1958年 | 【戦後学生運動第5期その1】 |
(新左翼系=ブント・革共同)全学連の自立発展期 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.4日
これより前は、「第4期その2、トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
1958年のこの辺りから戦後学生運動の第5期に入ったと考えられる。この期辺りから内容が濃くなり、その分概括が難しくなる。 この期の特徴は、再建された新左翼系の全学連が急進主義運動に傾斜しつつ支持を受けながら勇躍発展していったことに認められる。もはや公然と日共党中央に反旗を翻しつつ独自の学生運動路線の模索へと突き進んでいくことになった。これが全学連運動のターニングポイントになる。 1958.1月に発表されな山口一理の論文「十月革命の道とわれわれの道」は学生活動家に大きな衝撃を与えた。この山口論文は日共東大細胞の機関誌「マルクス・レーニン主義・第9号」に掲載され、全国の学生党員をはじめ学生活動家にむさぼり読まれた。山口論文はスターリン批判を中心テーマとして、綱領論争のちっぽけな枠組を突破して、ロシア十月革命の教訓をもう一度学ぶべきであると主張し、いまやレーニンかトロツキーか、という図式でレーニンとトロツキーを対立させるべきでなく、レーニンかスターリンか、と問うべきであると言い放った。山口論文はこうしてスターリンをレーニン主義とは対立するものとして位置づけ、レーニン―スターリンという歴史の継承を否定してボルシェビキの伝統はレーニン―トロツキーに引き継がれていると暗に示していた。 山口一理は共産党東大細胞の指導メンバーで自然弁証法研究会に所属していたが、太田竜や黒田寛一は何度か山口と会談していた。したがって、山口論文はトロツキズムの影響が拡大していく過程のひとつの指標であるといえよう。 これまでのスターリン批判の水準を山口論文は飛躍させることによって、学生党員たちのスターリニズムからの離反を一挙に促進させる役割を果した。山口論文の出現によって“トロツキー・タブー”は決定的に学生の間では破壊された。学生たちは先を争って山西英一が訳したトロツキーの著作に飛びついていった。そしてトロツキーの著作は、学生たちに驚天動地ともいうべき衝撃を与えずにはおかなかった。はじめてトロツキーによって知らされたスターリニズムの歴史的な裏切りと犯罪行為は、学生たちの慎激をいや増していった。 こうして、57年秋から京都府学連指導部には西からの工作が進行してトロツキズムが浸透していったが、東京においても山口論文の出現によってトロツキズムの禁忌は解かれ、学生たちの間では“公認”されたのである。山口論文の影響は単に東京にのみ限定されず全国的に学生の間では広がっていき全体として学生党員が日本共産党から分裂していくための思想的準備となったのである。 しかし同じトロツキズムの浸透といっても、関西においては組織工作を伴っていたが、東京ではそれがなかったのである。それが今後のトロツキズム運動を規定することとなる。 東大細胞の機関誌に山口論文が掲載された時期に時を同じくして、京都では沢村論文が「京都府党報」に発表された。沢村論文は同志西の当時における共産党での組織名にちなんで呼称された論文であるが、沢村論文はもっと具体的に革共同への学生メンバーの獲得という成果をもたらしたのである。 沢村義雄(=西京司)は先に述べた共産党の綱領論争に対してトロツキズムの立場から党章草案の批判として「レーニン主義の綱領のために」という、いわゆる沢村論文を著わしたのである。沢村論文は党章草案の中に流れているスターリニズムの理論を、平和主義、一国主義、民族主義、議会主義の理論として断定し、完膚なきまでに論破した。 沢村論文はトロツキズムによってスターリニズムの綱領を全面的に批判したことによって、山口論文の抽象的な問題提起をはるかに越えた次元で学生たちに影響を与えることとなった。すなわち、山口論文が十月革命への復帰という一般的提起にとどまり、国際革命運動の歴史との結合、すなわちトロツキズム、第四インターナショナルの歴史との現在的な結合をめざすよりも、過去の歴史にさかのぼり、それ以降をスターリンの裏切りの歴史として把握する誤りの側面をもっていたのにくらべ、トロツキスト組織の一員として西は現実のスターリニスト党の綱領を批判することを通して、トロツキズムの立場を展開していった。 57年の年末に執筆された沢村論文は、西が京都府委員であるために「府党報」に発表されることになった。府委員はみんな西の沢村論文を「府党報」に掲載することに反対しなかったという。58.1月の「府党報」は沢村論文を掲載した。はじめのうち、この論文は共産党内のしかも京都という地区に限定されてしか配付されなかったが、京都の革共同系学生メンバーは沢村論文を積極的に全国の学生に持ち込んだ。 例えば、立命館のメンバーで福島出身のSは沢村論文を東北大の今野に渡した。今野はこれを一読して共感し増刷りして、仙台、福島、山形などの東北の学生グループに配付したのである。こうして、かねてからの星宮の工作とあいまって、沢村論文は学生メンバーのなかで全国的に革共同の影響を拡大するテコとなったのである。 しかし、不思議なことに沢村論文は学生運動の中心地であった東京の学生たちには何故か持込まれなかった。東京の学生たちがこの論文を見たのは五九年であった。塩川や鬼塚らJR系の東京の指導的メンバーも、ブント結成前後の流動的時期に、この論文を活用できなかったのである。沢村論文が東京に浸透していたならば、東京におけるトロツキズムと中間主義のヘゲモニー争いに大きな変化を与えていたであろう。 |
投稿№ | 題名 |
その7 | 第5期(58年)【新左翼系全学連の自律発展期】 |
その8 | 第5期(59年)【ブント執行部の確立と全学連運動の突出化】 |
その9 | 第5期(60年)【ブント系全学連の満展開と民青同系の分離期】 |
【1958年の動き】(当時の関連資料) |
お知らせ |
当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1958年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
1.1日、日本、国連安全保障理事会の非常任理事国に。
1.10日、都学連、沖縄米軍の選挙干渉中止を要求して米大使館に抗議。
1.15日、私学授業料値上げ反対共闘会議開催。
1.21-23日、全学連第15回中央委〔中央労政会館〕、勤評闘争強化・日本の核ミサイル基地化反対等決定。
1.24日、全学連私学対策協議会開催、勤評反対闘争方針等を協議。
1月、東大細胞総会(細胞キャップ・生田)でプロレタリア世界革命をぶつ。第1回フラクション研究会を横浜で、早大細胞を含め開催。続いて2回フラクション研究会が開かれている。2月、第3回フラク研究会。3月、東大細胞総会。この時、プロレタリア世界革命は当然のこととされていた。
1月、「反戦旗情報」復刊第3号(執筆:鈴木道成、杉田信雄、鈴木啓一ほか)。
2.3日、全教学協、日教組へ勤評闘争で共闘申入れ決議。
2.5日、反戦学同乗京都委・日共東京都委共催・全都学生活動家会議。
2.7日、全学連中執委、信州大教員資格評偏格下げ問題は東大・東京学大・京都学大・大阪学大の学生処分と同一問題として教育学部の闘争に支援決定。
2.14日、全学連・反戦学同、フラソスのチュニジア爆撃で仏大使館に抗議デモ。
2.14日、産別会議が解散している。
2.27日、総評・原水協等二十教団体で新島ミサイル基地反対支援団体協議会結成、全学連・都学連参加。
2月、第3回フラクション研究会が開かれている。
3.1日、ビキニ被災四周年・エニウェトク水爆実験阻止AA諸国民共同行動デ-中央集会〔共立講堂〕に学生含め三千七百名参加。
3.21日、全学連、ヨーロッパの原水禁運動促進のため全青婦・日青協等で代表団結成、志水中執羽田出発。
3.28-31日、都学連、日教組支援で都教育庁内デモ・坐り込みに連日参加。
3.30-4.1日、反戦学同第11回全国委、アルジェリア学生・FLNへ支援を決議する。4回大会で社会主義学生同盟に改組決定を決議する。
3.30日、国立競技場完成。
【日共東大細胞四月総会決議】 | |||
3月、東大細胞総会が開かれ、山口論文に則った決議を掲げた。目前に迫った6月の日共第7回大会に向けて非妥協的な党内闘争を闘う決意の表明となった。「日共東大細胞四月総会決議」(「政経時報」第31号、1958.4月)は次のように記している。
この頃においてはプロレタリア世界革命の見地が当然とされるようになっていた。陶山健一氏の「安保闘争と生田浩二」(生田浩二夫妻追悼記念文集)には次のように書かれている。
この頃の生田の活躍が特記されるに値する。生田は、「6.1事件」からブントの結成までの期間を、理論面行動面で指導し、全国オルグの片道切符代や運動方針案、ビラの印刷代、集会会場費などの資金調達までやってのけている。西京司氏の指導下にあった日共京大細胞をブントへ獲得したのも生田の功績であった。この間、国労の新潟闘争を個人的に支援、その後、国労新潟が原水禁ストをアピールし、一斉汽笛吹鳴と一分間ストを実現したのも生田の影響であったと云われる。 |
この時期、民主青年同盟も、党指導からの自立を目指していた。この時杉田・鈴木理論との闘争があったとされているが詳細不明。
4.1日、売春防止法施行。
4.1日、反戦学同、ソ連核実験停止の報に米エニウェトク水爆実験中止を要求して米大使館に抗議デモ。
4.2-4日、全学連第16回中央委〔中央労政会館〕、主流・反主流の対立激化、エニウェトク水爆実験反対、沖縄・新島ミサイル基地化反対等を決定。
4.5日、原水協が米大使館へデモ、4.19日原水協、地評、全学連共済の「エニヱ二トック核実験阻止国民会議」が開催された。
4.13-14日、全学連緊急中執会議、エニウェトク水爆実験阻止・勤評反対で全力闘争に入ることを決定。
4.19日、エニウェトク水爆実験阻止国民大会に全学連千名参加、文部・外務省デモ、三名逮捕。
4.25日、全学連の「エニウェトク水爆実験阻止・勤評粉砕全国総決起第一波闘争」が始まり、全国37ヶ所で勤評反対の学生集会がもたれ、中央集会〔清水谷公園〕に東大教養・東京工大を初め三千名参加、アメリカ大使館や領事館へのデモ、教員組合への激励を行った。京都ではこの時、警官の暴行によって10数名の学生が負傷している。
4.28日、全学連緊急中執会議、警視庁の日教組に対する弾圧反対声明、反対闘争方針決定。
4.28日、「全日本青年学生共闘会議」が、総評青婦協、全青婦、全学連、社会党青年部、全日農青年部、民青同の6団体で結成された。
4.30日、全日本青年学生共闘会議結成、全学連・民青同・全青婦・総評青婦協・社会党青年部・全日農青年部準備会の六団体で構成。
4月、党東大細胞総会は、宮顕系党中央の指導方向であった党章草案に対する批判を含んだ議案を採択し、近づきつつある第7回党大会に向けて理論闘争を強化することを宣言した。その論点は、①.反米帝方向重視の宮顕路線に対する反日帝(独占資本)方向重視、②.党章草案の右翼的偏向に対する社会主義の明確な提起、③.革命の平和移行論や構造改革派の改良主義方向に対する批判、④.官僚主義の助長傾向に対する批判にあった。但し、この時点ではあくまで党内闘争の枠の中で原則的な立場からおこなうものとしていた。むしろ、「無原則な、自由勝手な党内の状況を断じて許しはしないだろう」とあることからみて、脱党又は別組織を作るという考えには至っていない事が分かる。
4月、 日本反戦学生同盟第11回全国委員会が、「全同盟員、学生活動家諸君へのよびかけ」を発表する。
「反帝平和の光栄ある伝統を継承しつつ全同盟の革命的力量をあますところなく結集して社会主義学生同盟への画期的発展を勝ち取れ!」(「反戦旗情報」復刊第4号執筆:清水丈夫、香村正雄、鈴木啓一 書記局:文京区本富士町(東大文学部学友会気付)。 |
5.2-3日、全学連拡大中執委〔中央労政会館〕、五・一五第二波総決起を各大学自治会に指令。
5.15日、エニウェトク・クリスマス島水爆実験阻止・勤評粉砕全国一斉統一行動が行われた。全国五十九都市五十七校百十六自治会三十万名がスト・授業放棄等で決起。東京中央集会〔日比谷野音〕では6000名。防衛庁・文部省・米英大使館デモ。
前年の5.17の2万5000名の大動員に比べると大きく減少していた。全学連小数派は、この減少を全学連の指導方針の誤りの結果であると批判した。前年の5.17の際にはその直前にイギリスのクリスマス島での核実験強行が憤激を呼んだという事情があり、この時の少数派の言い分は為にする批判であった。全学連内部の対立はこの頃になると極めて深刻になっており、遂に全学連中執は、「教育大自治会は全学連内で分裂策動を行っている」というビラを配布するような事態に陥った。
5.22日、第28回衆議院選挙。日本社会党が戦後最高の得票、得票率を獲得する。
【反戦学同が社会主義学生同盟と改称】 | |
5.25日、全学連の推進体となっていた反戦学同は第4回全国大会を開催した〔西部労政会館〕。先の「東大細胞の呼びかけ」に応える形で、全学連大会に先立って開かれたこの大会で、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的、革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も「日本社会主義学生同盟(社学同)」と変え、反戦学同を発展的に解消させた。
これは、反戦学同の反戦平和運動から社会主義革命の直接的志向へと針路を切り替えようとしていたという事情によった。反戦平和運動を日共式にブルジョア民主主義の枠内に押し込めるのではなく、「単に平和擁護、反戦にとどまらず、より積極的に労働者階級の諸闘争を支援し、労働青年との接触、結合をはかる」べしとしていた。この時社学同は、「日本独占資本が復活強化した」
との評価を前面に出し、反独占闘争を強調したため、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する宮顕系党中央の「党章草案」と決定的に対立する路線へと踏み出していくことになった。 |
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これをれんだいこが評すれば、この時期の全学連運動の理論的質は当時の世界水準においても高く、理論的研鑽を経て明確にマルクス主義の旗を掲げるに至り、宮顕系日共の右傾路線に代わる左派路線を突き進むことを宣言したということになる。 |
【全学連第11回大会前の主流派と反主流派の駆け引き】 |
全学連大会直前に森田実中執(東大)の代議員資格問題をめぐって多数派と少数派が対立した。主流派の森田は、58.3月に卒業するので全学連資格を失うところ、他大学への入学で引き続き執行部入りを予定していた。少数派はこれに異議を唱えた。こうした感情的対立が尾を引きつつ全学連大会へと突入することになる。 |
【全学連第11回大会】 | |||||||||||||||
5.28-31日、全学連第11回大会(委員長・香山健一)が294名の代議員と評議員、傍聴者など約1千名を集めて開かれた。大会は初日から荒れた。大会は、前年の早大・神戸大中執委員の罷免を廻るしこりに続いて、「党章草案」を徹底的に批判する等党中央と対立するグループと、依然として党中央の権威に忠実なグループとの激突の場となった。全学連主流派は、「平和擁護闘争・反帝実力闘争路線」を打ち出し、急進主義に舵を切ろうとしていた。これに対し、反主流の日共派は「幅広い統一戦線」を主張して、実力闘争路線に対抗し主流派と激しく対立した。砂川闘争総括で形成された主流派と反主流派が11回大会においてぶつかり合ったことになる。
大会は、10回大会以来の闘争を一貫して正しかったと規定し、この執行部の議案は賛成271.反対19.保留1という圧倒的多数の支持を得て可決された。
なお、この流れには革共同の働きかけがあったようで、次のように吐露されている。
大会では、砂川、原水禁、勤評闘争などで積み上げてきた成果を基にして、反帝.平和擁護闘争の路線を決議した。その内容は、次のようなものであった(「全学連通信」No34、1958.6月)。
このようにして、学生運動は、「層としての運動」から、「国民諸階層との連携」を経て、「労働者階級との同盟軍規定」へと質的転換を遂げていった。この質的転換こそは、学生運動が過去の「帝国主義の戦争政策に明確に対決するばかりではなく、…‥帝国主義の存在そのものをゆるがし、打倒する闘争」(唐木恭二)へ向けて歩を開始したことを示していた。 なお、11回大会では、全国教育系学生自治会協議会と全国夜間自治会連合が、発展的に解消して、全学連と統一したことが報告された。 |
【この時期の勢力図と理論闘争】 | ||||||||||||
この時期の全学連指導部は、およそ三派から成り立っていた。一つは森田のグループで、これには全学連委員長の香山を含む中執のかなりのメンバーがいた。もう一つ都学連と星宮ら関西の一部を中心とする革共同グループがいた。最後が圧倒的支持を得ていた島グループで、東大・早大グループが佐伯と生田を介して暗黙の提携関係にあった。後の展開から見て、この大会で唐牛が中執委員に、灰谷・小林が中央委員に選出されており、北海道学連の進出が注目される。なお、こうした全学連執行部外に民青同高野グループがいたことになる。ただし、これを急進主義と穏和主義の別で見れば、穏和的平和運動的な方向に高野・森田グループ、急進主義ないしは革命運動的な方向に革共同と島グループというように二極化されつつあったようである。この時期の全学連運動には、既に押しとどめがたい亀裂が入っていたということでもある。
つまり、「学生運動が本質的に社会運動であり、政治闘争の任務を持つ」、「国会デモその他の高度の闘争形態を模索しつつ」、「労働運動の同盟軍」として労働者・農民・市民に対する「学生の先駆的役割」を強調し、「層としての学生運動論→労・学提携同盟軍規定論→先駆性理論、反帝闘争路線」の画期的方針を採択した。「平和こそ学生の基本的要求であり、平和擁護闘争は学生運動の第一義的任務である。岸反動内閣と対決し、その反動攻勢と徹底的に闘うこと。帝国主義の存在との対決と打倒。労働者階級との提携(同盟軍規定)」を明確にさせ、理論的にも共産党離れを一層推進
した。こうして全学連は、「先駆性理論」に基づいて、激しい反安保闘争を展開 していくことになった。「先駆性理論」とは、「学生が階級闘争の先陣となって
労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示する」というものであった。
これに対し、全学連指導部は次のように自賛した。
ちなみに、この時中国共産党「中国青年報」は、「岸反動政府との徹底した対決の方向を打ち出した全学連第11回大会」といの見出しで好意的に次のように論評している。
「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
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【党中央と学生党員が党本部で衝突「6.1事件」】 | ||||
全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、全学連大会終了の翌日の6.1日、同大会に出席した学生党員議員約130名を代々木の党本部に集めた。「全学連大会代議員.学生党員グループ会議」を開き、全学連を党指導の傘下に引き戻すべく直接指導に乗りだそうとした。そういう思惑で党の幹部出席の上会議が開かれ、党中央が鈴木に議長を務めさせ、紺野のあいさつを強行して党中央主導の議事運営をなそうとしたが、既に党中央に批判的であった学生党員らが一斉に反発し、会議はその運営をめぐって冒頭から紛糾した。
これを、「党中央無能力故の不信任決議」と云う。この間党中央を代表して出席していた紺野常任幹部会員はまともな応酬による何らの指導性を発することが出来ぬばかりか、会議を有効とする文書に署名させら
れるという不始末となった。なお、党本部内の出来事であったにも関わらず、 追求される中央青対を救出すると称してやって来たのは「あかつき印刷」の労働者たちだけであり、党側からは他には誰もやって来ずという醜態を見せるこ
とになった。更に、全学連内の党中央派除名の決議(無能力.不信任決議)を採択した。最後に「学生党員は、全学連中執グループに結集せよ」と叫んで、党本部から退去した。
この経過に対して、党中央は、真偽不明であるが次のように声明している。
これにたいして、党中央は事件の翌日、常任幹部会、書記局、統制委員会の合同会議をもって、次のような幹部会決定を発表した。1958.6.5日付けアカハタは、日本共産党中央委員会常任幹部会声明「全学連大会代議員グループ会議の不祥事について」を発表している。
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【全学連と党中央の後始末の痴愚ぶり】 | ||||||
前代未聞の不祥事発生に仰天したか、党は、ここに至って、これら学生の説得をあきらめ、組織の統制・強化に乗り出していくことになった。鈴木議長の閉会宣言以降の会議を無効とし、「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反中央、反党反革命分子』である」とみなし、「一部悪質分子の挑発と反党的思想を粉砕し」それら学生党員の責任を追及していくこととなった。
これに構わず党中央は、「未曾有の不祥事件」、「一部悪質分子による反党事件」として調査・査問・処分に乗り出しすこととなった。宮顕系党中央は全学連の急速な左傾化を激しく指弾し、次のように恫喝した。
これに対し、全学連指導部は、次のように応戦した。
充分な理論的対応を為し得ている様を見て取ることができるであろう。
島成郎は、「最近の学生運動について」で次のように総括している。
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6.1日、全学連中執委、十一回大会決定により勤評闘争和歌山現地へのオルグ団集中を全国に呼びかけ、常駐指導態勢確立を図る。
6.5日、和歌山で勤評反対闘争が巻き起こった。和歌山県教組、高教組、県庁職組、部落解放同盟、県地評、和歌山大等による「勤評反対共闘闘争会議」が結成され、第一派実力行使闘争に入った。全学連はオルグ団を現地に派遣し、現地闘争本部を設営して闘いの先頭にたった。「和歌山における勝利は勤評闘争をして守勢から攻勢に転じさせる上での重要な契機をつくるだろう。和歌山における敗北は、全国的な闘いを展開しようとする日教組の後退を導き敵の弾圧を許し日本民主勢力の後退を誘うであろう」(6.16書記局通信)とある。
6.10日、全学連、核武装阻止・勤評実施反対で全国統一行動、札幌・金沢・名古屋等で集会・デモ、東京では国会請願デモ。
6.11日、緊急関西自治会代表者会議〔和歌山〕、和歌山大闘争を全面支援、6.18拠点自治会スト決議。
6.11日、全学連書記局細胞、日共中央に上申書〝6.1事件に関するわれわれの反省と要望″提出。
6.13日、全学連緊急中執委、勤評粉砕・和歌山大開争に全力で支援を決定、6.18全国一斉行動を指令。
6.12日、第二次岸内閣成立。
6.21-22日、全学連全国自治会代表者会議〔和歌山大〕、勤評和歌山闘争を評価、全国に拡大するため六・二五、七・三全国統一行動を決定。
6.25日、勤評撤回要求全国一斉学内集会、都学連、灘尾文相との会見拒否され文部省前坐り込み、警官隊出動で実力排除さる。
7.3日、勤評粉砕全国学生決起大会、東京千名で集会・デモ、日教組と共闘。
7.5日、全学連第17回中委が開かれ、勤評・道徳教育指導者講習会・原水禁第4回世界大会を主要議題に、この間の闘争の総括と第4回原水爆禁止世界大会への方針の検討を行い、岸内閣への非妥協的政治闘争として勤評実施阻止の明確化・原水禁世界大会への闘争方針等を決定した。共産党中央との組織的対立を不可避として、その後の方向の確認をすることに意義があった。「開始された前進の巨歩を一歩進めるかあるいは後退してしまうかを決定すべき任務をこの中央委員会に委ねている」として、全学連主流中央は並々ならぬ決意を示していた。この会議で、「政治スローガンをぼかし、幅広い統一戦線の名のもとに、運動それ自体を堕落させてしまう思想傾向」が運動の阻害要因であるとの認識を明確にさせた。左派化したということである。
勤評闘争は、すでに前年12月の日教組大会で絶対阻止の方針がうち出されていた。これに呼応して、全学連もこれに固い連帯を表明していた。「全学連11回大会議案」で「労働者階級と日本支配層との対決の焦点として、勤評闘争が闘われており、この闘いの行方こそ、日本労働者階級及び人民の今後の闘いの帰趨を決定するものである」としており、これを再確認した。
原水禁大会に向けては次の基本方針を確認した。1・我々の闘いの敵は、国際的にはアメリカを先頭とする英仏その他の帝国主義者グループである。2・今度の第4回大会では、日本における敵が国際帝国主義グループと結びついた岸自民党とその政府であることを明確にし、特に日本大会においては彼らにたいする日本平和勢力の一大結集点をつくり出だすことを目標にする」(「全学連一七中委議案」58年7月)
【党中央、全学連グループに対し除名処分】 | |
7.7日、党中央は、 「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長、中執委星宮、同森田実らを党規約違反として3名を除名、土屋源太郎ら13名を党員権制限の厳格処分に付した。その後各地方党機関でも6.1事件の関係者を年末までに72名処分した。 全学連指導部の学生党員たちは、党のこうした処分攻勢を契機として遂に党と袂を分かつこととなった。紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれた。ちなみに紺野は徳球系の残存幹部であったことが注目される。宮顕は、党内反対派の制圧の手段として徳球系の残存幹部にこれを当たらせ徹底的に利用するという巧妙さを見せている。 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
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これに関連して、「木村愛二氏の元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」の「(その19)1960年安保に溯る共産vs新左翼諸派の抗争」で貴重な証言が為されている。文中は「当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループ」として紹介されているが、「6.1事件」に関連しての処分と思われるので転載しておく。
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7.8日、第4回参議院議員選挙。革新派が1/3議席を確保する。
7.13日、全国自治会代表者会議〔和歌山〕、勤評和歌山闘争の総括、第三波闘争支援等を決定。
7.16日、東京都教委、勤評反対闘争の参加者282人に処分。
【共産党第7回党大会開催】 | |
7.23日、共産党第7回党大会が開かれた。51年綱領を廃止し、新綱領は次の大会まで棚上げ、伊藤律除名を確認した。宮顕は、「この党大会を経て、いろいろな理論問題を解明した」(宮本顕治談話-1991.9.26.赤旗)と豪語した。実際には、「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論」を主張する宮顕、野坂、志賀らと「日本独占資本のみ=一つの敵論」を主張する春日、内藤との間の論争に決着がつかず持ち越された。
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7.31-8.1日、全学連中執会議、勤評粉砕・民主教育擁護国民大会参加等、当面の方針を決定。
【革共同第一次分裂】 | |||||
7月、この頃、革共同が内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と云う。少数派であった太田竜・氏らのグループが、関東トロツキスト連盟を結成して革共同から分離することとなった。黒寛派と太田派の理論的運動論的組織論的対立が激しく、太田派が決別した流れが認められる。太田派が全体討議を拒否したという事実経過があるようである。この時太田氏は、トロツキーを絶対化し、トロツキーを何から何まで信奉しそれを唯一の価値判断の基準にする「純粋なトロツキス
ト」(いわゆる「純トロ」)的対応をしていたようである。 この時のトロツキー評価をめぐる太田派と黒寛派の違いについて、黒寛は次のように明らかにしている。
この分裂後黒寛派が中央書記局を掌握することとなった。次のように勝利宣言している。
ただし、9月になると、黒寛は大衆闘争に対する無指導性が批判を浴び、党中央としての指導を放棄させられているようである。 |
【学生党員グループ、全学連=社学同合同フラクを結成】 | ||
第7回党大会には、島・生田らが「全学連党」代議員として参加した。島・生田らがいよいよ公然と新党結成に向い始めた。島・氏は、「生田夫妻追悼記念文集」の中で次のように記している。
こうして党大会終了の翌々日の8.1日、島氏は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを提案した。 |
8.2日、全日本青学共闘会議主催・核武装反対・勤評阻止・日中国交回復青年学生行動デー、全国各地で署名・カンパ活動展開。8.5日、青学共闘、八・一六勤評阻止青年婦人学生全国大会を呼びかけ。
8.12日、全学連・社学同中央グループ、全国指導センターとして〝フラクション〟結成。
8月、全学連は、「全学連第17回中委決議」方針をもって原水禁大会に参加した。学生は各分科会で論戦を果敢に展開して、完全に論争のイニシアティブを握った。日共の「国民的平和運動のなかに、勤評という政治課題を持ち込んで、平和を願う広範な国民の統一と団結をそこなうべきではない」とするいわゆる「日共幅広論」と全面衝突させた。
8.15日、勤評反対・民主教育を守る国民大会〔和歌山〕に全学連大衆動員、分散会・決起大会・デモに参加。
【勤評闘争】 | |
8.16日、この間全学連は、和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことをはじめ9月頃「勤評闘争」に取り組んでいる。8.18日の勤評反対集会に右翼団体が殴りこみ、警官も襲い掛かり多数の負傷者を出している。全学連は40数名のオルグを送り込んでいた。9.15日「勤評粉砕第一波全国総決起集会」に参加し、東京では約4000名(以下、東京での闘いを基準とする)が文部省を包囲デモ。「勤評闘争」は、日教組・部落解放同盟・全学連・社会党(総評)・共産党の5者共闘で闘い抜かれた。 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
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8.31-9.1日、社学同第2回臨時全国大会〔東京〕、秋に向けての勤評闘争方針等を決定。委員長・陶山健一、書記長・清水丈夫を選出する。
8月、早大記念会堂で第4回原水爆禁止大会。
【学生党員グループ、「プロレタリア通信」創刊】 |
この後全学連主流派に結集する学生党員は、フラクションを結集し、9.1日、社学同が理論機関誌「理論戦線」(季刊)を創刊する。(書記局:目黒区駒場、東大駒場寮・服部信司気付、執筆:熊谷信雄=島成郎、清水丈夫、花村一司、山川和夫、小野田猛史、杉田信夫) 9月頃、機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。第1号は山口一理、第2号は久慈二郎、3.4.5号は島成郎、第6号は姫岡怜治が執筆した。この時点で明確に共産党内における党内闘争に見切りをつけた全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。革共同フラクションは、全学連人事に絡んで森田・香山を中央人事からはずせと主張していたようであり、こうした革共同の影響下で路線転換がなされた。 |
【全学連第12回臨時大会】 | |||||
9.4日、「全学連代々木事件」とそれに伴う党の処分の結果、全学連指導部は、完全に党の統制を離れることを決意した。「全学連代々木事件」で除名された学生党員らと島成郎ら20名程度が中心になって、全学連第12回臨時大会(委員長・香山健一)を開いた。代議員210名、評議員、オブザーバーら450名が参加した。九・一五勤評粉砕全国総決起を決定、草共同グループの影響の下で転換路線を確立。 この大会で、先の第11回大会での路線がより明確にされ、次のように指針した。
反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派) は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」、「全人民、そして日本プロレタリアートの運動の視点にはっきり立ったことにおいて画期的前進を遂げた」と評価し、「全学連第12回臨時全国大会宣言」で次のように左展開を宣言した。
「こうして、日本独占資本との対決を明確に宣言する等宮顕執行部の押し進めようとする党の綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。ここに日本共産党は、48年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。 |
9.6日、全国自治会代表者会議〔東京〕、勤評闘争を徹底した非妥協的政治闘争として闘うことを確認。
9.12日、藤山・グレス共同声明。日米安保条約改定に同意。
9.13日、早大の二文、二政、二法で勤務評定反対ストライキ(8年振り)。
9.15日、全学連は、勤評粉砕・不当弾圧反対第一波全国統一行動に呼応して闘争を全国各地で展開した。88校1万6千名参加、中央集会〔清水谷公園〕に4千名参加、文部省包囲デモ、夜6百名で文部省前坐り込み、その他京都府学連六百名、大阪府学連5百名、愛知県学連1500名で集会・デモ。(~11.26、第4波)。
9.16日、全学連中執委、〝大学の自由・学園の自治に対する権力者の挑戦にあたり緊急非常事態宣言″発す。
9.21日、全学連中間委、〝福島の闘いを突破口に全東北へ! 奈良の闘いを契機に全開西へ!″指令。
9.25日、勤評粉砕・不当弾圧反対第二波全国総決起統一行動で、東京.日比谷公園の参加者は千数百名、デモ参加者は500名で停滞を見せている。文部省に抗議デモ、警官隊と衝突、夜間部学生五百名と合流して再び文部省前坐り込み(26日早朝、徹夜坐り込みの百名をゴボウ抜き、二十時間に亙る闘争終わる)
9.29-30日、全学連拡大中執委、勤評闘争の連続的実力闘争展開など十月闘争方針を決定
10.10日、全学連中執委、〝警職法粉砕のためにただちにストで起ち上れ〟と指示。
10.7日、岸内閣は「警職法改正法案」を国会に上程した。
10.9日、岸首相はアメリカの新聞記者に、「日本は台湾と南朝鮮が共産主義者に征服されるのを防ぐため、できるかぎりの準備をしなければならない。最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。現在のままでは軍隊の海外派遣はできないから、憲法は改正されなければならない」と語った。
【革共同太田派が脱落】 |
太田派は関東トロツキスト連盟を結成していたが、9月に「日本トロツキスト同志会」へと改称し、翌59.1月、国際主義共産党をつくり、8月に第四インター日本委員会へ歩みを進めていくことになる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への「加入戦術」 を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。その後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では「国際的陰謀組織フリーメーソン論」での活躍で知られている。 |
【警職法反対闘争】 |
この頃は勤評反対闘争の最中であったが、10.4日、警職法改正法案が突如発表され、10.7日、国会に上程されてきた。改正案は、現場警察官の判断次第で、国民の身柄の拘束や身体検査、住居立ち入りが認められるようにされていた。それは、戦後憲法が保障していた集会、結社、表現、通信、労働者の団結権、団体交渉権その他の権利等々、国民の基本的人権を大幅に狭めるものであった。 |
【岸首相が憲法改正を語る】 |
10.9日、岸首相はアメリカの新聞記者に、「日本は台湾と南朝鮮が共産主義者に征服されるのを防ぐため、できるかぎりの準備をしなければならない。最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。現在のままでは軍隊の海外派遣はできないから、憲法は改正されなければならない」と語った。 |
10.15日、警職法阻止・勤評粉砕全国統一行動、中央集会〔清水谷公園〕に一橋大、東大文・医、法政大二部、早大二文等ストで千名参加、国会デモ。
10.17日、警職法阻止青年学生達絡会議結成、全学連・民青同・社会党青年部等二十五団体で構成。
10.18-19日、全学連中執委、警職法闘争を労働者階級の同盟軍として広汎な中間層を闘いに起ち上らせ一〇・二八、一一・五ゼネストで闘うことを決定。
【全学連の自律、日共の焦燥】 | ||
10.21日、日共は、アカハタ紙上に「日共青学対部「学生運動における極左的傾向と学生党員の思想問題」を発表し、次のように述べている。
蔵田計成氏は次のように解説している。
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10.22日、全学連緊急全国自治会代表者会議〔大阪〕、警職法阻止一〇・二八ゼネスト、二三、二七、波状ストを決定。
【警職法反対闘争】 |
10.28日、「警職法阻止全国学生総決起集会」に取り組み、労・学4万5000名が結集しデモ。二十七自治会がスト・授業放棄で決起、のち労働者集会に合流、夜、夜間部学生二千名の集会〔日比谷野音〕、のち有楽町デモ。 11.1-4日、全学連、行動隊を組織して一一・五ゼネストを準備、連日国会に坐り込み展開。 11.4日、政府自民党は会期を延長して警職法の通過を狙った。衆院本会議抜き打ち会期延長に即刻数百名の学生国会に抗議。園教授団(246名)警職法反対声明。 11.5日、警職法阻止闘争は全国ゼネストに発展し、450万人の労働者学生が決起した。中央集会〔日比谷野音〕に岸内閣打倒・国会解散をスローガンに六千名参加、全学連4000名が国会議事堂チャペルセンター前坐り込み、地評の労働者が後方から国会議事堂を包囲するようにして連なった。一万名で国会を包囲した後、新橋までデモ。 |
【警職法反対闘争時における宮顕党中央の変調指導】 | |||
付言すれば、この時島・氏は、宮顕党中央の変調を次のように鋭く指摘している。
日共は、この頃よりこれらの全学連指導部を跳ね上がりの「トロツキスト」と罵倒していくことになった。10.21日、「学生運動における極左的傾向と学生党員の思想問題」を発表して、一連の学生党員の動きと思想を批判している。この論文でかどうかは不明であるが、(恐らく宮顕の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。
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云おうとしていることは判るが、自己を超然とした高みに置いた宮顕らしい品の無い論法であろう。「自分の好み」の運動の連動こそ自然でパワーになるのではないのかなぁ。誰しも「自分の好み」から逃れること が出来ないように思うけど。それと、相手を「一面的な判断」呼ばわりするには、己が「全面的な判断」を為し得る者である事を立証せねばならぬのではないのか。それに、「善意な大衆」という物言いは何なんだ。そういう言い方でのエリート臭が嫌らしく鼻持ちならない。 |
11.3日、党は、アカハタに「学生運動にもぐりこんだ挑発者と闘え」を発表している。この論文で批判されていた法政大学第一細胞は、次のような見解を表明している。
「殊に、日本共産党が1950年の分派闘争以来、常に反対派を抹殺し、組織的に排除される為に使われてきた『トロツキスト』という言葉が、我々に対しても又も投げつけられていることには驚きと悲しみ以外の感情を以って対することしか出来ない」。 |
「日本共産党に徴して見る限り、トロツキストなる言葉が使われた場合、その言葉を投げかけた側がその相手と意見を異にしており、そして相手を憎悪しており、その相手を組織的に排除せんとしているということを意味する以外の何物でもなく、1905年、1917年ロシア第一.第二革命の際にペテログラード.ソビエト議長として革命を闘い、10年後には追放されたレオン.トロツキーの思想とは何ら関係なく使用されているようである」。 |
11.5日、警職法改悪反対闘争、国会の抜き打ち会期延長で激化。広範な統一闘争に。
11.10-11日、全学連緊急中執委一一・五闘争を総括、警職法闘争で岸内閣打倒をスローガンに戦術を決定。10.11日、全学連、警職法粉砕統二行動として全国的に集会デモ・署名活動展開、東京では首相官邸に昼夜五百名で抗議デモ、二名逮捕。
驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、自民党は一ヶ月後の11.22日、遂に法案採決強行を断念した。この闘争過程は、この時の経験が以降
「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。
11.17日、勤務評定反対ストライキで、早大が無期8人、停学1ヵ月5人を含む16人に処分(この処分は、54年の早稲田祭事件以来5年振り)。11.18日、処分抗議集会、11.20日、デモ学内―処分撤回闘争活発化する。
11.27日、皇太子明仁と正田美智子の婚約発表。
【共産主義者同盟(ブント)結成】 | |||
12.10日、東大本郷の医学関係の会館で、先に除名された全学連指導部の学生党員たちの全国のフラク・メ ンバー約45名(全学連主流派)、社学同の中村光男、鈴木啓一,多田靖、小野田猛史らか参集し、青木が「国際共産主義運動の総括」と題してソ連や日共を鋭く批判した。島が独自の革命組織結成を提案し、満場一致で採択された。こうして、55年以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党を建設するとして日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも云う)を結成した。 「共産主義者同盟結成大会議案」(「プロレタリア通信」第6号、1958.12月)は次のように声明している。
上記声明を踏まえながら、蔵田計成氏は、ブント結成の意義について次のように評している。
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古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島氏がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島・森田・古賀・片山・青木の5名が選出された。ブント書記長に島・氏が選ばれた理由については「島論」に記す。 島氏は、翌日開かれた全学連大会で学連指導部から退き、ブントの組織創成に専念することになった。学生党員たちに党から分離してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。他に門松暁鐘、富岡倍雄、山口一理、佐久間元、今も 中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷・唐牛ら5名が参加している。理論的支柱は、姫岡玲治のペンネームで活躍していた青木昌彦氏であった。 |
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「ブント(=BUND)結党をどう観るべきか」。このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動(主として学生運動)を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。もっとも、その認識の仕方と行動的手法において際限なく分裂化していくことになり、結果ブント系諸派を生み出していくこととなった。 ブント発生を近視的に見れば、「50年問題について」の総括後の当時の党が宮顕式路線に純化しつつあった状況とその指導に対する強い反発にあった様が伺える。宮顕式路線の本質が運動を作り出す方向に作用するのではなく、運動を押さえ込み右派的統制主義の枠内に押 し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」としてブントが結成されたという経過が踏まえられねばな らないと思う。このセンテンスからすれば、元来党とブントは近い関係にあり、 ブントとはいわば急進的な潮流の党からの出奔とみなした方が的確と云えることになる。 |
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ここに、先行した「純」トロツキスト系革共同と並んで、「準」トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが新左翼又は極左・過激派と言われることになる源流である。この両「純」・
「準」トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。
これについて一言しておく。「革共同純トロ」、「ブント準トロ」規定はれんだいこが創始したのか、はたまたどこかから援用したのか、れんだいこには分からなくなっている。しかし、実態には即しているように思う。但し、「革共同洋トロ」、「ブントヤマトロ」規定もズバリ本質を言い当てているようにも思われる。してみれば、「革共同洋トロ」、「ブントヤマトロ」規定は当時使われていた表記で、「革共同純トロ」、「ブント準トロ」は後世の規定ということで了解すべきか。 |
【ブント(BUND)の由来について】 | ||
ここで、ブント(Bund)の意味を解析しておく。ブント(Bund)はドイツ語で、日本語に直すと同盟。これには、日本共産党の「党」=パルタイ(Partei・ドイツ語)に対抗する意味があった。歴史的な意味でのブント(=BUND)とは、「共産主義者同盟」(=Bund der Kommunisten
)の略称、通称であり、非公然の国際的な労働者組織(革命政党)の名称であった。1847(弘化4)年 から1852(嘉永5)年まで続いた共産主義者の最初の組織で、その濫觴(もののはじまり)は、1834(天保5)年、パリに亡命していたドイツ人亡命者がつくった追放者同盟である。 1847(弘化4)年にマルクスーエンゲルスの共産主義理論を受け入れ、同年夏、ロンドンで開かれた「義人同盟」の大会で「共産主義者同盟」と改称する。この時、綱領とされた「共産主義者の宣言」には「共産主義者の目的は”既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できる」と宣言し、 ”支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ!万国のプロレタリア団結せよ!”の呼び掛けで有名な あの「共産主義者の宣言」は、このブントの綱領であり、1848年(嘉永元年)マルクスとエンゲルスが起草したものである。「共産主義者の宣言」は、その後の反体制運動のバイブルとなった。 「ブント命名の経過の定説」及びブント結党の決意について、「新左翼の20年史」は次のように記している。
つまり、ブントが「代々木系日共運動と決別する強い意志」を込めて結党され、新左翼党派結成を目指すことになったことが分かる。 ちなみに、「共産同(ブント)」と名乗ったことについて、島氏は後年次のように述べている。
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こうした党内急進主義者たちのブント化の背景にあったもう一つの情勢的要因は、先行する革共同系の動きにあった。つまり、ブントは、一方で代々木と対立しつつ他方で革共同とも競り合った。この時のブントと革共同の理論的な相違について、島氏は次のように解説している。
運動論の違いとして次のような語りも為されている。
鎌田氏によれば次のような理論を持っていた。
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【ブント結成に至る経緯】 | ||
このブント結成にいたる経過について分かりやすく纏めた一文があるのでここに掲載する。(社労党機関紙「海つばめ」第783号.町田勝)
社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」には次のように記されている。
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社学同「理論戦線」第2号(発行所:リベラシオン社、執筆:森茂、熊谷信雄、姫岡玲治)発売される。
【全学連第13回大会】 |
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12.13-15日、ブント結成の直後、全学連第13回大会が開かれた。こうして58年は一年に3回も全学連大会が開かれることになった。勤評・警職法闘争を総括、当面の闘争方針として安保阻止・岸内閣打倒等を決定した。 「全学連第13回大会議案書」は、学生運動の性格を「学生運動は労働者階級の同盟軍として、いかにして労働者階級を革命闘争に決起させるかという観点から運動方針を立てるべきであって、その結果中間層である学生の間に分化が起こるのは当然であって、これに動揺して統一しようとしてはならない」と規定し直した。こうして、共産党から訣別し「真の前衛党の組織化」を意思統一した。 他方で、過去のブント系執行部路線に対し次のように批判的に総括し、新しい方針を打ち出した。
こうして過去の「連続的波状的ストライキ」戦術に代わって、1・学生運動の大衆化への転換、2・イデオロギー活動の強化を決定した。 人事が最後まで難航したが、委員長・塩川喜信(東大)、副委員長・小島弘(明大)、加藤昇(早大)、書記長・土屋源太郎、清水書記次長、青木情宣部長を選出した。革共同系とブント系が指導部を争った結果、革共同系が中枢を押さえ、革共同の指導権が確立された大会であったとされている。ブントには革共同系の学生が多数組織的に潜入していたということであるが、こうして、この時革共同が委員長、副委員長、書記長などの三役を独占した(氏名が今一つ不明)。当時、革共同メンバーは同時にブントにも参加していたということでもあった。このことは、革共同の全学連への影響力が強まり、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことを意味している。そのため、全学連指導部の内部で「純ブント」と「革共同」の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。 |
【全学連内に於ける革共同系とブント系の確執】 |
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その後も革共同系とブント系は運動論や革命路線論をめぐっての対立を発生させ、指導権を争っていくことになった。が、その後の史実から見て、多くの学生はブントを支持し流れていったようである。事実は、ブントが革共同系の追い出しを図ったということでもあると思われる。なお、この時の議案は、革共同のかねてからの主張であった「安保改定=
日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」で安保闘争を位置づけていたとのことである。 但し、こうした革共同理論に基づく長たらしい「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになったようである。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくことを主張していた。 「ブント-社学同」の思想の背景にあったものは、日本共産党が日本の革命的政治を担うことができないと断じ、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出(「前衛党建設論」)であった。こういう観点から、学生運動を労働運動との先駆的同盟軍として位置づけることになった。党の「民族解放民主革命の理論」 (アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段 階革命論)に基づく「民主主義革命路線」に対して、明確に「社会主義革命路線」を掲げていた。代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国 共産党をスターリン主義と断罪、その打倒を掲げ、「全世界を獲得せよ」と宣言していた。革共同の思想的影響の取り込みが見られる。 これを図式化すれば 次のようになり、党の綱領路線とことごとく対立していたことが判る。平和共存・一国社会主義→世界永続革命、二段階革命→一段階社会主義革命、議会主義→プロレタリア独裁、平和革命→暴力革命、スターリン主義→レーニン主義の復権。 後に共産同(ブント)を創設し、その初代書記長に選出される島成郎は、この間の学生運動の左転換の意義を「最近の学生運動について」(「プロレタリア通信」第4号、1958.10月)の中で 次の四点に集約して確認している。
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【第一次ブント最初期のメンバーについて】 |
この頃ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。「追悼 今野求 島成郎 野村豊秋 さらぎ徳二
原之夫」その他を参照する。「当時の東大細胞には秀才、俊才、異才がキラ星のように結集していた」。 1957.12月の「島成郎、生田浩二、佐伯秀光三名の秘密会議」を細胞核として、島の妻・島美喜子、香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)、倉石庸、 少し後から多田靖、常木守等がアジトに常駐するようになる。青山(守田典彦)も。シンパ文化人として吉本隆明、マルクス主義理論家として廣松渉(ひろまつわたる、門松暁鐘)が早くより登場する。 他に世間に知られているところとして、東大系で森田実、中村光夫、富岡倍雄、星野中、長崎浩、林紘義、西部邁(「60年安保――センチメンタル・ジャーニー」)。早大系で小泉修吉、佐久間元、蔵田計成、下山ら。中央大系で由井格。京大系で今泉、小川登。後に中核派指導部を構成する陶山健一、田川和夫、北小路敏、清水丈夫、藤原慶久、小野正春らが参集する。北海道学連から灰谷慶三、唐牛ら5名が参加している。ちなみに、佐伯(山口一理)と片山(佐久間元)と小泉は神奈川県立希望ヶ丘高校以来の同窓であったと云う。 その他、立ち位置が分からないが大野明男、西村卓司、岡部通弘、石井暎禧、河辺岸三、山平松生、林道義、林紘義、仲尾宏、廣瀬昭、西井一夫、五島徳雄、東顕、千葉喬之、平井吉夫、佐野茂樹、司波寛、加藤尚武、榊原勝昭、東原吉伸、大瀬振、佐藤粂吉、前田裕晤、山本庄平、多田靖、竹内基浩、大口勇次郎、有賀信勇、中垣行博、二木隆、佐藤路世、小林好男、山田恭暉、向井拓治、佐藤正之、坂野潤治、葉山岳夫、小木和孝、河宮信郎。女性グループとして今井素子、大内良子、中村、須原、鎌塚、荒木、下土井、大島康子、松崎才子ら。革共同系の星宮換生、塩川喜信の面々。キラ星の如くな人間群像が知れるであろう。 |
「本名(ペンネーム)」を記す。富田善朗(山中明)、生田浩二(加藤明男)、佐伯秀光(山口一理、宮本健一)、島成郎(熊谷信雄)、星宮煥生(唐木恭二)、冨岡倍雄(久慈二郎)、野矢テツオ(杉田信夫、信雄)、古賀康正(坂田静朋、岡田行男)、小野田猛史(武田秀郎、北川登)、片山迪夫(佐久間元、須貝俊、曽木晴彦)、倉石庸(井上実)、小泉修吉(芳村三郎)、白井朗(山村克)、鈴木啓一(森茂)、大瀬振(鏑木潔)、陶山健一(岸本健一、清川豊)、加藤尚武(真樹朗)、片山修(白岳徹)、山田恭暉(米田浩平)。 |
【この時期の日共の動き】 |
この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。全学連のブント化の動きに対して12.25日、党は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と全学連指導部の極左主義とトロツキズムの打倒を公言した。ブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」
紙上の一面トップ全段抜きでこの幹部会声明を掲載した。この時「島他7名の除名について」
も合わせて報ぜられた。 |
【この時期の革共同の動き】 | |
ブント結成を転機に日本トロツキズム運動の局面は転換した。「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
59年から60年にかけて、トロツキズムはブントと主導権を争っていくことになった。太田派脱落後の黒寛を指導責任者とする革共同は、新指導部の大川がブント結成の流れに便乗しようとして破産し、遠山は太田派が旗揚げしたトロツキスト同志会へ移り、山村はその任務の重さに耐え得ることなく活動から召還するという按配で、遂に黒寛は政治局辞任の申し出を西に行った。こうして、JRの東京の体制は崩れた。JR関西の指導部が東京の体制の再建に着手しなければならなくなった。11月、関西ビューローは「世界革命」の休刊状況を座視できず機関紙「プロレタリアート」を創刊し、警職法闘争の情勢に応えていった。 ほぼこの頃、JRの全国体制が形成された。58.4月、京都で星宮、寺岡らが加盟した。京都、大阪では徐々にメンバーの獲得が進行し、夏から秋にかけて、京大、同志社、立命館、京学大、大阪市立大、大阪外大、大阪学大などにメンバーが組織されていった。このなかには、酒井、永井らが含まれていた。58.10から11月、ブント結成に対応して組織拡大が続けられた。関西における最後の刈り取りがなされ、東京、東北、四国、九州の学生運動の指導メンバーがJRに獲得された。東京では塩川、鬼塚、土屋らをはじめ、東大、一橋大、東工大、東学大、明治大、法政大、東京女子大、埼玉大などにJRメンバーが誕生した。東北においては東北大の今野、藤原らをはじめ、福島大にもJRメンバーが組織された。その他金沢大、九大、熊本大、鹿児島大、高知大、広島大等にもJRメンバーか生れた。かくて、1958.12月のブント結成時においてはJRは全国政治組織として体裁を作りあげることに成功していた。当時のピークにおいてJRメンバーは三百名から四百名の間を確保した。 58.12月、書記局を関西へ移転してほしいと提案してきた大川の申し入れによって拡大政治局会議が開かれ、書記局の関西への移転を決定した。JRが学生運動の主流にある関西において、組織の建設と中央書記局機能の回復が開始した。 |
【この時期の太田龍派の動き】 |
太田は58年秋からかねて念願の加入戦術を実行に移した。日本社会党への「加入戦術」
を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。すでにこの頃になると、東大、東学大の他にいくつかの大学や看護学院などにトロ同のメンバーが拡大していた。顔の割れている大国を除いて、トロ同のメンバーは全面的に社会党の地区組織に入党手続をとった。当時社会党には組織も運動もなかった。党は議員と労働官僚の連合寄合い世帯にすぎず、大衆運動の活動家はいなかった。とくに東京の社会党は地区活動もなく、地区労運動も日共のヘゲモニーに握られていた。 58.12月、太田はトロツキスト同志会がいくらか拡大し、かつ日比谷高校グループがみな大学へ入って活動家となった状況のうえに太田グループの総力をまとめて、国際主義共産党(ICP)を結成した。国際主義共産党の結成はブント結成と時を同じくしていた。ICPはブント結成に無関心で、アブクの様なものと看做していたとのことである。 太田竜は、社会党の学生運動をプロレタリア的な学生運動として規定した。そしてその内容を体系化した。プロレタリア的学生運動はまず学生層を小ブル的知識層として規定せず、プロレタリア予備軍として規定し、このプロレタリア予備軍の要求を闘いとることがプロレタリア的学生運動である。したがって闘争の課題は情勢に対応した政治闘争よりは、奨学金のための闘争、授業料の廃止、カリキュラムの自主決定、大学卒業生の完全就職の要求など、プロレタリア予備軍の経済要求が中心課題となるべきであるとした。ICPのメンバーは学園を単位に再結集し、社会党青対部に社会党の学生運動を創出することを申し入れた。 学生運動は戦後において共産党の独占的領域であり、社会党はついぞ学生運動に自己の支持勢力を見出すことはなかった。したがってICPの申し出を社会党青対部は歓迎し、ICPのメンバーに当時全寮連で活動していた佐々木慶明を紹介した。佐々木は理論的に山川均を信奉しており、その関係からほとんど当時の学生では唯一人ともいうべき社会党員であった。 佐々木は学生運動に春闘方式をひきうつす理論を展開したが、これは太田の学生運動論に一脈通ずるものであった。ICPのメンバーは佐々木の理論と太田の理論を重ね合せられることを喜んで、学生運動民主化協議会を結成した。結成には佐々木とICPに加えて浅沼稲次郎以来の伝統をもつ早大の建設者同盟が参加した。 |
12.23日、東京タワー完工式。
12.31日、社学同全国執行委、〝日本共産党の組織破壊工作に対する声明″発表。
これより後は、「第5期その2、新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。
(私論.私見)