第1部 序文

 (最新見直し2007.2.7日)

はじめに
事件総括の重要性について
れんだいじさんへ

その1 はじめに

 先の「査問事件」の考察は恐らく私の畢生の労作になったと自負しているが、今のところ誰からも批評を頂けないので拍子抜けしてしまう。マァ元気出して行こう、元来ネアカなので気にしないと思っていたら、宮地さんの共産党問題、社会主義問題を考えるで取り上げて下さり、やはり見ている方もおられるんだなぁと心強くなり、頑張って書き続けていこうと再意欲が出ました。

 私の「査問事件」の考察は、一連の流れをドラマ化させたという点で、たたき台として誰かがせねばならない作業であったと今でも自負しています。党の再生作業の一里塚として是非ご利用賜りますよう改めてお願い申しあげておきます。あの作品が、
党の旗を守ることと現執行部を擁護することとは認識上厳格に区別する必要があるということをモチーフにして書き上げられているということをご理解しつつ読み進めて頂ければ、なお真価が見えてくると思います。

 このことは意外に重要な指摘です。私は今「新左翼20年史」(新泉社)と「戦後史の証言ブント」(批評社)を読んでいます。「新日和見主義事件」の解明の前作業として必要だと思っているからです。気づいていることは、島氏らを初めとした当時の全学連指導部の極めて有能な感性と理論と行動力が今日まさしく再評価されねばならないということです。

 問題は更にあります。そういう彼らにしてみても、日共史の流れを読み誤っている面があるのではないかということです。先行して結成された (後の)革共同史観の影響に引きずられたという面もあったとは思われますが、「50年問題」で党内がドラスティックにママ左派の徳球系執行部からエセ左派の宮顕系執行部に宮廷革命されつつあったという「不義」に対する闘いが組織されておらず、単に日本共産党という看板そのものに対して「反スタ的に反発していった」という経過が認められることです。

 「50年問題」の軋轢による「徳球系所感派」と「宮顕系国際派」学生党員の不毛の対立という恩讐を超えて再団結を獲得した島−生田らの第一次ブントは、新党中央として君臨し始めた宮顕系党中央の反革命指導に嫌気がさして、もはや前衛党頼むに値せずとして自力の反代々木系運動を創出していくことになりました。が、「徳球系所感派」と「宮顕系国際派」の根本的対立を理解しない無知故に、そのことによって宮顕系宮廷革命の党内での進行をより易々と許容させたという面があるのではないのか、という面での考察が未だになされていないように思われるわけです。

 徳球執行部には多々の誤りがあったかも知れない。特に野坂式穏和化路線と徳球式急進路線という二頭立ての運動がジグザグ式に進められていたということと、国際共産主義運動の権威としてのコミンテルン−コミンフォルムの適切でない干渉に対して翻弄されていったという面とか、徳球が今日スパイとして判明させられている野坂に対してそのような認識を持つことなく最後まで連れだった党運動に終始したこととか、いろいろ反省されねばならないことがあったことは事実です。

 とはいえ、後の経過から見て特に徳球系列の深紅の革命精神には一点の曇りがなかったという史実については、歴史的限界性の中において正しく評価継承されるべきではなかったか。結果的には六全協から第七回党大会、第八回党大会を通じて日本左派運動史上最悪の指導部の形成が進行したのではなかったのか、ということが私の視点となっています。

 既に言及したように戦前の「査問事件」の本質を見れば、宮顕の胡散臭さは言い逃れのできない事実としてあるわけであり、「獄中12年」の実際の様子にしても今日の如く神聖化され、その聖域から転向組の非を責める程の実体は何もなく、むしろ疑惑されるべき不自然さを露呈しているのではないのか、徳球が宮顕を忌避していた経過にはかなり根拠があったのではないのか、ということを一刻も早く確認することが党の再生には不可欠になっているのではないでしょうか。私の警鐘乱打はそのことを指摘するという構図になっているわけです。

 この面においては、ブントも「新日和見主義者」たちも未だに正確に認識していないように思われるわけです。なぜこうした読み誤りが起きるのかというと、この認識こそ禁断の扉となっているからなのではなかろうか。党史の重要な経過が意図的にヴェールにくるまれて進行させられており、末端の活動家は意味も分からぬまま目先の運動で消耗させられているのではないでせうか。全ては党運動の在り方に起因しているのではないのか。あるいはまた「鉄の規律」とか 「民主集中制」とか「統一と団結」とかいろいろな言葉で修辞されるような、執行部にフリーハンド、下部には盲目的な党活動が、受け入れる側の方にも「権威拝跪精神」が内在して受容されており、一般党員のこのような没批判精神が要因となって機能しているのではないのか、ということに対する内省がそろそろ必要なのではないでしょうか。

 ここには世上の宗教運動や天皇制信仰と何ら変わりのない精神構造が認められ、科学精神で始まったマルクス主義にしてはおかしな非科学精神が培養されていることを認めないわけにはいきません。「さざ波通信」誌上、党の擁護か現執行部の擁護か判明しない見地からの投稿が何編かなされていることに気づかされています。これは私が党外であるからよく見えるのかもしれない。

 というような観点を込めて次の仕事として「新日和見主義事件」の解明に向かおうと思います。私の同時代的な青春譜でもあるのでノスタルジーなしには語れませんが、いつかはこうして総括しておこうと思い続けてきた長年のテーマであるからして向かわねばなりません。但し、これに本格的に取りかかり始めるとすれば莫大なエネルギーが予想されます。能力的に私自身が耐えきれるかどうかということと仕事の傍らでできるだろうかという不安がありますが、手に負えなくなったら立ち止まり、あるいははしょれば良いからという理屈で立ち向かっていこうと思います。


その2 事件総括の重要性について

 新日和見主義事件は運動としては「双葉の芽」のうちにつぶされたので、 党史から見ればさほど重要な位置を占めない。つまり、たいした事件とはならなかったということである。が、この事件も間違いなく宮顕の号令一下で始められた査問事件であったことを踏まえる必要がある。宮地氏は次のように解析している。

 概要「この事件の共同正犯は3人である。クーデターの主犯宮本顕治、査問統括検事役下司順吉、思想検事役上田耕一郎である」。

 もう一つ。新日和見主義事件は、党指導下の青年学生組織に対して取られた党による極反動的な統制政策であり、これ以来30年間近くにわたって今日にまで至る党指導下の青年学生運動の低迷を作り出した直接の原因である。このことに思いを馳せれば、新日和見主義事件はこの両面において象徴的な反動的政治的事件であったという重要性を帯びており、かなり底流的に重みがあると思われる。

 
一体、宮顕を調べていけば行くほど、こうした「統制好きな面」と「査問好きな面」が浮かび上がってくる。氏の行動が左翼運動の前進的発展に寄与した面について私は少しも知れない。度々お願いしているが、どなたか、いや実はこういう貢献があるというものがあったら本当に教えて欲しい。なぜこんな人物が「無謬」だとか「獄中12年」の神話化人物になるのだろう。不思議というか考えられないことなのだけど、そのからく りについても教えていただけたらありがたい。これはマジで言ってます。私には、インテリジェンスのあるいい大人が何でいとも易々そういう論理を受け入れているのか理解不能なのです。ましてや今日の党路線に批判的な者でさえ、こと宮顕の評価となると絶対的基準で氏を擁護する姿勢が見られるようである。誰かこの現象を整合的に説明してくれないだろうか。

 もとへ。70年安保闘争以降、戦後の社会運動に一定の影響力を持ち続けた青年学生運動のうち、急進主義を担った勢力はより先鋭的方向に引きずられていく ことによっていよいよ大衆から分離し、この間いかなる経過にも惑わされずひたすら愚頓直に党の指導に従ってきていた民青同のその中に僅かに残されていた戦闘的良質部分がこの新日和見主義事件による鉄槌の結果最終的に瓦解させられ、以降この両面からの打撃で今日にまで続く青年運動の低迷を招くに至っているということを考え合わせると、新日和見主義事件は歴史的な政治的重要性を残しているように思われる。

 これを系統的に証明するとなるとかなり大がかりな難事となる。が、突き動かすものがある故に取り組まざるをえない。この作業の結果、今日低迷する青年運動の核心に触れるものが見いだされる筈であり、宮顕式路線の反動的本質がレリーフされる筈である。そういう歴史的な教訓を汲み出すために拙かろうともいざ出航する。


 もっとも事件のこうした受け止め方は個別私のそれであり、同時代のあの仲間達の認識として共有されていたとはとても思えない。それが証拠に、当時の多くの活動家は何が何だか分からないうちに党の一片の公式見解に唯々諾々してしまい、事件はアッという間にうやむやな歴史の彼方に放擲されてしまった。つつがなく今日まで経過させてしまっていることによっても一般的な受け止め方ではないことが裏付けられる。当時の赤旗紙面が手元にないが、私が受けた印象は、既述したこともあると思われるが、批判しやすいように改竄された新日和見主義者なる者が得手勝手に措定され、読む者をして、そんな馬鹿げたことを連中は言っているのかと容易に受け取らせしめる詐術でもって文章構成されたものだったと記憶している。

 翌日のキャンパスで、対立セクトの連中から、「何だぁ、てめえらの思想は。もう少しましかと思っていたが云々」と揶揄されたことを不思議と今日まで覚えている。私の場合、個人的事情も重なって丁度この頃運動から離れていった経過があるが、この時「こんな党をいつまでも相手してられないわ」という思いが忽然と湧いていたように思う。私の場合、55年時の「六全協」後の革共同ないしはブント系運動創出活動家達ほどの能力も情熱もなく、以来左翼運動そのものから遠ざかることとなった。たまたまパソコンを手にした喜びでかっての関心を呼び起こし、たまたまこの「さざ波通信」と出会うまで個人的な生活費闘争に明け暮れつつ今日まで至っている。もっともお陰様でというべきか少しは世間を広く知ったような気もしている。

 そのことはともかく、結果は語る。
新日和見主義事件は、その後の民青同の急速な低迷を招き、青年運動に負の遺産をしっかりと刻み込んだ。このことにつき現執行部党中央は、苦衷を感じているように思われない。むしろ、60年安保闘争・70年安保闘争の経過で見せた青年運動の盛り上がりが勃発することを二度と期待していないようにさえ思われる。青年運動の低迷と新日和見主義事件の関係を関連づけて捉えようとする動きは掣肘されれたまま今日に至っているように思える。

 付言すれば、新日和見主義事件を当時の世相一般に解消したり、ないしは右傾運動化の流れの中で止むを得なかった的に受け止める論調が散見されなくもない。こうした論は、新日和見主義事件の本質をぼかす論調であり、到底納得できない。この事件は、明確に宮顕・不破一派によって引き起こされた作為事件であり、「70年代の遅くない時期での民主連合政府樹立運動」に対する党中央側からの破壊工作であった(なぜ、左様なことを作為するのかの考察はまた別の時に考察したい)という面を見ない限り、真実像は見えてこないと断言したい。

 この新日和見主義事件が脚光を浴びたのは、おおよそ25年後に事件の被主役であった川上徹氏(民青系の再建全学連の初代委員長であり、この当時民青同中執のリーダー格として影響力を持っていた)が、著作「査問」によって事件の真相を自ら世に知らしめたことによってである。ただし、「査問」を読む限り、失礼ながら当人である川上氏にとってさえいまだに事件の深層が理解されていない風がある。私から見ればそう見える。川上氏が明らかにしたことは、「党の正式な査問として、云われるほどの咎もないのにかようなことがされた」という内部告発であって、多くの者もその範囲で理解しようとしているように見える。つまり、問題にされているのは「査問の真相」であって、「事件の深層にあったもの」についてではないように思われる。

 最近新たに油井喜夫氏の「汚名」が出版されたようである。まだ手にしていないが「さざ波通信」によって一部了解している。本来読了してから言うべきことかと思うが、貴重な証言がなされているようである。つまり、新日和見主義事件の査問者側の複数員が何と!公安のスパイであったということがより詳しく明かされている。こんなことは果たして偶然であろうか。さもありなんではないのか。私の推論はほぼ知られていると思うので繰り返さないが、この根本の所から疑惑し直さないと党の再生はありえない、ということが言いたいわけだ。

 今私は戦後の学生運動を通史として読み直している。気づくことは、党の指導からいち早く離れて新党を結成していった数多くの諸セクトも、党を追われた者も自ら出ていった者もこの点では皆な読み誤っているように思われる。ここに私の考究の意味がある。私は、この一連の投稿によって、査問の背景にあったと思われる「事件の深層」について迫ってみようと思う。低迷する今日的左翼の現状打破につながるキーがここに隠されているように思うから。この「深層」を切開することはかなり難しいが、新旧左翼の垣根を越えて評価に耐えうる投稿文を書き上げたいと思う。エラそうに言えるほどのものは何も持ち合わせていないが、場面によってはそういう提言をなさねばならない箇所に出会うことになる予感がしている。そう言うときには割り引いてご理解願いたい。

 まず、戦後の学生運動の概括をしておくことにする。この流れを掴まないと新日和見主義事件の本質が見えてこないと思われるからである。全体をまとめることはできないので、その時々の全学連運動の特質と指導部の党派性に注意を払いながら見ていくことにする。今日の如く雲散霧消させられた学生運動の現況と現代若者のインテリジェンス水準から見えてくることは、当時の学生がいかに天下国家を熱く論じていたのかという良質性である。

 私が思うに、あの当時の活動家が夢見ていたような革命が起ころうが起こるまいが、二十歳前後の頃からの一定時期に自身と社会との関係についてあるいはまた国家とか世界との関連の中で、自身の一個としての存在の社会的関わりを徹底的に見つめておくことは、人間としての弁証法的成長の過程に必要なことなのではなかろうか、ということである。今社会全体にこうした議論が少なくなってきており、こうした風潮にあきたらない思いの者が没政治主義的にオウム真理教やライフ・スペース等の宗教的活動や最近隆盛しつつあるネットワーク商法やその他諸々のコミュニケーション活動に向かっているのではなかろうか、とさえ思われる。

 人間の存在的根源にコミュニケーション活動があり、こうした活動は何時の時代でも何らかの形で立ち現われるものであり、むしろ人の成長過程としての健全性を証左しているものであり、学生運動もまたその一つの表現だったのではなかろうか。一世風靡した学生運動は当時の社会が許容していた「明日の国造りに有益な社会的投資」活動の一環として位置づけられる国益上有益にして民族の活力の源泉のようなものではなかったか、とさえ思われる。私は、今に継続されている韓国・中国等の青年のエネルギッシュな行動に明日のかの国の発展が見えてきそうだという感慨を抱いている。

 ところで、大きく見てそのように意義づけられる学生運動に携わった者も、学生運動に立ち現れた分裂状況に制約されて、自身が属した党派の側からの一方的な視点の了解の仕方でしか学生運動を把握しえていないのではなかろうか。私がそうだからそうであろうということに一般性があるのかどうか分からないが、私はそのように了解している。この辺りをできるだけ多面的にウォッチしてみようと思う。



れんだいじさんへ  木村 1999/12/7

 1冊の本ができあがりそうな投稿を終えて間もなく、また、長編になりそうな投稿にとりかかってみえます。そのバイタリティーには驚きます。訂正すべきところを1つ。川上氏は民青の委員長であったことはありません。 たしか中央常任委員であったと思います。論旨に影響はないと言えばそれまでですが、こうしたところでミソをつけられるのは、れんだいじさんの本意ではなかろうと思いますので、あえてお知らせします。『汚名』は、ぜひお読みになってから投稿を書かれることをお勧めします。筆者は当時の民青同盟静岡県委員長であった人であり、事実関係については 『査問』よりもわかりやすいといえるかもしれません。

(備考/本文は木村さんの指摘に従い本文訂正済みです)

 木村さんのご忠言ありがとうございます。指摘されてみればそうだったですね。川上氏の委員長について民青同と全学連を混同させていました。編集部の方にお願いして早めに訂正しようと思います。これからの投稿につきましてもよろしくご指摘ください。何せ継ぎ接ぎ継ぎ接ぎで経過を追おうとしていますので多々そういう面も生じるかと思われますのでよろしくお願いいたします。実際今回の課題が大きすぎて既に辟易し始めていますが、バックターンも悔しいので書けるところまで追跡していく決意です。『汚名』についても読まねばと思っていますが、私の近くの本屋には何カ所か回りましたが出回っておらずそのままになっています。注文すれば良いだけのことですからこれは言い訳かもしれませんね。

(備考/木村さんのお勧めを受けその後読了しております)




(私論.私見)