4章、男心に男が惚れて |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1172織田信長殺人事件4」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
【男心に男が惚れて】 |
城主佐野下総守 |
ブオッと法螺貝がたった。近習の者が、「お召しなされませ」と馬を曳いてきた。大鎧を身につけた佐野下総守は、近習に腰を持ち上げさせて、よいしょと鞍に跨った。そして、まだ不審そうに顔をひしゃげ、「こない暗うなってからの出陣とは、ちいと解せぬのう」。手綱をひっぱりつつ唸った。しかし見送りに出てきた北の方の幸(ゆき)は、「そない仰せられても、丹波亀山の斎藤内蔵介様よりの早打ちの御使者。斎藤さま御下知は、これ信長様よりの仰せも同じ事。もし愚図ついて遅れたなれば、なんとされ
ますぞ」。それでなくても険しい顔を、また眼を吊り上げて叱るように言った。だからでもあろう、馬は自分が脅かされていると勘違いしたのか、ビクッと首筋を震わせ、それがまた鞍に並よせして、佐野の股座にもビクッときた。そこで兜の下から、「よいわ、わかったわい」と唸った。 そこで、近習へ重々しく、「では出陣するといたす」と言ってきかせるよう声をかけた。「はあっ」 駆け戻っていった近習が合図をしたものらしい。雑兵どもが一斉に、「やあっ、やあっ、やあっ」と三度続けて「矢叫び」をあげた。当時の、これが出陣の合図である。「備中は遠うござりまするによって、よしなき女ごなど、お近づけなされまするな」。これが妻からの門出のはなむけである。せめて恰好だけでも、(勇ましゅう行っておじゃれ)と口にしてくれると家来の手前もよいのだが、妻ともなるとそんな体裁ぶった事より、まず心にかかる事をすぐ口にしたがる。 今度の備中攻めというのは、羽柴秀吉が現在の岡山の裏にあたる高松城を攻めていたところ、救出しようと毛利勢が出てきて、逆に秀吉が包囲されてしまい、五月十七 日には、「お援助を‥‥」と安土城へ馬乗りの使者をよこした。そこで織田信長が、「心配せずに持ちこたえい。今度は自分が後詰めの大将として出かける」と、その陣配りの立て直しに参謀役にあたる近習の堀久太郎を先発させ、ついで明智光秀寄騎の丹後田辺城の長岡藤孝(細川幽斎)。大和郡山の筒井順慶。摂津有岡の池田恒興。同じく茨木の中川清秀らに陣揃えの命令が出た。丹波和田(現在は和知)城の佐野下総守にも、既に亀山の斎藤内蔵助から二十日には備中表出陣の触れが出ていた。 だから、仕度はもう始めていたし用意も整っていたが、二十七日からは連日のように雨である。そこでも出陣も延び延びになり五月も過ぎて六月に入った。この一日も昼前から沛然と篠つく大雨だった。なのに夕方になって、やっと晴れ間が見えたかと思ったら、「すぐさま、陣備えして出てござれ」。まるで足元から鳥が飛び立つような命令である。これでは佐野も面白かろう筈がない。なにしろ織田信長というのは、各方面の司令官が自分の考えどおりに行動をしないと困るから、秀吉、勝家、一益といった武将にも小姓の時から召し使っていた者を参謀とか督軍の恰好で、「目付」としてつけていた。これは後年、秀吉もその真似をして、征韓征伐の時の蔚(うる)山篭城でも、「加藤清正、浅野幸長」といった秀吉子飼いが大将だったが、実際の采配をふるっていたのは、丹羽長秀の旧臣だが、秀吉に可愛がられ直領の代官をしていた大田一吉だったという例もある。 明智光秀の場合も、五十五万石の大名で近畿方面司令官の大任を受けていたが、実際の軍事指導権は信長からつけられた美濃三人衆の一人である稲葉一鉄の妹婿の斎藤内蔵介である。この内蔵介という男は通俗歴史では明智光秀の家老のように間違えられているが、元龜元年に織田信長が妹婿の浅井長政に背後を突かれかけて、泡をくって命からがら逃げ出しかけた時、「近江守山口を守って追撃の一揆を打ち払って殿軍を勤め、その功は甚だ名聞なり」と、信長から後で褒められ、「三郎信長」の名乗りから、「三」の字を許されて「斎藤内蔵介利三」と名乗った利(き)け者なのである。彼は明智光秀が信長の家来になる前から、既に信長の直臣だった男である。だから丹波亀山は光秀の本城とはなっているが、実際は内蔵介がここで丹波方面の一切を支配していた。 そして和田城主の佐野などには内蔵介の命令は信長の命令と同じである。だから、たとえ雨上がりで馬の藁沓が滑ったり、はまりこむ道にしろ、暗い星空を手探りで進むのも命令とあればしかたがない。亀山城外の粂野に勢揃いすると、ここから丹波と山城の境目。酒天童子腰かけの石のある大江山の老の坂へと向かった。まだ暗いうちに長岡番所の続く丹波口へ出た。そこで長岡(後に細川)の家来から、「御苦労でござる」と飲み水などを振舞われ、「急げや急げ」と急かされて京へ入った。四条大路を西洞院通りの本能寺へと向かった。(信長様が御自身で陣頭にたって、ここから備中表へ向かうのだ)という話もあったが、(幼い時より信長様が我が子同様に可愛がられ、一の姫の五徳様の婿とされた三郎信康様を信長様の命令と偽って殺してしまい、まんまと岡崎城を乗っ取ってしまった旧悪が露見した徳川家康を討ち取りに来たのだが、五月二十九日に信長様が上洛なさると、家康の一行は風をくらって堺へ逃げ込んだから、そちらへ攻め込むのだ)とも伝わってきた。 佐野下総守はわけがわからぬまま、本能寺の裏手にあたる、さいかちの森のあたりで、指図されたとおりに召し連れた三百の兵をひとかたまりにして休ませた。しかし昨日の夕方までの大雨で叢もしっとりと湿っているうえに、夜露を含んだ梢から時々たまった雫が雨のように落ちてくる。とても野天では一休みしたくとも、欠伸はひっきりなしに出はするが、かといって寝られはしなかった。そこで夜明けを待っていると、六月の時候ゆえ日の出も早く、半刻もたたぬうちに 白々と東の空から明るくなってきた。「ちいとも、なんの指図とてないぞ。誰ぞ樹へ登って様子を見て物見をば仕れ」。油桐紙を敷いてそこで丸まっていた佐野が近習に眠気覚ましのように言いつけた。「はあっ」と身軽な者が、松の木や樅の樹にてんでによじ登ってからが、「仰山にいまする‥‥本能寺を取り巻いて、およそ一万の余」とよばわってきた。「何をいうとる。本能寺の外ではないわ。ご境内で、もう出陣のお仕度をなさっておられるか否か、そこのところを拝せよともうすのだ」。叱るように佐野は大声で言い返した。なにしろ信長様の御姿が出てこない事には、にっちもさっちも身動きできないからである。 しかし、樹上の物見共は、「まだ御寝(ぎょしん)にござりましょう。御厩の口取り仲間どもが右往左往し、お小姓衆の姿はちらほら植込みの蔭に見かけられまするが‥‥まだお仕度のようには見えませぬ」。折り返し樹の上から手をふって知らせてきた。「そうか‥‥では見張りは交替に勤めよ。もし上様の御姿が見え、表木戸の門が開くようになったらすぐに知らせい。短気な上様ゆえ、お出ましの時には、さあっと並んでおらねばご機嫌が悪かろうで、のう」。近習の者に佐野はきっとしていいきかせた。なにしろ先月の二十日に中国攻めの陣ぶれが廻ったおりに、佐野は妻の幸から、「上様は御自ら御采配をおふり遊ばす。このたびの御遠征こそ手柄を上げる又とない折り‥‥目覚ましゅう恰好よき働きをなされて、せめて今の身代の二倍には立身なさ れませえな」と、精がつくようにと生卵を二個も呑まされていたからである。というのは、佐野下総守は城持ちとはいっても、丹波篠山火打岩に近い砦のような小さな山城を持たされているにすぎぬ身分なので、あたりは山また山の険しい難所。まるで島流しのような土地柄であった。 だからして妻の幸は、「せめて年に一度なりと、女のこの身でも京なり安土へなりと行けるような、そない な土地へ移していただきなされ。それには手柄をたて他へ転封してもらうしか方法は ありますまい」。あけくれ愚痴ばかりこぼしていた。佐野もそうくり返しせっつかれては、「うん、うん」としか言いようもない。 だが、佐野にしてみれば和田の山城は先祖代々の持城である。天正六年に明智光秀が信長の命令で丹波攻めに来た時は、八上城の波多野党と共にあくまでも抗戦したものである。 しかし、八上城が降参してしまうと、「無駄な抵抗はよさっせ」と寄手の明智秀満が乗り込んできて帰順をすすめた。後になって考えてみれば、ちっぽけな山城なのに攻めにくい火打岩の絶頂にあるから、(力攻めするのも労多くして功少なし)と、明智秀満は一人でえっちら登ってきたのだろうが、そのときの佐野は感激しきった。「よくに一人でやってこられたものよ」。早速出迎えて、なけなしの酒を出した。「昨日の敵は今日の友」ということになって、二人で大いに呑んだ。明智光秀の長女で荒木村重の長男新五郎に縁づけあったのを、荒木が信長様に謀叛したとき返されたのを貰い、今では光秀の女婿になっている秀満は、酒の酔いが廻ってくると、「こんな小城の一ツや二つ‥‥保しけりゃくれます熨斗つけて、、佐野さ」とも言ってくれたものだから、「降参しても、この城は今までどおりに、この佐野に下さると仰せあってか」。嬉しくなってハラハラ落涙してしまった。そこで話がついたから、「男心に男が惚れて、雁がとんでいく火打山」とすぐさま開城することにした。 |
平地の城がよい |
しかし、明智秀満に伴われて生れて初めて安土へ行くと、今までみたこともない青い目をした紅毛人がうようよいるわ、二階建三階建の家が並んでいるわで、その賑やかな事は、まるで別世界へ紛れこんできた如き有様。だが胸にぐっときたのは、城下はずれの慈恩寺の門前に、材木を十の字にしたものが三本並んでいて、それに乾燥した人間が昆虫のように留めつけられていることである。「ややっ、八上城の波多野の三兄弟ではないか。この変わり果てたる姿はどうじゃ」。びっくり仰天。ぐっときたものが胸の中で凍りついてしまった。(開城して安土へお礼にくれば、旧領も八上城もそのまま下しおかれるというのを信じきって出てきた兄弟が三人並んで張付けにされている)その現場を己が眼で見てしまったのである。八上と組んでいただけに、これには佐野も慄然とした。だから、「俺はお前さんが一人で山の上まで登ってきた‥‥その心意気に惚れ込んで城を明け渡して、こうして一緒に来た。だが八上城の波多野兄弟が張付にされたまま晒されているのを見て気が変わった。頼む見逃してくれ。俺は逃げる」。すぐさま逃げ交渉をした。 すると秀満は後年江戸時代の終わりから「狩野永徳の描きましたる陣羽織を風になびかせつつ、水深二十メートルもありまする琵琶湖をただ一文字。タッタッタと駆け抜け走り進みましたる明智左馬ノ介湖水渡りの一席」と、講釈師の張り扇でポンポン台を叩かれながら、スーパーマンにされるだけの事は あって、にっこり笑うと、「逃げるのに相談される事はない。‥‥だが信じる者は救われんと南蛮坊主も云うておる。まぁ信じがたきを信じ、忍びがたきを忍んで堪え、ついて来さっせ」。 外観は五層だが、内部へ入れば石垣の内側が二階で計七層。当時とすれば現代の霞ヶ関のビルのような安土城へと連れていかれた。そして五層の信長の表書院へ通されはしたが、佐野としては半信半疑。だからして信長がそこへ現れると、「‥‥おそれながら。どうせ殺されるなら痛くないよう、さっさと死んでしまうようお取り計らいの程を‥‥」。のっけから、殺され方の注文をつけた。これには信長も呆気にとられ、「うぬは死ぬ気で、のこのこついてきたのか?」と鶴の一声。佐野もこうなると俎上の鯉も同然だから、度胸もすわり、「いかにも左様」。ぐいっと睨み返した。すると信長もキンキンした声で、「望みとあらば、痛くないよう殺してもやろうが‥‥今日来て今日すぐ死ぬこともあるまい。五日程は後にせい」。憤ったのか、ぷいと立って行ってしまった。 明智秀満も唇をヘの字に曲げ、「上様に慈悲を願えば、わしも脇から口添えしておとりなしをして頂くつもりだった のに、自分から喧嘩を売るような、あないな事を申す奴があるか‥‥まぁ五日の猶予があるゆえ、これから光秀の殿と善後策は講じるが、それまで短気は起すなよ」。心配してくれて引き下がって行った。一人残された佐野が手持ちぶさたで座っていると、そこへ年寄りの侍が来て、「こちらへ」と三層まで案内して、さて、「この中から五日間の相手を選びなされ」。金泥の襖を左右にさっと開きのぞかせた。「あっ」。これには佐野も驚いた。 五百羅漢というのがあるが、さすが天下一の安土城だけあって、顔型の違うろうたけた粒よりの女人がずらりと居並んでいた。「よりどりみどりでござるぞ」とせかされ、まるで美人コンテストのように一人ずつ丹念に検分していったあげく、「いずれがアヤメかカキツバタ‥‥」と口ではうまいことを言ったが、自分の好みのタイプは男だから決まっている。背がすらりとした顔の細いのを、「これだ、これだ」と決めてしまった。そして女の方は何も知らぬが、佐野にすれば五日間の人生である。だから一室をあてがわれると昼も夜もなく体で示して「命ある限り」とばかり、色々な型で愛した。五日もたつと太陽も蜜柑色にみえて、ぼーっとしてしまった。だが、約束である。「殺して下され」と申し込んだ。すると信長は、「いいのか?」念を押した。佐野も男である。女の事を考えるとまだ五日きりだから想いが残って心が疼き、身体も部分的には、しこった。しかし、拳固で頬を拭い、「あんな女人に未練はないが、なぜか涙が流れはしまする」。負け惜しみを言った。だが、「男心は男でなけりゃあ、わかるものかよ。まぁ諦めるでない」。信長は寛大に笑ってくれて助命してくれた。そして、「下総守」と任官までさせてくれた上に、その五日間に惜しみなく愛を奪った女までもつけてくれた。それが今の妻の幸である。勿論、明智秀満が義父の明智光秀を動かしてくれた為にこうなったのだろうが、佐野もこの時から信長を有難く思い、「この上様のためならば、犬馬の労はおろか、身命を賭して御奉公してもよい」。忠誠を尽くすよう心に決めた。つまり男同志の方は互いに意志が疎通しあって、まぁ巧く円満解決というえわけである。 が、女性の方はうまくいかなかった。なにしろ賑やかな安土から山また山の佐野の城へ連れてこられては幸としても災難である。「まるで山賊にでも拐されてきたみたい」と、雨の日も風の日も泣いて暮らすことに なった。たまには安土や京へ布地や飾り物でも見に行きたいのだろうが、山の上の小城では これは篭の鳥も同然である。だから、「なんとか手柄をたてて、もそっと平地の城に替えてもろうて下され」とせっつくのである。佐野下総守にしてみれば、これでも親代々の城ゆえ、それに首を振ってみせれば、「安土の城の時の五日間は、あないに朝となく昼となく励まれたのが、ここへ来てからはお人が変わったように一日一度が関の山ではござりませぬか。これというのも高地ゆえ息が切れるのでありましょう」などと、しきりにいろんな事で夫に文句をつける。いわれてみれば、昔から何処から不意に攻められるかしれぬので、親代々ここで、守るも攻めるも黒がねのと、険しい山頂に黒い鉄板を張った城を構えていたのだが、信長様の家来となった今は、やたらと的に襲撃されなどする心配もない。「よし、そないお前が言うのなら、今度の中国攻めでは上様の御馬前で、しかとめざましい働きをして安土か京に近い土地へ転勤させてもらおうぞ」。誓って出てきたからには手柄を立てねばならない。そこで本能寺に陣取った佐野下総守は、起きてみつ寝ててみつは気になって、「まだかまだか」と信長を待ちわびていたのである。 「ドガーーン」。その時突如として凄まじい轟音がした。 白昼なので火の赤色など見える筈もないのに、一瞬真紅火柱がたった。本能寺の境内の便殿、建物が濛々たる白煙に包まれ、雲に乗ったようにふっとんでみ えた。そして空が一面に真っ暗になった。人間も奴凧みたいに舞い散ってばらばらに跳んだ。 「ヒヒーーン」。佐野下総守の馬も竿立ちになって飛ばされたのか、奔走したのかいなくなったが、爆風の煽りをうけて佐野自身も持ち上げられ地面に叩きつけられ、しっとり濡れた叢に 蛙みたいに這いつくばった。一瞬ボオッとしていたが、まるで聾になったような耳の穴を指でつつきつつ、体を持ち上げようとすると、「こりゃまた何じゃ‥‥なんとした」。頬っぺたを草の根に刷りつけたまま、喚くようにがなり立てた。周囲に塀もなく濠からさらえた土で築土が盛り上げてあるきりの本能寺だから、今の大爆発で、その掻き上げの土居が崩れて2メートル幅の濠が埋まり、火を発したのか、きな臭い硝煙の臭いに混じって黄色い靄のようなものが迸って吹いてきた。「物見に木の上に上げておきました者共は地面に叩きつけられて即死。その他に手負いも多うござります。ここにいては火がやがて近づきましょう。ひとまず避難を」。灰神楽をかぶった近習共が、佐野を両脇から抱え込んで下がらせようとした。「それより、これは何たる事か?」。肘を張ってそれを拒みながら佐野は叫んだ。しかし近習共も、ただおろおろして、「何がなにやらわかりませぬ‥‥表御門のところでは開門を待っておりました衆が百人程度はじきとばされて死にましたる由」とか、色々な事を口にしたが、さっぱり要領を得なかった。 そこで佐野下総守は、「‥‥上様の大事ぞ」とよばわると、近習の肩を借りて立ち上がり、「先年、丹波八上城は取り潰され、波多野兄弟はお咎めにおうたが、我ら和田城は上様のお情けにて無事じゃった。今はその時の御報恩の時。ついて参れや」。火の粉の舞い飛ぶ本能寺の境内へ崩れた築土を跨いでとびこみざま、「上様、何処におわしまする」、「何処へ行かれましたるぞ、上様」。必死になって声を枯らして呼ばわり、焼けて火となる本能寺の境内を探し求めた。表門や四方の木戸口に屯していた面々も、周囲の濠から水を汲んできては、手渡しで消化にあたっていたが、なにしろ火勢がすごい。濛々たる熱気で息さえもできかねた。「もはや、御身が危のうござりまする」。濡らした筵を持ってきて佐野を庇いつつ、近習どもはよってたかって、またさいかちの森へと連れ戻した。が、火の手は森へまで来ていた。昨日までの大雨でぐっしょり 濡れていたのがパチパチ音をさせて杉の木立から火がつき、松林からやにの臭いが漂ってきた。仕方なく四条坊門の大通りまで引き下がっていると、斎藤内蔵介の伝騎がとんできて、「二条城へ行くよう」と、指図をされた。 何が何やら、さっぱり見当もつきかねたが、信長様軍監として丹波衆の仕置きをする彼の命令なので、佐野下総守は改めて陣揃えをさせ、怪我人は戸板に乗せたまま堀川筋へ出た。だが、何をしに行くのかわからない。「あそこは誠仁親王様の下の御所じゃ。きっとその御警戒をしに行くんじゃろう」と進んでいくと、向こうから荷輿を守った一団が来た。はて何じゃろうと物見をやると、「親王様と若宮様、それに女御様の御一行が上の御所へお移りあそばしますところの由」。急ぎ駆け戻ってきて報告した。「なんじゃい。それではもう御用済みではないか」。佐野は馬から降り、伴ってきた軍勢を左右に跪かせ、恭しく親王様の御行列をお見送りもうしあげた。が、その後姿が向こうの辻を折れ曲がって、佐野がまた馬に跨ろうとした時である。「バガーン」。凄まじい爆音がした。二条城の方角である。久しぶりに晴れ渡った天正十年六月二日の、青く澄み渡った水みたいな空に、真っ黒な入道雲が突上げたように吹き出していた。黒煙である。「やや、又しても‥‥」。これには佐野も面食らって唾をのんだ。そして左右の者に、「あないものすごい爆音は初めて聞くが、普通の硝煙とは段違いの強烈さ。こりゃ一体どうした事が起きたのじゃろ」。尋ねてみたが、「はあっ、たまげるような轟音でござりまするな」と、家来どもも首を傾げるばかり。 とりあえず二条城へ行ってみると、ここも本能寺と同じで、見るも無残な有様。なにもかもが吹っ飛んで残るはきな臭い黄色い煙ばかりだった。城戸十乗坊改名知恩院の百万遍の所まで引き上げてきた佐野下総守は、水色桔梗の旗と四つしでないの御幣のような馬印を立てて洛中へ入ってくる行列を見かけると、「おう、明智光秀殿が軍勢じゃ」。ほっとしたように馬を進めていき、「秀満殿はおられてか?」。大声で叫んだ。「これは誰かと思うたら‥‥してその有様な何とされたぞ?」。先手の大将として馬を進めてきた明智秀満が、爆風を受け砂まみれの上に煙にまかれ、煤だらけの佐野を怪しむように声をかけてきた。「どうもこうもござらぬ‥‥実は」と本能寺に夜明け前に詰めかけていたら、二刻(4時間)あまり待たされ、その挙句が物凄い大爆発で寺の建物がことごとく吹っ飛んだ模様をかいつまんで話した。する と、「それを我が殿へ言上して下され」。秀満も愕然としたように佐野を明智光秀の許へ案内してからが、「やはり最前聞えましたる轟音は変事にござりました」と前置きして、佐野下総守の口から一部始終を物語らせた。 「‥‥左様であったか。一昨日愛宕山へ登ったところが雨に降り込められ、馬の藁沓が滑って下山できぬゆえ二晩滞在。昨夜になって雨の晴間をみて丹波亀山へ戻ったところ、斎藤内蔵介が兵どもを率いて進発し、無人の有様。よって江州坂本へ廻って、秀満にそちらの兵を集めさせて、なにやら心かがりゆえ夜の目も寝んと入洛してきたのだが」と唇を噛みしめて、「して上様の御安否は?」。尋ね返した。「それが手前も火中に入ってお探し仕りはしましたが、皆目見当が知れず‥‥」、 「そりゃ大変じゃ。上様の安否が気にかかる。これ佐野下総、案内仕れ」、 「はあっ」。又とって返す恰好で、本能寺へ戻った。が、まだ火の手は盛んに燃え広がっていて、西洞院通りは堀川まで火の海で、強烈な火薬の臭いがまだぷんぷんしていた。「火を消せ。なんとしてでも上様の御安否を確かめもうせ」。総大将の明智光秀が陣頭に立って水を汲み消化にあたりだしたから、佐野下総守の自分の手勢に命じて、「早く火をとめるようにせいやい」と、一緒になって消化にあたった。 明智光秀が坂本の兵を率いて上洛してきた時には、入れ違いのように斎藤内蔵介の丹波勢はもう引き上げてしまっていた。つまり佐野下総守だけが明智勢に合流してしまったから、はぐれた恰好で残留してしまったのである。この結果、それから十日たって、山崎円明寺川合戦。翌日の六月十三日に明智秀満の軍勢が、備中から攻め上ってきた羽柴秀吉に攻め滅ぼされると、丹波和田の山城へ引き篭っていた佐野下総守に対し「至急に出頭しませい」との差紙が来た。 「‥‥どないしようぞ」。これには佐野も狼狽した。妻の幸もおろおろして、「知らぬこととはいいながら、六月二日に本能寺を取り巻いていた一人であれば、信長様殺しが、よし噂のように南蛮渡りの強火薬であったにせよ、今となっては罪は逃れられぬところ」。すっかり蒼ざめてしまった。そして、「ここは難攻不落の要害ゆえ、いっそ篭城をなされまするか」とも言ってはくれた。しかし、三百ぐらいの兵力で、秀吉の大軍と戦えるはずもなかった。そこで佐野下総守は、「よいよい案ずるでない‥‥大恩ある信長様を粗忽千万にも間近にいながら見殺しに いたし、吹っ飛ばしてしまい、また義理ある明智秀満殿が江州坂本で爆死したのにも手も貸せなんだ俺じゃ‥‥秀吉めに殺されたとて因果応報。なまじ逆らってその方や家臣に累を及ぼすよりは、ここは男らしく自分の命一つで片をつけようかい」。覚悟を決め山を下った。「影は坊主にやつれていても、聞いてくれるなこの心境。しょせん男のゆく道は‥‥」 。うろたえて明かり障子の蔭から身を隠そうとするのを、妻の幸は逃がしはせじと手で押さえ、「なんで女が知るものか、にござりまするか」 。恨めしげになじった。そして、「これ下総守殿」とつめよれば、「わしは当城戸院の十乗坊である」。数珠をつまぐりながら顔を伏せてしまった。そして、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えだした。しかし幸は、それも耳にもかけず、「お呼び出しを受けて山を降りられてから何処へ行かれたものか梨の礫‥‥よって大 坂よりのお使者がみえて、城も領地も没収され、お前様を見つけて伴ってゆかねば、この私めもきついお咎めとの由。それであちらこちらを尋ね廻っていましたところ、この城戸院の御坊というのが、昔はれっきとした武者衆だったかと聞き、もしやと思って来てみれば、変わり果てたるこの御姿‥‥こりゃまたいかなる仔細にござりまする?」。ワアッとばかりに泣き伏した。これにはさすがに困惑してしまい、「のう泣くな女房よ」。数珠を持つ手で幸の肩を撫ぜ、そして耳許に口をつけるようにしながら、「秀吉よりの差紙を受け取り、この身一つだに棄てればそれでよいものと覚悟をつけ、山を降りはしたものの、さて考えてみれば、このままで死んでしもうては、秀吉めがふれまわるように、『信長殺しは明智光秀』となってしまう気遣いがある。それでは光秀の殿や明智秀満殿に対しては相済まぬ事ではないか」と囁いた。これを聞いて、「それで、ひとまず髪を剃り落し、ここに身を潜まれましたのか‥‥」 。幸も初めて合点がいったようにうなずいたとき、いつの間にか暗くなってきた境内に、バラバラ雫の打つ音がしてきた。妻の肩を抱えながら自分の苦衷を訴えた。しかし幸は子供のように首をふり、「お前様が亡き信長様の怨念ばらしに、誠の下手人を捜し出し、光秀様は濡れ衣じゃと世に訴えたい御存念‥‥妻としてわからないでもないが、私の後をつけてた長岡番所の者が既にこの寺を囲んでおりまするぞ」。低い声で教え、「秀吉の殿というは、私が安土の城にいました節に、よく軽口など叩かれた存じよりの方‥‥一緒についてゆきますゆえ秀吉様に逢いなされたがよい」とせっついた。「わしは睨まれておるゆえ、行けば必ず殺される。死出の道連れにその方を共にするのは心苦しや」。叱るように言ってはみたが、幸は以前と変わり、心優しくなったのか、「何を仰せられてか。生きるも死ぬも、ねぇお前様‥‥二人は女夫じゃありませぬかいな」。共に死ぬなら本望だといわんばかりだった。十乗坊もあらためて覚悟をつけ直した。「ほう‥‥そちが以前の和田城主の佐野下総守で、今は十乗坊と申すのか?」。妻の幸が昔の顔見知りをよいことに、とりなしを頼んだのが功を奏したのか、秀吉は 思いの外に気さくに声をかけてくれた。そして、「‥‥天正十年の本能寺の変の当日は、わしは遠い備中の高松にいたから、今そちから当日の話を初めて聞いた‥‥だが、わしは明智めを、故信長様の仇と思い込んでいたからのう」。当惑ぎみに顔をしかめ身体を乗り出すと、「のう十乗坊。そちの裁量ひとつで、この秀吉を助けてくれぬか。ものは相談じゃが ‥‥」。言われて十乗坊もわけも判らぬまま、「うへえッ」と頭を下げたところ、「坊主は人助けするものというが、早速の承引、これはかたじけない。布施として今召し上げてある和田の城そっくり戻してやろうぞ」。上機嫌にさっさと座を立ってしまった。 呆気にとられて見送った十乗坊が傍らの妻に、「こりゃまたいかがした事じゃ?」ときけば、「秀吉様は信長殺しの仇討ちに既に光秀を討ってござる。なのに今になって違うとあっては、秀吉さまが嘘つきとなる‥‥そこで当日、本能寺爆発に居合わせて、また光秀と取って返して火消しをしたお前様が『信長殺しは光秀じゃった』と秀吉様の生き証人となれば、命も助け城も戻してやると仰せられたのよ」と耳打ちした。聞かされた十乗坊がぎょっとしてしまい、「おりゃ今は坊主じゃ。嘘と髪毛は結えぬわえ‥‥そんな本能寺や二条城が爆発した後で京へ来た光秀や秀満殿を犯人にさせられてものかや」。がたがた肩を揺さぶってみせたところ、「情けなや、こなさんは‥‥」と、幸は夫の膝へ爪をあてて抓りあげ、「死んだ信長様や明智光秀、秀満に義理立てして、生きている私を後家にする気かや」。それでも足らずか、肩先へ口まであてて噛みつき、「己の意地が大事か、妻が大事か?」と、次は耳まで噛りつきそうにした。だから、(以前と違うて心優しい事を云うゆえ、つい心を許して一緒についてきたが、こりゃ初めから企みであったらしい)と、ぎょっとしたが、「妻という字にゃ勝てやせぬ」と十乗坊は仕方なく、「秀吉殿の家来となって、その方の云うように致そう」と、ここに全てを断念した。だからこのため、今でも「信長殺しは光秀」と間違えられているのかもしれぬ。 そして、この男は今でこそ知られていないが、「武家事記」、「九州動座記」、「当代 記」に、「天正十五年三月の秀吉九州征伐の時、赤間が関(下関)城は、のち五奉行の増田長盛。そして対岸九州要害門司城の守りは城戸十乗坊」 。つまり、その後は五奉行に匹敵するぐらい、秀吉に重用されていた事も史料に明白である。また、高柳光寿氏の「戦国人名辞典」にも、「城戸十乗坊=佐野下総守といった。本能寺の変後、秀吉に仕え、丹波和田城主」とある。いつの時代でも(妻の内助の功)というのは人聞きはよいが、それは、夫に意地を 捨てさせ女房が安穏な生活をする為にする、つまりは、家庭第一(マイホーム)主義をとる事のようである。 |
(私論.私見)