7章、天下の秘密 |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1175織田信長殺人事件7」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
天下の秘密 |
亀山内藤党 |
美濃御前、奇蝶姫や光秀の娘の於玉は信長殺人事件の悲劇のヒロインともいえるが、全く反対に、これによって幸せになった女も当時はいたのである。勿論どんな素性の者だったか、三十万石の太守の北の方になったから名前は伝わっ ているが、彼女のその他は判らない。 さて、 「どえらいことをやってるでぇ」と、しょっちゅう口癖にしている男とは、彼女も聞いてはいた。まぁ評判たつ男ゆえ顔を知っていた。だが、その変わり者の弥市に、自分が目をつけられていようとは、「佐伊子(さいこ)、佐伊子」と横柄な口調で呼び止められるまで、まさか考えてもいなかったから、ギョッとして、「えっ?」と思わず立ち止まったところ、つかつかと寄ってきて腰を屈め、頭を下げたと思ったら、すくいあげるように被衣の下から、まるで舐め廻すような目つきで覗き見された。 そして、あろうことか、大道の真ん中で、「噂にきいたより、こりゃぁええ女ごじゃ」 とどなられ、「嫁に所望」と喚かれた。恥ずかしさに佐伊子は真っ赤になり逃げ出そうとしたが、動転し息づかいも苦しかった。それなのに無遠慮な大声で、両手をひろげ、「この城の内藤党の娘ッ子の中で、そなたのような掘り出しもんがあるとはしらなんだ。他人にとられては損をする。はよう嫁になれや」とはやし立てていた。黒い顔が烏みたいに無気味で、ギャァギャァ耳へ響いてきた。佐伊子は狼狽し、どうしてよいかわからず、動機打つ胸をこわばらせながら、「お許し下さりませ」とわびを入れた。それなのに相手は、「いや許しはせぬ。あくまでも俺が嫁にする」と大手をひろげて立ちふさがった。「そんな御無体な」と佐伊子は蒼ざめ震えながら後ずさりした。海老蔓の赤黒く染まった叢に足をとられかけると、のしかかるように黒い顔が迫った。「あれえっ」と悲鳴をあげようとしたが、口をあけても声どころか唾も出なかった。(嫁になれ)とは何をされるのかと震えた。ワンワン泣いてしまおうとは思ったが、声が出ないのではと諦めたが、癪だった。どうしてくれよう‥‥(こない暴れ馬でも押さえこむよう両手を拡げてかかってくるのなら、こっちも蹴たぐってやろうかい)と、膝頭に力を入れた。爪先を縮めた。そして、男の急所とはどの辺りかと眼を注いだ時、ダアアンと大きな音がした。弾かれたように佐伊子は叢に腰を落したら、続けてまたダン、ダンと轟いて聞えた。弥市もキッとして耳を立ててふりかえった。「敵襲じゃ」、「寄せてくるぞ」と声がとんだ。 弥市は固唾をのんで立ち上がったが、 「大事なとこ‥‥見えるで」。 名残り惜しそうに言い残して、またばた櫓下へ向かって駆け出した。 「‥‥何が見えるんじゃろ。もう敵が近いのか」。佐伊子も叢からぴょこんと跳ね起きたが、弥市の後ろ姿はもう小さくなって見えた。(いやな奴、虫酸がはしる) 佐伊子は唾を吐こうとしたが、嘔吐までもよおしてきた。「あんな男、死んでしまえ」口中で罵った。(あいつが普段言いふらしている『どえらいことやったる』とは、かねて懸想していた自分に言い寄ってくることだったのか‥‥)佐伊子は呆れて腹が立った。「ずうずいしい不快な男」と、悔し涙を溜め、誰があんな奴の嫁になるものかと誓った。そのうちに弥市の後ろ姿は見えなくなると、佐伊子の気持ちも軽くなり、(あないに想いを寄せ、男がのぼせるほど、私は好い女ごじゃろか‥‥)と心が疼い たが、あんなあつかましい弥市では御免じゃわえと首を振り、大きく溜め息をした。 さて、この天正五年十月十六日の昼下がりから、丹波亀山城は三日三晩にわたって明智光秀と細川藤孝の軍勢に猛烈な攻撃を受けた。これは今を去る四年前、足利十五代将軍義昭が織田信長と戦うにあたって、亀山城主内藤定政を招き、定政は内藤党四千をもって二条城を守りとおし、さすがの信長も攻めあぐみ御所へ頼み込んで、時の関白二条晴良が、勅名にて和解させた時の復讐なのである。つまり、「丹波亀山党の名が天下に喧伝された」のを、それからというもの信長は憎んでいた。だから定政が病死するや直ちに明智・細川に攻めさせたのだ。定政の遺児亀王丸は時に十歳だった。よって家老安村二郎右が内藤党の精鋭をもって旭山に本陣を設け、攻めかかる敵の織田勢を防いだ。「天正元年の二条城の仕返しを、今頃になってしにくるとは卑怯千万なり」。城内は一丸となって戦った。曲輪外に住んでいた佐伊子達も城へ入って怪我人の手当をしたり、時には壁狭間の見張りに立ち、邪魔な女の乳房を固く胸板で締めつけ、矢を射ったり礫石を投げて一致協力して寄手を悩ました。だが、織田信長が向けてきた天下の大軍を迎え、孤立無煙の内藤党がいつまでも戦えはしなかった。それに寄手の明智光秀や細川藤孝というのは、もともと足利義昭の奉公衆で、永禄十一年七月に義昭を朝倉の一乗谷から美濃の立政寺へ移し織田信長に引き合わせた者 共である。今は織田方になっているが、元は先代の内藤定政と同じ室町御所の出身である。そこで、 「悪いようにはせぬから」と細川方から談合の使者が戦の合間に訪れてきた。「内藤亀王丸の一命は誓って助ける」と明智方も約束してきた。だから安村次郎右は、十月二十日に丹波亀山を開城した。当時、丹波攻めの総大将であった明智光秀は氷上、宇津の城を攻める為に信長から、この亀山城を貰い受け、坂本から一族を移し、これを明智の本城とした。つまり内藤党は安村次郎右以下一人残らず、この時から明智光秀の家来にされたのであった。そ して佐伊子は弥市の嫁になってしまっていた。 もともとはこんな筈ではなかったがしようがなかった。嫌だったが事情があった。「和平開城」といえば人聞きはよいが、内藤党は負けて城を取られ、家来にされた立場である。だから進駐軍の明智勢は城内の娘を担ぎ出し馬に乗せて行って嬲りものに した。なにしろ今までの城方の味方の武者奉行が、今度は敵方の女ご集めの奉行早変わり してしまった。差紙をもって、「長屋うちの娘を、何名ずつ差し出すよう」と、女の出陣ぶれ。つまり娘の供出の世話やきをさせられる有様だった。 佐伊子は怖じ気をふるった。間違いないうちにと、好きではなかったが木村弥市右の伜で別居している弥市の許へ縁づいた。つまりは災難除けの為である。ところが男というのは自惚れが強いから、弥市はまさかそうだとは思っていない。「そなたは俺の申し越しを聞き、喜んで嫁にきてくれた女ごじゃ。大事にしたるで」と悦に入っている。しかし、もちろん目にみえては何もしてくれない。銭のかからぬ、ただの口先だけ の喜ばせである。だから佐伊子の方も釣り合いをとって、「わたしとて、お前と一緒になれて、こない嬉しいことないわえ」と、あまり手足は動かさず、唇だけを動かして機嫌をとっていた。というのは、なにしろ、(とかく男女の仲は互いに本心を見せ合ってしまっては長続きしないものだが、体裁ぶって相づちさえうっておけばうまくいく)と、佐伊子は母から教わってきたからである。 それに、本当に好きならまさか恥ずかしくて「好き」とも言い出せないものだが、 佐伊子は根っから弥市を好いていなかったから、その点はだいじょうぶで、あけくれ挨拶するように、「好き、好き」と平気で口に出せたのである。だが弥市はそれを耳にするたびに、にこにこしては、「俺は、幸せだなぁ‥‥」。すこぶる上機嫌だった。「私だって幸せにござります」と、そこでものはついでということもあるから、佐伊子も付け足しを言っては、そっと相手の顔色を見物したものである。(男は不自由なもので、気の向かん相手では、にっちもさっちも身体が言うことをきかんそうだが、その点女ごは重宝にできとる)とは母に言われてきた事だが、全くそのとおりで、佐伊子は嫌いな弥市とも平気で過ごせた。 さて、二年たった天正七年のことである。五年がかりで丹波八上城を明智勢は落した。捕虜にした敵の波多野兄弟を安土へ送っ た。その護送行列に弥市父子もついていった。ところが、戻ってくるなり夫の弥市は改まって、「われら父子は斎藤内蔵介様同心衆になるで」と佐伊子に報告した。何でも、賑やかな安土の城下や七層建築の金銀を散りばめた安土城の壮観さに肝を潰し、他の内藤党のように、いつまでも織田信長を怨んでいては、もう時代遅れであると父子で相談し合ったのだそうだ。「だから信長様の方につくには誰につくがよいか、明智の殿によく奉公するのが上策だが、というて、どうも戦した相手に取り立ててもらうは気が引ける。よって知り合いの取り持ちで斎藤様の手下にとりあえず父子で入れてもろうた‥‥よいか、妻としてその方も心するがよいぞ」。戻ってきていた弥市は熱心にあれこれ話を聞かせたが、(好きでもない男がどうなろうと知ったことか)と佐伊こはあまり耳を貸さず、ただ 「それは、それは」とばかり空返事したものである。 ところが、秋になって四国土佐の高知の浦戸城主長宗我部の跡目に、藤内蔵介の妹が乞われて嫁入りする事になった。 父の弥一右は風采は芳しくないが、丹波者にしては弁口がたつという点を買われ、その嫁入り行列の伴をして行った。伜の弥市もついていった。さて、どんな手柄があったか判らないが、四国へ渡ってから重宝され、色々と役立 つ事をしてきたらしい。戻ってくるなり佐伊子に、「喜べ、ついに同心衆から寄騎扱いに昇進ぞ」と弥市は勇んで褒められようと知らせ に来た。なにしろ内藤党の旧亀山衆は降参した時助命はされたが、扶持は半分以下に減らさ れていた。だから弥市父子も二十貫どりの水呑み武者の身分に零落れていた。が、それが寄騎並となれば、これは馬にも乗れる身分。一躍百貫どりに抜擢されたのである。早速官舎も北向きの一間きりの萱葺きの棟割長屋から、東に面した板屋根の 住居へ引っ越せる事となった。 「この城に居つきの亀山衆で、そなた様の所の父子殿のように出世された方は初めて じゃ‥‥」。みな羨んで弥市の許へ祝いに訪れてきた。「そもそも夫などというものは、嫁の目から見れば、なにも自分が腹を痛めた子でもない、よその女ごが産ましゃった者じゃ。それを喰わせて寝かせて、いくら亭主じゃ からと面倒みるは、こりゃぁ大儀なこと。少しは出世でもして埋め合わせしてもらわな、たまりませぬ」 と、心安い嚊衆には佐伊子は肚の中の気持ちをぶちまけた。そして、(本心を遠慮のうしゃべるは気持ちがええのう)と、つい心が浮ついた。だから、止せばよかったのに、 「この蘇芳の薩摩木綿はわしは派手じゃと思うに、亭主殿が見立てて買うてきなされたのじゃえ‥‥」などと、持ち出してきては拡げてみせたりした。そして、「へぇ」と寄ってきた女達が唸るのをみると、(妬いとるな)とわかったから、つい口から、「ええ亭主殿よ」。声を弾ませ洩らしてしまった事もある。そして云ったあとでは自分でもはっとして狼狽もした。(いつの間に夫の弥市を好いてしもうたか‥‥)自分でも変な気がしてきた。この事を自分一人の胸にはしまっておけず、夫に打ち明けてみたくなった。しかし。「今まで嘘で、これから本心」と断った上で、「好きよ」と改めて言うのは、 ちょっと照れ臭くてどうにも難儀だった。 さて天正十年五月二十六日の事である。近江坂本の支城から、信長様より軍監としてつけられた斎藤内蔵介と明智光秀の殿が馬をとばせ亀山城へやってきた。この年の三月十一日に武田勝頼が田野で生害した後、甲斐の武田領の配分に五月まで携わっていた光秀の殿は、安土の信長様から「在荘」つまり賜暇中と聞いていたので、突然の帰城を「すわっ、何事」と亀山城の者は面食らった。佐伊子も心配した。すると、「なんでも備中攻めの羽柴秀吉様軍勢が、毛利に逆包囲され、危ないと使者が来て、信長様が御自身で出馬。それまでの騒ぎに斎藤様を軍目付にして光秀の殿は名代に御出陣じゃ」 と弥市が斎藤内蔵介のところから教わってきて話をした。 去年八月、因幡攻めの羽柴の軍勢に助勢するため、斎藤内蔵介の率いる三千が出陣し、二月あまり軍旅を共にしたことがある。その折弥市父子も羽柴秀吉に目通りを許され、酒食などをいただいた事があるとか話していた。だからその時の事があるものだからして、弥市は秀吉と内蔵介との間柄を心安く佐伊子に話し、まるで自分が羽柴 勢を助けに行くのだと言わんばかりの口をきいていた。そして、その話しを裏書するよう、内蔵介の兵が煙硝倉の玉薬を叺(かます)に詰め替え、上から桐油紙で厳重に荷拵えされた。とりあえず百駄あまりが荷駄奉行の宰領で縄掛けが始まった。それゆえ城内は慌ただしい空気が渦をまき騒々しくなった。「戦となれば、お前も出陣。無事に早よ戻ってもらわねば、待つ身は辛うてやり切れぬえ」。 何かしら胸騒ぎがするというのか、佐伊子は槍を研がせ戦仕度に余念のない弥市の背に、そっと甘えるように話しかけてみた。好き合って契った仲は、熱が冷めればすぐ仲互いをするというが、佐伊子のように 嫌いで一緒になって、知らぬ間に心引かれだした妻の身は、まるで夫が(想い人)のようにも慕わしくなり始めてきているのである。だから、出陣ともなればとても胸が疼くのだった。それなのに弥市ときたら、前と変わらず、「心配すんな。大丈夫じゃ」。あっけらかんと黒い顔を突き出しては唸っているのである。前はこんな表情を見せられると吐き気がしたが、今では頼もしゅうて頬ずりでもしたくなる。せめてゆっくりしたい一夜を佐伊子は持ちたいものと心に念じてみるようになった。 それゆえ、その願いが神に届いたのか、その夜は陣触れもなく、翌朝、光秀の殿だけが城からも眺められる愛宕山へ行った。(山頂の勝軍地蔵への祈願だけではなく、実は愛宕権現に軍資金の借出しだ)と弥市は教えた。道理で、殿は夜になっても戻らなかった。だからして、「‥‥信長様は行けと御指図はされても銀は下されぬで、仰せを受けた殿様は、金繰り算段が大変にござりまするな‥‥」と寝物語に佐伊子が尋ねれば、「采配や刀などは下さるが、軍資金は自分で賄い、あべこべに信長様へ占領地から色々な貢物を届け、ご機嫌をとるのが殿様衆の仕事。まぁ武力に秀でていても金繰りのつかぬような者では当代ではひとかどの武将にはなれぬ」と弥市は教えてくれて、「愛宕権現で貸出しする銀は、京の吉田山の吉田神道のもの。じゃによって丹波の細川藤孝様などは金融をつけるため長女の伊也姫を一色左兵衛から取り戻し、今では吉 田神社の兼治に嫁にやっとるほどだで‥‥」とも密かに打ち明けてくれもくれた。 次いで、一日おいて、二十九日、煙硝の火薬を入れた叺や長持を積み出し、二百人 程の供揃いで西国向けに輸送隊が馬を曳いて進発した。だが、三草山を越えたあたりで、沛然と大雨が降ってきた。俄雨のような激しい降りだったが、ずうっと止みそうになかった。「荷駄はどうじゃろ。こりゃ幸先が悪い」と亀山城の者は、雨に叩かれながら備中へ向かった者達の事を心配した。降りとおしのまま、二十九日は終わった。この年、つまり天正十年は陰暦ゆえ、この日が月末である。翌六月一日も雨は止まな かった。「愛宕山へ登られたままの光秀殿は、こない降り込められては馬の藁沓が滑って山から降りられもせず、難儀でござりましょう」と伊左子は光秀の下山が明六月二日になれば、出陣もそれからの事じゃろうと思い、(今宵も夫に可愛がってもらおうぞ)と心を弾ませていた。 ところが、暗くなりかけ た頃合、 「ボオウ」「ボオウ」と陣貝が立った。しかし、雨はようやく納まったが、ぐっしょり濡れた山坂を、まさか五十五歳にも なる光秀の殿が血気にまかせて頂上から逆落としに一気に駆け降りて戻って来ようと は考えられもしなかったから、「愛宕から殿はまんだ戻ってみえんじゃろに」 と佐伊子は不足がましく云ったが、「出陣の陣ぶれの貝が立っては、愚図ついてもおられまいが‥‥」と弥市は慌てて父弥一右の許へ駆けつけてしまった。 丹波一万三千はその夜、亥の刻(午後十時)亀山城外から陣立して進発。雨は納ま ったとはいえ、上流からの落水でかさの増した桂川の激流を渡っていいった。二人で戦を遥か遠い備中へ出陣したのだから、一月や二月はもどってくるまいと覚悟していた佐伊子は、翌日の夕方、隊伍を揃えて戻って来た丹波衆を出迎え、眼を丸くしてびっ くりした。だが、もっと驚いたのは城門から入ってきた丹波衆が本丸を取り巻いた事だった。天守閣におられた明智光秀様の長子の十三歳になる十五郎君、九歳の白奇丸君、それに御前様達といった、普段は恐れ多くて拝めなかったような身分の人達が、まるで虜のように外へ連れ出され、近江から付き添いで来ていた衆も一人残らず城門から出さ れてしまったのである。想えば五年前、ここを攻め落として内藤党を降参させてからは、我が物顔に亀山城 に君臨していた連中である。だから亀山衆は、女子供まで城壁へ駆け登って、口々に、「とっと、坂本へ退(い)んでしまえ」と罵り喚き、石を投げ唾を吐きかけた。そして、「丹波亀山は内藤党の手に戻った」と城内の行器倉(ほかい)が開けられ、男共には酒、女子供には米や塩がどんどん配 られた。 が、御当主に仰ぐべく内藤亀王丸様も、既にこの世にはおらず、五年前に内藤党を率いて戦った御城代の安村次郎右殿も、その後は安土へ連れてゆかれてしまい、それっきり戻ってきてはいないのである。そこで寄り合いをした結果が、「俺が親爺様木村弥一右が、御城代となったぞ」と弥市が勇んで佐伊子に教えに来た。「こりゃ、お前様、謀叛じゃろが」。佐伊子は動転してしまい眼を白黒させた。勿論、明智光秀が本城の亀山を奪還しにくるかもしれぬという心配から、大手門は固く閉じこめられ、櫓や壁狭間には鉄砲組が交替で並んで、張り番に立った。弥市が 采配をふるった。だから城内の内藤党の者は密かに、「奥方様」などと佐伊子の事を呼んだ。むずむずするくらいに嬉しかったが、その反面心配で生きた心地もなかった。「‥‥明智光秀様に謀叛をしたら、その背後には安土の天下御威光が控えていよう。恐ろしゅうはないのかえ? 織田信長様が‥‥」と佐伊子が震えながら訴え出れば、「その信長様なら既にもう京の本能寺でふっとんでござるわ」と弥市は苦笑した。「信長様が死なれても、京には武田征伐から戻ってござって妙覚寺に御滞在中のお跡目の岐阜中将の織田信忠様もいなさるがね‥‥」。重ねて佐伊子が言葉を継ぎ足すと、夫は、「その信忠様も、もはや二条御所で焼け死んで、もうこの世の人ではない」と手柄顔をした。「えっ、それでは六月一日の夜、ここを出立して行きなすった丹波衆は備中へ向かわんと大江山越しに、細川番所のある老の坂の関を越え、山崎街道から京へ行かれたの か?」。「そうじゃ。まだ、真っ暗な京の町へ入った‥‥」と、弥市は赤い眼をしばたいた。「そんで、四条西洞院にある本能寺を攻めなされたのかえ?」。「攻めとりゃあせん。囲んだきりじゃ」。しどろもどろに答えた。「でも、信長様を殺したのじゃろが‥‥」と責めたてると、「殺しゃあせんわ。癇性な信長様が自分で本能寺に火付け爆裂させて勝手に死んだのだえ」。「なんでやぁね」。佐伊子は首を前に出した。さっぱりわけが判らなかったからだ。「考えてもみんかい。俺達丹波衆一万三千は弓鉄砲まで揃えた武者衆。本能寺は四方に一間巾の濠があって、その浚え土で土居を高くしたきりの、まだ塀もない一町四方のたかが寺ではないか。城や砦とは違う。ワアッと雪崩込んだら、息をつく間もなく 占領できるで‥‥それに客殿の信長様の周囲には安土からの小姓三十名。あとは向い邸の京所司代村井道勝差し出しの手伝いの女ご衆。築地の厩小屋に馬の口とりしてきた中間どもが三十一人。どれも着流しで胴鎧さえ持っとらん。武器とて、おそらく信長様の調度道具として弓を一張に槍の一本もあったらええとこじゃったろう」と、焼死体を調べてきたという弥市は詳しく話をした。そこで、「じゃぁ、戦わずか?‥‥」と聞き直してみると、「当り前じゃ」。それに答えられた。だからして、「あの、お気の強い信長様の事ゆえ、かなわぬまでも弓を引き、弦が切れたら大身の槍をふるい防げるだけは戦って、後は小姓衆に任せて御生害なされたものと思うとりましたになぁ‥‥」。「そない事が起きようか。物の道理を考えるがよい。真っ暗なうちから囲んで、本能寺が爆発したのは卯の刻(午前八時)。つまり四時間のあまりも本能寺が女子供で防げたというのは、つまるところは戦をしなかったからじゃ‥‥もし戦をやっとってみい、その昔、信長を震え上がらせた内藤党じゃ。我らはゴホンと咳払い一つで捻り潰し、夜明けとともに同時に片をつけてしまい、信長様のそっ首も、ちゃんと槍の先に団子刺しにして持ち帰ったわい」と威張って教えた。「じゃぁ何で、丹波衆は囲んだきり、戦をせんと待って居られたのかえ?」。「そないな事、俺如きが知るものか。おおかた光秀の殿でも待っておったのじゃろ」。「では、明智の殿を愛宕山に置きっぱなしで、丹波衆は勝手に昔の内藤党時代の仇をとらしたのかえ?」と佐伊子が眼を丸くすれば、「どうじゃろな‥‥」と弥市はすっとぼけ、「癇性を起した信長様が爆死されたゆえ、我らはそれから二条御所へ押し寄せ、親王様に引っ越しをしてもろうてから、今度は、やけくそで妙覚寺から移って立てこもっ とった織田信忠様を攻めたてたところ、やはり爆発してしもうたのじゃえ‥‥そんで、 坂本衆三、四千を率いて明智光秀様が泡くって着到という知らせがあったから、そんで面倒じゃから我らは早仕舞いし胡麻峠越しに引き上げてきたのよ」と口にした。「それ程の天下の大事、まさか内藤党だけの才覚とも考えられぬ。誰が黒幕じゃ?京洛の入り口の桑田・船井二郡を領地にし、老の坂に関所を設け、番をしとるなさる長 岡(細川藤孝)様が、みすみす丹波衆一万三千の不法侵入を見過ごしているからには、やはり一味なのかえ?」。心配して佐伊子は尋ねたのだが、弥市は、「そない天下の秘密‥‥誰の指図でやったかは、口が裂けても喋れるものか」と喰いつきそうな物凄い顔で叱りつけてきた。 その後、坂本から何度も顔見知りの者が使者にやって来た。 佐伊子は直接に耳にしたわけではないが、なんでも (しでかしてしまった事はもはや取り返しもつかぬから、一切を明智光秀殿が肩代わりする。そのかわり内藤党を主にした丹波亀山兵は、これまでのように光秀の指揮下 に入るように‥‥)との訓令だそうであった。しかし、新しく城代になった弥市の父は、その度に内藤家の下がり藤の旗を見せ、「我らの立場は五年前に戻っておりまする。もはや明智殿の命令は聞けぬ。独立してござる」 と、にベもなく追い返しているという。だから伝え聞いた佐伊子は案じて、「このたびの変事の後始末を光秀の殿がして下さるというのなら、やはり従来どおり に御下知に従うのがよいのではないかえ?」と夫の弥市に進言し、できるだけ諌めてみた。 なにしろ信長様には、伊勢にいる織田信雄、信孝様の他にも多くの子息が残っている。それに上杉勢と戦って北国にいる柴田勝家。上州には敢闘管領として赴いている 滝川一益。両手の指だけでは数え切れぬくらい数が多い。ところが悲しい事に、軽輩の弥市や舅は知り合いもない。強いて捜し出せば播磨で 滞陣中に盃を賜った事があるという羽柴秀吉だが、まさかそれくらいの縁では助けも求められない。逆に備中から取って返して攻めてくるかもしれない。そうなっては、いくら内藤党が強いといっても、また五年前と同じ落城の憂き目。あの時は、ただ寄手の足軽どもが狼藉をし、女ご共を担ぎだしていっては慰みものにしただけだったが、今度はそれくらいの災難ではすみそうもない、何といっても、「信長様殺し」という大罪がある。佐伊子は夜も心配で寝られなかった。今、城代などをうかつにやらされている舅はもとより、縁につながる夫の弥市も、いずれは「謀叛人」として捕えられてしまうだろう。そりゃ信長様は本能寺で爆死されたゆえ、直接の下手人ではないが、そんな言い訳は通りもしまい。なまじ弁解すれば、「命惜しさの未練者」と嗤(わら)われるが関の山だろう。夫も他の内藤党と共に高 手小手に縛られて、きっと京へ引き立てられるだろう。そしておそらく本能寺の焼け 跡にでも林のように十字架を立て並べ、そこへ夫は釘で手足を打ち込まれ、血まみれ になって晒される。そして情け容赦なく錆槍で左右から突き刺され、ぐるっと穂先を捻って殺される。(そうなれば、この身は残ったとて何となる) 何日もじっと佐伊子は一人で思案に思案を重ねた。きっと目の玉の黒いところに磔柱 が刻みこまれるように残るだろうとはまず考えられた。そんな血みどろになって悶え 死ぬ夫の哀れな幻を、いつまでも眼に浮かべ、その目の玉から涙をこぼして、自分が 泣き明かすのは想像するだけでも難儀だった。(共に契りを結んだからには、何事も許し合い、共に励まし合ってゆくのが女夫ならば、やはり自分も夫と共に一緒に死のう)と佐伊子は思った。柱に釘で打ち込まれるのが痛いなら、夫と共にその苦しみを味わうべきだし、槍で抉られるが辛ければ、それも夫と一緒に堪え忍ぶことこそ真の女夫じゃと料簡した。「覚悟はしとります。攻め込まれ捕えられたら、三尺高い木の空で、お前とにっこり笑い合い、地獄の底まで参じましょう」と決心をつけたから、夫に話してみた。「ほう‥‥俺と一緒に地獄へ落ちるのか?」。聞き返したものの、弥市もそれなり口をつぐんで黙りこくってしまった。「‥‥舅様は明智の殿と手を切られ、この丹波亀山城を独立させてござりまするが、 孤立無援では所詮我らが命運も定まっておりましょう。なぁ、死ぬときは足手纏いでも、この佐伊子をちゃんと伴うて下さりませ‥‥一人でこの世に残るのは嫌でござり ます」。側へにじりよって頼み込むと、「そない事言うて、本当にそなたは俺を死んでゆけるかえ?」。烏天狗みたいな尖った鼻を夫は向けた。だから、「その口のきき方は、まるで疑っていなさるみたい‥‥」と恨めしさに涙が吹きこぼれた。「互いに面白おかしく興じ合って愉しむは、気の合った相手となら誰とでもできること。だが、共に死んでゆけるは、これはなんと申せ、ただ女夫のえにしを契り合った二人だけにしかできぬこと‥‥違いまするか?」と、せっつけば、「‥‥うん」。弥市もうなずいたが、顔を横に向けた。伊佐子がそっと覗きこむと涙が見えた。「お前様ぇ」 。伊佐子は夫の膝に縋って、たった今からでも自分は一緒に死ねると思った。 六月十七日になって、徳川家康が本陣を尾張の鳴海、先手の酒井忠次は木曽川の一宮まで三万の軍勢で迫ったと伝わった。伊佐子はびっくりして(さては信長様を死なせた真の下手人が光秀ではなく内藤党と露見し、それでこの亀 山城へ押し寄せてくるのか)と蒼ざめた。だが、秀吉方本陣まで出かけていき、戻ってきた堀尾茂助の話によると、「羽柴方から使者がたって、既に十三日に光秀を討ち、上様の弔い合戦は済んでござると知らせたら、未練そうに一日は滞陣したが、翌日には徳川勢はみな引き上げて行きおった」ということ。伊佐子はやれやれとほっとした。しかしである。(十二日からの山崎合戦でさえ十七日になっても尾張まで出陣してきていた家康の耳 へ届かなかったというのに、よくも六月二日の本能寺の変が、遠い備中高松攻めの秀吉の耳へ、翌早朝に届き、すぐに毛利方と談判して至急引き上げて来られたものよ)と、すっかり感心させられた。だから、神様のような秀吉様に夫が仕えるならば、きっと天にまします神々の御加 護もあろうかと、やっと佐伊子は愁眉をひらいた。また実際、霊験あらたかな神の恩寵はすぐにあった。千五百石どりの堀尾茂助が亀山の城番に任命され、新たに丹波黒江三千五百石を加増 され五千石になったのには、とても及びもつかないが、これまで百貫武者だった父子に、舅は二千石、弥市も千石という破格な沙汰が出たのである。 一年おいて、天正十二年。小牧長久手合戦に出動すると、格別なんの働きもなかっ た父子なのに、倍額の加増を又も賜った。舅は「京町奉行」の大役を授かり、弥一右の名も「木村伊勢守吉晴」と改め、御所へ参内し従五位の上を賜り、弥市も「木村清久」と改名し、従五位下に任ぜられる果 報な事になった。 |
(私論.私見)