補足 | 「黒寛・大川スパイ事件」 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.5.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
「第1次革共同分裂」により太田派を駆逐した後のこの時期、革共同の指導者の一人黒寛にまつわる「黒田―大川のスパイ事件」が発生している。これが露見し、革共同内で問題となり、黒寛派の組織分裂を推進する契機となった。以下これを考察する。 「黒寛・大川スパイ事件」の重要性が見えてきたので、本サイトでより詳しく考察することにする。黒寛が後に日本左派運動に与えた諸影響を考慮すれば、この時の事件の持つ意味は大きいと考える。この胡散臭い事件こそ宮顕の戦前党中央内リンチ致死事件と並ぶ黒寛の怪しい正体を刻印しているのではなかろうか。西京司論文集の「日本トロツキズム運動の形成」(柘植書房、1976.6.25日初版)は、冒頭のまえがきで、「黒寛・大川スパイ事件」について言及している。これを引用及び転載して事件の経過を再検証する。 2005.9.28日 れんだいこ拝 |
【黒寛・大川スパイ事件】 | ||
「黒寛・大川スパイ事件」とは次のようなものである。西京司論文集の「日本トロツキズム運動の形成」(柘植書房、1976.6.25日初版)が、冒頭のまえがきで「黒寛・大川スパイ事件」について言及しており、次のように記している。
これにつき、「れんだいこの左往来人生学院掲示板」に2003.1.14日付「今は名を秘す」氏の投稿で次のように述べられている。
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【黒寛・大川スパイ事件その後】 | |
「黒田・大川事件その後」について、「国際革命文庫の日本革命的共産主義者同盟小史」の「第三章 最初の試練」の「黒田、大川の除名と分裂」で論述されている。次のように記されている。
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【黒寛の居直り論理】 | |||
黒寛は、「黒寛・大川スパイ行為未遂事件」を次のような論法で居直っている。黒寛の著書「革命的マルクス主義とは何か?」の39頁には次のように書かれている。
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【当時の同盟委員長・西氏の黒寛・大川スパイ事件証言】 | ||||||||||||||||||
当時の同盟委員長・西氏は、西京司論文集の「日本トロツキズム運動の形成」の中で概要次のように述べている。「黒寛・大川スパイ事件」に対し、それを公にしなかった事情を末尾で次のように述べている。
「黒寛・大川スパイ事件」の概要は上述の通りであるが、西京司氏は、それが明るみにされた過程を次のように記している。
これにどう対応したのか、次のように記されている。
つまり、事態のあまりにもの重大性、発足まもない組織への打撃的悪影響、調査能力の不足を理由に「事態を静観した」ということになる。 ところが、西派の指導者西と岡谷が上京した際に、再度この問題が蒸し返され、正しく対応をするよう迫られた、として次のように記している。
こうなった以上、調査せざるを゜得なくなった。その結果、「黒田の自認するところとなった」として次のように記している。
処分にのりだそうとしたところが黒寛派の組織的抵抗が始まった、として次のように記している。
西派率いる同盟中央の処分方針と内容について次のように記している。
いよいよ処分を決定する党大会の場がやってきた。その時の様子を次のように記している。
この時の黒寛派の若きリーダーが本多氏であったことを次のように記している。
黒寛派の「理論問題を規律問題にすり替えた論」を次のように批判している。
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【革共同が、「大川除名、黒田権利停止」処分に附す」】 | |
革共同は、59.8月の第1回大会で、「黒寛―大川のスパイ事件」の責任を取らせ、「大川を除名、黒寛を権利停止」処分に附した。 | |
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【黒寛に纏わるイカガワシサとしての二見問題考】 | |||
黒寛に纏わるイカガワシサが1959年の大川問題に続いて、次のように記されている。これを仮に「黒寛に纏わる二見問題」と命名する。
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【「白井朗/ブントと革共同の歴史的関係について」の驚天動地の内部告発考】 |
2022年末、「白井朗/ブントと革共同の歴史的関係について」に出くわした。その中で、この時の「黒寛・大川スパイ事件」がより詳しく論ぜられている。それによると何と、通説が「民青情報の警察売り」は大川の直前の動揺によって未遂に終わったとしているところ、例えば「1959年初頭に大川という人物が日本民主青年同盟の情報を警視庁公安部に売ろうと提案し、黒田寛一もそのことを認めていたのではないかという疑いが発覚する(黒田・大川スパイ問題)。これは未遂に終わったが、その後、黒田寛一は革共同から日本共産党の宮本顕治と同類とみなされるようになった。同年8月の革共同第一回大会で黒田寛一は『スパイ行為という階級的裏切り』として革共同から除名された」としている。 しかし、白井朗の告発は、「そうではない。既遂であり、大川は58年前半までスパイを続け、精神的に消耗して、59年には逃亡するに至る。黒田はこの間、大川から報告を受けて容認していた」ことを明らかにしている。白井氏のこの断定の情報元は分からないが、かく記している。こうなると、当時の同盟委員長・西氏の西京司論文集「日本トロツキズム運動の形成」の中での未遂説明は非常に大甘なことになる。背後事情までは分からないが、事件の真相を徹底的に明らかにして厳しく弾劾せねばならぬところで、わざわざに穏便化せしめてお茶を濁すような事情公開をしていることになる。「白井朗/ブントと革共同の歴史的関係について」は他にも数々の内部告発しているが、「黒寛・大川スパイ事件」の真相を明らかにしただけでも特筆級の重要な役割を果たしていることになる。少なくとも私には驚天動地の驚きだった。 |
その後の革共同史については、「革共同の第二次分裂考」に記す。
(私論.私見)