補足 | 「革共同の第二次分裂考」 |
(最新見直し2007.7.6日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
その後の左派運動史からみて「革共同の第二次分裂」には非常に重要な史実が秘められていることが判明したので、ここで「革共同の第二次分裂考」としてサイト化しておく。主として「国際革命文庫」の「日本革命的共産主義同盟小史」を活用させていただいた。れんだいこ見解を述べたところ以外は殆どそのまま知識を借用した。最近「「第四インター日本支部はなぜ破綻したのか」がサイトアップされた。これをも読み込むことにする。 本サイトのテーマは、第一に「黒寛・大川事件」の真相解明と「革共同の第二次分裂」との絡みの考察であり、第二に、西派と探求派との理論的対立面の再検討である。事件としてはどちらも小セクト内の出来事であり、大局的に見れば些事である。しかし、探求派が革共同全国委となり、更に中核派と革マル派に分岐しそれぞれが新左翼内のメジャー党派化したという後の展開から見ればここが「最初のレール」であるからして、この淵源を確認しておくことには相応の意味があると云えよう。 2006.10.17日再編集 れんだいこ拝 |
【日本トロツキズム分党史、「革共同第二次分裂」】 | ||
革共同創立メンバーにやや遅れて入党した西京司氏はこの間関西派を作り上げ、この関西派が中央書記局を制し革共同内の主導権を獲得するに至った。この経過にブントの結成が影響していた。その頃、太田龍派が脱落し、黒寛派が指導部に治まっていた。ところが、ブントが結成されたことにより、それまで革共同周辺に結集しつつあった急進主義的活動家の多くがブントに流れ込み、革共同中央書記局に危機を発生させた。この頃、「黒寛ー大川の民青同情報の公安漏洩未遂事件」が発生しており、黒寛指導の責任が問われ、その再編成過程で革共同中央書記局が関西に移され、関西派が革共同を代表するようになった。 西氏は直後、「西テーゼ」の作成に乗り出し、1959.5月、関西派により綱領草案が発表された。「前文」と「第一節 根本任務」、「第二節 過渡的要求の綱領」によって構成されていた。これにより綱領論争が始まった。主として関西派と黒寛グループ間の論争となった。両者は理論及び運動論をめぐって確執した。黒寛は、綱領草案の前文をめぐって西批判を行ない、反帝反スタ論からトロツキズム批判を仕掛けていった。 綱領草案はその前文において世界革命を有機的に構成する三セクターとして、帝国主義先進国における革命、植民地革命、ソ連圏における政治革命をあげていた。「今日帝国主義とたたかい民族的解放をめざす一切の植民地革命をわれわれは無条件に支持する」、「われわれは革命によってかちとられた巨大な成果、労働者国家を帝国主義の攻撃から無条件に擁護する」と述べていたが、黒寛は、「植民地革命の無条件擁護」と「労働者国家の無条件擁護」に反対した。それは、黒寛の反スタ論からの当然の帰結であった。 こうして、西氏を指導者とする関西派と黒寛の影響下にある探求派とが決定的な対立に向うことになった。関西派は次のように述べている。
59.8月、全国大会を前にして関東ビューロー総会が開かれ、この会議で、黒寛派の中心となってきた本多が「田宮テーゼ」をもって綱領草案反対を展開した。これに対して、鎌倉、中野ら関東ビューロー指導部が綱領草案防衛の立場から反撃した。関東ビューローの会議は黒寛派分裂の序曲であった。 8.29日、「西テーゼ」の採択を課題とする革共同第一回全国大会が開かれた。黒寛派は分裂を準備して大会に臨んでいた。関西派は、大会初日において、「黒寛ー大川の民青同情報の公安漏洩未遂事件」(「黒寛・大川スパイ事件問題」)を調査報告し、大川の除名、黒寛の権利停止を提案した。本多を先頭とする黒寛派は、組織処分に引っかけて綱領論争を弾圧し、反対派を排除するものである、といって退場した。その後大会は黒寛、大川の除名を決定した。こうして、関西派は、政治局員であった黒寛を解任した。次のように記されている。
これが、「黒寛はスパイ問題によって除名される」とある背景事情である。「敵権力との驚くべき取引」とあるが、その詳細内容までは分からない。 第1回大会は黒寛派分裂という混乱をのりこえて、綱領を採択決定し、中央委員を選出した。革共同はかくて太田派と黒寛派の二回の分裂を経過して西、岡谷の路線を確立した。革共同は漸く政治的組織としての統一性と均質性をそなえることになった。但し、昇龍の勢いを見せるブントの試練が待ち受けていた。 |
【革共同の西派と黒寛派の理論的相違考】 | |||||
革共同分裂の底流には、西氏らは第4インター参加に向かい、 黒寛らは不参加を主張していたこと等に関する見解的な相違とか運動論をめぐっての確執が原因となっていたようである。この過程で革共同全国委派は、関西派を「純トロツキスト第4インター教条主義」と批判して、「反帝.反スタ主義」を基本テーゼとしたようである。詳細は不明であるが、西京司は、探求派を空論的非実践主義として批判し、討論を封殺し、無批判的支持を要求するカンパニアを組織した。 これに対し、探求派は、次のように応酬している。
両派は、ソ連論をめぐっても対立していたようである。革共同関西派は「労働者国家無条件擁護、スターリニスト官僚打倒」と主張し、革共同全国委派はこれを修正主義と批判しつつ「反帝反スタ」を基本テーゼとする立場から次のように反論している。
当時争議化しつつあった三井・三池鉱山闘争に関連して、「炭鉱の国営国管問題」についても対立をもたらしたようである。全学連運動に対しても、関西派が国会突入方針に反対し、羽田闘争を反労働者的と非難したのに対し、これを関西派の堕落ときめつけた。なお、関西派がほかならぬ関西において学生戦線のヘゲモニーを民青同派に奪われたという状況も関連していたようである。次のように批判している。
革共同全国委は、ブントとの違いも強調していた。全学連の「日中の労働者、学生は日本帝国主義の復活を粉砕せよ」スローガンに対して、左翼スターリン主義と規定し、こうした傾向を粉砕するために闘うとしていた。これにより、全学連内は、①.ブント系、②.日本共産党系、③.革共同関西派系、④.革共同全国委系の四グループの対立が進行していくことになる。 |
【日本トロツキズム運動史、「革共同全国委」結成される】 | |
1959.8.31日、革共同第一回大会で、黒寛が「スパイ行為という階級的裏切り」として除名される。本多は、黒寛と行動を共にし離党し、「反帝・反スターリン主義」をテーゼとする革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)を創設する(「革共同第二次分裂」)。黒寛が議長、本多が書記長に就任する。本多は、機関紙「前進」をみずからガリ版で創刊。以後一貫して機関紙の指導にあたる。「この過程は、同時に、黒田による書記局活動の解体、非組織的逃亡、サークル主義的非実践性とのたたかいとしてはじめてかちとられた」とある(「本多延嘉書記長の略歴」)。
これにより、全学連内は、1.ブント系、2.日本共産党系、3.革共同関西派系、4.革共同全国委系、5・太田龍派の5グループの対立が進行していくことになる。 |
【「革共同第二次分裂」の際の本多の黒寛擁護考】 |
本多の履歴に一片の曇りがあるとすれば、この時の対応ではなかっただろうか。「黒田・大川スパイ問題」は黒寛の公安内通性の馬脚を露した事件であり、これをもって関係を断つべきではなかっただろうか。革共同関西派との抗争は是としても、黒寛との共同性は以降は有り得てはならなかったのではなかろうか。結論的に云えば、この脇の甘さがやがて命取りとなったのではなかろうか。 |
【日本トロツキズム運動史、革共同関西派と全国委の論争】 | |||||
革共同全国委派(黒寛派=探求派)と関西派はその後激しい論争を繰り広げていくことになった。「第4インター参加問題」を廻って、関西派はこれを支持し、 革共同全国委派(黒寛派)は不参加を主張した。この過程で、革共同全国委派(黒寛派)派は、関西派を「純トロツキスト第4インター教条主義」と批判して、「反帝.反スタ主義」を基本テーゼとするようになった。関西派の指導者西京司・氏は、探求派を空論的非実践主義として批判した。これに対し、探求派は、次のように応酬している。
両派は、ソ連論をめぐっても対立した。革共同関西派は、「労働者国家無条件擁護、スターリニスト官僚打倒」と主張し、革共同全国委派はこれを修正主義と批判しつつ「反帝反スタ」を基本テーゼとする立場から次のように反論している。
当時争議化しつつあった三井・三池鉱山闘争に関連して、「炭鉱の国営国管問題」についても対立した。全学連運動に対しても、関西派が国会突入方針に反対し、羽田闘争を反労働者的と非難したのに対し、探求派は、これを関西派の堕落ときめつけた。なお、関西派がほかならぬ関西において学生戦線のヘゲモニーを民青同派に奪われたという状況も関連していたようである。次のように批判している。
革共同全国委は、ブントとの違いも強調していた。全学連の「日中の労働者、学生は日本帝国主義の復活を粉砕せよ」スローガンに対して、左翼スターリン主義と規定し、こうした傾向を粉砕するために闘うとしていた。 |
【その後の「革共同関西派」の歩み】 | ||||
こうして「革共同」は、西、岡谷らの関西派と黒寛らの全国委派に分裂した。正統執行部は関西派であったが、この頃新左翼圏内においてブントの成長が著しく、時流に乗りそこなうことになる。これにつき、次のように総括している。
革共同関西派は、安保闘争というバスにも乗り遅れることになる。全学連14回大会で中執の多数派を握ったブントは、「60年安保闘争」に結成間もない組織の全力を挙げて急進主義的に取り組んでいくが、これに対して関西派は次のように対応した。
例えば次のような主張に革共同関西派の立場が端的に表現されている。
ブントが急進主義的に安保闘争に取組み、政治局面を流動化させたことにつき、次のように総括している。
ブントの小ブル急進主義的傾向に対して、革共同関西派の指導者・西、岡谷は激しい批判を早くから展開していた。すでにその批判は58.9月の奈良闘争から開始していた。奈良闘争総括は未だ端初であった。ブントの戦術極左と革共同関西派の戦術日和見の対立は、定保闘争を迎えて全面化していった。 |
【太田龍派の歩み】 |
他方、太田竜を指導者とするICPはジグザグを描く。安保闘争に入る前、ICPは社会党の加入活動を学民協として展開するがこの学民協の路線は階級的路線ではあったが学生運動としては右翼路線として登場した。ところが、11.27日の国会突入が転機となって、太田竜は極左へと転換する。ICPの学生運動は59年秋からはそれまでの革共同関西派との一定の連携をも絶ち、革共同関西派に対して日和見主義批判を展開し、ブントの戦術を支持し、これに従い、同一行動をとることとなった。 |
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西、岡谷の小ブル急進主義批判の背景には、「共産党の50年分裂」のトラウマがあった。当時、国際派に所属した西、岡谷は、所感派による火炎ビン闘争、極左冒険主義に対して強い反対の立場を採っていた。1955年の六全協の「宮顕的徳球系党中央の極左冒険主義批判」」は、西、岡谷の観点でもあった。その西、岡谷からすれば、奈良闘争での学生の戦術的ハネ上りは本質的には火炎ビン闘争の誤りに通じるものであるとしか考えられなかった。 しかし、50年代末以来の日本学生運動がもった急進主義は、小ブル急進主義という性格規定によって全面的に否定されるべき性質の急進主義であっただろうか。日共の50年代初期の極左冒険主義は、朝鮮動乱に伴う国際共産主義運動の要請と絡んでおり、結果的に大衆から切断され、孤立させられ、日共の自滅に向う戦術極左主義でしかなかったが、60年安保に到る学生運動の急進化は、新しい客観的情勢に支えられており、それを闘う主体的条件が存在するなかでの急進化であったのではないのか。 新しい客観的情勢とは、国際的には冷戦構造の崩壊期から米ソ平和共存体制へ移行する過渡的時期に向かっており、これをどう捉えるかかなり難しい理論的諸問題を発生させていた。なかんずくイギリス・フランス帝国主義の衰退、アメリカ帝国主義の一極支配化が始まっていた。その間隙を縫うようにしてアルジェリア革命、キューバ革命を先頭とする植民地解放革命の前進があり、韓国では李承晩打倒の反独裁闘争、トルコの学生を中心とする反独裁闘争などが登場するという歴史的転機を背景としていた。 第二に国内情勢では、55年から60年に到る期間、日本経済は奇跡的復興に成功し、新たな経済成長に向かっていた。支配階級は保守合同を契機として自民党を生み出し、支配基盤を強化しつつあった。時の岸政権は、自民党内のハト派対タカ派抗争に於ける戦後タカ派のドンとして登場しており、日米同盟下での自立を歌い文句にしながら実質的には日帝の傭兵化に向かい始めるという錯綜の中で、戦後憲法秩序の改変をもくろみつつあった。安保改定はその仕上げの位置にあった。 このような国際、国内情勢が学生たちに連続的に危機感を与えるところとなった。そしてこの危機感が大衆的規模で学生の急進的エネルギーを湧きたたせたていた。主体的には、学生たちの意識と行動が既成のスターリン主義的共産党運動が負の運動でしかないと捉え始めており、新左翼運動の創造を要請しつつあった。70年の「造反有理」が資本主義社会の管理体制への叛乱のスローガンとして提起されたのに対して、50年代末の学生たちの造反は、スターリニズムへの糾弾であり、自己を一刻でも早くスターリニズムの呪縛から解き放とうとする欲求であった。スターリニズムが革命を“裏切って”きたことを見据え、革命を裏切らない運動の創出と云う使命感と自負によって裏打ちされていた。従って、日和見主義は唾棄すべき対象であった。意識は急進的かつ戦闘的であった。このような50年代末の学生活動家たちの意識と行動を規定した諸条件のなかで、革共同関西派の60年安保闘争の戦術の是非が検討されるべきであろう。 この頃、学生たちの意識は国際情勢に敏感に反応していた。情勢をたえず世界全体において把握し分析しようとした。従って、この頃の自治会の議案書はなべて国際情勢の分析からはじめられていた。それほど運動水準が高かったということになる。これを思えば、学生のハネ上りは、日共の50年代初頭の極左冒険主義とは本質的に異った性格の急進性であった。西、岡谷の反急進主義の立場にはかっての共産党の極左冒険主義のイメージと第一次ブントの戦術極左をダブらせて把握し批判するという方法に負っており、ある種のアナクロニズムに陥っていた。 |
【安保、三池闘争、主要には安保闘争におけるブントと革共同関西派の論争考】 | ||
以上のことを前提として、安保、三池闘争、主要には安保闘争におけるブントと革共同関西派の論争をたどってみる。58.9月の奈良闘争の極左戦術を見た西、岡谷の関西の指導部は、京都の学生指導メンバーを呼び、かっての共産党の火炎ビン闘争と同じではないか、学生運動の階級路線への転換はそのような極左戦術では成功しない、と批判し、学生メンバーの自己批判を要求した。当初、学生メンバーは西、岡谷に抵抗したが結局屈服して西、岡谷の極左主義批判を受け入れた。 全学連において、革共同関西派系の学生メンバーは、自分たちの担った闘争を自分たちの手で否定し、自己批判していった。その後ブントに行った非革共同関西派系は奈良闘争を高く評価するという奇妙な関係が生れた。革共同関西派の極左戦術批判は単に奈良闘争だけではなく、安保闘争の期間中急進主義による戦術極左で突っ走ったブントと深刻な対立を生むことになる。 奈良闘争に対する革共同関西派の自己批判は全国的に革共同関西派の学生に対する影響の拡大を停止させた。この自己批判は革共同が戦術的穏健日和見主義ではないかというイメージを学生たちの内部につくり出す契機を与えた。当時、6.1事件から共産党7回大会を経過して理論的にもスターリニズムから離れて左を志向し、組織的にも別党コースへ向おうとする学生メンバーにとって、戦術上の穏健主義は大きな反発の要因として働いた。奈良闘争の総括は学生の中でJRが守勢に転じざるを得ない契機をつくりだしたといえる。 59年の学生運動はブントと革共同関西派のヘゲモニー争いの展開するなかで、大衆の急進的な反安保のエネルギーの昂揚に、急進主義、戦術突出主義をもってのぞんだブントが全学連のヘゲモニーを握っていく過程であった。3月のブント全国細胞代表者会議は、革共同関西派系メンバーのブントからの追放を決議し、6月のブント第2回大会は革共同を排除して開かれた。この大会直後の全学連第14回大会は方針は革共同関西派、人事はブントといわれるように、勤評闘争を果敢に闘って学生運動の階級路線の転換を推進してきた塩川―土屋―鬼塚らの執行部体制にかわって、唐牛委員長ー清水書記長の体制が成立した。ブントは8月に第2回大会を開いて安保闘争を最重要課題として前面にかかげることを決定する。 ブントの安保闘争方針は、安保改定の牙城国会を標的として大カンパニアを組織し、国会の突入をも目論むものであった。ブルジョア議会の動向に即応しつつ、政治カンパニアを連続させて、このカンパニアを戦術的に一揆主義で押し上げていこうとした。ブントは徹頭徹尾この方針のもとで安保に取組んだ。だから、大衆がブルジョア議会に押しよせ、岸政府の反民主主義的暴挙に怒りを集中した。いま考えると信じられないことであるが、国会通用門の対面にある首相官邸は安保闘争の初期はまったく無防備であり、国会が蟻一匹入れない厳重警戒体制のときも、首相官邸は守衛が二人いるだけであった。ブントは、これを攻撃することに成功したが、その先の戦略を持ち合わせていなかった。 革共同関西派とブントの安保闘争をめぐる対立は、革共同関西派が安保闘争を労働者階級の反合理化闘争(その最先端としての三池闘争)や春闘と結合して、労働者階級の生産点実力闘争を軸にして闘うべきである、学生運動もそのような闘争を実現するために闘うべきであると主張したことに対して、ブントは大衆の平和主義に依拠し、政治カンパニアの突撃によって、安保を阻止するという先にのべた方針に立つことから生れた。革共同関西派の方針はこの間推進してきた学生運動の転換路線からの当然の帰結であり、ブント方針は転換前の“先駆性論”への復帰を意味していた。したがって、全学連内に、革共同関西派が戦術的には日和見主義的であるという印象を与えることとなった。 たしかに、労働者階級との同盟をめざした階級路線への労生運動の転換は積極的な正しい方針であったといえる。したがって、勤評闘争や道徳講習会闘争で日教組と共闘するとき、日教組の闘争と関係なく、あるいはその戦術と対立して、学生が戦術上極左的に突出することは、労学同盟を自ら否定することであり、労働者階級の生産点実力闘争への方向をむしろ阻害する役割を果す危険があった。したがって、労学同盟の学生運動の立場は、労働者階級の状況に深く規定されるという性格があった。 もちろん、革共同関西派にとって、急進化する学生運動と、右傾化する労働運動との間にギャップが拡大していることは自覚していた。例えば次の文章はそれを示している。
具体的には労学共闘の経験としての勤評闘争においても、各県教組の闘争を支援しこれに連帯する学生自治会のストライキ闘争が、教組の戦術ダウン、右への転換によってそれに追随することなく、独自の力学をもって突入してしまわざるを得ないという矛盾は回避できなかったのである。われわれはそれを福島奈良をはじめ多くの県で経験したのである。勤評闘争においてみられた労働組合の右路線と、学生の戦術上の左路線の対立という矛盾は勤評においては未だ部分的であったといえよう。しかも、学生たちは日教組がまったく闘争を回避して右より路線を選んだのではなく、必死に闘った結果として後退させられたことを大衆的に目撃しているがゆえに、勤評での労学共闘の矛盾は、学生運動の転換を阻害することとしては働かなかったのである。 ブントは労働者階級の闘わない状況を、一揆主義の戦術突破で衝撃を与えるという、学生運動先駆性論に基づき実践した。急進主義に純化する方向で安保闘争に取組んでいった。ブントのこの急進主義と革共同の階級路線は次第に対立を深め、ついに学生運動の大衆闘争次元にまで分裂がすすんでいくことになった。 ブントが試みた戦術的急進主義の最初は59.11.27日の国会突入闘争であった。11.27を契機として、革共同関西派とブントとの学生運動における対立は理論的次元から、具体的実践の次元に転換したのである。11.27国会突入はたしかに大衆闘争に衝撃を与えた。安保闘争が重大な闘争課題としてあるということを学生の突出によって意識しはじめたことは確かである。11.27は学生そのものに衝撃を与え学生の急進化の波を生みだしていった。この学生の急進化したエネルギーが六〇年安保闘争の主役を演ずることになるのであり、ブントはその急進化の波に乗って学生運動のヘゲモニーを掌握する。 急進主義そのものを戦術的突出で組織するブントの学生運動は、事実上、大衆組織としての学生自治会を否定して、急進的活動家に限定されたメンバーが、大衆と切断されることによってより戦術をエスカレートしていくという方式をつくり出した。学生自治会は学生大衆を総体として動員していくことよりも、闘争に利用する対象になってしまった。 11.27はブントが指導した側面はもちろんあるが、闘争の性格は学生大衆のブルジョア議会への怒りが自然発生的に爆発したことによってつくられた闘争であるというべきである。したがって、11.27はブントが党派的に戦術左翼で突っ走ったということをふくみつつも、学生の戦闘性が、社会党、民同、共産党の安保国民会議の枠を公然と突破し、のりこえたことを意味していた。 ブントは11.27の“成果”の上に、岸首相が安保改訂調印に渡米するのを羽田で実力阻止するという戦術を安保国民会議において主張し、実行していく。当初、国民会議は羽田動員の方針を決定していた。しかし、11.27の事態が、すなわち、社共、民同の戦術統制の枠が大衆によって突破される可能性をかれらは恐れた。社共・民同は羽田動員を中止し、求心デモに戦術を切換えた。 革共同関西派は国民会議が中止した以上、学生単独の羽田闘争は極左戦術であるとして、羽田動員のブントの方針に反対した。このときの革共同の指導のもとにあった社学同左翼反対派中央委員会のビラは次のようにいっている。
この主張はきわめて抽象的であり行動方針になっていなかったといえよう。労働者が力強く前進して、ブルジョアジーに後迅を強要して安保を阻止する、という方針は、岸渡米という情勢に対応する戦術と行動の方針ではなかったのである。求心デモはそれ自身としては羽田動員を中止することの言い訳にすぎなかったのである。すなわち、革共同関西派が労学共闘の路線というそれ自身としては正しい方針を防衛し貫徹しようとするためには、どうしてもそれを阻害する既成指導部の裏切りをどう突破するのかという問題が不可避のこととして提起され、JRはこのことに正しくかつ有効に応えられなかったというべきであろう。 ブントは1.16羽田動員に突入し、空港ロビーを一時占拠し、多数の逮捕者を出した。11.27は大衆の自然発生性が色濃く支配していたが、1.16はまったくの限定された活動家動員で、ブントの戦術突出主義そのものの性格をもって闘われた。3月、全学連22中委においてブントは革共同関西派系の8人の中執を罷免し、ブントのメンバーでかえるという、学生運動における分裂のイニシァチブを発揮した。革共同関西派系の8中執罷免は全学連規約上も正当化できない不当な処置であるが、8中執罷免はブントによる革共同関西派への党派攻撃であったが、ブントによるこのような規約無視の行為は、やがて大衆組織そのものの破壊をもたらす方向へ純化されていくのである。 ブントは中執からのJRの排除につづいて、全学連第15回大会を自派単独で支配しようとして革共同関西派系と民青系の代議員を排除して大会を強行した。ブントは大衆組織に分裂を貫徹させたのである。8中執罷免から15回大会での反対派排除に至るブントの全学連という大衆組織の党派支配の路線は60年代から70年において拡大再生産される歴史的事実をわれわれは目撃することになる。 15回大会から排除された革共同関西派系の自治会と後に全自連を形成する共産党系の自治会の代議員は合同の集会を開いて、15回大会の無効、正規の大会の早期開催を要求する決議を行った。この段階に到達するとブントの全学連支配はスターリニズム的で、もはや大衆組織を指導するというよりは、大衆組織を私物化したというべきであろう。 われわれはここで注意しておかねばならない。60年安保闘争とブントの指導性の問題についてである。たしかに、6月に到るまでブントは学生を動員して警察権力との衝突をくり返し、それか情勢の焦点ともなり、安保国民会議を左から追いつめる役割を果したのであるが、岸政府が強行採決をして突破しようとしたとき、大衆の憤激は自然発生的に爆発したのである。まさに大衆が国会に押し寄せたとき、ブントはもはや戦術突破をもって自己の党派性を表現できなくなってしまった。ブントは大衆の民主主義的激昂の波のなかでその政治性を溶解させられてしまったのである。 革共同関西派が戦術上誤った立場をとったことによってブントが正しかったということはまったく意味していない。革共同関西派の誤りはブントに対して誤ったのではなくて、当時の学生の急進性の評価と、学生運動と労働運動の間に埋め得ないギャップがあり、この状況において学生運動の行動方針はどうあるべきかを提起しきれずに、一般的原則性を主張したのみに帰するのである。 安保闘争はその最終局面で大衆の昂揚が見られたが、このエネルギーを政府権力と対決する方向へ組織する指導はどこからも与えられなかった。安保が終了すると昂揚した大衆の波は急速に退いていった。安保闘争後、各組織は分解の季節を迎えた。すでにICPは多数派と少数派に分裂してしまった。革共同関西派も政治的分解の時期に突入していった。 |
【太田派ICPの分裂とJRへの回帰】 |
59年秋、学生運動が安保闘争をもって再び急進化していくとICPの加入活動はこの急進化の圧力を受けて危機に陥った。学民協路線は、それがどうプロレタリア的であるといっても、学生運動としては右翼路線としてしか位置することができなかった。11.27における国会突入闘争は学民協を事実上崩壊させた。急進主義の圧力におされて、佐々木は、学民協路線を右翼日和見主義、経済主義とののしり、学民協から脱退した。佐々木がICPと社会党を結ぶ唯一人の残された人格であったから、佐々木の脱退によって学民協は社会党内で孤児となった。危機は佐々木の脱退ではすまされなかった。学民協路線は、学生が大衆的に昂揚する状況のなかで訴求力を持たなくなった。太田は、学民協の総括をすることもなく極左へ乗り移り、反戦行動委員会を組織して議会主義力ンパニアでなく軍事施設を攻撃せよと叫びだした。太田を絶対無謬の指導者として、かれのクルクルと変る方針にも信頼しつづけて従ってきたICPの指導的メンバーが遂に太田批判を開始し始めた。 |
【太田派ICP内部の理論闘争その1】 | |||||||||||||||||||||||||||||
ICPは、民主的中央集権の体制に移行して、学習会や討論会を精力的に開始した。この努力は、JRに好感をもって迎えられた。
この努力のなかで、当初、三多摩のICPメンバーが、第四インターナショナリストとして必要な政治意識を真に保持しているのかどうかを危ぶみ、全メンバーを無条件に統一組織に受け入れるわけにはいかない、としたJR側の懸念は、一応ぬぐわれた。しかし、この懸念が何の根拠もないものではなかったことは、その後の事態が示す通りであろう。 条件の第三点については、大会決定の執行部構成が、全体としてはJRが多数、在京メンバーではICPが多数となることによって、解決された。統一のための最後の作業は、JR機関紙「世界革命」の共同編集(第一一二号、六四・一〇・三〇)から開始された。一一・三〇、統一協定案が、太田、酒井によって合意され、両組織の内部討論にかけられることになった。統一協定案は次のようなものであった。
ICPは、太田の早期統一方針でかたまっており、内部になんの異論もなく、六四年十二月に第十三回総会をひらいて満場一致で統一協定を確認した。 |
【太田派ICP内部の理論闘争その2】 | |||
JRは、この当時、基本的には三つの見解に分れていた。この三つの見解は、それぞれ、東北、関東、関西の傾向として存在していた。情勢のとらえ方において、東北は多角的平和共存論の展望をうち出していた。関東はアジア革命―植民地革命の発展にポイントを置いて情勢をとらえていた。これにたいし関西は、独占資本主義の肥大化に問題の焦点をあて、ここから、構造改革理論の批判的摂取の必要を説いた。情勢のとらえ方と社会党、労働運動の地方的性格に規定されて、加入活動のすすめ方においても三地方の見解はまた異なっていた。関東と東北は、佐々木派への加入を主張したのに対し、関西は江田派への加入を主張していた。 統一の問題にかんしては、関東は、三多摩を中心とする加入活動上の実践的協力が深まっていることを反映して、もっとも熱心であった。すでに三多摩では、JR、ICPの合同会議がもたれ、路線をめぐる論争が開始されていた。とくに、統一労組運動が壁にぶつかりはじめていた六四年からは、ICPの中小企業労働運動中心主義の再検討がおこなわれ、またJRの側からはアジア革命派としてICPに接近しつつあった。こうして関東では統一の条件は成熟していた。関西は統一に賛成であった。それは主として第四インターナショナルの統一にもとずく、原則的な支持であった。これにたいして東北は、太田路線にたいする警戒がもっとも強く、頑強に早期統一に反対した。 十二月に開かれた東北地方総会は、①主体的にJRCLの理論的討論が整理不十分である、②対立点が明確化されておらず、またICPの総括、JRCLの総括双方が留保されるのは非原則的である、③安保暴動論の傾向は何ら克服されておらず、原潜闘争において復活している、との理由で、ICPとの早期統一に満場一致で反対した。 JRの討論は、一月中央委員会にもち込まれたが、ここでも決定を見ることはできなかった。二月二八日、JRは第六回大会をひらいた。東北地方委員会は、時期尚早の統一にはあくまでも反対するが、大会決定には服するとの態度を決めてきた。大会は、統一協定を多数決によって採択した。 JR第六回大会は、閉会し、すぐに統一大会、(それは、第四インターナショナル日本支部結成大会と称された)に移行した。大会は宣言と新指導部を選出した。
大会は、中央執行委員長に林(太田竜)、書記長に酒井を選出して終った。一年半の交渉と討論の後に、統一が達成したのである。だがこの統一は、新しい分裂の開幕でもあった。 |
(私論.私見)