1958年 【戦後学生運動第5期その1
(新左翼系=ブント・革共同)全学連の自立発展期

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.4日

 これより前は、「第4期その2、トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1958年のこの辺りから戦後学生運動の第5期に入ったと考えられる。この期辺りから内容が濃くなり、その分概括が難しくなる。

 この期の特徴は、再建された新左翼系の全学連が急進主義運動に傾斜しつつ支持を受けながら勇躍発展していったことに認められる。もはや公然と日共党中央に反旗を翻しつつ独自の学生運動路線の模索へと突き進んでいくことになった。これが全学連運動のターニングポイントになる。 

 1958.1月に発表されな山口一理の論文「十月革命の道とわれわれの道」は学生活動家に大きな衝撃を与えた。この山口論文は日共東大細胞の機関誌「マルクス・レーニン主義・第9号」に掲載され、全国の学生党員をはじめ学生活動家にむさぼり読まれた。山口論文はスターリン批判を中心テーマとして、綱領論争のちっぽけな枠組を突破して、ロシア十月革命の教訓をもう一度学ぶべきであると主張し、いまやレーニンかトロツキーか、という図式でレーニンとトロツキーを対立させるべきでなく、レーニンかスターリンか、と問うべきであると言い放った。山口論文はこうしてスターリンをレーニン主義とは対立するものとして位置づけ、レーニン―スターリンという歴史の継承を否定してボルシェビキの伝統はレーニン―トロツキーに引き継がれていると暗に示していた。

 山口一理は共産党東大細胞の指導メンバーで自然弁証法研究会に所属していたが、太田竜や黒田寛一は何度か山口と会談していた。したがって、山口論文はトロツキズムの影響が拡大していく過程のひとつの指標であるといえよう。

 これまでのスターリン批判の水準を山口論文は飛躍させることによって、学生党員たちのスターリニズムからの離反を一挙に促進させる役割を果した。山口論文の出現によって“トロツキー・タブー”は決定的に学生の間では破壊された。学生たちは先を争って山西英一が訳したトロツキーの著作に飛びついていった。そしてトロツキーの著作は、学生たちに驚天動地ともいうべき衝撃を与えずにはおかなかった。はじめてトロツキーによって知らされたスターリニズムの歴史的な裏切りと犯罪行為は、学生たちの慎激をいや増していった。

 こうして、57年秋から京都府学連指導部には西からの工作が進行してトロツキズムが浸透していったが、東京においても山口論文の出現によってトロツキズムの禁忌は解かれ、学生たちの間では“公認”されたのである。山口論文の影響は単に東京にのみ限定されず全国的に学生の間では広がっていき全体として学生党員が日本共産党から分裂していくための思想的準備となったのである。

 しかし同じトロツキズムの浸透といっても、関西においては組織工作を伴っていたが、東京ではそれがなかったのである。それが今後のトロツキズム運動を規定することとなる。

 東大細胞の機関誌に山口論文が掲載された時期に時を同じくして、京都では沢村論文が「京都府党報」に発表された。沢村論文は同志西の当時における共産党での組織名にちなんで呼称された論文であるが、沢村論文はもっと具体的に革共同への学生メンバーの獲得という成果をもたらしたのである。

 沢村義雄(=西京司)は先に述べた共産党の綱領論争に対してトロツキズムの立場から党章草案の批判として「レーニン主義の綱領のために」という、いわゆる沢村論文を著わしたのである。沢村論文は党章草案の中に流れているスターリニズムの理論を、平和主義、一国主義、民族主義、議会主義の理論として断定し、完膚なきまでに論破した。

 沢村論文はトロツキズムによってスターリニズムの綱領を全面的に批判したことによって、山口論文の抽象的な問題提起をはるかに越えた次元で学生たちに影響を与えることとなった。すなわち、山口論文が十月革命への復帰という一般的提起にとどまり、国際革命運動の歴史との結合、すなわちトロツキズム、第四インターナショナルの歴史との現在的な結合をめざすよりも、過去の歴史にさかのぼり、それ以降をスターリンの裏切りの歴史として把握する誤りの側面をもっていたのにくらべ、トロツキスト組織の一員として西は現実のスターリニスト党の綱領を批判することを通して、トロツキズムの立場を展開していった。

 57年の年末に執筆された沢村論文は、西が京都府委員であるために「府党報」に発表されることになった。府委員はみんな西の沢村論文を「府党報」に掲載することに反対しなかったという。58.1月の「府党報」は沢村論文を掲載した。はじめのうち、この論文は共産党内のしかも京都という地区に限定されてしか配付されなかったが、京都の革共同系学生メンバーは沢村論文を積極的に全国の学生に持ち込んだ。

 例えば、立命館のメンバーで福島出身のSは沢村論文を東北大の今野に渡した。今野はこれを一読して共感し増刷りして、仙台、福島、山形などの東北の学生グループに配付したのである。こうして、かねてからの星宮の工作とあいまって、沢村論文は学生メンバーのなかで全国的に革共同の影響を拡大するテコとなったのである。

 しかし、不思議なことに沢村論文は学生運動の中心地であった東京の学生たちには何故か持込まれなかった。東京の学生たちがこの論文を見たのは五九年であった。塩川や鬼塚らJR系の東京の指導的メンバーも、ブント結成前後の流動的時期に、この論文を活用できなかったのである。沢村論文が東京に浸透していたならば、東京におけるトロツキズムと中間主義のヘゲモニー争いに大きな変化を与えていたであろう。


投稿№ 題名
その7 第5期(58年)【新左翼系全学連の自律発展期】
その8 第5期(59年)【ブント執行部の確立と全学連運動の突出化】
その9 第5期(60年)【ブント系全学連の満展開と民青同系の分離期】

【1958年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1958年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.1日、日本、国連安全保障理事会の非常任理事国に。


 1.10日、都学連、沖縄米軍の選挙干渉中止を要求して米大使館に抗議。


 1.15日、私学授業料値上げ反対共闘会議開催。


 1.21-23日、全学連第15回中央委〔中央労政会館〕、勤評闘争強化・日本の核ミサイル基地化反対等決定。


 1.24日、全学連私学対策協議会開催、勤評反対闘争方針等を協議。


 1月、東大細胞総会(細胞キャップ・生田)でプロレタリア世界革命をぶつ。第1回フラクション研究会を横浜で、早大細胞を含め開催。続いて2回フラクション研究会が開かれている。2月、第3回フラク研究会。3月、東大細胞総会。この時、プロレタリア世界革命は当然のこととされていた。


 1月、「反戦旗情報」復刊第3号(執筆:鈴木道成、杉田信雄、鈴木啓一ほか)。


 2.3日、全教学協、日教組へ勤評闘争で共闘申入れ決議。


 2.5日、反戦学同乗京都委・日共東京都委共催・全都学生活動家会議。


 2.7日、全学連中執委、信州大教員資格評偏格下げ問題は東大・東京学大・京都学大・大阪学大の学生処分と同一問題として教育学部の闘争に支援決定。


 2.14日、全学連・反戦学同、フラソスのチュニジア爆撃で仏大使館に抗議デモ。


 2.14日、産別会議が解散している。


 2.27日、総評・原水協等二十教団体で新島ミサイル基地反対支援団体協議会結成、全学連・都学連参加。


 2月、第3回フラクション研究会が開かれている。


 3.1日、ビキニ被災四周年・エニウェトク水爆実験阻止AA諸国民共同行動デ-中央集会〔共立講堂〕に学生含め三千七百名参加。


 3.21日、全学連、ヨーロッパの原水禁運動促進のため全青婦・日青協等で代表団結成、志水中執羽田出発。


 3.28-31日、都学連、日教組支援で都教育庁内デモ・坐り込みに連日参加。


 3.30-4.1日、反戦学同第11回全国委、アルジェリア学生・FLNへ支援を決議する。4回大会で社会主義学生同盟に改組決定を決議する。


 3.30日、国立競技場完成。


【日共東大細胞四月総会決議】

 3月、東大細胞総会が開かれ、山口論文に則った決議を掲げた。目前に迫った6月の日共第7回大会に向けて非妥協的な党内闘争を闘う決意の表明となった。「日共東大細胞四月総会決議」(「政経時報」第31号、1958.4月)は次のように記している。

 「われわれは国際帝国主義者との闘争のために、極東の枢要国日本独占資本打倒のために、全世界・全日本のプロレタリアートの決然たる大行動を準備するために、全細胞が打って一丸となって闘うためにこの総会を召集した……。われわれは現在の党中央委員会の活動、特にその右翼的偏向に対しては重大な批判を持っており、徹底的な党内闘争によって現在の中央の低迷状態を克服せねばならないということを確信している。……細胞委員会は、本総会が、学生運動が従来保持してきた革命的伝統を守り、学生戦線における党組織内部での右翼的偏向を一掃するために、断乎闘う決意を三度び強く表明することを期待するものである」。

 この頃においてはプロレタリア世界革命の見地が当然とされるようになっていた。陶山健一氏の「安保闘争と生田浩二」(生田浩二夫妻追悼記念文集)には次のように書かれている。

 「57年の秋から58年の3月僅かな期間、『反逆者』、『探求』、『世界革命』などの文書と、主に古本屋で買い漁ったマルクス・レーニン・トロツキーの戦前版の本によって薦められた思想転換は、驚くべきほどのスピードだったといえる」。
 「58年1月と3月、東大細胞定例総会で政治報告を行った生田は、新しい世界を目指す運動のリーダーとして、自信に満ちて、『世界革命』を力説した。スターリンの革命運動に対する裏切りを弾劾し、『同志スターリン』の祖国防衛の業績を弁護するNを一蹴した論議は実に楽しそうであった」(猪野健治「ゼンガクレン」)。

 この頃の生田の活躍が特記されるに値する。生田は、「6.1事件」からブントの結成までの期間を、理論面行動面で指導し、全国オルグの片道切符代や運動方針案、ビラの印刷代、集会会場費などの資金調達までやってのけている。西京司氏の指導下にあった日共京大細胞をブントへ獲得したのも生田の功績であった。この間、国労の新潟闘争を個人的に支援、その後、国労新潟が原水禁ストをアピールし、一斉汽笛吹鳴と一分間ストを実現したのも生田の影響であったと云われる。


 この時期、民主青年同盟も、党指導からの自立を目指していた。この時杉田・鈴木理論との闘争があったとされているが詳細不明。


 4.1日、売春防止法施行。


 4.1日、反戦学同、ソ連核実験停止の報に米エニウェトク水爆実験中止を要求して米大使館に抗議デモ。


 4.2-4日、全学連第16回中央委〔中央労政会館〕、主流・反主流の対立激化、エニウェトク水爆実験反対、沖縄・新島ミサイル基地化反対等を決定。


 4.5日、原水協が米大使館へデモ、4.19日原水協、地評、全学連共済の「エニヱ二トック核実験阻止国民会議」が開催された。


 4.13-14日、全学連緊急中執会議、エニウェトク水爆実験阻止・勤評反対で全力闘争に入ることを決定。


 4.19日、エニウェトク水爆実験阻止国民大会に全学連千名参加、文部・外務省デモ、三名逮捕。


 4.25日、全学連の「エニウェトク水爆実験阻止・勤評粉砕全国総決起第一波闘争」が始まり、全国37ヶ所で勤評反対の学生集会がもたれ、中央集会〔清水谷公園〕に東大教養・東京工大を初め三千名参加、アメリカ大使館や領事館へのデモ、教員組合への激励を行った。京都ではこの時、警官の暴行によって10数名の学生が負傷している。


 4.28日、全学連緊急中執会議、警視庁の日教組に対する弾圧反対声明、反対闘争方針決定。


 4.28日、「全日本青年学生共闘会議」が、総評青婦協、全青婦、全学連、社会党青年部、全日農青年部、民青同の6団体で結成された。


 4.30日、全日本青年学生共闘会議結成、全学連・民青同・全青婦・総評青婦協・社会党青年部・全日農青年部準備会の六団体で構成。


 4月、党東大細胞総会は、宮顕系党中央の指導方向であった党章草案に対する批判を含んだ議案を採択し、近づきつつある第7回党大会に向けて理論闘争を強化することを宣言した。その論点は、①.反米帝方向重視の宮顕路線に対する反日帝(独占資本)方向重視、②.党章草案の右翼的偏向に対する社会主義の明確な提起、③.革命の平和移行論や構造改革派の改良主義方向に対する批判、④.官僚主義の助長傾向に対する批判にあった。但し、この時点ではあくまで党内闘争の枠の中で原則的な立場からおこなうものとしていた。むしろ、「無原則な、自由勝手な党内の状況を断じて許しはしないだろう」とあることからみて、脱党又は別組織を作るという考えには至っていない事が分かる。


 4月、 日本反戦学生同盟第11回全国委員会が、「全同盟員、学生活動家諸君へのよびかけ」を発表する。

「反帝平和の光栄ある伝統を継承しつつ全同盟の革命的力量をあますところなく結集して社会主義学生同盟への画期的発展を勝ち取れ!」(「反戦旗情報」復刊第4号執筆:清水丈夫、香村正雄、鈴木啓一 書記局:文京区本富士町(東大文学部学友会気付)。


 5.2-3日、全学連拡大中執委〔中央労政会館〕、五・一五第二波総決起を各大学自治会に指令。


 5.15日、エニウェトク・クリスマス島水爆実験阻止・勤評粉砕全国一斉統一行動が行われた。全国五十九都市五十七校百十六自治会三十万名がスト・授業放棄等で決起。東京中央集会〔日比谷野音〕では6000名。防衛庁・文部省・米英大使館デモ。


 前年の5.17の2万5000名の大動員に比べると大きく減少していた。全学連小数派は、この減少を全学連の指導方針の誤りの結果であると批判した。前年の5.17の際にはその直前にイギリスのクリスマス島での核実験強行が憤激を呼んだという事情があり、この時の少数派の言い分は為にする批判であった。全学連内部の対立はこの頃になると極めて深刻になっており、遂に全学連中執は、「教育大自治会は全学連内で分裂策動を行っている」というビラを配布するような事態に陥った。


 5.22日、第28回衆議院選挙。日本社会党が戦後最高の得票、得票率を獲得する。


【反戦学同が社会主義学生同盟と改称】

 5.25日、全学連の推進体となっていた反戦学同は第4回全国大会を開催した〔西部労政会館〕。先の「東大細胞の呼びかけ」に応える形で、全学連大会に先立って開かれたこの大会で、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的、革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も「日本社会主義学生同盟(社学同)」と変え、反戦学同を発展的に解消させた。

 5.26日、社学同の第1回大会を開催し、委員長に中村光男、副委員長・鈴木啓一、書記長・清水丈夫を選出し、綱領・任務方針等を決定した。やがて機関誌「理論戦線」を定期刊行していく。「6.1事件」以後、森田、生田、古賀、中村らが党文京地区委員会で、反中央分派闘争を開始する。社学同の同盟員数は、「反戦学同」時代には数支部-数十名にすぎなかった。ところが改称時には、わずか1年半のあいだに、130支部-2千名ちかくに拡大した。この驚異的な伸長ぶりは、学生運動全体の再建とその急速な飛躍に照応したものにほかならない。

 今後の活動方針として次のように指針させていた。

 概要「最近の客観情勢の急速な変化―社会主義の強化、資本主義社会の腐朽化、反動化の進行と労働者階級・植民地人民の闘争の新たな昂場、……さらに日本学生戦線と労働者階級の闘争の緊密な結合の発展は、反戦学生同盟に結集する活動的学生をして、これまで以上により目的意識的に学生運動を前進させ、さらにそれをより意識的に労働者階級の解放闘争に結びつけていく必要性を認識させている。我々はこれまで同じく、学生戦線の活動家組織として帝国主義の戦争と抑圧と貧困の政策に反対し、平和と民主主義、民主教育とよりよき学生生活をめざす学生の大衆的政治行動の先頭にたってたたかうとともに、それをより意識的に帝国主義ブルジョアジーの打倒、社会主義実現をめざす労働者階級の解放闘争に結合させ、多くの学生を社会主義の意識でとらえていかなければならないと確信するに到った」。

 これは、反戦学同の反戦平和運動から社会主義革命の直接的志向へと針路を切り替えようとしていたという事情によった。反戦平和運動を日共式にブルジョア民主主義の枠内に押し込めるのではなく、「単に平和擁護、反戦にとどまらず、より積極的に労働者階級の諸闘争を支援し、労働青年との接触、結合をはかる」べしとしていた。この時社学同は、「日本独占資本が復活強化した」 との評価を前面に出し、反独占闘争を強調したため、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する宮顕系党中央の「党章草案」と決定的に対立する路線へと踏み出していくことになった。

 この時杉田・鈴木理論との闘争があったとされているが詳細不明。 

(私論・私観) 社学同結成の意義について
 これをれんだいこが評すれば、この時期の全学連運動の理論的質は当時の世界水準においても高く、理論的研鑽を経て明確にマルクス主義の旗を掲げるに至り、宮顕系日共の右傾路線に代わる左派路線を突き進むことを宣言したということになる。

【全学連第11回大会前の主流派と反主流派の駆け引き】

 全学連大会直前に森田実中執(東大)の代議員資格問題をめぐって多数派と少数派が対立した。主流派の森田は、58.3月に卒業するので全学連資格を失うところ、他大学への入学で引き続き執行部入りを予定していた。少数派はこれに異議を唱えた。こうした感情的対立が尾を引きつつ全学連大会へと突入することになる。


【全学連第11回大会】

 5.28-31日、全学連第11回大会(委員長・香山健一)が294名の代議員と評議員、傍聴者など約1千名を集めて開かれた。大会は初日から荒れた。大会は、前年の早大・神戸大中執委員の罷免を廻るしこりに続いて、「党章草案」を徹底的に批判する等党中央と対立するグループと、依然として党中央の権威に忠実なグループとの激突の場となった。全学連主流派は、「平和擁護闘争・反帝実力闘争路線」を打ち出し、急進主義に舵を切ろうとしていた。これに対し、反主流の日共派は「幅広い統一戦線」を主張して、実力闘争路線に対抗し主流派と激しく対立した。砂川闘争総括で形成された主流派と反主流派が11回大会においてぶつかり合ったことになる。

  反主流派は抗議する怒りから議事妨害戦術に出た。大会の冒頭で、主流派の中心人物・森田中執が既に東大工学部を卒業しているので学籍を失っており、中執に留まっているのは全学連規約の違反であるとして資格審査で追及しようとした為、大会は主流派と反主流派の激突の場となった。数で優る主流派は「愛知大の聴講生であり資格がある」として大会をおしきったが、反主流派の背後には党中央の指導が働いていると信じており、反主流派との争いは党中央との争いである、という意識が主流派の学生党員の意識を支配していた。大会は終始興奮状態のなかにあった大勢は党中央を批判する側が制し、党中央忠実派は「右翼反対派」として排斥された。

 二日目午後、早大の高野.小野両オブザーバーに対して議長職権で退場が命じられた。これをめぐってまた小競り合いを行い、神戸大学の石井亮一君は胸部に負傷した(診断書によると全治三日間)」という「怒号と乱闘」を現出した。党中央に批判的な社学同派が、民青同派(早大・教育大・神戸大など)と乱闘を演じつつこれを圧倒、高野派は退散した。大会は紛糾し、大混乱に陥ったということであろう。

 この経緯につき、唐木恭二「現代学生運動の理論的諸問題-全学連第11回大会を顧みて」(「立命評論」第17号、1958.8月)は次のように記している。

 「四日間に亘る大会の会期中に起ったすべての現象は-批判と反批判、嘲笑と誹謗-今日の日本における思想闘争と革命運動の中に起っている対立と論争の縮図であ、反映でもあった」。

 大会は、10回大会以来の闘争を一貫して正しかったと規定し、この執行部の議案は賛成271.反対19.保留1という圧倒的多数の支持を得て可決された。

 人事は、委員長・香山健一(東大)、副委員長・小島弘(明大)、佐野茂樹(京大)、書記長・小野寺正臣(東大)を選出した。社学同派が新執行部30名の全員を独占して民青同派を右翼反対派として閉め出した。つまり、党中央に忠実な代議員ことごとくを排除し、革共同も含めた反代々木系だけで、指導部を構成したということになる。これにより宮顕の指導に服してきた高野派が最終的に敗北することになった。

 この経過を社学同派から見れば次のようになる。

 「この大会で日共は、党中央寄りの反主流派を援護しながら、全学連主流派の追い落とし工作に策動したが失敗」、「既に公然と全学連内反対派の立場に立った高野らは、党中央青年対策部とともに森田の失脚を狙う策謀をめぐらしていたが、大会で多数の賛意を得られない為に様々な議事妨害に出て大会を混乱させていた」、「党中央は、早稲田の高野秀夫らのグループを使って、公然たる分裂行動に出てきた」、「執行部提案を否決に追い込み、大会を混乱に導こうとしたこの高野等の行動云々」。

 なお、この流れには革共同の働きかけがあったようで、次のように吐露されている。

 「全学連11回大会における平和主義者“高野派”との闘争は、わが同盟の組織戦術の最初の大衆的適用の場になった。“右をたたいて左によせろ”、これがわれわれのアイコトバであった。学生党員の多数を反中央に明白に組織しつつ、かれらの中核を日共のワクをつきやぶってわれわれの同盟に組織すべき任務は急をつげていた。拠点校を中心に、下からいかに反対派を組織するか、これがわれわれの課題であった」。

 大会では、砂川、原水禁、勤評闘争などで積み上げてきた成果を基にして、反帝.平和擁護闘争の路線を決議した。その内容は、次のようなものであった(「全学連通信」No34、1958.6月)。

 10回大会で確認され、堅持されてきた、学生運動の基礎理念を再び確認し、今後一層堅持する。今なお、学生運動の発展をおし留めるものとして右翼日和見主義傾向があり、注意しなければならない。学生運動を内部から破壊しようとしている最も危険な傾向は右翼日和見主義であり、これこそは学生運動の不倶戴天の敵である。
 平和こそ学生のもっとも基本的要求であり、且つ現在の情勢の中で平和擁護こそ学生運動の第一の任務である。
 原子戦争準備策動に加担するチャンピオン岸反動政府と対決し、その反動攻勢と徹底的に闘う。
 平和と独立を目差す諸国民の運動と国際的な青年学生戦線の統一の為に、国際的な視野を絶えず堅持して国際的な運動の成功の為に努力を払い、国際学連の中心的な役割を一層強化する。
 学生運動を国民戦線の一翼として位置付けし、国民諸階層との連携を一層強化する。特に、学生運動と労働者階級との連携がもっとも重要である。
 国内における学生戦線の統一を完成すること。

 このようにして、学生運動は、「層としての運動」から、「国民諸階層との連携」を経て、「労働者階級との同盟軍規定」へと質的転換を遂げていった。この質的転換こそは、学生運動が過去の「帝国主義の戦争政策に明確に対決するばかりではなく、…‥帝国主義の存在そのものをゆるがし、打倒する闘争」(唐木恭二)へ向けて歩を開始したことを示していた。

 なお、11回大会では、全国教育系学生自治会協議会と全国夜間自治会連合が、発展的に解消して、全学連と統一したことが報告された。

【この時期の勢力図と理論闘争】

 この時期の全学連指導部は、およそ三派から成り立っていた。一つは森田のグループで、これには全学連委員長の香山を含む中執のかなりのメンバーがいた。もう一つ都学連と星宮ら関西の一部を中心とする革共同グループがいた。最後が圧倒的支持を得ていた島グループで、東大・早大グループが佐伯と生田を介して暗黙の提携関係にあった。後の展開から見て、この大会で唐牛が中執委員に、灰谷・小林が中央委員に選出されており、北海道学連の進出が注目される。なお、こうした全学連執行部外に民青同高野グループがいたことになる。ただし、これを急進主義と穏和主義の別で見れば、穏和的平和運動的な方向に高野・森田グループ、急進主義ないしは革命運動的な方向に革共同と島グループというように二極化されつつあったようである。この時期の全学連運動には、既に押しとどめがたい亀裂が入っていたということでもある。

 この時期全学連主流派は、学生運動理論における「先駆性理論」を創造しているようである。「層としての学生運動」理論に「先駆性理論」が加えられることにより、学生運動の任務を次のように規定していた。

学生運動を青年運動一般に解消することなく、学生層の戦略的任務=先駆性を学生全体として発揮せしめる組織
学生自治会を内部から強化し、執行部と学生一般の間隙を埋めるべき組織
学生運動の基本的運動形態たる全国的統一闘争に適合する単一の中央指導部と各学校支部を持つ組織

 つまり、「学生運動が本質的に社会運動であり、政治闘争の任務を持つ」、「国会デモその他の高度の闘争形態を模索しつつ」、「労働運動の同盟軍」として労働者・農民・市民に対する「学生の先駆的役割」を強調し、「層としての学生運動論→労・学提携同盟軍規定論→先駆性理論、反帝闘争路線」の画期的方針を採択した。「平和こそ学生の基本的要求であり、平和擁護闘争は学生運動の第一義的任務である。岸反動内閣と対決し、その反動攻勢と徹底的に闘うこと。帝国主義の存在との対決と打倒。労働者階級との提携(同盟軍規定)」を明確にさせ、理論的にも共産党離れを一層推進 した。こうして全学連は、「先駆性理論」に基づいて、激しい反安保闘争を展開 していくことになった。「先駆性理論」とは、「学生が階級闘争の先陣となって 労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示する」というものであった。

 ちなみに、革共同はこの「先駆性理論」とも違う「転換理論」に拠っていた。「転換理論」とは、概要「プロレタリアートと利害関係を同じくする学生の運動は、階級情勢の科学的分析のもとに、プロレタリアート同盟軍として階級闘争の方向に向かわざるを得ないことからして、学生は革命運動を通して自分自身を革命の主体に変革させていくことになる」というものであった。 どちらもよく似てはいるが、ブントはより感性的行動論的に、革共同はより思弁的組織論的に位置づけているという違いが認められる。

 こうした学生運動に対する位置づけは、追ってマルクーゼの「ステューデントパワー論」が打ち出されるに及び、その影響を受けて更に「学生こそ革命の主体」という考えにまで発展していくことになる。この背景にあった認識は、前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)とある。

 宮顕系日共党中央は、こうした急進主義的政治主義的方向に向かおうとする党員学生活動家に対して次のように批判した。

 「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」。

 これに対し、全学連指導部は次のように自賛した。

 「戦後10年を経て、 はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示しているのである」。
(私論.私見) 全学連主流の理論的質考
 充分な理論的対応を為し得ている様を見て取ることが出来るであろう。

 ちなみに、この時中国共産党「中国青年報」は、「岸反動政府との徹底した対決の方向を打ち出した全学連第11回大会」といの見出しで好意的に次のように論評している。

 「全学連第11回大会が帝国主義者の攻撃の甘い評価に反対し、平和を守るための帝国主義者との徹底した闘いの方向を打ち出し、右翼日和見主義者との闘いにおいて大勝利した」。

 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
 「58.5月の全学連第11回大会ははっきりと学生運動の転換の開始を知らせた。57年の平和擁護闘争の限界の実践的確認がなされたうえで、国際情勢はアルジェリア革命の前進によるフランス帝国主義の危機を焦点として、六○年代前半の米ソ平和共存世界構造が形成される以前の過渡的で流動的情勢の特徴を示し、学生運動の左傾化の背景をなした。さらに決定的には国内情勢における勤評闘争の昂揚があった。五七年の国鉄新潟闘争にはほとんど関心を払わなかった全学連も、五七年秋の愛媛県教組を皮切りとする岸政府の日教組への攻撃に対応していこうとした。各県の段階で教育系自治会が教組との共闘を組み、勤評闘争は全学連の上からの指導を待つことなく、下から突入していったのである」。

【党中央と学生党員が党本部で衝突「6.1事件」】

 全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、全学連大会終了の翌日の6.1日、同大会に出席した学生党員議員約130名を代々木の党本部に集めた。「全学連大会代議員.学生党員グループ会議」を開き、全学連を党指導の傘下に引き戻すべく直接指導に乗りだそうとした。そういう思惑で党の幹部出席の上会議が開かれ、党中央が鈴木に議長を務めさせ、紺野のあいさつを強行して党中央主導の議事運営をなそうとしたが、既に党中央に批判的であった学生党員らが一斉に反発し、会議はその運営をめぐって冒頭から紛糾した。

 この時、学生党員グル―プの圧倒的多数は、議事の民主的運営のために慣例と規約にもとづいて、学生側から議長を出すよう要求した。しかし、党中央は、あくまで事前の合意があるとして、党大衆運動部長が議長になることを押し通そうとした。積年の憤懣と、直前の全学連大会で演じた党中央青対の指導による高野派の動きに不満が爆発した。

 学生党員グル―プは、党本部役員が全学連大会で大会破壊策動を直接指揮し、「大衆団体の決定を党中央の権威でくつがえすようにグループの同志に脅迫を加えた事実」(日共立命館大学一部細胞)に対して、その責任を追及し、自己批判を求めて激しく抗議した。こうして会議は冒頭から大混乱となり、全学連主流派と党中央の間に殴り合いが発生した。

 この時党を代表して出席していた幹部は、紺野常任幹部会委員、鈴木市蔵大衆運動部長、高原中央委員、津島大衆運動部員(学対部長)であった。議長は混乱を口実に閉会を宣言した。この措置に一挙に主流派の学生たちは怒り出した。遂に党の学生対策部員であった津島薫大衆運動部員を吊し上げ、暴行を加える等暴力沙汰を起こした上、鈴木市蔵大衆運動部長の閉会宣言にもかかわらず、11回大会で委員長に再選された香山を議長にして議事を進行させた。紺野与次郎常任幹部会員らの退場を阻みながら議事を進めた。

 学生党員グル―プは会議を続行して、次のような党中央弾劾決議を強行した(全学連書記局細胞意見書「日本共産党の危機と学生運動」、1959.1月)。

 概要「六全協以後党中央は学生運動に対し、指導を全く放棄してきたのみならず、学生運動の発展を妨害する役割すら果たしてきた。こうした学生運動にたいする誤った指導は、単に学生運動のみならず、労働運動、平和運動に対しても誤った指導となってあらわれている。日本革命運動と日本共産党の真の建設を進める上で、現在の党中央委員会はあまりにも無能力であるゆえに、全学連大会代議員グループは、党第7回大会が現在の党中央委員会を不信任するよう要求する」。

 これを、「党中央無能力故の不信任決議」と云う。この間党中央を代表して出席していた紺野常任幹部会員はまともな応酬による何らの指導性を発することが出来ぬばかりか、会議を有効とする文書に署名させら れるという不始末となった。なお、党本部内の出来事であったにも関わらず、 追求される中央青対を救出すると称してやって来たのは「あかつき印刷」の労働者たちだけであり、党側からは他には誰もやって来ずという醜態を見せるこ とになった。更に、全学連内の党中央派除名の決議(無能力.不信任決議)を採択した。最後に「学生党員は、全学連中執グループに結集せよ」と叫んで、党本部から退去した。
 これを「全学連代々木事件」(または「6.1日共本部占拠事件」) と云う。 共産党全学連グループ会議における多数派(森田、香山ら)と少数派(高野、牧ら)の砂川闘争の評価をめぐる乱闘事件であったとされているが、「6.1事件」は、全学連指導部の日共に対する公然たる反乱となった。この瞬間より、日共は全学連に対するヘゲモニーを失ったことになる。

 田川和夫氏の「日本共産党史」には次のように記述されている。

 概要「学生党員は、党指導部の日和見主義方針に対し革命的な方針を対置し、累積した罪状の数々を突きつけ、暴力と官僚主義的手段によってこれを回避しようとする以外何事も為し得ぬ常任幹部会員紺野与次郎を前にして、遂に、中央委員会の不信任決議を行うことによって、長い間の禁断の柵を踏み越え、常幹代表紺野らをも屈服させ云々」、「日本はもとより、スターリン制覇以後の全世界の共産党史に残る画期的事件となった」。

 この経過に対して、党中央は、真偽不明であるが次のように声明している。

 「わたしたちは、多数派の諸君に殴打されて負傷した津島氏(中央学生対策部)を近くの代々木病院に連れていったが、多数派の諸君は診療室にまで乱入して手当を受けている津島氏に暴行を加えようとした。ここに、現在の「学生運動」におけるゲバルトへの極端な傾斜の萌芽を見ることができる」。

 これにたいして、党中央は事件の翌日、常任幹部会、書記局、統制委員会の合同会議をもって、次のような幹部会決定を発表した。1958.6.5日付けアカハタは、日本共産党中央委員会常任幹部会声明「全学連大会代議員グループ会議の不祥事について」を発表している。
 「事態は明らかに一部少数の反党的挑発分子の計画的煽動によってひきおこされたものであり、このような行為は明白に党規律に違反し、党の組織原則を無視した絶対に容認できないものである。
 一、当日閉会宣言後の会議は認めない。
 一、閉会宣言後におこなわれた『決定』と称するものは一切無効である。
 一、統制委員会を中心に特別査問委員会を設けて事態の処理をはかる……」

【全学連と党中央の後始末の痴愚ぶり】

 前代未聞の不祥事発生に仰天したか、党は、ここに至って、これら学生の説得をあきらめ、組織の統制・強化に乗り出していくことになった。鈴木議長の閉会宣言以降の会議を無効とし、「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反中央、反党反革命分子』である」とみなし、「一部悪質分子の挑発と反党的思想を粉砕し」それら学生党員の責任を追及していくこととなった。

 これに対して、6.11日、全学連書記局細胞は、党中央委員会宛てに「上申書-6.1事件に関する我々の反省と要望」を提出している。文書は、党中央への恭順を示唆していた。他方で、党中央のアカハタ論文には多くの事実誤認が含まれており、その経過や原因について今後審議するべき点があるとしていた。後にブントの指導者となる生田が、アカハタ記事の欺瞞性に対して党本部へ抗議に行っている。

 「(1) 常任幹部会発表には、多くの事実誤認その他が含まれており、その経過や原因について、今後十分審議すべきものがあると考えますが、しかし、その理由がどうであろうともこの事件は党内民主主義にもとづく正常な党運営を妨げたものであり、極めて遺憾なものであると考えます。さらにわれわれは全学連グループ内に於ける指導的立場にあるものとしてこの事件を阻止しえなかったことを深く反省するとともに、再びかかる事態の生ぜざるようあらゆる努力をはらい党の組織原則に基づいて事態の正しい解決のために努力する事を誓います。

 (2) その上に立ってわれわれ全学連書記局細胞はかかる事態の根本原因である学生運動に対する従来の党指導の不充分さ、党中央委員会の指導に対する党員の不信、及び具体的には、全学連第11回全国大会における一部同志の妨害活動等について徹底的究明を行いその抜本的解決の為に党中央委員会が正しい指導性を発揮されんことを心から要請するものであります‥‥」(「上申書 - 六・一事件に関するわれわれの反省と要望」) 。

 これに構わず党中央は、「未曾有の不祥事件」、「一部悪質分子による反党事件」として調査・査問・処分に乗り出しすこととなった。宮顕系党中央は全学連の急速な左傾化を激しく指弾し、次のように恫喝した。

 概要「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」。
 「党中央に対する中傷、誹謗を行い、無原則的反幹部行動を扇動するものに対して、全党は断固として闘わなければならない」(「6.23日付けアカハタ」)。

 これに対し、全学連指導部は、次のように応戦した。

 「戦後10年を経て、 はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示しているのである」。

 充分な理論的対応を為し得ている様を見て取ることができるであろう。

 以上のような6.1事件の経緯について、蔵田計成氏は次のように論評している。

 「この上申書が示すように、当時の学生党員グループは、まだ「学連新党=別党コース」を最終的に決断していなかった。むしろ7月下旬に予定されていた日共第7回大会に向けて、党内反対派=反党章派への影響力を強め、それをテコにして党内左翼反対派を組織的に結集することを考えていた。この見通しの正しさはたとえば、六・一事件発生直後に日共都委員会が「全学連問題は予断をもって断罪すべきではない」と強調したことによっても立証されていた。その意味で、六・一事件の発生それ自体は、一方で必然性をもちつつも、他方では、「上申書」がいうように、書記局細胞の指導がいたらなかった点で、偶発的性格をもっていた」。

 島成郎は、「最近の学生運動について」で次のように総括している。

 「『暴力事件』として、党内外大衆に宣伝された『六・一事件』は、まさに以上の六全協以来の党内闘争の一頂点として爆発したのである。この事件は、もし党内反対派(反党章派)をして、全学連グループがその理論的政治的対立を把握せしめることに成功したならば、日本共産党の党内闘争の新しい段階への成功的移行を準備したものであろう。しかし、党内反対派はその理論におけるフルシチョフ路線の限界と、党についてその『一枚岩の団結』のドグマのとりこのゆえに、革命的学生のかかる行動に恐怖心を抱き、学生共産主義者の『暴挙』を嘆くのみであった。……(事件当時)左翼反対派は形成されていなかった。かくして、全学連グループの革命的分子は、代々木官僚に対しておくれをとった。代々木官僚の日和見主義的裏切り方針と対置された革命的理論と綱領が、党内外大衆に示されないままに、かくて、全学連グル―プは党内外から孤立させられ、官僚の攻撃に対する戦いは、党内において一時的に敗北せざるをえなかった」。

 6.1日、全学連中執委、十一回大会決定により勤評闘争和歌山現地へのオルグ団集中を全国に呼びかけ、常駐指導態勢確立を図る。


 6.5日、和歌山で勤評反対闘争が巻き起こった。和歌山県教組、高教組、県庁職組、部落解放同盟、県地評、和歌山大等による「勤評反対共闘闘争会議」が結成され、第一派実力行使闘争に入った。全学連はオルグ団を現地に派遣し、現地闘争本部を設営して闘いの先頭にたった。「和歌山における勝利は勤評闘争をして守勢から攻勢に転じさせる上での重要な契機をつくるだろう。和歌山における敗北は、全国的な闘いを展開しようとする日教組の後退を導き敵の弾圧を許し日本民主勢力の後退を誘うであろう」(6.16書記局通信)とある。


 6.10日、全学連、核武装阻止・勤評実施反対で全国統一行動、札幌・金沢・名古屋等で集会・デモ、東京では国会請願デモ。


 6.11日、緊急関西自治会代表者会議〔和歌山〕、和歌山大闘争を全面支援、6.18拠点自治会スト決議。


 6.11日、全学連書記局細胞、日共中央に上申書〝6.1事件に関するわれわれの反省と要望″提出。


 6.13日、全学連緊急中執委、勤評粉砕・和歌山大開争に全力で支援を決定、6.18全国一斉行動を指令。


 6.12日、第二次岸内閣成立。


 6.21-22日、全学連全国自治会代表者会議〔和歌山大〕、勤評和歌山闘争を評価、全国に拡大するため六・二五、七・三全国統一行動を決定。


 6.25日、勤評撤回要求全国一斉学内集会、都学連、灘尾文相との会見拒否され文部省前坐り込み、警官隊出動で実力排除さる。


 7.3日、勤評粉砕全国学生決起大会、東京千名で集会・デモ、日教組と共闘。


 7.5日、全学連第17回中委が開かれ、勤評・道徳教育指導者講習会・原水禁第4回世界大会を主要議題に、この間の闘争の総括と第4回原水爆禁止世界大会への方針の検討を行い、岸内閣への非妥協的政治闘争として勤評実施阻止の明確化・原水禁世界大会への闘争方針等を決定した。共産党中央との組織的対立を不可避として、その後の方向の確認をすることに意義があった。「開始された前進の巨歩を一歩進めるかあるいは後退してしまうかを決定すべき任務をこの中央委員会に委ねている」として、全学連主流中央は並々ならぬ決意を示していた。この会議で、「政治スローガンをぼかし、幅広い統一戦線の名のもとに、運動それ自体を堕落させてしまう思想傾向」が運動の阻害要因であるとの認識を明確にさせた。左派化したということである。

 勤評闘争は、すでに前年12月の日教組大会で絶対阻止の方針がうち出されていた。これに呼応して、全学連もこれに固い連帯を表明していた。「全学連11回大会議案」で「労働者階級と日本支配層との対決の焦点として、勤評闘争が闘われており、この闘いの行方こそ、日本労働者階級及び人民の今後の闘いの帰趨を決定するものである」としており、これを再確認した。

 原水禁大会に向けては次の基本方針を確認した。1・我々の闘いの敵は、国際的にはアメリカを先頭とする英仏その他の帝国主義者グループである。2・今度の第4回大会では、日本における敵が国際帝国主義グループと結びついた岸自民党とその政府であることを明確にし、特に日本大会においては彼らにたいする日本平和勢力の一大結集点をつくり出だすことを目標にする」(「全学連一七中委議案」58年7月)


【党中央、全学連グループに対し除名処分】
 7.7日、党中央は、 「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長、中執委星宮、同森田実らを党規約違反として3名を除名、土屋源太郎ら13名を党員権制限の厳格処分に付した。その後各地方党機関でも6.1事件の関係者を年末までに72名処分した。

 全学連指導部の学生党員たちは、党のこうした処分攻勢を契機として遂に党と袂を分かつこととなった。紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれた。ちなみに紺野は徳球系の残存幹部であったことが注目される。宮顕は、党内反対派の制圧の手段として徳球系の残存幹部にこれを当たらせ徹底的に利用するという巧妙さを見せている。

 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
 「6.1事件は理論上、実践上党中央と分裂していた全学連主流派の学生メンバーを党組織からも分裂させるきっかけを与えた。香山をはじめとするグループ会議出席者たちに対して除名の処分が次々と出された。党中央はトロツキズムは“帝国主義の手先”であり、“国際反革命陰謀団”であるというあの古典的な反トロツキズム宣伝をもって学生グループ排除を進行させた。学生細胞での力関係は圧倒的に全学連主流派が多数を制していた。したかって6.1事件は潜在的に存在していた学生細胞での全学連派と党中央派との対立を公然化させた。この対立は事実上、共産党細胞が学生のなかで解体されていったことを意味している。すなわち、主流派は党との関係を自分の方からも、党機関の方からも絶ち切ることによって、共産党細胞ではなくなっていった。そして反主流=党中央派は分裂して独自に党と結びついていったのである」。
 これに関連して、「木村愛二氏の元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」の「(その19)1960年安保に溯る共産vs新左翼諸派の抗争」で貴重な証言が為されている。文中は「当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループ」として紹介されているが、「6.1事件」に関連しての処分と思われるので転載しておく。
 私の学生時代の文学部の同窓生で1960年安保闘争の死者、樺美智子は、当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループの一員だった。この経過が、今なお続く全学連の分裂につながる。その後、日本共産党中央委員会の方が、歯切れは悪いが、ともかく、スターリン批判に転じ、ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉についての当時の見解を修正した。その時に初めて、当時は「ノンポリ」の私は、樺美智子らの除名の政治的経過を知ったのである。

 上記のチャウシェスク問題の最終段階で、ふと、この「除名の政治的経過」を聞いたところ、同席していた中央委員の一人が、私の質問に答えて、樺美智子らが属していた東大細胞の一団が代々木本部に来て、揉めた時のことを言い出した。簡単に言えば「ここで暴力を振るった」というのだが、私が、「若いのが怒れば手ぐらい出るだろ。誰が手を出したのか。誰か怪我でもしたのか」と聞くと、それには返事がない。まるで具体的ではない。誰かが手を出したから、しめたとばかりに、まるごと除名処分して片付けたという感じだった。いずれにしても、警察に届けたわけではないから、何の公式記録もない。ともかく、些細な衝突を根拠に、その後の経過から見れば、当時は正しい主張をしていた方の若者のグループが、まるごと日本共産党から排除され、しかも、以後どころか、私も直接その姿を見ている樺美智子の場合には、国会の構内で警察官の軍靴と同様の固い靴で蹴り殺され、車の下に蹴り込まれていたというのに、死後にも「トロッキスト」呼ばわりされ続けているのである。

  7.8日、第4回参議院議員選挙。革新派が1/3議席を確保する。


 7.13日、全国自治会代表者会議〔和歌山〕、勤評和歌山闘争の総括、第三波闘争支援等を決定。


 7.16日、東京都教委、勤評反対闘争の参加者282人に処分。


【共産党第7回党大会開催】

 7.23日、共産党第7回党大会が開かれた。51年綱領を廃止し、新綱領は次の大会まで棚上げ、伊藤律除名を確認した。宮顕は、「この党大会を経て、いろいろな理論問題を解明した」(宮本顕治談話-1991.9.26.赤旗)と豪語した。実際には、「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論」を主張する宮顕、野坂、志賀らと「日本独占資本のみ=一つの敵論」を主張する春日、内藤との間の論争に決着がつかず持ち越された。

 宮顕は、「一つの敵論」を「アメリカ帝国主義との闘争を回避する路線」とみなして、「平和的手段による革命の道が無条件に保証されていると考える〃平和革命必然論〃をしりぞけ、平和的手段による革命の達成をあくまで追求しながら、暴力の道をとざそうとする敵の出方に必要な警戒をおこたらないという原則的な見地を明確にした」と云う。これに対して、春日らは、「一つの敵論」は「二つの敵との闘争の名に隠れて実際には反米に重点をおく戦略であり、自立しつつある日本独占資本との闘争を回避させている」と反論した。

 大会での政治報告で、学生運動に対して次のように述べている。

 「学生運動は全学連を中心に平和、独立、民主主義を目指す人民の闘争の中で次第に重要な役割を果たしている。‐‐‐同時に、学の生活経験の浅いことからおこりがちな公式主義、一面性と独断、せっかちで持続性に乏しいという弱点を克服し、一層広範な学生を統一行動に組織するように指導しなければならない」。

 7.31-8.1日、全学連中執会議、勤評粉砕・民主教育擁護国民大会参加等、当面の方針を決定。


【革共同第一次分裂】

 7月、この頃、革共同が内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と云う。少数派であった太田竜・氏らのグループが、関東トロツキスト連盟を結成して革共同から分離することとなった。黒寛派と太田派の理論的運動論的組織論的対立が激しく、太田派が決別した流れが認められる。太田派が全体討議を拒否したという事実経過があるようである。この時太田氏は、トロツキーを絶対化し、トロツキーを何から何まで信奉しそれを唯一の価値判断の基準にする「純粋なトロツキス ト」(いわゆる「純トロ」)的対応をしていたようである。

 太田派は、「パブロ修正主義」と呼ばれる理論を尊重し、ソ連を「労働者国家」とした上で、「反帝国主義、ソ連労働者国家無条件擁護」の戦略を採った。後にソ連の原水爆実験が行われたときこれを無条件に擁護することとなる。これに対し黒寛派は、「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした意見の食い違いとか第四インターの評価をめぐる対立とか大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いとなり、これが原因で「革共同第一次分裂」へと向かうこととなったとされている。黒寛派は、「反帝国主義、スターリニスト官僚(政府)打倒」の戦略を採った。後に「反帝.反スターリン主義」へと純化していくことになる。ソ連核実験の際には反対という立場に立った。

 この時のトロツキー評価をめぐる太田派と黒寛派の違いについて、黒寛は次のように明らかにしている。

 「我々の反スターリン主義のバネは、確かにとトロツキズムの摂取と主体化によって形作られた。だが、我々は百%.トロツキストたりえなかった。それは我々が『サルトル的義憤』に『共鳴』した『実存主義者』であったからではない。左翼反対派の戦いの伝統が完全に欠如したわが国において、革命的共産主義運動を創造せんとする、我々のこの主体的な苦闘にとっては当然にも、既成のもの-例えトロツキズムであったとしても-への乗り移りは、スターリン主義者としての死滅への途と同様に唾棄すべきものでしかなかったからである。にもかかわらず、この主体的な構え方を、わが俗流トロツキストは『プチ.ブル的だ』と烙印した。こうした運動のそもそもの発端における、我々と自称トロツキストとのこの決定的な違いの根拠を哲学的次元にまで掘り下げて追及することが、さし迫った課題として浮かび上がってきた」(黒田寛一「革命的マルクス主義とは何か」)。

 この分裂後黒寛派が中央書記局を掌握することとなった。次のように勝利宣言している。

 「革命的マルクス主義の立脚点をあきらかにし、革命的指導部を確立するための闘争は、しかしけっして平坦なものではない。それはまず、トロツキズムをセクト的教条的に獲得しつつ、現実にはパブロ書記局の方針をうのみにしようとする太田竜に人格的表現をみる偏向との闘争として、すすめなければならなかった」。
 概要「太田竜派の活動における政治的力学の無知ないし無視からうまれるこうした組織戦術の誤謬の根底にあるトロツキー・ドグマチズムの誤謬こそは、トロツキーの歴史上の弱点のデフォルメでもあった。かくして太田は、 第四インターが世界的にも国内的にもいまだ十分に大衆を獲得していない事実を、『23年以後のロシア・スターリン主義者の反動の圧力の強さ』などに結びつけていく客観主義に転落する。世界革命の一環としての日本革命の実現、ここにこそわれわれのいっさいの価値判断の基準があることを明白にしつつ、われわれはトロツキズムを反スターリン主義→革命的マルクス主義の最尖端としてとらえかえし、マルクス主義を現代的に展開していくものでなければならないであろう」。
  「こうした太田の教条的セクト的傾向は、ソ連論をめぐる内田の対馬的傾向との闘争において色こくあらわれた。第5回大会出席後、さらに極端となった太田は、日本における左翼反対派の活動をすべてパブロ分派とのみ直結させようとする陰謀となってあらわれた」。
 「我々革命的共産主義者は、このようなトロツキー教条主義、トロツキスト分派の教条主義と、明白に且つ公然と決裂することを宣言せざるを得ない。けだし我々は、トロツキー及びトロツキズムの成果と欠陥と誤謬をはっきり認識し、その上でそれらをマルクス主義の発展線上に正しく位置付けるとともに、それを生きた現実へ適用することを通して同時にそれをも超えてゆかねばならないとする実践的立場を拠点とするからに他ならない。わがトロツキストたちには、こういう主体的で実践的な立場が完全に欠如している」(「革命的マルクス主義とは何か」『探究』第3号参照)。

 ただし、9月になると、黒寛は大衆闘争に対する無指導性が批判を浴び、党中央としての指導を放棄させられているようである。


【学生党員グループ、全学連=社学同合同フラクを結成】
 第7回党大会には、島・生田らが「全学連党」代議員として参加した。島・生田らがいよいよ公然と新党結成に向い始めた。島・氏は、「生田夫妻追悼記念文集」の中で次のように記している。
 概要「しかし、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断したまま(家父長的と云われる徳田時代にはあり得なかったやり方である!)、次から次へと満場一致で宮顕方針が決議されていく大会運営を見て、却って党との決別を深く決意したた」。
 「十年ぶりに開かれたこの大会が破廉恥な党官僚の居直りによって終わった時、そして、党内反対派が『党革新』の第一歩と幻想を抱いている時、六全協以来続いた党の混乱は終息した。この党の革命的再生はありえないことを確認し合い、その翌日、この党との決別を決意したのだ。決別は同時に私達の手による、革命的前衛の結成へ向かうことでもある」。

 こうして党大会終了の翌々日の8.1日、島氏は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを提案した。

 8.2日、全日本青学共闘会議主催・核武装反対・勤評阻止・日中国交回復青年学生行動デー、全国各地で署名・カンパ活動展開。8.5日、青学共闘、八・一六勤評阻止青年婦人学生全国大会を呼びかけ。


 8.12日、全学連・社学同中央グループ、全国指導センターとして〝フラクション〟結成。


 8月、全学連は、「全学連第17回中委決議」方針をもって原水禁大会に参加した。学生は各分科会で論戦を果敢に展開して、完全に論争のイニシアティブを握った。日共の「国民的平和運動のなかに、勤評という政治課題を持ち込んで、平和を願う広範な国民の統一と団結をそこなうべきではない」とするいわゆる「日共幅広論」と全面衝突させた。


 8.15日、勤評反対・民主教育を守る国民大会〔和歌山〕に全学連大衆動員、分散会・決起大会・デモに参加。


【勤評闘争】

 8.16日、この間全学連は、和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことをはじめ9月頃「勤評闘争」に取り組んでいる。8.18日の勤評反対集会に右翼団体が殴りこみ、警官も襲い掛かり多数の負傷者を出している。全学連は40数名のオルグを送り込んでいた。9.15日「勤評粉砕第一波全国総決起集会」に参加し、東京では約4000名(以下、東京での闘いを基準とする)が文部省を包囲デモ。「勤評闘争」は、日教組・部落解放同盟・全学連・社会党(総評)・共産党の5者共闘で闘い抜かれた。

 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
 「日教組への勤評攻撃は、鉄鋼労連、紙パ労連、炭労、国労へと展開された総評の主柱への各個撃破の意図をもって、さらに当時、教育を通じて日本の大衆の平和主義に大きな影響を与えていた日教組をたたきつぶそうとするものであった。当時、革同の平垣書記長を擁する日教組への攻撃はまさに総評運動の最後の背骨をたたきわろうとする敵の意図は明らかであり、その危機感は平和教育への攻撃として、全国民的な運動の基盤を形成しており、学生の勤評闘争への動員はきわめて自然に展開されたのである。

 勤務評定は校長が教師の勤務状況を評価しその評価を給与や人事にとり入れることを狙ったもので、明らかに日教組という教育労働者の組合破壊を意図していた。当時、日教組は総評内でもっとも政治色の強い労働組合として存在しており、その教師を通じての平和教育や民主教育の実践を通じての影響力は全国民的な規模で与えていたのである。勤評実施はまさにこの日教組による教育労働者の運動に打撃を与え、教育に対するブルジョア権力の支配統制を回復せんとする策謀だったのである。

 また、勤評闘争と併行して、道徳講習会阻止闘争が取組まれた。文部省は教育反動の一環として道徳科目の設置を強行し、この科目設置に伴う教師への講習会を全国各地で開催しようとした。全学連は勤評と並んで、この講習会阻止闘争に取組み、東京、奈良では激しい警察権力との衝突が展開された。

 五八年九月一五日にむけて、日教組は勤評闘争のヤマを設定し、全国的に十割休暇闘争に突入することを決定したが、各県教組とも後退を重ね、唯一、福島県教組が十割休暇闘争に突入する体制をつくりあげていった。こうして九月勤評闘争は福島を全国的拠点として闘われようとしていた。

 いっぽう、文部省は西日本の道徳講習会を九月に奈良で開催することを決定し、奈良を中心とする関西の各教組は阻止闘争を準備することとなった。こうして、福島県教組の十割休暇闘争と、奈良における道徳教育講習会阻止闘争が東と西の拠点闘争となっていた。

 福島大学学芸学部自治会は県教組の闘争に連帯して無期限ストに突入し、警察からの弾圧、大学当局からの自治会解散命令の弾圧に抵抗して試験ボイコット、バリケード封鎖など当時の学生運動においてもっとも鋭い闘争を展開した。全学連は福島闘争を全国拠点として設定し、当初、東北学連の副委員長であった今野をオルグに派遣した。さらに、闘争の発展とともに全学連書記長の小野寺、東大駒場から清水、伴野らが送り込まれた。

 福島大の闘争は結局敗北するが、この闘争はいままでの平和擁護カンパニア闘争から、学生が労働者と提携して闘った政治闘争としての高い質をつきだしたということができよう。しかし、福島大の闘争の後半における指導はジグザグをくり返した。そしてこの指導の責任を追及されて結局、書記長の小野寺は五八年十二月の第十三回大会で辞任することとなるのである。

 東の福島と並んで、同じ九月に西日本の拠点として奈良闘争が闘われた。奈良闘争は京都府学連のへゲモニーの下で取組まれ、実力阻止のための具体的戦術が採用され、数多くの逮捕者を出しつつ、何度となく警察権力との衝突をくり返すという激しい闘争を展開した。
 この闘争に対して、後にふれるように西、岡谷による極左主義批判が提出されることになるが、大衆闘争としては日教組の敗北によって勤評闘争が後退し、学生運動もまた下降の局面に入り込んだのである。

 路線としては転換をかちとりつつも日教組の敗北によって学生運動も困難な状況をむかえ、運動として突破していく手がかりを失いつつあった。このような情勢のなかで、五八年十月、岸政府は警察官職務執行法の改正案を国会へ突如として上程したのである。この改正は警察権力の弾圧の強化執行に法的根拠を与えて、来るべき安保闘争への権力としての準備を行わんとする意図があったのである。ようやく戦後民主主義が大衆の中に浸透してきた当時において、警職法改正はオイコラ警察の復活として、極めて露骨な反動攻撃として、全大衆の反対を受けたのである。勤評闘争で後退を余儀なくされた労働戦線は一挙に息を吹き返し、東京地評は緊急重要事態宣言を発して、ゼネストの断行をアピールしたのである。学生はさらに敏感に反応し、各大学がいっせいにストライキに突入し、労働者にゼネストを呼びかけた。大衆のあまりに強い反対の声の前に窮地に立たされた岸政府は、当時の鈴木社会党委員長との党首会談という妥協の方策によって危機を回避するために改正案を取り下げたのである。

 平和擁護カンパニア闘争の時代においてはその指導性が幾分かは認められていた香山、小野寺、森田らの当時の全学連指導部は、勤評闘争から警職法闘争へとめまぐるしく展開され、情勢に生き生きと対応しなければならないこれらの闘いにおいては完全にその指導性を喪失してしまった。勤評、警職法闘争は各地方学連の実践的指導部のヘゲモニーを強化し、全学連中央の権威を低下させて、学生グループの政治分解を決定的に促進することとなったのである。そして、警職法闘争の直後に開催された五八年十二月の全学連第十三回臨時大会は、いっぽうでブントが結成されるという条件のなかにもかかわらず、勤評、警職法闘争を通して学生運動の転換を推進してきたJR系グループを全学連の指導部へと押し上げるのである」。

 8.31-9.1日、社学同第2回臨時全国大会〔東京〕、秋に向けての勤評闘争方針等を決定。委員長・陶山健一、書記長・清水丈夫を選出する。


 8月、早大記念会堂で第4回原水爆禁止大会。


【学生党員グループ、「プロレタリア通信」創刊】
 この後全学連主流派に結集する学生党員は、フラクションを結集し、9.1日、社学同が理論機関誌「理論戦線」(季刊)を創刊する。(書記局:目黒区駒場、東大駒場寮・服部信司気付、執筆:熊谷信雄=島成郎、清水丈夫、花村一司、山川和夫、小野田猛史、杉田信夫)

 9月頃、機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。第1号は山口一理、第2号は久慈二郎、3.4.5号は島成郎、第6号は姫岡怜治が執筆した。この時点で明確に共産党内における党内闘争に見切りをつけた全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。革共同フラクションは、全学連人事に絡んで森田・香山を中央人事からはずせと主張していたようであり、こうした革共同の影響下で路線転換がなされた。

【全学連第12回臨時大会】

 9.4日、「全学連代々木事件」とそれに伴う党の処分の結果、全学連指導部は、完全に党の統制を離れることを決意した。「全学連代々木事件」で除名された学生党員らと島成郎ら20名程度が中心になって、全学連第12回臨時大会(委員長・香山健一)を開いた。代議員210名、評議員、オブザーバーら450名が参加した。九・一五勤評粉砕全国総決起を決定、草共同グループの影響の下で転換路線を確立。

 この大会で、先の第11回大会での路線がより明確にされ、次のように指針した。

 「平和擁護運動ではなく、戦争の根源である帝国主義を打倒することである。このためにはブロレタリアートの断固たる決起を促さなければならない」。
 「その中でただ一つ徹底的に闘いつつある日教組の勤評闘争を激発させ、ここに革命の突破口を開かねばならない」(「階級決戦としての勤評闘争」という基本方針を定めた)。
 「非妥協的大衆阻止闘争、実力闘争が基本である」、「闘いが激化し泥沼の様相を帯びることを恐れてはならない」、「クラスから他クラスへ、一校から全市へ、全県へ、全国へ闘いをひろげよ」、「試験ボイコット、無期限ストライキによって闘いを続行させよ」。

 反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派) は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」、「全人民、そして日本プロレタリアートの運動の視点にはっきり立ったことにおいて画期的前進を遂げた」と評価し、「全学連第12回臨時全国大会宣言」で次のように左展開を宣言した。
 「かかる右翼日和見主義が、現実の闘争の過程で理論的にも実践的にも完全に破産したことが、圧倒的多数の代議員によって確認された」。
 「我々は今世界史の新しい激動の渦中に立たされている。日本人民と全アジアの人民にとって決して忘れ去ることのできないあの兇暴な日本帝国主義は今再びその姿をあらわにして我々に襲いかかり、国内情勢は著しく緊迫している。復活した日本帝国主義と人民との激闘としての勤評をめぐる闘いはますます熾烈化し、今や決戦的段階に突入しようとしている」。

 「こうして、日本独占資本との対決を明確に宣言する等宮顕執行部の押し進めようとする党の綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。ここに日本共産党は、48年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。


 9.6日、全国自治会代表者会議〔東京〕、勤評闘争を徹底した非妥協的政治闘争として闘うことを確認。


 9.12日、藤山・グレス共同声明。日米安保条約改定に同意。


 9.13日、早大の二文、二政、二法で勤務評定反対ストライキ(8年振り)。


 9.15日、全学連は、勤評粉砕・不当弾圧反対第一波全国統一行動に呼応して闘争を全国各地で展開した。88校1万6千名参加、中央集会〔清水谷公園〕に4千名参加、文部省包囲デモ、夜6百名で文部省前坐り込み、その他京都府学連六百名、大阪府学連5百名、愛知県学連1500名で集会・デモ。(~11.26、第4波)。


 9.16日、全学連中執委、〝大学の自由・学園の自治に対する権力者の挑戦にあたり緊急非常事態宣言″発す。


 9.21日、全学連中間委、〝福島の闘いを突破口に全東北へ! 奈良の闘いを契機に全開西へ!″指令。


 9.25日、勤評粉砕・不当弾圧反対第二波全国総決起統一行動で、東京.日比谷公園の参加者は千数百名、デモ参加者は500名で停滞を見せている。文部省に抗議デモ、警官隊と衝突、夜間部学生五百名と合流して再び文部省前坐り込み(26日早朝、徹夜坐り込みの百名をゴボウ抜き、二十時間に亙る闘争終わる)


 9.29-30日、全学連拡大中執委、勤評闘争の連続的実力闘争展開など十月闘争方針を決定


 10.10日、全学連中執委、〝警職法粉砕のためにただちにストで起ち上れ〟と指示。


 10.7日、岸内閣は「警職法改正法案」を国会に上程した。


 10.9日、岸首相はアメリカの新聞記者に、「日本は台湾と南朝鮮が共産主義者に征服されるのを防ぐため、できるかぎりの準備をしなければならない。最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。現在のままでは軍隊の海外派遣はできないから、憲法は改正されなければならない」と語った。


【革共同太田派が脱落】
 太田派は関東トロツキスト連盟を結成していたが、9月に「日本トロツキスト同志会」へと改称し、翌59.1月、国際主義共産党をつくり、8月に第四インター日本委員会へ歩みを進めていくことになる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への「加入戦術」 を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。その後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では「国際的陰謀組織フリーメーソン論」での活躍で知られている。

【警職法反対闘争】

 この頃は勤評反対闘争の最中であったが、10.4日、警職法改正法案が突如発表され、10.7日、国会に上程されてきた。改正案は、現場警察官の判断次第で、国民の身柄の拘束や身体検査、住居立ち入りが認められるようにされていた。それは、戦後憲法が保障していた集会、結社、表現、通信、労働者の団結権、団体交渉権その他の権利等々、国民の基本的人権を大幅に狭めるものであった。

 これを受けて、共産党、社会党、総評などの諸団体が一斉に反対闘争に立ち上がった。「こわい警察はごめんだ」、「オイコラ警察復活反対」が合言葉になった。この時、社会党・ 総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」が生まれ、全国40近い府県で共闘組織が結成された。

 全学連はたちまち呼応し、勤評反対闘争と並んで10-11闘争の最重要課題と位置付け、非常事態を宣言、最大限の闘いを呼び掛けた。「ためらうことなくストライキに!国会への波状的大動員を、東京地評はゼネストを決定す、事態は一刻の猶予も許さない、主力を警職法阻止に集中せよ」と檄を飛ばした。全学連も「警職法改悪反対国民会議」のメンバーに入った。この時の学生運動は、全学連中央の指揮と共産党中央の指揮という二元化で共通の闘いを目指していたことに特徴があった。以降学生運動内にこの二元化が常態となる。

 10.10日、勤評粉砕・不当弾圧反対第三波総決起、全国的に低調、京都四百、大阪四百、東京百で集会・デモ。

 10.12日、全学連緊急全国自治会代表者会議〔大阪学大〕、警職法絶対阻止・波状連続スト展開を決定。

 10.14日、大阪府学連、勤評粉砕・大教組支援決起集会、大教組集会に合流、市内デモ。


【岸首相が憲法改正を語る】
 10.9日、岸首相はアメリカの新聞記者に、「日本は台湾と南朝鮮が共産主義者に征服されるのを防ぐため、できるかぎりの準備をしなければならない。最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。現在のままでは軍隊の海外派遣はできないから、憲法は改正されなければならない」と語った。

 10.15日、警職法阻止・勤評粉砕全国統一行動、中央集会〔清水谷公園〕に一橋大、東大文・医、法政大二部、早大二文等ストで千名参加、国会デモ。


 10.17日、警職法阻止青年学生達絡会議結成、全学連・民青同・社会党青年部等二十五団体で構成。


 10.18-19日、全学連中執委、警職法闘争を労働者階級の同盟軍として広汎な中間層を闘いに起ち上らせ一〇・二八、一一・五ゼネストで闘うことを決定。 


【全学連の自律、日共の焦燥】

 10.21日、日共は、アカハタ紙上に「日共青学対部「学生運動における極左的傾向と学生党員の思想問題」を発表し、次のように述べている。

 「(学生運動が)砂川闘争などを通じて成果をあげるに従って全学連中央、とりわけ党グル―プの権威が増大し(学連書記局細胞が)事実上学校細胞を全国にわたって指導するような状態が生まれた。しかも党中央でも各級機関でもこれに対する充分な注意がはらわれず、学生党員の活動は掌握されず適切な指導批判が行なわれなかった。党の指導は辛ろうじて中央専門部-中央グループ、各学校自治会グループという線で行なわれたにすぎない」。

 蔵田計成氏は次のように解説している。

 「このように、当時の学生党員グループは、党中央の指導を徐々に離脱し、もっぱら、全学連-反戦学同を中心にして、東大細胞機関誌『マルクス・レ―ニン主義』(活版1000部以上発行)の方針を受け入れ、独力で転換をとげつつあった。否、正確には運動の飛躍をかちとるためにこそ、日共中央の妨害と右翼日和見主義と闘い、その結果において党指導から離党し、自ら学連党的色彩を強めていったのである」。

 10.22日、全学連緊急全国自治会代表者会議〔大阪〕、警職法阻止一〇・二八ゼネスト、二三、二七、波状ストを決定。


【警職法反対闘争】
 10.28日、「警職法阻止全国学生総決起集会」に取り組み、労・学4万5000名が結集しデモ。二十七自治会がスト・授業放棄で決起、のち労働者集会に合流、夜、夜間部学生二千名の集会〔日比谷野音〕、のち有楽町デモ。

 11.1-4日、全学連、行動隊を組織して一一・五ゼネストを準備、連日国会に坐り込み展開。

 11.4日、政府自民党は会期を延長して警職法の通過を狙った。衆院本会議抜き打ち会期延長に即刻数百名の学生国会に抗議。園教授団(246名)警職法反対声明。

 11.5日、警職法阻止闘争は全国ゼネストに発展し、450万人の労働者学生が決起した。中央集会〔日比谷野音〕に岸内閣打倒・国会解散をスローガンに六千名参加、全学連4000名が国会議事堂チャペルセンター前坐り込み、地評の労働者が後方から国会議事堂を包囲するようにして連なった。一万名で国会を包囲した後、新橋までデモ。

【警職法反対闘争時における宮顕党中央の変調指導】

 付言すれば、この時島・氏は、宮顕党中央の変調を次のように鋭く指摘している。

 「警職法提出の10.7日、社会党、総評、全学連らがこぞって反対声明を発し戦いの態勢を整えているそのときに『アカハタの滞納金の一掃』を訴え、一日遅れて漸く声明を出した」、「反動勢力が全学連の指導する学生運動の革命的影響が勤評闘争.研修会ボイコット闘争などにおいて労働者階級に波及するのを恐れて、この攻撃に集中しているその最中、全労、新産別らのブルジョアジーの手先の部分の攻撃と期を一にするかの如く、代々木の中央は、『全学連退治』に乗り出し、この革命的部分を敵に売り渡すのに一役買っている」。
 「何時も後からのこのこついて来て、『諸君の闘争を支持する』とかよわく叫ぶだけだ」、概要「戦いの高揚期にきまって、『一部のセクト的動機がある』だの、『闘争を分裂させるものであって強化するものではない』などといい、全労.新産別らの自民党の手先に呼応している」。

 日共は、この頃よりこれらの全学連指導部を跳ね上がりの「トロツキスト」と罵倒していくことになった。10.21日、「学生運動における極左的傾向と学生党員の思想問題」を発表して、一連の学生党員の動きと思想を批判している。この論文でかどうかは不明であるが、(恐らく宮顕の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。

 「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態 を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」。
(私論・私観) この時の宮顕論法について
 云おうとしていることは判るが、自己を超然とした高みに置いた宮顕らしい品の無い論法であろう。「自分の好み」の運動の連動こそ自然でパワーになるのではないのかなぁ。誰しも「自分の好み」から逃れること が出来ないように思うけど。それと、相手を「一面的な判断」呼ばわりするには、己が「全面的な判断」を為し得る者である事を立証せねばならぬのではないのか。それに、「善意な大衆」という物言いは何なんだ。そういう言い方でのエリート臭が嫌らしく鼻持ちならない。

 11.3日、党は、アカハタに「学生運動にもぐりこんだ挑発者と闘え」を発表している。この論文で批判されていた法政大学第一細胞は、次のような見解を表明している。

 「殊に、日本共産党が1950年の分派闘争以来、常に反対派を抹殺し、組織的に排除される為に使われてきた『トロツキスト』という言葉が、我々に対しても又も投げつけられていることには驚きと悲しみ以外の感情を以って対することしか出来ない」。
 「日本共産党に徴して見る限り、トロツキストなる言葉が使われた場合、その言葉を投げかけた側がその相手と意見を異にしており、そして相手を憎悪しており、その相手を組織的に排除せんとしているということを意味する以外の何物でもなく、1905年、1917年ロシア第一.第二革命の際にペテログラード.ソビエト議長として革命を闘い、10年後には追放されたレオン.トロツキーの思想とは何ら関係なく使用されているようである」。

 11.5日、警職法改悪反対闘争、国会の抜き打ち会期延長で激化。広範な統一闘争に。


 11.10-11日、全学連緊急中執委一一・五闘争を総括、警職法闘争で岸内閣打倒をスローガンに戦術を決定。10.11日、全学連、警職法粉砕統二行動として全国的に集会デモ・署名活動展開、東京では首相官邸に昼夜五百名で抗議デモ、二名逮捕。

 驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、自民党は一ヶ月後の11.22日、遂に法案採決強行を断念した。この闘争過程は、この時の経験が以降 「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。


 11.17日、勤務評定反対ストライキで、早大が無期8人、停学1ヵ月5人を含む16人に処分(この処分は、54年の早稲田祭事件以来5年振り)。11.18日、処分抗議集会、11.20日、デモ学内―処分撤回闘争活発化する。


 11.27日、皇太子明仁と正田美智子の婚約発表。


【共産主義者同盟(ブント)結成】
 12.10日、東大本郷の医学関係の会館で、先に除名された全学連指導部の学生党員たちの全国のフラク・メ ンバー約45名(全学連主流派)、社学同の中村光男、鈴木啓一,多田靖、小野田猛史らか参集し、青木が「国際共産主義運動の総括」と題してソ連や日共を鋭く批判した。島が独自の革命組織結成を提案し、満場一致で採択された。こうして、55年以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党を建設するとして日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも云う)を結成した。

 「共産主義者同盟結成大会議案」(「プロレタリア通信」第6号、1958.12月)は次のように声明している。
 「全国の青年同志諸君!! 我々はすぐる一年もブルジョア階級とのきびしい闘争にあけくれた。しかし、プロレタリア大衆の偉大な戦闘的意欲にもかかわらず、また、資本主義の死の苦悶にもかかわらず、世界革命への道程は峻しく、またさびしい。何故なら、真に革命的な指導部がどこにも存在しないからだ。……全国の青年同志諸君!! 我々の意図と思想と熱情は次の文書の中に未熟な言葉でつづられている。我々と思想を同じくし、ブルジョアジーと、彼等に死を与えるべき革命運動を毒しつづけている者達に対する、火のような憎悪に燃える同志諸君に、我々は熱情をもって訴える。日本労働者階級解放の革命的前進のために我々と共に進もうではないか。万国のプロレタリアート団結せよ!! 1958・12、東京」。
 「我々は一切の革命的空文句を拒否する。たとえ我々が正しい思想、正しい理論、正しい綱領をもって武装されたとしても、またそれがいくら多量のビラ、新聞の配布によって支えられようとも革命理論を物質化する実体が存在せねば全くのナンセンスである。(武器の批判は批判の武器にとって変ることはできぬ) 組織の前に綱領を! 行動の前に綱領を!! 全くの小ブルジョアイデオロギ―にすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織しその実践の火の試煉の中で真実の綱領を作りあげねばならぬ。……組織は真空の中では成長しない。労働者階級の闘いが生起する課題に最も労働者的に、最も階級的に応えつつ闘争の先頭にたって闘うことによって、その党は革命的方針を渇望する労働者にこたえることができる」。
 
 上記声明を踏まえながら、蔵田計成氏は、ブント結成の意義について次のように評している。
 「かくて、革命的左翼はついに日本革命運動史上において無謬性を誇り、一枚岩の団結を誇示してきた前衛党神話の呪縛から自己を解放し、その崩壊を告げる弔鐘を、夜明けの空にうち鳴らすことになった。共産同がこう主張するとき、そこから演繹される第二の結論は、新党結成以外にはなかった。また、この点にこそが、革共同が歩んだそのすぐれて先駆的な道程と、その党組織=建設論における決定的な相違があった。

 すなわち、既述したように日本の革命的左翼のイデオロギー的源流となったトロツキスト連盟=革共同は、日本反スタ=トロツキズムのイデオロギー的伝導者=サ―クル集団として発足した。そのために、学習会や喫茶店オルグを中心にした「真空の中の党づくり」を建党路線(党組織戦術、運動組織論)とした。この建党=運動組織論は、やがて革共同(黒田)主義として結実する。すなわち、プロレタリア的人間の論理、党主体の確立、自己変革、綱領主義、党のための闘いの最優先……となった。

 これにたいして、共産同は「たたかうための党」を対置した。共産同にとって、党とは現実の階級闘争をもっとも極限的に自己貫徹しうる実体としての組織であった。そのためには、まずスターリニズムが裏切った過去の共産主義運動の歴史を墓場から掘り起こし、現実の階級闘争における公認前衛党の裏切りを武器によって批判し、その手段として、マルクスを引用し、トロツキズムにも学び、レ―ニン主義を復権させ、世界をもう一度独力で再構成していくことだった。その結果において、40年の歴史を誇る日本の公認前衛党の神話と権威を実践的に否定し、一枚岩の団結のしがらみから自己を解放し、当時「コペルニクス的転回」といわれた「別党コース」による新たな党を創成していくことであった。そのための作業は、階級闘争という烈火の試練のなかではじめて可能であった」。
 古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島氏がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島・森田・古賀・片山・青木の5名が選出された。ブント書記長に島・氏が選ばれた理由については「島論」に記す。

 島氏は、翌日開かれた全学連大会で学連指導部から退き、ブントの組織創成に専念することになった。学生党員たちに党から分離してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。他に門松暁鐘、富岡倍雄、山口一理、佐久間元、今も 中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷・唐牛ら5名が参加している。理論的支柱は、姫岡玲治のペンネームで活躍していた青木昌彦氏であった。
(私論.私見) 「ブント(=BUND)結党をどう観るべきか」、ブント発生の歴史的必然考
 「ブント(=BUND)結党をどう観るべきか」。このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動(主として学生運動)を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。もっとも、その認識の仕方と行動的手法において際限なく分裂化していくことになり、結果ブント系諸派を生み出していくこととなった。

 ブント発生を近視的に見れば、「50年問題について」の総括後の当時の党が宮顕式路線に純化しつつあった状況とその指導に対する強い反発にあった様が伺える。宮顕式路線の本質が運動を作り出す方向に作用するのではなく、運動を押さえ込み右派的統制主義の枠内に押 し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」としてブントが結成されたという経過が踏まえられねばな らないと思う。このセンテンスからすれば、元来党とブントは近い関係にあり、 ブントとはいわば急進的な潮流の党からの出奔とみなした方が的確と云えることになる。
(私論.私見) 「革共同純トロ」、「ブント準トロ」規定について

 ここに、先行した「純」トロツキスト系革共同と並んで、「準」トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが新左翼又は極左・過激派と言われることになる源流である。この両「純」・ 「準」トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。

 「革共同純トロ」、「ブント準トロ」という規定について、須田大春氏が「安保構改派座談会」で次のように述べている。

 「革共系を純トロ、ブントを準トロと呼ぶことを最近知った。なかなかよくできているが、座談会向きではない。我々は洋トロ(4トロ)、ヤマトロ(大和のトロ)と区別したと思う」。

 これについて一言しておく。「革共同純トロ」、「ブント準トロ」規定はれんだいこが創始したのか、はたまたどこかから援用したのか、れんだいこには分からなくなっている。しかし、実態には即しているように思う。但し、「革共同洋トロ」、「ブントヤマトロ」規定もズバリ本質を言い当てているようにも思われる。してみれば、「革共同洋トロ」、「ブントヤマトロ」規定は当時使われていた表記で、「革共同純トロ」、「ブント準トロ」は後世の規定ということで了解すべきか。

 いずれにしても、革共同とブントの違いについて拘っておく必要があるということである。宮顕系日共は、これを十把一絡げにトロツキスト呼ばわりし、排撃に勤しんでいく。日共の公式的見解からすれば、革共同もブントもトロツキストであり、日共とは何らの関係もないという意味でそのように規定しているのであろうが、それは宮顕流の御都合主義的な歪曲であり史実は違う。れんだいこ史観から見ると、宮顕の反動的な党運営が絡んで、党内急進派がブント系として止むに止まれず巣立ちしていった面があったと見る。そういう意味で、「革共同もブントも十把一絡げのトロツキスト論」は粗雑にして有害な規定であり、その後の学生運動内部の苦闘史に対する冒涜でしかない。宮顕から見れば同じでも、運動論上からはかなり問題のある謂いであることをここで確認しておく為に注記した。

 2005.8.29日 れんだいこ拝


【ブント(BUND)の由来について】
 ここで、ブント(Bund)の意味を解析しておく。ブント(Bund)はドイツ語で、日本語に直すと同盟。これには、日本共産党の「党」=パルタイ(Partei・ドイツ語)に対抗する意味があった。歴史的な意味でのブント(=BUND)とは、「共産主義者同盟」(=Bund der Kommunisten )の略称、通称であり、非公然の国際的な労働者組織(革命政党)の名称であった。1847(弘化4)年 から1852(嘉永5)年まで続いた共産主義者の最初の組織で、その濫觴(もののはじまり)は、1834(天保5)年、パリに亡命していたドイツ人亡命者がつくった追放者同盟である。

 1847(弘化4)年にマルクスーエンゲルスの共産主義理論を受け入れ、同年夏、ロンドンで開かれた「義人同盟」の大会で「共産主義者同盟」と改称する。この時、綱領とされた「共産主義者の宣言」には「共産主義者の目的は”既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できる」と宣言し、 ”支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ!万国のプロレタリア団結せよ!”の呼び掛けで有名な あの「共産主義者の宣言」は、このブントの綱領であり、1848年(嘉永元年)マルクスとエンゲルスが起草したものである。「共産主義者の宣言」は、その後の反体制運動のバイブルとなった。

 「ブント命名の経過の定説」及びブント結党の決意について、「新左翼の20年史」は次のように記している。
 概要「ブント(BUNT)とは ドイツ語で同盟の意味であり、代々木系日共運動と決別する強い意志を込めて党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められていた。『組織の前に綱領を! 行動の前に綱領! 全くの小ブルジョアイデオロギーにすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織し、その実践の火の試練の中で真実の綱領を作り上げねばならぬ」。

 つまり、ブントが「代々木系日共運動と決別する強い意志」を込めて結党され、新左翼党派結成を目指すことになったことが分かる。 ちなみに、「共産同(ブント)」と名乗ったことについて、島氏は後年次のように述べている。
 「あまりたいした意味はないが、まだ当時、綱領、規約もなく、党という感じではなく、それかといって名がないのも困るので捜したら、エンゲルスの『共産同』というのがあり、これがいちばんよさそうだということできめてしまった」と述べている(1971.1.29 付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」)。

(私論.私見) 「ブントと革共同との関係考」
 こうした党内急進主義者たちのブント化の背景にあったもう一つの情勢的要因は、先行する革共同系の動きにあった。つまり、ブントは、一方で代々木と対立しつつ他方で革共同とも競り合った。この時のブントと革共同の理論的な相違について、島氏は次のように解説している。
 対立の第一点は、トロツキーの創設した第4インターの評価である。この時点の革共同は、トロツキー及び 第4インターを支持するかどうかが革命的基準であるとしていた。これに対し、 ブントは、第4インターにそれほどの価値を認めず、「世界組織が必要なら自前で新しいインターナショナルを創設すれば良い」としたようである。つまり、トロツキー流「革命裏切り史観」を批判的に摂取したということになる。

 第二に、ソ連に対する態度に違いが見られた。この時点の革共同は、「反帝・反スタ」主義確立前であり、「帝国主義の攻撃に対する労働者国家無条件擁護」によるソ同盟の防衛に固執していた。これに対し、ブントは、「革命後50年近くも経過して強大な権力の官僚・ 軍事独裁国家となり、労働者大衆を抑圧し、しかも世界革命運動をこの権力の道具に従属させ続けてきたソ連国家はもはや打倒すべき対象でしかない」 とした。付言すれば、こうしたブントの政治理論が革共同に影響を与え、「反帝・反スタ理論」を生み出していくこととなった風がある。(理論の切磋琢磨の好例として私は着目している)

 更に、島氏は、私が最も嫌悪したのは革共同の「加入戦術」であったと云う。「自分たちの組織はまだ小さいから既成の、可能性のある社会党などに加入してその中で組織化を行おう」という姿勢に対して、これをスケベ根性とみなした。「私たちは既成の如何なる組織・思考とも決別し、自らの力で誰にも頼らず新しい党を創ろうとし、ここに意義を見いだしていた」という。

 その他セクト主義・労働運動至上論等々の意見の相違を見て、ブントは翌59.4月頃には革共同派との決別を決意していた。古賀氏は後になって、「陽気で野放図で少しおめでたいようなブントに対し、革共同は深遠な哲学的原理を奉ずる陰気な秘密結社のようだった」と当時を回想している。案外とこういう気質面の差が大きな役割を占めているのかも知れぬ。

 運動論の違いとして次のような語りも為されている。
 「批判の武器は、武器による批判に取って代わることは出来ない。真に闘う前衛党創成への道は、決して革共同流の喫茶店オルグや研究会という真空の中の党建設という手工業的組織戦術ではない。現下の階級闘争の烈火の試練をくぐり抜けるダイナミックな組織戦術にある」。

 鎌田氏によれば次のような理論を持っていた。

 概要「ブントは、新党結成→革命的学生運動の戦闘的展開を直接媒介にして既成前衛党=日本共産党への実践的批判を展開した。この政治的激闘の中で確立されたブント『前衛党論』、『運動組織論』は『闘いを組織する党論』、『闘うための党論』と『先駆性論』であった。ブントはその『前衛党論』の下に真に闘う前衛党を創成するために、戦後学生運動の革命的伝統と、先進的学生運動の先駆性に依拠し、学生運動によって切り開かれるべき階級闘争の激闘の中に前衛党の未来像を求めていった。さらに、それを保証し、実現していくために、伝統に輝く全学連の『層としての学生運動路線』、『労学提携路線』を発展させて、『学生運動先駆性論』、『捨て石運動論』を確立していった。ブントはこの学生運動の先駆的死闘によって、階級情勢の激動を切り拓き、次なる闘いを準備し、最後はあの『6・15国会突入闘争』にみる歴史的大闘争を実現していった。ブントは、このような三つの党派的立脚点=党派テーゼを基軸にしてブント主義の実現を目指したのである。このブント主義の実現過程は、同時に次の二方向の極限志向=自己純化の過程でもあった。この二方向の極限志向=自己純化が、ブント主義の内実であり、背骨であった。

(一)先駆性論、捨て石論、自己犠牲、英雄主義的玉砕主義、革命への求心主義(根元志向、ラディカリズム)としての「理念的自己純化」。(二)先進的・革命的運動、闘争、戦略・戦術における「外形的極限志向」。

【ブント結成に至る経緯】

 このブント結成にいたる経過について分かりやすく纏めた一文があるのでここに掲載する。(社労党機関紙「海つばめ」第783号.町田勝)

 一九五八年一二月、「革命的左翼の政治的結集」を掲げて、共産主義者同盟(ブント)が誕生した。ここに初めて公認のスターリニスト共産党に代わる新たな革命的労働者政党をめざす闘いが公然と開始された。これは日本社会主義運動史上に時代を画する大きな歴史的な出来事であった。

 すでに見たように、これに先立つ三年前の一九五五年七月、日本共産党は六全協で分裂状態に終止符を打ち、組織の統一を回復した。しかし、旧主流派・所感派と新主流派・国際派との野合による党中央指導部のその後の動きは党の革命的再生をめざす誠実な党員たちの期待を全く踏みにじるものであった。

 翌五六年のソ連共産党第二〇回大会におけるフルシチョフによるスターリン批判、またこれを契機にしたポーランド、ハンガリーにおけるスターリニスト共産党の支配に反対する民衆の決起は、日本のスターリニストたちにも自分たちの思想と理論、組織と運動に根底からの深刻な総括と反省を迫るものであった。しかし、宮本顕治らは何一つ真剣に自己切開のメスを加えようとはしなかった。

 それどころか彼らは、ハンガリー民衆の蜂起を帝国主義の陰謀とののしり、ソ連の戦車による反乱鎮圧を「プロレタリア国際主義の現れ」と賛美するとともに、スターリン批判を「個人崇拝」や「家父長的指導」などに矮小化し、これらはすでに自分たちにとっては六全協で一足先に解決済みと居直り、あまつさえ党内問題を党外に持ち出したハンガリー党の無規律が帝国主義者の反革命的介入を許す一因となったとの口実の下に党内の官僚的統制の一層の強化に乗り出す始末であった。

 そして、翌五七年九月に発表された「党章草案」は五一年綱領を手直ししたに過ぎない「対米従属」論と「二段階革命」論のドグマに基づく「民族民主革命」という典型的なスターリニズムの民族主義的綱領であった。

 こうした中で、俄然、スターリン批判やハンガリー事件、新綱領路線をめぐって激しい論争が巻き起こった。党中央批判の一方の火の手は構造改革派からあげられ、他方ではこれとは全く別の観点から東大などの学生細胞に所属する党員たちからあげられた。

 五八年一月、東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』の山口一理論文でのろしをあげた学生党員たちは、五月には反戦学生同盟を社会主義学生同盟(社学同)に改称、続く全学連第一一回大会では党中央派を押し切って主導権を確立、大会翌日に党本部で開かれた全学連大会党員グループ会議では「第七回大会では、現在の党中央委員会を不信任するよう要求する」との決議を採択した(六・一事件)。一方、これに対して、宮本らは卑劣にも大量の除名処分をもって答えた。

 ここに至って、学生党員らは公然たる分派闘争と新組織結成への動きを強めていく。九月には機関紙『プロレタリア通信』が創刊され、その第一号は現在の共産主義者の任務は「何よりも革命的前衛党のための粘りづよい努力を展開すること」にあると宣言した。そして、全学連もまたその闘いの一翼を担った勤評闘争、警職法闘争の大衆的な高揚を背景に、彼らは同年一二月、共産主義者同盟(ブント)を結成したのである。

 翌五九年一月に創刊された機関誌『共産主義』第一号の、ブント結成宣言とも言うべき巻頭論文「全世界を獲得するために――プロレタリアートの焦眉の課題」は「社会主義革命の成功を導く能力を持つ革命的前衛を結集せよ」と高らかに呼びかけた。

 「このような一九五九年の現代についての検討から導かれる結論はなにか?

 それは世界資本主義の危機の成熟であり、この危機を逃れでる道、世界プロレタリア革命と共産主義の勝利の客観的諸前提の成熟であり、そして、この前提の存在にもかかわらず国際共産主義運動の勝利を阻害しているプロレタリアの指導部の危機による人類の歴史的危機である。

 そしてこの指導部の危機の克服の道は、ただ一つ――一切の公認の共産主義運動の指導部に対するあらゆる幻想からプロレタリアートを解き放ち、真の革命的マルクス主義の再生にもとづいた革命的左翼を独立させ、このもとに革命的労働者を結集させることによってのみなされるという結論である」

 ブントの歴史的な意義――それは、数十年にわたって世界と日本の労働者階級の運動を支配してきたスターリン主義の呪縛からの解放を公然と宣言し、「社共に代わる新たな革命政党の結成」を提起したこと、そして結成と同時に直面した安保闘争を「帝国主義的自立への第一歩を踏み出した独占資本に対する労働者の階級的闘い」と位置づけ、実践的にもこの闘いを領導することによって共産党の醜悪な民族主義の反動性を徹底的に告発し、長年の「前衛党神話」を打ち砕いたこと、まさにここにこそあった。ブントのこの歴史的功績はどんなに強調しても強調しすぎることはないであろう。

  社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」には次のように記されている。
 ■■■ブント結成の背景とその歴史的功績■■■

 1958年12月、「革命的左翼の政治的結集」を掲げて、共産主義者同盟(ブント)が誕生した。ここに初めて公認のスターリニスト共産党に代わる新たな革命的労働者政党をめざす闘いが公然と開始された。これは日本社会主義運動史上に時代を画する大きな歴史的な出来事であった。すでに見たように、これに先立つ3年前の1955年7月、日本共産党は六全協で分裂状態に終止符を打ち、組織の統一を回復した。しかし、旧主流派・所感派と新主流派・国際派との野合による党中央指導部のその後の動きは党の革命的再生をめざす誠実な党員たちの期待を全く踏みにじるものであった。

 翌56年のソ連共産党第二〇回大会におけるフルシチョフによるスターリン批判、またこれを契機にしたポーランド、ハンガリーにおけるスターリニスト共産党の支配に反対する民衆の決起は、日本のスターリニストたちにも自分たちの思想と理論、組織と運動に根底からの深刻な総括と反省を迫るものであった。しかし、宮本顕治らは何一つ真剣に自己切開のメスを加えようとはしなかった。
 それどころか彼らは、ハンガリー民衆の蜂起を帝国主義の陰謀とののしり、ソ連の戦車による反乱鎮圧を「プロレタリア国際主義の現れ」と賛美するとともに、スターリン批判を「個人崇拝」や「家父長的指導」などに矮小化し、これらはすでに自分たちにとっては六全協で一足先に解決済みと居直り、あまつさえ党内問題を党外に持ち出したハンガリー党の無規律が帝国主義者の反革命的介入を許す一因となったとの口実の下に党内の官僚的統制の一層の強化に乗り出す始末であった。

 そして、翌57年9月に発表された「党章草案」は五一年綱領を手直ししたに過ぎない「対米従属」論と「二段階革命」論のドグマに基づく「民族民主革命」という典型的なスターリニズムの民族主義的綱領であった。

 こうした中で、俄然、スターリン批判やハンガリー事件、新綱領路線をめぐって激しい論争が巻き起こった。党中央批判の一方の火の手は構造改革派からあげられ、他方ではこれとは全く別の観点から東大などの学生細胞に所属する党員たちからあげられた。58年1月、東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』の山口一理論文でのろしをあげた学生党員たちは、5月には反戦学生同盟を社会主義学生同盟(社学同)に改称、続く全学連第一一回大会では党中央派を押し切って主導権を確立、大会翌日に党本部で開かれた全学連大会党員グループ会議では「第七回大会では、現在の党中央委員会を不信任するよう要求する」との決議を採択した(六・一事件)。一方、これに対して、宮本らは卑劣にも大量の除名処分をもって答えた。

 ここに至って、学生党員らは公然たる分派闘争と新組織結成への動きを強めていく。9月には機関紙『プロレタリア通信』が創刊され、その第一号は現在の共産主義者の任務は「何よりも革命的前衛党のための粘りづよい努力を展開すること」にあると宣言した。そして、全学連もまたその闘いの一翼を担った勤評闘争、警職法闘争の大衆的な高揚を背景に、彼らは同年12月、共産主義者同盟(ブント)を結成したのである。

 翌59年1月に創刊された機関誌『共産主義』第一号の、ブント結成宣言とも言うべき巻頭論文「全世界を獲得するために――プロレタリアートの焦眉の課題」は「社会主義革命の成功を導く能力を持つ革命的前衛を結集せよ」と高らかに呼びかけた。「このような1959年の現代についての検討から導かれる結論はなにか?それは世界資本主義の危機の成熟であり、この危機を逃れでる道、世界プロレタリア革命と共産主義の勝利の客観的諸前提の成熟であり、そして、この前提の存在にもかかわらず国際共産主義運動の勝利を阻害しているプロレタリアの指導部の危機による人類の歴史的危機である。そしてこの指導部の危機の克服の道は、ただ一つ――一切の公認の共産主義運動の指導部に対するあらゆる幻想からプロレタリアートを解き放ち、真の革命的マルクス主義の再生にもとづいた革命的左翼を独立させ、このもとに革命的労働者を結集させることによってのみなされるという結論である」

 ブントの歴史的な意義――それは、数十年にわたって世界と日本の労働者階級の運動を支配してきたスターリン主義の呪縛からの解放を公然と宣言し、「社共に代わる新たな革命政党の結成」を提起したこと、そして結成と同時に直面した安保闘争を「帝国主義的自立への第一歩を踏み出した独占資本に対する労働者の階級的闘い」と位置づけ、実践的にもこの闘いを領導することによって共産党の醜悪な民族主義の反動性を徹底的に告発し、長年の「前衛党神話」を打ち砕いたこと、まさにここにこそあった。ブントのこの歴史的功績はどんなに強調しても強調しすぎることはないであろう。

 11.11-12日、社学同第3回全国大会を開催し、「全学連の転換評価、安保改定反対・勤評阻止、目共中央の学生運動弾圧には断乎闘う」を決議する。委員長・陶山健一、書記長・多田靖を選出する。

 社学同「理論戦線」第2号(発行所:リベラシオン社、執筆:森茂、熊谷信雄、姫岡玲治)発売される。


【全学連第13回大会】

 12.13-15日、ブント結成の直後、全学連第13回大会が開かれた。こうして58年は一年に3回も全学連大会が開かれることになった。勤評・警職法闘争を総括、当面の闘争方針として安保阻止・岸内閣打倒等を決定した。

 「全学連第13回大会議案書」は、学生運動の性格を「学生運動は労働者階級の同盟軍として、いかにして労働者階級を革命闘争に決起させるかという観点から運動方針を立てるべきであって、その結果中間層である学生の間に分化が起こるのは当然であって、これに動揺して統一しようとしてはならない」と規定し直した。こうして、共産党から訣別し「真の前衛党の組織化」を意思統一した。

 他方で、過去のブント系執行部路線に対し次のように批判的に総括し、新しい方針を打ち出した。
 「労働者階級の闘争が後退し、学生戦線の全体的沈滞がある現局面では、体制整備が主要な課題(であり)、後退期の学生運動に一揆主義的闘争方針を適用することは誤りである」。

 こうして過去の「連続的波状的ストライキ」戦術に代わって、1・学生運動の大衆化への転換、2・イデオロギー活動の強化を決定した。

 人事が最後まで難航したが、委員長・塩川喜信(東大)、副委員長・小島弘(明大)、加藤昇(早大)、書記長・土屋源太郎、清水書記次長、青木情宣部長を選出した。革共同系とブント系が指導部を争った結果、革共同系が中枢を押さえ、革共同の指導権が確立された大会であったとされている。ブントには革共同系の学生が多数組織的に潜入していたということであるが、こうして、この時革共同が委員長、副委員長、書記長などの三役を独占した(氏名が今一つ不明)。当時、革共同メンバーは同時にブントにも参加していたということでもあった。このことは、革共同の全学連への影響力が強まり、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことを意味している。そのため、全学連指導部の内部で「純ブント」と「革共同」の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。

【全学連内に於ける革共同系とブント系の確執】

 その後も革共同系とブント系は運動論や革命路線論をめぐっての対立を発生させ、指導権を争っていくことになった。が、その後の史実から見て、多くの学生はブントを支持し流れていったようである。事実は、ブントが革共同系の追い出しを図ったということでもあると思われる。なお、この時の議案は、革共同のかねてからの主張であった「安保改定= 日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」で安保闘争を位置づけていたとのことである。

 但し、こうした革共同理論に基づく長たらしい「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになったようである。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくことを主張していた。

 「ブント-社学同」の思想の背景にあったものは、日本共産党が日本の革命的政治を担うことができないと断じ、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出(「前衛党建設論」)であった。こういう観点から、学生運動を労働運動との先駆的同盟軍として位置づけることになった。党の「民族解放民主革命の理論」 (アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段 階革命論)に基づく「民主主義革命路線」に対して、明確に「社会主義革命路線」を掲げていた。代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国 共産党をスターリン主義と断罪、その打倒を掲げ、「全世界を獲得せよ」と宣言していた。革共同の思想的影響の取り込みが見られる。

 これを図式化すれば 次のようになり、党の綱領路線とことごとく対立していたことが判る。平和共存・一国社会主義→世界永続革命、二段階革命→一段階社会主義革命、議会主義→プロレタリア独裁、平和革命→暴力革命、スターリン主義→レーニン主義の復権。

 後に共産同(ブント)を創設し、その初代書記長に選出される島成郎は、この間の学生運動の左転換の意義を「最近の学生運動について」(「プロレタリア通信」第4号、1958.10月)の中で 次の四点に集約して確認している。
 「現在の国際的階級闘争の現状を二つの体制間の対立からすべてを導き出し、そのことから、革命的プロレタリアートの任務を、ソヴエト連邦の外交政策に従属させることによって、世界の労働者階級の闘いを瞞着しているスタ―リ二ズムの一分派フルシチョフ路線を事実において破棄し、現時点での資本主義の矛盾を暴露しつつ、敵階級の国際的動向を明瞭にした」。
 「進行しつつある植民地革命の階級的性格と意義、フランス(アルジェリア問題)においてあらわなファシズムの危険、アメリカ帝国主義の世界政策と核武装、軍事同盟の意義、さらには激化しつつある世界市場争奪戦と対社会主義国家への侵略戦争準備過程における各国帝国主義の位置を明らかにした」。
 「実践的には平和擁護の闘いを、階級闘争から分離し、階級闘争に優越させることによってドグマ化した『第一義性』を主張し、国内におけるブルジョアジーとの協調さえも強調することによって労働者階級の闘いを妨げる『幅広論』を打破した」。
 「国内情勢においては、階級的視点を放棄し『半占領』とか『民族解放』とかいう非マルクス主義的分析方法において、現実の階級闘争から全く分離しているドグマをふきとばし、日本ブルジョアの階級支配の状況を明らかにし、復活してきた日本帝国主義の危険を歴史的に解明し、労働者階級の解放の道とともに、現実の階級闘争の攻撃の性格及びこれに対して闘う労働者階級の階級的闘いの方向を示した」。

【第一次ブント最初期のメンバーについて】
 この頃ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。「追悼 今野求 島成郎 野村豊秋 さらぎ徳二 原之夫」その他を参照する。「当時の東大細胞には秀才、俊才、異才がキラ星のように結集していた」。

 1957.12月の「島成郎、生田浩二、佐伯秀光三名の秘密会議」を細胞核として、島の妻・島美喜子、香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)、倉石庸、 少し後から多田靖、常木守等がアジトに常駐するようになる。青山(守田典彦)も。シンパ文化人として吉本隆明、マルクス主義理論家として廣松渉(ひろまつわたる、門松暁鐘)が早くより登場する。

 他に世間に知られているところとして、東大系で森田実、中村光夫、富岡倍雄、星野中、長崎浩、林紘義、西部邁(「60年安保――センチメンタル・ジャーニー」)。早大系で小泉修吉、佐久間元、蔵田計成、下山ら。中央大系で由井格。京大系で今泉、小川登。後に中核派指導部を構成する陶山健一、田川和夫、北小路敏、清水丈夫、藤原慶久、小野正春らが参集する。北海道学連から灰谷慶三、唐牛ら5名が参加している。ちなみに、佐伯(山口一理)と片山(佐久間元)と小泉は神奈川県立希望ヶ丘高校以来の同窓であったと云う。

 その他、立ち位置が分からないが大野明男、西村卓司、岡部通弘、石井暎禧、河辺岸三、山平松生、林道義、林紘義、仲尾宏、廣瀬昭、西井一夫、五島徳雄、東顕、千葉喬之、平井吉夫、佐野茂樹、司波寛、加藤尚武、榊原勝昭、東原吉伸、大瀬振、佐藤粂吉、前田裕晤、山本庄平、多田靖、竹内基浩、大口勇次郎、有賀信勇、中垣行博、二木隆、佐藤路世、小林好男、山田恭暉、向井拓治、佐藤正之、坂野潤治、葉山岳夫、小木和孝、河宮信郎。女性グループとして今井素子、大内良子、中村、須原、鎌塚、荒木、下土井、大島康子、松崎才子ら。革共同系の星宮換生、塩川喜信の面々。キラ星の如くな人間群像が知れるであろう。

 「本名(ペンネーム)」を記す。富田善朗(山中明)、生田浩二(加藤明男)、佐伯秀光(山口一理、宮本健一)、島成郎(熊谷信雄)、星宮煥生(唐木恭二)、冨岡倍雄(久慈二郎)、野矢テツオ(杉田信夫、信雄)、古賀康正(坂田静朋、岡田行男)、小野田猛史(武田秀郎、北川登)、片山迪夫(佐久間元、須貝俊、曽木晴彦)、倉石庸(井上実)、小泉修吉(芳村三郎)、白井朗(山村克)、鈴木啓一(森茂)、大瀬振(鏑木潔)、陶山健一(岸本健一、清川豊)、加藤尚武(真樹朗)、片山修(白岳徹)、山田恭暉(米田浩平)。


【この時期の日共の動き】

 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。全学連のブント化の動きに対して12.25日、党は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と全学連指導部の極左主義とトロツキズムの打倒を公言した。ブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」 紙上の一面トップ全段抜きでこの幹部会声明を掲載した。この時「島他7名の除名について」 も合わせて報ぜられた。

 こうして党は、社学同を排撃し、一方で党中央委員会の査問を開始し、正月と共に全国の学生細胞に直接中央委員などをさし向け、一斉弾圧を策した。他方で、民青同学生班を強化育成していくこととなった。


【この時期の革共同の動き】
 ブント結成を転機に日本トロツキズム運動の局面は転換した。「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
 「ブント結成に対してJRの関西の指導部はむしろ攻勢的であった。星宮たちはブントは所詮寄り合い世帯の連合体に過ぎないのであり、JR派が強固に結集して、ブント内で多数派工作を展開すれば、ブントの多数派はJRによって制することが可能であるという展望をたてていた。このブントへの方針は、黒田の反スタ統一戦線という誤った路線に一脈通ずる側面もあったが、この方針の中心はむしろ、ブント内党派闘争を通じて多数派を獲得しようとする統一戦線戦術の立場にあったということができる。事実、ブント結成に到る期間、理論上も、学生運動の実践上もそのヘゲモニーはJR派が掌握していたのである。したがって、星宮のブントへの攻勢的方針には理実的根拠が存在していたといえよう」。

 59年から60年にかけて、トロツキズムはブントと主導権を争っていくことになった。太田派脱落後の黒寛を指導責任者とする革共同は、新指導部の大川がブント結成の流れに便乗しようとして破産し、遠山は太田派が旗揚げしたトロツキスト同志会へ移り、山村はその任務の重さに耐え得ることなく活動から召還するという按配で、遂に黒寛は政治局辞任の申し出を西に行った。こうして、JRの東京の体制は崩れた。JR関西の指導部が東京の体制の再建に着手しなければならなくなった。11月、関西ビューローは「世界革命」の休刊状況を座視できず機関紙「プロレタリアート」を創刊し、警職法闘争の情勢に応えていった。

 ほぼこの頃、JRの全国体制が形成された。58.4月、京都で星宮、寺岡らが加盟した。京都、大阪では徐々にメンバーの獲得が進行し、夏から秋にかけて、京大、同志社、立命館、京学大、大阪市立大、大阪外大、大阪学大などにメンバーが組織されていった。このなかには、酒井、永井らが含まれていた。58.10から11月、ブント結成に対応して組織拡大が続けられた。関西における最後の刈り取りがなされ、東京、東北、四国、九州の学生運動の指導メンバーがJRに獲得された。東京では塩川、鬼塚、土屋らをはじめ、東大、一橋大、東工大、東学大、明治大、法政大、東京女子大、埼玉大などにJRメンバーが誕生した。東北においては東北大の今野、藤原らをはじめ、福島大にもJRメンバーが組織された。その他金沢大、九大、熊本大、鹿児島大、高知大、広島大等にもJRメンバーか生れた。かくて、1958.12月のブント結成時においてはJRは全国政治組織として体裁を作りあげることに成功していた。当時のピークにおいてJRメンバーは三百名から四百名の間を確保した。

 58.12月、書記局を関西へ移転してほしいと提案してきた大川の申し入れによって拡大政治局会議が開かれ、書記局の関西への移転を決定した。JRが学生運動の主流にある関西において、組織の建設と中央書記局機能の回復が開始した。

【この時期の太田龍派の動き】
 太田は58年秋からかねて念願の加入戦術を実行に移した。日本社会党への「加入戦術」 を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。すでにこの頃になると、東大、東学大の他にいくつかの大学や看護学院などにトロ同のメンバーが拡大していた。顔の割れている大国を除いて、トロ同のメンバーは全面的に社会党の地区組織に入党手続をとった。当時社会党には組織も運動もなかった。党は議員と労働官僚の連合寄合い世帯にすぎず、大衆運動の活動家はいなかった。とくに東京の社会党は地区活動もなく、地区労運動も日共のヘゲモニーに握られていた。

 58.12月、太田はトロツキスト同志会がいくらか拡大し、かつ日比谷高校グループがみな大学へ入って活動家となった状況のうえに太田グループの総力をまとめて、国際主義共産党(ICP)を結成した。国際主義共産党の結成はブント結成と時を同じくしていた。ICPはブント結成に無関心で、アブクの様なものと看做していたとのことである。

 太田竜は、社会党の学生運動をプロレタリア的な学生運動として規定した。そしてその内容を体系化した。プロレタリア的学生運動はまず学生層を小ブル的知識層として規定せず、プロレタリア予備軍として規定し、このプロレタリア予備軍の要求を闘いとることがプロレタリア的学生運動である。したがって闘争の課題は情勢に対応した政治闘争よりは、奨学金のための闘争、授業料の廃止、カリキュラムの自主決定、大学卒業生の完全就職の要求など、プロレタリア予備軍の経済要求が中心課題となるべきであるとした。ICPのメンバーは学園を単位に再結集し、社会党青対部に社会党の学生運動を創出することを申し入れた。

 学生運動は戦後において共産党の独占的領域であり、社会党はついぞ学生運動に自己の支持勢力を見出すことはなかった。したがってICPの申し出を社会党青対部は歓迎し、ICPのメンバーに当時全寮連で活動していた佐々木慶明を紹介した。佐々木は理論的に山川均を信奉しており、その関係からほとんど当時の学生では唯一人ともいうべき社会党員であった。

 佐々木は学生運動に春闘方式をひきうつす理論を展開したが、これは太田の学生運動論に一脈通ずるものであった。ICPのメンバーは佐々木の理論と太田の理論を重ね合せられることを喜んで、学生運動民主化協議会を結成した。結成には佐々木とICPに加えて浅沼稲次郎以来の伝統をもつ早大の建設者同盟が参加した。

 12.23日、東京タワー完工式。 


 12.31日、社学同全国執行委、〝日本共産党の組織破壊工作に対する声明″発表。


 これより後は、「第5期その2、新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。





(私論.私見)