第6部2 平田勝「未完の時代――1960年代の記録」証言考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.10.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「平田勝「未完の時代――1960年代の記録」証言考」を確認しておく。これを仮に「平田勝/1969年証言」と命名する。これは恐らく「置き土産(みやげ)証言」だろう。コメントしながら辿りたい。

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.10.5日 れんだいこ拝


【平田勝「未完の時代――1960年代の記録」証言考】
 2020.4.19日、デイリーBOOKウォッチ「60年代を駆け抜けた『東大・共産党員・全学連委員長』の青春BOOKウォッチ編集部)。
 表紙に掲載されている一枚の写真が強烈だ。中国の最高指導者毛沢東が、日本から来た学生訪中団と対面している。緊張の面持ちで毛沢東と向き合っているのが本書『未完の時代――1960年代の記録』(花伝社)の著者、平田勝さんの若き日の姿だ。平田さんは激動の1960年代に学生運動に深く関わり、全学連委員長も務めた。在学中から日本共産党員。あの「東大紛争」では、極秘の収拾工作に関わっていた。しかし、のちに共産党を離れる。本書は、激動の60年代を駆け抜けた「東大・元共産党員」の疾風録だ。
 学生運動の経験と見聞を記述

 平田さんは1941年、岐阜県で生まれた。大学進学者は年に数人という田舎の高校を卒業し、一浪後の61年、東大へ。駒場寮委員長、全寮連委員長、東大学生自治会中央委員会議長、第一回日中青年交流会の学生団体団長、全学連委員長などを務め、東大紛争では文学部の事態収拾のため水面下で交渉にあたった。69年、文学部を卒業し、出版社勤務を経て、85年に花伝社を創立し代表取締役、現在に至る、というのが略歴だ。

 本書は、「ここに記したのは1960年代に自分が実際に体験したこと 見たり、聞いたりしたこと そこで感じとったことなどを そのまま、記述したものである」という冒頭の言葉で始まる。「第1章 上京と安保――1960年」、「第2章 東大駒場――1961年~1964年」、「第3章 東大本郷――1965年~1968年」、「第4章 東大紛争――1968年~1969年」、「第5章 新日和見主義事件――1969年~1972年」という5章仕立て。年を追いながら激動の60年代と、学生運動に深入りした自らの青春の日々を回顧する内容となっている。

 60年代の学生運動については類書が多数ある。大半は「反代々木系」「全共闘系」の筆者によるもの。本書のような共産党系の元活動家によるものは少ない。その意味でも貴重だが、とりわけ、「第4章」が興味深い。「文学部8年生」だった平田さんが、文学部の紛争終結に向けて、共産党の指示のもとで秘密裏に動き、事態収拾に成功した様子が克明に再現されている。

 党から現地指導の要請
 東大紛争は1968年初頭、医学部の無期限ストを発火点として拡大した。平田さんはすでに学生運動の一線からは退き、大学に籍はあるものの、共産党系の出版社「新日本出版社」で編集者の仕事をしていた。実際のところ、やきもきしながら状況の推移を見守っていた。というのも、当初は東大の10学部のうち、医学部と文学部を除く8学部の自治会を共産党と密接につながる民青系が握っていたが、9月から10月にかけ次々とストライキが決行され、執行部が全共闘系にひっくり返っていたのだ。
 危機感を強めた共産党はテコ入れに躍起になる。平田さんは党本部に呼び出しを受け、しばらく現地指導に行ってくれ、と指示される。ここからが本書の最大の読みどころだ。

 当時の文学部自治会は革マル派が握っていた。学生大会をやると、250~300対80~120ぐらい。民青系は80ぐらいで圧倒的に差があった。一方で、一般学生の中には、このままストが続くと、来春の就職がやばいという空気も生まれつつあった。彼らは「有志連合」として動き始めていた。平田さんは彼らと話を付け、7~8人で文学部の林健太郎学部長 (当時)宅を訪問する。林氏は平田さんを有志連合の一人と受け止め、思うところは大胆に語った。

 平田さんは翌日、単独で改めて面会を申し込む。そして、「自分は共産党の任務を帯びて解決のために文学部に来ている」と率直に話して収拾構想を伝えた。林氏は「参った、参った」「君の考えはよく分かった」。

 共産党本部からは直後に、「宮本顕治書記長のもとに至急報告に来い」という連絡が届く。党本部に出向くと、書記長室に呼ばれ、宮本書記長がいた。長く全学連の活動をしていたが、書記長室に入るのも、宮本氏と直接面会するのも初めてだった。

 宮本氏とはその後もしばしば会ったという。細かい情報やビラ一枚に至るまで知っていることに驚いた。平田さんが書いたアジビラも読んでおり、「あれはよく書けている」と言われたこともあった。
(私論.私見)
 「宮顕が細かい情報やビラ一枚に至るまで知っていることに驚いた」、「平田さんが書いたアジビラも読んでおり、「あれはよく書けている」と言われたこともあった」ことを証言している。れんだいこが注目するのは、戦前の共産党員の予審調書に目を通しており、宮本百合子のそれにも通じており半ば激励し半ば批判したとの宮本百合子証言があり、この逸話と通じている気がする。宮顕はなぜそのような秘密調書に目を通し得ていたのだろう、と勘繰るのが普通の処、勘繰られていない不思議さがある。
 「学部長書簡」を書く
 年が明け、秩父宮ラグビー場で、7学部の学生代表団と、大学側の加藤執行部の大衆団交が行われ、10項目の確認書が交わされる。直後の全共闘系と機動隊による安田講堂攻防戦が注目されたが、紛争は大枠で解決に向かうことになった。しかし、文学部の状況は依然として混とんとしていた。そこで、平田さんが動く。まず教授たちに働きかけた。個別に有力教授の自宅を訪問し、教授会内部の勢力図を把握、解決の道を探った。可能な限り一人一人の先生と会ったという。「右翼」とされた中国哲学の宇野精一先生の自宅も訪ねた。「君は顔が利くようだから宜しく頼む」と言われた。
 ギリシャ哲学の斎藤忍随先生からは「文学部のために平田君は坂本龍馬になって薩長同盟をやってくれないか」と持ち掛けられた。革マルと民青が手を結んでストライキ解除をやってくれないかということだ。そこで、山本信先生の手引きで、革マル派の文学部の自治会委員長と、山本氏が行きつけの神保町のバーで密かに会った。しかし相手には、そうした発想はなく、事態は進まなかった。
(私論.私見)
 ここで、「革マルと民青が手を結んでストライキ解除をやってくれないか」と頼まれ、「革マル派の文学部の自治会委員長と、山本氏が行きつけの神保町のバーで密かに会った」ことが証言されている。「しかし相手には、そうした発想はなく、事態は進まなかった」のはそう重要でない。安田講堂攻防戦直後の流動局面で、「革マルと民青それぞれの代表がストライキ解除の秘密会談が持った」ことの意味の方が大きい。これは、革マルと民青がいざ肝心な時に手を組める間柄であることを示唆しているのではないのか。

 文学部の岩崎武雄学部長には「少数の者で解決策を詰めてみませんか」と提案した。何度かやり取りし、解決の方向を「学部長書簡」のような形で、学生、教授会の双方に向けて発表する流れになる。原案を書いてくれと頼まれ、たたき台を岩崎氏に渡した。あとで発表されたものを見たら、平田さんが作った文章と一字一句違わないものだった。

 こうして文学部も収束に向けて動き出す。8年生だった平田さんはいくつか単位を残しており、落第、中退を覚悟していたが、「何でもよいから特別レポートを提出」するように言われ、奇跡的に卒業できた。骨を折ってくれた人の話も出てくる。郷里の両親に卒業証書を届けると、自宅で長い間、額に入れて飾っていたという。

 容赦ない「分派」の摘発

 話がここで終われば手柄回顧、ハッピーエンドだが、平田さんには次なるドラマが待ち受けていた。それが「第5章 新日和見主義事件――1969年~1972年」である。これは共産党と民青内部のゴタゴタだ。平田さんは直接の当事者ではないが、最近の資料なども参照しながら、客観的にまとめられている。

 新日和見主義事件とは1972年に起きた、主として民青を中心に大量の共産党系青年運動の幹部が反党分子として査問され処分された事件だ。党によって戦前の特高のような査問が日本国憲法下で行われたこと、この事件の2~3年後には、党中央に忠実に従い、新日和見主義に対して先頭に立って闘ったと評価されていた複数の民青幹部が、警察のスパイとして摘発されたこと、この事件で60年代の共産党系の運動を担った人の多くが放逐され、その後の運動に世代断絶が起きたことなどを指摘している。

 この事件は、「60年代の学生運動を党の学生対策部長として指導した広谷俊二氏が、自分が党から干されたことを不満として、学生運動を基盤とし、その中心的な存在であった川上氏(元全学連委員長)らに働きかけ、最終的には新党結成に至る分派闘争を目論んで仕組んだ事件であったと思われる」と結論付けている。しかし、それに対する宮本体制による党側の摘発は容赦なかった。平田さんは、処分された関係者のほとんどは冤罪だったと見ている。「大量の査問が行われ、事件の影響が深刻に出ているにも拘わらず、この事件に対する党の検証は極めて不十分であると思う」
 「『日本共産党の八十年』から新日和見主義事件に関する記述はすべて消された。共産党はこの事件が『風化』することを待っているのだろうか」とも書いている。
(私論.私見)
 現下の日本共産党の党中央ラインは宮顕、不破、志位と列なっている。この連中の勝てば官軍式党史改竄、親治安警察性の問題、その他その他れんだいこがこれまで告発して来たことを裏付けている。概ねスルーされたまま今日に至っているが「平田勝/1969年証言」は内部告発性を帯びている故に貴重さを増している。
 50年の歳月が流れた

 事件の首謀者とされる広谷氏は、60年代の学生運動で、平田さんが直接の指導・指示を受けていた人だ。要するに、長期にわたって「広谷氏に使われた」のが平田さんだった。川上氏とも親しく、彼らの勉強会に出ていたこともあるが、事件当時の平田さんは、司法試験の勉強に取り掛かっており、運動とは距離を置いていたこともあり連座しなかったようだ。その後、司法試験を断念した平田さんは、出版社を立ち上げ、「自由な出版」を実現するために離党する。共産党との関係は「是々非々」になったという。本書でも辛口の記述が少なくない。上述の文学部の岩崎学部長とのやり取りは、お互いに口外しないという約束だったという。詳細を記したのは今回が初めて。「東大紛争から50年の歳月が流れたいま、歴史的事実の一端を語ることは許していただけると思う」としている。

 本書では多数の関係者が実名で登場する。60年代を東大ですごした人は懐かしい名前を見つけることになるかもしれない。のちの有名人も少なくない。特に平田さんが懐かしむのは、駒場寮の寮委員会時代の仲間との付き合いだ。民青系だけでなく、保守系も含め、様々な立場の人がいた。当時の仲間の一人、佐々木毅氏は東大の総長になり、文化勲章も受章した。祝賀会には平田さんも出た。当然ながらのちに「体制内エリート」として成功した人が多いが、平田さんが出版社を立ち上げてからは、会社まで来て経営に役立つ知識をいろいろ教えてくれた人もいた。「これらの助言がどんなに役立ったかしれない」と感謝している。

 タイトルの「未完の時代」というのは60年代のこと。帯には「『未完の時代』を生きた同時代の人と、この道を歩む人たちへ」とある。時は移り、「そして、志だけが残った――」とも。いま花伝社には、学生時代にSEALDsで活躍していた若手がスタッフに入り、本書の編集を担当したという。平田さんの「未完の志」は、半世紀を経て、形を変えながら次の世代に静かにバトンタッチされつつあるようだ。

 BOOKウォッチでは関連して、『東大闘争から五〇年――歴史の証言』(花伝社)、『東大闘争 50年目のメモランダム--安田講堂、裁判、そして丸山眞男まで』(ウェイツ刊)、『東大闘争の語り』(新曜社)、『かつて10・8羽田闘争があった――山崎博昭追悼50周年記念〔記録資料篇〕』(合同フォレスト)、『私の1968年』(閏月社)、『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書)、『東大駒場全共闘 エリートたちの回転木馬』(白順社)、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』(洋泉社MC新書)、『赤軍派始末記』(彩流社)など多数紹介している。

書名/未完の時代
サブタイトル/1960年代の記録
監修・編集・著者名/平田勝
出版社名/花伝社
出版年月日*/2020年4月 6日
定価/本体1800円+税
判型・ページ数/四六判・208ページ
ISBN/9784763409225

 2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.10.5日 れんだいこ拝

 2019.10.27日、「「東大全共闘」への反撃が始まった!」。
 普通は、タイトルから何となく本の内容が想像できるものだ。ところが、本書『東大闘争から五〇年――歴史の証言』(花伝社)については完全に違った。これまでに多数出版されている「東大全共闘本」の同類だろうと思ったが、実は真逆だった。書名に「東大闘争」とあり、表紙には安田講堂前に多数の学生が座り込んで集会している写真。旗が林立している。このあたりを見れば誰でも「全共闘本」だと思うに違いない。しかし本書では、「全共闘の側から、とんでもない間違い、歪曲がたれ流されている状況に、何とか反撃したい」という思いが濃厚なのだ。
 半世紀をへて明かされる証言

 出版元の解説によると、本書は、「東大の全学部で無期限ストライキ...東大闘争とは何だったのか?それぞれの人生に計り知れない影響を与えた1968年の学生運動。半世紀をへて、いま明かされる証言の数々。学生たちはその後をどう生きたか」ということについて記したものだ。この説明では漠然としているが、本書の主体となっているのは、1969年1月10日、大学当局との間で「一〇項目確認書を締結させ、それにもとづく研究・教育活動の再開と改革をめざした者たち」だという。どんな人たちなのか。

 まず東大闘争をごく簡単にレビューしておこう。68年1月に医学部が研修医問題などから無期限ストライキに突入。関係した学生が誤認処分された疑いが強まり、学生らは反発するが、大学当局は処分を撤回しない。怒った一部学生が安田講堂を占拠。機動隊が導入され、7月には全共闘が結成される。大学はバリケードで覆われ機能マヒ。年末にかけて事態収拾の動きも強まり、69年1月10日、「東大民主化行動委員会」らによる「統一代表団」と大学当局の間で上記の確認書が交わされた。この動きに反発する全共闘系はなお安田講堂に立てこもったが、同月18、19日、機動隊によって排除される、という流れだ。つまり東大闘争には「全共闘系」と「反・非全共闘系」がいた。後者は、大学当局と一定の交渉をして大学の正常化と再出発を図った。それが「一〇項目確認書」に関わった人たちということになる。東大闘争というと、全共闘にスポットが当たり、当時の学生は「全共闘世代」などとまで呼ばれるが、本書の行間からは、「違うぞ」「俺たちも闘った」「最終的な多数派はこっちだ」「成果も得た」という怒りの声が聞こえてくる。とはいえ当時の東大生や、学生運動に特別の関心を持つ読者以外は、「一〇項目確認書」や学内の対立の構図はぴんと来ないだろう。そこでもう少し、本書の内容を紹介することにしよう。

 東大闘争の結節点

 本書の編集は「東大闘争・確認書五〇年編集委員会」。ここでも「確認書」がキーワードになっている。その中心メンバーの1人が柴田章さん。1967年12月から68年6月、東大教養学部自治会委員長だった。いわゆる「民青系」「代々木系」といわれる自治会だ。闘争が本格的に始まってからは、「東大闘争勝利全学連行動委員会代表(教養学部)」。確認書締結時、教養学部代表団。73年に農学部を卒業して出版社に勤務してきた。柴田さんが世間の人に、東大闘争とは何だったのかと聞くと、学生が長い間ストライキをやっていた、安田講堂で攻防戦があった、69年の東大入試が中止になった、ぐらいしか記憶されていない。柴田さんは、東大闘争は「この三点セットで尽くされるものではない」と、以下のように解説する。

 闘争は長く複雑な経過をたどったが、最終的に69年1月10日に秩父宮ラグビー場で大衆団交が実現し、医学部処分撤回、機動隊導入自己批判について、基本的にすべてを認める確認書が結ばれた。学生の自治活動の規制を撤廃し、ストライキには学生処分をもって対処するという矢内原三原則を廃棄、大学の自治=教授会の自治という旧来の考え方を改めて、全構成員による新しい大学自治のあり方が示された。産学共同、軍学共同についても、学問・研究の自由を歪めてはならないという観点から、これを否定することが盛り込まれた。こうした成果を勝ち取ったのが「一〇項目確認書」であり、これをふまえて、各学部で学生が主体的に無期限ストを解除し、大学の再建へと向かった、と総括している。 「一〇項目確認書」は「東大闘争の結節点として、ぜひとも歴史年表に書き記されるべきこと」だと強調している。

 34人が実名で寄稿

 本書は2019年1月10日、都内で開かれた「<討論集会>東大闘争・確認書五〇年――社会と大学のあり方を問う――」という集会がきっかけとなっている。そこで証言集発行が提起され、34人の寄稿を得て本書刊行にこぎつけた。「確認書に結実した東大闘争の成果は、大学解体論にまで行き着いてしまった全共闘路線と対決する中でたどりついたもの」だという。寄稿者はそれぞれが実名。当時の活動状況やその後の人生の話も盛り込まれている。学生時代に民青や共産党員だったと書いている人もいる。卒業後の経歴は弁護士、高校教員、医師、生協職員、大学教員などさまざま。医学界の要職を務めた人もいる。「あの時代がなければ今の自分はありえない」のは当然だろう。全共闘が「敗者」とすれば、本書は「勝者」の側からの証言ということになるが、社会に出てからは、当時の仲間のその後が、平たんではなかったことをうかがわせる寄稿もある。

 本書ではあのころ「真剣に議論した」ことを懐かしく振り返っている人もいる。悠長な話し合いではない。お互いが面と向かって相手に人差し指を突き付け、「君はどう考えているんだ」と面罵する激しい主張のやりとりがあったという。全共闘系、民青系、一般学生らが入り乱れた当時の東大キャンパスは、一種の「白熱教室」だったということが推測できる。

 「東大闘争時、各学部、クラス、学科、サークルで多数の人が、毎日毎朝、ビラや立て看を書き、配り、そうしてそれらは同輩に読まれて無数の議論の種子となっていった・・・世に公開されている東大闘争資料集の類は、その一部をカバーするにすぎない」。本書刊行を機に、本編集委員会は資料収集の作業にも着手することにしているという。

 公開されている東大闘争資料では、全共闘系のものが知られている。すでに山本義隆議長が収集した「東大闘争資料集」全23巻が国会図書館におさめられている。それらを「一部」に過ぎないとみなし、対抗しようというわけだから、東大闘争の延長戦はしぶとく続いているようだ。

 BOOKウォッチでは、当時の東大全共闘系学生の体験記として、『東大闘争 50年目のメモランダム--安田講堂、裁判、そして丸山眞男まで』(ウェイツ刊)、『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書)、『安田講堂 1968‐1969』 (中公新書)、『東大駒場全共闘 エリートたちの回転木馬』(白順社)、学術的な著作として『東大闘争の語り』(新曜社)などを紹介。全共闘の導火線となった羽田闘争を巡って、東大新聞の論調が分かれた話は『かつて10・8羽田闘争があった――山崎博昭追悼50周年記念〔記録資料篇〕』(合同フォレスト)で紹介している。(BOOKウォッチ編集部

 書名東大闘争から五〇年
 サブタイトル/歴史の証言
 監修・編集・著者名/東大闘争・確認書五〇年編集委員会 編
 出版社名/花伝社
 出版年月日/2019年10月 2日
 定価本体/2500円+税
 判型・ページ数/A5判・353ページ
 ISBN9784763409027

 2019.10日、「全国模試2番、6番、15番たちの東大闘争・・・」。
 1969年1月18、19日、東大安田講堂に全共闘の学生が立てこもり、機動隊と激しい攻防戦を続けた。本書『東大闘争 50年目のメモランダム--安田講堂、裁判、そして丸山眞男まで』(ウェイツ刊)は、そのとき逮捕された元東大生、和田英二さんの回想記だ。まるで映画でも見るかのように、様々な局面がリアリティたっぷりに再現されており、一気に読めてしまう。

 愛読書は『あしたのジョー』


   和田さんは66年、東大文Ⅰに入学し、68年、法学部に進んだ。それまで政治や社会の動きには全く無関心なノンポリ学生だった。ところが、6月、学内にとつぜん機動隊が導入されたことで目ざめた。大学にこんなことがあっていいのか。いきなり頭を殴られたような気がしたという。安田講堂前にできていたテント村に、自らテントを担いではせ参じた。そのまま法学部闘争委員会(法闘委)のメンバーになる。本書は「第一部 安田講堂戦記」、「第二部 丸山教授の遭難」の二部構成になっている。圧倒的に面白いのは、時折、顔を出すエピソードだ。まず、和田さんのノンポリぶり。法闘委の4年生から、「和田君、ドイデを読んだことある?」と聞かれるが、「いいえ」。「じゃあ、ケイテツは?」。これも「いいえ」。さらに「リューメーは読んでるよね?」と追い打ちをかけられるが、これも「いいえ」。当時の全共闘系学生の基本書とされたマルクスの「ドイツ・イデオロギー」や「経済学・哲学草稿」、吉本隆明の著作は、いずれも読んだことがなかった。

 「私の愛読書は、主に『あしたのジョー』『カムイ伝』などの漫画本で、難易度を上げても『五味マージャン教室』くらいだった・・・」

 成績のことになると自己肯定

  東大ではすでに68年7月5日、全共闘が結成されていた。法闘委の部屋は、占拠している安田講堂の二階にあった。そこでのちょっとした会話がまた面白い。 あるとき、メンバーの一人が、占拠中の教養学部の事務本部で、和田さんの成績表を見たという話をした。勝手に成績表が収められているロッカーを開けて、のぞき見したということだろう。「入学のときは良かったのに、本郷進学のときは、どうもねえ」という。和田さんは「駒場では何かと忙しかったからね」と弁解した。そして、「入試は良かったはずだ。全国の模擬試験でも15番だったからねえ」と付け足した。すると、横で聞いていた別のメンバーが、「ほ~、和田もけっこうやるじゃないか」と感心する。そして「俺は6番だったけど」とさりげなく自分の順位を明かした。さらに驚くべきことが起きた。ふだんは寡黙で、自分から会話に入ることがない別のメンバーが「俺は2番だったけど」と呟いたのだ。著者は書く。「東大生であることを自己否定せよ! そう東大闘争で叫びながら、こと成績のことになると、たちまち自己肯定的になる。東大生の悲しい"さが"であり、刷り込まれたDNAである。だから、どんな修羅場になっても、たとえ親の命日を忘れることがあっても、自分の成績だけは忘れない」。東大闘争が全国模試で2番や6番や15番の学生たちによる闘争だったということが分かって、今どきの受験生や学生にも理解が進むに違いない。

 立てこもった東大生は多かった

  和田さんの現在の肩書は「自由業」(東大闘争研究家)。ちょっと謎めいているが、安田講堂攻防戦についてはこってり書き込んでいる。特にこだわっているのは、逮捕された学生の人数だ。当初は新聞によって人数がまちまちだったが、和田さんは377人と結論づけている。ただし、その後、検察当局が公表した起訴者は295人。家裁送致や釈放者を合わせても368人にしかならない。9人はどこに行ったのか。和田さんの推理によれば、機動隊の催涙弾直撃などで重傷を負って入院していた学生たちだ。実際に東大生が何人立てこもっていたかについても詳しく調べている。当初、「東大生はわずか9人」などという報道もあった。警察側の佐々淳行氏も著書で20人と書いており、その数字が独り歩きした一面もある。これらはすべて間違いで起訴された学生のうち65人が東大生。完全黙秘した学生もいるので、固く見ても80人は超えると和田さんは推定している。法闘委では20人が逮捕された。佐々氏は、この人数を東大生全体と勘違いしたのではないかと見ている。女子学生も13人が立てこもっていた。東大の女子学生もいた。理系の大学院生は完全黙秘していたので「菊屋橋101号」として氏名不詳のまま起訴された。

 「うちの息子は二人そろって東大」だったが・・・

  「第二部」では、東大法学部を代表する大学者、丸山眞男氏が、法学部研究室を封鎖した全共闘に対し、「ナチスもしなかった」と非難したと報じられたことの真相に迫る。本当にそう言ったのか、言わなかったのであれば、本人や周囲はなぜ反論しないのか。かなりこだわって掘り下げている。今風に言えば「ファクトチェック」。丸山氏の微妙な心理も推察されている。マスコミ関係者必読だ。特に朝日新聞と毎日新聞。

   本書は全体に、かなり柔らかい筆致で東大闘争を振り返っている。とくに、ところどころに登場するヒューマンストーリーが秀逸だ。著者に親しみを感じる。和田さんの兄も東大生。工学部に在籍しており、安田講堂に立てこもろうとした。著者が止めた、という話が出ている。父親の自慢は「うちの息子は二人そろって東大」だった。それが二人とも安田講堂で逮捕されたら和田家はどうなる、というわけだ。兄の「英断」が和田家の滅亡を救ったと評価する。父親はその後、「うちの息子は東大」という自慢話をしなくなったという。

   逮捕後の看守とのやりとりも面白い。「あなたを尊敬するようになった。外に出たら、是非、会いたい」と言われたそうだ。よんどころない義のためにやむなく幽囚の身となるが、そこで出会った心ある看守に尊敬される――「私の東大闘争の名場面」と書いている。もちろん、そのあとのオチもある。取り調べをしたM検事からは「君は、いずれ外に出るだろう。そのときは、ルールを守って、その能力を社会のために活かしてほしい」と言われた。あれから50年経つが、違反は交通切符だけだという。

   本欄では『東大駒場全共闘 エリートたちの回転木馬』(白順社)、『私の1968年』(閏月社)、『かつて10・8羽田闘争があった』(合同フォレスト)なども紹介している。(BOOKウォッチ編集部

 書名/東大闘争 50年目のメモランダム
 サブタイトル/安田講堂、裁判、そして丸山眞男まで
 監修・編集・著者名/和田 英二 著
 出版社名/ウェイツ
 出版年月日/2018年11月22日
 定価/本体1800円+税
 判型・ページ数/B6判・261ページ
 ISBN/9784904979273





(私論.私見)