3章、意外な犯人

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 意外な犯人
 女婿丹羽長秀
 「‥‥五郎左か。その方を召したのは外でもない。作事方を仕れ」。キンキンした信長の声が頭の上で鳴り渡っていた。「うへえッ」と丹羽五郎左(後の長秀)は手をついた。そして、おもむろに、(何をするので‥‥?)と尋ねようと顔をあげたところ、もう肝心な信長はいなかった。「ややっ」と見渡すと、合歓の樹の向こうに背が見え、木の葉の茂みに消えてしまっていた。勿論五郎左は追いかけて行けばまだ間にあうとは思いはしたものの、さて、そこまでしては御機嫌を損ねはしまいかと迷い、考え込んでしまい、追いかけそこねる結果となった。が、他の者や同輩に、(手前のいいつかった作事方は、一体何の仕事でござろうかのう?)とも聞きかねた。そこでしょぼんとして戻ってきたところ、父の十郎左が、「どないした‥‥お呼び出しを受けて出かけたのにしては、戻ってくるのが早すぎるではないか」と不審がった。そこでわけを話したところ、十郎左は、「ばかったれめ」。拳固を固めていきなり殴ってきた。

 まだ、この頃はアメリカはインディアンの天国で、ジョージ・ワシントンも産まれていないから、後世のように「桜の樹を切ったワシントンが父に正直に打ち明けたら父は素直な良い子であると褒めた」という学校の教科書もなかった。つまり五郎左が本当の事を打ち明けたというのは、なにもワシントンの真似ではない。困惑し切ったせいなのである。なのに十郎左ときたら、「この夏の桶狭間合戦でバカ勝ちしたとはいえ、ありゃ瓢箪から駒が飛び出したような番狂わせじゃ‥‥あんな信長づれに威光などあろう筈はない。それなのに丹羽の跡取り息子のその方が、へぇこら仕えるのさえ見苦しいのに、呼びつけられ、話もよぅ聞かんと戻って来ることやある」と情けなさそうに、老いの眼に涙を浮かべ、吐息をついた。そこで殴られながら、(親の心を子は知らずと世間では云うが、俺が家ではこれじゃ反対じゃ)五郎左はくさった。しかし殴られる方より手を出した父親の方がすっかり涙ぐんでいるから、(ほうれみろ‥‥叩いて手が痛かったんじゃろ)五郎左は気が済んで黙っているのに、「よいか。かねて教えてもあるが、信長の父親の織田信秀などは、初めは吹けば飛ぶような勝幡の小城にあって津島神社の祭礼に『傀儡師芝居』や『勧進舞』の興行をなし、旅の遊芸人に働かせ、分け前を出すときは弓矢で脅かして『敵や』と言われてきたような男。天文二年七月に蹴鞠興行をもって京より津島へ来た飛鳥井中納言の一座を借り切って、これで大儲けをして軍備を整え、名を上げた程度の下司ではないか」と父十郎左は伜に叉も言ってきかせた。

 「本能寺の変」の頃の事を日記に書いたのは時の中納言山科言経だが、その父の言継も大永七年から天正四年まで五十年間の日記を残している。その中の天文二年七月十四日の条には、プロモーターとしてこの興行に同行した山科言継が、「織田信秀来る。今日の分の『盆料』として飛鳥井へ銭百疋。予と蔵人へは五十疋ずつ」と明記されている。つまり「盆ござ」とか「盆の料(しろ)」というのは幕末の天保以降の事のように思いがちだが、織田信長の父の信秀の時代にお公卿さんに蹴鞠をさせて盆を敷いては客に賭けさせ、勝負は八百長で座主の飛鳥井卿には銭千疋も盆の割り戻しがあったのが、これでよくわかる。
 「さて‥‥」と十郎左は座り直した。そして、「わが丹羽家というは織田の如き土着の出身ではないぞ。海を渡って当国へ遠征して きた舶来人の末裔である。よって明国と安保条約を結び、銭も共通にしてしまわれた室町御所の華やかなりし頃は、尾張管領の斯波家にあっては右の柱とも敬われたものである。ところが、先々代の斯波義達様が遠州引馬城(後の浜松)にて今川に破れ、捕虜となられた後に斯波家は衰徴。その巻き添えにて当家も零落れたなれど、よいか ‥‥丹羽は斯波家重臣の尊ばしい素性であった。‥‥ここのところを、よく性根をすえておぼえておけ。さぁ信長ごときにおめず臆せず、さっさと引き返して行って『用を 言いつけるなら、はっきり判るように云ってこませ』と談じてこい」と、いつもの癖でけしかけた。

  「うん」。仕方なく五郎左は言った。ぐずぐずしていると又殴られそうだから、藁草履をひっかけると外へ出た。しかし、「無茶をいいおる」と、いまいましがってぺっと唾をはいた。たとえ昔は丹羽家の方が豪い衆であったにせよ、今となっては向こうが旦那で、こっちは家来である。内弁慶の父親にいくら叱咤激励されたからといって、まさか信長の許へ談じ込みになど行けるはずはない。だからして、道端の青い花をつけた露草の丸まった葉っぱを引き千切り、「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず、嗚呼悲しからずや」。口癖でもらし、唇へもっていくと舌を尖らせ吹いてみた。が、笹や篠みたいに葉に 腰がない柔葉なので、いくら頬をふくらませてもプウとも音はしなかった。

 「如何なされました、落し物でござりまするか‥‥御手伝いなど致しましょうか」 。しょぼくれて五郎左が野分けの道を歩いていると、背後から声をかけてきた者がある。「これは、お寧子様か」。うなだれていた五郎左は、少し照れたように赤面したが、「ひとつ、助けてちょうせんか?」と、これまでの一部始終を早口で話した。それなのに、「相変わらず、おみゃあさんは愚図だわね。だで、お花さんかて丹羽の家へ後添いに行かっせるのを、迷っていなさるんじゃろうね」と、木下藤吉郎の嫁女は尾張弁で関係ない事を口にして、(なんと、男とはしようがない役立たずじゃ)といった顔をした。そこで、(ばかにしとる)と五郎左もふくれた。しかし、お寧子の妹で、今は浅野長吉の後妻に行っているお犬と、お花は友達である。だから口答えして後で意地悪でもされてはと用心し、「なぁ、そう云わんと教えたったらええ」。五郎左は甘えるように頼み込んでみた。


 すすと、お寧子は説教するみたいに、「おみゃぁさんはそれだでいかんぎゃあ。そんなとろい事で出世できますかね。‥‥早ようお花はんとこの親爺様に聞きに行ったらええぎゃ。あの父っさまは物頭の下のお指図方じゃもん。何に御用でお呼び出しを受けやぁたかすぐ教えてちょうすがね」と言った。が、五郎左は滅相もないと首を振って、「おらぁいやだ。きまり悪う」て、と拒んだ。「何を云うとりゃぁす。おみゃぁも、うちの藤吉郎と同じ申の二十五じゃろ。‥‥近頃の娘は男をよう見るで、もっとしっかりせな、だっちゃかんがね。はよ行ってりゃぁせ‥‥」と、お花の事を云ったものの、お寧子もしょげ切った五郎左が憐れになったのか、「よし、ついたって代りに御用向きを、この寧子が聞いたろまいか」と言い出した。「本当に聞いてくれるんか‥‥恩にきるで」。感激しきった五郎左は両手をひろげた。「お寧子様の云う事なら、俺何でもきく、何でもやるで‥‥」と繰り返した。すると、寧子は顔を赤くしてしまい、「間にあっとるわ、今は亭主がいるで‥‥」。裾を合わせ目を押さえて口にした。

 「五郎左が言いつけられた作事方というのは、聞き直してもらったら鉄砲の手入れだった。元は斯波家の侍だが、今は織田家随身の者で雑賀右京というのがいる。これが信長の言い付けで和歌山から雑賀鍛冶を伴ってきてから、修理を城内の馬出曲輪の隅で始めたのである。しかし、なんといっても品物が桶狭間合戦で今川方の足軽が担いでいたのを根こそぎかっぱらってきた鉄砲である。そうっと分捕ってこられたらよかったろうが、なにしろ乱戦だった。それに鉄砲を知っている者がせしめてくるのなら大切にしてきたろうが、人手不足でついてきた野次馬にまで加勢させたものだから目茶苦茶である。まぁ、向こうの鉄砲足軽が振り回したのか、こちらが分捕ってから薪ざっぱみたいに殴ってのけたせいなのか、どれも皆傷だらけである。筒先が折れたり曲がったり、一番肝心な「見当」と呼ばれる照準までがふっとんでいる。もちろん銃床の板も割れたり欠けたり、満足なのは数える程度しかない有様だった。だから、「筒口から火挟みの皿までの故障は鍛冶、引き金と台〆鉄をとった台木は 木工方」と五郎左は捻り鉢巻きで、まず分類するのにてんてこまいである。なのに、「どうじゃ。あんばいよう、やっとるか」。気になるらしく、のぞきに来た信長の後から、鉄砲奉行の木下勘平が頗る上機嫌で笑いが止まらぬような顔で、「しっかり精出してやれよ」などと小者達に声をかけながらやってくる。

  「‥‥これは、お寧子様の兄上様」 と五郎左は信長の方は煙たいから最敬礼だけにして、木下勘平の方へ声をかけた。なにしろこの仕事を言いつかった時、話が判らず困っていたのを、寧子に助けられた義理がある。だからついその名を口に出したのだが、途端に勘平は不機嫌な表情をみせ横を向いてしまった。しかし、信長のほうは山と積まれた鉄砲に満足らしく、あちらこちらを見て廻ったあげく、「これ五郎左、その方の仕事はこうして区分けして修理させた後、また鍛冶の雑賀と大工の岡野から直ったものを集めさせ、それを一つに組み合わせ、これなる木下勘平 に渡すのじゃが。‥‥しっかりやれよ。たとえ一挺なりとも無駄にするな。心して励めや」と言った。「うへえっ」。五郎左がかしこまって頭を下げたところ、いつもの調子で信長は、せかせかと大股で立ち去ってしまい、顔を上げるとそこには苦虫を噛み潰したような勘平の顔だけが残っているきりで、「お寧子は‥‥もはや木下家からは勘当されとるんじゃぞ。親爺から触れしてもあろう」とすぐに文句をつけに来た。勘平のいう親爺とは、お武者奉行の木下助左のことで、 娘共は上の「おえい」を織田家槍奉行の杉原十郎左の跡目七郎左へ嫁がせ、御弓奉行の浅野又右の跡目の長吉(後の浅野長政)には、お寧子の後釜に「お犬」をやってい る。そして今度は、助左は跡目の勘平を鉄砲奉行にしてもらったから、織田家の軍事奉行は木下一族一門ですっかり押さえているような権勢ぶりである。それに、この勘平の弟の小市と雅楽助も、共に「放れ駒」、「天狗面」の絵旗を許された指物武者で、この二人は信長付の使い番。現代で云うなら幕僚といった高級参謀の要職である。

 だから五郎左は勘平に抗議されながらも、(あの藤吉郎という奴は俺と同じ齢だというのに、なんとすばしこい奴じゃろ。‥‥これだけ織田家の重職を占めている木下一族へ、お寧子様という女ごを巧く足場に潜り込んで、そんで喰いつくとは、たいした智慧者じゃのう) 舌を巻いてすっかり感心し、(今でこそ藤吉郎めが勝手に木下姓を冒したというのでお寧子様は勘当され、親爺様 や兄弟衆も憤ってはいるが、なんせ一つの血に繁った間柄ゆえ、行く末はあの藤吉郎も木下の一門という事にされて、きっと縁故で立身していくんじゃろ)とうらやましくなった。だが、 「早よ、雑炊を喰ろうて、鍋は洗うか、水に浸けておけよ」。疲れ果てて、やっと自分の家へ戻ると、父の十郎左が、もう暗くなった家の中から怒鳴ってきた。五郎左は、「うん」と返事して鍋の蓋をとった。すると退屈しのぎに早く十郎左が煮て食べてしまった後らしく、残りはもう冷えて固まっていた。椀に盛るのも厄介なので土鍋を抱えたままで、むしゃむしゃ掻きこんでいると、「‥‥土鍋は上へ持ち上げてはいかん。落とすと割れるぞ。下へ置いて自分がつくな って(屈みこんで)喰え」と声が飛んでくる。なにしろ口やかましい父親である。

 昔からよく、まだ子供だった五郎左をつかまえ、「おまえはそんじょそこいらの土民や土豪の伜ではない。れっきとした由緒ある身である。しかと立身し丹羽の家名を興すべし」と口癖のように云っているが、土鍋が割れたら損をするから、犬や猫みたいに手で持たずに、口を持っていって食べろと言うところをみると、(貴種だといってもこれでは大した事はないな‥‥) 稗殻が粒々している雑炊の固まったのを、五郎左が喉へ流し込んでいると、「いいかげんに、うぬ、また嫁取りせい。‥‥槍柄を握っていた手で炊事洗濯するのは 真っ平御免じゃ」と、今度は文句をつけてきた。「うん」。これは同感なので、五郎左も返事したところ、十郎左は寝茣蓙から起きてき て、「本当に貰う気があるンか?」。自分が嫁取りするような顔で、どさりと板の間にあぐらをかいて、「‥‥いいか、嫁を貰うならば才たけて、心やさしき女ごを、なぞと考えたらあかん。わしの体験からいくと、才たけた女というのは、すぐ男をこばかにしおって、ぐずじ ゃとか、阿呆めとかぬかしよる。とても辛抱しかねる。それに心というのは、こりゃ覗いても見えんもんじゃろ。そんな不確かなものが優しいかどうか、どうしてわかる ‥‥なんせ世の中には他人には良く思われようとして優しくて、その反面連れ添う夫には酷いのがなんぼでもいる‥‥お前の前の嫁の妙も実はそうじゃったろう‥‥」と息巻いてから、「どうしても、また嫁取りする気なら、いいか、才とか優しい心はいらんから、うまい物を作って喰わせてくれる女ごを貰え。‥‥わしはこの頃ものを口にするしか楽しみがないでのう」。最後には自分の望みをつけたし終わりにした。

 が、どうも、それでは 気が引けるのか、「あのお花のとこへ、今からでも行ってこい。あの娘はよいところがある」と付け足した。そして、「ありゃ小柄な娘じゃな‥‥よいか。女夫(めおと)になるとは、まず行く末の夫婦喧嘩を考え、男は勝てそうな嫁取りをするべきじゃ」と十郎左は暗がりへひっこんでから答えてきた。言われて五郎左も、(そうか、前の妙は大柄じゃったから、いつも喧嘩して取っ組み合いになると、まさか刃物は使えんゆえ、やむなく三度に一度は組み敷かれ頭をどづかれていた。前車の覆るは後車の戒め‥‥とは、この事なりしか。よし、あのお花ならばきゃしゃで小柄ゆえ、俺も前のように取っ組み合いをしても押さえこまれなどしまい。その点は大丈夫であろう)と、その気になって、月明かりを頼りに表へ出た。しかしである。 (同じ二十五歳でも、藤吉郎という奴は、あんなに親兄弟の良い寧子をせしめ、なんで俺は二度目とはいえ、たかが三十貫取りの指図役ふぜいの娘を嫁にせないかんのじゃろ)と考え込んでしまい、「月見れば、ちぢに思いは‥‥」と思わず夜空を仰いで唸っていると、草ずれの葉音が絡まって、「ちょっと、なにしてりゃぁすの?」。女の声が、するどく礎石のように飛んできた。

 「こういう仕事は、根気よく入念にやらねばいかん。‥‥人から愚図じゃと言われる五郎左を選んで事に当たらせてみたが、ようやった。こまめに部品を補い、有無相通ずるよう、よく融通しあって見事に千二百挺の鉄砲を新品同様に再生した手柄。何を恩賞にくれてやろうぞ」。信長はにこにこ上機嫌だった。なにしろ鉄砲というのは紀州の雑賀鍛冶によって国産 品ができてはいたが、一挺が二十匁もするという高価なもので、とても安易には入手できず、安部金山で銀を掘り当てた今川義元が遠州今切の浜から輸入するのを、当時の信長は羨望と妬視で、前田犬千代を潜入させて、その数を調べさせなどしたのである。英国ではスパイの事を「Fox(狐)」といい、フランスではムンクをあてる。世界中どこへ行ってもワンワンすぐ吠えだし、もてあます犬ごときをスパイの代名詞にする国はない。何故「日本だけは密偵が犬なのか」と調べていたら、寛永四年十月の大地震で海中へ埋没してしまった今切番所の古記録の写しが浜松の火鎮神社(旧白山神社)にあって「塩尻文書」に収録されているが、それに、永禄十一年に越前府中の城主にようやくなった前田又左衛門の名で白須賀の白山神社へ、何を奉納したか判明しないが、「寄進」との記載がある。又左衛門は後に前田利家となるが、若いときは犬千代で、「桶狭間合戦前の三年間は信長に追放され、どこか他国へ潜入していた」のは周知の 事である。

 そこで塩尻文書が今切番所と同じ白山神社の古記録である点を考えると、犬千代が ここの番所へ潜り込んで白山神社へ出入りしていた事がわかる。信長は森乱丸の事も「乱」「乱」と呼んでいたから、犬千代も「犬」「犬」と呼ばれていたかもしれない。そして犬千代は信長在世中は能登半島の七尾城主止まりで柴田勝家の組下に入っていた。つまり犬千代の華々しい手柄は、今切番所に入り込んで鉄砲の輸入量を密かに調べていた事ぐらいしかないから、口の悪い信長が「犬は間者じゃ、密偵じゃ」と言いふらしたのが普及して、とうとう日本では「犬がスパイ」にされてしまったとの話さえある。

 さて、 「何なりと望んでよろしゅうござりますか」。愚図と言われる割には、丹羽五郎左は珍しく褒美と聞いて、てきぱきものを言った。だから信長も、ほほうといった顔を見せたが、なにしろ濡れ手で粟のつかみ取りで、一挺買えば銀20匁もするものを、元手を殆どかけずに千二百挺も揃えられたのだから、「‥‥苦しゅうない。なんなりと望め。五郎左が真面目な男とよう判って、これから は重く用いて取らそうと思っていたところじゃ。扶持なり役向きなり何でもぬかせ」と実に機嫌がよい。そこで五郎左も安心して、唾で唇を何度もよく舐め濡らし、「恐れながら‥‥、奉行職を一つ」と早口に言ってのけた。すると信長は、「うん。それくらいの値打ちはある。だが、そうそう専任の廃品回生の奉行を置く程には、古鉄砲はたやすうは手に入るまい」。首を傾げて考え込んだ。だから五郎左は慌ててしまい、「て、てまえではござりませぬ‥‥」。それに答えた。「なんじゃ。誰を奉行にせいと申すんか?」。呆れ顔でキンキンした声を出す信長に、「先に足軽より士分にお取り立てを頂けましたる新参の木下藤吉郎めへ、なにとぞ、しかるべき御役向きの奉行を」と五郎左は這いつくばって言上した。「うーむ」。信長は顔を逆撫でししてから、「藤吉郎と申すは、鉄砲奉行木下勘平の妹の婿じゃろ‥‥それを自分の手柄にかえて推挙したいと申すんか?」と尋ねた。うっかりいつものように「うへえっ」と頭を下げると、さっさと消えていなくなってしまう信長に懲りているから、今日は、「いかにも左様にござりまする」と顔を上げたままで、五郎左は言ってのけた。「‥‥どうやら、寧子に強引に言われてきたとみえるな。‥‥さては五郎左、うぬはあの女に借りた事があって、その償(まや)かしかや」と、吹き出しそうな表情を二十七歳の信長は見せた。(信長様があないに思い当たるような事を口にされるとは。‥‥さては、信長様もあの寧子殿に強引にせっつかれた事があるらしい)と、そこは年齢が近いだけに、はっと以心伝心。通じ合うものがあって五郎左もピンときて、思わずにやりとしてしまうと、「‥‥うん」。信長も微苦笑を洩らし、「小者から足軽にした下郎じゃ。どないな奴か見たこともないが、はて何をやらせたらよいか」と首を傾げながら座を立ち上がった。そこでやっと落着したと、ほっとした五郎左は(もう消えてなくなってもよいわ)と考え、「うへえっ」と両手をついて 平伏した。


 これは後年の事だが、織田信長が寧子宛に、「秀吉などと申すあないな禿鼠めにはその方ごときに、寧子は過ぎた妻であると、わしは昔からよく言い聞かせてある。よって嫉妬などせずに、まぁ待つがよい」という手紙が出され、それが現在も残っているものだから、どの歴史屋も結果論からして、「信長が秀吉を高く評価していたから、それで秀吉の為に寧子の慰撫をしたのだ」と解釈されているが、どうであろうか。なにしろ、この書簡はどう見ても寧子から信長へ訴えた手紙への返信である。しかし当時は「身の上相談」といった形式は発明されていなかった。また信長は家族の調停員でもなかった。

 今日、会社などでは社員の妻を大切にして贈り物をしたり、招待したりするところもあるが、信長の時代には「マイホーム主義」もない。また、現在いくら社員の妻を大切にする会社であっても、そこの社員の妻である寧子夫人が織田信長社長に直接、「うちの夫は浮気しております」と訴え、その社長が、「あいつには昔から、君は過ぎた奥さんだとよく言ってあるんだ。そのうち本人も眼 をさますだろう」と、いくら有能幹部の妻へでも、そんな返信を出すだろうか?  ところが現実にはその返信が、当時の事なのでポストに投函でなく、御用番の武者が馬をとばして「はい、速達」と持っていっているのだから変な話である。ということは現代なら、その社長と彼女は以前において親しかった間柄と疑える事になる。これは従来の講談や通俗歴史小説の類が、この、寧子の生家が判らず藤吉郎の父を木下弥右エ門にしたり、木の下で信長に採用されたから木下党とか、以前に松下家へ奉公したから、それをもじって木下に、又は木下という空姓があったから、それを使ったといった解釈をしてきたせいである。

 では、これでは 「寧子の実家の木下家が、織田家では重鎮で、その兄弟や姉妹の夫で信長の直臣団は 固めていたから、信長にすれば譜代の重臣の娘である寧子の顔を立てて、その機嫌をとってやるために、譜代でもない秀吉の方をけなしたものらしい」とでも、寧子の実家を調べだしてみないと、(まるで秀吉が寧子と信長の仲を嫉妬して、本能寺の変の黒幕になってしまった)と いったような事にもなりかねない。
 藤吉郎の関係
 「なんちゅうお前さんは、とろい人だねぇ。せっかく殿様が、何なりと望めと云うてくださりゃあとるのに。‥‥てんで自分の事は考えんと、どうしやぁたの?」。怨むがごとく訴えるようにも、お花は背をもたせかけてきて強く詰った。大きな山毛欅(ブナ)の樹の蔭だから、人目につかぬのは安心だが、どうも照れ臭くて五郎左は、(すまん)とも言いかねる。だから手を伸ばしてお花を撫ぜ廻しながら、「まぁ済んだ事だで、ええことにしとこまいか」とかけあった。ところが、お花は、「いや、らっさ」と、とんではねた。 五郎左は肩でも撫ぜるか、猫みたいに顎の下でもさすれば良かったのに、つい尻など撫ぜ廻し割れ目をこすったのがまずかったらしいと慌ててしまい、前の妻の妙にし たように、「勘弁してちょう」と頭を下げてしまった。すると、お花の方は(ええわね)と言ってくれると思ったのに、いきなり権柄(けんべい)ずくになって、細い肢体を震わせ口を尖らせ、 「わしを嫁にしたいんなら、なんで真面目にしゃあせんの」。剣突をくわせてきた。「‥‥まじめに?」と五郎左が聞き返すと、変な顔をして、「男が女ごを嫁にするとは幸せにしたる事じゃろ。だったら自分が奉行様にしろ、なんなりと御役につかわせてもらい、その御役扶持で世帯を楽にするよう心掛けるんと 違うんか?」と、にベもない調子で切り返してきた。

 五郎左は小柄な女ごは、取っ組み合いで喧嘩する時は、まさかこちらが潰されんで 安心じゃが、代りに気が強い。こりゃ口喧嘩は手強いぞと、たじたじになった。しかし、文句ばかり云われていては、男としてはたまったもんではないと五郎左も考えた ので、「‥‥俺が家は、恐れ多くも海の向こうから渡海してござった、豪い様の血脈じゃ。時世時節で織田家に仕えてはいるが、一奉行になるが如きさもしい望みはない。百万貫ぐらいの身代になってみよう所存じゃわい」。胸を張って、地言葉はやめてあらたまって堂々を抱負を述べ、ついでに、「燕雀いずくんぞ鳳凰の志を知らんや」と難しい文句をつけたした。お花はうっとりして、「おみゃぁんち家(ち)は向こうの血引いとるで、よう難しい事言えるンな」と感心 した。そこで、 「もちろん、今すぐではないが、しかしこの丹羽五郎左は必ず百万貫にはなってみせる」。ここが男の見せ場とばかり、どんと胸を叩いていきがると、「おみゃが、そない立身しやぁすなら、青田刈りで早よ嫁になっとく方が得じゃな」。お花はまた側へ寄り添い、そっと低い声で尋ねてきた。即座に五郎左は、「いかにも」と言いざま、抱き寄せると、ぐっと力を込め、エビ折りみたいに押さえつけた。また、腰の割れに手が当たったが、今度は(いやらっさ)とは云わず、お花は低く、「ええがねぇ」とうわずった声を出した。だから五郎左は、(女っちゅうものは‥‥同じ事しても、その時で言うことが変わりよる)と妙な気がしたが、人目につかない山毛欅の木陰である。この機を逸せず打ち込むべしと考え、胸を陣鉦みたいにガンガン鳴らし、お花を力任せに「一番乗りじゃ」といいざまシロツメ草の白い花のこぼれている叢へ押し倒してしまった。

 さて‥‥その頃。 お寧子は、あべこべに藤吉郎の上に乗っていた。といっても、こっちは喧嘩の真最中なのである。髪ふり乱した寧子が、「なんで‥‥云うことをきけんの」と、馬乗りになったまま、藤吉郎の耳を引っ張り頬をつねり、ついで引きむしって折檻していた。 これには藤吉郎なるも、すっかり音をあげてしまい、圧し潰されそうな声で、「まぁ止しゃあ‥‥頼むで止めとかんしょ」と悲鳴を上げ降参してしまった。そして、やっと寧子が手をゆるめて降りるなり、「いくら女夫の仲とはいえ、不意うちに俺の睾丸(ふぐり)をつかんで絞め上げて、突き倒すような卑怯で殺生な真似はすんな。おかげで俺がものは腹の中へ入り込み、めり込んでしもうた‥‥」と痛そうに股ぐらへ手を差し込んで揉みだした。だから寧子も、「おみゃぁ、猫の雄みたいに中へ入っちまって、出てこうへんかね」と、さすがに自分の用いる所だけに狼狽し、首を伸ばし覗き込みに来るところを、い きなり、「バシッ」と平手うちをかませた藤吉郎は、「へんら、へらへら」と、これまでの溜飲を下げるように笑い飛ばした。つまり、別に二人ともおかしくも、面白くもなかったが、顔を合わせて歯を見せだしたということは、これは夫婦喧嘩の休戦である。とはいえ、これから寝てしまう時刻でもないから、まだ平和調印をしあうという段取りではない。「せっかく丹羽五郎左に願わせていただいた薪炭(まき)奉行の御役が‥‥なんで気に入ってちょうせんの」。さも情けなさそうに、今度は寧子が話を持ち出してきた。またぶり返しである。「‥‥寧子はな。兄の勘平殿が鉄砲奉行、姉婿は槍奉行、妹婿は弓奉行と、みな奉行の名がつくで、それへの対抗上この藤吉郎にもなんぞ奉行の役をつけ、それで勘当しくさった里へ面当てしてこまそという女心の意地‥‥そりゃ俺かてわかる。しかしだな、同じ奉行でも鉄砲弓槍の三奉行と薪炭役では、ちいと違いすぎゃせんかのう‥‥」。「何を云うとりゃあす。鉄砲かて台木は板。槍も柄んとこは棒。弓は竹や籐じゃろ。薪炭かて木じゃ。ちいとも違っとりゃせんがね」と、寧子は隙を見て又飛びかかりそうな猫みたいな丸い目つきをしてみせた。「そりゃ扱う材質は似たりよったりでも、薪炭奉行ではちいと恰好がようないで‥」。藤吉郎はまだ負けずに言い返して顔を尖らせた。「馬鹿ほど見栄を張るといやぁすが、ええ加減にしといてちょう。軍奉行の方ならボォッと貝が立ちジャンと鉦が鳴りゃあ戦する身は、真っ先かけて陣揃えに並ばなならん。‥‥行かっせる方はよくっても、後に残る身にもなってちょうせんか。‥‥そこのところを、あんじょうよう考えて下されて信長様は、戦の時にも安心できるようと、丈夫で長持ちするよう戦にゆかんでもええ奉行にしてくだされたのを、なんで判らせぇへんの?」と、袂の端をつかんで、寧子は口惜しがった。「しょむねぇ」と藤吉郎は言った。そして、「どうせ俺は流れ者じゃ。‥‥士分の出でもなく、小者から足軽をしておった分際じゃ。薪ざっぽを連雀(背負い棒)につけ背負って歩くが、まぁ身分相応ずら」 と遠州訛りでごねてみた。「何を言やあす‥‥男ちゅうは槍を握ったら杉の梢みたいに、真っ先かけて突進し、算用させれば、十本の指で数えができねば足の指をすぐ足しても早よう計算できるくらいに、なんでも精出して、よう働かないかんもんじゃ‥‥と家の父っさまも云うとりゃあしたに」。「ああ、お寧子の親爺の木下助左様は豪い衆‥おみゃあんとこは皆、ええ衆だでな」と藤吉郎は仰向けに板の間へひっくり返ってしまった。それを寧子は、「ひがみゃあすな‥‥」と、まず諌め、「男が立身するもせぇへんも、みんな女ごの功(いさお)じゃが。なぁ、この寧子が塩梅(あんばい)ようやったるで、おみゃあは云うとおりにやらしたらええがねぇ」と慰めだした。

 一冬あけて永禄四年(1561)の春が来た。 前は丹羽五郎左の方に、家柄が由緒あるからと五十貫扶持。木下藤吉郎は士分とはいえ、これはお目見え以下の二十貫の軽輩だった。ところが薪炭奉行になった時に十貫増え、この冬の薪炭の使用料が去年の半分以下で仕切れたという手柄で、改めて恩賞として加増され、今では丹羽五郎左と同額の五十貫になっていた。だから五郎左としては、 (三十貫も、一冬に稼げるなら、自分がやりゃぁよかった)とも後悔している。なにしろ父の十郎左に未だに、「へまだ、ぐずだ」と言われ、やっと嫁にした花からも「あんた、それで百万貫になれるん」と、夜毎にせっつかれている身分だからで ある。

 四月の声がきこえ、夕闇になると早咲きの宵待草が川原に白い花を咲かせる頃になった。「こりゃ内証じゃけど、近く御陣(いくさ)があるらしいで、しっかりやってちょうよ」 と里の父が指図方へ入っているので早耳で聞き込んできたらしく、お花は五郎左を鼓 舞激励する。生家で犬を飼っていた花は、五郎左にも同じ様に躾する肚づもりらしく、飯を喰わせる前とか女として何かをさせる前に、お預けをさせては言って聞かせる。「うん」。返事をせんことには、箸も持たせねば裾もまくらせない。まぁ亭主飼育法の一つであろう。

 そのうち五月に入ると、雑賀の手の者が堺からミミズが這いつくばったような文字の入った大提灯に似た樽を運搬してきた。「火薬だ」と知らされた。五郎左は鉄砲ちゅうもんは、いくら整備しても火薬がないと弾丸が飛ばんし、その主原料の硝石は、この日本では一つまみも採れず、マカオとかいう所から購うのでは、こりゃぁ物要りなものだと思った。が、五郎左の心配をよそに、清洲城では次々と合戦の仕度が進んでいった。そして、五月十二日。満月の晩を選んで織田勢五千は木曽川へ向かって出陣した。同じ五十貫の同格になった木下藤吉郎が丹羽五郎左の隊へ入ってきて、一緒に並んで、 月明かりの青い夜道を進んでいった。「わしが、こないに立身できたのも、ひとえにお前様が奉行に推薦して下された御恩じゃ」と藤吉郎は感激しきったように声をかけてきた。五郎左も云われて悪い気はしない。「まぁようやったと云えば、それまでじゃがのう。‥‥新参のその方如き者の下知をきいて、よく台所や宿直(とのい)衆が薪や炭を、あない協力してしまつ(節約)してくれたものだな」。かねて不思議に思っていたから、ついそれが口に出た。すると藤吉郎は困ったように、「ありゃあ、手前の指図ではありませぬ」と左手をばたばた振ってみせた。そして「足軽上がりの藤吉郎の云うことなぞ誰が聞いて倹約してくれますものか‥‥というて使う側が力を併せてくれねば、薪一本とて助かりませぬ」と訴えるように打ち明けてから、「よって、奉行を仰せ付かった時から、こりゃ難儀な仕事だ‥‥うわべは手軽そうにみえても、なんせ相手のあること。こちらの身分が高ければ、『この冬は、これだけにしまつ(倹約)してくれや』とも指図できるが、足軽上がりでは馬鹿にされて、誰も云うことはきいてはくれまいと考え、そこで、寧子に『薪炭奉行など恰好がようないで、もそっと違った見栄えの良い役と換えてもらえんか』と文句を云うと、気の強い女ごゆえ、なにを、と取っ組み合いの大喧嘩。それから何とかしてくれろよと拝み倒したら、女はおだてとモッコと何かにはすぐ乗りたがるから『まかせときんさい』と、寧子が自分で顔をあちらこちらへ出す。すると勘当されてはいても木下助左の娘。顔がきくものだから、皆協力してくれて、あの倹約‥‥」と、すっかり正直に内幕を喋った。だから、(なるほど、それでよめた)と五郎左は肯き、さて、女というは扱いようのあるもので、馴らされている如く見せかけておいて逆におだてて働かせる途もあったのか。一つ利口になった‥‥戻ったら花に俺もその手を用いてみようと思った。

 それにしても、こりゃ気の良いざっくばらんな男じゃと感心して、「‥‥今後もなんぞあったら、わしを頼みにしたらええ」同じ五十貫なのを忘れ威張って口にした。「よろしゅう」などと藤吉郎も、それにばつを合わせて神妙に頭を下げていた。

 そのうちに夏の空は明けやすいというが、突きがまだ西にみえているのに、小豆色の空が淡い納戸色になって、少しずつ白くなってきた。葦原を吹き抜けて来る風邪も、夜露をはじきとばすようなさわやかさが混じってきた。すると、「めざすは稲葉山の井の口城ぞ」。自分を家来どもの目印にさせるように、大巾の白木綿で鉢巻きした信長が、鳥のヨシキリにも似たキンキンした声を張り上げた。「これから攻める美濃の国は、俺が親爺殿(信秀)でさえ、天文十三年、十六年と二度討ち込んで、コロ負けなされ、後の時はまんだ童(わっぱ)じゃった俺は手取りに され、今の美濃御前を嫁にすることで、やっと親爺殿もろとも助けられたくらいじゃ。‥‥しかし、今度は違う。俺には鉄砲がある。南蛮渡来の硝煙もぎょうさん荷駄に積んできとる。よってこの新兵器で、きっと信長は勝ってみせる」と意気軒昂。戦うに先立って、もう自信のほどをしめしていた。
 なにしろ、丁度一年前の桶狭間合戦というのは、元々が今川義元が上洛のための通行だけの話で、その前日まではのんびりしきっていた。だから重臣達も、まさか折りからのにわか雨で、「今川の鉄砲も濡れていては火縄に点火もできまい。ただの棒っきれではないか」と咄嗟に心変わりし、決意した信長が、ぞろぞろ集まってついてきた野次馬を動員、逆さ落しに雨宿りの今川義元の本陣を襲って大勝利を得たとは、清洲へ戻ってくるまで知らなかった者が多かった。

 つまり先代信秀の頃からの譜代の武者で、桶狭間合戦に加わったものは殆どいないのである。「三万五千石の今川義元が無事に尾張領を通過して上洛するを妨げぬ保障」にと、信長が長子の奇妙丸を人質に入れ、尾張領の安堵状を貰ってくるものとばかり重臣は思っていた。だから話によっては今川勢の先手となって上洛するのだろうと、 その準備をするために己の所領へ戻っていた重臣がほとんどだった。

 ところが乾坤一擲の博奕というか、信長のだまし討ちが見事に成功してしまったのだから、不参加の重臣達と信長の間は、それからはどうも溝ができてしまい気まずくなっている。従来の説では今川方から先制攻撃をされて、鷲津、丸根の砦が落され、全員玉砕したのを信長は宮の浜(熱田)から望見し、ここで決死の覚悟をつけた信長が善通寺砦から桶狭間へ奇襲をかけた事になっている。ところが、世にも不思議な事に、その九年後の永禄十二年八月二十日に伊勢に出陣した時、信長が武辺の者を選んで母衣衆二十名を選抜したが、その赤布をはらませて背へつける赤母衣十人衆の中に「飯尾隠岐守定宗」が入っているのが、確定史料の「当代記」にみられる。


 鷲津砦が玉砕したものなら、そこを守っていた飯尾近江守の跡目が生き残れるはずがないし、またその従弟にあたる遠州引馬城主の飯尾連達にしても、今川義元の伜の氏真に、「信長を手引きして父義元を殺した大逆謀叛人」とはっきり云われて、駿府へ来ているところを狙われて殺されたのは「駿府小路の戦い」というが、飯尾の妻が薙刀に白粉をはたいて血滑りを防ぎ、十数人を叩き斬った話も、戦時中の「軍国日本女性の精華」の本には出ていた。

 
つまり桶狭間合戦の真相は、人質を伴って降参に行った筈の信長の裏切りなので、表向きは「先に攻撃され、やむなく」と取り繕っている。だから、丸根砦で討死した筈の佐久間大学が、天正八年に信長から追放されて高野山へ追われた佐久間信盛と同一人であるという説もある。というのは信盛というのは老臣とはなっているものの、桶狭間合戦から十年たった 元龜元年の長光寺合戦までどこにも名が出てこない。なのに突如二年後の三方ヶ原合戦には堂々と信長の名代で徳川の加勢に出される程の旧臣だから、従来の桶狭間合戦の話はきわめて疑わしい。「それっ、進めやっ」と信長は単騎で小姓の佐脇藤八ら五人だけを率いて桶狭間へ討ち込み、それで勝ちをしめてからというもの、戦は自分一人でやるものと考えているらしく、河洲を渡って、一望千里の軽海ヶ原(各務原)へ、この度もまっしぐらに突入した。林佐渡を初め重臣の連中も、一年前の埋め合わせをしようと、やはり勇んで渡河したものの、肝心な総大将の信長が自分から真っ先に馬の尻を叩いて、遥か平原のかなたへ、パカッ、パカッと突進してしていってしまい、もはや影も形もない。だから指揮系統がはっきりせず、思い思いに手勢を率いて進んで行くと、妙な話だが、左右の木立や林が動くような気配がする。だが、信長に追いつかぬことには、「お前等は何をしとった‥‥いてもおらんでも同じではないか」。すぐ厭なことを頭ごなしにいわれるのが目にみえているから、「脇目をせんと、急げや、急げ」。ただ前方へと駆け進んでいく。

 すると、現在の名鉄各務ヶ原の六軒駅と、平行した国鉄高山本線に挟まった柿沢の森で、ざぁざぁと、やにわに雨に降られた。というと一天俄にかき曇ってということになるのだが、仰いでみると、木々の梢からまぶしい陽射しが突き刺さってくる。空 も青くのぞいている。「はぁ‥‥日照り雨じゃろうか」と鉄砲奉行の木下勘平が、小手をかざして上を仰ぐと、その開いた口許へピシャァとまた、雨がかかってくる。「‥‥なんじゃ、さっぱり判らんが、鉄砲の火皿や火縄を濡らすではない‥‥革袋を かけぇ」と泡をくって声をかけて廻った頃は、「もはや手おくれで、びっしょりでござりまするが‥‥」と部下の鉄砲足軽が、びしょ濡れの顔をこすりながら、悲鳴をあげていた。「‥‥馴れんという事は弱ったもんじゃ。鉄砲を何年と扱うている者なら、火をつける皿にはすぐ蓋をして仕舞い込み、火縄も濡らさんように肌につけるか、胴乱の革袋へしまいこむものなのに、うぬらは弓衆や長柄衆から廻されてきたばかりの新編成の者どもで、ちいとも鉄砲がわかっとらん‥‥無智とは困ったもんじゃ」と、鉄砲奉行の勘平が転を仰いで嘆息すると、またしてもその少し開けた口許へ、ば しゃっと雨が浴びせかけられる。

 「‥‥面妖じゃ。雨というのは細いにしろ太いにしろ竹薮のように降ってくるから 『篠つく雨』とも云うぐらいじゃ。こんな女ごの尿(しし)みたいに、どさっと降ってくる雨があるもんか」と、鬱蒼と繁った木立を見上げると、「あっ、木の梢に桶を抱えた人間が見えまする」と、めざとい者がみつけだした。「おのれっ、はかられたかっ」 と、はっとした勘平は地団駄踏んで口惜しがったが、濡れた鉄砲ではいくら狙いをつけても発射できない。そこで、「えいくそったれめ、降りてこい」と騒いでいるところへ、天狗面の旗指物をなびかせた木下雅楽助が、馬を走らせてきて、 「森の中で日照りをよけて休んどる鉄砲隊の者ども。早ように来いとの御諚でござるぞ」とよばわってきた。しかし、ぐっしょり濡れていてはどうしようもない。だから、「御使番御苦労である」と云ってから、「これ弟‥‥なんとか殿様にうまくとりなしてくれ‥‥火縄に着火させるのに吹きッ 晒しの草っ原では、すぐ立ち消えてしまうゆえ、やむなくここの森へ入ったところが運の尽き‥‥まんまと猿のように木々のてっぺんで待ち伏せしていた敵兵に、散々に上から水をかけられたのだ。勘平は、木の梢から梢へ縄を渡して桶を運びあっている敵兵を忌々しそうに睨み据え、窮状を訴えた。そこで雅楽助も驚いて、「まさか、敵の人工降雨にやられたとはいえぬで、川の中で両岸から伏兵に襲われて苦戦中とでも言上しまするで、兄じゃ、早よ乾かして追うてきなされ。信長様御本陣は申子の丘じゃ」と、そこは兄弟の情でうなずきあって、そのまま使番の弟は戻っていったが、その後がいけなかった。鉄砲の木下隊が、何百という水桶を次々と浴びせられ、濡れ鼠になって動けぬと見てとると、動いていた叢や潅木の蔭から、俄に弓鳴りがし、矢が束になって飛来してきた。せっかく乾かそうと外へ勢揃いしだした木下隊も、こうなると切羽つまって、またもとの森へ逃げ込むしかなかった。そして又改めてザァザァ臭い水の洗礼まで受けた。「濡れぬうちこそ露をもいとえ‥‥こうなったらしようがない。流れ矢にあたるよりましぞ」と鉄砲隊は、そこだけ雨降りでびしょぬれの柿沢の森に閉じこめられたままだった。
  疑惑の数々
 散々な敗戦であった。 こちらは隠密に行動したつもりだったが、斎藤竜興の方では、かねて清洲に探りの者を入れていたとみえ、向こうは用意万端整え進攻を待ち構えていたのである。せっかく一年もかけて整備させた自慢の鉄砲隊が、まんまと敵の罠に落ちて一発も撃てずじまいだったから、後に続くを信じて長駆けした信長は、すっかり敵に包囲されてしまい、辛うじて死地を突き抜け戻ってきたものの、小姓組の大半を失ってしまった。「ちぇっ、面白うない」と、この永禄四年五月の第一回の美濃攻めの敗戦は、これまで得意満面だった信長に自信を失わせた。供してきた重臣どもも、「やはり先代様同様に、我らを頼みになさらぬと、こない事になりまする‥‥これからはもそっとよく相談をなされませ」。それみたことかといった顔をされてしまう結果になった。そこで、ますます両者は反目が続いた。だから余計にそれが信長の癇に障ったようである。  

 そこで老臣共への面当てか、信長は、「これ五郎佐‥‥そちゃ家柄が良いによって、これからそちを家老にしてつかわす」 と、いきなり呼びつけ頭ごなしに命令した。なんぼなんでも、これには五郎左も仰天し、「お戯れにござりましょう」と本気にしないと、信長はむきになって、「まことぞ」と睨みつけ、「励めや」と言った。そして、「そのかわり、うちの鉄砲に、これからは雨が降っても撃てるように、なんぞ巧く勘考を致せ」とも付け足しに注文をつけられた。

 しかし、この度の美濃合戦でも、いつもの愚図がたたって、ろくに戦功も立てられなかった自分が、思いもかけぬ家老職になれたとは、五郎左には夢でもみている心地である。すぐさま家へ戻るなり父の十郎左に、「いよいよ丹波の家にも運が巡って参りました」と、急に取り立てられた話を報告すると、「鉄砲も舶来。火薬も舶来の世の中じゃ。人間の舶来種が家老になるくらいは当り前じゃ」 と、内心は喜んでいてくれるらしいが、負け惜しみするみたいな口のききかた。だが、嫁の花は手放しで嬉しがって、「おみゃあは、本当に出世する男じゃな」と感嘆これ久しゅうしてくれたが、「して、お禄はなんぼにして下されたね」と聞いてきた。当り前の事かもしれぬが、これには弱った。なにしろ五郎左は唐突に家老になどと言われたので、はじめは冗談(てんごう)ぐらいに思っていたから、加増してもらえる役扶持の事まできいてこなかった。だから黙っていると、 「肝心な事じゃ」と、お花は家老の嫁として情けない、がっつきようで詰め寄ってき た。「待て‥‥俺、藤吉郎の長屋へ行って、寧子殿にきいてくるわ」と、仕方なく五郎左が立ち上がると、お花はきっとして前にはだかって、「‥‥自分のお禄がいかがになったのか、他家の嫁様に聞きに行くことやある」とせめた。「というて、この度の破格のお取り立ては俺にも見当がつかん‥‥しいてあるとすれば、この前、俺の代りに藤吉郎を薪炭とは申せ、奉行役に推挙したゆえ、その時の義理の埋めあわせに、寧子殿が口をきいて下されたものと思う‥‥よって聞きに行かすというとるのだ」。対抗上、五郎左も重々しく言った。すると、「‥‥口惜しい」と言いざま、花は爪をたてて五郎左に武者ぶりついてくると、「二言めには、寧子殿、寧子殿、となんじゃい。お前等二人は乳くりあっとる仲じゃろうが‥‥そない事がわからんでどうする」と鳴き喚き、両手の爪で五郎左の顔をかきむしってきた。「痛て、痛てて」 と肘で顔を隠しながら五郎左は、納屋の方を振り返った。そして父の十郎左に助けてくれと言わんばかりに、「これでは話が違う‥‥夫婦喧嘩で組み打ちするとき、小柄な方が好ましいと推挙なされたが、御覧じませ、このように引っ掻きもうす」と叫んだが、十郎左はどっちつかずで、 「女夫(めおと)喧嘩は犬も喰うまい」 などと逃げをうった。だから五郎左は、それならばと、「こないに爪をたてるは犬ではのうて猫じゃ」と、我慢しかねて平手で花を殴った。 だが、「いやらっさ‥‥お寧子とあやしいんじゃろ」。それでも花はまだ鉾を納めず喚き散らし止めようとはしなかった。
 

 この事の真偽は判らない。だが信長在世中は家老といっても琵琶湖での大船作りと か安土城の建築とか、もっぱら作事方が専門で、これといった武功もなく、五万石止まりしか出世できなかった丹羽長秀だが、信長が殺されると、いきなり秀吉に重用さ れだした。が、いくら昔馴染とはいえ、それに義理を感じて引き立てるにしては妙ちくりんである。なにしろ信長在世中は「愚図」で通っていた彼を、いくら馬鹿と鋏は使いようとはいっても、秀吉としても用いようななかった筈である。奇怪としか言いようがない。しかし、史実では山崎合戦では、昔の木下藤吉郎の秀吉に加勢して、若狭と近江の高島、志賀二郡を貰い、近江大溝三十万石の城主になり、翌年の賎ヶ岳合戦でも秀吉側に味方した。その手柄に対してというのか、秀吉は越前一国の他に加賀の能美、江沼の二郡を合わせて百二十三万石の太守にした。つまり花との約束どおりに百万石になり、やがてその名も改めて「丹羽越前守」とも名乗るようになっていたのである。

 しかし天正十三年四月十六日にこの五郎左が死ぬと、おかしな話だが、秀吉は五郎左の伜の丹羽長重が跡目を継ぐ時に、前述のごとくまず近江二郡を削り、次いで加賀の二郡も減らした。そして五郎左が死んで二年めの天正十五年7月には、あっさり百二十三万石から加賀松任城のわずか四万石にしてしまった。驚くなかれ三十分の一の 削減である。丹羽五郎の伜ゆえ、親譲りで愚図だったのかもしれないが、それにしても、まるで 次々と難癖をつけて減らしていく秀吉のやり口は、どうみても計画的である。五郎左の妻である花と同様に、秀吉も当人の生きている間は、それとなく寧子との彼五郎左との仲を疑っていたものとは前に書いたところである。

 しかし、敏捷な藤吉郎は豊臣二代で終わったが、それに反して愚図の丹羽家は幕末までゆっくりと、たとえ小藩でも東北地方に続き、「二本松少年隊」で維新の時にはよく知られている。家名を幕末まで残し、明治になっては子爵になって、今も家系は続いているが、その「丹羽家記」には山崎、賎ヶ岳の二つの合戦で、先祖の五郎左長秀がいかなるめざましい働きをなし、百万石になったかについては全然触れていない。全ては謎の侭で ある。ただ、表面的に判っていることは、明智光秀の女婿であった明智秀満が、光秀の妻やその二人の子供もろとも爆死させて天守閣が吹っ飛んだ坂本城へ、秀吉の命令で進駐した長秀は、山崎、賎ヶ岳の両合戦には家臣の兵団は提供しているが、自分は頑と して、その坂本城を動いていないという不思議な事実である。といって、そこへ敵が押し寄せてきて防戦したというのではない。また、要所だからと防備していたのでもまいので、大変奇妙である。

 推理すれば、天正十年六月二日当日、長秀は信長の三男信孝を奉じて四国征伐に赴く為に大阪城に入っていたが、大坂と京とは目と鼻の距離であるから、彼は秀吉に言い含められて本能寺爆発の作事者の黒幕役を務めていたのではあるまいかと疑える。なにしろ最初の妻の妙は信長の異母兄の二郎信広の娘である。彼は信長が尾張の跡目を継いだのが面白くなく、斎藤道三を殺して美濃国主となった斎藤竜興と結んで、今でいえばクーデターを起そうとして失敗している。この為に信長へ忠誠心を示そうと、丹羽長秀はその妻の妙と離別してしまい、やがて今度は身分の低いところから第二の妻の花をむかえているが、信広がクーデターを企てた時に、その娘婿の彼が加盟していなかったという事はあるまい。つまり彼には信長への謀叛の前科があるのである。

 だから生前の信長は彼を用心し、兵力を持たせる軍事用には天正十年までは、あまり用いず、作事方といったような方面にしか使わず、船作りや城作りばかりさせていたのだろう。つまり譜代の臣のようでも、丹羽長秀には信長に含むところが多かったし、怨念を抱いていたから、彼が又も謀叛に与するだけの動機は十分すぎるくらいあったのであ る。

 信長の死後、やがて秀吉が天下をとったから、丹羽長秀はそれに利用された程度にしかみられていないが、事によると「信長殺人事件」の筋立ては彼がしくんだものとも考えられる。

 本来ならば四国遠征の船団は五月末の予定だったのに、それを偶然にも六月二日まで長秀が延期していたのも、きわめて疑わしいことである。それまで軍団に関係のない仕事ばかりさせられていた長秀が、珍しく織田信孝の軍監として、その指揮下に一万余の武装兵団を掌握したとき、恐らく彼は、 「これぞ千載一隅の機会である。この折りを逸しては、自分にはこれまで冷や飯を喰わされてきた恨みつらみをはらす日は来るまい」と決意したのではあるまいか。この推理が可能なのは、なんといっても京の本能寺や二条御所で信長父子が爆死をとげ混乱状態に陥っていた時、京都から、馬なら数時間の距離の大坂に出陣体制の整った一万五千の完全武装集団を、丹羽長秀は己の命令下に持っていながら、知らぬ顔をして一兵たりとも京へ差し向けていないという厳然たる事実である。

 この六月二日の急変は、その日のうちに遥か遠い岡山県の山の中の秀吉の耳へも届 いたくらいのものである。まだ建物が密集していない当時なら京の大爆発は大坂近くでも直接にドカーンと聞えたかもしれないし、黒煙が空に上るのは肉眼で見られたか も知れぬ点にある。なのに五月十一日より大坂の住吉に兵力を集結させ、四国、阿波へ向かって渡海するために五月二十一日にはもう織田信孝と共に大坂の石山寺の城へ入ったと「多聞院日記」にも出ている長秀が、二十五日に出航を一日延ばしにして六月二日まで延引させていたのもおかしいが、常識的には、「なんか、京に急変があったらしいぞ」と詳細は判らなくても、古くからの家臣として長秀は同日の昼には、ひとまず現場へ急行すべきなのに、物見さえ京へは派遣していないのである。

 もしもの話だが、信長が助かっていたら、後でただではすまない事はわかりきっているのに、平然と放置して京へ行かずじまいだったのは、つまり彼には「信長は生きていない」とするよほどの確信があったとみるしかない。しかし、当時の「山科言経記」によれば、六月五日、六日になっても、「信長は生きて隠れている」とのデマがもっともらしく流布されて洛中騒動ひとかたならず、といったのが実情だったのだから、信長の死に対して既に六月二日にそれほどの自信を持っていたという長秀もあやしいといわねばならないだろう。が、「秀吉事記」や「太閤記」では、「大坂坂本城にあった長秀は、本能寺の変のあった三日後になって同城ニの丸の千貫櫓にあった織田信澄を六月五日(太陽暦七月四日)に攻め殺し、秀吉が十一日に尼崎 に来て招きの使者を出したところ、長秀は十三日に織田信孝と共に参会して、秀吉の求めにより十五日の山崎円明寺合戦に信長の三男である信孝を名代にすることとなっ た」と、さも長秀や信孝も秀吉の軍勢に加わってて戦ったようになっている。「太閤記」では、「丹羽軍三千、信孝四千」と、その員数まで出しているが、大阪城にいたのは一万五千でも、逃げたのも多いから残っていたのは半分かもしれない。しかし、丹羽軍三千は眉唾ものである。七千の兵力が秀吉に組み入れられたとしても、当時の長秀は五万石だったから、彼自身の兵力は千名もいるわけはない。皆信長の名で駆り集められた者達の敗残兵であって、それを秀吉が好餌をもって七千名を己の指揮下に加えてしまっただけの話だろう。

 というのは今日、この山崎合戦が旧陸軍参謀本部の<日本戦史>などで伝わっているものの、その原本たるや、翌天正十一年になって秀吉から織田信孝宛に送られた合 戦詳細状がそうなのだから、全てが疑わしいのである。もしも信孝や長秀が直接参加していたものなら、何もわざわざ詳しく秀吉が自慢たらしくその戦況報告などを送る事はなかろうと思惟されるゆえである。それに、長秀がそれほどまでに信長の三男の信孝と行動を共にするぐらい親しい仲だったならば、信孝の生母や一人娘を、信長が死んでから一年もたっていないのに、秀吉が張付けにかけるのを見殺しにはしなかったろう。また、信孝自信が殺されるのも庇ってやれただろうに、冷酷にも丹羽長秀が素知らぬ顔でいたのもつじつまがあわない。

 だから長秀もこうなると、本当のところは山崎合戦には自分は直接には加わらず、十五日に秀吉の先手である堀秀政が坂本城を落すと、すぐにそこへ入城してしまった ものとみるべきだろう。というのは、大坂城ニの丸で長秀が殺した織田信澄というのは、岳父だった織田二郎信広より一足先に謀叛を実行して信長に殺されてしまった信長の異母兄弟である四郎信行の忘れ形見で、「多聞院日記」で、英俊和尚が「一段の逸物」と賞揚している 当時二十八歳の大溝の城主で、その妻は明智光秀の二女にあたっていた。だから長秀は織田信澄を攻め殺す事によって、「信長殺しは明智光秀」という山崎合戦の大義名分を前もって作っていたから、なにも実戦に参加しなくても、坂本城を 貰うぐらいの手柄はあったのだろう。 そして、信長殺しの下手人として、秀吉に恩を大いに売ったからこそ、その論功行賞で、すぐに百万石にしてもらったのだろうが、その功労は彼長秀だけのものだから、 彼が死んでしまうと、その伜は四万石にダウンされてしまったのが真相らしい。

 犯罪の犯人は、「それによって利益を得た者を洗え」というけれども、五万石から 百万石になった丹羽長秀の他にも、佐野下総守や木村吉清とか細川忠興などの、極めて怪しすぎるのが多いから、この事件の謎解きはそうした連中を洗ってみねばわから ないと想う。





(私論.私見)