9章、纏めて面倒みよう |
(最新見直し2013.04.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「1178織田信長殺人事件10」を転載する。 2013.5.4日 れんだいこ拝 |
【纏めて面倒みよう】 |
内蔵介は男だ |
まんまと阿呆ぶって巧く処世の途を計り、よって家門が明治になっても続き、今も 栄えているのもあるが、「男ならどんとこい」とばかり、天下未曾有のクーデターを敢えてやってのけ、そのために娘が春日局となれ、その孫の堀田正俊や稲葉正則らは五代将軍綱吉の頃には、大老から老中職を殆ど一族で占めて大いに栄えたという、陰徳あれば陽報ありといった格言を己が一身で示
したような剛の者もいた。 五月二十二日のことである。徳川家康は本多平八郎他五人程の供廻りを連れたのみで、「今京にいると聞いて尋ねて参ったが、在宅かな」。烏丸中立売の斎藤内蔵介邸を訪ねた。ちょうど丹波亀山から明智光秀と共に「在荘」(休暇)をとっていた内蔵介は、「どなたじゃろ‥‥」と顔を出した途端、「これは、これは」とばかり愕いた。なのに、「日向守殿(光秀)には、安土でいたく厄介になった」。家康はずかずかと座敷へ通るなり、気さくに声をかけた。斎藤内蔵介は明智光秀の家来ではなく、「丹波目付」として信長につけられている身分だからして、光秀が家康の饗応役を務めている間内蔵介はも京にいたわけである。「噂によれば家康様には今回、仰山な進物を天下様(信長)にお届けされたとか‥‥たいそう評判にございまするな」。かしこまったままで内蔵介は挨拶した。これは馬三百頭、鎧三百領の他に、阿陪金山よりの純金三千両を持参したというのが、(あの吝な徳川殿としては‥‥よくせきのこと)もっぱら京でも評判になっていたから、つい内蔵介も口にしたのである。すると、「仕方がないずらよ」。家康は苦笑しながら、脇の家臣の差し出す手拭いで首筋をこすった。そして、「なんせ、信長様より表向きは案内役とよぶが、ちゃんと目付についておるでのう‥ ‥あまりゆっくりもできん。ここに連れ居る者共は、これは口が裂けても何も喋らん男ばかりじゃが‥‥」と唇を持ち上げたまま笑った。そこで、「はぁっ」。内蔵介は、取持に出ていた己が家来に目顔で(去れ)と人払いをした。 なにしろ、どちらも信長公に仕える立場には相違ないが、やはり駿遠三の三ヶ国、 百万石の家康と、丹波で明智光秀付の内蔵介とでは格が違いすぎる。だからどうして も遠慮というか、言いなりにならざるを得ない。向こうも名を呼びすてて、「のう内蔵介、預けたいものがあって、本日はかく罷り越したのだ」と言ってから、「これ弥八」と、目の鋭い男に顎をしゃくり、「出しませえ」と命じた。内蔵介が、(この男が家康の懐刀と称せられている有名な本多正信か)と顔をのぞきこんでいると、正信は左右の者に命じて手を懐へ入れさせ、背へまわし、てんでに布包を引っ張り出させた。すると、それを横目に顎でしゃくってみせ、「ここに正金にて五百両ある。預かっておいてくりゃ」と気難しい顔で言うなり、さっさともう立ち上がってしまった家康は、もう一度、「ええずら‥‥」と念を押すように振り返って口にした。供の者も皆立ち上がったが、正信だけは呆気にとられている内蔵介に、さも立ち上 がった拍子に痺れを切らした如くよろめき、「‥‥打ち合わせは、この手前が、いずれ参上つかまつります」。内蔵介の耳許へ囁いた。 しかし、家康がそそくさと板張りの軒廊をつたって式台口へ出ようとした時、ちょこまかと幼女が駆け出してきた。が、家康を仰ぐなり恐がってそこへしゃがみこんでしまった。「これは、これは」と見送りに出てきた内蔵介が狼狽して、その娘を抱き上げて、「これは、手前の女童にて、於福ともうし、当年四歳でござる。御挨拶せいやい」。脅えたような幼女をあやしながら、手を添え頭をひとつ下げさせた。「これは良いお子じゃ‥‥きっと大きゅうなったら別嬪になろう」。家康は珍しくお世辞を言い、 「よし、よし」。ごつごつした手を伸ばし幼女の髪を撫ぜた。すると、女人というものは四歳ぐらいであっても他からちやほやされるのは良いものらしく、さっきまでべそをかきかけていた於福も、嬉しそうににっこり白い歯をみせた。 この一瞬の結びつきが二十年後になって、「亡き内蔵介には於福という娘がいた筈じゃ‥‥探せや」という事になった。そこで板倉勝重は家康の命を受けて、当時既に稲葉八左衛門の妻女にて、四人の子持ちだった於福を見つけだし、すぐさまその夫に、「大御所様の御下知ではある」と五千石の扶持を与えて夫婦の縁を切らせ、これを伏見城の家康の許へ送り込んだ。やがて於福が懐妊すると江戸城に移り春日局となって、家康の死後は代わって大奥に権力をふるい、「昔の我が古亭主殿を呼べや」と召し出し、「稲葉佐渡守」として二万石の大名に取り立てた。残してきた四人の子のうちで既に僧になった者には京に一寺を建立してやり、その住職となし、他の三名は皆大名に取り立て、末子のごときは小田原の大久保家を取り潰して、その後釜にさえしてしまった。だから、初めのうちは、「君と寝ようか五千石とろか」などと蔭口をきかれていたのも、さすがにピタリと止んだ。この「地口(じぐち)」は、江戸中期に鈴木主水という五百石どりの旗本が女と心中した時、五百石ではピンとこぬからと前の文句を生かして使い、「君と寝ようか五千石とろか。なんの五千石君と寝よ」と替え歌にされて流行した。 しかし、そんな後世の事まで、春日局になるのさえわからぬ当時四歳の於福は知ってはいない。なにしろ「春日局」というのは単なる名称ではなく、室町御所以来連綿として続いてきた、「将軍家側室にして、小御所より参内し、畏きあたりに拝謁できる女性の官名」という、当時としては武家の女人最高の地位で、征夷大将軍一代ごとに一人限り という尊い身分なので、父親の斎藤内蔵介でも、まさかそこまでは想像できず、「頭を撫ぜていただき、よいことよのう‥‥」などと、にこにこしながら於福を抱え上げていたのである。 その夜遅くなってから、本多正信が、「お邪魔をばいたす」と訪れてきた時に、「これは、あの女童にと下されものにてござりまするぞ」と落雁(らくがん)の包みを家康から言付かってきたとして、内蔵介に手渡した。だが、それだからといって、何も四十二歳の家康が既に早いところ四歳の於福に目をつけ、将来ものにしようという下心で、歓心をかうため贈物を持たせてきたわけで はない。さて、手渡すものを先に渡してしまうと、正信はしかめつらしい顔になって正座するなり内蔵介に、「我が殿家康公は、御辺を二なき武勇の者と思し召してござれば」 と、まず口にした。つまり娘の於福よりも父親の内蔵介の方を買っているのだということである。「恐れ入り奉りまする」。相手が陪臣なのを忘れたように、内蔵介はかしこまった。娘の於福に菓子を貰った時より、さすがにもっと嬉しそうな顔をした。本多正信は続けて、「本日、殿より直接にお下げ渡しになられた金子にて、取り急ぎすぐさま手配だけはしておいて頂こう‥‥」と、覆い被せるような指図の仕方をした。「何でござる?」。内蔵介は呆気にとられた。 というのは内蔵介の母は京では分限の裕福者として手広く酒屋を営んでいる角倉一族の蜷川道斎の妹なので、諸方から金子を預けられ、これまでも角倉へ廻しては利分を上げるという仲介を頼まれていた。だからして、吝で名高い家康も、滞在中に持ってきていた金を、いくらでも貸金に廻して利鞘を稼ぎ、それで供廻りの経費でも捻出 させよう肚かと内蔵介は思ったからである。なのに正信ときたら、「‥‥しっ、声が高い」と、まず咎めてから、「そなたを西国一の武辺と見込まれ、わざわざ家康の殿が頼みに来られたのを、御辺はまんだ推量されておられるのか?」とたしなめるようにじっと見据えてきた。「さぁ‥‥何を仰せられてか?」。内蔵介は妙な顔をして首を傾げ、 「さいぜんの金員は他へ転貸しての利息取りではありませぬのか?」と尋ね返した。「てんごう(冗談)は言わぬものぞ」。本多正信は怖い顔をして睨みつけた。しかし、「何が戯れ言でござる‥‥京や大坂の町では金銀はたとえ一日でも遊ばせておかず、 すぐに吉田か角倉へ預けるが慣わし。五百両ともなれば一日の利息だけでも莫大なもの」と内蔵介も、きっとしてはねかえし、「そないに厄介なる金なれば預り証も出しておりませぬゆえ、すぐにも取り戻してこさせ、返しましょうほどに‥‥なんせこの斎藤内蔵介は以前に比べれば出世するどころか落ち潰れ、まるで明智日向守殿の家老格にも見なされておりますが、これでも天下様の御直臣にござる。金廻しの仲立ちは致して進ぜますけれども、これまで礼など受けとってはおり申さぬわ」と言い切った。 すると正信はその剣幕に怖れをなしたのか、慌てて手を振り、「これは、わが身の不調法‥‥とんと埒もないことを申し上げ、失礼をば仕った」と頭を下げた。しかし、すぐ詫びられたからとて、それで気分がおさまるものではない。「やはり、お返し仕る」。内蔵介は首を振った。正信は狼狽し切ってもぞもぞしていたが、「たってのお願いでござる‥‥あの黄金にて兵を集め、わが家康の殿を守って下されや」。拝まんばかりにして、押しつぶした声を出した。「何‥‥何と言われた?」。内蔵介も、これには仰天して聞き返した。「いや‥‥これは格別さし迫ってどうのこうのという話ではありませぬ。まぁ用心の為でござりまるるがのう」と正信は話を引っ込めかけたが、それでもまだ、「なんせ、お伴して参った人数が多ければ心配はござらぬが‥‥なんせ百余名」と正信は声を湿らせた。そこで内蔵介が、「ならば、もそっと供揃えをお連れなさればよろしかったんおに‥‥」と云えば、「天下様のおられる安土城へ、そない仰々しい多勢で来られるものか、どうか、考えてもみさっせ」。滅相もないと窪んだ眼で首を振り、団扇を動かしてみせた。「‥‥なんせ信長様は疑いっぽいところもあられるでのう‥‥」。内蔵介が相づちをうてば、すぐ、「それでござる。あらぬ疑いをこうむってはと存じ、人数を僅かにしぼり、さて出かけては参りましたなれど、たった百名にては、もしもの時には心細く‥‥よって重臣(おとな)が寄り合って相談しましたところ、今、京にあって武辺第一の斎藤内蔵介殿しか他はないという事になり、そんで家康の殿はお直々に本日ここへ頼みに来られたのじゃえ」。かんで含めるような言い方をした。「なるほど‥‥」。内蔵介も「武辺第一」と言われた手前、肯きはしたものの、「して、誰に襲われまするのじゃ?ここは京の真ん中。なんせ安土より僅か十四里しかないここで、そないな狼藉沙汰などありようもござりますまいに‥‥」。渋団扇で煽ぐように話を打ち消した。すると正信もそれに大きくうなずいて、「天下様のお眼の光っている京で、そない気遣いないは百も承知なれど、我が殿家康様は人にあまりよく思われぬお方‥‥それで我らは杞憂とは思え心配でござる」と眼を光らせた。「話を聞けば、笑止千万。ならば信長様につけられし案内役の長谷川にでも申しつけなされ。すりゃ四条西洞院通り本能寺前に村井道勝の役宅がござれば、村井の手の者が家康様の身辺をすぐにもお守り仕りましょう。なら金など一文もいりますまいに」と内蔵介が云えば、「左様なればお預けの金は一日ぐらいでもよろしく、我が殿が滞在中によろしく利に 廻して下され」と正信も納得して戻った。 ところが、次の日になると背のひょろ長い男が、「内蔵介殿はおられてか‥‥美濃三人衆の氏家様に仕えていた朝沼でござる」。尋ねてきた。「ほう、珍客じゃ。逢うてとらせる。座敷へ案内しておくがよい」と取次の家来に言いつけ、「よう、懐かしや」と内蔵介が顔を出すと、その男は熊のような剛毛(こわげ)の生えた手を振って喜んだ。が、その後がいけなかった。 「うぬしは何じゃ‥‥元龜元年の上様の朽木越えの御難の時に、金ヶ崎で踏みとどまって殿軍した木下藤吉郎は、今や押しも押されもせぬ大将となって、その名も羽柴秀吉と改め、今では中国攻めの総司(たばね)じゃに、やはり守山口を固めて、藤吉とは違い獅子奮迅の働きをなし、「鬼内蔵介」とまで謳われた貴公が今は、その時すたこらさっさと若狭へ逃げた明智光秀の目付格で、丹波亀山城勤めの身分と聞くが、なんぼなんでも差がありすぎておかしい。なんぞまずい事でもあってかのう‥‥」と、内蔵介の一番いやがる事を、平気でずけずけ遠慮なく口にした。「そないな事はないわい。おぬしもあの時は稲葉衆と共に残され、俺が采配で動いてくれたゆえ、よう知っとろうがのう」。ぶりぶりしながら内蔵介は眉をつりあげた。「だからじゃ‥‥なんぞ、その後になって信長様に叱られるような事でもしくさったのかと聞いとるんじゃ」。真っ黒な手のはえた手で、とんでくる蝿を追いながら聞いてきた。「なにもそんな事はありゃせん。信長様は胡麻すりの藤吉ずれは好かれても、俺がような無骨者は、戦に出される時しか使いみちがないで、ばかになされとるだけぞ」。忌々しそうに内蔵介は口を尖らせて首を振ったが、そのうちに、「酒でも浴びるほどに飲んで、憂さを晴らそうかい」と手を叩いて家来を呼んだ。「何の理由もないのに、そない仕打ちとは内蔵介程の男を信長様はなめとられる。口惜しかろ。よっしゃ、俺も頭にきた。つきあって呑んでやらす」と朝沼も肩をいからせ唸った。 良きにつけ悪しきにつけ、これほどまでに誤り伝わっている者も少なく、珍しい。俗説では前にも述べたが、斎藤内蔵介という侍は、はじめは稲葉一鉄の家来であったが、それを明智光秀がスカウトして無断で己の家臣にしたというのである。そこで稲葉一鉄が主君の織田信長に直訴して、けしからんからよろしくと申し出た。信長も、もってもであると、光秀を呼びつけると頭ごなしに、「これ、光秀。その方の許にある斎藤内蔵介というは、もともと稲葉の家来じゃというではないか。戻してやるがよいぞ」と命令した。この時光秀が、「はあっ」とお受けすれば何でもなかったのだが、内藤内蔵介というのは世にも得難 き侍だったので、光秀も惜しくて堪らず、どうしても戻す気にならず、「手前が良き家来を求めて使っておりまするは、これはひとえに上様の御為に良き奉公しようと思うているからでございます。どうか、そこのところをお汲み取り下さい まして、お見逃しの程を願わしゅう存じます」 と両手をついて頼んだところ、信長は、「内蔵介というのがいかに有能な者であったにせよ、他家の者を横取りする事はけしからん、それでは家の中の取締まりができぬではないか。また、その方の申し分をきいていると、光秀の許では有能で使える侍も、元の主人の稲葉へ戻せば役立たずになると言っているようにも聞えるが、それではあまりにも人もげなる大言壮語。聞き苦 しいではないか。まぁ事を荒立てぬがよい」とまで言った。だから、この時、「それほどまでに仰せあるならば、止むを得ませぬ‥‥」と光秀が納得すればいいも のを、「恐れながら、あれほどの働きをなす侍を手放しとうはござりませぬ。まげてお許しのほどを」と、あくまで拒み通した。だから信長も烈火の如く腹を立て、「これほどまでに理を通して云うて聞かせても、そちゃ聞けぬというのか‥‥ここな不所存者めがっ」 と、ついにかぁっとして、いきなり手にしていた盃を「えいやっ」と投げつけたところ、狙いを誤またず光秀の額にあたり、信長の前を下がってきて額に懐紙を押し当てたところ、「ややっ」光秀は驚き、きっと身構え、「こないに男の面体に傷をおつけなされしとは‥‥」と、おもむろに身体を震わせ、「恨めしや信長様‥‥」と悲痛に叫び、これが光秀謀叛の遠因となった、とされている。 この話の出所は「川角太閤記」で、これには堂々と敷皮をのべさせ胡座をかき光秀が、「我が身三千石の時俄かに二十五万石に取り立てられたので、家来が一人もなく止むを得ず他の大名衆の家来(内蔵介)を呼び寄せて召し使っていたところ、三月三日の 節句の日に岐阜城にて他の大名や高家の並ぶ衆人監視の満座の中で叱られ、赤恥をかいたゆえ、その無念をはらすために、よってこれから謀叛をする。わが敵は備中にあらず、敵は本能寺になり」というように一席ぶってから、本能寺へ進発したというのが種本になっている。つまりこれの目的というのは、「斎藤内蔵介というは世にも得難き侍で、彼一人の奪い合いがもとで、明智光秀と織 田信長は仲違いをしてしまった。それほどまでに斎藤内蔵介というのは豪い侍で、価 値のある男だった」というPR用ともいうべきCMものである。 何故こんな事をしたのかというと、内蔵介の娘というのが徳川家光の世では絶対権力を握っていた春日局なので、彼女への機嫌とりというか、その咎を受けぬようにと 書かれたものをば天保期以降に、そっくり種本として使ってしまったからである(歴史家は「川角太閤記」を元和年間のものと間違えているが、私の「信長殺し光秀でない」に、その誤りは詳しく解明してある)。 そして、この種のものではあくまでも「斎藤内蔵介は稲葉家の旧臣」となっているので、今でも間違えられているが、春日局が豪い存在だったからして、「斎藤伊豆守 (内蔵介の父)春日局家系古文書」とか、「寛文年間蜷川喜左衛門自筆書付系図」 「寛政六年甲寅十月、町野幸宣文書」といったものも史料編纂所に現存している。つまり稲葉一鉄の娘を妻にしてはいるが、内蔵介は稲葉の家来というわけではなく、信長の直臣であり、永禄七年に信長が美濃を占領した時からの奉公だからして明智光秀よりははるかに古参である。天正十年六月二日の本能寺の変の頃には内蔵介は不遇で、まるで光秀の家老程度ま でに思われているが、当時の光秀の家老というのは、先に荒木村重の跡目に嫁がせ戻ってきた光秀の長女を添えた三宅秀満で、明智姓を名乗らせていた。 かつての信長の家臣団の中でも斎藤内蔵介が実力者であった事を証拠立てるものは、その妹の縁づき先をみてもわかる。「長宗我部元親」といえば四国の土佐の浦戸城からついには四国全土を平らげた豪雄であるが、彼が信長から迫害されぬようにと機嫌取りと保身政策で嫁に迎えた女というのが誰あろう斎藤内蔵介の妹である。もしも内蔵介が稲葉一鉄や光秀の家来ならば、信長の陪臣である。四国の長宗我部ともあろう者が、政略結婚で嫁取りするのに、まさか陪臣ふぜいの妹など貰うわけはないのである。また、その妹との間にできた子供の弥三郎に対し、天正三年十月二十六日付をもって、織田信長は自分の名の一字を与えて「長宗我部信親」と名乗らせているのである。己の直臣ならいざ知らず、陪臣の妹の産んだ子に、信長がここまでするものではない。 つまり、天正三年当時の斎藤内蔵介というのは、信長の直臣団の中でも、錚々たる勢力家であった事がこれでも明白である。しかし、こういう事実は内蔵介を光秀の家老にしておかないとまずい立場の人々にとっては厄介なので、つまり、信長殺しを光秀のせいにするために、「斎藤内蔵介は本能寺を襲い、二条城を攻め、織田信長とその跡目を殺した。しかし、内蔵介は明智光秀の家臣である。だからして命令して謀叛させた奴、悪いのは光秀である。つまり春日局様の父君である内蔵介という侍は、悪逆無道の光秀を諌めたのだが、どうしても聞き入れぬので、そこは男らしく諦めて先駆けして奮闘した。それが 主君をもつ武士というものの在り方である」といった具合に儒教流行後の「忠義」というモラルに包みこまれ、ごまかされてしま った。 だからして、こうした事実を曲げるために長宗我部元親の妻を斎藤道三の娘にしている歴史書もあり、それでは信長と元親は義兄弟になるが、道三には娘は奇蝶の他はいない。内蔵介が信長の直臣であって、かつて実力者であったということを証拠立てる史料 は、次々と筆写されて伝わる段階においても、「これはおかしいではないか」と抹消されてしまったのか、殆ど今ではみあたらない。ただ、「信長公記巻三」の元龜元年(天正三年の五年前)五月六日の条に、「信長の妹お市の方を嫁にしている浅井長政が、突然朝倉方の味方になった。そこで背後から挟み討ちに押し寄せてくるという知らせに、信長は驚き朽木峠を越えて逃げた。この時明智光秀や丹羽五郎左もひとまず若狭へ先に引き上げてしまった。しかし、信長の命令で踏みとどまって、滋賀の守山の守備についていた斎藤内蔵介は、己の妻の伯父にあたる稲葉一鉄らと共に、守山の南口より一揆のたてこもっている所へ攻め込み、これを追い崩して数多くの叛徒と突き崩し、比類なき武功をあげた」というの だけが残されている。まさか陪臣ふぜいに信長が直接に命令する筈もないから、この一例だけをみても、「内蔵介は明智光秀の家老ではなく信長の直臣だった」事は、はっきりすると思う。 「内蔵介も美濃の者。この奇蝶とて、東美濃可児郡明智城より亡き道三入道様に嫁ぎし小見の方様の姫ゆえ、れっきとした美濃の者‥‥のう、聞いてたもれや」。いきなり言い出してきた。だからして、(何事であろうか?)と顔を上げると、「これ、我が頼みぞ‥‥聞いてくりゃ」。じっと潤んだ双眸が向けられていた。しかし、いくらそんな表情をされても、「はぁっ」と素直に内蔵介は言いかねた。(ご自分の都合ばかりで、同じ美濃者)といわっせるが、ならば、なぜにこれまで、「内蔵介は不遇じゃによって、同郷のよしみで面倒みてとらす」と、少しは夫の信長様にとりなして下さらなんだと、恨めしさがたまっていたからである。そして、(いくら女ごとは申せ、奇蝶様にはあまりにも得手勝手すぎはせぬか、とても話など聞けぬ)と言い返したいのを、そこは男の事ゆえ内蔵介が、じっと我慢しているのに、「いくら申しても、この身の願いをきいてくれず、助力をせんというにおいては、この奇蝶はこの場で喉を突こう。同じ美濃者じゃによって、そちが介錯せいやい」と、 紫袋に包んできた懐剣を抜きかける始末。だからして内蔵介としては、「御短慮をなされまするな」とでも言って止めるしか、他に手段のとりようもなかっ た。 しかし、宥めたからといって、素直にうなずくような奇蝶ではない。あべこべに、 「いらざること」と内蔵介を睨みつけ、懐剣を抜き放って逆手に持って喉へ当て、「この身を自害させたくないのなら、たっての願いぞ‥‥云う事をききや」と云う。これが若かった頃なら、言うことをきけなどと言われると、つい勘違いしてしまって色気にも受け取りがちだが、なにしろ奇蝶御前ももう四十八歳、てんで残りの色香 もない。男というのは、えてして綺麗な女や若い娘には何かの拍子に仲良くなるやもしれぬと思えばこそ、良い顔をしたり親切そうにもするが、年齢の高い女には冷ややかである。まさかそこまでの気持ちは内蔵介にはなかったろうが、なにしろ不意に呼び出され、「何も聞かずに助勢せい、言うことをきけ」では、いくら同郷の美濃人だからと言われても、おいそれとは返答などできるものではない。そこで、「まぁ落ち着きなされ‥‥何に力を貸せと仰せられるのか。わけをお話下されませ」。持て余し気味に、昔から気の強いので通ってきた女人の顔を仰ぎ見た。すると、「どうあっても、いわねばならぬか?」と、又しても怖い顔をして眼を光らせるから、「勿論にございまする」内蔵介もきっとして言い放った。 安土より、(明智日向守を余の名代として中国攻めの進発に先行させる。よって内蔵介において は指図万端これを目付せい)と、使いの御用番が来たばかりで、丹波亀山城番の斎藤内蔵介としては、これからすぐにも江州坂本へ馬をとばし、明智光秀と打ち合わせの上で丹波にて陣揃えせねばな らぬ忙しい立場であったからである。それゆえ、京の奇蝶御前様の別邸のある今出川から、ひそかに迎えの侍女が来たときも、 (さだめし備中出陣についての何かの沙汰)と思えばこそ、かくは罷り越したのであって、こんなわけもわからぬ駄々をきくつもりで伺候したのではなかった。そこで、「手前はこれよりすぐに坂本まで行かねばならぬ身でござりますれば‥‥なにとぞ御用の事は備中より戻ってきてからに願わしゅう」と立ち上がりかけた。すると、暫くは躊躇していた奇蝶だが、もはやこれまでだと思い切ってか、「近う信長の殿は‥‥この京へいつもの如く僅かばかりの供廻りで出てまいる筈」と、まず口にしてから声を落し、「討ってほしいのじゃ」とつけたした。これには内蔵介も愕然として、「えっ、なんと言われましたぞ?」。まるで自分の耳を疑うような声を出した。「‥‥このたびの信長殿の上洛は、かしこきあたりの尊き姫を賜る話とか、公卿ども より洩れ承る‥‥この奇蝶という者がありながら、そないな不埒な事を許してはおけ ぬ。よって信長を成敗してほしいのじゃ」と震えながら奇蝶は訴えるように言った。「滅相もない‥‥いくら冗談(てんごう)にせよ、程々になされませ。それは女ごの嫉妬というもの」。びっくりして内蔵介は狂ったような奇蝶御前をたしなめた。それなのに、「美濃人のくせに何を申すぞ‥‥我が美濃は父道三入道様が治めていなされた国ぞ。それを信長めはまんまと占領した後、岐阜と名まで変えてしまい、初めのうちこそ、いずれ美濃の国は道三の血脈をもって継がせようと申しておきながら、天正四年に安 土城を丹羽五郎左に作らせた後は、それまでの約束を反古にされて、生駒将監の後家 娘の産んだ城介信忠をもって城主はした。よいか‥‥美濃はまんまと信長めに横領されたのじゃ。わかるかや。もし内蔵介に美濃人の血が流れていれば、打倒信長の旗をあげてしかるべきじゃろ。ふぐり(睾丸)はあるのかや?」と、一息いれてから、「これまで信長殿に、この身は美濃者のために良かれと、散々に口が酸っぱくなるほどに頼んではみた。しかし、何のかいもなかったぞ‥‥内蔵介が今の秀吉よりも立ち勝った働きをなしていても、美濃者ゆえに尾張人の秀吉の足許へも寄れぬ身分。道三様末子にて、わが異母弟にあたる斎藤玄蕃允として、北国攻めには散々な働きをなし、衆目のみるところ柴田勝家より手柄は大きいに、勝家は守護職として北の庄六十万石なれど、玄蕃允はあわれや信長の家老に落され、僅か三万石。その昔、この奇蝶が十五で嫁入りした時についてきてより三十余年。あけくれ戦働きに身を尽くした安藤伊賀にしても、北方の庄三万二千石は、道三様の頃より一石も加増されておらぬ有様‥ ‥それどころか去年、何の理由もないのに、その美濃北方の領地まで没収され『美濃者のくせに身の程知らず』と冷笑なされ、信長の殿は年寄った伊賀を追放なされた‥ ‥このままでは美濃者は被占領国民として次々どんな目にあうやも知れぬは、その方とて考えておらぬことはあるまいと思うがどうじゃ」。 言われてみれば、その通りである。信長は美濃を占領するのに永禄四年から毎年戦をしかけては失敗。四年がかりでやっと手に入れた恨みが骨身にまで染み込んでいる のか、きわめて美濃の者には今でも酷い扱いをする。(おりゃを立身させてくれんと、あべこべに左遷させなされたも、この内蔵介が美濃人の為であったのか)と、思い当たればうなずけもした。「最前、そちは、この奇蝶が見苦しや、嫉妬に狂うて、長年連れ添ってきた信長を討たんとするはあさましや、と顔を歪めておったが、まぁ考えてみい。この奇蝶が喧嘩まで売ってくい止めていても、美濃人は次々とこない酷い目におうているのじゃ。な のにわらわが尊きあたりの御降嫁によって信長の妻の座を追われてみい‥‥こりゃど うなることになる?」。「仰せまでもなく、既に美濃者は、かつてお力添えした三人衆の安藤伊賀が追放されておりますゆえ、我が妻の伯父の稲葉一鉄や今は亡き氏家卜全の伜らもやがては処分 されてしまい、この内蔵介も七人の子を抱えて乞食になり下がるより他はありませぬな」と内蔵介も、我が身の行末を想うと憮然として唇を噛んだ。 |
娘は春日局 |
「何やつぞっ」。きっとして内蔵介は馬を止め、背後から供の者の差し出す槍をつかんで、それで身構えた。すると、相手は手を振って傍らの馬肥やしの叢にうずくまり、「これをっ」と懐中よりの封書を出した。受け取った内蔵介は裏返して見るなり、「あちらへ参れ」と欅(けやき)の樹の蔭を指差し、「わしも行く」。鞍から降りるなり、手綱を供侍に持たせると、羊歯の葉の繁った草原を横切って行った。そして、「まずは、息災か?‥‥」と封書の裏にでている妹の事を、その使いの者に尋ねた。「はい、御病気でござりませぬが、信長様が四国征伐に乗り出され、仰山な兵を差し向けられるとかの噂に、すっかり胸を痛められ、気落ちなされ、ずうっと寝込まれてござりまする」。聞き取りにくい土佐弁だが、そんな意味の事をたどたどしく喋った。「うむ、さもあろうのう‥‥せっかく長宗我部殿が四国全土を己の槍先一つで突き従えられたばかりというに、ほっとする間もなく、その四国をば『よう働いて一つにしおった。今度は余が貰ってこまそ』と、信長様に狙われ兵を出されては、こりゃ元も子もない事になる‥‥なんせ四国を片付け退治するまでは、『やれ、やれ』と励ましを言うていなされ、さて切り取ったら、今度は一挙に奪ってしまおうでは、ちいと信長様も酷すぎる」。 暗然とした内蔵介は、木の葉隠れで翳っている顔をよけい悲痛な色に沈めた。「そのところにござりまする‥‥それなる御文にもしたためてござりましょうが、なんとか御力をもって信長様に四国征伐の事思い止まっていただけるよう計らって下さ りませ」と使いの者は平身叩頭。青草に額をにじりつけるようにして何度も頭を下げた。「うむ‥‥」。内蔵介は開けて見なくとも判り切った妹の手紙をひろげた。案の定、信長様に四国攻めなどされたら、何のために自分が土佐に嫁に貰われて来ているのかわからなくなる。それでは斎藤内蔵介の妹をと妻にした長宗我部部元親が馬鹿な男と、ものわらいにされようといった文面で、「もし妹の事を少しでも愛しと思い下されば、なにとぞ、なにとぞ、信長様の御征伐軍勢の儀お止め下されますよう御尽力の程を」と、当の元親までが最後に自分で書付け加えていた。 しかし、四国からいくら手紙を幾度よこされたところで、もはやせんなきことだっ た。(この斎藤内蔵介は昔の如く勢いのあった羽振りの良い内蔵介ではない‥‥奇蝶様にいわせれば、美濃の者ゆえ格下げにされ、今は信長様に諌言どころか、直接になぞあ まり口をきけぬ身分にまでなり下がっているのだ)と内蔵介は溜め息をするしかない。なのに、「四国征伐の総大将は織田信孝様、それに丹羽五郎左と津田信澄様。御目付は蜂屋頼隆殿にて大坂城に入られ、軍船を夥しく住吉浦に並べられ、まるで海の色など隙間からでも覗けぬほどにござりました」と、土佐の浦戸城から使いに来た者は、住吉浦へも廻って調べたらしく、手振りまで 加えて訴えた。 「うむ、左様か」。内蔵介は答えた。それしか他に返事もできなかった。といって、(本当は、もはや内蔵介の手の及ぶところではない)とも、使いの者に告げられず、「これなる書状を信長様にお見せして、なんとか翻意して頂くよう、もう一段の努力 をしてみようぞ。元親殿や我が妹にも、よいか、御休心あれと、そないに返事せい」。内蔵介は嘘をついた。この場合たとえ気やすめにしろ、そういわねばならなかったのである。「住吉浦の舟夫どもの口では、出帆は六月二日との由。なにとぞ、それまでに軍勢の御渡海をくい止めていただきたく」。くり返し、くり返し、そんな意味の事を土佐弁で訴え、使いの者は蓬葉の茂った叢の方へ一礼してから駆けていった。(一刻も早く土佐へ戻らねばならぬゆえ、心急ぐのであろう)と見送りつつ、「六月二日には二万の軍勢が四国へ向けて出帆か」。内蔵介は、キッとして口にした。 しかし、三男の信孝を四国全土の守護職にする計画で、このたびの征伐を決めた信長が、(内蔵介の立場が困るのなら、是非もない)と、大坂へ集めた軍勢を他へ廻してくれることなど、考えてみるまでもなく、無理な相談だった。(信孝の新鋭の軍勢が上陸すれば、いくら長宗我部部が剛勇でも、ひとたまりもあるまい。すれば妹は立場に窮し自ら縊れるか、又は喉でも突いて死ぬしかなかろう) 内蔵介は胸がじんと痛んできて、じっと妹のいる四国の空を仰ぎ見た。 さて、明智光秀は四国への出陣の先手を信長に命じられると、すぐさま坂本城へ行き、そこで家老の明智秀満に用意を言いつけ、二十六日には丹波亀山へ向かった。打ち合わせに来た軍監の斎藤内蔵介と打ち合わせはしておいたが、直接の家来ではないから、用意はいかにと案じて見に来たのである。しかし、思いのほかに整然と仕度が進められているのを見て安心したのか、明智光秀は一日だけ在城したが、次の日になると「愛宕山へ行く」と、坂本から伴ってきた近習だけ伴って出かけてしまった。一泊の予定だった。ところが、その二十九日の朝、信長が小姓三十名だけ身の廻りの世話用に率いて、さっさと上洛したと、安土の明智屋敷の者が光秀が亀山にいるものと思って知らせに来た。「ほう、信長様は何をしに京へ行かれたのじゃろ」。内蔵介も聞いて不審そうに首を傾げたが、(さては奇蝶御前の云うとおりでありしよな)と、そこはすぐに納得して、(さて、奇蝶様の云われるようであれば、こりゃ美濃の者は信長様に嫌われているゆえ、次々とみな根絶やしにもされよう)さすがに色々と心配になってきた。 そこで、内蔵介は中国攻めの出陣の仕度を指図しながら、浮かぬ顔をしていると、夕方になって、「殿っ‥‥お人が」と、内蔵介の家来が泡をくって、まるで黄粉まぶしの餅にように、 すっかり砂塵まみれで黄色くなった若者を案内してきた。「手前本多弥八が伜めにござります」。低い声で、その者は名乗りを上げた。この男、後に本多正純と名乗り、下野宇都十五万石の大名になるのだが、この時の使いにたったのが不運というべきか、この後江戸時代になって、(宇都宮吊り天井事件といったでっち上げ事件を作られてしまい、この本多正純は信 長殺しの謎を世間に口外せず秘密にするためにと出羽の由利に追放監禁され、他人と口をきくことを生涯許されず、座敷牢の中で七十三歳まで生きていたというが、これは後の話である)。「ほう、本多正純が御子息か」。内蔵介が聞き直し、「ひどい埃じゃ。まず頭から悉皆洗われたら」と家来の者に井戸端へ案内させようとした。「‥‥恐れながら」と若者は黄色い砂垢ほこりまみれの顔をくっつけるように近づけてきて、「信長様上洛の報に接し、我が殿家康様は直ちに海路の便を求められ、堺へ脱出なされたが、堺では政所の松井友閑めが見張っていて、その邸へ閉じこめられてござる。すぐさま兵を率いて蹶起して下さりますよう‥‥お願いに参りました」。一気に言ってのけた。そして、「家康の殿が直々に仰せあるには‥‥本日只今、徳川家にとっては浮沈の瀬戸際。も し内蔵介殿が助けてくれるにおいては、生涯これを恩にきて、徳川の家は内蔵介殿の血脈をもって継がせてもよいとの御諚」と力強く言うなり、襟のあたりへ糸きり歯をあてて縫糸を引っ張り切るなり、「これを御覧じくださりませ」と血判の痕が黒く滲んだ薄葉紙をひろげてつきだした。見れば今しがた口にしたのと同じ文面にて、家康の直筆らしい事は疑いもなかった。だから、「かしこまって候」とは返事してしまったものの、家康が怖れていた敵というのが信長だったとは‥‥内蔵介にもあまりにも意外だった。「俗に親しき者こそ最大の仇敵なりといい及ぶが‥‥なんで家康殿は信長様に狙われてござるのか‥‥」と、あまりの不可解さに聞き返したが、本多正信の伜は、「そこまで存じよらず」とうつむいたまま首を振った。 この謎、つまり家康が信長に狙われていた真相は私の「謀殺」に詳しくわかりやすく、その秘密を明かしてあるが、それに書き残した話として当時のイエズス派資料にも、 「三河の王(家康)が教会に宿泊したら、せっかくの教会が信長の軍に襲撃されると心配してたところ、彼は教会を宿泊所にしなかったので、伴天連共はほっとした」という記述がある。普通なら教会へ家康が泊まってくれたら、将来の布教の上にも便利が得られ歓迎すべきであり、家康の家来が銀の燭台を盗み出す心配もなかったろうに、なぜ彼等は徳川家康を迷惑がって避けたかというと、この時、京では、「‥‥家康は信長に襲われる」という噂が、外国人である宣教師の耳にも届いていたためである。 なにしろ「1582年日本イエズス会年報」にも、京都教会堂カリオン宣教師によって、 「6月20日(日本暦六月一日)彼らは信長の命により、三河の王(家康)を殺すべく京都へ侵入してきたのである」という一節が書かれているくらいである。「‥‥お願いでござる‥‥せっかく堺までは落ちのびたなれど、船という船が押さえられ脱出がかなわず、今や我ら主従百余名は袋の鼠」と本多正純は、両目に涙をためて縋りついた。「と言われても、預かりの金は京においてござれば、ここにはなく、一兵とても銭では集められませぬ」。内蔵介も首を傾げた。 そのうちに空が暗くなってきて、大粒の雨がきた。「夕方でござる‥‥間もなく雨は上りもうそう」と内蔵介は言ったが、なかなかどうして雨は沛然と本降りになってきた。夜中に少し小降りになりかけたが、朝になるとまた篠つく土砂降りとなった。この頃は太陰暦で五月は二十九日だけ。吹き降りの雨に明けた翌日は六月一日だった。内蔵介は烈しい雨だれを聞きつつ、 「この雨では一泊の予定で愛宕へ登られた明智光秀殿も、馬の蹄が滑って山頂からは 降りられまいし、本能寺へお泊りの信長様も、この雨に閉じこめられてはのう‥‥」と唸った。まだレインコートも傘もない頃なので、雨に降られると蓑しかないが、そんな物で しのげるような雨ではなかった。なのに、昼になっても午後になっても土砂降りは続き、降りに降っていた。 四人の男の子とその下の女の子が三人。まるで塀に並んだ雀のように、ちゅんちゅんさえずっていた。京から丹波へ連れてこられたが、雨に降り込められ、皆退屈しき っていた。(こうして集められたは、なんぞ、およばれじゃのう) だから、きっと珍しい到来物でも配って下さるかとあてにして騒いでいた。(この前のように白や茶色でギザギザ刺のでたコンペイトオ(金米糖)かもしれぬ。ありゃ南蛮渡りのものじゃそうだが、口に入れたら甘うて、唾がみんな蜜になってし もうた‥‥もし一粒ずつ無理なら、たとえ半分ずつでもよろしいに)と子供達は、また舌の上でとろけてゆく感触を味わったりなどしていた。みんな面白そうに、にこにこしあい、楽しさに期待をはずませ、肘で突き合ったり肩を触れたりして行儀ように並ばされていたり、座ったままで押しくらまんじゅうごっ こなどしている。 が、そこへ入ってきた父親の斎藤内蔵介利三は、少し青黒く翳った顔と鉛色に沈ん だ瞳をしていた。だから子供達は飼葉桶の水を頭から浴びせかけれたようにしゅんと してしまった。 まだ四歳だった三女の於福はまだ顔色をみるという才覚はなかったが、(なんや、何も持ってへんなぁ) 父内蔵介の手に何も握られていないのを見ると落胆した。期待外れに悲しくなってしまい声は出さぬまでも、それでもべそをかき出しかけた。 いつもの父の内蔵介なら、すぐ側へきて「よし、よし」と頭を撫ぜてくれるから、於福もそのつもりでいたのだが、聞えてくるのは雨だればかりで、父は黙っていた。それがよけいに悲しくなってしまい、「京でいただいた落雁でもええ‥‥何か欲しい」。堪りかねて声を出した。それでも父は黙り込んで側へもこない。だから於福は癪にさわって、駄々をこねる みたいに、わぁわぁ喚こうかと思った時である。七人の子供の前にどさりと腰をおろした父の内蔵介は、一渡り子供等の顔を見渡してから、「ここにその方等を集めたのは余の儀でもない。実はのう‥‥」と言い始めはしたものの、裾の方にいる四歳の於福や六歳の於順には少し難しかろうと思ったのか、言葉をやわらげ、「お別れにな、皆を‥‥呼んだのじゃえ」と、わかるように言ってきかせた。一人ずつの顔をまっすぐ見てはにこにこと眼で微笑みかけてみた。しかし催促されるような微笑をされても、(別れじゃな)などと改めて言われた後 では、とても追従笑いなどできるものではない。七人の子供は、怯えるように眼をみはり、耳をすまして父の次の言葉を待っていた。「‥‥武士には武士の意地。男にゃ男の意地というものがある。こりゃ銭金では贖えぬものじゃ。というて、その根性を立てて我をはれば、ろくでもないめにあるはめに みえたこと。勿論そない道理のわからぬこの父ではない。しかしのう‥‥」と、そこで声を止めると、喉をごくりと鳴らした後は感涙にむせぶのか目頭を押さえ、 肩で荒い息をして暫くはものを言えなかった。 やがて涙に濡れた顔を上げると、「こないな事を幼いその方らに話してもわかってくれるか否やは思いもよらぬ。が、親としては云うておかねばなるまい。今は判らなくとも言葉だけは覚えておき、いつか元服したら思い出してくりゃ‥‥すりゃ父の存念も幾分とも理解できぬものでもあるまいて‥‥」と云ってから、「まだ頑是なきその方等七人を放り棄て、勝手な真似をするこの父は、人でなしの外道よと、きっと怨まれもしようが、これも詮方なき話じゃ。のう堪えてくれ、許してくりゃ」 と終には頭を下げてしまった。年長の市助(後に家康に召される斎藤佐渡守)が、少し声を震わせ心配そうに、「ど、どないなされましたか」と吃って尋ねてきた。「うむ、今のまんまでもおとなしゅうしておればな‥‥その方ら子供にも迷惑かけんと、まぁ無事息災には暮してゆける‥‥だがな、よく聞けや。妻子さえ安穏なら、それで男は良いというものではない。男とはな、意地を張り抜いて生きてゆくものじゃ ‥‥眼には眼、歯には歯と、己が受けた仕打ちにはきちんと仇をとってかたをつけておかねば、こりゃ死んでも死に切れたものではないぞ」と言い切った。 四歳の於福には聞いていても何も判りはしなかった。ただ、上の兄達が今にも泣き出しそうな顔をし、父の内蔵介の方も大人のくせしてべそをかくみたいな表情だからして、(こりゃ、たいそうな事らしいが、はて何じゃろうまいか)と小さな胸を痛め、「なんや知らんが、おそがいのう‥‥」。次の姉の於福の膝頭をつつき、低い声でたずねた。なのに六歳の姉はまるで大人みたいに眉をしかめ、「しいっ」と叱りつけてきた。だから於福はわけがわからぬままに、ますます怯え切ってしまい、もう堪えようもなく、とうとう手ばなしで声を張り上げ、「わぁわぁ」 泣き出してしまった。これには父の内蔵介も持て余しぎみで、 「これ、いねはおらぬか」と大声を出した。用心して奉公人などは寄せつけぬようにどこか遠くへやってあったらしく、母が部屋へ来たのは何度も呼ばれてからだった。「早うに仕度をし、ひとまず美濃へ落ちていけや・・なんせ七人も子をつれては連中が大儀じゃろうが堪えてくれや」。父の内蔵介が母に詫びるように云うと、「なんの‥‥この身は子供をつれての旅なれど、お前様は一つ間違えば死出の旅‥‥ 最前よりお願いしておりますことなれど、子供らとて上の三人は、もういっぱしの伜 共ゆえ、心きいたる者さえつけてやれば‥‥なにも私めがついていかいでも道中の心 配などいりますまいに‥‥なぁ、おまえさま」。母はそんな口のききかたを子供の前でしてから、ひしと内蔵介の膝にとりすがった。「‥‥かかさまはどこに残られるのかや」。気になるとみえて、次男の伝助(後の家光近習稲葉出雲守)が尋ねると、母は背を向けたままで、「侍の家に生れたからには、その方らとてかねての覚悟というものがあろう。うろたえるでない」と叱った。だから於福は泣きじゃくるのも止めて、(父上の膝にしがみついて、おろおろ声しとる阿袋様が、子供の兄に狼狽するなとはおかしやなぁ‥‥)と、首を傾げてしまった。しかし母はそれどころではないように、「女夫の縁は二世ともいいまする。お供を許しなされませ」とかきくどいていた。だが、 「七人も子がいては、それもなるまい‥‥これからも内蔵介に尽くすつもりで、そちゃぁ子等の面倒をみてやれよ」。今度は父が母をあやすようにして、震える肩を撫ぜた。 於福にしてみればいまいましく、(ええ事してはる‥‥後で阿袋様だけがお菓子をもらいなさるんじゃろまいか)と同性の母に、強い嫉妬を感じたものである。だから後年、於福が春日局になってから、「よう、父内蔵介の顔を覚えていぬ」と言ったのは、この最後の別れの日に母ばかり見つめていたせいらしい。 さて、その夜。新暦なら6月30日にあたる六月一日の午後十時。「上様御諚なるぞ」と内蔵介は雨の上がるのを待ちかねて、亀山で近在の兵を陣揃えさせた。家康からの申し出に奇蝶御前の話‥‥ 翌二日になってしまっては、昼には四国征伐に二万の大軍が住吉浦から出帆してしまう。だが、家康から預かった黄金を京へ置いてきている内蔵介には、傭兵を集めたいにもすぐには手段もなかった。そこで切羽つまって、(明智日向守は雨が上がったとはいえ、愛宕の山頂から降りてくるのは、まぁ明朝と いうことになろう)と勘考して、かねて中国攻めのために仕度させていた一万三千の兵を、夜半の十二時 に亀山城の東にある条野の原に集めた。そして、そのまま雨上がりの道を、「南へ、南へ」と進ませた。 やがて酒呑童子の伝説で名高い大江山を越えた辺りまでくると、「備中へ行く前に京へ寄り道していく。五百両の黄金がおいてあるゆえ、皆にも分けてとらせよう」と、主だった者には打ち明けて進路を変えた。内蔵介にしてみれば初めは本能寺へ行き一万三千の武力を背景に交渉して、なんとしてでも信長に四国征伐をやめさせ、己の妹を助ける事しか、彼の念願にはなかったのである。まだこの時は信長の死など予想もしていなかったらしい。だから、「敵は本能寺にあり」 と幕末の頼山陽が徳川体制に忠誠を示し、光秀に主殺しの汚名をきせてしまう事にな ろうとは考えてもいなかったろう。ただ、男として己の存念をはらし、武門の意気地をたて、そして妹のためにも、四国征伐を何とか食い止め、できれば信長を虜にして坊主にでもしてしまうつもりで、「間もなく京ぞ、急ぎませぇ」。まだ暗い道を一万三千の兵を率いて、しずしず進んで 行った。 しかし、上洛してから、そうは行かず本能寺を爆発させ、ふっとばしてしまう結果となった。おそらくそれは秀吉と組んで密かに命令を受けていたのか、あるいは彼が前から機会を狙っていて、秀吉には協力を求めていたのかもしれぬが、織田家の作事方として、かねて南蛮人より硝石輸入に携わっていた丹羽長秀の愛だった。彼は四国征伐のための火薬をば、輸入エージェントをも兼ねていたイエズス派の宣教師から購入するについて、協力なチリー新開発硝石をも入手していたらしい。そして、長秀はひとまず疑われぬように大坂城へ戻り、チリー硝石の強力火薬は蜂 須賀党や亀山内藤党の木村吉晴らに手渡し、本能寺周辺に待機させていた。 つまり、徳川方と奇蝶よりの懇願を受け、妹可愛さもあって四国を食い止めんとする斎藤内蔵介の一万三千は、包囲したものの、なかなか決断がつかずにもたもたしているところへ、密かに潜入してきた丹羽長秀の家来で、今でいえば工作隊にあたる連中が、秀吉派遣の蜂須賀党や内藤党に督戦される形で、築土塀を這い上がって本能寺の境内へ強力爆弾を仕掛け、導火線に火をつけたか、事によると木村吉清父子が自ら 爆裂弾を境内へ撃ちこんで信長を殺してしまったかもしれないのである。 |
(私論.私見)