第3部3 「党中央の新日和見主義者批判キャンペーン」考

 (最新見直し2007.2.7日)

その8 「党中央の新日和見主義者批判キャンペーン」考
 新日和見主義批判キャンペーンについて、油井氏の「虚構」は次のように記している。
 概要「新日和見主義者に対する理論的な批判キャンペーンは、1972.6.12日の幹部会から始まった。批判は、政治路線から運動論、組織論、学習・教養問題、人生観にまで至った。これほど多角的に批判され、数多い『罪過』を冠せられた『反党分派』は党史上皆無だ。新日和見主義の用語が初めて登場したのは6.29日の赤旗での上田耕一郎論文『沖縄闘争と新日和見主義』からで、この文中で『分派集団』が『新日和見主義』と名づけられていた」。

 新日和見主義の性格規定として、「『左』に偏向した組織的成育以前の『双葉の分派集団』」と見なされていた。不破書記局長も、新日和見主義が「左」からの修正主義の特徴を持っていると述べ、岡副委員長報告もこれを追認していた。宮顕委員長は、日本共産青年同盟創立50周年記念集会で、もっと露骨に「トロッキストの『左』からの攻撃に通ずる日和見主義」と語っていた。

 今振り返ってみるのに、新日和見主義に対する「左」規定はあながち的外れではない。当時の民青同中央は、共産党中央の右派的穏和路線に規制されつつも、最低限必要な範囲でマルクス・レーニンの原語を引き合いに出しながら運動に理論を与え、「闘う主体」づくりを図ろうとしていた。当時の「青年運動」、全学連機関紙「祖国と学問の為に」を読み直してみて云えることは、左派的でありうるぎりぎりの線でマルクス・レーニンらの片言隻句を引用しているという程度で、ことさら「左」と云われるほどのものではない。問題は、その程度の言辞さえ「左」規定して排斥に向かった党中央の不可思議な性格こそ凝視せられるべきであろう。

 実際の運動面でも、共産党中央の右派的穏和路線に規制され、「学園の民主化闘争」、「トロッキストの追放」、「民主連合政府の樹立に向けての共産党の議会運動の支援」、「沖縄闘争等々政治課題における幅広反対闘争」等々党中央の敷いた路線の中で闘っていた。決して「左」的ではないが、その中にあって僅かな可能性を見出しつつ「戦闘的な運動主体」を創出しようとしていたことは事実である。川上徹の小論「戦闘的・民主的学生運動における主体の形成」はこのセンテンスのものである。問題は、こうした行動意欲の戦闘性さえ「左」規定して排斥に向かった党中央の不可思議な性格こそ凝視せられるべきであろう。

 これらを種々勘案するのに、我が宮顕式党指導は何の為に党中央に君臨し、何をさせないために居座っているのかという疑惑なしには説明つかない。残念ながら、この観点は目下れんだいこ独特の観点になっており、共鳴者が未だ少なしの感がある。が、いずれ歴史が明白にさせていくだろうと考えている。

 新日和見主義者達とは、指導者が普通の感性であれば、次代を担う有能にして熱心な党運動実践者として褒め称えられるべき類の党の「宝」であったであろうが、我が党中央はそのようには遇さなかった。実際に為されたことは、新日和見主義者達の理論と行動と感性を捻じ曲げ、一大批判キャンペーンであった。ここに立ち現れた一握りの党中央による党中央のための党中央私物化運動こそ新日和見主義事件の本質である。付加すれば、この時の党中央のやり方は、共産主義者的であることはおろか民主主義者的であることにも及ばずの奇妙奇天烈な批判及び歪曲手法を駆使して、新日和見主義者達を一刀両断していったことが銘記されるべきであろう。

 「日本共産党の60年」では、次のように新日和見主義者達の「罪科」を列挙している。
 6中総(1971.12月)の学習の比重を高めることや同盟員の年齢制限を妨害。
 ニクソンの中ソ接近を帝国主義の危機とみなすアメリカ帝国主義美化論。
 沖縄協定以後、日本軍国主義が主敵となったとする「一つの敵」論。
 人民的議会主義や組織活動改善をブルジョア議会主義、解党主義と攻撃。
 大衆闘争重視を口実に党勢拡大を独自の課題として取り組むことに反対。
 民青に対する党の指導に反対。

 このそれぞれについて、新日和見主義者達に反論させ、実際に云おうとしていたことと党中央の批判を両論併記させれば、多くの者が新日和見主義者達の言い分に同意を示すであろう。新日和見主義者達の「理論」は、「学びつつ闘い、闘いつつ学ぶ」運動の中から生まれた知恵であり、明日の党活動に資する積極的な提案であり、その限りにおいて党中央の変調指導に対する見直し要求であり、それはその後の党活動に好影響を与えこそすれ、その逆のものではない。しかし史実は、党中央がこれに耳を傾けず、むしろ危険視して、一方的非道な糾弾キャンペーンにより断罪していくという経過を見せた。

 この時の党中央の立場を明らかにしている論文として、水口春喜の前衛(1972.11月号)誌上での「新日和見主義と青年同盟論」、党中央文教部副部長・小林栄三の同じく前衛(1973.6月号)誌上での「新日和見主義の学生運動批判」、党出版局の単行本「新日和見主義批判」(1973年出版)等がある。詳細は「虚構」に委ねるとして、云えることは、党中央側からするマルクス主義理論、組織論、運動論、闘争論、学生運動論の全域にわたって、有害無益な非実用的スコラ批判が為されていることである。この時川端治・氏らとともに新日和見主義者の背後のイデオローグとして批判された広谷俊二氏の著書「現代日本の学生運動」が槍玉に挙げられた。「現代日本の学生運動」は、それまで民青同系の学生運動におけるバイブルであった。対トロ批判の思想的武器であり、この間永らく党公認のお墨付きを得ていた。今これを読み直して見るのに、党の宮顕式論理と規制を受けて随分「奴隷の言葉」で語っており、「左」であるぎりぎりの線での学生運動論でしかない。ところが突如この時期に、この水準さえ「左」がかっていると総出で批判された。そういう代物の批判が繰り返し為されることになった。

 党中央の云うように学生運動の中からこれ以上左派性を薄めたらどうなるか、現状の青年運動、民青同の体たらくが語るところの姿になる。「虚構」は、小林栄三の吐き気を催すような悪質且つ捻じ曲げを得手とした反動統制理論を紹介している。当然のことながら、以降の民青同は、この時の小林理論を下敷きにしていくことになった。してみれば、その後の民青同の急速な凋落は、世の変動に適切な対処をしえなかったからという客観論によってではなく、宮顕−不破系指導部の安泰維持の為の党中央私物化用に政策的に作り出された瓦解現象であった、という推定こそ正鵠を射ているのではなかろうかということになる。これをあえてやる党中央のマッチ・ポンプ的変態性がそれとして確認されねばならないのではなかろうか。

 新日和見主義者の感性について批判を試みた下司順吉の「アナーキズムと新日和見主義」(1972.9月号前衛)、榊利夫の「新しい日和見主義の特徴−内外情勢の関連で」(1972.6.19−20日付け)、榊利夫「新日和見主義と『30年代論』」(1972.10月号)も見逃せない。下司、榊らは主として川上徹氏の諸言説を取り上げ、その民主集中制観、党内民主主義、べ平連運動、情念論についていずれも「捻じ曲げ批判」を加えている。下司、榊らの論に従えば、党−民青同運動は不活性化せざるを得ず、事実歴史はその通りとなった。

 不破式「人民的議会主義」についての新日和見主義者の批判と、これに対する党中央側からの再批判(主として中央委員・石田精一「人民的議会主義と新日和見主義」)も一考の余地があるが、石田らがどう饒舌しようとも、その後の歴史は新日和見主義者の見通しが正しかったことを明らかにした。当時危惧されていた不破理論の真の狙いは議会主義専一化であり、大衆闘争との有機的結合の視点がなく、大衆運動がいずれ軽視されていくことになるとした予見は、以来30年を経てその通りとなった。

 沖縄闘争を廻っての新日和見主義者の批判と、これに対する党中央側からの再批判も一考の余地がある。榊利夫「新日和見主義の特徴−内外情勢との関連で」(赤旗1972.6.19−20日)、上田耕一郎「沖縄闘争と新日和見主義」(赤旗1972.6.28−30日)が代表論文であるが、歴史は、党中央の現状規定、アメリカ帝国主義論、沖縄返還論が刻々生起する新事象に対応し分析を加える必要のないおざなり建前理論であることを明らかにした。但し、この点については、新日和見主義者にも欠陥があった。党の綱領路線である対米従属規定の規制から抜けだせず、我が日本の国家権力がサンフランシスコ講和条約で以ってまがりなりにも独立したという視点からのその向自的自立化の動きとして見ることができなかった。一方で帝国主義国家の動きとして捉え、他方で綱領路線による非独立・対米従属国家規定に配慮するという背反的な変調視点から『沖縄闘争』を位置付けしていた。これは党中央に拝跪する限り抜け出せない新日和見主義者達の限界であったと思われる。

 新日和見主義者達のこの限界が「日本軍国主義の新段階論」を生み出していった。ニクソン・ドクトリンによる新アジア政策は、日本のアジアでの「積極的な肩代わり」を要請しており、今後の日本は有事即応的自主防衛路線という名目での軍国主義化に拍車がかけられるであろう。沖縄の返還はただ単に沖縄が返還されるという「沖縄の本土化」ではなく、「本土の沖縄化」が促進されることになると予見し、これに立ち向かう運動論、闘争論の構築を必要とさせていた。

 これに対し、党中央は具体的な動きをそれとして分析しようとせず、十年一日の対米従属論を繰り返すのみであった。その後の歴史は新日和見主義者の予見が正しかったことを明らかにした。憲法原理の根強さ、国際情勢、経済動向との複合的絡みの中で急激な進行は許していないが、「日本がアメ帝の目下の同盟者として有事即応的自主防衛路線を既定路線として推進していくであろう、それが日帝の利益でもあるとする戦略が敷かれている」との見通しの正しさが、既に十分に明らかとなっている。

 新日和見主義者のイデオローグであった川端氏は、「日米共同声明と日本人民の70年代闘争の展望」(経済・1970.1月号)論文の文中で、当時の日米関係を評して「帝国主義的同盟の本格的構築に入った時代」と論じている。この「日帝論」による、「対米従属か自立か」は悩ましい問題で、ことごとく党の綱領路線と衝突する。そこで編み出されたのが「従属帝国主義」論で、実質的に自立国家論でありながら、「この転換は共産党綱領の立場から云えば、綱領の見地の転換の必要を促すものではなく、その規定の正しさをいよいよ明らかにする現実の動向なのである」と言葉だけ気遣いながら、概要「1952年のサンフランシスコ講和条約により形式的独立を得たが、今や『全面的発動』の時期を迎え、日米の対米従属的帝国主義的同盟関係の構築時代に至った」という見解を披瀝していた。

 党の対米従属規定綱領路線と日帝の自立認識との川端式折衷理論であったが、綱領に対する絶対的な拝跪を要件とする民主集中制組織論にあっては、この制約も致し方なかった面もある。川端論の意義は、日本の国家主権は独立していると認識すべきであるとしていたことにあった。この立場に立たない限り、この頃の日米貿易摩擦、東南アジア市場での資本輸出の動きが既に解けなくなっていたことにも起因していた。常に現実を分析する批評家としての面目がこのように結実したものと拝察される。

 これに対し、上田は早速噛み付いた。概要「川端見解は、対米従属を形の上で認めているが、結局は帝国主義自立論に通じており、日米関係を帝国主義的同盟体制への転換とみなすことにより、党の綱領路線である対米従属を否定する修正主義理論である」と批判した。上田の川端批判のオカシナところは、川端氏が提起したところの党の綱領路線の対米従属規定そのものが本当に正しいのかどうか、あまりにも現実にそぐわないではないのかと、その見直し論争で遣り取りすべきのところを、党の綱領路線と食い違ったことを云っているから間違っていると批判していることにある。実際には、当の川端氏そのものが「その規定は正しい」とへりくだり、上田が「党の綱領路線である対米従属規定のないがしろである」として、党の綱領路線を錦の御旗に批判していったからややこしい。結果、「オカシナ規定の方が正しい」と強調され、党中央の権威とお墨付きで党の綱領路線の正しさが再確認されることになった。これが、「科学的社会主義者の理論」の内実であるとすれば、恐ろしいほど乾ききった感性なしには為しえないであろう。ここで我々は、上田という人物の骨の髄からの御用精神性を見て取ることができるだろう。

 こうした新日和見主義者に対して示した党中央の態度は、宮顕委員長直々指令の断固たる「双葉のうちの機敏な摘発」であった。これが完全に奏効し、新日和見主義者は「羊の沈黙」を守ることになった。第12回党大会での不破書記局長報告は、「青年運動に重大な損害を与える以前に粉砕した」と勝利の凱歌をあげている。この過程での査問の様子は見てきたところであるが、一大批判キャンペーンの姑息さも見ておく必要がある。事件の被害者油井氏は云う。
 概要「党中央は新日和見主義の背景にある傾向を批判し、氏名や文献を公表しなかったのは党の温情ある配慮からだと云い為したが、これでは結局、誰の、何が批判されたのか、さっぱりわからなかった。名前も出典も伏せて傾向を批判するわけだから、対象が際限なく拡大される。しかも、その裏で被批判者の論理を歪曲・加工し、それを批判するのだから本質論議から大きくかけ離れる。そうなれば、それはもはや『虚構』という次元のものになる。新日和見事件の分かりにくさはここにあるのではないのか」。
 「事件がどのようにつくりあげられていった、それを知る人は論点を一つの方向に意図的に組み立てた一部の最高幹部に限られるだろう。現行の民主集中制のもとでは、この種の事件や党内の不可解な事柄は一部の最高幹部にしか分からない。その最高幹部の判断が党の意思となり全党を拘束する」(「虚構」256P)。

 最後に。この事件の最大の変調性は次のことにある。この時期党は、「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」を目指していた。70年代安保闘争に向けての全共闘運動、革共同系、ブント系、その他様々の他の左翼党派とここが違うところであり、「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」の願いがあればこそそうした運動に巻き込まれず党中央に結集していた人士も少なくなかった。この呼びかけに忠実である限りは、70年代の半ばに向かっての重要局面に至っており、議会闘争と大衆闘争、労農運動等々全域全分野で一丸となって突き進まねばならない時機であった。

 ところが、その運動のもっとも肝心なこの時に、そっちのけで、党中央の粛清大鉈が新日和見主義者に振り下ろされることになった。結果、軽騎兵的な役割を担っていた青年運動がズタズタにされていった。恐るべきは、党中央の呼びかけで始まったことからして民主連合政府が樹立されるされないについて党中央には相応の責務があると思われるが、史実は一片の弁明も無く反故にしてしまった。70年代の後半も80年代に至っても、民主連合政府は近づくことさえなくむしろ構想そのものが雲散霧消した。

 こういう歴史的経過があるにも拘らず、90年代後半になってまたぞろ「21世紀の早い時期という今度はかなりの長期スパンでの民主連合政府の樹立」構想が再度持ち出されてきている。我々は、同じ執行部でのこの厚顔さをどう評するべきであろうか。しかし、党内にはこのように問う
人士もいないみたいであるからして、まともな感性の者が関わりの持てる相手ではなかろうということになる。




(私論.私見)