第4期その2 | トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.4日
これより前は、「第4期その1、全学連の再建期、反日共系全学連の誕生」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本でのトロツキズムの発生過程を詳論した論稿に「日本革命的共産主義者同盟小史」がある。「第4期、全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」と同時代的な動きであるが、本編に取り入れると却って煩雑になるので、ここに別立てで一章設けることにした。以下、これをれんだいこ風に整理してみたい。2006.9.21日、手直ししたが、まだ納得できるものではない。但し、流れの整理は前より良くなったであろう。いずれ、トロツキー理論そのものの解析、ネオ・シオニズムとの相関と異同について言及していきたい。 2006.9.21日再編集 れんだいこ拝 |
【トロッキー概略伝、スターリン対トロツキーのレーニン跡目後継政争】 | ||||
日本型トロツキズムの運動史を見ていく前に、トロツキー及びトロツキズムを検証しておくことにする。ここで、トロツキーを簡略に紹介すれば次のように云える。トロツキー(1879−1940年)は当時レーニンに並ぶロシア革命の最大の指導者の一人であり、革命後のソビエト政権でも外務・軍事人民委員、軍事革命委員会議長などを歴任していた革命家である。
レーニンとトロツキーはロシア革命史上殆ど対立関係にあった。トロツキー派がレーニン指導に従いロシア10月革命を共にしたことにより一定の友誼関係を構築したが、終始ライバル関係にあった。ところが、レーニンは晩年、スターリンの台頭によるロシア革命の変質を危惧し、トロツキー派との共同戦線により阻止せんとしていた。トロツキー派がその提言に逡巡しているうちにレーニンが逝去した。 この時、レーニンは数通の遺書を残しており、レーニン没後スターリン派とトロツキ派の抗争が避けられないことを予見し、それぞれの性格について次のように記している。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924.5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書とのことである。
不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。レーニン没後、トロツキー派とスターリン派の政争が始まった。 |
【トロッキー概略伝、トロツキーの永続革命論】 | |
この時、マルクス主義史上重要な論争が為されている。それらは多岐にわたるが、最大争点は「一国社会主義論争」であった。トロツキー派は、概要「権力を獲得したロシアプロレタリアートは、それ自身の力だけではロシア社会主義の一国的完遂を全うする事ができない。西欧で革命が成功しない限りソ連での社会主義建設は不可能」との立場から「永続的世界革命」を主張し、これに対しスターリン&ブハーリン派は、成立間もない社会主義国家ソ連を祖国として擁護せねばならず、一国的であれ祖国防衛こそ優先されねばならないと反論し、両派が非和解的に対立した。
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【トロッキー概略伝、トロツキー派の敗北、追放される】 |
結局、枢要権力機関を掌握していたスターリン派が多数派となり、トロツキー派は敗れた。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。勝利したスターリン派は、トロツキー派を「帝国主義の手先」として排撃し始め、1927年の第15回大会で「反党分派活動」の理由で除名(ソ連共産党は分派活動を禁止していた)し、1929年には強制的に国外追放した。 |
【「第4インターナショナル」創設と対立、トロツキズム誕生】 |
トロツキーはその後国外での活動を余儀なくされたが、これを支持する勢力も根強く、1938年には「第4インターナショナル」を結成する等国際共産主義運動のもう一つの司令部を生み出し、スターリン指導のもとのコミンテルンに対抗することとなった。但し、「第4インターナショナル」の意思統一は平坦ではなかった。第二次世界大戦が始まり、スターリンとヒトラーの独ソ不可侵条約が締結されるに及び、スターリニズムに席捲されたソ連邦の評価問題を廻って対立が発生した。 |
【「第4インターナショナル」のその後】 |
「第4インターナショナル」は、結成当初より内部に意見の対立を発生させており、やがて分裂していくことになる。「第4インターナショナル」は、51年に開かれた第3回世界大会において、ユーゴと中国革命によって大きく切り開かれた大戦後の、プロレタリアートに有利な新しい世界情勢の転換を評価するテーゼを採択したが、その起草にあたったのがパブロであった。戦後の第四インターナショナルを一時期代表したパブロはこの時、「第四インターナショナルを全体として政治的に再武装し統一させるとともに、組織戦術としての『長期加入戦術』をうち出した」。 だが後にこのテーゼの欠陥を含めて内部に意見の対立が発生し、分裂を発生させた。1952年、フランス支部の共産党への加入戦術をめぐって、パブロ、ジェルマン(エルネスト・マンデル)を中心とした「国際書記局多数派」(IS派)とフランスのランベール派との間に対立が発生した。更に、アメリカのSWPを中心とした「国際委員会派」(キャノン派.IC派)が生まれ、以降「第4インターナショナル」はIS派とIC派に分岐する。更に、53年春から夏頃にかけてSWP内部に対立が発生し、この経過で秋頃「第4インターナショナル」そのもののが分裂する。 この分裂の絡みに関係して、日本のトロツキズム運動は当初より紆余曲折していくことになる。 |
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ここではじめてトロツキズムの諸潮流に出くわすことになるが、この流れの由来をあたかも異星人・異邦人の到来であるかにみなす傾向が今日もなお日本共産党及びその感化を受けた勢力の中に認められる傾向について、どう思うべきかという事に関してコメントしておこうと思う。今私は川上徹編集「学生運動」を読み始めている。気づくことは、前半の語りで該当個所に関してマルクス・レー
ニンの著作からの適切な指示を引用しながら、結論部に至って「トロツキスト・
修正主義者を一掃しなければならない」という締めの文句を常用としていることである。他方、右翼・ノンポリ・宗教運動家・改良主義者に対しては統一戦線理論で猫なで声で遇することになる。この現象は、一体何なんだろう。そんなにトロツキズムを天敵にせねばならない思考習慣がいつ頃から染みついたのだろう。 以下の考察で明らかにしようと思うが、トロツキズムもまた世界共産主義運動史の中から内在的に生み出されてきたものである。マルクス主義の弁証法は、社会にせよ運動の内部からにせよ内在的に生み出されている事象については格別重視するという思考法を生命力としている、と私は捉えている。トロツキズムが、あたかも戦前調のアカ感覚で捉えられている宮顕式日共運動における反動的感覚をこそ問題にしたい。運動の中から生まれた反対派に対して、 日共指導部が今なお吹聴している様な原理的敵視観のレベルで、マルクス、レーニンがそのように言っているという文章があるのならそれを見せて欲しい、と思う。 例によって宮顕に戻るが、この論調は宮顕が最も得意とする思考パターンであり、戦前は党内スパイ摘発に対して使われた経過は既に見てきたところである。いわゆる「排除の強権論理」であるが、この外在的思考習慣から我々は何時になったら脱却できるのだろうか。 |
【日本トロツキズム運動誕生の背景事情考】 |
上述のよなトロツキズムが日本左派運動に接点を持つことになった。日本トロツキズム運動の胚胎と発生には様々な要因が考えられる。国際的な要因と国内的な要因が重なり合い立て合っていたことが分かる。 その第一は、「スターリン批判」の衝撃であった。1956.2月、ソ連共産党20回大会でフルシチョフ第一書記=ミコヤンの「秘密報告」が為され、スターリンの無謬神話が打ち壊された。フルシチョフの「秘密報告」は、スターリンが行った数々の犯罪的行為を弾劾していた。とはいえ、スターリン個人の犯罪行為として取り上げたにすぎなかった。つまり、この時の「秘密報告」は、スターリン個人の批判であり、それを支えた官僚機構にまで刃が向かわなかった。というか、スターリン批判は官僚たちがその特権を防衛せんがために行った予防的措置の禊(みそぎ)的性格を一面においてもっていたとも云える。ボルシェビキの指導者・トロツキー、ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンらの名誉を回復することまでには及んでいなかった。しかし、かように限定されたスターリン批判であれ、国際共産主義運動の最高指導部がスターリンの誤りと犯罪行為を公然と認めたということは、その権威失墜には十分役立つことになった。フルシチョフの批判によって脚光を浴びたのが、スターリンに暗殺されたレオン・トロツキーの理論(トロツキズム)だった。トロツキズムはそれまで「小ブル」、「裏切り者」、「分裂主義者」、「反共」の代名詞しされていたが、その世界同時革命論が見直されたかたちとなった。フルシチョフは米ソ共存路線を打ち出した。これがポーランド暴動やハンガリー暴動を呼び起すことになる。 1956.3月、トロツキーを指導者としてパリで結成された第四インターナショナル国際書記局から、国内のトロツキストに「第四インター日本支部を確立するように」という書簡が届いた。これを受けて、元日共党員・栗原登一は、日共党員の大屋史郎や内田英世らに働きかけ、トロツキズムの実践を目指す組織の結集を図り始めた。 第二は、ポーランド・ボズナンの暴動、ハンガリー・ブタペストの蜂起とそれの弾圧ぶりの衝撃である。スターリン批判は巨大な衝撃となって全世界の共産主義運動を襲った。スターリニズム体制の“弱い環”であった東ヨーロッパ各地では、官僚支配に反対し、労働者民主主義を要求する大衆の闘争が暴動へとつき進んでいった。とくに、1956.6月のポーランド・ボズナンの暴動と、同じ10月のハンガリー・ブタペストの蜂起は、歴史を画する革命的闘争であった。ポーランドにおいては“民族派”的傾向がヘゲモニーをとって、事態の“収拾”がなされたが、ハンガリーではスターリニスト官僚支配と蜂起した労働者大衆の直接的衝突へと発展し、ソ連軍が蜂起した労働者を鎮圧するという反動行為が発生するのである。 ハンガリー革命に対するソ連軍の鎮圧行動はスターリン批判に次いで、世界の共産主義運動に衝撃を与えた。スターリニスト官僚たちはソ連軍の介入を正当化するために、政治革命に決起したハンガリーの労働者を、あるいは東ヨーロッパの労働者を“反革命分子”、“帝国主義の手先”として断罪した。確かにそういう面もあったが、労働者の反乱が東欧社会主義の失政を告発していたことも事実である。 ハンガリー革命はスターリニズムの歴史的没落の過程を鮮明に映し出した。労働者国家の官僚体制は、その支配を持続するためには労働者、農民に対して一定の譲歩を余蟻なくされた。また、神聖不可侵視されてきたスターリンの理論体系が崩壊し、その権威を剥がされた。スターリニズムの歴史が幕をとじマルクス主義の新しい歴史の可能性がひらかれた。 1956年のハンガリー革命と同じ時期にイギリス、フランス両帝国主義はナセルのスエズ運河国有化宣言に対して出兵し、スエズ戦争の冒険を行った。中東進出を狙っていたアメリカ帝国主義はイギリス、フランスの出兵に反対し、ためにイギリス、フランス両帝国主義はスエズからの撤退を余儀なくされた。このスエズ戦争はアラブにおけるイギリスとフランスのヘゲモニーを決定的に衰退させた。 アルジェリア革命はこの衰退過程を一挙におし進めた。そしてフランス帝国主義に破局的な危機をもたらしたのである。アルジェリア民族解放戦線(FLN)の武装解放闘争はインドシナに続いて、フランス帝国主義を文字通りの泥沼のなかにひきずり込んだ。58年、FLNの攻勢が本格化すると、フランスの現地軍は反乱を起してアルジェに公安委員会を設置し、ド・ゴールをかつぎだそうとはかった。この右翼反乱によって第四共和制が崩壊し、フランス帝国主義の没落はいっそう決定的となるが、アルジェリア植民地支配持続のために右翼軍部がかつぎだしたド・ゴールはその後アルジェリアの独立を認めざるを得ない立場に追い込まれていく。 日本のトロツキズム運動が日本の階級闘争の舞台に公然と登場した1950年代の後半は、国際的には第二次世界大戦直後の激動期から、現状維持的米ソ平和共存構造が形成される時期への移行期であり、過渡期であった。アメリカ帝国主義の核兵器独占が終了し、核兵器においてソ連労働者国家とアメリカ帝国主義の均衡状態が必要な前提としてあったが、なによりも、帝国主義陣営においてはヨーロッパ帝国主義の没落、アメリカ帝国主義のヘゲモニーの完全確立がその条件をつくりだしていったといえる。 日本トロツキズム運動に可能性をひらいた第三の要素として、既成左翼が国際的な新情勢に対応する能力を失い、それに代わる新左翼の登場が待ち望まれていたことにある。スターリン批判、ハンガリー革命を通じてソ連共産党の国際的権威と地位が没落し、各国共産党が相対的に自立化していくことになった。フルシチョフ率いるソ連は米ソ平和共存政策へ路線転換し始めた。これに呼応するかのように先進帝国主義国における各国共産党も又体制内化的な社民路線を採用し始めた。構造改革論がその理論的基礎となっていた。 こうした右傾潮流に抗して相対的にトロツキズム運動が左派的地位を獲得していった。例えば、アルジェリア革命において、フランス共産党は革命的敗北主義の立場に立てずにぐ「アルジェリアに平和を!」というスローガンに表現される帝国主義侵略への屈服の路線をとっていたが、対照的に第四インターナショナルはそうしたフランス共産党の立場を批判することを通して戦闘的左翼の地歩を固めていった。アルジェリア革命への関心の強まりは同時に具体的革命を媒介としたスターリニズムへの批判の強化であった。こうして、ヨーロッパ帝国主義が没落し、そこに政治危機がつくり出され、植民地革命の勝利的前進が示されるという1950年代後半の情勢は、トロツキズムが大衆的に影響力を拡大し得る条件をつくり出していた。 目まぐるしく変化するフランスの政治情勢は、当時のスターリニズムの理論ではとうてい生々と分析して把握することは不可能であった。まさにこのとき山西英一が訳した「次は何か?」や「唯一の道」が学生活動家のなかでむさぼるようにして読まれた。トロツキーの躍動するようなドイツ情勢の分析と展望を導く方法は、当時のフランス情勢を分析する最上の武器であった。 日本トロツキズム運動に可能性をひらいた第四の要素として、1955年の六全協による日共政変、「自社55年体制」の影響が考えられる。1955年、この年は左右両翼の政治潮流を歴史的に転換させる年となった。共産党六全協、春闘方式の開始、保守合同、社会党統一が重なり、戦後直後から新戦後時代への幕開けとなった。総体的には1950年代後半は日本帝国主義が離陸にむけて序走のスピードをあげていこうとしていた時期といえる。この時期の集約点が、政治的・軍事的には占領下の軍事同盟から帝国主義間の反革命軍事同盟をめざして改訂をはかった安保条約の60年における成立であり、労働者階級への攻撃の集約点としての三井三池労組に対する大量の首切り合理化であった。 この高度成長期に移行する直前の数年間の国内情勢は、ひと口でいって戦後民主改革への“反動”攻勢としての性格をもっており、したがって当時の労働者人民に戦後改革の成果がなしくずしにされていくのではないか、という危機意識を醸成していったのである。この危機意識は砂川闘争、原水爆禁止闘争に対する平和主義意識からの大衆的共感、戦後民主教育に対する攻撃としての勤評への反対闘争の大衆的ひろがり、警職法攻撃を意図した岸政府への大衆の憤激、そして60年安保の6月段階における民主主義の危機=安保強行採決に対する大衆の怒りの爆発……などによってみることができる。そして、まさに政治的に敏感な学生層がこの時期の“平和と民主主義の危機”という情勢にもっとも生々と対応し、大衆闘争の最前線にたつこととなったのである。 この学生運動が1950年代後半の日本大衆闘争に果した役割は、当時の労働運動が基本的に右傾化の方向をたどっていたという条件が加わることによってその役割の重さが倍化されていったといえよう。この特殊に重要な役割を果していた学生運動の活動家が、日本トロツキズム運動の最初の大衆的規模における結合の可能性を形成した。そしてまた、当時の労働運動と学生運動の提携のあり方をめぐって、日本トロツキズム運動は試錬にたたされることとなるのである。 日本トロツキズム運動に可能性をひらいた第五の要素として、日共のあまりな変質に対する怒りがあった。日共は1955年の六全協で、徳球時代から宮顕時代への宮廷革命を遂げたが、その宮顕が党内権力の地歩を踏み固めていくに従い反動的本質が露骨化していった。宮顕率いる日共指導部は、スターリン問題に際して六全協においてすでに克服された問題として処理し、ハンガリー動乱に対するソ連軍の介入にもそれを正当であるとし、ンガリー労働者を反革命分子であるというソ連共産党官僚の弁明を支持した。 その対応はあまりにも拙劣、無能、傲慢であった。「50年問題」の経過から党中央に幻滅していた戦闘的左翼は、スターリン批判、ハンガリー革命、アルジェリア革命を通じて国際的にトロツキズムが台頭しつつあったことに励まされ、日本においてもトロツキズム運動を生み出しつつあった。 |
【日本のトロツキズム運動史】 | |
次のように記されている。
スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。こうして、この時期宮顕が領導し始めた日本共産党批判の急進主義的潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。 |
【日本トロツキズム潮流各派の概要】 |
この時期日本共産党批判の潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。いわゆる「反日共系左翼の誕生」である。このような動きの発生の前後を極力解明してみたい。日本トロツキズム運動に流れ込んでいくグループを概略説明すれば、次のようになる。「日本革命的共産主義者同盟小史」他を参照した。 |
【山西英一らの三多摩グルー プ】 | |||||
日本で最初にトロツキストとしての活動を開始したのが山西英一であり、その組織として三多摩グルー プが生まれていた。山西英一のトロツキズム研究は戦前より始まっており、ヨーロッパ留学中にトロッキーの影響を受け、戦時中からトロッキーの文献の収集と翻訳を開始していた。トロッキー著「ロシア革命史」、「裏切られた革命」を翻訳していた。なお、社会党内部に第四研究会(国際問題研究会)を組織して、数人のグループで学習サークルを作っていた。これが三多摩グルー プと云われる。 | |||||
山西氏は、ヨーロッパ留学中にトロツキーの影響を受けた。次のように語っている。
山西は帰国に当たり、トロツキーの諸著作とパンフレット類を持ち帰り、戦時中からトロツキーの文献の収集と翻訳に着手した。当時の事を次のように記している。
かくて、トロツキー著「裏切られた革命」、「ロシア革命史」、「中国革命論」、「次は何か」等を翻訳刊行した。当時のトロツキーについてのタブーがなおどんなに厳しいものであったか当時のトロツキータブーの様子を次のように伝えている。
してみれば、山西英一氏が日本で最初に自覚したトロツキスト的位置にあることになる。資料「三多摩グループ」等に拠れば次のようになる。山西氏は、1950年、第4インターナショナルの国際書記局(IS派)とコネクションを取り、その指導に従って当時左右両派に分裂していた社会党の左派に「加盟戦術」により潜り込み、三多摩を中心に組織を形成していった。こうして「三多摩グループ」が形成された。55年頃には、左派社会党内部に第四研究会(国際問題研究会)を組織して、20数人のグループで学習サークルを作っていた。 |
【対馬忠行】 |
対馬忠行は、「スターリンの言う『社会主義』と真のマルクス主義の立場からする社会主義とが根本的に違う」ということに確信を抱き、1952.5.1日、「スターリン主義批判」を発行した。但し、「いわば習作であって、まだ未整理の段階のもの」でしかなかったと云う。やがて、対馬忠行・氏を中心として「反スターリン的マルクス・レーニン主義誌」の表題をつけた「先駆者」が刊行された。 56.6月、「クレムリンの神話」を発刊し、現代ソ連国家をトロツキーの云う「堕落した労働者国家」から「官僚制国家資本主義」に変質したものと断定していた。 |
【太田竜(栗原登一)】 | ||||||
太田竜は最初哲学の勉強をしており、田中吉六などの影響を強く受けていたという。その後、山西、対馬の影響によってトロツキズムに接近していった。やがて、太田は山西英一と対馬忠行の影響下に、52年頃からトロツキストとして活動を開始し、「トロツキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす」理論研究運動に取り組んでいくこととなった。 太田は初め千葉の社会党青年部で小川豊明氏らとともに活動しており、『前進』というガリ刷りのパンフレットを出していた。52年からは中央の青年部で活動を始めた。こうして当初は社会党青年部に所属し活動していた。その社会党青年部の活動について、太田はつぎのように書いている。
当時の主要な政治問題は、国際的にはスターリン死後の東独「六月暴動」やべリヤ事件をも含んだソ連外交政策の評価をめぐる問題があり、他方では勝利した中国革命の前進と朝鮮における「休戦協定」、インドシナからの仏帝国主義の撤退を背景にした、新たな展開をみせる国際情勢全般についての評価をめぐる問題があった。また国内的には、52年の講和・安保両条約の発効後の再軍備・破防法等をめぐる政治闘争の高揚を背景にして、政治的再編がすすむなかで、“重光首班”問題に中心的にあらわれた民族革命と社会主義革命の社会党の綱領論争があった。さらに総評大会における高野実の平和勢力論と第三勢力論をめぐる問題があった。 このような諸問題に直面しつつ、社会党青年部内の彼の活動は一定の成果をあげるかにみえたが、左派社会党内部の高野派を刺激し、53.10月に彼は青年部の活動から排除された。太田はこの「加入活動」の失敗を総括してそれを「独立活動」の欠如にもとめた。この時の心情が次のように伝えられている。
こうして、社会党青年部から高野派によって排除されたあと、54年頃から独立活動を開始した。第四インターナショナル国際書記局と連絡をとりつつ、「独立活動」の問題を提起しはじめる。実際に「独立活動」への準備を開始する。が、この時社会党内に一定の影響をもち始めていた三多摩グループが「時期尚早」としてこれに呼応せず、組織作りは思わしくは進まなかった。この経過を、太田は次のように記している。
当初は社会党青年部に所属し活動していたが、高野派によって排除され、54年頃から太田氏は社会党から飛び出し自力活動していくことになったが、この時社会党内に一定の影響をもち始めていた三多摩グループは時期尚早としてこれに呼応せず、対立した(「永久革命」第5号)。この対立の背景には、第4インターナショナルセンターの分裂が関係していた。次のように記されている。
55年の末には、「日本労働者解放同盟」という組織をつくったことが報告されている。続いて、56.5月頃、太田氏は「レーニン主義研究」を創刊した。夏ごろ、「ISからの最初の連絡を受け」IS派系を明確にしている。
同年の9.18日付のISへの手紙にはつぎのように書かれている。
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【内田兄弟らの「反逆者」グループ】 |
旧国際派の内田英世・富雄兄弟を中心にした群馬政治経済研究会は「反逆者」を創刊した(群馬グループ)。内田は太平洋戦争の時反戦的思想を持ち、終戦まで投獄されていたが、1952年頃、対馬忠行の「スターリン主義批判」に感激して、以後トロツキーの文献を研究し、独自にトロツキーの立場に移行していた労働者派の人であった。1956年頃から「反逆者」というトロツキズム機関紙を出す。機関紙を読んだ太田竜と親しくなった。 |
内田英世・富雄兄弟は太平洋戦争の時反戦的思想を持ち、終戦まで投獄されていた経歴を持っている。
内田富雄は戦前昭和一八年の暮に反戦活動(戦前のあの厳しい弾圧のなかで、日本帝国主義軍隊の基地てビラまきを行った)を問われて、治安維持法で逮捕され、半年間荻窪警察署に留置されたあと巣鴨刑務所に拘置された。巣鴨では、宮本顕治、神山茂夫、西沢隆二(ぬやまひろし)、それにゾルゲ事件のマックス・クラウゼンなどと一緒だったという。巣鴨刑務所が焼失してからは府中豊多摩の刑務所に送られ、そこでは志賀義雄、中西功などとも一緒であった。この頃すでに「獄内委員会」の活動に参加して、事実上共産党員としての活動を開始していた。 |
【黒寛グループ】(「黒寛考」) | |||||
10月頃、黒田寛一を中心に学生・労働者・インテリ層で「弁証法研究会」がつくられ、その機関誌「探求」が発行された。こうして党に対するアンチ・テーゼとしての観点から様々な理論研究の潮流が生み出されていくことになった。この黒田氏について、「黒田氏は自前で『こぶし書房』と言う出版社を設立し、52年頃からさまざまな社会学的な書籍を執筆・出版していた。そうしていくうちに黒田氏の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、4人のメンバーで『弁証法研究会・労働者大学』と言うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり『探求』という雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒田氏の影響力は全国的 に浸透していったのである」と紹介されている。 | |||||
黒田寛一氏(以降、「黒寛」と記す)は、47年に青年共産同盟(民青の前身)に加入している。が、「活動せず」、「漠然とながら四七、八年頃からマルクス主義者になろうという意識をもつ」のであり、「この年(四八年)以降、マルクス主義の古典のパンフレットを読みはじめる」とある。当時の青年、学生で、すくなくともなにか真面目にものを考え、社会の在り方や自分の生き方を考えようとするものはすべて、マルクス主義にひかれていったし、共産党に入っていったのである。彼もまたそうした青年の一人として「マルクス主義者」になり、とくに「哲学」の分野で思索を重ねていく。 黒寛は実践的な運動分野より哲学的思索の旅を重ねていった。「戦後日本唯物論(1946〜50年)が例え試行錯誤的であれ、創造し獲得した真正なものは何であるかを、戦後の三大論争(主体性論争.技術論論争.価値論論争)を通してとらえかえし、そうすることによって同時に自己自身の立脚点と主体性をも唯物論的に確立すること、即ち『唯物論的主体性理論を確立すること』」を目指すところとなった。 53年頃から、東大自然弁証法研究会会員との交流を深めたり、民主主義科学者協会哲学部会に出始めた。54年には「新しい人間の探求」を著作している。その直後「ソ連水爆実験による『死の灰』の降下に直面させられ、ハタと当惑する」。56.7月、「クレムリンの神話」を読み目から鱗が落ちるような経験となった。次のように記している。
「七月一三日『クレムリンの神話』を読み感激、対馬に手紙を出す」。「56.9月下旬、トロツキー『裏切られた革命』と手紙が太田竜から送り届けられる。この本の内容は57年1月以後、黒田の頭脳に流し込まれる」とある。この段階で、「日本トロツキスト連盟」の「結成」に加わる。しかしその頃の黒寛について、彼自身つぎのようにも書いている。
10月頃、黒田寛一を中心に学生・労働者・インテリ層で「弁証法研究会」がつくられ、その機関誌「探求」が発行された。こうして党に対するアンチ・テーゼとしての観点から様々な理論研究の潮流が生み出されていくことになった。黒寛は自前で「こぶし書房」と言う出版社を設立し、52年頃からさまざまな社会学的な書籍を執筆・出版していた。52年に「ヘーゲルとマルクス」を自費出版、54年には「新しい人間の探求」、56年には「経済学と弁証法、「社会観の探求」、「スターリン主義批判の基礎」を出版している。 そうしていくうちに黒寛の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、4人のメンバーで「弁証法研究会・労働者大学」と云うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり「探求」という雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒寛の影響力は全国的 に浸透していった。
こうして党に対するアンチ・テーゼとしての観点から様々な理論研究の潮流が生み出されていくことになった。 黒寛は、「弁証法研究会」の機関誌「探究」の2号(1957.2月)に「今日の平和運動の意義と限界−反戦学生同盟の諸君へ」と題した論文を寄せており、次のように述べている。
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【「現状分析研究会」】 |
2月頃。浦和付近の青年たちによっ てが誕生し、その機関誌「現状分析」が発刊された。 「現状分析」は、「指導的な論理は、運動の最高指導者や一部の理論家だけによって生み出されるものではない。そこでは、名もない一人の声声が積み重なって、指導者や理論家の側に投影されるものでなければならない」という立場から左翼理論の見直しを発信させていた。 |
【東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」】 |
3月頃。大池文雄を中心に少数の同志たちで「批評」が 発行された。 |
【西京司・岡谷進の関西グループ】 |
西、岡谷は、戦後直後の四五、六年から共産党に入党し活動していた。「50年分裂」の際には国際派に所属して除名されている。六全協後の復帰の呼びかけによって復党している。京大職組細胞に所属した。但し、圧倒的多数が「所感派」で占められていた京都府委員会の組織的崩壊の度合はひどく、党内には救い難い混乱と動揺と挫折があったし、多くの党員が自殺し、運動から離れ、党中央にたいする深刻な疑惑が渦巻いていた。「所感派」と「国際派」のイデオロギー的対立は解消されたわけではなく、前者は民族民主革命の立場からチトー支持の立場をとっていた。「国際派」の傾向は一応ソ連支持という立場をとったが、「ハンガリア問題」などをめぐって釈然としなかった。このような党内の状況のなかで、復帰した旧国際派のメンバーは、党主流の指導と権威が崩壊していた分だけ、いわば「権威をもって迎えられた」という奇妙な事態が生じていた。 このようにして、出来るところではトロツキーの文献紹介と宣伝活動を展開した。「レーニン死後の第三インター」の翻訳などもこの当時なされたのであった。このような共産党内部での活動のため、「連盟」の機関紙にはこの時期まったく執筆していない。 |
【「日本トロツキスト連盟」結成前の動き】 | ||||
以上のような動きが進行しつつあったが、この結節点に太田氏が居たことになる。従って、太田氏の動きを見ながら「日本トロツキスト連盟」結成前後の様子を見るのが相応しい。
ここにある「準トロツキスト」グループというのは、社会党青年部で活動しているころから太田が対馬のところに始終出入りしていたことから考えても、またその思想傾向からしても,対馬の組織していた「イスクラ」グループのうちの何人かであると思われる。太田が黒寛と会うのは一年後であるし、「反逆者」グループでもない。これはしかしすぐに崩壊してしまうし、最初からどの程度しっかりした「組織」としてつくられたのかも明瞭でない。ただ56.5月に、「レーニン主義研究」を創刊していったとき、一人か二人のメンバーがいたことは確かである。 太田氏がIS(パブロ派)へ宛てた56.10.10日付の手紙には次のように書かれている。
ついで、12.22日付のISへの手紙ではつぎのように書かれている。
しかしこのあと、Iは三多摩グループの会議をへて、「支部準備会」には加わらない。そこで太田は、この間に黒寛と連絡をつけ、そのグループを結集させていく。 |
【日本トロツキズム曙光運動概括、1956年のもう一つの動き】 | |
戦後学生運動の第4期のもう一つの動きとして、トロツキズム運動の誕生がある。このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してス
ターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、
必然的にスターリンと対立し放逐されたトロツキーの再評価へと向かうことになった。この間の国際共産主義運動において、トロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。 スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、「スターリン流祖国防衛運動」に対置される「トロツキー流永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。 この時期、日本共産党批判の先進的潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。党派的な流れには次の動きが認められる。「山西英一らの三多摩グルー プ」、「対馬忠行」、「太田竜(栗原登一)」、「内田英世・富雄兄弟」、「黒田寛一グループ」、「西京司・岡谷進の関西グループ」。その他研究団体として次の動きが認められる。思想の広場同人の編集になる「現代思潮」、東大自然弁証法研究会の「科学と方法」、福本らの「農民懇話会」、京都の現代史研究会の「現代史研究」、愛知の「人民」、浦和付近の青年たちによる「現状分析研究会」、東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」等々。 1956.3月、トロツキーを指導者としてパリで結成された第四インターナショナル国際書記局から、日本国内のトロツキストに「第四インター日本支部を確立するように」という書簡が届いた。これを受けて、元日共党員・栗原登一は、日共党員の大屋史郎や内田英世らに働きかけ、トロツキズムの実践を目指す組織の結集を図り始めた。 この動きが具体化するのは1957年になってであるが遂に、日本左派運動史上にトロツキズム運動結社が誕生する。この当時思想的に近接していた黒田寛一や内田英世・富雄兄弟と太田竜らの3グループによる「日本トロツキスト連盟」結成準備会がもたれ、1.27日、「日本トロツキスト連盟」が発足した。内田らの「反逆者」が連盟機関紙となった。山西らの三多摩グループは時期尚早として結集してこなかった。西京司・岡谷進らの関西グループが参加してくるのは、翌58.3月以降である。 「日本トロツキスト連盟」は、第4インターナショナル日本支部を結成する準備会として位置付けられていた。当初は思想同人的サークル集団として発足した。連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、 スターリンが駆逐したトロツキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。 その主張を見るに、黒寛の次の主張が代表している。
つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して日本共産党に替わる新党運動を自覚的に創造することが始められたことになる。 |
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この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、
そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。 宮顕理論によれば、一貫してトロツキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロツキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(れんだいこ注/ここは当たっている)反共(れんだいこ注/ここが詐術である)主義者の如く罵倒していくことになるが、れんだいこはそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。 ところで、今日の時点では漸く党も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが、私には不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロツキー評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロツキー評価」に向かわない「スターリン批判」とは一体何なんだろう。もっとも、党の場合、その替わりにかどうか「科学的社会主義」が言われるようになってきた。「科学的社会主義」的言い回しの中で一応の「トロツキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロツキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロツキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前の」史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。「自主独立精神」の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何でせう。 ちなみに、れんだいこは、我々の運動において一番肝心なスターリンとトロツキーとレーニンの大きな相違について次のように考えている。この二人の相違は、 党運動の中での見解とか指針の相違を「最大限統制しようとするのか」対「最大限認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。 レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったが、スターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったのか。スターリン手法とトロツキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思われる。運動論における気質の差ではなかろうか。 「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロツキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。ただし、トロツキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論・運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。 ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。強 くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱のつけ方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見・異見・見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょって権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。 れんだいこは、スターリ ニズムとトロツキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考える。こう考えると、宮顕イズムは典型的なスターリニズムであり、不破氏のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本のトロツキズムの排他性も随分いい加減なトロツキズムであるように思われる。 |
これより後は、「第4期その2の2、トロツキズム運動の革共同生成過程、分裂過程考」に記す。革共同史その後については「黒寛・大川スパイ事件」に記す。
(私論.私見)