2章、斎藤道三の死後

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1170織田信長殺人事件2」を転載する。

 2013.5.4日 れんだいこ拝


 斎藤道三の死後
 織田二郎信広
 「好機到来にござりまするぞ」。妻の妙は珍しくニコニコして夫丹羽長秀の戻りを待ちわびていた。「なんぞ良いことでもあったのか?」。ガミガミやられるよりはましだからして、帰ってきた長秀もほっとして聞いてみた。すると、「人目忍んで逢いに来ました」。妻は若やいだ声をはりあげて打ち明けた。「‥‥それは男かや?」。長秀が気にしてきけば、「あったり前にござりましょう」。妻の妙はニコニコしてみせた。長秀はいやな顔をした。この尾張という国は信長の頃から遊女を置かぬ土地柄で、家康の末子義直が封ぜられて名古屋城を築くとき、九州の加藤清正らのごとき女好きなのが入ってきて弱り果て、「これは不自由ではござらぬか」と談判され、やむなく慶長十二年に執政平岩親吉が、飛騨屋町(中区蒲焼町)に赤線地帯を許したが、名古屋城ができると(はい、それまでよ)と国禁にした。

 そして西暦1610年から131年目の亨保十六年の宗春侯の時、ようやくのことで解禁された。この時のいきさつも「名古屋史要」によるとその理由は、「人の家婦に間ヨウ[漢字が出ない](人妻のよろめき)他邦に有りといえど、この地最も甚しく、人妻に梅毒はびこるは、これ娼家を禁ずる故なるべし」とある。現在の週刊誌にも同じ様な記事が出ているが、この本は名古屋市役所が尾張藩の史料によって明治四十三年三月に発行したものである。これをみると、遊所を禁じた結果は今も昔も変わりはない。つまり、後世の江戸期に到っても尾張というのはこうした土地柄なので、この時、丹羽長秀が眉をひそめたのもやはり、(人目忍んで男が来たと喜ぶはお国柄で、近頃流行の人妻のよろめきではあるまいか ‥‥叉貸しは困るのう)という心配からだったらしい。

 
しかし妙はお構いなしに、「お前様は立身出世しますぞえ」と、こうきた。そこで長秀は、(これは自分よりもはるかに豪いのが来て妻と仲良くしてからが、そちの夫の長秀を、今後は兄弟の如くに扱おうぞ)などと言い残して行ったものかと厭な顔をした。すると妙も、長秀の変てこな表情を初めは怪しんでいたが、(男は案外にやきもちやきよ)と、気がついたから、「父の二郎信広が来たのでござりまするがね」と慌てて告げた。「なんじゃ、男は男でもそなたの父上でありしか」と、ほっとし、「何御用でみえられたのか?」と訊ね返してみた。というのは織田家の一郎という長子は美濃合戦で討死をとげ、跡目の順序はこの二郎信広の筈だったが、三河安城へ父信秀の名代として詰めていた時に、今川義元の軍師太原雪斎に包囲されて降伏。向こうの捕虜になり連行されていたことがある。織田信長が遺言も残さず一晩で死に、跡目争いとなった際に、尾張の豪族土田久安の孫にあたる四郎信行と平手政秀の孫の三郎信長の二人だけが候補にされ、二郎信広は負け犬として初めから除外されてしまっていた。

 さて、通俗歴史ではお守り役だが、実際は祖父の平手政秀は吝で、孫信長のために家臣団に銭をまかなかった。そこで跡目は四郎に決まりかけたが、信長の妻奇蝶の父斎藤道三入道が娘可愛さに銭を出し兵を入れ、信長を跡目に決めさせ、四郎はやがて攻め滅ぼされた。二郎信広も「三郎五郎」と解明はしたものの、不遇な立場にあったのである。「あんたというは、しようもないお人じゃのう。もう、ちいと気張ってもらわないかんがね」。妻の妙は夫の長秀にあけくれ口にするのである。なにしろ、まだ万千代と名乗っていた十五歳の頃に、信長の異母兄二郎信広の娘をもらったのが、この妙である。いわば御下賜の嫁女ということになる。だから盃事をした時から、「丹羽五郎左長秀」と、名はいかめしくなったが、そのかわりにあけくれ二つ年上の妻から文句ばかりつけられている。そして、「もともと丹羽の家というのは、斯波管領家の頃は丹羽郡を持っていたほどの家柄。それが主家が没落したとはいえ、今はこない味鋺(あじま)に逼塞の身ではないかえ」と、二言めには云う。


 現在は名古屋市北区楠町味鋺となっているが、ここは十八世紀の元文三年に尾張の殿様に提出した万歳由緒書上げ文にも、「昔から陰陽師を代々相い勤めている者が十六軒これあり」とあるように、「尾張万歳」の発祥地で、三河万歳の松永太夫の取締下にあった。故小母沢寛の、「駿河遊侠伝」の中で、次郎長と逃げ回る結髪常が万歳になろうとする場面があるが、万歳というのは、いくら節回しがうまくやれても昔は誰でもなれるというものではない。特殊な土地の、定まった商売だった。ここの出身で有名なのに「信長公記」を書いた信長の臣太田牛一もいるが、今日の歴史辞典などは「尾張の安食の出身」とある。しかしそれは間違いで、そんな土地はない。なぜ誤記されたかというと、そこは院内と呼ばれた別所だからである。

 これは八世紀の頃に「藤原」と後世に名乗る大陸系の人々が渡来し、戦い破った原住系を(一ヶ所に置いておいては危険だから)と、日本全国二千数百に分割し、収容した所の名残りである。織田信長の先祖も、やはり近江国の八田別所の出身だから、同じ系統の者を多く家来にしていた。が足利時代というのは、沖縄の王と並んでまた明国に対して、「臣足利義満」と、はっきり臣属して封冊使に来てもらっていた時代だから、武家といえど渡来淋聖王の末孫の大内氏などが覇をとなえていた世の中である。それゆえ信長の若い頃は、まだ足利氏の天下だったからして、丹羽という家も丹後と同様に、今と違って「タンバ」と発音されていたらしく、非エリートの家名であろう。だからして長秀の妻も一人で発奮しては夫の尻を叩いていたのである。「ああ、忠ならんと欲すれば孝ならず、また孝ならんとすれば‥‥」と長秀は口の中でつぶやき悩んでいた。しかし三郎五郎と今は名乗る妻の父の織田信広はすっかり意気がって、「男は度胸。女は愛敬と申すではないか」とささやいてきた。

 長秀は忌々しくなって、よほど尾張弁で、(おみゃぁ様ん家の娘は、わしんとこへ来とりゃぁすがよぉ、ちいとも愛敬なんかな いであかんわね)と言い返してやりたかったが、黙然と堪えた。なにしろ尾張のように遊女禁止の土地柄では、(お前の相手をしたる女ごは、この世にわししか他は居りゃせんでいかんわね)と、すぐ嫁がつけあがり、文句でもつけようものなら、(他に貸したるかねぇ‥‥)と凄む時さえ多いからだ。だから長秀は、そこのところを思案しているのに、訪れてきた三郎五郎は、 「やっと、うどんげに花咲く思いじゃ。わしが清洲城から狼煙を上げれば、境目の木曽川を渡って美濃衆が入ってきて、我が為に合力するんじゃぞ」。悦に入っていた。わけを聞くと、信長の妻奇蝶の父道三入道を弘治二年四月に長良川で殺し、今は美濃国主になっている斎藤義竜は信長がどうも煙たい。だから信長の異母兄で不遇をかこっている三郎五郎に対し密使を送り、彼を国主にするからと謀叛を勧めてきていたからである。「わしのために協力して清洲城を取ってくれたら、一首名(おとな・一番家老)に、その方をとらせよう」。三郎五郎は娘婿の丹羽長秀を説得にかかった。妻の妙も側から口添えして、「お前様、機会というものは、そう何度もあるものではない。ここ一番、ちゃんとした男らしゅうなさるがよい」。口だけでは足らぬのか、手を伸ばし長秀の尻までつねった。「い、痛い」。長秀は叫んだ。すると興奮している三郎五郎は肯き、「行きたいと言ってくれるのか」。聞きまちがえて、喜んで帰っていった。  

 さて、困ったのは長秀である。(男が立身し出世したいというのは、良き酒を飲み好き女ごを侍らせることとは心得るが、女房の父親など殿様にしてしまったら、酒の方は旨いのが呑めても、もう一つは 駄目じゃろ‥‥ならばすきこのんで、そんな阿呆らしいことに協力することやある)と考えた。そこで忠義のためでもなく、御家のためでもなく、自分の都合ですぐさま信長の許へ行き、「かくかく、しかじか‥‥」と訴えた。この結果は「信長公記」に、「三郎五郎殿は清洲城に入り城留守居役の佐脇藤右を殺してから、合図の煙で攻め込んでくる美濃衆と戦うように見せかけ、その実は、信長勢の背後から突きかけ挟み討つ計画だったが、信長の方が先手を取って三郎五郎の屋敷へ向い『いざ出てそうらえ』とよばわった。『やや、露見したるか』と、三郎五郎はびっくり仰天して戦わずに引 き篭ったままなので、せっかく対岸まで出陣してきた美濃勢も、これではなんともならず引き揚げた」と出ている。

 つまり長秀の手柄で信長はここに異母兄を追い払って、謀叛事件を未然に防ぐ事ができた。だから喜んで、「なんなりと褒美を望め」という事になった。この際に下取り交換をしたさに長秀は、「妻の妙は三郎五郎様の娘にてござれば‥‥」とまず言上した。ところが、「手柄に免じて嫁を許せというのか‥‥その方は愛妻家じゃのう」。すっかり信長は感心してキンキン声を脳天から響かせた。何の事はない、逆効果となった。「ふむ‥‥しょっちゅう女房が口煩く申し、何かすると棒などもってその方を脅し、これまでぶん殴っていたと申すのか?」。 「はい、主筋よりの嫁と思えばこそ、叩かれてもはり倒すわけにも参らず、辛抱してまいりましたが、なんせそうなりますと、たとえ灯りのない暗がりでも、浮かぶはおっかない嫁の顔。耳に残っているは嫁の罵り声にござりまする。これではいくら求められても男が立ちませぬ」と助けてくれと言わんばかりに訴えた。「無理もない、わかるわかる」。すっかり打ち明けられて信長も同情してしまい、「泣くな長秀よ」と慰めてやり、改めて願い出てきた件を認めてやって、すぐさま、「噛みつく犬は繋げ。夫に喰いつく嫁は去れ」と上意をもって長秀の嫁の離縁を認めてやったのである。


 織田信長が男に人気があったのは、どうも女に冷淡であったためらしい。今日では 二条普請の時に人夫が通行中の女へ悪さをしかけたのを、すぐ自分でとんでいって斬ったからと、フェミニスト扱いする歴史書もあるが、あれはサボったのを怒っただけである。待たせてあった侍女達が勝手に他行したからと、中へ入ってわびる坊主もろとも斬首してしまったり、荒木摂津守を攻めた時には二百人の婦女子を張付けにかけ、ついでに京では三百五十一人の荒木方の娘や妻を焼き殺した。雑賀攻めでも長島攻めでも、高野山や延暦寺の焼き討ちでも、男女を同様に扱って公平に殺した。なにしろ信長には「綺麗な女だから」と助けて側室にしたような例は、若い頃から一度もないのである。当時の手のつけられないバカ女共を片っ端から成敗してくれたからこそ、世の男共から、「あれぞ男の中の男」と、きわめて信長は人気があったのである。

 それが現代の通俗歴史屋の筆にかかると、「戦国時代の女は哀れであった」となる。そして例証として、「合戦のたびに質に取られて、張付に架けられて殺された」という。しかし、質というのは値打ちのある方を取るもので、戦国時代というのは今日考えるのとは反対に女権の方が強かったからして[フロイスの覚書にもあり]、女が質になったのではあるまいか。どう考えても、(男を人質にとっては戦闘要員が減るでしょうから、女人の方で結構です)と敵が親切に云うわけはない。また、現代のような女性に甘い考え方でゆくものなら、「敵将の娘や妻を質に取って、これを敵に見せつけ張付に殺す」というのも敵愾心をあおり、かえって敵の士気をいやが上にも増すことになる。が、戦とはそんなものではない。利敵行為をするはずはないからして、あれは、「あんな恐ろしい女でさえ殺されてしもうた」と敵方を意気消沈させるためか、「よくぞ口やかましい意地悪女を殺し、我らの仇を討って下された」と、敵の城兵を喜ばせ、こちらへ投降させる策だったのではないか。そうでないと女を殺しては薮蛇になってしまうおそれがある。つまり中世の戦国時代と現代では考え方がまるで違うようである。

 さて、丹羽長秀が妻と別れた後で仲良くしていたのは、寧子ではなかったかと疑える点がある。というのは、生前は百二十三万石にまで立身したのだが、天正十三年四月、「子孫本領安堵」の確約を寧子を通して秀吉から貰ったのに、その死後、秀吉は 長秀の伜をわずか四万石に下げてしまうからだ。よほどのことがない限り、ここまで減らしてしまうような事はあり得ないからである。思いの外に男とは嫉妬心が強いものだから、考えられることではある。それともう一つ、明智光秀の城だった坂本を秀吉から貰い、丹羽長秀は城主になっていたから、その祟りで伜の代になったら、どすんと格下げになったのだという説も古い本には出ている。しかし、そんな単純なものだろうか。もっと深い根が、それにはあるのだろう。つまり信長殺人事件に、かつて妻の父の次郎信広を裏切って殺している丹羽長秀が、はっきり主要な役割に一枚かんでいることが言いたくて、最初に彼の若い頃の事をまず述べたのである。




(私論.私見)