8章、踊る阿呆に見る阿呆

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1177織田信長殺人事件9」、「1178織田信長殺人事件10」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 踊る阿呆に見る阿呆
 野党蜂須賀小六
 「どうも、世の中は間違っとるんじゃあるまいか」。蜂須賀党の首領小六正勝は、次弟の甚右信、末弟の七内正元を見渡しながら、穀粒が髯につく粟の白酒の土器を持ち上げていた。初め美濃の斎藤道三に仕えれば、これが討死。そこで失業のあげく尾張岩倉の織田伊勢守に奉公すれば、これまた永禄二年(155 9)三月、織田信長に攻められて落城。やむなく次ぎは犬山城主の織田信清に蜂須賀小六は仕官した。もともと信清というのは、信長の父信秀の弟の信康の子で、信長とは従弟にあたる。だから、まさか今度の犬山城は信長に攻められはしまいと、高をくくっていたら、「二度あることは三度ある」というが、永禄七年夏。信清の妻の異母兄にもあたるのに、信長はまたしても攻め寄せてきた。そこで蜂須賀は最期まで踏みとどまって戦ったがとうとう落城。もともとこの犬山城というのは当時は南よりの木下村にあって、その頃までは、「木下城」といった。つまり、その昔は木下藤吉郎の嫁になっている寧子の親の木下助左の祖父が城代をしていた城なので、信長は落とした後で木下党に預けた。そこで 木下助左から 「蜂須賀党も、この際ひとつ仕えぬかや」と誘われはしたが、小六は憤然として、「昔の木下城の頃なら、いざ知らず、現在のおまえさまはただの清洲城の御武者奉公にすぎぬではないか‥‥」。負けたくせに言いたいことを口にして一族をまとめ、さっさと本貫地の蜂須賀へ戻っていた。つまり又しても失業中で、少々ぐれていたのである。

 さて、「真書太閤記」というのがある。十二編で三百六十巻のものである。当時の事んだので版行に先立って縁故のありそうなところを廻って、前もって予約販売の恰 好で前金を貰い歩いた。この時阿波の蜂須賀家の江戸屋敷でも応分の金子を出した。だから、「真書太閤記」の中では、 「蜂須賀小六正勝というのは、犬山の信清(信康)の子の信安(信清)につかえ、しばしば戦功をあげた足利修理太夫高経の末孫にして」といった具合に金を出しただけの事にはなっている。  ところが、この後になって、「絵本太閤記」という、目で楽しませる型の本の出版 が企画された。 また、見た四国町の蜂須賀家の江戸中屋敷へ、版元が金貰に出かけていった。ところが蜂須賀家にとってまことに運の悪いことに、この先年から南八丁堀にも中屋敷ができ、御留守居役が二派に分かれていた。しかし、阿波徳島二十万七千九百石で、「従四位侍従、大広間詰」の格式だから、「些細だが、よく書いてくれ」と十両か二十両をポンと投げ出せば、それでも済むの に、「如何に取り扱いましょうや?」と責任逃れに留守居の者が鍛冶屋橋御内の上屋敷の当時出府中の阿波守に伺いをたてた。「踊る阿呆に踊らぬ阿呆、どうせ出すなら早うせにゃ損々」の御国柄ゆえ、殿様から、「よきにはからえ」と言われたときに、よきに善処して、出すものを早く渡せばよかったのに、「前の時にも応分の金を出したが、御当家先祖の小六正勝様は、ほんの刺身のツマで、されは日吉丸の本じゃった」といった意見が江戸勤めの重役から出た。

 まだ当時の事ゆえ、「紙の暴力」だの「マスコミの脅威」といことを知らなかった せいもあろう。しかし、版元にしてみると、せっかく顔をだしたのに、「まぁ、百部くらいは予約していただけよう」という皮算用が外れてしまった。そこで、「構ったことはねぇ、悪役にしちまえ」ということになってしまって、本は出版された。そこで、岡崎の矢矧(やはぎ)川の橋の上で、「やいやい、大人と子供の区別はあっても、同じ人間だっ。よくも足を踏んでおいて一言のわびもいわぬとは、なんだっ」と日吉丸にすごまれた蜂須賀小六がぎょぎょと驚き狼狽。「俺様を誰だと思う‥‥こう見えても賊徒の張本人日本駄右衛門。。。じゃない小六 様だぞ」と睨みつける大人げない場面が、見開き二面の挿絵になり小六は悪党面にされてしまった。

 ところが、この岡田玉山の絵本太閤記が当時のベストセラーになってよく売れた。だから殿中で、「‥‥松平阿波さまの御先祖は、強盗団の首領でござったというが、まことでござる か?」などと絵本の方を歴史そのものと思い込む者が今も昔も多かったからして直接 に聞く者もいる。「余は不快なるぞ、それなる絵本太閤記なるものを、そっくり買い占めてしまえ」と、蜂須賀の殿様松平阿波守は激怒した。そこで在府の家臣どもは江戸市中を廻り、「これこれ、絵本太閤記なる本はないかや」と片っ端から家臣どもは背負って帰る。「‥‥いくら刷っても、こりゃ売れる。驚異的ベストセラー」というので、版元の方では次々と刷りまくっては売り出す。洛陽の紙価を高めるというが、これでは鼬(い たち)ごっこできりがない。

 そこで日本橋亀島の藍玉問屋で蜂須賀家へ出入りの者が仲に入り、「版木一切譲渡 し」ということで話をつけ、「絵本太閤記」というのは絶版にして蜂須賀家で買い取 ることになった。が、それでも、よく売れるからと密かに出版されたので、公儀に訴え出たからして、文化元年には出版禁止となり、岡田玉山は手鎖、版元は罰金にしょせられた。「一文惜しみの百文失い」という言葉があるが、この騒動で蜂須賀家が費用を使った のは莫大なもので、このため、幕末になっても藩庫が空っぽで、同じ四国でも土佐の山内容堂などは活躍したが、蜂須賀侯は阿呆踊りでもやらせて、それで憂をはらすしかなかった。
今日、名前だけは有名だが、「絵本太閤記」の当時の現物が稀にしかなく、明治の再刻本しかないのは、蜂須賀家で買ってきては片っ端から焼き棄ててしまったためでもある。

 さて、嘉永に入って、英船浦賀、露船下田、ペルリ来朝という時勢になってきて、 この国難に対し、「英雄待望論」が起きた。そこで栗原柳庵が、「真書太閤記」や 「絵本太閤記」を種本にして又書いた。これが、「重修太閤記」という名のもとで又 も脚光を浴びた。今日いわゆる「太閤記」といわれるのはこれである。もはや蜂須賀家でも、「手が付けられん」と放りっぱなしにした。柳庵も、「矢矧川の橋の上」は見せ場だから、やはり蜂須賀小六を野盗の首領には したが、「殿っ」というように日吉丸に呼ばせ、ここで恰好をつけることにした。しかし、一度ひろまってしまった火はなかなか消せない。そこで大正時代に入って 蜂須賀侯爵家が先祖の汚名をそそごうと、当時は歴史学の泰斗渡辺世祐博士に大金を出して依頼した。博士は「天文日記」「美濃明細記」「渭水(いすい)聞見録」「阿波徴古(ちょう こ)」の他に、天文十六年九月二十五日の、「伊勢御師(おんし)福島四郎右衛尉(うえのじょう)宛文書(もんじょ)」をもとにして、「この国の取り合いの儀につき、神前に懇ろにお祈り下され、おはらい大麻に御意をかけられ謹んで有難く(御護符及び長鮑(のし))を頂かして貰います。去る十七日に 合戦に及び武藤掃部助を始め数名を討ち、その後、関(関孫六で有名)へ敵が押し寄せてきましたゆえ、すぐ切り崩し、大谷とか蜂須賀などと申す輩も数多く討ちもうした」 という斎藤道三が御賽銭につけて報告した織田信長の父の信秀との合戦の文書の中に 「蜂須賀」という名のあるのをとりあげ、「これは小六の伯父で仲の悪かった小太郎 正忠の方であろう。つまり蜂須賀というのは賊徒ではなくれっきとした武者の家である」 と説明し、次に「蜂須賀家」の伝承では、「わが蜂須賀家の祖というのは、室町御所より任命されていた尾張管領の斯波家の大和守広昭の次子である小六正昭で、この孫が小六正勝その人である」といった記載もなし、由緒正しき名門であるかとのごく、故渡辺博士はしている。しかし名門にしろ 野盗にしろ、失業すれば当時は失業保健もなかったし、失業対策もなかったから、蜂須賀党は困っていた。「どうせやるなら、でっかい事やろう」 次男の甚右が尖った顔をつきだし、肩をいからせた。だが蜂須賀小六はただ一言、「阿呆っ」といったきり、伸びた鼻毛をつまんで引っこ抜いた。掌へのせてプウッと 吹いた。外も風が強く、柏の木から落葉がザワザワ雨のように音をさせ降っていた。「蜂須賀党と申しても‥‥一族郎党合わせて三十名もいない今、たわけた事を口にするな」。 渋い顔で小六は甚右を戒めたが、「頭じゃ‥‥ここは生きとるうちに使うに限るで」言われた方は、自分の頭を叩いてみせた。「おぬし、自分で利口と思うとるんか?」びっくりしたように末弟の七内が叫べば、「あったり前じゃが‥‥」。甚右は当然な顔をしてみせた。そこで小六は情けないとい う表情で、「うぬは女ごと同じじゃのう」と歎息し、「たいていの世の女ごは、顔や形は川べり に立って水鏡に映してみても、まぁ良いか悪いかは否応なしに自分でもわかる。が、 頭の中身は、こりゃ唐渡りの銅鏡で照らし返してみても見えるもんじゃない‥‥そこで、それを良いことにどの女も自分では皆賢いと思い込んでいるようじゃが‥‥甚右もふぐりがないのではないか」と笑いとばした。「‥‥見せようか」と甚右はむくれて本当にめくりかけた。が、「そないものは見せんでもよい。珍しくもない」。広げかけた甚右を叱りつけた。すると、「ならば、ずばり本題を云おう‥‥」。下は閉じたが甚右は口をあんぐりあけた。「織田信長めは清洲より小牧に移り、余年かかりの美濃攻めに成功し、これまでの斎 藤家の井の口城を岐阜城と改め、本丸を新たに増築中じゃ‥‥よって、そのどさくさにまぎれ人夫に化けてもよいから潜り込み、なんとか城をせしめてしまう算段を、俺はしているのじゃ」、 「そうか、城取り・・か」。小六も少し乗り気になった。しかし、「うん、悲しいかな、今の蜂須賀党では無理じゃろ‥‥30や50人では何もできま いて」 。また鼻毛を引っこ抜いてプッとふいた。野分けの風もピューと吹いてきて表の板戸を 鳴らした。「また寒うなる‥‥伊吹おろしじゃろ」。七内は首をすくめて一人で唸った。そんな木枯らしが日増しにひどくなって、バタバタ板戸が鳴り続くような年の暮近く、「‥‥蜂須賀党にとって、織田信長というのは宿敵のようなもの。じゃによって我らに味方なされ。美濃一国を奪還した暁には、しかるべき地にて望みの侭の知行を下さる‥‥と、そない斎藤右兵衛大輔(うひょうえのたゆう)さまは仰せられる」と勧誘 がきた。

 ふいをつかれてというより、美濃三人衆に裏切られて、なすところもなく長島へ落ち延びた前の美濃国主の斎藤竜興が、長島河内の一向門徒の援助を得て、また攻め込んできたから、ぜひとも加勢するようにという使者であった。「美濃人の美濃へ‥‥これは祖国復帰運動でござるぞ」と、その使いの坊主は、「打倒信長、ナンマイダ」と叫んだ。しかし、斎藤竜興というのは、蜂須賀党を可愛がってくれても、経済的には気持ちも傾くが、感情の上では、どうしても手も出せない。「‥‥渇して盗泉の水は呑んでも、故斎藤道三入道様の仇敵めに味方できるものか」と息まく小六に他の弟共も同感を示した。しかし前国主斎藤竜興の美濃へ戻ってきてからの勢力は、なかなかどうして侮り難く一向宗が後楯になっているものだから、「尾張人を追い払え」と、つまり今日でいうなら、「ヤンキー・ゴーホーム」のかけ 声が凄かった。だから岐阜城の増築工事に狩り出された土地の人夫達は板囲い一つ張るにしても、「なんまいだ。だぼれ、あんまり急ぐな、なんまいだ」と故意に信長のために働くのを怠業しはじめ、その工事が遅々として進まない、といった噂も聞えてきた。そこで、「‥‥だからわしが言わん事ではない。うまく人夫に化けて我ら蜂須賀党が入り込ん でいたら、とうに皆を扇動して城取りもできたはずだ」。甚右はいまいましがったが、もう手おくれだった。今から始めようものなら、これは縁の下の力持ちになって、城は斎藤竜興にとりもどされてしまうのが眼にみえている。「つまらんのう‥‥」と冬ごもりをし、そこで逼塞しているうちんい永禄8年の春になった。

 まるで子供の折り紙でもくっつけたように、垣根のレンギョウが一晩で花をつけてしまった生温かい朝。郎党の一人が息せき切って、「‥‥麻績(おうみ)の方角から馬が‥‥」。めざとく見つけて教えにとんできた。「なに、馬が来た‥‥と?」。小六も甚右も、出てきた七内も眼の色を変えた。蜂須賀党の本貫地に馬がくるなどという事は滅多にないものだから、「吉か兇か」。みな食い入るように近づく馬を見つめた。唯事とは思えなかったからで ある。なのに桶のタガが転がるように、丸い砂塵の渦巻をゆっくり描きながら、その馬は駆けもせんと、ゆっくり近寄って来た。そして顔が見えるようになると、「これはお出迎えかたじけない」鞍の上から落ちそうにまで頭を下げた。「なんじゃい‥‥人騒がせな‥‥うぬは稗吉ではないか」。甚右が呼びかけると、「やや、御次兄様にはあいもかわらずご健勝の体を拝し、恐悦至極」と脚からでなく 頭の方からといった恰好でその男は地面へ降りた。「‥‥米は無理でも粟や稗にてもあれ、なんとか食せる身に育てかしと、よって稗吉と親から名付けられたといったその方が、とうとう馬乗りの身分にまで立身したかの う」。甚右がため息混じりにそれにうなずくと、相手はニコニコしてまた頭を下げた。それを、「この稗吉というのは童(わっぱ)の頃、清洲へ初めて奉公したときに、新しい穴のあいていない藤蔓織りのお仕着せを拝領して感激。改めて藤吉と名乗ったのが、士分となってからは重々しく木下藤吉郎と今は改名しおるやつ‥‥」。七内が兄の小六に紹 介をした。「ふん、見知っておるわい。しかし‥‥その織田信長の臣の藤吉郎が、して何の使いをしに当家へ参ったぞ?」。怪しむように蜂須賀小六は口をはさんだ。「‥‥お願いの儀がござりましてな」。藤吉郎は馬の轡を引っ張った侭で一礼した。そこで馬もつられてペコリと頭を下げた。だから小六は、ますます難しい顔をして、 「ふぅん」と虎髯を左右にしごき撫ぜた。頭をあげた馬は威嚇されているのかと思い、「ヒヒイン」と嘶き口を縦に開けた。しかし馬の歯を見て小六の方が狼狽し、「やや、脅かすのか」ぐっと睨みつけた。驚いて末弟の七内が仲へ入って、馬の手綱 を藤吉郎から受け取ると、屋敷前の樹につなぎ、水を呑ませるよう郎党に指示した。「まぁ入れ」と、仕方がないから小六は藤吉郎を戸口から招いた。だが、自分は薄暗い屋敷内へ藤吉郎を戸口から招いた。 だが自分は薄暗い屋敷内へさっさと入ってしまった。ずうっと扶持離れしている生活不如意が醸し出す、妬情というか、すねきった態度 が露骨にその後姿ににじみ出ていた。
 なにしろ蜂須賀小六が、この藤吉郎を最初に見たのは、もうかれこれ二十年近くも前の事である。確か天文十六年九月に尾張の織田信秀が美濃へ攻め込んできて、今は 亡き道三入道さまに、こてんぱんに打ちのめされ大負けして逃げ戻った翌年と思う。「よう働いてくれおった。在荘(休暇)をやる。銭もやる。蜂須賀の己が屋敷を久しく放りっぱなしじゃろ。たまには戻って手入れせんと、雨漏りなどで木組みが朽ちよ う」と斎藤道三から銭を拝領して、久しぶりの里帰りに、まるで故郷へ錦を飾るような浮ついた心地で、当時は百を越えた一族郎党の中から二十名あまりだけを伴い、木曽川 を越え葉栗から、現在の名古屋鉄道の蘇東線の通っている日光川までさしかかってきた時の事である。「渡らせてくだされ」と楡の木陰から、まるで蝗のようにピョンと駆け出してきたのが、まだ子供だった藤吉郎だった。渡河するに橋がないから舟を雇い、渡し賃として野菜か銭を払うのだが、一人では 間尺に合わないから、その童は面倒くさがられて放っておかれたのだろう。「よしよし、今舟をしつらえる。乗せてくれよう」と、当時はまだ二十歳にもなっていなかった小六は青年らしい単純さで弟と同じくらいの童に優しく声をかけてやった。そして、 「これから何処へいく‥‥家へ帰るのか」。舟へ乗せてやってから尋ねると、首をふって涙を浮かべあてがないと無言で示した。「なら俺がとこへ来い」と小六は言ってしまった。これから屋敷の手直しに戻るところゆえ人手がいる。使い走りの童の一人ぐらいと考えたからだ。

 さて、川を渡り稲沢を抜け、大江川の淵をまっすぐに、今は名鉄の青塚駅の手前に なっている蜂須賀の郷へ連れ戻ってくると、「こやつ幼いが、随分と他人の飯を喰っておるな」と思えるほどに、ちょこまか小鼠 のように童は働いた。だから次弟の甚右などは、「ありゃ、とんだ拾い者じゃ‥‥よう骨身を惜しまんと動き廻るわ。ここの普請が終えたら美濃へ連れて戻ってやり、郎党分として飼い殺しにしてやったらどうじゃろ」などとも言った。末弟の七内は遊び友達というより、自分の手下のようにして樹へ登らせては木の実などをもがせ重宝していた。だからその話しを小耳にはさむと脇から、「そうしたれ、そうしたれ」と賛成した。だから小六としても、「まぁ今は童ゆえ食させるだけじゃが、大きくなったら扶持もくれてやらす」と考えた。  なにしろ蜂須賀の在から川を一つ越すと佐折(現在の佐織町)の森で、そこから勝幡の城が見える。初めは織田信長の父信秀の城だったが、当時は信秀の異母弟である二郎信康に譲られ、その信康が前年の美濃攻めで討死した後は、まだ幼い子供が城主だった。それゆえ小 六の望みは「斎藤道三の力を貸してもらい、いつかは幼児の頃より見慣れた勝幡城を己のものにした。そして織田信秀よりも秀でた武将になろう」。それが夢だった。だから、「えらくなるには人手がいる。が、良い家来はそうは拾えんものじゃ、こやつ、よく面倒みがいあるゆえ成人しても役立とう‥‥今から子飼いにして仕込めば都合よき家来になるじゃろ」と、そんな期待もかけていた。なのにどうにか蜂須賀屋敷の修理が出来上がり、では早く美濃へ戻ろうぞという段取りになった時に、「こうして半年あまりも御厄介になり、えろうすまんことでした。なんでも近く斎藤道三様の許へ皆様はお立ち戻りの由。手前はまた針売りなどしながら旅へ出ようと思いまする」。舌を噛みそうな口調で、その童は恐る恐る小六の許へ別れを告げに来た。「なにも遠慮することはない。一緒について参ればよい」と甚右も脇から口にした。「手前は人殺しは好きません。お武者の真似ごとして戦へ出れば殺すか殺されるか‥ ‥とても私めの性には合いますまい」。頑なに首を振って童は拒みとおした。

 小六は、なんだか一杯くわされたような感じがしないでもなかったが、そこは、「カンラカラカラ」と豪傑笑いをして、「人殺しを好かんでは戦には向かんのう。まぁ人それぞれ生き方はあるもんじゃ。ではよきに致せよ」。せっかくの期待だったが、棄てざるを得なかった。(いくらちょこまか動き廻っても人殺しを好かんようなのは、とても家来としては使い物にならならん駄目人間じゃ)とあっさり見限ってしまった。その後、それは桶狭間合戦の始まる直前だった。(清洲城の織田信長に仕えた。しかし小者から足軽まではなったが、あとはとても見込みがない)そんな泣き言を言って藤吉と名を変えた童が、またも蜂須賀へ転がり込んできた事がある。「聞けば、もう二十四歳にもなるそうではないか‥‥お前のように人を殺めたくない。殺すのは真っ平御免だなどと、ぬけぬけと申す奴が、お城勤めしたところで、うだつ が上がらぬのはあたりまえではないか」。その時小六は意見をしてやりながら、(‥‥こないな腰抜けを郎党にせんでよかったわい)とも思った。勿論当時の小六は頼みの斎藤道三に討死された後は、何処へ勤めても行く先々がみな潰れてしまい、(おりゃには貧乏神がついてまわっとるんじゃなかろうか)とさえ浪人して腐りきっていた頃で、もはや勝幡城主になる夢を失いかけていた。もちろんどこからも扶持がこず、目比(むくい)から花木へかけての小前百姓が届けてくる年貢だけで食していたから、酒も思うように呑めなかた¥った。すると、そんな暮しぶりをみて藤吉は、どこぞで商売でもしてくるのか、時折酒壷を抱えて持ち込んできた。そこで小六は、「なにも。しょっちゅう戦ばかりして、それで明け暮れしとるというもんではない。この藤吉というは戦場働きには向かんが、こないな平和な時には、よう間に合う男じゃ」。盃を口に含んで呑むたびに感心してしまい、そこで改めて、「いくら城勤めをしていても、武者というは家名で扶持を貰うもんで、個人の働きで立身などはなかなかせんもんじゃ‥‥小者から足軽にまで出世できても、その先は苗字をもっておる所へ養子に入るか、そないな嫁を持つしか士分にはなれんが定めじゃ ‥‥もし戦争でもっけの幸いとももなる兜首を取ったところで、士分ならそれで扶持も貰えるが、士分以下は銭一握りの当座の御褒美だけで、手柄は組頭の士分の武者にさし上げる事になる」と云ってきかせ、「いくら器用人でも、苗字や家柄のないその方ごときが清洲で奉公しても、なんともなるものではない‥‥このままここに落ち着けや」。手放したくないから、しきりに口を酸っぱくして引き留めた。「わかるか‥‥自由を我らに、じゃ」と藤吉と仲の良い七内もしきりに勧めた。なのに藤吉は、今川義元の大軍が近づくという噂をきくと、真っ青になって、「清洲(信長)様の大事でごされば‥‥」。しりはしょりで、けつっぺたを見せながら、むうっと熱気を帯びた白い雲の下をふっとんで行ってしまった。「あいつ馬鹿たれじゃったのう」。小六は、その時口汚なくその後姿を罵ったものであ る。「いや、ありゃ、真面目な奴じゃ」。七内は庇ってたてついたが、「違う‥‥人殺しはいやじゃという奴が、あない戦に飛んでいくのは、どない考えても、まともじゃない。どたわけじゃぞ」。小六は、むしゃくしゃして叱りつけた。(この俺に比べ、まんだ二十六、七歳の織田信長に、そない人を引きつける何かがあるのか)と、それがいまいましかったのだ。

 だから自分をふって他の女に走った女でもある如く、(あんな男の一人や二人、ほしけりゃくれます熨斗つけて)とまでは口にしなかった が、無念で藤吉の事は思い出さないようにしていた。なのに七内ときたら、「あの藤吉め‥‥御弓奉公浅野又右の跡目の長吉の許へ足入れ婚をしてきたものの、二年たっても子ができんで出されたとかいう年増女を貰い、その織田家でやはりお武者奉行しとる木下助左の娘ゆえ『木下藤吉郎』と、とうとう士分になりおったそうな」などと、小六としては耳にしたくもないような話を、得々と手柄顔でもってきたりした。「男ちゅうは‥‥槍一筋で生きていくもんじゃ。それなのに身体の真ん中の手槍ひっさげてそない下取り交換のような女ごを嫁にしてまで立身しようとは、なんちゅう情けない奴だ。見下げはてた男の屑じゃ」。顔をしかめ小六は唾をはいてみせた。が、(地位や家門のない男が世渡りをしてゆくのには、やはり縁組みによって新しい第二の父を持つしか、生きていく途はないのじゃろな。なまじ蜂須賀の跡目に生れ俺は偉い様のように自惚れてしまって、肝心かなめなそれを忘れ、女といえば顔や腰つきに ばかり眼をくれ、とんと良い所からの嫁取りに気付かなんだ‥‥さて今からでは遅いじゃろか)ぼうぼうに伸びた熊のような顎を逆撫でしながら、しきりに神妙に考えたものである。

 そこで、つい弟の甚右や七内に、「おぬしらは女というと、すぐ下ばかり考えるが、女は上じゃぞ」と説教したところ、「そりゃ、そうじゃ」。珍しく甚右が、すぐさま相づちをうってきた。(ほう、こやつわかっているのか)と思い、「ならよい」と言ってやると、「女はなんといっても上の顔じゃ。みてくれが悪うては、てんで気分が起きんでな」。  さも当然だとばかり、そっくり返った。しかし、七内は、「違う、違う。兄じゃが上と言うたは面相の事ではない‥‥上とはここじゃ」 と自分の胸を押さえて、甚右に向い、「女ごはみかけや顔や形より、心が優しいかどうかが肝心で、気持ちのよい、思いやりある女を持たん事には、男はうだつが上がらんと‥‥そないに云うておられるのだ ぞ」 。あべこべに真面目くさって云ってきかせていた。それを聞くなり小六は、(やはり同じ瓜の蔓に茄子は実らんわい。俺が弟共だけあって、みんなあかんのう) げっそりさせられたものである。

 だが、いくら武者奉公の木下の出戻り娘を嫁にしたところで、とうそう出世などできるものではないらしく、二十貫だとか三十貫だとか伝わって来た。「うん、せっかう考えて嫁取りしたのであろうが、人を殺すのはいやじゃなど云う者が目覚ましい働きなど、できるものではなかろう。すりゃ木下藤吉郎も端武者が出世の行き止まりか」と考えていたところ、その当人が馬をパカパカ走らせて来たのであ る。(馬のり五百貫・・というて、それだけの身分にならんと騎乗を許されんのに、藤吉郎めは、そないは大身に出世しおったんか)愕然として小六は驚き、その反面、(俺も斎藤道三に御仕えしていた頃は、あないに馬のりしていたものだが‥‥)粛然として若き日の自分に涙ぐんだ。言いようもない嫉み心に蜂須賀小六は下唇を噛みしめ、藤吉郎を、かつては新築だが今は軒も傾きかけた茅屋に案内せんと、顔を伏せて先に入っていった。
 土建業の元祖
 「‥‥この俺に手伝えというのか」。むうっとした口調で小六は言い返した。そして脇から口出しをされてはと、弟の甚右や七内を見廻してから、「この藤吉郎はな‥‥織田信長殿が美濃一国を併呑され、身代が倍の余にもなられた大判振舞で、三十貫扶持が一躍七倍の二百貫にもなり、今度はまた何とか馬乗りの許される身分となったそうな‥‥じゃというて、この蜂須賀党が、偉い様の藤吉郎のためにこれから犬馬の労をとらねばならぬいわれなどはあるまいがのう・・」。野太い声で一気に云ってのけた。すると木下藤吉郎は飛び下がるようなしぐさをして、「と、とんでもない‥‥」。頭の上で両手を合わせて、「滅相もないお話」と繰り返した。そして助勢を求めるように甚右や七内に向かって、「本日手前が推参しましたは、主君織田信長様に大恩受けし御兄弟を推挙するためなので」といいわけをした。すると、その話にはすぐ乗って、「なに、われらを?」。一膝乗り出したのは顔のしゃくれた甚右の方だった。「浪々久しく難儀しとったところ、そりゃ有り難い話じゃ」。七内も素直に達磨のよう な面を破顔一笑させた。

 しかし、小六は口をぐっと曲げて、(腹を減らした野良犬みたいに情けない弟どもじゃ)と瞑目した。が、藤吉郎はそれにお構いなしに、「なんせ、もとの稲葉山の井の口城をとられたが手狭い。そこで旧城はニの丸として残して、目下でっかい本丸を建築中。つまり足場を高く組み上げ、周りには板塀を張って、今のところは裸城も同然‥‥そこで『乗っ取っちまえ』というのか、『取り戻 してこまそ』というか、前国主の斎藤竜興が入り込んできて、とうとう御城とは目と鼻の洲股の砦まで押し寄せて来て焼いてしまう始末。しかし岐阜城の普請が終わるまでは、ここの砦で防がん事にはどうにもならん。そこで、これまで御歴々の丹羽五郎左様や林佐渡守様が一門衆の他に組子寄子を従え、洲股へ降りて行って堡塁を作りに行かれると、『作らせるな、ぶっ壊せ』と斎藤竜興浪人に指揮された舟子や百姓が 『織田方の基地反対』と、投石したり、あげくのはては夜陰に乗じて火をつける。

 勿論山頂の織田様御陣からは、そのたびに木瓜の旗を立てた機動隊が『それっ』と降りていくが、到着する頃には火の手が上がっていて、もう消すこともできず、あべこべに石で瘤をつくり、棒でぶん殴られて這々のていで戻ってくる始末」。よどみなく藤吉郎は、これまでの経過を一気にまくしたてた。「それでは‥‥その機動隊になれと、我らに勧めにきおったのか。仕事となればやむをえんじゃろうが、どうも評判は芳しゅうない。何も好き好んで人に嫌われる事はする必要もなかろ」。小六は頭ごなしに拒絶した。どう考えても二十代の者ならいざしらず、四十にも近い自分が遠い山からサァッと降りていって、そこで石の雨を浴びたりするなど感心しなかったからである。およそ阿呆らしいと首を振ったのだ。「いやいや、そうではござらん。蜂須賀様は以前は斎藤道三様に仕え、美濃には久しくおれらた方ゆえ、他人とちがって睨みが効こうと存じ、洲股砦の普請し直しをみていただきたいので‥‥」、「うむ、普請をするのを守っているだけならば、何も急な山坂を駆け降りんでもよいのだな」 、「尾張美濃というは隣国どうし。それじゃによって近くて遠きは敢えて男女の仲ばかりではなく、両国も古来疎遠で犬猿の仲。よって我らの殿の信長様は尾張人であっても美濃に長く住んでおられたような人材を、この際占領政策として求めておられるのでござる。一つ信長の殿に逢ってはいただけまいか。これこのとおり」。ぴったり両手をついて頭をこすりつけた。「ほう。わしはてっきり昔ここで無駄飯喰っていたその方が、当時の恩返しのつもりか、鳴かず飛ばずで逼塞中の蜂須賀党を憐れみ、そんで使ってやろうと小生意気に馬になど乗ってきたのか‥‥と思うとったら、それでは信長公がじきじきに御名指しをなされたのか」。小六が肚の中をぶちまければ、次弟の甚右もしたり顔をして、「士は己を知る者のために死す、とか云うで、そない織田信長が我らをあてにして使いまでよこすなら‥‥」と、すぐ切り出した。末弟の七内も異存なく無言だが、大き く合点してみせた。

 そこで「善は急げ」とばかり小六をはじめ三兄弟は藤吉郎に案内されて岐阜城へお 目見えに行った。庭先で平伏して待っていると、「音にきこえし蜂須賀党の兄弟どもか」。いきなり頭上からキンキンした信長の声。そこで小六も色代(あいさつ)を言上しようとしたら、また、「大いに励めや」と向こうから浴びせかけてきた。「はあっ」。平伏し、今度こそこちらも何か言おうと顔を上げたら、もうそこには信長の姿はなかった。唖然としていると、「あれがうちの殿の御気性で、御自分で良しと安心されると、ああなのじゃ‥‥つまり一目で蜂須賀党は信用されましたのじゃえ」。藤吉郎が脇から低い声で説明を加えた。「ふうん‥‥俺等がように、これまであの殿の敵側に廻って槍を振り回した人間を、 たった一瞥したきりで頭から信じてくだされるとは有り難いことではないか」。小六は 左右の弟を振り返った。「よし。信長様の御為には何でもして働く。なんぞ目につく派手な仕事をくれ」。甚右は砂利をくっつけた額を振って、もう売り込みを始めた。七内もそれにうなずいた。「では、この藤吉郎めが皆様の仕損じの後を引き受けた洲股砦の工事に、一肌ぬいで くだされませ」と、今度は藤吉郎が頭を下げてきた。「いうにゃ及ぶ‥‥昔と違ってこれからは同僚ということになる。信長様の御為に力を併せて働こうではないか」。もうすっかり感激しきった単純な小六ははりきった。

 これまでの講談によると、もともと種本が「絵本太閤記」だからして、「美濃へ攻め込もうとした信長は、その足場として洲股(墨俣)へ砦を築こうとした。だが、誰をさしむけても成功しない。そこで困っているところへ『この私めが‥‥』と木下藤吉郎が名乗り出て、他に策のない信長が許したところ、藤吉郎は知恵を出して成功。そこで信長は洲股に進駐して、そこから美濃一国を占領する事ができた」という事になっていて、他の歴史書もほとんどそのまま受け売りをしている。

 しかし実際は反対で、この洲股築城は信長が井の口城を占領してから二年後の永禄九年の出来事で、[少し前の]「三省堂の歴史年表」などにはそう記述されている。永禄三年に桶狭間合戦で今川を破り、信長は当時の最新兵器であった鉄砲を入手するや、翌四年と五年は木曽川を越えて、軽海ヶ原と当時は呼ばれた各務原へ侵攻したが敗退。 同六年は小牧へ移って犬山口から関の方へと向い負け、翌七年も、やはり右廻りして今度は瑞竜寺砦の方角から美濃三人衆の裏切りで辛うじて美濃を占領したのである。現在の墨俣大橋の辺りが昔は中州で、ここに洲股の砦はあったのだが、これは大垣寄りで、ぐっと左手である。つまり中央突破か右廻り攻撃しかない信長が、反対の左手へ進んで洲股に砦を築こう筈など有り得ない。また、当時の信長の美濃攻めというのは、ほとんどが「速戦即決」、つまり夜明け に国境の木曽川へ兵を集めて侵入。負けては午後には引き上げ。つまり「日帰り戦争」 か、長いのでも永禄六年の一晩泊りぐらいなもので、のんびりと「稲葉山眼下の長柄川(当時は墨俣川)の中州へ築城して」などという余裕はなかった。

 これが間違えられたのは、藤吉郎の出世話として、井の口城を占領後に奪い返さんと竜興に攻められ堡塁を築いたというのよりも「井の口城を奪う為の足場」とした方 が恰好がよく、勇ましい武勇談になるからだろうが、誤りは誤りである。また、史料的に誤られたらしい根拠には、「松平記」という慶長期の古い本があるが、その中に、「義あき公(足利義昭)は美濃のながい山城(斎藤竜興)を頼まんとして断られ」というのが永禄九年の条項に出ている。だから永禄九年は斎藤竜興がまだ美濃国主だったと勘違いされたものらしいが、しかし、これは、竜興がその頃までも長島の一向門徒の助けを借りて長柄川から美濃に攻め上ってくると残存勢力が盛り返し、占領軍側の信長の方が今にも負けて尾張へ追い返されたごとく京では思われていたのだろう。

 だから、信長としては四年がかりでようやく井の口城は占領はしたものの、美濃人達の祖国復帰運動が凄くて手がつけられなかったから、足軽上がりの木下藤吉郎を登用したり、かつて散々に手向かいした敵の片割れの蜂須賀党の目見得も仕方なく許したものだろう。

 だが、そこまで蜂須賀小六にぴんとくる筈もない。そこで、この時の目見得から蜂 須賀小六は、「禄五十貫」の初任給を貰い信長の直臣となった。現在に直せば十五万 円見当である。つまり「講談で有名な洲股築城」という話は、小瀬甫庵の書いた太閤記が定本で、これには「ある時信長卿は老臣衆を呼び集め、『美濃へこれまで何度も攻め込んで狼 藉をつくしたが、てんで効果がない。かえってこちらの兵の士気がゆるみ、軍勢がたるんでしまった。なんぞ良策はないか』と相談をされた。すると、『川向こうの敷地 に要害を築いたらよろしい』。まるで猫の首に鈴をつけるような案が出た。勿論試みに誰を差し向けても駄目で、そこで『河を越えて築城できる者』というので人選したと ころ、木下藤吉郎が自分がしまする、と名乗り出た」とする。

 故渡辺世祐博士も雄山閣の昭和4年刊では、「大小の長屋十軒、軒櫓十、塀二千、柵本五万本を筏に組ませて、永禄九年九月一日、これを流し、五日には信長みずから小牧山より洲股(墨俣)に到着し、工事を監督する一方、木下藤吉郎を召し、稲田大炊助、青山小助、加治田隼人らと共に蜂須賀小六も招かせ、これを守備させた」と、もっともらしく説明しているが、この誤りは「三省堂の日本歴史年表」に「永禄 七年八月二日、織田信長は稲葉山を攻めて斎藤竜興を敗走させ、ついに占領して岐阜と改称す」と出ている事は前述したし、岐阜城の郷館長の研究もある。

 せっかく二年前に占領した美濃を、なぜ信長がまた小牧山へ戻って攻め直しをする のか。さっぱりわけがわからない。おそらく猿も木から落ちるの喩で、歴史学会の泰斗といわれた渡辺世祐氏も講談本で誤られたのであろう。「ピュウン」「ピュウン」と河原の葭草の茂みから、ひっきりなしに矢がとんでくる。それは積み上げた材木の蔭に入っていれば防げるが、困るのは矢に油縄をつけたり、 松の根株を細く裂いたものに点火させて飛ばしてくる火矢である。すぐにブスブスと燃える。「俺、もう桶で水汲んでまわるのは、飽きがきたぞ」と甚右が言い出した。七内も、「面倒くさい、斬り込もう」と言い出した。小六も無理からぬとそれにうなずき、「よっしゃ」と蜂須賀党だけを集めて、筏の板の間に槍を隠し、さも誤って流したよ うに、「それっ、押さえろ」。ドブンドボンと水中へ身を躍らせて筏につかまると、さも、それを引っ張るような恰好をして対岸へ寄せ、背丈程もある葭草を、てんでに引っ張って、それで笹の端を括りつけ、動かさぬように足場をこしらえてから、「ワアッ」とばかり裸のままで槍を拾って草の間へ突きこんでいく。これには斎藤竜興に扇動されて洲股砦の築き直しの邪魔をしていた連中も、「‥‥あっ」とばかり驚き、慌てふためいて、「出し抜けに突きこんでくるとはルール違反ではないか」とは云わなかったろうが、「ひえっ」。悲鳴をあげて逃げまどう。だから甚右も、「こりゃ、ええ‥‥追っかけ廻し、片っ端から田楽刺しじゃ」とはりきる。小六も先 頭になって、「あの藤吉が二百貫取りで、この俺が五十貫という事はない。せめて同額にして賃上げしてもらうためにも、励めや励め」とばかり大身の槍をふるって、「さぁ来い、来れ」と次から次ぎへと突いては叩き、刺してはひっくりかえし、群がる敵を片っ端からしとめてまわる。末弟の七内も、「ここは見せ場じゃ。蜂須賀党の強いところを信長様に見ていただこうぞ」。髭達磨のような顔を真っ赤にして、さながら荒熊が唸るようにも、「ウオッ」「ウオッ」と吠えながら、一々突き刺していては面倒なりと「地獄へ行けっ」と次々と槍の穂先でぶん殴ってまわる。後からついて来る郎党が、「一丁あがり」「ほれ二丁」と転げた敵を刀で斬り倒しては、まるで西瓜畠の取り入れのように首狩りをする。だから四千五百名は密集していた斎藤勢が、見る間にバッタバッタと崩されてしまい、「ふうっ」と鯨の汐ふきみたいに蜂須賀小六が一息入れた時には幔幕をはった敵の陣営も、もぬけのからの有様だった。残されているものといえば、火矢に使う油壷の山だけだった。  

 それに俵にぎっしり詰め込まれた松仕手の細くなった火つけ木の束。小六は弟ども に、「この草っ原を、これなる油と火つけ木を用いて、焼き払ってしまえ‥‥そうすりゃ 敵が戻ってきても身を隠して矢など射かけられまい」と指図した。甚右と七内は左右に別れ、 「それは名案。さすが兄じゃだ」と郎党どもに風の吹いてくる方向から火をつけさせた。いくら青々と茂っている草でも、油を浴びせかけられ、火つけ木まで撒かれては堪らない。昼の事ゆえ見る間に赤い火の手こそあげないが、黄黒い焔と煙を吹き上げて、見渡す限りが焼け野原と変わってしまった。そこで、「‥‥ようやった。これまでは対岸から狙い撃ちをされ、砦を普請するのが、とんと進まず、せっかく切り出した材木も火矢をかけられ焼け棒杭にされてしもうたが、その方の働きで妨害なしに工事が進んだぞよ」。洲股砦が落成したとき、蜂須賀小六は信長に呼ばれて褒められた。そして50貫から一気に二百五重貫に昇進した。「それ見たことか」。小六は戻ってくるなり甚右をつかまえ、「織田信長様というは、ありゃ人をみる目のある立派な御大将じゃ」と胸を張り、「俺は木下藤吉郎めの二百貫を越して、ついに上になったぞよ」と知らせた。「そりゃ藤吉めと兄じゃでは人間の出来がちがう。小六兄じゃの方が上になるのは理の当然」。 至極もっともだと相づちを打った。だからして小六は大きく肯き、「郎党どもに祝いの酒など呑ませてやれ‥‥わしも馬のりになることゆえ、よき馬な どをさがしにいかずばなるまい。留守を頼むぞ」腰を上げかけたとき七内が戻ってきた。「聞いたか‥‥兄じゃは信長様に呼ばれ、木下藤吉郎よりも豪うなられたぞ」。甚右が大声で教えてやったところ、 「えっ、まことか」。七内は驚いた顔をした。顔面に喜色を湛えた小六が立ったままで、「本当じゃ‥‥藤吉より五十貫も多うなった」と告げたところ、七内はきょとんとして、「では千五百貫か?」と聞き返してきた。「なんじゃい、その話」と甚右が怪しんだところ、七内も達磨面を傾げて、「木下藤吉郎殿は千貫どりに立身され、洲股砦の守将となられ、我が蜂須賀党をはじめとし、作事に手伝った者が、その寄騎としてつけられたのを、まんだ知らんのか?」。怪訝そうに二人の兄の顔を見比べた。それゆえ、「なにっ‥‥」と言いかけたままで蜂須賀小六は黙ってしまった。なにしろ、(この俺が五倍の二百五十貫になったのと同じ割合で藤吉も二百貫から五倍の千貫にしてもらったのか)阿呆らしくなってきたからである。そして、もっと骨身にこたえたのは藤吉郎の寄騎分としてつけられた事だった。(おりゃ信長様の直臣だが、阿呆らしや、これでは藤吉めの家来のような立場じゃな ぁ)すっかり気落ちしてしまった。嫉妬を感じるにしては、もはやあまりにも隔たりがあ った。(四十にして惑わず、とも云う。阿呆になってあの藤吉のおもり役をしてやるか)とは観念した。だが情けなくなってきて、下腹を押さえて小六はしかめ面をして、「馬を求めにゆこうとしたが、ちいと腹が病んできた。奥へ入って横になろうぞ」 。そそくさ部屋へ戻ってしまった。涙ぐんできたのを弟どもに見せたくなかったからである。

  この後。蜂須賀小六は、「彦右衛門」と名を改め、永禄十一年九月の近江の箕作城攻めには 木下藤吉郎の先手となって、これを落城させ、続いて藤吉郎が京所司代のような役目を仰せ付けられると代官になった。永禄十二年五月、新築間もない二条城に火事が起きると、「火つけばかりが能ではない。消すほうも自信がある」とばかり、すぐ駆けつけて消化。直ちに蜂須賀党をもって洛中の警備を機敏に固めたが、水際立った処置ぶりに、時の足利将軍義昭よりは桐の紋のついた羽織を下賜され、信長よりは、「なかなか真面目ある」と賞され、「尾張春日井郡三淵郷にて五千石」と所領が倍増され、「尉」の官位も貰った。しかし、その頃は藤吉郎も羽柴筑前守となって、江州長浜五万石の大名だったから、信長の直臣とはいえ、秀吉の指揮下にあって越前攻めに行ったり姉川合戦で戦った。

 天王寺合戦で一向宗と戦った時など、楼下まで敵を追い詰め、一番槍をあげ武名が鳴り響いたものである。「武辺十二人衆」を天正二年に信長が選んだとき、蜂須賀小六は佐々成政や安藤守就 と共に入っている。しかし本能寺で信長が倒れるや、秀吉の天下となり、小六はついに秀吉の家老職にされてしまった。その代わりに家政の代には「四国阿波十七万三千 石」にまでなった。だが、蜂須賀小六の執念は孫の至鎮によって達成された。秀吉の死後は徳川方について関ヶ原合戦では東軍。大坂城攻めではとうとう秀吉の子の秀頼を滅ぼしてしまい、阿波徳島八万六千七百石となって、明治まで続き、小六の遺言どおりに 「踊る阿呆に踊らぬ阿呆‥‥どうせ阿呆なら」というカーニバルを今に伝えている。

 だが、どうして「踊る阿呆に見る阿呆」かといえば、それには悲しい蜂須賀小六の 追憶があるからだろうとしか思えない。瀬山陽の「日本外史」のような講釈本みたいな内容のものでは、「秀吉は堂々と毛利氏に信長の訃を報じて和を結ぶ」となっているが、六月三日朝の 交渉の時は京でハプニングが起きたぐらいの通知は得ていたかもしれないが、その当 事者でないかぎり、信長の生死はまだ不明だったのだが、そんなあやふやな事を相手に告げる事など有り得まい。また、三日に交渉したのはとりも直さず秀吉は事前に本能寺の変を予知している事にもなる。

 さて、「明良洪範」や「堂山記談」「川角太閤記」ごとき信頼姓の全くない末書にかかると、蜂須賀小六も高松城攻めに寄騎として参加していたようになっていて、黒田如水と共に講話後の毛利家との境界交渉に活路したとなっている。しかし、「毛利家文書」によれば、それは山崎合戦が終わってからの事だ、とはっ きり記録されている。つまり天正十年六月二日当日の京における蜂須賀小六のアリバイはないのである。だから戦国時代には乱波(らっぱ)素波(すっぱ)と呼ばれていた野武士上りの蜂 須賀小六が、初めは信長の直接の家臣に取り立てられたが、その頃は秀吉の寄騎扱いに従属させられていたゆえ、「他の者も遣ってあるが心許ない。おぬし、昔とった杵柄で一役かってくれ」と秀吉の密命を帯びて六月二日は京で忍びの大活路をし、斎藤内蔵介を助けて、本能寺を爆 発させたともみられる。なにしろ、この時代でそうした事が巧く遂行できるベテランというか、専門家は彼をおいて他にないからである。彼も信長殺人事件の直接容疑者として上げられる資格は十分にある。
 さて、まんまと秀吉に躍らされて天下の大事をやってのけ、その後は、「あれよ、あれよ」という間に、かつての鼻たらし小僧にすぎなかった秀吉が、さっさと天下をとってしまうのを見ては、「踊る阿呆に見る阿呆」 といった自己嫌悪のもとに、天正十四年五月二十二日に大坂で悶死をしたのだろう。それゆえ、その子の蜂須賀高右衛門家政も、関ヶ原の天下分け目の時、西軍に入って大坂久太郎町橋や北国口の警護を受け持ったが、病気を口実に出陣せず、密かにその子至鎮に兵を率いさせて家康側に味方させた。だからして阿波徳島十八万六千六百石になってから、「祖父蜂須賀小六様の回向のため」というので、今に伝わる自虐的な 歌詞の、あの唄と踊りを城下でやらせだしたのだと思われる。





(私論.私見)