1175 織田信長殺人事件 7
天下の秘密
亀山内藤党
美濃御前、奇蝶姫や光秀の娘の於玉は信長殺人事件の悲劇のヒロインともいえるが、
全く反対に、これによって幸せになった女も当時はいたのである。
勿論どんな素性の者だったか、三十万石の太守の北の方になったから名前は伝わっ
ているが、彼女のその他は判らない。
さて、
「どえらいことをやってるでぇ」と、しょっちゅう口癖にしている男とは、彼女も聞
いてはいた。
まぁ評判たつ男ゆえ顔を知っていた。
だが、その変わり者の弥市に、自分が目をつけられていようとは、
「佐伊子(さいこ)、佐伊子」
と横柄な口調で呼び止められるまで、まさか考えてもいなかったから、ギョッとして、
「えっ?」と思わず立ち止まったところ、つかつかと寄ってきて腰を屈め、頭を下げ
たと思ったら、すくいあげるように被衣の下から、まるで舐め廻すような目つきで覗
き見された。
そして、あろう事か、大道の真ん中で、
「噂にきいたより、こりゃぁ ええ女ごじゃ」
とどなられ、
「嫁に所望」と喚かれた。
恥ずかしさに佐伊子は真っ赤になり逃げ出そうとしたが、動転し息づかいも苦しか
った。
それなのに無遠慮な大声で、両手をひろげ、
「この城の内藤党の娘ッ子の中で、そなたのような掘り出しもんがあるとはしらなん
だ。他人にとられては損をする。はよう嫁になれや」
とはやし立てていた。
黒い顔が烏みたいに無気味で、ギャァギャァ耳へ響いてきた。
佐伊子は狼狽し、どうしてよいかわからず、動機打つ胸をこわばらせながら、
「お許し下さりませ」とわびを入れた。それなのに相手は、
「いや許しはせぬ。あくまでも俺が嫁にする」
と大手をひろげて立ちふさがった。
「そんな御無体な」と佐伊子は蒼ざめ震えながら後ずさりした。
海老蔓の赤黒く染まった叢に足をとられかけると、のしかかるように黒い顔が迫っ
た。
「あれえっ」と悲鳴をあげようとしたが、口をあけても声どころか唾も出なかった。
(嫁になれ)とは何をされるのかと震えた。ワンワン泣いてしまおうとは思ったが、
声が出ないのではと諦めたが、癪だった。どうしてくれよう‥‥
(こない暴れ馬でも押さえこむよう両手を拡げてかかってくるのなら、こっちも蹴た
ぐってやろうかい)と、膝頭に力を入れた。爪先を縮めた。そして、男の急所とはど
の辺りかと眼を注いだ時、ダアアンと大きな音がした。
弾かれたように佐伊子は叢に腰を落したら、続けてまたダン、ダンと轟いて聞えた。
弥市もキッとして耳を立ててふりかえった。
敵襲じゃ」「寄せてくるぞ」と声がとんだ。
弥市は固唾をのんで立ち上がったが、
「大事なとこ‥‥見えるで」
名残り惜しそうに言い残して、またばた櫓下へ向かって駆け出した。
「‥‥何が見えるんじゃろ。もう敵が近いのか」
佐伊子も叢からぴょこんと跳ね起きたが、弥市の後ろ姿はもう小さくなって見えた。
(いやな奴、虫酸がはしる)
佐伊子は唾を吐こうとしたが、嘔吐までもよおしてきた。
「あんな男、死んでしまえ」口中で罵った。
(あいつが普段言いふらしている『どえらいことやったる』とは、かねて懸想してい
た自分に言い寄ってくることだったのか‥‥)佐伊子は呆れて腹が立った。
「ずうずいしい不快な男」と、悔し涙を溜め、誰があんな奴の嫁になるものかと誓っ
た。
そのうちに弥市の後ろ姿は見えなくなると、佐伊子の気持ちも軽くなり、
(あないに想いを寄せ、男がのぼせるほど、私は好い女ごじゃろか‥‥)と心が疼い
たが、あんなあつかましい弥市では御免じゃわえと首を振り、大きく溜め息をした。
さて、この天正五年十月十六日の昼下がりから、丹波亀山城は三日三晩にわたって
明智光秀と細川藤孝の軍勢に猛烈な攻撃を受けた。
これは今を去る四年前、足利十五代将軍義昭が織田信長と戦うにあたって、亀山城
主内藤定政を招き、定政は内藤党四千をもって二条城を守りとおし、さすがの信長も
攻めあぐみ御所へ頼み込んで、時の関白二条晴良が、勅名にて和解させた時の復讐な
のである。つまり、
「丹波亀山党の名が天下に喧伝された」のを、それからというもの信長は憎んでいた。
だから定政が病死するや直ちに明智・細川に攻めさせたのだ。
定政の遺児亀王丸は時に十歳だった。よって家老安村二郎右が内藤党の精鋭をもっ
て旭山に本陣を設け、攻めかかる敵の織田勢を防いだ。
「天正元年の二条城の仕返しを、今頃になってしにくるとは卑怯千万なり」
城内は一丸となって戦った。曲輪外に住んでいた佐伊子達も城へ入って怪我人の手
当をしたり、時には壁狭間の見張りに立ち、邪魔な女の乳房を固く胸板で締めつけ、
矢を射ったり礫石を投げて一致協力して寄手を悩ました。だが、織田信長が向けてき
た天下の大軍を迎え、孤立無煙の内藤党がいつまでも戦えはしなかった。
それに寄手の明智光秀や細川藤孝というのは、もともと足利義昭の奉公衆で、永禄
十一年七月に義昭を朝倉の一乗谷から美濃の立政寺へ移し織田信長に引き合わせた者
共である。
今は織田方になっているが、元は先代の内藤定政と同じ室町御所の出身である。そ
こで、
「悪いようにはせぬから」と細川方から談合の使者が戦の合間に訪れてきた。
「内藤亀王丸の一命は誓って助ける」と明智方も約束してきた。
だから安村次郎右は、十月二十日に丹波亀山を開城した。
当時、丹波攻めの総大将であった明智光秀は氷上、宇津の城を攻める為に信長から、
この亀山城を貰い受け、坂本から一族を移し、これを明智の本城とした。つまり内藤
党は安村次郎右以下一人残らず、この時から明智光秀の家来にされたのであった。そ
して佐伊子は弥市の嫁になってしまっていた。
もともとはこんな筈ではなかったがしようがなかった。嫌だったが事情があった。
「和平開城」といえば人聞きはよいが、内藤党は負けて城を取られ、家来にされた立
場である。だから進駐軍の明智勢は城内の娘を担ぎ出し馬に乗せて行って嬲りものに
した。
なにしろ今までの城方の味方の武者奉行が、今度は敵方の女ご集めの奉行早変わり
してしまった。差紙をもって、
「長屋うちの娘を、何名ずつ差し出すよう」
と、女の出陣ぶれ。つまり娘の供出の世話やきをさせられる有様だった。
佐伊子は怖じ気をふるった。間違いないうちにと、好きではなかったが木村弥市右
の伜で別居している弥市の許へ縁づいた。つまりは災難除けの為である。
ところが男というのは自惚れが強いから、弥市はまさかそうだとは思っていない。
「そなたは俺の申し越しを聞き、喜んで嫁にきてくれた女ごじゃ。大事にしたるで」
と悦に入っている。
しかし、もちろん目にみえては何もしてくれない。銭のかからぬ、ただの口先だけ
の喜ばせである。だから佐伊子の方も釣り合いをとって、
「わたしとて、お前と一緒になれて、こない嬉しいことないわえ」
と、あまり手足は動かさず、唇だけを動かして機嫌をとっていた。
というのは、なにしろ、
(とかく男女の仲は互いに本心を見せ合ってしまっては長続きしないものだが、体裁
ぶって相づちさえうっておけばうまくいく)
と、佐伊子は母から教わってきたからである。
それに、本当に好きならまさか恥ずかしくて「好き」とも言い出せないものだが、
佐伊子は根っから弥市を好いていなかったから、その点はだいじょうぶで、あけくれ
挨拶するように、「好き、好き」と平気で口に出せたのである。
だが弥市はそれを耳にするたびに、にこにこしては、
「俺は、幸せだなぁ‥‥」すこぶる上機嫌だった。
「私だって幸せにござります」と、そこでものはついでということもあるから、佐伊
子も付け足しを言っては、そっと相手の顔色を見物したものである。
(男は不自由なもので、気の向かん相手では、にっちもさっちも身体が言うことをき
かんそうだが、その点女ごは重宝にできとる)
とは母に言われてきた事だが、全くそのとおりで、佐伊子は嫌いな弥市とも平気で過
ごせた。
さて、二年たった天正七年の事である。
五年がかりで丹波八上城を明智勢は落した。捕虜にした敵の波多野兄弟を安土へ送っ
た。
その護送行列に弥市父子もついていった。ところが、戻ってくるなり夫の弥市は改
まって、
「われら父子は斎藤内蔵介様同心衆になるで」
と佐伊子に報告した。何でも、賑やかな安土の城下や七層建築の金銀を散りばめた安
土城の壮観さに肝を潰し、他の内藤党のように、いつまでも織田信長を怨んでいては、
もう時代遅れであると父子で相談し合ったのだそうだ。
「だから信長様の方につくには誰につくがよいか、明智の殿によく奉公するのが上策
だが、というて、どうも戦した相手に取り立ててもらうは気が引ける。よって知り合
いの取り持ちで斎藤様の手下にとりあえず父子で入れてもろうた‥‥よいか、妻とし
てその方も心するがよいぞ」
戻ってきていた弥市は熱心にあれこれ話を聞かせたが、
(好きでもない男がどうなろうと知ったことか)と佐伊こはあまり耳を貸さず、ただ
「それは、それは」とばかり空返事したものである。
ところが、秋になって四国土佐の高知の浦戸城主長宗我部の跡目に、藤内蔵介の妹
が乞われて嫁入りする事になった。
父の弥一右は風采は芳しくないが、丹波者にしては弁口がたつという点を買われ、
その嫁入り行列の伴をして行った。伜の弥市もついていった。
さて、どんな手柄があったか判らないが、四国へ渡ってから重宝され、色々と役立
つ事をしてきたらしい。戻ってくるなり佐伊子に、
「喜べ、ついに同心衆から寄騎扱いに昇進ぞ」と弥市は勇んで褒められようと知らせ
に来た。
なにしろ内藤党の旧亀山衆は降参した時助命はされたが、扶持は半分以下に減らさ
れていた。だから弥市父子も二十貫どりの水呑み武者の身分に零落れていた。
が、それが寄騎並となれば、これは馬にも乗れる身分。一躍百貫どりに抜擢されたの
である。早速官舎も北向きの一間きりの萱葺きの棟割長屋から、東に面した板屋根の
住居へ引っ越せる事となった。
「この城に居つきの亀山衆で、そなた様の所の父子殿のように出世された方は初めて
じゃ‥‥」みな羨んで弥市の許へ祝いに訪れてきた。
「そもそも夫などというものは、嫁の目から見れば、なにも自分が腹を痛めた子でも
ない、よその女ごが産ましゃった者じゃ。それを喰わせて寝かせて、いくら亭主じゃ
からと面倒みるは、こりゃぁ大儀なこと。少しは出世でもして埋め合わせしてもらわ
な、たまりませぬ」
と、心安い嚊衆には佐伊子は肚の中の気持ちをぶちまけた。そして、
(本心を遠慮のうしゃべるは気持ちがええのう)と、つい心が浮ついた。
だから、止せばよかったのに、
「この蘇芳の薩摩木綿はわしは派手じゃと思うに、亭主殿が見立てて買うてきなされ
たのじゃえ‥‥」
などと、持ち出してきては拡げてみせたりした。そして、
「へぇ」と寄ってきた女達が唸るのをみると、
(妬いとるな)とわかったから、つい口から、
「ええ亭主殿よ」声を弾ませ洩らしてしまった事もある。
そして云ったあとでは自分でもはっとして狼狽もした。
(いつの間に夫の弥市を好いてしもうたか‥‥)自分でも変な気がしてきた。
この事を自分一人の胸にはしまっておけず、夫に打ち明けてみたくなった。
しかし。「今まで嘘で、これから本心」と断った上で、「好きよ」と改めて言うのは、
ちょっと照れ臭くてどうにも難儀だった。
さて天正十年五月二十六日の事である。
近江坂本の支城から、信長様より軍監としてつけられた斎藤内蔵介と明智光秀の殿が
馬をとばせ亀山城へやってきた。
この年の三月十一日に武田勝頼が田野で生害した後、甲斐の武田領の配分に五月ま
で携わっていた光秀の殿は、安土の信長様から「在荘」つまり賜暇中と聞いていたの
で、突然の帰城を「すわっ、何事」と亀山城の者は面食らった。佐伊子も心配した。
すると、
「なんでも備中攻めの羽柴秀吉様軍勢が、毛利に逆包囲され、危ないと使者が来て、
信長様が御自身で出馬。それまでの騒ぎに斎藤様を軍目付にして光秀の殿は名代に御
出陣じゃ」
と弥市が斎藤内蔵介のところから教わってきて話をした。
去年八月、因幡攻めの羽柴の軍勢に助勢するため、斎藤内蔵介の率いる三千が出陣
し、二月あまり軍旅を共にしたことがある。その折弥市父子も羽柴秀吉に目通りを許
され、酒食などをいただいた事があるとか話していた。だからその時の事があるもの
だからして、弥市は秀吉と内蔵介との間柄を心安く佐伊子に話し、まるで自分が羽柴
勢を助けに行くのだと言わんばかりの口をきいていた。
そして、その話しを裏書するよう、内蔵介の兵が煙硝倉の玉薬を叺(かます)に詰
め替え、上から桐油紙で厳重に荷拵えされた。とりあえず百駄あまりが荷駄奉行の宰
領で縄掛けが始まった。
それゆえ城内は慌ただしい空気が渦をまき騒々しくなった。
「戦となれば、お前も出陣。無事に早よ戻ってもらわねば、待つ身は辛うてやり切れ
ぬえ」
何かしら胸騒ぎがするというのか、佐伊子は槍を研がせ戦仕度に余念のない弥市の背
に、そっと甘えるように話しかけてみた。
好き合って契った仲は、熱が冷めればすぐ仲互いをするというが、佐伊子のように
嫌いで一緒になって、知らぬ間に心引かれだした妻の身は、まるで夫が(想い人)の
ようにも慕わしくなり始めてきているのである。だから、出陣ともなればとても胸が
疼くのだった。
それなのに弥市ときたら、前と変わらず、
「心配すんな。大丈夫じゃ」
あっけらかんと黒い顔を突き出しては唸っているのである。
前はこんな表情を見せられると吐き気がしたが、今では頼もしゅうて頬ずりでもし
たくなる。
せめてゆっくりしたい一夜を佐伊子は持ちたいものと心に念じてみるようになった。
それゆえ、その願いが神に届いたのか、その夜は陣触れもなく、翌朝、光秀の殿だ
けが城からも眺められる愛宕山へ行った。
(山頂の勝軍地蔵への祈願だけではなく、実は愛宕権現に軍資金の借出しだ)と弥市
は教えた。
道理で、殿は夜になっても戻らなかった。だからして、
「‥‥信長様は行けと御指図はされても銀は下されぬで、仰せを受けた殿様は、金繰
り算段が大変にござりまするな‥‥」
と寝物語に佐伊子が尋ねれば、
「采配や刀などは下さるが、軍資金は自分で賄い、あべこべに信長様へ占領地から色
々な貢物を届け、ご機嫌をとるのが殿様衆の仕事。まぁ武力に秀でていても金繰りの
つかぬような者では当代ではひとかどの武将にはなれぬ」と弥市は教えてくれて、
「愛宕権現で貸出しする銀は、京の吉田山の吉田神道のもの。じゃによって丹波の細
川藤孝様などは金融をつけるため長女の伊也姫を一色左兵衛から取り戻し、今では吉
田神社の兼治に嫁にやっとるほどだで‥‥」とも密かに打ち明けてくれもくれた。
次いで、一日おいて、二十九日、煙硝の火薬を入れた叺や長持を積み出し、二百人
程の供揃いで西国向けに輸送隊が馬を曳いて進発した。
だが、三草山を越えたあたりで、沛然と大雨が降ってきた。俄雨のような激しい降
りだったが、ずうっと止みそうになかった。
「荷駄はどうじゃろ。こりゃ幸先が悪い」
と亀山城の者は、雨に叩かれながら備中へ向かった者達の事を心配した。
降りとおしのまま、二十九日は終わった。
この年、つまり天正十年は陰暦ゆえ、この日が月末である。翌六月一日も雨は止まな
かった。
「愛宕山へ登られたままの光秀殿は、こない降り込められては馬の藁沓が滑って山か
ら降りられもせず、難儀でござりましょう」
と伊左子は光秀の下山が明六月二日になれば、出陣もそれからの事じゃろうと思い、
(今宵も夫に可愛がってもらおうぞ)と心を弾ませていた。ところが、暗くなりかけ
た頃合、
「ボオウ」「ボオウ」と陣貝が立った。
しかし、雨はようやく納まったが、ぐっしょり濡れた山坂を、まさか五十五歳にも
なる光秀の殿が血気にまかせて頂上から逆落としに一気に駆け降りて戻って来ようと
は考えられもしなかったから、
「愛宕から殿はまんだ戻ってみえんじゃろに」
と佐伊子は不足がましく云ったが、
「出陣の陣ぶれの貝が立っては、愚図ついてもおられまいが‥‥」と弥市は慌てて父
弥一右の許へ駆けつけてしまった。
丹波一万三千はその夜、亥の刻(午後十時)亀山城外から陣立して進発。雨は納ま
ったとはいえ、上流からの落水でかさの増した桂川の激流を渡っていいった。
|