1章、奇怪な謎ばかり

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1169織田信長殺人事件1」、「」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


1169織田信長殺人事件1
 八切止夫著 女の太閤記シリーズ「織田信長殺人事件」 日本シェル出版 1981年2月 刊  
 作品の構成は以下の通りです。
奇怪な謎ばかり 近習長谷川秀一 
出世の為には 
立身前田玄以
斎藤道三の死後 織田二郎信広
意外な犯人  
女婿丹羽長秀 
藤吉郎の関係 
疑惑の数々
男心に男が惚れて 城主佐野下総守 
平地の城がよい 
城戸十乗坊改名
細川幽斎の陰謀 長岡藤孝の頃 
信長殺しの褒美 
道三の娘奇蝶 
桶狭間の秘密
二人で戦を 亀山内藤党 
天下の秘密 踊る阿呆に見る阿呆  
野党蜂須賀小六 
土建業の元祖
纏めて面倒みよう 内蔵介は男だ 
娘は春日局
殺人現場の被害者 不意の出来事 
森乱丸は大男

  ・76桁改行として5000行あまりあります。
 ・作品の明らかな誤植は直させていただきました(ただし影丸の新たなタイプミスが あったりして‥‥)。
  ・適宜段落改行を行い、少しでも読みやすくと必要最低限のリライトを行いました。(例えば句読点「、」の位置など)ですが、99パーセント以上オリジナル通りの文です。
 ・[]は影丸の補記です)。
 登録年月日  1996年3月19日 登録者    影丸(PQA43495)

 奇怪な謎ばかり
 近習長谷川秀一
 さて、前田といえば、講談の木下藤吉郎出世談から、どうしても現代では前田犬千代つまり後の利家が有名である。が、その当時にあっては前田利家は柴田勝家付の寄騎衆で、能登半島の七尾城主として三万五千石の身分。賎ヶ岳合戦で勝家を裏切り敗走させた手柄で、ようやく天正十一年五月一日付で加賀の石川、河北二郡を秀吉から貰い、五万石になったと「寛政譜にある。

 ところが同じ前田でも玄以の方はどうかといえば、その頃、やはり五万石だが、こちらは豪くて京町奉行もしている。だから、「義演準后日記」、「時慶卿日記」、「梵舜日記」などの当時の信頼すべき史料にでてくるのは皆な利家でなく前田玄以の方なのである。そこで当時の有名人である彼は、よほど名門の生れのようであるが、実際は違うらしい。俗説では、「尾張小松寺の住職上り」とあるが、これは江戸末期の「武功雑記」が作った説である。また、「幼より剣技を磨く、技は抜群」などと見てきた如く書いている本もあるが、前田玄以は刀をふるった荒武者ではない。では本当は何かといえば、天文、永禄、元龜、天正にわたって有名だった医道の大家曲直瀬道三の門人の中に、「法印玄意」の名があるのが、どうもそうではなかろうかと思える。映画やテレビの類では、町医者が何処にでもいて、すぐ診察に来ているが、江戸末期といえど、ああいった事は実際にはあり得ないことであった。町医が増えだしたのは御維新後、士族の商法の一つとして、「文字が読めるから」と傷寒論の一冊ぐらいを読破して、禄を失ったのが町人に頭を下げずにすむからと開業するのが流行した明治初年の事であるらしい。なにしろ旧武家屋敷は一旦緩急あればとの慣習で、どこでも弓に番える矢竹用に真竹を昔から植えていた。そこで、そうした俄医者の事を「薮医者」とか「薮の中から生れた筍医者」と呼び出したもののようである。

 が、玄以は違う。幼にして志しを立て、世のため人のために医術を習得してと考えたか、それとも武見太郎氏のようになろうとしたのか、「よっしゃ、偉くなったろう」と笈を背負ってというほどではないが、乾粟でも藁苞(わらづと)に入れ、担いで尾張から京へ出た。勿論初めは徒弟といっても掃除をさせられたり、玄関番にすぎなかった。しかし、蛇は寸にして人を呑むといったぐらいのファイトはもっていたろうから、「やったるで・・」と門前の小僧習わぬ経を読む式で大いに励んだ。そこで、まぁ一通りりの診察や投薬でもできるようになったが、なにしろまだ年齢が若い。よって今でいうなら、小児科専門といった具合になった。若輩者では患者が心許ながるからである。そのため天正9年8月1日に京で今日の観兵式に当たる馬比べがあった際、「どうであろうか。我が三法師が夜泣きして難儀、修験者に御幣をふって加持祈祷させているが治らん。来てみてくれぬか?」。織田信長の跡目で岐阜城主になっている織田信忠から頼まれた。もちろん師匠の曲直瀬道三の口ききがあってのこと、とはすぐ呑み込めはしたものの、前田玄以はすぐ承知せず、「師の許しを得ましてから」と挨拶した。勿論今を時めく信長の孫のお守のような役ゆえ、(喜んで承知しまする)と口に出かけたのを、ぐっと押さえて返事をしたのである。が、信忠は、「若いに似合わず筋道を通さんとするは感心なものである」。すっかりのせられてしまって、「よろしい、五十貫扶持ではいかがであるか?」と言った。一貫とは穴開き銭千枚だから、五万枚の評価である。この当時「一銭斬り」といって、織田信長は処刑人の首斬りから穴埋めまでを穴開き銭一枚で下請けさせていたから、現在の数千円程度が当時の一文にあたっていた。となると五十貫扶持は実収が半分とみても大した額になる。信忠にしてみれば、我が子の命を預けるようなものなので、思い切って出したのであろうが、「うへっ‥‥」とばかり玄以は歓び勇んだ。なにしろ喰うや喰わずの百姓の小伜から一足飛びの出世である。すっかり張り切ってしまった。岐阜へ移ると玄以は、「何でも診察して進ぜますぞ」。まず無理して鼻下に蓄えた髯を撫ぜつつ、幼君三法師だけでなく家中一般の病人をも診察したりした。

 だから天正十年春。甲州の武田攻めが発令され、美濃の兵を率いて信忠が出陣する際も、重宝がられて軍医の如くに供をして行くことになった。しかし玄以は、初めは人並の暮らしがしたいと医者を志し、五十貫扶持になったのだが、(どうも詰まらん。武者どもと違い俺は人殺しする方ではなく、反対に助ける側ゆえ、これでは行く末とても大した事はなかろ‥‥) さて、と考えるようになった。そこで甲州出陣を機会に殺しの側になんとか廻りたいと武者奉公を願い出た。しかし織田信忠は首を降り、「何をか云う、その方は医師なればこそ召し抱えたのである」にベもなく斥けられてしまった。そこで、前田玄以もやむなく医師として随い、木曽峠口から合戦に加わった。そして信州高遠の城を落し三月七日に上諏訪から甲府へ入城。そこを逃れ出た武田四郎勝頼や伜の太郎信勝は田子で自決した。やがて凱旋する信忠に従って前田玄以も五月十四日に上洛、妙覚寺へ入った。すると信忠より、「その方、わしの名代のつもりで備中へ行ってくれぬか」と命じられた。備中高松を羽柴秀吉が包囲しているのへ、長陣ゆえに病人も出ていようから、見舞いに行ってやれという指図なのである。「はあっ‥‥」。仕方なく玄以は馬の荷駄に薬草を山の如く積ませ、それを曳かせて現在の岡山から高松へでて、竜が鼻に本陣を構えている秀吉の許へ伺候した。そこで、「よお来てくれた。各陣を廻ってみてやってほしい」と言われ、三日間というもの休む隙もなく、病人の手当をなし、二十二日に「これにて御暇しまする」と秀吉へ挨拶しにゆくと、「雑作をかけた。何なりと望まっしゃれ。礼じゃ、遠慮せんと‥‥」。にこにこしながら口にされた。そこで玄以は、つい日頃からの望みを口に出してしまった。すると秀吉も困ったように、「中将信忠様の医師どのが、武者に変わって一国一城の主にもなりたいとは、こりゃ思いもかけぬ注文‥‥薬礼にしては高値(こうじき)すぎる」とは言ったが目許は光って、(本心か?)と訊ねているようであった。そこで玄以は、(この秀吉という方は、樵の端柴売りから身を起されたお人と聞く。わしの大望も、この御方なら判っていただけようぞ)とも期待して、同じ尾張人どうしの気安さから、頭をかきかき、「えろならな、だっちゃかんがね」。つまり偉くならんことには全然駄目であるといった那古屋弁を使って、へらへら笑ってみせた。

 五月二十七日に前田玄以は京へ戻ってきた。そして安土から京へ来ていた徳川家康の臣で以前は鷹匠上がりという本多弥八郎(正信)が病んでいるときくと、すぐさま織田信忠の命令の如く装って見舞ってから、診察(みたて)が済むと、「‥‥上様は何故かは知らねど、徳川殿に、かねてより御憤りを含んで居られるとか‥‥高松で羽柴秀吉公もそれを案じて居られました。貴公も徳川殿の右腕といわれる御方ゆえ、大方その御心痛で病になられたのじゃな‥‥」。まこと気の毒そうにいたわりの言葉をかけた。だから、本多弥八郎も驚き、玄以が立ち去ると、寝ているどころではないと、すぐさま起き上がり、家康の許へ這うようにして赴き、そして、「‥‥大事にござりますぞ」と耳打ちするように訴えた。家康も顔色を変えて、「中将信忠様の侍医が備中まで行き、秀吉の口から直接聞いてきた話であれば、信ずるしかなかろ」と顔色を変えた。すぐさま榊原康政を呼んで、「陸路では退去できまい。大坂表へ参れ。住吉浦で金に糸目をつけず、船を集めてこい」。慌てて命じた。が、五月に出航の予定が延びて、信忠の異母弟信孝の四国行きの征討軍に船という船は小舟まで狩り集められていた。だから康政が八方手を尽くしたが、住吉浦では何ともならなかった。しかし翌二十九日になると、<案内役>という名目で、織田信長からつけられていた長谷川秀一が、「本日‥‥上様が上洛なされまする」と告げに来た。秀一は信長の近習ゆえ、これは大変と康政もきっとして、「大坂表では船の都合ができなくとも、堺まで行けば何とかなりましょうほどに」。すぐさま行列を仕立て、信長が上洛するに先立ち、泡をくって堺へ逃げた。しかし堺政所松井友閑は、京から家康の一行が来たと見張り所の者から聞くと、すかさず、「これは、ようおみえになられました」と己が邸へ案内した。そして、茶の湯など始めだしたが、ていのよい軟禁である。

 家康の供侍は僅か百名であるが、本多平八郎忠勝をはじめ、どれも一騎当千の者が選抜されてきている。だから松井友閑の手の者が屋敷を包囲しても、突き破って出られぬことはないのだが、背後の安土城の信長の大軍を考えると手も足も出なかった。それゆえ、「私が京へ駆け戻って様子を見てまいりましょう」と言い出した秀一へ、家康四天王の一人である酒井忠次がにじりよって肩を抱え、「頼みまする‥‥」潤んだ声をかけた。長谷川秀一は信長の直臣ゆえ、松井友閑の家臣もすぐ通したらしく、やがて馬蹄の遠ざかる音がした。しかし若い井伊直政は心配そうに、「秀一を京へ向かわせるなど無謀ではありませぬか」と、いきり立って詰った。が、老巧な酒井忠次は首を振り、「溺れる者は藁をもつかむ‥‥と云うではないか」と言い返した。

 さて、堺から京へ取って返した長谷川秀一は本能寺の信長の許へは行かず、妙覚寺の信忠の許に戻っていた玄以を呼び出した。「‥‥いかがでござりましょうや」。着遣わしげに尋ねかけてくる玄以に対して、秀一は莞爾として、「全て予定通り‥‥家康は堺へ逃げ込んで船便を求め、榊原康政出生地の伊勢白子浦へ去らんとしたが、堺も船がなく立往生‥‥よって陸路をとる見込み‥‥」とまず教えた。「左様でござりますか‥‥が、何故に徳川殿は上様に睨まれているといった話に、ああもあっさり乗ってしまい、懸命に逃げ廻られるのでありまするのか?」と玄以が腑に落ちぬ事ゆえ聞き返したところ、秀一も首を傾げ、「俺も何故家康殿が信長様を怖れる様な旧悪が有るのか、判らん‥‥が、秀吉様はよお知っていなさって、それで全て段取りして居られるんじゃろ」と言った。

 が、この長谷川秀一の行動の不可解さは、家康と行動を共にし、かぶと越えして三河へ逃げ、徳川家に挙兵させておいて、秀吉の許へすぐに引き返してしまっている事である。そして、「越前国誌」天正十一年の冬には、「近江比田城主に任ぜられし長谷川竹(秀一の幼名)は、秀吉公への多年の忠節による」などと明記されているが、信長の近習の若者が前髪がとれたばかりの年齢で、信長の死後半年あまりで一躍二万石の城主になったというのは、一体秀吉に何の忠義をしたのか?実に疑わしい限りで、その上、「古今類聚」や「越前風土記」にも、「近江比田城主長谷川秀一は天正十三年閏八月に越前敦賀郡十一万石へ増封、東郷城主となる」などとあるし、「武家事紀」、「当代記」によれば、「長谷川秀一は信長公近習たりしが、関白殿下への忠節浅からざるをもって、羽柴の氏と豊臣の姓(かばね)の二つながらを許し賜って、羽柴東郷侍従と名乗る」といった好偶ぶりすらも記録されている。が、「近江崇徳寺過去帖」では、極めて冷酷に、「文禄三年二月長谷川秀一病死、無嗣断絶」とのみ残っている。二十歳ぐらいで二万石になり、四年後には十一万石の大名になったのゆえ、側室も多くいたろうし、子種が一人もなかった筈などは、まぁあり得ない。それに弟や甥もいたはずである。なのに秀吉があっさりと、「無嗣断絶」を言い渡して、敦賀十一万石を秀一の死と共に没収してしまったのは、それなりの理由が彼の忠節にはあったのだろう。信長殺人事件で怪しい最初の一人である。
 出世の為には
 前田玄以は天正十年六月二日、織田信長が本能寺で爆殺された後、妙覚寺では心許ないと信忠が二条城へ移る際に彼に呼ばれ、「岐阜城へ残してきた伜の三法師(織田秀信)の事が気になる。汝は医者ゆえ、ここを落ちていき、我が子の哺育をなすがよい」と言いつかり、やむなく京都を脱出し岐阜へ戻った事に、これまでの通説ではなっている。しかし、二条城へ立てこもった信忠の方も本能寺同様にやがて轟然たる爆発で一人も生存者がいないのである。皆吹き飛ばされて玉砕しているので、これは玄以の作り話か、後年のでっち上げであろう。

 三百九十年後の今日、推理できる事は何かといえば、本能寺の変後二十五日しかたっていない六月二十七日、「織田家のお跡目は、岐阜城におわす三法師君をもってする」と旧織田の重臣を集めた清洲会議の席上で、秀吉が自家薬篭中のものの如く、自信をもって言い切ったのは、つまり(前田玄以をして幼い三法師を既に手なづけ掌握させてある)といった計算の上から、そうした発言が出されたのではあるまいか。

 さて、玄以が有能であって秀吉の意のあるところを汲み、岐阜へ戻ったら素早く三法師を拐して連れ出してしまえば、彼も長谷川秀一同様に手柄を認められ、五十貫扶持からすぐにも二万石の城持ち大名にもなれ、ついで十一万石にもなれたであろう。しかし、小姓時代から信長に仕え、てきぱき処理するやり方を訓練されてきた秀一に比べ、玄以はそうした訓練はされていなかった。だからもたもたしているうちに時がたった。新しく美濃国主となって岐阜城へ入った信忠の異母弟信孝が、(父信長殺しの真の犯人は秀吉)と怪しみだしたものか、「三法師は亡き中将信忠の一子ゆえ、わが甥にあたる」と言い出した。そして玄以が、なかなか三法師をつれて来ないのに、すっかり業を煮やした秀吉が、再三にわたって清洲会議に基づく決定事項として受け取り方の使者を出すのへ、「血は水よりも濃しの譬えもござれば、我が手許へ置くほうが‥‥」と、あくまで信孝は引き渡し方を拒んだ。そして前田玄以も怪しまれて、城からも「うぬには暇をとらせる」と追い出されてしまった。そこで進退窮まった玄以は近江の比田へ行き、以前とは違い二万石の殿様になっている秀一に泣きつくが如く、「手前これから、何としたらよいでしょうか」と相談をしに行った。同じ様に秀吉の指図を受けて働きながら、立身するどころか、反対に五十貫の扶持さえも失ってしまった玄以にすっかり同情した彼は、「秀吉様は今となっては織田の血脈を絶やそうと思っていなさるやにみえる。よって、そのつもりで動いてみては如何であろう‥‥」と忠告した。

 本能寺の変で爆死を遂げた信長には十二男五女の子供がいたが、秀一の口ぶりでは、「お継ぎ」と呼ばれ、幼時より子供のいない秀吉の許へ養子に行っている信長の四男で、山崎合戦後に明智光秀の本城であった丹波亀山十万石の城主となっている羽柴秀勝の事をさしているらしかった。そこで玄以もなるほどとうなずき、「これは、良き事を承った」と礼を述べて、その足で大阪城へ赴いた。ニの丸には故信長の異母妹於市御前の姫達がいたからである。というのは秀勝が少将に任官し、亀山城主になった際に、「まだ早いが貫禄をつけさせるためにも」と秀吉が、お茶々、お初、達子の三人姉妹のうちから末の姫を選んで、丹波へ嫁がせていたせいである。

 「左様か‥‥医師のその方が見舞いに行ってくりゃるのか」。前に岐阜城にいた時、風邪をこじらせ、玄以の手当を受けて本復した長女の茶々が喜び、「丹波少将殿も達子も甘いもの好き‥‥いただき物だが金米糖[コンペイトウ]なる南蛮菓子がある。ついでに厄介じゃが届けてやってくれぬか」。生母於市より父親の浅井長政似で大柄なお茶々が、侍女達に言いつけて荷作りさせるのを眺めながら、玄以は内心ほくそえみ、(医師とは得なもの。これだけ信用されているものならば、丹波亀山へ乗り込んでも、まぁ首尾よくいくことであろう)と考えた。が、刺客として刃をふるって暗殺しに行くのではなく、そこはお手の物の薬匙一つで遂行する仕事だから、もしやの懸念もあったのである。そこで玄以は、(長谷川秀一から聞き及んでいる石田三成が、その兄の木工頭正澄を頼って相談しよう)と考え、前もって用心のために顔を出すことにした。三成は不在だったが、新しく堺町奉行の政所役になって、赴任の仕度をしていた兄の方は、すぐ逢ってくれて、「手柄をたてに丹波路ヘ行かっしゃる、とお言いか。よろしい。わしか三成の口から天下様のお耳に入れておこう」と言ったが、すぐ続けて、「わしからの命令じゃと駕を用意させるから、向こうへ行っている達子御前には、姉のお茶々様が急病とでも偽って、先にこちらへ引き取り、おみはその後に行ってうまく始末をつける方がよくはないかな」とも声を低くし、注意してよこした
 立身前田玄以
 丹波亀山城主といっても長丸とか、お次とよばれていた当時の秀勝は、実父信長に死なれた時が十四歳。従弟の達子と祝言をあげさせられたのが十五歳。天正十三年の暮でも十七歳だった。だから、まだ何事も疑うという事は知らず、「大阪城より駕で迎えとは‥‥あの丈夫な茶々殿もよほどの容態らしい‥‥構わぬ、後の事など心配せずにすぐ見舞いに行け」。十六歳の妻に急かすように行った。しかし達子の方は、(虫の知らせ)というのか、浮かぬ顔をしてからが、「なにやら、こう胸騒ぎがしてなりませぬ‥‥大きい姉ちゃまが病気でも、側には小いちゃい姉ちゃまもついていることですし‥‥」。行きたくないと駄々をこねてみせた。しかし秀勝は、「そう申しても大阪城より迎えが来ているのに、行きたくないと断れもしまい」と叱りつけ、「男のわしが呼ばれていくならば、万一の事も考えられよう。が、女のそもじが行くのに案ずる事など、よも起こりはしまい」。 生母於市御前の若かりし頃に生き写し、といわれる芙蓉の花のような美しい達子を、しきりに励ました。 しかし、それでも達子は、「なんと云わっしゃっても嫌じゃ。達はおみさまと離れて、この身一人で大坂へなど行きとうはない」。実父そっくりな色白の夫の膝へ身体を投げ出すようにしてすすり泣き慟哭した。だから秀勝はむずかるように厭がる達子をなだめに廻り、「まぁ、行くだけはお行きゃれ‥‥顔さえ出せば義理もすむこと」。気になって落ち着かぬならすぐ引き返し、戻ってきてもよいと言い聞かせて駕にのせた。

 そして、亀山城天守閣の見晴台から、根雪の固まった白い大地ヘ割り込むように遠ざかっていく行列を、寒風の中で見送った。しかし、無理矢理に出しはしたものの、秀勝も気になって夜になっても、とても寝付かれもしなかった。そこで次の日の夕刻。「大阪城より前田玄以殿が‥‥」と聞かされると、普段なら見知らぬ者など引見しないのだが、「すぐ通せ、逢う」といらいらして命じた。そして玄以の口より、「風邪をこじらせ命旦夕とみられていましたお茶々様の大病も、此方の達子御前様の御到着にて安気なされたか熱も引き、この分では近く御本復の模様である」と、経過を聞かされると、「それは良かった」とほっとした。「‥‥よって達子御前も一両日中にはお戻りにござりまするが、その前にこの旨をお知らせして御安堵頂くようにとの、手前は使いに参りました」と言いつつ、玄以は五三の桐の蒔き漆の重箱を取り出して、「これにて御留守の殿を慰めまいれ、と言いつかってまいりました」。恭しくにじり寄って差し出した。秀勝は受け取り蓋を開けて、「こりゃ、わしの好物の南蛮金米糖‥‥しゃぶって待っていてほしいと達が申したのか」。にこやかな表情になって、一掴み握るなり口へ頬張った。 すると玄以はその重箱を取り返すようにした。そして不審がる秀勝へ、「糖分の強きものなれば一度に多量を召し上がらぬよう、行器所へ預けておくようとの、お言いつけにござりましたなれば‥‥」、「そうか、達はそれほどまでにこの身を案じてくれたのか」。秀勝は素直に肯き、重箱を抱えて退出する玄以を見送った。

 その夜。秀勝は激しい吐瀉に見舞われた。城内に泊り合わせた玄以は、すぐさま駆けつけ手当をした。しかし、その甲斐もなく翌十二月十日の夜明けに十七歳の信長の形見の秀勝は、のたうち廻って息を引き取った。重箱も金米糖も見当たらなくなっていたので、誰もそれに無色白色の石見銀山の砒素の粉が、まぶしてあったと知る者もなかった。

 「よく忠義した。とりあえず丹波亀山の城代を言いつけるぞ」。石田木工頭正澄立ち合いの許に、久しぶりに目通りを許された玄以へ、秀吉はにこやかに言った。そこで玄以は張り切って伜の彦四郎を伴い、もう医師姿ではなく、鎧冑の武者姿となって、改めて丹波亀山へ乗り込んだ。名目は初めこそ城代であれ、この度の手柄で秀勝が急死した後の亀山城を与えられるものと思い込んでいたからである。ところがである。年が改まると、「‥‥大変でござります。秀吉様は己が養子にしていた信長様の四男を殺害したのを隠蔽するため、三好吉房様の次男の片目の小吉殿に、そっくり同じに羽柴秀勝と名を名乗らせました由ですが‥‥」。伜の彦四郎が血相を変えて知らせに来た。三好良房というのは秀吉の姉婿にあたるが、清洲城の足軽上りである。だから玄以も、「‥‥まぁ世間体を取り繕うための、そりゃ恰好だけじゃろ」と問題にもしなかった。しかし名前だけを、殺害させた信長の四男と同じにしても、やはり実体が伴わなくては嘘になると考えてか、「新しい秀勝に丹波亀山十万石を継がせるによって、左様に心得ませえ」と、秀吉から前田父子は命ぜられた。「‥‥これでは、我らはただの城の番人にしか過ぎないことになり申す」。若いだけに、伜の彦五郎は悲憤慷慨(こうがい)した。しかし、玄以はここで軽挙盲動しては、せっかく医師から武者になったのが、ふいになると、「まぁ待て、立身出世とは、そうトントン拍子に行くものではないわ。時機を待て」と制した。そして新しく城主として納まってきた片目の小吉秀勝に対して、家老の如く忠実に仕えた。しかし小吉秀勝の兄の秀次が関白職になるような噂が伝わってくると、玄以は伜の彦四郎と二人して、「おいたわしや‥‥わが殿には僅か十万石の捨て扶持で我慢なされまするのか」と、示しあわせていたように父子で男泣きをしてみせた。「うん‥‥兄の秀次は天下の関白職。弟の秀保は百万石の大和大納言秀長の養子。なのに真ん中の俺だけが取り残されたみたいに、たったの十万石とはけしからん」。すっかり悪乗りしてしまった小吉秀勝は、直ちに京の聚楽第へ行き、秀吉をつかまえて、「‥‥伯父上、この小吉は眼が一つゆえ軽うにみられていなさるのか」と膝詰談判し、「城代を伯父上が言いつけなされている前田玄以父子でさえ、なぜか涙が流れてならぬ。男心は男でなけりゃわかるものかと、手放しで号泣いたしましたぞ」とばかり、今でいう賃上げ、禄高の不足を強硬に訴えた。そこで秀吉も、「丹波より前田玄以を呼べ」と命じた。そして、向こうっ腹をたてた秀吉は、出頭してくると頭ごなしに、「なんで男泣きなどして、あの馬鹿ったれをたきつけたのか」と烈しく詰問した。しかし、「怖れながら、我ら父子が男泣きしましたのは、秀勝様が由なきお考えをなさっていまするのを、お諌めしたい一心でしたこと」意味深長な言い方で弁護した。そこで秀吉は、(さては謀叛でもせんと企ておって洩らしたのを玄以父子が泣いて諌めたのか‥‥)と頭の回転の早いのも善し悪しで、咄嗟に逆に判断をつけてしまった。

 当時の奈良興福寺多聞院の住職英俊が誌していた日記には、「天正十七年七月、秀次公御弟の秀勝君は、知行不足の旨を関白様へ談じこまれ、その怒りをかって所領悉く没収処分」とある。そして、「寛政譜」によれば、「丹波亀山は従来十万石なれど、天正十七年八月より五万石に減じられて、これを前田玄以賜る」の記載が出ている。つまり明智光秀の頃は五十五万石の本城だったのだが、信長の四男秀勝の時から十万石に減り、小吉秀勝も同額だったのが、一応没収処分となり、改めて玄以へ謀叛防止の褒美として渡された時には、その半分の五万石にされたのがこれで判る。しかし、それでも前田玄以が志を立てて、一城の主になろうとしたのが天正九年頃とみれば、八年目で目的達成ということになる。だから五万石に削られたとはいえ、一心不乱に奉公したから、「彼奴は真面目人間である」と認められ、慶長三年に五奉行制が設けられると、前田玄以も石田三成と同格で、その一人に加えられた。
 さて、その翌年に秀吉が死んで、次の慶長五年に、天下分け目の関ヶ原合戦があっ た。玄以はすぐさま千名の兵を率いて大阪城の守備に任じたが、伜の彦四郎茂勝は、この一戦に大いに手柄をあげねばならんと、細川忠興の父幽斎の東軍に味方した田辺城を攻めた。それゆえ、「細川家記・三刀屋田辺記」や「武家事紀」によれば、「八月二日、前田茂勝らによって田辺城は開城。茂勝その兵を率い入城し駐屯」という武運めでたい成果をあげた。しかし、一ヶ月半後には関ヶ原合戦で東軍が勝ったので、丹波亀山まで報復的に細川幽斎の伜忠興が戻ってくると占領されてしまい、十月二十二日に放り出された。「‥‥いかがしましょうか?」。せっかくの武功も夢と消え、五万石の城と領地を失った茂勝は蒼ざめてしまったが、玄以は平然として、「立身とは躓いてもすぐ立ち直れる者にのみ与えられる言葉である」てなことを言い、直接徳川家康を訪ねていくと言い出した。「‥‥西軍に与した者は、皆な捕えられて六条河原で首をはねられておりますのに、そんなむちゃくちゃな‥‥」と伜の茂勝は驚いた。しかし、玄以は悪びれもせず、「前田玄以かまり通りまするぞ」と、堂々と群なす東軍の中を進んでゆくと、家康の許へ行き、「てまえをお忘れでもございましょうが‥‥天正十年の頃、長谷川秀一と棒組みになって働きましたもので」。ぬけぬけと言い放った。すると家康も苦笑して、「‥‥そうであったか」と言葉少なく答えたが、ずばりその一言が効いたのだろう。西軍に与した者は安国寺のような僧侶ですら梟首されたのに、玄以父子はお咎めなしとなった。しかも細川忠興に奪われた丹波亀山城は戻されなかったが、近江八幡山城六万石が渡されることとなった。関ヶ原合戦で西軍に与した大名で助命された上にベースアップまでされたのは、天にも地にも、この前田玄以一人きりであろう。これは「細川家記」や「時慶卿記」にも記載され、今に残されているが、なにしろ 信長殺人事件の謎が判らないことには、長谷川秀一や前田玄以のような不可思議きわまる立身の史実は解きようもなかろう。

 では、その謎解きとは何かといえば、かつて八切日本史の「信長殺しは光秀ではない」で、俗説や通説のように[犯人は]明智光秀ではないことと、丹波から桑津船団両郡を通って大江山越しに、京へ入って襲撃した小野木縫殿助ら実戦部隊の内訳を詳細した。「信長殺しは秀吉か」では、小野木縫殿助がなぜに秀吉に使疾されて本能寺へ兵を進めたかを、信長の末弟の源五郎有楽の立場から書いた。そして、「謀殺」では、江戸時代に入ってから江与の方と春日局との対立を、メアリ・スチュアートとエリザベス一世との対決におきかえ、家光のために駿河大納言が死に追いやられる解明として、家康が信長殺しの黒幕の一人だったことを書いた。しかし、それだけでは、この奇怪な殺人事件の全貌の解明とはいかない気がする。

 そこで、第四回目の謎解きへの挑戦として、これまであまり問題にされなかった丹羽長秀や蜂須賀小六、それから城戸十乗坊とか木村吉晴といった、今までは全く知ら れていないが、その当時としては世間をびっくりさせるような出世をした人物をも、証人としてここへ引っ張り出してくることにした。なにしろ、「あらゆる犯罪は、それによって利益を得る者を片っ端から洗え」というから、天正十年六月二日を境にして、いきなりそうした破格な立身出世をした連中をどうしても洗い直すことによってしか、解明の途はないようである。

 この犯罪においては、端役並で泥棒団並なれば、その見張り番の如く立っていたに すぎないくらいの前述の前田玄以にしても、六月二日以降は三十人扶持つまり五十石取りの薬坊主だったのが、近江八幡山城六万石と千二百倍の大出世。長谷川秀一は千石の近習だったのが、本能寺の変から三年目には越前敦賀の東郷城主になって十一万石になっている。千百倍の勘定だが、木村吉晴父子のごときは、五十石ぐらいの軽輩が、六千倍の奥州登米城で三十万石になっている。もう、こうなると常識では考えられもしない。また、斎藤内蔵介の娘が春日局となって天下の実権を握るようになると、細川忠興へ肥後熊本五十四万石が贈られている。しかし、その頃は外様大名が片っ端から取り潰しにあっている時代である。細川も他の外様大名と同じ様に何かと難癖をつけられて、それまでの豊前小倉十万石 を取り上げられてもおかしくないのに、彼だけが五倍のアップをされている。木村吉晴らの六千倍には及びもしないが、世の中が落ち着いた時代に、こんな破格な加増は徳川三百年を通じて他に例もない。

 それに今も伝わっている日本版カーニバルみたいな阿波踊りにしても、何故に日本の民謡調とは全くかけ離れたものを、「踊る阿呆に見る阿呆」と極めて自虐的な韜晦 (とうかい)趣味な歌の文句を作って、蜂須賀家では歌って踊らせたのかの謎も出て くる。もし他の大名なら、町人共が、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」は、好いとしても、お殿様の許へ、「踊る阿呆に見る阿呆」と、行列を繰り出していったらどうなるだろうか‥‥「見物しているわしを愚弄するとはけしからん」と、デモにでも間違われて処罰されていただろう。なのに代々の蜂須賀の殿様が叱りつけもせず、かえって奨励していたのはなぜだろう。

 この公許という理由は、踊るのや唄うのは町人共でも、この作詞者は蜂須賀小六の伜の家政か孫の至鎮ではなかったろうかと思惟もされる。つまりこれは天正十年六月 当時の「蜂須賀小六の怨念の唄と踊り」とみるべきではなかろうかということである。では何が怨念かといえば、本能寺の変の時に先祖の蜂須賀小六が、(誰かに踊らされて何かをやり、そして、その結果、誰かがあっという間に天下をとってしまい、あれよあれよと見ているしかなかった阿呆らしさ加減)を唄っているらしいのである。しかし阿呆となって、命じられる侭に踊らされ、そしてポカンと見ていただけだったから、蜂須賀家は阿波徳島十八万六千七百石を貰えて安泰に代々家名を残すことができた。だから結果的には、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」となるというものだろう。

 つまり、そうした挽歌みたいなものを阿波踊りとして城下町で盛大にやらせたのも、小六の霊を慰めたものとみれば、信長殺人事件におけるその立場も判るというもので ある。寄ってたかって独裁者の信長を倒してしまった、といえばそれまでだが、日本歴史の暗黒面の代表みたいな世紀の犯罪は、そんな漠然たる推理だけでは済まされない。また城戸十乗坊といった、世にもおかしな存在も、やはり糾明していかなくてはならないだろう。だから、「黒幕である殺人教唆容疑者」と、「直接の殺し屋である加害者」とに分けて、この奇怪な謎解きはしていくしかなかろう‥‥





(私論.私見)