「戦後学生運動2、56年から59年まで概略」

 (最新見直し2008.8.11日)

【「戦後学生運動2、56年から60年安保闘争まで概略の概略」】
 戦後直後の運動質が終わり、新たな質としての左派運動が開始されたのが1956年である。これより60年安保闘争直前までの動きを「戦後学生運動2、56年から59年まで概略」として別立てすることにする。

 この時期、戦後左派運動は大きく質的転換する。1955年、共産党が六全協でそれまでの党中央の徳球−伊藤律系を放逐し、戦前来のスパイコンビである宮顕−野坂が支配権を握ると云う有り得べからざる事態が発生した。

 戦後左派運動は、これにより大きく捻じ曲がる。この見立てができない通俗本ばかりが流布されているが役に立たない。宮顕の胡散臭さについては「宮顕考」、野坂については「野坂参三の研究」で検証している。これを読めば、れんだいこの謂いの正しさが確認されよう。れんだいこのこの観点が打ち出されて以降は、歴史の屑箱に入れられるべきだろう。れんだいこは、この観点を既に1999年段階で提起しているが、今日に至るまで無視されている。これが左派圏界隈の頭脳の質であり、学識ぶったり小難しく理論をこね回すのは得意なようだが、総合的俯瞰はお粗末で、つまり案外中身は薄っぺらということになろう。

 もとへ。宮顕は党中央に返り咲くや、急激に右傾化指導で全学連を締め上げ始める。当然、共産党のこの質的変化に反発してこれに反発する動きがでてくることになる。1956年頃から様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼は、どのように展望したのだろうか。

 れんだいこの判ずるところ、「徳球から宮顕への共産党内の宮廷革命」の変調さ告発には向かわず、ソ連式スターリニズム批判へと向かった。これにより、在世中スターリンと抗争し不遇の死を遂げたトロツキー理論即ちトロツキズムが脚光を浴び始めた。
この連中が、「スターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰」を目指し、日本トロツキズム運動を創始し、
日本共産党に変わる真の革命党派として革共同を立ち上げた。

 他方、全学連指導部の主流はこれに合流せず、共産党内反党中央派として自律形成し始めることになった。これを指導したのが「島−生田」ラインであり、追ってブントを立ち上げる。こうして、日本左派運動はこの時期、共産党、革共同、ブントと云う三派が登場する事になった。全学連は、宮顕系日共指導下の民青同系と、その体制内化運動を批判する革共同派、革共同派とは叉違う革命を志向した第1次ブントの三つ巴に分岐し、紆余曲折を辿りながら60年安保闘争を迎えていくことになる。

 れんだいこは、これを全体として見れば、60年安保闘争までは、学生運動がこの三つ巴が互いを認めながら競合し正成長して行く稀有な時代となっていたのではないかと見立てている。1956年から59年までの左派運動は、それ以前の運動よりする或る種運動法則としての必然的な流れであったであろう。但し、それを平板に受け止めてはならない留意すべきことがあるのでコメントしておく。

 第一期の戦後左派運動は、徳球−伊藤律系の指導により政権奪取に向かっていた。その夢は叶えられなかったが、第二期の共産党を指導した宮顕−野坂系指導は端から政権奪取運動を放棄し、体制内化批判運動に向かうことになる。これが最大の違いであり、この体質は日共運動の宿アとして今日まで続いているように思われる。この違いは大きいというべきではなかろうか。

 これに対して、いわゆる新左翼が生まれるのはこの時期であるが、新左翼はどういう運動に向かったか。結論から云うと、宮顕−野坂式体制内化批判運動を否定して体制転覆運動に向かった。しかしながら、体制転覆後の青写真を持たぬままのそれであった。そういう意味では、日共式体制内化批判運動と同床異夢の「政治本質的には無責任」な、「表見的には急進主義ながらも本質的には去勢された運動」でしかなかった、ということになろう。この体質は、戦前も戦後も日本左派運動の宿アとして今日まで続いているように思われる。この違いは大きいというべきではなかろうか。

 してみれば、「体制内政権奪取運動、体制転覆即新政権樹立運動」と云う本来至極真っ当な運動が、意図的か偶然かはともかく一貫して取り組まれる事なく経緯していることになる。このことを見据えながら、「戦後学生運動2、56年から59年まで概略」の動きを検証していく必要があろう。この視座抜きの検証は評論に堕すことになろう。

 2008.1.10日、2008.8.10日再編集 れんだいこ拝 


第2史の第1期

1956年 【戦後左派運動内の大混乱期】
 1956年のこの期の特徴は、この間左右にジグザグする党指導により全学連が瓦解させられた経験から、もはや党の影響を受けることを峻拒しようとする学生党員グループが発生し、こうした連中によって全学連再建運動が胎動していくことになったことに認められる。

 全学連再建グループの背景にあったものは党に対する深い失望であった。宮顕グループによる宮廷革命の進行に対して、れんだいこが今為しているような理論的な批判を為す能力を持たなかったが、「六全協の形式的総括」、「狂気の自己批判運動」の展開等が渦になり、党に対する不信を倍加させることとなった。

 こうした折りの1956.2月、ソ連共産党20回大会でフルシチョフ第一書記による「スターリン批判」が勃発した。これに対し、宮顕が牛耳り始めた党は、「スターリン批判」が提示しているマルクス・レーニン主義運動の根本的見直しや国際共産主義運動の捻じ曲げを対自的に洞察する理論的解明を為し得ず、スターリニズム的個人指導が単に集団指導に訂正されただけのことであり、「我が国では六全協で既に解決済みである」と安心立命的に居直りさえした。そればかりか「スターリン批判」究明の動きを「自由主義」、「清算主義」、「規律違反」等の名目で押さえていくことになった。こうした宮顕式の対応はとうてい先進的学生党員を納得せしめることができなかった。これらの出来事が党の無謬性神話を崩れさせることになった。 

1956年 【反日共系全学連の再建期】
 1956.4月、全学連第8回中委が開かれ、先の「7中委イズム」を「学生の力量を過小評価した日常要求主義」と批判する立場から平和擁護闘争を第一義的に掲げ、全学連再建の基礎をつくることとなった。これを「8中委.9大会路線」と云う。

 「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。

 全国的規模の闘争に取り組む過程で6.9−12日、全学連第9回大会を開催した。大会は、香山委員長、星宮・牧副委員長、高野書記長らの四役を選出した。北大から小野が中執となった。こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった。

 この大会で、この間の闘争を通じての「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」を評価し、この方向での運動強化が確認された。教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた全学連運動として独自に取り組んでいくことになった。

 但し、この時点ではなお党の指導の精神的影響は大きく、原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱を生じさせ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなった。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んでいる。

 56年秋の砂川闘争後、全学連内に内部対立を生じさせた。砂川闘争を指導した東大出身の森田と学連書記長で早大出身の高野が対立した。もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大と旧帝大の雄東大勢との反目も関連していたようでもある。高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。加えて、香山、森田の指導に対する物足りなさが次の流れへと向かうことになる。 

1956年 【ポーランド・ハンガリー事件の衝撃】
 こうした機運の矢先、10−11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。ソ連軍が戦車と共に軍事介入して市民を弾圧する映像が流されてきた。党は、このソ連軍の行動を「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。このことが、学生たちの憤激を呼び党から離反させる強い契機となった。こうした「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を経て、全学連の幹部党員の間には、もはや共産党に見切りをつけて既成の権威の否定から新しいマルクス主義本来の立場に立った新しい運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。 

1956年 【日共系民青同創設される
 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。こうした時期の1956.11月に日本民主青年同盟(民青同)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで宮顕式指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうとし、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになった、と思われる。

第2史の第2期

1957年 【反日共系新左翼(トロツキズム)の潮流発生】
 この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。トロツキーについては「トロツキズム考」、この流れの詳細は「戦後学生運動史第4期その2、トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」に記す。

 1957.1月、この主流がわが国における最初となった日本トロツキスト運動を生み出すこととなった。まず、この当時思想的に近接していた黒寛や内田英世と太田竜らで日本トロツキスト連盟とその機関紙「第4インターナショナル」が発足した。当初は思想同人的サークル集団として発足した。

 日本トロツキスト連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、スターリンが駆逐したトロツキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。その主張を見るに次のように宣言されている。
 「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」(探求)。

 つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して新党運動を創造することが始められていたと云える。
但し、日本トロツキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。

 私が拘ることは以下の点である。この後で確認するが、トロツキズムとは、レーニンによって批判され続けられたほどに幅広の英明な共同戦線型運動論を基調とした左翼運動を目指していたことに特徴が認められる、と思われる。ところが、わが国で始まったトロツキズムは、その理論の鋭さやマルクス主義の斬新な見直しという功の面を評価することにやぶさかではないが、この後の運動展開の追跡で露わになると思われるが、意見の相違を平気で暴力的に解決する風潮を左翼運動内に持ち込んだ罪の面があるようにも思われる。この弊害は党のスターリニズム体質と好一対のものであり、日本の左翼運動の再生のために見据えておかねばならない重要な負の面であることも併せて指摘しておきたい。


 こうしてわが国にも登場することになったトロツキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロツキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐってゴタゴタした対立を見せつつ第4インター日本支部準備会→日本トロツキスト連盟→日本革命的共産主義者同盟(革共同)へと系譜していくことになる。

 新左翼運動をもしトロツキスト呼ばわりするとならば、日本トロツキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう云う意味において、日本トロツキスト連盟の系譜を「純」トロツキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロツキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい(日本トロツキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれており、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが)。 

1957年 【武井系全学連派が宮顕派から離脱、反目に転ずる】

 1957.3月、注目されるべき事件が発生している。約400名の代議員を集めて開かれた第2回東京都党会議は、「六全協」以後の党中央の指導ぶりに対する批判と追求の場となり大混乱に陥った。増田、武井、安東、片山、野田、芝、高山、西尾、山本、志摩らの急進主義者らと各地区委員会から選出されていた革新派らが、党中央の責任を明確にせよと迫り、このため党中央を代表して出席していた野坂、宮顕、春日正一らが壇上で立ち往生させられた。この時の都委員会の選挙では、宮顕の介入を排して元全学連委員長武井らの批判派が都委員に19名中10名、さらに芝寛を都書記に選ぶことになった。

 この経過を見て注目されるべきことがある。かっての全学連結成期の指導者であった武井、安東らが、この時点で東京都党委員になっており、批判派として立ち現れてきていることである。武井、安東らは、この間一貫して宮顕グループと行動を共にしつつ共に徳球系執行部の指導に異議を唱え、党内分裂期にも国際派として宮顕グループと歩調を合わせて来ていたことを考えると、蜜月時代が終わったということであろう。

 この時、若手の武井、安東らが党内反対派の野田グループと協調しつつ、「六全協」、「第7回党大会」の経過で現に進行しつつある宮顕グループ系の宮廷革命その後の反革命的動きに対して反逆し始めていたことが知れる。理論的にも、宮顕が中心となって起草していた「党章草案」の現状規定とか革命展望に対して意見を異にしていった様が見えてくる。

 この時の東京都党会議の決議案は、党指導部への批判や官僚主義への反対などを強く打ち出した。これに対し、宮顕は、「中央の認めない決議は無効だ」として居直っている。宮顕の「民主集中制」論の体質は、こういう危機の場合にその本質を露呈させる。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではなかろう。党員は党中央へのイエスしかできないということになろう。 


1957年 【全学連第10回大会、反日共系全学連主流の誕生】

 6月、全学連10回大会が開かれた。全学連はこの大会で「軌跡の再建」を遂げたと云われる。森田実、島成郎、香山健一、牧衰らが全学連中執、書記局に入り、以後全国学生運動の指導にあたることとなった。この大会で党の指示に従う高野派が敗退し、高野は書記長を辞め、その後は早大を拠点として全学連反主流派のまとめ役となっていく。日本共産党第7回党大会前の頃の動きである。

 この時期新しい活動家が輩出していった。この頃、後の「60年安保闘争」を担う人士が続々と全学連に寄り集うことになった。この経過を見てみると次のように言えるのではなかろうか。この当時のポスト武井時代の急進主義的党員学生活動家は、二つの側面からの闘いへと向かおうとしていた。一つは宮顕系宮廷革命の進行過程に対するアンチの立場の確立であり、後一つは先行して結成された日本トロツキスト連盟の戦闘的学生活動家取込みを通じた全学連への浸透に対する危機感であった。全学連再建派は、これらへの対応ということも要因としつつ懸命に全学連運動の再構築を模索し始めていったようである。こうしてこの時期の党員学生活動家には、全学連再建急進主義派と日本トロツキスト連盟派と民青同派という三方向分離が見られていたことになる。

 ところで、宮顕系党中央は、この後この全学連急進主義グループをトロツキスト呼ばわりしていくことになるが、ならば、この時期党中央が全学連再建に向けて何ら有効に対処しえなかったこと、党の意向を汲んで動いていたと思われる高野派が敗退したことについての指導的責任を自らに問うというのが普通の感性だろうとは思う。が、この御仁からはそういう主体的な反省は聞こえてこない。むしろ、右翼的指導で全学連再建をリードしようとして失敗したという史実だけが残っている。 


1957年 【宮顕系党中央が右翼的「党章草案」発表】

 9月、日共が正式に「党章草案」を発表した。東京都委員会はまっさきに反対決議を出している。「党章草案」が日本独占資本との対決を軽視し、社会主義への道の明確な提起を欠いているなどと批判し、草案に反対の態度を示した。

 但し、この時の文面から見ると、構造改革論に近い見地から批判しているようである。同時に「党章草案」の中に含まれている規約草案に対しても、これは概要「党内民主主義の拡大ではなくて縮小であり、中央、特に中央常任委員会の一方的な権限の拡大である」と批判した。こうした動きはこの時全国各地の党委員会に伝播しており、その様子を感じ取ってか、党は、翌58.1月の第17回拡大中委で1ヶ月後に予定していた第7回党大会を選挙への取り組みを口実に急遽延期することを決定している。 


1957年 革共同の誕生】

 12月、日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同)と改称した。この流れには西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒寛、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった訳である。

 この時点から日本トロツキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。但し、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたということかも知れぬ。 


1957年 【反日共系全学連主流派が新党結成準備に入る】

 他方、自主的に再建された全学連はこの頃党派性を強めていくことになった。12月、島、生田、佐伯の三名は、横浜の佐伯の家で新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。党内分派禁止規律に対する自覚した違反を敢えてなそうとしていたことになる。彼らは、日本トロツキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなるが、この頃トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していったようである。

 ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロツキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行、太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本が貪るように読まれていくことになった。次のように証言されている。

 「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」(戦後史の証言ブント、島)。

 東大細胞の生田浩二、佐伯秀光、冨岡倍雄、青木昌彦、早大の片山○夫、小泉修一ら、関西の星宮らがレーニン−トロツキー路線による国際共産主義運動の見直しに取りかかり、理論展開し始めた。山口一理の論文「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと云われている)と「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜であった。この論文が全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになった。この、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。 


第2史の第3期

1958年 【全学連第11回大会、反日共系全学連主流が指導部を完全掌握】
 この期の特徴は、再建された新左翼系の全学連が急進主義運動に傾斜しつつ支持を受けながら勇躍発展していったことに認められる。もはや公然と党に反旗を翻しつつ独自の学生運動路線の模索へと突き進んでいくことになった時期であり、全学連運動のターニングポイントになる。詳細は、「戦後学生運動史第4期その1、全学連の再建期、反日共系全学連の誕生」、「戦後学生運動史第5期その1、新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」、「戦後学生運動史第5期その2、新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。この運動全体の流れについては、別章【第一次ブント運動考】に記す。

 5.25日、全学連の推進体となっていた反戦学同は第4回全国大会を開催した。全学連大会に先立って開かれたこの大会で、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的、革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も日本社会主義学生同盟(社学同)と変え、反戦学同を発展的に解消させた。これが社学同の第一回大会となった。

 社学同は、「日本独占資本が復活強化した」との評価を前面に出し、反独占闘争を強調したため、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する党中央の「党章草案」と決定的に対立する路線へと踏み出していくことになった。

 続いて5.28−31日に開かれた全学連第11回大会では、党中央に批判的な社学同派が、民青同派(早大・教育大・神戸大など)と乱闘を演じつつこれを圧倒、高野派は退散した。大会は紛糾し、大混乱に陥った。社学同派が新執行部30名の全員を独占して民青同派を右翼反対派として閉め出した。つまり、党中央に忠実な代議員ことごとくを排除し、革共同も含めた反代々木系だけで、指導部を構成したということになる。

 この経過を社学同派から見れば次のようになる。
 「この大会で日共は、党中央寄りの反主流派を援護しながら、全学連主流派の追い落とし工作に策動したが失敗」。
 「既に公然と全学連内反対派の立場に立った高野らは、党中央青年対策部とともに森田の失脚を狙う策謀をめぐらしていたが、大会で多数の賛意を得られない為に様々な議事妨害に出て大会を混乱させていた」。
 「党中央は、早稲田の高野秀夫らのグループを使って、公然たる分裂行動に出てきた」、「執行部提案を否決に追い込み、大会を混乱に導こうとしたこの高野等の行動云々」。

 なお、この流れには革共同の働きかけがあったようで、次のように述べている。
 「全学連11回大会における平和主義者“高野派”との闘争は、わが同盟の組織戦術の最初の大衆的適用の場になった。“右をたたいて左によせろ”、これがわれわれのアイコトバであった。学生党員の多数を反中央に明白に組織しつつ、かれらの中核を日共のワクをつきやぶってわれわれの同盟に組織すべき任務は急をつげていた。拠点校を中心に、下からいかに反対派を組織するか、これがわれわれの課題であった」。

 なお、この時期の全学連指導部は、およそ三派から成り立っていたようである。一つは、森田のグループで、これには全学連委員長の香山を含む中執のかなりのメンバーがいた。もう一つは、都学連と星宮ら関西の一部を中心とする革共同グループがいた。最後が圧倒的支持を得ていた島グループで、東大・早大グループが佐伯と生田を介して暗黙の提携関係にあったようである。

 この大会で唐牛が中執委員に、灰谷、小林が中央委員に選出されており、後の展開から見て北海道学連の進出が注目される。なお、こうした全学連執行部外に民青同高野グループがいたことになる。ただし、これを急進主義と穏和主義の別で見れば、穏和的平和運動的な方向に高野、森田グループが、急進主義ないしは革命運動的な方向へ革共同と島グループが位置しており、反日共系内部が更に二極化されつつあったようである。この時期の全学連運動には、既に押しとどめがたい亀裂が入っていたということでもある。

1958年 【「先駆性理論」の登場】
 この時期全学連主流派は、学生運動理論における「先駆性理論」を創造しているようである。全学連第11回大会は、「学生運動が本質的に社会運動であり、政治闘争の任務を持つ」と規定し、国会デモその他の高度の闘争形態を模索しつつ、「労働運動の同盟軍」として労働者・農民・市民に対する「学生の先駆的役割」を強調し、「層としての学生運動論→労・学提携同盟軍規定論→先駆性理論、反帝闘争路線」の画期的方針を採択した。

 「平和こそ学生の基本的要求であり、平和擁護闘争は学生運動の第一義的任務である。岸反動内閣と対決し、その反動攻勢と徹底的に闘うこと。帝国主義の存在との対決と打倒。労働者階級との提携(同盟軍規定)」を明確にさせ、日共離れを一層推進した。こうして全学連は、「先駆性理論」に基づいて、激しい反安保闘争を展開していくことになった。

 「先駆性理論」とは、「学生が階級闘争の先陣となって労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示する」というものであった。ちなみに、革共同はこの「先駆性理論」とも違う「転換理論」に拠っていた。「転換理論」とは、概要「プロレタリアートと利害関係を同じくする学生の運動は、階級情勢の科学的分析のもとに、プロレタリアート同盟軍として階級闘争の方向に向かわざるを得ないことからして、学生は革命運動を通して自分自身を革命の主体に変革させていくことになる」というものであった。

 どちらもよく似てはいるが、ブントはより感性的行動論的に、革共同はより思弁的組織論的に位置づけているという違いが認められる。こうした学生運動に対する位置づけは、追ってマルクーゼの「ステューデントパワー論」が打ち出されるに及び、その影響を受けて更に「学生こそ革命の主体」という考えにまで発展していくことになる。この背景にあった認識は、前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)とある。  

1958年 【宮顕系党中央の全学連恫喝】
 党中央は、こうした急進主義的政治主義的方向に向かおうとする党員学生活動家に対して次のように批判している。
 「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」。

 これに対し、全学連指導部は次のように自讃している。
 「戦後10年を経て、はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示しているのである」。

 どちらの謂いが正論か、れんだいこには自明である。それにしても、宮顕的批判は、何とも冷酷無残な説教ではなかろうか。日共史の数ある指導者の中で、このような変調指導した者は、宮顕以前には居ないのではなかろうか。些細な事かもしれないが、れんだいこにはこう云う事が気に掛かる。  

1958年 「6.1日共本部占拠事件」
 全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、全学連大会終了の翌日の6.1日、同大会に出席した学生党員代議員約130名を代々木の党本部に集め「全学連大会代議員グループ会議」を開いた。ここで稀代の事件が起こっている。

 党は、全学連を党指導の傘下に引き戻すべく直接指導に乗りだそうとした。そういう思惑で党の幹部出席の上会議が開かれ、党中央が議長を務め党中央主導の議事運営をなそうとしたが、既に党中央に批判的であった学生党員らが一斉に反発し、会議はその運営をめぐって冒頭から紛糾した。積年の憤懣と直前の全学連大会で演じた党中央青対の指導による高野派の動きに不満が爆発したというのが実際であったように思われる。

 こうして会議は冒頭から議長の選出を巡って大混乱となり、全学連主流派と党中央の間に殴り合いが発生した。遂に党の学生対策部員であった津島薫大衆運動部員を吊し上げ、暴行を加える等暴力沙汰を起こした上、鈴木市蔵大衆運動部長の閉会宣言にもかかわらず、学生党員が議長となって紺野与次郎常任幹部会員らの退場を阻みながら議事を進め、「現在の党中央委員会はあまりにも無能力である」。故に、「党の中央委員全員の罷免を要求する及び全学連内の党中央派を除名する」なる決議を採択した。

 この間党中央を代表して出席していた紺野常任幹部会員はまともな応酬による何らの指導性を発することが出来ぬばかりか、会議を有効とする文書に署名させられるという不始末となった。なお、党本部内の出来事であったにも関わらず、追求される中央青対を救出すると称してやって来たのは「あかつき印刷」の労働者たちだけであり、党側からは他には誰もやって来ずという醜態を見せることになった。

 全学連指導部の公然たる党に対する反乱となった。そればかりか、全学連によって「党中央委員全員罷免」なる珍妙な決議が歴史に刻印されたことになる。この瞬間より党は全学連に対するヘゲモニーを失った。これを「全学連代々木事件」(または「6.1日共本部占拠事件」)と云う。


 前代未聞の不祥事発生に仰天したか、党は、ここに至って、これら学生の説得をあきらめ、組織の統制強化に乗り出していくことになった。「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反党反革命分子』である」とみなし、それら学生党員の責任を追及し、同年7月、「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長、中執委星宮、森田実らを党規約違反として3名を除名。土屋源太郎ら13名を党員権制限の厳格処分に附した。年末までに72名が処分された。紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれた。ちなみに紺野は徳球系の残存幹部であったことが注目される。党は、党内反対派の制圧の手段としてこれを徹底的に利用していくことになった。

1958年 島氏が新党結成を公然化させる
 全学連指導部の学生党員たちは、党のこうした処分攻勢を契機として遂に党と袂を分かつこととなった。この間7月に日本共産党第7回党大会が開かれ、島、生田らは「全学連党」代議員として参加した。しかし、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断したまま(家父長的と云われる徳球時代にはあり得なかったやり方である!)、次から次へと宮顕方針が決議されていく大会運営を見て、却って党との決別を深く決意させたようである。

 8.1日、党大会終了の翌々日のこの日、島氏は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを提案した。

第5期(1958年) 「革共同第一次分裂」
 この頃の7月、革共同内で黒寛派対太田龍派が対立し、内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と云う。これにより、少数派であった太田竜氏らのグループが、関東トロツキスト連盟を結成して革共同から分離することとなった。太田は、トロツキーを絶対化し、トロツキズムを純化させる方向で価値判断の基準にする「純粋なトロツキスト」(いわゆる「純トロ」)の立場を主張し、黒寛は「トロツキズムを批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした理論の食い違い、第四インターの評価をめぐる対立、大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いが原因とされている。

 この分裂後、黒寛派が中央書記局を掌握することとなった。次のように凱歌を上げている。
 「革命的マルクス主義の立脚点をあきらかにし、革命的指導部を確立するための闘争は、しかしけっして平坦なものではない。それはまず、トロツキズムをセクト的教条的に獲得しつつ、現実にはパブロ書記局の方針をうのみにしようとする太田竜に人格的表現をみる偏向との闘争として、すすめなければならなかった」。
 概要「太田竜派の活動における政治的力学の無知ないし無視からうまれるこうした組織戦術の誤謬の根底にあるトロツキー・ドグマチズムの誤謬こそは、トロツキーの歴史上の弱点のデフォルメでもあった。かくして太田は、第四インターが世界的にも国内的にもいまだ十分に大衆を獲得していない事実を、『23年以後のロシア・スターリン主義者の反動の圧力の強さ』などに結びつけていく客観主義に転落する。世界革命の一環としての日本革命の実現、ここにこそわれわれのいっさいの価値判断の基準があることを明白にしつつ、われわれはトロツキズムを反スターリン主義→革命的マルクス主義の最尖端としてとらえかえし、マルクス主義を現代的に展開していくものでなければならないであろう」(「革命的マルクス主義とは何か」『探究』第3号参照)。
 「こうした太田の教条的セクト的傾向は、ソ連論をめぐる内田の対馬的傾向との闘争において色こくあらわれた。第5回大会出席後、さらに極端となった太田は、日本における左翼反対派の活動をすべてパブロ分派とのみ直結させようとする陰謀となってあらわれた」。

 
太田派はのちに日本トロツキスト同志会と改称し、後の第四インター日本委員会になる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への「加入戦術」を行い、学生運動民主化協議会(「学民協」)を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。太田氏はその後トロツキズムと決別し、アイヌ解放運動に身を投じ、更にその後「国際金融資本を後ろ盾とするフリーメーソン等々の国際的陰謀組織」の考究に向かい、現在もネオ・シオニズム研究の第一人者となって警鐘乱打し続けている。2008年現在、「太田龍の時事寸評」で健筆を奮っていることでも知られている。

1958年 全学連第12回臨時大会
 「全学連代々木事件」とそれに伴う党の処分の結果、全学連指導部は、完全に党の統制を離れることを決意した。「全学連代々木事件」で除名された学生党員らと島成郎ら20名程度が中心になって、9.4−5日、全学連第12回臨時大会を開いた。反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派)は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」への左展開を宣言した。日本独占資本との対決を明確に宣言する等宮顕系日共の押し進めようとする綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。

 ここに日本共産党は、1948年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。この後全学連主流派に結集する学生党員は、フラクションを結集し、機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。革共同フラクションは、全学連人事に絡んで森田、香山を中央人事からはずせと主張していたようであり、こうした革共同の影響下で路線転換がなされた。

1958年 勤評闘争、警職法闘争
 この間全学連は、8.16日、和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことをはじめ9月頃「勤評闘争」に取り組んでいる。9.15日、「勤評粉砕第一波全国総決起集会」に参加し、東京では約4000名(以下、東京での闘いを基準とする)が文部省を包囲デモ。10−11月には警職法改正法案が突如国会に提出されてきたことを受けて、全学連は、総評などの労働組合とともに非常事態を宣言、最大限の闘いを呼び掛けた。この時社会党、総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」が生まれ、全学連もそのメンバーに入った。

 10.28日、「警職法阻止全国学生総決起集会」に取り組み、労・学4万5000名が結集しデモ。11.5日、警職法阻止全国ゼネストに発展し、全学連4000名が国会前に座り込んだ。1万余の学生と、労働者が国会を包囲した。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、自民党は一ヶ月後に法案採決強行を断念した。この闘争過程は、この時の経験が以降「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。

1958年 宮顕系党中央の全学連批判
 党は、この頃よりこれらの全学連指導部を跳ね上がりの「トロツキスト」と罵倒していくことになった。この当時の文書だと思われるが、(恐らく宮顕の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。
 「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」。

 この言辞は典型的な云い得云い勝ちなものでしかなかろう。なぜなら、「自分の好みで、いい気になって党活動をする」のは自然であり、誰しも「自分の好み」から逃れることが出来ないのに、これを批判するとしたら神ならではの御技しかなかろう。にも拘らず、おのれ一人は「自分の好み」から逃れているように云い為す者こそ臭いと云うべきではなかろうか。それと、「善意な大衆」とは何なんだ。嫌らしいエリート臭、真底での大衆蔑視が鼻持ちならない。

1958年 【第1次ブントの誕生】
 1958.12.10日、先に除名された全学連指導部の学生党員たちの全国のフラク・メンバー約45名(全学連主流派)が中心になって、55年以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党を建設するとして日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも云う)を結成した。ちなみに、ブント(BUNT)とはドイツ語で同盟の意味であり、党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められているようである。

 ブントは次のように宣言し、新左翼党派結成を目指すことになった。
 「組織の前に綱領を!講堂の前に綱領! 全くの小ブルジョアイデオロギーにすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織し、その実践の火の試練の中で真実の綱領を作り上げねばならぬ」(新左翼の20年史。

 その学生組織として社会主義学生同盟(社学同)の結成も確認されたようである。古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島氏がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島、森田、古賀、片山、青木の5名が選出された。島氏は、翌日開かれた全学連大会で学連指導部から退き、ブントの組織創成に専念することになった。学生党員たちに党から分離してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。当時のこのメンバーには、今も中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷、唐牛ら5名が参加している。


 この経過の「定説」は次のように言われている。
 「ブントは、革共同と同じく日本共産党の『六全協』、ソ連共産党の『スターリン批判』などによる共産主義運動の混迷の中から形成された。革共同がトロツキズムを信奉する元日共党員らを中心に組織されたのに対し、ブントは、旧『国際派』系の急進主義的活動家を中心として、トロツキズムを部分的には評価しながらも、全体としては受け入れず、そのため革共同に参加する潮流とは別個の独自の組織をつくった。日本共産党を批判する立場から、同党を離脱した全学連の幹部活動家が中心になって組織されたところに特徴がある」。

 ちなみに、「共産同(ブント)」と名乗ったことについて、島氏は後年次のように述べている。
 「あまりたいした意味はないが、まだ当時、綱領、規約もなく、党という感じではなく、それかといって名がないのも困るので捜したら、エンゲルスの『共産同』というのがあり、これがいちばんよさそうだということできめてしまった」と述べている」(1971.1.29付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」)。

 このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。これについては、「ブント発生史考」に記す。

 ここに、先行した「純」トロツキスト系革共同と並んで、「準」トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが後に新左翼又は極左叉は過激派と言われることになる源流である。この両「純」・「準」トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。

 党の公式的見解からすれば、このブント系もトロツキストであり、あたかも党とは何らの関係も無いかのように十派一からげにされているが、それは宮顕流の御都合主義的な歪曲であり史実は違って上述の通りであるということが知られねばならない。私には、宮顕の反動的な党運営が絡んで、党内急進派がブント系として止むに止まれず巣立ちしていった面もあったと見る。

1958年 全学連第13回臨時大会
 12.13−15日、全学連第13回臨時大会が開かれた。人事が最後まで難航したが、塩川委員長、土屋書記長、清水書記次長、青木情宣部長となった。革共同系とブント系が指導部を争った結果、革共同系が中枢を押さえ、革共同の指導権が確立された大会であったとされている。ブントには革共同系の学生が多数組織的に潜入していたということであるが、こうして、この時革共同が委員長、副委員長、書記長などの三役を独占した。つまり、革共同の全学連への影響力が強まり、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことになる。

 その為、全学連指導部の内部でブントと革共同の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。その後も革共同系とブント系は運動論や革命路線論をめぐっての対立を発生させ、指導権を争っていくことになった。が、その後の史実から見て、多くの学生はブントを支持し流れていったようである。事実は、ブントが革共同系の追い出しを図ったということでもあると思われる。


 「ブント−社学同」の思想の背景にあったものは、日本共産党が日本の革命的政治を担うことができないと断じ、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出であった。こういう観点から、学生運動を労働運動の先駆的同盟軍として位置づけることになった。党の「民族解放民主革命の理論」(アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段階革命論)に基づく「民主主義革命路線」に対して、明確に「社会主義革命路線」を掲げていた。代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国共産党をスターリン主義と断罪、その打倒を掲げ「全世界を獲得せよ」と宣言していた。

 これを図式化すれば次のようになり、党の綱領路線とことごとく対立していたことが判る。平和共存・一国社会主義→世界永続革命、二段階革命→一段階社会主義革命、議会主義→プロレタリア独裁、平和革命→暴力革命、スターリン主義→レーニン主義の復権。


 なお、この時の議案は、革共同のかねてからの主張であった「安保改定=日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」で安保闘争を位置づけていた。しかし、こうした革共同理論に基づく「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになった。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくことを主張し対立するようになった。

(補足論評)ブントに結集した俊英考
 この頃ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)倉石庸、少し後から多田靖・常木守等が常駐化したようである。

 2.15日、機関紙「共産主義」が創刊された。論客として、佐伯(東大卒、山口一理論文執筆他)、青木昌彦(東大卒、現経済学者、姫岡論文執筆)、片山○夫(早大卒、現会社役員)、生田、大瀬振、陶山健一が活躍した。これについては、「ブントに結集した俊英考」に記す。  

1958年 日共のブント撲滅指令
 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。全学連のブント化の動きに対して12.25日、党は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と、全学連指導部の極左主義とトロキツズムの打倒を公言し、「島他7名の除名について」と合わせてブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」紙上の一面トップ全段抜きで幹部会声明を掲載した。こうして党は、社学同を排撃し、一方で党中央委員会の査問を開始し、正月と共に全国の学生細胞に直接中央委員などをさし向け、一斉弾圧を策した。他方で、民青同学生班を強化育成していくこととなった。  

第2史の第4期

1959年 全学連第14回大会
 この期の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ「60年安保闘争」を主導的にリードしていったことに認められる。

 ブントは見る見る組織を拡大し、革共同が主導権を握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。こうして少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系はブント系の指導下に合同し共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつもこの時期までは指導に服していた。

 1959.6.5−8日、約1000名が参加し全学連第14回大会が開かれた。この大会は、ブント、民青同、革共同の三つどもえの激しい争いとなり、先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の過半数を獲得し、主導権をブント系が再び奪い返して決着した。。唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、清水丈夫書記長、加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦、奥田正一(早大)が新執行部となった。中執委員数内訳は、ブントが17、革共同13、民青同0。中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。

1959年 ブント式安保闘争
 こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で、「60年安保闘争」に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら、再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。

 この当時のブントは約1800名で学生が8割を占めていたと云われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。6.25日、第三波統一行動、約1000名結集。労・学2万6000名結集。7.3−5日、「全学連第19中委」が開かれ、「10月ゼネスト」の方針を打ち出す。

 6月頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と言われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。この頃、全学連四役を含む幹部7名が党から除名処分にされている。


 この時の島氏の心境が「戦後史の証言ブント」の中で次のように語られている。
 「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた」。
 「闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる」。
 概要「日本共産党には、『物言えば唇寒し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった。政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」。

 以上のような島氏の発想には、かなりアナーキーなものがあることが知れる。こうしたアナーキー精神の善し悪しは私には分からない。このアナーキー精神と整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらを二者択一するかせざるをえないことになる、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。

 なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」(「戦後史の証言ブント」、星宮)ということになり、島氏が北海道まで説得に行ったと言われている。

1959年 【「黒寛・大川スパイ事件発覚」
 この頃、革共同の代表的指導者・黒寛に纏わる重大背信事件「黒寛・大川スパイ事件」が発生している。黒寛の及ぼした学生運動への影響の大きさに鑑み、これを採り上げておく。「黒寛・大川スパイ事件」とは、時期は特定し無いが58年から59年頃のことと思われるが、流布されている話は次のようなものである。
 概要「大川なる者が、埼玉の民青の情報を入手できる立場を利用して、民青の情報を警察に提供することによって資金を稼いだらどうだろうか、と考えつき、大川はこのことを黒寛に相談したところ、黒寛はそれを支持した。二人は新宿の公衆電話から警視庁公安に電話し、用件を伝えた。公安の方は公衆電話の場所を聞いてすぐ行くからそこで待っていてくれと応答し、かれらはその場所でしばらく待っていた。が、“世界に冠たるマルクス主義者”である黒寛の小心によってか、大川の動揺によってか分からないが、かれらは次第につのってくる反革命的所業の罪深さを抑えることができなくなった。『おい、逃げよう!』といったのはどちらが先かは不明である。かれらは一目散にその場を逃げ出した。これが事件の顛末であるとされている事件である」。

 これについては、「黒寛・大川スパイ事件」で別途検証しておく事にする。 この事件は黒寛の正体が露見した事件であり、れんだいこは、左派運動内に回状が送付されるべきであったと考える。が、当時の革共同は仲間内で処理している。果たして適正対応だったであろうか。れんだいこの不審は消えない。

1959年 「革共同第二次分裂」
 8.26日、革共同は重大な岐路に立ち、第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏はこの間関西派を作り上げ、「黒寛・大川スパイ事件」を問題にしながら関西派が中央書記局を制し革共同内の主導権を獲得するべく画策した。西はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとした。この過程で黒寛の影響下にある探求派が対立し、関西派は結局政治局員であった黒寛を解任した。そこで黒寛は本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り関西派と分離する。これがいわゆる革共同第二次分裂である。

 革共同分裂の底流には「黒寛・大川スパイ事件」を見据えた指導権争いがあったが、関西派も黒寛派も表向き理論闘争を演じた。それによると、西らは第4インター参加に向かい、黒寛らは不参加を主張していたこと等に関する見解的な相違とか運動論をめぐっての確執が原因となっていたようである。この過程で革共同全国委派は、「反帝反スタ主義」を基本テーゼとしたようである。

 詳細は不明であるが、西派は、探求派を空論的非実践主義として批判し、討論を封殺し、無批判的支持を要求するカンパニアを組織した。これに対し、探求派は次のように批判している。
 「全国的な組織討議をいささかも組織することなしに、しかも綱領的反対派の欠席のもとで『決定』されたこの西テーゼは関西派の分派綱領以外のなにものでもない」。
 「綱領的反対派締出しの陰謀は、いよいよ魔女狩りの様相をおびつつある。関西派の書記局通達第三号(9.10日付)は明らかにかれらがわが同盟を関西派分派の徒党と化そうとする決意のもとに、すべての俗物的統制をおし進めつつあることを露骨に表現している」。

 両派は、ソ連論をめぐっても対立していたようである。革共同関西派は「労働者国家無条件擁護、スターリニスト官僚打倒」と主張し、革共同全国委派はこれを修正主義と批判しつつ「反帝反スタ」を基本テーゼとする立場から反論したようである。「スターリニスト官僚打倒を通じて新しい革命党を結成し、これを実体的基礎としたプロレタリア世界革命を実現する。それゆえに、このたたかいは、反帝反スターリニズムであり、その根底的立脚点=革命的立脚点は革命的マルキシズムにある」(組織論序説)、「(関西派は)パブロ=太田修正主義への後退を準備している」とある。

 当時争議化しつつあった三井・三池鉱山闘争に関連して、「炭鉱の国営国管問題」についても対立をもたらしたようである。なお、関西派がほかならぬ関西において学生戦線のヘゲモニーを民青同派に奪われたという状況も関連していたようである。「中央書記局のお膝元で招来したこの無残な敗北から教訓をみちびきだしえぬ客観主義者のみが、よく『探究派』退治に血の道をあげうるのである」とある。これについては、「革共同の第二次分裂考」に記す。




(私論.私見)