6章、二人で戦を

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 二人で戦を
 遥か遠い備中へ出陣したのだから、一月や二月はもどってくるまいと覚悟していた佐伊子は、翌日の夕方、隊伍を揃えて戻って来た丹波衆を出迎え、眼を丸くしてびっ くりした。だが、もっと驚いたのは城門から入ってきた丹波衆が本丸を取り巻いた事だった。天守閣におられた明智光秀様の長子の十三歳になる十五郎君、九歳の白奇丸君、それに御前様達といった、普段は恐れ多くて拝めなかったような身分の人達が、まるで虜のように外へ連れ出され、近江から付き添いで来ていた衆も一人残らず城門から出されてしまったのである。

 想えば五年前、ここを攻め落として内藤党を降参させてからは、我が物顔に亀山城に君臨していた連中である。だから亀山衆は、女子供まで城壁へ駆け登って、口々に、「とっと、坂本へ退(い)んでしまえ」と罵り喚き、石を投げ唾を吐きかけた。そして、 「丹波亀山は内藤党の手に戻った」と城内の行器倉(ほかい)が開けられ、男共には酒、女子供には米や塩がどんどん配られた。が、御当主に仰ぐべく内藤亀王丸様も、既にこの世にはおらず、五年前に内藤党を 率いて戦った御城代の安村次郎右殿も、その後は安土へ連れてゆかれてしまい、それっきり戻ってきてはいないのである。

 そこで寄り合いをした結果が、「俺が親爺様木村弥一右が、御城代となったぞ」と弥市が勇んで佐伊子に教えに来た。「こりゃ、お前様、謀叛じゃろが」。佐伊子は動転してしまい眼を白黒させた。勿論、明智光秀が本城の亀山を奪還しにくるかもしれぬという心配から、大手門は 固く閉じこめられ、櫓や壁狭間には鉄砲組が交替で並んで、張り番に立った。弥市が采配をふるった。だから城内の内藤党の者は密かに、「奥方様」などと佐伊子の事を呼んだ。むずむずするくらいに嬉しかったが、その反面心配で生きた心地もなかった。「‥‥明智光秀様に謀叛をしたら、その背後には安土の天下御威光が控えていよう。恐ろしゅうはないのかえ?織田信長様が‥‥」と佐伊子が震えながら訴え出れば、「その信長様なら既にもう京の本能寺でふっとんでござるわ」と弥市は苦笑した。「信長様が死なれても、京には武田征伐から戻ってござって妙覚寺に御滞在中のお跡目の岐阜中将の織田信忠様もいなさるがね‥‥」。重ねて佐伊子が言葉を継ぎ足すと、夫は、「その信忠様も、もはや二条御所で焼け死んで、もうこの世の人ではない」と手柄顔をした。「えっ、それでは六月一日の夜、ここを出立して行きなすった丹波衆は備中へ向かわんと大江山越しに、細川番所のある老の坂の関を越え、山崎街道から京へ行かれたのか?」、「そうじゃ。まだ、真っ暗な京の町へ入った‥‥」と、弥市は赤い眼をしばたいた。「そんで、四条西洞院にある本能寺を攻めなされたのかえ?」、「攻めとりゃあせん。囲んだきりじゃ」しどろもどろに答えた。「でも、信長様を殺したのじゃろが‥‥」と責めたてると、「殺しゃあせんわ。癇性な信長様が自分で本能寺に火付け爆裂させて勝手に死んだの だえ」、「なんでやぁね」。佐伊子は首を前に出した。さっぱりわけが判らなかったからだ。「考えてもみんかい。俺達丹波衆一万三千は弓鉄砲まで揃えた武者衆。本能寺は四方に一間巾の濠があって、その浚え土で土居を高くしたきりの、まだ塀もない一町四方のたかが寺ではないか。城や砦とは違う。ワアッと雪崩込んだら、息をつく間もなく 占領できるで‥‥それに客殿の信長様の周囲には安土からの小姓三十名。あとは向い邸の京所司代村井道勝差し出しの手伝いの女ご衆。築地の厩小屋に馬の口とりしてきた中間どもが三十一人。どれも着流しで胴鎧さえ持っとらん。武器とて、おそらく信長様の調度道具として弓を一張に槍の一本もあったらええとこじゃったろう」と、焼死体を調べてきたという弥市は詳しく話をした。そこで、 「じゃぁ、戦わずか?‥‥」と聞き直してみると、「当り前じゃ」。それに答えられた。だからして、「あの、お気の強い信長様の事ゆえ、かなわぬまでも弓を引き、弦が切れたら大身の槍をふるい防げるだけは戦って、後は小姓衆に任せて御生害なされたものと思うとりましたになぁ‥‥」、「そない事が起きようか。物の道理を考えるがよい。真っ暗なうちから囲んで、本能寺が爆発したのは卯の刻(午前八時)。つまり四時間のあまりも本能寺が女子供で防げたというのは、つまるところは戦をしなかったからじゃ‥‥もし戦をやっとってみい、その昔、信長を震え上がらせた内藤党じゃ。我らはゴホンと咳払い一つで捻り潰 し、夜明けとともに同時に片をつけてしまい、信長様のそっ首も、ちゃんと槍の先に 団子刺しにして持ち帰ったわい」と威張って教えた。「じゃぁ何で、丹波衆は囲んだきり、戦をせんと待って居られたのかえ?」、 「そないな事、俺如きが知るものか。おおかた光秀の殿でも待っておったのじゃろ」、「では、明智の殿を愛宕山に置きっぱなしで、丹波衆は勝手に昔の内藤党時代の仇をとらしたのかえ?」と佐伊子が眼を丸くすれば、「どうじゃろな‥‥」と弥市はすっとぼけ、「癇性を起した信長様が爆死されたゆえ、我らはそれから二条御所へ押し寄せ、親王様に引っ越しをしてもろうてから、今度は、やけくそで妙覚寺から移って立てこもっとった織田信忠様を攻めたてたところ、やはり爆発してしもうたのじゃえ‥‥そんで、 坂本衆三、四千を率いて明智光秀様が泡くって着到という知らせがあったから、そんで面倒じゃから我らは早仕舞いし胡麻峠越しに引き上げてきたのよ」と口にした。「それ程の天下の大事、まさか内藤党だけの才覚とも考えられぬ。誰が黒幕じゃ?京洛の入り口の桑田・船井二郡を領地にし、老の坂に関所を設け、番をしとるなさる長岡(細川藤孝)様が、みすみす丹波衆一万三千の不法侵入を見過ごしているからには、 やはり一味なのかえ?」。心配して佐伊子は尋ねたのだが、弥市は、「そない天下の秘密‥‥誰の指図でやったかは、口が裂けても喋れるものか」と喰いつきそうな物凄い顔で叱りつけてきた。

 その後、坂本から何度も顔見知りの者が使者にやって来た。 佐伊子は直接に耳にしたわけではないが、なんでも (しでかしてしまった事はもはや取り返しもつかぬから、一切を明智光秀殿が肩代わりする。そのかわり内藤党を主にした丹波亀山兵は、これまでのように光秀の指揮下 に入るように‥‥)との訓令だそうであった。しかし、新しく城代になった弥市の父は、その度に内藤家の下がり藤の旗を見せ、「我らの立場は五年前に戻っておりまする。もはや明智殿の命令は聞けぬ。独立して ござる」と、にベもなく追い返しているという。だから伝え聞いた佐伊子は案じて、「このたびの変事の後始末を光秀の殿がして下さるというのなら、やはり従来どおりに御下知に従うのがよいのではないかえ?」と夫の弥市に進言し、できるだけ諌めてみた。

 なにしろ信長様には、伊勢にいる織田信雄、信孝様の他にも多くの子息が残っている。それに上杉勢と戦って北国にいる柴田勝家。上州には敢闘管領として赴いている滝川一益。両手の指だけでは数え切れぬくらい数が多い。ところが悲しい事に、軽輩の弥市や舅は知り合いもない。強いて捜し出せば播磨で滞陣中に盃を賜った事があるという羽柴秀吉だが、まさかそれくらいの縁では助けも 求められない。逆に備中から取って返して攻めてくるかもしれない。そうなっては、いくら内藤党が強いといっても、また五年前と同じ落城の憂き目。あの時は、ただ寄手の足軽どもが狼藉をし、女ご共を担ぎだしていっては慰みものに しただけだったが、今度はそれくらいの災難ではすみそうもない、何といっても、「信長様殺し」という大罪がある。佐伊子は夜も心配で寝られなかった。今、城代などをうかつにやらされている舅はもとより、縁につながる夫の弥市も、いずれは「謀叛人」として捕えられてしまうだろう。そりゃ信長様は本能寺で爆死さ れたゆえ、直接の下手人ではないが、そんな言い訳は通りもしまい。なまじ弁解すれば、「命惜しさの未練者」と嗤(わら)われるが関の山だろう。夫も他の内藤党と共に高 手小手に縛られて、きっと京へ引き立てられるだろう。そしておそらく本能寺の焼け跡にでも林のように十字架を立て並べ、そこへ夫は釘で手足を打ち込まれ、血まみれになって晒される。そして情け容赦なく錆槍で左右から突き刺され、ぐるっと穂先を捻って殺される。(そうなれば、この身は残ったとて何となる) 何日もじっと佐伊子は一人で思案に思案を重ねた。きっと目の玉の黒いところに磔柱が刻みこまれるように残るだろうとはまず考えられた。そんな血みどろになって悶え 死ぬ夫の哀れな幻を、いつまでも眼に浮かべ、その目の玉から涙をこぼして、自分が泣き明かすのは想像するだけでも難儀だった。(共に契りを結んだからには、何事も許し合い、共に励まし合ってゆくのが女夫ならば、やはり自分も夫と共に一緒に死のう)と佐伊子は思った。柱に釘で打ち込まれるのが痛いなら、夫と共にその苦しみを味わうべきだし、槍で抉られるが辛ければ、それも夫と一緒に堪え忍ぶことこそ真の女夫じゃと料簡した。「覚悟はしとります。攻め込まれ捕えられたら、三尺高い木の空で、お前とにっこり笑い合い、地獄の底まで参じましょう」と決心をつけたから、夫に話してみた。「ほう‥‥俺と一緒に地獄へ落ちるのか?」。聞き返したものの、弥市もそれなり口をつぐんで黙りこくってしまった。「‥‥舅様は明智の殿と手を切られ、この丹波亀山城を独立させてござりまするが、 孤立無援では所詮我らが命運も定まっておりましょう。なぁ、死ぬときは足手纏いでも、この佐伊子をちゃんと伴うて下さりませ‥‥一人でこの世に残るのは嫌でござり ます」。側へにじりよって頼み込むと、「そない事言うて、本当にそなたは俺を死んでゆけるかえ?」。烏天狗みたいな尖った鼻を夫は向けた。だから、「その口のきき方は、まるで疑っていなさるみたい‥‥」と恨めしさに涙が吹きこぼれた。「互いに面白おかしく興じ合って愉しむは、気の合った相手となら誰とでもできること。だが、共に死んでゆけるは、これはなんと申せ、ただ女夫のえにしを契り合った二人だけにしかできぬこと‥‥違いまするか?」と、せっつけば、「‥‥うん」。弥市もうなずいたが、顔を横に向けた。伊佐子がそっと覗きこむと涙が見えた。「お前様ぇ」。 伊佐子は夫の膝に縋って、たった今からでも自分は一緒に死ねると思った。

 六月十七日になって、徳川家康が本陣を尾張の鳴海、先手の酒井忠次は木曽川の一宮まで三万の軍勢で迫ったと伝わった。伊佐子はびっくりして(さては信長様を死なせた真の下手人が光秀ではなく内藤党と露見し、それでこの亀山城へ押し寄せてくるのか)と蒼ざめた。だが、秀吉方本陣まで出かけていき、戻ってきた堀尾茂助の話によると、「羽柴方から使者がたって、既に十三日に光秀を討ち、上様の弔い合戦は済んでござると知らせたら、未練そうに一日は滞陣したが、翌日には徳川勢はみな引き上げて行きおった」ということ。伊佐子はやれやれとほっとした。しかしである。(十二日からの山崎合戦でさえ十七日になっても尾張まで出陣してきていた家康の耳 へ届かなかったというのに、よくも六月二日の本能寺の変が、遠い備中高松攻めの秀吉の耳へ、翌早朝に届き、すぐに毛利方と談判して至急引き上げて来られたものよ)と、すっかり感心させられた。

 だから、神様のような秀吉様に夫が仕えるならば、きっと天にまします神々の御加 護もあろうかと、やっと佐伊子は愁眉をひらいた。また実際、霊験あらたかな神の恩寵はすぐにあった。千五百石どりの堀尾茂助が亀山の城番に任命され、新たに丹波黒江三千五百石を加増され五千石になったのには、とても及びもつかないが、これまで百貫武者だった父子 に、舅は二千石、弥市も千石という破格な沙汰が出たのである。一年おいて、天正十二年。小牧長久手合戦に出動すると、格別なんの働きもなかった父子なのに、倍額の加増を又も賜った。舅は「京町奉行」の大役を授かり、弥一右の名も「木村伊勢守吉晴」と改め、御所 へ参内し従五位の上を賜り、弥市も「木村清久」と改名し、従五位下に任ぜられる果 報な事になった。





(私論.私見)