある。ヨソとホカとは極めて接近した言葉でいづれと訓むか決め難いが、ヨソは「見る」を伴うことが多く、ホカはそうは続かないことからすると多少の差があったように思われる。この句の場合、「あらぬ方」とか「そっぽ」という意であることからすると、人麻呂歌集の例と同じくホカと訓むのが良いと考えられる。次は「来」をケルと訓むかケリと訓むかである。ケルと連体形に訓む場合は、次の結句を修飾して一首区切れがない名詞止めの歌となり、ケリと訓めば四句切れの作ということになるが、『萬葉集注釋』に「第二句に『見れば』とあつて、その句を第四句で受けたと見るのが自然であ」るという説が肯定される。結局、この句の訓みは、『萬葉考』のホカニムキケリに従うのが良いということとなる。「妹木枕」は「妹(いも)が木枕(こまくら)」と訓む。「妹」はガを読み添えて「妹(いも)が」。「妹」は亡くなった妻を指す。「木枕(こまくら)」は「木の枕」。当時の枕には、菅枕・黄楊(つげ)枕・薦枕・栲枕などがあったらしい。「木枕」の材料として代表的なものが黄楊材であったようだ。「黄楊(つげ)枕」は2503番歌に詠まれている。 

 なお、この歌は、213番歌の反歌にのみ見え、210番歌の反歌にはこれに相当する歌がない。初案から再案に推敲された過程で削られたものと思われる。というのもこの歌は、213番歌の結句「灰(はひ)にて座(いま)せば」という現実と対応する現実を詠ったものであり、推敲の過程で長歌末尾が「髣髴(ほのか)にだにも見(み)えなく思(おも)へば」と改められたため、存在意義をなくしてしまったためであろう。
歴史解説

【巻2(217)。】
題詞  柿本朝臣人麿の作歌。「吉備津采女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌」(吉備津の志賀津釆女(しがつのうねべ)(みまか)れる時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌)。吉備津の采女が亡くなった時、柿本人麻呂が作る歌。「吉備津釆女」とは、「吉備国の津郡から貢進された采女」の意。「采女」(51番歌に既出)は、後宮女官の一つで、天皇、皇后の日常の雑役に従事した者をいう。『日本書紀』の大化二年正月の条に「凡そ采女は、郡の少領より以上の姉妹及び子女の形容端正しき者を貢れ。」とあり、諸国の郡司一族の子女のうちで13歳から30歳までの容姿端正な者を選んで出仕させて宮内省采女司が管轄した。采女貢進単位は奈良時代において、兵衛と同じく郡であったので、「吉備津采女」などのように郡名をもって呼ばれるのが原則であった。吉備国の津郡は、現在の岡山県都窪郡ー岡山市の西方、倉敷市の北及び北北東の方角ーにあたる。
原文  秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可 栲紲之 長命乎 露己曽婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曽婆 夕立而 明者 失等言 梓弓 音聞吾母 髣髴見之 事悔敷乎 布栲乃 手枕纒而 劔刀 身二副寐價牟 若草 其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武 時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也
和訳  秋山の したべる妹 なよ竹の 嫋(とを)依る子らは いかさまに 念(おも)ひ居(ま)せか 栲縄(たくなは)の 長き命を 露こそは (あした)に置きて 夕へは ()ぬといへ 霧こそは 夕へに立ちて (あした)は 失すといへ 梓弓 音聞く(あれ)も 髣髴(おほ)に見し こと悔しきを 敷布(しきたへ)の ()枕まきて 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝けむ 若草の その(つま)の子は (さぶ)しみか 念(おも)ひて()らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと。
現代文  「赤い秋山のようで、なよ竹のようにしなやかな娘はどう思っているか、長いはずの命を露や霧のように朝夕に生まれては消えて行くと言う。娘のことを噂に聞く私も残念に思う。手枕に巻いて、身を添えて寝た若い夫は寂しく、又は悔しく思っていることだろう。未だ若くして亡くなってしまった娘は朝露、夕霧のようだ」。

 「秋山の 色づくように美しい乙女 なよ竹のように しなやかな乙女は どのように 思ってか 栲縄のように 長い命であるものを 露ならばこそ 朝において 夕方には 消えるというが 霧ならばこそ 夕方に立って 朝は 消えるというが 梓弓の音を聞くように  噂をきいているわたしも 生前にしみじみ見なかったことが 悔まれるものを 敷栲の枕ならぬ 手枕をして 剣大刀のように 添い寝をしたであろう 若草のみずみずしい その夫の身としては どれほどさびしく思って 寝ているだろうか どれほど悔しく思って 恋い慕っているだろうか 思いがけない時に この世を去って行った乙女が まるで朝露のように 夕霧のように」
文意解説  長歌()。
 発句「秋山 下部留妹」「秋山の したべる妹」と訓む。「秋山」はノを読み添えて「秋山(あきやま)の」と訓む。ここの「秋山(あきやま)の」は、秋の山の木々が紅葉して美しく照り映える意で「したふ」にかかる枕詞。「下部留」はシタへル。「したひある」が約まった「したへる」に宛てたもの。「妹(いも)」は亡くなった吉備津釆女を指す。

 2句「奈用竹乃 騰遠依子等者」「なよ竹(たけ)の とをよる子(こ)らは」と訓む。「奈用」はナヨで「細くしなやかな竹。なよなよとした竹」をいう。「乃」はノ。「なよ竹の」は、やわらかい竹がたわみやすいところから、「とをよる」にかかる枕詞。「騰遠依」はトヲヨル。「竹が揺れ動くようにしなやかに揺れる」意であるが、古典基礎語辞典の解説には「トヲは、トヲヲ(撓)・トヲム(撓む、しなう意)と同根。また、トヲは、タワワ(撓、たわみしなうほどである意)・タワム(撓む、しなやかに曲がる意)のタワの母音交替形。ヨルは、揺れるの意。『下動(とよ)み地震(なゐ)が揺り[与釐]来ば』〈書紀歌謡九一〉のヨルと同じ」とある。「子(こ)」は「妹」と同じく吉備津釆女を指す。「等」はラ。「者」はハ。

 3句「何方尓 念居可」「何方(いかさま)に 念(おも)ひ居(を)れか」と訓む。「何方尓」は既出。「何方」は、状態や方法などについての疑問を表す形容動詞「いかさま」にあてたもので、それに「尓(二)」が付いて、副詞の「いかさまに」となり、「どのように、どんなふうに」の意を表す。「念」は「念(おも)ひ」。「居」は「居(を)れ」。「可」はカ。カが已然形に付くのは上代のみの形で疑問・反語を表す。「念(おも)ひ居(を)れか」は「思っているからか」の意。

 4句「栲紲之 長命乎」「栲紲(たくなは、縄)の 長き命を」と訓む。「栲紲(たくなは、縄)」は、「楮(こうぞ)などの皮でより合わせた縄」をいう。海女(あま)が海中にはいる際の命綱などとして用いられた。「紲」の字は、名義抄に「紲。ツナグ・ホダシ・キヅナ・ナハ・カケナハ」とあり、ここは「縄(ナハ)」に宛てたもの。「之」はノ。「たくなはの」は、栲縄が長いところから、「長し」「千尋(ちひろ)」にかかる枕詞、ここも次の「長き」にかかる。「長」は「長(なが)き」。「命(いのち)」は、「継続されるべき、ただし限りのある生の力。生命。また、寿命」の意。日本国語大辞典の「命」の【語誌】欄に「万葉集では『命生く』『命死ぬ』といった誇張的な表現が注目されるが、これらを含めて『命』が詠まれるのは相聞歌に集中しており、東歌には見られないなど、高度に文学的な表現であったと思われる。平安時代以降の歌集でも、『命』は相聞の歌に集中しているようである」と記されている。「乎」はヲ。

 5句「露己曽婆 朝尓置而」「露こそば 朝(あした)に置きて」と訓む。「露」 は、「大気中の水蒸気が冷えた物体に触れて凝結付着した水滴」で、夜間の放射冷却によって気温が露点以下(氷点以上)になったとき生じる。194番歌では「朝露」という表現が使われていた。「己曽婆」はコソバ。コソとハが複合したもので、「コソとハが複合した際には、コソバと濁音化するのが一般的であったと認められる」。「朝」を「あした」と訓む。「あした」は、「夜が明けて明るくなった頃。あさ」の意で、古くは、夜の終わった時をいう意識が強い。対偶語は「ゆうへ」。「尓」はニ。「置」は「置き」。「おく」は「露や霜が生じて、ある場所を占める」ことをいう。「而」はテ。

 6句「夕者 消等言」「夕(ゆうへ)は 消ゆと言へ」と訓む。「夕」は「ゆうへ」(「ゆふべ」と濁音に訓むものもあるが古くは清音)と訓み、「日が没して暗くなろうとする時刻。夜の始まる頃。夕方」の意で、夜を中心とした時間区分の表わし方で、その暗くなり始めをいう。対偶語は「あした」。「者」はハ。「消」は「きゆ」の終止形で「消(き)ゆ」。「等」はト。「言」は「言(い)へ」。「消(き)ゆと言(い)へ」について日本古典文学大系の頭注は次の様に述べている。「消えるというがの意。言へは已然形。上のコソを承けて、既定の前提句を示す。「失すと言へ」も同じ。主語についた係り助詞は、その述語にかかるものであるという通説に従えば、このように主語述語の関係の外に係りの結びが来ていることは誤りだということになろう。(つまり、ツユコソバユフベハキユレトイヘのように表現すべきだということになる) しかし、コソの係りは、已然形の結びと呼応するというのが本来の任務で、必ずしも主語述語の関係において成立するものではないから、ここに見られるような場合も、全く正しい語法である」。

 7句「霧己曽婆 夕立而」「霧こそば 夕(ゆうへ)に立ちて」と訓む。「霧」は、「空気中の水蒸気が凝結して細かい水滴となり、地表近くの大気中に煙のようになっている自然現象」をいう。194番歌では「夕霧」という表現が使われていた。「己曽婆」は先出。「夕」は、ここは二を補読して「夕(ゆうへ)に」と訓む。「立」は「立ち」。「たつ」は、「雲、霧、煙などが現われ出る」ことをいう。「而」はテ。

 8句「明者 失等言」「明(あした)[朝]は 失(う)すと言へ」と訓む。「明者」は「夕者」に対応しており、「明」は「ゆうへ」の対偶語の「あした」に宛てたもの。「者」はハ。「失」は「失(う)す」。「等言」は先出。四句対を成し、短い生命のものの例として露と霧の場合を詠って、采女の死を婉曲的に表現したもの。
 

 9句「梓弓 音聞吾母」「梓弓(あづさゆみ) 音(おと)聞(き)く吾(われ)も」と訓む。「梓弓(あづさゆみ)」は枕詞。ここでは、矢を射ると、音が出るところから次の「音」にかかる。ここの「音(おと)」は「評判。うわさ。風聞」の意。「聞」は「聞(き)く」。ここでの「きく」は「言伝え、うわさなどを耳にする」の意。「吾」は「われ」と訓み、作者の人麻呂を指す。「母」はモ。

 10句「髣髴見之 事悔敷乎」「髣髴(おほ)に見(み)し 事(こと)悔(くや)しきを」と訓む。「髣髴」は既出で、そこでは「髣髴(ほのか)に」と訓んだが、ここでは「髣髴(おほ)に」と訓む。本長歌の反歌二首目219番歌に「於保尓(おほに)見敷者(みしくは) 今叙悔(いまぞくやしき)」とあるので「おほに」と訓むことが分かる。「おほ」は、「おほほし(鬱)」「おぼろ(朧)」などの「おほ」「おぼ」と同意で、「物の形、状態、量、大きさ、感情などがはっきりとしていないさま、漠然としているさま」をいう形容動詞。ここはその連用形で「おほに」。『萬葉集全注』はこの句の注に「ホノカニが対象のぼんやりとして、はっきりしないことを表わすのに対して、オホニは対象のはっきりしないことにも、見る者が深く注意しないことにも用いる。この歌の場合は後者に重点がある。」と記している。「見」は「見(み)」。「之」はシ。「事(こと)」は、用言の連体形による修飾を受けて、これを名詞化し、その語句の表わす行為や事態や具体的内容などを体言化する形式名詞。「悔敷」は「悔(くや)しき」と訓む。「敷乎」はシキヲ。「髣髴(おほ)に見(み)し事(こと)悔(くや)しきを」は「心深く見なかったことがくやしく思われるものを、の意」(『萬葉集全注』)

 11句「布栲乃 手枕纏而」「布栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)纏(ま)きて」と訓む。「布栲」は「しきたへ」と訓み、「寝床に敷いて寝る布」のこと。「しきたへ」の漢字表記としては通常「敷栲」または「敷妙」と書かれるが、ここでは、前句に「敷」の字を使用したことから、「布」の字を用いたものと思われる。『名義抄』には「布 ヌノ・シク」とある。「乃」はノ。「しきたへの」は、敷栲が寝具の意となるところから、寝具として使われる「床、枕、手枕」などにかかる枕詞として用いられた。ここは次の「手枕」にかかる。「手枕(たまくら)」とは、「腕を枕とすること」をいう。「纏」は「纏(ま)き」。「まく」は「枕にする。枕にして寝る」ことをいう。「纏」の字は、名義抄に「纏。マツハル・マトフ・モトホル・ムスブ・トラフ・マク」とある。「而」はテ。

 12「劔刀 身二副寐價牟」「劔刀(つるぎたち) 身(み)に副(そ)へ寐(ね)けむ」と訓む。「劔刀」は既出。「劔」は「つるぎ」と訓む。ここは、「劔刀」で以て「つるぎたち」に宛てたもの。「つるぎたち」は身に添えて携えることから次の「身にそへ」にかかる枕詞として用いたもの。「身」はミと訓み、「命ある人や動物の肉体」の意。中世以降多く用いられるようになった類義語の「からだ」は命の有無にかかわらない、外側からとらえられる単なる形としての身体を意味する点で「身」とは異なる。「二」はニ。この用字には「身二(ふた)つ」の意が込められているように思える。「副」は「副(そ)へ」。「寐」は「寐(ね)」。「價牟」はケム。過去推量を表す。

 13句「若草 其嬬子者」「若草(わかくさ)の 其(そ)の嬬(つま)の子(こ)は」と訓む。「若草」は、ノを読み添えて「若草(わかくさ)の」と訓む。「若草乃」の表記で既出。若草が柔らかくみずみずしいところから、「つま(妻・夫)」まれに「いも(妹)」にかかる枕詞として用いられたもので、ここも次の「其嬬子」にかかる。「其」は、代名詞として「その、それ」に用いられる。「その」は中称の代名詞ソにノが付いたもので、前に述べたことや聞き手が了解していることをさし示す。古くは強い関心をもつものを指示するのに用いられた。「嬬」は既出、配偶者の意のツマで、男女何れにも(妻にも夫にも)用いられた。「嬬子」は、間にノを補読して「嬬(つま)の子(こ)」と訓み、「ツマである子」の意で、ここは吉備の津の采女の夫を指す。「者」はハ。
 
 14句「不怜弥可 念而寐良武」「さぶしみか 念(おも)ひて寐(ぬ)らむ」と訓む。「不怜」は「浦不怜」(うらさぶ)として既出だが、ここは「さぶし」を表すのに用いたもの。「怜」は、「よし、よろし。おもしろし」の意があり、「不怜」はその打消しで、心が楽しまない状態をあらわす「さぶし」と同じ意となる。「弥」はミ。接尾語ミは普通、形容詞又は形容動詞の語幹に付いて名詞を作るが、ここでは語幹「さぶ」ではなく終止形の「さぶし」についている。このことに関し、『萬葉集注釋』は、「『み』は『痛み』(一・五)、『時じみ』(一・六)などの『み』なるものであるが、ここはその原形『さぶしむ』といふ動詞の連用形としての意義用法が殘つてゐるもので、さぶしみ思ふ、とつゞいて、さぶしがり思ふ、さぶしく思ふ、の意となる」と述べている。「可」はカ。「念」は「念(おも)ひ」。「而」はテ。「寐」は「寐(ぬ)」。「良武」はラム。 

 15句「悔弥可・念戀良武」「悔(くや)しみか・念(おも)ひ戀(こ)ふらむ」と訓む。この二句は前句との二句対。「悔」は「悔(くや)し」。「弥可」は先出。「念」と「良武」も先出。「戀」は「戀(こ)ふ」。

 16句「時不在 過去子等我」「時(とき)ならず 過去(すぎに)し子等(こら)が」と訓む。「時不在」は「時ならず」と訓む。「死ぬべき時でもない時に」の意で、吉備の津の采女の死が不慮の死であることを言ったもの。「過去」は「過去(すぎに)し」と訓む。「過去(すぎに)し」は、この世を去った意で死んだことを表す。「子(こ)ら」は先出で吉備の津の采女を指す。「我」はガ。

 結句「朝露乃如也 夕霧乃如也」「朝露(あさつゆ)の如(ごと)・夕霧(ゆふきり)の如(ごと)」と訓む。この句は四句対を承けたもの。「朝露」「夕霧」は194番歌に既出。「乃如也」は「の如(ごと)」と訓む。「乃」はノ。「如」は、「のように」の意。「也」は終辞で、不読文字。
歴史解説

【巻2(218)。】
題詞  「短歌二首」。次の219番歌と共に217番歌(以下「長歌」という)の反歌である。この二首の反歌では、長歌の「吉備の津の采女」のことを「志我(しが)[賀]津の子」「凡(おほ)[大]津の子」として詠っていることから、その関係をどのように見たらよいかという問題があり、江戸時代から今日まで多くの研究者を悩ませ続けている。
原文  樂浪之 志賀津子等何[一云 志賀乃津之子我]  罷道之 川瀬道見者 不怜毛
和訳  ささなみの 志賀津の子らが [一云 志賀の津の子が]  罷り道の 川瀬の道見れば 寂しも
 楽浪(ささなみ)の 志賀津の子らが (まか)りにし 川瀬の道見れば (さぶ)しも
現代文  「楽浪の 志賀津の乙女が この世を去る道とした 川瀬の道を 見るとさびしく思われるよ」。 
文意解説

 「ささなみの志賀」とは30番歌等で述べたように、滋賀県琵琶湖北岸に営まれた大津京の近辺。志賀津は大津。 罷(まか)り道は葬送の道。

歴史解説  発句「樂浪之 志賀津子等何[一云 志賀乃津之子我]  罷道之」「ささなみの 志賀津の子らが [一云 志賀の津の子が]  罷り道の」と訓む。「樂浪之」は「樂浪(ささなみ)の」と訓む。「志我津子等何」は「志我津(しがつ)の子らが」と訓む。「志我津(しがつ)」は志賀の大津を指す。「子等」は長歌と同じ。ラは愛称。「志我津の子ら」は、「長歌」の「吉備の津の采女」を指すと思われ、「吉備の津の采女」は近江朝の采女であったとの想定(事実そうであったかどうかはしばらく置く)のもとに本歌は詠われていると考えられる。「何」はガ。[一云 志我乃津之子我] は[一に云ふ 志我の津の子が]と訓む。「乃」、「之」は共にノ。「我」はガ。「罷道之」は「罷(まか)り道(ぢ)の」と訓む。「罷(まか)り道(ぢ)」は、「あの世への道。死出の旅路」の意。「まかる」は、「まく(任)」の派生語で、「まく」の受身形が原義で、上位者に命令され、許可されて、そのもとを去ることをいうが、また、自分の意志で上位者のいる場を去る意にも用いた。特にここでは、「おそばを去って、あの世へ行く。死ぬ」の意。「罷」は名義抄に「罷。ヤムヌ・シリゾク・マカル・マカヌ・ツカル・ツカレタリ・マカデム」の訓がある。「之」はノ。

 結句「川瀬道見者 不怜毛」「川瀬の道見れば (さぶ)しも」と訓む。 「川瀬道」は「川瀬の道を」と訓む。「川瀬」はノを補読して「川瀬の」と訓む。「川の中の底が浅く、流れの速いところ」をいう。「道」はヲを読み添えて「道を」と訓む。「罷(まか)り道(ぢ)の 川瀬の道を」の解釈について、澤瀉『萬葉集注釋』は次のように述べている。
 「私注に「川瀬が即ち道であり、それがマカリヂである。此によつて、采女が入水自殺したことが推測される。入水して川瀬を流され、それを罷道として、亡せたと見るべきである」とあるに私は同感である。他の諸家は「川瀬の道」の「道」を「罷り道」としたのであるが、私注の説のやうに川瀬が罷り道で、川瀬に身を投げたので、その川瀬に添うた道と見るべきだと考へる。罷り道といふ用語例からもそれがあてはまり、たゞ葬送の列が通つた道といふだけでは感慨も淺く、采女自身が身を投げた川瀬、その川瀬に添うた白つぽい道 ー なほ云へばその道を采女が辿つて行つて身を投げた、と考へられるその道 ー であつてこそ詠嘆が深くなるのだと私は考へる。そしてその川瀬といふのは瀬田川(宇治川の上流)ー 今もよく水死人のある ー であらうと私は想像する」。
 最後の「川瀬は瀬田川」との想像は別として、納得のいく説明であると思い引用した。「見者不怜毛」は「見ればさぶしも」と訓む。「見者」は「見れば」と訓む。「不怜」は「さぶし」。「毛」はモ。

【巻2(219)。】
題詞  前歌に続いて217番歌(以下「長歌」という)の反歌二首目である。
原文  天數 凡津子之 相日 於保尓見敷者 今叙悔
和訳  そら数ふ 大津の子が 逢ひし日に おぼに見しかば 今ぞ悔しき
 左々数(ささなみ)の 大津の子が 逢ひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき
現代文  「 (そら数ふ)《そらで数えるおぼつかなさ》大津の乙女を 見かけた日に 心に留めずに見たことが 今になっては悔やまれる」。
文意解説
 発句「天數 凡津子之 相日」「そら数ふ 大津の子が 逢ひし日に」と訓む。「天數」は「天(そら)數(かぞ)ふ」と訓む。「そら数ふ」は枕詞。大津の子は死んだ采女。「おぼに見しかば」は「ぼんやりとしか見ていなかったので」だ。「天」は、普通アメまたはアマと訓み、ソラと訓むのは珍しいが、「天尓満」を「天(そら)に満(み)つ」と訓んだ既出例がある。ここも旧訓にアマカソフとあり、『萬葉代匠記』にアメノカスとし、『萬葉考』にソラカゾフと改訓したもので、真淵は「こは物をさだかにせで凡にそら量りするをそらかぞへいふを以て、大津の凡を凡(オホヨソ)の意にとりなして冠らせたり」と言っている。「數」は「数」の旧字で、『名義抄』に「數 カズ・カゾフ・アマタ・コトワリ・コトワル・シバシバ・シルシ・マホル・アマタタビ」とある。『萬葉集注釋』は、後撰集・拾遺集の詠み人知らずの古歌に大空とおおよその意をかけて用いられている例を挙げて、萬葉人にもその意識があったと見てよいのではないかとして真淵説に賛同している。後撰集・拾遺集の例を参考までに次に記しておく。「恨むとも恋ふともいかが雲井よりはるけき人をそらに知るべき」(後撰集巻十四)、「わが祈る事は一つぞ天の川そらに知りてもたがへざらなむ」(拾遺集巻三)。

 以上により、真淵説に従って、この句「天(そら)數(かぞ)ふ」は、地名の「大津」にかかる枕詞とみることとする。「凡津子之」は「凡(おほ、大)津(つ)の子が」と訓む。「そらかぞふ」を承けておおよその意の凡を使って、地名「大津」を「凡津」と書いたもので、この「おほ」は「於保」との呼応も意識してのものと考えられる。「凡津子」は「大津の子」で、前歌の「志我津の子ら」と同じく、死んだ采女を指す。ここの「之」はガ。「相日」は下にシを補読して「相(あ)[逢]ひし日(ひ)に」と訓む。「日(ひ)」は、時の流れの中のある時点、時期を、単位としての一日になぞらえて言ったもので、「時。折」の意。これも下に二を読み添える。

 「大津の子が 逢ひし日に」について、『新編古典文学全集』はその頭注に次のように記す。(「子」の表記は「児」としている。)
○ 大津の児が逢ひし日に ー 大津ノ児は志我津ノ児に同じ。大津の児ガ逢フは大津の児が姿を現すことをいい、話し手の側の関心は表されていない。→一九四(逢ふやと思ひて)。
○ 逢ふやと思ひて ー A、Bニ逢フと、B逢フとは全く別個の表現。A、Bニ逢フはAが主導権を持ち、Bが気づくより先に見つけて声をかけることを表す。それに反して、B逢フは、Bが主語で姿を現すことをいう。(以下、略)
 以上の説明を踏まえて直訳すると、「大津の乙女が 姿を現した日に」となるが、次句が話し手側の関心に移る事を踏まえて、「大津の乙女を 見かけた日に」と意訳することとした。

 結句「於保尓見敷者 今叙悔」「おぼに見しかば 今ぞ悔しき」と訓む。「於保尓見敷者」は「おほに見しかば」と訓む。この句は長歌の「髣髴見之(髣髴(おほ)に見し)」と対応している。「於保尓」はオホニ。「物の形、状態、量、大きさ、感情などがはっきりとしていないさま、漠然としているさま」をいう形容動詞「おほなり」の連用形「おほに」を表す。「見敷者」は「見しかば」と訓む。「今叙悔」は「今ぞ悔(くや)しき」と訓む。この句は「長歌」の「事悔敷乎(事(こと)悔(くや)しきを)」に呼応している。「今」は、「過去と未来との境になる時。現在」をいう。「叙」はゾ。
歴史解説

【巻2(220)。】
題詞  柿本朝臣人麿の作歌。「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌](讃岐国(さぬきのくに)狭岑島(さみねのしま)にて石中(いそへ)死人(しにひと)を視て、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌)」。今の香川県坂出市裟弥島で石の間で亡くなった人を見て柿本人麻呂が作った歌。人麻呂の「狭岑島死人歌」と称される歌群(220~222番歌)。
原文  玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡  次来 中乃水門従  <船>浮而  吾榜来者  時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行<船>乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭<岑>之嶋乃 荒礒面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 徃而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 欝<悒>久 待加戀良武 愛伎妻等者
和訳  玉藻よし 讃岐の国は 国柄(くにから)か 見れども飽かぬ 神柄(かみから)か ここだ貴(たふた)き 天地(あめつち) 日月とともに ()り行かむ 神の御面(みおも)と 云ひ継げる 那珂(なか)の港ゆ 船浮けて ()が榜ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき波立ち ()見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯廻(ありそみ)に 廬りて見れば 波の()の 繁き浜辺(はまへ)を 敷布の 枕になして 荒床(あらとこ)に (ころ)臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉ほこの 道だに知らず 欝悒(おほほ)しく 待ちか恋ふらむ ()しき妻らは。
現代文  「讃岐の国は国柄、神柄がらが良いからか見ても飽きず、こんなにも貴い。天地、日月ともに満ちたりて行くであろう。中の港に船を浮かべて漕いでくれば風が雲を吹き、沖は波が立ち、浜辺は白波が立っている。海を恐れて梶を折れるほど漕いで、数多くの島の中から有名な狭岑の島の荒磯に庵を作って見ると、波音の盛んな浜辺を枕にして荒い床に臥している君がいる。君の家を知っていれば行って告げよう。妻が知れば来て問いもしよう、愛しい妻らは道も知らず不安に待ち焦がれているだろう」。
 (玉藻よし) 讃岐の国は 国柄のせいか いくら見ても飽きることがなく 神の性質によってか まことに貴く思われる 天と地 日と月とともに 満ち足り栄えてゆくであろう 神のお顔として  神代から受け継いで来た 中の港から 舟を浮かべて 漕いで来ると 時を定めて吹く風が 雲の居る彼方で吹くので 沖を見ると うねり波が立ち 岸辺を見ると 白波がさわいでいる (鯨魚取り) 海の恐しさに 行く舟の 梶を折れるほど強く引きつけて あちらこちら 島は多いけれども 名前が美しい 狭岑の島の 荒磯の上に 仮廬をつくって見ると 波音の しきりに聞こえる浜辺を (敷妙の) 枕として 荒床に ひとりで伏している人の もし家が分るならば 行って知らせもしよう 妻が知ったら 来て様子を尋ねもするだろうに (玉桙の) 道さえも知らず 不安な気持で 待ちこがれているだろう いとしい妻は
文意解説  長歌(45句)。讃岐の沙峯島は香川県坂出市の海上に突き出た沙弥島のこと。現在は埋め立て地と陸続きになっている。瀬戸大橋のすぐ西側に位置している。長歌の内容から波の荒い小島だったことがうかがわれる。古代のいわば孤島だった。
 長歌()。「『万葉集』を訓(よ)む(その379)」その他を参照する。
 発句「玉藻吉 讃岐國者 國柄加」「玉藻よし 讃岐の国は 国柄(くにから)か」と訓む。「玉藻吉 讃岐國者」は「玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の國は」と訓む。「玉藻」は「美しい藻」の意で、「玉(たま)」は美称。「吉」は「青丹吉」、「朝毛吉」の「吉」と同じ。「よし」と訓み文節末に添えて詠嘆を表わす。「玉藻(たまも)よし」は地名「讃岐」にかかる枕詞。「讃岐の國」については既述。「者」はハ。「國柄加」は「國柄(くにから)か」と訓む。「國が本来備えている性質」の意。「カラ(族・柄)」は、上代では「親族(うがら)」「同胞(はらから)」などの複合名詞として使われることが多く、血縁関係のある一族であることの意であった。その「血筋」という意のカラが、やがて「国柄、神柄、山柄、川柄」などと使われるようになる。これより「素性、血筋、生まれつき、質」の意となる。それが更に抽象化して「自然のつながり、自然の成り行き」の意に発展し、そこからカラが生じることになったと考えられている。「加」はカ。

 2句「雖見不飽 神柄加」「見れども飽かぬ 神柄(かみから)か」と訓む。「雖見不飽」は「見れども飽かぬ」と訓む。「見れども飽かぬ」は「いくら見ても見飽きることがない」の意。「神柄加」は「神柄(かむから)か」と訓む。「神柄(かむから)」は「神が本来備えている性質」の意。

 3句「幾許貴寸 天地」「ここだ貴き 天地」と訓む。「幾許貴寸」は「幾許(ここだ)貴(たふた)き」と訓む。「幾許」は「ここだ」と訓み、「こんなにもはなはだしく。かくも多く」という意の副詞。古典基礎語辞典の解説には「ダは量・程度についていう接尾語で、ラに通じる。話し手の領域内の見聞・経験に関し、程度がはなはだしいことを表すときに用いる。用例は上代のみ。ココはこんなにたくさんの意に発するのだろう。同義語にココバとココラがあるが、ココダは最も古い形」とある。「貴寸」は「貴(たふと)き」と訓む。「寸」はキ。

 4句「日月與共 満将行」「日月とともに ()り行かむ」と訓む。「日月與共」は「日月(ひつき)と共に」と訓む。「天地」は、「あめつち」と訓む。「日月」は時間の上の「月日」の意で用いられるが、ここでは「太陽と月」の意で、「天地」とあわせて、いずれも永久不変のものとして引き合いに出したもの。「與」は「与」の旧字でト。「共」は、一字で「ともに」と訓む。「共に」は、トモ(友・朋、志や行動を同じくして、常に一緒にいる者の意)に、ニが付いて副詞化した語で、萬葉集では、「天地」や「天地日月」と一緒に用いられる例が多い。この場合、「人」と「天地(天地日月)」は異質のものではあるけれど、それが「友、朋」であることをいい、トモニは同類としての意になる。他に、「人」なら「人」どうし、つまり同質のものが、同じ行為をするさまについていい、いっしょに、同じようにの意を表す場合もある。「満将行」は「満(た、足)り行(ゆ)かむ」と訓む。「満」は「満(た)り」。「たる」は、普通「足る」と表記されるが、類義の二字熟語「満足」から分かるように「満」も「足」と同じく「たる=欠けるところなく見事に充実している」の意がある。名義抄にも「滿。ミツ・タル・タレヌ・トク」とある。「将行」は「行(ゆ)かむ」と訓む。「満(た)り行(ゆ)かむ」は「満ち足り栄えてゆくであろう」の意で、次の「神乃御面」を修飾する。

 5句「神乃御面跡  次来」「神の御面(みおも)と 云ひ継げる」と訓む。「神乃御面跡」は「神(かみ)の御面(みおも)と」と訓む。「神」は「古代人が、天地万物に宿り、それを支配していると考えた存在」の意。「乃」はノ。「御」は、名詞の上に付いて、それが神仏、天皇、貴人など尊敬すべき人に属するものであることを示し、敬意を添える接頭語である。「面」は神事の際に被る面の形とされる。ここでは「顔。顔つき。表面。うわべ」などの意を表す和語「おも」に宛てたもの。「跡」はト。「神(かみ)の御面(みおも)と」は「神のお顔として」の意であるが、古事記の神話伝承を背景とした表現なので、それを知らないと意味するところが分からない。古事記上巻國生みの條に「次生伊豫之二名嶋。此嶋者、身一而有面四。毎面有名。故、伊豫國謂愛比賣、讃岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣、土左國謂建依別」(「次に、伊予の二名の島を生んだ。この島は、身体が一つで顔が四つあり、顔ごとに名がある。それで、伊予の国は愛比賣(えひめ)といい、讃岐の国は飯依比古(いいよりひこ)といい、粟の国は大宜都比賣(おおげつひめ)といい、土佐の国は建依別(たけよりわけ)という」)。この神話をもとに、四つの面(おも)を持つ四国の一つの面(おも)である讃岐を「神(かみ)の御面(みおも)」と詠ったのである。「次来」は「次(つ、継)ぎ来(きた)る」と訓む。「次」は「次(つ)ぎ」。「来」は「来(きた)る」。「次(つ、継)ぎ来(きた)る」は「(神代から)受け継いで来た」の意。

 6句「中乃水門従  <船>浮而」那珂(なか)の港ゆ 船浮けて」と訓む。「中」は「なか」という地名。「乃」はノ。「水門」は「みなと」。「水の門」すなわち「河海の水の出入りする口」をいう。「中(なか)の水門(みなと)」は、現在の香川県丸亀市下金倉町の金倉川河口付近と思われる。「従」はユで、ここは船を出した地点を指す。「船浮而」は「船浮けて」と訓む。「船(ふね)」は、「水の上に浮かべ、人や荷物をのせて水上を渡航する交通機関」の意。「浮而」は「浮かべる」の意。

 7句「吾榜来者  時風 雲居尓吹尓」()が榜ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに」と訓む。「吾」はガを補読して「吾(わ)が」と訓む。「榜」は「榜(こ)ぎ」。「こぐ」は「櫓(ろ)や櫂(かい)などを用いて船を進める」ことを言う。なお、現在「こぐ」に普通使われる「漕」の字は萬葉集には見られない。「来者」は「来れば」と訓む。「時風 雲居尓吹尓」は「時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに」と訓む。「時風」はツを補読して「時つ風」と訓み、「一定の時にきまって吹く風」のことをいう。「雲居」は、遠くにじっとかかって居る雲の意で、雲そのものをさす事もあり、雲の居る彼方遠くの意にも用いるが、ここは後者。「吹」は「吹く」。「尓」は二。

 8句「奥見者 跡位浪立」「奥(おき、沖)見れば とゐ浪(なみ)立ち」と訓む。「奥」を「沖」の意で既出。「見者」は「見れば」と訓む。「跡」はト、「位」はヰ。「跡位浪」は「とゐ浪(なみ)」と訓み「うねる波」の意。この訓意については、北条忠雄「『跡位浪』考」(文学昭和17年10月)に、「とを」「とゑ」が「撓(タワ)」の母音転換をしたものである例を挙げて、それと同様、「トヰはトヲ・トヱと母音轉換になる同語で、結局トヰナミはうねり撓み立つ浪の意となる」としたのに従ったもの。「立」は「立ち」。「たつ」は「風、波などが起こり動く」ことをいう。

 9「邊見者 白浪散動」「邊(へ)見れば 白浪(しらなみ)さわく」と訓む。「邊」は「辺」の旧字で、「へ」と訓み、「奥(おき、沖)」の対偶語で、「岸に近い辺り」の意。「見者」は先出。「白浪」は「白い波、白くくだける波」の意。「散動」は「さわく」に宛てたもの。「さわく」は「騒ぐ」のことで、上代では「さわく」と清音であった。「動」一字で「さわく」と訓む例が見えるが、ここは「散」を加えて「散動」の二字で「さわく」と義訓したもので、「散」は、「散和久」、「散和口」など「さわく」の仮名書き例があり、そのことの連想をも考えての用字と思われる。「奥(おき、沖)見れば とゐ浪(なみ)立ち」と「邊(へ)見れば 白浪(しらなみ)さわく」とは二句対の対句をなしている。

 10句「鯨魚取 海乎恐」「鯨魚(いさな)取(と)り 海を恐(かしこ)み」と訓む。「鯨魚取」は「鯨魚(いさな)取り」と訓む。「いさな」には二通りの違った意味がある。いずれも「な」は魚のことであるが、「いさ」に「小さな」という意と「鯨」の意があるため、「小さな魚」と「いさ(鯨)という魚」という大きさの対照的な魚を意味することになる。ここは勿論「くじら(鯨)」の異名である「いさな」。「取」は「取り」。上代では「鯨魚(いさな)取り」の形で枕詞として用いられ、鯨を取る所の意で、海、浜、灘(なだ)など海に関する語にかかる。ここの「海」は瀬戸内の海を指す。「乎」はヲ。「恐」は、「恐(かしこ)」で、「恐ろしいこと。恐れ多いこと」の意。下にミを補読して原因・理由を表すおなじみの用法。「海を恐(かしこ)み」でもって「海が恐ろしいので」の意となる。

 11句「行船乃 梶引折而」「行(ゆ)く船の 梶(かぢ)引き折(を)りて」と訓む。「行」は「行(ゆ)く」。「船(ふね)」は既出。「乃」はノ。「梶(かぢ)」は、船を漕ぎ進めるために用いる道具で、櫓や櫂にあたるもの。「引折」は「引き折り」と訓む。「ひきをる」は「梶(かぢ)が折れるほど強く引きつけて漕ぐ」ことをいう。「而」はテ。

 12句「彼此之 嶋者雖多」「彼此(をちこち)の 嶋は多けど」と訓む。「彼此」は「彼方」を「をちかた」と訓んだように「彼」を「をち」と訓み、「此」を「こち」と訓む。「をちこち」は、「あちらこちら」の意。「之」はノ。「嶋」は「島」に同じ。「者」はハ。「雖多」は「多(おほ)けど」と訓む。奈良時代以前は、形容詞の未然形と已然形に「ーケ」「ーシケ」の形があった。

 13句「名細之 狭岑之嶋乃」「名細(くは)し 狭岑(さみね)の嶋の」と訓む。「名細」と同じで「名細(くは)し」と訓む。「之」はシ。「名」は「名前」。「くはし」は充てられる漢字によって意味が分かれる。「美・細・妙」の字が充てられる場合には「こまやかで美しい。精妙である。うるわしい」の意となり、「詳・委・精」の場合は、「細かい点にまでゆきわたっているさま。詳細である。つまびらかである。つぶさである」の意となる。「名細(くは)し」は「名前が美しい」の意。「狭岑之嶋」は「さみねのしま」と訓む。「之」はノ。「狭岑島」は、現在の香川県坂出市の沙弥島のことで、今は坂出港と陸続きになっている。「乃」はノ。

 14句「荒礒面尓 廬作而見者」「荒礒面(ありそも)に 廬作(いほり)て見れば」と訓む。「荒礒」は「ありそ」と訓む。「あらいそ」の変化した語で、荒い磯の意だが、万葉後期には、「いそ(磯)」とほぼ同義の歌語として用いられるようになる。平安以降は「ありそうみ」「ありその浦」「ありその浜」の形で、真砂の数の尽きぬたとえとしたり、「在り、有り」と掛けて詠むことが多い。「面」は「おも」で物の表面をいう。荒磯の上が、アリソ・オモであり、母音脱落によってアリソモとなる。「尓」は二。「廬作而」は「廬作(いほり)て」と訓む。「いほる」は「仮小屋を作ってそこに泊る」ことをいう。「見者」は「見れば」と訓む。なお、「廬作」を「いほり」と訓むことについて、澤瀉『萬葉集注釋』は次の様に述べている。
「… 「いほり」は「廬利為里計武(イホリセリケム)」(一・60)、「伊保利為吾等者(イホリスワレハ)」(三・250)など、名詞として「す」の動詞を加へて用ゐられる場合が多く、「廬作而」を考にイホリシテと訓み諸注多くそれに従つてゐる。しかし、「河口之(カハクチノ) 野邊尓廬而(ノベニイホリテ)」(六・1029)のイホリは動詞として用ゐられたもので、さうした用例があるとすれば、ここも「廬作」二字で、動詞のイホリを示したもので、しひて「し」といふ動詞を入れて字餘りに訓むには及ばない」。
 澤瀉の言うとおりで、「仮廬を作って」の意を表すために「作」を添えたものと考えられる。

 15句「浪音乃 茂濱邊乎」「浪(なみ)の音(と)の 茂(しげ)[繁]き濱邊(はまへ)を」と訓む。「浪音乃」は旧訓にナミノトノとあるが、ナミノオトノと訓む注釈書もある。東歌ではあるが、「可是乃等能(カゼノトノ)」(3453番歌)の仮名書き例もあるので約音の形と見る旧訓に従う。「茂」は「繁」と同じく多く盛んなさまをあらわし「茂(しげ)き」と訓む。「濱」は「浜」、「邊」は「辺」の旧字で、「濱邊」は「濱邊(はまへ)」と訓み「浜辺」の意。「乎」はヲ。「浪の音の茂き濱邊を」は「波音のしきりに聞こえる浜辺を」の意。


 16句「敷妙乃 枕尓為而」「敷妙(しきたへ)の 枕(まくら)に為(な)して」と訓む。「敷妙乃」は既出。「しきたへ」は「敷物とする栲(たへ)」の意で、「しきたへの」は枕詞。その用法を再度整理しておくと、① 敷物とする栲(たえ)、すなわち寝具の意となるところから、寝具として使われる「床」「枕」「手枕」などにかかる。② 夜の衣や袖なども、下に敷いて寝るところから、「衣、袖、袂、黒髪」などにかかる。「黒髪敷きて」にかかる場合は、同音の繰り返しによるともいう。③ 「家」にかかる。夜床のある家の意からか。一説に、寝(い)と同音であるところから。④ 袖や床と同音を語頭にもつ地名「袖師の浜」「鳥籠(とこ)の山」「とこの海」などにかかる。ここは①の例で次の「枕」にかかる。「枕尓為而」は、旧訓にマクラニナシテとあり、それに従い、「枕(まくら)に為(な)して」と訓む。この訓に対しては異説がある。井上通泰『萬葉集新考』に「マクラニシテとよむべし。ナスはツクリナスにてスといふとは別なればなり」といい、武田祐吉『萬葉集全註釋』には「為は。動詞ナスに當てた確な例が無い」との理由をあげて、同じくシテと訓んでいるのがそれである。しかし、この論に対して、稲岡『萬葉集全注』は「為は万象名義に、『治・作・行』などの注があり、ツクル場合にもミナス場合にも用いられる文字である。日本語のナスが単に作ることや行うことをいうのみでなく、ある物を変えて別の物とすることをあらわす言葉だから、それに『為』を宛て『奥つ藻を 枕所為』(13・3336)のように記された例も見られる。ここも枕と見なしての意をあらわしたものとしてマクラニナシテで良いであろう」と述べており、それに賛同する。

 17句「荒床 自伏君之」「荒床(あらとこ)に ころ伏(ふ)[臥]す君(きみ)が」と訓む。「荒床」は、題詞に「石中死人」とあるように海岸の岩石の間に伏しているのを言ったもので、旧訓ではアラトコトトとあったのを『萬葉考』にアラトコニと改訓した。山田孝雄『萬葉集講義』は、トとニとを比較検討して「荒床」は形容語であり、「荒ららかなる床として」の意であるから旧訓が正しいとしたが、澤瀉『萬葉集注釋』が言うように、ここは「その死人が磯を荒床として伏してゐるといふのではなくて、作者が磯をあらあらしい床と見做して、『磯に』といふべきを『荒床に』と云つた」のだから、『萬葉考』の改訓に従うべきだと思う。「自」は、象形文字で、鼻の形を象ったもの。ここは、「自身、自分自身、みずから」の意を表わす和語「ころ」に宛てたもの。「ころ」は語素で、「ころたつ」(独立する)、「ころどり」(一羽ずつとる)、「ころはた」(孤立する)などの例(『大言海』)がある。「自伏」は「ころ伏(ふ)す」と訓む。「ころふす」は「ひとりで伏す。ひとりで横たわる」ことをいう。「君」は題詞にいう「石中死人」を指す。「之」はガ。

 18句「家知者 徃而毛将告」「家(いへ)知(し)らば 徃(ゆ)きても告(つ)げむ」と訓む。「家(いへ)」は、その死人の「家族が住んでいるところ」を指す。「知者」は「知らば」と訓む。「徃」は、「往」の俗字で「徃(ゆ)き」と訓む。「而」はテ。「毛」はモ。「将告」は「告(つ)げむ」と訓む。「家知らば徃きても告げむ」は「もし家をしったら、行って知らせもしよう」の意。

 19句「妻知者 来毛問益乎」「妻(つま)知(し)らば 来(き)も問(と)はましを」と訓む。「妻」は、その死人の家で待つ正妻を指す。「知者」は先出。「来」は「来(き)」。「毛」はモ。「問益」は「問(と)はまし」。「乎」はヲ。「妻知らば来も問はましを」は「妻が知ったら、来て様子を尋ねもするだろうに」の意。以上四句、二句対をなす。

 20句「玉桙之 道太尓不知」「玉桙(たまほこ)の 道(みち)だに知(し)らず」と訓む。「玉桙之」は「玉桙乃」、「玉桙」と表記は違うが同じで、「たまほこの」と訓んで、次の「道」にかかる枕詞。この「道(みち)」は、家から夫のいるここへ来る道を指す。「太尓」はダニ。あとに否定・反語の表現を伴う場合には、「~さえ」と解することができる。最小限の状態を示して、それ以外を暗示する機能を持つ。「不知」は「知らず」。

 21句「欝悒久 待加戀良武」「欝悒(おほほ)しく 待(ま)ちか戀(こ)ふらむ」と訓む。「鬱悒」は既出、「うつゆう」という漢語で「気がふさぎ、愁える」という意であるが、それを和語の「おほほし」に宛てたもの。「おほほし」は、「欝悒(おほほ)しく」と訓み、「不安な気持で心も晴れず」の意。「久」はク。「待加戀」は、「加(カ)」を加えて「待ちか戀(こ)ふ」と訓む。「まちこふ」は「待ちこがれる。恋い慕って待つ」ことをいう。「良武」はラム。
 
 結句「愛伎妻等者」「愛(は)しき妻(つま)らは」と訓む。「愛伎」は、「波思吉香聞」、 [一云] 「波之伎余思」、「早敷屋師」などに既出。「はしき」と訓む。「愛伎」を「はしき」と訓むことは、「愛八師」を「波之寸八師(はしきやし)」仮名書きする例と照合することで分かる。「はし」は、「いとおしい。かわいらしい。慕わしい」の意。「妻」は先出。「等者」はラハ。なお、この句は「玉桙の」以下四句へ続く倒置法である。
歴史解説

【巻2(221)。】
題詞  「反歌二首」。次の222番歌と共に220番歌(以下「長歌」という)の反歌である。反歌は、和歌の長歌のあとにつけ加えられた短歌をいい、一首または数首で、長歌の意を補足したり、その大意を要約したりするものである。人麻呂の長歌に添えられた反歌の頭書には、「反歌」と記されたものと「短歌」と記されたものがあるが、稲岡「人麻呂『反歌』『短歌』の論」によれば、頭書に「短歌」と記されたものは持統六年以降の作に限られること、その反歌が長歌の内容の単純な要約や反復ではなく独立的な傾向の強くなっていることなどの違いがあるという。「狭岑島死人歌」と称される歌群(220~222番歌)は、ここに「反歌」の頭書があるのと、あとの反歌の内容から判断して、持統朝前半の作ではないかと稲岡は推定している。
原文  妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也
和訳  妻もあらば 摘みて食(た)げまし 狭岑(さみ)の山 野の上(へ)のうはぎ 過ぎ去りにけらずや
現代文  「妻も共にここに居たならば (一緒に)摘(つ)んで食べたであろうに 沙弥(さみ)の山の 野のあたりの「うはぎ」(嫁菜)は 盛りが過ぎてしまったではないか (この人に妻があったなら摘み取って一緒に食べたかっただろうに)」。  
文意解説
 発句「妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山」「妻もあらば 摘みて()げまし 狭岑(さみ)の山」と訓む。発句「妻毛有者」は「妻も有(あ)らば」と訓む。長歌の「妻知らば 来(き)も問はましを」の心を承けての発句。「妻」は死人の正妻。「毛」はモ。「有者」は「有(あ)らば」と訓む。「妻も有(あ)らば」は「妻も共にここに居たならば」の意。「採而多宜麻之」は「採(つ)みてたげまし」と訓む。「採」につき、名義抄に「採。トル・ツム・ヒロフ・ヲサム・イロドル・ネラフ・カキミル・トフラフ」とある。ここは「採(つ)み」と訓む。「而」はテ。「多宜」はタゲ。「たぐ」は「飲み食いする」ことをいう。「麻之」はマシ。「採(つ)みてたげまし」は「摘(つ)んで食べたであろうに」の意。「作美乃山」は「作美(さみ)の山」と訓む。「狭岑島」(現在の「沙弥島」)には、2、30メートルの小丘(新地山、権現山、城山)があり、「作美(さみ)の山」はそのどれかを指すと思われる。「乃」はノ。

 結句「野上乃宇波疑 過去計良受也」「野の()のうはぎ 過ぎ去りにけらずや」と訓む。「野上乃宇波疑」は「野の上(へ)のうはぎ」と訓む。「野上」は間にノを読み添えて「野の上(へ)」と訓み「野のあたり」の意。「上(へ)」は、ウヘのウが直前の語の末尾母音と融合した結果できた語で、ヲノヘ(尾上)のように一語化したものもある。「乃」はノ。「宇波疑」はウハギ。植物「よめな(嫁菜)」の古名である「うはぎ」を表す。「嫁菜」はキク科の多年草で、その若菜は食用とされる。その若菜を摘んで食べたという。「過去計良受也」は「過去(すぎに)けらずや」と訓む。「過去」は「過去(すぎに)」と訓む。ヌは行ってしまった意の動詞イヌ(去ぬ、ナ変)の頭母音イが脱落したものであることから、「去」の字を宛てている。ここの「すぎぬ」は、食べるのに適した時期が過ぎてしまったことをいったもの。「計良受也」はケラズヤと訓む。「…したではないか」の意。「うはぎ過ぎにけらずや」は「嫁菜の季節も去っていってしまったなあ」の意。
歴史解説

【巻2(222)。】
題詞
原文  奥波 来依荒礒乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞
和訳  沖つ波 来寄る荒礒を 敷布の 枕とまきて ()せる君かも
現代文  「沖の波の 寄せる荒磯を (しきたへの) 枕として 寝ていらっしゃる君よ」。
文意解説
 「『万葉集』を訓(よ)む(その386)」その他参照。
 発句「奥波 来依荒礒乎 色妙乃」「沖つ波 来寄る荒礒を 敷布の」と訓む。「奥波」は「奥(おき、沖)つ波」と訓む。「長歌」の「奥(おき、沖)見れば とゐ浪(なみ)立ち」を承けての発句。「奥波」は、間にツを読み添えて「奥(おき、沖)つ波」と訓む。「来依荒礒乎」は「来(き)依(よ)する荒礒(ありそ)を」と訓む。「来依」は既出で、そこでは「来(き)依(よ)れ」と訓んだが、ここは「来(き)依(よ)する」と訓む。「荒礒(ありそ)」は長歌に既出。稲岡『萬葉集全注』は、この句の注で次のように述べている。
 第二句「来依」を旧訓キヨルと訓む。紀に「来依」の右にヨスルの傍訓がある。諸注旧訓のキヨルによっているが、古典全集に「キヨスル」と改訓した。キヨルアリソヲであると単独母音をふくむ七音で準不足音句となること、それに、ヨルの場合は「岸に因云恋忘れ貝」(7・一一四七)、「住吉の浜に縁云うつせ貝」(11・二七九七)、「浜に因云あはび珠」(13・三三一八)のように珠や貝が浜にヨルことをあらわすことが多く、ヨスルが「渋谿の佐伎能安里蘇尓与須流奈美」(17・三九八六)、「あゆをいたみ奈呉の浦廻に与須流浪」(19・四二一三)のように海岸に打ち寄せる波を表わすことの多いのと対比される。この歌の模倣作と思われる三三四三歌にも「浦浪の来依浜丹」とあってキヨスルと訓まれるので、ここもキヨスルアリソと訓むのが正しいであろう。

 以上の説を支持して、「来(き)依(よ)する」の訓を採ることにした。なお引用文中に紀とあるのは紀州本のこと。「色妙乃」は「色妙(しきたへ)の」と訓む。長歌の「敷妙乃」と表記は違うが同じで次の「枕」にかかる枕詞である。人麻呂作歌では、既出の「しきたへ」は全て「敷妙」の表記であったが、ここでは特に「色妙」としており、何か意味を込めたものと考えられる。 稲岡『萬葉集全注』は、「とくに海や野の色彩感を印象づけるために『色』の字を用いたのであろうか」としているが、そうではないように思う。「色」は、字通に「会意。人+卩(せつ)。人の後ろから抱いて相交わる形」とあるように、男女のことをいう字である。そのことを知っていた人麻呂は、横たわる死人に妻が寄り添う様を思い浮かべて、ここにこの字を用いたと考えるのは穿ち過ぎであろうか。「枕とまきて」は「枕として」。「寝せる君かも」は「君」とあるので分かるように「横たわっていらっしゃる君」である。沖から間断なく岩に打ち寄せて来る波を枕として「寝せる君かも」と詠っている。人麻呂の心象風景をも表しているのだろうか。 

 結句「枕等巻而 奈世流君香聞」は「枕とまきて ()せる君かも」と訓む。「枕等巻而」は「枕(まくら)とまきて」と訓む。この句は長歌の「枕(まくら)に為(な)して」と呼応している。「等」はト。「巻」は「枕く」の連用形「まき」と訓む。「枕く」は「巻く」と同語源で、「枕にする。枕にして寝る」の意。「而」はテ。「奈世流君香聞」は「寝(な)せる君かも」と訓む。「奈世流」はナセル。「寝(な)せる」は「寝ていらっしゃる」の意。「君」は長歌の「ころ伏(ふ、臥)す君が」の「君」に同じ。「香聞」はカモ。

 反歌一首目は「長歌」に言い残したところを述べ、この二首目は「長歌」の意を簡潔に総括していると言えよう。
歴史解説  

【巻2(223)。】
題詞  柿本朝臣人麿の作歌。「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首」(柿本朝臣人麿が石見国に在りて(みまか)らむとする時、自傷(かなし)みよめる歌一首)(「柿本人麻呂、石見の国にあって死を目前にして詠んだ歌)。人麻呂の辞世の歌として伝える歌である。この歌の後に、人麻呂の死の知らせを聞いた妻依羅娘子(よさみのをとめ)の二首の挽歌(224・225番歌)、人麻呂の心で詠った丹比真人(ただひのまひと)の歌(226番歌) ならびに妻の立場で詠った作者不明の或本の歌(227番歌)が続き、223~227の五首で一つの歌群を形成している。
原文  鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
和訳  鴨山の 岩根しまける 我れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
 鴨山の 磐根し()ける 吾(あれ)をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
現代文  「鴨山の岩を枕とする私になってしまった。それを知らずに妻は待ちつづけているのだろうなあ」。
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その387)」その他を参照する。
 発句「鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨」「鴨山の 岩根しまける 我れをかも」と訓む。「鴨山之」は「鴨山(かもやま)の」と訓む。「鴨山」の所在地については次のように諸説がある。① 島根県益田市高津の鴨島説(正徹『徹書記物語』ほか)。② 同浜田市旧城山の亀山説(藤井宗雄『石見国名跡考』)。③ 同江津市二宮神村説(吉田東伍『大日本地名辞書』)。④ 同邑智郡邑智町湯抱説(斎藤茂吉『柿本人麿 雑纂篇』)。⑤ 石見国国府付近説(契沖『萬葉代匠記』)。⑥ 大和の鴨山(葛城連山の中)(土屋文明『萬葉集私注』)。いずれとも決定しがたい。「之」はノ。「磐根之巻有」は「磐根(いはね)しまける」と訓む。86番歌の「磐根(いはね)しまきて」と類句。「磐根」は「いはね」と訓み、ネは接尾語で「大きな岩」の意。「磐」一字でも「いはお」と訓んで「大きな岩」の意味をもつ。「いはお」は高くそびえ立つ大きな岩をいい、「いはね」はどっしりと安定した大きな岩をいう。ここの「之」はシ。「巻」は「枕(ま)く」に宛てたもの。「枕く」は「枕にする。枕にして寝る」の意。「巻有」は、「まきある」が約まって「まける」と訓むとも、「まけ」+ルで、「まける」と訓むともいえる。「岩根しまける」は前歌から知れるように行き倒れになって岩に横たわること。「知らにと妹が」は「行き倒れになって死のうとしている私を知らないで妻が」だが、問題はここに詠われている「妹(妻)」は誰のことかである。人麻呂は130番歌には石見の国を去って上京の途に就く。その際、妻を置いて上京し妻を思う歌を残している。妻の名は依羅娘子(よさみのをとめ)。が、人麻呂の妻は死んでいる筈である。そしてその妻をしのんで人麻呂は207~216番に長短歌10に及ぶ哀傷極まりない歌を残している。この死去した妻をかりに大津娘子(おおつのをとめ)と呼んでおこう。他方、この223番歌は石見で死のうとしている時の歌であるから「妹が待ちつつあるらむ」の妹は常識的には依羅娘子である。彼女は次歌(224番歌)から明らかなように石見にいて人麻呂がやってくるのを待っている。すなわち、人麻呂の死後も健在の女性である。なので、死去した大津娘子とは全くの別人。もし本歌の妹が依羅娘子を指しているなら「待ちつつあるらむ」は「家で今か今かと待ちわびているだろう」となる。そして各本ともそう解している。が、大津娘子が死去した時、人麻呂はあれだけ切々とした10もの長短歌を残している。なのでこの歌の妹も大津娘子のことと私には思われてならない。そうだとすると、「待ちつつあるらむ」は「死後の世界で待っていてくれるだろうか」という意味になる。「吾乎鴨」は「吾(われ)をかも」と訓む。「吾」は「われ」と訓み、作者を指す。「乎」はヲ。「鴨」はカモ。このカモは結句へかかるもので、「待(ま)ちつつ有(あ)るらむかも」と言うのと同じ。

 結句「不知等妹之 待乍将有」は「知らにと妹が 待ちつつあるらむ」と訓む。「不知等妹之」は「知(し)らにと妹(いも)が」と訓む。「不知」はシラズとシラニの二通りの訓みかたができるが、ここは201番歌と同じくシラニと訓む。「知らないで、知らずに、知らないので」の意。「知らに」は他に「白土」、「不知尓」の表記で既出。「等」はト。「妹(いも)」は次の二首(224・225番歌)の作者である妻依羅娘子(よさみのをとめ)を指すと思われる。「之」はガ。この歌では「之」は3回出て来るが、その用途は全て異なる。「待乍将有」は「待(ま)ちつつ有(あ)るらむ」と訓む。「待」は「待ち」。「乍」はツツ。「将有」は「有(あ)るらむ」と訓む。ア行音の含まれた結句は八音に訓むのが通例なので「有(あ)らむ」とは訓まないし、意味の上からもム(推量)よりもラム(現在推量)の方が良い。
歴史解説

【巻2(224)。】
題詞  柿本朝臣人麿の妻(め)依羅娘子(よさみのいらつめ)の作歌。「柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首(柿本朝臣人麿が(みまか)れる時、妻(め)依羅娘子がよめる歌二首)」。この歌と次歌の2首(224・225番歌)は、人麻呂の死の知らせを聞いた妻依羅娘子の挽歌であることが分かる。依羅娘子は人麻呂の都にいる妻で、依羅は氏の名と思われる。依羅氏は、河内国丹比郡依羅郷(大阪府松原市天美地区付近)及び隣接する摂津国住吉郡大羅(おおよさみ)郷(大阪市住吉区我孫子・庭井付近)を本拠とする氏族で、早くから朝廷に仕えている者や、経師として都に在住している者もいたことから、依羅娘子も宮仕えをして、藤原京内かその周辺に住まっていたのではないかと、阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義』は推論している。

 「鴨山」を島根県邑智郡美郷町湯抱と推定する。湯抱は、江の川上流にある温泉地であり、「石見相聞歌」の旅程からはずれていない。131番歌の1句~6句の描写は、石見の角の海岸の実態を詠んだもので、その海岸とは浜田市の国庁跡付近から都野津の東北6キロ、江の川河口付近までの海岸線(浦も潟もない単調な海岸)であろう。国府を出た人麻呂が海岸線を歩いて江の川河口に着き、そこから江の川沿いに遡って山越えの道に入っていったことが、「石見相聞歌」から容易に推定される。「石見相聞歌」という歌群の終りに妻依羅娘子の歌が置かれているのは、「臨死歌」という歌群との結びつきを示すためであると考えられ、その文脈に従うと、「石見相聞歌」を詠んだ後、湯抱付近まで来たところで急な病にかかり、この温泉地で病を養いつつ命を終えたというのが最もあり得ることではないだろうか。勿論これも推定の域をでず、当時から湯抱が温泉地であったかどうかも不明だが、湯抱の近くに「鴨山」の地名があったということが、この推定の蓋然性を高めているといえよう。

 この二首に詠われている「石川」についても「鴨山」と同じように所在地について諸説があるが、この「石川」は、大和の葛城連山にある「鴨山」の西麓を流れている「石川」と考えて良いと思う。依羅娘子は、人麻呂の歌を見て、辺境の地の「鴨山」で亡くなった夫が、大和の葛城連山にある「鴨山」を想って詠んだ歌であると理解して、その心に沿って「石川」と詠み込んだものであると思う。人麻呂の歌に「石川」と詠まれているのならば、石見国の「石川」を捜さなければならないが、その必要はないだろう。依羅娘子が、石見国の「石川」を想起して、詠んだなどとは到底考えられない。『水底の歌』の原点ともなったと言える、224番歌の「石川の貝に交じりて」という句は、稲岡『萬葉集全注』が言うように「海に注ぐ河口近くに貝などとともに水に沈んでいる人麻呂」を想像させるものであるには違いない。しかし、本文の「貝に」には「谷に」という異伝があり、稲岡『萬葉集全注』は、【考】の欄に「異伝の存在」と題して、「本文が人麻呂の死地を海近くに想像しているのに、異伝は山のイメージになっている点、この歌の異伝は、依羅娘子自身が考えたものかどうか、疑問を抱かせよう。225歌に『石川に雲立ち渡れ』と歌われているのは、山間の谷川を思わせるもので、224歌の異伝の方に近い。そこから、むしろ『貝にまじりて』の形は、依羅娘子の作った歌詞ではなく、人麻呂の死後、伝承され変型されたものであるとも考えられる」と述べている。ここで稲岡が指摘している通り、元は「谷に交じりて」であったものが、「狭岑島死人歌」の印象が強烈であったために、その影響を受けて「貝に交じりて」と変型されて伝承されたものが本文に採用されたのではないだろうか。また、山あいの谷間のことを「かひ」と言ったことから「谷」をも「かひ」と訓まれ、そのうちに同じ音の「貝」と取り違えて伝承するようになったとも考えられる。いずれにしても萬葉集の編集時点では「貝」の方が優勢となっていたものと思われる。
原文  且今日々々々  吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓]交而 有登不言八方
和訳  今日(けふ)今日と 我が待つ君は 石川の 峽に [一云 谷に]交りて ありといはずやも
 今日今日と 吾(あ)が待つ君は 石川の 貝に交りてありといはずやも
現代文  「今か今かとお待ちしてましたがあなたは石川渓谷に落ち込んでしまわれたというではありませんか」。  
 「今日か今日かと 私がお待ちしている君は石川の貝に(「谷に」ともいう)まじっていると言うではありませんか」
文意解説
 発句「且今日々々々  吾待君者 石水之」「今日(けふ)今日と 我が待つ君は 石川の」と訓む。発句「且今日且今日」は「今日(けふ)今日(けふ)と」と訓む。「今日か今日か」の意で、「今日こそは帰っていらっしゃるか」という気持を詠ったものであろう。「且」字の用法について次のように解説されている。
鹿持雅澄 萬葉集古義  「且は不定辞也と注せり。たしかに其日と定めず今日か今日かとおもふよしにて書る字なるべし」。
山田孝雄 萬葉集講義  「(2323番歌の「且今」の例をあげ、)『且』字は漢文の助字として種々の用法ある字なるが、そのうちに戦国策に〔且天下之半〕といへるに注して〔猶幾也〕といへるが如く、類聚名義抄に『ナム ~トス』といふ訓あるその意にて、『且今』の二字を『イマカ』と訓すべく用ゐたるなるべし。然りとして考ふれば『且今日』は『ケフカ』にて、『且今日且今日』は『ケフカケフカ』といふ意をあらはせる字面といはざるべからず」。
日本古典文学全集  「原文『且…且…』は事物を列挙する漢籍の用法」
 「吾待君者」「吾(わ)が待つ君は」と訓む。「吾」はガを読み添えて「吾(わ)が」。「吾(わ)」は作者の依羅娘子。「待」は「待つ」。「君」は夫である人麻呂を指す。「者」はハ。「石水之」は「石水(いしかは、川)の」と訓む。「石水」は「石川」に同じ。「水」につき、名義抄に「水。ミヅ・カハ」とある。「之」はノ。「石川」は、前歌の「鴨山」をどこに求めるかによってどの川を言ったものかが相違してくる。候補として挙げられているのが島根県益田市の高津川、同県浜田市の浜田川、同県邑智(おおち)郡の江川上流、同県同郡湯抱(ゆがかい)温泉の女良谷(めらだに)川、大阪府の石川などである。

 結句「貝尓 [一云 谷尓]交而 有登不言八方」「峽に [一云 谷に]交りて ありといはずやも」と訓む。「貝」は海の貝を表すのが萬葉集においては一般的である。この「貝に」には、「谷に」というイメージが大きく異なる異伝があることから、「貝は借字にて峡(かひ)なり」(近藤芳樹『万葉集注疏』)と解する説もあるが、「貝」を借訓字とした例は他には見られず、やはり「貝」は「海の貝」と解すべきだろう。「尓」はニ。「交」は「交(まじ)り」。「而」はテ。稲岡『萬葉集全注』は、「『石川の貝に交じりて』から想像されるのは、海に注ぐ河口近くに貝などとともに水に沈んでいる人麻呂であるだろう」と述べている。この考えを発展させて梅原猛は「水底の歌」を書いている。「有登不言八方」は「有(あ)りと言(い)はずやも」と訓む。「有」は「有り」。「登」はト。「不言」は「言はず」。「八方」はヤモと訓み反語の意を表す。「八」はヤ、「方」は「おも」と訓むことからモ。
歴史解説

【巻2(225)。】
題詞  人麻呂の死の知らせを聞いた妻依羅娘子の挽歌二首目である。
原文  直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
和訳  直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
 (ただ)に逢はば 逢ひもかねてむ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
現代文  「直接お逢いすることは もうできないだろう どうか石川に 雲が一面に立っておくれ それを見つつあなたのことを偲ぼう(石川方面に雲よ出てくれ、その雲を見つつあなたをしのぼう)」。
文意解説  発句「直相者 相不勝 石川尓」「直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に」と訓む。「直の逢ひは逢ひかつましじ」は「もうじかにお会いすることはかなわなくなりました」である。「直相者」は「直(ただ)の相(あ、逢)ひは」と訓む。「直」は「ただ」と訓み、「間に介在する物事がないこと」をいう。「相」を「あ[逢]ふ」と訓む。ここの「相」は名詞の「相(あ)[逢]ひ」と訓む。「直相」は、間にノを補読して「直(ただ)の相(あ)[逢]ひ」と訓んで、「夢などでなく直接に逢うこと」を意味する。「者」はハ。148番歌の「直(ただ)に相(あ)はぬかも」がある。「相不勝」は「相(あ)[逢]ひかつましじ」と訓む。ここの「相」は「相(あ)[逢]ひ」。「相不勝」は旧訓にアヒモカネテムとあったが、橋本進吉が「『がてぬ』『がてまし』考補遺」にアヒカツマシジと改めた方が穏当かとされ、それに多く従っている。澤瀉『萬葉集注釋』も「『不勝』はカネと訓む例が多いが、カネと訓めば『てむ』の語が全然訓添となる。マシジと訓む場合には、『有勝麻之自』(94)を『有不勝自』(四・610)とも書かれてをり、その『不勝自』の書式は『不知』(213)を『不知尓』(210)と書くと同様の書式であるから『不勝』をまたカツマシジと訓む事も可能なわけであり、たゞ『不知』の場合よりはやゝ不十分ではあるが、『てむ』の訓添よりは自然に認められるので、今は橋本博士の改訓による事とした。」としている。カツは、「することできる」意を表す。マシジは、マジの古形で、否定の推量「…することはできないだろう」の意。「石川尓」は「石川に」と訓む。「石川」は前歌の「石水(いしかは、川)」に同じで、所在地については諸説がある。「尓」はニ。 

 結句「雲立渡礼 見乍将偲」は「雲立ち渡れ 見つつ偲はむ」と訓む。「雲立渡礼」は「雲立ち渡れ」と訓む。「雲立」は「雲立ち」。「くもたつ」は「雲がわき立つ」ことをいう。「渡礼」は「渡れ」と訓む。ここの「わたる」は「あたり一面に…する」の意。「見乍将偲」は「見つつ偲(しの)はむ」と訓む。「見乍」は見ツツ。「将偲」は「偲(しの)はむ」と訓む。「しのふ」は「過去のことや離れている人のことなどをひそかに思い慕う」ことをいう。

 雲を、離れている人あるいは死んだ人を偲ぶよすがとすることは、日本書紀斉明紀歌謡に「今城(いまき)なる 小丘(をむれ)が上(うへ)に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か嘆かむ」 (116)とあるのをはじめ、例が多い。萬葉集の例を挙げておくと、「秋津野に 朝ゐる雲の 失せゆけば 昨日も今日も 亡き人思ほゆ」(1406)、「こもりくの 泊瀬の山に 霞立ち たなびく雲は 妹にかもあらむ」(1407)、「わが行きの 息づくしかば 足柄の 峰這ほ雲を 見とと偲はね」(4421 武蔵国の防人)などがある。このように例が多いのは、雲を愛する人の霊魂の姿として見る古代的な観念に基づくものと考えられる(土橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』)。
歴史解説

【巻2(226)。】
題詞  丹比真人(たぢひのひと)の作歌。「丹比真人〔名闕〕擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首(丹比真人が柿本朝臣人麿が意(こころ)擬(なそら)へて報(こた)ふる歌)」。人麻呂の死の知らせを聞いた妻依羅娘子に応えた形になっている。 「丹比」は氏、「真人」は姓。「丹比」は「多治比」とも書かれ、持統四年(691)七月に右大臣となった「多治比真人嶋」の一族であると考えられる。「丹比真人」でこの頃の人と思われる者に「笠麻呂」(285番歌題詞)「縣守」(555番歌題詞)がいるが〔名闕〕とあって誰かはわからない。「丹比真人」とのみある作は他にも二首(1609・1726番歌)あるがそれらも同一人とは決め難い。丹比氏と依羅氏はその本拠地が同じ河内国丹比郡であるという深い地縁があることから、阿蘇『萬葉集全歌講義』は「丹比真人の歌は、直接に依羅娘子の歌に対する和歌として詠まれたものであろう。」と述べている。そして特にこの歌は224番歌に対して人麻呂が答えた形をとっており、「貝に交じりて」と対応した歌になっていると言えよう。依羅氏と地縁の深い丹比真人が、人麻呂の心を代弁して詠ったものという文脈で、「貝に交じりて」を受けて「誰が自分の消息(海浜での死)を妻に知らせてくれたのだろう」という表現になっている。この歌の存在がますます梅原の想像をかき立て『水底の歌』が生まれたと言えるのだが、この歌について、土屋『萬葉集私注』は「娘子の歌は石川に対して作られ、人麿の臨死の作は鴨山を歌つて居るのであるから、此の海浜に横たわつて居る意味の想像の由来はさぐり得ない。イシカハノカヒを貝の意に誤り解し、それから海浜を連想したと見れば、一通りの説明はつくかも知れないが、それにしてもイシカハを海浜に持つてゆくのは変であらう」と述べ、人麻呂の死後のあり場を勝手に想像して作られた歌だとしている。また澤瀉『萬葉集注釋』も「おそらく作者は石見の地理などにはくはしくない都の人で、依羅娘子の作を見、かねて『石見の海 津野の浦みを』(131)などの作を愛誦してゐたところから人麻呂の死処をも海浜と考へてこの作を成したのであらう」としている。いずれもこの作の成立に関する有力な推定と言って良いだろう。
原文  荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告
和訳  荒波に 寄せ来る玉を 枕に置き (あれ)ここにありと 誰か告げけむ
現代文  「荒波によって 近くへ寄って来る玉を 枕にして 自分がここにいると 誰が(妻に)告げたのであろうか」。
文意解説  発句「荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置」「荒波に 寄せ来る玉を 枕に置き」と訓む。「荒浪尓」は「荒浪(あらなみ)に」と訓む。「荒浪」は「荒れ立つ波。勢いの激しい波」をいう。「尓」は二。「縁来玉乎」は「縁(よ、寄)り来る玉を」と訓む。「縁来」は、「縁(よ、寄)り来る」と訓む。「よりく」は「近くへ寄って来る」ことをいう。『萬葉考』にこれをヨセクルと訓んだが、稲岡『萬葉集全注』に「ヨセクルという時は、玉の自ら寄せくることと解されるが、ここは荒波によって玉がよってくるのだから、ヨリクルでなければならない」というのが正しい。「玉(たま)」は「球形あるいはそれに近い形の美しくて小さい石など」をいうが、ここは、海辺に寄せられた貝や石の類をいったものであろう。「乎」はヲ。「寄せ来る」を、岩波大系本も伊藤本も荒波打ち寄せる浜辺の歌と解している。その点、中西本は浜辺云々とは記していない。そこで渓谷の荒波説が登場している。「枕尓置」は「枕に置き」と訓む。「枕(まくら)」は既出。「尓」は二。「置」は「置き」。「おく」は、「事物に、ある位置を占めさせる」ことをいうが、ここは「玉」に「枕」の位置を占めさせたことを言ったもので、「浜にある貝や石を枕にして」の意と考えられる。「枕に置く」という言葉は、220・222番歌の表現に比べると落ち着きが悪いため、『萬葉考』などは「置」は「巻」の誤字であるとしたが、先のように解すれば意味は通るので、誤字説を提示するには及ばないと思う。 

 結句「吾此間有跡 誰将告」
吾(あれ)ここにありと 誰か告げけむ」と訓む。「吾此間有跡」は「吾(われ)此間(ここ)に有(あ)りと」と訓む。「吾(われ)」は「自分」の意で、ここでは人麻呂を指す。「此間」を「ここ」と訓む例は、人麻呂の『近江荒都歌』(29番歌)に「大宮は此間と聞けども 大殿は此間と言えども」とあった。万葉集では「此処(ここ)」の意で「此間」が多く用いられている。ここでは下に場所を示す二を補読して「此間(ここ)に」と訓む。「有」は「有(あ)り」。「跡」はト。「誰将告」は「誰か告げけむ」と訓む。「誰」は、カを読み添えて「誰か」と訓む。「誰」は、不定称代名詞で、その人とはっきりわからない人や、名を知らない人などに対して用いる。「将告」は「告げけむ」と訓む。「誰か告げけむ」は「誰が妻に告げたのであろうか」の意。ここを「誰か告げなむ」と訓んで「誰か知らせてくれるだろうか」と解釈する説もあるが、それでは「報歌」の題詞にふさわしくなくなる。依羅娘子の歌に報(こた)えた歌ということであれば、「誰か告げけむ」でなければならないだろう。「誰れか告げなむ」は反語で「誰も知らせてくれる人とてない」の意。  
歴史解説

【巻2(227)。】
題詞  「或る本(まき)の歌に曰く。左注に作者不詳」とある。人麻呂の妻依羅娘子の歌と思われる。左注に「右一首歌作者未詳 但古本以此歌載於此次也」〔右の一首の歌は、作者未だ詳(つばひ)らかならず。但し、古本此の歌を以て此の次に載す。〕とあって、作者は不明であるが、古本ではこの順に載せているとあるから、一連の歌と関わって人麻呂の妻の立場で詠まれた歌と考えられて、人麻呂の死をめぐる一連の歌群の一首として伝えられたものであろう。
原文  天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
和訳  天離(ざか)る 鄙(ひな)の荒野(あらぬ)に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし
現代文  「都から遠く離れた 地方の荒野に あなたを置いて 思い続けていると生きている(と実感する)時もない」
 「片田舎の山中に行き倒れたままのあなたのことを思うと生きた心地がしない」。
文意解説  発句「天離 夷之荒野尓 君乎置而」「天離(ざか)る 鄙(ひな)の荒野(あらぬ)に 君を置きて」と訓む。「天離」は「天(あま)離(ざか)る」と訓む。「天」は「あま」と訓む。アマ…、アマノ…、アマツ…などの形で複合語を作ることが多く、上代では、アマ…はアマカケル・アマギラフ・アマクダル・アマザカル・アマテル・アマトブなど動詞の例がめだつ。「離」は「離(さか)る」だが、上の「天」と複合して「天(あま)離(ざか)る」と濁音になる。もっとも日本書紀の歌謡例では、アマサカルと清音に訓んでいるが、万葉集のかな書きの例では、アマサガルの1例を除いて、他の16例は全てアマザカルとなっているので、ここも「天(あま)離(ざか)る」と濁音に訓む。「あまざかる」は「空遠く離れる」意であるが、「向(むか)つ」または「鄙(ひな)」にかかる枕詞として用いられた。ここも次の「ひな」にかかる枕詞。「夷之荒野尓」は「夷(ひな)[鄙]の荒野(あらの)に」と訓む。「夷」は「ひな」と訓む。4353番歌の左注に「朝夷郡」とあり、和名類聚抄の郡名一覧で調べると、これは安房国朝夷郡のことで、その記載郡名訓が「阿左比奈(あさひな)」となっていることによる。「ひな[鄙]」は「都から遠く離れた所。いなか」の意。「之」ノ。「荒野(あらの)」の「荒(あら)」は「人手の加わっていない、自然のままの」の意を表わす。従って「荒野(あらの)」は「自然のままのさびしい野」をいう。「尓」はニ。「君乎置而」は「君を置きて」と訓む。作者は人麻呂の妻の立場で詠っているから、この「君」は人麻呂を指す。「乎」はヲ。「置」は「置き」。「而」はテ。人麻呂は妻を引手の山に葬った事を212番歌で「引手乃山尓 妹乎置而」と詠んでいるが、ここは、人麻呂が遠い田舎の地で亡くなった事を妻の立場で「夷之荒野尓 君乎置而」と詠ったもの。

 結句「念乍有者 生刀毛無」「思ひつつあれば 生けるともなし」と訓む。「念乍有者」は「念(おも)ひつつ有(あ)れば」と訓む。「念」は「念(おも)ひ」。「乍」はツツ。「有者」は「有(あ)れば」と訓む。「生刀毛無」は「生(い)けるとも無(な)し」と訓む。「生跡毛無」は「生(い)けりとも無(な)し」と訓んだが、「刀」と「跡」の違いで訓み方が違う。「刀、跡」はト。212番歌の「跡」はトで、上の動詞は終止形となり「生(い)けりとも無(な)し」と訓むが、「刀」はトの名詞を表していると見られるから、上の動詞は連体形となり「生(い)けるとも無(な)し」と訓むのが正しいということになる。名詞トは「とき。あいだ。ほど。うち。ま」の意で、「生(い)けるとも無(な)し」は「生きている(と実感する)時もない」という意味となる。
歴史解説  

【巻2(228)。】
題詞  河辺宮人(かはべのみやひと)の作歌。題詞の前に「寧樂宮」の三字の標題がある。「寧樂宮」(ならのみや)は、和銅三年(710)から延暦三年(784)十一月に長岡京に遷都するまでの宮であり、聖武天皇の御代に一時的に山背国恭仁と難波に都がおかれたことはあるが、元明~光仁の七代と桓武の初期三年あまりの宮殿をいう。「和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首四年」((よとせといふとし)歳次辛亥(かのとのゐ)河邊宮人(かはべのみやひと)が姫島の松原にて嬢子(をとめ)(しにかばね)を見て悲嘆(かなし)みよめる歌二首)。本歌と次歌はいずれも河辺宮人(かはべのみやひと)の歌。 「歳次」は、歳星(木星)が十二年で天球を一周するところから、中国の天文学では天を十二次(宿)に分け、その一次を移行する期間を一年とし、その年に木星の所在する宿を「歳次」といい、転じて、年めぐり、年まわりの意になった。十二次には十二支が配当されているので、日本では、その年の干支を表示するのに用いた。たとえばこの題詞の「歳次辛亥」は、和銅四年の干支が辛亥であったことを表したもので、「歳(ほし)辛亥に次(やどる)」と訓んだ。作者は「河邊宮人」とあるが、名・経歴は不明。作歌事情については「姫嶋の松原に嬢子(をとめ)の屍(かばね)を見て悲しび嘆きて作る歌二首」と記している。「姫嶋の松原」の姫嶋は、淀川河口にあった島と言われているが、確かな所在は不明。
原文  妹之名<者> 千代尓将流 姫嶋之 子松之末尓 蘿生萬代尓
和訳  妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松が末(うれ)に 蘿(こけ)生すまでに
現代文  「(いとしい)このおとめの名は 千年の後までも伝わるだろう 姫島の 小松の木末に 苔が生えてしまうまでも」。
文意解説  発句「妹之名<者>  千代尓将流」「妹が名は 千代に流れむ 姫島の」と訓む。「妹之名者」は「妹が名は」と訓む。「妹」は題詞にある「姫嶋の松原で亡くなった嬢子(をとめ)」を親しんで言ったもの。「之」はガ。「名」とあり、その名前を話題にしているのだが、名前そのものは記していない。特に言わなくても当時の人には評判になっていた何か物語を伴った水死の美人であったことが想定される。「者」はハ。「千代尓将流」は「千代に流れむ」と訓む。「千代」は文字通りの意味では「千年」だが、「非常に長い年月」を言うのに用いる。「尓」はニ。「将流」は「流れむ」と訓む。「ながる」は「次第に広まって行く。世に流布する」ことをいう。「千代に流れむ」は「千代に伝わってゆくだろう」の意。「姫嶋之」は「姫嶋の」と訓む。ここの「之」はノ。「妹が名は千代に流れむ」は「この乙女の名は末長く語り継がれるだろう」である。姫島は次歌に「難波潟」とあるので大阪湾に浮かぶ小島と思われる。

 結句「子松之末尓 蘿生萬代尓」「小松が末(うれ)に 蘿(こけ)生すまでに」と訓む。「子松之末尓」は「子(こ)[小]松(まつ)が末(うれ)に」と訓む。類句に146番歌「子松之宇礼乎(子松(こまつ)がうれを)」がある。「子松」は「小松」と同じだが、必ずしも「小さい松」とは限らず、松のことを親しんでいう語である。「之」はガ。「末」は「うれ」と訓み「草の茎や葉、木の枝などの先端、梢(こずえ)」をいう。「尓」は二。「蘿生萬代尓」は「蘿(こけ)生(む)すまでに」と訓む。「蘿生」は113番歌の題詞に「蘿生(こけむせる)松柯(まつがえ)」とあった。「蘿(こけ)生(む)す」は「苔が生える。苔で一面におおわれる」の意であるが、多くは「古くなる、古めかしくなる、永久である」ことのたとえに用いられる。「蘿生(こけむ)すまでに」は「末長く」の意である。ここもその例。「萬代尓」はマデニ、マデに二が付いた形で、時間・程度などの至りつく点を示す。「萬代」を表記を用いたのは「千代」を意識したものであろう。

 姫島の浜に入水自殺した娘子を偲ぶ歌であろう。妹(いも)を強調して読み、妻ないし恋人の死ととってもいいかもしれない。
歴史解説

【巻2(229)。】
題詞  前歌の死体が潮が満ちてきて沈んだ状況の歌。「姫嶋の松原に嬢子(をとめ)の屍(かばね)を見て悲しび嘆きて作る歌二首」の二首目である。
原文  難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母
和訳  難波潟(なにはがた) 潮干(しほひ)なありそね 沈みにし 妹が姿を 見まく苦しも
現代文  「難波潟よ、潮の干るということがないようにね。沈んでしまったおとめの姿を見るのがつらいから。海よ、娘子を隠したままにしておいておくれ」。
文意解説  発句「難波方 塩干勿有曽祢 沈之」「難波潟(なにはがた) 潮干(しほひ)なありそね 沈みにし」と訓む。「難波方」は「難波方(なにはがた、潟)」と訓む。「難波(なには)」は「難波江」と同じく、大阪市の上町台地以東の地域の古称。大阪湾、特に旧淀川河口付近の海の古称で、淀川河口の付近では入江が深く入りこみ、潟湖となって葦が繁茂していたという。「方」は「外方・辺境の意となる」とある。和語の「かた」「へ」に宛てられ、方向や場所を示す。ここは「潟(かた)」の意に用いたもの。「潟(かた)」は「滷(かた)」に同じで、「遠浅の海岸で、潮の満干によって隠れたり現われたりする地」の意。「塩干勿有曽祢」は「塩干(しほひ、潮干)な有(あ)りそね」と訓む。「塩干(しほひ)」は、「潮干」で、「潮が引くこと。ひき潮。潮がれ。また、潮が引いたあとの浜。干潟になった海岸」をいう。「塩」は、「海水または岩塩から製し、精製したものは白い結晶で、食生活上なくてはならない調味料」であることは言うまでもないが、萬葉集では「潮、汐」の意で用いられることが多い。既出例では「塩(しほ、汐)満ち来(き)なむ」、「塩氣(しほけ、潮氣)のみ」がある。「勿」は禁止のナ。下にソを伴って、「な … そ」の形で用いられる。ここもそれで、「勿有曽」で「な有(あ)りそ」と訓む。「祢」はネ。相手に望み求める意を示す。「潮干(しほひ)なありそね」は「潮よひかないでおくれ」である。「沈之」は「沈みにし」と訓む。「沈」は「沈みに」と訓む。「之」はシ。海に沈んでしまったの意であるが、入水自殺したものと思われる。

 結句「妹之光儀乎 見巻苦流思母」「妹が姿を 見まく苦しも」と訓む。「妹之光儀乎」は「妹が光儀(すがた、姿)を」と訓む。「妹」は前歌と同じく「姫嶋の松原で亡くなった嬢子(をとめ)」を指す。「之」はガ。「光儀」は「こう(くゎう)ぎ」という漢語で「美しい容儀」の意であるが、ここは「すがた」と訓む。亡くなったおとめが、美しかったことを表すための用字。「乎」はヲ。「見巻苦流思母」は「見まく苦るしも」と訓む。「見巻」は「見まく」と訓む。「苦流思」は「苦るし」と訓む。「母」はモ。なお、この歌の「沈みにし」は、題詞の「屍(かばね)を見て」と矛盾するようであるが、そのことについて『萬葉集注釋』は、この歌の【考】の欄で「題詞には『見て』とあるが、前の一首も屍の事は見えてゐず、むしろ娘子の水死の地に立つて哀悼して、かういふ風に詠んだと見るべきであらう。その事は人麻呂にも同じ趣の作(三・430)のあるのと較べていよいよ明らかであらう」と述べている。人麻呂の430番歌は、題詞に「溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌二首」[溺(おぼほ)れ死にし出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬(やきはぶ)る時、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首]とある歌の二首目。参考までに次ぎに記しておく。「八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆颯」、「八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ」。
歴史解説

【巻2(230)。】
題詞  笠朝臣金村の作歌。「霊亀(りやうき)元年歳次乙卯(きのとのう)秋九月(ながつき)志貴親王(しきのみこ)薨(すぎま)せる時、よめる歌一首〔また短歌〕」。皇子(しきのみこ)は天智天皇の皇子。234番歌までが皇子への挽歌。「霊龜(れいき)元年」は、715年で、「歳次(さいし)乙卯(いつばう)」は、「歳(ほし)乙卯(いつばう)に次(やどる)」とも訓み、715年の干支が乙卯(いつばう)であったことを表わす。「志貴親王(しきのみこ)」は、51番歌の作者「志貴皇子」に同じ。志貴親王の薨去については、続日本紀の霊亀二年(716)八月十一日の記事に「二品志貴親王薨しぬ。從四位下六人部王(むとべのおほきみ)、正五位下縣犬養(あがたのいぬかひ)宿祢筑紫を遣して、喪事(ものこと)を監護(みまも)らしむ。親王(みこ)は天智天皇の第七の皇子(みこ)なり。寳龜元年、追尊して、『春日宮に天の下知らしめしし天皇』と称す」とあり、霊亀二年の八月十一日に、「喪事を監護する使」を派遣したことが記されている。また同じ続日本紀の宝亀二年(771)五月二十九日の記事には「始めて田原天皇の八月九日の忌齋(をがみ)を川原寺に設く」とあり、田原天皇とは志貴皇子のことであるから、志貴親王の薨去の日は八月九日であったと考えられる。つまり、続日本紀の記事によれば、志貴親王の薨去の年月は霊亀二年八月九日ということになり、題詞の「霊龜元年、歳次乙卯の秋九月」とあることと相違する。
原文  梓弓 手取持而 大夫之 得物<矢>手<挾> 立向 高圓山尓 春野焼 野火登見左右 燎火乎 何如問者 玉桙之 道来人乃 泣涙  <【雨冠+サンズイ偏に永】><【雨冠+サンズイ偏に木】>尓<落> 白妙之 衣【泥+土】漬而 立留 吾尓語久 何鴨 本名<唁> 聞者 泣耳師所哭 語者 心曽痛 天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曽 幾許照而有
和訳  梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 幸矢(さつや)()挟み 立ち向ふ 高圓山(たかまとやま)に 春野焼く 野火(ぬひ)と見るまで 燃ゆる火を いかにと問へば 玉ほこの 道来る人の 泣く涙 霈霖(ひさめ)に降れば 白布の 衣ひづちて 立ち留まり (あれ)に語らく 何しかも もとな言へる 聞けば ()のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き 天皇(すめろき)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光そ 幾許(ここだ)照りたる
現代文  「梓弓を 手に取り持って ますらおが 矢を手に挾み 立ち向かう 的ーそのマトの名をもつ高円山に 春野を焼く 野火かと見まがうほどに  (さかんに)燃えている火を どういう火かと尋ねると 玉桙の 道を歩いて来た人は 悲しみ泣く涙を 小雨のようにふらせて 白妙の 衣をすっかりぬらし 立ちどまって わたしに話すことには どうして むやみにそんなことを聞くのですか そういう言葉を聞くと 声をあげて泣けてきます 話していると 胸が痛んできます あれは天皇の お子様 (志貴親王(しきのみこ))の ご葬列の 松明の火が こんなにもたくさん照っているのです」。
文意解説
 長歌 ()。
 
 発句「梓弓 手取持而 大夫之」「梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の」と訓む。「梓弓・手取持而」は「梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて」と訓む。「梓(あづさ)」はカバノキ科の落葉高木で材は非常に固い。「梓弓(あづさゆみ)」は、この木で作った丸木の弓。上代、狩猟、神事などに用いられた。「手」は、字通に「手の形。手首から上、五本の指をしるす」とある。ここは二を読み添えて「手に」と訓む。「取持」は「取り持(も)ち」と訓む。「とりもつ」は「手に取って持つ。手に握る」ことをいう。「而」はテ。「大夫之」は「大夫(ますらを)の」と訓む。「ますらを」は「益荒男」とも書き、「立派な男子。強く勇ましい男子」を意味するが、宮廷人であることを誇る意識を背景に使われることが多かったことから、官位の呼称である「大夫」が用いられるようになったと考えられる。「之」はノ。

 2句「得物<矢>手<挾> 立向」は「幸矢(さつや)()挟み 立ち向ふ」と訓む。「大夫之 得物矢手挾」は「大夫(ますらを)の 得物(さつ)矢(や)手挾(たばさ)み」と訓む。「得物矢手挾」は61番歌の「得物矢手挿」と一字だけ表記が違うが同句で「得物(さつ)矢(や)手挾(たばさ)み」と訓む。「さつや」は「猟矢・幸矢」と記され、「狩猟に用いる矢」のことをいう。「さち」の母音交替形「さつ」に「矢」がついたもので、「さち」は「海の幸」「山の幸」の「さち」で「獲物・得物」の意である。「さつ」に「得物」の字を充てたのは、元の意味を踏まえたもので義訓字。「手挾」は「手挾(たばさ)み」と訓む。「手や指、脇などにはさんで持つ」ことをいう。「立向」は、「立ち向ふ」と訓む。「立って向かう。面と向かって立つ」の意。「梓弓(あづさゆみ)手に取り持ちて大夫(ますらを)の得物(さつ)矢(や)手挾(たばさ)み立ち向ふ」までが、次の「高圓山」を起こす序詞。山の名のタカマトのマトに矢を射る的のマトを掛けて序詞にしたもの。得物(さつ)矢を手に的に向う大夫(ますらを)の颯爽としたイメージで冒頭を飾っており、挽歌の始まりとしては異例と言えよう。この序詞の類似の既出例として61番歌がある。参考までに記しておくと、「大夫(ますらを)の 得物(さつ)矢(や)手挿(たばさ)み 立(た)ち向(むか)ひ 射(い)る圓方(まとかた)は 見(み)るに清潔(さやけ)し」。

 3句「高圓山尓 春野焼」高圓山(たかまとやま)に 春野焼く」と訓む。「高圓山(たかまとやま)」は、奈良市白毫寺町にある、春日山の南に峠道を隔てて続く、標高462メートルの山。「尓」はニ。「春野焼」は「春野焼く」と訓む。「春野」は文字通り「春の野原。春の姿になった野原」の意。「焼」は「焼く」。

 4句「野火登見左右 燎火乎」野火(ぬひ)と見るまで 燃ゆる火を」と訓む。「野火(のび)」は「春の初めに、野山の枯草を焼く火」のこと。「登」はト。「見」は「見(み)る」。「左右」は、両手(左右手)を「真手(まて)」といったところからの借字で、副助詞の「まで」として用いられたもの。「春野(はるの)焼く野火(のび)と見るまで」は「春の野を焼く野火と見紛うほどに」の意。「登見左右」は「と見るまで」と訓む。「燎火乎」は「燎(も)ゆる火を」と訓む。「燎」は、「燎(も)ゆる」と訓む。名義抄に「燎。フスブ・ヤク・トモシビ・モユ・タク」とある。「燎(も)ゆる火」は「(盛んに)燃えている火」。「乎」はヲ。

 5句「何如問者 玉桙之」「いかにと問へば 玉ほこの」と訓む。「何如」は「何如(いか)にと」と訓む。「問者」は「問(と)へば」と訓む。「何如」をナニカと訓む説もあるが、ここは火であることはわかっているので、どういう性質の火、どういう理由による火であるかを問うているのであるからイカニと訓むのが良い。「玉桙之」は「玉桙(たまほこ)の」と訓む。次の「道」にかかる枕詞。

 6句「道来人乃 泣涙 【雨冠+サンズイ偏に永】【雨冠+サンズイ偏に木】尓<落>」「道来る人の 泣く涙 霈霖(ひさめ)に降れば」と訓む。「道(みち)」は葬列が進む道を指す。「来」は「来(く)る」。「人」は葬列に参加している人。「乃」はノ。「泣涙 【雨冠+サンズイ偏に永】【雨冠+サンズイ偏に木】尓落」は「泣く涙 こさめに落(ふ)れば」と訓む。「泣」は「泣(な)く」。「涙」は、上代では「なみた」で、現代とは異なってタが清音であったことが「那美多」(798)などの仮名書き例から知られている。【雨冠+サンズイ偏に永】【雨冠+サンズイ偏に木】は名義抄にコサメとあるので「小雨」を意味するものと採る。「尓」は二。ここは「…のように」の意。「落」は、「落(ふ)り」と訓む説もあるが、下への続きから「落(ふ)れば」と訓むのが良い。「落」の字を「ふる」と訓むことは既述。

 7句「白妙之 衣【泥+土】漬而 立留」は「白布の 衣ひづちて 立ち留まり」と組む。「白妙之」は「しろたへの」と訓み、「栲」で作った製品の意で、繊維製品を表す、「衣、袖、たもと、たすき、帯、紐、領巾、天羽衣」などにかかる枕詞。ここも次の「衣」にかかる。次の【泥に土】の字は、泥と土が合したもので、泥の俗字なので以下[泥]で代用する。[泥]は「ひぢ」と訓まれ、今の「どろ」である。「[泥]漬」は「ひづち」と訓む。「[泥]打」の表記で既出。「ひづつ」は、一説に「泥(ひぢ)」と「打つ」の複合語で、「泥でよごれる」意とするが、ここは「水につかる。びっしょり濡れる」の意。「而」はテ。「立留」は「立ち留まり」と訓む。「立ったままでとまる。歩くのを止めてとまる」ことをいう。

 9句「吾尓語久 何鴨 本名<唁>」(あれ)に語らく 何しかも もとな言へる」と訓む。「吾尓語久」は「吾(われ)に語らく」と訓む。「吾(われ)」は作者をさす。「尓」はニ。「…に対して」の意。「語久」は「語らく」と訓む。「かたる」は「物事を順序だてて話して聞かせる。物事をことばで述べて相手に伝える」ことをいう。「何鴨 本名唁」は「何しかも もとなとぶらふ」と訓む。「何」はシを訓み添えて「何(なに)し」、「鴨」はカモで、「何鴨」で以て、「何(なに)しかも」と訓む。「何(なに)しか」は「奈何可」の表記で既出、「何のために。何故」の意を表す。「本名」はモトナ。「やたらに。むやみに。無性に」の意。多く、自分には制御のきかない事態をあきれて眺めているさまに用いられる。山田孝雄「『母等奈』考」によると、「もと」という名詞と形容詞「なし」の語幹「な」との合成語であろうとして、「余はここの『もと』は漢字にていはば、根元又は根據の義にあたるものなりと思ふ。而して、その『もとな』は『理由なく』『根據なく』などの精神によりて『わけもなく』『よしなく』『みだりに』などその場合によりて適する語をあてて解すべきものなりと思ふ」と述べている。「唁」については、吉永登『萬葉ーその異傅發生をめぐつて』所収「萬葉『本名言』考」に、「唁」こそ原本の文字であるとしてトブラフと訓むべきだとし、『類聚名義抄』(佛、中)に「唁 トブラフ」とあり、萬葉集中にも「相誂良比(アヒトブラヒ)」(九・1740)の例のある事などを挙げている。多くの諸注と同じくこれに従って、「唁」は「とぶらふ」と訓む。「何(なに)しかも もとなとぶらふ」は「なんでむやみにそんなことを聞くのか」の意。

 10句「聞者 泣耳師所哭」は「聞けば ()のみし泣かゆ」と訓む。「聞者」は「聞けば」と訓む。「前の質問の言葉を聞くと」の意。「泣耳」は「哭耳」と同じで「ねのみ」と訓む。「泣」はネで「泣く」ことの名詞。イが「ぬ(ねる)」の名詞で、「寐(い)も宿(ぬ)る」のように用いられたのと同様に「泣(ね)を哭(な)く」などのように使われた。ここはそれに「耳(ノミ)」を加えたもので「泣(ね)のみ」として次の「哭(な)く」に続けたもの。「哭」には「葬に臨んで泣く。泣くように葬歌をうたう」の意がある。「師」はシ。「所哭」は「哭(な)かゆ」と訓む。「所念」を「念(おも)ほゆ」と訓んだのと同じ。


 11句語者 心曽痛は「語れば 心そ痛き」と訓む。「語者」は「聞者」と同じ形で、「語(かた)れば」と訓む。「心(こころ)」は、人間の精神活動の総称で、それぞれの状況における知・情・意の働きをいう。オモヒ(思ひ)も広く思考や情意などを表すが、基本的に胸の内に秘めて止めておくものであるのに対して、ココロは外に向かう積極的な活動をいう。「曽」はソ。「痛」は「痛(いた)き」と訓む。「いたし」は「精神的に苦痛である」ことをいう。「聞(き)けば 泣(ね)のみし哭(な)かゆ」と「語(かた)れば 心(こころ)そ痛(いた)き」とは対句で、「そのような言葉を聞くと声をあげて泣けてくる」、「事情を話すと胸が痛む」の意。

 12句天皇之 神之御子之 御駕之は「天皇(すめろき)の 神の御子の 御駕(いでまし)」と訓む。「天皇」を「すめろき」と訓む。4089番歌の「須賣呂伎能(すめろきの) 可未能美許登能(かみのみことの)」などがあることによる。「すめろき」は「皇祖神、皇神祖、皇祖」などと書かれていることが多く、「皇祖である天皇」を主として言うが、その皇祖より受け継いだ「当代の天皇」についても言うようになった。ここは天智天皇を指す。ここの「之」は全てノ。「天皇(すめろき)の神(かみ)の御子(みこ)」は「神である天皇のお子」の意で、志貴親王(しきのみこ)を指す。「御駕之」は「御駕(いでまし)の」と訓む。「御駕之」は旧訓オホムタノを『萬葉考』にイデマシノと改訓。「行幸」をイデマシと訓むのに準じて、行幸の時に天皇が乗る車の意の「御駕」を義訓字としてイデマシと訓んだもの。ここは志貴親王(しきのみこ)の葬送をいう。

 結句手火之光曽 幾許照而有は「手火(たび)の光そ 幾許(ここだ)照りたる」と訓む。「手火(たひ)」は「手に持つ、照明用の火。たいまつの類」の意。ここの二つの「之」もノ。「光」は「人の頭上に火光をしるし、火を掌る人を示す」と字通にある。ここは松明の火のひかり。「曽」はソ。「幾許照而有」は「幾許(ここだ)照りたる」と訓む。「幾許」は、「ここだ」と訓み、「こんなにもはなはだしく。かくも多く」という意の副詞。
歴史解説

【巻2(231)。】
題詞  笠朝臣金村の作歌。「志貴親王の(すぎま)せる後、悲傷(かなし)みよめる〔短〕歌二首」()。次の232番歌と共に230番歌の反歌である。
原文  高圓之 野邊乃秋 芽子徒 開香将散 見人無尓
和訳  高円(たかまと)の 野辺の秋 萩いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
現代文  「高円の 野辺の秋萩は むなしく 咲いては散っていることであろうか 見る人もいないままに」。  
文意解説
 発句「高圓之 野邊乃秋 芽子徒」「高円(たかまと)の 野辺の秋 萩いたづらに」と訓む。「高圓之」は「高圓(たかまと)の」と訓む。「高圓」は、230番歌に「高圓山(たかまとやま)に」と詠われたのを承けている。高円(たかまど)は230番長歌から高円山のことと知れる。高円山は不詳である。「圓」は「円」の旧字で、「高圓」は「高円」に同じ。「之」はノ。「野邊乃秋芽子」は「野邊(のへ)の秋(あき)芽子(はぎ)[萩]」と訓む。「野邊」は「野辺」に同じで、現在では「のべ」だが古くは「のへ」、「野のほとり」の意。「高圓の野邊」は、高圓山の西麓、白毫寺付近から鹿野園方面にかけての傾斜地をいう。「乃」はノ。秋萩が咲いて散るというのであるから秋から冬にかけての野辺ということになる。「秋芽子」は「秋(あき)芽子(はぎ)」と訓む。萬葉集では「萩」に「芽」または「芽子」の文字を用いる。「あきはぎ」は、「萩の花」のこと、秋に花が咲くのでいう。「秋萩」を詠んだ歌は萬葉集中に七十九首あり、草木を詠んだ歌のうち「秋萩」を詠んだものが最も多い。そのうち「高圓の秋萩」を詠んだ歌の例を参考までに二首引いておく。

 高圓之 野邊乃秋芽子 此日之(このころの) 暁露尓(あかときつゆに) 開兼可聞(さきにけむかも) (1605)
 秋風者(あきかぜは) 日異吹奴(ひにけにふきぬ) 高圓之 野邊之秋芽子 散巻惜裳(ちらまくをしも) (2121)

 「徒」は「徒(いたづら)に」と訓む。副詞の「ただ」「ひとり」の意。また名義抄に「徒。イタヅラニ・タダニ・トモガラ・シリゾク・カチヨリ・ヒトリ・トモ・ムナシク・タグヒ」とある。「いたづらなり」は「存在する物事が、無益、無用であること。役に立たないこと。むだで価値がないさま」をいい、「徒(いたづら)に」は「むなしく」の意。眺める(愛でる)人(皇子)もおられないのに、という歌である。

 結句「開香将散 見人無尓」「咲きか散るらむ 見る人なしに」と訓む。「開香将散」は「開(さ)[咲]きか散(ち)るらむ」と訓む。「開」は「開(さ)き」と訓む。「さく」は「花のつぼみがひらく」ことをいうので「ひらく」の「開」の字が充てられたもの。「香」はカ。「将散」は「散(ち)るらむ」と訓む。「開(さ)きか散(ち)るらむ」は「開(さ)き散(ち)るらむか」に同じで、「さきちる」は、「咲きかつ散る、すなわち咲いているものもあればまた散っているものもある」という状態を表す歌語的表現である。「見人無尓」は「見る人無(な)しに」と訓む。「見る」対象は「秋萩」で、「人」は志貴親王(しきのみこ)を指す。「尓」はニ。この結句は、倒置法。
歴史解説

【巻2(232)。】
題詞  笠朝臣金村の作歌。230番歌(以下「長歌」という)の反歌の二首目である。左注に「右歌笠朝臣金村歌集出」とある。
原文  御笠山 野邊徃道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿國
和訳  三笠山 野辺行く道は こきだくも 繁り荒れたるか 久にあらなくに
現代文  「三笠山の野辺をゆく道はこんなにもひどく草が茂って荒れしまったのか。(皇子が亡くなられて)まだ時もたたないのに」。
文意解説
 発句「御笠山 野邊徃道者 己伎太雲」「三笠山 野辺行く道は こきだくも」と訓む。「御笠山」は「御笠山(みかさやま)」と訓む。三笠山、御蓋山とも書かれ、長歌に詠まれた「高圓山(たかまとやま)」の北にあたる奈良市東部(春日野町)の山。標高293メートル。笠の形をした円錐形の形の良い山である。奈良公園の背後にあり、ふもとに春日大社や春日若宮がある。東側の花山・芳山(はやま)とともに春日山と総称され、原生林におおわれる。春日大社は言わずと知れた奈良市にある大社。「野邊徃道者」は「野邊(のへ)徃(ゆ)く道は」と訓む。「野邊」は「野のほとり」の意。「徃」は「往」の俗字で、「ゆく」の連体形「徃(ゆ)く」と訓む。「野邊(のへ)徃(ゆ)く道」は、志貴皇子の御殿が春日の地にあったことから、三笠山の野辺、春日野の野中を行く道で、皇子が大宮(皇居)へ通う道であったと思われる。「者」はハ。「己伎太雲」は「こきだくも」と訓む。「己伎太雲」はコキダクモ。程度のはなはだしさを表わす。「こきだく」は、副詞「こきだ」にクのついたもので、「こきだ」は、「長歌」29句の「幾許照而有」は「幾許(ここだ)照りたる」の「幾許(ここだ)」と同じく、量または数の多いさまを表わす語。「こきだく」は「幾許(ここだ)く」に同じで、「こんなにも多く。こんなにもはなはだしく」の意。

 結句「繁荒有可 久尓有勿國」「繁り荒れたるか 久にあらなくに」と訓む。「繁荒有可」は「繁(しじ)に荒れたるか」と訓む。「繁」につき、名義抄に「繁。シゲシ・サカユ・サカシ・ナガシ・オホシ・オホキナリ・ワヅラハシ」とある。旧訓ではシゲクと訓んだが、『萬葉考』にシジニと改訓した。『名義抄』には「繁」にシジニの訓はないが、324番歌の「五百枝刺(イホエサシ) 繁生有」の「繁」を、907番歌の「水枝指(ミヅエサシ) 四時尓(シジニ)生有(オヒタル)」と照合して、シジニと訓んでいる例がある。「繁」の訓については、旧訓通り「シゲク」説、「シゲリ」説もあって定訓を得ていないが、ここでは『萬葉考』の「シジニ」説を採る。「繁(しじ)に」は、草木の生い茂っているさまを表わす語で、「こんもりと。ぎっしりと」の意。「荒有」は「荒れたる」と訓む。「たり」を「有」で表記するのは、「たり」が、テアリが約まってできた語であることによる。「可」はカ。「久尓有勿國」は「久(ひさ)に有(あ)らなくに」と訓む。「久尓」は「久に」と訓む。「ひさなり」は、「時間の長いこと。同じ状態が長く続くこと」をいう。「有勿國」は有(あ)らナク二と訓む。「有勿久尓」、「不有國」、「不有尓」の表記で既出。「なく」は、打消しの助動詞ズのク語法で、連体形ヌに、形式体言「あく」が付いた「ぬあく」の約まったもの。ク語法に二を添えたものを結句としている場合は、詠嘆や何らかの余情を添える効果を意図しているものが多いが、逆接の意味で用いられることもある。「久に有(あ)らなくに」は、「志貴皇子が亡くなられてから久しくなったわけではないのに」の意。「(皇子が薨去して)まださほど月日が経っていないのに」と解する。「繁り荒れた」は文字通りに解する。皇子亡き後の荒涼たる心情を比喩的に表現したともとれる。
歴史解説

【巻2(233)。】
題詞  「或本歌曰」。「右ノ歌ハ、笠朝臣金村ノ歌集ニ出デタリ。或ル本ノ歌ニ曰ク」。「霊龜(れいき)元年、歳次(さいし)乙卯(いつばう)の秋九月、志貴親王(しきのみこ)の薨(こう)ぜし時に作る歌一首[并(あは)せて短歌] 」の題詞を持つ230番歌の反歌二首(231・232番歌)の異伝である。
原文  高圓之 野邊乃秋芽子 勿散祢 君之形見尓 見管思奴播武
和訳  高円(たかまと)のの 野辺の秋萩な 散りそね 君が形見に 見つつ偲はむ
現代文  「高円の 野辺の秋萩よ どうか散らないでいてほしい 皇子のお形見として それを見つつ偲びたいから」。
 
 (234) 三笠山 野邊従遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名國
 (232) 御笠山 野邊徃道者  己伎太雲  繁荒有可  久尓有勿國
文意解説
 発句「高圓之 野邊乃秋芽子 勿散祢」「高円(たかまと)のの 野辺の秋萩な 散りそね」と訓む。この歌と次歌は「或本にいう」として採録した前二歌の異伝である。231番歌との大きな差は、先歌が秋萩が「散るらむ」と詠っているのに対し、本歌の方は「な散りそね」(どうか散らないでおくれ)と詠っている点である。その分、皇子に対する親しみが強く感じられる歌である。

 結句「君之形見尓 見管思奴播武」「君が形見に 見つつ偲はむ」と訓む。「君之形見尓」は「君が形見(かたみ)に」と訓む。「君」は志貴親王(しきのみこ)を指す。「之」はガ。「形見」は、「死んだ人、または遠く別れた人を思うよすがとなるもの。死後または別後にその人のものとして残されたもの。遺品や遺児」の意。「尓」はニ。「見管思奴播武」は「見つつしの[偲]はむ」と訓む。「見管」は「見つつ」、「思奴播武」はシノハムと訓む。
歴史解説

【巻2(234)。】
題詞  笠朝臣金村の作歌。「霊龜(れいき)元年、歳次(さいし)乙卯(いつばう)の秋九月、志貴親王(しきのみこ)の薨(こう)ぜし時に作る歌一首[并(あは)せて短歌] 」の題詞を持つ230番歌(以下「長歌」という)の反歌の二首目である。232番歌とほぼ同文である。左注に「右歌笠朝臣金村歌集出」。
原文  三笠山 野邊従遊久道 己伎<太>久母 繁荒有可(荒尓計類鴨) 久尓有名國
和訳  三笠山 野辺ゆ行く道 こきだくも 荒れにけるかも 久にあらなくに
現代文  「三笠山の 野辺をゆく道は こんなにもひどく 荒れてしまったことか。(皇子が亡くなられて)まだ時もたたないのに」。  
文意解説  「『万葉集』を訓(よ)む(その399)
 発句「三笠山 野邊従遊久道 己伎<太>久母」「三笠山 野辺ゆ行く道 こきだくも」と訓む。「御笠山(みかさやま)」は、三笠山・御蓋山とも書かれ、「長歌」に詠まれた「高圓山(たかまとやま)」の北にあたる、奈良市東部(春日野町)の山。標高293メートル。笠の形をした円錐形の形の良い山である。奈良公園の背後にあり、ふもとに春日大社や春日若宮がある。東側の花山・芳山(はやま)とともに春日山と総称され、原生林におおわれる。ミは接頭語。「野邊徃道者」は「野邊(のへ)徃(ゆ)く道(みち)は」と訓む。「野邊」は「野のほとり」の意。「従」はユ。ここは経過する地点を示す。「~を通って」の意。「遊久」はユク。「徃」は、「往」の俗字。「徃(ゆ)く」と訓む。「野邊(のへ)徃(ゆ)く道(みち)」は、志貴皇子の御殿が春日の地にあったことから、三笠山の野辺、春日野の野中を行く道で、皇子が宮へ通う道であったと思われる。「者」はハ。「野辺ゆ」の「ゆ」はユ。起点を示すことが多い。「~から」である。三笠山の野辺(麓)から大宮に通ったとすれば、その野辺(麓)こそ皇子の宮殿、すなわち高円ということになる。あるいは三笠山そのものが高円だったと考えることもできる。歌に三笠山が詠み込まれていることもこれでよく分かる。「己伎太雲」は「こきだくも」と訓む。程度のはなはだしさを表わす副詞「こきだく」+モ。「こきだく」は、副詞「こきだ」に「久(ク)」のついたもので、「こきだ」は、長歌の「幾許照而有」は「幾許(ここだ)照りたる」の「幾許(ここだ)」と同じく、量または数の多いさまを表わす語。「こきだく」は「幾許(ここだ)く」に同じで、「こんなにも多く。こんなにもはなはだしく」の意。

 結句「繁荒有可(荒尓計類鴨) 久尓有名國」「繁(しじ)に荒(あ)れたるか(荒れにけるかも) 久にあらなくに」と訓む。「繁荒有可」は「繁(しじ)に荒(あ)れたるか」と訓む。「繁」は名義抄に「繁。シゲシ・サカユ・サカシ・ナガシ・オホシ・オホキナリ・ワヅラハシ」とあり、旧訓ではシゲクと訓んだが、『萬葉考』にシジニと改訓した。名義抄には「繁」にシジニの訓はないが、324番歌の「五百枝刺(イホエサシ) 繁生有」の「繁」を、907番歌の「水枝指(ミヅエサシ) 四時尓(シジニ)生有(オヒタル)」と照合して、シジニと訓んでいる例がある。「繁」の訓については旧訓通りシゲクと訓む説や動詞と見てシゲリと訓む説もあって定訓を得ていないが、シジニと訓む例があることから、ここでは『萬葉考』のシジニを採ることとする。「繁(しじ)に」は、草木の生い茂っているさまを表わす語で、「こんもりと。ぎっしりと」の意。「荒」は「荒(あ)れ」。「荒有」は「荒れたる」と訓む。タりを「有」で表記するのはテアリが約まってできた語であることによる。「可」はカ。「荒尓計類鴨」の表記もある。「荒れにけるかも」と訓む。「尓」はニ。「計類」はケル。「鴨」はカモ。「久尓有勿國」は「久(ひさ)に有(あ)らなくに」と訓む。 ナの表記が違うが232番歌と同句。「久尓」は「久二」と訓む。「ひさなり」は「時間の長いこと。同じ状態が長く続くこと」をいう。「有勿國」は「有(あ)らなくに」と訓む。「有勿久尓」、「不有國、不有尓」の表記で既出。「なく」はヌにアクが付いたヌアクの約まったもの。「久に有(あ)らなくに」は、「志貴皇子が亡くなられてから久しくなったわけではないのに」の意。

 141番歌から始まった挽歌はこの歌で終わり、巻2もここで完了している。
歴史解説




(私論.私見)