ところが、この経緯に露骨な不快感を表明する者がいた。党の最高幹部・宮顕書記長その人であった。宮顕書記長の治安警察的な目は、愛知県党内のこうした動きを見過ごさなかった。その意を受けて、党中央から送り込まれていた砂間幹部会員らは、「愛知県党内民主化運動」に感情的なまでの拒絶反応を示すようになった。砂間は顔を真っ赤にして「党中央はこうやって援助に来ているんだ」と怒り、党中央批判に拒絶反応をあらわに示した。
その背後に宮顕書記長の意向があったことは云うまでもない。この当時の宮顕の姿勢を解析すると、1・准中央委員箕浦の集中的党勢拡大意欲は正しい、2・やり方の行き過ぎはあったかも知れないが、それは是正で解決する、3・誤りとその責任は愛知県党委員会内部の問題で党中央にはなんの責任もない、4・愛知県党内の党中央批判の動きはもってのほかである、というものであった。つまり、宮顕論理の特徴は、「愛知県党という中間機関が中央統制をはみだして独自に民主化運動するなぞの権限はなく、党中央批判に及ぶなぞは民主集中制原理からの逸脱である」という話法にあった。
ここから第二期が始まる。第二期は、「県党会議第2次草案」の作定期と重なる。この時期、宮顕書記長が露骨に介入してくることとなった。宮顕は、「県党会議第1次草案」の内容にクレームを付け、骨抜きにしていく指令を発した。その卑劣なやり方はこうであった。ほとんど議論らしい議論も経過せぬまま、抜き打ち的に「県党会議第2次草案」の決議を画策した。
まず党中央派遣役員と県常任委員会は、1・県役員だけの県委員会総会に切り替えられた。それまでは、拡大地区常任委員全員を参加させた「拡大県委員会総会方式」であったが、これに官僚的統制で県役員だけの総会に切り替えたと言うことである。2・第1次草案で確認されていた「党機関運営上の誤り規定」を、ただの「個人指導による誤り」に矮小化させた。3・その他の誤り事例も曖昧な玉虫色表現にさせた。こうして換骨奪胎させられた「県党会議第2次草案」が強行可決され、県党会議に上程させられることになった。この経過に見られる姑息且つ統制的手法による機関決定は宮顕のやり方の典型例であり、ここでもそれを見て取ることができる。
但し、「県党会議第2次草案」の強行採決時に、10数名より党中央批判が為され、そのうち3名が旗幟鮮明に繰り返し発言に及んでいた。こうした経過によって、この時、阿部准中央委員は次のように応えていた。「県党会議の際に、神谷県委員長・中央委員が、『草案』とは別に詳細な口頭報告をする、させる」。ところが、この約束は履行されなかったので、苦し紛れの言い逃れをしたに過ぎなかったことが後に判明するところとなる。この経過から見えてきたこととして、宮地氏は、「私の専従体験15年間全体から、残念なことに、『宮本氏や中央役員は、下部に対して、嘘を平気でつく体質を持っている』という認識に到達せざるを得ませんでした」と述べている。
第三期は、宮顕指令による「党中央の理由無き召還」時期となる。1979.5月、「指導改善」当初から「県党会議第1次草案」完成までの間、党中央より派遣されていた党幹部は4名いた。そのうち砂間一良幹部会員、八島勝麿中央委員、阿部准中央委員の3名が、「県党会議第2次草案」の点検・承認を得ようとして党中央に帰ったものの、以降砂間と八島は愛知県に来なくなってしまった。たった一人帰ってきたのが阿部准中央委員で、その理由をみんなが問いただしても、曖昧な返事しか為されなかった。「草案規定の換骨奪胎手口」と「党中央派遣員の理由なき召還」は一体のものであり、宮顕の差し金以外には考えられない。
第四期は、「第3次草案」作成をめぐっての闘いとなる。地区党会議が開かれたが、この席で、宮地氏は強硬に「第2次草案」反対意見を主張した。この宮地氏発言に10数名が支持表明し、会場は騒然となった。この「後退草案」では、県党の1/2を占める中北地区代議員全員がとても納得しないだろうという雰囲気になった。ひな壇に並ぶ県常任委員全員と党中央派遣役員たちは、苦虫を噛み潰したような顔で事態に為す術を持たなかった。この時「理由なき召還」をされた党中央3名は既にいなかった。党中央は、箕浦准中央委員も意図的に欠席させていた。代わりに、党中央から派遣されていた者は次期新役員予定者として候補になっていた井田幹部会員(県委員長候補)、阿部泰准中央委員(県副委員長候補)、佐々木季男中央勤務員(県常任委員候補)ら3名であった。
県党会議では、宮地氏の妻(K総細胞LC)も発言し、「党を建設するという名のもとに、いかに党が破壊されたか」について厳しい党活動批判をした。その内容は、草案に対する態度にとどまらず、この間の党指導のあり方に対して根本的な疑義を表明したものであった。
1 |
・これまでの一面的な一律拡大指導の誤り |
2 |
・細胞会議討論の拡大運動一面化の誤り |
3 |
・党内における民主的権利の抑圧の実態 |
4 |
・K総細胞・査問事件について |
5 |
・自己批判を通じての今後の展望等々 |
宮地氏は、上記諸点につき縷縷発言した。次のように厳しく党活動批判を述べた。
「これらの地区指導は、党破壊でなくてなんでしょう。しかし、LCの指導も、課題から出発し、現状を無視した一律指導になっていました。自分で考え、職場に責任をもつ党風でありませんでした。党員評価の基準が、上級の会議に何回出たかであって、大衆の利益をどれだけ守ったかではなかった」云々。 |
しかし、この時の愛知県党会議は、愛知県党の誤りにおける党中央の誤りや責任所在は、あいかわらず拒絶され、愛知県常任委員会と箕浦准中央委員個人の誤りに限定され、矮小化されたものを可決させた。この時宮顕指令は、1・「党中央派遣者3名の理由なき召還」、2・「草案規定骨抜き」策謀、3・「神谷県委員長の特別口頭報告約束の反故、に加えてさらに、4・「喫茶店グループ」の一人であり、「北守山ブロック虚偽拡大を遂行、宣伝した張本人の常任委員」を「県委員候補」にするとの「逆裁定機関推薦リスト」を、この時の県党会議議事日程の最後に提出してきた。
この無神経さと「評価再逆転人事」にブーイングが巻き起こった。配られた「リスト」を見て、会場は瞬時に怒りと不信の雰囲気に包まれた。当然ながら、代議員は彼に×印を打ち、彼は「過半数を超える96票の不信任」で落選した。結局、党会議は、宮顕書記長の後押しにもかかわらず、1を強行できただけで、2・3・4の策謀は愛知県党機関によって封じられることになったことになる。宮顕書記長が、党中央と地方の県委員会との関係でこのような敗北を味わされたのは前代未聞のことであったと思われる。
第五期は、この県党大会後から始まる。愛知県新副委員長になった阿部泰准中央委員は宮地氏の担当組織の総括を禁止した。その理由は、「先の県党会議、下りの地区党会議で総括は済んだ。細胞レベルでの総括はもはや必要ない。機関紙拡大に直ちに取り組むべきである」というものであった。つまり、総括会議の中止指令であり、細胞レベルでの「指導改善総括運動禁止措置」が取られたということである。
以降、宮顕書記長と党中央派遣の井田(幹部会員・新県委員長)、阿部泰(准中央委員・新県副委員長)、佐々木季男(中央勤務員・新県常任委員)の3人組が謀議を凝らすことになった。2、3カ月後の幹部会会議から帰ってきた井田県委員長は、全県勤務員会議を緊急召集し、「現在の愛知県党活動には、機関紙拡大への清算主義が現れている。独自の拡大追及を軽視したり、集中的拡大を否定的に捉える傾向がある。今後は、それらとの闘争を最重点課題にする」と宣言し、その後は、全県的に「清算主義との闘争キャンペーン」を大々的に行っていくことになった。
この「清算主義との闘争キャンペーン」は、1970.7月、第11回党大会で宮顕書記長が直々に追認定式化した。彼は、中央委員会報告でわざわざ愛知県党に言及し、次のように述べている。
「愛知県党組織は重要な県でありますが、党勢拡大運動などにおいての行政的な官僚的な指導の欠陥が一時期あらわれました。この欠陥が指摘され、克服されていったことは、重要な意義がありました。しかし、同時にその欠陥の克服の過程、克服の仕方が、また逆の一面性をもっておこなわれました。党が十年間の党建設のなかで、その重要性を確認している党勢拡大のとりくみをたえず独自に、また一定期間集中的にやることの意義まで、理論上無視するというような、逆の受動的な清算主義的傾向におちいりました。衆議院選挙におけるこの県の不成績も、この指導の両翼への動揺と結びついております」。 |
宮顕の常套的詭弁話法をここに見て取ることができよう。
それだけでなく、ご丁寧にも規約前文第5項に、「清算主義に陥らぬよう注意」なる文言を挿入するという念の入れようを見せている。井田県委員長は、代議員発言を行い、清算主義の側面だけをさらに具体的に強調した。こうして、第11回大会は、1・宮顕書記長の中央委員会報告、2・岡正芳常任幹部会員の規約改正報告、3・井田誠幹部会員の愛知県委員長の代議員発言によって、「清算主義三重奏」が奏でられる場ともなった。
こうした経過に対し宮地氏は次のように総括している。
概要「党中央は数年間にわたって『細胞破壊指導』を継続し、これに対し、党細胞が『指導改善』運動で見直し総括をしようと思ったら、『細胞レベルでは、その必要が無い』とストップをかけ、「機関紙拡大運動に捻じ曲げて指導をはかり、それへの批判、不満を云う者に対しては『清算主義だ』ときめつけ、レッテルを貼る。こうした指導スタイルは、県党全体、細胞の実態からかけ離れていた。なお、宮本報告にあるような『機関紙活動の意義まで、理論上軽視する傾向』などは、どこにも発生していなかった。これは、宮本式歪曲、捏造による為にする愛知県党批判でした」。 |
こうして、宮顕は、再三にわたって党民主化運動の爆発的高揚を鎮火させる卑劣な手を打ち、その「宮本式高性能消火剤」数回撒布のききめで、県常任委員会の誤りの自己批判、県党による県常任委員会批判運動は、中途半端におわってしまった。
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