第2部 「新日和見主義事件」概観、「新日和見主義者の解析私論」

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元、栄和3)年.8.19日

その3 1、「新日和見主義事件」概観

 いよいよ 新日和見主義事件の考察に入るところまでやって来た。以下の記述は、「赤旗」、著書「査問」、「汚名」、「突破者」、H P「さざ波通信」、宮地健一氏H P「共産党.社会主義問題を考える」の「新日和見主義『分派』事件」等々を参照させて頂いた。

 新日和見主義事件とは、70年代初頭に党−民青同盟−民青同系全学連の一部に現れていた戦闘的傾向に対し、宮顕の直接指示の下に党中央が摘発に乗り出したことから始まる。党は、1971.12月に第6回中委を開き、合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを「踏み絵」にしつつ反対派を浮き彫りにさせていった。

 1972.5.7日、民青同幹部の党員会議が開かれたが、当然のように紛糾した。党中央は、会議直後用意周到に準備させた査問者リストの手筈に従い一斉に「査問」に着手した。川上徹氏(民青同系全学連初代委員長、民青同中央執行委員)始め有数の幹部達が捕捉され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。その実数は、宮地氏の「新日和見主義『分派』事件」で明らかにされている。

 「さざ波通信」編集部は次のように評している。

 「日本共産党の戦後史において、現在の綱領路線を確立した以降に起きた事件の中で最も否定的な影響を及ぼし、現在にいたるもなお深刻な影を投げ続けているのが、1972年に起きた新日和見主義事件である」。

 これが新日和見主義事件であり、「実に共産党系の青年学生運動の根幹部分で起こった査問事件であった」(「査問」前書き)、 「共産党の閉鎖的な体質が最も顕著にあらわれたものの一つが、この『事件』 だったと考える」(「汚名」)と、今日事件の当事者が語っているところのものである。

 この時の「川上徹氏始め有数の幹部達」とは、「60年安保闘争」以降に育った大衆運動畑の青年党員活動家達であり、この間1.革共同、2・ブント生成期の際にも、3.春日(庄)らの構造改革派分派の際にも、4.志賀らの「日本の声」ソ連派分派の際にも、5.多岐な動きを見せた中国派分派の際にも、6.全共闘運動の際にも動揺せず、むしろ愚頓直なまでに「宮顕と日本共産党の旗」を護り、党に結集していたいわば「ゴリゴリ」の民青同活動家達であった。この連中が一網打尽されたというのが新日和見主義事件の本質であると思われる。

 「汚名」 200Pは次のように述べている。

 「党最高幹部は年齢問題の仕掛けをつくることで、新日和見主義『分派』のあぶり出しに成功した。そして、本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする人々を排除した」。

 この観点こそが、この事件のキーであると私も同意する。

 新日和見主義事件は、今日の党を実質的に支配する二重構造を改めて露呈させているということにおいて考察に値打ちが認められる。党の二重構造とは、背後に君臨するのが宮顕式の治安維持法的陰険狡猾な統制秩序であり、これに依拠しつつ表舞台で活躍するのが不破式スマイルによるソフト路線であり、この両者はあうんの呼吸で一対をなしていることを指す。新日和見主義事件は、この裏の構造が出っ張った事件となった。

 宮顕の音頭取りで直接の指揮の下直伝の査問が行なわれたが、この経過から見えてくるものは、宮顕が戦前の「小畑中央委員査問リンチ致死事件」に何らの反省をしていないばかりか、引き続きここ一番の常套手法にしている様が見えてくるということである。同時に氏が次代を担う青年組織に用意周到に常に警察的な目を光らせている様が自ずと見えてくることにもなる。

 個々の特徴としては、1.この「査問」が理由づけが何であれ、党指導下の青年運動組織に対する党の露骨な介入以外の何ものでもなかったということ、2.その介入ぶ りが「非同志的査問=前近代的警察的訊問」手法を通して行なわれたということ、3.被査問者達がその後マークされ続け、陰湿ないじめられぶりを明らかにしていること、4.この時の査問関係者に警察のスパイが複数いたという事実、5.この事件で主要な役割を果たし真相を熟知している査問官茨木、 諏訪が共に「過労死」しており、査問者側の真相告白の機会が失われてしまったことが惜しい、といったことに認められる。

 それでは、その川上氏らがどのような分派活動をしていたのか見てみよう。 事件の概要とコメントが、1998.1.20日付け赤旗の菅原正伯記者「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか─川上 徹著『査問』について―」で為されているので、これを参照しつつ私流のコメントで応戦して見たい。 菅原記者は、新日和見主義分派の理論について概要次のように解説している。

 「川上氏らは、当時、党中央委員だった広谷俊二(元青年学生部長)らを中心に、党の『人民的議会主義』の立場に反対して『私的研究会』を党にかくれて継続的にもち、広谷らがふりまく党中央や党幹部へのひぼう・中傷などを 『雲の上の情報』などといって、民青同盟内の党員や全学連その他にひろげ、 党への不信をあおっていた」。
 「川上氏らは、その活動のさい、ある党員評論家(川端治氏のことと思われる−私の注)らを理論的支柱としていた」。
 「この評論家らは、ニクソン米大統領の訪中計画の発表(71年7月)や、ドルの国際的な値打ちを引き下げたドル防衛策(同年8月、“ドル・ショック”といわれた)、72年の沖縄返還協定の締結など、内外の情勢の変動をとらえて、特異な情勢論を展開し、党の路線、方針に反する主張をひろめていました。アメリカが中国との接近・対話を始めたのは、アメリカの弱体化のあらわれだとして、ベトナム侵略をつよめるアメリカの策動を軽視する『アメリカガタガタ論』、沖縄返還協定で日本軍国主義は全面復活し、これとの闘争こそが中心になったとして、日米安保体制とのたたかいを弱める『日本軍国主義主敵論』、さらには革新・平和・民主の運動が議会闘争をふくむ多様な闘争形態をもって発展することを否定し、街頭デモなどの闘争形態だけに熱中する一面的な『沖縄決戦論』 など、どの主張も、運動に混乱をもちこむ有害なものでした」。
 「川上氏らは、こうした主張の影響をうけて“日本共産党は沖縄闘争をたたかわない” “人民的議会主義はブルジョア議会主義だ”などと党にたいするひぼうと不信を民青同盟内にひろげた」。
 「しかも自分たちの議論を党や民青同盟の機関の会議などできちんと主張するようなことは避け、党や民青同盟の機関にかくれて『こころ派』などと自称する自分たちの会合を、自宅や喫茶店、温泉などで継続的にも って、党の路線に反対する勢力の結集をはかりました」。

 筆者は、こういう歪曲と捏造とすり替えを見るたびに、既述連作投稿した戦前の「小畑中央委員査問リンチ致死事件」での宮顕の詭弁を思い出す。というよりそっくりの論法に気づかされる。赤旗記者とは、宮顕論法を如何に上手に身につけたかを紙面で競う提灯記事の競い屋かも知れない。新日和見主義者達は、菅原記者が書いているような意味で「アメリカガタガタ論」、「日本軍国主義主敵論」、「沖縄決戦論」を本当に鼓吹していたのか。本当に新日和見主義者達が居たとした場合、彼らに紙上反論権が認められ、その見解が一度でも良いから赤旗で記事掲載されたことがあるのか。そういうことも問題にされぬまま、実際を知らせもせぬまま闇に葬むってしまうやり方はオカシクはないのか。こういう手法は、党ならではに通用する封建的な「お白州政治」そのものではないのだろうか。

 ちなみに、新日和見主義者達が唱えていた理論は、1・日本共産党はブルジョア議会主義路線に堕落した。2・大衆闘争に取り組まない。3・組織改善活動は党の革命性を捨てたものである、というように見なして日本共産党を批判しつつ、4・表向き党の綱領や規約を守るように振る舞い、背後に大国主義的干渉者がいるともトロツキストと野合している、ともされていた。

 筆者は当時の渦中にいた一人として思うのに、上記の1・2・3につき不正確な記述に変容されているが、この指摘自体はあながちデッチ挙げではないと思っている。当時の民青同の戦う部分の見識を示す1971.12.1日付け「祖国と学問のために」の香月徹・氏の次の一文がある。

 「国会というものは、それ自体として新しい政治、新しい歴史を生み出すことのない、いわば産婆役に他ならぬ。人民の闘争こそが、レーニンの言う人民大衆の自主的政治活動こそが歴史の母であり、云々」。

 当時の我々の気分はこうした見解を醸成しつつあったことは疑いない。問題は次のことにある。この時党中央は、この3点のどこが認識間違いとして新日和見主義者達を論破していったのだろうか。その後の歴史の進行は、この3点の指摘通りに進行して行ったのではないのか。何よりも史実の進行がこれを証している。今日の党の在り姿を見れば誰も否定できもすまい。つまり、この時の党中央は、事実の指摘の前に理論闘争的に対応し得ず、弁論を捻じ曲げた上で批判して得意がり、そういう訳で規約を盾にして問答無用で強権的に査問していっただけのことではないのか。それは、反動権力者が常用する手法そのものではなかろうか。

 補足すれば、今日判明しているところでは、この時党中央が「背後の大国主義的干渉者」として想定していたのは北朝鮮労働党のことであったようである。「北朝鮮の支援を受け、朝鮮人参を売って分派資金をつくり、一大反党集団を結成しようとしている」と猜疑していたようである。ところが、査問した誰からもそのような陳述は得られなかった。黙秘したのではなくそういう事実がなかったと解するのを相当とする。「トロツキストと野合」も同様で、単に党中央の妄想あるいは捏造でしかなかった。そうではなかったと云うのなら、今からでも遅くはない。党中央はその証拠を提示せよ。さもなくば、云いたい放題の悪質なフレームアップであろう。

 宮顕−不破式変態党中央は、日本共産党の名を語りながら、こういう情緒的扇動(フレームアップ)を得意としている。筆者は、それの及ぼす左派運動全体に対する信用毀損は計りがたいと考える。通りで青年が左派運動自体に幻滅させられ、左派離れが進む訳だ。そういう意味でも、宮顕−不破式変態党中央を引き摺り下ろし、連中の理論と実践の総体の総括に一刻も早く乗りださないといけないと考えている。

 ところで、広谷俊二の無念の死が川上氏の「査問」文中にて明らかにされているが、川端治(山川暁夫)氏のその後の動静については記述がない。何らかの配慮があるものと思われるが知りたい。いかにもオールドボリシェビキ風の雰囲気を持った軍事評論家であったが、どなたか氏の査問のされ方、その後の様子について教えて頂けたら有り難い。健在なら良いのだけれども。  

 と書きつけていたが、川端氏は健在で、 2000.2.12日、心不全のため急逝した(享年72歳)。この日、ある集会に講師として呼ばれており、その前夜も遅くまでその講演会のレジュメを作っていたとのこと。

 山川氏の履歴は次の通り。1945年の敗戦直後に旧制浪速高校で学園民主化運動などに参加する中から当時の「日本青年共産同盟」(現在の民青同盟の前身)に加入し、意識的な共産主義者としての闘いを始めていった。1948年、東京大学経済学部に入学すると同時に、日本共産党員として全学連結成に向けてのオルグに従事し、同年10月、党本部の青年・学生担当部員になる。以後、1972年、新日和見主義事件の際に「指導者」として査問を受け、これを契機に離党する。この間、「川端治」のペンネームで安保・沖縄問題に関する共産党のイデオローグとなる。

 離党後、山川氏は、高野孟さんらとともに「MAPインサイダー」というミニコミを始め、これを足場にロッキード疑獄問題、日韓問題などについて論陣を張った。1980年代に入ってからも戦後国家体制の質的転換をめぐる数多くの著作を発表し、労働運動、民衆運動の再生・発展のための努力を続けてきた。90年代の社会主義革命運動の大きな後退の時代の中でも建党協(共産主義者の建党協議会)―建党同盟―労働者社会主義同盟の一員として、最後まで共産主義者としての初志を貫いた。

 広谷俊二「学生運動入門」(日本青年出版社、1971年初版)219‐221頁が次のように記している。
 「〔トロツキスト各派は〕反帝、すなわち帝国主義に反対するとともに、反スタ、すなわちスターリニスト に反対するというのである。かれらのいうスターリニストとは、社会主義諸国の政府と各国の共産党をさ している。したがって、共産党にとっては、トロツキストは、自己を帝国主義と同列において敵視し、打 倒しようとしている勢力であるから、統一してたたかうべき対象とみなすことはできない。しかし大衆運 動のなかでは、相互に敵対視する党派であっても、いっしょにやらないわけにはいかない。トロツキスト がいるからといって、共産党員が学生自治会から出てゆくわけにはいかないし、トロツキストだからとい って、それだけの理由で学生自治会から除名することもできない。役員選挙で双方が立候補してあらそっ て、結果として、例えば委員長に民青同盟員、副委員長に「革マル派」なり「中核派」なりが選出された とすれば、一緒に仕事をしないわけにはいかない。〔……〕彼ら〔トロツキスト〕を、学生統一戦線にくわ えることができないというのは、彼らが反共主義的政治方針をもっているからではなく、民主主義をじゅ 3 うりんし、大衆組織を分裂させる集団だからである。それでは、彼らが民主主義を尊重し、内ゲバをいっ さいやめたら、統一にくわえるべきであろうか。しかり」。

【補足・菅原正伯記者について】
 党中央のメガホンとして「新日和見主義者」を懇々と説教した菅原記者がその後他にもどのような記事を書いているのかを見ておく。

1999.04.04  日刊紙04頁  “ウソつき”よばわりでなくまじめな政策論戦を/地域振興券問題での公明新聞の記事について
1999.04.07 日刊紙05頁  「地域振興券」問題で破たんした公明新聞の日本共産党攻撃/いいわけでなく責任のある態度で
1999.04.10 日刊紙04頁  ウソが破たんしてもくり返すとは…/公明新聞が「地域振興券」問題で説明できなかったこと
2002.08.13 日刊紙14頁  NHKスペシャル 幻の大戦果 NHKテレビ 後9・0/虚報生む大本営の構造に迫る

 これによれば、菅原記者は「党中央防衛隊的切込み記者」として、特に公明党に対する難癖、離党反党者に対する説教記事で登用されていることが分かる。この御仁の癖として、己を鏡に映してそれをこれから批判する相手に被せて批判するという手法がある。

 「大本営の構造に迫る」では次のように書いている。
 「大虚報を生んだ大本営の情報軽視の体質と組織の構造的欠陥。同時に大本営を率いた天皇の役割や『人の姿をした神』の名で無謀な作戦を強要した不合理に触れないで日本軍の行動を本当に理解できるかどうか。そんな思いも残りました」。

 筆者が言い換えてしんぜよう。
 「大虚報を生んだ党中央の情報軽視の体質と組織の構造的欠陥。同時に党中央を率いた宮顕の役割や『唯一完黙非転向指導者』の名で無茶な指導を強要した不合理に触れないで日共運動を本当に理解できるかどうか。そんな思いも残りました」。

 2003.9.23日 れんだいこ拝

その4 「新日和見主義者の解析私論」

 「新日和見主義者」達とは何者であったのか? あるいはまた「新日和見主義者」達が摘発される寸前の状況はどんなものであったのだろうか? 解析を してみたい。筆者は、「汚名」262 Pの「新日和見主義研究は、全共闘など新左翼諸派の影響下にあった青年を含む時代と青年情況の検証抜きには語れない」という観点に全く同意する。「新左翼諸派の影響下にある群衆に、単にトロツキズムないし反共主義のレッテル貼りだけではしのげないし、青年大衆の未定形の不満に対して、切り捨てるのではなく正面から対応すべきとする、と柔軟な感性の必要性を述べていた」というV記の作者(「汚名」262P)の感性を至当としたい。

 事実は、筆者規定によれば次のように表現できる。

 「新日和見主義者達とは未形成なままに存在していた民青同の闘う分子であり、この時点まで党の呼びかける民主連合政府樹立をマジに信じて、その実現のために労苦を厭おうとしない一群の熱血型同盟員達であった」。

 でないと、新日和見主義者達は自己撞着に陥る恐れがあった。新左翼運動が衰退しつつあったこの時こそ民青同の出番となっていた訳であり、この出番で民主連合政府樹立運動に向かわないとすれば、一体全体ゲバ民化してまで全共闘運動と競り合った従来の行為の正当性がなしえず、大きな不義以外の何ものでもないことが自明であったから。

 そういうこともあって、あの頃民青同の闘う分子は本気で民主連合政府樹立を目指そうとし、そのために闘うことを欲していた。闘争課題は何でも良かったような気もする。川上徹・氏は、「査問」206Pで次のように述べている。
 「冷えかかった背後の空気を感じながら、私たちは沖縄闘争を闘っていた。まるでそれは、60年代から引き継いだこの灯を消して仕舞ったら、永遠の静けさの世界がやって来るのではなかろうかという、恐れに近いものでもあったろう」。
 「新日和見主義『一派』に括られた者たちの一部、主に学生運動の分野には、明らかにそうした傾向があった。運動の重さを辛うじて跳ね返し、なんとか闘争のヤマをつくりかけたさなかであった72年5月、新日和見事件が起こった」。

 この語りは、さすがに往時の指導者としての状況認識を的確リアルに示しており、至当と思われる。

 次のような見方もある。高橋彦博氏は、1998.3.9日付け「川上徹著『査問』の合評会」で次のように述べている。
 「戦後民主主義の欠陥を指摘する新左翼には、それなりに状況を反映する感性がありました。問題なのは、新左翼の側には感性しかなかったということでしょう。そして、新左翼と正面から闘う民青であったのですが、前衛党の末端機関としての在り方に満足するのでなく、社会状況に主体的に対応する大衆的組織としての道を選ぶ限り、組織形態としては、理念において対決する新左翼と同じ多元構造を内部に取り込む課題が不可避なのでした。新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならなかったのですが、宮本顕治氏は、前衛組織防衛の本能を発揮し、民青に現れたその動向を『双葉のうちに摘み取った』のです。しかし、この摘み取り作業の結果、日本共産党は、新左翼的感性を取り込むことがないまま旧型左翼として旧世代の支持にのみ依拠する党となり、若者世代から見放される存在となっていったと私は見ています」。

 こういう高橋氏の好意的見方は伝わるが、少々評論的過ぎるように受け取らせて頂く。「新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならかった」というこの見方は、闘おうとする意欲の源泉をこの絡みで見ようとする点で同意しうるが、「新左翼と正面から闘う民青」とその方向に指導した宮顕−不破執行部体制に付きまとう胡散臭さに対する批判的観点を基点にしない限り、喧嘩両成敗に帰着させられてしまう。

 新日和見主義事件の本質は、油井氏の喝破しているように、「本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする」70 年代初頭に立ち現れた党−民青同盟−民青同系全学連の一群の戦闘的傾向、この傾向には「新左翼と正面から闘う民青」論理の不毛性を突破させ、確実な闘争課題に勝利していくことで実質的に社会変革を担おうとする戦闘的分子が混交しており、この動きに対して、元々反動的な宮顕一派が正体を露わにさせて乾坤一擲の粛清に着手した事件であった、とみなさない限りヴィヴィドな視点が確立されえない。

 事実、70年代を迎えて新左翼運動の瓦解現象が発生したが、党は、これと軌を一にしつつ既にかっての熱意で民主連合政府樹立を説かなくなっていた。この落差に気づいた筆者の場合、民主連合政府樹立スローガンが全共闘運動を鎮めるために党が用意した狡知であったということを認めるまでに相応の時間を要した。政治意識が遅れていたということであろうが、認めたくない気持ちが相応の時間を必要とすることになった。

 党がこの頃から替わりに努力し始めたことは、「社会的階級的道義」の名で道徳教育の徳目のようなことの強調であり、まるで幼児を諭すようにして党員達に対する注意が徹底されていった。川上徹・氏は、「査問」207Pで次のように評している。
 概要「70年代にはいると共に、党内での教育制度がきめ細かく制度化されるようになった。初級、中級、上級といったランク化された試験制度が定められ、それぞれの講師資格を取得することが奨励され始めた。党員全体に独習指定文献が掲げられ、専従活動家はそれを読了することが義務化された」、「党組織全体が巨大な学校のようになった。民青組織においてもその小型版が模倣されるようになっていった。私には到底堪えられる制度ではなかった」。

 筆者も同様吐き気を覚えた。

 ところで、宮顕はこの辺りの変節に対して自覚的であり、意識的に事を進めているように思われる。この冷静さが尋常ではないと思っている。氏の眼は、民青同の中に闘おうと胎動しつつあった雰囲気を見逃さなかった。ホン トこの御仁の嗅覚は警察的であり、この当時の公安側の憂慮と一体のものとなっている。

 70年安保闘争後のこの当時に青年運動レベルにおいて勢力を維持しつつ無傷で残ったのは民青同と革マル派であった。革マル派については別稿で考察しようと思うので割愛するが、70年以降「左」に対する学内憲兵隊として反動的役割をより露骨化させていったのが特徴である。となると、残るのは民青同の処置である。元々民青同は青年運動の穏和化に一定の役目を負わされていたように思われる。

 ところが、この頃民青同は、「新左翼系学生との闘争を通じ、“ゲバ民”のなかには、自分たちの青年学生運動のやり方に自信をもち、また他方で新左翼的思想傾向の一定の影響も出てきました。 そして、共産党中央の上意下達式対民青方針への意見、不満も出るようになりました」、「宮本氏にとって、70年安保闘争、大学紛争、“ゲバ民”後の川上氏らの民青中央委員会や民青中央グループの態度は、“分派ではない”ものの、反中央傾向に発展する危険性をもつと映りました」(宮地健一HP)とある通り、新左翼運動を目の当たりにした相互作用からか、幾分か戦闘的な意欲を強めつつあった。

 沖縄返還運動に対してその兆しが見えつつあった。党の議会闘争も成果を挙げつつあり、各地の選挙で躍進しつつあった。全国的地方レベルでの革新自治体の誕生と広がり、地方議員の誕生等々が並行して進行していた。このような背景を前提にして宮顕の出番となる。“ゲバ民”武装闘争体験者である川上氏の民青同指導が党の統制の枠を離れて指導部を形成し始め、民主連合政府の樹立に向けての本格的な動きを志向しつつあり、それは危険である、ように宮顕の眼に映った。

 恐らく、70年代の青年学生運動の流れを俯瞰したとき、組織的に無傷で温存された民青同は20万人の組織に成長し一人勝ちの流れに乗ろうとしていた。この動きは、対全共闘的運動の圧殺に成功した公安警察側の最後の心配の種であった。既に戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑リンチ致死事件」で解析したように、宮顕の奇態な党指導者性からすれば、当局のこうした意向が奥の院地下ルートから伝えられ、これを汲み取ることはわけはない。  

 こうして、宮顕の嗅覚は“分派のふたばの芽”を嗅ぎ取ることとなり、後はご存じの通り“例の”党内清掃事業に乗り出すことになった。この清掃事業に対して、新日和見主義者達は、「何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」(「査問」226P)。長い自問自答の熟考の末、事件の主役として査問された川上氏は、好意的に次のように理解しようとしている(「査問」152P)。
 「共産党はこの『事件』をきっかけにし(ある意味では利用し)、自覚的にか無自覚的にか、自身が一種の『生まれ変わり』を果たそうとしたのではないかと考える。 一つの時代の区切りをつけたかったのではないかと。それを『右旋回』と呼ぶか『官僚化』と呼ぶか『柔軟化』と呼ぶかはその人の立場によって異なるであろう」。

 つまり、被査問者達は、宮顕−不破ラインの党をなお信用しようとしており、自分たちが党の新路線問題で粛清されたと理解したがっているようである。しかしこうでも考えないと今だに「当事者達が何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」ということであろう。

 こういう結論に至る背景には、私には根深い宮顕神話の健在と宮顕式論理の汚染が影響しているように思われる。宮顕神話については次のように告白されている。

 「あの『事件』がおきる一年くらい前まで、私自身は『熱狂的』ともいえる宮本顕治崇拝者であった」。
 「頼りになるのは宮本顕治だけだと考えた。宮本の話したり書いたりした一言一句といえどもおろそかにしてはならぬと信じたし、これに異議をとなえるものは『思想的に問題がある』と信じた」。

 この連中に他ならぬ宮顕その人の指示で襲ったのが新日和見事件であった。この衝撃の落差を埋め合わせるのに各自相応の歳月を要したようである。 私は既に公言しているように、宮顕の戦前−戦後−現在の過程の一切を疑惑しているので、この事件の解明はそう難しくはない。現党執行部が公安当局との内通性の然らしめるところ、党内戦闘的分子(又はその可能性のある者)を分派活動の理由で処分したものと理解することができる。

 川上氏は現在この立場での認識を獲得しているように思える。今日においては、「あれほどコケにされた体験」と公言している。漸く「アノ世界からあれほどコケにされた体験」を客観化し得、この瞬間から「コケにした者達」への疑惑を確信したものと推測される。

 こうした認識上の延長からこそ以下に記す事態の凄みが伝わってくる。査問に先だって用意周到な首実検の場面が川上氏の体験で以って明かされている。事件発生前の72年初頭の旗開きの席のことである。宮顕は、彼らの“傾向” を直接観察するための場として、代々木の共産党中央本部で党本部幹部多数と民青同中央常任委員の合同レセプションを開いた。

 その場の宮顕について次のように書かれている。

 概要「私の眼は、会場のいちばん角の薄暗くなっている一角にじっと座っている、大きな人影を見つけだした。私はそれまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。冷たいものが走る、という言い方がある。そのときに自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか。 誰もいない小さなその部屋で、私は、あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」(川上著「査問」13P)。

【「平田勝/60年代を駆け抜けた『東大・共産党員・全学連委員長』の青春」考】
 東大紛争時の宮顕の悪指導が、2020.4.19日付け「平田勝/60年代を駆け抜けた『東大・共産党員・全学連委員長』の青春」で次のように証言されている。

 表紙に掲載されている一枚の写真が強烈だ。中国の最高指導者毛沢東が、日本から来た学生訪中団と対面している。緊張の面持ちで毛沢東と向き合っているのが本書『未完の時代――1960年代の記録』(花伝社)の著者、平田勝さんの若き日の姿だ。平田さんは激動の1960年代に学生運動に深く関わり、全学連委員長も務めた。在学中から日本共産党員。あの「東大紛争」では、極秘の収拾工作に関わっていた。しかし、のちに共産党を離れる。本書は、激動の60年代を駆け抜けた「東大・元共産党員」の疾風録だ。

 学生運動の経験と見聞を記述

 平田さんは1941年、岐阜県で生まれた。大学進学者は年に数人という田舎の高校を卒業し、一浪後の61年、東大へ。駒場寮委員長、全寮連委員長、東大学生自治会中央委員会議長、第一回日中青年交流会の学生団体団長、全学連委員長などを務め、東大紛争では文学部の事態収拾のため水面下で交渉にあたった。69年、文学部を卒業し、出版社勤務を経て、85年に花伝社を創立し代表取締役、現在に至る、というのが略歴だ。本書は、「ここに記したのは1960年代に自分が実際に体験したこと 見たり、聞いたりしたこと そこで感じとったことなどを そのまま、記述したものである」という冒頭の言葉で始まる。「第1章 上京と安保――1960年」、「第2章 東大駒場――1961年〜1964年」、「第3章 東大本郷――1965年〜1968年」、「第4章 東大紛争――1968年〜1969年」、「第5章 新日和見主義事件――1969年〜1972年」という5章仕立て。年を追いながら激動の60年代と、学生運動に深入りした自らの青春の日々を回顧する内容となっている。60年代の学生運動については類書が多数ある。大半は「反代々木系」「全共闘系」の筆者によるもの。本書のような共産党系の元活動家によるものは少ない。その意味でも貴重だが、とりわけ、「第4章」が興味深い。「文学部8年生」だった平田さんが、文学部の紛争終結に向けて、共産党の指示のもとで秘密裏に動き、事態収拾に成功した様子が克明に再現されている。

 党から現地指導の要請

 東大紛争は1968年初頭、医学部の無期限ストを発火点として拡大した。平田さんはすでに学生運動の一線からは退き、大学に籍はあるものの、共産党系の出版社「新日本出版社」で編集者の仕事をしていた。実際のところ、やきもきしながら状況の推移を見守っていた。というのも、当初は東大の10学部のうち、医学部と文学部を除く8学部の自治会を共産党と密接につながる民青系が握っていたが、9月から10月にかけ次々とストライキが決行され、執行部が全共闘系にひっくり返っていたのだ。危機感を強めた共産党はてテコ入れに躍起になる。平田さんは党本部に呼び出しを受け、しばらく現地指導に行ってくれ、と指示される。ここからが本書の最大の読みどころだ。

 当時の文学部自治会は革マル派が握っていた。学生大会をやると、250〜300対80〜120ぐらい。民青系は80ぐらいで圧倒的に差があった。一方で、一般学生の中には、このままストが続くと、来春の就職がやばいという空気も生まれつつあった。彼らは「有志連合」として動き始めていた。平田さんは彼らと話を付け、7〜8人で文学部の林健太郎学部長 (当時)宅を訪問する。林氏は平田さんを有志連合の一人と受け止め、思うところは大胆に語った。平田さんは翌日、単独で改めて面会を申し込む。そして、「自分は共産党の任務を帯びて解決のために文学部に来ている」と率直に話して収拾構想を伝えた。林氏は「参った、参った」「君の考えはよく分かった」。

 共産党本部からは直後に、「宮本顕治書記長のもとに至急報告に来い」という連絡が届く。党本部に出向くと、書記長室に呼ばれ、宮本書記長がいた。長く全学連の活動をしていたが、書記長室に入るのも、宮本氏と直接面会するのも初めてだった。宮本氏とはその後もしばしば会ったという。細かい情報やビラ一枚に至るまで知っていることに驚いた。平田さんが書いたアジビラも読んでおり、「あれはよく書けている」と言われたこともあった。

 「学部長書簡」を書く

 年が明け、秩父宮ラグビー場で、7学部の学生代表団と、大学側の加藤執行部の大衆団交が行われ、10項目の確認書が交わされる。直後の全共闘系と機動隊による安田講堂攻防戦が注目されたが、紛争は大枠で解決に向かうことになった。しかし、文学部の状況は依然として混とんとしていた。そこで、平田さんが動く。まず教授たちに働きかけた。個別に有力教授の自宅を訪問し、教授会内部の勢力図を把握、解決の道を探った。可能な限り一人一人の先生と会ったという。「右翼」とされた中国哲学の宇野精一先生の自宅も訪ねた。「君は顔が利くようだから宜しく頼む」と言われた。ギリシャ哲学の斎藤忍随先生からは「文学部のために平田君は坂本龍馬になって薩長同盟をやってくれないか」と持ち掛けられた。革マルと民青が手を結んでストライキ解除をやってくれないかということだ。そこで、山本信先生の手引きで、革マル派の文学部の自治会委員長と、山本氏が行きつけの神保町のバーで密かに会った。しかし相手には、そうした発想はなく、事態は進まなかった。

 文学部の岩崎武雄学部長には「少数の者で解決策を詰めてみませんか」と提案した。何度かやり取りし、解決の方向を「学部長書簡」のような形で、学生、教授会の双方に向けて発表する流れになる。原案を書いてくれと頼まれ、たたき台を岩崎氏に渡した。あとで発表されたものを見たら、平田さんが作った文章と一字一句違わないものだった。こうして文学部も収束に向けて動き出す。8年生だった平田さんはいくつか単位を残しており、落第、中退を覚悟していたが、「何でもよいから特別レポートを提出」するように言われ、奇跡的に卒業できた。骨を折ってくれた人の話も出てくる。郷里の両親に卒業証書を届けると、自宅で長い間、額に入れて飾っていたという。

 容赦ない「分派」の摘発

 話がここで終われば手柄回顧、ハッピーエンドだが、平田さんには次なるドラマが待ち受けていた。それが「第5章 新日和見主義事件――1969年〜1972年」である。これは共産党と民青内部のゴタゴタだ。平田さんは直接の当事者ではないが、最近の資料なども参照しながら、客観的にまとめられている。

 新日和見主義事件とは1972年に起きた、主として民青を中心に大量の共産党系青年運動の幹部が反党分子として査問され処分された事件だ。党によって戦前の特高のような査問が日本国憲法下で行われたこと、この事件の2〜3年後には、党中央に忠実に従い、新日和見主義に対して先頭に立って闘ったと評価されていた複数の民青幹部が、警察のスパイとして摘発されたこと、この事件で60年代の共産党系の運動を担った人の多くが放逐され、その後の運動に世代断絶が起きたことなどを指摘している。この事件は、「60年代の学生運動を党の学生対策部長として指導した広谷俊二氏が、自分が党から干されたことを不満として、学生運動を基盤とし、その中心的な存在であった川上氏(元全学連委員長)らに働きかけ、最終的には新党結成に至る分派闘争を目論んで仕組んだ事件であったと思われる」と結論付けている。しかし、それに対する宮本体制による党側の摘発は容赦なかった。平田さんは、処分された関係者のほとんどは冤罪だったと見ている。「大量の査問が行われ、事件の影響が深刻に出ているにも拘わらず、この事件に対する党の検証は極めて不十分であると思う」「『日本共産党の八十年』から新日和見主義事件に関する記述はすべて消された。共産党はこの事件が『風化』することを待っているのだろうか」とも書いている。

 50年の歳月が流れた

 事件の首謀者とされる広谷氏は、60年代の学生運動で、平田さんが直接の指導・指示を受けていた人だ。要するに、長期にわたって「広谷氏に使われた」のが平田さんだった。川上氏とも親しく、彼らの勉強会に出ていたこともあるが、事件当時の平田さんは、司法試験の勉強に取り掛かっており、運動とは距離を置いていたこともあり連座しなかったようだ。その後、司法試験を断念した平田さんは、出版社を立ち上げ、「自由な出版」を実現するために離党する。共産党との関係は「是々非々」になったという。本書でも辛口の記述が少なくない。上述の文学部の岩崎学部長とのやり取りは、お互いに口外しないという約束だったという。詳細を記したのは今回が初めて。「東大紛争から50年の歳月が流れたいま、歴史的事実の一端を語ることは許していただけると思う」としている。

 本書では多数の関係者が実名で登場する。60年代を東大ですごした人は懐かしい名前を見つけることになるかもしれない。のちの有名人も少なくない。特に平田さんが懐かしむのは、駒場寮の寮委員会時代の仲間との付き合いだ。民青系だけでなく、保守系も含め、様々な立場の人がいた。当時の仲間の一人、佐々木毅氏は東大の総長になり、文化勲章も受章した。祝賀会には平田さんも出た。当然ながらのちに「体制内エリート」として成功した人が多いが、平田さんが出版社を立ち上げてからは、会社まで来て経営に役立つ知識をいろいろ教えてくれた人もいた。「これらの助言がどんなに役立ったかしれない」と感謝している。タイトルの「未完の時代」というのは60年代のこと。帯には「『未完の時代』を生きた同時代の人と、この道を歩む人たちへ」とある。時は移り、「そして、志だけが残った――」とも。 いま花伝社には、学生時代にSEALDsで活躍していた若手がスタッフに入り、本書の編集を担当したという。平田さんの「未完の志」は、半世紀を経て、形を変えながら次の世代に静かにバトンタッチされつつあるようだ。

 BOOKウォッチでは関連して、『東大闘争から五〇年――歴史の証言』(花伝社)、『東大闘争 50年目のメモランダム−−安田講堂、裁判、そして丸山眞男まで』(ウェイツ刊)、『東大闘争の語り』(新曜社)、『かつて10・8羽田闘争があった――山崎博昭追悼50周年記念〔記録資料篇〕』(合同フォレスト)、『私の1968年』(閏月社)、『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書)、『東大駒場全共闘 エリートたちの回転木馬』(白順社)、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』(洋泉社MC新書)、『赤軍派始末記』(彩流社)など多数紹介している。
 BOOKウォッチ編集部





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