第3部2 「査問」の様子、被査問者の査問実感

 (最新見直し2007.2.7日)

その6 「査問」の様子について
 私は、本来であれば当局との丁々発止のやり取りの中で続けられる党的運動を思うとき、党における査問自体の必要悪を否定するつもりはない。ただし、胡散臭い連中側からの査問なぞ認めるわけにはいかない。「査問」74Pは次のように記している。
 「闘争においては、正面の敵よりは味方内部に『送り込まれた』敵の方が憎いものである。正面の敵に裏から『通じている』者は、闘いの過程で味方の秘密情報を敵に流すことによって味方の被害をより甚大なものとし、時として壊滅的な打撃をもたらすからである」。
 概要「そればかりではない。正面の敵がふだんは遠いところにいて『つき合い』などすることもないのに、『送り込まれた』敵は、日常生活を通して自分たちの隣にいて良き隣人づらをしつつ、隙を窺い攪乱を準備する (注−この部分は私の追加)」

 こういう現実があるわけだから、組織防衛上査問自体は必要悪と考えられる。但し、厳格なルールの下に行なわれる要件が伴うであろう。

 宮顕一派が戦前の大泉・小畑両中央委員に対して為したような、いきなりピストルで脅しての手縄・腰縄・足縄・猿ぐつわの下での食事を供せず便用の自由をも拘束したような査問は、どう強弁されようとも認められない。その点でこのたびの新日和見主義者達に為された査問はそのような「原始野蛮」な手法ではなかったことはやや改善の後が見られる。代わって採用されたやり方は精神的に追い込む手法であった。

 ここで言いたいことは、「民主集中制」もそうであるが、査問についても厳格に運用基準が定められ、その経過と内容に付き極力公表されるべきではないかということである。ここを無視すると査問が権力者の強力無比な如意棒として乱用され、勝者の一方的論理を聞かされてしまうことになってしまう。ブルジ ョア法の下であろうが、この点において法の運用には一定のタガが填められていることは良いことのように思われる。一般に法律は、「条文」とその理解のための「手引き」と関連した「判例」等により、適用をめぐっての厳格な実施要綱が定められていることを良しとする。これは市民社会下のルールとして歴史的に獲得されてきたものとみなすことができ一般に広く支持されている。

 ところが、党の場合、規約運用は未だ権力者の恣意性に導かれており、適正な遵法のさせ方としては肌寒い状況にあるのではなかろうか。既に多くの法学者が党員として結集しているように思われるのに彼らは一体何を学んでいるのだろう。党外の者に日本国憲法の基本的人権を滔々と説明する姿勢があるのなら、まずは党内の足下にその眼を向けては如何なもんだろう。党内権力者の恣意性を御用化するような法学者の精神は、官僚機構の「法匪」以下の水準にあると思われる。このようなブレーンに国の運命を託したとしたらと思うと、ゾッとするのは私だけではなかろう。

 党の規約における査問の根拠は次のように定められている。党規約第59条は、概要「党員でありながら党をあざむきこれを破壊しようと規律に違反した者が出てきた場合に、組織を守るために、党はその者を処分することができる」と定められている。そして同条第二項は、概要「規律違反について調査審議中のものは、党員の権利を必要な範囲で制限することができる」とある。査問とはこの「調査審議」のことであるとされている。「正式に査問の意味内容を説明するのは、この四文字だけである」(「査問」前書き)ということのようで、正式用語はあくまで「調査審議」であり、査問という用語自体は党規約、党文書のどこにも載っていないという代物であるらしい。

 ところが、党内では、早くも戦前の党活動において宮顕が中央委員に昇格した頃よりしばしば査問が行なわれてきているという史実がある。その実態は、紳士的で、“同志的”な「調査審議」どころではなく、憎悪の掻き立てられた「反党分子、階級敵への調査問責」であり、それは、警察による「犯罪者の取り調べ、尋問と同じ内容、雰囲気を持っている」というところに特徴がある。

 以下、査問がどのような容疑を対象にし、どのような形態で行なわれるかを考えてみることにする。新日和見主義事件に先行して宮地氏の査問の様子が自身によって公開されている。 宮地氏らに対する査問とは、党勢拡大責任の極度な一面的追及、党内民主主義を踏みにじる指導を見せていた箕浦一三 准中央委員・県副委員長・地区委員長等への1カ月間にわたる地区党内あげての批判運動が逆に切り返され、追及者等が“分派・グループ活動”と認定され処分された事件であった。新日和見主義事件の5年前の1967年5月頃のことで「愛知県5月問題」と言われている。この分派、グループ活動容疑では、 数十名が査問され、そのうち宮地氏等十数名が“監禁”査問された。宮地氏は、地区常任委員としてその“分派・グループ的批判活動の首謀者”と見なされ、21日間にわたって“監禁”査問されたと公表している。

 宮地氏は、この時の体験を通じて、党の査問が現行市民社会のルールの水準以下の旧特高的やり方であり、「日本共産党に市民社会的常識の秩序の適応を求める法的手段を講じよう」として対共産党裁判を実際に起こしたという珍しい経歴を見せている。この裁判を通じて、黙秘権、弁護士的な第三者機関の立ち会い・連絡、反論権などが全く尊重されていない「疑わしきは、被告人に不利にする」査問の実体が暴露されている。「人民的議会主義」の裏面がこのようなものであるとしたら、かなりの大衆は卒倒してしまうであろう。

 で、新日和見事件の場合、どのように査問が運営されたかを以下見ていくことにする。まず指摘しておきたいことは、「新日和見主義者」達の場合確定した反党活動があったのかというと、共通して「何もなかった」という驚くべき事実が報告されている。査問側は査問を通じて必死で裏付けを取ろうとしたが、 「組織された反党活動」は見いだされなかった。こうして証拠が出なかったところから、「星雲状態にあった」とか「双葉の芽のうちに摘んだ」とか恐るべき居直りで事後対応せざるをえないことになった。つまり、「新日和見主義者」達は 「別件逮捕のようなもの」で査問され、にも関わらず本筋において容疑が確定しなかったという二重の大失態を見せたことになる。

 今日こういう失態を警察が演じたとしたら大問題にされるところである。巧妙なことは、査問された側に、党の側からの呼び出し状であるとか、処分決定の言い渡し状であるとかが一枚も残されていないことであり、ほとんどを電話とか口頭命令で出頭させていることである。つまり、本人が明らかにしない限り事態の表出が困難にされている。後で見るように本人には堅く箝口令が敷かれている。

 驚くべきことがまだまだこれから明らかになる。川上氏・新保氏・油井氏の例しか伝えられていないのでこれを参照する。査問官は下司順吉、諏訪茂、宮本忠人、雪野勉、不破哲三、上田耕一郎、小林栄三、宇野三郎、今井伸英辺りが知れるところであるが、他の被処分者も含めてこの時の査問官リストを集計し、後世の記録として公開しておく必要があるのではなかろうか。現下党中央の生粋メンバーが総出で査問に当たっているという史実がある訳であり、誰が誰を担当しどのように査問していったのかを記帳しておく必要を私は感じている。拘束された被査問者たちに対する扱いは、近代刑事訴訟法上以下の非人道的取り扱いを受けていることが分かる。直接的な暴行が加えられなかったということは評価されるが、これは元々党員同志間のかつ容疑不分明な査問であるのだから当たり前であって、この状態で暴行が加えられるとしたら旧特高以上のやり方になってしまう。

 非人道的取り扱いぶりは、「君の党員権を今から停止する」の口上から始まり、該当の規約部分を告げながら問答無用式に「今から君を査問する。同意の誓約書を書け」というやり取りへと移る。この時査問理由の開示はない。押して理由の開示を求めると、「分派活動の容疑」と知らされる。分派活動の認定基準を尋ねると、「ここはね、君のチャラチャラしたお喋りを聞く場ではないんだよ」と一喝される。押し問答の末査問に無理矢理同意させられると直ちに私物一切の提出を強要される。ペンも取り上げられることによりメモも取れなくなり、頭脳の中に一切を記憶して行かねばならないことになった。査問期間中は、査問される者はいっさい外界との連絡は取れない。妻とも取れない。査問の期限は示されない。査問に協力すれば早く終わると「自白」が強要される。

 被査問者に釈明権はない。黙秘権もない。党規約の実行という大義のもとで、容易に人権を蹂躙していく党体質が、ここに鮮明に浮かび上がってくる。 「党の決定に反対するような民青なんかいらねえんだよ。上意下達で黙ってろ」、「やったか、やらなかったのか、質問に答えればいいんだ」ということになる。調査問責は分派容疑の解明から始められたようであるが、茶のみ話のようなものに分派の嫌疑が掛けられる。

 「査問」の中で川上氏は云う。
 「市民社会の刑事訴訟では、有罪を主張する者にその挙証責任があり、被疑者の側は検察官の矛盾を衝きさえすればいい。ところが、ここでは無罪の証明を被疑者に要求する。『自分はやっていない』ことの証明を、この密室でどうやってやれというのだろうか」。

 ここで驚くべき事が発言されている。「共産党の分派に対する態度は、疑わしきは罰するということだ」と放言されていたとのことである。これは近代刑事裁判の大原則「疑わしきは被告人に有利に処遇する」の正反対の論理であり、「疑わしきは被告人に不利に処遇する」という恐怖政治の論理が貫徹されていたことになる。査問官諏訪茂書記局員は、宮顕の秘書経歴を持つ若手党官僚であり、宮顕の薫陶をもっとも受けている筈であるが、その薫陶の結果がこういう有様だということを真剣に考えてみる必要があるのではなかろうか。他にも宮顕秘書出身の党官僚が多くいる筈であるが、この際連中のリストとその忠勤ぶりを一挙に露出させてみたら如何だろう。恐らく愕然とするような事実が目白押しではないかと私は推測する。

 査問官諏訪は、「自分が納得する供述書を書かせることに執着」し、気にくわなければ何度でも書き直しを命じたとのことである。査問を通じて、会議打ち上げ懇親会のようなものを分派会議と認定したが、この時「分派というのは意識してやったかどうかというもんじゃないんだよ、意識しなくても分派は成立するんだよ」という放言がなされたようである。この論理に対し、「汚名」117Pは次のように述べている。
 「連絡や打ち合わせはすべて無届けで行なわれるが、この種のものに組織原則を適用すれば、際限なく広がってしまう。世間ではこの種の集まりを慰労会とか、懇親会とか、あるいは単にコンパという。 だが、党中央は党と民青に隠れて組織の指導権を握ろうとする分派の密事と見た。組織路線に不一致のある場合なら ともかく、課題遂行上の問題は積極的に解決すべきだろう」。

 が、予断を持って臨む査問官には通じない。つまり滅茶苦茶であるが、個人間の話にまで責任を負わしめることになれば党員同志の会話もままならぬことになり、こうなるといかようにも分派認定しうる恐怖政治が待ち受けていることになるであろう。これに報告制度の厳格化を加えれば、密告制度を発達させることにもなる。

 実際にはそれほど心配はない。問題は、党中央に対する造反的な言辞をなす場合に限って厳しく適用される訳だから、イエスマンにとっては別段の脅威にはならないということだ。しかしイエスマンばかりによる党活動というのも変な気がする。補足すれば、長年党員をやってきたが査問されたことはないという反論をするものは、我が身のイエスマン度を知るべきだろう。

 ちなみに、川上氏の分派容疑は、新保氏との「二人分派」と認定されたようである。「この『二人分派』は党内民主主義がないと言っては党を中傷し、党の掲げる方針である『人民的議会主義』に対して大衆闘争を機械的に対置して党の路線に反対したのだ」と認定された。この「二人分派」規定はかの特高さえなしえなかった論理である。「二人分派」の認定が一人歩きすれば、党員同士の会話さえ危ないということになる。

 補足すれば、ある市会議員同士が懇親会を用意したところ、共産党議員は参加するしないをめぐっていちいち党機関にお伺いを要するということで馬鹿にされている話を聞いたことがある。茶飲み話の席ではあったが、「あの連中は人種が違う」というオチを皆な肯いて聞いていた。こういう「二人分派」の認定とか、統制的組織論の然らしめる密告制度の一人歩きを考えれば、そうせざるをえないと言うことなのだろうか。しかしあまりにもサブい話だ。

 党規約は誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁であると定めているので、幹部批判を行なえば、党規違反の責めを受ける危険性もある。ここにも閉鎖的体質を助長する要素がある。同志売りの強要も行なわれ、被査問者の供述書がリアルタイムで攪乱に使われたようである。「全部吐けよ、吐きゃあ気 も楽になるし、家にも早く帰れるのにな」はまだしも、次のように恫喝されたと証言されている。
 「どうしても吐かないっていうんだな。こっちは査問いつ打ち切ってもいいんだぜ。そのかわりにな、お前、新保という人間をな、党内はもちろんのこと、社会的にも抹殺してやる。断固、糾弾していくんだぜ」。
 「お前、子供が居るな。民主連合政府になってな、親父は反党反革命分子だということになったら、子供はどうなるんだ。子供の将来のことも考えろよ。おい、吐けよ」。
 「君らのことを公開すれば道を歩けないぞ。今住んでるところに住めないぞ」。

 これは特高の論理とうり二つではないのか。どうも宮顕の薫陶宜しきを得た連中の物言いは揃いも揃ってこうした特高論理を身につけていることが気になって仕方が無い。

 除名の脅しも効いたようである。「査問」95Pは次のように記している。
 除名は日本共産党の最も重い処分である。それは運動からの永遠の追放を意味する。被除名者は裏切り者、トロッキスト、修正主義者、外国の盲従分子、敵のまわし者、挑発者、スパイなどと呼ばれた。彼らが行動を開始すれば、たちまち民主的統一戦線の破壊者・挑発者として徹底的に糾弾された。『反党分子』にされ、歴史の彼方に葬り去られる」。


 油井氏の査問経過は次のように明かされている。
 概要「査問は4日続いた。他の被査問者と同じく、残された道は、査問者の望むような自白をすることだけだった。こうして、査問者の描いたとおりの自白と自己批判書がつくられていった。彼らはよってたかって六中総に反対したことを強要した。私は、査問がふりだしに戻ることを恐れた。また、査問官の心証を悪くすることを恐れた。次第に、この際、査問官のいうとおりに従った方が無難である、と考えるようになっていった。そして、無実の殺人犯[正しくは『容疑者』]が犯行を供述する心理状態をはじめて知った。その場の苦しさからの解放と逃避のため、一時的安楽に妥協することは、ある特殊な条件のもとではいとも容易であった」(「汚名」142 P)。
 概要「相手は、自らのすべての信頼と実存をあずけている党自身だった。私はいかなる情況のもとでも敵のテロや弾圧に屈服してはならない、ということを党から学んだ。日本共産党の歴史はそのような英雄的先達者によって築かれている。党が誇り、人々から尊敬されるゆえんもここにある。しかし、この理屈は階級敵のとり調べのときに光り輝くものであっても、共産党の査問部屋で通用するものではなかった。味方と命を賭けて闘うことなど、どうしてできよう」(「汚名」43P)。

 スターリンの拷問部屋で、ボリシェヴィキの歴戦の勇士が次々と、 自分がファシストの手先であることを告白していったのと同じ過程が、やや平和的かつ小規模な形で繰り返されたのである。油井氏は4日目にようやく解放された。その後彼を待っていたのは処分だった。被査問者たちが処分を言い渡されたのは、民青本部だった。こうして、油井氏は、青春のすべてを捧げた民青同盟から永遠に追放された。専従であった彼は、他のすべての被処分者と同じく、同時に生活の糧をも失ったのである。

 川上氏の査問解除経過は次のようなものであったようである。川上氏がすでに10日以上も監禁状態で査問を受けているだけでなく、川上夫人までが党本部に呼び出されたという時点で、川上氏の両親が心配し、あまりにも「世間の常識」に反し「横柄」であると怒り、父親が日本共産党の本部へ電話し、息子の留置を止めなければ人権擁護委員会に提訴すると通告し、その結果川上氏の監禁状態が解かれたというのが真相とのことである。党活動が「人権擁護委員会」から掣肘されるなどという本来ありうべからざる事態が起こったということになる。この場合、この事件が現党中央総出の行為であることを考えると、事は異常に過ぎるという思いを持つのは私だけだろうか。

 被査問者には一様に査問後丁重に釘が差されたようである。「他との連絡・接触を禁止する旨、厳重に言い渡した。査問を受けた者は情報を他に与えてはならない」とされ、「うっかり話もできない。何処で誤解され、密告されるかわからない」という疑心暗鬼に陥った。被査問者は一様に査問後遺症とも言うべき「心の傷」を負って家路についた。

 川上氏は、この時の体験を、事件から25年経過して「アノ世界からあれほどコケにされた体験」とみなすことができるようになったとのことである。「私も含めてわが友人達は、かくも長き期間、なぜ手を切らなかったのだろうか」と自問しているが、今はやりの言葉で言えばマインドコントロールの世界に陥ったとき自縛の縄をほどくのはそれほど難しいと言うことであろう。

 この査問について、『さざ波通信』は次のようにみなしている。
  「『査問』が出版されたとき、『赤旗』は党活動欄という目立たないところで、その著作に対する批判を試みた。しかし、その批判は、彼らが実際に分派であったことを力説するのみで、査問の実態についていかなる反論も試みていない。苛酷で非人間的な査問の実態については、反論のしようもなかったのである。 たとえ、査問が形式的に本人の同意を得たものであっても、十数日間にわたって監禁することは絶対に許されないし、また今回のように重病人を病院から呼び出して4日間も監禁することは、基本的人権を正面から蹂躙する蛮行以外の何ものでもない。党中央が錦の御旗とする『結社の自由』論によっては、けっ してこれらの行為が正当化されないことは、今さら言うまでもない(この問題については、いずれ詳しく論じるつもりである)。

 今回の『汚名』について、党中央は何か反応を見せるだろうか?  おそらく完全に無視するだろう。宮本時代が、批判者に対する徹底した反論と糾弾を基調としていたとすれば、不破時代は、都合の悪い問題に対する沈黙と無視を基調としている。われわれの『さざ波通信』と同様、『汚名』もまた無視されるだろう。不破委員長は、このような問題があたかも存在していないかのごとく、ふるまい続けるだろう。だが、事実は事実であり、 歴史をなきものにすることはできない。新日和見主義事件を見直す特別の調査委員会を中央委員会に設置し、改めて関係者から事情を聞き、事実関係を調査するべきである。そして、事件当時には知られていなかったスパイの役割についても改めて検討の対象に加えるべきである。そして、事実関係にもとづいて、あの事件が冤罪であったこと、処分が間違っていたことを率直に認め、すべての関係者の名誉回復を行なうべきである」 (1999.7.6日S・T)。

その7 「被査問者の査問実感」について 
 川上氏は解放直後の実感として次のように述べている。
 概要「翌朝、私は初めて査問部屋から解放された。茨木良和と今井伸英が入ってきた。今井が、『川上君、君、どっか籠るようなところない?ホラ、別荘とか』、『君、君が消えてくれるのがいちばんいいんだけどな。ネ、茨木さん、ネ』。私は後年、何度か、今井が何気なく吐いたこのときのことばを思い出し、もし日本がソ連・東欧型の社会主義国になっていたとしたら、間違いなく自分は銃殺刑に処せられていただろうと思った」(「査問」109P)。

 同じ気持ちを高野孟司(はじめ)氏も伝えている。高野氏は、当時、党中央直轄の細胞が支配する通信社ジャパン・プレス・サービス(JPS)でジャーナリスト活動をしていたところ同じく「新日和見主義」で“監禁”査問されたとのことである。少し補足しておくと、この時の直属部長が川端治(山川暁夫)氏であり、高野氏の「香月徹」ペンネームによる論評共々「人民的議会主義」の下での選挙重視、労働運動・学生運動軽視の方針の評価などを廻って、半ば公然と党中央を批判していた。この「党中央の見解の枠をはみ出すことを恐れない時評」が党内の若い世代の人気を得、盛んに講演にも招かれていた。

 これに宮顕一派の党内監視団が発動することとなった。「川端治や香月徹らは、北朝鮮労働党からカネを貰って日本共産党指導部の転覆を謀る陰謀的な分派を形成している」という容疑で、中央から上田耕一郎(現幹部会副委員長)が乗り込んできて、川端と高野を陰謀の首謀者としてさんざん糾弾することとなった。川端氏の方は分からないが、高野氏は次のように証言している。
 「そのまま上田に連れられて党本部に出頭させられ、1週間にわたり監禁され、査問された。査問の中で彼らは、私が党中央の情勢分析や組織方針と反する言動を弄して学生・青年をたぶらかしていると非難した。私は、私が中央と若干異なった見解を抱いているのは事実だが、『意見が違う』というのと『党を転覆する陰謀を企んだ』というのは全然別の次元の話で、仮に後者だというのなら私を反革命罪で除名したらどうか、と言った。彼らは、そうするだけの理由と証拠はないと認めた。それで私は、党中央に誤解を受けるような言動をしたことは申し訳ないという趣旨の『反省文』を提出して、無罪釈放された」。

 高野氏は、1998年5月号「諸君」の「『日共』の宿痾としての『査問』体質」紙上で次のように述べている。
 「それで僕は査問第一日目の結論として、この党にだけは権力取らせちゃいけないと思った。スターリン粛清とか、いままでさんざん言われてたのと同じことが日本共産党でもやっぱり起こると思った。まだいまは党内権力だから、 このくらいですむけれども、これが国家権力だったら殺されてる」。

 こうした受け止め方に関する考察は重要であると思われる。川上氏と高野氏の実感によれば、「日本共産党に天下を取らせてはいけない、大変なことになる」という思いにとらわれたということである。マルクス主義運動を擁護せんとする見地からすれば、これは困った結論である。こうした思いを反「党中央」的に了解するのならともかくも、汎反共的了解の世界に沈潜させていくことになるとしたら大きな損失のように思われる。党的運動の責任の重さを考えさせられる。

 私には、胡散臭い宮顕系執行部をこれ以上存続させることによって、宮顕系執行部的党活動を党運動そのものの宿阿として誤認させることを通じて、日一歩反共主義者を拡大再生産させてしまうことになるのを心配する。私の感性は、現行の宮顕系執行部的党活動はあくまで宮顕系のそれであり、徳球系であればそれなりの、志賀系であればまたそれなりの、他の誰それ系であればそれなりの党活動になるのではないかと睨んでいる。わが国の民衆的運動にどういう執行部が望ましいのか引き続き課題として見つめていきたいと思っている。だから、私はあきらめない。

 私は次のように思う。左翼運動史上の無数無限の否定的事象の出来にも関わらず、我々は容易に反共主義者になる前に、以下の三つの面からの考察をなしておくべきではなかろうか。その一つは、「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかどうかということ。一つは、共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかということ。一つは、宮顕体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということ。こうした観点からの考察は早かれ遅かれ避けて通る訳にはいかない。新日和見主義事件はその格好の教材ではないかと思われる。

 「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかということについては次のように考えられる。「査問・粛清」は、「暗殺・毒殺」同様に何も左翼運動に限って発生する訳ではない。歴史の中からこれらの事例を拾い出すことは造作もないことを思えば、組織の指導権争いに絡んだ権力闘争一般につきものとみなすことができ、今後ともこの種の係争には事欠かないものと思われる。問題は、共産主義運動との密接関連性としてどうなのかということになろう。このテーマに対して解析を挑むには私の知識と能力が足りないことと、本投稿のテーマから離れてしまうのでまたの機会とする。

 但し、こうは言える。スターリンによる党内粛清・党外弾圧事件(このところレーニンにその起源を求めようとする解明がなされつつあるが)のみならず、共産主義運動のあるところ皆なこの問題にまといつかれてきたことを思えば、我々の運動は、いくら運動の歴史的正当性を説いたところで、本当のところここの問題を正面から受けとめ、有効な解決策を獲得しない限り、にっちもさっちも進まないと考えるべきであろう。特に私のように主流派に与しにくい不従順性格を持つ者にとっては、この問題の解明を避けたまま党的運動に身を委ねるとか、これを支援することは自分で自分の首を絞める技になりかねない。

 共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかについては、次のように考えられる。この問題は、小手先の技術的な湖塗策で解決しうるものではなく、党的運動・組織論の「総体」の見直しを通してからしか処方され得ないのではなかろうか。あるいはもっと深くマルクス主義の認識論における「真理」観に関係しているようにも思われる。元々マルクスの功績は、唯物論的弁証法−史的唯物論の発見ないし確立にあったと思われるが、元祖マルクス・エンゲルスの指導能力をもってしてさえ、これを党的運動として推進する段になるやたちまち異見・異論との齟齬をきたすこととなったというのが史実である。それほどに実践運動は難しいというのが実際であるが、その後マルクス主義の正統の継承者を自認するレーニン等によって、資本主義体制下のもっとも弱い環としてのロシアに於いてマルクス主義のイデーが結実していくことになった。

 但し、世界を震撼させたロシア十月革命は揺り戻しも大きかった。この過程で、ボルシェヴィキの、その最高指導者であったレーニンの強力独裁指導を生み出すこととなった。こうしてマルクス主義運動は、一個人が獲得したマルクス主義的見地の「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に服従する党的運動に席巻されてしまうことになった。歴史の実際の局面がそういう独裁指導を必要とし、その方が緊急事態対応型の危機管理能力形成に適切であったという面があったとは思うが、この時この独裁体制をして時限的暫定的措置としてのタガを填めることができなかった。

 これを私はレーニン主義に胚胎していた人治主義的傾向とみなしているが、レーニンがこの誤りに気づいた時には、既にモンスター的スターリン権力確立の前夜となっていた。歴史に後戻りは効かない。恐るべき事態を憂慮しつつレーニンはこの世を去っていくことになった。私はこの間の闘争を指導したレーニンの偉業をおとし込めようとは思わないが、今日レーニン直の指導による誤りが次から次へと解明されつつある。つまり、レーニン主義の「負の遺産」が明らかにされつつある。私は、この時のボタンの掛け違いが、その後のソ連邦の発展と消滅をプログラムしたと考えている。

 レーニンの後を継承したスターリン権力の功罪は知られているので割愛するが、今日では当人達の主観に関わらずマルクス主義のイデーから大きく逸脱した党的運動であり、ただ単に新官僚国家形成運動であったとみなすことが常識である。その後ソ連邦は「スターリン批判」を通じて集団指導体制に移行しようとしたが、根本的な「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に対して、理論的な切開と打開をなしえる能力を持ち得なかった。つまり、「スターリン批判」は人治主義的傾向に対しての対症療法的なものでしかなく、マルクス主義的運動に発生した「負の遺産」を断ち切ることが出来なかったように思われる。その原因は、資本主義体制下の権力者であれ「社会主義体制」下の権力者であれ、権力の密の味をしめた指導者ないしその官僚機構は「道理」を説いたぐらいでは容易には権限を手放さないという、ということであろうと思われる。

 私は、「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に道を拓いた党的運動・組織論に対する徹底見直しこそが究極「査問・粛清」体質を除去させ、必要悪最小限の適用基準の確立を可能にせしめると思う。これを具体的に言えば、「絶対基準押しつけ」の対極に位置する「総党員参加型の民主主義の効用」を目を洗って再評価すべきではないかということになる。「民主主義」を空疎空論でブルジョア的だとかプロレタリア的だとかの言辞で弄ばず、なおかつ形式主義に委ねず、「実質的な集団討議的手続きと制度と機構」の確立に向けて党的運動・組織論の変革を勝ち取るべきではないかということになる。充分には出来ないにせよ、まずは我が身内たる党内に於いて実践的に獲得したものを社会一般に押し進めるべきではなかろうかということになる。

 この背景の思想としては次のような簡明なものを措定したい。
その1  みんな寿命に限りがある神ならぬ身の存在であり、能動寿命は「たかが、されど人生50年」であることを認識し、人生の有限的関わりで社会貢献を志向すること。
その2  その命に限りある者が「ぼちぼちでんな」の精神で能力・環境に応じて統一戦線的に欠けたる所を互いに補う気持ちで精を出すこと。
その3   党的運動・組織論において絶対真理的教条ないしは権威主義の押しつけを排し、所定ルールに基づき大衆的討議を獲得しつつ「いろいろやってみなはれ」 的集団指導体制に向かうこと。
その4  反対派の生息を認めた上で、執行部に指導権限を与えること。ただし、執行部の責任基準を定め、定期的に総党員選挙によって信任を問うこと。緊急事態対応については時限化させること。
その5  このような党的運動・組織論の実践過程に於いてのみ規約とか服務規律の重要性を認め、執行部にこの脈絡抜きに規約とか服務規律を振り回させないこと。

 宮顕体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということについては、次のように考えられる。私は、宮顕の人となりについて直接面識はない。党史を通じて理解するばかりであるが、凡そ共産主義的運動の指導者としては似つかわしくないことを確信している。しかしその宮顕も既に高齢であり、今更氏に対してむち打つ気にもなれない。問題は、後継者不破−志位指導部の評価と責任追求にある。この執行部も不破から数えれば既に30年の歳月を経ている。人民的議会主義に基づいて民主連合政府の樹立を提唱し颯爽と登場した70年頃から党運動が一歩でも二歩でも前進しているというのならまだしも、昨今の現状は明らかに後退局面にあるのではないかと私は考えている。

 その根拠の一つは、社会全体からの左派意識者の減少である。最近書店周りで気づいたことは、かってなら存在していた左派思想・運動関係の書棚が消え去っていることがこれを追認していると思われる。こうした傾向は、党運動百年の計から見て左派土壌の枯れを意味する。土壌が枯れたところには花は開かない。お百姓さんでなくても誰でも知っていることだ。現下の議会闘争の局面は、審議拒否戦術で自・自・公政権に対決しているが、それならそれでかっての社会党の審議拒否戦術を嘲笑していたことに反省の弁を添えておくべきであろう。私は可能性はともかく現実性がないと思っているが、よしんば党代表が大臣席の一つにありついたとしても、連合政権維持のためなし崩しの妥協しか待ち受けていないという構図が予想される。細川政権以降橋本政権に至るまでの過程において、旧社会党・さきがけ・江田グループがその事例となっている。

 不破−志位指導部は、こうした事例に対する 理論的研究を獲得しつつ党員に針路を示さないので党員は困惑させられているのではないのか。かの諸党のようにはならないという証文を一筆書き付け、これに執行部の責任を託すということをしないから、万事にそういう「体を張る」作風がないから、延々と30年も座椅子にぬくもってしまうことになる。30年も (宮顕から数えれば50年も)党最高指導者として留まること自体を自他共にオカシイと考えるべきではないのか。おのれの好みと器量に似せて党をリー ドすることは党の私物化でしかないのではないのか、退陣することにより暴露されてはならない諸事実が明るみになることを怖れているのではないのか、と勘ぐってしまう。もっとも、党内から特段の批判が挙がらないことを思えば、私がこういうことを言ってわざわざ皆様から憤激を買うこともないかとも思うが、これが私の性分だから仕方ない。

 ただし、これだけははっきりしている。現下の党運動は、マルクス主義とは無縁の近世的ヒューマニズム運動の延長にあるものであって、この程度の運動であれば何もマルクス主義の洗礼を通過する必要もなかったし、戦前の非合法下で党員はボルシェヴィキ的活動に殉じる必要もなかったのではないのか。私には草葉の陰から苦虫を噛みしめている祖霊が見える。当人がよく言っているように、いっそのこと「日本道理党」とでも改名して運動を押し進めるのであれば、あるいは又その政治理論からして「新民社党」とでも改名して運動を押し進めるのであれば、私もこの党に対してこうも関心を持つこともなく、皆様から不興を買うこともない。お互いにその方が賢明なようにも思うのに。





(私論.私見)