5章、細川幽斎の陰謀 |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
細川幽斎の陰謀 |
長岡藤孝の頃 |
天正五年十月の事である。当時長岡藤孝を名乗っていた細川幽斎は、その伜の忠興と共に兵三百五十名を率いて田能越しというところへ出陣した。明智光秀が五千の兵を率い丹波大江山に出てきてから、その命令で丹波の船井桑田二郡から兵を集めて馳せ加わってきたのである。この時光秀は丹波亀山に篭った内藤党らを下し、福知山城、綾部城をも降参させ、 「ようやった。丹波の国の中で攻め取った分をくれてつかわす」と、信長から丹波亀 山を貰い、新しく三十万石ほどが増えたから、ここに明智光秀は旧領近江坂本と共に五十五万石の大身となった。 しかし部下の細川はそのままだった。そこで幽斎は伜の忠興に、「身代の大きい奴は、ますます肥る一方じゃ。いまいやしや」と愚痴をこぼした。「まったく、そのとおりでござる」。忠興も面白くない顔をした。だから、「明智光秀を蹴落として、あやつの所領を分捕れば、まるまるこちらへ転がり込むが、なんせ、あやつは信長様の御信頼を得ているから、うかつに足を引っ張っては、かえってこちらがひどいめに合う。まぁ時期を待て」と幽斎は止め、「それよりも我々としては丹波の隣の丹後を狙うべきじゃろう。守護の一色氏というのは三河吉良一色の庄に住まっていた範氏(のりんじ)という者が足利尊氏と共に東奔西走して戦い、その功によって若狭と丹後二ヶ国の守護となったが、応仁の乱で若狭を失い、去る天正二年には一色義通が家臣に叛かれて、当時は岐阜城にいた信長さまに救いを求め、ようやく弓木城を守りとおしたが、その義通も当時の気疲れで昨年病死。今は青二才の義有が当主ぞ‥‥やれる、ぞよ」 と言ってから、にやっとして掌で己の襟すじをポンと叩き、(首にしてしまえばこちらのもの)といったしぐさをもつけ加えた。「しかし、一色家というは室町御所御四家とも、四職ともよばれる家柄。そう容易に 思うようにはなりますまい」と、伜は心配そうに口にしたが、「任せておけ」と細川幽斎は二日ほどたつと安土へ行った。 そして信長の前へ出ると、畏まって、「一色義有めは、備後に逃げ隠れております足利義昭めと気脈を通じ、あまつさえ御当家の敵の石山本願寺と密かに手を握り、どうも謀叛の様子にござりまする」まことしやかに密告した。「なに丹後の一色がか‥‥先年あれの父が泣き込んできたのを助けてやったに、恩を仇で返す振舞いは許してもおけぬ」。信長は短気だから激怒した。そして、細川幽斎に対し、「よくぞ知らせてくれた。すぐさま明智光秀へ討伐を命じようぞ」とキンキン声を出した。が、「恐れながら、その御役はなにとぞ手前一手にて仰せ付けられましょう」。幽斎は頭をすりつけた。「うん。云う事はけなげではあるが、相手は腐っても鯛。今でも丹後一国の守護。少なくも五千や六千の兵は持っていよう。それなのにその方がかき集められるのは、まぁ四、五百じゃろうが‥‥それではどだい無理じゃろ」。あきれたように信長は口にしたものの、「よし、その意気に感じて加勢の兵はくり出してつかわそう」と信長は請け合った。「ありがたき幸せ」と、身体を投げ出し幽斎は平伏叩頭した。 「なに細川幽斎めが、独力で丹後攻めをしたいと信長様に願い出た、と申すのか」。さすがに明智光秀は眉をひそめた。昔は足利義昭について矢島から越前の一乗谷へと 流れ込んできた細川幽斎の方が、身分は上だったかもしれないが、今は反対で、所領も自分に比べれば十分の1で、信長の命令で寄騎としてつけられている部下同様の者である。それが光秀に相談もなく勝手に信長に願いにゆくなどとは、もってのほかの 行為だったからである。「まことにけしからん事」。光秀の娘の婿で明智姓を名乗らせている秀満も口をとがらせて、これには憤慨しきっ た。しかし温厚な光秀は、「過ぎた事を怒ってみても始まらぬ。それより光秀には部下同様の細川じゃ。知らぬ 顔でほうってもおけまい。いくらかの兵を助勢にむけてつかわせ」と言ったところ、「御言葉なれど、細川父子というは、ありゃ油断のならぬ曲者でござる。たとえ一兵なりと今度のような折に御情けをかけられる事はありますまい」。内藤内蔵介が居間へ入ってくるなり声高に言った。 さて、この男の事を居間の歴史は‥‥明智光秀の家老と扱うが、前述の如く信長公記をみても、まだ光秀が本格的に信長の家来にもなっていない姉川合戦の前の元 龜元年五月六日の条に、妹婿浅井長政の反抗を聞いて信長が朽木越えで逃げる時に、「稲葉伊予と斎藤内蔵介を江州守山の備えにおき、南口より叛徒せまるを追い崩しあ また切る」とさえ出ている、れっきとした信長の直臣である。明智光秀に対して「軍事目付」つまり監督の役目で派遣されていたのである。 また、四国の長宗我部信親の妻は、この内蔵介の妹である。光秀の家来つまり陪臣ふぜいの妹を長宗我部ともあろう家が嫁にするはずなどない。これは江戸期になって、この内蔵介の末女阿福が、「春日局」になって天下の権を 握る世になってから、(信長殺しが春日局の実父様の斎藤内蔵介では具合が悪い)という理由で、(光秀の家来にしておけば、明智光秀の命令でしたことになる)というのであろう。(信長殺しの光秀)にするための小細工にと改変されたもので、当時の公卿の日記をみても、「謀叛随一、斎藤内蔵介」という記載はあるが、「明智光秀の家老」などになっているのは、幕末の「絵本太閤記」とか、古本に偽装された「川角太閤記」とか いった辻講釈の種本でしかない。 さて、この時、軍監の斎藤内蔵介に止められたので、光秀としては内蔵介の言う事 は信長の命令と同じという立場をとって、三百だけの兵を目こぼししてもらって応援 にこれを遣った。しかし細川父子はそこまでは何も考えていないから、「安土より三千の助力を賜ったゆえ、明智光秀よりも二千ぐらいの加勢がくると思ったに、たったの三百か」と、すっかり腹を立てた。しかし大言壮語して出陣してきた手前、「兵力が足りませぬ」では戻れない。そこで一色義有の本城弓木城を攻めに攻めた。が、どうしても落城しないのである。「どうするか‥‥」と狼狽しきった。「やむを得ぬ。手段は選べぬ」。幽斎は唇をかみしめてつぶやいた。「なに、寄手の細川めが、その娘を人質に入れるから、ひとまず和平してほしいと申すのか」と、これには一色義有も妙な顔をした。なにしろ、(攻められている方が人質を出して和平)というのはあるが、それとは逆に、(攻めている側から申し込む)というのは前代未聞だったからである。「なにもそないな事をせんでも、攻めあぐんだものなら、さっさと引き上げたらよかろうにのう‥‥おかしな奴だ」。義有は若いだけに幽斎の肚が読めなかった。もしこの時、(信長に願い出て自分勝手に攻め込んだのに、落城させられませんでしたでは戻れぬ から)という内部事情が見破れたなら和平の申し出を断ったであろう。 しかし、細川幽斎という人は当時は歌詠みとして知られていた。そこでついうっか り義有も「歌人や画を描く人に悪人はいまい。まぁ信用してみようぞ」と、細川方の申し出をのんだ。 すると細川幽斎が若い娘を伴って弓木城へと訪れてきた。「‥‥これが人質か」と、その娘に目を注ぐと、向こうも恥ずかしそうにはしたが、じっと義有を見返した。そして幽斎の耳へ、しきりに何やら囁いてきた。気にして、「何を申しているのか?」ときくと、「いや、これは、これは‥‥」。幽斎がてれてみせながら、「長女とは申せ、まだ箱入り娘にて何もわからぬ他愛なきもの、人質として連れて参られたのに、お屋形様の嫁御寮になるつもりか、しきりに嬉しやと申しおりまする」。不憫そうに口にし、淋しげに幽斎は娘から見られぬようにと眼を押さえた。「なに、この義有の嫁となると思うて嬉しがっていると申すか」。これには義有は若いだけに、ぐっとくるものがあった。とかく今も昔も男は、女に対しては単純であるか らして、(異性から好かれているのか)と、途端に嬉しくなってしまったのである。そこで、「今でこそ敵味方で戦をしているが、その方も室町御所の奉公人だったゆえ、我らと同じ谷川の水」とまず切り出し、そして、「人質などというはこの娘が哀れじゃ。本人の望みどおりに我が嫁にせん」と言い出 した。「願ってもない事」。幽斎も喜んですぐに祝言の盃事をさせてもらった。 さて、それからというもの、 「於伊也、おいや」とあけくれ側へ召して、他の守護大名のように侍妾など一人も持 たず、この世で女人は妻だけの如く一色義有はこれを溺愛した。どうも書いていて気になるが、細川幽斎には長子忠興以下男子五名、そして長女於伊也以下、加賀、千、栗、那仁伊(なにい)の計十名の子がいた。はっきりとこの名前は「細川世系」にも出ている。だから、「女は、おいや」と一色義有が絶えず口にしても、これが本名であっては仕方もない。 さて、一色義有の本城は弓木城にあったが、八幡城に一色式部。久美城には一色宮内。その他、田辺城には矢野、由良城には大島と、一色家は十七代も続いた家柄なので、一門一族でかたまっていて、細川のような無法者さえ攻めてこなければ天下太平 だったのであるが‥‥ しばらくして赤子も生れて、三年の歳月がまたたく間に過ぎてしまった。「この子を父幽斎に見せとうござりまする」と於伊也が言い出すようになった。 「こちらへ呼べばよかろう」と言ったのだが、それでも、「あなた様も御一緒に父の許へ行って下さりませえな」。於伊也に甘えられると、「‥‥うん、そう致すとするか‥‥」。義有もうなずいたのである。どうも男というものは案外に誰でも自分の妻を信じたい「脆さ」を持っているらしい。 江戸期の安永元年(1772)京都西町奉行として山村信濃守が赴任したとき、江戸から伴った御徒目付中井清太夫なる者が、その姪を禁裡御所役人に縁づけ、翌年可愛い赤子もできた。ところが三年目になると、その嫁が子供を残したままで、今でいう蒸発をしてしまい行方知れずになってしまった。周囲も夫婦喧嘩ぐらいのつもりでいると、安永三年八月二十七日、飯室左衛門尉以下三十余名の御所役人が逮捕され、彼女の夫の西池主鈴は拷問で牢死した。他に死罪 三人、遠島五人、その他皆処罰されるという事件が起きた。はたして本当の罪かどうかはわからぬが、時々江戸の徳川家が御所に対して行ういやがらせである。 さて、その西池は、一説では獄中で自殺したともいわれるが、己が捕えられた時、「これが証拠である」とつきつけられた物が、三年がかりで妻の集めた物なのにびっ くり仰天。「何たることであろうか」と眼をまわすと、他の御所役人の罪科も皆行方不明のその妻の作った証拠で拘引されていたことがわかってきた。信じ切っていた妻に計画的にでっち上げをされていたのが判明したというのである。これでは口惜しさに自殺するのも無理はない。 さて、一色義有も於伊也に対し、「よき妻を持てたものである」と、かねて満足していたから、一緒にとせがまれるままに細川の城へ赴いたところ、「ようお越し下された」。細川幽斎から、下へもおかぬもてなしを受けた。が、一色義有とて戦国時代の武将のことゆえ、今のマイホームパパの如く子供を膝に上げてあやしつつも、打ち刀だけはしっかり脇に置いていた。ところが於伊也が義有の耳許へ、「父や兄さえ丸腰でいますのに、あなた様だけが用心されるのはおかしかろう」。そっとささやいた。「それもそうじゃな・・」。愛する妻の言うことだからと義有は合点して、於伊也に刀を手渡し、彼女が袂で刀を抱えて席を立った、その時である。「さあっ」と板戸を開けるなり、幽斎の家臣どもが飛び込んできて、「御覚悟っ」と呼ばわって槍をつけてきた。「‥‥しまった」と義有は慌てて顔色を変えて立ち上がり、「これっ、於伊也、刀を‥‥」と呼ばわったが、彼女も動転したのか刀を持ったまま後へ飛び退いた。やむなく義有は素手のまま身構え、猫足膳を振って立ち向かったものの、幽斎の家来どもの槍先で膳ごと肩先を刺し抜かれてしまった。それでもひるまず、瓶子や土盃を投げては抵抗しつつ、「於伊也、おいや」と呼ばわって刀を投げてよこせと絶叫した。が、茫然とした彼女は刀を投げるどころか、ひしと抱きしめるばかり。ようやく於伊也が夫の許へ近寄ったのは四方八方から槍を突きこまれ、一色義有が眼をむいたまま動かなくなってからであった。 |
(私論.私見)