10章、殺人現場の被害者

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1179織田信長殺人事件11」、「1180織田信長殺人事件12 」、「1181織田信長殺人事件13(最終)」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 殺人現場の被害者
 不意の出来事
 それでは斎藤内蔵介らの丹波勢ばかりでなく、蜂須賀党や内藤党の秀吉方にも狙われ、さながら徳川・羽柴連合軍によって包囲された形の本能寺内部ではどうであったのか‥‥。つまり、殺人現場の臨場検証をしてみるといかがかとなる。勿論俗説のような華々しいものであろう筈はない。もっと意外で侘しいものであったろうと思われる。「誰ぞある‥‥」という信長の声に、「はあっ」と、次の間に控えていた森乱丸はかしこまって引き戸を開けるなり、「まだ夜も明けず暗くて定かではありませぬが、耳に入りまするは陣馬のいななき」。両手をついて、すぐさま言上した。すると、「して、なにやつだ?」。キンキンした声が伝わってきた。「はあっ、弟の力丸、坊丸らを叩き起こし築土の所へ身を伏せ、様子をみるようにとやりましたなれど、なんせ鼻をつままれても判らぬほどの暗さ‥‥今のところ皆目なんの見通しもつかめませぬが」と、そのまま返事をしたところ、信長は、「向いの道勝の許へ誰ぞ遣れ」と身体を起こしてしかりつけるように怒鳴った。「はっ、直ちに」。乱丸は、やはり傍らに控えていた小姓組の高橋虎松に手燭をもたせると、早口で、「急ぎ、これより村井道勝様の邸へ行ってこう」と下知した。「‥‥かしこまって」。虎松が駆けて行くと、まだ真っ暗な控えの間に四角く座ったままの信長に、「では暫くお待ちなされましょう」と、引戸に手をかけ閉めようとしたところ、「たわけぇ」。美濃言葉で信長は乱丸を叱りつけた。「今から、又寝られることやある。このままで待つわい」と、いつもの癖で寝起きの悪さをみせて、ぶつぶつ叱言を言った。そして、「もう起きるぞ」と両手を弓なりに反らせ、欠伸を一つした。「まだ夜明けには一刻(2時間)ちかくありましょうに」。乱丸は信長の枕許の違い棚になる砂時計の方へ眼をやって、止めるような口のききか たをした。

 しかし、こうと言い出したら、はたから何といって諌めたとてきくような信長ではない。やがて、南蛮渡りの薄い掛け更紗をはね除け、すっくと仁王立ちになった。そして、つかつかと乱丸のかしこまっている横を通り抜けて板廊下に出てしまった。咄嗟のことなので信長の枕脇の燭台から、予備の手燭に灯を移して持って出る余裕もなく、乱丸は燭台ごと鷲づかみにすると、袖で風を庇いながら後に従った。板廊下の先は地面すれすれの軒廊になっており、そこが客殿と便殿との連絡口なのだが、まだ夜気がしっとりと辺りに立ちこめていた。だから植込みの木々も唯もの黒くしか見えず、風もひんやりしていた。つまり、天正十年六月二日の朝は、まだ暗闇にすっぽり包みこまれていた。

 が、その暗い夜気にのって鎧の触れ合う音と馬の嘶きとが、まるで潮騒にも似た響きを四方から醸し出すように響いていた。乱丸がそれに耳をすましていると、「駄目にござりまる」。息急き切って虎松が駆け戻ってきた。「四方の木戸口は、びっしりと向こう側から押されて戸が開かず、外へは出られませぬ」とうったえた。「ならば不浄口から出てみい」。信長に代わって乱丸が先に命じた。

 この本能寺は昨年四方の濠を2メートル巾に拡げた時に、さらえた土を塀代わりに 盛り上げて固め、その築土の土間に東西南北の木戸口を作っていたが、寺内の排泄物などを外へ運びだす小さな不浄門が、巽の方角にある。目立たぬような冠木(かぶき)門で、普段は仕切ったままになっているが、そこから抜け出して濠の内側の築土の端を伝っていけば、本能寺門前の京所司代役にあたる村井道勝の邸へ行けよう、と教えたのである。「はあっ」と、今度は虎松だけでなく、かしこまっていた小川愛平も後から一緒に駆け出して行った。「冷えまする。ここにいても何も見えませぬゆえ、お戻りを‥‥」。乱丸は燭台の灯を消すまいと袖屏風をたてながら言った。しかし信長は、「わかっとる‥‥」と一言それに応えたのみで、じっと暗闇を見詰めたまま立ちはだかり、部屋へ戻るような気配もなかった。

  「手燭を持って参りました」と、武田喜太郎、大塚又一郎の二人が両手に四角い火屋をつけた雪洞(ぼんぼり)を持って出てきて、信長の足元を廊下の下から照らしだした。そこで交代するように乱丸は抱え込んでいた燭台を板の間へおこうとした。が、袖をはなした途端に、さあっと掠われるように蝋燭の焔は吹いてきた風にもってゆかれてしまい、後には脂臭い蝋の臭いだけが残った。「いったい何でござりましょうな」。喜太郎が下から、よせばいいのに尋ねかけてきた。又一郎の方も目脂をとるように肘で顔をこすりながら、灯をともしたが、やはり不審そうな視線を紙燭を庇いつつ向けてきた。しかし、「戻る。何ぞあったら知らせい」。せかせかした足取りで信長は客殿の居間の方へ向かった。慌てた乱丸は階下へ手を伸 ばして、又一郎の手燭を取り上げ、火の消えた燭台を抱え上げて 「お足許を‥‥」と言って先に立つなり乱丸は前方を照らしながら大きな身体を折って進んだ。「何じゃい一体、人騒がせな」。怪しからんといったように信長はキンキンした声を出した。乱丸も返事のしようがなく、「四国衆の越訴ではありませぬか」。当惑したまま最前から考えている事を口にした。

 この六月二日の朝、かねて住吉浦に結集してあった軍船に乗り、大坂城にいる織田信孝を主将として丹羽五郎左、津田信澄ら二万の大軍が、四国の長宗我部征伐に赴く事になっていた。だから先月あたりから、その噂に驚いた四国よりこちらへ来ている者共が、(何とか御征伐を思いとどまり下さいませ)と、手を換え品を換え嘆願に来ていたから、大方その連中ではあるまいかと考えたのである。「まさか四国者が軍馬を催し押し寄せてくるとは思えぬ」。信長は叱りつけるように、「ありゃ、すぐそこの四条坊門のドチリナベル・ダデイラとかよぶ天主教の教会堂へ集まってきたミサの連中ではあるまいかのう」。小首を傾げたまま低く言った。

 これは天主教の京都司祭オルガンチーノが、先年、安土のセミナリヨを建てた時に用いた寄進材木を残りを持ってきて、坊門姥柳町つまり現在の蛸薬師通り室町西入るの角に三階建の礼拝堂兼住居を建てたもので、「真実の教えの会堂」というポルトガル語、「ドチリナペル」と呼ばれたこの建物ができると、その上から、(碧眼紅毛人 が眼下の家を見下ろして困る)という訴えがあって、村井道勝がパードレを呼び、「上に目隠しをつけい」と命じたところ、(バルコニー)とか呼ぶものを三階の上へまた付け足したので、物見櫓のような恰好になり、遠くから見ると、さいかちの森よ り高く聳え立ってみえ、まるで京の標識みたいだと評判されている建物である。

 しかも、この教会堂の位置ときたら、四条西洞院通りにある本能寺からは、通りを一つ隔てているわけだが、本能寺の裏木戸からだと百mと離れていない。だから、カトリックの式日にあたるミサの日になると大変である。近在から数千も の信者がここかしこへ押しかけてきては、教会堂に入れる順番を早くとろうと、夜明け前から詰めかけてきて騒々しくて困るとは、かねて村井道勝からも言ってきているし、本能寺の役僧からも、 「何卒、一つ上様の御指図にて」とは頼まれている。だから信長は、「信者というても火薬欲しさの武者が多く馬に乗り物具をつけて駆け集まるとは穏やかではない。こりゃ何とか致さずばなるまい」。眠いところを起された腹立だちさも加わって立腹しきった。「これを汐に、あの教会堂は取り壊すか、もそっと辺鄙な場所へ移してくれん」。そんな具合に癇癪を起こして、足音も烈しく居間へととってかえした。

 さて、信長や彼に従って安土から出てきた小姓三十騎。それに馬の口取り仲間の厩衆三十一人。それに本能寺門前の村井道勝邸から、「お手伝い」にと差し向けて廻されてきた男女若干が、この信長の眼をさました御前から約三時間半経過した午前七時半には残らず揃って、「その名前を口にするだに、(宣教師)諸君は恐怖の中で旋律したであろう人(信長) が、ついに毛髪一本も残さずに(吹っ飛ばされて)灰塵に帰してしまった」といったう「フロイス日本史」に明記された結末にこれからなるのが、世に言われる 「本能寺の変」であるが。 まず、念のために、従来のこれまでの俗説。つまり徳川期あたりから明治・大正、そして今日までも誤ってまかり通ってきた講談的なものを先に上げてみる。
 「な、何奴の謀叛なるぞ」。白い練絹の寝間着のまま、熟睡している信長はびっくり仰天。すわっとばかり溌ね起 きざま叫んだ。すると、「あ、明智日向守」と森蘭丸は言った。「なに、明智めが謀叛とな」。信長が、きっとして問い返すと、「白地の四手しないの馬じるしにて、紋は水色桔梗にござります。見間違いなどござりませぬ」。小姓蒲田余五郎も肩で息をし背後を指差した。そこで信長はすっくと立ち上がるなり、 直ちに、「表御堂にいる者共を、すぐさま集めい」と大音声にいいつけ、「早よ、調度をもて」とうながした。「これに」と蘭丸がすぐさま差し出す四足篭(よつかぬりごめ)の大弓を、「よっしゃ」と抱え込むなり、表御殿の広縁まで駆け出してゆくと、「やあやあ、不敵なる奴ばらかな‥‥我こそは右大臣信長なり」と自分から名乗りをあげ、「片っ端から死人の山をば築いてくれん」。蘭丸のさしだす矢を次々と、「ヒュウッ」「ヒュウッ」とくりだしては射ちまくり、 「さすが上様、天晴れなるお手の内にて‥‥」。森蘭丸に誉められ、信長もにっこりと、「久し振りに弓を握ったが、昔とった杵柄とは申すが、よく当るのう。見てみい、もう四人も倒したぞ」と次の矢を放てば、側の蒲田余五郎も、「これも大当り‥‥お見事」。信長の手練の腕前に感じ入って、思わず驚嘆の叫びをあげた。

 しかし、天には好事魔多く、せっかく調子が出かけたところで、信長の弓弦に寿命がきたのか、ぶつりと切れてしまい、もはや矢は射れなくなった。そこで、「次は、道具をもて」とよばわると森蘭丸がかしこまって、「はあっ」。小走りに座敷へかけこんで、「月剣」と異名がある信長秘蔵の十文字槍の鞘を払って持ってきた。「よし」 といいざま、大和の宝蔵院から献上してきた秋水のごとき名槍を小脇に抱えて、「さあ来い、きたれ」とばかり、段階(きざはし)から、「えい、やっ」と群がる敵中へ躍り込み、「この信長の‥‥槍先をうけてみいや」。当るを幸い突き伏せてしまい、引き抜いては、これで近寄る輩を薙ぎ倒す。黒山のように寄せてきた敵も、この信長の獅子奮迅の働きに次々と築くは死人の山。「屍山血河、とは文字通りこの有様か」。さすがに皆たじろいて潮のごとく後退しだすと、「不甲斐なき味方の奴ばらかな。いでや、この安田作兵衛が、右府公の御首級を頂戴せんもの」。虎髭を顔一面にさながら針金か釘でもうえつけたような鬼の如くに凄まじい武者が、「いざ御免候え」と、りゅうりゅうとした槍をしごき、黒革胴の大鎧のまま、さながら甲虫の如く飛びはねて突き刺さんとした。これには、さすがの信長も、最前よりの力戦奮闘にて疲れきっていたところゆえ、 「‥‥ややっ」と鋭い槍先をさけようとしたが、間一髪。「うぬ」と誤って、その作兵衛の槍の先にて右腕の肘を縫われてしまい、「しまった」と危うく月剣とよぶ大身の槍を落しかけたところを、「恐れながら」。駆け寄りざま蘭丸が、すんでのところで信長の腰の辺りに刺さりそうになったのを、横合いから、「おのれ上様に、無礼であろう」と、月剣の槍の柄で払ってのけるや、段階の上から、「この慮外ものめが‥‥」。飛び降りざまにエイヤアッと突き立てる。すると狙い誤たず、「グサリ」とばかり作兵衛の大腿に深々と音を立て刺し通る。が、安田作兵衛も名代の豪傑。「なんのこれしきのこと」と、自分で、その槍の穂先を抜き取ってしまうと、「よくも、この俺に槍をつけおったな」。いきなり自分の槍で蘭丸に突き返してくるが、なにしろ身軽な蘭丸のことゆえ、「ここまでござれ甘酒進上」とばかり、すばやく段階の欄干にかけ登ってしまう。そして、「‥‥上様」と、振り返りざま、信長によびかけ、「かくなる上は、早ようお腹を召されませ」と絶叫する。

 それまで肘の傷口を蒲田余五郎に布で縛らせつつ、形勢如何とあたりを睨んでいた 信長も、もはやこれまでと覚悟をつけたのでもあろうか、そこでにっこり微笑み、「では後はよしなに、もう少しの間、防ぎを仕れ」と云い残すなり静かに居間に入っていきピシリと板戸をしめきると、燭台を倒して火をつけ、勇将の最期を飾るのにふさわしく、「かねて覚悟のところ」と何の未練もなく、正座するなり、小刀を抜き放つなり逆手に握り締め、おもむろに下腹をおしひろげた。が、こうなると周章てたのは安田作兵衛。せっかく自分が信長公に一つの槍をつけたのに、居間へ入ってしまわれ、戸の隙間から白い煙がゆらゆらと流れてきては、「これは大変。せっかくの天下一の手柄が、これではふいになってしまう。なんとかして信長公の御首級を頂かん」。あせって段階をかけ登らんとすると、「そうはさせじ」とばかり、またも蘭丸が飛鳥のような早業で、飛んできて前をふさぎ、「静かに御生害なさらんとするに、邪魔だて致すとは、憎っくき奴かな」と上へ駆け上りかける作兵衛を、またしても自分の大身の槍をふるって、その十文字 槍を薙ぎ倒そうとするが、なにしろ森蘭丸の方が身が軽い。「ここと思えば、又あちら。燕のような早業じゃな」と段階の欄干をひょいひょい右に左に飛んで防戦する蘭丸には手をやいてしまい、ついに鬼の作兵衛も、「無念、残念、口惜しや」と泣き出してしまった。

 これが菊人形のパノラマや絵本でお馴染みな、森蘭丸の奮闘ぶりの一場面である。やがて、主君の織田信長公が静かに生害を終えて、その信長が放った火で本能寺が燃えだしてしまうと、「もはや、これまでなり」幼い弟の力丸、坊丸をよび、「出でや上様の御供をば仕らん」と互いに刺し違えて屠腹。ここに本能寺の華と散った。

 諸君。かの森蘭丸は忠君至誠の士。まだ君たちと変わりない紅顔可憐な少年の身でありながら、主君信長公を守って悠々たる大義に生き、壮烈な一死をもって死後三百六十年の今日にいたるまで、その芳名は歴史に燦然と輝いている。君等の中で「昭和の蘭丸たらん」と志す憂国の士は、後方にしつらえて待って居られる少年航空兵や少年特別兵の受付の前に行って、はっきり自分の姓名を申告し、応募用紙を頂いて申し 込みなさい。戦局は今や苛烈にして、我々の祖国は現代の森蘭丸を待望することや切である、と一席ぶつ歴史家先生の演台の背後には、畳に枚ぐらいの大きさの本能寺の戦争画。 信長は隅っこの部屋の戸口から顔を出しているだけで、絵の中央は前髪だちの美少年森蘭丸が、まるで裾がめくれているのを少女のように恥ずかしがりながら、それでも鬼畜米英の怪物のような安田作兵衛に向かって、必死になって槍を向けていた。

 今想いだしても、あの絵には「耽美」というか、そこにはナルシズムがあった。大政翼賛会報国美術隊に加わっていた、現在でも有名な画伯の描いたものである。旧制中学の講堂で、スフのゲートルをまいたイガクリ頭の少年達は、蘭丸の白い脚や桃色の顔に春絵のようなエクスタシーを感じ、そして最近やっと映画化された少年特別兵募集のために、狩り出されてきたような歴史家の講演にすっかり感激してしまい、それぞれ本能寺へと、「君もゆくなら俺もゆく」と、太平洋に狩り出されていった。そして彼等の殆どが髪の毛一本入っていない白木の箱で戻ってきた。だが、この本能寺の話は本当だったのだろうか?

 まず、「蘭丸」の蘭の字であるが「信長公記」でも、「森乱丸」である。これは<角倉文書>に、「了以が御朱印船の許しを賜りカンボジヤへゆく。その香をすうと延命長寿なりという奇花の種子をえて、これを駿府(家康)に献上す。神君は珍重されてこれを蒔く。芳香なり。もって、その効も有らんかと仰せられて、その花に『らんか』と命名さる」というのがあって、乱丸の死後三十年たってから「蘭花」という文字が現われてくる。つまり、乱丸の生前には金襴の「襴」の字はあっても「蘭」という文字は使われていない。だから、「蘭丸」として出てくるものは、これは彼を美少年的イメージにおいて錯覚させようと作為されたものとみられる。なにしろ蘭丸のすぐ兄にあたるのが 「鬼武蔵」といわれた森長可勝蔵(庄蔵)で、天正十年の甲州攻めの先手となって、信長から「信濃の内、高井郡、水内郡、更科郡、埴科の四郡十四万石」を貰って、川 中島の海津城を居城にしたとき、その容貌魁偉なるに信州人が愕き、「鬼鹿毛(おにかげ)(馬)に鬼武蔵」と言ったと「信濃風土記誌」には残っている ほどの容貌である。

 すると、古来「瓜の蔓に茄子はならぬ」というから、兄が鬼みたいな顔をしているのに、弟が美少年というわけはない。やはり、「鬼少年」でないと話が合わない。 次に年齢であるが、俗書では十六歳。戦国人名辞典でも、何を根拠にしたのか、本能寺で死んだ時を十八歳にしているが、兄長可が西暦1588年生れで、本能寺の変の時は二十六歳である。さて、森兄弟の父の森三左エ門というのは、西暦1570年に近江宇佐山の城を守っていたが、朝倉浅井の連合軍に攻められて四十八歳で戦死している。逆算してゆくと長子長可が十三歳の時にあたる。この他に男児は、 二男 森乱丸長定 三男 森坊丸長隆 四男 森力丸長氏 五男 病没 六男 森千丸忠政で、他に四人の娘がいたというから計十人。父四十八歳で長子が十三歳ということは生産開始は三十六歳から戦死するまでの十二年間となる。その間に十人が産まれたとなると、出生間隔は1.2年の勘定になる。もし乱丸の年齢が兄の長可よりも8歳も10歳も離れていて、十八歳や十五歳ならば、父森三左が四十四歳か四十六歳の時の子となる。すると、三男の坊丸以下男女八 人の子供は、父が四十八歳で討死してしまうから、四年または二年間に、毎年二人ま たは四人の割合で、つまり一卵性双生児か、三つ子や四つ子でなければ生産できない という計算になる。もちろん森三左は男だから自分で産むわけではないから、側室でも沢山並べて次々 に妊娠させたかと思ってみたが、それでは本能寺へ馬にのって出かけた力丸、坊丸と いうのが幼児という計算にもなる。といって竹馬にのっていったものなら、馬の口取り仲間の必要もないし、信長は幼 稚園の園長でもないから、子供を遊ばせてやろうために本能寺へなど伴うわけなどない。それに、「長隆、長氏」という名乗りを二人が既に持っていたということは、当時としては一人前の青年だった事を意味する。すると、これは常識として、この森兄弟の年齢間隔は前述の平均値の1.2年が正しい。

 つまり森乱丸が十五歳とか十八歳というのは歴史家の嘘であって、長男が二十六な ら次男乱丸は二十五歳または二十四歳が正しい。これの裏書できる史料としては、信長公記巻五、「御国割りのこと、天正十年三月二十九日」の末尾の方に、はっきりと「金山よなだ島、森乱丸へ下さる」と明記されている。總見記では「森乱丸は美濃岩村五万石の城主」とある。  だが、岩村の城主は団兵八であって、これは間違いであろう。 なにしろ、乱丸の兄の森長可は天正九年までは美濃金山三万五千石の身分で、天正十年の国割りで信濃四郡十四万石になった。が、本能寺の変で信長に死なれた後、上杉勢に攻めたてられて逃げ戻ってきた時、乱丸が討死していたため、古巣の美濃金山城へ入っている事実がある。

 つまり、「美少年森蘭丸の前髪だちの、牛若丸のような奮戦」 というのは、歴史家がいくらがんばろうとも、まったく事実相違であって、「年齢二十四、五歳の容貌魁偉な大男で、当時三万五千石か三万八千石の大名だった男」というのが森乱丸の実像であったとみるのが、どうみても正しかろう。

 「小姓」というと芝居や映画で、かわいい小さな女児が紛争するのを瞼に浮かべて、「乱丸も、ああいう可憐な、よか稚児さんだったのか」と連想するのはホモ的な考え方で、戦争に協力してこういう嘘で多くの少年兵を獲得して、皆殺しにしてしまった 歴史家というのはひどいものだと私は思っている。今でも死んだ少年兵が可哀想でならない。

 しかし、問題は、なぜ信長が「乱丸、力丸、坊丸」と、後世の歴史家が少年や幼年 に間違えるような呼び方で扱ったかという事に、これはかかっているようである。そして、日本の歴史学では、まだ未解明のままになっているが、西暦六、七世紀に 仏教をもって大陸から舶来してきた人種と、それまで日本列島にいた原住民との闘争そのものが日本歴史なのであって、応仁の乱から信長の時代にかけては、これは明瞭に、「公家対武家」という対立をとっている。俗書又は公卿の日記類では、「前右府公」とか「右大臣」といった扱いを信長の肩 書きにしているが、信長は、西暦1577年の十一月に右大臣となったが、翌年の春 にはすぐ辞めている。つまり、半年も在任はしていない。武家のボスとして公家に対し、それに結びついている高野山や比叡山を焼き討ちして、今の浄土真宗本願寺と戦っていた彼は、「公家の官位につくを、潔しとせず」と、天正六年春に右大臣を辞めた後は、「無位無官」の野人として死ぬまで頑張っていた。だから「前右府」などと生前に呼ばれるわけではない。もし、そんな言葉を出した ら即座に叩っ斬られていただろう。

 さて、これは、このしめくくりとして書くことであるが、西暦1571年に日本へ 来たイエズス派の宣教師の一人が、 「日本にはいくつかの国がある。一つはエズ(蝦夷)といい、言語も容貌も相違する」と元龜二年、信長が仏教徒のたてこもる比叡山延暦寺を大虐殺したのに驚いて本国へ出した書簡がある。それをもって、まるでその外人が北海道へ行ってアイヌの見たよ うに解釈している向きもある。しかし、これは京都より東に居住していた日本原住民系。はっきり書けば、信長やその家臣団の連中と、京から九州へかけて分布し、現在の広島あたりを「日本の中国 地方」とよんでいる人種とは違っていたということだけなのである。「戦国武者」と呼ばれる非公家の地家の面々は言語、容貌まるで相違して、まるで別の国のようであると、その宣教師は手紙を出したにすぎない。西暦六、七世紀から追われて北海道へ渡り、そこで孤立してしまった一部がアイヌに同化したかもしれないが、あくまでレジスタンスを続けた日本原住民の連中は捕えられて、これを国内二千有余の別所に収容されたという歴史が「続日本紀」や「日本 後紀」にはある。 織田信長も近江八田別所織田の庄から尾張へ移った部族の末裔である。今日では、 もうはっきりしている。

 さて、別所というと、「大原女いらんけぇ」で名高い京に近い八瀬大原も昔は別所である。江戸時代、文化四年刊小宮山昌秀の「楓軒偶記」と安永二年版二鐘亭半山の 「見た京物語」には、「大原女とて物みさぐ矢背大原の里は、別所ゆえ課税なく家ごとに富むといえども、他村との交わりはなく、ここは女天下の土地にて、家ごとに主婦ありて男衆を呼ぶに、犬を呼ぶ如く『ちよ、ちよ』という。しかも、これは男の総称にて『太郎』というがごとく、かかる別所にては男は皆『竹千代』などと称すなり」とある。また、「江都俳諧考」には、「朝顔に釣瓶とられて貰い水、などとの句にて知られ る加賀の千代女が、その名の下に『女』とことわりを付するは、古来『千代』は男名にて、三郎、五郎の『郎』にも当たればなり。その人の親の男児を称し。生れる前に 『千代』と名づけしも女児なりしが、そのままにて名を通す。よって当人はそれを恥じ、己の名の下に『女』をつけ『千代女』といいつると聞きはべるなり」とある。つまり「前田犬千代」などという前田利家の名前など、はっきりした原住系を意味するものだろうし、高野山へ父に逢いに行く「石童丸」というように、下へ「丸」が つくのは「マロ」と自称する公家仏家の出身という区別が戦国時代には、はっきりつ いていたものらしい。

 さて、信長も若いときには、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」と、大いに原住民系のホープとして片っ端から叩き殺したり、焼き殺して仏家の者を征伐してきたものの、次第に天下統一の機運に乗ってくると、これはどうしても「清濁あわせ呑む」という か、「四海同朋」というように、公家仏家も同一視して、日本共栄圏を作らねばならぬようになってきた。しかし、これまで信長というと、高野山から出ている遊説僧の、「荒野聖」までひ っ捕えてきて、これを数珠つなぎにして斬殺しているものだから、「千代」の幼名をつけられる部族出身者達からはもてはやされ支持を受ける反面、「丸」と幼名をつける側の公家の藤原系の人々からは、「あな怖ろしの信長や」と警戒されていたらしい。そこで信長は、「わしも心をいれかえた。これからは『丸』や『麿』のつく連中とも丸くうまくやっていくつもり」 といったことを政治目的として大いに宣伝周知させるために、(丸のつく連中でも側近として可愛がっているのだぞ)とばかり既に元服もすませ、「森長定」だとか「森長隆」「森長氏」といった一人前の青年をも、その政治的配慮 からして、これを信長はいつまでも「乱丸」とか「坊丸」「力丸」などと故意に呼んでいたものとみられる。

 信長という人はそうした細かい計算だけにだけ、きわめて頭の回転のよかった男ゆえ考えられる事であろう。だから、ついに四世紀後になって、花も恥じらう美少年や可愛い美童のように扱われてしまい、それだけならようが、少年特別兵募集の際などは、 「君達中学生諸君も、昭和の森蘭丸になりたまえ」と、学校の講堂でのアジられるサンプルにまでされてしまったのが真相らしい。
 森乱丸は大男
 「やっと夜も明けてまいりました。昨日の大雨の後ゆえ、少し白むのが遅うござりました」。あれから起きたままだった乱丸が声をかけると、横にはなっていたが、眠っていなかったとみえ、「よしっ」 と信長は起き上がった。そして、「教会へ集まった者どもにしては、ちとうるさすぎるの」。自分で顔を出して怒鳴りつけるつもりなのか、そそくさと衣桁(えこう)にかけてあった絽羽織に手をやろうとした。そこで、「はあっ」と坊丸がとんでいって羽織をおろすと、信長の肩にかけ前へ廻って紐をゆわえた。控えの間から濡れ縁に出ると、そこは廊下続きゆえ、もう桃色になってきた六月の空が仰げた。が、白っぽい陽光があたりを包んできたとはいえ、手を伸ばすとまだ指の先はぼやけて視える程度だった。しかし、それでも信長は大股でせかせか歩いていった。なにしろ本能寺の周辺でも、ここと同じくらいに明るくなってきたせいであろう。まるで餌を拾いに集まってきた雀のように、人声がうるさく、前にも増して響いていた。

 「けしからぬ輩め」。信長は振り替えると、背後から打ち太刀(かたな)を両手に捧げて持ってきた力丸に、「よこせっ」と不機嫌に怒鳴った。「はあっ」と腰を屈めて差し出す太刀を、 「この騒ぎはなんである‥‥頭(かしら)分の者の素っ首これではねてやらす」。柄頭に黄金の曲り枠のはまったところを引っ張った。鞘の金蒔絵の螺鈿細工が、いつもならピカッと反射するのだが、まだ陽が差し込んでいないせいなのか、鈍く鉛色にくすんでみえた。「これっ、虎松に愛平」。向こう廊下に座って迎える二人の顔がやっと見えてくると、「村井道勝の許へ使いしてか」。信長はキンキンした声で呼びかけた。「‥‥もうしわけございませぬ」。年長の高橋虎松の方が両手を前へ放り出すようにして、その場に額をこすりつけた。「今まで何をしておったか」。不機嫌そうに信長は眉をつりあげた。 「はぁ、不浄口もしっかり閉ざされてしまい、なんとしても戸が開けられませぬ。よって厩より駒を引き出し、築土を一気に駆け登って外へ出ようとしましたところ‥‥」と、そこで無念そうにしゃくりあげた。「よって、何と致したぞ」。足を止めた信長にせかされると、堪りかねて嗚咽(おえつ)しだした虎松に代わって小川愛平が、「厩仲間に手伝わせ駒の尻に鞭をくれさせ、一気呵成に築土の山は越えましたなれども」と、そこで言葉に詰まったように黙ってしまった。

 だから信長に代わって乱丸が、「築土の山をとびこえたはよいが、外の濠へでもはまってしもうたと申すのか?」と 聞き、「これさ‥‥はっきり申し上げい」。短気な坊丸が二人の背後に廻って、どやしつけるように耳許へ口をつけた。しかし、 「濠はとうに古板や床板をかぶせられていて、水中には落ちませなんだ」と愛平が云えば、虎松が拳で涙を拭い上げつつ、「飛び降りた我らの馬は押さえられてしまい、馬は貰っておくが、人間はいらん。そないに云いおって我ら両名は手を取り足を取られて、また築土の上へ放り上げられ、この境内へ戻され、突き返されてしまったのでござります」。口惜しそうに涙声で説明した。「‥‥うむ」。ただ怪訝そうに信長は顔をしかめた。「それで、きまりが悪うて、この乱丸の許へもその旨を言いにこなんだのか」と二人を叱るように云ってから、「‥‥して寺外の様子は、如何でありしよな」。続けておおいかぶせるよに尋ねた。「はあ、今と違ってもそっと暗かった時分ゆえ、はっきりとは何もよく見えませなんだが、なにしろ兵共がぎっしりと詰まっていたやに覚えまする。はい」と愛兵が、おそるおそる口にした。「歩幅にして何人ぐらいぞ」。乱丸は足を左右一杯に開いた歩幅に、およそ何人ぐらいかと聞き返したのである。「はい、三人から四人。深さは七列」。これは即座に高橋虎松が答えた。「えっ?」。乱丸もこれには顔色を変えた。いくら大股にひろげても一人の歩幅はおよそ決まっている。そこに三人も四人もいるということは、本能寺の濠の一辺を一町となし、それを六十間とみれば一列でも濠わきに四百人近く、これが重なり合って七列となれば‥‥ 一辺が二千八百人、これを三千人とみて四方だから乗すれば一万二千人。これの他に 本陣とか使番といった別の命令系統を全体に対する五分か六分として加えれば、取り巻いているおよその兵力は割り出せる。そこですぐさま、「およその周囲の兵力は、一万三千」と乱丸が答えを出せば、すぐ脇から、「手前の目算では一万と二千六百」虎松が言った。

 信長の小姓組というのは、徹底的に暗算で掛け算引き算をしこまれていた形跡がある。もともと初めは、通信機の発達していなかった時代なのでと、何か事が起きてから、「ああせい、こうせい」と使いを出して指図をしても間に合わぬ事が多い。また、その時は辛うじて切り抜けられても、次の段階で又何かが起れば、「如何し ましょうや?」と問い合わせをよこす。すれば、かくかくせいと次の使者を出さねばならぬ。 (この煩わしい反復を避ける為に、自分と同じ様な判断を臨機応変に、その場、その場で下せる者。つまり己の代行をする者を育て上げよう)と信長の意図したのが、この小姓団である。つまり、人間それぞれ個性は違うが、 (幼い時から手許へ置いて、いつも合戦に伴っていって、本陣へおいて見習わせておけば、こういう時は上様はかくなされた、ああした時は上様はああなされた、と記憶にすがっても処置してゆけよう)と考え、幼年学校から士官学校といった具合に順々 と教育してきたものらしい。

 というのは信長の若い頃、妻の奇蝶の里の父斎藤道三というのが日蓮宗妙覚寺で、やはり「丸」のつく名で入門し、のちに「法蓮坊」と名乗ったこともあるから、それへの気兼ねで、信長は己の子にも、長子は「奇妙丸」、次男は「茶筅丸」といったように、皆「丸」のつく名乗りをさせていたが、その子等を軍陣に連れ出し、仕込んでみたところ、そこは親の子という血脈もあろうが、結構よく代行に間に合うから、ついで家臣の遺児や、これはというのは側近に置いて仕込んだのである。「高級参謀団」のような編制をとっていたもので、参謀教育といっても、突いたり斬ったりする体育よりも算数の計算の割り出しが主だったらしい。なにしろ当時は計算機はなく、勘定をするのに、まず両手の指を折って使い、それだけで足らないときは足の指まで加えて算えたものであるが、信長は関孝和などが生れ、日本の数学が誕生するよりも二世紀も早く、この小姓団に掛け算割り算の暗算教育までしていたらしい証拠がある。

 奈良の興福寺の塔頭多聞院の和尚英俊は、 「奈良一国の土地割出し検出係に、織田信長からその小姓の矢部善七郎がまわされてきた。これまでの隠し田などが一切合財、彼の計算にかかっては浮かび出てしまうが、仏の収入が、こういう具合に搾り取られ減らされてしまうとは、世も末と覚える。しかし、手をこまねいて傍観しているわけにもゆかないから、銭十疋(百文)をもっていって、よろしくと勘定のために気持ちを殺して挨拶をしてきた」と恨めしそうに言った事が、その日記に書き残されている。

 つまり信長の小姓団というのは、「軍目付」と呼ばれる大本営参謀の任務もしていたが、また一方では、その皮算用能力を生かして、今日でいえば徴税Gメンのような 任務も課せられていた、これはその裏書きでもあろう。「一万二千から三千の軍勢が、この本能寺を取巻くとはなんであろうか」。乱丸はじめ小姓の面々も、これには顔色をかえたが、当の信長はもっと焦燥しきって、「不逞な奴ばらである。何故に勝手気侭に、この本能寺の表門はいうに及ばず、各築土の木戸口を塞ぎおるのか、至急に調べてこませ」と難しい顔をした。  

 もう、朝の陽は芙蓉の花が開いたように明るく、本能寺裏手のさいかちの森に集まってきた野雀は、昨日までの大雨で飢え切っているらしく、揃って、「チュンチュン」さえずりながら樹の枝から枝へととび、本能寺の便殿と客殿に囲まれた植込みにまで、恐れげもなく舞い降りてきては、チイチイと餌をひろって啄ばんでいた。それを脇目にしながら、信長に言いつけられた森乱丸が正面の表大門口まで行って、固めている厩衆の者や、向こう側の村井道勝邸より泊まり込みで手伝いに来ている女共に、「開けさせい」と命じたところ、大門はおよしなされた方がよいと、耳門(く ぐり)の方を開けられた。しかし耳門というのは高さ1メートルあるかなしで、身体を屈めねば潜って出入りできるものではない。なのに、内開きの戸をこちらへ引いたところ、胴鎧の腹の下のところが、まるで詰め込まれるように、戸口まで押し合いへし合いしていて、「御用の向きにて、美濃金山城主森長定様のお出ましぞ。どきませい」と厩衆が外へ乱丸を出そうとして喚いてくれたが、返事どころか咳払い一つ戻ってこない。かえって、「わっしょ、わっしょ」と開けた耳門から犬の子一匹出すまいとするように、押込んで邪魔だてをしているだけである。

「俺が森乱丸長定ぞ。上様御下知にて外へ出ようとするのに、何で邪魔だてを致すぞや‥‥組頭なり、物頭なり、一応の話のできる者を廻してよこせ」とばかり乱丸も、このままでは引き返せぬから、大声を出して呼ばわった。しかし、いくら待っても返事もないので、堪りかねて、「この森長定の命令は、恐れ多くも上様の御言葉なるぞ‥‥それでも外へ出られぬよう人垣を作って邪魔だてを致すのか」。烈しく叱咤した。 が、それに対しても、塀の外からは何となく、ただ響いてくるのは、「わっしょ、わっしょ」と祭りの山車でも担いでいるよに騒がしく、「やあ、やあ」と矢声と、それに混ぜて聞かせてくるだけだった。そこで、「誰ぞ道具をもっておらぬか」。居堪らなくなって乱丸は振り返った。

 さて、この時代は「調度」といえば弓の事、「道具」とよべば「槍」の事である。しかし乱丸ら小姓三十人は「身軽についてきませえ」と信長に命令されて、二十九日に安土城を出てきた時、鎧具足はいうに及ばず馬の手綱を両手でひっぱる邪魔になるからと、誰一人槍さえ携行していなかったのである。だから、村井邸より手伝いにきている武者から槍を借りて、それで耳門のところから突き崩してでも、乱丸は外へ出ようとしたのである。なにしろ、「問答無用っ」という言葉があるが、てんで相手が返事さえしないので、乱丸としては胴鎧しか見せない相手を、突き立てて血路を開くしか脱出の手だてはなかったのであった。しかし、そうは思っても、と村井道勝から来ている武者共は、「滅相もない」。自分等の槍を貸しだすかわりに誰もがよってたかって、「そんな無茶はおよしなされ」。袖をひっぱり肘をつついて諌めた。乱丸を押し返すように引っ張って戻した。しかし、 乱丸は、「何故じゃ」と喚き返した。なんとしてでも外へ出ないことには、言いつけられてきた主命がはたせぬと、乱丸としては血相をかえ、押さえる手を払いのけ、「邪魔だて致すな」と叱りつけるのだが、「入口や木戸を外からふさいでおりますが、何も小石一つ放りこんできたわけでなし‥‥」 とか、又は意見でもするように、「この本能寺を取巻いておりまする軍馬や軍兵は、先刻われらが大屋根に登って検分しましたところでは一万の余。一万五千もおりまする。なのに寺内は上様はじめあなた様御側衆等で三十と一名。あとはお厩衆と、我ら村井より参った家人どもだけで、手伝いの婢女を加えても合計は百とはいませぬでな」 と年嵩の頭並の男が口にした。

 すると、やはり寄り添う髭もじゃの男までが、「向こうが何も仕掛けてこんのに、こちらから槍をふるって突きかかるは穏やかでは ござらぬ‥‥この寺内に我らだけならば苦しゅうござらぬが、なんせ御客殿には上様も居られること」と手をかすどころか、あべこべに忠言してきた。「何の事やら我々、とんと見当はつきませぬが、向こうの邸には我ら主人の村井民部介道勝もおりまするし、洛中の武家屋敷はこれことごとく、織田信長様の家来でない者は一人もない筈ゆえ、こちらより、何も無理して外へ出られなさらんでも、おっつけ御味方衆が集まってきて、外の人垣を追い払って門を叩いて参りましょうほどに」。他の武者どもも、乱丸に早まった事をするなと言わんばかりに口々に喚いた。

 江戸時代でさえ京には各大名の京屋敷というのが、ずらりと百五十はあった。 秀吉の伏見城の頃でも、「伏見京大名屋敷図面」というのが残っていて百はある。だから、信長の頃でも京の市街には諸国大名つまり信長の家来の屋敷がやはり四十くらいはあった。一邸百人から二百人とみても、四千人から八千人ぐらいの留守居はいたはずである。なのに、この時の洛中の信長の家臣の京屋敷については、その絵図面はもとより、存在をはっきりさせるものも何も伝わっていないのである。この事件後に国家権力を持った者が徹底的にそうした図面は集めて焼き払い、まるで京には信長と小姓しかおらず、他の織田方京屋敷は、さながら皆無の如くに体裁を作ってしまっている。

 しかし、信長は前年天正九年の「大馬揃え」とよぶ観兵式を、前後二回又は三回、京で示威運動として開催している。こうなると、信長の家臣の大名としてはホテルもモーテルもなかった時代だから、どうしても家来団やその乗馬の群れをつなぐ厩付の大きな家がなくてはならぬ。つまり各自の大きな京屋敷を天正八、九年までには洛中に普請していたはずである。勿論、安土にはそれぞれの留守邸のを置いていたろうが、京にも屋敷を持ち百名から二百の留守武者を置いていた筈である。ところが、<細川家記>にも、「今出川の祖国寺門前にありしは、家老米田壱岐守の邸にて、細川家の京屋敷はなく、本能寺の変が起きるや、使番として早田道鬼を丹後の宮津城へ走らせた」とあるように、おかしな話だが、家老は京に屋敷をもっていても、細川藤孝や忠興の殿様父子は吝をして京に邸はなかった。そこで家老が丹後まで、「如何しましょうや?」と使番をだしているうちに本能寺の変は終わった、と変な話にさえなっている。

 勿論、各大名が京屋敷に留守居の武者を揃えていながら、本能寺の変を傍観して、信長や乱丸達を見殺しにした裏面には政治的謀略と相当な銀子が動いていたろう。また、京の絵図面の中で天正時代のものが今となっては一枚も残っていないという事実は、六月二日の本能寺の変から十日あまりで死んだ明智光秀のやれることではないし、またできることでもない。「信長殺し、光秀ではない」を、もし興味ある方は一読していただきたいものである。なにしろ「御霊社」とか「御霊神社」というのは、無実の罪で殺された人の魂を祀るものとされているが、明智光秀にも京都府福知山市には大きな御霊社が江戸時代からあって祀られている。「一体、こりゃ何じゃ。夜明け前からワイワイ集まってきおって、もうかれこれ一刻半(三時間)もたつではないか」。信長はすっかり焦燥しきっていた。だから、「もし害心を抱くものなら、やつらは甲冑に身を固め弓鉄砲まで持つ一万三、四千の軍勢ゆえ、ワアッとここの境内へ攻め込んでくれば、なんせこちらは槍さえ持ってきていない有様ゆえ、息をつく間にも勝負はつきましょうほどに、てんで攻め掛かってこぬは謀叛ともみえませぬ有様。よって、まぁ、ご安心なされましょう」。乱丸は口にした。しかし、(何がなんやら判らずに包囲され、いくら待っても京中の大名屋敷からの援軍もまだ来ぬ無気味さ)には、乱丸初め小姓団の三十人も、切ながって息を吸うのさえ重苦しい檻の中で、「こりゃ堪らんのう‥‥まるで生き埋めにされとるようじゃ」と、あえぎ切っていた。「こないな馬鹿げた真似しくさったら、癇癪持ちの上様が後で許される筈もなかろう。囲んでいる輩は、いずれも後で一人残らず縛り首にされるじゃろ」。いまいましがって、地団駄を踏む者もいなかった。みんな囲みがとけてからの話より、目先の息苦しさにへこたれて脂汗をだらだら垂らした。溜め息と吐息を交互にもらしていた。

 もはや真紅の花をつけた金蓮花の叢に、餌を啄ばみに来た雀の群れもみえなくなっ た。チイチイないていた小鳥のさえずりのかわりに、「ヒイヒイ」と女達の涙声が洩 れてきた。 「こない時に女ごはいかん。村井道勝めが、手伝い女などよこしておくからじゃ」。高橋虎松が忍び泣く女共の声を聞きとがめ、それを制しようと出かけていった。が、これがいけなかった。虎松に叱り飛ばされた女達は、それまで堪えていたのが押さえようがなくなったのか、裸足のままで植込みを斜めに駆け込んでくるなり、信長のいる客殿に向かって、「お助けなされませ」と声を枯らして絶叫しだした。びっくりした乱丸達は駆け出していって、「これ、恐れ多いぞ」とたしなめながら手荒く、「早々に立ち去るがよい」と、女達の肩をつかんで引き立てようとした。だが、半狂乱の女どもは、もう咎めても言うことをきかず、てんでに逆上して、「上様はお豪いお方じゃろ。なんでもできんことはない天下様なら、この手伝いにきとる私らを助けてやりなされ」と、押さえる小姓どもの手に喰いつく者までいて、「死にとうないで」と絶叫したりした。「なんとか救うとくりょ」と喚き散らす女どもには、小姓どももすっかり手を焼いた。若い坊丸のごときは、年少の愛平と一緒になって、涙をぼろぼろ眼に溢れさせていた。信長も同じ想いだったろう。「なんとかならぬか‥‥女どもだけでも外へ出してはやれぬか。築土の上までつれていき、そこから落としてやっても怪我すまい」。灯り障子の蔭から、たまりかねたように声がした。しかし、そうは言われても、「はぁ、さいぜん村井の武者どもが向いの村井邸に連絡すべく、四人あまり築土へ這 い上り、そこから飛び降りましたなれど、蹴鞠が跳ね返されるごとく、次々と足をと られ、またこちらの境内へ弾き返されて戻りました」。乱丸も答えるしかなかった。「そうか‥‥」。障子をあけ織田信長が顔を出した。すると女達は捕まえられていた手をふり切って、その足元へ駆け寄りざま、「助けたって‥‥」と縋りつく。他の女も口々に、「死にとうない」と泣き叫んだ。「うむ、この信長は何でも出来る男の筈じゃったが、今朝はちいと具合が悪い。この 儂とて、今のところ何が何やらわからんのじゃ」。慰めたつもりだろうが、かえって女共の泣き声を甲高くさせただけだった。つられて小姓共も、「うう‥‥」と皆声を堪えかねて男哭きした。

 
その瞬間である。ゴギャアーンと大爆発が起きた。本能寺は赤い火柱に化した。寺の建物は、客殿便殿その他堂宇の一切が粉々になって、六月二日の、ようやく青みを見せた青空へ、まるで噴火するみたいにはじけていった。しかし、「フロイス日本史」の「カリオン師父報告書」では、この火薬の出所がイエズス会からだという事を隠すためにごまかされてしまっていて、「侵入してきた兵達は、信長が洗顔をしているところを見つけた。そこで背に矢を放 った」というのであるが、最後の部分で、「我々が知り得たところでは、三河の王を討つために上洛した信長も、その一行の女も、みな毛髪一本も残さず灰塵になってしまった」と爆発による謀殺を示唆している。 それにしても、まさか起きてから三時間後に、のこのこと手拭いをぶら下げて、信長ともあろう者が洗面所などに行くわけがなく、のんびり背を向けて縁側でジャブジ ャブしていたわけもなかろう。

 この事件の三年前にスペイン王フェリッペ二世が開発させたチリ硝石、新黒色火薬による物凄い爆発が、この一瞬に全てを決したとものだろうことは疑いもない。つまり、これが信長の最後であり、本能寺の殺人事件の確かなことである。
(了)





(私論.私見)