この章の理論的貢献は、日本の戦後学生運動が、「現下日本共産党中央の胡散臭い素性」を的確に認識しえず、「左翼内右派系の民族路線型統制運動」とみなしつつも、あくまで指導党的な範疇で捉え、「一定の評価と敬意で遇して来たことの間違い」を指摘しているところにある。
現下日共に対してはその程度の甘い認識ではなく、「左翼運動の本家を認じつつ、実はたえず運動の盛り上がりに水を差し砂をかけることに興じてきている変態党」として認識し得る能力を我らが獲得しない限り、左派運動の前進はないのではなかろうか。この認識は、日本左翼運動に責任を持とうとする者には必須の観点とならねばならない、と私は考えている。
現下の学生・青年運動の低迷を考えるとき、60年安保闘争から70年安保に至る過程に創出した学生・青年労働者運動は様々な未熟とブレを伴いながらも、次代を担う能力を証左する我が大和民族の優秀性を「確かにそこに刻印していた」と思われる。全共闘運動に牽引されたかの時代は、戦後日本左派運動が漸く辿り着いたいわば青年運動社会に花開いたルネサンスであった。そしてそれが最後のルネサンスとなった。ということは、後にも先にもない稀有なルネサンスであったということになる。その芽を潰したのが誰れ且つどの勢力であったのか、今も解明されていないと考える。
ここで取り上げる「新日和見事件」は、日共指導下の青年同盟「民青同」内の粛清事件ではあったが、「当時の青年運動ルネサンスを潰そうとした勢力と、その論理を浮き上がらせる恰好の教材」として意味を持っている。れんだいこ構図で見れば、粛清された者達は、党中央の意向を受け、当時澎湃と湧き上がりつつあった青年運動の急進主義化に抗して、その沈静化を策動した「対トロ批判」の前線指揮官達であった。その限りでは庇うほどのものは何もない。但し、この指揮官達は単に「対トロ批判」に狂奔していた訳ではない。他方で、党中央が用意した民主連合政府構想を真紅に信じていた最も積極的な担い手達でもあった。そこに辛うじて「左派」性の根拠を見出していた連中達であった。
ところで、70年安保闘争が60年安保闘争ほどの衝撃もなく無難に経過するや、全共闘−新左翼運動は急速に萎んでいった。相対的に見て、この時民青同は20万の隊列で民主連合政府構想の熱心な推進者として台頭していくことが予見されていた。「70年代の遅くない時期までに民主連合政府の樹立」は党中央の期限まで明示した呼びかけであっただけに、前衛党の予見能力を信じる者には何らかの根拠があるものとして受け取られていた。「70年代の遅くない時期までに民主連合政府の樹立」を信じて疑わない「政治意識的に遅れた連中にして左派精神の持主達」がそこにいた。
1972.5月、この時党中央より大鉈が振り下ろされた。なぜ、この時点で粛清が為されたのか? 当時では不明であっても今日判明することは、この大鉈は、党中央が呼びかけた「70年代の遅くない時期までに民主連合政府の樹立」運動に身命賭けようとする青年運動に対して、党中央自身からする解体であったということである。ここに深い闇がある。普通の推理で辿り着く筈であるが、宮顕−不破指導部の胡散臭さが問われねばならない。にも関わらず未だ解明されていない。
丁度この頃、新左翼運動内は党派間ゲバルトと内ゲバが相次いでいた。この両面の否定事象により、以降徐々にではあるが我が社会から左派イデオロギーがその活力を失っていくことになった。以来30年、今や青年の意識は右派イデオロギーに乗り換えられ、確実に世相が変わった徴候を見せている。これは果たして偶然の事象だろうか。れんだいこの問いかけはこの時より続き、この時で時計が止まっている。それはアナクロかも知れない。しかし、人生というものはそういうものだろう。この姿勢を変えようとは思わない。むしろ、居直って次のように云いたい。
「現下日共党中央問題」は、果たして上記の認識程度の能力を獲得せぬ運動体が政権になど辿り着けるであろうか、万一その機会を得たとして権謀術数渦巻く国際政治の中で国運を誤らしめない舵取りを為しえるであろうか、という日本左翼の資質能力が問われている問題として立ちはだかっている。単なる饒舌派、耽溺派、罵詈派、雑言派、知識ひけらかし派、ええ格好しい派等々が棲み分け縄張りしている現下の安穏に波風立てて棹差すことになるとは思うが‐‐‐。
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